澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

韓国内の核武装容認論台頭を憂うる

憲法9条の恒久平和主義は、抑止論と対決し続けてきた。

抑止論は、「自国の武力の整備は、相手国の武力行使抑止の効果を持つ」「武力の整備を欠いた非武装無防備は、相手国の武力行使を誘発する」「武力の権衡あってこそ相互の攻撃を自制させる」「したがって、相互に均衡をした武力の整備こそが平和の条件である」という。

これが、論理においてまったく成り立たない愚論だとは思わない。しかし、過去の苦い歴史が、このような考え方こそが、軍拡競争をもたらし、恐怖の均衡に人々を陥れ、偶発的な均衡の破綻が悲惨な戦争をもたらしてきた。戦力の不保持を宣言する憲法9条の恒久平和主義は、過去の悲惨な歴史への真摯な反省からの決意であり、唯一の平和の保障策である。

核抑止論ともなれば、さらに問題は深刻である。冷戦終了後も、使う予定もなく、現実には使うこともできない核兵器の廃棄がいまだにできない。相互不信から核軍縮が十分に進展せず、核抑止論の克服ができないうちに、公然と核抑止論の有効性を掲げて核開発を進める北朝鮮の暴挙である。

核保有の5大国には、声を大にして核廃絶を迫らなければならない。米・韓・日の合同演習など軍事挑発行為にも反対しなければならない。しかし、同様に北朝鮮の核開発を批判しなければならない。防衛的なものだからとして容認してはならない。北朝鮮の核抑止論と核開発は、容易に他国に飛び火する。まずは韓国、次いで日本に、同じ論理での核開発を誘発しかねない。

北朝鮮の核とミサイル開発。北に直接対峙している韓国世論の動揺が深刻なようだ。以下は、発行部数韓国最大の朝鮮日報が報じるところ。
「韓国ギャラップが(9月)5?7日に実施した調査では『核武装に賛成』が60%で、『反対』の35%を上回った。野党・自由韓国党支持者で核武装に賛成する人は82%、同・正しい政党支持者で賛成する人は73%、与党・共に民主党支持者でも賛成(52%)の方が反対(43%)を上回っている。韓国社会世論研究所(KSOI)が8日と9日に成人男女1014人を対象に調査した結果も、『北朝鮮の核の脅威に対応して防衛の観点から戦術核を再配備すべきだ』という人が68.2%だった。『南北間関係をさらに悪化させるから戦術核再配備に反対する』という人は25.4%、「分からない・無回答」は6.4%だった。」
韓国世論は、いま深刻な事態にあるのだ。

同じく、日本語で読める朝鮮日報のサイトでは、「(保守系最大野党の)自由韓国党は9月10日、『戦術核再配備と核兵器開発のためのオンライン・オフライン1000万人署名運動』を開始した」と報じている。

また、9月16日付で、朝鮮日報は北朝鮮の核についての主筆のコラムを掲載している。「全く、国とは言えない」という表題の長文のもの。自国のこれまでの核政策を「国とは言えない」と強く批判するもの。1991年に韓国が在韓米軍の核を全面撤去して以来の、歴代韓国大統領による北朝鮮核開発への対応を具体的に無策と批判している。朝鮮日報が保守論壇を代表する立場にあるにせよ、これは見過ごせない。その一部を引用する。

1991年より前は、韓国に核(米軍の戦術核)があり、北朝鮮には核がなかった。それが、韓国から核がなくなり、北朝鮮に核があるという、あべこべの形になった。国際政治の歴史上、こんな逆転はない。一体どうしてこんなことが可能だったのか気になり、91年の本紙を読み直してみた。11月9日付、1面トップは『在韓米軍の核、年内に撤収』だ。その横にある、もっと大きな記事が『盧泰愚(ノ・テウ)大統領、韓半島(朝鮮半島)非核化宣言』だ。韓国国内の核兵器を全面撤去し、今後核を保有・製造・使用しないという内容で、『非核の門をまず南が開け、北に核の放棄を迫る』というものだった。
続いて12月19日付、1面トップは盧大統領の『韓国国内の核不在』宣言だった。米軍の戦術核が全て引き揚げられたという意味だ。92年1月1日付、1面の冒頭記事は『南北非核宣言完全妥結』だ。南北双方が核兵器の試験・生産・受け入れ・保有・貯蔵・配備・使用を禁止するという内容。北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)の核査察を受け入れると約束した。その日、盧泰愚大統領は新年のあいさつで『われわれの自主的な努力により核の恐怖がない韓半島を実現しようという夢で、大きな進展が実現した』と語った。『北が核兵器製造技術を持たないと表明したことは、本当に喜ばしい』とも語った。
全ては、北朝鮮による完全な詐欺だった。南北非核化宣言に合意したその日も、北朝鮮は寧辺でプルトニウムを抽出していた。金日成(キム・イルソン)主席は米軍の戦術核が撤収したのを確認した後、韓国の鄭元植(チョン・ウォンシク)首相と会談した席で『われわれには核がない。在韓米軍を撤収させよ」と要求した。『核査察の約束を守れ』という韓国側の要求には答えなかった。韓国という国の間抜けなドラマと、北朝鮮の核の悪夢が同時に開幕した。
北朝鮮の核問題の過程は、歴代韓国大統領の北朝鮮に対する無知と幻想が国家の安全保障を崩壊へと追いやっていく、完全に『国家の失敗』の歴史だ。盧泰愚大統領の後を継いだ金泳三(キム・ヨンサム)大統領は、北朝鮮が核爆弾を作っているにもかかわらず、就任演説で『いかなる同盟国も、民族より勝るということはあり得ない』と語った。金大中(キム・デジュン)大統領は、金正日(キム・ジョンイル)総書記との首脳会談を終えた後、『われわれにも新しい日が差してきた。分断と敵対に終止符を打ち、新たな転機を開く時期に至った』と語った。『北は核を開発したこともなく、能力もない。私が責任を持つ』という発言が報道されたこともあった。…」

NHK(WEB)によれば、「北朝鮮外務省でアメリカを担当する幹部(北米局のチェ・ガンイル副局長)は、15日の弾道ミサイル発射について、『核抑止力強化のための正常な過程の一環だ』と述べ、アメリカのトランプ政権が北朝鮮政策を転換しない限り、核・ミサイル開発を加速させる姿勢を重ねて強調しました。」
「そのうえで、『アメリカがわれわれを敵視し続け、核で脅し続けるかぎり、われわれは絶対に核兵器とミサイルを協議のテーブルに載せない。まずアメリカが敵視政策と制裁をやめてこそ、対話になる』と述べ、トランプ政権が北朝鮮政策を転換しないかぎり、核・ミサイル開発を加速させる姿勢を重ねて強調しました。」
「また、『核・ミサイル開発は自衛的な措置だ』とする主張を改めて示」した、という。

北朝鮮の、「自国の核開発は自衛的な措置だ。凶悪なアメリカの核攻撃を抑止する唯一の手段だ」という主張は、韓国や日本の好戦勢力や防衛産業にまことに好都合。同じ理屈で核武装や核持ち込みのシナリオを描くことができる。

金正恩。その世襲制、個人崇拝、反人権、非民主的な体制だけでなく、絶対悪としての核をもてあそぶその姿勢においても批判されなければならない。

北朝鮮の地下核爆発実験の報には心が凍りつく。どうして、笑っていられのだろうか。金正恩も開発に携わった科学者たちも。広島や長崎の被爆者の叫びを聞け。叫ぶ術もなく死んでいった多くの人々の声を聞け。核抑止論を主張する人々は、原爆資料館に足を運ばねばならない。丸木美術館で原爆の図を凝視しなければならない。

いまは、関係各国に無条件で和解のテーブルに着くべきだとする国際世論を喚起するしかない。「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」(核兵器禁止条約)の締結が、国際世論の本流になっているいま、その声が巻きおこらぬはずはない。
(2017年9月17日)

こんなの要らない。返上しよう、薄汚い東京オリンピック。

英紙「ガーディアン」が一昨日(9月14日)報じたところによると、ブラジルの捜査当局は、「東京五輪招致に買収疑惑あり」との結論を出したという。捜査は、リオ五輪と東京五輪の両者に行われていたというが、私の関心は自ずと東京の招致問題だけ。

捜査結果の報道が、ブラジル紙ではなく、なぜ「ガーディアン」なのか。このあと続報があるのかないのか。フランス当局の捜査の進展はどうなっているのか。そもそも、ブラジルでは国内法のどのような犯罪構成要件に該当するというのだろうか。よく分からないことが多い。が、五輪を支える組織や幹部の腐敗の実態や、東京五輪誘致陣の薄汚さの再確認という点で、関心を持たざるを得ない。

各紙の報道に目を通しても、なかなか事実経過をつかみにくい。すこし、整理が必要である。

問題は、東京五輪誘致に関わる贈収賄。贈賄側は、東京五輪招致委員会。理事長が竹田恆和、理事に橋本聖子や鈴木大地などが名を連ねる。当然に、首相や当時の都知事もからんでいる。

収賄側は、IOC委員でもあり国際世界陸連会長でもあったラミン・ディアク(セネガル)という人物。大物としてIOC内で特別な影響力があり、次期五輪会場の決定に大きな権限あると思われていた人物だという。その代理人として、交渉や金の授受の窓口になったのは、息子のパパマッサタ。

登場人物はこれだけではない。カムフラージュとしての中間項が登場する。その内の最重要なのが、ブラック・タイディングス社というペパーカンパニー。一時期だけ、シンガポールの公営アパートの一室に形だけがあったという。

時系列を確認しておきたい。安倍晋三がブェノスアイレスで、「アンダーコントロールで完全ブロック」という詐欺まがいのトークで、2020年東京五輪招致を掠めとったのが2013年9月7日。その前後の同年7月と10月とに、招致委員会から出た金がラミン・ディアク側に渡っているというのだ。結論から言えば、これは買収資金の「着手金」と「成功報酬」と解釈するしかない。

最初、疑惑はフランス検察当局の捜査状況として報じられた。2013年の7月と10月の2回にわたって、東京五輪招致委員会がブラック・タイディングス社の秘密口座に送金されてたことが確認されたということが大きなニュースになった。このブラック・タイディングス社はラミン・ディアクの息子パパ・マサタ・ディアクに深い関係があるペーパーカンパニーとも報じられた。

その金額は2億3000万円。東京五輪招致委員会の理事長であり、日本オリンピック委員会(JOC)会長でもある竹田恒和は当初この疑惑を否定したが、後に国会に参考人として招致された際には認めて「正式な業務契約に基づく対価として支払った」と釈明した。「招致計画づくり、プレゼン指導、国際渉外のアドバイスや実際のロビー活動、情報分析など多岐にわたる招致活動の業務委託、コンサル料などの数ある中の1つであり、正式な業務契約に基づく対価として支払った」というのだ。おそらく誰もこんなことを信じてはいない。コンサル料名義の賄賂を、名もない会社の秘密口座に送金したという疑惑が極めて濃厚なのだ。

ブラック・タイディングス社とは、シンガポール東部の老朽化し、取り壊しを待つ公営住宅の1室にあり、シンガポールメディアによると同社は2014年には業務を停止しているとのこと。つまりは完全なペーパーカンパニーで、プレゼン指導、国際渉外のアドバイスや実際のロビー活動、情報分析などのコンサル業務を行う能力の片鱗もなさそう。

竹田恒和は国会で、支払った2億3000万円の最終的な使途についてブラック・タイディングス社側に「確認していない」と証言している。さらには「同社とは現在連絡が取れていないと聞いている」とも答えている。無責任極まるというレベルではなく、贈賄と疑われてやむをえないとの発言なのだ。

今回のガーディアンの報道では、ブラジルの当局は、2013年9月8日(東京招致成功の翌日)に、ブラック・タイディングスがシンガポールのスタンダード・チャータード銀行の口座から8万5000ユーロ(約1113万円)をパリのある会社宛てに送金し、それがマッサタ・ディアクが宝石店で購入した高額商品の支払いに充てられたことを明らかにした。

つまり、東京五輪招致委員会→ブラック・タイディングス社→パパマッサタの金の流れが確認できたということだ。コンサル料とは、実はIOC委員への買収資金としての賄賂送金だったという以外には考えがたい。ブラジル当局は、その認識である。

共同は、「東京五輪、リオデジャネイロ五輪は招致で『買収』と結論 英紙が報道」と見出しを打った。ブラジルの当局は「買収」の意図があったと結論づけたというのだ。
「東京の五輪招致にIOCの票の買収があった容疑について新展開」「ブラジルの当局は、ラミン・ディアク氏を買収する意図があったとしている」という記事。

ガーディアン記事は、「ブラジル連邦検察局はフランス検察局の調査結果を踏まえて、支払いが『IOC内部に強い影響力を持つラミーヌ・ディアクの支援と票の買収の意図をもって』、2020年東京の招致成功のためになされたという結論を出した。」という。さて、これからどう捜査が発展するのだろうか。

ガーディアンは、「ブラジルからの今回の暴露によって、次回の五輪開催国(日本)に対する調査が再開され、どのようにして東京が五輪開催権を獲得したのかそのプロセスが解明されることになるだろう。」という。

東京五輪はうんざりだ。アベ政権や小池都政の政治利用、国威発揚、ナショナリズム鼓吹、住民無視の東京再開発の促進、東北復興妨害、税金の無駄遣い、負のレガシーの創出…、そしてこの薄汚い招致活動での恥さらし。もう、きっぱり返上しようではないか。
(2017年9月16日)

判決は 目出度さ・無念 相半ば ― 東京「君が代」裁判(4次訴訟)判決

本日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決が言い渡された。

東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告ら14名が取消を求める処分の内訳は、以下のとおりである。

《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
 計          14名 19件

判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。これは目出度いと言わねばならない。
しかし、判決は戒告処分(9名についての12件)については、取り消さなかった。これは無念というほかない。

原告の中で最も注目されていたのがQさん。Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
   1回目不起立 戒告
   2回目不起立 戒告
   3回目不起立 戒告
   4回目不起立 減給10分1・1月
   5回目不起立 減給10分1・1月
 
公権力による教員に対する、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制が違憲であれば、懲戒の種類・量定を問うことなく、すべての処分が違法として取り消されることになる。Qさんに対する5件の処分もそのすべてが取り消されることになるが、そうはならなかった。

また、必ずしも違憲論に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことは可能であった。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、これも本日の判決が採用するにいたらなかった。

だから、戒告処分は維持された。Qさんの戒告3件も取り消されることなく維持された。以上が無念と言わざるを得ない側面。

しかし、Qさんの4回目不起立、5回目不起立に対する、減給10分1・1月の処分はいずれも、重きに失するとして処分裁量の逸脱濫用にあたると判断された。その結果違法として取り消された。これが、目出度い側面。

判決は「争点10」として、「本件職務命令違反を理由として減給または停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無」を判断している。

まず、一般論としては、次のように述べる。
「減給処分は,処分それ自体の効果として教職員の法的地位に一定の期間における本給の一部の不支給という直接の給与上の不利益が及び,停職処分も,処分それ自体によって教職員の法的地位に一定の期間における職務の停止及び給与の全額の不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶうえ,本件通達を踏まえて卒業式等の式典のたびに懲戒処分が累積していくおそれがあることなどを勘案すると,起立斉唱命令違反に対する懲戒において減給又は停職の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等(以下,併せて「過去の処分歴等」という。)に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの「相当性を基礎付ける具体的な事情」が認められる場合であることを要すると解すべきである。そして,……「相当性を基礎付ける具体的な事情」があるというためには,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなど,過去の処分歴等が減給又は停職処分による不利益の内容との権衡を勘案してもなお規律や秩序の保持等の必要性の高さを十分に基礎付けるものであることを要するというべきである(平成24年最高裁判決参照)。」

判決は、以上の一般論をQさんに適用すると次のようになると結論する。

「原告Qが起立斉唱命令を拒否したのは,自らの信条等に基づくものであること,各減給処分の懲戒事由となった本件職務命令違反のあった卒業式等において,原告Qの不起立により,特段の混乱等は生じていないと窺われることをも考慮すると,原告Qの前記職務命令違反について、減給処分(10分の1・1月)を選択することの「相当性を基礎づける具体的な事情」があるとまでは認めがたい。」

つまり、こういうことだ。
減給や停職処分を選択するには、この重い処分を選択するについての「相当性を基礎付ける具体的な事情」が必要であるところ、被懲戒者の行為が、
 (1)自らの信条等に基づくものであること、
 (2)卒業式や入学式等に特段の混乱等は生じていないこと、
という2要件を考慮すれば、「相当性を基礎付ける具体的な事情」は認めがたい、というのだ。

本日の判決は、教員の不起立が「自らの信条等に基づくものであること」を、裁量権の逸脱・濫用判断の積極要件とした点において、一定の評価が可能というべきである。

だから、我々にとっては、残念・無念だけでない、中くらいの目出度さもある判決なのだ。

一方、都教委から見れば、今日の判決の衝撃は大きい。
都教委は、Qさんの4回目・5回目の不起立に敢えて挑発的な減給を選択して、いずれも敗れたのだ。大いに恥じ、大いに反省しなければならない。教育行政を司る機関の行為が、違法として取り消されたことの重大性を深刻にとらえなければならない。

戒告を違法としない最高裁判決も、もけっして戒告処分を結構だとしているわけではない。「当不当の問題はともかく」として、違法とまではいえないと言っているのだ。

都教委は、思想・良心の侵害をやめよ。教育の場に、国家主義のイデオロギーを持ち込むことをやめよ。
(2017年9月15日)

百合子女王の(屁)理屈

えっ? なんですって? もう一度言ってごらんなさい? 「都民ファーストの会」の代表交代のプロセスが不透明ですって? いったい誰がそんなこと言っているの? そんなこと、この私の前で言えること?

あなたもあなたよね。以前私に向かって「大山鳴動して鼠一匹」って言った愚かな記者がいたでしょう。「それは失礼というものでしょう」と一喝したら黙ったけど。私には、口の利き方に気をつけた方がいいわよ。

私、ここから表情と口調をよそ行きに変えます。ここから報道しなさいね。

都民ファーストの会代表だった野田数さんから9月10日付で代表辞任の申し出がありました。理由は、知事特別秘書の仕事に専念するためということ。それで、翌11日に党規約に則って私と2人の都議の3人で代表選考委員会を開いて荒木千陽都議を新代表に推薦しましたの。

今日(13日)の都民ファーストの都会議員総会で、推薦の通り新代表人事が承認されたと聞いておりますよ。党規約に基づいた手続ですけど、それが何か?

都議会の臨時会も終えて都民ファーストも新人ばかりだったのが落ち着き、都民に選ばれた議員が代表する状況がこれで整った感があります。荒木さんは、7月の都議選で初当選した総務会長の女性で度胸がある。まさしく都民ファーストの魂でいろいろやってくれると思いますよ。

もちろん、野田さんも、荒木さんも、私の秘書だった人。それに何か問題が?

「なぜいま、唐突に野田さんが辞任したか」ですって? 先ほど、知事特別秘書の仕事に専念するためと申しあげたでしょう。それ以上、何も出てきませんわよ。私が何か言うはずもないでしょう。

「新代表選考委員会ができたことも、荒木さんの代表推薦も知らなかった。晴天の霹靂だ」なんて、大袈裟にツベコベ言っている都議がいたんですって。それがなにか? 開かれた組織だからこそ、そんなツベコベも言えるんだし、メディアの耳にもはいるんじゃないかしら。

そりゃあ私も、これまでの都政をブラックボックスと批判して、「見える化」を進めるとは言ってきましたよ。「都民ファーストの会」の政策決定プロセスを可能な限り公開していくなんてことも確かに言ったおぼえはありますよ。でもね、状況はすっかり変わりましたでしょ。もう、私の都知事としての政治的基盤はしっかりと確立しましたからね。あの頃言ったことに一々縛られていたのでは政治を前に進めることはできませんよ。都民ファーストの会の代表が誰だって、プロセスがどうだって大した問題ではないでしょ。

都議選後に、私から野田さんに代表交代をした際は、私と野田さんの2人で「臨時役員会」を開いて人事を決めたんです。今度は、私と都議2人の「代表選考委員会」で決めました。規約に則った手続ですよ。えっ? 規約を見せてくれですって? 議事録はあるのかって? それは失礼じゃございません。そんな必要はないでしょう。

都会議員総会が代表を選出したのか、それとも選考委員会が選出して都議総会が承認したのかって? そもそも選考委員会委員の選出手続は規約上どうなっているかですって。 そんな細かいことはどうでもよいことでしょ。

ええ、規約はインターネットには掲載していませんよ。「どうして?」って、そんな必要ないからですよ。もちろんホームページで党員の募集はしています。並みの党なら、綱領と規約に賛同して入党の申込みをするんでしょうが、うちの党は信頼関係に基づいて党を運営するんだから、規約の公表なんて不要なんです。

もちろん、綱領はホームページにアップしていますよ。「宇宙から夜の地球を見た時、世界は大きな闇と、偏在する灯りの塊に見える…。」という書き出しの、あの有名な奴。無内容でひどいという批判もあるけど、その批判はやっかみね。

なんですって? 行政の透明性の徹底とか、情報公開を売りにしている都民ファーストが、自分のことになると、まったく不透明で、結局のところ二枚舌ですって?

あなたねえ、どこの記者? 「それは失礼というものじゃない」。そもそも都政と政党の運営の問題をごっちゃにしているんじゃないの。都政はパブリックよ。透明性も情報公開も必要でしょ。政党はダイバーシティよ。お分かり? 多様なあり方があってよいじゃないの。規約が曖昧だとか、ネットに掲載ないとか、規約を見せずに党員募集しているとか、そんな些末な批判があればご自由にどうぞ。都民が、次の選挙で決着をつけてくれるわ。圧倒的な民意が私と都民ファーストの会にあるのよ。そこをよーくご自覚遊ばせ。

この頃、うるさいのよ。「都民ファースト」ではなく、「自分ファースト」だろうとか、「百合子ファースト」だとか。ひどいのは、「都民ファシストの会」とまで。でもね、私は都民のため、都民目線を忘れたことはございませんことよ。舛添要一さんが、朴槿恵元大統領と約束した、韓国人学校敷地提供の件を一存で反故にしたり、9月1日の朝鮮人虐殺慰霊行事への追悼文送付をやめたり。私のことを歴史修正主義者だとか、生粋のレイシストなんていう人がいるけど、大まちがいね。

私は、嫌韓、反韓の姿勢が都民に受けると思ってやっているだけ。だって、選挙権のある人に選ばれたのですもの。私を選んだ選挙権のある人の祖父の代の人々が、関東一円で自警団を作って、武器を持って朝鮮人狩りをして、大規模で残虐な集団殺人行為を行ったことなんて事実と認めたくないでしょう。だから、虐殺が事実であればこそ、都民有権者の気分がよいようにしているだけ。韓国人学校も同じこと。

私こそが、選挙民の立場をよく考えているんだから、私こそ民主主義者なの。お分かり?
(2017年9月14日)

東京「君が代」裁判(4次訴訟)の9月15日判決にご注目を

明後日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決言い渡しがある。その後14時30分からは、日比谷公園内の「日比谷図書文化会館」地下1階大ホールで「判決報告集会」が開かれる。ぜひ、多くの方々にご参加いただきたいと思う。

東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。

原告ら14名が取消を求める処分は、最も軽いものが《戒告》、最も重いものが《停職6月》となっている。
内訳は、
《戒告処分》        9名 12件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《停職6月》        1名  1件
 計           14名 19件
以上の数字が合わないように見えるのは、複数件の処分を争う原告もあり、《戒告処分》と《減給10分の1・1月》の処分を重複して受けている原告も一人いるから。

私たちは、14原告に対する19件の、戒告処分を含む全処分が取り消されなければならないと確信している。それが、日本国憲法の命じるところだからである。

戦前の天皇制国家や、現代なお続く軍国主義や国家主義の国家、あるいは個人崇拝の独裁国家の真似をして、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制など滑稽の極みではないか。

そもそも、首相であろうと文科大臣であろうと、あるいは都知事であろうと都教委であろうと、国民の僕であるはずの公的機関が、教育公務員を含む国民に向かって、「国家に対して敬意を表明せよ」と強制することなどできるわけがないのだ。そんなことの強行は、価値倒錯であり背理だ。

また、憲法19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、23条(教員の専門職としての自由)、26条(教育を受ける権利の保障)が保障する原告たちの基本権の侵害は明らかに違憲である。さらに、教育基本法16条(旧法10条)が定める教育に対する公権力の不当な支配としても許されない。

これまで最高裁は頑なに違憲判断を回避してきた。私たちは、もう一歩のところまで肉薄はしてきたが、2006年9月の予防訴訟一審の『難波判決』を除いて、違憲判決を勝ち取ることができていない。

しかし、最高裁判決は変更されなければならない。今回の訴訟においても、多角的に違憲論を展開してきた。裁判所の真摯な姿勢での審理はあった。これに続く真っ当な判断に期待したい。

仮にの話だが、担当裁判所が最高裁判決の「論理」にとらわれて、違憲判決は出せないとした場合でも、全原告の全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことができる。これが6年前の東京高裁1次訴訟控訴審の『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させているのだから。

さらに仮定の話として、担当裁判所が戒告処分の限りでは違憲ではなく、裁量権の逸脱濫用もないと判断したとしても、最高裁判決の論理に従えば、減給以上の過酷な懲戒処分は、すべて裁量権の逸脱濫用として違法となる。《減給》《停職》の処分すべてが取り消されなければならない。

都教委は,「国家へ敬意を表する態度」を取らなかったこと、すなわち国旗に向かって起立し国歌を斉唱しなかったことを理由として、原告ら教職員に、戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。このような懲戒処分は毎年、卒業式・入学式のたびに繰り返され、しかも累積すれば処分は加重されることになる。こうして職務命令違反として懲戒処分された教職員は、延べ480名余にのぼる。

これまでの最高裁判決は、国歌斉唱時に起立斉唱を命じることが思想信条の自由に対する間接的な制約であることを認め、起立斉唱命令が直ちに違憲とまではいえなくとも、各原告の有する思想・良心と一定の緊張関係を持つことは否定できず相応の配慮が必要であることまでは認めている。のみならず、教職員の不起立行為は積極的に卒業式等の進行を妨害したとはいえないこと、減給など実害をともなう懲戒処分は教職員に多大な不利益をもたらすものであることから、不起立行為等を理由として原告らに減給以上の懲戒処分を科すことは、社会観念上著しく妥当を欠き重きに失することから懲戒権の範囲を逸脱・濫用したものであるとして、懲戒処分の取り消しを命じている。

その限度で、最高裁判決は積極的な意義をもつものである。石原慎太郎都政下における都教委の強権的「日の丸・君が代」強制政策に大きな頓挫をもたらした。しかし、けっして憲法の命じるところにしたがって、「日の丸・君が代」強制は違憲で無効とは言っていない。その違憲判決を勝ち取るまで、東京「君が代」裁判は続くことになる。

今回判決を迎える事件が4次訴訟である。これまでに、1次訴訟(原告数173)、2次訴訟(原告数67)、そして3次訴訟(原告数50)があった。さらに続く5次訴訟の対象処分も行われ、提訴の準備もなされている。

これは、紛れもなく、公権力に抗って思想良心の自由を擁護する歴史的な闘いであり、教育に対する権力による不当な支配を排除する抵抗運動でもある。

私は思う。司法も問われているのだ。その本来の使命を全うしているか否かを。9月15日判決にご注目いただきたい。東京地裁が、果たして憲法に定められた人権の砦としてのその本来の使命を全うしているか、あるいは権力の走狗となってはいないかを。
(2017年9月13日)

兵庫県弁護士会に、隻腕の韓国籍会長

弁護士会は、弁護士法に基づいて設立された弁護士の強制加入団体である。弁護士会に登録しなければ弁護士としての業務はできない。この点、任意加入団体である医師会・歯科医師会・薬剤師会等とは大きく事情を異にする。

弁護士会は、公的な組織でありながら行政からの監督を受けることのない自治を享有して、所属弁護士の指導・監督を行なう。このことが国民の人権を守る上で大きな役割を果たしている。全国には各府県に1会、東京に3会、北海道に4会の合計52の弁護士会がある。その連合組織としての日本弁護士連合会と区別して、単位会という。

単位会の規模は、東京の3会がず抜けており、大阪・横浜・愛知・福岡などがこれに次いで、8番目の規模の単位会として兵庫県弁護士会がある。会員数916名(本年度初)の大単位会。

今年(2017年)4月1日、その兵庫県弁護士会の会長に韓国籍の白承豪(はく・しょうごう)さんが就任した。外国籍の会長は、全国に前例のないことだという。国籍という壁を乗り越えた素晴らしい慶事だと思う。

しかも、白さんについて驚くべきことがさらに二つある。一つは、ソウルで出生し日本語を母語としない環境で生まれて育って11歳で日本に渡ってきたということだ。後天的な学習によって日本語を習得したその努力は並大抵のものではなかったろう。

さらに、彼は交通事故で右手を失っている。出生地ソウルで、5歳のできごとだったという。言葉の壁、身体障害の壁、国籍の壁を乗り越えての弁護士資格の取得であり、弁護士会長就任である。

一昨日(9月10日)の「毎日新聞ストーリー」が、1面と4面にその白さんを大きく取り上げた。「負けん気 試練に挑む―韓国籍の兵庫県弁護士会長」というメインタイトル。中見出しに、「障害・言葉 乗り越え」「初の外国籍弁護士会長・白承豪さん」「沖縄が第二の故郷」「戦争だけはいけない」。共謀罪法案に反対する弁護士会の「市民街頭パレード」で先頭に立つ写真や、左手一本でゴルフクラブを振る写真が目を引く。

もともと、司法試験には国籍条項がなかった。しかし、弁護士になるには最高裁が管轄する司法研修所に司法修習生として入所しなければならない。最高裁は長く、司法修習生の採用には日本国籍を要件としてきた。

司法修習生が国家公務員に準ずる地位にあるという形式的な理由だけではなく、司法修習では検察庁で容疑者の取り調べをしたり、裁判所で非公開の合議に立ち会ったりする機会があるため、「公権力の行使や国家意思の形成に携わる公務員には日本国籍が必要」との内閣法制局の見解を準用したものという。

その結果、外国籍の司法試験合格者は、司法修習生として採用されるためには帰化するなどして日本国籍を取得しなければならなかった。

これを不当として、敢然と抵抗した人物があらわれた。それが金敬得さん。早稲田大学を卒業して1976年に司法試験に合格、韓国籍のままでの修習生採用を希望した。最高裁は、飽くまで帰化して日本国籍を取りなさいという姿勢。彼は最高裁の姿勢を不当として、「請願書」を提出した。1976年11月20日を最初のものとし、同種の意見書提出は6回に及んだという。

自分はけっして権力を行使する立場の法曹を目指すものではない。私人としての立場から基本的人権の擁護と社会正義の実現に尽力することを使命とする弁護士を志望する者だ。弁護士の職業的性格を憲法の精神に照らしてみれば、外国人が弁護士になれない理由はない。とすれば、外国人だからという理由で司法修習生採用の道を閉ざしてはならない。

また、ことがらは自分個人の問題にとどまらず、在日65万の同胞の権利に関わる。個人的解決(帰化)をすべきではないと考える。

これを日弁連もバックアップした。結局、最高裁は1977年に国籍を必要とする原則は変えぬまま、「相当と認めるものに限り、採用する」との方針を示して金さんを採用した。こうして、金敬得さんは、外国籍修習生第1号となった。

これに続くものが多く、2009年までに140人を超える外国籍の合格者が司法修習を受けた。この流れの中で、同年最高裁は司法修習生の選考要項から日本国籍を必要とする「国籍条項」を削除した。

白さんの司法修習生採用は1991年。金敬得さんに続く外国籍の一人だった。が、韓国生まれでの修習生は珍しかったのではないか。

白さんの紹介記事を書いた記者がこう言っている。
いつも人の輪の中心にいる白さん。でも人生は困難の連続でした。事故で片腕を失い、韓国では見たこともなかった漢字に苦しみ、最愛の父をがんで亡くし、司法試験に何度も落ち……いくつもの壁を努力と頑張りで乗り越えてきました。その原動力は『隻腕コンプレックス』だったと言います」「努力は裏切らない。そんな気持ちを込めて原稿を書きました。…白さんの生きざまを通し、努力することの大切さを再認識していただけると幸いです

金敬得さんも白承豪さんも、人を感動させる。自分を圧する境遇に屈することなく、自己の尊厳を守り抜いたことにおいてであろう。

私の手許に、金敬得さんからいただいた著書がある。「在日コリアンのアイデンティティと法的地位」というもの。恵存のサインの日付が、99年6月26日となっている。金さんは、その後2005年12月に亡くなられた。
(2017年9月12日)

アベ晋三の高笑い

今日はルンルンだ。国民はチョロいぜ。勿体ないがだましよい。

各紙の世論調査で内閣支持率が軒並みアップだ。不支持率を逆転したぞ。どんなもんだい。

今日(9月11日)発表のNHKの世論調査ではこんな具合だ。

安倍内閣を「支持する」と答えた人は、先月より5ポイント上がって44%だったのに対し、「支持しない」と答えた人は、7ポイント下がって36%で、3か月ぶりに、「支持する」が「支持しない」を上回りました。

さすがNHK。立派な国営放送だ。誰が言ったか、「アベ様のNHK」。悪い気はしない。

朝日新聞も、9日10日の全国調査結果を今日発表している。こちらはやや渋いが。

「安倍内閣の支持率は38%(前回8月調査は35%)で、不支持率38%(同45%)と並んだ。回復傾向にはあるものの、無党派層の支持率は17%と依然低い。」

朝日だもの。反アベだろう。それでも、前回調査の不支持率と支持率の差10ポイントが、今回はゼロだ。やっぱりルンルンだぜ。

なぜこうなったかって? 幾つか考えられる。

まずは、北朝鮮のおかげだ。これまでも、私の支持率の落ちたところで、私を助けてくれている。「困ったときの友こそ真の友」と言うだろう。金正恩こそが私の真の友だと思うよ。これ、ホンネだ。

ICBMの発射も、核実験も、ホントによいタイミングでやってもらった。しかも核は160キロトン相当の水爆だと言うじゃないか。国民の目は、森友・加計問題から、北朝鮮に完全に移った。共謀罪も、南スーダンPKOでの日報隠しも、閣僚不祥事も、アベチルドレン問題も、すべては忘却の彼方だ。

しかも、この北朝鮮によるわが国への支援の恩恵は、内閣支持率アップにとどまらない。迎撃ミサイルだの、イージスショアだの、自衛の措置が必要ではないかとの理由付けで、防衛予算の増強がとてもやりやすくなった。アメリカの軍需産業も大喜びだ。

だから、北朝鮮危機の深刻さは、できるだけ大袈裟に国民に伝えなければならない。Jアラートも国民の危機意識涵養に大成功だった。国民が不安になればなるほど一体感が造成される。時の内閣支持率がアップするのが、世の習いではないか。

私も、不愉快そうに深刻な顔つきで記者会見をしなければならないのだが、ついつい腹の中では笑みがこぼれる。

北朝鮮危機→国民の不安→対抗措置の必要 こうなるのが思う壺。目には目。歯には歯だ。核兵器には核兵器だろう。北朝鮮が持つなら、この機会にわが国の核武装も、というのが民の声じゃないか? えっ? ちっとも論理性がないって? そんなことはどうでもよい。日本の核武装ができないまでも、使用済み核燃料から抽出したプルトニウムの保管に精出すくらいは国民合意ができそうじゃないか。うまくいけば、憲法改正だってできるかも。これも北朝鮮・金正恩のおかげだ。

もっとも、朝日の調査では、「北朝鮮の弾道ミサイルや核実験に対して、日本政府が、対話と圧力のどちらにより重点を置く方がよいかを尋ねると、『圧力の強化』40%、『対話の努力』45%と割れた。」という。これでは、まだまだ内閣の努力が十分ではない。「対話」じゃなくて、圧倒的な「圧力」世論を作らなければならない。そのためには、もう一押しの「反北朝鮮キャンペーン」だ。

そう、北朝鮮危機を本当に解決できななくてもいいのさ。危機は深刻であるほど、そして長引くほどありがたい。その間、支持率低下の心配はない。

北朝鮮の協力の次は、「寝たふり作戦の成功」だね。頭を下げ、お詫びをし、反省のふりをしたことが成功の原因だ。本当に国民は忘れっぽくってありがたい。

それだけでない、弱体野党の御陰もある。野党第一党の党首が、野党共闘に消極的なことも、消局的な内閣支持率アップの原因だ。

これまでは寝たふりをしていたけど、この事態なら、ジリ貧になる前に早期解散に打って出る手も大ありだ。これで負けを最小限に押さえられれば、それこそ正恩に足を向けては寝られない。

昨日(9月10日)の東京新聞社説が「桐生悠々と防空演習」を取り上げている。例の「関東防空大演習を嗤う」の論評を書いたジャーナリスト。

社説はこう言うのだ。
「悠々の評論の核心は、非現実的な想定は無意味なばかりか、有害ですらある、という点にあるのではないでしょうか。その観点から、国内の各所で行われつつある、北朝鮮の弾道ミサイル発射に備えた住民の避難訓練を見るとどうなるのか。」
「国民の命と暮らしを守るのは政府の役目です。軍事的な脅威をあおるよりも、ミサイル発射や核実験をやめさせるよう外交努力を尽くすのが先決のはずです。そもそもミサイルが現実の脅威なら、なぜ原発を直ちに停止し、原発ゼロに政策転換しないのでしょう。」

何を言っているのか。東京新聞は何も分かっちゃいない。何のための避難訓練かといえば、国民に北朝鮮への恐怖を煽るためのものであることは明らかじゃないか。軍事的な脅威をあおってこその防衛予算拡大であり、9条改憲の実現じゃないか。

そういうところをメディアも学ばねばならない。信頼関係は、相互に敬愛の精神をもつところから出発する。「メディアの使命は権力監視だ」なんてカビの生えたことを言っていたら、信頼関係なんて無理だね。読売のように従順なら、公安の捜査情報をくれてもやろうが、ね。

なんてね。今日は気分がよい。さてこれがいつまで続くやら。

(2017年9月11日)

敬愛する坂井興一弁護士へ。ご質問にお答えします。

坂井興一弁護士から、ときおりメールをいただく。
坂井さんとは、半世紀に近い付き合い。かつては同じ法律事務所で机を並べた間柄。私より2期上の身近な先輩。弁護士としてのあり方の指導も受け、大きく感化も受けてきた。

坂井さんと言えば思い出す。かつて、旧庁舎時代の東京弁護士会講堂の正面には大きな「日の丸」の額が掲げられていた。私が東弁常議委員会において、この日の丸の掲示を外すべきだと提案をしたときの副会長が坂井さん。奔走して私の提案を上手に実現してくれた。他の理事を説得するその手並みに感服したことがある。

その坂井さんの出身地が、岩手県南の陸前高田。浜の一揆訴訟の原告が多いところ。訴訟には関心を寄せて、たびたびの質問があり、私の方もその質問に回答することで問題点の整理をしてきた。

今回は、当ブログ「沿岸漁民の暮らしと資源を守る政策を― JCFU沿岸漁業フォーラム案内」の記事についてのご質問。
https://article9.jp/wordpress/?p=9102

「頭記のことが伝えられていたので、チョット。
?結局、それ(澤藤大河弁護士の発言)は集会の趣旨に反旗乃至は疑問を呈するものなのか、
 それとも基調講演に注文付けてるだけなのか、どっちなんでしょうか。
?沖取りが漁協(プラス県)の放流事業をチャッカリ横取りしてるというのが漁協側の言い分のようですが、
イ、個別の川と取り位置に密接因果があるのか、或いはフラついてるのを獲っているのか、
ロ、待ち構えているのなら、零細側とは云え、聞こえが悪そうですが。
ハ、仮にフラついているものなら、ケシカランとする漁協側の言い分は再抗弁が必要そうだけど、どうなのか、
 ま、何分にも故郷のことなので、手隙の時にでも、よろしく。ではまた。」

お答えいたします。
問? (澤藤大河弁護士の発言)は集会の趣旨に反旗乃至は疑問を呈するものなのか、それとも基調講演に注文付けてるだけなのか。

回答:澤藤大河の発言は、集会の趣旨に反旗乃至は疑問を呈するものではなく、基調講演に注文付けてるだけのものでもありません。「なによりも漁民の生業の確保が第一義で、漁協も漁連も水産行政も、漁民の生業の利益確保のためにこそある」ことを再確認すべきことを提言したものです。

集会の趣旨は、次のようなものでした。
「家族漁業・小規模漁業を営む沿岸漁業就業者は漁民全体の96%。まさに日本漁業の主人公です。全国津々浦々の漁村の自然と経済を守るこの家族漁業・小規模漁業の繁栄無くしては『地方創生』などありえません。ここでは、沿岸漁民の暮らしと資源、法制度をめぐる問題をとりあげ、日本の漁業政策のあり方をさぐります。」

集会の基調は、「小規模漁業繁栄のためには漁協の力量をつけることが大切」というもの。しかし、「浜の一揆」訴訟では、「漁協の繁栄のために、小規模漁業をぎせいにしてはならない」ことが訴えられています。

「浜の一揆」訴訟は、行政訴訟として県知事を被告とし、県の水産行政のあり方を問うものとなっています。その訴訟での被告岩手県知事側の言い分は、詰まるところ「漁協が経営する定置網漁の漁獲を保護するために、零細漁民のサケ刺し網漁を禁じることに合理性がある」として一歩も引きません。「漁協・定置漁業権」が、零細漁業者の経営を圧迫してもよいというのです。

浜の一揆の原告たちは、けっして漁協や漁業権を敵視しているわけではありません。しかし、漁協の存立や大規模な定置網漁の収益確保を絶対視して、零細漁民の権利を認めないとなれば、漁協にも、大規模定置漁業者にも譲歩を要求せざるを得ません。日本漁業の主人公は小規模漁民にほかなりません。けっして漁協ではないのですから。

キーワードは、「漁協の二面性」です。すべての中間団体に宿命的にあるもの。横暴な大資本や国と向かい合う局面では、漁民を代表する組織としてしっかりと漁協・漁連を擁護しなければなりません。しかし、組合員個人、個別の零細漁民と向かい合う局面では漁協は強者になります。そして、零細漁民の利益と対立するのです。

浜の一揆の原告たちの要求は、「大規模な定置網漁をやめて、漁場も漁獲も自分たちに解放せよ」と言っているわけではありません。「漁協の自営定置も、大規模な業者の定置網も認める。でも、一人について年間10トン、総量にして1000トンの刺し網漁を許可してほしい」と言っているだけなのです。

これに対して、「漁協の定置網漁の漁獲高に影響があり得るから一切許可できない」というのが県の立場。これって、おかしくないですか。ひどい話ではありませんか。不公平ではありませんか。

言うまでもなく、漁協は漁民に奉仕するための組織です。
水産業協同組合法第4条は「組合は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」と規定します。これが、漁協本来の役割なのです。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とするなど、法の理念に真っ向から反することではありませんか。

9月8日法廷で、被告県側の申請による濱田武士証人も、「漁協は協同組合ですから、一人がみんなのために、みんなが一人のためにという理念の組織です」と言っています。残念ながら、この理念のとおりには漁協は運営されていません。原告漁民の実感は、「一人ひとりの漁民には漁協・漁連のために」が強制され、「漁協漁連は漁民のために何もしていない」のです。

漁民の利益を代表してこその漁協であり、漁民の生業と共存してこその漁業権であることを再確認する必要があります。それが、私たち「浜の一揆」訴訟の基本的な立場であることをご理解ください。

集会では、大河弁護士の報告のあと、「漁協の二面性の指摘は重要」「民主性が徹底してこそ、漁業の力量が発揮できる」と司会がまとめています。

問? 「沖取りが漁協(プラス県)の放流事業をチャッカリ横取りしてるというのが漁協側の言い分のようですが」

回答:その問の発し方にそもそも問題があります。定置網漁の主体が、漁協であろうと株式会社であろうと、サケを独占する権利は誰にもありません。ですから、誰が誰に対しても「チャッカリ横取り」ということはあり得ないのです。但し現状は、一般漁民のサケ漁を禁止して、漁協の定置網漁が「チャッカリ横取り」しているというべき事態であることをご理解いただきたいのです。

三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが原則であり、議論の出発点です。憲法22条1項は営業の自由を保障しています。漁民がサケの漁で生計を建てることは憲法上の権利であって、原則自由なのです。

このことは、サケの孵化放流事業があろうとなかろうと、また孵化放流事業主体が誰であろうと、変わりません。孵化場内の卵や稚魚の所有権は、孵化場経営者のものです。しかし、稚魚が河川に放流されるや、無主物になります。この稚魚は、降海し、ひとまずオホーツク海に渡り、さらにベーリング海峡付近で、回遊して北太平洋の自然の恵みを得て成長し、3年魚、4年魚と性的成熟期を迎えて三陸沿岸に帰ってきます。そして、その多くが母川を見つけて産卵のために遡上します。

この北太平洋で育ったサケを、母川の近くで一網打尽にする大規模漁が定置網漁で、場所を決めずに漁師の腕で位置を決めて網を下ろし、小型漁船で獲ろうというのが刺し網漁。

三陸沿岸のサケの漁獲高は最高年に7トン。本件申請時まではほぼ年間2万トン。そのうち、「1000トンだけを刺し網で獲らせていただきたい」というのが、原告らの要求なのです。

ですから、「(刺し網漁者が)待ち構えているのなら、零細側とは云え、聞こえが悪そうですが。」というご懸念は無用なのです。もともと、誰にもサケを獲る権利がある。無制限に獲るとはいわない。せめて、「一人年間10トンまでの許可を」という行政への申請が許可されてしかるべきだと確信しています。

また、孵化放流事業は利益を生みません。インフラ整備事業に似ています。事業コストの大半は、公費の補助金。残りは成魚の漁獲者からの、漁獲量に応じた負担金です。公金による事業の成果が、一部のものだけの利益として享受されてよかろうはずはありません。

もちろん、営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられた理由があれば、その制約は可能です。このことは、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約できないということでもあります。

具体的には、漁業法65条1項にいう「漁業調整」の必要、あるいは水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養」。そのどちらかの必要あれば、制約は可能なのですが、県はそのような整理もできていません。「取扱方針」なる内部文書に適合しないから不許可だ。つまり、自分で決めた規則を金科玉条にしているだけ。

最終的には、「漁業調整」とは何だ。その指導理念である漁業の「民主化」とは何だということに尽きるのだと思っています。弱い立場の、零細漁民に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行としか考えられません。

「漁協あっての漁民」という主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないでしょうか。「漁協も漁連も、海区漁業調整委員会も、そして行政も民主的な手続にしたがって運用されている」「だから、既に民主化は達成されているのであって、一々漁民が文句をいうな」。これが県の立場であり発想というしかありません。

未成熟な民主主義と、人権原理との葛藤の局面です。行政の不備を補う司法の出番だと、坂井さんならご理解いただけるのではないでしょうか。
(2017年9月10日)

「DHCスラップ2次訴訟」で、またもや「幸福な被告」業に逆戻り―「DHCスラップ訴訟」を許さない・第107弾

昨日(9月8日)、盛岡での法廷と報告集会を終えて帰宅すると、待っていたのはDHCからの再度の訴状。3年半ぶり2度目の私宛の特別送達。これで、私は新たな事件の被告となった。
とりあえず、この新件を「DHCスラップ2次訴訟」と命名しておくことにしよう。

新たな提訴は、債務不存在確認請求事件。事件の表示は下記のとおり。
 東京地方裁判所民事第1部C係
 事件番号 平成29年(ワ)第30018号
 債務不存在確認請求事件
 原告 吉田嘉明 外1名
 被告 澤藤統一郎
なお、訴状の日付は本年9月4日。

被告業を脱してしばらく経った。「次は原告業」となる予定だった。不当きわまる吉田嘉明とDHC両者の私に対するスラップの提訴自体が不法行為だ。吉田嘉明とDHCに対する損害賠償請求訴訟を提起して、「リベンジ訴訟」と名付けるつもりだった。その「リベンジ訴訟原告」が私の肩書になるはずだった。ところが、私は再度の被告業となってしまったわけだ。この点は予想外で、やや不本意。

しかし、前回の「DHCスラップ訴訟」で思いもかけない訴状を受けとったときの、何とも名状しがたい不愉快極まりない思いは今回はない。むしろ、新たな訴状を一読してなんとはなしに「笑っちゃった」というところ。

大金持ちを自称するDHCのオーナーのことである。もっと鷹揚な人物かと思い込んでいた。実業家として忙しくもあろう。私からの600万円の請求などは歯牙にもかけず、意識の隅にもないのかと思っていた。が、実はたいへん気にしていたわけだ。これは、望外のこと。600万円の請求を受けて、債務の不存在を確認しないと落ち着けないとは、思いもよらなかった。

私が、吉田嘉明とDHCの両者に、内容証明郵便による損害賠償請求を発信したのが、本年の5月12日。その6か月後には時効中断の効果がなくなって消滅時効が完成する。私も弁護団もそれぞれに多忙である。やるべきことは山のようにある。それでも、いずれ時効完成までには損害賠償請求の提訴をしなければならない。それまであと2か月余。吉田嘉明はその2か月が待ちきれなく、提訴に踏み切ったということなのだ。

細かいことだが、今回DHC側で提訴によって、印紙代と郵券代はDHC側が負担してくれたことになる。基礎的な資料も、甲号証として揃えてくれた。面倒な事務手続を負担してくれたのだから、この点は感謝すべきと言えなくもない。

何よりの感謝は、私の闘志を掻きたててくれたことだ。私は、性格的に「水に落ちた犬」は撃てない。吉田嘉明が敗訴確定で水に落ちた気分状態では、これを撃つことに躊躇せざるを得ない。しかし、仕掛けられた争いだ。遠慮は無用。ことここに至っては、絶対に、後に引けない。

このブログに目を留めた弁護士の皆様にお願いします。
表現の自由を擁護する立場から、訴訟活動支援の志あるかたは、弁護士澤藤統一郎まで、ご連絡をください。本事件は、言論への萎縮を意図した社会的強者のスラップを許さない、社会的意義のある法廷闘争だと考えています。

なお、以下に「DHCスラップ2次訴訟」の訴状をご紹介する。
今後も、訴訟の進展を当ブログでご確認いただきたい。
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訴 状 
 原告 吉田嘉明
 原告 株式会社ディーエイチシー
 原告ら訴訟代理人弁護士 今村憲
 披告 澤藤統一郎

債務不存在確認請求事件
訴訟物の価額 金600万円
貼用印紙額  金3万4000円

  請求の趣旨

1 原告らの被告に対する別紙訴訟目録1記載の訴え提起、同2記載の控訴及び同3記載の上告受理申立てによる損害賠償債務が存在しないことを確認する
2 訴訟費用は被告の負担とする
との判決を求める。

  請求の原因
1 原告らは、被告が、自身のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」において、原告らの名誉を毀損する記述をしていたことから、平成26年4月16日、訴訟提起したが、平成27年9月2日、請求が棄却され、控訴も上告も棄却された。

2 平成29年5月12日、被告は、原告らの訴訟は、いわゆるスラップ訴訟であり、不当提訴であるから、不法行為に基づく損害賠償請求として、連帯して600万円の支払いを求める内容証明郵便を送付し、原告らに600万円の債務が存在する旨主張した。

3 これに対し、原告らは、被告主張の損害賠償債務などない旨回答したものの、被告は、自身のブログにおいて、訴訟提起する旨繰り返し主張しているが、未だに訴訟提起しない。

4 なお、前訴第1審判決は、「被告は、本件訴訟について、いわゆるスラップ訴訟であり、訴権を濫用する不適法なものであると主張する。この点、本件訴訟において名誉毀損となるかが問題とされている本件各記述には、断定的かつ強い表現で原告らを批判する部分が含まれており、原告らの社会的評価を低下させる可能性かあることを容易に否定することができない。また、本件各記述が事実を摘示したものか、意見ないし論評を表明したものであるかも一義的に明確ではなく、仮に意見ないし論評の表明であるとしても、何がその前提としている事実であるかを確定し、その重要な部分が真実であるかなどの違法性阻却事由の有無等を判断することは、必ずしも容易ではない。そうすると、本件訴訟が、事実的、法律的根拠を全く欠くにもかかわらず、不当な目的で提訴されたなど、裁判制度の趣旨目的に照らして許容することができないものであるとまで断ずることができず、訴権を濫用した不適法なものということができない。このことは、本件各記述が選挙資金に関わることによって左右されるものではない。
したがって、本件訴訟をスラップ訴訟として却下すべき旨をいう被告の主張は、採用することができない。」と判示している。

5 また、原告らが名誉毀損だと指摘した被告のブログの記述は、違法性阻却事由により判決においては違法ではない旨判示されたものの、同時にその大半の記述が、原告らの社会的評価を低下させるとも判断されており、被告が弁護士でありながらも原告らの名声や信用を一般読者に対して著しく低下させたことは事実であり、このような事実無根の誹謗中傷をネットに書き散らす行為が許容される事態は社会的に問題である。

6 さらに、被告は、第1審の当初に提出した平成26年6月4日付け「事務遮絡」において、「次々回(第2回期日)の日程は、2か月ほど先に指定いただくようお願いいたします。その間に、弁護団の結成と反訴や別訴等の準備をいたします。」などと書き、訴訟係具申も反訴すると言いながら、結局反訴しなかった。

7 加えて、被告は、白身のブログにおいて、性懲りもなく、未だに原告らの提訴がスラップ訴訟である旨主張し続けており、当該ブログを読んだ一般人に、あたかも原告らが金銭債務を負っているかのような印象を与え続けている。

8 よって、原告らは、被告に対し、原告らの被告に対する別紙訴訟目録1記載の訴え提起、同2記載の控訴及び同3記載の上告受理申立てによる損害賠償債務が存在しないことの確認を求める。

 

別紙
1 第一審
原告 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
披告 澤藤統一郎
裁判所 東京地方裁判所民事第24部
事件番号 平成26年(ワ)第9408号
事件名 損害賠償等請求事件

2 控訴審
控訴人  吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
被控訴人 澤藤統一郎
裁判所 東京高等裁判所第2民事部
事件番号 平成27年(ネ)第5147号
事件名損害賠償等請求控訴事件

3 上告審
申立人 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
相手方 澤藤統一郎
裁判所 最高裁判所第三小法廷
事件番号平成28年(受)第834号

(2017年9月9日)

「浜の一揆」訴訟―漁協を守るために漁民にはサケを獲らせない?

本日は、盛岡地裁「浜の一揆」訴訟の証人尋問。原告側・被告側それぞれ申請の学者証人の尋問が行われた。

原告側の証人は、サケの生態学については第一人者の井田齊さん。被告側は、漁業経済学者の濱田武士さん。原告側が自然科学者で、被告側が社会科学者。自然科学者が沿岸漁民の側に立ち、社会科学者が県政の側に立つ構図が興味深い。

今日の尋問で証拠調べは終了、次回12月1日(金)が最終弁論期日となる。

何度もお伝えしているとおり、岩手の河川を秋に遡上するサケは三陸沿岸における漁業の主力魚種。「県の魚」に指定されてもいる。ところが、現在三陸沿岸の漁民は、県の水産行政によって、厳格にサケの捕獲を禁じられている。うっかりサケを網にかけると、最高刑懲役6月。漁船や漁具の没収まである。岩手の漁民の多くが、この不合理を不満として、長年県政にサケ捕獲の許可を働きかけてた。とりわけ、3・11被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、請願や陳情を重ねが、なんの進展も見ることができなかった。

そのため、2014年に3次にわたって、岩手県知事に対してサケの固定式刺し網漁の許可申請をした。これが不許可となるや、所定の手続を経て、岩手県知事を被告とする行政訴訟を盛岡地裁に提起した。2015年11月のこと、その原告数ちょうど100人である。

請求の趣旨は、不許可処分の取消と許可の義務付け。許可の義務付けの内容である、沿岸漁民の要求は、「固定式刺し網によるサケ漁を認めよ」「漁獲高は無制限である必要はない。各漁民について年間10トンを上限とするものでよい」というもの。原告らは、これを「浜の一揆」訴訟と呼んでいる。苛斂誅求の封建領主に対する抵抗運動と同根の闘いとする心意気からである。

三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが原則であり、議論の出発点であることは、本日の被告側証人の証言においても確認されたところ。

漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲しようというのだから、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければならない。

この憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ない。合理性・必要性に支えられた理由があれば、その制約は可能となる。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約はできないということになる。

この合理性・必要性に支えられた理由とは、二つのことに収斂される。
漁業法65条1項は「漁業調整」の必要あれば、また水産資源保護法4条1項は、「水産資源の保護培養」の必要あれば、特定の魚種について特定の漁法による漁を、「知事の許可を受けなければならない」とすることができる、とする。

これを受けた岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めている。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければならない。

したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となる。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならない。

本日の原告側証人は、サケの専門家として、孵化放流事業の実態を語って、本件申請を許可しても「水産資源の保護培養」に何の影響もない、と結論した。また、水産学者として、三陸沿岸の自然環境の多様性に即した多様な漁業形態があってしかるべきだという立場から、大規模な漁協の自営定置も零細漁民の刺し網漁も共存することが望ましいとして、定置網漁のサケ漁獲独占を批判した。

本日の被告側証人は、漁協の存立を重要視する立場から、漁協が孵化放流事業を行い、自営定置で漁獲することを不合理とは言えないとして、本件不許可処分を是認した。しかし、「漁業調整の必要」の存在を具体的に述べることには成功しなかった。そして、「漁業調整」の指導理念であるべき漁業法上の「民主化」を援用すれば、漁協存立のために漁民のサケ漁を禁止することは不当ではないか、という立論にむしろ理解を示したように見受けられた。

問題は漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるか、という点に絞られてきた感がある。
定置網漁業者の過半は漁協です。被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」ということに尽きるもの。県政は、これを「漁業調整の必要」と言っている。
しかし、「漁業調整の必要」は、漁業法第1条が、この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法の視点から判断をしなければならない。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行ではないか。

漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないか。

また、水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする。」これが、漁協本来の役割。漁民のために直接奉仕するどころが、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、法の理念に真っ向から反することではないか。

訴訟の進行は、本日まですこぶる順調である。11月10日までに原被告双方が最終準備書面を提出し、12月1日が最後の口頭弁論期日となる。勝訴を確実なものとするために、もう一踏ん張りしなければならない。
(2017年9月8日)

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