澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「明治150年」と靖国と、そしてアベ。

一昨日(1月22日)、第196通常国会での首相の施政方針演説の冒頭は、次の言葉だった。
「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。」

やれやれ。1868年の明治元年から数えて今年が「明治150年」。で、それがどうした? 明治で年を勘定することに、いったい何の意味があるというのだ?

アベシンゾ?ら右翼ご一統にとって、「取り戻すべき日本」とは大日本帝国憲法下の「明治の御代」なのであろう。明治維新の150年前こそは、誇るべき帝国が始まる記念すべき年なのだ。ふやけた民主主義の戦後70年とは、較べるもおろかということなのだ。

明治への改元は1868年10月23日(新暦)だが、その年の1月1日(旧暦)に遡って適用されることとされた。その明治元年は戊辰戦争で始まる。鳥羽伏見の戦いの開戦は、旧暦で1月3日のことだ。要するに。明治元年は内戦の年だ。この年、およそ1万人の戦死者が出ている。

同月6日徳川慶喜は、軍を残して大坂城を脱して12日に江戸城に入る。就任以来初めての江戸城入りであったそうだ。将が兵を捨てて、こっそりと逃げ帰ったのだ。かくて、徳川の世の終わりは誰の目にも明らかになったが、薩長軍は「玉」を手にして錦旗を掲げ、賊軍の血を求めて闘い続けた。その最大の戦闘が会津戦争だった。戊辰戦争の最中に、江戸城内で招魂祭が執り行われている。官軍の死者の霊だけをだけを招いて讃え鎮める儀式。これが靖国の源流になる。

150年前のこの年。まことに血なまぐさい動乱の時代であって、右往左往した人々は、美しくもなければ気高くもない。感動すべきなにものもなく、権謀術数渦巻く時代に、勝敗だけが明瞭だった。西南雄藩が幼帝を我がものに天下を壟断し、徳川家と奥羽越列藩は賊軍として逼塞を余儀なくされた。

この150年前の政治的対立の図式を今に留めているのが、靖国神社である。官軍の戦死者だけを祀る宗教的軍事施設として1869年に東京招魂社として建立され、1879年に靖国神社と改称した。あくまで官軍の施設であったから、その宗教思想は徹底した死者の差別である。自軍の戦死者の魂のみを、天皇への忠誠ゆえに尊い神として祀る。一方、敵軍たる賊側の死者を祀ることは決してない。

佛教には怨親平等という思想があり、永く日本の民衆に浸透していたとされる。日本の民衆は、蒙古軍の戦死者も篤く弔った。戦国の戦場でも、敵味方の区別なく戦死者は等しく葬られた。「死ねばみんな罪科のない仏」。これが日本の民衆の心情となり、そのように行動することが美風とされた。ところが、天皇の軍隊はちがった。官軍のみを手厚く神として祀り、賊軍の死者には埋葬さえ自由にさせなかったとされる。

会津戦争では、会津藩士側の死者は3000人に近いとされる。新政府軍は、その遺体の埋葬を許さなかったということが定説となっている。降伏から半年後の1869年2月に阿弥陀寺(同市七日町)に改葬されるまで遺体は野晒しだったとされ、それが新政府軍だった旧長州藩と感情的な溝をつくる要因の一つにもなっていた。

よく引かれるのは、太平洋戦争の終戦後に書かれた『会津史談会誌第33号』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』である。新政府軍の命令によって遺体の埋葬が禁じられたという記述がある。この情報を元にした歴史小説などには「会津藩士の遺体埋葬を禁止し、腐乱するまで放置した」という記述が多く見られるという。

足を踏んだ方は忘れても、踏まれた方はその痛みを忘れがたい。アベは、長州人として会津の痛みが分かるまい。会津の側は、決して忘れない。「不可逆的な解決」などはあり得ないのだ。

もっともごく最近になって、会津側の戦死者567人については、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が福島県会津若松市で見つかったと報じられている。「3000人が半年も野に晒されていた」という定説は、その限度であらためられなければならないようだが、史実の如何よりは、会津人を筆頭とする東北人の藩閥政治に対する反感の存在が問題なのだ。

アベ施政方針演説は、白虎隊の生き残りである山川健次郎に触れているが、山川も会津戦争戦没者遺体の埋葬が許されなかったと思い込んでいたはず。薩長閥政府への怨念やるかたないものをもっていたはずなのだ。

その会津の戦没者を賊軍として、官軍の英霊と差別する「軍事的宗教施設」が靖国神社である。戦前そのトップである宮司は歴代軍人がその地位を占めてきた。戦後、靖国神社が宗教法人に改組されて以来11代目の宮司に、なんと150年前の賊軍の将の末裔が就任した。

これが徳川康久(69)、その曾祖父が徳川慶喜だという。官軍神社のトップに賊軍の将の末裔。150年の長き間に、「官」と「賊」との恩讐は乗り越えられたか…。と思ったのは、束の間の幻。共同通信が、次の記事を配信している。

「靖国神社の徳川康久宮司が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日、分かった。」という。ニュースソースは、「同神社関係者が明らかにした。」とのみされ、宮司自らのリークではない。また、「定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している」というから、靖国神社に穏やかならざる雰囲気を感じさせる報道。なお、定年は75歳とのこと。あと6年を残しての「異例の退任」なのだ。

宮司退任の原因が、2年前のこれも共同通信のインタビュー記事にある模様。
この点は、「徳川幕府15代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀の動きを誘発した」と徳川氏を批判、波紋が広がっている。」と報じられていた。

宮司は共同通信インタビューで戊辰戦争に関してこう語ったという。
「幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗(みはた)を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」

この発言を受け、16年10月、亀井静香元金融担当相らが宮司に面会して、「西郷隆盛や会津白虎隊などの“賊軍”を合祀してほしい」を徳川氏に申し入れ、これが大ごとになった。亀井のこの行動に賛同したのは、石原慎太郎や中曽根康弘、石破茂など90人超だったという。

亀井によると、宮司は、「直ちにそういたします、とは言えません」との回答だったという。この対応について靖国神社元総務部長が「(明確に否定せず)合祀に含みを持たせた」などと反発した。

要するに、「靖国とは天皇の神社であり、官軍の神社なのだ。官と賊との区別を曖昧にすることは許されないのに、宮司たる者がなんたる発言」というわけだ。150年前創建当時の原理主義者と、150年目の復古主義者との角逐といってよかろう。そして、どうやら原理主義者、つまりは官軍派が賊軍の将の末裔に対する勝利を収めた如くなのだ。

明治は内戦で明けた。その内戦の確執は150年経ってもおさまっていない。靖国が内戦の死者の合祀施設から対外戦争の死者の合祀施設に基本性格を変えたとき、日本は天皇の権威と権力を最大限利用した軍国主義国家になっていた。明治150年とはそんな歴史である。こんなものを持ち上げてはならない。戦後の民主主義の歴史をこそ大切にしよう。日本国憲法制定以後70年余の国民主権の時代の積み重ねを誇りにしよう。
(2018年1月24日)

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