澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

岸田政権は卑劣で汚い。? 沖縄を愚弄するな。「米軍再編交付金」を使っての名護市長選挙介入をやめよ。

(2021年12月26日)
 街中に参院選予定候補のポスターが目につくようになった。我が家にも、山添拓のポスターが2枚。今年10月の総選挙の結果が革新の側に厳しかっただけに、来夏の参院選の重みが一入である。
 
 とりわけ来年復帰50周年を迎える沖縄である。いくつもの課題を抱えた沖縄の選挙には全国の関心が集まる。2022年は沖縄にとっての「選挙イヤー」であるが、注目度の高いのは、県知事選をハイライトに下記の各選挙。

名護市長選挙      1月23日
南城市長選挙      1月23日
沖縄県議会議員選挙   6月24日
参議院議員通常選挙   7月25日
沖縄県知事選挙     9月29日
那覇市長選挙      11月15日

 緒戦となる、名護・南城両市長選は来月16日が告示。その後を占う選挙として、注目せざるを得ない。とりわけ、辺野古新基地を抱えている名護市長選に大きな関心が集まっている。

 前回2018年名護市長選挙では、オール沖縄が擁立した現職の稲嶺進候補が、渡久地候補にまさかの敗北を喫した。政党勢力としては、《立民・民進・共産・自由・社民・社大》対《自民・公明・維新》の対立構造であった。

 今回選挙も保革の一騎打ちとなる。オール沖縄陣営からは、新基地建設阻止を掲げて岸本ようへい市議(49)《立民・共産・社民・沖縄社大・「新しい風・にぬふぁぶし」》と、渡具知武豊現市長(60)《自公政権丸抱え》が立候補する。前回も同様だが、渡具知陣営は「辺野古新基地建設」に賛否を明らかにしない。「見守る」というだけ。

 政権に擁立されている立場だから、口が裂けても「反対」とは言えない。しかし、「賛成」「基地容認」と明言すれば、市民感情を刺激する。ダンマリを決めこむしかないのだ。

 辺野古新基地建設反対の立場を明言する岸本ようへい(予定候補)のホームページが下記のとおりである。明快で、とてもよくできている。好感がもてる。説得力がある。応援したくなる。ぜひ、拡散をお願いしたい。

https://www.yoheikishimoto.com/

 「オール沖縄」が闘っている相手は、実は渡具知候補ではない。中央政府であり、自公政権とその補完勢力なのだ。「オール沖縄派」対「非オール沖縄派」とは、《沖縄県民》と《沖縄を支配している内地権力への服従者》との対抗関係なのだ。渡久地派とは懐柔された政権派にほかならない。

 だから、中央政府(自公政権)は露骨に、「非オール沖縄派」に利益を供与し、そのことで投票を誘導する。その最も分かり易い利益供与が、「米軍再編交付金」というつかみガネである。

 「渡具知氏は初当選した18年の前回市長選で辺野古移設の是非に言及しない戦略を徹底。その後も「国と県の裁判の推移を見守る」と繰り返してきた。一方、自公政権は市長選で支援した渡具知氏が就任すると、移設に反対した稲嶺進市長時代(10?18年)に凍結していた米軍再編交付金の交付を再開。渡具知氏は再編交付金を財源に学校給食費や保育料の無償化を進めた。」(2021年毎日新聞)

 「再編交付金は、米軍再編で負担が増える自治体に交付される。(名護市は)09年度には約3億8千万円を受け取り、道路整備などに充ててきた。だが10年の市長選で移設反対の稲嶺氏が当選すると、交付は止まった。市の13事業が宙に浮き、2事業は中止や保留となった」「前市議の新顔渡具知武豊氏はこの点を突く。借金増加は稲嶺市政が移設反対に固執しすぎているためだとし、再編交付金を含め『国から受け取れる財源は受け取る』と主張する。集会では『政府としっかり協議し、ありとあらゆる予算を獲得するために汗をかく』と声を張った。ただ、普天間移設については、ほとんど触れない」(2018年朝日)

 私が入手した「岸本ようへい・後援会ニュース」(内部資料)の表紙には、大きな字で「必ず守る! 保育料・給食費・子ども医療費は これからも無料」とあった。前市政を批判するのではなく、前市政を踏襲して「これからも無料」と訴える選挙公約の押し出し方に違和感があった。このことについて、次のように報道されている。

 「渡具知氏が子育て支援策の財源としてきた国の米軍再編交付金は、移設に反対する岸本氏が当選した場合に凍結される可能性が高く、岸本陣営は『交付金がなくなれば、無償化も打ち切られるのでは……』という市民の不安を打ち消すことに躍起だ」(毎日新聞)

 なるほど、名護市のホームページを閲覧すると、米軍再編交付金による事業を次のように報告している。政府はこの財源を、基地建設反対の「オール沖縄」派が勝てば止める、基地建設反対とは言わない「非オール沖縄」の市長には給付を継続する、というのだ。

幼保助成事業 (6か年)           2,613,835,000円 

学校給食事業 (4か年)         1,021,989,000円

こども医療費助成事業 (4か年)    394,659,000円

 

これっておかしくないか。卑劣ではないか。汚くないか。地方自治を尊重し、地元の民意に耳を傾けようというのではなく、中央政府のつかみ金で市長選を左右しているのだ。カネで言うことを聞かせようという姿勢。同じことは、県知事選についても行われている。「岸田政権、沖縄振興予算で揺さぶり」と報道されているとおりである。

 「来年度当初予算案について、玉城知事は3000億円台の維持を求めていたが、政府は前年度比で約300億円減の2680億円程度とする。3000億円を下回るのは12年度以来、10年ぶり。振興予算は安倍晋三元首相が13年に3000億円台を確保する意向を表明し、18?21年度はいずれも3010億円だった。」

 「防衛省が申請した辺野古移設の設計変更を不承認処分とした玉城知事に対し、官邸関係者は「移設は反対だが、振興予算は確保したいというのは虫がよすぎるのではないか」と指摘。基地問題と沖縄振興を絡める「リンク論」を安倍・菅両政権以上に前面に押し出し、沖縄の切り崩しを図る構えだ」(毎日新聞)

 余りに露骨ではないか。こういうやり口を「札束で頬を叩く」というのだ。沖縄県民を見くびっているのではないか。根本のところから、民主主義に反しているのではないか。

歴史修正主義は日本政府の専売特許ではなくなった。中国共産党よ、お前もか。

(2021年12月25日)
 クリスマスである。キリスト教徒にとっては神の子生誕の聖なる日であり、キリスト教文化圏では社会全体が習俗としての安息日となる。香港は長くイギリスの統治下にあって、クリスマスは祝日なのだそうだ。その安息の時期を狙ってコソドロ同然に、各大学の天安門事件関係のモニュメントが撤去された。罰当たりと言うべきだろう。

 正確に言えば、直接に撤去したのは各大学当局である。しかし、この時期一斉に各大学が自分の意志で行ったはずはない。香港政庁の差し金と見るべきが当然の判断。そして、香港政庁が北京の指示のままに動いていることは天下周知の事実。つまりは、中国共産党が天安門事件批判の痕跡を、香港から消し去ろうとしてのことなのだ。歴史修正主義は、いまや日本政府の専売特許ではなくなった。中国よ、お前もか。そう嘆かざるを得ない。

 AFPやロイターが伝えるところでは、昨24日香港の2大学が天安門事件を象徴する像とレリーフを撤去した。一昨日23日には、香港大学(HKU)が天安門事件で殺害された民主化運動参加者を追悼する記念像「国恥の柱」を構内から撤去している。

 香港中文大学(CUHK)当局は、24日未明「民主の女神像(Goddess of Democracy)」像を構内から撤去した。天安門広場に建てられたオリジナルを模して作成されたもので、高さ6.4メートル。香港民主化運動の象徴となっていた。また、嶺南大学(Lingnan University of Hong Kong)も、ほぼ同時刻に天安門事件を象徴するレリーフを撤去した。いずれも、陳維明(Chen Weiming)氏が制作したものだという。

 注目すべきは、嶺南大学の撤去理由。「本学に法的、安全面のリスクをもたらす恐れがある構内の物品」として撤去という。権力側の意図を語って分かりやすい。

 クリスマスイブのため、両大学とも構内に学生はほとんどいなかった。

 ロイターは、元学生の「ショックだ。民主の女神像は大学の自由な雰囲気を象徴していた」とのコメントを紹介している。今さらの「ショック」か、という思いも拭えないが、民主の女神像の撤去は、権力の弾圧が大学の中にまで及び、「大学の自由な雰囲気喪失の象徴」となったと言うことなのだろう。
 
 昨日撤去されたレリーフと民主の女神像の両者を制作した陳維明氏はロイターに対し、「作品に傷が付けば大学を訴える」「残忍な弾圧の歴史を葬り去りたいのだろう。香港に今後もさまざまな見方が存在することを認めないのだろう」と語っている。

 香港はかつて、「中国」で唯一天安門事件を語ることができる場であった。毎年6月4日には大規模追悼集会が行われ、天安門事件の資料を集めた「六四記念館」も開かれていた。しかし、香港の自由が北京の専制に飲み込まれる過程で、集会もできなくなり、今年6月「六四記念館」も閉鎖を余儀なくされた。そして、追い打ちをかけての大学構内からのモニュメント撤去なのだ。

北京在住で、香港を現地取材したジャーナリスト宮崎紀秀の今年6月2日付レポートの一部を紹介させていただく。

 中国で民主化を求める学生らが武力鎮圧された天安門事件。6月4日で、32周年となるのを前に、事件の資料を集めて公開していた香港の「六四記念館」が、2日、閉鎖を決めた。

 六四記念館は、1989年6月4日に、中国の民主化を求める学生らを人民解放軍が武力鎮圧した天安門事件に関する写真や遺品などの資料を集め、公開していた。その目的は事件を記録し、風化させないためだ。
 中国本土では、天安門事件についてはいまだにタブー。中でも事件で子供を失った親たちは、事件の真相究明と、公式な謝罪や補償を求めているが、中国政府は、「事件は解決済み」として、その声を無きものとしている。事件を公に語ることが許されない中国で、若い世代は事件の詳細をほとんど知らない。

 一方、一国二制度の下で一定の言論の自由が保たれてきた香港では、これまで事件の検証なども比較的自由だった。六四記念館もその1つだが、中国が香港への統制を強め、「香港国家安全維持法」を施行するなど、そうした環境が変わりつつある。
 六四記念館は、香港へ観光にくる中国本土の若者らが、天安門事件に触れることのできる数少ない場でもあった。
死亡した19歳学生の(弾痕の)ヘルメット。
 事件で、当時19歳の息子を失った張先玲さんは、息子の被っていたヘルメットを記念館に寄贈した。北京に住む張さんは、自由に香港に行けるわけではない。しかし、息子の形見である、(額から左後ろに弾が貫通した)弾丸の跡が残るヘルメットを記念館に寄贈した理由について、こう話していた。
 「博物館にあれば、多くの人に見てもらえます。銃を撃って人を殺したのは事実であるという証拠になりますから」

 一連の出来事は、殺された事実の証拠を残したいとする犠牲者の側と、殺した証拠を消したいとする権力者の側の争いなのだ。歴史をありのままに見てくれという権力に弾圧された人々と、歴史を修正しなければならないとする権力に連なる人々とのせめぎ合い。民主主義は、歴史の修正を許さないことを原則とする。「中国的民主」はいかに? 

「人間はみな平等やいうのに、なんで天皇だけは別やねん?」

2021年12月24日)
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とは、福沢諭吉の「学問のすゝめ」冒頭の一節として知られる。その福沢が、「帝室論」においては、「帝室は尊貴にして全ての臣民に等しく君臨する」趣旨を述べている。天皇・皇族を人と解する限りにおいては、この2命題の絶対矛盾を解くことはできない。野蛮社会に特有の特定人物を人の形を借りた神とする迷妄が、かろうじて両命題を矛盾のないものとして説明することができようか。

 かつて国民の迷妄によって現人神とされた天皇(裕仁)が、敗戦後に「人間宣言」をして以来、この絶対矛盾が解かれぬ難問となって主権者国民の前に投げ出されている。

 私は中学生の頃に、社会科の教師と何度かこんな質疑を繰り返したことを覚えている。

 「先生、天皇は人間やな」

 「そや。天皇も人間や。昔は神さまや言われてはったが今はちゃう」

 「人間はみな平等やいうのに、なんで天皇だけは別やねん。なんであなにえばってんや。なんでまわりがヘイコラしてんのや。なんであのオッサン、税金で喰えるんや」

 「ものにはな、必ず例外ちゅうもんがあるんや。人間平等いうても天皇だけは例外やねん」

 「センセ。なんで例外や。みんな平等にしたらええやんか。あのオッサンも働いて自分のカセギで食うて見たらどないや」

 「みんなが、天皇だけは例外て認めとんのや。天皇が勝手に決めたんやのうて、みんなが天皇だけは例外と決めて認めてんやから、それでええんやないか」

 「ホンマに天皇だけは例外でかまへんてみんな納得してんのやろか。昔は神さまやいうことで欺されて、今はまた例外いうて欺されてんとちゃうか」

 「サワフジなあ、あんまりそういうことは大きな声で言わん方がええんや」

 「ほんでな先生。こんなおっきな例外を大っぴらに認めとったらな、人間平等はウソちゅうことにならへんやろか」

 「サワフジなあ。悪いこと言わんから、今はそんなん言わん方がええ。ホンマに、気ぃつけなあかんで」
 
 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に関する有識者会議」というとてつもなく長い名前の諮問会議が、一昨日(12月22日)最終報告を答申した。毒にも薬にもならないこの答申を出した会議の座長が、清家篤・慶應義塾元塾長である。小泉信三の例もある。慶應は、天皇にとっての安全パイなのだ。そう思われていることに、慶應出身者は恥じなければならない。

 私は、中学生当時に抱いた天皇についての素朴な疑問を持ち続けて今に至っている。福沢諭吉はもちろん、小泉信三も、清家篤も、その疑問に答えてはくれない。疑問は疑問のままだが、天皇制に疑問を呈し、あるいは批判する言論には、脅迫や暴力による制裁があることを知るようになった。中学の社会科の教師が、「大きな声で天皇の批判はせん方がよい」と言ったことの意味を長じて後に知ることになる。天皇制維持の半分は、右翼暴力への恐怖によって支えられているのだ。

 通称「安定的な皇位継承のあり方・有識者会議」の報告は、皇位継承の具体策については特に示すことなく、皇族数の確保が喫緊の課題だとして、次の検討を求めている。
?女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持する
・子は皇位継承資格を持たず、配偶者も一般国民
・現在の女性皇族には十分留意する
?旧宮家の男系男子が養子になり皇族に復帰する
・旧11宮家の子孫を想定
・皇位継承資格は持たない
?旧宮家の男系男子を法律で直接皇族にする
・?と?で皇族数を確保できない場合に検討する
という、「2案+1」の検討を求めた内容となっている。

 報告書を受け取った岸田首相は「国家の基本に関する極めて重要かつ難しい事柄について、大変バランスの取れた議論をしていただいた」と述べたという。わたしには、「国家の基本に関する極めて重要なことがら」とはとうてい思えない。また、「安定的な皇位継承」が必要という前提自体が大きくバランスを欠いたものとなっている。「果たして、皇位の継承は必要か」という問題意識をもたねばならない。

ホンマ、身を切る覚悟が必要や。市長の覚悟やのうて、市民一人ひとりの身を切る覚悟や。ついでに、市民の身銭を切る覚悟もな。

(2021年12月23日)
 大阪市長でっせ。府知事とコンビで、大阪・夢洲へのカジノ誘致に血まなこや。横浜は、カジノ誘致を断念しはった。こんだけ儲かるもんに背を向けて、横浜市民はアホちゃうか。マ、おかげでウチは順風満帆や。

 なんちゅうても、夢洲にカジノを作ればやな、経済効果は1兆1400億や。目も眩むような大した金額やおまへんか。このカネに文句をつけるアホがおるのが信じられん。ちまちまと、数字の根拠を説明せいやら、説明資料が黒塗りで怪しからんとか、なにを言うてんねん。こんな難癖つけるのにろくなヤツはおらん。話半分にしても、立派なもんやと思うてもらわなならん。

 そもそも賭博は人倫に反する、ギャンブル依存症を蔓延させる、マネーロンダリングの温床になるだの、こういう頭の固い絶対反対派いう連中はどこにもおるもんや。もちろん、大阪にもおるんやが、こんな連中をまともに相手にしていたら、せっかくの儲けのチャンスを逃がすことになるんや。早うにことを進めんと、アリのように甘い汁に群がってきた業者が、嫌気をさして「カジノ離れ」を起こすことになる。せっかくの経済効果がしぼんでくるやないか。こんな簡単なことが、どないしてわからんのやろ。

 問題は、夢洲のカジノ場建設予定地「適性確保」のための790億円の支出や。内訳は、液状化防止の地盤改良に410億、土壌汚染対策に360億、地中障害物撤去に20億。この出費はしゃあない。1兆1400億の経済効果のためのコストとしての790億。安いもんや。こんな支出に騒ぐのがおかしい。

 しかもやな、この790億、大阪市の一般会計から支出しよういうんやない。市には、「港営事業会計」いう特別会計がある。その財源は、大阪港にある倉庫の使用料や埋め立て事業の収益や。ここから支出するんや。ナンヤテ? どちらにしても大阪市民の財産やて? ナニ?「大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC)」破綻時も同じ手口やったろうて? マ、そりゃそうやけどな。

 それに、ホンマに790億円だけで済むのかちゅうんか? オリンピックやら辺野古や、森友学園を連想させるてか? そらまあ、多少は増えるやろな。

 それにしても、なんでみんなこんなに騒ぐんや。きっと裏に何かあるんやろ。そりゃあ、確かに2016年の説明会では、当時知事だったワイはこう言うた。
 「特定の政党が間違った情報を流布してますけど、これだけははっきり言っときます。IR、カジノに税金は一切使いません。民間事業者が大阪に投資してくれるんです」とね。

 けど今回、民間業者の誰も土壌改良の費用を出しはせん。ほたら、市が出すのはしゃあないがな。「カジノ建設に公費は一銭も使わん」と以前に言うたあのときはあのとき、今は今や。ワイも政治家や、それくらいのことは言わいでか。

 最終的には、十分採算ベースにのるんや。決して市民に負担をかけっぱなしにはせえへん。そやさかい、なんの問題もあらへんのや。えっ? そやかて、当初は見込んでいた大阪・関西万博との相乗効果はもう無理やろうて? そりゃコロナのセイや、イソジンが効かへんかったからや。市や府のせいやない。それに、ホンマに観光需要が回復するかって…? きっと回復する…はずや…多分…と思う。格別の根拠はないけれど、そないに思うんや。ここは、賭けなあかんとこや。

 仮に、観光需要が回復せんとしてもやな、この790億円はリスクテイクや。みんなが「身を切る改革」をせなアカンのや。身を切るのは、市長でも知事でもない。市民・府民一人ひとりに決まっている。甘えたらアカンのや。市のカネは市民のカネやから、結局大阪市民は身を切るだけやなく、身銭も切る覚悟も必要や。

 もちろん大阪に博打の空気が蔓延はするやろ。賭博依存症の流行も、風紀の乱れも、暴力団の跋扈も、マネロンも、みんな選挙で維新を選んだときに覚悟したはずやんか。今ごろ、イヤ言うてみたかて、そりゃ時既におそしや。カジノの経営が失敗したときは、市民も府民も一蓮托生や。人間、潔く身を捨てる覚悟が大切。そやないか?

 しかも、こんなことになるのは最初からわかっていた話や。夢洲は市が建設残土や浚渫土砂を埋め立てて廃棄物で造成した人工島や。液状化も土壌汚染も以前から指摘されていたんや。大量の産業廃棄物を夢洲に不法投棄していたこともみんな知っていたやろ。

 それだけやない。カジノを運営するのは、外資とオリックスの共同グループや。竹中平蔵はんが社外取締役を務めていやはるんや。竹中はんのパソナと大阪の行政とは、切っても切れん仲や。そんなことよく分かって、維新は大阪での選挙に勝ったきたんや。今さら、オリックスに冷たくもできんのや。790億円くらいは身銭を切らなきゃならんのよ。

 そんでもな、心配のタネがないわけやない。一番が住民訴訟や。一部の偏った新聞が暴露しおったけど、「これまで大阪湾の埋め立て用地の販売でその対策費を市が負担したことはなく、大阪港湾局は『民間業者の建設費の一部を負担するとみなされ、地盤改良をせずに売却してきた土地との公平性を保てず、住民訴訟で敗訴する可能性がある』とする弁護士の意見を紹介した」んや。

 万が一にも、住民監査かそれに続く住民訴訟でこの790億円が違法支出とされるとやな、最終的には責任者である市長個人にその負担を命じられることにもなりかねん。そうなると、身を切っても、身銭を切っても、責任を背負いきれない。これはえらいこっちゃ。そんな覚悟はできっこない。

《自・公・維・国・連》対《立・共・社・令・市》

(2021年12月22日)
 昨日、臨時国会が終わった。なんとも、見せ場のない盛り上がり欠けた国会であった。野党から国会開けという要求は徹底して無視し、与党の都合だけで国会を開いて、補正予算が成立したらもう用はないという身勝手な姿勢。積み残したものを山積のまま、早々の幕引きが得策というわけだ。

 国会で議論すべき緊急のテーマは無数にある。とりわけコロナである。コロナの蔓延を防止し、医療体制を充実させながら、国民生活の安全と生業の継続のためには、与野党の知恵を寄せ集めなければならない。抜本的なパンデミック対策も、保健所削減政策の根源にメスを入れ全面的な再編拡充も、そのための原資を調達するための税制の改革も課題であり、沖縄での米軍基地内クラスターにどう対処すべきかについても国民的議論が必要であろうに…。

 但しこの国会、注目すべきは究極の不要不急というべき改憲論議についてだけは過剰に踏み込んだことである。多少なりとも憲法審査会が審議に入り、ハト派と思われていた岸田首相のタカ派ぶりの言動が目立った。岸田の改憲への積極姿勢や敵基地攻撃能力論への言及には少し驚ろかされた。これは手品か妖かしか、化かされた思いが強い。いや、これまでが化かされていたのだろうか。

 まごうことなきタカであり、その爪を隠そうとしなかった安倍晋三の言動は分かり易かった。右翼もリベラルも、「安倍のいるうちが千載一遇の改憲のチャンス。安倍がその地位を失えば改憲の望みはなくなる」と、この点では見解一致であった。その安倍と安倍後継の失脚で、「改憲のチャンスは潰えた」はずだったのだが、どうやらこれまでは爪を隠していた新種のタカが現れた様子である。

 岸田が、これまではハトを装ったタカだったのか、今はタカを装わざるを得ないハトなのか、実はよく分からない。が、その本性如何に関わらず、いまの岸田の言動を批判すべきことが重要なのだ。

 その臨時国会閉幕の日に、自民党は党本部で、名称を新たにした「憲法改正実現本部」(本部長・古屋圭司)始動の総会を開いた。この席に岸田が出席している。岸田だけでなく、安倍も麻生も茂木も高市も、有象も無象も出席したという。

 そこで岸田がなんと語ったか。「国会での議論と国民の理解を車の両輪と考えてしっかりと押し上げてもらいたい」「『憲法改正推進本部』から『憲法改正実現本部』への改組の狙いは、わが党の覚悟を示したもの」「憲法9条への自衛隊明記など党の4項目のたたき台(条文イメージ)は、いずれも国民にとって早急に実現しなければならない内容だ。総力を結集して結果を出したい」

 会合では今後の活動方針について協議し、実現本部の中に「憲法改正・国民運動委員会」を設置し、全国遊説や対話集会などの活動を精力的に進めていくことを確認したという。もっと急がねばならないことがたくさんあるだろうに、不要不急の改憲のための全国遊説や対話集会とは恐れ入った次第。

 なお、今国会では、維新がはしゃいで臆面もなく右翼的本質を露呈した。また、国民民主が与党に擦り寄ったことも印象に残った。その結果、改憲をめぐる政党レベルでの改憲派対改憲阻止派の対抗関係は、下記のとおりとなった。

  《自・公・維・国》対《立・共・社・令》

 改憲派に連合が与し、護憲派に市民連合が味方している。こうして、それぞれの陣営が、主権者である国民の支持を集めようと運動することになる。はっきり言えば、改憲派は国民を騙しにかかるのだ。騙されてはならないし、騙しを看過してもならないと思う。



   

ヨコスカからの「たより」に頼和太郎さん講演録

(2021年12月21日)
《非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団》からの「たより 326」が届いた。発行日付が2021.12.17となっている。

 総24ページの「たより」を開いて驚いた。メインの記事が11月23日開催の「横須賀基地問題シンポジウム」、その講師が頼和太郎さん(リムピース編集長)だったからである。

 頼さんは、12月10日に亡くなられている。その死を報じる朝日の記事を引用させていただく。

 頼和太郎さん(らい・わたろう=基地監視団体「リムピース」編集長)10日死去、73歳。米軍の艦船や航空機の動向を調べて発信するリムピースで、中心的な役割を果たしていた。横須賀海上保安部によると、神奈川県三浦市の三崎港で9日午前10時ごろ、頼さんのシーカヤックが転覆。別のカヤックに乗っていた妻(59)が海に飛び込んで抱え、近くの作業船に救助されたが、搬送先で死去した。

 「たより」には、元気な頼さんの写真と講演録(要約記事)が掲載されている。そのリードを紹介したい。「たより」の雰囲気をよく醸し出している一文。

 11月23日住民投票の会、基地問題シンポジウム。こういう集まりに出るのも2年ぶり。みんな元気そうで何より(ま、元気な人しか来ないもんね)。空白の期間を感じないほど、テキパキと準備して雑談して、すぐに解けこめる空間になるよね、この会は。
 今日は司会なんだけどさ、他所もそう?、打ち合わせなんてほとんどない。大まかに時間決めて誰が話すか確認して、1分で打ち合わせが終わる。講演者の時間だけはっきりすれば、後はなんとかなる。そこが力量なんだろうけど。
 講演がなんたって頼さんだからね(リムピース編集長頼和太郎さん)。攻めますよ、きっと。イヤな予感もちょっとする。
 始まってすぐに、緊急事態発生。まさかの椅子が足りない。50人くらいかと思ってたのに。追加の椅子を出してもまだ足りない。そしてついに70部用意した資料もなくなってしまった。慌てて追加の印刷に行く。
      ●
 頼さんの話はね、詳細なのよ、詳細すぎるのよ。「(難しすぎて)ちょっと何言ってるかわからないんですけど‥・」って思うんだけど、あの記憶力はすごいね。艦船や飛行機の名前、世界中の軍事問題をいつどこで何があったとすらすら出る基地問題第一人者だね。私が認定してあげるわ。(中略)
      ●
 帰るときにね、頼さんからカンパを頂きました。講演お礼の封筒がそのまま戻ってきました。こういうとこも頼さんらしい、ありがとう。

その頼さんが、講演から3週間を経ずして亡くなられた。合掌するのみ。

 もうすこし紹介したい。この「たより」発行団体が最近刊行した「横須賀鎮守府3人の反戦水兵」というパンフの宣伝。こんな上手な宣伝文句は滅多にお目にかかれない。私も、申し込むことにする。

「横須賀鎮守府3人の反戦水兵」のパンフ、読みました?お薦めですよ、難しくないです。「人生、悪いことばかりじやない」って感じです。
 反基地運動(平和活動も)やっている人って、気難しくてひねくれ者で、いつも不機嫌なイメージありますよね。実際多いでしょ。たぶん読者全員が「自分以外はちょっと変わってる人達」と思っているでしょう。体制に反対するなんて、清い心だけでやれないし。
 1932年、治安維持法で刑務所に服役した、日本海軍の若き水平遠の活動が書かれているんだけど、こういう本はどうしても資料物が多いし、軍事戦略のことは難しくなりがち。でもこのパンフは時代背景の解説、当事者の日記、家族や身近な人達のインタビューと構成が多方面なので、読み物として人の生き様を感じられる「人物記」です。
 たとえ戦時の兵士で、辛いこと悔しいこと悲しいことが多い暮らしの中にも、人は楽しさを見つけ、友情愛情を育み、未来への希望を持っている。元気になれる、久しぶりに良い本を読んだな?と思います。
 ちなみに、私のお気に入りは「兵士の友」第1号に書かれた、「ぢや兄弟!俺は紙上で兄弟に握手をする!」ってとこ。な?んか小憎いのよね。
横須賀で運動している人はもちろん、全国の「ちょっと変わってる人達」にも読んで欲しい一冊です。
 ちょっとだけ清い心が取り戻せますよ。

●横須賀鎮守府、3人の反戦水兵の「生き様」が問いかけるものは…。
A4・100ページ・200円

注文先は、下記(だと思う)。
非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団
横須賀市本町3-14山本ビル2F
tel/fax046-825-0157
市民宣言HPhttp://itsuharu-world.la.coocan.jp/
平和船団HPhttp://heiwasendan.la.coocan.jp/
郵便振込●00290-3-6512 非核市民宣言運動

嗚呼、北京の独裁が香港の民主主義を制圧した。中国に民主主義は絶えてなく、香港にも選挙はなくなった。

(2021年12月20日)
 かつて、安倍晋三という男が「積極的平和主義」を語った。彼が「積極的」という修飾語をつけると、「平和主義」は本来の意味の反対語に転化した。同様に、「民主主義」に「中国的」という3文字を冠すると民主主義は消え去る。民主主義社会の常識では、専制や独裁というべきものに転化するのだ。

 その「中国的民主主義」に飲み込まれた香港立法会の「選挙」は、本来の意味の選挙ではあり得ない。中国はまたまた、香港を舞台にその醜悪な本性をさらけ出した。

 選挙とは、民意を集約して権力を形成する営為を言う。正確な民意の反映という名分なくして選挙というに値せず、その名分を欠いた「選挙」によって形成された議会や権力に正統性はない。

 誰がどう見ても香港立法会議員「選挙」は茶番に過ぎない。民意を反映する手続ではなく、民意を抑え込み、民意を弾圧する手続としての「形だけの選挙」「選挙まがい」の「似非選挙」である。いや、形だけはあるとも、選挙に似ているというも愚かである。こうして形作られた議会には何の権威もない。

 むしろ、不思議でならない。中国共産党はどうして形だけの民主主義にこだわるのだろうか。《中国共産党の専制》《習近平の独裁》と、はっきり言うがよいではないか。専制・独裁こそ、多数人民の利益に適うのだ。しかも極めて効率よく。もちろん専制も独裁も、利益に均霑する多数者からの支持を失えば危うくなる。だから、少数者を多数者のために犠牲にするのはやむを得ない。人権やら民主主義やらを後生大事とし、党の支配に背き、愛国を軽蔑する輩を多数者の利益のために徹底して弾圧するのだ。そのどこが悪いのだ。

 中国は大国として発展しつつある、経済は発展している。生活は格段によくなっているだろう。それ以上に、いったい何を望むことがあろうか。

 人権や民主主義や反権力や少数者の権利などを価値として信奉する者は利口じゃない。それを口に出す者はバカだ。権力に反抗すればぶち込まれることを知りながら、敢えて行動する者はとうてい正気ではない。専制と独裁に身を委ねてみたまえ。こんな安楽なことはない。家族とも、親戚とも、近所とも、職場とも、社会とも、穏やかに付き合い、平穏な人生を送ることができるのだ。

 中国がそう言っても、香港には民主主義を奉ずる多くの人がいる。この人たちを徹底して押さえ込んでの選挙だった。民主派の立候補者は事前審査で立候補の資格なしとされる露骨な選挙介入が実行された。名目は「愛国者」ではないということ。「愛国者」とは、中国共産党への忠誠を誓う者という意味である。

 立法会の議席は70から90に増加したが、直接選挙による議席枠はわずか20人、15減である。この20の全議席を当然の如く親中派が占めた。選挙委員会による選出枠40議席、業界団体などによる職能枠30議席を含む全90議席が親中国派で占められ、民主派は一掃された。

 注目された投票率は、30.2%だった。警察当局は白票や棄権を呼びかける行為を禁じた選挙条例に基づく取り締まりを強化し、市民を相次いで逮捕。19日も妨害行為の防止を名目に、銃を手にした特殊部隊員や警官らが1万人態勢で警戒に当たった。

 投票ボイコットを呼び掛けて香港当局から指名手配されている区議会(地方議会)元議員(丘文俊氏(39))が、脱出先の英国で西日本新聞のオンライン取材に応じたという西日本新聞の下記の記事が衝撃的である。(北京・坂本信博)

 香港返還の1997年、14歳の時に家族と広東省から香港に移住した丘氏は、民主派区議として10年間活動してきた。19年の区議選では民主派が圧勝し議席の8割超を獲得。危機感を募らせた習指導部は、香港の反政府活動を取り締まる国家安全維持法(国安法)を成立させ、今年5月に選挙制度も変えさせた。
 現職議員への圧力が強まり、「政府にとって気に入らない発言をすると警告を受け、議員報酬の支給が数カ月遅れるようになった。尾行もされた。それでも、愛する香港を離れるつもりはなかった」と丘氏。
 6月、民主派議員同士で新たな組織づくりを始めると、警察が連日のように早朝4時に民主派の人々の自宅玄関ドアを壊して身柄を拘束するようになった。「逮捕されても3?5年の懲役刑で、40代半ばで出所できるから大丈夫と思っていた。でも、国家転覆罪などで10年以上投獄される恐れがあると分かってきた。恐怖を感じて毎朝4時に目が覚めた。頭がおかしくなりそうだった」と振り返る。
 7月、政府が現職区議に義務付けた香港への忠誠の宣誓式が開かれることになった。愛国者だと宣誓して議員を続けても政府の意向次第で資格が剥奪され、議員報酬の全額返還を求められる。辞職して香港を離れることを決め、渡英した。

民主主義の試練は続く。せめて、私たちの国をこんな状態にしてはならない。

八木秀次が懸念する天皇制消滅へのドミノ理論…そして確かな希望が残る。

(2021年12月19日)
 昨日に続いて、「AERA dot.」が紹介する週刊朝日の記事。「皇室の今後はどうなる? 原武史、石川健治、河西秀哉、八木秀次の各氏が語るあるべき姿とは」に関連してもう一言。
 https://dot.asahi.com/wa/2021120900077.html?page=1

 この記事で八木秀次は、秋篠宮家長女の皇族からの離脱に関して、天皇制存続への影響をこう語っている(抜粋)。

 「個人の自由意志を貫いて結婚した小室眞子さんをめぐる騒動は、天皇制の維持など、皇室のあり方に非常に大きな影響を与えたと思います。これが前例になることにより、他の内親王、女王の結婚にあたっても同じ形態がとれるようになりました。

 一番懸念されるのは、悠仁親王の即位拒否に道を開いたことです。姉が自由意志を貫いたことが前例となり、即位拒否を主張されてもだめだとは言えなくなった。皇室典範上、皇太子になると皇籍離脱はできませんが、なったとしても特例法という「逃げ道」があるのです。

 こうした道を開いたのは、上皇陛下の生前退位にあったと考えています。皇室典範には退位の規定はなく、むしろ解釈として禁止されていると考えられてきました。それを、当時の天皇陛下の思いを優先するという形にしました。結果として、皇族が自分の思いを貫くことを可能にしてしまった。その論理が提供され、眞子さんが自由意志を貫く結婚につながってしまったと考えるべきです。

 制度として捉えると、退位を認めた瞬間に皇位安定性は一気に揺らぎ、不安定になります。当時、私は「退位を認めることが、即位拒否や、即位後まもなくの退位を認めることになる。これが何度か続けば、皇室は継承できる天皇が誰もいなくなってしまう」と指摘しました。」

 なるほど、これが右翼の心情であり信条なのだ。皇統という血への信仰者(あるいはその集団)が予言する天皇制廃絶に至るドミノ理論である。少し補って解説すれば、最初のドミノが前天皇(明仁)の「8・8メッセージ」に始まる生前退位の実現であり、最後のドミノが天皇制の消滅、ないしは「天皇制の自然死」である。その因果を順序に並べると以下のとおりとなろうか。

(1) 前天皇(明仁)が自らの意志を貫いて生前退位
(2) ⇒個人の自由意志を貫いて皇嗣長女結婚・皇籍離脱
(3) ⇒他の皇族の追随(個人の自由意志による皇籍離脱)
(4) ⇒皇嗣長男(悠仁)の即位拒否
(5) ⇒天皇の自由意志による退位
(6) ⇒天皇位に就く者がなくなる
(7) ⇒象徴天皇という制度が消滅する

 このドミノ理論におけるキーワードは、「皇族の自由意志」である。天皇もその余の皇族も、男性であれ女性であれ、自由意志を貫くことができるなら皇族の身分から離脱したいと願っているというのだ。だから、天皇制を維持するためには、天皇や皇族の自由意志を認めてはならない。籠の鳥に自由を与えてはならない。うっかりこの自由を認めれば、パンドラの箱が開いて、みんな箱から飛び出して逃げてしまうことになる、というわけだ。

 この天皇制消滅に至るドミノ理論。八木は深刻な懸念として語っているが、私には素晴らしい希望に見える。皇族諸君も、不自由な籠から脱して、掛け替えのない自由やプライバシーを手に入れることができるのだ。天皇制維持にかかる数百億の国費の軽減にもなる。国民の主権者意識も成長するに決まっている。みんなハッピーではないか。

 パンドラの箱を開ければ、皇族も天皇も飛び立って誰もいなくなる。制度としての象徴天皇制もなくなる。しかし、神話のとおり、豊かで明るい希望は箱の中に残るのだ。天皇あっての日本という馬鹿げた神話を清算して、自立した国民が形作る確かな希望である。

皇族諸君、お濠を飛び越せ。自由な外界に脱出せよ。

(2021年12月18日)
 「AERA dot.」が、週刊朝日の記事として、「皇室の今後はどうなる? 原武史、石川健治、河西秀哉、八木秀次の各氏が語るあるべき姿とは」を掲載している。
 https://dot.asahi.com/wa/2021120900077.html?page=1

 この4人が語る内容がそれぞれに興味深い。とりわけ原武史の語るところは傾聴に値する。そして、八木秀次の言が臆面もなく右翼の考え方をさらけ出して、たいへんに有意義である。

 原は、大要こう言っている。

 「西洋列強から開国を迫られた日本は、植民地化を免れるため急いで軍事国家をつくる必要があり、天皇を軍事的なシンボルにしたのです。京都にいたときは中性的な姿をしていた天皇が、ひげを生やし、軍服を着て馬や軍艦に乗るなど、男性化していった。

 敗戦によってこの路線は破綻した。陸海軍を解体し、憲法を改正し、女性参政権を認めるなど、男女平等が進められました。

 ところが、皇室については、根本の部分はまったく変えなかった。戦後の皇室典範でも依然として皇位継承者を男系男子のみに限っているのは、軍事国家の名残のようなものです。このため、時間が経つにつれ、お濠の内側と外側の「ズレ」が拡大していきました。」

 的確で分かり易い指摘ではないか。近代天皇制は、軍国主義日本における支配の道具として新造されたものである。だから、京都では中性的な「お公家さん」だった天皇が、東京では大元帥となり、ひげを生やした軍服姿で白馬に乗って、臣民の前に姿を現したのだ。

 明治維新とともに作られた天皇像は、敗戦によって瓦解を余儀なくされる。世は、軍国主義を捨て自由と平等が謳歌する時代となった。本来天皇という支配の道具を必要とした社会ではなくなった。にもかかわらず、天皇制は生き延びた。しかも、皇室制度の基本はまったく変えずにである。こうして、「お濠の内側と外側のズレ」が拡大して矛盾が露呈している。その矛盾が、「お濠の内側」の女性に集中して表れている。

 「今回の眞子さんの件で、特に女性にとって、お濠の内側がいかに窮屈で生きづらいかがわかってしまった。眞子さんだけでなく、現上皇后も現皇后も、失声症になったり適応障害に苦しんだりしました。」

 さて、どうするか。「今は存続が大前提になっていて、結婚後も女性皇族を皇室に残して女性・女系への道を開くのか、男系男子に固執して旧皇族の男子を養子に迎えるのかといった二者択一のような議論になっている」が、原は明快にこう言う。

 「皇室制度自体を続けるのかという考え方が抜けています。憲法1条には「天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づく」とあります。国民の総意がもう皇室はいらないと考えるのであれば、なくていいという話になる。こうした選択肢は考慮されていません。それだけでいいのでしょうか。」

 原自身が、「皇室はいらない」と意見を述べているわけではない。が、国民の議論として、象徴天皇制そのものの存廃を視野に議論を呼びかけている姿勢は、立派なものだと思う。

 これに比して立派とは言いようもないが、それなりに有益な発言をしているのが八木秀次である。天皇や皇族の振る舞いについて、右翼は右翼なりの不満を持ち、天皇制の存続に危機感をいだいているのだ。八木は、秋篠宮の長女が皇族から脱出したことについて、ぼやいてみせる。そして、その原因を作った前天皇(明仁)に遠慮のない批判をする。右翼がそんな不敬を言ってよいの? と揶揄したくもなる事態。

 八木の語りの中で、最も興味深いのは天皇家の「特別な存在」の根拠をこう言っているところ。

 「代々続いてきた男系の継承は守るべきです。歴史の連続性の重みは無視できない。継承者が男系から外れると正統性がなくなるからです。天皇や皇族と国民との違いは、歴代天皇の男系の血統に連なるか、それ以外かです。女系は一般国民となる血筋であり、女系継承を認めれば、国民との間に質的な違いはなくなります。血統によって区別され、代わりがいないからこそ特別な存在として、敬愛の念を抱くのです。」

 これは野蛮極まる血への信仰である。しかも、男系の血のみ貴しとする倒錯した信仰。かつて天理教の分派である「ほんみち」は、「生きとし生けるものにして、万世一系にあらざるはなし」と血統に対する信仰の愚かさを喝破して不敬罪に問われた。この事件は、いびつな国家が、特殊な血統を大事とした時代の特殊な出来事であったはず。ところが、今の世に、男系の血に対する特殊な信仰が生き延びているのだ。現在のお濠の内側は、こういう倒錯した信仰によって成り立っている世界。原は、女性皇族の穢れの問題にも言及している。

 結局、目の前の選択肢は3本のように見える。
(1) 現行の男系男子の皇統維持に固執する
(2) 女性・女系天皇を認める。
(3) 天皇制を廃止する

現行の(1)を選択すれば立法作業は不必要である。(2)は国会で皇室典範を改正しなければならない。そして、(3)は憲法の改正を必要とする。

 実は、もう一つの選択肢もあるのではないか。天皇予備軍である皇族諸君が、次々と皇族から脱出をはかるのだ。お濠の内側は、こんなにも窮屈で暗く悲惨だ。人権を侵害されている皇族諸君が次々とお濠を飛び越して、自由な外界への脱出に成功すれば、世襲の天皇制は就位者を失って「自然死」することになる。

 これは、単なる夢想だろうか。

府立高の教員に踏み絵を迫る大阪府教育委員会。迫られた教員は…。

(2021年12月17日)
 人が人であり、自分が自分であるためには、全ての個人に思想・良心の自由が保障されなければならない。国民の思想・良心の自由に対する天敵は、言うまでもなく権力の主体としての国家である。その国家の手先になっているのが、東京ではかつては石原慎太郎であり、いま小池百合子である。いずれも、国家主義の尖兵として、「日の丸・君が代」の強制に躍起になっている。

 大阪でも事情は変わらない。かつては橋下徹、そして今は吉村洋文が知事として、公立校の学校行事で「日の丸・君が代」への敬意表明を強制し、これに従わない教員を容赦なく処分している。

 私には、橋下と吉村が、権力に抗して人権の擁護を使命とする弁護士であることが信じられない。権力とは、それを持つ者に人権の蹂躙を唆す魔力を持つものなのだろうか。それとも、橋下や吉村は人権というものを深く学んだことがないのか、あるいは生来の秩序大好き国家大事の人格なのだろうか。

 思想・良心の自由が外部に表出されるときは、他の全ての人権と同様に無制限ではあり得ない。しかし、無制限ではないことをもって、軽々に人権侵害の理由としてはならない。国連の専門機関であるセアートの日本政府に対する、「日の丸・君が代」強制の抑制を求める勧告の中にある下記の一文が、グローバルスタンダードである。
 「不服従という、無抵抗で混乱を招かない行為に対する懲罰を回避すべきこと」
 式への混乱を招かない、静かな不服従。これに制裁を加える理由はない。国連からこのような勧告を受けることは、日本が人権後進国として扱われていることとして、肝に銘じなければならない。国旗・国歌・日の丸・君が代への評価や好悪は多様である。この旗と歌とを通じて、人は国家や歴史と向き合う。だからこの旗と歌とに対する向き合い方は、個人の思想・良心、即ち国家観・歴史観・宗教観・教育観によってさまざまであって、その価値観を権力が適否を選別し強制してはならない。本来、この旗や歌は、公立学校の式典に持ち出すべきものではないが、少なくともこの旗や歌に対する敬意表明が強制されるようなことがあってはならない。これは、基本的人権のキホンのキであり、憲法史や憲法解釈学を学んだ者の常識に属する。

 しかし、日本に思想・良心の自由の保障はあるのだろうか。大阪高裁が、12月9日に言い渡した「君が代判決」が話題となっている。大阪府教委は、「実質において、起立して『君が代』を斉唱しなかったことを理由に、府立高教員の退職後の再任用を拒否」した。事実上の解雇に等しい。同判決は、この府教委の行為は違法だとして、再任用されていれば得たはずの1年分の賃金相当金額についての損害賠償請求を認めた。

 判決書を一読して興味深かったのは下記の点である。

 「府教委は,職務命令に違反して卒業式又は入学式等の国歌斉唱時に起立斉唱せず懲戒処分を受けた教職員に対する研修終了後に,「今後,卒入学式等における国歌斉唱時の起立斉唱の命令を含む上司の職務命令に従う」旨が記載された意向確認省に署名押印して提出するよう求め,これを提出しなかった再任用希望者に対しては同趣旨の意向確認を行い,その結果を再任用選考時の資料としていた。」

 こう書くと分かりにくいが、要するに、府教委は「今後は国歌斉唱時の起立斉唱の命令に従え。その旨の誓約書を提出しないと再任用はしないぞ」というタチの悪い恫喝を繰り返していたのだ。これに対して、裁判を起こした教員はどうしたか。

 「控訴人(不起立で処分された府立高の教員)は,平成26年の戒告処分について,平成28年1月に約30分の研修を受けた後,上記記載のある意向確認書に署名押印して提出するよう求められたが,後日,「地方公務員法に定める上司の職務命令に従います。ただし,今回の研修では十分な説明が得られなかったため,憲法その他の上位法規に触れると判断した場合はこれを留保します。」などと記載した意向確認書を自ら作成し,署名押印の上,提出した。」

 府教委は、この教員に「『意向確認書』に署名捺印して提出せよ」と求めた。その意向確認書には、「今後は国歌斉唱時の起立斉唱の命令に従います」と明記してある。言わば、踏み絵を迫られたのだ。これに対するこの教員の対応が見事だった。「上司の職務命令に従います。ただし,憲法その他の上位法規に触れると判断した場合はこれを留保します」として提出したのだ。憲法論からは、この教員の行動を非難することはできない。何しろ、憲法に忠実でありたいというのだから。

 それでも、当然の如く教員は再任用を拒否され、裁判に訴えた。一審敗訴の後の逆転判決を喜びたいが、行政の理不尽と一審判決の理不尽にも納得しがたい。同種事件は東京にもあり、一審での勝訴判決もあるが、上級審では敗訴している。

 あらためて願う。憲法の活きる社会であって欲しい。権力の人権侵害を速やかに救済する司法であって欲しい。そして、この判決を勝ち取った府立高の元教員の信念とその信念を貫いた生き方に心からの敬意を表したい。このような人がいてこそ、歴史は前進するのだ。

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