澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

教員が生徒の前で堂々と自己の信念を貫くことこそが教育ではないか。

千代田区の私立正則学園高校の教員約20人が1月8日朝ストライキを実施したことが大きな話題となっている。今の時代、ストライキが珍しい。教員のストライキは、なおさら珍しい。報道が大きい。インパクトが大きいのだ。

本来、ストライキとは組合側の要求獲得の手段として、企業の生産に支障をきたすことを目的とする。当然のことながら、組合員も賃金カットを覚悟せざるを得ないが、肉を切らせて骨を断たねばならない。もっとも、現実には「骨を断つ」まで行く例は稀であるが、ストライキが企業活動に支障を及ぼすものでなくては、企業側からの譲歩を引き出す手段としての有効性がないことになる。

正則学園高校の教員ストは、みごとなものだと思う。これだけメディアの耳目を集めただけで成功している。おそらくは事前の通知が徹底していたのだろう。寒さの中のストは絵にもなり、学園側に打撃は大きかったと推察される。報道によれば、「ストライキは早朝のみで授業への影響はなかった」というのだから、賃金カットは最小で、最大効果を上げ得たのではないだろうか。何しろ、教員に対する待遇の酷さのアピールには大成功だったのだから。理事長の悪役イメージも定着した。

教員の要求は、「長時間労働の是正」がメインだったようだが、世論にアピールしたのは、「始業前にほぼ毎日行われている午前7時前の理事長へのあいさつの廃止」そのため、この学校の教員は早朝6時半の出勤となるという。この理事長への挨拶をして退室する際には、神棚に向かって「二礼 二拍手 一礼」をするというアナクロぶり。

組合からの下記ツイッターを見ることができる。

 本日、私学教員ユニオン(総合サポートユニオン私学教員支部)は、正則学園高校に団体交渉を申し入れました。月に100時間を超える長時間労働で多くの教員が体調を崩しています。その一因が早朝六時半?始まる理事長への挨拶儀式です。そこで、私たちは理事長への挨拶儀式のストライキを通告しました。

なるほど、これが今どきのストライキのスタイルなのだ。
「私学教員ユニオン」の下記ホームページが参考になる。
http://shigaku-u.jp/

団体交渉と争議の結果を続いて発信してもらいたいと思う。そして、多くの労働組合に、争議の権利あることを思い起こしていただくよう期待したい。

なお、このストが、教員によって、学校で学生に見える形で行われたことに触れておきたい。私は、このストライキそのものが、生きた立派な教育だと思う。
「教育とは、教師と生徒との全人格的接触による営為である」とはよく言われる。学校現場における争議の実行は、まさしく教師がその全人格的生き方を生徒にさらけ出していることだ。生徒は、争議の背景、事前の交渉や準備、ストライキの態様や、それに対する学園側の対応、父母や社会の反応を心に刻みつけるだろう。

生徒は、「権利の擁護のためにはストライキもできるのだ」「堂々とストライキをして恥じるところはないのだ」と学ぶだろう。それだけでなく、ストライキに参加する教員としない教員とを見比べることにもなる。自分はどうすべきか、考えざるをえない。

精神科医の野田正彰さんの著書に、子どもが見ている背中―良心と抵抗の教育」がある。教師の背中は、つねに子どもに見られている。その生き方に疚しいとこはないか、言行が一貫しているかどうか、常に子どもの目が問うている。日の丸・君が代に対する起立斉唱や、「君が代」伴奏を強制された教師がどういう態度をとるか、教師の背中が子どもから見られているという表題なのだ。

また、東京「君が代」裁判・第4次訴訟で、減給処分取消を求めている現職教員は法廷でこう語っている。

?「東京都教育委員会は『教師が生徒に対して起立斉唱する姿を見せること、範を示すことが大切である。』と言います。しかし、侵略戦争や植民地支配の歴史を背負った『日の丸』や『君が代』に対して、私が起立斉唱することで敬意を表す姿を生徒に見せることは、私自身の教員としての良心が許さないのです。」

 「私が起立斉唱すれば、生徒に対しての『日の丸』や『君が代』強制に、私自身も加担することになってしまいます。そのことは、私にとっては、自分自身の教育の理念に反する、大変に辛いことなのです。どうしても命令には従うことができないのです。」

 「私の教員としての良心は、児童生徒に一方的な価値観をすり込んではならない。そして児童生徒の前で教員が恥じるような行為を行ってはならないというふうに考えています。日の丸や君が代に対して、生徒の前で私が敬意を表することによって児童生徒はそれらに敬意を表明することが絶対的に正しいものだというふうに理解します。そのことは一方的な価値観をすり込むことであって、私の教員としての良心がゆるしません。」

真面目な教師こそ、悩みに悩んだ末に、辛くても苦しくても、自分の信念を貫くことになる。ストライキを貫徹した教員も「君が代」不起立の教員も、立派な教育者だ。
(2019年1月16日)

櫻井よしこの護憲派へのエールに応えよう。

首相でありながら改憲の旗を振る安倍晋三。その取り巻きの一人に、櫻井よしこという右翼活動家がいる。この人が、「NEWS ポストセブン」という小学館運営のホームページに寄稿している。一昨日(1月13日)のことだ。表題が興味深い。「世界で一つの変な憲法の改正は今が最後の好機」というのだ。ちょっと変な日本語感覚だが、まさか編集者側が勝手に付けたタイトルではあるまい。

「世界で一つの変な憲法」とは、「世界で一番変な憲法」あるいは「世界でたった一つの変な憲法」ということなのだろう。要するに、「変な」と言いたいのだ。右翼に、立派な憲法と言われては、日本国憲法も形無しだ。櫻井よしこから、「変な」と言われたのだから、日本国憲法はさぞかし本望だろう。

注目すべきは、憲法の改正は今が最後の好機」という表現である。おそらくは、デマでもフェイクでもない。櫻井よしこの心情を吐露した本音なのであろう。そしておそらくは、安倍晋三も同じように考えているに違いない。「今がラストチャンスだ」「今、せっかくのこのチャンスを逃すと、もう改憲はできない」。これが改憲勢力の本音なのだから、護憲派は「さあ、改憲のラストチャンスをつぶそう」「もう少しの努力で、改憲を阻止し得る」と展望を語ることができる。

以下は、櫻井の言の要約である。

? 「日本国憲法は、国の交戦権さえ認めない恐らく世界でたったひとつの変な憲法です。日本が国民、国家、国土を自分の力で守る力を持つ『自立』した国になるために、一刻も早く憲法を改正する必要があります。しかし、安倍政権下で期待された憲法改正の発議は、今に至ってもなお実現していません。」
?
? 「その最大の理由は、政党および国会議員のあまりの無責任さにあります。とりわけ公明党は与党でありながら、『議論が熟していない』と憲法改正に背を向けています。」
?
?? 「『モリ・カケ問題』や『外国人人材法案』をタテに、衆参両院の憲法審査会に応じてこなかった立憲民主党や国民民主党など、野党の無責任さは言わずもがなです。」
?
? 「国会議員のなかで本気なのは安倍首相を筆頭に少数の議員に限られるのではないか。肝心の自民党さえも、党全体の状況を見ると、その動きは消極的に見えます。」
?
? 「憲法改正には衆参両院で3分の2以上、さらに国民投票で過半数の賛成を得る必要があります。与党が3分の2を大幅に上回っている衆議院はともかくとして、参議院では自民党が126、公明党が25、日本維新の会が11議席で合計しても162。ぎりぎり3分の2に達するという薄氷を踏むような状況です。」
?
? 「今年7月には参議院選挙があり、改正に賛成する議員で3分の2を確保できる保証はありません。現実的に考えれば、今が憲法改正の最後のチャンスなのです。」

櫻井は、何のために、こんな寄稿をしたのだろうか。私には、護憲派へのエールに聞こえる。千載一遇の改憲のチャンスが、みすみす失われつつあるという。この情勢認識は、改憲陣営への愚痴であり護憲派への励ましにほかならない。

私も、櫻井の情勢分析に同意する。要するに、今や「カイケン、カイケン」と空元気を振りまいているのは、安倍とその取り巻きだけなのだ。「国会議員のなかで本気なのは安倍首相を筆頭に少数の議員に限られる」のである。実は、改憲推進派は、孤立したさびしい少数派に過ぎない。

連立与党の公明党は、風を読むことに長けている。いま、安倍と改憲の策動をともにすれば、党勢を決定的に殺ぐことになる。「平和の党」「福祉の党」の看板を外して選挙はできない。うかうかと、安倍に乗せられてはならない。そのように風を読んでいる。

さらに、「肝心の自民党さえも、党全体の状況を見ると、その動きは消極的に見えます。」は当たり前。安倍との軋轢は避けたいが、安倍改憲に肩入れして安倍との心中なんぞ御免こうむる。皆がそう思っているに決まっている。

そして野党だ。櫻井が愚痴をこぼさざるを得ないほどの立派な姿勢なのだ。これを支えているのは、世論である。安倍というこの危なっかしい人物に、憲法をいじらせてはならないと、多くの人が考えている。

さて、7月の参院選が天王山だ。現在が、「ぎりぎり3分の2に達するという薄氷を踏むような状況」なのだ。改憲阻止派が、この3分の2を突き崩すためには、護憲野党の共闘が必要である。これさえできれば、「改憲のラストチャンス」をつぶすことができるのだ。

櫻井よしこは、正直にこう言っている。「憲法改正は、薄氷を踏むような状況です」。そのとおりだ。我々は、せっかくのこの櫻井のエールに応えねばならない。改憲派が戦々恐々として踏んでいる薄氷を、もっもっと薄くする努力をしよう。さすれば、氷は割れる。水に落ちた安倍改憲策動が再び浮上することはないだろう。
(2019年1月15日)

徴兵検査のない成人を迎えた若者に訴える。ぜひ主権者として、平和憲法擁護の自覚を。

本日(1月14日)は「成人の日」。数少ない、天皇制とは無縁の、戦後に生まれた祝日。「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日(祝日法)とされている。関東は天気も晴朗。「みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」にふさわしい日となった。私も、この日に、若者諸君に祝意と励ましの言葉を贈りたい。

何をもって「成人」であることを自覚するかは、社会によって時代によって異なる。かつての日本では徴兵検査だった。その時代、すべての成人男子には否応なく兵役の義務が課せられた。男子にとって大人になるとは、天皇の赤子として、天皇の軍隊の兵士になる義務を負うことだった。軍人勅諭を暗唱し、行軍と殺人の訓練を受けた。戦地に送られ、命じられるままの殺戮を余儀なくもされた。

その時代、主権は天皇にあって国民にはなかった。立法権も天皇に属し、帝国議会は立法の協賛機関に過ぎなかった。女子には、その選挙権も被選挙権もなかった。その時代、天皇制を支えた家制度において女性は徹底的に差別され、民事的に「妻は無能力者」とされていた。

あり得ないことに、天皇は神を自称していた。もちろん、神なる天皇は操り人形に過ぎなかった。この天皇を操って権力や富をほしいままにした連中があって、その末裔が今の日本の保守政治の主流となっている。

天皇、戦争、女性差別は一体のものだった。そのような非合理な国は亡ぶべくして亡びた。国の再生の原理は、新しい憲法に確固として記載された。国民主権、平和、そして自由と平等である。徴兵制はなくなった。天皇に対する批判の言論も自由である。女性差別もなくなった…はずである。その憲法の「改正」をめぐって、いませめぎ合いが続いている。

平和も、国民主権も、性差のない平等も、言論の自由も、昔からあったものではない。これからずっと続く保障もない。現実に、憲法は一貫して「改悪」の攻撃に曝されている。徴兵検査のない成人式も、主権者の意識的な努力なければ、今後どうなるか定かではない。

私たち戦後間もなくの時代に育った世代は、日本国憲法の理念を積極的に受容して、今日までこの憲法を守り抜いてきた。しかし、この憲法をよりよい方向に進歩させることは今日までできていない。いま、せめぎ合っているのは、憲法を進歩させようという改正問題についてのことではない。大日本帝国憲法時代の「富国強兵」の理念を復活させようという勢力が力を盛り返そうとしているのだ。言わば、「成人男子には徴兵検査を」という時代への方向性をもった「憲法改悪」なのである。

今の若者は保守化していると言う言葉をよく聞く。しかし、今のままでよいじゃないかというほどの社会はできていない。今のままでは将来が不安だと若者たちも気付いているはずだ。

この世の不正義、この世の不平等、権力や資本の横暴、人権の侵害、平和の蹂躙、核の恐怖、原発再稼働の理不尽、沖縄への圧迫。格差貧困の拡大、過労死、パワハラ、セクハラ…。この世の現実は理想にほど遠い。若さとは、この現実を変えて理想に近づけようという変革の意志のことではないか。

若さとは将来という意味でもある。社会がよりよくなればその利益は君たちが享受することになる。反対に社会が今より悪くなればその不利益は君たちが甘受しなければならない。

君たちには多様な可能性が開けている。未来は、君たちのものだ。君たち自身の力で、未来を変えることができる。これから長く君たちが生きていくことになるこの社会をよりよく変えていくのは君たちだ。

さて、今年は、選挙の年だ。君たちの一票が、この国の命運を決める。とりわけ7月に予定の参院選。いまは、自・公・維・希の改憲勢力が、かろうじて議席の3分の2を占めている。この3分の2の砦を突き崩せば、安倍改憲の策動は阻止することができる。君たちの肩に、主権者としての責任が重くのしかかっている。

投票日だけの主権者であってはならない。常に、主権者としての自覚をもって、民主主義や人権・平和のために何ができるかを考える人であって欲しいと思う。

一つ、主権者としての自覚における行動を提案したい。DHCという、サプリメントや化粧品を販売している企業をご存知だろうか。その製品を一切購入しない運動に参加して欲しい。商品の積極的不買運動、ボイコットでこの企業に反省を迫ろうというのだ。

DHCとは、デマとヘイトとスラップをこととする三拍子揃った企業。その会長である吉田嘉明が在日や沖縄に関する差別意識に凝り固まった人物。電波メディアを使って、デマとヘイトの放送を続けている。そして、吉田嘉明とDHCは、自分を批判する言論に対するスラップ(言論抑圧を動機とする高額損害賠償訴訟)濫発の常習者でもある。詳しくは、当ブログの下記URLを開いて、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズをお読みいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12

あなたがなんとなくDHC製品を買うことが、デマとヘイトとスラップを蔓延させることになる。あなたの貴重なお金の一部が、この社会における在日差別の感情を煽り、沖縄の基地反対闘争を貶める。また、安倍改憲の旗振りに寄与することにもなる。

言論の自由を圧迫するスラップ訴訟は、経済合理性を考えればあり得ない。しかし、DHCの売り上げの一部が、こんな訴訟を引き受ける弁護士の報酬にまわることにもなる。

DHC製品不買は、「消費者主権」にもとづく法的に何の問題もない行動。意識的にDHC製品を購入しないだけで、この社会からデマとヘイトとスラップをなくすることができる。若者たちに訴える。ぜひ、主権者としての自覚のもと、「DHC製品私は買わない」「あなたも買っちゃダメ」と多くの人に呼びかけていただきたい。投票日だけの主権者ではない、自覚的な主権者の一人として。
(2019年1月14日)

元徴用工の新日鉄住金に対する請求権は、「消滅していないが、法的に救済されない」 ― お分かりいただけないでしょうね。

河野タロウでございます。
日韓請求権・経済協力協定の理解に関して、ミスリーディングなニュースや解説が流されています。まことに遺憾なことで、この機会に丁寧な説明をしておきたいと思います。

しんぶん赤旗電子版は、2018年11月15日号にこう記事を掲載しています。

『河野太郎外相は14日の衆院外務委員会で、韓国の元徴用工4人による新日鉄住金に対する損害賠償の求めに韓国大法院(最高裁)が賠償を命じた判決(10月30日)をめぐり、1965年の日韓請求権協定によって個人の請求権は「消滅していない」と認めました。
日本共産党の穀田恵二議員への答弁。大法院判決について「日韓請求権協定に明らかに反する」としてきた安倍政権の姿勢が根本から揺らぎました。』

しかし、「個人の請求権は消滅していない」ということは以前から答弁していることですし、個人の請求権は救済されないということにはなんら変わりはないわけですから、何かが根本から揺らいだわけではなく、極めてミスリーディングです。
さらにこの記事は続けて、こう言っています。

『また穀田氏は、大法院判決で原告が求めているのは、未払い賃金の請求ではなく、朝鮮半島への日本の植民地支配と侵略戦争に直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員への慰謝料だとしていると指摘。
これに関し柳井条約局長が、92年3月9日の衆院予算委員会で日韓請求権協定により「消滅」した韓国人の「財産、権利及び利益」の中に、「いわゆる慰謝料請求というものが入っていたとは記憶していない」としたことをあげ、「慰謝料請求権は消滅していないということではないか」とただしました』

韓国国民の請求権は、消滅させられてはいませんが、請求権が救済されない」ということは、常々申し上げてきたとおりです。衆議院外務委員会で何か新しいことがあったわけではありません。

上記の判決にもとづく執行としてなされた、大邱地裁による新日鉄住金に対する差押え命令の法的効力に対しても、同様の原則を貫いてまいります。

いうまでもなく、協定によって、個人の請求権を含む日韓間の財産・請求権の問題は完全かつ最終的に「解決」されました。当時の韓国が軍事政権下にあって、この協定が韓国国民からは強い反対を受けていたことはご存じのとおりですが、どのような事情があろうとも、政府間の協定は正式に成立しています。

もう少し丁寧にご説明申しあげれば、請求権・経済協力協定第二条1で、請求権の問題は「完全かつ最終的に解決された」ものであることを明示的に確認し、第二条3で、一方の締約国及びその国民は、他方の締約国及びその国民に対する全ての請求権に関して、いかなる主張もできない」としていることから、個人の請求権は法的に救済されません

しかも、この協定を実施するために、日本では国内法を制定し、この法律によって、法律上の根拠に基づき財産的価値が認められる全ての実体的権利、つまり財産、権利及び利益を消滅させたところです。

おわかりいただけますか。徴用工の新日鉄住金に対する請求権は、消滅させられたわけではありません。しかし、法的に救済されないのです。よろしゅうございますね。

何か、質問がございますか。
A社です。「協定で請求権は消滅しないが、法的に救済されない」というご説明がさっぱり分かりません。今のご説明を聞いていますと、むしろ、日本がつくった国内法の効力として、日本国内では、請求権が法的に救済されないものになったと理解すべきではないでしょうか。そのような国内法をもたない韓国では、司法が請求権の法的救済を認めるのは当然のように思えるのですが、いかがでしょうか。

次の質問どうぞ。
A社です。お答えいただけないのですか。どうして、そんな常識では分かりにくい協定になったのでしょうか。そのようなことは、相互に確認されているのでしょうか。

ハイ、次の質問どうぞ。
B社です。「一方の締約国の国民の請求権に基づく請求に応ずるべき他方の締約国及びその国民の法律上の義務が消滅した」ことについてのご説明が、ポイントだと思うのですが、これが理解いたしかねます。日本政府は、この協定によって、植民地統治時代における、いかなる種類の個人請求権も法的保護から外されたものとお考えなのでしょうか。仮に、虐待による不法行為慰謝料請求権まで法的保護から外されたというご見解であるとすれば、国家間の協定で個人の訴権までを奪いうるというその根拠をご説明ください。

ハイ、次の質問どうぞ。
B社です。ぜひお答えいただきたい。国民個人の請求権は、これを政府が代理して放棄したり処分してしまうことができるとお考えなのでしょうか。徴用工問題だけでなく、慰安婦問題にもつなが論点ですので、ご回答いただきたい。

ハイ、次の質問どうぞ。
C社です。文大統領は、韓国が三権分立の国である以上、司法部の判断を尊重するしかないと意見を表明しています。司法の独立という文明国の原則から当然のことと思いますが、大臣はこれにご批判あるのでしょうか。

ハイ、次の質問どうぞ。
C社です。この問題は、第三国から見ると、日本の司法権の独立はなく最高裁は政権の意のままになるのだと誤解を受けかねませんよ。

ハイ、次の質問どうぞ。
D社です。外務省のお考えを伺います。今回の韓国大法院の徴用工判決を、どうお読みになっていますか。判決理由は、実体的な債権だけでなく、訴権も失われていないことを当然のこととして詳細な説明がありますが、法廷意見の論理は間違っているとお考えでしょうか。

ハイ、次の質問どうぞ。
重ねてD社ですが、ご説明のうち「韓国は日本との協定を締結した以上は、誠実に実行すべきだ」ということは分かります。しかし、それは韓国の行政府のことであって、司法は別ではないでしょうか。司法は、国際条約を尊重しなければなりませんが、条約が国民の人権を蹂躙するものとして憲法と矛盾する場合には条約を無視しなければならなくなります。今回の大法院の判断は、実質的にそのようなものとお考えになりませんか。

ハイ、次の質問どうぞ。
D社です。お答えいただけないのは、結局大法院判決の論理には反論できず、ただただ不愉快なだけだと聞こえますが、そういう理解でよろしいでしょうか。

ハイ、これで質問を打ち切ります。会見は終了しました。
(2019年1月13日)

「デマとヘイト、そしてスラップのDHC」― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第145弾

本日(1月12日)夕刻に、「終わっていないぞ! DHC『ニュース女子』問題2周年!」「沖縄ヘイトを許さない集い」に参加した。

DHC「ニュース女子」放送事件をきっかけに立ち上がった「沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志」の主催。いかにも手作りという温かい雰囲気の集会で盛会だった。とりわけ、メインの安田浩一さんの講演は熱のこもったものだった。

話題の中心は、デマとヘイトが人を壊し社会を壊す罪深いものであること。また、今沖縄に生じている問題は、けっして「沖縄問題」ではない日本全体の問題としてとらえなければならない。沖縄を今の状態に置いている本土の我々の責任に真摯に向き合わねばならないということ。その立場からは、デマとヘイトの元凶であるDHCへの社会的制裁が必要であり、不買運動を重ねなければならないという結論になる。

いくつもの運動体が、会場から貴重な発言をした。私も、以下のビラを配布して、このビラに沿った発言をした。複数の新聞記者が、DHCスラップ訴訟に興味をもってくれた。

DHCを追い詰める運動が拡がっている感がある。

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「デマとヘイトのDHC」は、
「スラップのDHC」でもあります。
DHCスラップ反撃訴訟で、吉田嘉明尋問決定!
4月19日(金)午後 東京地裁415号法廷(東京地裁・4階)
皆様、ぜひ傍聴にお越しください。

いま、在日や沖縄に対するデマとヘイトで俄然有名になったDHC。実は以前から、「スラップ常習企業」としても悪名を轟かせています。「スラップ」とは、批判の言論を封じるために提起された高額民事訴訟のこと。デマ・ヘイト・スラップと三拍子を揃えた、これほど性悪の企業も珍しいのです。

DHCのスラップは、当時地位確認で争っていた労働組合に対して、5000万円の名誉毀損損害賠償をしたことで有名になりました。労組幹部個人に対しても、1000万円の請求訴訟を提起しています。

2014年の3月。DHCの会長である吉田嘉明が、週刊新潮にとんでもない手記を掲載しました。吉田嘉明は、政治家・渡辺喜美に裏金8億円を渡していたということを、臆面もなく自ら滔々と述べたのです。当然のことながら、吉田嘉明は、多くの人からの批判に曝されました。そうしたら、DHCと吉田嘉明は、批判者の内から10名を選んで、スラップ訴訟を提起したのです。最低2000万円から、最高2億円まで。
私もブログで、「政治が金によって動かされてはならない」とする至極真っ当な批判をしました。こうして、私もその10人の内の一人となりました。DHC・吉田嘉明から私に対する請求額は、最初は2000万円。このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判を始めた途端に、2000万円の請求は6000万円に跳ね上がりました。DHC・吉田嘉明の提訴の目的が、言論の封殺にあったことは明らかではありませんか。

このスラップ訴訟では、私が全面勝訴しました。今、攻守ところを替えて、スラップ提訴が違法だとする「反撃」訴訟を提起しています。その訴訟で、吉田嘉明本人尋問が決定したことをお知らせします。
(詳細は、ネットの「澤藤統一郎の憲法日記」をご覧ください)

スラップ被害の当事者として

2014年の5月。まったく思いがけなく、私自身を被告とする典型的なスラップ訴訟の訴状送達を受けとりました。原告は、DHC・吉田嘉明。請求金額は2000万円。屈辱的な謝罪文の要求さえ付されていました。この上なく不愉快極まる体験。こんな訴訟を提起する人物か存在することにも、こんな訴訟を受任する弁護士が存在することも、信じがたく腹立たしい思いを禁じえません。
この訴訟の請求額は、3か月後の同年8月6000万円に跳ね上がりました。私がブログで、「スラップ訴訟を許さない」とキャンペーンを始めたからです。経過から見て明らかに、DHC・吉田は、高額な損害賠償訴訟の提起という手段をもって、私に「黙れ」「口を慎め」と恫喝したのです。
私の怒りの半ばは私憤です。私自身の憲法上の権利を侵害し言論による批判を封じようというDHC・吉田に対する個人としての怒り。しかし、半ばは公憤でもありました。訴訟に精通している弁護士の私でさえ、自分自身が被告となれば戸惑わざるを得ません。応訴には、たいへんな負担がかかることになります。訴訟とは無縁に生活している一般市民が、私のようなスラップの提訴を受けた場合には、いかばかりの打撃を受けることになるか。このような負担を回避しようという心理が、言論の萎縮を招くことになります。強者が提起するスラップが効果を発揮することとなれば、この社会の不正を糾弾する言論が衰微することにならざるを得ません。私は、「けっしてスラップに成功体験をさせてはならない」と決意しました。
言うまでもなく、訴訟本来の使命は、権利侵害の回復にあります。法がなければ弱肉強食のこの社会、法がなければ強者が弱者の権利を蹂躙し、権利を侵害された弱者は泣き寝入りを強いられるばかり。法あればこその権利侵害救済が可能となり、これを実現する手続として民事訴訟制度があり、裁判所があって法曹の役割があるはずではありませんか。
DHC・吉田の私に対する提訴は、この訴訟本来の姿とは、まったくかけ離れたものと言うほかはありません。権利救済のための提訴ではなく、市民の言論を妨害するための民事訴訟の提起。これこそがスラップの本質なのです。
もし仮に、本件スラップの提訴が違法ではないとされるとしたら、吉田嘉明を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が濫発される事態を招くことになるでしょう。社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行するそのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることとなります。それでは、権力と経済力が社会を恣に支配することを許すことになってしまいます。けっして、スラップに成功体験をさせてはならないのです。

(2019年1月12日)

吉田嘉明氏尋問決定! 4月19日(金)午後 東京地裁415号法廷 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第144弾

DHCと吉田嘉明氏を反訴被告とするDHCスラップ反撃訴訟
反訴被告本人・吉田嘉明氏の尋問が決定しました。
次回法廷は4月19日(金)午後1時30分?
東京地裁415号法廷(東京地裁・4階)
本件の主役・吉田嘉明氏の本人尋問が行われます。
皆様、ぜひ傍聴にお越しください。
どなたでもなんの手続も不要で傍聴できます。

「DHCスラップ反撃訴訟」についての本日の法廷で、ついに吉田嘉明の本人尋問採用が決まった。裁判所は、反訴原告側から申請のあった反訴原告本人(澤藤)と反訴被告本人兼反訴被告DHC代表者(吉田嘉明)、および反訴被告側から申請のあったDHC従業員(U氏)の3名を採用することを決定した。尋問期日は、4月19日(金)午後1時30分から。場所は415号法廷を予定。但し、尋問の順序や時間などの細目については、2月7日(木)に進行協議期日を入れて、詰めることとした。まずは、目出度い。これで、勝訴への大きな一歩の前進ができたと思う。

DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)を被告として6000万円を支払えとの訴訟提起したのが「DHCスラップ訴訟」。当然のこととしてこの訴訟は最高裁の上告受理申立不受理決定で私の勝訴が確定した。しかし、それで問題解決とはならないし、解決としてはならない。こんなムチャクチャな裁判を掛けて言論妨害をした人物になんの制裁もないで済ますことはできない。済ませてはならない。それでは、表現の自由が泣くことになるだろう。憲法も涙する。

表現の自由を救うために、憲法に笑顔を取り戻すために、今、スラップに対する反撃訴訟が進行中である。つまり言論抑圧の意図をもった恫喝訴訟の提起自体が不法行為を構成するのだから、損害を賠償せよという攻守ところを替えての反撃訴訟である。もっとも、DHC・吉田側の請求額が6000万円であったのに対して、私の請求額は660万円というささやかなものだが。

この事件の主役・吉田嘉明(反訴被告本人兼反訴被告DHC代表者)の尋問を正式に申請したのが、2018年10月5日。異例の、やや長文にわたる「反訴被告吉田の尋問の必要性」の記述を付してのこと。もちろん、私(澤藤)の尋問も併せて申請している。私と吉田嘉明の双方について、尋問採用されたいと書面を出したのだ。

これに対して、反訴被告側の代理人(今村憲弁護士)は、同月19日付で「意見書」を提出した。吉田嘉明の尋問は必要がないというだけでなく、反訴原告(澤藤)の尋問も必要がないという趣旨。おやおや、せっかく法廷で信じるところを述べる機会ではないか。堂々と法廷に立てばよいのに。

同月26日の法廷で裁判所は反訴被告(DHC・吉田嘉明)側に再考を促した。しかるべき人証の申請を考えてはどうかというアドバイスである。

裁判所から再考を促されて、反訴被告ら代理人(今村憲弁護士)は、12月7日付でDHCの従業員(総務部長)のU氏を証人申請し、その陳述書も提出した。

反訴原告側は1月8日付で、長文の「被告の証拠申請に関する意見書」を提出した。U氏の証人採否に特段の意見はないが、その採否の如何にかかわらず吉田嘉明の本人尋問は本件の審理のために必要不可欠である、との趣旨。この意見書が説得力をもつものだった。結局、裁判所(東京地裁民事1部・合議係)は、吉田嘉明・澤藤・U氏、3人の尋問採用を決定した。

通例、人証(証人や当事者)は、各当事者がそれぞれの味方となる人物を申請する。しかし本件では、反訴原告は、敢えて敵性の人証となる吉田嘉明を申請した。DHC・吉田嘉明から私や、他の吉田嘉明批判者に対する巨額賠償請求の提訴が、どのような意図や動機をもってなされたか、その立証のためにぜひとも必要なのだ。

本件6000万円スラップ提訴についての違法性有無の判断には、提訴に言論抑圧の意図や動機があったか否か、つまり主観的な要素が重要な役割を担っている。その主観的な意図や動機を語ることができるのは、吉田嘉明本人を措いて他にない。公正な審理と判決とは、吉田嘉明の本人審問を抜きにしてはあり得ない。

ことの初めは2014年の3月。吉田嘉明が週刊新潮に手記を掲載したことである。この手記には驚いた。吉田嘉明は、政治家渡辺喜美に裏金8億円を渡していたということを、臆面もなく自ら滔々と述べているのだ。当然のことながら、吉田嘉明は、多くの人からの批判に曝された。私も当ブログで、「政治が金によって動かされてはならない」とする至極真っ当な批判をした。このような批判の言論が封じられてはならない。

ところが、吉田嘉明は突然に私を提訴した。最初は2000万円の請求だった。私が、このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判し始めた途端に、2000万円の請求は6000万円に跳ね上がった。吉田嘉明の提訴の目的が、言論の抑制にあったことは明らかではないか。

このスラップは、もともとが勝訴の見込みのない提訴なのだから、最高裁まで争った挙げ句に、私(澤藤)の勝訴で確定した。しかし、勝つには勝ったものの、やりっ放し・やられっ放しだ。吉田嘉明のやり得、私のやられ損のままだ。メチャクチャな裁判をかけておいてDHC・吉田嘉明は、なんの制裁も受けていない。こんな不法が放置されてよかろうはずはない。スラップ常習のDHC・吉田嘉明に対しては、「スラップ提訴が違法だから損害を賠償せよ」「スラップは却って高くつくぞ」ときちんと思い知らせなければならない。そのための「反撃訴訟」が今継続中である。この訴訟は、債務不存在確認請求の形で、DHC・吉田嘉明の側から起こされた。今は、債務不存在確認請求訴訟に対する反訴という形で、スラップを違法とする反撃訴訟が闘われている。反訴原告が私(澤藤)、反訴被告がDHCと吉田嘉明の二人となっている。

この反撃訴訟、本日の吉田嘉明採用で、公正な審理と勝訴判決に一歩近づいた。こいつは春から、縁起がよいわい。
(2019年1月11日)

自分の思想・良心は、連続した1個のものだ。処分の累積加重は、悪質な思想転向の強要そのものである。

東京都教育委員会は、自由も人権も憲法も民主義も知らない。もちろん、思想・良心・信仰の自由のなんたるかも知らない。その侵害を受けている人の苦悩を知ろうともしない。都教委が心得ているのは、国家至上主義強制の技術だけ。200年前のキリシタン迫害の幕府の役人、あるいは100年前の天皇制警察や憲兵隊と心情において大差ない。都教委恐るべしなのだ。

たまたま石原慎太郎という極右政治家が都知事となって、分身のオトモダチを教委に送り込んだ結果の極端な右偏向と考えていたが、どうやらそれだけではなさそうだ。ポスト石原の今も、なんの変化もない。小池百合子知事のナショナリストぶり、ヘイト感覚も相当なものなのだ。

都教委の国家主義姿勢の象徴が、「10・23通達」である。卒業式や入学式式では、会場正面の国旗に正対して起立し国歌を斉唱せよというもの。これを懲戒処分をもって強制し続けているのだ。キリシタンに対する踏み絵と同じこと。信仰を貫こうとすれば、迫害を甘受しなければならない。信仰を捨てれば、自責の念に苛まれることになる。いま、首都東京の公立学校の教職員のすべてがこのジレンマの中に置かれている。

かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。

事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長によって、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」もされた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。

この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。

処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。不起立回数が増えれば確実に職を失うという恐怖の中で、多くの教員がやむを得ず強制に服してきたが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。

2004年1月以来、この国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の違憲性をめぐる訴訟が繰り返され今も続いている。違憲違法を主張する教員側は最高裁での違憲判決を勝ち得ていない。しかし、都教委側も敗北を喫している。最高裁は、処分を違憲とは言えないとした。しかし、同時に処分は抑制的でなければならず、原則として戒告にとどめるべきだとして、減給以上の処分を軒並み取り消している。

最高裁第1小法廷2012年1月16日判決は、「不起立行為等に対する懲戒において戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは、学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要すると解すべきである」という。「日の丸・君が代」強制が違憲とは認めないものの、都教委の横暴は許さない判断。

現在、処分取消の第4次訴訟が最高裁事件として係属している。すべての処分の違憲・無効を争うとともに、懲戒処分4回目・5回目のQ教諭の件が大きな問題となっている。

同教諭は、自分の信念に基づいて静かに着席していただけで、他に教育者としてなんの落ち度もない。これに対して、都教委は戒告を超えて減給(10分の1・1か月)を科したのだ。当然のごとく、1審も2審も、Q教諭の勝訴となった。東京地裁も東京高裁も、両減給処分を取り消した。ところが、都教委は往生際が悪い。これを最高裁に上告受理申立をしている。よもや最高裁で勝訴判決が逆転するはずはないが、原告団と弁護団は、これに対する精一杯の対応に追われている。

Qさんが起立できなかったのは、自身の生き方や教員としての思想・良心に真摯に向き合った結果としての、やむを得ない選択であった。形式的に職務命令違反にあたるとしても、その理由・動機は決して非難されるものではない。Qさんの声に耳を傾けていただきたい。

 『君が代』斉唱時に、『日の丸』に向かって起立し、それらに敬意を表すという所作は、私にとっては、かつての日本によるアジアに対する侵略戦争や植民地支配のシンボルでもある歌や旗に敬意を示すということであり、私の歴史観に照らして、それらの歌や旗に敬意を示すということは、平和に生きる権利を否定し民族差別を肯定する行為なのです。したがって、私にとって、『君が代』斉唱時に起立斉唱することは、単なる『慣例上の儀礼的所作』ではありません。

 東京都教育委員会は『教師が生徒に対して起立斉唱する姿を見せること、範を示すことが大切である。』と言います。しかし、本来なら反対すべき、と考えている『日の丸』や『君が代』に対して、私が起立斉唱することで敬意を表す姿を生徒に見せることは、私自身の教員としての良心が痛むのです。

 私が起立斉唱すれば、生徒に対しての『日の丸』や『君が代』強制に、私自身も加担することになってしまいます。そのことは、私にとっては、自分自身の教育の理念に反する、大変に辛いことなのです。どうしても命令には従うことができないのです。

 私の教員としての良心は、児童生徒に一方的な価値観をすり込んではならない。そして児童生徒の前で教員が恥じるような行為を行ってはならないというふうに考えています。日の丸や君が代に対して、生徒の前で私が敬意を表することによって児童生徒はそれらに敬意を表明することが絶対的に正しいものだというふうに理解します。そのことは一方的な価値観をすり込むことであって、私の教員としての良心がゆるしません。

 Qさんは、個人の思想・信条(歴史観)とともに、自身の教員としての良心に基づいて、生徒に対して一方的な価値観を教授することはできないとする立場から、起立斉唱することができなかったのだ。都教委は、この思想も捨てよ、良心も曲げよというのである。

そして、今当面の最重要問題は、不起立の回数が増えたら、具体的には4回目・5回目の不起立となれば、「戒告を超えて減給の処分を選択することが許容される相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合」に該当するかが問われている。

これに関するQさん自身の解答は次のとおりである。

 私の思想・良心は1個のものです。その1個の思想・良心が、私に「日の丸・君が代」に対する起立斉唱はしてはならないと命じています。私自身は、この思想・良心を変えてはならないと考えていますし、憲法が保障する思想・良心の自由とは、私の思想・良心を変えるよう強要されないことではないでしようか。
 卒業式や入学式のたびに、悩みながらも勇気を奮い起こして、思想・良心の自由を行使することになります。私が私である限り、同じ状況で同様の職務命令が出されれば、やむを得ず不起立ということになってしまうのです。

 私自身に命令に従って起立せよと言うのは、思想を捨てろ、転向しろという、そういった意味になると考えています。

 Qさんとしては、思想・信条を転向又は放棄しない限り、処分は免れないのであって、このような自らの歴史観や教師の良心に対する真摯な思いから起立できないQさんに対して、懲戒処分を加重することは、その思想・良心に対して過度な制約を科すこととなる。これが、現代における踏み絵の実態にほかならない。
(2019年1月10日)

DHC「ニュース女子」問題 抗議2周年 沖縄ヘイトを許さない集い ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第143弾

 DHCとは、今の世に珍にして奇なる存在。
 デマとヘイトとスラップの三拍子を兼ね備えた、三冠王企業。
 そのデマとヘイトを象徴するのが、「ニュース女子」放送事件

 頃もよし、辺野古大浦湾埋立問題が天下の関心を集めるさなかに
 「終わっていないぞ! DHC『ニュース女子』問題2周年!」
 「沖縄ヘイトを許さない集い」のご案内

 メインの講演は、安田浩一さん
  「ニュース女子」沖縄デマは形を変えて拡散中

 辛淑玉さんの DHC「ニュース女子」裁判報告も。

  主催 沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志 

  2019年1月12日(土)18:00?20:30
  文京区民センター 2A

文京区民センターは、都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、または東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分。
地図→http://www.yu-cho-f.jp/wp-content/uploads/kumin_map.pdf

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音楽会や観劇の際には、たくさんの同種催しの宣伝物をもらうことになる。いずれも、カラフルで気の利いたデザイン。いつの間にか、どの市民運動の集会に参加しても、多くの集会案内チラシが配布されるようになった。東京中で、こんなにも市民集会が多いのかと心強い。しかも、最近の集会案内のチラシがカラフルで立派になったのには感心する。中には企業の宣伝と見まがうばかりのものもある。

先日文京区民センターで開かれた文京革新懇主催の集会に参加したところ、やはり多くのチラシをいただいた。そのなかに、いかにも昔ながらの、見映えのしない単色のチラシ。却って、それが目を引いた。
そのチラシで、1月12日(土)の「沖縄ヘイトを許さない集い」を知った。

テーマは沖縄ヘイトである。しかも、辺野古新基地建設反対運動に関わること。そのテーマで、安田浩一さんが語る「DHCのデマとヘイト」。これは興味津々。即座に、日程を手帳に入れた。そして、多くの人にこの集会にご参加いただきたいと思う。

この集会の主催は、「沖縄への偏見をあおる放送を許さない市民有志」。この「市民団体」、あるいは「市民運動」は、以前から名前だけは知っていた。この団体がつくった2種類のタグはいつも身につけている。気の利いたもので、気に入っている。

その一つが、DHC 私は買いません」というもの。もう一つが、D(デマと)H(ヘイトの)C(カンパニー)」。よくできている。面白い。

以下は、この団体がつくった、別のビラからの引用。

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テレビで偽ニュース? ウソでしょ!
(ウソはダメ! ヘイトはダメ!)
東京MXテレビ『ニュース女子』をゆるさない。

 DHCシアター(現DHCテレビ)などが制作し、2017年1月2日に東京MXテレビが放送した情報バラエティー番組『ニュース女子』は、一切裏付け取材を行わずにつくられた偽ニュースでした。番組内では沖縄で米軍基地建設に反対する人たちが誹謗中傷され、差別と排外主義があおられました。

 私たち「沖縄への偏見をあおる放送をゆるさない市民有志」は、地上波テレビで沖縄へのデマやヘイト(差別をあおる憎悪表現)がばらまかれたことを深刻に受け止めています。そして、なぜこのような偽ニュースがつくられたのか、背景に何があるのか、沖縄や外国籍の人たちをおとしめる偽ニュースが二度とテレビで放送されないためにはどうすればいいのかを考え続けています。

 あなたも私たちと一緒に「ニュース女子」問題を考えませんか?

見過ごせない問題が起こるたびに、このような自発的な運動が起こることが、好ましくもあり、頼もしくもある。機敏さや手際のよさでは、ノウハウをもった既存の組織が優れているだろうが、「市民・有志」の立ち上がりには新鮮な響きがあり、裾野の広がりが感じられる。

誘い合って、この集会に参加しませんか。私もスラップ糺弾の立場からこの集会に参加したい。そして、デマ・ヘイト・スラップの「アンチヒーロー・DHC」を、反省させ「改心」させるにはどうすればよいか、思いをめぐらせたい。
(2019年1月9日)

1月11日(金)の法廷で吉田嘉明尋問採否の決定 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第142弾

DHCと吉田嘉明を反訴被告とするDHCスラップ反撃訴訟
次回法廷は1月11日(金)午前11時00分
東京地裁415号法廷(東京地裁・4階)
吉田嘉明本人尋問採否決定の法廷です。ぜひ傍聴にお越しください。
どなたでもなんの手続も要らずに傍聴できます。

DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)を被告として6000万円を支払えと訴訟提起したのが「DHCスラップ訴訟」。まず初めが、私の至極真っ当なブログでの言論にいちゃもん付けての2000万円の請求だった。私が、このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判し始めた途端に、2000万円の請求は、6000万円に跳ね上がった。提訴の目的が、言論の抑制にあったことは明らかではないか。

このスラップ訴訟は当然のことながら空振りに終わった。もともとが勝訴の見込みのない裁判なのだから、最高裁まで争った挙げ句に、私(澤藤)の勝訴で確定した。しかし、勝つには勝ったものの、やりっ放し・やられっ放しだ。吉田嘉明のやり得、私のやられ損のままだ。メチャクチャな裁判をかけておいてDHC・吉田嘉明は、なんの制裁も受けていない。こんな不法が放置されてよかろうはずはない。スラップ常習のDHC・吉田嘉明に対しては、「スラップ提訴が違法だから損害を賠償せよ」「スラップは却って高くつくぞ」ときちんと思い知らせなければならない。そのための「反撃訴訟」が今継続中である。この訴訟は、債務不存在確認請求の形で、DHC・吉田嘉明の側から起こされた。今は、それに対する反訴が闘われている。反訴原告が私(澤藤)、反訴被告がDHCと吉田嘉明の二人。

反訴原告と被告、双方の一応の主張を終えて、反訴原告(澤藤)側は、当事者本人両名(私と吉田嘉明)の尋問を申請している。これに対して、反訴被告(DHC・吉田嘉明)側は、吉田嘉明の本人尋問を申請せずに、DHCの社員を証人申請した。その証人の採否はさしたる問題ではない。吉田嘉明の本人尋問の採用なくしてこの裁判の公正な審理はなく、納得しうる判決には至らない。

今週金曜日(1月11日)に迫った次回口頭弁論期日には、ぜひとも、吉田嘉明の本人尋問採用があってしかるべきである。

本件6000万円スラップ提訴についての違法性有無の判断には、提訴に言論抑圧の意図や動機があったか否か、つまり主観的な要素が重要な役割をもっている。その主観的な意図や動機を語ることができるのは、吉田嘉明本人を措いて他にない。公正な審理と判決とは、吉田嘉明の本人審問を抜きにしてはあり得ない。

このことについては、下記ブログを参照されたい。

吉田嘉明よ、卑怯・未練・怯懦と言われることを甘受するのか ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第141弾
https://article9.jp/wordpress/?p=11733

吉田嘉明尋問採用決定は次回(19年1月11日)法廷に持ちこし ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第139弾
https://article9.jp/wordpress/?p=11338

明日・10月26日(金)の法廷で、吉田嘉明尋問採用の予定 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第138弾
https://article9.jp/wordpress/?p=11335

以下に、裁判所に提出した反訴原告の意見要旨を抜粋する。

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☆U氏(証人申請されているDHC従業員)は反訴被告吉田の提訴意思決定に関して証言適格を欠く
 DHCのみならず、吉田嘉明個人も本件反訴の被告である。反訴被告吉田嘉明個人の不法行為の成否においては、吉田嘉明自身のスラップ訴訟提起の意思決定過程が決定的な重要性をもつ。吉田嘉明が、どのような情報を収集し、どのような人と相談し、何のために、何を目的として、どのような基準に基づいて提訴意思を決定したのか。その吉田嘉明個人の意思決定過程には、DHCの従業員であるU氏は一切関与していないし、関与すべき立場にもない。
 同氏の陳述書には、吉田嘉明の個人的な意思決定に関与したことをうかがわせる記載もなければ、吉田個人から相談を受ける立場にあった可能性があるような記載すら全くない。
 U氏は、DHCのスラップ提訴に関して、方針決定後に具体的な事務の一部を担ったに過ぎない。U氏のみの尋問では、吉田嘉明個人の意思決定の過程は全く明らかにならない。

☆ U氏はスラップ訴訟提訴の動機に関しての証人適格性を欠く
 U氏に対する尋問で、DHC内部での事務遂行の一部が明らかになることは否定し得ない。本件スラップ提起当時、U氏がどのような肩書きや立場であったのか明らかにされていない不自然さはあるものの、同陳述書の記載からは、本件スラップ提起に関して何らかの事務を担ったことは認められる。
 しかし、U氏は、DHC代表者である吉田嘉明の既に決せられた意を汲み、その具体化の事務を担ったに過ぎず、DHCの提訴意思決定の経過に関与していないことが明らかである。
 U氏は、取締役でもなく、会社としての意思決定に参加できる法的立場にはない。せいぜい、意思決定の材料となる資料作成に関与しうるにすぎない。
 従って、本件訴訟の最重要争点である、本件スラップ提訴の動機認定に関しては、U氏は証人としての適格性を欠くものと言わざるを得ない。

☆ 反訴被告本人兼反訴被告代表者本人吉田尋問の積極的必要性
 個人としての反訴被告吉田の意思決定過程を明確にするには、吉田嘉明本人の尋問以外に直接証拠はない。
 また、DHCの意思決定過程についても、吉田嘉明は代表取締役(反訴被告代表者本人)として意思決定に参画したのであるから、その経緯に関して供述できることも明らかである。
 反訴被告本人兼DHC代表者である吉田嘉明本人の尋問によって、本件反訴において争いのある事実を全て明らかにすることができる。
 本件におけるベストエビデンスとは、反訴被告本人兼反訴被告代表者本人吉田の尋問にほかならない。

☆ 以上の通り、U氏の尋問は、重要でもなく必要でもないが、訴訟遂行に有害でもないので、採用に反対はしない。しかし、U氏のみを採用し、反訴被告本人兼DHC代表者である吉田嘉明の尋問を実施しないとすると、反訴被告吉田個人及びDHC代表者本人の意思決定過程とその動機は全く明らかにできないことになり、本件反訴において最重要な争点となっている事実の存否を明らかにすることはできない。

 以上のとおり、本件反訴において、反訴被告吉田嘉明本人(兼DHC代表者本人)の本人尋問は必要不可欠である。

(2019年1月8日)

市民社会の道徳教育概論試案

文科省のすなる道徳教育。不要だとは思うが、やるならこんなものであるべきではないか。その骨格の素案をものしてみた。志のある方に、書き足し書き改めて、立派な完成版を作っていただきたい。

1 一番大切なのは自分自身であることを確認しょう。

 この世に生を受けた者の誰にも、自分というかけがえのない貴重な存在があります。痛いのも、つらいのも、嬉しいのも、悲しいのも、それを感じるのは自分自身です。考えるのも、しゃべるのも、人を愛するのも、愛されるのも自分以外のなにものでもありません。誰にとっても、一番大切なものは、この自分自身です。自分の命、自分の身体、自分の精神、自分の自由。このかけがえのない自分を大切にしましょう。自分が大切であるという、自然に持っているはずのこの気持ちを素直に肯定すること。ここがすべての出発点です。
自分を大切に思うことが、よりよく生きようという意欲の出発点であり、自分が生きる舞台としての、自然環境や社会環境をよりよくしようという積極性の根源となります。

2 社会と向き合う基本的姿勢

 大切な自分ですが、自分という存在は例外なく弱いものです。孤立しては生きてゆくことさえできません。人は、社会という群をつくって、その群の中で生きていくしかありません。社会は自分のまわりに幾重にも存在し、無数の対人関係を作り出しています。生きるとは結局社会と向き合うことにほかなりません。
自分という個人と社会との向きあい方には、2面があります。ひとつは、既にできあがっている現実の社会の中で、この社会に自分を適合させて生きていくことであります。受働的な向きあい方と言ってよいとおもいます。もう一つは、個人が社会にはたらきかけて、自分の理想とする社会に近づけようとする、能働的な向きあい方です。
人は現実の社会に適応する能力なしに生きていくことはできません。その意味では、受働的な向きあい方を否定することはできません。しかし、すべての人が受働的な生き方ばかりをしていたのでは、社会の理想は失われ進歩がなくなってしまいます。自分にとって、またすべての人にとってよりよい社会を作っていく能働的努力は欠かすことができません。また人は、理想を求める積極的な生き方をすることで生き甲斐のある生を営むことができる存在でもあるのです。

3 自分と他の個人との関係

 社会は無数の個人からなります。自分という存在は、社会の中で無数の自分以外の個人と直接・間接に接触することになります。他者としての個人も、それぞれに自分を大切に思っているかけがえのない存在です。それぞれの個性を持った互いに尊重すべき人格をもっています。その個人の人格は、すべて尊重しなければなりません。お互いに、自分が大切だという思いを尊重すること、それが社会の基本ルールです。
社会は歴史的に変化してきました。かつては、人間を性や血統や門地や人種で、貴賤を分けて差別することを当然とした時代もありました。王や皇帝を特別な人と見たり、他の民族を劣等と見ることを常識とした社会もありました。しかし、今やそのような差別には何の合理性もないことが世界の共通の認識になっています。人は人であることにおいて、人格として平等です。これが社会の公理となっていることを繰りかえし確認しなければなりません。
男性も女性も人格として平等、言うまでもないことです。大人も子どもも老人も、身障者も健常者も、富める者も貧しい者も同じように尊重されなければなりません。人種や国籍や民族や宗教や、出身の地域や職業によって、人が人格的に差別されてはなりません。特定の血統を貴種として王侯貴族としたり、万世一系の神話によって皇位を承継するなどは、古代社会の信仰と因習の残滓に過ぎません。文明社会では、およそあり得ない恥ずべきことなのです。形だけにせよ天皇制を認めている日本国憲法は、文明に反する旧社会の遺物を抱えていることになります。すべての人は平等である、この常識こそが市民社会の共通認識でなければなりません。

4 この世の不正義には、はばかることなく怒ろう。

 すべての人を平等な人格として認め合うこと。すべての人の人格が同じように尊重されること。それが社会における正義の基本です。不正義とは、人を理由なく差別することであり、人に対する人格の尊厳を否定することです。
人類の文明は、あらゆる差別を不正義とする段階に到達しましたが、現実にある差別を克服し得てはいません。女性差別、身障者差別、人種・国籍・民族・宗教による差別は厳然として存在します。また、公権力や社会的強者による弱い立場にある人への人格否定の行為も絶えません。
血統による差別である天皇制の不正義は、最も分かり易い不当な差別です。高貴な血を認めるから、他方に下賤が観念されるになるのです。本来、こんなものがあってよいはずはありません。人は皆平等なのですから。
現実のこの社会には、天皇制ほどには分かり易くない不正義・不公正がいくつもあります。その最大のものは、経済的格差と貧困です。
現在の経済システムは必然的に大きな格差を生む構造をもっています。人の財産や収入における極端な格差が現実のものとなっています。その結果、社会の一方に貧困にあえぐ人がいて、もう一方に贅沢を楽しむ人がいます。このような富の偏在を許容する社会は、公正とはいえません。また、この社会では利潤追求のための手段としての不公正や、権力の横暴がまかり通ってもいます。このような不公正に、怒る感性の涵養が社会の進歩の原動力として必要です。

5 強者に対する抵抗を美徳として身につけよう。同時に、面従腹背の小技をも身につけよう。

 社会と能動的に向き合うとは、現実にある社会の不公正に怒り、これを正していく努力をすることです。しかし、その不公正は現在の社会の強者が作り出したものですから、能動的な生き方とは本質的に現実の社会の強者と対峙することを意味します。
不公正の源であるこの社会の強者とは、政治的強者としての公権力であり、経済的強者としての資本家であり、社会的強者としての多数派にほかなりません。
不正義・不公正に怒ることは、強者への抵抗を決意することにつながります。厳しいことですが、強者にまつろわず、へつらわずに抵抗の姿勢を保つこと。自分の尊厳と、公正な社会のための抵抗が、市民道徳として身につけなければならない課題ではないでしようか。
さりとて、社会のあらゆる場面で怒り抵抗の姿勢を維持していくことは容易ではありません。また、危険も大きいことです。時には、したたかに妥協する術も心得ておかなければなりません。これぞ面従腹背の術です。妥協してはならぬ場とテーマを見極めることこそ、学ばねばならないことです。

 こうして、自己の尊厳を第一義としつつ、住みやすいよりよい社会の実現に向けた基本姿勢をもつこと。その精神を育成することこそが、現代社会のあるべき市民の道徳だと思うのです。
(2019年1月7日)

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