澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

あなたの目にも、アベ政権の末期症状がお見えでございましょう。

(2020年7月19日)
こうして眺めますと、不忍池の風情もなかなかのものでございます。あの辯天堂にお祀りされておいでのご本尊さまは、琵琶を持ったお姿で知られる音楽と技芸の神として「辯才天」とも言われ、また、金運上昇のご利益をもった「辯財天」としても信仰されております。

その辯天堂を望む蓮池は、今を盛りのという豪華さ。今日は雨もあがってやわらかく陽が射し、極楽もかくやという景色でございます。

さながら、東京の地下深く不気味にひろがっているというコロナ禍地獄の天上に浮かぶ極楽という図のごとくでございます。

なるほど、見直してみれば、東京にもあちらこちらに観光の目玉はございます。しかし、もうすぐ始まる「Go To トラべル」キャンペーンは、「東京都を目的地とする旅行については当面事業の対象外とし、割引支援を行わない」ということでございますな。また「東京都に居住する人の旅行についても、当面事業の対象外とし、割引支援を行わない」という、東京にとってのダブルパンチ。これは、もう、「Go To トラブル」への一直線。恐るべき混乱の幕開けになることが必定といわねばなりません。

「こんな時期にコロナばらまき促進キャンペーンをやってはならない」「コロナ禍終熄後の経済復活のための施策のはず。コロナ禍再拡大の今行うことは危険極まりない」「元来が8月中旬開始を想定されていた。これを前倒しで実施するなどとんでもない」「観光産業だけに優遇措置は不公平」という予てからの批判に、今度は「東京差別」「都民差別」への怨嗟の声が加わっているのでございます。

「1兆7000億円の財源は国民全体が拠出したもの。東京だけを除外することは、都民に対する不当な差別に当たり法の下の平等に反する」「東京だけの除外は、官邸が小池知事の言動を不快とするもので、イヤガラセ以外のなにものでもない」。そう言われれば、ごもっともでございます。

さらには、都民を外す手続の煩雑さ、割引支援適用の有無の線引き、予約取り消しの取り扱い等々、政権にはアタマの痛いことばかり。それでも、あのお人は、今日当たり、また自宅で愛犬とともに、優雅にコーヒーでも口にしておいででございましょうか。

この頃、政権のやることなすこと、全てが裏目でございましょう。いま改めて森友学園事件がクローズアップされていますし、桜を見る会案件の安倍刑事告発も進展しています。アベ政権の手による北方四島返還交渉も拉致問題の解決も、既に絶望。盟友トランプはかつてない批判の矢面に晒されての針のムシロ。誰の目にも、東京五輪はとうてい無理でございますし。

過去・現在・未来の三世にわたっての因果応報なのでございます。善因あれば善果がありますが、アベ政権には悪因あるからこその悪果なのでございましょう。アベ改憲などに固執していればこその支持率低下なのでございます。自業自得とも申します。

所詮彼は、この蓮池の極楽が似合うお人ではございません。これも、因果応報であり、自業自得なのでございます。

匿名に隠れて「SNS暴力」を振るう者たちの正体

(2020年7月18日)
「SNS暴力」が深刻な社会問題となっている。匿名に隠れた無責任で攻撃的な表現が人を傷つけているのだ。特定の人を多数で標的にする「ネットの場での文字による暴力」の集積は、集団によるイジメと構造を同じくしている。ネット上のイジメ・イヤガラセは、匿名だから厄介極まりない。

表現の自由は重要な憲法原則である。匿名による表現の権利も保護に値する。とりわけ、権力者や社会的強者を批判する表現においては、その匿名性を尊重しなければならない。しかし、卑劣な愉快犯的な表現が、他人の名誉や信用を毀損し、あるいは侮辱にあたる場合には、「表現の自由」の保護はない。傷つけられる人の人格権の保護を優先すべき価値としなければならない。

本日の毎日(デジタル)の報道に、「100万回殺害予告受けた弁護士が加害者に面会して目にした『意外な素顔』」という記事。「100万回殺害予告」には驚くばかりだが、当然ひとりがやっていることではない。付和雷同したネット世界の住人が、連鎖的に、次々に加害者に加わって増えていった結果なのだ。まるでウィルスの感染拡大だ。

ネットの上での匿名表現には他者の目による歯止め効かない。被害の防止や回復の手立ても面倒だし、何より金と時間がかかる。表現の自由との兼ね合いが難しいところだが、何らかの制度的な対策を考えざるをえない。「100万回殺害予告」事件は、その具体化の議論に有益である。

この事件の被害者が唐澤貴洋弁護士。被害の実態は、「両親の名前や実家の住所が特定されてネット上にさらされ、実家近くの墓にペンキがかけられたこともありました。弁護士事務所にも「実動部隊」が嫌がらせに来るようになり、郵便ポストに生ゴミを入れたり、鍵穴に接着剤を詰められたり、私の後ろ姿が盗撮されてネットに投稿されたりと、ありとあらゆる実害を受けました。事務所は3回も移転を余儀なくされました。さらに私になりすましてある自治体に爆破予告をする者まで現れました。被害は、最初の炎上から5年ほど続きました。」という、想像を絶する凄まじさ。

その被害をもたらした複数の加害者を特定し面会したところ、「見えてきたのは、攻撃的な投稿とは結びつかない、意外な姿だった」という。全員男性で、10?20代中心の学生やひきこもり。

その人物像が次のように紹介されている。

(1) 最初に会ったのは、20歳ぐらいの大学生。両親も一緒でした。父親はきちんとした会社に勤め、母親は普通の感じの人。大学生はうつむきがちで口数が少なく、理由を聞くと「面白かったのでやっていました。そんなに悪いことだと思っていませんでした」。過激な投稿を称賛する他のユーザーの反応や、度胸試しみたいな雰囲気が面白かったようです。

(2) 30歳過ぎの無職の男性は、年老いた母親と一緒に事務所に来ました。ずっとおどおどして「すみません」と言い続けていました。理由を聞いても、まともに答えなかったです。

(3) 医学部志望の浪人生もいました。2浪中で、父親が医者。両親も一緒に面会しましたが、父親は自分の息子が問題行為に関わったことについて、どこか人ごとのような態度でした。不思議に思った私が「どういう家庭なんですか」と聞くと、浪人生が「父親が怖くて、せきをする音にもおびえて生活している。浪人生で居場所もない。投稿をしているといやなことを忘れられる」と語ったんです。父親から相当のプレッシャーを感じていたのだと思います。

(4) 私の事務所の鍵穴に接着剤を詰めてその場で警察官に取り押さえられた少年と、その母親とも話しました。母親は着古したコートを着て、涙を流して私に謝罪しました。母子家庭で、少年は中学校で勉強についていけなくなり、通信制の高校に通っていました。母親によると、少年は常にインターネットを見ていて、母親がやめさせようとパソコンを取り上げたものの、バス代として渡したお金でネットカフェに行き、掲示板に書き込みを続けていたようです。少年のものとみられる書き込みを見ると、他のユーザーからあおられて、どんどん過激な投稿をしていた様子が分かりました。実家近くの墓を特定して写真を投稿したのもこの少年でした。

(5) 殺害予告で逮捕された20代の元派遣社員からは、「謝罪したい」と手紙をもらいました。怖い気持ちもありましたが、会ってみると、優しそうで繊細な印象の青年で、「投稿に対する反応が面白くてやった。申し訳ない」と言っていました。さらに詳しく聞くと、「友達がいなくて孤独で、掲示板に書き込んでしまった」と明かしました。

(6) 殺害予告を書き込んだ大学生からは、経緯や反省をつづった手紙をもらいました。現実逃避のためにネットに夢中になり、掲示板を利用するように。最初は私への中傷の書き込みを眺めているだけだったのが、人を傷つける凶悪な言葉を繰り返し目にするうちに感覚がまひし、いつしか自分も傷つける側になっていったそうです。殺害予告を「ネットのコミュニケーションの一つ」と表現し、私がどんな気持ちになるかは考えなかったと告白していました。ただ、最後に謝罪とともに「苦しめられる人から目を背けない大人になりたい」と書いてあり、少し救われました。

刑事事件としては、「14年5月に最初の逮捕者が出て、計10人ほどが検挙されました。」という。検挙者の処分や刑の量定は触れられていない。そして、民事の手続をどうしたかについては、触れられていない。

さて、これを教訓にどう対処すべきか。唐沢弁護士の意見は次のとおり。

「政府が法規制の検討を進めていますが、私は以前から、発信者情報の開示をしやすくする、ネット上の権利侵害に対する新たな処罰規定を設ける、ことなどを提案してきました。」「ただそれは対症療法に過ぎません。加害者のバックグラウンドを知ると、「居場所」をネット空間に求めてしまう社会的、構造的な問題にも目を向けるべきではないか、と思うようになりました。」「ネットリテラシーなどの教育や福祉的支援が必要な人は多いと思います。誰もが被害者、加害者になり得ます。法律だけでなく、精神医学などさまざまな専門分野の人が知恵を出し合い、早急に解決していかなければならない問題です。」

終極的には、教育や文化や社会環境の問題になることはそのとおりであろう。しかし、「早急な解決」には間に合わない。現実に生起している問題への対応策が必要である。どの対応策も表現の自由に対する制約の面を有することを考慮すると、まずは刑事よりも民事的に実効的な手続を確立しなければならない。

発信者情報開示手続の簡易化は必要だろう。そして、損害賠償請求訴訟において、慰謝料額を増額することもさることながら、発信者情報開示手続と本訴手続に必要な訴訟追行費用の全額を因果関係のある損害として認定させることが必要だ。

これは、最近の「N国」関係訴訟で裁判所が積極姿勢を見せているところである。N国側がNHKを被告として提起した《10万円請求のスラップ訴訟》に対して、東京地裁は応訴のための弁護士費用54万円満額を損害として認容している。こうした判決こそ、不法行為常習者への適切なペナルティというべきであり、違法行為に対する実効性のある抑止を期待できる。

「ネット上のSNS暴力は民事的にも刑事的にも違法」「民事訴訟で高額の損害賠償を支払わなければならない」「場合によっては、名誉毀損・侮辱・偽計業務妨害・脅迫で逮捕され、有罪にもなる」ことが常識とならねばならない。メディアも、損害賠償判決例や逮捕起訴例を大きく報道すべきである。

石田和外とは ー 青いネズミの存在を許さなかったネコ 

(2020年7月17日)
その男、石田和外。反動、弾圧者、私と仲間の反面教師。彼は、1969年1月11日に、佐藤栄作によって最高裁判所長官に任命された。その直後の4月に、私は23期の司法修習生として、司法研修所に入所している。

石田の、長官就任の際のコメントが、「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」というもの。

間違ってはいけない。この男の言う「激流」とは、裁判所に重くのしかかってくる行政や保守政治からの圧力のことではない。当時、澎湃として興隆し定着しつつあった、労働運動や市民運動、あるいは学生運動などの諸運動の流れのことなのだ。「民主化を求める日本の歴史の潮流に毅然と巌のように立ちはだかって、岸・池田・佐藤のごとき保守派国民の信頼をつなぐ」ということにほかならない。

彼は、青年法律家協会を徹底して嫌った。青年法律家協会とは、「1954年、憲法を擁護し平和と民主主義および基本的人権を守ることを目的に、若手の法律研究者や弁護士、裁判官などによって設立された団体」である。私も、修習生になると同時に修習生部会に加盟した。石田の長官就任当時、青年法律家協会裁判官部会の勢力は大きかった。石田は、裁判官会員に対する脱退工作を行ったことで知られる。これを関係者は「ブルーパージ」と呼んだ。

石田は剣道の達人ということだった。私が刑事裁判修習を受けた東京地裁の寺尾正二裁判官が、石田が執筆した剣道談義を面白く語ってくれた。

 「あるとき、修行中のネコが集まって、それぞれの腕自慢を語り合った。『私は、一瞬でネズミを倒す必殺技を身につけた』『私は一撃で3匹を捕らえる』『私は、一睨みでネズミを動けなくさせる術を会得した』…。中で悠然と黙っている聞いている老ネコがいた。若いネコが、『あなたにはどんな術が…』と聞くと、こういう答え。『ワシには、特に何の術もない。しかし、私の一里四方には、ネズミは一匹も出てこない』」

 寺尾裁判官は、「名人・達人とはそういうもの」と笑った。裁判官や裁判所もそうありたいという思いだったかも知れない。しかし、私には、何とも不気味でやりきれない話に聞こえた。

石田は、「ワシの周りには頭の青いネズミは一匹も存在を許さない」と宣言したのではなかっただろうか。

私が修習を終える1971年の春、石田を頭目とする司法官僚は、青法協活動の中心と目された13期宮本康昭裁判官の再任を拒否し、23期司法修習生からの裁判官志望者7名の任官を拒否した。さらに、1971年4月5日、23期の司法修習修了式で、7名の任官拒否者の発言を求めた修習生代表の阪口徳雄君を罷免処分とした。

1971年4月5日の夕刻から深夜まで、東京弁護士会講堂で任官拒否と阪口罷免抗議の緊急集会が開かれた。その集会に、やや遅れて20期(当時弁護士経験3年)の大森鋼三郎弁護士が駆け込んで報告した。私の記憶では、次のような発言だった。

「私は、阪口君罷免の報を聞いて我慢がならず、先ほど、石田和外長官の私邸に抗議の電話をした。彼は在宅していて電話に出た。酒を飲んでいる様子の彼に抗議の意思を伝えたところ、彼はこう言った。『私は日本ために仕事をしている。今日の出来事も日本のためなのだ』」

ここまでは記憶に鮮明である。そのあとに続けて、大森さんは、このことはけっして日本ためにはならないと言ったと思うが、はっきりした記憶がない。確かめようと思っている内に、大森さんは故人となった。

定年退官後に、石田は新設された「英霊にこたえる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、彼の言う「日本のため」の内実なのだ。さらに、彼は、自ら「元号法制化実現国民会議」を結成してその議長ともなり、79年3月の防衛大学校卒業式において、軍人勅諭を賛美した祝辞を述べて物議を醸している。石田和外とは、筋金入りの反動なのだ。なお、「元号法制化実現国民会議」の後継団体が「日本を守る国民会議」であり、これが今や右翼の総元締めとなった感のある「日本会議」となっている。

「英霊にこたえる会」とは何であるのか。会自らがこう述べている。

 戦後、吉田茂総理から田中角栄総理までの歴代総理は、靖國神社の春秋の例大祭に参拝しており、当時国民もマスメディアもこれを当然のこととして受け止めていました。ところが、昭和50年8月15日の終戦の日に、時の三木武夫総理が「私的参拝」と言って、歴代総理では初めての8月15日に私的参拝をしましたが、個人の資格で参拝したことから、その後の靖國神社をめぐる状況が一変し、以後の総理の参拝時に「公的か、私的か」とのくだらない記者の質問を受けることとなりました。そして、昭和天皇は、戦後これまでに7回ご親拝されておりましたが、三木総理が、この参拝をしたこの年の11月21日のご親拝が最後となられました。
 このようなことから「英霊にこたえる会」は、翌昭和51年6月22日、会長に石田和外元最高裁判所長官が就任し、英霊に対する国・国民のあるべき姿勢を確立するための国民運動を展開する任意団体として発足しました。

青法協弾圧を行った最高裁長官とは、かような人物である。

これが、法輪功を邪教と決め付ける根拠?

(2020年7月16日)
7月13日、当ブログに「法輪功を邪教として弾圧する、中国政府の言い分に耳を傾ける。」という記事を掲載した。

https://article9.jp/wordpress/?p=15223

この表題はいかにも弱い。「中国政府の言い分に耳を傾ける」ではなく、「中国政府を糾弾する」「弾劾する」がふさわしいかも知れない。少し遠慮しても、「中国政府の言い分を検証する」くらいが自然だろう。

しかし私の深層心理には、中国政府を不必要に「糾弾する」「弾劾する」と書きたくない「甘さ」がある。宗教弾圧を行っている中国政府を批判しながらのこの「甘さ」。誰かがこの「甘さ」を批判するかと思っていたら、その反対の側からの批判にぶつかった。「常軌を逸したアンチ中国」というのだ。bogus-simotukareという、ペンネームだけの匿名の人。いかにも世の中は広い。いろんな人がいるものだ。

私のブログには数多くの批判がある。「当たり障りのあることだけを書く」と宣言しているのだから、当然のことだ。多くの批判は、右の耳から入ってくる。なるほどと思わせられることはほとんどない。批判とは名ばかり、会話も意見交換も成り立たない罵詈雑言の類。

不思議なことだが、私が天皇について忌憚のない見解を述べると、天皇の神聖性を傷つけられたといたく怒る人がいる。天皇のご親戚でもない人が、天皇に代わって、私を批判しようというのだ。あるいは、アベ晋三に代わって、アベ批判に反批判を試みる人がいる。いずれも、右の方から聞こえる声で、反論する気にもならない。

左の耳からの批判には、そのような経験がない。ところが、今回初めて、「中国を批判すれば、反論を買って出る」人がいることを初めて知った。天皇やアベを叩くと、代わってものを言うのは、ネトウヨという人種であろう。中国を批判すると反論を買って出る人、これを何と呼ぶべきか。適切なネーミングはまだない。

それにしても、この中国贔屓は、いささか品位に欠ける。中国を応援するつもりで、実は中国を貶めているのではないか。その逆効果が、中国に「甘い」私には心配でならない。

タイトルから凄い。「澤藤統一郎の『常軌を逸したアンチ中国』を嗤う」というのだ。ふーん、私は「単なるアンチ中国」ではなく、「常軌を逸したアンチ中国」なんだ。だから、「嗤われて」いるのだ。そして、私(澤藤)には「心底呆れざるを得ません。」という。「人権擁護を目的とする弁護士として「反中国」で法輪功擁護に暴走するとは、澤藤氏は恥ずかしくないのか」。「澤藤氏は『反中国』で頭が狂ってしまった典型例」。「澤藤氏の知人、友人が『お前の法輪功認識は間違ってる!』ときっちりダメ出しすべきでしょう。」「まあ、それでもそうした苦言や批判を無視するバカが澤藤氏なのかもしれませんし、もはや澤藤氏の周囲には『まともな人間はいない』のかもしれませんが。

私は、「アンチ中国」に徹することができない「甘い」立場から、中国のために、この贔屓の引き倒しの存在を嘆かざるをえない。親中国の立場の人物は、このような言葉遣いしかできない人たちで占められているのか。匿名性に隠れて卑怯な言辞を弄することにおいてネトウヨ並み。とうてい、常識的な話が通じる相手ではない。そう思われてしかるべきであろう。朱は交われば赤くなる、この人だけでなく中国まで貶められた印象をもたれることになる。

この人(bogus-simotukare氏)の私に対する批判の「論理」展開は、批判の対象を歪めておいて、勝手に作りあげ決めつけた幻覚を攻撃しているに過ぎない。反論も空しいが、一点だけ申し上げておきたい。

私にとって、法輪功が真に「邪教」であるか否かはさしたる問題ではない。確たる論拠を示すことなく、法輪功を「邪教」と決めつけて弾圧を正当化している中国政府の姿勢を問題にしているのだ。国家は、国民の精神的自由に介入してはならないのだから。

ところがこの人は、法輪功を「邪教」だと断定する。だから、中国政府が取り締まるのは当然だというのだが、そう言うには、覚悟をもって「邪教」を定義し、その定義に該当する根拠を示さなければならない。

ところが、この人の法輪功を「邪教」と断じる根拠は、法輪功が次の4点を主張しているからだという。

◆進化論は間違ってる(エセ科学)
◆法輪功を信じれば末期ガンなど近代医学でも治らない病気も治る(エセ科学)
◆LGBTは精神病。法輪功を信じれば直る(LGBT差別&エセ科学)
◆フェミニズムは共産主義の陰謀。女性は男性に従うのが当たり前(女性差別)

これではお話しにならない。宗教に「エセ科学」というレッテル貼を張って国家による取締りを正当化するなど、とんでもない話。本当に、こんな理由で中国政府が法輪功を取り締まっているとしたら、たいへんな強権国家、弾圧国家というほかはない。

「◆進化論は間違ってる」という思想も信念も信仰も自由である。これをもって取締りも弾圧もあってはならない。聖書を読み信じている人も、古事記を信じている神社も、信仰は自由でなくてはならない。「◆法輪功を信じれば末期ガンなど近代医学でも治らない病気も治る」という信仰も自由である。世の御利益信仰は大同小異このようなことを言っている。いちいち、取り締まるようなことは許されない。「◆LGBTは精神病。法輪功を信じれば直る」「◆フェミニズムは共産主義の陰謀。女性は男性に従うのが当たり前」いずれも、思想も信仰も自由なのだ。人は多様に生きてよい。国家が、「正しい思想」「邪悪な宗教」を決めてはならない。当たり前のことだ。

私は、法輪功についての知識はない。知ろうという意欲もない。ただ、中国政府が、大使館のホームページに記載した、あの程度の理由で宗教弾圧をすることはけっして許されないと言いたいのだ。そして、そんなことをしている中国政府を嘆かざるをえない。

はからずも、bogus-simotukareの立論は、私に、中国政府の誤りについて重ねて確信を与えてくれた。感謝しなければならない。以下に、同氏の文章の全文を掲載させていただく。

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澤藤統一郎の「常軌を逸したアンチ中国」を嗤う(2020年7/15日分)(副題:法輪功は間違いなく邪教ですよ!、澤藤さん)

澤藤氏に反論、批判を加えようと思ったのですがコメント欄が無いというのにまず呆れますね。
仮にも「弁護士」「市民活動家」でありながら、読者と対話しようという意思が全くないのが澤藤氏のようです。
まあリベラル21もそうですが、日本の「自称リベラル、自称左派」の一部(澤藤氏や阿部治平)には心底呆れざるを得ません。
「詳細な引用はしませんが」ここで澤藤氏の書いてる文章「中国は香港やウイグルで酷い人権弾圧をしている。だから法輪功摘発も不当な弾圧で、法輪功は邪教では無く何一つ問題が無い宗教かもしれない(俺の要約)」は「米国は間違ってる、だからソ連が100パー正しい」「中国は間違ってる。だから解放前チベットに問題は無い、100パー正しい」「日本警察には問題がある。だからオウム真理教には問題は無い、オウムは犯罪などやってない」「近代医学には限界がある。だから代替医療は正しい」レベルの与太でしかありません。
しかも澤藤氏が「法輪功は邪教では無い」と断言できず「かもしれない」としているところはあまりにも姑息でしょう。彼も「法輪功は邪教では無い」と断言する勇気は無いようですが、ならばこんな駄文は最初から書くべきでは無い。
なお、お断りしておきますがここで俺が指摘しているのは「法輪功は邪教だ」ということにすぎません。暴力団や極左過激派であろうとも違法捜査が許されないのと同様、法輪功が邪教だろうとどんな捜査が許されるわけではありません。それでは例えば『ダーティーハリー』第1話の世界になってしまいます。
『ダーティーハリー』第1話ではハリーが拷問で吐かせ、自白によって、彼が拉致し殺害したと思われる少女の遺体まで見つかった容疑者は「マジの快楽殺人鬼」であり、「ハリーの違法捜査」を理由に釈放された後で、性懲りも無く快楽殺人に走り、犯行に及んでるところをハリーに射殺されますが、それは「だからハリーが拷問で自白させても問題ない、釈放などさせるべきでは無かった」つう話では無いわけです(娯楽映画である『ダーティーハリー』ではハリーが英雄として描かれますが)。
中国の法輪功摘発も同様であり、「法輪功が邪教である」以上、取り締まりは当然ですが、それが「違法捜査になってないか」どうかはまた別問題です。
しかしよりにもよって大紀元時報 | グローバルニュースや明慧日本語版などの系列メディアで

◆進化論は間違ってる(エセ科学)
◆法輪功を信じれば末期ガンなど近代医学でも治らない病気も治る(エセ科学)
◆LGBTは精神病。法輪功を信じれば直る(LGBT差別&エセ科学)
◆フェミニズムは共産主義の陰謀。女性は男性に従うのが当たり前(女性差別)

などのデマ、ヘイトスピーチを垂れ流す法輪功を「擁護するかのような文章を書き飛ばす」とはねえ。これらの法輪功の問題点については拙記事で批判したことがありますのでお読み頂ければ幸いです。
人権擁護を目的とする弁護士として「反中国」で法輪功擁護に暴走するとは、澤藤氏は恥ずかしくないのか。
さすがに法輪功のこうしたデマ、ヘイトを「自称・リベラル」澤藤氏が支持してるとも思いませんが、「弁護士でも何でも一介のサラリーマンにすぎない」俺ですら大紀元時報 | グローバルニュースや明慧日本語版をチェックして気づくこと(法輪功のデマやヘイト)を澤藤氏が「調べなかった」「気づかなかった」と言うならお粗末すぎて話になりません。
「法輪功の問題点にすら気づかない澤藤に弁護を頼んだら、勝手な思い込みで勝てる裁判も負けるんじゃ無いか」という恐怖感を俺なら感じますね。何せ「中国への反感」から法輪功のデマ、ヘイトに気づかないわけですから。
それともまさかとは思いますが、こうした法輪功のデマ、ヘイト体質を知りながらこんな駄文を書き飛ばしたのが澤藤氏なのか?
いずれにせよ澤藤氏は「反中国」で頭が狂ってしまった典型例ですね(阿部治平などもそうですが)。澤藤氏の知人、友人が「お前の法輪功認識は間違ってる!」ときっちりダメ出しすべきでしょう。まあ、それでもそうした苦言や批判を無視するバカが澤藤氏なのかもしれませんし、もはや澤藤氏の周囲には「まともな人間はいない」のかもしれませんが。

「コロナ失業」の被害に、同じ労働者でもこんな「身分差」。

(2020年7月15日)
下記は、昨日(7月14日)の朝日の記事(抜粋)。普段はよく見えない、私たちの社会の差別や不合理の構造が、コロナ禍の中で突きつけられた典型例といえるだろう。朝日も、ときによい記事を書く。

それにしても、「コロナ失業」と呼ばれる現実があるのだ。その失業に直面して、「正規」と「非正規」の差別、女性労働者の地位の不安定は、かくも厳しい。「同じ人間とも思えない」とまで叫ばせるこの社会の罪は重い。それでも、負けずに立ち上がる人々に、心からの声援を送りたい。

コロナ失業する非正規の女性「同じ人間とも思われない」

9日、雨が続く夜の銀座で傘を差し、その女性(40代)は拡声機のマイクを握って声を上げた。「雇用調整助成金を活用して派遣社員の雇用を守ってください」「雇い止めを撤回してください」

1人から加盟できる労働組合「総合サポートユニオン」の仲間たち十数人も一緒だ。
目の前のオフィスビルには、女性が登録していた派遣会社が入っている。この日初めてあった同社との団体交渉で、会社側が「ゼロ回答」だったとして抗議に来ていた。

新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化した3月下旬。派遣先は、社員を在宅勤務に一斉に切り替えた。一方、派遣社員には「出社がいやなら有給休暇を」と告げた。感染は怖かったが、仕方なく出社を続けた。

感染リスクを減らそうと、4月下旬に有休を3日間とった。その直後、派遣先から労働者派遣契約を中途解除され、派遣会社から6月末での雇い止めを告げられた。理由を聞くと、派遣先のコロナによる売り上げ減少と、「在宅勤務を希望したから」。コロナでわかったことがある、と女性は言う。「派遣社員は、社員と同じ人間だと思われてもない」

「ある日突然、コマのように放置」

千葉県内のシングルマザーの女性(40代)は、葬儀場などで食事を提供する仕出し会社で14年間働いてきた。従業員約60人のうち50人超がパートの女性で、盛りつけや配送、配膳、接客までこなしていた。

コロナで会社は4月末から休業。経営が厳しくなり、「事業継続は厳しいかもしれない」と説明した。正社員の男性数人は、グループ内のほかの会社で仕事を続ける選択肢を示された。だがパートの女性たちは休業手当の支給もなく有休を取るしかなかった。

「なのはなユニオン」に相談し、25人で労組を立ち上げた。女性は取材に対して、「この職場で10年以上働くパートの女性が多く、私たちが切り盛りしてきた。それなのにある日突然、コマのように放置されたり、切られたりする。情けないし、悔しい」と憤った。

新型コロナは、サービス業を中心に非正規の女性たちが多く支える産業を直撃した

5月の労働力調査では、正社員は前年同月に比べて1万人減だったのに対し、非正規労働者は約61万人減。このうち8割近い約47万人が女性だ。「宿泊業・飲食サービス業」、「生活関連サービス業・娯楽業」は特に大きく就業者が減ったが、減った人のそれぞれ7割や8割が女性だった。

「声を上げれば会社は好き放題できない」
仕出し会社で働いていた女性に今月上旬、電話で近況を聞いた。会社は7月末で閉鎖すると伝えてきたという。組合側はそれまでの間、5月分まで遡及(そきゅう)して平均賃金の10割にあたる休業手当の支給を求め、会社も応じた。有休は労働者側が買い取る形となった。「会社側からここまで引き出せたのは労組を結成したから。みんなで声を上げれば会社は好き放題できないとわかった。今後の仕事にも生かせる経験です」

冒頭の派遣社員の女性は、「私の意見なんて、だれも聞いてくれると思っていなかった」。銀座でシュプレヒコールをあげた夜、「堂々としていて、立派だったよ」と仲間に言われ、はにかんだ。もう黙らない。女性はそう決めている。

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労組・労基署・ハローワーク、最悪の場合が生活保護。これが「コロナ失業」直面の場合の相談先。いざというときの駆け込み避難先の一覧表でもあればよいのだが。

コロナ禍のさなかの革命記念日、国は何のためにあるかを考える。

(2020年7月14日)
本郷三丁目の皆様。また、新型コロナ感染者が増えています。たいへん憂鬱な梅雨のさなかですが、少しの間、お耳をお貸しください。

本日は7月14日、フランスの革命記念日に当たります。1789年の今日、蜂起したパリの民衆がバスティーユに押し寄せ政治犯を解放しました。これがフランス大革命の始まりとされています。

この革命でブルボン王朝は倒れ、王の政治に代わる市民の政治が始まりました。新たにできた共和国は、自由と平等を掲げた憲法を制定し、市民自身による政治を始めたのです。

しかし、必ずしも、「自由と平等」とは国民に幸せをもたらしませんでした。新しい憲法が神聖不可侵の権利としたものは、所有権の絶対でした。これは、資本主義経済における資本の活動の野放図な自由を認めるもの。結局は、一握りの持てる者が、持たざる者を搾取する社会となったのです。長時間の低賃金労働が当然のこととされました。女性労働、少年労働はとりわけ苛酷な扱いを受けました。これに抵抗する労働運動が起き、労働運動を支える社会運動や政党が生まれ、これに対する政府の弾圧が生じ、弾圧に対する激しい抵抗が起こり…。こうして、労働者の権利は、少しずつ確かなものになっていったのです。

20世紀に入って、各国の憲法は、社会国家あるいは福祉国家の理念を掲げるようになりました。資本主義経済を前提としながらも、資本の欲しいままの利益擁護を最優先の価値とはせず、国民の福祉を最優先として、これに抵触する場合は資本の利益も制約されることになりました。

国家は何のためにあるか。「朕は国家なり」という王政時代には国家は王の利益のためにありました。市民革命後は、資本の利益のために社会の秩序を擁護する国家が必要となりました。そして今は、国民一人ひとりの利益を護るために国家が必要となっているのです。

そんなことは普段意識しないことですが、コロナ禍のさなか、この危急の事態では、考えざるを得ません。私たちが主権者として、つくって運営しているこの国は、果たして何のためにあるのか。そして、その役割を果たしているのか。

憲法25条は、 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めています。私たちの国は、国民の暮らしの向上を最も大切なものとし、国民の豊かな生活を実現するためにこそ国はある。そう言ってよいと思います。

資本主義経済社会は、資本の利潤追求の自由を容認することで成り立っています。必然的に格差や貧困を生み出します。この国に生きる多くの人々は、格差や貧困の中に暮らさざるを得ません。

この国の政府は、資本主義経済の市場原理を尊重しつつも、格差や貧困に基づく国民の経済的な苦労を克服し、全ての国民が豊かに暮らせるよう、政治を行わなければなりません。安倍内閣は、その期待に応えているでしょうか。

コロナ禍はこの社会の経済的弱者を直撃しています。この人たちにこそ、支援が必要です。アベノマスクを各所帯に2枚ずつは確かに支給を受けました。特別支給金10万円も受領しました。しかし、焼け石に水、当然に足りません。

平時には必ずしも自明とは気付かされない国家の責務が、国民生活が逼迫して生存権が危うくなっているこの危急の事態に浮かび上がっています。はたして政権は、国家の基本的な責務を全うしているだろうか。

7月14日、革命記念日に、私たちの国は何のために存在し、何をすべきであるのか、そしてなすべきことをしているのかを考えたいと思います。

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「本郷・湯島九条の会」石井 彰

小雨のなか、お疲れさまでした。きょうは6人の方々が参加されコロナ禍での安倍政権、都政の無策を糾弾しました。

コロナ危機を体験している今のわたしたちはこれまで気づかなかった多くのこと知らされている現実を訴えました。とりわけ生活格差です。憲法25条を文字通り実現させることの大切さを語り、2項に書かれている「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなけばならない」。
まさにこんにちのコロナ禍を国は全力で対処する責務があります。
国家とは何か。権力者ためにあるのか、国民のためにあるのか、この訴えは赤信号で待っている人々に届いているようでした。何人もの方が頷いていました。

「黒川前検事長不起訴、検察許すも、国民許さん」「東京だってゼロメートル地帯、防災対策を」「イージス・アショアの失敗、虫の良すぎる敵基地攻撃準備、憲法違反」といったプラスターを持っていると路ゆく人々が見入っている姿も多く見られました。

途中で電池が切れるというアクシデントもありましたが、戦後75年、2度と戦争させないわたしたちの行動は続きます。

次回8月は11日(火)です。広島・長崎への原爆投下、敗戦と続く月です。

法輪功を邪教として弾圧する、中国政府の言い分に耳を傾ける。

(2020年7月13日)
私は信仰をもたない。信ずべき宗教に関心はない。しかし、信仰の自由には大きな関心をもっている。権力による宗教弾圧にも、社会的同調圧力による宗教差別にも敏感でありたいと思う。信仰が人格の中核をなすということを理解しているつもりだし、少なくも理解しようと努めている。信仰の自由は、個人の尊厳を保障するものとして、徹底されなければならない。

思想の自由も表現の自由も、その内容優れたものを選別して認められるものではなく、あらゆる思想・表現に自由が認められなければならない。これを制約するには、極めて厳格な要件を必要とする。信仰も同じことだ。

優れた信仰も劣った信仰もありえない。多様な信仰の自由が認められなければならない。文明社会では、権力が信仰を選別してはならない。

709事件で弾圧された「人権弁護士」の中には、宗教団体・法輪功関連の弁護活動に携わっていた人が多いようだ。なぜ、法輪功は中国当局から疎まれているのだろうか。これがよく分からない。

戦前の天皇制政府の野蛮な宗教弾圧も、必ずしも天皇の権威を貶める教義を掲げる宗教だけを対象にしたわけではない。宗教の規模が大きくなりすぎ、その教祖が天皇と並ぶ精神世界の権威となることを好ましくないとしたことが弾圧の理由ではなかったか。中国の法輪功弾圧も似たような理由に思われる。

弾圧する側とされる側があるとき、まずは弾圧される側の主張に耳を傾けなければならない。これが鉄則である。法輪功側の言い分を十分に聞いてみたいとは思うが、その機会を得ない。やむなく、弾圧する側である中国大使館のホームページを覗いてみる。《邪教「法輪功」の危害》《「法輪功」とは何か》という記事がある。少し、その論述にこだわってみたい。

http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zt/xjflg/t62971.htm

「法輪功」とは、いったい何か。一口で言えば、中国の「オウム真理教」です。その教祖は現在アメリカにいる李洪志という人物です。「法輪功」も「オウム真理教」も他のカルト集団と同様ですが、教義や教祖への絶対服従と絶対崇拝を要求し、信者にマインドコントロールを施すのです。

この記述自体がたいへんに胡散臭い。権力がこんな大雑把なアナロジーで宗教弾圧を正当化してはならない。この「論理」のパターンはどうにでも使える。たとえば、次のように。何の論証にもなっていない。

「中国共産党」とは、いったい何か。一口で言えば、中国の「オウム真理教」です。どちらも強固なイデオロギーと排他性と組織規律を特徴としています。「中国共産党」も「オウム真理教」も他のカルト集団と同様に、組織トップやイデオロギーへの絶対服従と絶対崇拝を要求し、その信奉者にマインドコントロールを施すのです。

「法輪功」を、《一口でいえば、中国の「オウム真理教」》と言ってのける乱暴さもさることながら、オウム真理教に似ているから邪教との決め付けはあまりに粗雑。オウムが指弾されたのは、そのメンバーが多くの人を殺傷したからである。殺傷行為は、刑法に触れるものとして処罰の対象となった。しかし、その信仰が断罪されたわけではない。

「法輪功」の教祖である李洪志はまず「善良」を看板にして、「心を修練し、体を鍛える」、長期にわたって「法輪功」を修練すれば、「薬なしで病気を癒し、健康になる」などと口説いて入門させます。続いて彼の書いた「経書」を読ませ、さらに、「地球は爆発する」など「世界の終末説」をばら撒き、教祖のみが世界を救い、「人を済度して天国に行かせる」と唱え、信者たちを恐怖のどん底に陥れて狂乱させます。その結果、信者は教祖に絶対服従するようになり、善悪の判断能力を失い、己を害し、他人を害するなど、極端な行動に走ってしまいます。

古今東西を通じて、終末思想も衆生済度も教祖への絶対的帰依も、宗教教説の定番である。これをもって「法輪功」の邪教の証しというのは、いささか牽強付会の体。

また、世の善悪判断と基準を異にする宗教も巷に満ちている。人を殺せ、盗め、と極端な教説は要警戒だが、「人を済度して天国に行かせる」と称えるから邪教とは説得力に乏しい。このくらいのことしか言えないのでは、中国政府側に「三分の理」もなさそうだ。「己を害し他人を害する」行為があれば、必要な限りで対応するのが文明国の在り方。過剰に取り締まることを宗教弾圧という。

中国政府のこれまでの統計によりますと、「法輪功」の狂信者の中に、自殺或いは投薬や治療を拒否して死亡した者はすでに1600人を超え、精神に障害をきたした者は650余人に達したのです。また、殺人を犯した者は11人で、障害者となった者は144人にのぼります。

中国政府は、自殺・精神障害・殺人に関して、これまでどのような統計を取ってきたのだろうか。仏教徒やキリスト教徒と比較して、この数値は有意な差があるのだろうか。あるいは、中国共産党員というカテゴリーでの自殺・精神障害・殺人件数と比較して、どうなのだろうか。

この中で、特に人を驚かせたのは、今年の1月23日、つまり中華民族が21世紀になって初めて迎える春節(旧正月)を前にして一家団欒で過ごす大晦日に、7人の「法輪功」の狂信者が北京の天安門広場で焼身自殺を図る事件を起こしたのです。その中の2人は未遂に終りましたが、4人がひどい焼けどを負って顔形がまったく分からなくなり、1人がその場で焼死しました。火傷を負った4人の中に、なんと、12歳になったばかりの少女もいました。彼女は「法輪功」に夢中になった母親に焼身自殺の現場に連れて来られたのでした。理性と母性愛をここまで失うとはと、人々を驚かせました。

この事件の真相は分からない。分からないのは、中国に信頼に足りるジャーナリズムが育っていないこと、中国当局の調査が信頼されていないことによる。この件は、新華社によると、法輪功の会員が中国政府による法輪功弾圧に抗議する態度を表明する意味で自らの体に火をつけたものだという。しかし、法輪功の側は、けっして自殺を称揚することはなく、この事件は法輪功を貶めるための捏造であると反論しているという。真相は分からないが、「この事件こそが法輪功の邪教の証明」といわんばかりの中国政府の主張には、首を傾げざるを得ない。もしかしたら、この痛ましい事件こそが、中国が宗教弾圧国家であることの揺るぎなき証明なのかも知れないのだから。

事実が物語っているように、「法輪功」は日本国民に嫌われる「オウム真理教」と同様に、人権を踏みにじり、社会に危害を与える紛れもないカルト教団そのものです。中国政府は信教の自由を尊重します。しかし、他の国と同様に、カルト教団に対しては決して座視することは出来ません。国民の強い要望に答え、法に基づいてカルト教団である「法輪功」を取り締まり、厳しく打撃を与えることは、国民の生活と生命安全を守り、正常な社会秩序を維持するためなのです。

「事実が物語っている」というには、すこぶる根拠薄弱だが、《「法輪功」を取り締まり厳しく打撃を与える》という断固たる国家意思は極めて明瞭である。中国政府は、法輪功に対する宗教団弾圧の実行を広言しているに等しい。しかも、その弾圧を正当化する根拠についての当局の一方的な説明がこの程度でしかないのだ。

思い出すことがある。15年くらいも以前のことだったろうか。日弁連で中国の弁護士会からの訪問団との懇談の機会があり、出席したことがある。流暢な中国側の通訳を介して和やかに消費者問題などを話し合っていたが、日本側の誰かが法輪功を話題にした。

その途端に通訳の表情が一変した。しばらく、ひそひそと中国側内部のやり取りがあって、「その問題は、本日の話題として不適当ですから触れないでください」ということだった。当然、座は白けた。「なんだ、弁護士も話題にすらできないのか」という雰囲気。私は黙っていられない思いで、「人権擁護の立場から法輪功の側で弁護士としての活動を行っている人もいると思いますが、政府から問題にされてはいませんか」と聞いた覚えがある。が、かわされて無視された。

その頃既に、東京の街を歩くと法輪功関係者と思しき人々のビラ配りを見かけるようになっていた。中国政府が、信じがたいほどの人権侵害をしていると訴えるもの。にわかに信じがたい内容だが、昨今の中国政府の言い分とやり口とのギャップを見ていると、法輪功あながち大袈裟に吹聴しているばかりでもなさそうだという気持ちに傾いてくる。

都教委の卑劣な「思想転向強要システム」の破綻について

(2020年7月12日)
本日(7月12日)の東京新聞「こちら特報部」に、おや、見覚えのある方のお顔。もと、国立二小の教員だった佐藤美和子さん。「日の丸・君が代強制に反対」の思いを込めたブルーリボンを手にしての一枚。

「こちら特報部」の記事は、「黒川氏『訓告』甘すぎる」「「日の丸・君が代」で「懲戒」も」「思想の自由教えただけなのに」と見出しを付けられたもの。そのリードは、以下のとおり。

コロナ禍の真っただ中に新聞記者と賭けマージャンをした前東京高検検事長・黒川弘務氏の訓告処分が「甘過ぎる」と、批判を強めている人たちがいる。かつて「日の丸・君が代」の問題で処分された学校関係者だ。式典での国歌斉唱などの際、思想や信仰の自由を貫いただけで、減給や停職とされた人もいる。「犯罪行為の賭博が、なぜこんなに軽いのか」と、国や東京都に説明を求めている。

佐藤さんは、「たったこれだけ。私はこれ(ブルーリボン)を胸に着けていただけなのに、職務に専念していないと見なされて訓告処分を受けました」という。佐藤さんが、「日の丸・君が代」強制を受け入れがたいとする理由の根幹には、信仰と歴史観の問題がある。

佐藤さんは父親と母方の祖父が牧師。戦時中、キリストではなく天皇を神としてあがめるよう強制された話を聞かされた。朝鮮、台湾といった植民地での皇民化教育にも使われ、軍国主義の歴史が色濃い日の丸・君が代は受け入れられなかった。

それだけではない。教員として、子どもたちに思想の自由を教えながら、「日の丸・君が代」の強制を受け入れてはならないという思いも強かった。

式の一週間ほど前には、6年生の授業で君が代を扱ったばかり。歌詞の意味や賛否両方の意見を教えつつ「世の中には歌いたい人も、歌いたくない人もいる。その選択はみんなの自由で、憲法で保障されている。決して強制されるようなものではない」と伝えていた。

信仰と歴史観、そして教員としての良心に従った佐藤さん。佐藤さんは、教員としてあるべき姿を貫いたのではないか。しかし「訓告」。一方、常習賭博にも当たる、賭けマージャンの黒川が同じく「訓告」。誰が考えてもおかしくはないか。

念のために申し上げれば、00年3月の国立二小の卒業式の式次第には、国歌斉唱のプログラムも、起立斉唱の号令もない。式場に日の丸もなかった。「日の丸・君が代」なしに、創意工夫をこらした感動的なフロア対面形式の卒業式が行われている。ただ、それまで、「日の丸」とも「君が代」ともまったく無縁だった国立二小校舎の屋上に、校長が独断で「日の丸」を立てたのだ。佐藤さんのブルーリボンは、そのことへの抗議だった。

その後03年10月23日に、悪名高き「10・23通達」が発出されて、事態は昏迷することになる。あの石原慎太郎2期目の都政でのことである。この年の4月13日都知事選で、石原は308万票(得票率70%)を獲得した。ここから、石原の暴走が始まる。この右翼政治家に308万票を献じた都民の責任は大きい。

いつもながら、東京新聞「こちら特報部」は、立派な記事を書いてくれた。だが、一点気になるところがある。「10・23通達」後の、国歌斉唱時の不起立による処分の問題。記事には、こう書いてある。

都教委は2000年代から統制を強め、卒業式や入学式の国歌斉唱時に起立しないことなどへの処分が続出した。03年度以降、訓告は数人、より重い懲戒処分は延べ約480人に上る。不起立1回目は戒告で、1回増えるたびに減給1、3、6ヵ月、停職1、3、6ヵ月と重くなる。

都教委の意図は「特報部」記事のとおりであった。現実に、都教委は最高裁判決が出るまで、この累積加重の処分を重ねてきた。卒入学式での国歌斉唱時における不起立1回目は戒告。2回目は減給(10分の1・1か月)、3回目目は減給(10分の1・6か月)、4回目は停職(1か月)、5回目は停職(3か月)、6回目は停職(6か月)…というもの。このあとは、懲戒解雇しかなくなる。

不起立の回数が増える度に、懲戒処分の量定を重くし、自らの思想・良心・信仰を曲げなければ教壇を追われることになるという二律背反。この深刻な事態に、良心的な教員を追い込もうという卑劣なやり口。これをわれわれは、「思想転向強要システム」と呼んだ。

さすがに、最高裁もこの邪悪なたくらみを許さなかった。不起立と、それによる処分が累積しても、認められる懲戒処分の量定は戒告限り。減給も、停職も認められないというのが現在の最高裁の態度である。都教委がたくらんだ、思想転向強要システムは破綻している。このことは、もっと広く知られねばならない。

中国批判の「謬論」と、中国政府の言う「事実・真相」。

(2020年7月11日)
《中華人民共和国駐日本国大使館》のホームページの内容が興味深い。いろんなことを教えてくれる。考えさせられる。国家とは何なのか、権力とは、そのホンネとは。そして、個人の尊厳とは。民主主義の無力や「人権」という言葉の多義性に思いをいたさずにはおられない。是非に、というほどのことではないが、閲覧をお勧めしたい。
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/

本日(7月11日)現在、同ホームページのトップに「中国関連の人権問題に関するさまざまな謬論と事実・真相」と表題する記事がある。7月8日にアップされたもの。

そのリードが以下のとおり。

最近、米欧の一部の人々が香港、新型コロナウイルス肺炎、新疆などにかかわる問題で、いわれもなく中国の人権状況を非難し、多くの謬論をばらまいており、それは中国に対する無知と偏見に満ち満ちている。

そこで、われわれは事実によって物を言い、真相によって道理を説くため、「中国関連の人権問題に関するさまざまな謬論と事実・真相」を編集・執筆した。

中国大使館が「事実によって物を言い、真相によって道理を説」かねばならない「謬論」は、〈その1〉から〈その31〉に及ぶ。中国に対するこれだけの批判があるとは知らなかった。中国政府も、ずいぶんと外部からの批判を気にしていることがよく分かる。

そのうちの香港に関する10の「謬論」と、それに対置された「事実・真相」を引用する。念のためであるが、私的な編集の手は一切加えていない。恣意的なカットもしていない。これが全文であって、中国当局の主張なのだ。

果たして、中国当局が「事実によって物を言い、真相によって道理を説く」ことに成功しているだろうか。いささかなりとも人権を大切に思う人にとって説得力のある論説になっているだろうか。

ここで赤裸々に語られているのは、みごとなまでの「国家の論理」である。しかも傲慢で批判に耳を傾けようという姿勢はまったく見えない。反面教師の「論理」として繰り返し読み直すに値するものである。ただ恐れるのは、このような「論理」で、中国国民の多くが納得してしまっているのではないかと言うこと。

他人事ではない。安倍政権の嘘とゴマカシ、小池都政無内容な美辞麗句にも、けっして納得してはならない。

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謬論その1 国家安全立法は香港住民の人権と基本的自由を破壊し、「市民的および政治的権利に関する国際規約」に違反する。

事実・真相

◆「中華人民共和国香港特別行政区国家安全維持法」は、香港特別行政区の国家安全維持においては人権を尊重、保障し、香港特別行政区住民が香港特別行政区基本法および「市民的および政治的権利に関する国際規約」「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」の香港に適用される関係規定に基づいて有する、言論・報道・出版の自由、結社・集会・行進・示威の自由を含む権利と自由を法によって保護しなければならないと明確に規定している。

◆香港関連の国家安全立法は国家分裂罪、国家政権転覆罪、テロ活動罪、外国または域外勢力と結託して国家の安全を害する罪という4種類の犯罪だけを対象にしており、処罰するのは国家の安全を著しく害する容疑のある極少数の犯罪分子で、規律・法規を順守する大多数の香港市民は保護され、大多数の香港住民の安全および法によって有するさまざまな権利と自由は保障されている。

◆世界の100余りの国の憲法は、基本的権利と自由の行使では国の安全を害してはならないと定めている。「市民的および政治的権利に関する国際規約」は、信仰の自由、言論の自由、平和的集会の自由および公開の裁判を受けるといった権利はすべて、国の安全、公の秩序などの理由に基づいて必要な制限を受け得ると定めている。「欧州人権条約」にも類似の規定がある。

謬論その2 香港関連の国家安全立法は定義のあいまいな犯罪行為が列挙され、中国の国家安全機関によって民衆抑圧のために乱用されるおそれがある。

事実・真相

◆香港関連の国家安全立法は国の安全を著しく害する4種類の犯罪行為だけを対象にしており、ともすれば数十にも上る、米英などの国の安全に関わる罪名よりはるかに少ない。この法律は国家安全の法執行を明確に規制し、すべての法執行行為は厳格に法律の定めるところにより、法定の職責に合致し、法定の手続きを順守しなければならず、いかなる個人と組織の合法的権益をも侵害してはならないとしている。さらに、駐香港国家安全公署は厳格に法によって職責を履行し、法によって監督を受けなければならず、その要員は必ず全国的法律を順守するほか、香港特別行政区の法律を順守しなければならないと定めている。

◆米国、英国、カナダ、オーストラリアなどはいずれも国家安全保障のための厳密な法体系をつくっており、国の安全を害する犯罪行為の取り締まりではまったく容赦しない。

謬論その3 国家安全立法は香港にある外国企業が「ビジネスと人権に関する指導原則」の定めによって人権尊重の責任を履行するのを難しくする。

事実・真相

◆香港関連の国家安全立法は国家分裂罪、国家政権転覆罪、テロ活動罪、外国または域外勢力と結託して国家の安全を害する罪という4種類の犯罪だけを対象にしている。これらの犯罪行為は明らかに、法を守る企業または住民の行為や関わりうる活動ではない。法を守る多国籍企業はみな香港が安定と秩序を取り戻すことを望んでいる。法律が実施されれば、香港にある企業が人権尊重の責任を履行するのに役立つだろう。

謬論その4 香港の警察は武力を過度に使用しているのに処罰を受けない(化学剤を使って抗議者に当たる、女性抗議者に対する警察局でのセクハラや性的暴行、医療関係者へのいやがらせなど)。

事実・真相

◆「条例改正の風波」中、香港の警察隊は連続数カ月間に数百回の暴力事件を前にしながら、ずっと法律と警察の内部手引に従って法を執行した。過激なデモ隊は、石、鉄棒の使用からパチンコ玉の打ち込み、傘の先に刃物を結びつけた雨傘さらには危険化学品へと絶えず装備をエスカレートさせたが、警察隊はずっと最大限の冷静さ、理知と自制を保ち、つねに進んで武力を使用しないようにした。一部の者が暴力で突っ込んだり、違法な暴力行為をとり、現場の人々の身体の安全を脅かしたりした時だけ、相応の武力を使って阻止した。これは完全に国際的規範にかなっている。たとえ警官の生命を著しく脅かす危険な武器や暴力による違法行為を前にしても、警察隊はなお自制の姿勢を示し、文明的に法を執行し、プロ精神に徹していた。香港で、警察隊の法執行で死亡したデモ参加者は1人もおらず、逆に2020年5月末までに、590人を超える警備要員が法執行中に負傷している。

◆香港の警察隊の自制的専門的法執行と鮮やかな対照を成しているのは、米国で警察が暴力的法執行で死者を出し、発砲して射殺する行為が珍しくなく、2019年だけで1004回に達していることだ。2020年6月中旬までに、米国各地のフロイド事件で誘発された抗議デモ活動中に少なくとも13人が死亡し、数百人が負傷し、1・35万人超が逮捕されている。そのうち37歳のフリー作家兼記者リンダ・ティラドさんはミネアポリスの抗議活動を報じた際、警察のゴム弾で目を打たれて片方の目を失明した。

謬論その5 中国政府は香港の抗議活動と民主化の宣伝を弾圧している。

事実・真相

◆香港の復帰後の事実は、香港住民が法によって有する言論、報道、出版、結社、集会、行進、デモの自由が十分に保障されていることをすでに証明した。

◆2019年6月の「条例改正風波」の発生以来、一部の過激なデモ隊が故意に暴力事件を造り出し、その行動は平和なデモや意見の自由な表明のという限界を完全に超えて、極端な暴力違法活動に変化している。これらの暴力行為はあからさまに法律に触れ、市民の安全を著しく脅かし、国家の主権と尊厳に公然と挑戦しており、事実ははっきりし、証拠は揺るがず、悪質なものである。

◆文明化法治化した社会で、要求の平和的理性的表明は基本的要求で、ごく当たり前なことだが、権利の行使は必ず法治の枠組み内で行わなければならず、いかなる主張も違法な方法で表明することはできず、まして暴力に訴えることはできない。法治は香港の核心的価値で、香港の長期安定・繁栄を保障する基礎である。法がある以上必ずそれにより、違法は必ず追及するというのは法治の精神の具体的現れである。暴力と暴徒にゼロトレランスで臨んではじめて、香港の法律と秩序を守り、法治を示すことができる。そして暴力と暴徒を支持し放任するのは、民主主義、自由と法治を公然と踏みにじることである。

謬論その6 香港関連の国家安全立法は中国の「中英共同声明」における約束と義務に違反している。

事実・真相

◆中国政府の香港統治の法的根拠は中国憲法と香港基本法であり、「中英共同声明」とは関係がない。1997年の香港の中国復帰に伴って、「中英共同声明」で定められた、英国と関係のある条項はすべて履行が終わっており、英国は復帰後の香港に主権、統治権、監督権をもたない。

◆「中英共同声明」の香港に対する基本方針・政策は中国の政策表明であり、全人代が制定した基本法にすでに十分体現されている。中国の政策表明は英国に対する約束ではなく、しかもこれらの政策はすべて変わっておらず、中国は引き続き堅持するだろう。

謬論その7 国家安全立法は中国の中央政府が一方的に香港に押しつけるものだ。

事実・真相

◆国の安全立法はそもそも一国の主権と中央の権限に属することだ。中国の中央政府は国の安全を守る最大の、最終的責任を負っている。全人代は中国の最高権力機関である。全人代が中国憲法と香港基本法の規定に基づき、国家レベルで香港特別行政区における国家安全維持の法制度と執行メカニズムを導入・整備することは、香港の国家安全の法的な抜け穴をふさぎ、国の安全を確実に守るのに必要な措置で、「一国二制度」の長期的安定を確保するための抜本策でもある。

◆基本法第23条は香港特別行政区に国の安全を守る独自の立法権限を与えているが、復帰から23年近くたっても、反中央・香港かく乱勢力と外部の敵対勢力が必死に阻害、妨害したことにより、この立法はなお終わっていない。香港特区の国家安全維持が厳しい局面を迎えている状況下、中央政府にはすみやかに抜け穴を埋め、欠陥を補う権限もあれば責任もある。

◆マカオ特別行政区では2009年初めに国の安全を守る現地立法を終え、「国家安全維持法」を制定するとともに、関連の法執行作業と国の安全を守る付帯立法の検討作業を整然と進めている。2018年、マカオ特区政府はマカオで国の安全を守る実務の統括・調整機関――マカオ特別行政区国家安全維持委員会を設立するとともに、国の安全を守る法制度、組織体制および執行メカニズムの整備を続けている。

◆英国が香港の植民地支配を行っていた頃、英国の「反逆法」が香港に適用され、専門の執行機関もあった。中国中央政府の香港関連国家安全立法に横やりを入れるのは、完全なダブルスタンダードである。

謬論その8 中国は国家安全立法について香港の民衆と意味のある話し合いをしておらず、この立法には世論面の基礎がない。

事実・真相

◆香港国家安全維持法の制定では、香港同胞を含むすべての中国人民の共同の意思が十分体現されている。立法起草過程で、中央と関係部門はさまざまな方法とルートを通じて、特区行政長官と主要高官、立法会主席、香港の法律界、香港基本法委員会委員および全人代代表、政協委員など各界の意見と提案を聞いた。法律案のテキストが出来上がると、関係方面は香港特区政府から出された意見・提案を真剣に検討し、香港特区の実情を十分考慮し、採用できるものはできる限り採用する精神にのっとって、法律案のテキストを繰り返し修正してより完全にし、科学的立法、民主的立法、法による立法を確実にした。

◆中央の関係部門は香港で12回の座談会を開催し、香港政界、法律、商工、金融、教育、科学技術、文化、宗教、青年、労働各界および社会団体、地域団体の120名の代表が参加して率直に意見を述べた。短期間に、香港中聯弁〈中央人民政府駐香港特別行政区連絡弁公室〉は36人の香港地区全人代代表と190人の香港地区政協全国委員の200点余りの意見書を受けとった。香港各界はまた、電子メール、手紙または中国人代網ログインなどの方法で意見を反映することができた。

◆全人代の関係「決定」が公表されると、香港各界の代表はいち早く支持の態度を表明した。300万近い香港人が「撑国安立法」〈国家安全立法支持〉の署名活動に応じ、128万を超える香港人が「米国など外部勢力の介入反対」のネット署名に参加した。

謬論その9 国家安全立法は「一国二制度」の終焉(しゅうえん)を意味しており、香港の高度の自治権を奪った。

事実・真相

◆全人代の「決定」は冒頭に主旨を示し、国が「一国二制度」、「港人治港」〈香港住民による香港管理〉、高度の自治の方針を揺るぎなくしかも全面的かつ正確に貫くことを説明し、その第1条で再度この方針をはっきり説明している。香港関連の国家安全立法の目的は香港の国家安全における致命的な抜け穴をふさぎ、「一国」の基礎を固め、香港が「一国」という基本を堅持すると同時に「二制度」の利点をよりよく生かすことを最大限保証することにある。

◆香港国家安全維持法の実施後も、香港住民が法によって有する諸権利と自由は影響を受けず、特区の独立した立法権と終審権は影響を受けない。「一国二制度」の方針は変わらず、香港特別行政区で資本主義制度がとられることは変わらず、高度の自治は変わらず、法律制度は変わらない。

謬論その10 国家安全立法は香港の繁栄・安定を危うくする。

事実・真相

◆まったく反対に、香港関連の国家安全立法は香港の繁栄・安定の維持により一層資する。2019年6月の「条例改正風波」の発生以来、「香港独立」、「黒い暴力」活動は香港の法治と経済・民生を大きく傷つけ、また香港のビジネス環境と国際的イメージを著しくこわした。香港関連の国家安全立法はまさにこの局面を転換するためのもので、香港の良好なビジネス環境を維持し、香港の金融、貿易、海運センターとしての地位を固め高め、外部からの投資家の自信を強めるうえで利益はあっても弊害はない。香港関連の国家安全立法の「決定」が可決されると、香港上海、チャータード、スワイヤー、ジャーディンなど香港の外資グループは、香港の長期安定に資する、すべての発展の基礎と前提であるとして、続々と支持を表明した。

◆世界を見渡すと、ニューヨークにせよロンドンによせ(ママ)、国家安全保障法実施のためにビジネス環境が壊された国際金融センターは一つもない。香港米国商業会議所の最近の調査によると、7割を超える対象企業が香港から撤退することはないと明確に表明し、6割超の調査対象者が香港を離れることはないとしている。チャンスと利益に盾突く企業はない。

◆マカオ特別行政区は2009年基本法第23条に従って国家安全維持法を可決した。2009年から19年までに、マカオのGDPは153%伸び、観光客数は81%伸び、全体の失業率は10年間の最低に下がっている。

「日の丸・君が代」強制問題 文部科学省交渉&記者会見のご案内

(2020年7月10日)

日の丸・君が代」ILO・ユネスコ勧告実施

文部科学省交渉&記者会見にご参加を!(要予約)

日時2020721日(火)

会場:参議院議員会館 B109会議室(地下1F)

*文科省交渉 13時?14時30分

*記者会見  14時40分?15時20分

*発  言

●前田朗さん(東京造形大学)
●中村雅子さん(桜美林大学)
●寺中誠さん(東京経済大学)
●澤藤統一郎さん(弁護士)
●金井知明さん(弁護士)
●山本紘太朗さん(弁護士)

東京では2003年から、大阪では2011年から「国歌・君が代」の強制が続き、卒業式や入学式で起立できない教職員に対する懲戒処分が行われています。2014年に2つの労働組合がILO/ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会(セアート)に、「日の丸・君が代」強制は「教員の地位に関する勧告」(1966年のユネスコの特別政府間会議で採択)に違反していると申し立て、ILO/ユネスコから2019年3、4月日本政府に対して、強制の是正を求める勧告が出されました。

2020年3月1日に「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議が発足し、日本政府に勧告の実施を求めていくことを決意しました。その第一歩として、来る7月21日に文科省交渉を行います。その後、交渉内容とセアート勧告について記者会見も行います。ぜひ、ご参加下さい。

主催 「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議

共同事務局長 金井知明・寺中誠・山本紘太朗

連絡先:澤藤統一郎弁護士事務所

*定員30名程度。要予約。

市民会議メールアドレス<cciu@teramako.jp>へお申し込みください。

※通行証を参議院議員会館入り口で 12時30分?14時30分 お渡しします。

※コビット19(新型コロナウイルス)感染症対策のため、参加者数を30人程度とします。

議員会館入り口での手指消毒、マスク等を着用してください。

体調のよくない方、発熱の ????ある方は参加をご遠慮ください。

※会場入り口で参加票ご記入下さい。    *資料代300円

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ボーっと生きてんじゃねーよ。

日本政府が、 国歌斉唱の強制で、国連機関に叱られる。

Qどうして叱られたの?
東京や大阪の公立学校では、国歌斉唱時に起立できない先生に対して懲戒処分が行われています。
これが、市民的権利を侵害しているとして、是正を求める勧告が出されました。

Q誰に叱られたの?
ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)です。いずれも国連の機関です。
日本は、ILOの常任理事国で、ユネスコの執行委員国になっています。

Q先生だから歌わなければいけないんじゃないの?
ILOとユネスコは、仕事中の先生であっても、国歌斉唱時に起立斉唱を静かに拒否することは、市民的権利として保障されるとしました。
国歌の強制は、民主主義社会にそぐわないと指摘しています。

Q国際機関から叱られて、日本政府はどうしたの?
市民的権利の保障が国際基準に達していないと叱られたのに、「勧告には法的拘束力がない」などと言って、勧告をスルーしています。

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たいていの国には、国歌がある。日本の国歌は、「君が代」。1999年に法律で決められた。
国歌は様々な場所で演奏される。スポーツの国際試合の前に演奏されることもあるし、日本では、卒業式や入学式で国歌斉唱が行われる。
国歌を「歌う」・「歌わない」ということが、時々ニュースになる。
例えば、アルゼンチンのサッカー代表選手メッシは、長らく国歌を斉唱しなかった選手として話題になった。また、アメリカでは、アメリカンフットボールの選手が、国歌斉唱時に、今の自分の国は敬えないといって、片膝をつく行為をしたことが、社会問題となった。
日本でも、総理大臣だった人がオリンピック開催前に「国歌を歌えないような選手は日本代表ではない」と言ったことがニュースとなった。
また、卒業式や入学式で国歌を起立斉唱できない先生が懲戒処分を受けている。
国歌を歌わない人に対し、自分の国の国歌ぐらい歌ってはどうかと言う人がいる。色々な意見があるのは当然だし、その思いも理解できる。
でも、歌うことを強制されるのは、ちょっと違うと思う。
国歌を歌わなかったら罰則があるような社会は窮屈だ。サッカーの代表選手が懲罰を恐れて国歌を熱唱していたとしたら、その姿に感動する人はいないだろう。
メッシが、愛国心はあるけど、歌う必要はないと言っていたように、国歌を熱唱するひとだけが愛国者ではない。また、そもそも、国を敬う、愛するかどうかは、国が決めることではない。自分を愛せ、敬えと強制するような人はちょっとあやしいし、そのような国はもっとあやしい。
歌いたければ熱唱してもよし、歌わなくとも咎められない。そんな自由のある国なら、多くの人が国歌を自然に歌うようになるかも。

「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議
共同事務局長:金井知明(弁護士)・寺中 誠(東京経済大学)・山本紘太郎(弁護士)
連絡先:澤藤統一郎法律事務所

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