澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

専門家に対する信仰はやめ、その言を吟味しよう。

「コロナおたく」を志そう。「感染症マニア」になろう。その道の専門家になる必要はないが、専門家の説明を正確に理解する能力を身につけよう。それ丈でなく、専門家の言を問い質す力量を身につけなければならない。そのために、基礎的な知識が必要なのだ。誰かの指図を鵜呑みにし受け入れるのではなく、自立した主権者として自主的な判断をするためである。面倒でも「おたく」「マニア」となろうではないか。

コロナ蔓延のこの時期。安倍や小池に欺かれてはならない。タヌキにも狐にも化かされないためには、相応の心構えが必要なのだ。感染症のなんたるか、新型コロナのなんたるか、そして日本の医療体制や製薬業界事情についての基礎知識を身につけておくことが必要なのだ。面倒でも、ある程度の学習がどうしても不可欠なのだ。

私も、にわか勉強だ。そして考える。この難局を切り抜けるために何が必要なのか、この難局を奇貨としての為政者たちの逸脱した行動をどう抑制するか。そのために何が必要なのか。誰を頼ったところで、正解を得られるものでもない。自分自身で考えるしかない。

感染症法は、その対象となる感染症を 一類から五類に分類している。
(一類感染症)エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘そう、南米出血熱、ペスト、マールブルグ病、ラッサ熱、(二類感染症)急性灰白髄炎、ジフテリア、重症急性呼吸器症候群(SARS)、結核、鳥インフルエンザ(H5N1)、(三類感染症) 腸管出血性大腸菌感染症、コレラ、細菌性赤痢、腸チフス、パラチフス(以下、略)

「指定感染症」とされた新型コロナウイルス感染症は、これらの知られた感染症に比較して、感染力がとりわけ強いわけでも、致死率が特に高いわけでもない。しかし、これまでになかった感染症であることから、人類の誰もこの感染症に対する抗体をもっていない。もちろん、ワクチンも治療薬もないことから、恐怖の疫病となっている。

もっとも、この感染症がいかに猖獗を極めようとも、、人間集団に感染し尽くせば、自然の抗体を獲得した人類は、やがてこの感染症を克服する。しかし、それまでどれだけの生命が奪われることになるのか、計り知れない。何より大切なのは、これらの生命の損失を最小限に押さえることにある。

いま、感染患者に対する積極的な治療方法はなく、PCR検査で確認された患者には入院が義務付けられているが、入院の意味は感染防止のための隔離と自然治癒を期待しての対症療法を行うことしかない。

何よりもワクチンの開発が求められている。ロイターの伝えるところでは、「米ピッツバーグ大学医学部の研究者は、開発中のワクチンに感染予防に役に立つ水準で免疫力を高める効果があることをマウスを使った動物実験で確認したと発表した」という。おそらくは各国の研究者が工業化にしのぎを削っていることだろう。が、その実用化は、早くとも来年の初めであろうという。

そして、治療薬である。幾つかの既存の薬剤が、新型コロナに有効と期待されている。たとえば、エボラ出血熱の治療薬として開発されていた抗ウイルス薬であるレムデシビル(米ギリアド)。抗インフルエンザウイルス薬として、200万人分が備蓄されているファビピラビル(富士フイルム富山化学の「アビガン」)。 気管支喘息治療薬として承認された吸入ステロイド薬シクレソニド(帝人ファーマの「オルベスコ」)など。

これらのワクチンと治療薬の開発を急ぐとともに、これが完成するまでの間に感染を可能な限り予防し、罹患患者を早期に確認して感染拡大防止のために隔離するとともに、対症療法を行う。とりわけ重症者への救命治療が中心的課題となる。

医療がなすべきことは、まずは可能な限り広範な検査である。主訴のある人、罹患の可能性の高い人を中心に、積極的な検査が必要である。

いま、東京の感染者数の拡大が大きな話題となっている。昨日(4月2日)までのところ、検査陽性者の状況(チャーター機帰国者、クルーズ船乗客等は含まれていない)は、以下のとおりである。

陽性者数(累計)  684 人
そのうち入院中 628 人
  軽症・中等症 610 人
  重症?      18 人
そのうちの死亡  16 人
そのうちの退院 40 人

公表されている検査実施人数(累計) 3336人である。そのうちの陽性者が684人(20%)であり、その陽性者の死亡者と現在入院中の重症者は合計して34名(陽性者の5%)である。

この数値を眺めているだけでは、大きな危機感は出てこない。この患者数で、医療崩壊間近ということであれば、入院医療はICU設備の充実した専門病院に重症患者対応としてお願いし、あとの95%は症度に応じた隔離と観察ができるケアをすべきだろう。空き部屋となっているオリンピックの選手村の活用などを真っ先に考えるべきであろう。

問題は、公表されたこの数値のバイアスである。検査者数の極端な少なさが不自然である。意図的に検査者を少なくして陽性者数を抑えてきたとの疑惑は払拭できない。累計死者数(16人)も、極端に少ない。死因が肺炎とされる死亡者は全国で年間14万件にも及ぶ。東京だけでも1万人以上。実はこの間の肺炎死者の中に、コロナウイルス死者が紛れていたのではないか。

いずれにせよ、行政がこれから爆発的感染者拡大が起こると予測をするのであれば、その根拠を示してもらわねばならない。国民は、専門家という名の占い師を信仰しているのではない。
(2020年4月3日)

DHC・吉田嘉明 展望なき上訴 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第175弾

3月18日(水)に言い渡された「DHCスラップ『反撃』訴訟」の控訴審判決。その上訴期限最終日の昨日(4月1日・水)、DHC・吉田嘉明が最高裁に上訴した。控訴審判決の「連帯して165万円を支払え」とする命令を不服としてのもの。

高裁の控訴審判決に不服ある場合の上訴(上級審への不服申立)には、「上告提起」と「上告受理申立」の両手段がある。「上告提起」は、原判決に憲法違反や重大な訴訟手続の違法があることを理由とする場合、「上告受理申立て」は、原判決に判例違反や法令の解釈に関する重要な間違いがあることを理由とする場合に認められる。DHC・吉田嘉明は、両手段を併用して申し立てている。

「上告提起」も「上告受理申立」も最高裁宛となるが、上告状兼上告受理申立書の提出先は、原審の東京高裁第5民事部である。これから速やかに、同民事部から両当事者に「上告」「上告受理申立」の受理通知が送付される。その通知が到達後50日以内に、DHC・吉田嘉明は、「上告理由書」「上告受理申立理由書」を作成して同民事部に提出しなければならない。一件記録が最高裁にまわるのは、その後のことになる。

実務家の常識からは、このDHC・吉田嘉明の上告も上告受理申立も、無理筋の展望のない上訴というほかはない。最高裁が耳を傾けるはずもない。敗訴確定先延ばしに過ぎない無駄な努力。かくて、圧倒的な優勢のうちに、DHC・吉田嘉明と私との訴訟上の争いは、最終第6ラウンドを迎えることになった。

2014年4月16日 DHC・吉田嘉明は、私(澤藤)を被告とする訴状を東京地裁に提出した。その請求の趣旨において、私の3件のブログ記事の削除を求めるとともに謝罪を要求、さらに2000万円の損害賠償金を支払えとした。この訴状が私に届いたのが、同年5月13日。この日、私は初めてDHC・吉田嘉明から、無謀な宣戦布告があったことを知らされた。そして、DHC・吉田嘉明にその愚行を後悔させなければならないと受けて立つことを決意した。これが第1ラウンドの始まりである。

私はこの提訴を、DHC・吉田嘉明の「黙れ」「オレを批判するな」という野蛮な恫喝と理解した。絵に描いたような悪役登場の典型的スラップ訴訟である。まずは、黙ってはならないと決意し、ブログに「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズを書き始めた。

もちろん、私憤がエネルギーの原動力である。吉田嘉明ごときに、脅せば黙り込むだろうと舐められたのが腹に据えかねたのだ。もっとも、怒りは私憤ばかりでもない。スラップは表現の自由の敵である。その意味では、スラップとの闘いは大いに公共の意義をもつ。また、DHC・吉田嘉明はヘイトとデマの源泉であることも少しずつ分かってきた。この闘いのエネルギーには、私憤だけでなく公憤も加わった。

こうしてブログに「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズを書き始めたら、DHC・吉田嘉明の代理人弁護士今村憲から警告があり、続いて請求が拡張された。同年8月29日に、なんと請求額は4000万円跳ね上がった。あらためて、6000万円を支払えというのだ。DHC・吉田嘉明・今村憲が、一体となってこの訴訟提起の動機を自白しているに等しいではないか。

今は175弾に及んでいる「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズの最初は下記のとおりである。私のブログを検索していただければ、すべてを読むことができる。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12

2014年7月
 13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
 14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
 15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
 16日 第4弾「弁護士が被告になって」
 18日 第5弾「この頑迷な批判拒否体質(1)」
 19日 第6弾「この頑迷な批判拒否体質(2)」
 20日 第7弾「この頑迷な批判拒否体質(3)」
 22日 第8弾「グララアガア、グララアガア」
 23日 第9弾「私こそは『幸せな被告』」
 25日 第10弾「『表現の自由』が危ない」
 27日 第11弾「経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ」
 31日 第12弾「言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型」
同年8月
  3日 第13弾「スラップ訴訟は両刃の剣」
  4日 第14弾「スラップ訴訟被害者よ、団結しよう。」
  8日 第15弾「『政治とカネ』その監視と批判は主権者の任務だ」
 10日 第16弾「8月20日(水)法廷と報告集会のご案内」
 13日 第17弾「DHCスラップ訴訟資料の公開予告」
 20日 第18弾「満席の法廷でDHCスラップの口頭弁論」
 21日 第19弾「既に現実化しているスラップの萎縮効果」
 22日 番外「ことの本質は『批判の自由』を守り抜くことにある」
 31日 第20弾「これが、損害賠償額4000万円相当の根拠とされたブログの記事」
同年9月
 14日 第22弾「DHCが提起したスラップ訴訟の数々」
 15日 第23弾「DHC会長の8億円拠出は『浄財』ではない」
 16日 第24弾「第2回口頭弁論までの経過報告」
 17日 第25弾「第2回口頭弁論後の報告集会で」
(以下略、現在175弾まで)

以上のとおり、私は怒りを持続して猛烈にDHC批判のブログを書き継いで本日に至っている。その怒りが訴訟にの経過にもみなぎっているはずだ。怒りこそが、エネルギーの源泉である。今、読み直すと、このブログはなかなかに読み応えあって面白い。吉田嘉明も読んでいるだろうか。未読であれば、ぜひお読みいただきたい。感想文などいただけたら、なおありがたい。

こうして、2015年9月2日 東京地裁での請求棄却判決言い渡しがあった。当然に私(澤藤)全面勝訴であった。これが第1ラウンドの勝利

DHC・吉田嘉明はこれを不服として控訴したが、2016年1月28日控訴審は控訴棄却判決を言い渡した。再びの私の全面勝訴である。第2ラウンドの勝利

DHC・吉田嘉明は、なんの成算もないまま無意味な上告受理申立をしたが、2016年2月12日最高裁はこれを不受理とした。第3ラウンドの勝利

さらに、2017年9月4日、DHC・吉田嘉明は私を被告として、債務不存在確認請求訴訟を提起した。つまりは、スラップ提起による損害賠償債務はないことの確認を求める訴訟。これが、第4ラウンドとなった。これに、澤藤から反訴提起を行い、これを前訴と区別して「DHCスラップ『反撃』訴訟」と名付けた。2019年10月4日、反訴について一審判決言い渡しがあり、明確にスラップの違法を認め、認容額110万円とした。第4ラウンドの勝利である。

これに、DHC・吉田嘉明が控訴し、澤藤が附帯控訴したのが、第5ラウンドである。2020年3月18日東京高裁511号法廷で、DHCスラップ反撃訴訟控訴審判決言い渡しがあった。DHC・吉田嘉明の控訴を棄却し、澤藤請求の認容額を165万円に増額した。第5ラウンドにおける、赫々たる勝利である。これで、5選5勝となった

さて、第6ラウンドがどうなるか。DHC・吉田嘉明は、控訴審判決を不服として上訴するのだが、控訴審判決は手堅い。唐突にこれまでと違うことは言いようもなく、さりとて同じことを述べて判決を覆すことなどできようはずもない。

控訴審判決の核心部分は以下のとおりである。

前示のとおり、
 被控訴人(澤藤)の本件各(ブログでの)記述が、いずれも公正な論評として名誉毀損に該当しないことは控訴人ら(DHC・吉田嘉明)においても容易に認識可能であったと認められること、
 それにも関わらず控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が、被控訴人(澤藤)に対し前件訴訟(DHC・吉田嘉明によるスラップ訴訟)を提起し、その請求額が、当初合計2000万円、本件ブログ4(「DHCスラップ訴訟を許さない・第1弾」)掲載後は、請求額が拡張され、合計6000万円と、通常人にとっては意見の表明を萎縮させかねない高額なものであったこと、
控訴人吉田が自ら本件手記を公表したのであれば、その内容からして、本件各記述のような意見、論評、批判が多数出るであろうことは、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)としても当然予想されたと推認されるところ?なお、前件訴訟の提訴前に、控訴人らの相談に当たった弁護士(今村憲)から、本件貸付が規制緩和目的のためなのか、私利私欲のためなのか分からない人たちから批判が出ることは当然あり得るとの意見が出ていたことが認められる(証人内海〔原審〕35頁)。?、

 控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が、それに対し、言論という方法で対抗せず、直ちに訴訟による高額の損害賠償請求という’手段で臨んでいること、
ほかにも近接した時期に9件の損害賠償請求訴訟を提起し、判決に至ったものは、いずれも本件貸付に関する名誉毀損部分に関しては、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の損害賠償請求が認められずに確定していることからすれば、

……前件訴訟(DHCスラップ訴訟)の提起等は、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が自己に対する批判の言論の萎縮の効果等を意図して行ったものと推認するのが合理的であり、不法行為と捉えたとしても、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の裁判を受ける権利を不当に侵害することにはならないと解すべきである。

 したがって、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の前件訴訟の提起等は、請求が認容される見込みがないことを通常人であれば容易に知り得たといえるのに、あえて訴えを提起するなどしたものとして、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものということができ、被控訴人(澤藤)に対する違法行為と認められる。」

この判決は、以上の認定において、表現の自由保障についての貴重な一石を投ずる判決となり得ていると私は満足している。私の6年間の怒りは無駄ではなかったという充実感がある。

そのような圧倒的に優勢な状態で、第6ラウンド開始のゴングが鳴った。私は、もうしばらく余裕の怒りを持続しつつ、守勢に回らずDHC・吉田嘉明を攻撃し続けることができる。消費者問題としての観点から、あるいは忌まわしいデマとヘイト規制の観点から、また政治資金や選挙資金規正の視点から、そして何よりも表現の自由擁護の立場から、DHC問題・吉田嘉明問題を語ってゆきたい。
(2020年4月2日)

本日、「憲法日記」満7歳に。

コロナ風厳しい中での4月1日。当ブログの連載開始記念日である。「建国記念の日」命名の筆法に倣えば、「憲法日記記念の日」にほかならない。「この日記とともに憲法をしのび憲法をこよなく愛する心を養うべき日」なのだ。

「年齢計算に関する法律」を適用すれば、昨日(3月31日)の満了の時刻をもって、つまりは本日の午前0時をもって「憲法日記」は満7歳となった。2013年4月1日を連載第1回ととして今日まで、1回の欠落も一日の途切れもなく、続いてきた。

日齢では、昨日(20年3月31日)が、[365×7+2(閏年加算)]=2557となり、本日が連続2558日目の毎日更新となっている。

当ブログは、第2次アベ政権の発足に刺激されて誕生した。当初は、日民協のホームページの一隅を間借りしての発足。

2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣を組閣した。こうして、今なお続く悪夢の安倍政治が始まった。

安倍晋三こそは、歴史修正主義の権化であり、軍事大国化路線の主犯である。戦後民主主義を否定し戦前日本への復古を目指す勢力の頭目でもあり、日本国憲法の天敵である。アベが政権を去るまでは、憲法擁護のブログを書き続けようと開始したのが、2013年1月1日。その直後に窮屈な間借り生活から飛び出て、同年4月1日から今日の形での連載を始めた。以来、満7年。2558日になったのだ。

もちろん、当時安倍政権がかくも長期政権となるとは思わなかった。何しろ、第1次政権を投げ出したみっともなさが際立っていたからだ。せいぜいが、2?3年の命運と思っていたのが、当てがはずれた。そのお陰で、「憲法日記」も長期連載となった。この間、護憲勢力はアベ政権を倒せなかったが、安倍改憲も実現していない。改憲の実現も許してはいない。一進一退、一喜一憂のせめぎ合いを繰りかえしながら、勝負のつかない7年間。だから、このブログが続いているのは、目出度くもあり、忌まわしくもあるのだ。

「当たり障りのないことなら書く意味がない。当たり障りのあることだけを書く」という方針で始めたブログだから、当ブログの連載が続く中で、相当の波風が立った。幾つか生じた波のうち、大きなものが「宇都宮君立候補をおやめなさい」であり、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズである。天皇制やその支持者に対する批判も、安倍の取り巻きに対する批判にも、波風はあった。これを、私は筆禍とも書き過ぎたともまったく考えていない。当然に言うべきことを言っただけのことではないか。

それでも、言うべきことを言うだけのことに、相当の覚悟が必要だということも、知ることになった。貴重な経験をした7年間である。

3週間ほど前のこと。知らない方からの電話をいただいた。落ちついた男性の声で、フランスのパリから国際電話を掛けているのだという。まったく思いがけないことだが、こんなお話しだった。もちろん日本語でのこと。

「パリで、「憲法日記」を愛読している。マスメディアでは得られない情報や意見を貴重なものと思っている。ところが、この数週間ブロックされて読めなくなっていることをご存知か。何らかの妨害工作があるのではないか」

まさか、政権や、公安調査庁・内閣調査室・公安警察がそんな工作をするはずもない。DHCも右翼も、そこまではやるまい。…あっ、そうか、もしかしたら…。

先日、「海外からのサイバー攻撃が頻繁に見られる」というサーバーからの連絡があって、海外数カ国からのアクセスを切ったかも知れない。その中にフランスも…。この電話を受けて数日後に、元に戻してフランスともつながったはず。

ひょんなことから、フランスにも読者がいることを知った。以前、韓国と中国からの反響は経験しているが、ヨーロッパにも読者。ありがたいとだ。

ありがたいことだが、安倍政権の継続がめでたくない。改憲を断念した状態で安倍政権が失脚すれば、当ブログも目出度く終了となる。

月1日は、その日の来たらんことを祈念する日でもある。

(2020年4月1日)

卒業式は、日の丸掲揚・君が代斉唱儀式ではない。

本日(3月31日)は、「日の丸・君が代」強制に抵抗する諸運動体による、恒例の「卒業式総括集会」だった。

悪名高い「10・23通達」が発せられて以来、17度目の憂鬱な春である。本来胸おどる卒業式・入学式の希望の季節が、日の丸・君が代強制と思想弾圧の季節と化して17星霜を数える。

当初は、極右の知事石原慎太郎の特異なキャラクター故の暴走と考え、この知事さえ交替すればと思っていたのが甘かった。石原後継の知事も、保守の中では良識派と見えたその次の知事も、そして、ダイバーシティを口にする自分ファースト現知事もこの異様な事態をなんとも考えてはいないのだ。精神の自由についても、教育が権力の支配に服してはならないとする基本理念にも、なんの関心もない。歴代の凡庸なお飾り教育委員たちも同様なのだ。

そうこうしているうちに、安倍晋三が国政に君臨するようになった。こういう歴史修正主義者であり復古主義者でもあり、憲法に敵意を剥き出しにする輩を国政のトップに押し上げる勢力が幅を利かせる時代なのだ。次第に、日の丸・君が代を強制している、われわれが闘う相手の大きさが見えてきた。

日の丸・君が代強制勢力にとっは、大きな抵抗にぶつかって、思うようにはその思惑の進捗はない。しかし抵抗するわれわれも、日の丸・君が代強制を阻止し得ていない。事態が膠着した状況で17年目の春を迎えている。

本日の集会での現場からの報告によれば、今年の都立校の卒業式はコロナ対応に追われたものだったという。それでも、知事と教委は、「国歌斉唱」の実行にこだわった。

2月26日に、各校長に対して、「新型コロナウィルス感染症に関する学校における対応について(通知)」が教育長名で出された。以下のとおり、卒業式に関しては、「参列者の制限及び時間短縮」が述べられている。

1 令和元年度卒業式の実施
(1)参列者の制限及び時間短縮
 ア 参列者の制限
   附属中学校、中等教育学校及び高等学校においては、保護者及び来賓は参加せず、教職員、卒業生及び式に関係する在校生とする。
   特別支援学校においては、来賓は参加せず、教職員、卒業生及び関係する在校生並びに介助を必要とする児童生徒等の保護者とする。
 イ 時間の短
   知事メッセージと都教育委員会挨拶は校内に掲示するとともに、卒業生に配布する。なお、卒業式の挨拶業務に係る都教育委員会からの派遣は行わない。
   祝電は掲示のみとし、祝電の披露は行わない。

翌27日には、都教委から各校に卒業式の式次第からカットする項目の例示がメールで送信され、各校では都教委からの指示に基づき、式次第の手直しがされた。

更に28日、都教委は「更なる感染防止拡大」のため卒業式は「参列者の制限や時間の短縮により実施」とする「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応(第49報)」を発表するとともに、「卒業式における国旗・国歌に関する調査の実施」に関わって、同日立て続けに二つの事務連絡を各学校長宛に出した。

この経過と「二つの事務連絡」については、下記の当ブログを参照されたい。

生徒たちへのコロナ感染防御よりも、「日の丸・君が代」強行が大切なのか。
https://article9.jp/wordpress/?p=14522(2020年3月19日)

国旗を「式典会場内掲揚せず」や国歌「斉唱せずメロディも流さず」を不適切な状況として取り扱わない」とした「事務連絡?」と、「都立高校における国旗国歌の取り扱いについては『国旗掲揚の下に、体育館で実施する。』『国歌斉唱を行う。』という方針に変更ありません。」という「事務連絡?」は明らかに矛盾している。コロナ対応に追われる中で、都教委の職員の間に認識の違いや混乱があったことは間違いない。

このような都教委の指示によって、都立高校では様々な式次第で卒業式が実施された。
保護者代表謝辞、都教委挨拶、祝電披露は全ての学校でカットされた。
校歌斉唱、卒業生代表答辞、在校生代表送辞、式歌(卒業の歌)斉唱については、各学校の判断に任された。
結局、?国歌斉唱、?校長式辞、?卒業証書授与だけは、カットを許されず、この3点のみに縮小して式を実施した学校が多くあった。中には、卒業証書授与の際の呼名までカットした学校もあった。

 コロナ対策としての飛沫感染防止を目的に校歌や式歌をカットしながら、国歌だけは斉唱するという異様な式が行われた。今年の卒業式は、生徒や教職員の命や健康よりも国旗掲揚や国歌斉唱を優先する都教委の異常さを浮き彫りにした。

卒業式は、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したりするために行われるわけではない。生徒のための卒業式を取り戻すために、「10・23通達」を撤回させる取り組みを今後もあきらめず続けていかなければならない。そのような決意を新たにした集会だった。
(2020年3月31日)

「この低劣な品性に命を預けられるか」 ー 赤木俊夫さんの死に対する責任の問い方

昨日(3月29日)付毎日新聞の「声」欄に掲載された短文の投書に目を惹かれた。
「自民党支持の皆さんへ」という表題。投書者は、広島の年金生活者、75才の男性である。

 森友学園への国有地売却に関する財務省の決裁文書を巡り、改ざんを強いられて2018年3月に自殺した近畿財務局の男性職員。「僕の契約相手は国民」が口癖だったというこの人の「遺書」を読み、キャリア官僚の傍若無人さに怒りを覚え、筆を執りました。

 この投稿者の文体は常連のものではない。自殺した近畿財務局の男性職員の手記に心を打たれ、この人を死に追いやった者の傍若無人さに怒りを抑えきれずに、投書したのだ。

 改ざんの詳しい経緯をつづった男性職員の手記が公表されても、安倍晋三首相と麻生太郎財務相は「再調査は必要なし」との姿勢です。自民党の国会議員と自民党を支持する皆さんにうかがいます。これでよいと思っていますか。

 投書者の怒りは、男性職員を死に追いやった最高責任者に向けられている。この期に及んで、「再調査は必要なし」というその姿勢のこの二人が元兇、この二人こそ糾弾すべき真の対象である。しかし、投書の呼びかけは、この元兇の二人ではなく、この二人を政治的に支えている「自民党の国会議員と自民党を支持する皆さん」に向けてなされている。

 男性職員の奥さんがコメントした通り、2人は「調査される側」であり、再調査は不要と発言する立場にはありません。また、改ざん問題で処分を受けた当時の財務省幹部はそれぞれ駐英公使や横浜税関長などになったとのこと。国民をばかにしていると思いませんか。今の不条理な政治を変えられるのは自民党支持者しかいないと思います。議員の方は正義感を発揮してください。

 投書者は、安倍・麻生への怒りを抑えて、静かに自民党支持者に問いかける。決して、その責任を追及する口調ではない。飽くまでも、問いかけである。良識や理性をもつ人間にとって否定しようのない問をもっての訴えである。

この投書者は、心の底から、「今の不条理な政治を変えられるのは自民党支持者しかいない」と思っているのだ。それは、裏返せば、「今の不条理な政治をもたらした責任は、安倍や麻生を支持したあなた方にある」ともなるが、直截にそうは言わない。

問題点を的確に指摘して、穏やかに語りかけること。実は、このような姿勢が、人を説得し、政治を転換するために最も有効なのかもしない。この投書者の、冷静さ、穏やかさ、礼儀正しさを学びたい。

同日の「松尾貴史のちょっと違和感」が同じ問題をテーマに取りあげている。こちらは、直截で歯切れがよい。タイトルが「職員自死の質疑中ニヤニヤ私語 この品性に命預けられるか」というもの。松尾貴史も、安倍・麻生に心底憤っている。以下は、その抜粋である。

 自身の発した「私や私の妻が関わっていたのであれば総理大臣も国会議員も辞める」という言葉が引き金になって、改ざんや隠蔽を強いられた近畿財務局職員の赤木俊夫さんが自死を選ばざるを得ないと思ってしまったことに、ひとかけらの罪の意識も感じない安倍晋三総理大臣や、組織のトップである麻生太郎財務大臣の、あれこれ言い訳を作って面会や墓参から逃げる様を見て、「こんなひきょう者たちに生命と生活を預けなければならない」という憤りは、日に日に高まり募る一方だ。

 赤木さんの死に関する質問をされているときに、当の安倍氏はニヤニヤ笑いながら麻生氏と私語を交わしていたのが、彼の人柄、品性を象徴的に表している。

 世界の危機が訪れている今、国民の命を守らなければならない立場に、こんな不誠実な人物を据えていていいはずがない。国民には休校や卒業式の中止をさせている中、自分は自民党総裁としてではなく、内閣総理大臣として防衛大学校の卒業式に出席し、祝辞に憲法改定の意欲を盛り込むという憲法99条違反の越権行為をする。もういいかげんに彼を辞めさせなければならない。

 まったく同感であって、付言することもない。真っ当な政治の要諦は、国民からの信頼にこそある。自分に深く関わるこの件で、一人の官僚が自ら死を遂げたのだ。その死に関わる質問の場で、「ニヤニヤ笑いながら麻生氏と私語を交わし」ていたという。こういう政治指導者の品性の低劣は許しておけない。もういいかげんに彼を辞めさせなければならない。もちろん、その通りなのだ。

先に引用した投書子のように、穏やかに自民党支持者に問いかける姿勢も学びたいし、松尾貴史のように、安倍・麻生本人にストレートな手痛い批判をする、その切れ味も学びたい。心して、二兎を追うこととしよう。
(2020年3月30日)

桜の受難、安倍と小池とコロナと雪と。

驚いた。花の盛りを過ぎて、東京に雪である。ソメイヨシノは散り始めてはいるが、まだ見頃といってよい。その花に、ぼた雪である。花のついたままの枝折れもあったろう。今年の桜は御難だ。

月に叢雲、花に風。のどかなはずの春にコロナの災厄。これに、時ならぬ雪までが桜をいじめた。新宿御苑の桜にも、上野の桜にも罪はない。罪はもっぱら、安倍晋三と小池百合子にある。責められる桜が哀れではないか。

東京でのコロナ蔓延急浮上の原因の一つに、先週彼岸の連休での人出が数えられている。とりわけ、上野の花見が目の仇だ。こうなると、桜の味方をしたくなる。花見は屋外でのものだ。密閉された空間ではない。今年の上野では、しゃべったり歌ったりもない。酒宴もなく、ごった返すほどの人混みもない。そんなささやかな花見の楽しみ、なんぞ非難さるべきや。

ところが、目立ちたがり屋の無風流都知事は、自分の力を誇示したい。上野公園の桜通りを封鎖するという。えっ? ほぼ毎日散歩している私に相談もなく? いったい何故、小池百合子が上野の桜を封鎖するなんてことができるのか私には理解し難いが、こちらの力は足りない。争う手段もなさそうだ。せめて、その封鎖の場面を見届けようと散歩がてら現場に赴いた。

一昨日(3月27日)、午後3時。ロープがめぐらされ、立ち入り禁止の札が貼られた。30分近くかかって、桜通りから人影が消えた。そうして、なんとも景色がすっかり変わった。花だけではない、人がいてこその上野の春の景色なのだ。通行人がいない見頃の桜だけの景色は不気味以外のなにものでもない。

上野東照宮のヤマザクラや、輪王寺の名物・御車返しの見事な満開の様を堪能して元に戻ると、テレビのレポーターが、封鎖の場所で何やらしゃべっていた。そして、「この封鎖をどう思いますか」と聞いてきた。

 「行政が何をするにも、権力をふりかざしてうまく行くはずはない。市民の納得を得る工夫と努力が必要だ。この封鎖が必要な根拠と理由を丁寧に説明しなければならないのに、そんなことにはお構いなし。こういう、小池百合子のやり方は都民の一人として不愉快だ」。妻が、少しマイルドに付け加えた。「私たち近所ですから、ほぼ毎日散歩しているんです。楽しみにしてきた桜の開花時期はとても短いので、この封鎖はとても残念です。せっかく咲いた桜も見てもらえなくて、とてもかわいそう」

レポーターは、「それをカメラの前でしゃべってくれませんか。『せっかく咲いた桜がかわいそう』というのが胸に刺さります」。桜と封鎖された無人の通りを背景に妻がしゃべった。「去年は、新宿御苑の桜。今年は、上野の桜。罪のない桜が、安倍や小池に罪を着せられてかわいそう」というトーンでのコメント。さて、放送になったかどうか、うちにはテレビがないから分からない。

  憂かりける人を みやこのコロナ風
       はげしかれとは いのらぬものを

(2020年3月29日)

当世恐ろしきもの ー 地震・原発・アベ・コロナ

今も昔も、恐いものの筆頭は地震である。動かぬはずの大地の揺らぎほど恐ろしいものはない。3・11のあの衝撃と傷痕が癒えない今、必ず起こるという次の大地震はひたすらに恐い。

次が原発である。安全神話が脆くも崩壊して以来、観念的な原発事故の脅威とそれに伴う放射線被害の恐怖は、リアルな肌感覚に染みこんでいる。戦後保守政権は放射性廃棄物処理方法を確立しないままに原発稼働を開始し、いまだに状況変わらぬままに再稼働だという。地震は天災であるが、原発は明らかに人災。恐いだけでなく、腹だたしい。

さらに恐るべきは、アベ政治である。苛政は虎よりも猛しという。アベ政権の国政私物化と、嘘とごまかしの政治手法はことさらに恐い。真の恐怖は、こんな政権を支持する勢力が幅を利かせ、こんな政治手法に国民が甘んじていることにある。日本の民主主義は、いったいどこに行ったのだ。

そこにコロナ禍の登場である。誰も免疫をもっていない感染症なのだから当然に恐い。しかし、コロナの真の恐さは、アベ政治によって増幅されているところにある。本来国家的難局に対処するときには、リーダーの誠実さや正直さが鍵となる。アベ政権にはその点が決定的に欠けている。しかも、あわよくば、この難局を改憲に利用しようという思惑が見え透いているだけに、いっそう恐いのだ。

安倍晋三にしても、自分ファーストで目立ちたがり屋の小池百合子にしても、到底信頼できる人物ではない。知事は大仰に、東京は「感染爆発の重大局面」にあると言った。欧米の事態を見れば、そうなのかも知れない。しかし、為政者たちは何かを隠しているのだろうか。東京の感染者数の急増が、都民の行動の自粛を求める根拠だと言われても、材料が不足だ。得心できようはずはない。

根拠となる具体的な数値は以下のとおりである。
(東京都のホームページ https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/ 掲載データから)

これによると、最近の都内での陽性患者確認人数とPCR検査の実施件数の各推移は以下のとおりである。(なお、「医療機関が保険適用で行った検査は含まれていない 」と(注)がある。どうしてそれくらいの集計をしないのか、もどかしい)

17日  12   84
18日   9  112
19日   7   50
20日  11   16
21日   7   55
22日   2
23日  16   77
24日  17   86
25日  41  105
26日  47  100
27日  40(うち15人が永寿総合病院関係者)
28日  63(うち29人が永寿総合病院関係者)

このデータの的確な読み方の説明はない。このデータを根拠として将来をどう予測し、今を「感染爆発の重大局面」であるとの評価する理由の説明が放棄されているのだ。

このデータを見て誰しもが持つ疑問は、検査実施件数の極端な少なさである。

検査に到達する患者は厳重なスクリーニングを経なければならない。掛かり付け医の判断で検査を受けられるわけではない。「新型コロナ外来(帰国者・接触者外来)」なる機関で受診し、医師が検査の必要ありと判断した場合にのみ、(東京都健康安全研究センター等)でPCR検査実施となる。掛かり付け医のない場合は、発熱4日(リスク患者は2日)で、保健所に電話し問診を受けた上、スクリーニングされて、「新型コロナ外来(帰国者・接触者外来)」にまわされることになる。つまり、感染者のうち、重症者だけを把握しようというコンセプトなのだ。感染はしているが、無症状の者あるいは軽症者の把握は意図されていない。

おそらくは、日本の医療体制の脆弱さから余儀なくされている事態なのだろうが、そのことは率直に語られていない。東京都は、この期に及んでもなお、都立病院の独立法人化の方針を変えず、世論に逆らって強行しようとしているのだ。

対照的な戦略を採っているのが、韓国である。
「世界で賞賛される『韓国』コロナ対策の凄み―行動制限を課すことなく増加曲線を抑制」という下記のネット記事が興味深い。「東洋経済オンライン」翻訳して紹介する The New York Timesの記事である。
https://toyokeizai.net/articles/-/340150

韓国は大規模なアウトブレイクが発生しながら、新規感染者数の増加曲線を抑えることに成功した。しかも、中国のように言論や行動に厳しい制限を課すことなく、またヨーロッパやアメリカのように経済に打撃を与える封鎖政策を行わずにである。無症状の人を含む最大限の検査態勢を整え治療を保証しているという。

世界保健機関の事務局長テドロス・アダノム・ゲブレイェソスは、ウイルスの封じ込めは難しいものの「可能である」ことを示したとして、韓国を称賛した。テドロス氏は各国に「韓国その他で得られた教訓を応用する」よう促した。

韓国はほかのどの国よりもはるかに多くの人を検査してきた。そのため、多くの人を感染後すぐに隔離・治療することが可能となった。 同国では30万回以上の検査を実施し、1人当たりの検査率はアメリカの40倍となっている。

首脳陣の結論は、「アウトブレイクの制圧には国民に対し完全な情報共有を続けること」、そして「国民の協力をお願いすることが必要」ということだった。世論調査では大多数が政府の取り組みに賛同を示しており、パニックは少なく、買いだめもほとんど起こっていない。

韓国のすべてが理想的とは言わないが、見習うべき点が多々あるのではないか。徹底した情報公開と、受診・治療体制。その前提となる検査キットの開発や普及のスピードなど。

そして、学ぶべきは何よりも「コロナ禍の制圧には国民に対し完全な情報共有を続けること」という政権の基本姿勢である。アベ政権には望むべくもないが。
(2020年3月28日)

東京高裁「君が代不起立」処分取り消しの逆転判決

一昨日(3月25日)、東京高裁(第9民事部・小川秀樹裁判長)で「河原井・根津09年停職事件」の控訴審判決言い渡しがあった。同判決は、東京地裁判決を主要な部分で変更し、根津公子さんに対する停職6月の懲戒処分を取り消す旨の「逆転勝訴」となった。

2009年3月、都立学校の教員だった河原井さん・根津さんは、ともに卒業式での「君が代・不起立」を理由に、東京都教育委員会から停職6月の懲戒処分を受け、その処分取り消しを求めて人事委員会審査を経て、提訴していた。原審東京地裁判決は河原井さんの処分を取り消したが、根津さんの処分取消請求を棄却した。これを不服とした根津さんの控訴審で、小川秀樹判決は処分を取り消したもの。河原井純子さんの一審判決勝訴の部分は既に確定済みで、河原井さん・根津さん揃っての勝訴がほぼ確実となった。もっとも、まだ都教委側の上告受理申立はあり得ないではない。

なんとなく、安倍政権の天が下どこもかしこも忖度だらけとの印象が強いが、まだマシな裁判官も健在なのだ。まずは、めでたい。
とは言え、小川秀樹裁判長がリベラルで憲法の理念に親和的な立派な裁判官かと言えば、そうとも言いがたい。ちょうど1か月前の2月26日、夫婦同姓の強制は違憲との主張を斥けて、現行制度を合憲とした判決を言い渡したのが、同じ小川秀樹コートなのだ。

この根津さんの事件は、東京「君が代」弁護団の受任事件ではなく、私は関与していない。河原井さん・根津さんは、信頼する弁護士・弁護団を選んで、訴訟を追行し成果を上げた。根津さんを支える運動体によれば、根津さんの最近の「君が代」不起立に対する処分と判決は以下のとおりだという。
・2006年3月卒業式の不起立に、3か月の停職処分
   ?処分取消請求棄却の敗訴
・2007年3月卒業式の不起立に、6か月の停職処分
   ?処分取消請求に一審は棄却、東京高裁で逆転勝訴(須藤判決)
   ?最高裁で確定
・2008年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分
   ?ゼッケン着用などを理由に取り消されず
・2009年3月の卒業式不起立に、6か月の停職処分(本件処分)
   ?地裁は、処分取消請求を棄却(敗訴)

同判決主文の主要部分は、以下のとおりである。

1 原判決主文第2項のうち,控訴人根津の請求に係る部分を次のとおり変更する。
(1) 東京都教育委員会が平成21年3月31日付けで控訴人根津に対してした懲戒処分を取り消す。
(2) 控訴人根津のその余の請求を棄却する。

 根津さんが求めたのは、停職6か月の懲戒処分の取消しと、慰謝料の支払いとである。慰謝料の支払いは棄却されたが、この判決で懲戒処分の取消支払い認められた。最高裁が、これを覆すことは考え難い。

同判決理由の主要部分は、以下のとおり。

 原審(東京地裁判決)は,控訴人ら(河原井・根津)の憲法及び教育基本法違反の主張を排斥する一方で,本件河原井懲戒処分については,懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱してされた違法なものであるとして,同処分を取り消し,本件根津懲戒処分については,社会観念上著しく妥当を欠くものとはいえず,停職期間も裁量権の範囲内ということができ,適法であるとして,同処分の取消しの請求を棄却し,損害賠償請求については,本件根津懲戒処分は違法とはいえず,本件河原井懲戒処分については国賠法上の過失は認められないなどとして,控訴人らの請求をいずれも棄却する旨の判決をした。

しかし、「本件根津懲戒処分」については控訴審判決の判断は地裁判決とは違った。

…停職期間を6月とする停職処分を科すことは十分な根拠をもって慎重に行わなければならないものというべきであるところ,控訴人根津の過去の懲戒処分等の対象となったいくつかの行為は平成18年(06年)の懲戒処分において考慮され,その後同種の非違行為が繰り返されて懲戒処分を受けてはいないこと,本件根津不起立は,それ以前のような積極的な式典の妨害行為ではなく,控訴人河原井と同様の国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為であること,平成20年の停職6月の懲戒処分がされた後は,本件トレーナー着用行為のような行為はしていないこと等によれば,都教委の判断は,具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等に鑑み,社会通念上,行為と処分との均衡を著しく失していて妥当性を欠き,裁量権の、合理的範囲を逸脱してされたものといわざるを得ず,違法なものというべきである。したがって,控訴人根津の本件根津懲戒処分の取消請求は理由がある。

問題は、「積極的な式典の妨害行為」か、「国歌斉唱時に起立しなかったという消極的行為」かの分類にある。判決の認定するところでは、「平成17年5月の懲戒処分の後に実施された再発防止研修において,日の丸,君が代強制反対と書かれたゼッケンの着用を巡る抗議等を行ったこと」「平成19年3月の停職6月の懲戒処分を受けた後には、勤務時間中に『強制反対日の丸君が代』等と印刷されたトレーナー着用」などが「積極的な式典の妨害行為」にあたる。

一審は、この過去の「積極的式典妨害行為」を今につながる重大事と見たが、控訴審は「本件は、単に起立しなかったという消極的行為。過去の行為は既に相当な処分を受けており、本件で斟酌すべきではない」と判断した。これだけの判断を獲得するために、多大な努力が必要だったのだ。

なお、君が代不起立は、基本権としての思想・良心・信仰を防衛するためには最低限必要不可欠な受動的行為である。「式典を妨害しない単なる不起立という消極的行為」であれば、何度繰り返しても戒告どまりで、減給以上の懲戒処分とはならない。これが、強権的な都教委と、思想・良心を擁護しようという教員集団とのせめぎ合いの膠着線。

都教委は、累積加重の懲戒処分を重ねることによって教員の転向をたくらみ、非転向の教員を追い払おうとしたが、失敗した。徒然に現状に不服である。教員の側は、戒告とは言え懲戒処分を容認しえない。本来、戒告処分も違憲違法のはずと不満を募らせての、膠着状態である。

この判決が現状の打開をもたらすものとは考えにくいが、闘いを継続する姿勢を学びたいと思う。
(2020年3月27日)

コロナ感染の危機を、民主主義の危機にしてはならない。

新型コロナウイルス感染をめぐる世の雰囲気が、尋常でない。昨夜(3月25日)、小池都知事が緊急の記者会見を開き、現状を「感染爆発の重大局面」と表現した。「このままの推移が続けば、ロックダウン(都市の封鎖)を招いてしまう」とも言った。唐突な説明に、違和感を禁じえない。

私は、安倍も小池もまったく信用していない。安倍や小池が何かを言えば、まずはウソだろうと否定する。ウソとまでは思わぬ場合にも、裏があるだろう、どんな思惑でしゃべっているのだろう、引用のデータはおかしい、と身構える。眉に唾して聞かなければならないという、その姿勢が間違っていたことはなく、確信に揺るぎはない。

このような時期に、このような政治家しか持ち合わせのない日本の民主主義を心底情けないと思う。コロナ感染が本当に危険なら、何を今さら、オーバーシュートだのロックダウンなどと言い出したのか。オリンピック開催の強行に差し障りがあるからとしてこれまでは感染の危険性を過小に発表して騒がないようにし、オリンピック延期やむなしとなったとたんに権力を振り回す。安倍も小池も、国民からそう見られることを、不徳の至りとして甘受しなければならない。

こんなときにこそ、あらためて肝に銘じておきたい。人権や民主主義の危機は、常にもっともらしい理由を伴って登場する。ブレない醒めた理性が必要なのだ。「非常事態」を口実とした立法権の行政への白紙委任を警戒しなければならない。

ウィルス感染蔓延の防止という、容易には反対しがたい名目での権力の万能化が企図されている。軽々にこれを許容してはならない。「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点をこういうときにこそ、思い出さなければならない。

議論の出発点となつているデータが信用しがたい。毎日、いったい何人の検査を行ったのか。そのサンプルはどうして選定したのか。感染死者数は、どうして確定しているのか。肺炎死者やインフルエンザ死者の中に、コロナ感染死がないことは確認できているのか。結局は、PCR検査の受診者をどう選定するか次第で、感染者数も、重症者数もコントロールされているのではないか。蔓延している疑問に誠実に答える姿勢に欠けているのではないか。

さらに、述べておきたい。いかなる場合にも、議会を無視した行政府の専横を許してはならない。行政が非常の事態だからとして人権を制約しようとするときには、納得できる根拠を国民に示してその同意を得る努力をしなければならない。コロナ感染症についての疫学的基礎データの徹底した情報公開と国民への説明によって、採ろうとする方策への積極的同意を獲得しなければならない。それなくして、感染症蔓延防止に成功することはあり得ない。

哀しいかな、嘘とごまかしにまみれ、国民からの信を失った安倍晋三政権である。自分ファーストに徹して都民の支持を失った小池都政のやることである。国民・都民の積極的同意を得ることは、たいへんに困難であることを肝に銘じて、これまでとは違った真摯な姿勢でことに臨んでいただきたい。
(2020年3月26日)

「こんな日本に誰がした」 ー いま、切実に問わなければならない。

本日(3月25日)の毎日新聞第8面「みんなの広場」欄に、市民感情を代表する投書が掲載されている。タイトルが、「こんな日本に誰がした」というもの。大阪の主婦・岡田マチ子さんの叫ぶがごとき文章である。

このタイトルだけでおよその見当がつく。「こんな日本」とは、「ウソとゴマカシが横溢し、正直者が苦しむ日本」である。「誰がした」か? 今さらいうまでもなく、「ウソとゴマカシが横溢した、こんな日本のトップ」である。もっとも、この『誰』は、一人とは限らない。投書は2人の名を挙げている。佐川宣寿と安倍晋三である。

 もう我慢できない。平気でうそをつき、権力者の顔色をうかがい、国税庁長官に上り詰めたその人物に。

 まったく同感だ。私も我慢ができない。「平気なうそ」にも、「権力者の顔色をうかがう」その卑屈な姿勢にも。そして、そのような人物の一群が、この国の権力者を支えていることにも。

 森友学園への国有地売却を巡る財務省の決裁文書改ざん問題で2018年3月に自殺した近畿財務局の男性職員の奥さまが、真実を求めて国と元国税庁長官の佐川宣寿氏を相手取り訴訟を起こした。

 権力を持つ者に不都合な真実は常に隠されている。厚いベールに覆われて、容易に真実に近づくことができないのだ。そのベールを剥ぎ取って、権力を持つ者に不都合な真実を明るみに曝け出すことが提訴の狙いである。そうしてこそ、亡くなった人の無念を晴らすことができようというもの。

 17年2月17日、国会中継を見ていた。森友疑惑に関して安倍晋三首相は「私や妻が関係していたら首相も国会議員もやめる」と語気を荒らげた。首相の奥さまが学園の予定する小学校の名誉校長に就任していたというのに。

 佐川宣寿の背後に安倍晋三がいる。安倍が佐川に不都合な文書の改竄を指示したのか、あるいは佐川が安倍の意向を勝手に忖度したに過ぎないのか。いずれにせよ、安倍の私益を擁護するために、佐川が文書改竄を指示し末端職員が違法行為の実行を余儀なくされたのだ。

 男性職員の手記によるとその9日後、上司から改ざんを指示される。指示の大本は当時、財務省理財局長だった佐川氏だという。新聞記事にある「『僕の契約相手は国民』が口癖だった」のくだりで活字がにじむ。

 この手記は涙なくしては読めない、というのが真っ当な市民感情。安倍や麻生には、血も涙もない。手記で名前を上げられた佐川も、中村も、田村も、杉田も、そして美並も池田も、その後はみんな見事に出世している。公文書改竄で自ら命を断った者と、悪事をともにして出世した人びととのなんたるコントラスト。

 森友問題、加計問題、桜問題、東京高検検事長定年延長問題……。こんな日本に誰がした。安倍氏をおいて他にない。

 安倍晋三の罪は重い。国政を私物化し、国政をウソとゴマカシで固めたのだ。「こんな日本」「こんな総理」に、国民の支持がいまだに4割を超える。その国民の責任も大きい。森友、加計、桜、検事長定年延長…、これだけあって何ゆえ「こんな総理」が生き延びているのだ。「こんな日本に誰がした」は、今切実な発問である。
(2020年3月25日)

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