(2022年7月18日)
政府は、今秋安倍晋三の「国葬」を行うという。いかなる思惑あってのことであろうか。私は、岸田の胸中をこう忖度している。
今、安倍は「非業の死」を遂げた悲劇の政治家だ。国民の同情が集まっている。これまで政治に無関心だった層に、ドラマみたいな刺激を与えただけではない。アベノマスク問題で無駄金を使い、「中抜き業者ばかりを儲けさせた、無為・無能・無策のアベ」と批判していた層からも、「アベさんが何をやったかの議論はひとまず措いて」、「あんな殺され方は、たいへんにお気の毒」という同情を集めている。これはチャンスだ。このチャンスを逃しちゃならない。鉄は熱いうちに打て、国葬は興奮冷めやらぬうちに決めろ。
政治利用と指摘されようと、手法が強引と批判されようと、安倍に対する国民の同情を煽り、同情の心情に方向付けをしなければならない。まずは、安倍受難の悲劇を強調することで、生前の所業に対する批判を封じることだ。安倍政治は自民党総裁として行われたもの。基本的には、今も継承されているし今後も続くことになる。ウソつきだのごまかしだの、あるいは公文書の改竄隠蔽、政治の私物化などの数々の疑惑で轟々たる安倍批判が続くことは、自民党政治の継続が危うくするということだ。これを封じなくてはならない。既に、安倍に対する儀礼的な弔意が連鎖的に重なることで、安倍批判は言い出しにくい空気が醸し出されている。これは好都合だ。
安倍批判を封じるだけでは足りない。安倍を「偉大な政治家」と天まで持ち上げることが肝要だ。真っ当なジャーナリストには、こんな恥ずかしいことは期待できない。こういうときのために暖めていた「アベ友」言論人グループの活躍のときだ。なにせ自民党と保守言論、持ちつ持たれつのズブズブの関係なんだから。
こうなれば、外国メディアも、外交筋も無視はできなくなる。どうせみんな、お世辞の付き合いなのだ。その上での、国葬だ。安倍の死を最大限利用しての国葬の実現だが、国葬が実現すればその効果は大きい。あらためて国民各層に「アベの偉大さ」を再認識させることができる。こうして、ますますアベ批判はしにくくなる。自民党政治は安泰化する。万々歳だ。
うまくいけばの話だが、安倍の死の政治利用を改憲の実現につなげることだってできない話しではない。安倍の悲願は改憲にあった。国民の同情を、「改憲の志半ばで非業の最期を遂げた政治家」に感情移入させればよいのだ。あるいは、「改憲実現の願いを凶弾に砕かれた悲劇の政治家」などというイメージの刷り込み。このことによって、「偉大な政治家安倍晋三の遺志を継いで改憲の実現を」という世論誘導もできよう。そのためのイベントとして、国葬は決定的な役割を果たすことになる。
国葬の日は「国民の休日」にしたいものだ。学校は休みにせずに、子どもたちを集めて「偉大な政治家安倍晋三」追悼の行事に参加させよう。「安倍恩赦」もしなきゃならん。もちろんこの日は歌舞音曲の類いは禁止だ。テレビのお笑い番組なんてとんでもない。どの局も、「偉大な政治家安倍晋三追悼」の特番を流さなくてはいけない。葬儀はこの上なく盛大にやろう。その様子はリアルタイムで放映し、関係者の追悼インタビューを延々とやらせよう。それから、芸能人の起用だ。関連イベントを到るところで盛大に盛り上げなければならない。外国要人に、アベシンゾーの偉大さを語らせよう。安倍追悼のパンフレットもうんとばらまこう。安倍追悼広告でまたまた電通を儲けさせることもできる。これくらいやれば、国民に自民党政治路線の正しさを刷り込むことができるだろう。そうすりゃ、岸田長期政権の実現も夢ではない。
もともと「国葬」は、天皇制政府による「死の政治利用」であったそうだ(宮間純一中央大学教授)。1878年に不平士族たちによって暗殺された大久保利通の葬儀に始まるという。国家を挙げて大久保という人物に哀悼の意を示すことで、反対派の動きを封じ込めるという明確な政治的目的をもって執り行われたとのことだ。
今回もよく似ているじゃないか。安倍国葬は明らかに「死の政治利用」だよ。政治家が、政治家の死を政治利用する、やましいところはない。とはいえ、相当無理して国葬やろうと踏み切ったのだから、このチャンスの最大限の利用価値を引き出さなくてはならない。さて、どうやろうか。
(2022年7月17日)
「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議主催
再勧告実現! 7.24 集会案内
日本政府、君が代の強制で、国連機関に『また』叱られる!
?それでもまだ歌わせますか??
日時 2022 年 7 月 24 日(日曜日)
13 時 40 分?16 時 40 分(開場 13 時 20 分)
会場 日比谷図書文化館 (B1F)
日比谷コンベンションホール 東京都千代田区日比谷公園 1-4
03-3502-3340
資料代 500 円
主催 「日の丸・君が代」LO/ユネスコ勧告実施市民会議
いま学校は、上位下達の徹底、教科書への政治介入など、国家による教育支配が進み、格差、いじめ自死、教職員の過重労働など疲弊しきっています。
東京では、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱せよ、ピアノ伴奏をせよ」との職務命令に従わなかったとして、484名の教職員が処分され、その強制は子どもにまで及んでいます。
2019年春、ILOとユネスコは日本政府に、「日の丸・君が代」の強制を是正するよう勧告しました。画期的な初の国際勧告です。
しかし、文科省も都教委も、勧告を無視し続けており、私たちはセアート(ILO・ユネスコ合同委員会)へ訴え続けてきました。
その結果、昨秋、日本政府への再勧告が盛り込まれた第 14 回セアート最終報告書が採択されました。今後ILO総会で議題にされます。
子どもの未来、明日の教育のために、勧告実現に向けて、ぜひご一緒に取り組みましょう。
プログラム
■基調講演
勝野 正章(東京大学)
「現代社会における教師の自由と権利?教員の地位勧告から見る世界と日本」
阿部 浩己(明治学院大学)
「再勧告の意義と教育の中の市民的自由」
■特別講演
岡田 正則(早稲田大学)「学問と教育と政治」
■座談
「勧告を得るってどんな価値があるの?実現の困難は克服できるの?」
阿部 浩己、寺中誠(東京経済大学)、前田 朗(東京造形大学名誉教授)
■教育現場の声
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あなたも運動サポーターに? 運動への協力金を
個人 1 口 500 円 / 団体 1 口 1,000 円 (何口でも結構です)
郵便振替口座 番号 00170?0?768037
「安達洋子」又は「アダチヨウコ」(市民会議メンバーの口座です)
(2022年7月16日)
事件の衝撃から8日経った。メディアも政治家も落ち着きを取り戻しつつある。問題の整理もできつつあるのではないか。本日の毎日新聞夕刊に、まだやや腰が引けた感はあるものの、金平茂紀がこう述べている。
「作家の高村薫氏が毎日新聞朝刊(10日)で「(宗教団体への恨みという一部報道を受けとめれば、今回の事件は)非常に特殊な事例と言えるのではないか。安倍氏が銃撃されたことを受け、この事件を『民主主義への挑戦』や『民主主義の崩壊』ととらえる人もいるが、私は違うと思う」と述べていた鋭さに驚嘆した。
死者の追悼と、真実の報道は峻別しなければならない。まして、政治家の「非業の死」を政治利用する行為は、死者を本当の意味で悼むこととは隔たりがある。このことをテレビは今、しかと肝に銘じるべき時である。」
当然といえば当然のことだが、「死者の追悼と、真実の報道は峻別しなければならない」。「銃撃に倒れた安倍晋三の追悼と、安倍晋三が統一教会とズブズブの関係にあって多くの不幸を作り出したという真実の報道とは峻別しなければならない」のだ。 さらに、政治家安倍晋三が生前何をしたか、その評価にいささかの緩みもあってはならない。ましてや、「政治家の『非業の死』を政治利用する行為」をけっして許してはならない。これが、問題の整理である。
日本共産党の志位委員長談話が本日の赤旗トップを飾っている。
「安倍元首相礼賛の『国葬』の実施に反対する」という表題。内容は、かっちりとした立派なものだ。要旨は以下のとおり。
「昨日、岸田文雄首相は、参院選遊説中に銃撃を受け亡くなった安倍晋三元首相について、今秋に「国葬」を行うと発表した。
日本共産党は、安倍元首相が無法な銃撃で殺害されたことに対して、深い哀悼の気持ちをのべ、暴挙への厳しい糾弾を表明してきた。政治的立場を異にしていても、ともに国政に携わってきたものとして、亡くなった方に対しては礼儀をつくすのがわが党の立場である。
それは安倍元首相に対する政治的評価、政治的批判とは全く別の問題である。日本共産党は、安倍元首相の在任時に、その内政・外交政策の全般、その政治姿勢に対して、厳しい批判的立場を貫いてきたし、その立場は今でも変わらない。
国民のなかでも、安倍元首相の政治的立場や政治姿勢に対する評価は、大きく分かれていることは明らかだと考える。
しかも、安倍元首相の内政・外交政策の問題点は、過去の問題ではなく、岸田政権がその基本点を継承することを言明しているもとで、今日の日本政治の問題点そのものでもある。
岸田首相が言明したように、安倍元首相を、内政でも外交でも全面的に礼賛する立場での「国葬」を行うことは、国民のなかで評価が大きく分かれている安倍氏の政治的立場や政治姿勢を、国家として全面的に公認し、国家として安倍氏の政治を賛美・礼賛することになる。
またこうした形で「国葬」を行うことが、安倍元首相に対する弔意を、個々の国民に対して、事実上強制することにつながることが、強く懸念される。弔意というのは、誰に対するものであっても、弔意を示すかどうかも含めて、すべて内心の自由にかかわる問題であり、国家が弔意を求めたり、弔意を事実上強制したりすることは、あってはならないことである。」
れいわ新選組代表の山本太郎も、「これまでの政策的失敗を口に出すことも憚れる空気を作り出し、神格化されるような国葬を行うこと自体がおかしい」と、「安倍氏国葬に反対」を表明した。参院議員辻元清美も。
公明が「(賛否について)コメントせず」と報道されていることに注目せざるをを得ない。記者団に「この件について、党としてコメントしない」と答えたという。けっして、積極賛成ではないのだ。
また、安倍とは親交が深かったという維新の松井一郎。記者団に「反対ではないが、賛成する人ばかりではない」と述べた。「『反安倍』はたくさんいる。批判が遺族に向かないことを祈っている」とも強調したという。なかなかに意味深ではないか。
こういう問題が起きたときに、何を言うかで、その人物が計られる。
(2022年7月15日)
昨日の東京地裁709号法廷。午後3時から、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第5回口頭弁論。担当裁判所は民事第36部。原告側から、準備書面(8)と(9)と書証を提出して、原告2人と代理人1人の口頭意見陳述があった。
709号法廷の傍聴席数は42。その全席を埋めた傍聴の支援者を背に、意見陳述は迫力に満ちていた。原稿を目で追って読むのと、本人を目の前にしてその肉声を聴くのとでは、訴える力に格段の差が生じる。肉声なればこそ、本人の気迫が伝わる。それだけではなく、その必死さ、真摯さ、悩みや葛藤の深刻さが伝わる。聞く者の胸に響く。裁判官3名は、よく耳を傾けてくれた印象だった。
次回も次々回も、原告2人と代理人1人の意見陳述の予定。真面目な教員であればこそ、「日の丸・君が代」強制に応じがたく、悩みながらも勇気をもって不起立に及んだ原告の心情に、担当裁判官の人間としての共感が欲しいのだ。
昨日の法廷での、原告のお一人の陳述の内容をご紹介する。家庭科の教員をしておられる方。「起立して国旗に正対し、国歌を斉唱せよ」という職務命令に従えなくなったのは、担任した在日の生徒との関わり方に悩んでの末のことだという。
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原告の一人として意見を申し上げます。
1993年に都立高校の教員になり、足立高校定時制に勤めました。定時制の生徒の多くは、中学校時代まで不登校だったり問題行動を起こしたりと、教師や社会に対してよい印象を持っていません。真剣に向き合わないと欺瞞や嘘はすぐ見抜かれてしまいます。一日一日が真剣勝負です。私は生徒と同じ目線で対話を繰り返すことで信頼関係ができること、信頼関係ができれば生徒も変化していくことを学びました。
外国籍の生徒も多く、私のクラスにも在日韓国人の生徒がいました。彼女は周囲に対してすぐとんがって喧嘩してしまい、問題を起こす生徒でした。彼女とは民族のアイデンティティを大切にして対話することを試みました。「もうひとつ名前があるでしょ」と、2人きりで話す時は本名で呼び、それに慣れた頃、地元の在日コリアンの高校生の集まりに誘いました。その時、彼女の表情がやわらいで、別人のようにおとなしくなりました。これが本当の彼女でした。とんがっていたのは、バカにされないように精一杯虚勢をはっていたからでした。自身の民族性にふれるうち少しずつ変化がみられ、クラスの女子とうまくやろうと努力し始めました。
また家庭訪問をくりかえすうちに、彼女の母親も自分のことを話してくれるようになりました。戸籍がなくて大人になってから自分で取り寄せたこと、民族学校が閉鎖されてなかなか教育を受けられなかったことなど戦中戦後の苦労話です。生徒たちが抱えている問題の背景には戦争があることを実感しました。侵略戦争のシンボルだった日の丸君が代は、特にアジアの人々には強制すべきでないと確信を持ちました。
4年生の担任を受け持ったクラスには、60代のOさんがいました。当時の卒業式では、式場に君が代・日の丸はなく、校長との話し合いで屋上に日の丸を三脚で立てていました。卒業前のHRでどんな卒業式にしたいか、日の丸・君が代についてどう思うか、話した時です。普段寡黙なOさんが怒りをあらわにしました。「私は小学校の頃、ガキ大将だった。戦争中は休みの日にも天皇関係の行事で学校があって、サボると教師に殴られた。戦争が終わると墨塗りの教科書になり、教師達の言うことが180度変わった。教師なんて信用できない。教育なんてくそ喰らえ、と思って中学卒業と同時に働きに出たが、社会に出ると学歴の壁は厳しかった。人生のしめくくりとして高校に来ました。その卒業式に日の丸・君が代はやめて下さい。」Oさんが教育に対してそんな思いでいたとは驚きでした。時代によってコロコロ言うことが変わるなんて信用できない。Oさんの言う通りです。Oさんに信用される教師になりたいと思いました。自分が正しいと思ったことはどんな時代がきても、信念を持ってちゃんと伝えられる教師になりたいと思いました。
2003年10.23通達が出された時、私は豊島高校定時制の4年生の担任でした。職場は大混乱。生徒にどう話そうか悩んでいたら、当時大々的にニュースに流れていたので、生徒の方から自分達の卒業式はどうなるんだと質問や不安の声が飛びかいました。そこで学年合同HRを行うことにしました。1回目のHRは、不登校や引きこもりだったおとなしく真面目な生徒だけが参加していました。「色々変わって、教員の私には不起立の自由はないけど、生徒のみんなには内心の自由があるよ。」と説明しました。しかしいくら説明しても、「たまき(教師である私を生徒は名前で呼びます)も一緒に座ってよ」と、声があがるだけでした。
式場で立つように言われて立たないのは勇気の要ることです。私が起立せず座ればそれが彼女たちの防波堤になると思いました。翌週2回目のHRの時は、前の週欠席していたヤンキーやギャルの一団が加わりました。彼らは日の丸・君が代があると「式っぽい」とか「かっこいい」と大賛成。そのとたん、前回のHRであれほど「たまきも一緒に座って」と声をあげていた生徒達が一斉に口をつぐみました。彼らが怖くて自分の意見が言えないのです。気まずい抑圧された雰囲気のままHRは終了しました。口をつぐんでいた生徒の一人が寄ってきて「歌いたくない人は座ってもいいでしょ」と念押ししにきました。意見を言えなくても行動できる生徒がいると救われた気持ちでした。
さて卒業式はどうしようか。HRで自分の意見も言えない弱い彼らを守るには私が座るしかないと思いました。生徒の内心の自由は守りたい。しかし初めて出された職務命令に従わなければどうなるのか想像もつきません。まだ私は若かったし、定年までの人生を考えるとどうなるかわからない恐ろしさは半端ではありません。
卒業式当日、悩み抜いた結果、苦渋の末に起立しました。すると「たまきも座って」と言っていた生徒たちがうらめしそうにこっちを見ています。そして「座ってもいいでしょ」と念押ししにきた生徒だけが座りました。でも、彼は落ち着きなさそうに周囲をきょろきょろ見渡し、居たたまれなくなって曲の途中からゆっくりと腰をあげ、曲の最後には立ちました。この光景は忘れられません。わたしは、立ったことを激しく後悔しました。私を頼ってきた生徒の信頼を完全に裏切ってしまいました。私が立つということは、生徒の内心の自由を守れなかっただけではなく、生徒を立たせてしまい、大きな強制力を持って生徒の内心の自由を奪うことだったのです。「教師なんて信用できない。教育なんてくそ喰らえ」と言ったOさんを思い出しました。
しかし私は生きていくために働かなくてはいけない。馘にならないで働き続けるには命令に従ってやり過ごすしかない。そう自分に言い聞かせて、その後は、君が代が流れる40秒間は心とからだを分裂させ、この辛いことをやり過ごす努力をしてきました。「私はここに立っているけど私の魂はここにはない」と、40秒の間、体育館の上空に魂を飛ばしていました。しかしいくら自分をごまかしても、息苦しさは増すばかりでした。
2013年に担任を持つことになりました。10.23通達の出た年以来10年ぶりの担任です。入学者名簿を見ると、外国籍の生徒や障害を持つ生徒がいるなど様々です。今度は後悔したくない。また生徒と真摯に向き合いたい。今度こそ生徒に信用される教師になりたい。そう思うと、もう入学式でも卒業式でも立つことはできませんでした。
生徒それぞれにいろいろな背景やルーツがあります。君が代を強制することは生徒の人権を侵害することです。起立斉唱の強制は、教師だけではなく、生徒たちも苦しめ、生徒の人権を抑圧しています。10.23通達と職務命令を続けることは、生徒の人権抑圧を許すことになります。どうか裁判所にはそのことに目を向けていただき、10.23通達を違法とする判断をお願いいたします。
(2022年7月14日)
安倍晋三は、政治を私物化したウソつき政治家だった。生前の功績など、一つとして私は知らない。罪科の方なら、いくつも数え上げることができる。端的に言えば、彼は日本民主主義を壊した。その意味で大きな負のレガシーを遺した。「こんな人物」を長く首相にしておいたことが、主権者の一人として恥ずかしい。我が国の民主主義は、ウソつきを首相に据えるにふさわしい水準だったということになる。
このウソつきが、ようやくにして首相の座を下りた。首相の時代の深刻な政治の私物化や、数々のウソや、告発された犯罪や、公文書の隠蔽・改竄、虚偽答弁の数々…。その疑惑の解明が不可避の民主主義的課題でありながら、遅々として進まぬうちに彼は亡くなった。
ところが驚いた。このウソつき政治家が死んだら、国葬だという。タチの悪いウソをつかれている思いだが、現首相は本気のご様子だ。岸田はやっぱり、右側の片耳しか聞こえないのか。そりゃあり得ない、とんでもないこと。正気の沙汰ではない。反対側の耳もほじって、考え直してもらわねばならない。
「岸田文雄首相は14日の記者会見で、8日に街頭演説中に銃撃を受けて死亡した安倍晋三元首相の『国葬儀』を秋にも執り行う考えを明らかにした。費用は全額政府が拠出する。首相は安倍氏について『ご功績は誠に素晴らしいものだ』とした上で『国葬儀を執り行うことで、我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示していく』と述べた」(朝日)
これには、呆れた。「ご功績は誠に素晴らしいもの」「我が国は暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜く」には、二の句が継げない。まるで、岸田文雄には、安倍晋三のウソつきぶりが乗り移ったごとくではないか。
長く権力を掌握した安倍晋三の生前における政治の私物化や、数知れぬウソや、告発された未解明の犯罪の数々や、公文書の隠蔽・改竄等々こそ、「民主主義が断固として許さざるところ」であった。そして今や、この安倍晋三の悪行の総てを誰への忖度もなく暴いて真実を明らかにすることこそが民主主義の求めるものなのだ。
だから、生前の安倍晋三の悪行を余すところなく明らかにすることこそが「権力に屈せず民主主義を断固として守り抜く」ことになるのだ。安倍晋三の国葬は、民主主義に反する悪行を重ねてきた安倍の死の政治利用として「民主主義を断固として破壊する決意」を示すものである。
安倍晋三の国葬は、その生前の悪行を隠蔽するためのイチジクの葉である。安倍晋三を持ち上げることで、憲法改悪や国防国家化を推し進めようとする保守勢力のたくらみを許すことでもある。安倍の死を政治利用しようという連中にとっては、安倍の悪行が明らかになっては困るのだ。その臭い物に、蓋となるのが国葬なのだ。
「国葬儀」なるもののイメージはつかみがたい。が、国家・国民こぞって、このウソつきを追悼しようというたくらみであることは確かだろう。
しかし、考えてもみよ。ウソつきを国家・国民こぞって追悼できるだろうか。お仲間だけでやっていればよいことだ。国政を私物化した人物についても同様である。プーチンと親友だった人物、トランプに卑屈だった男、そして、無為無策無能の政治家。歴史修正主義者で民族差別主義者で、ただただ日本国憲法に敵意を剥き出しにしてきた三代目の保守世襲政治家。生前も公私混同甚だしかった安倍晋三だが、死してなおこの始末。
どう考えても、ウソとごまかしをもっぱらにしてきた安倍晋三である。こんな評判の悪い人物を国葬にしちゃあいけない。当たり前のことだ。安倍晋三の生前の所業を厳しく断罪することが民主主義と国民の道義を回復する本道である。国葬は、明らかにこの本道を逆走させるものでしかない。悪いことは言わない、やめておきなさいよ岸田さん。
(2022年7月13日)
本日の産経新聞・朝刊の一面トップに、何ともおどろおどろしくも不愉快極まる大見出し。「安倍氏『国葬』待望論 法整備や国費投入課題 政府『国民葬』模索も」。その記事の一部を引用する。
「参院選の街頭演説中に銃撃され死亡した安倍晋三元首相の政府主導の葬儀について、自民党内や保守層から「国葬」を求める声が上がっている。ただ、元首相の葬儀に国費を投じることには批判的な意見も根強い。国家に貢献した功労者をどう弔うのか─。政府は今後、検討を進めるが、…」
「過去の例に照らせば、国葬となる可能性は高くない。同42年に生前の功績を考慮して吉田茂元首相の国葬が例外的に行われたが、それ以降は首相経験者の国葬は一度もない。」
「最近では内閣と自民による「合同葬」が主流で、安倍氏もこの形式となる可能性が有力視される。
ただ、首相在職日数で憲政史上最長を誇る安倍氏に対し、最大の礼遇を望む支持者の声は強い。国葬令は失効しているが、必要な法律がなければ整備するのが政治の役割でもある。政府内からも「法律をつくって国葬にすればいい」(官邸筋)との声が上がる。」
「それでも二の足を踏むのは、葬儀に国費を投入することへの批判が根強いからだ。国と自民党が費用を出し合う合同葬でさえ、一部野党や左派メディアは反発する。全額を国が負担する国葬をあえて復活させればさらに強く抵抗し、政権運営にも影響しかねない。」
「こうしたことを考慮し、政府には「国民葬」を模索する動きもある。内閣と自民党、国民有志の主催で、佐藤栄作元首相が死去した際に行われた。」
「国葬」であれ「合同葬」であれ、はたまた「国民葬」という形においてであれ、特定の死者に対する国民への弔意の強制はあってはならない。とりわけ、安倍晋三に対する弔意の押し売りはまっぴらご免だ。
人の死は本来純粋に私的なものである。葬儀は、その人の死を真に悼む人々によって執り行なわれるべきもので、これを政治的パフォーマンスとして利用することは邪道なのだ。政治家の葬儀とは、そのような邪道としての政治的パフォーマンス、ないしは政治ショーとして行われる。本来は私的な特定人物の死を、国家がイデオロギー的に意味づける政治利用の極致が国葬にほかならない。
安倍晋三の死は、いま日本の右翼勢力と改憲派にとって貴重な政治的資源となっている。この資源を最大限利用する形態が国葬であって、当然に安倍晋三の死を悼む気持ちのない多くの人々に最も強い形で弔意を押し付けるものでもある。安倍晋三の国葬、けっしてあってはならない。
安倍晋三の葬儀は、真に安倍を悼む人々が私的に執り行えばよい。それ以外の人々を巻き込んで、弔意と費用負担の押し付けてはならない。国家に、そのような権限はない。
いったい、政治家としての安倍晋三は何をしたのか。民主主義を壊した。政治を私物化した。ウソとごまかしで政治を劣化させた。経済政策では、貧困と格差を広げた。日本の成長を止めた。アベノマスクに象徴される、無為・無策・無能の政治家だった。外交ではプーチンと親交を深めたが北方領土問題の解決の糸口もつかめなかった。拉致問題をこじらせ政治利用はしたが何の進展も見いだせなかった。こんな政治家を国葬にせよとは、厚顔にもほどがある。泉下の安倍も、赤面しているに違いない。
第1次安倍内閣の、教育基本法改悪を忘れてはならない。第二次内閣では、何よりも集団的自衛権行使を容認した戦争法制定で、憲法の中身を変えた。それだけではなく、特定秘密保護法や共謀罪を制定した。コントロールとブロックというウソで固めて醜悪な東京オリンピックを招致した。弱者に居丈高になりトランプには卑屈になるという、尊敬に値しない人格だった。
森友学園事件、加計学園問題、桜を観る会疑惑、黒川検事長・河井元法務大臣事件、さらにタマゴにカジノだ。これまで、こんなにも疑惑に満ち、腐敗にまみれた内閣があっただろうか。それだけでなく、その疑惑を隠すための公文書の隠ぺい、改ざん、廃棄までした。
彼がやりたくてできなかったのが憲法改悪の実現であった。今、彼の死を利用して、憲法改悪を推進しようとの策動を許してはならない。その一端である、安倍晋三の国葬をやめさせよう。
「えっ? アベの国葬? まさか?」「それって、ご冗談ですよね」「こんな悪い人でも、死ねば水に流して国葬ですか?」「私の納めた税金をそんなことに使うなんて絶対に認めない」
(2022年7月12日)
本郷通りの皆様、春日通りの皆様、そしてご通行中の皆様。こちらは「本郷・湯島9条の会」です。少しの間、9条と平和の訴えに、耳をお貸しください。
参院選の開票結果が出ました。厳しいものと受けとめざるを得ません。
この選挙を改憲勢力と護憲勢力の対決とみれば、明らかに改憲勢力の議席が増え、護憲勢力が減りました。改憲勢力とは、自民・公明・維新・国民の4党のこと。護憲勢力とは、立憲・共産・社民・れいわの4党。
平和憲法を守り抜く立場からは安閑としていられない、危うい状況と言わねばなりません。既に、岸田文雄は、首相としてか総裁としてかは不明確ながら、「できるだけ早期に改憲発議」などとはしゃいで見せています。
しかし皆さん、本当に、この選挙が憲法改正の是非を問い、民意が憲法改正を容認するものだったのでしょうか。その実感がありますか。とりわけ東京の有権者には、選挙結果が改憲に結びつくものとの認識は希薄なのではないでしょうか。
東京選挙区の6人の当選者の内訳は、自民・自民・公明・立憲・共産・れいわです。一見、改憲派が3人、護憲派が3人と五分五分のように見えます。しかし、都民が改憲護憲で半々に割れたということには、強い違和感があります。
候補者が正式に有権者に公約を表明した選挙公報を、あらためてよくお読みください。自民党の生稲候補、この人の公約のキーワードは「ガン」と「女性」。闘病の女性に寄り添うものです。この訴えが有権者の心情を捕らえたことは理解できますが、この人の公約には憲法も国防もまったく出て来ません。朝日という候補も同じです。この人、「だれもが輝ける社会の実現」のために「社会保障の充実」を訴えていますが、改憲の訴えも防衛予算増もない。「国境警備の機能強化」の一言だけはありますが、これを自衛隊を憲法に書き込めとの主張とはとうてい読めません。公明の竹谷候補も、真面目に働く人のための経済対策を訴えて、憲法改正も国防充実もまったく触れていません。
日本維新という危険な右翼政党の海老沢候補は、6っつの重点政策を掲げ、その4番目に「防衛費増額と憲法改正」を掲げました。そのためであるかかどうかは定かではありませんが、この候補者は落選しました。
いま、自・公・維・国を一括りに、改憲政党と言われますがけっして同じ色合いではない。そして、その全改憲政党が、選挙民に対して改憲色を押し出すことは極力避けてきたのが実際のところです。
典型的なのが自民の二候補、芸能人であったりアスリートであったことの知名度と好感度で議席を獲得しましたが、けっして憲法改正という政策で有権者の支持を取り付けたわけではありません。公明党に至っては、改憲派と言われることを迷惑としている感さえあります。国民は、典型的な「よ党」と「や党」の真ん中の「ゆ党」という存在ですが、けっして積極的に改憲政党を自任している訳ではありません。
各党の比例代表・選挙公報もよく読んでみました。自民党はまず岸田総裁が総論を語っています。「決断と実行。暮らしを守る」という大見出し。何を決断するやら実行するのやら。けっして「断固改憲」と言っているわけではありません。むしろ、「様々な声に耳を傾ける」として、けっして護憲派の声にも、防衛予算増額反対の立場にも理解があるような語り口。
この自民党の比例代表選挙公約には、自民党から立候補する33名の候補者全員のコメントが掲載されていますが、この中で「憲法改正」に触れているのはわずかに3名だけ。右翼ないしは極右と言われる候補者です。ほかの30人は憲法改正にまったく触れていません。
実は、自民党ですら、選挙民に改憲を呼びかけることには及び腰なのです。自信をもって改憲を訴える構えはありません。さらに、自民以外の改憲派である、公明・維新・国民の選挙公報には、憲法改正の4文字はありません。
にもかかわらず、今になって「憲法改正の機は熟した」とか、「民意は改憲を望んでいる」とか、甚だしきは「民意は改憲を叱咤激励している」というのはアンフェアだし、フェイクも甚だしい。
芸能活動やらスポーツやらの実績を連ねた候補者で票を取り、その票を重ねて議席を増やし、これが3分の2に達したから改憲発議だという。まるで、サクラ問題だけで国会で118回もウソを並べた元首相みたいな姿勢と言わなければなりません。
東京選挙区で当選した、立憲・共産・れいわの3候補は、改憲発議に反対の立場です。とりわけ共産候補の弁護士は、公報でも「憲法こそ希望」と言っています。平和憲法こそ、平和の礎です。平和を望む立場からは、ぜひ改憲の阻止を。「憲法9条を護れ」という声をご一緒にあげてください。
私たちは、国会の審議を見守るとともに、至るところで憲法を守れという世論を大きくしていく覚悟です。皆様のご協力をお願いいたします。これをもって、「本郷・湯島9条の会」からの訴えを終わります。
(2022年7月11日)
凡人に、一喜一憂するなと言うのは無理な話。今日は、「一憂」の日だ。朝から気が重い。
肺ガンを患って手術を受けたとき、柄にもなく「歌のようなもの」を詠んだことがある。その30首ほどの中に次の一首。自分がガンになったことで、神を怨んだもの。
神在りせば神を怨まん
なんぞかくも気まぐれなる かくも酷薄なる
今日は、この「歌のようなもの」の気分を苦く噛みしめている。ただし、この「神」を、「民」ないしは「民意」に置き換えて。
民主主義とは一筋縄ではゆかぬものだ。選挙は民意を政治に反映する手続というが、その民意が気まぐれでまことにはかなく頼むに足りない。なんの見識も持ち合わせなさそうな体育系やら芸能系やら右翼系やら、あるいは愉快犯風やらに票が集まる。セクハラオヤジも当選した。これが、重要対決法案での数の力となるのだ。もしかしたら、改憲策動の手駒にもなる。一方、大門実紀史が落選した。有田芳生も落ちた。なんたることだ。
憂鬱なのは、この選挙結果が改憲策動に結びつきかねないからだ。毎日新聞の夕刊トップに、「改憲4党 93議席」という大見出し。ますます気が重くなる。
かつては国会に「3分の1の壁」が厳然と聳えていて、保守派にとっての夢である改憲発議を阻んでいた。今その壁が総崩れ目前だ。自・公・維・国が、この壁を穿ち、あわよくば改憲の実現をと虎視眈々の風である。
とは言え、主戦場は国会の外にある。本当に、民意は改憲を望んでいるのだろうか。たよりげない民意だが、改憲勢力にとっても、けっして頼もしい味方ということではあるまい。しかも、自・公・維・国の改憲案が一致しているわけでもない。今回選挙で示された民意は必ずしも、改憲の民意と重なるものではない。
いつまでも落ち込んではいられない。明日は、気を取り直そう。
(2022年7月10日)
DHCスラップ訴訟・DHCスラップ「反撃」訴訟では、多くの皆様に、お世話になりました。2014年4月に始まったこの訴訟。まずは私が被告にされた訴訟が、東京地裁から最高裁まで3ラウンドで私が勝訴し、さらに攻守ところを変えた「反撃」訴訟が、これも東京地裁から最高裁まで3ラウンド。合計6ラウンドの闘いで、全て私の完勝となりました。
この訴訟は、昨年1月に全て終了しましたが、その顛末をようやく一冊の書にまとめて、7月中に発刊の運びとなりました。既に、日本評論社のホームページに、「これから出る本」として紹介されています。「スラップされた弁護士の反撃そして全面勝利」という副題。弁護団長・光前幸一さんの丁寧な解説が付されています。
8年前の5月のある日、突然に理不尽なスラップを仕掛けられた当初に思ったことは、ともかくこの訴訟を勝ちきらねばならない、ということだけ。しかし、多くの人たちからのご支援を得て余裕ができてくると、これは私一人の問題ではないと実感するようになって思いは変わりました。
単に仕掛けられたスラップを斥けて良しとするのでは足りない。スラップ反撃の成功の実例を作らねばならない。そして、スラップを仕掛けた側に、典型的な失敗体験をさせなければならない。DHCと吉田嘉明に、「スラップなんかやってたいへんなことになってしまった。スラップなんかやるんじゃなかった」と反省させなければならない。そしてそのことを世に伝えなければならない。そう思うようになったのです。
この本の中では、DHC・吉田嘉明に「スラップの成功体験をさせてはならない」と書いたのですが、本当のところは「スラップの失敗体験をさせなくてはならない」という決意でした。
まずは、自分の言論を萎縮してはならないという思いから、「澤藤統一郎の憲法日記」に、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを猛然と書き始め、これは既に第200彈を超えています。そして、反撃訴訟を提起して、これも勝ちきることができました。DHC製品の不買運動も呼びかけています。私の思いはほぼ達成できたとの満足感があります。
残るのは訴訟の顛末を世に報告するということ。この書の出版によって、ようやく重荷を下ろすことになりそうです。多くの人に支えられ、多くの人を頼っての勝利であって、私はこの間誰よりも幸せな被告であり原告であり続けました。これは私が恵まれた立場にあったからですが、それだけに、スラップへの対抗例を報告しなければならないと思い、読みやすい形でまとめることができたと思います。
この書を、スラップ批判の世論を形成するために広めていただき、さらには実践的なスラップ対応テキストとしてご活用いただけたらありがたいと思っています。
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「DHCスラップ訴訟 ー スラップされた弁護士の反撃そして全面勝利」
著者 澤藤統一郎
予価:税込 1,870円(本体価格 1,700円)
発刊年月 2022.07(中旬)
ISBN 978-4-535-52637-2
判型 四六判 256ページ
内容紹介
批判封じと威圧のためにDHCから名誉毀損で訴えられた弁護士が表現の自由のために闘い、完全勝訴するまでの経緯を克明に語る。
目次
はじめに
第一部 ある日私は被告になった
1 えっ? 私が被告?
2 裁判の準備はひと仕事
3 スラップ批判のブログを開始
4 第一回の法廷で
5 えっ? 六〇〇〇万円を支払えだと?
6 「DHCスラップ訴訟」審理の争点
7 関連スラップでみごとな負けっぷりのDHC
8 DHCスラップ訴訟での勝訴判決
9 消化試合となった控訴審
10 勝算なきDHCの上告受理申立て
【第1部解説】DHCスラップ訴訟の争点と獲得した判決の評価……光前幸一
第二部 そして私は原告になった
1 今度は「反撃」訴訟……なのだが
2 えっ? また私が被告に?
3 「反撃」訴訟が始まった
4 今度も早かった控訴審の審理
5 感動的な控訴審「秋吉判決」のスラップ違法論
【第2部解説】DHCスラップ「反撃」訴訟の争点と獲得判決の意義……光前幸一
第三部 DHCスラップ訴訟から見えてきたもの
1 スラップの害悪
2 スラップと「政治とカネ」
3 スラップと消費者問題
4 DHCスラップ関連訴訟一〇件の顛末
5 積み残した課題
6 スラップをなくすために
【第3部解説】スラップ訴訟の現状と今後……光前幸一
あとがき
資料
DHCスラップ訴訟|日本評論社 (nippyo.co.jp)
(2022年7月9日)
いよいよ、明日(7月10日)が参院選の投票日。比例代表には、「日本共産党」に投票をお願いしたい。また、東京選挙区では山添拓候補を、ぜひよろしく。
弁護士の山添拓は、「憲法が希望」というキャッチを掲げる。そのとおり、「憲法こそ希望」である。このキャッチがよく似合う「山添拓が希望」だし、「日本共産党が希望」だ。ところが、これがなかなか選挙民の耳にはいらない。その原因の一つが、反共宣伝による反共アレルギーの蔓延である。
以下は、19世紀中葉の『共産党宣言』冒頭の一節である。
「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している、共産主義という妖怪が。およそ古いヨーロッパのすべての権力が、この妖怪を祓い清めるという神聖な目的のために、同盟を結んでいる。権力の座にある対抗派から共産主義だと罵られなかった政府反対派がどこにいるだろうか。」
21世紀の日本においても事情はまったく変わらない。権力の座にある対抗波を中心とする諸勢力が神聖同盟を結んで、日本共産党を妖怪とし、日本共産党を罵り貶めようと躍起になっている。神聖同盟に加わらないとする「良心派」の多くも、日本共産党との距離感については臆病とならざるを得ない。
その結果、多くの人の利益を代表する立場の日本共産党の勢力が伸び悩んでいる。庶民の投票が、自殺行為に等しい与党への投票となったり、反共中間政党に掠めとられたりしている。これは日本の民主主義に潜む、重大な病根と言わねばならない。なぜ、日本共産党は「妖怪」とされているのか。
100年ほど前に、天皇制政府は治安維持法を制定(1925年)した。その第1条1項は、「国体ヲ変革シ又は私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者」に、10年以下の懲役または禁錮に処するというもの。周知のとおり、この法定刑は後に死刑を含むものとなる。
天皇制権力が恐れたものは、「国体の変革」と「私有財産制度の否認」であった。これは分かり易い。いうまでもなく「国体の変革」とは天皇制の廃絶であり、「私有財産制度の否認」とは社会主義の実現を意味する。体制の根幹を揺るがすこの二つのテーマにおける体制の敵は、当時できたての日本共産党にほかならず、治安維持法は共産党を標的とするものであった。
天皇制政府と大資本にとっては、日本共産党こそが恐るべき真の敵であった。それはそのとおりであったろう。ということは、民衆にとって共産党こそが真の味方であったはず。にもかかわらず、多くの民衆はそうは思わなかった。
天皇制政府と大資本の手先となった少なからぬ人が、共産党を「不忠」「国賊」「非国民」「アカ」と敵視した。そして、それ以外の多くの人々が、共産党に近いと思われることを極端に恐れた。身内から「不忠」「国賊」「非国民」「アカ」と罵られる者を出してはならないと警戒した。
対中戦争が始まって戦時統制色が強くなると、権力と社会の共産党攻撃はさらに強くなり、共産党は牢と地下での逼塞を余儀なくされた。公然たる共産党の活動が社会に注目されるのは敗戦後のことになる。
しかし、戦後も権力と資本は、徹底して共産党を敵視し続けた。1949年夏、天下を震撼させた下山・三鷹・松川事件が起こるや、政府は直ちに全て共産党による犯行との宣伝を徹底し、国民の共産党に対する反感を煽った。
戦後70余年を経て、今に至るも事情は基本的に変わらない。反共アレルギーとは、国民の深層心理の中に叩き込まれた、「不忠」「国賊」「非国民」「アカ」というイメージは、権力からの弾圧と共同体からの排除を意味する暗さに起因する。アカが恐いのではなく、アカと思われることが恐いのだ。我が子の平穏な将来を望む親が、「就職に不利になるから、共産党には近づかないようにしなさい」と言う、あの非理性的なしかし根深い心根なのだ。この反共宣伝と反共アレルギーは、為政者と企業にとって、共産党こそが天敵なればこそである。実は、日本共産党が、大多数国民の最も確かな味方であればこその権力と資本の攻撃の結果なのだ。
その故に、いまだに一匹の妖怪が日本を徘徊している、日本共産党という妖怪が。およそ自公の与党から、維新・国民、有象無象の右翼諸政党とネトウヨ諸派がこの妖怪を祓い清めるという神聖な目的のために、同盟を結んでいる。この反共神聖同盟の核にある反共アレルギーを払拭することは、日本の民主主義のための重要な課題である。そのためにも、ぜひとも、日本共産党への一票をお願いしたい。