毎日新聞の牧太郎という記者の語り口が、何とも魅力的で心地よい。およそ拳を振り上げることなく、肩肘張らず、すこしシャイに、それでいて遠慮なく言いたいことを思う存分言ってのける。その文章の読後に爽快感がある。肺がんの手術を受けてから間もないとのことも、私には同病相憐れむの親近感。
毎週火曜日の夕刊に、「牧太郎の大きな声では言えないが…」を連載していて、これが楽しみ。ところが、ちょうど一月前の8月7日付コラムを見落としていた。これは失態だった。このことをある集会で配られたビラで知った。
久米宏だけではない。おお、牧太郎よ、あなたも。よくぞ言ってくれた。
東京五輪返上の声は、今や小さくない。金がかかり過ぎ。そんな金は被災地の復興に回せ。国威発揚の五輪だ。過剰なナショナリズム鼓吹。猛暑の時期、アスリートに酷。政権や都知事の人気取りに使われている。改憲にまで利用の悪乗りではないか。過剰な商業主義の横行。東京の喧噪が我慢しかねる。愚民政策…。反対理由はいろいろだが、少なくない人々が「東京五輪反対!」「東京五輪返上!」論に賛成している。五輪をダシにした世論操作の胡散臭さへの反発が大きいのだ。
牧太郎の“東京五輪病”を返上!のコラムの書き出しは、おずおずと始まる。
東京五輪を返上しろ!なんて書いていいのだろうか? 何度もちゅうちょした。毎日新聞社は東京五輪オフィシャルパートナー。いわば、五輪応援団である。
でも、恐る恐るサンデー毎日のコラム「牧太郎の青い空白い雲」(7月25日発売)に「日本中が熱中症になる“2020年東京五輪”を返上せよ!」と書いてしまった。すると、意外にも、知り合いの多くから「お前の言う通り!」という意見をもらった。返上論は僕だけではないらしい。
そして反対論の幾つかの理由が述べられる。
その最大の理由は「非常識な酷暑での開催」である。日本の夏は温度も湿度も高い。太陽の熱やアスファルトの照り返し。気温35度、もしかして40度で行われるマラソン、サッカー、ゴルフ……自殺行為ではあるまいか? 沿道の観客もぶっ倒れる。
サンデー毎日では書かなかったが、日本にとって最悪な季節に開催するのは、アメリカの3大ネットワークの“ゴリ押し”を国際オリンピック委員会(IOC)が認めてからである。メディアの「稼ぎ」のために健康に最悪な条件で行う「スポーツの祭典」なんて理解できない。
もう一つの理由は「異常なメダル競争」である。日本オリンピック委員会(JOC)は「金メダル数世界3位以内」を目指しているそうだが、オリンピック憲章は「国家がメダル数を競ってはいけない」と定めている。日本人力士を応援するばかりに、白鵬の変化技を「横綱にあるまじきもの」とイチャモンをつける。そんな「屈折したナショナリズム」が心配なのだ。
「東京五輪のためなら」でヒト、モノ、カネ、コンピューター……すべてが東京に集中している。地方は疲弊する。ポスト五輪は「大不況」……と予見する向きまである。
そして、久米宏同様、今からでも東京五輪返上は遅くないとして、こう言う。
返上となると、1000億円単位の違約金が発生する。でも、2兆、3兆という巨額の予算と比較すれば、安いものではないか。
さらに、最後に牧太郎の真骨頂。
東京五輪は安倍晋三首相が「福島の汚染水はアンダーコントロール」と全世界にウソをついて招致した。安倍内閣は「東京五輪のため」という美名の下で、人権を制限する「共謀罪」法を無理やり成立させた。東京五輪を口実に、民主主義が壊されようとしている。
少なくとも、我々は“東京五輪病”を返上すべきだ!
「1000億円単位の違約金…、安いものではないか。」
牧太郎がそう言えば、私も同感だ。自信を持って1000億など安いものと言える。
「大きな声では言えないが…」などと、おそるおそる語る必要はない。大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」「2020年東京五輪は、熨斗をつけてお返しだ!」
(2017年9月7日)
本日(9月6日)服務事故再発防止研修を命じられているBさんを代理して、弁護士の澤藤から東京都教育委員会とセンター職員の皆様に、2点を訴えます。
第1点は、思想・良心の自由とはいったい何かということです。そのことを通じて、思想・良心の自由の大切さをご理解いただきたい。
すべての国民は人として尊重されなければなりません。しかし、それだけでは足りません。十分ではないのです。すべての国民は、単に人として遇されればよいということにはなりません。それぞれが個性をもった他ならぬ自分として尊重されなければならないのです。他の人とは違ったかけがえのない自分という存在として尊重され、受け容れてもらわねばなりません。
すべての人が、自分が他の人とは区別された自分である証し、つまりはそれぞれの人の個性とは、具体的にはそれぞれの人が他の人とは違って持っている、その人のものの考え方や感じ方、価値感のあり方を意味します。
日本国憲法は、このことを、「すべて国民は個人として尊重される」と原理的に確認し、国民個人の多様な思想および良心について、「これを侵してはならない」と定めているのです。
「これを侵してはならない」。そのように、主権者が公権力に命令をしているのです。ですから、東京都教育委員会は、生徒の多様な思想・良心の自由も、教員の思想・良心の自由も、けっして「これを侵してはならない」のです。
強調すべきは、この侵してはならないという思想・良心とは、公権力が不都合ととする内容であって初めて意味を持つということです。公権力にとって好都合で、現政権を持ち上げ、東京都の方針や東京都教育委員会の政策に迎合する内容の思想・良心については、「侵してはならない」などと命じる必要はなく、なんの意味もありません。
国民の思想・良心は多様です。多様な思想・良心・価値観・倫理観が、公権力に不都合なものも含めて、むしろ公権力に不都合なものであればこそ、尊重されなければなりません。とりわけ、信仰、国家観、歴史観、教師としての教育観などについては、行政は意識してその多様性を尊重して運用されなければなりません。いやしくも、国家や自治体や、もちろん教育委員会が、特定の思想・良心を公的に認定してこれを強制したり、不都合な思想・良心を弾圧することは許されないのです。
東京都教育委員会は、国家主義の立場から、国民は国旗国歌ないし日の丸・君が代に対しては敬意を表すべきであるという考えをもっています。しかし、それは飽くまで多様な考えの一つでしかありません。しかも、日本国憲法の理念よりは大日本帝国憲法に親和性のある相当に偏った立場。こんな考え方を都内のすべての生徒やすべての教職員に押しつけることは本来できないこと、してはならないことなのです。
本日の服務事故再発防止研修において、このような考えに基づいて、Bさんに説得しようとすれば、たちまち新たな違憲違法の問題が生じます。このことが私の訴えの第2点となります。
私たちの国の歴史は、思想・良心あるいは信仰の自由という価値を重視してきませんでした。私たちの国の権力者は、他の国の権力者にも増して、思想や信仰の弾圧を続けてきました。
中でも、江戸時代初期に広範に行われた「踏み絵」と、戦前の治安維持法体制下での天皇制イデオロギー強制が、恐るべきものだったといわねばなりません。いずれも、権力が憎む思想を徹底して弾圧しました。
今東京都教育委員会が行っている日の丸・君が代強制は、幕府の踏み絵や、天皇制警察の思想弾圧と質において変わるものではありません。
そこで、センター職員の皆さん。皆さんに、ご自分の立場をよく見つめていただきたいのです。あなた方の今日の立場は、思想・良心に直接鞭打つものとして、踏み絵を実行した幕府の役人と同じ役回りなのです。特高警察と同じともいわねばなりません。そのことを、十分に自覚していただきたい。
憲法97条には、こう書かれています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と。この「自由獲得の努力」は、今もなお、続けられています。本日研修の対象となっているBさんは、まさしく身を挺して、自由獲得の努力をしているのです。
都教委は明らかに幕府や天皇制権力と同様に、「人類の自由獲得の努力」を妨害する側にいます。そして、センター職員の皆さん。あなた方も客観的には同じ立場なのです。あなた方は、今、この柵の向こう側にいることを恥じなければならない。せめて、その自覚に立って、自由獲得の努力を続けているBさんに敬意をもって接していただくよう、心からお願いいたします。
(2017年9月6日)
弁護士として平和への思いを貫いた池田眞規さんが亡くなられたのが、昨年(2016年)11月13日。私は、11月16日の当ブログに「池田眞規さんを悼む」記事を掲載した。
https://article9.jp/wordpress/?p=7705
先輩である眞規さんからは、後輩として教えを受ける立場だったが、ともに戦ったのが[ピースナウ・市民平和訴訟(東京)]の法廷だった。このことは、11月16日ブログに次のとおり書いている。
私が弁護士になって20年目。1991年に湾岸戦争が起きた。日本政府(海部内閣)は、戦地に掃海部隊を派遣し、90億ドル(1兆2000億円)の戦費を支出しようとした。平和的生存権と納税者基本権を根拠に、これを差し止めようと「ピースナウ・市民平和訴訟」と名付けた集団訴訟が実現した。東京では1100人を超える人々が原告となり、88名の弁護団が結成された。私が弁護団事務局長を務め、団長は正式に置かなかったが、明らかに眞規さんが「団長格」だった。
いま、丸山重威さんが、池田眞規さんの評伝を執筆中で、私と接点のあった市民平和訴訟の経過について問合せがあった。丸山さんの関心は2点。1点は「法廷の花」であり、もう1点は「巨額の貼用印紙問題」である。聞かれて思い出せないこともあるが、思い出せる範囲で書き留めておきたい。
**************************************************************************
入廷者全員に一輪ずつの法廷の花
市民平和訴訟では、訴訟自体を憲法運動として意識した。
訴訟に参加した市民の憲法意識は、戦争の加害・被害の反省にもとづくものだった。「再び加害者にも被害者にもなってはならない」という理念のうち、加害者にならない権利が強調された。戦費の支出とともに、これを「殺さない権利」とスローガン化した。「戦争という国家の人殺し行為に加担を強制されない権利」「国民が国家に対して人殺しをしてはならないと命じる権利」という意味である。
各回の法廷で、それぞれの原告が、どのように戦争で傷つき、平和を願ってているかを発言する機会をつくり、各回の法廷が原告の確信につながるような進行を工夫した。毎回、東京地裁最大の103号法廷を満席にして、原告の意見陳述は真摯さと迫力にあふれるものとなった。
平和的生存権については浦田賢治氏、納税者基本権については北野弘久氏、「湾岸戦争へのわが国の関わり方は参戦である」ということについて大江志乃夫氏、アジアからの視点で陸培春(ルウ・ペイチュン)氏、被爆者の立場から三宅信雄氏などが証言され、ラムゼー・クラーク氏による現地撮影のビデオ上映も実現した。
敗訴ではあったが、多数の原告がそれぞれに憲法の恒久平和主義に確信を深めたという点では、大きな意義のあった訴訟だと思う。その「成功」は、本気になって勝訴判決を取りに行く真摯さから生まれたのだと思う。けっして、「どうせ勝訴は無理、運動として成功すればよい」という姿勢ではなかった。
その東京地裁での20回の法廷に出廷した原告や弁護団の胸や手に、一輪ずつの花があった。バラ、カーネーション、スイートピー…。
私の記憶では、提訴の日に、横断幕やプラカードをもって地裁の民事受付(14階)までみんなで出かけようという原告団の提案があって、私と加藤朔朗弁護士(故人)が止めた。「裁判所構内には、横断幕もプラカードも持ち込めない」。そのとき、原告の女性の一人から、「じゃ、代わりに花ならいいでしょう」という提案があり、即座にそうしようと衆議一決した。
以後毎回の法廷には、女性原告たちが購入した花が、入廷者に配られた。弁護団も原告団も一本ずつ携えて法廷に入った。私も、バラを胸に挿して、弁論をした。
裁判長は、後に最高裁裁判官となった涌井紀夫判事。大らかに、花には一言の訴訟指揮もなかった。書記官からは、「法廷に、花や葉っぱを残さないようにしてください」とは言われたが。
あのとき、みんなの記憶にあったのは、プラハの春(1968)の際の一枚の有名な写真。ソビエト軍の戦車砲の筒先に、女性がバラの花を挿している図。「大砲ではなくバラを」「戦争ではなく、平和を」という市民の意思の表れ。
法廷の一人ひとりの花々は、平和を求める市民たちの法廷にふさわしい彩りであった。
**************************************************************************
「3兆4千億円の印紙を貼れ」問題
提訴後第1回弁論以前に、訴額と印紙問題が大きな話題となった。
訴状には、裁判所を利用する手数料として、訴額に応じて所定の印紙を貼付しなければならない。担当裁判所から弁護団に訴額についての意見照会があった。「印紙額が足りないのではないのか」というのだ。弁護団から、裁判所の意向を打診すると驚くべき回答があった。
裁判所は自らの見解を表明して、本件の係争にかかる経済的利益を差し止め対象の支出金額である1兆2000億円とし、これを訴額として1人あたりの手数料を算出して、 原告の人数を乗ずるという算定をすべきだという。これを計算すると、訴額は(1兆2000億円×571人分)で、なんと685兆円となり、訴状に貼付すべき印紙額は3兆4260億円ということになる。
司法の年間総予算が2500億円の規模であった当時のこと。試算してみたら、10万円の最高額印紙を東京ドームの屋根全面に貼り尽くして、まだ面積が足りない額なのだ。これは格好のマスコミネタとなった。
厳しい世論からの批判を受けて、裁判所は態度を軟化。大幅に譲歩して、267万9000円の印紙の追貼命令を出した。差し止めの訴額については、算定不能の場合に当たるとして一人90万円とし、これに原告数を乗じての計算。弁護団は事前にこれを予測し、予定の対応とした。差し止め請求は、2名だけを残して、その余の原告については取り下げた。2名を除く他の原告は国家賠償請求だけとしたわけだ。これは必要に迫られて編み出した現場の知恵で、「代表訴訟方式」などと呼んだ。
結局、この対応で印紙の追貼納付は、4000円だけでことが収まった。3兆4000億円から4000円に、壮大なダンピングだった。
この件は、その後の司法改革論議の中でも、市民の司法アクセスの問題として話題となっている。
**************************************************************************
2015年9月19日に戦争法が国会で成立し、翌16年3月29日施行となった。この日を境に、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本から、政権による「存立危機事態」の判断次第で、世界中のどこででも戦争を行うことができる日本に変わった。この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。
しかも今、「北朝鮮危機」はアメリカの対北朝鮮開戦があった場合に、わが国も参戦せざるを得ない事態となる。「存立危機事態」とは、「参戦被強制事態」なのだ。
1991年湾岸戦争時のアメリカからの「参戦要請」の経験を思い起こすことは、今意味のあるものと言えよう。それに抵抗した、市民平和訴訟の経験も。
(2017年9月5日)
「ほっととーく」という、手作り感満載の定期刊行物が毎月郵送されてくる。
「『良心・表現の自由を!』声をあげる市民の会」の会報で、標題の上に「『日の丸・君が代』の強制に反対し、渡辺厚子さんの戒告・減給・停職処分撤回を求める」とスローガンが掲記されている。日の丸・君が代強制に反対する運動の最前線にあり続けている渡辺厚子さん支援の趣旨なのだ。
良心の自由は今は逼塞させられている。その良心を表現する自由も窮屈だ。その良心と表現の自由を市民が支えて、みんなで声をあげよう。その思いが、この「ホットトーク」の中に詰まっている。
B5版の全12ページ。2017年8月27日付の最新号が、通算で第142号。会の発足が2002年12月、会の最初の集会が2003年1月だとのこと。以来、14年8か月、「ほっととーく」の刊行は続いてきたのだ。その息の長い活動に感服するしかない。
しかも、毎号なかなかの充実ぶりだ。日の丸・君が代強制に反対する運動が、実は裾野の広い思想に支えられ、多くの対決点をもっていることを教えている。
今号の主だった記事をご紹介しておきたい。
**************************************************************************
企画の案内が盛りだくさん。
まずは、会が主催する「壊憲NO! 戦争NO! 命輝く社会へ! 11・4集会」の案内。メインの講演者は、森川輝紀さん(埼玉大学名誉教授・教育史)、演題は「ナショナリズムと教育ー「教育勅語」「国民道徳」への道ー」。
その企画の趣旨説明はかなりの長文。さわりだけを抜き書きすれば、
「主権が天皇から国民に移って70年たつというのに,今,天皇制国家教育の精神的支柱であった教育勅語が,再び政治主導で教育にはいり込もうとするとは,いったい戦後とは何だったのかと自問する人が少なからずいるのではないでしょうか。」
「長年教育史を研究してこられた森川輝紀さんをお招きし,戦前・戦中そして戦後の教育とナショナリズム,とりわけ「教育勅語」「道徳」についてたっぷりお話を伺うことにいたしました。」
「卒業式での「日の丸・君が代」の強要は、今や3・10、3・11、そして8・15の半旗・黙祷へと拡大されています。災害を利用して、或は戦争被害者を利用して、国家や国家シンボルヘの敬愛と従属をすりこもうとしているのです。」
「安倍政治の柱は教育と安保です。着々と戦争国家化を進め、改憲を粛々と準備しているのです。」「こうした中、森川輝紀さんのお話は、きっと多くの示唆と勇気を与えてくれると思います。誠実な研究者の「知」を共有させていただきましょう。」
11月4日(土)開場13時 開会13時30分
開場は、飯田橋のセントラルプラザ10階 「ボランティアセンター会議室」
次いで、東京「君が代」第4次訴訟の東京地裁判決日が9月15日(金)であることのお知らせと支援の要請。
東京「再雇用拒否」第3次訴訟 最高裁事件の支援の要請。
学校に自由と人権を! 10・22集会のご案内
西元利子「哭する女たち」展(韓国従軍慰安婦絵画)案内
**************************************************************************
渡辺さんご本人が、「金子文子忌」の一文を掲載している。
金子文子の91回忌にあたる7月23日、その生き方に惹かれる人々60人ほどが、故地牧丘(山梨県)の歌碑に集い、献花の後研究者からの最新の報告を聞く機会をもったとのこと。例年のことだという。それは知らなかった。
「朴烈大逆事件」は松本清張の昭和史発掘で知られている。瀬戸内晴美も小説の題材にしている。金子文子は朴烈の妻(内縁)で、朴烈とともに大逆罪で死刑判決を受けた女性。わずか23年の凄絶な生涯。
大逆罪の法定刑は死刑のみである。未遂だろうが予備陰謀だろうが死刑。しかも、管轄は大審院の一審のみ。これが天皇制を支えた恐怖の法制である。歴史上大逆罪の起訴は4件ある。幸徳秋水事件以上に、朴烈事件の起訴事実は根も葉もない完全なでっち上げだったとされている。
死刑宣告の直後に、「慈悲深い天皇」の恩赦によって無期懲役に減刑とされ、死刑の執行はなかったが、文子は間もなく監房で死んでいる。縊死(自殺)と公表されたが、当時から怪しまれ、真相の究明は妨害されたまま今日まで闇の中である。
渡辺さんは、こう述べている。
「文子に惹かれる理由は、鋭い感性と純真に煮詰める思想、だろうか。天皇制、ジェンダー、戸籍、国家と個人、朝鮮人と日本人、個人の自立と連帯、教育、格差、権力欲、求める社会。考え抜いた思想がそこにはある。文子は『私は私』と立っていた。」
**************************************************************************
俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)の「教育出版小学校道徳教科書問題について」という長文の談話が掲載されている。これも、国旗・国歌(日の丸・君が代)問題に関わる。そして安倍政権の問題点があぶり出されている。
さらに、「一編集者から」という松本昌次さんの連載寄稿。今号は、№31「野党もメデイアも諦めずに」というもの。
「2020年 地方自治体非正規労働者雇用に大変動のおそれ」という、連帯労組板橋区パートからの支援要請もある。
最終ページが高根英博さんのマンガ。「『日の丸・君が代』わたなべーだ」という標題で、8コマの哲学マンガ。内容は、政権批判、天皇制批判、差別批判。これが、連載第128回だ。
**************************************************************************
中に、「自由と平和のための京大有志の会」の声明書が転載されている。有名になったもので、私も目を通していたが、その平仮名バージョンは知らなかった。これをご紹介しよう。
わたしの『やめて』
くにとくにのけんかをせんそうといいます
せんそうは「ぼくがころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじやない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじやない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじやない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじやない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじやない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じやまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしはおおきなこえで 「やめて」というんだ
じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい
この市民の運動の充実ぶりが頼もしい。良心を支え、表現の自由を実現する支えになっているではないか。このような市民運動の試みが積み重なって、よりよい社会を作ることになるのだと思う。
なお、会にはささやかながらもホームページがある。URLは下記のとおり。
http://hotmail123.web.fc2.com/
(2017年9月4日)
北朝鮮は8月29日早朝、北海道を越え太平洋に落下する射程2700キロの弾道ミサイル発射を強行した。地図上日本を越えるコースは、これが5回目。無通告発射としては2回目となる。そして、本日(9月3日)6回目の核実験を強行した。水爆だという。安倍ならずとも、断じて容認しえない。北朝鮮だけではなく、あらゆる国や勢力の軍事挑発にも、核実験にも断固として抗議しなければならない。
問題は、これにどう対処するかである。「圧力を強める」一辺倒で解決に至らぬことは目に見えている。とりわけ、石油禁輸による経済封鎖には不吉な臭いが漂う。現在の北朝鮮は、戦前の日本とそっくりだ。日本を国際的に孤立させる、ABCD包囲網による対日石油全面禁輸体制は1941年8月に完成した。その直後同年12月には日本は暴発して対米英の宣戦に踏み切った。「座して死を待つことはできない」というのが、開戦の言い分。
8月29日の「Jアラート」なるものも、戦前戦時を想起させる。バケツリレーでの空襲対応、竹槍での本土決戦などと精神構造は変わってないのだ。
8月31日付の赤旗に、丸山重威さんが、「どう考える 北朝鮮ミサイル問題と国民の不安」として寄稿している。取り上げられているのは桐生悠々。
「1933年(昭和8年)8月、陸軍は民間の防衛意識を涵養するため、「関東防空大演習」を実施した。大規模な空襲があった場合を想定してのことだった。信濃毎日新聞の桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」という論説で「敵機を関東の空に帝都の空に迎え撃つということは、我が軍の敗北そのもの」と書いた。」
桐生ならずとも、Jアラートには嗤わざるを得ない。「不安」を煽るだけの小道具でしかないのだ。
「ミサイルの時代に、しかも「核」が想定される時代に、ミサイルの撃ち合いが始まれば、勝者も敗者もない。「Jアラート」は、ミサイル攻撃があった場合、という「後ろ向き」の対策だ。日本政府は「圧力と対話」と言いながら、結局は、憲法9条違反の「武力による威嚇」に同調し、協力し、話し合いの道を閉ざしている。
しかし、善悪は別として、北朝鮮は、今のままでは、どう「圧力」をかけても、米国などと同様、核開発とミサイル開発はやめないだろう。」
とすれば、不愉快であろうとも、対話の路線を模索するしかない。米朝2国間対話でも、6カ国協議でも、対話の実現以外に打開策はない。
対立する当事者の一方だけが100%正義で、他方が悪などということはあり得ない。また、相手を全面的な邪悪と決めつけては、真摯な対話も交渉も成立し得ない。日韓併合以来の歴史を繙けば、北朝鮮側には大いに言い分のあることだろう。第二次大戦後の南北の分断と朝鮮戦争の経過に鑑みれば、北朝鮮に米国や国連に対する不信感あることはもっともだ。そして、最近の米韓、米日の合同軍事演習のエスカレートによる挑発も無視し得ない。
憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の一文をあらためて確認しなければならない。ベトナム戦争、パナマ戦争、グラナダ侵略、湾岸戦争、アフガン・イラク侵攻等々の戦争を重ねてきた好戦国アメリカをも、「平和を愛する諸国」の一つとして、その公正と信義に信頼する度量が必要である。もちろん、北朝鮮にも同様の姿勢で臨まなくてはならない。
ようやく、アメリカに対して交渉の席に着くよう、国際世論の圧力が増しているように見える。ともかく、戦争を避けるための対話を重ねるしか、平和への道はないのだ。
トランプ政権は「今は対話の時ではない」と繰り返し、安倍政権もこれに追随している。トランプも安倍も、おそらくはホンネのところ、危機を打開しようという意思はない。トランプにしてみれば、北朝鮮危機はアメリカ産の武器を同盟国に売るチャンスだ。軍需産業が活気づけば、雇傭が増えて自分の支持者が納得する。その程度の認識だろう。
安倍も同じ穴のムジナ。北朝鮮危機を煽れば、たやすく防衛予算の増額が実現するだろう。うまくいけば、9条改憲の世論の喚起も期待できる。失政で危うくなった政治生命だが、タカ派の自分にとっては失地回復のチャンスとなりうる。
北朝鮮問題を危機を煽ることによる、防衛予算の増額や9条改憲の策動を警戒しなければならない。「北朝鮮に対抗して日本も核武装を」などは愚の骨頂。この事態を奇貨とする安倍政権の復権も許してはならない。
(2017年9月3日)
昨日(9月1日)の都立横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典では、実行委員長宮川泰彦さんの「開式のことば」と、韓国伝統舞踊家・金順子(キム・スンジャ)さんの「鎮魂の舞」が大きな話題となったが、開式のことばの直後には、「鎮魂の読経」が行われている。「日本宗教者平和協議会 浄土真宗本願寺派・僧侶」小山弘泉さんを導師とするもの。
普通、読経はサンスクリットの漢訳をそのまま音読するから、聞いていて意味はさっぱり分からない。「はんにゃはらみた」も、「ぎゃーてー、ぎゃーてー、はらぎゃてー」も、チンプンカンプン。本来が聴衆に聞かせて分からせるための読経ではないのだ。
ところが、小山弘泉さんの読経は、半分以上は日本語だった。聴いていて分かるのだ。大震災とその後の混乱の中で、朝鮮人と中国人と社会主義者や労働運動活動家が殺された経過と背景を語って、再びの悲劇を繰り返してはならないとする内容。これこそが、鎮魂の式典のあり方といえよう。
その読経の中で、「仏説無量寿経」の中のお釈迦様の言葉が紹介された。「兵戈無用(ひょうがむよう)」というのだ。
いうまでもなく、「兵」とは軍のこと、「戈」とは武器のことである。「兵戈無用」とは、軍隊も武器もまったく不要とする非武装平和主義、まさしく憲法9条の思想ではないか。
ネットで検索すると、出典は次の一節であるらしい。
『仏説無量寿経』
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 国豊民安 兵戈無用」
読み下しは、
『仏説無量寿経(ぶっせつ むりょうじゅきょう)』
「天下和順(てんげわじゅん)し 日月清明(にちがつしょうみょう)なり 風雨ときをもってし 災厲(さいれい)起こらず 国豊かに民安くして兵戈(ひょうが)用いることなし」とのこと。
「み仏が歩み行かれるところは、世の中は平和に治まり、 太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もほどよく降り、災害や疫病なども起こらず、国は豊かに、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。」
お釈迦様が、悪を戒め信を勧められるところで語られることばで、その背景には「不殺生」という仏教の根本思想があるという。仏教は五戒を説くが、その筆頭は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」である。大量の殺生である戦争は佛教徒の最も忌むべきものであろう。
民族差別、排外主義は、それ自体が殺生の原因となる。そして、戦争の温床となって、さらに大規模な殺生に至るのだ。
「今に生きる私たちは、そのような差別と憎しみを克服して、戦争のない平和な世界、民衆が国境を越えて仲良く豊かに平穏に暮らせる世の中を作ります。そのために、けっして武器をとって争うことをしません。」
小山弘泉さんは、宗教者として、参列者とともに、亡くなられた犠牲者にそう語りかけていたのだと思う。
(2017年9月2日)
9月1日である。この日を、私は個人的に「国恥の日」と呼ぶことにしている。
通例、外国から受けた恥辱を国民的に記憶して忘れてはならないとするのが「国恥の日」。かつて中華民国は、日本からの二十一箇条要求を承認した5月9日、あるいは柳条湖事件の9月18日を国恥紀念日として国民の団結心に訴えた。また、韓国民は、韓国併合条約発効の8月29日を庚戌国恥日として記憶している。
日本にとっての9月1日は、日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺したことを思い起こすべき日である。自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと誓うべき日。
94年前の関東大震災は、関東一帯に居住する住民に悲惨な犠牲を及ぼした自然災害であった。その犠牲者を追悼するとともに、再びの惨禍をなくす(あるいは軽減する)努力をなすべきは当然のことである。
ところが、別の問題が発生した。震災の直後に、自然災害ではない恐るべき非人道的な人災が生じたのだ。それが、日本人民衆による在日朝鮮人・中国人に対する虐殺である。自然災害による住民の犠牲と、民衆による他民族殺戮の二つは、質を異にするまったく別異の事件である。ことさらにこの両者を混同して論じる欺瞞は許されない。
虐殺には、軍と警察が深く関わっていたことが広く知られている。国の責任を論じるには、軍と警察の行為が重要になる。しかし、私には、自警団という名の民衆が武装して、朝鮮人狩をして、集団で撲殺し刺殺し、縛って川に投げ込むなどの蛮行におよんだことが衝撃である。私たちの父祖が、なぜこんなことを起こしたのか。正確に知り、記憶しなければならない。そのための、「国恥の日」である。
1923年の関東大震災から94年目となる今日(9月1日)、朝鮮人虐殺の犠牲者を追悼する式典が、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑の前で営まれた。これまで慣行として都知事から寄せられていた朝鮮人犠牲者に対する追悼文は、今年はなかった。
都知事小池百合子への批判の高まりを反映して、今年の追悼式参加者数は、昨年に倍する500人に上った。
追悼式実行委員長の宮川泰彦さんは、かつて同じ法律事務所で机をならべた私にとっては同僚弁護士。その怒りがよく伝わってくる。
式辞の中で彼は、小池百合子を厳しく批判した。
「都知事が追悼文をとりやめたことは到底容認できない。流言飛語による虐殺で命を奪われた犠牲者、遺族や関係者に寄り添う姿勢が全く見えない」「虐殺の歴史にあえて目を背けている」「都知事にはいま一度立ち止まって、参列者の声、多くの人の声に耳を傾けることを求める」「恐怖と混乱、そして差別意識によって過ちが引き起こされた。忘却は再び悪夢を生む。悲惨な出来事を忘れてはならない」
小池百合子の弁明はこうだ。
「大法要で犠牲となった全ての方々への追悼を行っていきたいという意味から、追悼文を出すことは控えさせてもらった」
これは、集団による他民族虐殺の犠牲を、ことさらに自然災害の犠牲と同列視して、意識的に自然災害死のなかに埋没させる悪質なレトリックと指摘しなければならない。小池百合子は、語り継がなければならない悲惨な行為と犠牲と責任とについて、語り継ぐことをやめたのだ。
小池百合子自身が排外主義的傾向あることは、周知の事実だった。前任の舛添要一は、当時の韓国大統領・朴槿恵との間に「韓国人学校用地としての都有地貸与」の合意を交わしていた。小池百合子は、就任直後にこの合意を白紙に戻して物議を醸している。
各紙の報じるところでは、「犠牲となった全ての方々に対する都慰霊堂大法要での都知事追悼文」(安藤立美副知事代読)に、朝鮮人犠牲者への言及はまったくなかったという。まさしく、小池百合子は、虐殺の歴史を直視することなく、これを自然災害犠牲者の中に埋没させたのだ。その罪は深い。歴史修正主義、排外主義の潮流に身を置くものと、近隣諸国や世界からも厳しい批判を受けざるを得ない。
94年を経てなお、歴史を直視することも、真摯な反省もできない。これをこそ、国恥というべきだあろう。
**************************************************************************
むかし むかしのこと
どのくらい昔かというと、
まだ、みんしゅしゅぎという考え方のないほどの大昔
ある国に、すこしかわった女王さまがおりました
女王さまは こくみんが自分をどう見ているか
こくみんのなかでの 自分の人気を
たいそう気にするかたでした
ですから つねづね
「わたしは こくみん みんなの意見を よく聞きます」
「わたしくらい こくみんみんなの声に耳をかたむける 王さまはない」
といっていました
「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
すこし変わった聞きかたをするのです
じぶんをほめるたみの声を聞くときには右の耳で聞くのです
じぶんと同じ意見を聞くときも右の耳なのです
じぶんをほめない きびしいたみの声を聞くときには
左の耳で聞きました
じぶんとちがう意見を聞くときも左の耳なのです
たみの声は女王さまにとって心地よいものばかりではありません
するとどうでしょう
だんだんと心地よいことを聞くための女王さまの右の耳だけが大きくなっていったのです
はんたいに 女王さまにとっては心地よくないことを聞く左の耳はだんだんと小さくなっていきました
そして、とうとう女王さまの右の耳は象の耳になりました
うちわよりももっとおおきな よく聞こえる象の耳
左の耳はあるかないかのカエルの耳になりました
小さいだけではなく ほとんど聞こえなくなったのです
こうして女王さまは
「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
実のところは、
「じぶんとおなじいけんか、じぶんをほめるいけん」
だけしか聞こえなくなってしまったということです
どんとはれ
(2017年9月1日)
明日(9月1日)午後、参議院議員会館1階講堂で、全国沿岸漁民連絡協議会(JCFU)がシンポジウムを開催する。その趣旨は、以下のとおりだ。
■開催趣旨:家族漁業・小規模漁業を営む沿岸漁業就業者は漁民全体の96%。まさに日本漁業の主人公です。全国津々浦々の漁村の自然と経済を守るこの家族漁業・小規模漁業の繁栄無くしては「地方創生」などありえません。ここでは、沿岸漁民の暮らしと資源、法制度をめぐる問題をとりあげ、日本の漁業政策のあり方をさぐります。
その趣旨や良し。経済の目的は効率でも生産性でもない。ましてや、市場での支配者に過剰な利益を与えるためのものでもない。多くの人々が安心して、健康で文化的な生活を持続していくことではないか。漁業にあっては、「全国津々浦々の漁村の自然と漁民の生計」を守らねばならない。漁民の暮らしを支える「家族漁業・小規模漁業の繁栄」が必要なのだ。そのためには、漁民一人ひとりの営業が成り立ち、後継者が育つ展望が持てなければならない。そのための、行政でなくてはならず、その目的に適う経済政策でなくてはならない。
大資本や中央資本の規制改革に対決する局面では、漁協も漁連も自治体も極めて重要である。しかし、漁協も漁連も自治体も、それ自体が価値を持つものではない。漁民を代表し、漁民に奉仕する存在であることが、その発言権や正当性の根拠である。漁協は飽くまでも漁民に奉仕する立場の存在である。漁民あっての漁協であって、漁協のための漁民ではない。漁協の経営のためとして、漁民を切り捨てるようなことは絶対にあってはならない。いま、岩手県の水産行政は、この倒錯の事態にある。
沿岸漁業フォーラムのプログラムと、岩手からの報告「サケの定置網独占と沿岸漁民の権利」のレジメをご紹介する。
**************************************************************************
■JCFU沿岸漁業フォーラム■
「規制改革会議と漁業権を考える」―沿岸漁民の暮らしと資源を守る政策を
共 催: JCFU全国沿岸漁民連絡協議会・NPO法人21世紀の水産を考える会
と? き: 2017年9月1日(金)13:00?17:00
ところ: 参議院議員会館1階講堂
コーディネーター:二平 章(茨城大学人文学部客員研究員)
山本浩一(21世紀の水産を考える会理事長)
<プログラム>
●特別講演
「亡国の漁業権開放論?資源・地域・国土の崩壊」
鈴木宣弘 (すずき・のぶひろ)
(東京大学大学院農学生命科学研究科国際環境経済学 教授)
●第2部 「各地の沿岸漁民の生活と権利をめぐる諸問題」?
1 クロマグロの漁獲規制と漁民の生活権
高松幸彦 (北海道留萌海区漁業調整委員会委員)
宇津井千可志(長崎県対馬市曳き縄漁業協議会会長)
本吉政吉 (千葉県沿岸小型漁協副組合長)
2.沿岸カツオ漁業の危機と熱帯まき網漁獲規制
杉本武雄(和歌山県漁業調整委員会委員・和歌山東漁協副組合長)
福田 仁(ジャーナリスト・高知新聞)
3.サケの定置網独占と沿岸漁民の権利
澤藤大河(弁護士:岩手県「浜の一揆訴訟」弁護団)
4.震災復興と水産特区の問題点
綱島不二雄(復旧・復興支援みやぎ県民センター代表世話人)
5.原発事故後の福島漁業と汚染水問題
林 薫平 (福島大学特任准教授)
6.「開門」は有明海漁業の生命線
堀 良一(弁護士:よみがえれ!有明訴訟弁護団)
**************************************************************************
????????????????????????????????????????????????????????????? 2017年9月1日
「サケの定置網漁独占と沿岸漁民の権利」ー岩手からの報告
??????????????????????????????????????????????????????? 報告者 弁護士 澤藤大河
1.「漁協・漁業権」の二面性
基調講演のテーマが、草案段階では、「危機にさらされる漁協・漁業権」となっていました。当然に「漁協・漁業権」擁護の趣旨。ところが、三陸の沿岸漁民が起こしている行政訴訟では、被告岩手県知事側が、「漁協・漁業権」を擁護する立場から零細漁民にはサケ刺し網漁を禁じるとして一歩も引きません。「漁協・漁業権」が、零細漁業者の経営を圧迫しているのです。
三陸の沿岸漁民は、けっして漁協や漁業権を敵視しているわけではありません。しかし、漁協の存立や漁業権漁業の収益確保を絶対視して、零細漁民の権利を認めないとなれば、「漁協・漁業権」に譲歩を要求せざるを得ません。
「漁協・漁業権」の二面性を見極めなければならないと思います。横暴な大資本や国と向かい合う局面では、漁民を代表する組織としてしっかりと漁協・漁業権を擁護しなければなりません。しかし、組合員個人、個別の零細漁民と向かい合う局面では漁協は強者です。零細漁民の利益と対立するのです。
言うまでもなく、漁協は漁民に奉仕するための組織です。漁民の利益を代表してこその漁協であり、漁民の生業と共存してこその漁業権であることを再確認する必要があります。それが、私たちの基本的な立場であることをご理解ください。
2.「浜の一揆」訴訟の概要
岩手の河川を秋に遡上するサケは岩手沿岸における漁業の主力魚種です。「県の魚」に指定されてもいます。
ところが、現在の三陸沿岸の漁民は、県の水産行政によって、厳格にサケの捕獲を禁じられています。うっかりサケを網にかけると、最高刑懲役6月となります。岩手の漁民の多くが、この不合理を不満として、長年県政にサケ捕獲の許可を働きかけてきました。とりわけ、3・11の被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、請願や陳情を重ねてきました。しかし、なんの進展も見ることができなかったのです。
そのため、2015年11月100人の沿岸漁民が岩手県(知事)を被告として、盛岡地裁に行政訴訟を提起しました。要求は「固定式刺し網によるサケ漁を認めよ」「漁獲高は無制限である必要はない。各漁民について年間10トンを上限として」。原告らは、これを「浜の一揆」訴訟と呼んでいます。苛斂誅求の封建領主に対する抵抗運動と根は同じだと考えているからです。
訴訟の進行は、最終盤に近づいています。本年6月22日の法廷で、原告4名と県職員1名の尋問が行われ、次回9月8日には、原被告がそれぞれ申請した学者証人お二人が証言します。おそらく、年内に結審して、来春判決言い渡しの見通しです。
3.何が争われているのかー本日のテーマに即して
☆現状
* 三陸沿岸の海の恵みであるサケは、主として各漁協が自営する大型の定置網漁によって漁獲されています。漁協は定置漁業権を得て、定置漁業を行っています。
* 原告ら漁民はサケ漁から閉め出されています。サケの延縄漁は可能なのですが、とうていペイしません。「刺し網によるサケ漁を認めろ」というのが、原告らの切実な要求ですが、漁協の自営定置漁業に影響あるからとして、許可されません。
* 原告ら漁民は、漁協や漁連の民主的運営には懐疑的な立場です。社会的強者と一体となった、零細漁民に冷たい県政への挑戦として、「浜の一揆」の心意気なのです。
☆法的構造
* 三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが原則であり、議論の出発点です。
* 憲法22条1項は営業の自由を保障しています。漁民がサケの漁をすることは原則として自由(憲法上の権利)なのです。
* とはいえ、営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられた理由があれば、その制約は可能です。このことは、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約できないということでもあります。
* 具体的には、
漁業法65条1項は、「漁業調整」の必要あれば、
水産資源保護法4条1項は、「水産資源の保護培養」の必要あれば、
特定の漁には、「知事の許可を受けなければならない」とすることができます。
* これを受けた岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。
* ということは、申請があれば許可が原則です。不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示しなければなりません。
☆キーワードは「漁業調整」と「水産資源の保護培養」です。
* 「水産資源の保護培養の必要」は、科学的論争として問題はありません。
本件許可をしても、水産資源の保護培養に影響はあり得ません。
* 問題は、極めて不明瞭な「漁業調整の必要」です。そもそも何を言っているのさえよく分かりません。
4.漁協優先主義は漁民の利益を制約しうるか
☆定置網漁業者の過半は漁協です。被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」ということに尽きるものです。県政は、これを「漁業調整の必要」というのです。
☆ しかし、「漁業調整の必要」は、漁業法第1条が、この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法の視点から判断をしなければなりません。
弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行です。
☆ 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないでしょうか。
☆ 被告岩手県は、最近になってこんなことを言い出しています。
・各地漁協などが多大な費用と労力を投じた孵化放流事業により形成されたサケ資源をこれに寄与していない者が先取りする結果となり、漁業調整上の問題が大きい
・解禁に伴い膨大な漁業者が参入し一挙に資源が枯渇するなどの問題が生じる
☆ これは、定置網漁業完全擁護の立論です。少しでも、定置網漁業の利益を損なってはならないとする、行政にあるまじき偏頗きわまる立論と言わねばなりません。
☆ 「漁協が孵化事業の主力になっているから、成魚の独占権がある」というのは、暴論です。むしろ、孵化事業の大半は公金の補助でまかなわれているのですから、その成果を独占する権利は誰にもありません。漁協も漁民も。定置も刺し網も。そして漁果を得た者は平等に応分の負担を。というのが、あるべき姿です。
☆ 軽々に、漁民の切実な漁の自由(憲法22条の経済的基本権)が奪われてはならないのです。
(2017年8月31日)
カジノ反対パブコメの提出と拡散のお願いです!
明日、8月31日の午後5時が締め切り。よろしくお願いします。
■昨年12月「カジノ推進法」が成立しました。
昨年12月、刑法が禁じる賭博(カジノ)を「成長戦略の目玉」とする安倍政権のもとで、きわめて短時間の審議により、特定複合観光施設区域整備推進法が成立しました。
この法律は、【観光先進国としての日本を実現するため】に、カジノ施設と会議場・レクリエーション施設等が一体となった施設(=IR施設)を民間事業者が設置・運営できるようにするための法整備を1年以内(=2017年中)にすることを内容とするものです。わたしたちは、カジノの合法化を推進する法律、という意味で、カジノ【推進】法と呼んでいます。(つまり、今はまだ、カジノは合法化されていません。
■秋の臨時国会に「カジノ実施法案」が提出される予定!
政府は、いよいよ、この秋の臨時国会にカジノ【実施】法案を提出する方針です。
■圧倒的な数のカジノ反対のパブコメを寄せ、秋の臨時国会での法案成立を阻止しましょう!
現在、同とりまとめに対して全国で公聴会が開催されるとともに、パブコメが募集されています。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ir_promotion/kokumintekigiron/ikenbosyu.html
パブコメの期間は【8月31日】まで。明日の午後5時が期限です!!
パブコメは質を確保するとともに【数も確保する必要】があります。質の方は、日弁連や市民団体、労働・福祉団体、消費者団体などにお任せするとして、数の力はきわめて重要です。(日弁連の意見書は下記のとおりです)
https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/2017/170823.html
パブコメ提出は以下の手順で、画面の指示にしたがってください。
●e-Gov(電子政府の総合窓口)のホームページにアクセスしてください。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=060170801&Mode=0
◆【パブリックコメント・意見提出フォーム】というページにたどり着く
◆(差し支えなければ)住所、氏名等の情報を入力する(任意)
◆一番下の提出意見(必須)の枠の中に、2000文字以内で意見を書く。
(末尾パブコメ例からコピーして貼り付けてもよい。)
◆書き終えたら、提出意見の下にある「確認画面へ進む」のボタンを押す。
◆【パブリックコメント:提出内容の確認】というページに行く。
◆そのページの下の方に「画像や音声による認証」という項目があり、そこに
記載されている8桁の数字を認証入力欄に入力する。
◆数字の入力が終わったら、その下にある「提出する」のボタンを押す
◆これで提出完了!
★パブコメ例は末尾に記載しています!気に入ったコメントをコピペして使ってください。
★このメールは転載・拡散自由です。お知り合いの方やMLなどにどんどん拡散してください。
私(澤藤)のパブコメは以下のとおり。
**************************************************************************
「特定複合観光施設区域整備推進」にかかるカジノ賭博解禁に反対する。その理由は以下のとおり。
世に賭博は溢れている。競馬・競輪・競艇・パチンコ・スロット、宝くじ…。もちろん、先物取引もFXも立派な賭博である。もはやこれ以上の賭博は要らない。カジノ賭博解禁はさらに人を不幸にするからだ。
賭博とは何か。「複数の者が財貨を拠出しあい、お互いに何らかのルールでこの拠出された財貨を取り合うこと」である。賭場に金を積んで、積まれた金を、サイコロの目でも巨人阪神戦の勝敗でも日経平均の上下でも、何かを基準に勝ち負けを決めて取り合うのだ。何のために賭博に参加するのか。当然のことながら、人の金を我が物としたいから。他人の懐に手を突っ込んで取ってくれば、窃盗か強盗になる。お互いの了解で、ルールを決めて、他人の懐の金の取り合いをするのが賭博である。賭博は、財貨の所在を変えるが、何の経済価値も産みださない。
賭博は窃盗や強盗にはならないが、やはり犯罪である。国家が刑罰権を発動して制裁を科する必要があるとされている違法性の高い行為なのだ。その本質において、互いに相手の財産を奪い合う醜い行為であり、社会の健全さを失わしめ、やがては賭博参加者自らをも滅ぼす看過し得ない違法な行為でもある。単純賭博罪(刑法185条)、常習賭博罪(同186条1貢)、賭博場開張図利罪(同186条2項)。博徒結合図利罪(同)と類型化され、富くじの発売も、発売の取次も、授受も犯罪(同187条)とされている。
ダンテの「神曲」では、賭博を行う者が堕ちて行く地獄はことのほか深い。「他人の不幸を自己の幸福とする」その心根の卑しさの罪が深いのだ。つまり、賭博とは不幸をうむゲームだ。賭博開帳の業とは、不幸を売る商売なのだ。まさしく、カジノは大規模に不幸をつくり出す、不幸を売る商売ではないか。
最高裁判例は、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に悪影響を及ぼす」ことを処罰の根拠と説明している。真面目に働く奴はバカだ。それよりは人の金をくすねようという卑しい心根が博打打ちの本性。そこから、テラ銭を掠めとろうというのが、賭博の開帳者。当然に処罰の対象者である。
ところが、「賭博はお互い負ければ取られることを了解での大人のゲームだ。許された娯楽と考えるべきで、刑罰をもって禁圧するほどのことはあるまい」「カジノなんてしゃれた大人のムード」という意見は昔からあった。最近この声は大きい。安倍政権になってからはことさらのこと。経済政策の目玉のひとつになろうとしているからだ。賭博を開帳してテラ銭を稼ごうという、有力企業は政治と結託してこの論調を吹聴している。政治家と胴元企業の大規模の醜悪な関係があるのだ。
この醜悪な連中は、博打とか、賭博という言葉を敢えて避ける。推進議員の集まりは「カジノ議連」で、賭博場は「IR」(インテグレイテド・リゾート)という。しかし、なんと言葉を言い換えても本質が醜悪な賭博であり、パクチであることに変わりはない。
賭博の繁栄がもたらす経済効果を当てにしてのアベノミクス。「おかしいだろ、これ。」としか言いようがないではないか。
カジノ議連や「カジノ推進法」の罪は深い。安倍晋三の取り巻きたちが虎視眈々とカジノの実現を狙っている。「社会の健全化よりも経済振興の方が大切だ」「アベノミクスの3本目の矢の中に賭博もはいっている」「客寄せには賭博が一番」「これこそ経済復興の目玉」…。
何のための経済振興か。経済政策とは何なのか。その哲学が問われている。人を不幸にしての経済振興。人に不幸を売る商売の繁栄を当て込んだビジネスチャンスの創出。カジノもIRも、そして大本のアベノミクスもカジノ議連も一掃して、はじめて健全な社会を取り戻すことができるのだ。カジノ解禁に強く反対する。
**************************************************************************
■■カジノ反対パブコメ例■■
*自分の感覚に合う文案をコピーして使ってください。
*いろいろなところで出ているカジノ反対の意見をつまみ食いさせていただきました。
*【パブコメの〆切】8/31(電子メール及びFAXの場合は午後5時まで)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆意見
私は、「特定複合観光施設区域整備推進」にかかるカジノ賭博解禁に反対します。
◆理由
○観光先進国としての日本を実現するためにカジノを合法化することについて
・カジノ頼みの国際会議や観光はまともではない。
・観光先進国の実現を賭博解禁で実現する発想が貧困である。
・安倍政権の新たな「賭け問題」である。
・世界の人々を引きつける観光資源の創造はカジノなしで行うことができる。日本のすばらしい観光資源を見つめることなく賭博で「観光客」を集めることは「美しい国日本」のすることではない。
・ハワイにはカジノは無いが世界の人々を惹きつけている。
・人を不幸にしたお金を収益源にすることは許されない。
・カジノに依存しないクリーンな観光立国を目指すべき。
○ギャンブル依存症対策について
・依存症対策はカジノをつくらないことが一番の対策である。
・入場回数制限など、いくつかの対策を掲げているが、発足当初の数年間はそれらの規制が守られても、やがて入場者数の減少などに伴い、そうした規制が徐々に緩和されて行く可能性がある。
○地域の経済振興に寄与するということについて
カジノ賭博解禁を含む「特定複合観光施設区域整備推進」の目的の一つとして、地域経済の振興があげられている。しかしIRに客足を奪われ、周辺の商店街が衰退した海外の前例がある。人を不幸にし、地域の環境を破壊することで事業者(胴元)は利益をあげても、政府並びに関係者が期待する「地域経済の振興」に寄与するとは考えられない。
○カジノによる経済的効果について
・カジノを導入した韓国では、利益よりも依存症問題など負の影響の方が大きいと指摘されている。
・また、カジノ賭博場周辺の市民生活における環境汚染も社会問題になっている。・依存症対策や、そうした社会的環境汚染対策にかかる経費などを考慮すれば、カジノによる経済的効果はほとんどないとみるべきである。
○「反社会的団体」との関係について
・人を不幸にすることで金を稼ぐ方法は、古来、戦争・麻薬・売春そして賭博だった。かつ、戦争以外は例外なく反社会的団体と深く結びついてきた。
・カジノは、やがてその道のプロである暴力団が絡め取って仕切ることになることが容易に推測できる。
○「世界最高水準のカジノ規制」に対する意見
・賭博を解禁しないことが世界最高水準のカジノ規制である。
・報告書にある「世界最高水準のカジノ規制」には、さまざまな規制が掲げられており、それだけでもカジノがいかに危険な施設であるかが読み取れる。そのような危険な施設は日本にはいらない。
以 上
(2017年8月30日)
午前9時。水道橋の東京都教職員研修センター正門前で「被処分者の会」主催の抗議と激励の集会が始まる。9時10分、私がマイクを取って、センターの総務課長に申し入れを行った。私が敷地の外、総務課長が内側で対峙する位置関係。総務課長への語りかけだが、私の呼びかけ先は課長の背後にいる教育長であり都知事である。
《都立高校教員のAさんを代理する立場で、弁護士の澤藤から、東京都教育委員会と都知事に対して、そして、本日研修を担当されるセンター職員の皆さんにも、抗議と要請とを申し上げる。
都教委は、Aさんに対する「服務事故再発防止研修」の受講を命令し、本日(8月29日)これから、その研修が実施されようとしている。研修受講命令発令の理由は、今年3月の卒業式において、Aさんが「君が代」斉唱時に起立しないことで戒告処分を受けたこととされている。
都教委は、「君が代」不起立が研修を実施することによって再発防止が可能な「服務事故」であると考えていることになる。しかし、この考え方にはいくつもの大きな間違いがある。
なによりも、「君が代」斉唱の強制が間違いといわねばなならない。威儀を正して国歌を唱えという命令は、日本という国家に敬意を払えという命令にほかならない。しかし、国家と個人の関係をどうとらえるかは、優れて個人の価値観に関わる問題として、国家が特定の立場を強制してはならない。私たちは、国家主義・軍国主義の時代の苦い歴史的教訓を踏まえて、現行憲法を制定し、個人の尊厳は国家を凌駕するものだという大原則を確認している。そして、個人の尊厳に関わる基本権として、「思想・良心の自由」を精神的自由権条項群の冒頭に憲法第19条として書き込んだのではなかったか。これを忘れてはならない。ましてや、教育の場で、特定の価値観を押しつけることなどあってはならない。
教員一人ひとりには、その人なりの国家観や歴史観があり、また教育観がある。さらに、歴史的に日の丸や君が代が果たした役割についても、さまざまな見解がある。それをすべて切り捨てて、日の丸・君が代を強制することは、思想を統制することにほかならない。これに従えないとする教員に対する懲戒処分は、思想弾圧であり、良心に鞭打つものと言わざるを得ない。
特に申しあげたいのは、懲戒処分にともなう再発防止研修の本質についてである。都教委がプログラムした説示や説得によって、日の丸・君が代強制を受容しない態度や考え方をあらためよ、ということではないか。これは、自らの思想・信念や良心に基づいて日の丸・君が代強制には服しがたいとする教員に対する、直接的な思想的転向の強制であり、良心に鞭打って、その屈服を促す行為というほかはない。
Aさんは、自らの信念と良心の声に忠実であったことから、今日これから、この場で、反省を迫られようとしている。しかし、Aさんの行為に反省すべきところはない。むしろ、反省すべきは都教委ではないか。国民の思想・良心を蹂躙していること、教育の場に国家主義を持ち込んでいることを、憲法や教育基本法に照らして反省しなければならない。
以上の理由をもって、憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる都教委の「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議する。
飽くまでも、この違憲違法の研修の中止を求めるが、仮に実施するにしても、絶対にAさんの良心に鞭打つような行為があってはならない。Aさんは、教員としての本分を尽くすことを真摯に考え、煩わしさや不利益を覚悟して、自分の良心を貫くことを決意して、今ここにいる。
本日の研修を担当するセンター職員諸君、Aさんには敬意をもって接していただきたい。あなた方にも、教育に携わる者としての矜持があろうことを期待したい。Aさんには、ぜひとも尊敬の念を失わず、礼を失しない態度をもって接していただくようお願い申しあげる。》
(2017年8月29日)