澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

流行語に浮かびあがる「もりかけ元年」の政治の貧困

既に師走。はや、今年を振り返る時期になった。恒例の「今年の重大ニュース」「今年の漢字」「今年の一冊」「マン・オブ・ザ・イヤー」等々が話題となる季節。いささか押しつけがましいこれらの企画に、最近は「新語・流行語大賞」(現代用語の基礎知識選)が加わっている。

12月1日発表となった年間大賞を、「忖度」と「インスタ映え」の2語が受章した。「忖度」の受章は、さもありなん。「インスタ映え」の方はさっぱり分からんが。

トップ10の他の8語には、「Jアラート」「フェイクニュース」「プレミアムフライデー」「魔の2回生」「○○ファースト」などが選ばれている。なるほど、今年はそういう一年であった。

この授賞。正確には、「ユーキャン新語・流行語大賞」というそうだ。この1年の間に話題となった「さまざまな『ことば』のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その『ことば』に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの。」だという。

1984年創始だというから、もう30年を超える歴史をもつことになるが、話題になってからは、まだ日が浅いという印象。まずは、『現代用語の基礎知識』収録の用語をベースに、自由国民社および大賞事務局がノミネート語を選出するのだそうだ。

その今年ノミネートされた30語が下記のとおり。

アウフヘーベン/インスタ映え/うつヌケ/うんこ漢字ドリル/炎上〇〇/AIスピーカー/9.98(10秒の壁)/共謀罪/GINZA SIX/空前絶後の/けものフレンズ/35億/Jアラート/人生100年時代/睡眠負債/線状降水帯/忖度/ちーがーうーだーろー!/刀剣乱舞/働き方改革/ハンドスピナー/ひふみん/フェイクニュース/藤井フィーバー/プレミアムフライデー/ポスト真実/魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー/ワンオペ育児

私にはさっぱりの言葉もあるが、アウフヘーベン、炎上○○、共謀罪、Jアラート、人生100年時代、忖度、ちーがーうーだーろー!、働き方改革、フェイクニュース、プレミアムフライデー、ポスト真実、魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー、などと並べると、なるほど2017年の世相が見えてくる。トランプ、安倍晋三、安倍夫妻、安倍チルドレン、そして小池百合子などの愚昧ぶりが想い起こされる。

選考委員会は、「忖度」についてこう述べている。
「今年は、マスコミから日常会話に至るまでのあらゆる場面でこの言葉の登場機会が増えた。きっかけは3月、「直接の口利きはなかったが、忖度があったと思う」という籠池泰典氏の発言。ネット辞書の検索ランキング(goo辞書)では4カ月間、この言葉が1位を独走したという。2017年最大の政治テーマであった「モリカケ問題」を象徴するこの言葉は、この問題が決着するまでは出番が続きそうである。」

また、「魔の2回生」について。
「2歳になる子どもが第一次反抗期を迎えて「イヤイヤ」を始めることを「魔の2歳児」という。そこから連想して、産経新聞の森山志乃芙さんはこの言葉を記事にしたのだという。務台俊介内閣府政務官、中川俊直議員、豊田真由子議員、武藤貴也議員、宮崎謙介議員…暴言、不倫、重婚…、当選2回の「安倍チルドレンン」たちの不祥事が続発した。それは政権の支持率急落という「魔」の事態を招いたのであった」

〇〇ファースト
「まずは、アメリカのトランプ大統領が、選挙の段階からしきりに繰り返していた「アメリカ・ファースト」というフレーズ。日本では、小池百合子都知事による「都民ファースト」が続き、最近では「自分ファースト」な人たちがやり玉にあげられている。」

個人的には、「印象操作」と「丁寧な説明」の併せて一本を期待していた。安倍シンゾーという人物。人の話は「印象操作」。自分に痛いことは「印象操作」。反論できないことも「印象操作」。自分の話は「丁寧な説明をいたします」。これを繰り返してある日突然「丁寧な説明をいたしてまいりました」と変わる。平気でこう言える性格をどう表現すればよいのだろう。狡猾、厚顔、鉄面皮、破廉恥? あるいは卑劣、奸佞、邪悪とでも。もし安倍政権が続いたら、いずれこれらの語も、新語大賞に輝くことになるだろう。

そのほか、印象に残ったアベ語としては「こんな人たち」「でんでん(云々)」「怪文書だ」など。小池百合子関連で強烈だったのが「排除いたします」。

2017年は、「もりかけ元年」だった。そのパーソンズ・オブ・ザ・イヤーは、まず安倍昭恵。次いで籠池泰典加計孝太郎。そして前川喜平。悪玉・善玉の色分けがくっきりである。

さらに、「もりかけ元年」を象徴する川柳の秀句を朝日川柳欄から。

   夫婦して「李下に冠」理解せず 佐藤吉男

   詳細は御用新聞読めと言い   下道信雄

   記録ない確認できない記憶ない 西村健児

新元号はいらない。「もりかけ」の元号で十分ではないか。来年も再来年も、「もりかけ」問題追求の年にしよう。

いずれにせよ、政治の貧困は流行語に表れる。
(2017年12月5日)

弁護士自治とは、人権擁護を職責とする弁護士の重要な砦である。

産経新聞の記者から、以下のメールをいただいた。趣旨は、インタビューの申込みである。

「先生に取材をお願いしたく、連絡させていただきました。
弊紙では、今年4月から、「戦後72年 弁護士会」という企画を掲載しております。 弁護士会の戦後の歩みを振り返るというもので、これまでに以下のようなテーマ・概要で記事を掲載いたしました。

第1部 政治闘争に走る「法曹」=近年の会長声明や意見書などから安全保障など各分野への日弁連の姿勢を考察
第2部 左傾のメカニズム=日弁連会長選挙など弁護士会の仕組みを紹介
第3部 恣意的な人権・平和=拉致や国旗国歌など戦後の各問題への日弁連の姿勢を考察
第4部 左傾の源は憲法学=東大法学部が牽引した戦後憲法学が現在の改憲議論などに与えた影響を考察

12月初旬ごろから掲載予定の第5部では「揺らぐ土台」というテーマで、弁護士会の地殻変動につながる可能性のある事象を考察したいと考えております。
具体的には、5回構成で、
?法科大学院世代の逆襲…法科大学院出身で「弁護士会の任意加入制の導入」を訴える弁護士が、東京弁護士会正副会長選挙に出馬したことなど
?波乱含みの救済制度…弁護士による横領被害者に見舞金を支払う制度をめぐる賛否など
?日弁連VS新興勢力…ウェブ広告をめぐる懲戒処分や、長野県、千葉県弁護士会への入会を求める訴訟など、アディーレと弁護士会をめぐる対立など
?淘汰される法科大学院…学生募集停止が相次ぎ、予備試験に後塵を拝する法科大学院の苦境など
?加速する弁護士離れ、廃業宣言も…司法試験に合格しても弁護士会に登録せずに企業内弁護士として活動するなど
を取り上げたいと考えております。

つきましては、?の記事の関係で、先生に、弁護士自治のあり方などについて、ご意見を伺えないでしょうか。
?では、平成27、28年の東京弁護士会正副会長選挙に立候補した赤瀬康明弁護士(64期)が、
「弁護士会の任意加入制の導入」、「弁護士会費の半減」「委員会活動などの事業仕分け」を訴えたことを取り上げる予定です。
先生は、両年の選挙についてブログで複数回、見解を示されていらっしゃいますが、改めて、
◎そもそも、なぜ弁護士会は強制加入制度をとっているのか(弁護士自治の必要性)
◎「弁護士会の任意加入制の導入」を訴える候補が立候補したこと、また、その得票数などをどうとらえていらっしゃるか
という点について、ご意見を伺えればと思っております。」

ご親切なことに、第1部から第4部までの過去の記事をPDF添付で送っていただいた。いやはや、なんとも凄まじい日弁連に対する「左傾化」批判。さすがは産経、なのである。

きれいはきたない、きたないはきれい。みぎはひだりだ。ひだりもひだり。産経から見れば、全てが「左傾」。そんな産経と私は折り合いが悪い。これまで何度か、インタビューやコメントを求められたが、全てお断りしてきた。「貴紙の論調に違和感がある」「貴紙に協力したくない」と、明確に理由を述べてのことである。

しかし、今回は自分が書いたブログの記事に目を止められての取材要請。自分の書いたものには責任を持たねばならない。そう考えて、インタビューをお受けし、本日産経の記者に会った。

そのブログが、下記のとおりだ。

今年は平穏無事だー2017年東京弁護士会役員選挙事情 (2017年2月7日)
https://article9.jp/wordpress/?p=8108

東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ(2016年2月1日)
https://article9.jp/wordpress/?p=6329

野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(2016年1月29日)
https://article9.jp/wordpress/?p=6309

東京弁護士会役員選挙結果紹介?理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4409

弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4313

産経と私の間には、越えがたい深い溝がある。私がしゃべったことがどんな記事になるかは、予想しがたい。産経側の意図がどんなものであったとしても、言うべきことは言っておきたい。

当然のことながら、産経にも言論の自由がある。しかし、率直に言って産経にほめられるような日弁連であってはならないし、私の望むところでもない。

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「そもそも、なぜ弁護士会は強制加入制度をとっているのか(弁護士自治の必要性)」

弁護士の弁護士会への強制加入制度は、弁護士自治と表裏一体の関係にある。弁護士会に自治を認め、行政からの統制を遮断して、会に会員の入退会や指導監督の権限を委ねる以上は、一元的な弁護士管理の必要上、単一の弁護士会に全弁護士の所属が求められる。強制加入は、弁護士自治の当然の帰結なのだ。

ではなぜ、弁護士の自治が必要なのか。ことは弁護士という職能の本質に関わる。弁護士とは、基本的人権の擁護をその本務とする。人権を誰から擁護するのか。まずは公権力からである。弁護士は在野に徹し公権力から独立していなければならない。

弁護士が国民の人権の守り手として公権力と対峙するときに、公権力が、その弁護士の活動を嫌って弁護士の行為を制約し、あるいは身分の剥奪をはかるようなことが許されてはならない。弁護士の身分が権力から独立してはじめて、十全の人権擁護活動が可能となる。弁護士の身分は、権力からの統制を完全に遮断した弁護士団体によって保障されなければならない。これが、弁護士の自治である。

国民の人権は、公権力からだけではなく、資本からも、あるいは社会の多数派からも侵害の危険にさらされる。個々の弁護士が人権擁護活動を行うとき、資本や社会の多数派とも果敢に切り結ばねばならない。そのとき、弁護士会はそのような任務を遂行する弁護士を、こぞって支援しなければならない。そのために、会は公権力からだけではなく、資本からも、多数派からも独立していなければならない。

法は人権擁護のためにある。法がなければ、この世は無秩序な弱肉強食の世界だ。法あればこそ、合理的な秩序が形成され、強者の横暴を押さえて弱者の人権が擁護される。人権侵害に対する最後の救済手段が訴訟であり、訴訟の場において人権擁護のために法を活用する専門家が弁護士である。弁護士とは、そのような基本的任務を負うものとして、社会に必要とされる。弁護士会とは、そのような弁護士の活動を相互に支援することを任務とする。社会的な圧力から、個別の弁護士の活動を守るために、弁護士会がある。

戦前、弁護士自治はなかった。弁護士は司法省・検事局の統制の下にあった。人権擁護の守り手としての弁護士の活動は、司法省によって制約された。布施辰治も、山崎今朝弥も、その弁護活動を咎められて懲戒を請求され、弁護士登録抹消となり、あるいは業務停止となった。労農弁護士団事件では、治安維持法違反被告事件を弁護した弁護士が、共産党の目的に寄与する行為があったとして、有罪となり弁護士資格を剥奪された。これに、弁護士会が抗議の声をあげることはなかった。

これは、一握りの弁護士の問題ではない。もっとも厳しく権力との対峙をした局面における象徴的事件なのだ。その余の弁護士にとっての見せしめでもあった。こうして、弁護士が真っ当にその任務を果たすことのできない時代には、国民の人権は惨憺たるありさまとなった。

戦後、弁護士自身の起案による、新弁護士法が制定された。政府はこれを歓迎せず、閣法としなかった。そのため、49年制定の現行弁護士法は議員立法として成立した。言うまでもなく、新弁護士制度の中心には、確固たる弁護士自治が据えられている。

弁護士自治は、弁護士のためにあるのではなく、国民の人権擁護のためにあるのだ。「自治などどうでもよい」「任意加入でよいではないか」など、弁護士本来の任務を忘れた妄言を、軽々しく発してはならない。
(2017年12月4日)

「官僚養成学校」の片隅にひっそりと咲いた叛骨の文化

63年入学の澤藤から、幹事の一人として、閉会の辞を申しあげます。
本日は、楽しく有意義な「Eクラス」合同同窓会の集いをもつことができました。お互い、元気な姿で集まることができたことを喜びた合いたいと思います。参加者は、51年入学組から67年組までの48名でした。

自分自身を形づくる時期を青春というのなら、まぎれもなく、ここ駒場に私たちの青春がありました。その青春の時期を想い起こすには、その場所に赴き、その時を共にした友人と語り合うこと。本日は、そのような機会であったと思います。その青春の時期に抱いた理想を想い起こすことは意味あることではないでしょうか。

51年入学の石川忠久さんの開会の辞の中に、当時の想い出として「血のメーデー」で警官に殴打されて負傷した同級生のお話しが出てきたことに驚きました。田仲一成さんのスピーチには大講堂での山村工作隊員募集の件もありました。その後に60年安保の時代があり、フランスの中国承認があって、米中の和解や日中国交回復が「Eクラス」の消長にも大きな影響を与えることになりました。

それぞれの時代の背景事情が、そのときどきの学生に大きなインパクトを与えてきました。その時代を超えて、私たちは、何を共通のバックボーンとしたのでしょうか。おそらくは、思想とか信条というものではなく、権勢にも多数派にもおもねることを潔しとしない心情とか感性であったような気がします。

それは富貴を求めず、名声や権力を指向しない生き方。叛骨・在野の精神を矜持としてもつ生き方の感性ではなかったかと思うのです。本日は、あらためて、そんなことを確認する機会ではなかったでしょうか。

また来年、集まりましょう。それまで健康にお気を付けてお過ごしください。

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本日(12月3日)は、恒例となった学生時代の同窓会。東大教養学部で第2外国語に中国語履修を選択した「Eクラス」の各期48名が参集して和気あいあいのうちに歓談した。度々の引用となるが、下記の詩のとおりである。

 同榜 同僚 同里の客
 班毛 素髪 華筵に入る
 三杯 耳熱くして歌声発す
 猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを

(註 「同榜」は合格掲示板に名を連ねた同窓の意。「素髪」は白髪頭。「班毛」はごま塩頭。いずれも老年を指す。「華筵」はにぎやかな饗宴のこと)

拙訳はころころ変わる。今は、こんなところ。

 口角に泡を飛ばしたあのころの
 古き友らと宴の席に
 飲んではしゃいで語って熱い
 おれもおまえも変わらない

教養学部のクラス編成は第2外国語の選択で編成されている。私が在籍した当時、文系の第2外国語は独・仏・中の3語だけ。ドイツ語の既修クラスがA、未習がB。フランス語既修がC、未習がD。そして、中国語が未習のみで「Eクラス」を作っていた。なお、理系には中国語はなく、ロシア語のFクラスがあった。1963年入学者のEクラス総勢は27名。ほぼ3000名の入学者の内、中国語を学ぼうという者は1%に満たなかったのだ。

当時中国語を学ぼうという学生の多くは、49年の中国革命に大きな関心をもつ者であった。かなりの部分がその思想や実践を肯定的にとらえていたと思う。もちろん、圧倒的な少数派。それに、工藤篁という特異なキャラクターをもつ教師の個性が加わって、「国家経営の官僚養成学校」の片隅に叛骨の文化がひっそりと咲いたのだ。あれ以来、少数派であり続けてきた思いがあるが、そのことに悔いはない。
(2017年12月3日)

天皇代替わりに、国民意識操作への警戒を

昨日(12月1日)開催の皇室会議なるもので、天皇代替わりの日程がほぼ決まったようだ。2019年4月30日に現職が退任し、同年5月1日に後任が就任することになる模様。

2019年4月30日から5月1日へ日付が変って…、なにが起こるわけでもない。当事者の父子や、その家族には大きなできごとではあろうが、国政に関する権能を有しない公務員職の交代が、政治にも行政にも何の意味も持つはずはない。というよりは、意味をもってはならないのだ。せいぜいのところ、国民にとって切実に意味を持つのは、皇室予算がどれだけ増えるかである。このことには、大いに関心をもたざるを得ない。

天皇の代替わり自体に格別の意味はない。御名御璽の、ギョメイが、「明仁」から「徳仁」に変更されるだけ。これを大事件と騒ぎたてて国民意識を操作し、代替わりを意味あるものとしたい。それが、伝統右翼の目論むところであり保守政権の立場でもある。自立した主権者の側としては、この大騒ぎを警戒しなければならない。ところが、メディアが、右翼のお先棒かつぎに一役買っているのが気になるところ。

代替わりに際して、幾つかの留意点ないし警戒すべき点がある。
☆祝意の強制を許してはならない。
☆厳格に政教分離の原則を貫かなければならない。
☆「平成」の終焉を機に日常生活から元号使用をなくしたい。
☆「日の丸・君が代」、元号、祝日などの小道具を使っての天皇制刷り込みに注意。
☆これを好機とした天皇制ナショナリズム鼓吹を警戒しよう。

ところで、本日の各紙が社説に天皇代替わり問題を取り上げている(朝日の社説は、この話題に触れていない)。概してお先棒担ぎの提灯社説。とりわけ、案の定というべきではあろうが産経がひどい。読むだに恥ずかしくなる。

見出しだけ並べてみよう。
産経 「譲位日程固まる 国民はこぞって寿ぎたい」
読売 「天皇退位日 代替わりへ遺漏のない準備を」
日経 「退位・改元の準備を滞りなく進めよう」
毎日 「天皇陛下の退位日決まる 国民本位を貫く姿勢こそ」
東京 「天皇の退位と即位 国民の理解とともに」

リベラルなはずの毎日や東京も、天皇を論じるとなるとまことに歯切れが悪くなる。歯の浮くようなお追従もあちこちに見える。それだけ、社会的な圧力が強いということなのだ。読売が本文はともかく見出しでは「天皇退位」と「陛下」を抜きにしているのに、毎日が「天皇陛下の退位日」とは情けない。

産経は、見出しで「国民はこぞって寿ぎたい」という。おかしな日本語ではあるが、意味の忖度は可能だ。しかし、私は「寿ぎたくない」し、「けっして寿がない」。そして、今どき「国民こぞって」なんてこの上なく薄気味悪い。祝意の強制はまっぴらご免だ。

私は、北朝鮮指導者の事実上の世襲体制を唾棄すべき遅れた社会のあり方と思う。その代替わりのイベントも、祝意を国民に押しつけるものとして醜悪な印象をもった。しかし、あれは、天皇制の亜流なのだ。ルーツは明らかに日本にある。戦前の天皇制が、植民地に押しつけたものなのだ。宮城遙拝、ご真影への敬礼、教育勅語奉戴などによって叩き込まれた天皇への敬意や祝意の強制の残滓が、いま北朝鮮では金正恩への讃辞となり、日本では産経の社説におどっているのだ。

産経社説はいう。「立憲君主である天皇の譲位は、日本にとっての重要事である。一連の日程が固まったことを喜びたい。いよいよ譲位や即位、大嘗祭、改元の準備が本格化する。」「安倍晋三首相が「国民の皆さまの祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしてまいります」と表明したことは重い。」「譲位の日取りは、…200年ぶりとなる、譲位による御代替わりを、国民こぞって寿ぐことにもふさわしい。」「国の始まりから日本の君主であり、国民統合の象徴である天皇にふさわしい代替わりを実現することが大切である。」

ムチャクチャだが、いったい、なぜ、何が、寿ぐべきことなののだろうか。時代錯誤も甚だしい産経のことだ。もしかしたら、「金甌無欠なる我が國體が連綿として天壌無窮なること」などと言い出しかねない。

産経社説の一節が別な意味で興味を惹く。
「陛下は平成31年4月30日に皇位を退かれる。5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位され、改元が行われる。」

ここでの、「5月1日」は、もはや平成ではない。だから、「同年5月1日」とは言えないことになる。平成31年4月30日の次の日である5月1日は、新元号を冠した日付の初日になるはずだが、新元号は未定であるから、日付の表記ができない。

だから、産経を除く他の全ての社説が、元号が替わる予定の年を「2019年」と西暦で表記している。たとえば、読売でさえ次のように。

「2019年4月30日に天皇陛下が退位される。5月1日に皇太子さまが天皇に即位され、この日から新元号となる。」

この読売調なら論理的に不自然さはない。産経のように元号使用にこだわるから、滑稽なことになる。いや、はからずも、産経社説は元号使用にこだわることによって、将来の歴年を表記できない元号の致命的欠陥を露わにしているのだ。

日経の社説は、締まりのないおざなりなものだが、看過しがたい一文がある。
「政府や企業は今後、退位と改元に向けたさまざまな準備を遅滞なく進める必要がある。」というのだ。唐突に出てきた「企業」の2文字。代替わりイベントで儲けようというのなら資本主義的合理性に支えられた健全さかも知れない。ここでは、官民一体となった、祝賀ムード作りが「企業」に求められているのだ。そのような役割が企業に求められ、企業を介して、国民全体に社会的同調圧力が及ぶことになるのだ。

天皇制とは、面従腹背の文化にほかならない。腹の中ではどう思っていようとも、天皇を語るときは、「国民をいたわってくださるありがたい存在」「常に、国の平安を祈っておられる立派な方」と言わなければならない。皇室の話題は、常に「おめでたい」「心が明るくなります」なのだ。弔事には、「おいたわしい」「国民全体の不幸」が決まり文句。この点、戦前とも北朝鮮とも同様なのだ。

そのような社会的同調圧力の空気を醸成しているのが、毎日や東京も含むメディアであることを強く意識せざるを得ない。厳格な政教分離の要請など、出てこないではないか。各社・各紙、これでよいのか。猛省を促したい。
(2017年12月2日)

「浜の一揆」訴訟結審の法廷での意見陳述ー漁業の「民主化」こそが指導理念だ

本日は、盛岡地裁「浜の一揆」訴訟第10回の法廷。最終準備書面の交換があって結審した。その結審の法廷で、原告側が最終準備書面を要約した下記の意見陳述を行った。

判決言い渡しは2018年3月23日(金)15時と指定された。手応え十分とは思うが、判決は言い渡しあるまで分からない。しばらくは、まな板の上の鯉にも似た心境である。

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原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。

原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する領民の抵抗であり、藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。
一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。これが、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのだ。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。

 本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。

 漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。

もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。

 この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。

この法律を具体化した岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。

 したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。

なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。

一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。

 お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。「調整」を要する一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。一方、原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどと言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして頑なに、現状に固執しなければならないのか。これに対する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。

「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、許されることでしょうか。

また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われています。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。

 水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。

 弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。

貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、お願いして、代理人陳述といたします。

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閉廷後の報告集会に、当ブログを見て参加という方が現れて驚いた。毎日書いている苦労が報われる思い。

昨日も、「「憲法日記」読んでいます」という方にお目にかかった。そのあとに、「長い文章で読むのがたいへんだけど」と付け加えられた。そうなのだ。短く、的確な表現は難しいのだ。そんな難しい技をこなせるようになるには、あと10年もかかるのではないだろうか。
(2017年12月1日)

共産党都議団、いやがらせ都教委に「日の丸・君が代強制」反対の申し入れ

都内の公立校では、卒業式や入学式の直前に、全教職員の一人ひとりに対して「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」よう、文書による職務命令が発せられる。2003年の「10・23通達」以来繰り返されている異様な風景だ。

「職務命令があろうとなかろうと、起立できない」とする教員がいる。「命令なければ起立も斉唱もするが、教育の場にあってはならない命令には従えない」という教員もいる。こうして、毎年起立できないとする教員に、懲戒処分が繰り返され、処分取消の訴訟も繰り返されている。

9月15日の「東京君が代裁判・第4次訴訟判決」では、原告6名についての7件の減給・停職処分が違法な処分として取り消された。都教委は、その内5名・5件の処分については控訴を断念し処分取り消しは確定した。ところが、これで話しは終わらない。なにしろ相手は、執念深い都教委だ。裁判に負けて、司法から「都教委の処分は違法。だから取り消す」と言われても、恥ずかしいとはおもわない。絶対に謝罪も反省もしない。できるいやがらせは最大限やろうという根性。その具体化が、まだ退職せずに在籍している教員にたいする「再処分」である。

再処分とは、減給が重すぎるとして取り消されたから、もう一度同じ「職務命令違反」に対して戒告の処分をし直そうということなのだ。せっかく裁判に勝った教員は、もう一度フルコースで、行政手続と訴訟手続をやり直すことになる。

その行政手続の最初が、バカバカしい2度目の事情聴取となる。本日(11月30日)午前、一人の教員に対する、再処分・事情聴取が行われたが、これに先立ち、日本共産党東京都議会議員団(18名)は、都教委(中井教育長)に対して「『日の丸・君が代』にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ」を行った。都教委側は江藤人事部長が対応し申し入れ書を受け取ったという。

本日夕刻、たまたま文京区出身の都議を永く務め、このほど勇退された小竹紘子さんの「ご苦労様パーティー」があった。小竹さんは、今回都議改選まで都議会文教委員会委員長を務めた方。今は、小竹さんに代わって、やはり共産党の里吉ゆみさんが文教委員長となっている。

パーティーで里吉さんと言葉を交わした。「君が代裁判の原告団も弁護団も、決してあきらめません。闘い抜く覚悟ですからご支援を」と言ったところ、里吉さんも、「私たちも決してあきらめません。本日もその問題で都教委に党の議員団として申し入れを行いました。明日の赤旗をご覧ください」。打てば響くような、力強いご返答。

その申入書は、日本共産党東京都議会議員団HPで見ることができる。

「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
https://www.jcptogidan.gr.jp/category01/2017/1130_784

その全文が以下のとおり。
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2017年11月30日
東京都教育長 中井 敬三 殿
日本共産党東京都議会議員団
「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
東京地方裁判所は9月15日、教職員が入学式や卒業式で「君が代」斉唱時の起立斉唱を命じた職務命令の拒否を理由とする、懲戒処分の取り消しを求めた裁判の判決を出しました。6名、7件の減給・停職は相当性を基礎づける具体的事情がなく、社会通念上著しく妥当性を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示すと同時に、不起立の回数のみを理由とする加重処分を断罪しています。
この間の訴訟では63名、73件にのぼる処分を違法とする判決が出ています。今、教育委員会としてなすべきは、教職員への謝罪と名誉回復・権利回復です。
ところが教育委員会は、5名については控訴を断念し処分取り消しは確定しましたが、1名については控訴しました。処分取り消しが確定した原告からは、中井教育長あてに謝罪を求める申し入れもされていますが、何の回答もしていません。
さらに、処分取り消しが確定した原告のうち、現職の都立高校教員2名について、減額分の給料も支払わないまま事情聴取を行おうとしており、新たに戒告処分という「再処分」をする意図があると推測せざるを得ません。
教育委員会の対応は、国旗に向かって起立し斉唱することなどを命じた職務命令が、思想および良心の自由について間接的な制約となり得ることを認め、自由で闊達な教育のために、すべての関係者の真摯で速やかな努力を求めた最高裁判決にも反し、教育行政としてもふさわしくありません。
よって日本共産党都議団は、以下の4点について申し入れます。

1、今回の東京地裁判決で処分が取り消された教職員に対し、再処分のための事情聴取および再処分を行わないこと。1名の控訴を取り下げること。

2、処分取り消しが確定した5名の原告に謝罪し、直ちに名誉回復・権利回復措置を行うこと。処分が取り消された旨を、都教育委員会ホームページで公表すること。

3、原告らが強く求めている話し合いに応じるとともに、学校現場で自由闊達な教育が実施できるよう、教育行政のあり方を改善すること。

4、10・23通達を撤回し、校長の職務命令、累積加重処分、再発防止研修などの「日の丸・君が代」を強制するための一連のやり方を抜本的に改めること。
以上

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「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制問題は、多面性をもっている。立憲主義にも関わる、国家観・歴史観にも関わる。ナショナリズムの問題でもあり、人権の問題でもある。そして、教育の本質に関わる問題でもある。なによりも、国民の価値感の多様性の保障に関わる問題と思う。別の言い方をすれば、社会の寛容度に関わる問題なのだ。日本共産党が、社会の寛容度を最大限化することにもっとも、熱心であることが興味深い。

今日も、「第4次訴訟」控訴理由書作成のための弁護団会議だった。その中で、一人の弁護士が呟いた。「結局は外的な圧力で集団的な統制を徹底したいというのが、都教委や保守派のホンネなんだ。その統制徹底の姿が、北朝鮮や中国の議会や集会じゃないか。あれを理想だとするのが、都教委であり10・23通達の思想なんだ」。

石原慎太郎や小池百合子、そして自民党も、実は北朝鮮流の一糸乱れぬ集団的統制が大好きで憧れているのではないだろうか。私は、人間をコマと扱うああいう集団統制は、虫酸が走るほど大きらいだ。天皇制日本やその亜流である北朝鮮の集団的統制を許容する世の風潮はまっぴらごめん。だから闘い続けようと思い定めている。
(2017年11月30日・連日更新第1705回)

「現状変えればなんでも革新」? それはないでしょう

本日(11月29日)の毎日新聞夕刊で、詩人アーサービナードが、「日本語は消滅に向かっている」と嘆いている。彼は、本気で日本語の衰退を心配しているのだ。その最大の原因は安倍晋三に象徴される対米従属にあるという。鋭い詩人の感性がそう言わせている。

詩人でない私には、そこまでの危機感はない。しかし最近戸惑うことが多い。言葉が時代とともに移ろうことは避けられないが、これが急激に過ぎると、コミュニケーションに支障をきたすことになりかねない。

極端に至れば、真理省のスローガンとなる。
 戦争は平和である (WAR IS PEACE)
 自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
 無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)

既に、「保守」と「革新」のイメージが、若者層ではすっかり様変わりしていると話題になっている。
 革新とは、現状を変えること。
 保守とは、現状を肯定することだ。
 だから、「憲法改正」は革新で、「憲法守れ」は保守なのだ。
 したがって、自民党が革新で、共産党は保守である。

この「論理」は、「革新」の代わりに、「リベラル」あるいは「改革派」の用語でも語られる。これは、真理省一歩手前ではないか。

 改憲阻止運動をめぐる議論も込み入ってきた。「護憲的改憲論」もあれば、「改憲的護憲論」もあるそうだ。妖しげな人物が、「護憲のための改憲論」を喧伝している。「9条の理念を実現するための9条改憲論」、「保守に先制した改憲論」もあるという。はて、なんとも面妖な。問題は、言葉の変遷だけの問題ではなさそうだ。まさしく、真理省のスローガン状態。「新九条論」はさまざまなパターンに細分化しつつあるようだ。

たまたま、室橋祐貴という若いライターの文章を目にした。

若い世代の自民党支持率は高く、今回の衆院選でも、18?19歳の47%、20代の49%(ANN調べ)が比例で自民党に投票したという。しかし、けっして若者が「保守化」しているのではなく、若者基準では自民や維新こそが「改革」ないし「リベラル」で、「共産党」や「民進党」は現状維持の「保守」なのだそうだ。

「自民党支持の結果から、若者は「保守化」していると見られがちだが、若者から見れば、自民党は「改革派」であり、決して現状維持を望んでいる訳ではない」。なんだ、そりゃ?

「特に10代や20代前半にとっては政権末期の民主党や、民主党政権時代の「自民党=野党」のイメージが強く、「改革派」の自民党、「抵抗勢力」の野党(民進党、共産党)という構図で捉えているようだ。」という。

その室橋が紹介する若者の意見に驚かざるを得ない。

「自民党は働き方改革やデフレ脱却など、抜本的ではなくとも、悪かった日本の景気や雇用状況を改革しようとしているように見える」

「野党はアベノミクスに変わる経済政策の具体策を提示できておらず、単に自民党政権の政策を中止しろと言っているだけ。年功序列とか前時代的な給与・労働体系を守ろうとする現状肯定派であり、旧来の枠組みから脱出することのない保守的なものに映る」

そして、極めつけは、中学3年の男子学生(15)の言。「共産党や民進党は政権批判ばかりしていて、共産主義も過去の時代遅れの思想で古いイメージが強い。自民党は新しい経済政策で株高などを実現させており、憲法改正も含めて改革的なものを感じる」。

15歳が共産主義を「過去の時代遅れの思想」と言う時代なのだ。かつての天皇制権力は、15歳を洗脳して多くの軍国少年を作りあげた。今の資本主義社会は、労せずして、15歳を反共主義者とすることに成功している。資本主義批判のもっとも、根底的で体系的な思想としての共産主義が15歳児に貶められているということなのだ。

保守と革新の用語の使い方には、暗黙の前提があったはず。それは、歴史はある法則性をもって進歩していくという考え方だ。独裁から民主へ。権力の専制から人民の政治的自由へ。全体主義から個の確立へ。人権の軽視から重視へ。身分的差別から平等の確立へ。機会の平等から結果の平等へ。格差のない経済社会へ。戦争から平和へ。ナショナリズムからインターナショナリズムへ。そして、搾取と収奪と抗争を克服した社会へ…。

漠然としたものではあっても、このような歴史の進歩を押し進めようとするのが「革新」の立場であり、これを押しとどめようとするのが「保守」。歴史を逆行させようというのは、「反動」と呼ばれる。

現状を変更しようという試みも、それが歴史の方向から見て退歩であれば「保守」か「反動」の挙であって、「革新」とは言わない。その退歩を押しとどめようというのは、現状維持でもまさしく「革新」の事業である。

今、歴史のジグザグの中で、革新が十分な力量をもっていない。本来であれば、「革新」の立場は、よりよい憲法を目指す真の意味での改憲でなくてはならない。とりあえずは、天皇制を廃止して身分制度の残滓を一掃すること。ナショナリズムを克服して、全ての人種・民族に徹底した平等を保障すること。すべての人の生計の基盤を実質的に保障すること。国民世論の分布を正確に議会に反映する選挙制度を作ること、などが考えられる。

しかし、現実にはこれが難しいから、今精一杯現行憲法を守っているのが「革新」の立場。これを敢えて逆行させようというのが自民党。現状変更でも、「平和から戦争へ」という逆行の改憲なのだから、これを「革新」とは呼ばないのだ。ゆめゆめお間違えなきよう。
(2017年11月29日・連日更新第1704回)

「浜の一揆」訴訟 ― 12月1日(金)結審へ

盛岡地裁での「浜の一揆」訴訟は、いよいよ大詰め。12月1日(金)13時30分開廷の口頭弁論期日で原被告双方の最終準備書面を陳述して結審となる予定。その次の期日には判決言い渡しである。

この訴訟は、サケ漁の許可をめぐってのもの。岩手の河川を秋に遡上するサケは、三陸沿岸における漁業の主力魚種。「県の魚」に指定されてもいる。沿岸漁民がこのサケで潤っているだろうと思うのは早とちりで、実は三陸沿岸の漁民は、県の水産行政によって厳格にサケの捕獲を禁じられている。うっかりサケを網にかけると、最高刑懲役6月。漁船や漁具の没収という罰則まで用意されている。

では誰がサケを獲って潤っているのか。大規模な定置網業者なのだ。漁協であったり、漁協幹部のボスであったり、株式会社だったり。零細漁業者は閉め出されて、大規模業者だけがサケを獲っている。これっておかしくないか。

岩手沿岸の漁民の多くが、この不合理を不満として、長年県政にサケ捕獲の許可を働きかけてきた。とりわけ、3・11被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、請願や陳情を重ねたが、なんの進展も見ることができなかった。

そこで漁民が「浜の一揆」に立ち上がったのだ。嘉永・弘化の昔なら、「小○」のむしろ旗を先頭に藩庁を目指して押し出したところだが、今の時代のそれに代わる手段が行政手続であり行政訴訟の提起である。だから、この訴訟は「一揆」の心意気なのだ。

原告が本訴訟を「浜の一揆」と呼んでいるのは、岩手県の行政を、かつての南部藩の苛斂誅求になぞらえてのことだ。また、漁業の民主化とは名ばかりのこと、実は浜の社会構造は藩政時代の身分的秩序と変わらないではないか、との批判もある。当然に、県政にとっては面白くない批判である。県政の庇護のもと既得権益をむさぼっている浜の有力者や漁協の幹部たちにとっても愉快なことではなかろう。

このことについて、被告の最終準備書面で一言あった。やっぱり気にしているのだ。このネーミング、多少は効いているんだ。

原告らが本訴訟を「一揆」と呼んでいることについて、被告岩手県は最終準備書面において、こう述べている。
「原告は、本件訴訟を『県当局が漁民らを不当弾圧していることへの浜の一揆』だと主張している」。「仮に、原告らが『地域の漁業関係者の理解のもと固定式刺し網漁業によりサケの採捕を自由に行い地域に貢献しつつ幸せに暮らしている光景』なるものが過去に存在し、それを被告が不当な事情で踏みにじったなどという事情が存在するのなら、それを改めようという紛争は、『一揆』と表現するに相応しいのであろう。」「しかし、固定式刺し網漁業によるサケの採捕の禁止は、かつて漁民らが自由に行っていたものを禁止したのではなく、何十年も前から漁業者内部で行われるべきではないものという共通認識がなされていたものを当時の漁業者の総意を受けて明文化したものに過ぎない」

私流に被告の言い分を翻訳すれば、次のようなことだ。
「仮に、三陸の漁民が『漁業界のボスたちの了解のもとにサケの捕獲を自由に行い、県政からも咎められずに幸せな漁民としての暮らしを送っているという光景』なるものが過去に存在し、それを県政がぶち壊したというのなら、それを「元に戻せ」という紛争は、『一揆』と表現するに相応しい」。しかし、「そんな過去の光景はなかったではないか。」「零細漁民は、何十年も前から、ずっと漁協やボスの支配下にあって、大っぴらにはサケを獲ってはならないとされていたのだ。」「県政のサケの採捕の禁止は、それを明文化したものに過ぎない。」「だから、一揆というのは怪しからん」

また、この点についての原告最終準備書面の一節を引用しておこう。
「被告は『原告らは、固定式刺し網によるサケの採補が認められていないせいで本県の漁業後継者の育成及び漁業の継続が不可能になると主張するが、本県では従前から固定式刺し網によるサケの採補は認められていないから、原告らの主張をあてはめると本県漁業関係者はすでに壊滅的な状態になっているはずで、そうした非現実性に照らしても、原告らの主張は理由がない。』という。

しかし、被告(岩手県)作成の漁業センサス確報2013年版によれば、1988年岩手県の漁業経営体の数は8129であった。これが、10年後の1998年は6080になった。2008年には5313に、そして2013年には3365に減少している。

25年間で経営主体数の6割が減少しているのである。もはや、「壊滅的」と表現するほかはない。経営が成り立たず、後継者もいないことから、多くの漁師が毎年廃業している現実を、被告県は、全く重大視していないのである。原告らは、原告本人尋問などで、その苦しい経営状況を明らかにした。…貴裁判所には、現実を凝視した上での判断を要望する。」

かつての一揆の原因には、まず困苦があった。そして藩政の非道への怒りがあった。さらに、多数人の反骨と組織力があっての決起である。浜の一揆も同様である。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。どうして、漁協と浜のボスだけにサケを獲らせて、零細漁民には一切獲らせないというのだ。こんな不公平が許せるかとの怒りだけではない。原告らには知恵も団結力もあるのだ。こうして成立した浜の一揆なのだ。

一揆の参加者は、ちょうど100人である。沿岸漁民が、2014年に3次にわたって岩手県知事に対してサケの固定式刺し網漁の許可申請をし、これが不許可となるや所定の手続を経て、岩手県知事を被告とする行政訴訟を盛岡地裁に提起した。その提訴が2015年11月のこと。以来、2年で結審となる。

訴訟の請求の趣旨は、不許可処分の取消と許可の義務付け。許可の義務付けの内容である、沿岸漁民の要求は、「固定式刺し網によるサケ漁を認めよ」「漁獲高は無制限である必要はない。各漁民について年間10トンを上限とするものでよい」というもの。

請求の根拠は次のようなものだ。
三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点である。漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲しようというのだから、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければならない。

この憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ない。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その自由の制約も可能となる。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約はできないということになる。

この合理性・必要性に支えられた理由を法は2要件に限定している。漁業法65条1項は「漁業調整」の必要あれば、また水産資源保護法4条1項は「水産資源の保護培養」の必要あれば、特定の魚種について特定の漁法による漁を、「知事の許可を受けなければならない」とすることができるとする。それ以外にはない。

これを受けた岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めている。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければならない。

したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となる。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならない。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、この理由がないことは明確になったといってよい。問題は、「漁業調整の必要」という曖昧な理由の有無である。その指導理念は、漁業法に特有の「民主化」でなくてはならない。本件では、漁協存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われている。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのか。

定置網漁業者の過半は漁協。被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」という。県政は、これを「漁業調整の必要」と言っている。しかし、「漁業調整の必要」は、漁業法第1条が、この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法の視点から判断をしなければならない。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行ではないか。漁民と漁協、その主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想にほかならない。

また、水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、法の理念に真っ向から反することではないか。

「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではない。万が一にも、裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」などという倒錯した主張を採用してはならない。
12月1日(金)結審の「浜の一揆」訴訟にご注目いただきたい。
(2017年11月28日・連日更新第1703回)

市民と野党の共闘候補に「隠れ改憲派」はふさわしくない。

10月20日投開票の第48回総選挙。あれから既に1か月余が過ぎた。自分なりに腑に落ちる総括をしなければと思いつつ、なんとも落ちつかぬままで、まとめきれない。総括の最重要問題は共闘のあり方だ。

世論調査に表れた民意はけっして改憲支持ではなく、とりわけ9条改憲に賛成ではない。ところが、1996年総選挙で小選挙区制導入以来、憲法擁護を掲げる少数野党は勢いを殺がれ、今や議席の80%超が「改憲派」である。明らかに、民意と議席数に乖離が生じている。国会の中に「3分の1の堅固な壁」が築かれていたのは、はるか昔語りのこと。

小選挙区制を所与の前提とする限り、改憲を阻止するには、改憲阻止を掲げる政党や無党派市民との共闘が不可欠である。しかし、現実の問題として共闘は難しい。小選挙区候補として誰を立てるべきか。当然に、改憲阻止の一点で党派を超えた信頼を勝ち得る人物であるべきだが、これがなかなか人材を得にくい。

私の地元(東京2区、文京・台東・中央・港)の経験は一つの典型ではないか。貴重な教訓でもあると思う。

東京2区では共産党と立憲民主党との共闘が成立した。自民候補(辻)と、共闘候補(松尾)、そして希望の党候補(鳩山)の三つどもえとなり、自民党(公明推薦)候補が勝った。野党共闘候補は次点となって、比例復活もならなかった。新人としては健闘したとの評価もある。注目すべきは、比例代表の共産党票は激減した。その結果もあって、改憲阻止の政治戦において貴重この上ない東京比例区からの共産党候補の当選者は2名にとどまった。前回3名からの後退である。

観念的には、野党共闘の必要性は当然のことだ。問題はその候補者。東京2区で、ばたばたと決まった候補者選定の経過の詳細は知る立場にない。共産党が突然に予定候補を下ろして立憲民主党公認の松尾明弘という若い弁護士を政策協定ないままに、共闘候補者とした。この候補者、これまでどんな分野でどんな活動をしてきた人物かはまったく知らない。人権や平和に関する活動をしてきた人ではない。なにを訴えたくて、政治家を志したのか、選挙が終わったいまも、よく分からない。

松尾明弘の選挙用ホームページには、「護憲」の2文字はない。「改憲阻止」も、「憲法理念の実現」もない。安倍改憲阻止が最大の政治課題となっているときに、これに触れるところがないのだ。

彼が政策のトップに掲げるのは、次のレベルである。
1. 安全保障(外国の脅威から国を守る)
現実的で抑制的な安全保障政策を進めます。「専守防衛に徹し、近くは現実的に、遠くは抑制的に、人道支援は積極的に」との基本理念に基づき、日米同盟の深化を図ります。
2. 憲法について(国家の暴走を許さない)
未来志向の憲法を積極的に議論します。立憲主義を守りながら「新しい人権」や「統治機構改革」など時代の変化に対応した未来志向の憲法を国民とともに積極的に議論します。

これなら、踏み絵を踏んで希望の党に行ける。私はかつて彼のこの言を「明らかに付け焼き刃の護憲派」と評したが、訂正しなければならない。今の政治状勢において、こんなことをスローガンに立候補する者は、「改憲派」の範疇に入れなければならない。この候補者の擁立は、護憲指向の有権者の票を掠めとろうというに等しい。

この候補者、選挙中の東京新聞候補者アンケートに、「改憲・賛成」「9条改憲・賛成」「憲法9条の2項を残したまま自衛隊を明記することに・賛成」「安倍政権下で成立した安全保障関連法、特定秘密保護法、「共謀罪」の趣旨を含む改正組織犯罪処罰法についての評価は・評価できるものも評価できないものもある」と答えて物議を醸した。

なにしろ、売りは長身と靴のサイズ。およそ共感できる候補者ではない。こんな候補者だが、私も票読みをした。今にして、恥ずかしい。不明を恥じいるばかり。

私はこれまで、選挙では一貫して共産党を支持してきたが、それは憲法擁護の立場からだ。明文改憲にも、解釈壊憲にも、最もぶれずに頼りになる存在と評価すればこそのこと。その共産党に実益なく、共産党の票も議席も大きく減らした共闘のあり方を、「大義」や「大局」の見地から素晴らしいなどと言っておられるかという思いが強い。

北海道や新潟など共闘成功実感例の報告もあるが、東京2区では「長続きするであろう共闘の成果」は、見えていない。まさか、次回も同じ候補者で、となろうはずはなかろうが。

なお、「市民と野党の共闘」において、東京2区で市民の中核をなしたのは、「みんなで未来を選ぶ@文京台東中央」(通称 ぶたちゅう)だった。

その総括が送られてきた。以下のとおり、紹介に値する立派なものと思う。自覚し自立した市民の運動が選挙を支えていることに感動を覚える。

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??????????????????????? 2017年衆議院選挙を振り返って

2017年1月、安倍政権の暴走を止めるため文京区、台東区、中央区の市民が集まり「みんなで未来を選ぶ@文京台東中央(以下、「ぶたちゅう」という)」が発足しました。設立集会では「立憲主義の回復」、「安保法制の廃止」、「個人の尊厳を擁護する政治の実現」を目指し、衆議院小選挙区東京2区で安倍政権に対峙する野党統一候補の実現と後押ししていくことが確認されました。
発足後は月1回のペースで統一候補に求める政策について議論を続け、9月には8項目の政策案が決定しました。単に自公の候補者に勝てればよい、野党統一候補が決まれば誰でも応援するということではありません。ぶたちゅうは私たちの掲げる政策案8項目の実現を目指す候補者を「市民と野党の候補者」として後押ししていくことを確認しました。
また政策協議と並行して市民と野党の共闘の雰囲気を盛り上げようと、7月9日に「二日遅れの七夕ウォーク」と称し、民進党(当時)の松尾明弘氏、共産党の石澤憲之氏と市民が一緒に文京区内を練り歩き野党共闘をアピールしました。政党の垣根を超え市民と一緒に行動した第一歩でした。

○統一の経緯
松尾氏、石澤氏へぶたちゅうの政策案を提示し、さらに協議を進めていこうとしていた矢先、衆議院の解散総選挙が決まりました。そして希望の党の発足、民進党の分裂と松尾氏を取り巻く環境が激変しました。希望の党の理念と合いいれないとした松尾氏は希望の党からの出馬を断り民進党から離党。これまで野党統一候補の実現に向けて歩んできた私たちの努力も無に帰したかに思えたその時、立憲民主党が立ち上がり松尾氏は立憲民主党からの出馬を決意しました。公示直前の10月6日、共産党が小選挙区の候補者であった石澤氏を比例の候補者に回すことを決断、東京2区における野党候補者の一本化が実現しました。これは、私たち市民が諦めずに野党共闘を求め活動を続け、政党が応えた結果に他なりません。ただし、公示日直前の一本化ということもあり、ぶたちゅうと松尾氏との間で政策協定を結ぶことはできませんでした。候補者との政策協定がなかったことが最後の最後まで確信をもって候補者を応援することに躊躇させる要因となり、これは今後の活動を考える上でも大きな教訓となりました。
公示日直前、10月7日の全体会において、候補者一本化という目的を達成したこと、実際の選挙においては、ぶたちゅうとしてではなく、個々人がそれぞれ選挙ボランティアとして選挙に関わっていこうと確認をして公示を迎えることになりました。

○選挙戦
実際、立憲民主党からの出馬とは言うものの、選対も万全な体制ではなく、必然ぶたちゅうの中心メンバーもネットワークを活用して松尾候補を応援することになりました。候補者カーへの同乗、ポスターや証紙貼り、政策パンフレットのポスティング、電話かけなどSNSによる選挙ボランティア募集に応じて次々に市民が選挙事務所を訪れ松尾候補を盛り上げました。まさに市民が直接選挙を作り上げていく選挙となりました。また民進党、共産党、社民党、無所属の区議が一緒になって松尾候補を街頭で応援し、市民が松尾候補の応援スピーチを行いました。
政党同士連携して国政選挙を戦うという初めての経験のため、ところどころ連携不足が生じていました。問題が起きるたびにぶたちゅうを始めとした市民が候補者や選対に率直に意見を上げ、政党間の認識のずれを埋める役目を果たしました。安倍政権を倒すためにはこの選択肢しかない、立憲野党の候補者を勝たせたい、立憲民主党に対する期待、人々の思いが一致点となり選挙最終日まで闘いぬくことができたのです。
結果的には自民辻候補に2万票余りの差をつけられ、比例でも惜敗率で惜しくも復活当選はなりませんでした。この結果をどうとらえるのか。今回の辻候補の得票率は46%、松尾候補は37%、鳩山17%。前回2014年の得票率は辻43%、中山(民主)・石沢(共産)37%、大熊(維新)18%です。混乱の中で迎えた衆院選挙でしたがふたを開けてみれば東京2区においては前回の選挙とほぼ同じ構図となりました。立憲民主党への追い風はありましたが、所詮は反安倍政権、共産党を含めたリベラル層の中での票の移動であり、希望の党ができたことで野党は分断され、自公の候補者と立憲野党という一対一の対決構図に持ち込めなかったことが敗因となりました。前回と変わりのない低投票率では選挙に関心のある人の中での票の移動では決して自民党候補には勝てません。この3年の間に安保法制、共謀罪法、モリカケ問題などがあっても票数を増やした自民党に対抗していくにはどうすればいいのか。保守3割、リベラル2割、残りの5割は無党派層と言われ、これから求められるべき運動はその5割の人にどう投票所に足を運んでもらうかにかかっています。

○これから
この選挙から私たち市民が学んだことは「統一候補者が決まれば終わりではない。野党共闘をかかげれば勝てるわけではない。」ではないでしょうか。
市民が直接候補者と関わり支えることで、政党同士の手を繋ぐ役目を果たし闘った初めての選挙となりました。
正直、私たちぶたちゅうもこのような選挙になるとは思っていませんでした。候補者は一晩にして地盤を失い、何もない中での選挙戦のスタート。結果的に市民が選対にどっぷりと入り込むことになり、市民の立場から候補者や選対へも遠慮なく要望を伝え、時にはダメ出しをして選挙を作り上げていきました。もしも政党が敷いた従来の選挙スタイルにお客様感覚で選挙ボランティアに行っていたらこのような選挙は生まれなかったでしょう。
市民と政党、候補者が同じ立場で政策や戦略を練り上げていくことがこれからの選挙には求められています。ぶたちゅうの目的は「統一候補の実現」でしたが、奇しくもそれだけでは選挙に勝つためには足らないことを学び、この経験を今後のぶたちゅうの運動をどう発展させるか考える一助としていきたいです。
そして組織票を意識した闘いはもちろんのこと、どれだけ多くの無党派層に政治に関心を持ってもらい、自分たちの生活と政治が直結しているのだと気づいてもらうこと、選挙時だけでなく普段から政治にコミットできる場を作っていくことが私たち市民に求められているのだと思います。
ぶたちゅうは主権者としてこれからも政治に関わり、不断の努力を続けて参ります。

以上
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もっとも、運動に参加した無党派市民の中には、この総括とはやや違った感想をお持ちの方もいる。そのような方のお一人のご意見をご紹介したい。(原文のままではないが、文意を損ねてはいない)

朝日新聞の候補者アンケート(10月14日)に対して、
共闘候補の松尾明弘氏は、「憲法改正に『どちらかと言えば賛成』」、「防衛力強化に『賛成』」と答えています。ここまでは、東京新聞アンケートからすれば想定の範囲内でした。しかし「原発再稼働に『賛成』」には驚き(辻自民党候補、鳩山希望の党両候補は「どちらとも言えない」)、先制攻撃論に「どちらかと言えば賛成」にはぶっ飛びました(辻は「賛成」、鳩山は「どちらとも言えない」)。こんな回答をする立憲民主の候補はもちろん他に一人もいません(東京新聞アンケートと同じ結果)、希望ですら24人中、1区松沢、15区柿沢、17区西田、20区鹿野、23区伊藤の5人だけです(松原仁や長島昭久のほうがましな回答でした)。松尾候補は、希望のなかに入ってもかなり「右」ということになります。

自民党候補ですらだれでも「先制攻撃に賛成」しているわけではありません。(たとえば、1区山田、3区石原、4区平、5区若宮は賛成していない)。

新聞アンケートの回答について「政治家として未熟」という意見がありましたが、そんな次元の問題ではなく、これは松尾氏の国防に関する「信念」なのではないかと考えます。

防衛力を強化し、先制攻撃までできるようにするには、日本は建前では防衛用の兵器しかもっていないので、今後は攻撃用の武力も整備することになります。「非核三原則堅持」(辻も同じ)とはいうものの、北朝鮮の核に対抗し、プルトニウムもあり余っているのだから、日本も核武装しようという道筋になるのではないかと思われます。

もちろんぶたちゅうの「8項目の候補予定者に求める政策」
1.安倍政権での下での憲法「改悪」に反対し、すべての人の人権を大切にする社会をめざす
3.武力による解決を否定し、憲法の精神に立脚した真の平和外交をめざす
6.原発に頼らないエネルギー政策、電力自給率における再生可能エネルギーの割合の増加につながる経済政策と、法整備の推進を求める
および、以前の7項目の統一候補に求める政策ともかけ離れています。(略)

選挙期間中に不特定多数の文京・台東・中央・港の有権者に松尾候補を推薦したわたくし自身の責任を大いに感じています。

松尾氏が次回も立候補するというご意向なら、立憲や希望ではなく、自民党から立候補すべきだと思います。

 

まったく同感である。みんなが右へならえで、「もう一息だったね。今度は当選のために頑張ろうね」などと言うのではなく、一人ひとりが自立する市民として意見を述べていることが素晴らしいと思う。

なお、私は松尾明弘候補は、立憲民主党内の「隠れ改憲派」であると指摘せざるを得ない。東京2区で改憲阻止の立場から選挙に携わった方に、「次回も松尾明弘候補」はあり得ないことを確認していただきたいと切実に願う。
(2017年11月27日・連日更新第1702回)

会計検査院報告書を読むーやはり背任罪は成立する

会計検査院のホームページに、検査報告書「学校法人森友学園に対する国有地の売却等に関する会計検査の結果について」が掲載されている。

http://www.jbaudit.go.jp/pr/kensa/result/29/h291122.html

表紙と目次(5頁)を除いて本文117頁のボリュームだが、読みにくさはない。多くの人によく読んでもらいたいとする起案者の情熱が感じられる。また、「要旨」として32頁にまとめたものも発表されている。これだけでもよく分かる。普段は注目されることのない会計検査院の、「今こそ出番」という意気込み。これは、調査対象事実がそうさせたのだ。

国有財産が、なんともムチャクチャな経過で、ただ同然の払い下げとなった。そのことに、会計検査院も憤っているのだ。こんな理不尽は通常あることではなく、その異常さは、財務省と国土交通省の両省の関与者が十分に意識していたことだ。だからこそ、交渉記録を大急ぎで修復不可能なまでに廃棄し、情報公開請求にも最初は隠し通そうとしたのだ。

報告書自身が言及しているわけではないが、こんな特例的な国有財産処分の背景には、権力中枢から違法な指示があっただろうと思わせるに十分な内容となっている。仮にそのような指示がないとすれば、忖度があったに違いない。しかも、両省にまたがる多数関係者の阿吽の呼吸での忖度。明治藩閥政治以来の、有力政治家による国有財産私物化という「麗しき日本の伝統」がまだ生きていたのだと思わせる。

なにしろ、憲法(90条)上の存在である会計検査院が国会の要請に基づいて正式に作成した文書だ。さすがの安倍内閣も、これを「怪文書」と呼ぶことはあるまい。この報告書は、安倍内閣への突っ込みどころ満載だ。明日(11月27日)からの各院委員会審議が楽しみでならない。

しかし、本年11月22日付近畿財務局長告発の代理人となった私の立場からは、この報告書には大きな不満が残る。重要な論点がすっぽりと抜け落ちていると指摘せざるを得ない。それは、本件国有地の値引きの根拠とされた「瑕疵」の有無についてまったく考察がされていないことである。

報告書64頁に、「(3) 売却価格の算定」という項があり、次のように述べられている。
「(2016年)3月11日に、森友学園から杭工事の過程において新たに地下埋設物が発見されたとの連絡を受けた近畿財務局は、大阪航空局とともに、同月14日に現地の確認をして、今回確認した廃棄物混合土は、森友学園から連絡があったとおり、貸付合意書で対象としていた地下埋設物に該当しない新たな地下埋設物であると判断したとしている。そして、近畿財務局は、大阪航空局に地下埋設物の撤去・処分費用の見積りを口頭により依頼し、その額を本件土地の評価において反映させることとした。また、本件土地に関する隠れた瑕疵も含む一切の瑕疵について国の瑕疵担保責任を免除し、森友学園は売買契約締結後、損害賠償請求等を行わないとする特約条項を契約に加えることとした。」

ここに述べられた、近畿財務局の「論理」は次のようなものである。

「地下埋設物」(廃棄物・混合土)の存在の確認⇒売主としての瑕疵担保責任の負担を認識⇒地下埋設物の撤去・処分費用分を値引き⇒瑕疵担保責任の免除を得た

国有財産の処分は適正価格ですることを義務づけられているのだから、値引きを正当化するためには、その値引き金額(8億1900万円)が、瑕疵担保責任としての損害賠償(想定)額と正確に見合うものでなくてはならない。

近畿財務局は、条件反射のごとく、次のように考えたということなのだ。
(1)「地下埋設物」あるというのだから土地に瑕疵があることになる。
(2)瑕疵あれば、瑕疵担保責任として撤去費用相当額の損害賠償義務を負う。
(3) その損害賠償相当額を値引きして、損害賠償義務を免れよう。

報告書が紙幅を割き、詳細に書き込んでいるのは、値引き額の根拠とされた「地下埋設物」撤去費用の算定根拠の驚くべき杜撰さである。
しかし、論理的に、その前提となるべき、「(1)本当に土地に瑕疵があるといえるのか」、「(2)果たして、瑕疵担保責任として国は、撤去費用相当額の損害賠償義務を負うのか」という疑問については、報告書が関心を寄せた形跡がない。完全に素通りしているのだ。看過したのか、それとも、この点については会計検査院に何らかの忖度があったのだろうか。

瑕疵担保責任とは、民法570条に出てくる、売買契約における売主に課せられた特別の責任。
「売買の目的物に隠れた瑕疵があったときは、第566条の規定を準用する。」と素っ気ない条文。そこで、第566条を見ると、こう書いてある。
「第566条 売買の目的物が地上権、永小作権、地役権、留置権又は質権の目的である場合において、買主がこれを知らず、かつ、そのために契約をした目的を達することができないときは、買主は、契約の解除をすることができる。この場合において、契約の解除をすることができないときは、損害賠償の請求のみをすることができる。」

出来の悪い不親切な条文の作り方で面倒だが、両者を合体させると、こうなる。
「売買の目的物に『隠れた瑕疵』があった場合、その『瑕疵』のために契約をした目的を達することができないときは、買主は契約の解除をすることができる。契約の解除をすることができないときは、損害賠償の請求のみをすることができる。」

もう少し分かり易く噛み砕くと、
「売買の目的物に普通じゃ分からない欠陥が発見された場合、
そんな欠陥があったのでは契約の目的を達することができないと言えるときは、買主は契約の解除(遡って契約をしなかったことにすること)ができる。損害が残れば、その賠償請求もできる。
欠陥があって契約の解除をすることができないときは、損害賠償の請求だけをすることができる。」

契約締結後に瑕疵(欠陥)が発見された場合を想定して条文ができている。本件は、借地契約が先行し途中で売買に切り替えて、その売買契約締結の際に瑕疵担保責任を想定して契約条項を定め値引きをしているから話が分かりづらくなっている。国有財産の適正管理という視点からは、不明確な想定による値引き自体が大きな問題なのだ。

本件で校舎建築のための掘削工事の最中に地下埋設物が見つかったとして、法的には、当該の地下埋設物が民法570条にいう「隠れた瑕疵」にあたるかどうかが、真っ先に問われなければならない。

その答が「NO」なら、地下埋設物撤去の必要はない。撤去費用相当という損害もない。一切の値引きが許されない。

「yes」の場合についてのみ、次のような効果がしようじる。
「地下埋設物の存在によって土地購入の目的が達せられない」⇒解除と損害賠償が可能
「地下埋設物の存在によっても土地購入の目的は達せられる」⇒損害賠償のみ可能

「瑕疵」とは、契約の趣旨からみて当該の目的物が通常備えるべき品質や性状を欠いていることをいう。また、「隠れた瑕疵」とは、取引における通常の注意をもってしては発見できないものをいう。
だから、小学校建設用地に、地下埋設物が確認されたというだけでは、瑕疵にあたるか否かは速断しがたい。どのような地下埋設物であるか、どのような量であるか、本当に撤去を要するものなのかが、吟味されなければならない。この吟味による確認なくして、いきなり不確定な想定を根拠に撤去費用見積もりを依頼した近畿財務局の態度は、上からの指示か、自らの忖度を抜きにしては理解し難い。

その地下埋設物について、報告書が述べるところは、以下のとおりである。(報告書64頁)
「本件土地の貸付けを受け、森友学園が小学校校舎の建設を始めたところ、森友学園は、杭工事において廃棄物混合土が排出されたり、廃材等が掘削機の先端に付着したりしたことを理由に、28年3月11日に、近畿財務局に対して、貸付合意書で対象としていた地下埋設物に該当しない新たな地下埋設物が発見されたと連絡していた。

近畿財務局及び大阪航空局は、全ての杭の施工が完了した後の同月14日に現地確認を行った。その際、両局は、本件土地の敷地内に廃棄物混合土が広範囲にわたり散在して積み上げられていたことを確認し、同席した小学校校舎の設計業者から、これらの廃棄物混合土は、長さ9.9mの杭工事の過程において発見されたものであると説明を受けたとしている。また、近畿財務局は、同月30日に、新たな地下埋設物の確認のため小学校校舎の建設工事の工事業者(以下「校舎建設工事業者」という。)が試掘した箇所について現地で確認し、廃棄物混合土があったことを確認したとしている。さらに、近畿財務局と大阪航空局は、同年4月5日に現地の確認を行っており、その際、大阪航空局は、校舎建設工事業者が地下1.6mから4mまで新たに試掘した8か所について確認し、廃棄物混合土があったことを確認したとしている。」

まだるっこしい書き方だが、近畿財務局が報告を受けあるいは確認したのは、「廃棄物混合土が排出されたり、廃材等が掘削機の先端に付着したり」の限りなのである。

ここにいう「廃棄物混合土」とはなにか。

報告書24頁以下に、「土地の履歴及び地下構造物の調査」という項があり、そのなかに次の記載がある。

「地下構造物調査
大阪航空局は、換地後の土地の地下埋設物の状況把握を目的として、21年10月に「大阪国際空港豊中市場外用地(野田地区)地下構造物状況調査業務」を調査会社へ発注して実施していた。本件業務の特記仕様書によれば、…現地踏査により、地表面の状況や構造物等を把握し、整理するとともに、地中レーダ探査、試掘等により地下埋設物の状況を調査することとされており、レーダ探査の深度は3m以内、試掘深度は、原則として地山深度(地下埋設物がなくなる深度)とされた。

そして、請負業者から大阪航空局に提出された報告書によれば、試掘した深度はおおむね3mとされており、換地後の土地のうち西側の本件土地では、地下構造物等のほかに、廃材、廃プラスチック、陶器片、生活用品等のごみ(以下「廃材等」という。)が土砂と混ざった状態の土(以下「廃棄物混合土」という。)が、平均して深度1.5mから3.0mまでの層において確認されている。また、土間コンクリートや基礎コンクリートが一部において確認されており、コンクリート殻(コンクリート破片)は 全域にわたって確認され、深度数十?から1.5m程度までの層において点在しているとされている。また、公園用地においても、本件土地と同様の地下埋設物が確認されている。」

上記のとおり、報告書では、「廃材、廃プラスチック、陶器片、生活用品等のごみ」を「廃材等」と言い、「廃材等」が土砂と混ざった状態の土を「廃棄物混合土」と言っている。

つまりは、原則として地山深度(地下埋設物がなくなる深度)までは試掘して確認したところ、「深度1.5mから3.0mまでの層において」、「廃棄物混合土」の存在が確認されているというのである。

地下埋設物は2層の深度において区別されなければならない。
「深さ 0?3.8m」の深度の地下埋設物は、売買契約以前の定期借地契約時代に、森友学園側で撤去し、その撤去費用は有益費として国(近畿財務局)が一括して全額を支払済みなのである。この深度を超えた「深さ3.8m?9.9m」の地下埋設物だけが問題となるところ、その存在自体が極めて疑わしい(確認されていない)。少なくも、校舎建設工事の支障になる埋設物の確認はなく、むしろ、支障がないことの国会証言があり、現実に工事は進行し、躯体工事は完了済みである。

なお、報告書25頁に次の記載がある。

「請負業者から大阪航空局に提出された報告書によれば、換地後の土地には、土壌汚染の原因となる有害物質を取り扱う可能性のある企業の立地は確認されなかったこと、周囲がフェンスで囲われ、施錠されていて不法投棄等は確認されなかったことなどから、汚染された土壌が存在するおそれはないと評価されている。このため、更に詳細な調査は実施されていなかった。」

本件国有地の「深さ 0?3.8m」の層においては、校舎建設工事に支障をきたすことから撤去を必要とした地下埋設物が存在したことが納得できる。その撤去の費用は借地契約における有益費として、既に国から森友学園に支払われ、処理済みとなっている。

しかし、「深さ3.8m?9.9m」の層においては、地下埋設物の存在自体疑わしい。その撤去の必要はなかった。これを法的な瑕疵ありとして、8億1900万円もの幻の撤去費用相当分を値引きした近畿財務局長には、その任務に反して国に損害を与えた責任のあることが明らかというべきである。しかも政権に忖度を示すことは、将来の出世に有利との思惑ないしは自己保身が目的であって、自分の利益をはかる目的があったと考えざるを得ないではないか。

判例は、地下埋設物が存在したとしても、それが、建築工事に支障のない程度のものであれば、軽々に「隠れたる瑕疵」にあたるとは認めない。このことは、告発状に記載したとおりである。

https://article9.jp/wordpress/?p=9499

以上の観点からの、安倍政権への厳しい追求も期待したい。
(2017年11月26 日・連日更新第1701回)

 

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