昨日(10月25日)の宮城県議選で、「共産党 議席倍増」が大きな話題となっている。産経の見出しが、「共産が8議席に倍増し第2会派に 自民27議席 民主はわずか5議席」というもの。
共産党は、今回9人立候補して8人当選、前回議席の4を倍増させた。仙台市内の全5区で当選。最中心部の青葉区では、12600票を獲得して堂々のトップ当選だった。前回が同じ候補者で、9319票3位だったのだから、躍進と言ってよいだろう。
地元紙河北新報は次のように伝えている。
「自民は34人を公認。東京電力福島第1原発事故で発生した指定廃棄物の処分場問題で揺れた加美選挙区は、5選を目指した現職が敗れた。9人を擁立した民主は青葉、宮城野、太白で現職が議席を確保。党分裂問題を抱える維新は気仙沼の現職1人にとどまり、仙台市内の2人は落選。公明は強固な組織戦で仙台市内の4議席を維持した。共産は仙台市内5選挙区全てで議席を獲得。石巻・牡鹿と塩釜の現職、大崎の新人も当選し、前回の4議席から8に躍進した。」
この選挙結果の原因は何か。毎日の報道が「共産、反安保票で躍進 反TPP、農協職員も歓迎」という見出し。これが常識的なところだろう。
「共産党が改選前の4議席から8議席と倍増させた25日の宮城県議選。自民党は前回選から1議席減の27議席と、単独過半数を割った。安全保障関連法成立や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)大筋合意後の初の都道府県議選で、共産党が幅広い批判票の受け皿となった。」「共産は…県内有数の稲作地を抱える大崎選挙区(定数4、大崎市)では、これまで自民候補を支援した旧鹿島台町長や元市議会議長らが新人の支持に回り、初議席を得た。」「大崎市の農協役員は『TPPは米どころの大崎から反対の声を上げなければいけないと思った』と歓迎。仙台市青葉区の無職男性(66)は『(共産党は)安保法反対で主張が一貫している』と話し、同党が提唱する野党連合にも期待する。」「自民候補に1票を投じた太白区の2児の母(32)は『投票率が低く、共産党が当選しやすくなっていると感じる。安保法が結果に影響したのでは』と話した。」
今、選挙で問われるべきテーマは数ある。まずは、何よりも戦争法に対する国民的な批判である。立憲主義・民主主義・平和主義の総体が問われている。これに次ぐ大きなテーマが原発。補償問題というだけでも再稼働問題というだけでもない。われわれの文明の危うさを象徴する大事件への対応が問題なのだ。さらに、産業や経済のあり方をめぐってのTPP交渉問題がある。安倍内閣の経済政策の行き詰まりと閣僚人事の身体検査問題もある。本来は、これらの諸問題が臨時国会で議論の対象となっていなければならない。ところが臨時国会は開かれない。国民には、やり場のない憤りが鬱積せざるを得ない。宮城県議選には、これが噴出したとみて間違いがない。マグマ溜まりの小爆発といったところ。
ところで、「民主、維新、共産、社民、生活の野党5党は21日、憲法規定に基づいて臨時国会召集を要求する手続きを衆参両院で行った。…『逃げていると言わざるを得ない。1カ月以内に召集しないなら、憲法無視の違憲内閣だ」。民主党の枝野幸男幹事長は21日、仙台市内で記者団にこう語り、政府・与党の姿勢を非難した。」
「憲法53条は、衆参いずれかの4分の1以上の議員から要求があれば、内閣は召集を決定しなければならないと規定しており、野党の要求はこの要件を満たしている。ただ、53条は召集の期限を定めておらず、事実上拘束力がない。昨年秋の臨時国会では、内閣改造で就任したばかりの小渕優子経済産業相、松島みどり法相(いずれも当時)が辞任に追い込まれており、同じ轍(てつ)は踏みたくないのが政権の本音だ。」(時事通信)と報道されている。
メデイアの言う、「53条は召集の期限を定めておらず、事実上拘束力がない。」との言い方には、誰しも納得しがたいだろう。憲法は、政権は憲法を遵守するとの当然の大前提でできている。期限の定めがあろうとなかろうと、誠実に憲法の定めには従わねばならない。もっとも、今回の安倍内閣のごとく、日本国憲法大嫌い(大日本帝国憲法大好き)で憲法無視のビリケン(非立憲)内閣が、憲法に従わないという態度を露わにした場合、憲法に従うよう強制が可能かはなかなかに難しい問題となる。
法は、その規範内容を実現する強制力を持つことによって、道徳や倫理あるいは政治的宣言等と区別される。しばしば、そのように説かれる。法の強制力として分かり易いのは、刑事法における刑罰権の執行や、民事法における強制執行など、公権力の実力作用による直接・間接の強制措置である。しかし、すべての法的規範に強制措置が伴っているわけではない。憲法に関しても、その規範を実現するためにいくつかの方策が予定されているが、そのすべてに実効性を担保する強制措置が用意されているわけではない。
憲法とは公権力を名宛て人として主権者が発した文書、その内容は公権力を規律する規範である。公権力の行使の規制に関し、その実効性確保に関する中心的な制度が、裁判所による違憲審査制である。憲法81条が、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と定めるとおりである。
しかし、三権分立のバランスのとりかたの理解には微妙なものがあり、公権力のすべての違憲行為に訴訟が可能というわけではない。違憲を根拠に提訴可能なのは、公権力の違憲な行使によって国民の人権が侵害された場合に限るという制度運用が定着している。歯がゆいかも知れないが、裁判所にすべてをお任せというわけにはいかない。主権者たる国民が公権力を監視し、批判し、安倍政権のごとき憲法違反の政権には、国民自身が退場命令を出さねばならないのだ。
野党の要請に対して安倍内閣が臨時国会を召集しないことは、明白な憲法53条違反である。しかし、この違憲行為が国民の権利侵害をもたらすとはなかなかに難しく、従って訴訟でこの政府の違憲行為を是正することはきわめて困難というほかはない。
むしろ、このような憲法を守ろうとしない安倍政権への国民こぞっての批判の方が重要なのだ。私は、宮城県議選の結果は、安倍内閣の憲法軽視の姿勢に対する国民の側からの批判の意思表示とみるべきだと思う。なにせ、安倍政権への批判のバロメータは、何よりも共産党票と共産党議席の伸び如何にあるのだから。
宮城県民に続いて、安倍ビリケン(非立憲)内閣を、徹底して批判しよう。次は来年7月の参院選だ。安倍のビリケン度を、参院選の票と議席に反映させようではないか。
なお、戦争法案審議の最終盤、参院安保特別委員会での採決不存在の議事録改ざん問題に抗議し、経緯の検証と撤回を求める申し入れへの賛同署名は明日が締め切りです。改めて、下記のメール署名をお願いいたします。
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「公表された特別委員会議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、当該議事録の撤回を求める申し入れを提出します。ついては多くの皆様に賛同の署名を呼びかけます。
ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2
賛同者の住所とメッセージを専用サイトに公開します。
https://bit.ly/1X82GIB
第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
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https://article9.jp/wordpress/?p=5768
(2015年10月26日・連続939回)
本日(10月25日)は「開業医共済協同組合」の第6回総代会に出席。縁あって、私はこの組合の顧問となっている。顧問就任の依頼を受けた際に、その理念に共鳴して積極的に承諾をした。
その名が体を表しているとおり、この組合は、開業医を組合員として組合員間の共済事業を目的とした中小企業協同組合法に基づく事業協同組合である。会員数は1750名ほどの規模。
組合のホームページ(http://www.kaigyouikumiai.or.jp/)の冒頭に、「開業医の万が一の休業時に備える開業医共済協同組合」と、保険会社とはひと味違った、やや無骨なキャッチフレーズが掲げられている。
弁護士である私も、開業医と同様、小規模(というよりは零細な)事業者である。数年前に肺がんの手術を受けて休業を余儀なくされた。休業の補償はありがたい、というよりは安定した職業生活には不可欠である。通常の発想では、万一の場合に備えて保険会社が提供する保険商品を選択して保険契約を締結することになる。ところが、この組合に結集した医師たちは、共済事業にこだわって保険契約を拒否しているのだ。
ホームページの「理事長挨拶」の中に次の一文がある。
「開業医には、ひとたび病気やケガで自院の休業を余儀なくされたときに医業再開のための公的休業保障は何もありません。民間保険会社の休業保険商品は保険料が高く医業経営を圧迫し、医院継続が破綻しかねません。そのため、適切な保障制度を開業医の相互扶助で行う必要があることから、開業医共済協同組合を立ち上げ、復業を支援するための『開業医共済休業保障制度』の認可を得ました。」
営利事業としての「民間保険会社の休業保険商品は保険料が高額になる」のは理の当然である。資本出資者への配当も、会社役員・職員の人件費も、広告宣伝費のコストも避けられない。一方、当組合の役員は、これまでのところすべて無報酬だ。配当は無用。宣伝コストも微々たるもの。
本日の総代会の雰囲気が明るい。「開業医のニーズにフィットした運営がなされている」「契約者数・契約口数の伸びはまことに順調」「財務状況はきわめて安定」「会員のために、さらなる利益還元の共済制度充実を」という具合。
本日の議案のひとつが、「入院療養にかかる給付金に関する共済規定(約款)変更の件」。これまでは入院についての傷病給付金の支払いの要件とされていた、「5日以上連続して休業した場合」を撤廃しようというもの。現約款では、入院4日以内の休業は給付の対象とならなかったものが、改正案では1日でも支給されることになる。もちろん、反対意見などあるはずもなく採択された。組織の発展の好循環が見て取れる。
「保険会社の保険金等の支払能力の充実の状況を示す指数」として、ソルベンシーマージン比率なるものが使われる。高いほどのぞましく、200%以下は行政から改善指導を受けることになる。当組合の昨年の総代会報告では、「541%から866%に改善」と誇らしげなものだったが、今年はさらにアップして1026%との報告だった。「制度の運営にあたっては、投資のための株式・債券等のリスク資産での運用は行っておりません。また、役員報酬を無くし会議等も効率的に開催し経費を切り詰め、長期的に安定・安全運営できるよう努力しています。」との成果なのだ。加入者が着実に増加している原因でもあり、結果でもある。
私が顧問就任をお引き受けしたとき、組合の経営内容については、よく把握していなかった。積極的にお引き受けしたのは、むしろ、この組合の理念に共鳴したからである。共鳴した理念のひとつは、この組合が新自由主義的な企業万能主義に反対の立場を明確にしていることである。かつて、共済は保険業とは無関係に種々の相互扶助制度として社会のそこここにあった。ところが、2005年の保険業法の「改正」が、これら共済制度のすべてを保険業法の網の目に入れて規制対象とした。名目は、「共済」を隠れ蓑にしたインチキ保険商品の横行から消費者を守るためである。しかし、当組合の組合員の多くはそうは見ていない。グローバリゼーションとして押し寄せたアメリカの保険企業の日本展開が、日本の相互扶助制度としての共済システムを企業展開の邪魔者と見ての圧力の結果だとの理解である。TPPやFTAに対する警戒心には重いものがある。
新自由主義とは、実は「自由」を本質とするものではない。巨大企業の行動の自由に規制には撤廃・緩和を要求するが、巨大企業に邪魔者となる「自由」は目障りとして新たな規制を創設するものなのだ。
本日の総代会議案書の中にも、「開業医の経営と生活を金融資本の市場に開放しようとする動きと対峙した、自主的、民主的な経営・生活保障である当組合の休業補償制度の存在価値は大きい」とされている。自主的な相互扶助事業を、企業利益に呑み込ませてなるものかというこの気概。その意気やよし、ではないか。
もう一つの私が共鳴した理念とは、意識的に徹底した組織の民主的運営を心掛けるという点である。組合員の思想・良心を制約することはけっしてしない。組合員の組織運営に関する発言の自由、批判の自由を保障するという。それこそが、柔軟で強靱な組織を形成する要諦であるとの発想からである。
民主的組織運営の確保、あるいは徹底。誰もが言うことではあるが、なかなかに実現は困難なことと言わざるを得ない。この組合が、事業内容によっての発展だけでなく、透明性が確保された民主的な運営が評価されて会員の居心地よさとなり、この面からも組合発展の要因となることを願っている。
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(2015年10月25日・連続938回)
2013年12月26日、安倍晋三は内閣総理大臣の公的資格をもっての靖国神社参拝を強行した。国内外からの強い反対論、違憲の指摘を押し切ってのことである。安倍は、公用車で靖国神社に向かい「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳したうえ正式に祓いを受けて昇殿参拝した。政教分離を規定した憲法第20条3項に違反することは、自明というべきである。
最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は、愛媛県知事の靖国神社への玉串料奉納を違憲と断じている。多数意見13人対反対意見2人の大差であった。
知事の玉串料奉納ですら違憲。ましてや内閣総理大臣の靖國神社公式参拝が違憲であることに疑問の余地はない。なお、最高裁判決で首相の靖国参拝の合違憲に触れた判決はまだないが、仙台高裁(仙台高判1991年1月10日)が岩手靖国違憲訴訟で明確に違憲判断をして以来、高裁の違憲判断はいくつかある。もちろん、合憲判断は皆無である。
この安倍晋三の違憲行為に司法の場で制裁を加えようとの果敢な試みが、安倍靖国参拝違憲訴訟として東京と大阪の両地裁で行われている。大阪訴訟の審理が先行して、昨日(10月23日)結審となった。注目の判決は、来年1月28日(木)午前10時とのこと。
判決は、政教分離問題としてだけでなく、今戦争法の違憲国賠訴訟提起の試みが話題となっているときに、平和的生存権侵害の構成による訴訟の有効性について、関心が集まっている。
大阪訴訟原告団準備会が作成したチラシの中に、次の一文がある。
「安倍内閣の危険な体質を危惧されているすべてのみなさまへ
国、安倍晋三、靖国神社を被告に、安倍首相の靖国参拝を問う訴訟を提起します。参拝が違憲であることは、小泉首相の参拝に対する7件の訴訟のいくつかの判決においても明らかです。この訴訟は、違憲違法の参拝による被害に対し、国家賠償を請求する訴訟となります。被侵害利益の中に、平和的生存権などを含めて、『秘密保護法』『集団的自衛権』『武器輸出』などに象徴される安倍内閣の危険な体質を総合的に問う訴訟にしたいと考えています。長期政権という悪夢が懸念される中、私たちは、この訴訟提起が、今のところ市民が直接に安倍内閣に異議を申し立てることができる数少ない道ではないかと考えています。」
この訴訟の提起が、2014年4月11日。その後、集団的自衛権行使容認の閣議決定があり、戦争法案が国会上程されて、「成立」にまで至った。市民が直接に安倍内閣に異議を申し立てる必要性は数段高くなっている。
この事件の「請求の趣旨」は以下のとおりの簡明なものである。
1 被告安倍晋三は内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
2 被告靖國神社は、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
3 被告らは、各自連帯して、原告それぞれに対し、金1万円及びごれに対する2013年12月26日から支払済みまで年5バーセントの割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は被告らの負担とする。
との判決及び第3項につき仮執行の宣言を求める。
請求原因は、宗教的人格権および平和的生存権に基づく差し止め請求であり、国家賠償請求となっている。
安倍晋三の靖国参拝が違憲であることは明々白々であるが、問題は、安倍の参拝が法的な意味で各原告らの権利を侵害していると言えるかどうか。それなければ訴訟として成立し得ないことになる。このハードルをクリアーするためのキーワードが、宗教的人格権であり、平和的生存権である。各原告がそれぞれに持っているこの権利が侵害されたとの認定がなければ、憲法判断に到達せずに敗訴となる公算が高くなる。
昨日の大阪訴訟結審の法廷では、170ページの原告最終準備書面が提出され、その要旨16ページが朗読されたという。
関心は、損害論に集中する。
(1) 宗教的人格権侵害
原告らは、被告安倍の本件参拝及び被告靖國神社の参拝受入れによって、内心の自由形成の権利、信教の自由確保の権利、身近な死者を回顧し祭祀することについての自己決定権を侵害された。
(2) 平和的生存権侵害 本件参拝等によって、原告らの平和に生きる権利が侵害された。現代社会においては、平和なしにはいかなる個人の権利も実現することができない。表現の自由、信教の自由、経済的自由もまた、平和な社会でなければ個人がこれを享受することができない。平和的生存権に対ずる侵害によって生ずる損害は、人格的生存の根幹に関わるものである。
具体的な損害論は、原告のそれぞれの特性に応じて語られた。
沖縄原告、台湾原告、若者原告、女性原告、在日外国人原告、教育者原告、宗教者原告…らについてである。
こうして、安倍の本件参拝と、靖國神社の参拝受入れとは、各原告らにはかり知れない精神的苦痛をもたらした。国家権力が、国民に対し国のために死ぬことを強要するだけでなく、死亡後も国が兵士確保のため「英霊」=道具として利用し続ける関係を継続しているのである。憲法の核心たる個人の尊重、立憲主義(国民が国家を支配するという憲法の根本原理)を根底から覆す、権利侵害態様の重大性に照らして、その精神的損害は甚大というべきである。
法廷陳述要旨の末尾は次のとおりに結ばれている。
「首相の公式参拝は、首相が靖国神社或いはその教義を是認し賛美することにほかならない。殊に、歴代首相の中で最も軍事法制の整備に熱心な安倍首相によって行われた本件参拝は、憲法9条と20条が、ともに先人の知恵によって憲法にビルトインされた「平和」のための装置であり、車の両輪をなすものであることを改めて強く浮き彫りにした。
公式参拝の違憲判断は司法によって明確なものとなっているにもかかわらず、時の政権は違憲判決を嘲笑するかのような違憲行為を繰り返している。それは、原告らが被った精神的被害を過小に評価して、法的利益に価しないとしてきた司法の誤った価値判断が招いた結果と指摘せざるをえない。
このような判断を繰り返していては、最高法規たる憲法が目指す価値・秩序を実現すべき司法の役割を果たしたことにはならない。また、政治の場での民主的解決に委ねればすむという問題でもない。違憲行為による重大な権利侵害があった場合、たとえそれが国民の一人に対してのものであっても、司法的救済がなされるべきは当然である。加えて、現時点ではそれにとどまらず、本件参拝の如き違憲行為を二度と繰り返させないよう、憲法保障を実効化あらしめるための判断が司法には期待されている。本件においては、司法の面目にも関わることとして、その期待に応えうるだけの判決が今こそ求められている。」
矢の3本は要らない、この訴訟の判決で、安倍にはせめて一矢報いたいもの。
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(2015年10月24日・連続937回)
10月14日付東京新聞「こちら特報部」が「平和のための新九条論」を大きく取り上げた。今井一、小林節、伊勢崎賢治らの名を上げて、専守防衛に徹する自衛隊の存在を明記した新九条案を紹介している。個別的自衛権も交戦権も軍事同盟も容認を明記した新憲法を制定しようというのだ。
「憲法の条文に照らして自衛隊合憲論は欺瞞であるとし、歴代政府も護憲派もその欺瞞性を逆手にとられた」とするところから、条文と現実との乖離を最小化して「解釈の余地を政権に与えない」憲法を制定しようとの発想だという。
「自衛隊も安保も容認」したとされている共産党の国民連合政府構想が、「新九条論」者を勢いづかせている一因になってはいないだろうか。気がかりで警戒すべき事態と言わざるを得ない。
東京新聞は、リードで「安倍政権の暴走に憤る人たちの間からは、新九条の制定を求める声が上がり始めた。戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』を明確に位置づける。解釈でも明文でも、安倍流の改憲を許さないための新九条である。」と言っている。肯定評価という域を超えて、この方向に意見と運動を誘導しようという意図が見える。
しかし、東京新聞のこのリードはおかしい。「新九条の制定」とは、明文改憲にほかならない。当然に明文改憲を拒否し解釈改憲も許さないとしたのが、今回の戦争法反対の世論であり運動であった。今、この時点で、唐突な明文改憲の主張は明らかに政権側に塩を送る動きである。安倍流でなければ「明文改憲けっこう」とはあまりに、短絡的な発想。「戦後日本が平和国家のあるべき姿として受け入れてきた『専守防衛の自衛隊』」との速断も安易に過ぎる。
この種の論争も見解も昔からあった。憲法は現実を批判する規範として理想を語る。現実との乖離は永遠の課題である。この乖離を理由に、現実を理想に近づける努力を放棄し、理想を現実に合わせて引きずり下ろそうということには賛成しかねる。
少しも新しくない「新九条論」だが、いま「新」を冠し、「平和のための」との装いでの登壇は、議論も運動も攪乱しかねない。理想を一歩現実の方向に動かせば、現実は二歩も三歩も逃げていく。現実に近づけられた「専守防衛」は、先制的防衛にも予防的防衛にも限りなく拡散していくことになるだろう。
ところで、戦争法成立の今、なぜ「戦争法廃止」に集中するのではなく、「新九条論」の提起なのだろうか。
今回の安倍流解釈改憲への反対運動は、「自衛隊は違憲、安保も違憲。自衛権の発動としても一切の武力行使はできない」という伝統派護憲陣営(A)と、「自衛隊は合憲、安保も合憲。集団的自衛権の行使は違憲だが、個別的自衛権の行使としてなら武力行使は可能」という旧来の保守本流の専守防衛陣営(B)との連合だった。A陣営は、B陣営との連携のために、Bの主張を前面に押し出した。安倍政権と自公両党が、現状を大きく変えようと強権の発動をしている以上、現状を維持しこれ以上悪化させないためにはB論で一致することとなる必然性があったからだ。その逆の連携のあり方は非現実的で、あり得ることではなかった。一見すると(A+B)の全体が、あたかもBの見解で統一されたかのごとき観を呈したが、実際にはA陣護憲派は、その見解を留保していたのだ。
共闘とは、小異を捨てて大同に就くこと。自説を曲げることでも捨てることでもない。A陣営の多くが、安倍流の解釈改憲に対抗するための有効な運動体形成のために、一致点を前面に立てていたということを深く認識すべきである。これまでのこととしてだけでなく、これからの「戦争法廃止」「明文改憲反対」を中心とする運動にも重要なこととして。
新九条論は、B陣営の一部の心ない動きである。A論に配慮するところなく、A論を真っ向否定したB論での明文改憲提案なのだから。運動の統一や連帯に配慮を欠いた独走というほかはない。
私見では、今井案も伊勢崎案も「普通の国の普通の憲法」に過ぎない。保守派が大喜びで、こぞって賛成するに違いない。こうして、具体的な修正案に照らすと九条の価値が浮かび出る。九条の価値は飽くまで理想としてのその存在自体にある。この理想を貶めるあらゆる明文改正案が光を失う。これ以上の新九条論の跋扈なからんことを願う。九条については、理想を堅持しつつ、営々と現実を理想に近づける努力を重ねるべきことが大切なのだ。性急な明文改憲など愚策でしかない。
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Blog「みずき」様
先日(10月20日)の私のブログ「放送大学の『表現の自由の抑圧』に抗議するー再び戦争をするための体制作りに加担してはならない」をご紹介いただきありがとうございます。
http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1593.html#more
2015.10.21 今日の言葉 ――政権の思惑を忖度して、大学までが追随し萎縮して振り回される時代に危機意識を感じざるを得ない。時代と切り結ぶ生きた学問の実践とはなにか。
「弁護士・金原徹雄のブログ」様
私のブログの末尾に「放送大学の中から、教員や学生の間から、澎湃たる抗議の声が起こることを期待したい」とあるのに応えて、書いていただいたとのこと。感謝申し上げます。
10月22日「放送大学「日本美術史(’14)」単位認定試験にかかわる見過ごせない大学の措置について」
http://blog.livedoor.jp/wakaben6888/archives/45780419.html
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第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
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(2015年10月23日・連続936回)
本日(10月22日)、プロ野球ドラフト会議。私の関心外のイベントだが、たまたま本日各紙の朝刊が、大きく「巨人選手の野球賭博問題」を報じている。賭博に関与していたと報告された3選手も、何年か前にはドラフトの対象だった。その一人松本竜也は、2011年の巨人1位指名選手。その長身と剛速球から「甲子園のランディ・ジョンソン」と異名をとった有望選手だったという。賭博問題の根を残しておいたのでは、今日のドラフト対象選手も、数年後には賭博に引き込まれかねない。あるいは、もっと積極的に人を犯罪に巻き込みかねない。
組織的に賭博を運営している暴力団の存在が疑われ、これとプロ野球選手との交際の疑惑がある。原辰徳巨人軍監督の1億円恐喝被害問題が記憶に生々しい。巨人だけとは言わない。いや、プロ野球だけでもなく、興行一般と暴力団とのしがらみの根は深く根絶し難い。この社会の健全さの保持のために徹底して膿を出し切ってもらいたい。
この問題で私が意を強くしているのは、案に相違して世間の目は賭博に厳しいということ。大相撲でもプロ野球でも、これを賭博の種にすることに世の批判は厳しいのだ。社会は、なかなかに健全である。
「案に相違して」と言ったのは、世に賭博が溢れているからだ。競馬・競輪・競艇・パチンコ・スロット…。もちろん、宝くじも、先物取引もFXも、立派な賭博である。この賭博が堂々とコマーシャルを打つ時代である。世人の賭博を見る目が甘くなっていると思わざるを得ないのだ。
賭博とは何か。私の定義では、「複数の者が財貨を拠出しあい、お互いに何らかのルールでこの拠出された財貨を取り合うこと」である。賭場に金を積んで、積まれた金を、サイコロの目でも巨人阪神戦の勝敗でも日経平均の上下でも、何かを基準に勝ち負けを決めて取り合うのだ。何のために賭博に参加するのか。当然のことながら、人の金を我が物としたいから。他人の懐に手を突っ込んで取ってくれば、窃盗か強盗になる。お互いの了解で、ルールを決めて、他人の懐の金の取り合いをするのが賭博である。賭博は、財貨の所在を変えるが、何の経済価値も産みださない。
賭博は窃盗や強盗にはならないが、やはり犯罪である。国家が刑罰権を発動して制裁を科する必要があるとされている違法性の高い行為なのだ。その本質において、互いに相手の財産を奪い合う醜い行為であり、社会の健全さを失わしめ、やがては賭博参加者自らをも滅ぼす看過し得ない違法な行為でもある。単純賭博罪(刑法185条)、常習賭博罪(同186条1貢)、賭博場開張図利罪(同186条2項)。博徒結合図利罪(同)と類型化され、富くじの発売も、発売の取次も、授受も犯罪(同187条)とされている。
ダンテの「神曲」では、賭博を行う者が堕ちて行くべき地獄はことのほか深い。「他人の不幸を自己の幸福とする」その心根の卑しさの罪が深いのだ。最高裁判例は、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済に悪影響を及ぼす」ことを処罰の根拠と説明している。
ところが、「賭博はお互い負ければ取られることを了解での大人のゲームだ。許された娯楽と考えるべきで、刑罰をもって禁圧するほどのことはあるまい」という意見は昔からあった。最近この声は大きい。安倍政権になってからはことさらのこと。経済政策の目玉のひとつになろうとしているからだ。賭博を開帳してテラ銭を稼ごうという、有力企業は政治と結託してこの論調を高めている。プロ野球と暴力団の醜い関係などとは比較にならない、政治家と胴元企業の大規模の醜悪な関係があるのだ。
この醜悪な連中は、博打とか、賭博という言葉を敢えて避ける。推進議員の集まりは「カジノ議連」で、賭博場は「IR」(インテグレイテド・リゾート)という。しかし、なんと言葉を言い換えても本質が醜悪な賭博であることに変わりはない。
以下は、本年1月3日の産経新聞記事「カジノ解禁はいつか…巨大プロジェクト『IR』始動、経済効果は計り知れず」の抜粋である。小見出しとして、『これは成長戦略の目玉になる』とタイトルが付されている。醜悪な政治と醜悪な企業の醜悪な連携についての、醜悪なメディアの報道である。
「平成26年5月、シンガポールを訪れた安倍晋三首相は、カジノを中心とした統合型リゾート(IR)『マリーナ・ベイ・サンズ』などを視察して、こう期待感をにじませた。
カジノのフロアには1500台のスロットマシンや600台のゲームテーブルが並び、地上200メートルの屋上プールや会議場、水族館、遊園地も併設されている。実際にIRがシンガポールにもたらした経済効果はすさまじく、2013年の観光客数は09年から6割増の1560万人に達した。IR設置に伴う雇用も約2万3000人に上るという。
シンガポールに追随しようとしているのが日本だ。政府は観光立国を掲げ、訪日外国人旅行者を20年までに2000万人、30年に3000万人超に増やす計画だが、この起爆剤としてIRを位置づけている。
IR誘致の最大のメリットは、その経済効果。みずほ総合研究所がまとめたリポートでは、東京地区にカジノを含むIRを開設した場合、約3兆7000億円の経済効果が期待できるとしている。同様に香港の投資銀行CLSAは経済効果を年間400億ドル(約4兆7000億円)、大阪商業大の佐和良作教授は最大約7兆7000億円と見積もる。」
産経は、「巨大な経済効果を取り込もうと、自治体の誘致合戦も激しくなっている。すでに全国で20カ所以上の自治体がIR誘致に名乗りを上げている。」「とりわけ熱心なのが大阪…」「IR整備推進法案の通過が、日本におけるIRの第一歩となる。」と報じている。幸い、まだIR整備推進法案の成立には至っていない。
賭博の繁栄がもたらす経済効果を当てにしてのアベノミクス。「おかしいだろ、これ。」としか言いようがないではないか。
ところで、野球賭博。本日の読売が、社説を書いている。「巨人野球賭博 ファンを裏切った罪は重い」というのだ。
「伝統ある球団で、あってはならない不祥事が起きたことは、極めて残念である。」なんだかよく分からない。巨人が特別なんてことはあるまい。「プロ野球界は、選手が賭博に関わらないよう厳しく指導してきた。暴力団排除の取り組みも強化した。3選手の愚行は、球界の努力を無にしかねない。」これもおかしい。3選手だけが悪者か。「プロ野球選手は、子供たちにとって、あこがれの的だ。発言や行動は常に注目される。ユニホームを着ていない時も、身を律することが求められる。」。なんだ、結局は選手個人の自覚の問題にされているのか。
野球賭博も罪深い。しかし、カジノ議連や「IR整備推進法」の罪は、格段に大きく深いのだ。一国の首相が、他国のカジノを見学して目を輝かせているこの時代状況がおかしいのではないか。安倍晋三自身は共産党の追求でカジノ議連最高顧問の座を退いたが、その側近たちが虎視眈々とIR整備推進法案の成立を狙っている。「社会の健全化よりも経済振興の方が大切だ」「アベノミクスの3本目の矢の中に賭博もはいっているのだ」「カジノなんてしゃれた大人のムード」「客寄せには賭博が一番」「これこそ経済復興の目玉」…。
何のための経済振興か。経済とは何なのか。哲学が問われている。野球賭博追放の心意気で、カジノ・IRをも追放しなければならない。アベノミクスもカジノ議連も一掃してはじめて健全な社会を取り戻すことができるのだ。
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「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、当該議事録の撤回を求める申し入れを提出します。ついては多くの皆様に賛同の署名を呼びかけます。
ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
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https://article9.jp/wordpress/?p=5768
(2015年10月22日・連続935回)
「沖縄県の翁長雄志知事は本(21日)夕、県庁で臨時記者会見を開き、名護市辺野古の新基地建設をめぐり、国土交通相に提出した意見書と弁明書の内容を発表した。知事の埋め立て承認取り消しに対し、沖縄防衛局が行政不服審査法に基づき、国交相に無効審査を請求し、裁決まで執行を停止するよう申し立てたことに、「防衛局長が自らを一般国民と同じ立場であると主張したこと、同じ内閣の一員である国交相に審査請求を行ったことは不当」と反論した。(沖縄タイムス)
先日から私の頭の中で未整理のままモヤモヤしていたのが、この「防衛局長が自らを一般国民と同じ立場であると主張し、同じ内閣の一員である国交相に審査請求を行った」のは不当ということ。つまり、行政不服審査法に基づく審査請求も執行停止も、国民の権利救済のための制度なのだ。ところが、その制度を国がチャッカリ利用しようとしているのはおかしいじゃないか、というモヤモヤ。本来は、弱い立場の国民の権利救済のための制度なのに、国(沖縄防衛局)の権利を救済しようと、国(国土交通大臣)が乗り出しているという奇妙な構図。こんな舞台設定はおかしいじゃないか、という問題意識なのだ。「弁明書」も「意見書」も未見なのだが、少し整理してみたい。
一昨日、東京弁護士会が「沖縄県知事による公有水面埋立承認の取消しに関する会長声明」を発表している。強制加入の弁護士会の声明だから、歯切れの悪さは残るものの、この点について次のとおり述べている。(読み易いように、加工している)
「行政不服審査法は、『行政庁の違法又は不当な処分…に関し、国民に対して広く行政庁に対する不服申立てのみちを開くことによって、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図る…ことを目的とする』ものである(同法第1条)。本件承認取消処分にかかる紛争は、国と普通地方公共団体の関係いわば行政機関相互の関係にかかわる問題であるところ、地方自治法は、国と地方公共団体…の紛争解決の手続について、…国地方係争処理委員会による審査(同法第250条の13)、…等を定めている。そうすると、本件承認取消処分にかかる紛争について、国の機関が、『一般私人と同様の立場』で『審査請求をする資格を当然に有する』などとして行政不服審査法による手続を進めることは、行政不服審査法の目的を逸脱するうえ、事実上、国土交通大臣の判断をもって沖縄県知事の判断に代えるもので、地方自治法が定める(本来の)手続を回避する不服申立と言わざるを得ず、地方自治の本旨に悖るもの…である。」
要するに、国(沖縄防衛局)がいま行っている手続は、国民のために開かれた道であって、国には別の道が用意されている。国(沖縄防衛局)は道を間違えているのだから、本来の道に立ち帰って正しい道を歩みなさい、と言っているのだ。おそらく、これが真っ当な考え方。これなら私のモヤモヤもスッキリすることになる。
公有水面埋立法は、一般国民の埋立申請に対しては「免許」とし、国の申請に関しては「承認」と条文も用語も区別している。本来が、別メニューなのだ。
その上、行政不服審査法の改正新法(成立日2014年6月6日、未施行)7条2項には、「国の機関又は地方公共団体その他の公共団体若しくはその機関に対する処分で、これらの機関又は団体がその固有の資格において当該処分の相手方となるもの及びその不作為については、この法律の規定は、適用しない。」と明記されている。これは、法改正の前後を通じて変わらない原則とされている。
従って、問題は「固有の資格」の解釈如何となる。通説的には、「固有の資格とは、一般私人では立つことができない立場をいう」とされている。つまり、国(沖縄防衛局)側は「国は一般私人とまったく同様の立場で埋立申請をしたのだ」と言い、沖縄県は「私人とはまったく違う立場で埋立申請をしているではないか」ということになる。
「県内の弁護士や行政法研究者らでつくる『撤回問題法的検討会』は14日、県庁を訪れ、翁長雄志知事の埋め立て承認取り消しに対して沖縄防衛局が行政不服審査法に基づいて国土交通相に行った審査請求は、不適法だとする意見書を提出した。検討会は『国交相が執行停止を決定するのなら不適法な審査請求を認めたということなので、それは違法な措置だ』と主張した」(琉球新報)と報じられている。
この意見書が「固有の資格」について詳細に論じて、本件埋立申請が「一般私人とは違う」立場でなされた理由を次のように簡潔にまとめている。
「本件の場合、沖縄防衛局による申請は『日米両政府における外交上の合意の履行』という性格を有し、かつ、『閣議決定』に基づく埋立申請であり、単なる土地所有権取得目的の申請とは評価されず、その実態は、国益目的にて行われる『国の事業』を実施するための埋立申請と評価されるものである。」
当然だろう。辺野古海域の埋立申請が「私人とまったく同様の立場で」なされたとは、苦しい言い分でしかない。同意見書のこの点についての結論は、以下のとおりである。
「埋立に至る経緯,理由,事業実態及び対象水域の特殊性を考慮に入れると,沖縄防衛局の埋立申請は,行政手続法及び行政不服審査法を適用して『国民の権利利益の救済』を図る必要性を有するものではなく,『一般私人と同様の立場』で“一事業者”として行なっている申請と解する法的実態を有していない。」「本件埋立事業は,『国民の権利利益』とは無関係な“国家ぐるみの事業”という実態を有することは明らかであり,『固有の資格』に基づく申請として,行政手続法及び行政不服審査法の適用を排除すべき十分な理由が存するものである。」
さて、あらためて申しあげる。国(沖縄防衛局)がいま行っている「審査請求の手続」は、国民のために開かれた道であって、国の行くべき道ではない。国には「国地方係争処理委員会による審査」等の別の道が用意されている。国(沖縄防衛局)は道を間違えているのだから、本来の道に立ち帰って正しい道を歩みなさい。「審査請求」に付随する執行停止は、間違った道に迷い込んだ国(沖縄防衛局)にはそもそも申請の資格がない。
国交相よ、石井啓一よ。安倍政権におもねるあまり、法の解釈を枉げてはならない。間違ってもならない。
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「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
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第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
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(2015年10月21日・第934回)
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった」「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった」
簡潔に、ことの本質をズバリとよく言い得ているではないか。まことにそのとおり。心の底から共感する。今後、私は何度でもこの文章を反芻したいと思う。そして、この文章を何度でも当ブログで引用することにする。
本日(10月20日)の毎日新聞社会面トップの記事によれば、放送大学の佐藤康宏客員教授の上述の文章が不適切として、同大学はこの削除を強行した。同教授は、放送大学のこの措置を不当として、客員教授の任期満了を待たずに辞意を表明している。はからずも、「表現の自由を抑圧し情報をコントロール」される立場に立たされたのだ。この事態を「国民から批判する力を奪う」結果にしてはならない。それは、日本が再び戦争をするための体制作りにつながるからだ。同教授の抵抗を精一杯支援したい。
まず、この一文の内容を確認しておこう。
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」
まったく、そのとおりではないか。現政権は、「戦後レジーム」からの脱却を唱えている。戦後レジームとは、憲法9条が象徴する平和の国家体制である。これに対して、戦前の大日本帝国は、徹頭徹尾「戦争をするための体制」であった。日本国憲法はこれを根底から否定して、平和主義に徹した「戦後レジーム」を構築した。その「戦後レジーム」を否定し、「戦後レジームからの脱却」を掲げる政権を「再び戦争をするための体制を整えつつある」と言うことに一点の間違いもない。現政権が憲法9条を目の仇にしていることは誰もが知っている事実である。現に、安倍政権は、戦後の保守本流が違憲としてきた集団的自衛権を強引に解釈変更して「戦争法」を成立させてしまった。
「平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。」
現政権が、「平和と自国民を守るのが目的」と言いつつ一連の9条破壊策動を続けてきたことは周知の事実。掲げたイデオロギーは、戦力増強による抑止力向上こそが「敵の付け入る隙を防いで平和を守る」という抑止論至上主義。そして、軍事力の整備こそが平和に寄与し、自国民を守るのだという、時代遅れの軍拡路線。うかうかとこの論に乗せられると、軍備を増強すればするほど平和になるという倒錯した論理に陥る。平和を守るためには核武装も辞さない。自国民を守るためには開戦も躊躇しない、ということになる。
「1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった。」
「五族協和」の、「東洋平和」「東亜新秩序」建設のための戦争。そして、「満蒙は日本の生命線」だったのだから、「暴支膺懲」と「八紘一宇」とは重なり合う関係にあった。
「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった。」
台湾出兵・日清・日露・シベリア出兵・15年戦争…。絶え間ない戦争の繰りかえしの歴史には、必ず反戦勢力による反戦運動が伴っていた。信仰から、ヒューマニズムから、国際的な階級的連帯意識から、各種の反戦運動の抵抗が続けられた。戦争政策を推し進めた権力は、『表現の自由を抑圧し情報をコントロールする』ことによって国民から批判の精神を奪った。
佐藤康宏氏が東大の美術史の教授であることが興味深い。ここでは、反戦の檄文や反戦思想の論文の類だけを問題にしているのではない。国民の批判精神を涵養するには、広く美術や文芸を含む多様な表現の自由が確保されなければならない。政府の情報コントロールがあってはならない。権力による表現への統制は、国民に対する精神の統制であり、批判の精神を失わしめるのだ。おそらくは、同教授が最も主張したかったことであろう。
戦争の準備はすべてを抹殺する。人の個性も、個性に溢れた芳醇な芸術も。今、そのような時代にさしかかっていることを感じないか。そのように学生に語りかけているのだ。
報道は次のようなものである。
「今年7月に出された放送大学の単位認定試験問題を巡り、大学側が『現政権への批判が書かれていて不適切』として、試験後に学内サイトで問題を公開する際、該当部分を削除していたことが分かった。この部分は安全保障関連法案を念頭に置いたもので、当時は国会審議中だった。
この問題は、客員教授の佐藤康宏・東京大教授(60)=美術史=が、7月26日に670人が受けた「日本美術史」の1学期単位認定試験に出題した。画家が戦前・戦中に弾圧されたり、逆に戦争に協力したりした歴史を解説した文章から、画家名の誤りを見つける問題だった。」
大学側の削除の理由はこうだ。
「現政権への批判が書かれているが、設問とは関係なく、試験問題として不適切」「現在審議が続いているテーマに自説を述べることは、単位認定試験のあり方として認められない」
佐藤氏は納得していない。
「昨年度から2019年度まで6年間の契約だった客員教授を今年度限りで辞めると大学側に伝えた。佐藤氏は『学生に美術史を自分のこととしてリアルに考えてほしかったので、この文を入れた』と説明した。その上で『大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い』と話す。」
毎日の取材に対して、大学側はこうコメントしている。
「学問や表現の自由には十分配慮しなければいけないが、放送大学は一般の大学と違い、放送法を順守する義務がある。試験問題も放送授業と一体のものと考えており、今回は放送法に照らし公平さを欠くと判断して削除した」
このコメント、「平和を守るという口実で戦争がおこされる」というロジックとよく似ていないか。「大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い」という批判に応え得ているだろうか。放送大学は、「一般の大学との違い」を強調するのではなく、大学教育を受けようと学窓に集う学生の意欲の等質性をこそ強調すべきではないか。大学と名乗る以上はそれにふさわしい場であろうとの努力を惜しんではならない。大学教育を受けるだけの基礎を持った学生たちである。批判の精神と意欲に欠けるところはあるまい。現政権への批判を学内で圧殺して、大学の名に値する教育と言えるのか。
試されているのは、佐藤教授の側ではない。放送大学こそが、試されているのだ。大学の名に値する研究と教育の場であるのか。学問の自由を有しているのか、学問の自由を制度的に保障する大学の自治を有しているのか。
今、放送大学は、佐藤教授の「表現の自由を抑圧し情報をコントロール」に手を染めた。自ら、「国民から批判する力を奪う有効な手段」を行使しているのだ。政権の思惑を忖度して、大学までが追随し萎縮して振り回される時代に危機意識を感じざるを得ない。放送大学の中から、教員や学生の間から、澎湃たる抗議の声が起こることを期待したい。それこそ、時代と切り結ぶ生きた学問の実践ではないか。
(2015年10月20日・連続第933回)
本日は10月19日、戦争法案が「成立」したとされたあの日から1か月が経過した。当然のことながら、違憲な法の成立を心理的に受け容れがたい。どうにも怒りが治まらない。今後もこの怒りを忘れまいと思う。毎月19日には、薪に臥し胆を嘗めることとしようと思う。とりあえず本日は、やや安直だが、ブラックの苦いコーヒーにしておこう。
法「成立」の直後、安倍晋三は疲れ切った表情で、「今後、国民の皆さまにご理解いただけるよう、丁寧な説明を重ねていきたい」と語った。丁寧な説明は、法案成立以前になされるのかと思っていた私がおろかだった。国民の納得なくても、とりあえず数の暴力で法は成立させておいて、丁寧な説明は法の成立したあとに行おうという驚くべき論理。いや非論理というべきだろう。
そう考えた私は甘かった。一国の総理の言だ。それ以上にウソが深いとは思わなかった。安倍晋三のことだ。次の機会には体勢を立て直して、そつなく官僚が作った作文を用意して国民に得々と訴えるのだろう。そう考えていた。ところがどうだ。この「次の機会」がなくなりそうなのだ。安倍流の言葉への無責任に絶句の連続である。
安倍による丁寧な説明の「次」の機会として考えられていたのは、常識的に臨時国会である。毎年秋には臨時国会が開かれる。秋は臨時国会のシーズン。歳時記に秋の季語として、「臨時国会」を収載してもよいのだ。ちなみに、近年の臨時国会開会の月日を列記してみよう。当然今年も、今ごろは臨時国会が開かれていてよい時期なのだ。
2014年 9月29日
2013年10月15日
2013年 8月 2日
2012年10月29日
2011年10月20日
2011年 9月13日
2010年10月 1日
2010年 7月30日
2009年10月26日
2008年 9月24日
2007年 9月10日
2007年 8月 7日
2006年 9月26日
臨時国会を開いてなすべきことは、戦争法についての説明に留まらない。沖縄・辺野古基地新設問題あり、川内原発再稼働問題あり、日中・日韓外交問題あり、TPP交渉公約違反問題あり、「旧3本の矢」の的外れと「新3本の矢」の目眩ましあり、「一億総動員」構築問題あり。また、第3次安倍改造内閣の所信表明も、新閣僚への政策の吟味も必要であろう。何よりも、身体検査なしでの閣僚人事の不備を洗い直し、国会の場での野党による厳しい身体検査が必要ではないか。安倍内閣よ、自公両党よ。逃げてはならない。
通常、国会の会期は与党が法案を通すために機能する。だから、野党は会期の延長には抵抗し、臨時国会の開会には積極姿勢を示さない。ところが、今回は逆の現象が起きている。世論の後押しを背景に、野党の側が国会の外の運動と連携して、政府与党の追及に自信を深めている。政府与党が、逃げ腰及び腰なのだ。久しぶりの珍しい事態。
憲法53条は、臨時国会の開会について、次のように定めている。
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」
内閣がその気にならないのなら、参院野党の結集で臨時国会を開かせることができる。政府はこれに従わざるを得ない。ぐずぐずしていれば、「ビリケン(非立憲)安倍」の名が再浮上するだけではない。「逃げの安倍」「安倍自信欠乏症」「アベのダマシ」の異名が拡がることになるだろう。
昨日(10月18日)の毎日が「臨時国会見送り 立法府を無視している」という社説を掲載している。
「第3次安倍改造内閣が発足したにもかかわらず、安倍晋三首相の所信表明演説も行われぬまま、年明け後の通常国会に先送りするという選択は理解に苦しむ。
与党は首相の外交日程が立て込んでいることや、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の国会承認を来年の通常国会とすることなどから、召集を見送る方針を固めたのだという。だからといって、見送っていい理由にはならない。憲法は議院内閣制について、内閣は国会に対し連帯して責任を負うと定める。改造人事を行った以上は速やかに国会で首相が所信を表明し、新閣僚の所信聴取を行うことが政府の責任だ。召集見送りは立法府を軽視している。」というトーンだ。
また、「新閣僚をめぐっては、森山裕農相が代表を務める自民党支部が鹿児島県の指名停止措置を受けた複数の業者から合計約700万円の献金を受けていたことが判明し、返金を表明したケースもある。新閣僚の人選が適切だったかを吟味することも、国会の大切な役割だ。これらの事情にもかかわらず野党の召集要求に応じないのであれば、政府が議論を避けたと取られても仕方あるまい。」とも論じている。
我が意を得たり、の内容である。
ところで、もう一紙「産経」も社説を出している。「臨時国会『見送り』 国民への説明を怠るのか」という表題。一昨日(10月17日)のこと。実はこれがなかなかに辛口なのだ。
「国会を通じて国民に説明すべき内容はいくらでもある。『召集の必要性は感じない』と口にする政権の鈍感さにはあきれる。
安倍晋三首相の外遊日程が立て込んでいる、などと理由にならない事情を挙げている。国会を開けば、よほど都合の悪いことがあるのか。いらぬ疑いも招こう。堂々と国会を開き、目指す政治の道筋を語るときである。
政府には、国会で説明を尽くす義務がある。それは国民への説明でもある。召集しなければ党首討論も今年はもう開かれない。国民の理解など進みようもない。
第3次改造内閣は発足したばかりで、新閣僚が国会で最初にすべき所信の表明もまだしていない。来年の通常国会まで先送りするつもりか。
議題は山積している。質疑や批判に堪えられない仕事をしていると、認めるようなものではないか。」という調子。
私は、産経をジャーナリズムとして認めていない。権力の広報紙でしかないと考えているからである。その産経ですら、臨時国会見送り問題については、これほどにも批判せざるを得ないのだ。この問題に限っては、産経との「一点共闘」が成立しそうな成りゆき。喜ぶべきか、はた不愉快と叫ぶべきか。思いはやや複雑である。
(2015年10月19日・連続932回)
「学校に自由と人権を! 10・17集会ー子どもを戦場に送るな!」の集会にお集まりの皆様に、東京君が代訴訟弁護団からご報告を申し上げます。
2003年10月23日、石原慎太郎都政第2期の時代に都教委が悪名高い「10・23通達」を発出しました。以来12年になります。この間、「日の丸・君が代」強制に服することができないとした教職員延べ474名が懲戒処分を受けました。この強権発動は、「日の丸・君が代」強制問題にとどまらず、学校現場を命令と服従の場とし、自由で創造的な教育はすっかり影をひそめてしまいました。
さらに、都教委は「学校経営適正化通知」(06年4月13日)を発して、信じがたいことに、職員会議での挙手採決を禁止しました。学校運営に教職員の意見反映を峻拒したのです。学校現場には、ものも言えない状況が蔓延しています。教職員は疲弊し、意欲を失い、自由闊達な雰囲気を欠いた教育は危機的状況に追い込まれています。その最大の被害者は、子どもたちであり、明日の民主主義といわざるを得ません。
10・23通達に対しては、現場での闘い、社会的な支援の闘いと並んで、10年余の長きにわたる裁判闘争が継続しています。これまでのところ、裁判の成果は勝利を博したとは言えません。しかし、けっして敗北したとも言えない一定の成果は挙げています。残念ながら裁判によって「日の丸・君が代」強制を根絶することはできていませんが、石原教育行政がたくらんでいた教員に対する思想統制は不成功に終わっていると評価できる事態ではあるのです。
これまで、10・23通達関連訴訟判決で、処分違法とされて取消が確定したのは56件、人数では47名となっています。行政には甘い裁判所も、都教委のやり方は非常識で到底看過できないとしているのです。都教委は司法から断罪されたといってよい状態です。ですから、都教委は10・23通達に基づく一連の施策を抜本的に見直すことが求められています。ところが、都教委が反省しているようには見えません。被処分者に対する「再発防止研修」を質量ともに強化し、なんとしてでも、教職員の抵抗を根絶やしにして、「日の丸・君が代」強制を徹底しようとしています。都教委は異常、そう指摘せざるを得ません。
これまでの「10・23通達」関連訴訟全体の判決の流れを概観して見ましょう。
最初、まだ最高裁判決のない時代に大きな成果をあげた時期がありました。これを仮に「高揚期」と名付けます。しかしこの時期は長く続かず、10・23通達以前の事件ですが、ピアノ伴奏強制拒否訴訟の最高裁判決で覆ります。その後しばらく「受難期」が続きます。そして、一定の成果を得て「安定期」にはいります。そして、本日ご報告したいのは、今安定期の域を脱して「再高揚期」にあるということです。都教委の側から見れば、今は「裁判ボロ負け続きの最悪期」なのです。
「高揚期」
10・23通達関連事件で、裁判所が最初の判断を示したのは、再発防止研修執行停止申立(民事事件の仮処分命令申立てに相当します)に対する決定です。裁判長の名をとって須藤(典明)決定と呼んでいる2004年7月の決定は、「内心に踏み込み、思想良心に関わる内容の研修は違法」として、研修内容に歯止めをかけました。さらに、2006年9月の予防訴訟一審判決(難波判決)は、「日の丸・君が代」強制を違憲違法とした全面勝訴の画期的判決となりました。担当裁判所は、教職員と一緒に、石原教育行政の暴挙に怒ってくれたのだと印象をもちました。これで、「『日の丸・君が代』強制は違憲、という流れが決まった」そう思いました。しかし、残念ながらこれはつかの間の喜びに過ぎませんでした。
「受難期」
その後半年足らずで、待ち構えていたように最高裁第三小法廷が、ピアノ伴奏強制拒否事件判決(07年2月)を出します。外形的な行為(君が代斉唱のピアノ伴奏)の強制があっても、必ずしも内心の思想・良心を侵害することにはならないという、奇妙な内外分離論に基づくものでした。
まことに奇妙な合憲論なのですが、最高裁判決は下級審の裁判官に重くのしかかります。ピアノ伴奏だけでなく、君が代不起立を理由とする懲戒処分は、ことごとく合憲合法とされました。事件や当事者に向き合わず、人事権を握る上だけに目をやり、上におもねる「ヒラメ判決」、最高裁判決の言い回しをそのまままねた「コピペ判決」が続きました。まさに受難の時代でした。
その嚆矢をなす典型が、「君が代・解雇裁判」一審佐村浩之判決(07年6月)です。難波判決の直後に結審しながら、ピアノ判決後に弁論再開して、「ヒラメのコピペ判決」を言い渡したのです。関連全訴訟の中心をなす、処分取消訴訟(第1次「君が代裁判」)一審判決(09年3月)も全面敗訴に終わりました。?波判決の控訴審判決も逆転敗訴(11年1月)となりました。ここまでが、長かった苦難の「受難期」です。
「回復・安定期」
この沈滞した局面を打破したのが、第1次「君が代裁判」控訴審、東京高裁大橋判決(11年3月)でした。戒告を含む全原告(162名)について、裁量権濫用にあたるとして違法と断じ、処分取消の判決を命じたのです。最高裁判決の枠には従いながらも、その制約の中で、教員側の訴えに真摯に耳を傾けた画期的判決でした。
難波判決に次ぐこの判決は最高裁では維持されませんでした。それでも、最高裁は減給以上の処分は重きに失するとして取り消しました。こうして、君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)、河原井さん・根津さん処分取消訴訟最高裁判決(12年1月)などかこの仕切りに続き、第2次君が代裁判最高裁判決(13年9月)もこれに従って、「戒告なら合法」「減給以上は裁量権濫用で違法」という判断が定着します。
最高裁は、「日の丸・君が代」の強制は、間接的には思想良心の自由を侵害していると認めます。しかし、間接的な制約に過ぎないから、都教委側にある程度の強制の合理性必要性があれば合憲と言ってよいというのです。納得はできず不服ではありますが、ピアノ判決の理屈よりは数段マシになったとも言えます。
何よりも、原則として戒告だけが認められるとなって、都教委のたくらみであった累積加重の懲戒システムが破綻しました。これは、毎年の卒業式・入学式のたびに繰り返される職務命令違反について機械的に懲戒処分の量定を加重する、おぞましい思想弾圧手法です。心ならずも、思想良心を投げ出して命令に屈服し、「日の丸・君が代」強制を受容するまで、懲戒は重くなり確実に懲戒解雇につながることになるのです。私たちが思想転向強要システムと呼んだ、この邪悪なたくらみは違法とされ、採用できなくなりました。都教委は猛省しなくてはなりません。
再高揚期
そしていま、新たな下級審判決の動向が見られます。最高裁判例の枠の中ですが、大橋判決のように、可能な限り憲法に忠実な判断をしようという裁判所の心の内を見て取ることができます。さらに、10・23通達関連事件に限らず、都教委は多くの処分についての訴訟を抱え、ことごとく負け続けています。いまや、都教委の受難・権威失墜の時代です。これを教員側の「再高揚期」と言ってよいと思います。
ちなみに、最近の都教委が当事者となった事件の判決を並べてみましょう。
13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴・確定
14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴・確定
14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴 復職
(15年1月 東京君が代第3次訴訟地裁判決 減給以上取消)一部確定
15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
15年 5月 根津・河原井さん停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
15年10月 Kさん、ピアノ伴奏拒否事件東京地裁処分取消判決
原処分・停職→人事委員会修正裁決・減給処分→東京地裁・減給取消
以上のすべてが、10・23通達関連判決ではありません。しかし、明らかに、10・23通達関係訴訟で明らかになった、都教委の暴走を到底看過できないとする裁判所の姿勢が見て取れます。今や都教委は、悪名高い暴走行政庁なのです。
各原告団・各弁護団による総力の努力が相乗効果を産んでいるのだと思います。何よりも、最高裁判決と2名の裁判官の反対意見(違憲判断)、とりわけ宮川裁判官の意見、そして多くの裁判官の補足意見の積極面が生きてきていると実感しています。まだ十分とは言えませんが、粘り強く闘い続けたことの成果というべきではないかと思っています。
これから、闘いは続きます。まずは、最高裁の「論理」の構造そのものを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求める正攻法の努力をしなければなりません。裁判所に対する説得の方法は、「大法廷判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例に齟齬」などとなるでしょう。そして、「職務命令違反による懲戒処分が戒告にとどまる限りは懲戒権の濫用にあたらない」という判断を、大橋判決のように「すべての懲戒が権利濫用として違法になる」という判断の獲得はけっして不可能てはないと考えています。
さらに、まだこの問題に関して最高裁判決が語っていないことでの説得ー迂回作戦を試みなければなりません。
「主権者である国民に対して、国家象徴である国旗・国歌への敬意を表明せよと強制することは、立憲主義の大原則に違反して許容されない」「「日の丸・君が代」強制は、憲法20条2項に違反(宗教的行為を強制されない自由の侵害)に当たる」「憲法26・13条・23条を根拠とする「教育の自由」侵害に当たる」「子どもの権利条約や国際人権規約(自由権規約)に違反する」等々の主張についても、手厚く議論を積み上げていきたいと思います。
法廷内の闘いと、現場と支援の運動。そして、司法の体質を変える運動。さらには、都政そのものの質を変える運動。文科省の教育政策を弾劾する運動などと結びついて、粘り強く最終的な勝利を展望したいと思います。よろしく、ご支援をお願いいたします。
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公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、当該議事録の撤回を求める申し入れを提出します。ついては多くの皆様に賛同の署名を呼びかけます。
ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2
賛同者の住所とメッセージを専用サイトに公開します。
https://bit.ly/1X82GIB
第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。なお、詳細は、下記ブログをご覧ください。
https://article9.jp/wordpress/?p=5768
(2015年10月18日・連続931回)
2015年10月17日
「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」への賛同署名のお願い
10月11日に参議院のホームページに、9月17日に開催された安保特別委委員会の議事録が公表され、安保関連法案等をいずれも可決すべきものと決定した、との文言が速記録に追加されました。また、〔参照〕として、横浜地方公聴会速記録が追加されました。
私たちは去る9月25日に3万2千余の賛同署名を添えて、山崎参議院議長と鴻池特別委委員長宛に「安保関連法案の採決不存在と法案審議の続行を求める申し入れ」を提出しましたが、そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように偽るのは到底許されません。私たちは、このような姑息なやり方に強く抗議するとともに、山崎正昭・参議院議長、鴻池祥肇・参議院「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」委員長ならびに中村剛・参議院事務総長宛に連名で、別紙のような「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」を提出することにしました。
つきましては、多くの国民の皆様に賛同の署名を呼びかけ、寄せられた署名簿をこの申し入れ書に添えることにしました。
具体的には、次のような方法で署名を呼びかけます。多くの皆様の賛同をお願いいたします。
1. ネット署名:次の署名フォームの所定欄に記入の上、発信下さい。
http://goo.gl/forms/B44OgjR2f2
賛同者の住所とメッセージを専用サイトに公開します。
https://bit.ly/1X82GIB
2. 第一次集約日 :10月27日(火)22時とします。
申し入れ者(賛同署名呼びかけ人)
池住義憲(元立教大学大学院特任教授)
浦田賢治(早稲田大学名誉教授)
小野塚知二(東京大学・経済学研究科・教授)
澤藤統一郎(弁護士)
清水雅彦(日本体育大学教授)
醍醐 聰(東京大学名誉教授)
藤田高景(村山首相談話を継承し発展させる会・理事長)
森 英樹(名古屋大学名誉教授)
連絡先 E・メールsaiketunai-1@yahoo.co.jp
電話:080?7814?9650
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2015年10月○日
参議院議長 山崎正昭様
参議院「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」委員長 鴻池祥肇様
参議院事務総長 中村 剛様
公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ
(申入者後掲)
前略 10月11日に参議院のホームページに公表された、9月17日開催の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」の議事録において、速記録にはなかった「右両案の質疑を終局した後、いずれも可決すべきものと決定した。なお、両案について附帯決議を行った。」という追記がなされ、〔参照〕として横浜地方公聴会速記録が掲載されました。報道によれば、こうした追記は鴻池委員長の判断でなされたとのことです。
これについて、4つの野党会派は14日、中村剛参議院事務総長に対し、こうした議事録が作成された経緯の検証と撤回を求める申し入れを行いました。
去る9月25日に3万2千余の賛同署名を添えて、山崎参議院議長と鴻池特別委委員長宛に「安保関連法案の採決不存在と法案審議の続行を求める申し入れ」を行った私たちは、そもそも存在しない安保関連法案の「採決」「可決」を後付けの議事録で存在したかのように取り繕う姑息なやり方に強く抗議します。
9月17日の委員会室は速記録で「議場騒然」「聴取不能」と記載されたような状況であり、テレビで実況中継を視聴した国民の圧倒的多数は「あれで採決、可決などあり得ない」と受け止めています。
今回の議事録に追加された「議事経過」には、次のような重大な偽り、あるいは採決の存在を議事録への追記で証明しようとする試みの道理のなさが露呈しています。
(1)5つの案件が採決されたと言われたにもかかわらず、委員長が1件ごとに、参議院規則第49条、第136、第137条に基づいて表決に付すと宣告した旨の記載、ならびに、委員長が起立者の多少を認定して表決の可否の結果を宣告した旨の記載が一切ありません。これでは「採決」「可決」は存在しないとする私たちの指摘を何ら反証したことになりません。
(2)公表された議事録で追加された「議事経過」の中に、「両案について附帯決議を行った」との記載があります。しかし、この案件については、上記と同様、参議院規則に基づいた表決の宣告も表決の結果の宣告も記されておらず、正規の議事録とはみなせません。
さらに、本附帯決議については、慣例となっている全委員への案文の事前配布はなく、特別委で決議案文が提案されたことを認知した委員がどれほどいたかすら疑わしいのが実態とされています。鴻池委員長の一存で、このような附帯決議が決せられたと議事録に書き加えるのは民主的議会運営の常識を蹂躙する暴挙以外の何物でもありません。
(3)末尾に〔参照〕として、横浜地方公聴会速記録が掲載されましたが、この速記録の内容が「採決」なるものに先立って特別委に報告された事実はありません。事実に反して、後付けで、〔参照〕などという標題を付けて地方公聴会の報告を鴻池委員長の独断で会議録に追加するのも暴挙というほかありません。
(4)公表された「議事経過」の追記は鴻池委員長の判断と指示でなされたと報道されていますが、委員長といえども、事実を無視し、参議院規則に反する議事進行を議事録に書き込むことを指示する権限はありません。
以上から、私たちは貴職に対し、次のことを申し入れます。
1.今回、公表された議事録の追記が作成された経緯(誰の、いかなる指示・判断で
作成されたものか)を厳密に検証し、その結果を公表すること。
2.事実に背き、参議院規則にも反する議事進行を正当化しようとするまやかしの議事録を撤回すること。
3.安保関連法案の採決・可決の不存在を直ちに認め、法案の取り扱いを至急、協議するよう、各党会派に諮ること。私たちは法案の段階に立ち返って言えば、違憲の法案を廃案とするよう、求めます。
申し入れ者
○○○○ (所属)
○○○○ (所属)
・・・・・・
以上
(2015年10月17日・連続930回)