澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

湯島天神菊まつりでの天皇談義

(2021年11月13日)
 抜けるような青空。高い空というべきか、深い空というべきか。風はなく、寒さもない。今後のことはいざ知らず、コロナも小康状態である。こんな日は、アリも巣穴から這い出してくる。鳥も鳴き交わす。人も同じ。外へ出て、人と話しをしたくもなる。時には会話も弾む。

 湯島天神は菊まつりで賑わっている。妻にくっついて菊の品定めをしていると、少し年嵩の男性との会話になった。

「その花めずらしかないよ。こっちの方がいいんんじゃない」
「そっちは、去年買ったもので」
「じゃあこれは? でもこの鉢、持って帰るのたいへんじゃないの」
「いえ、ウチはすぐ近くですから」
「電車に乗るわけじゃないんだ。わたしはスカイツリーの方だ」
「そちらも菊まつり盛んじゃないですか」
「いや最近どこもダメ。ここ湯島の菊まつりが一番だね」
「亀戸天神はお近くじゃないですか」
「昔は立派だったけど今はちょっとね。両国の慰霊堂公園なんかも盛んだったけど今はダメだ」
「横網町の慰霊堂ですね。あそこには、毎年9月1日に行くように心がけているんですよ。虐殺された朝鮮人の追悼式にね」
「おや、そうなの。私も、その式典には多少関わりがある。日本人は朝鮮人に対してひどいことをしたもんだ。あのとき罪もないたくさんの人が殺されている」
「やっぱり間違ったことは、ごまかさずにきちんと認めて謝罪をしなくてはならないと思うんですよ」
「そのとおりだ。ところが小池百合子だよ、ひどいのは。これまでは追悼式に知事の追悼文が届けられていた。あの、石原慎太郎ですら、追悼文を送っていたのに、小池百合子はやめたんだ。石原慎太郎にも劣るひどいやつだ」
「おっしゃるとおり、右翼とつるんだあんなひどいのが知事になっているんだから、東京はおかしい」
「もっとひどいのが安倍晋三だよ。戦争の反省をまったくしていない。あんなのに長く首相をやらせたんだから、東京だけじゃない日本全体がおかしい」
「植民地に対する反省も、戦争の反省もしていないから、安倍なんかを首相にしちゃうし、いまだに天皇が威張っている社会になったまま」
「そうだよ。あの戦犯、数え切れない人の命に責任をとらなきゃならない立場じゃないか。本当なら処刑されて当然なのに、部下を犠牲にして自分は生き延びた」
「ところが、そんな天皇の責任を追及しようという声がなかなか大きくならない」
「今度の選挙には期待したんだけれど、結局負けちゃって…」
「だけど、めげていてもしょうがない」
「そうだよ。安倍は派閥の親分になって、また3度目の首相復帰を狙っているというじゃないの。そんなことをさせちゃいけない。粘り強く、がんばらなくっちゃ」

握手して、お別れ。お互いに名乗り合うこともなかったが、励まし合って気分は爽快。

 そのあと、菊を売っていた「文京愛菊会」の女性が、二鉢の菊を買ったサービスに、スマホの写真を見せてくれた。自分の家の屋上に並べたみごとな菊の鉢の数々…、まではよかった。が、その写真の最後に、皇室の菊のマークが出てきた。

「せっかくの菊の美しさが、天皇のお陰でだいなしだね。この菊のマークを見ると不愉快この上ない」
「えっ? そんなに皇室が嫌いなんですか」
「だいっきらい。侵略戦争の責任者で、何百万、何千万の人々の死に責任負わねばならないのに、みんな部下のせいにして、ちっとも責任とらなかったでしょう」
「でも、しょうがなかったんじゃないですか。東条英機など、周りが悪かったから戦争になったんで、天皇のセイじゃないように思ってますけど」
「東条英機もお気の毒。たしかに、彼は東京裁判では、全部自分のセイで天皇に責任はないと言ってますよ。だけど、別のところでは自分は天皇の命じるままに行動したまでで、天皇の意向に背いたことは一度もない、とも言っている」
「天皇は、戦争のことなどなんにも知らされていなかったんでしょう」
「それはない。むしろ、陸軍と海軍は仲が悪かったから、それぞれ相手のことはよく知らない。全部のことを、一番よく知っていたのは天皇ですよ。開戦の前には、陸軍にも海軍にも、何度も『それで勝てるか』『本当に勝てるか』と念を押してから、ゴーサインを出している。それは天皇の伝記を読めばすぐに分かる」
「でも、今の天皇や皇室は、戦争当時とはまるっきり違うでしょう」
「戦争の指導はしていないし、政治に口出しは出来ない。でも、エラそうにしているのは戦前と同じ。そして、国民の税金で喰っていることにも変わりはないと思いますよ」
「まあ、あの人たちには、自由も権利もないから、お気の毒と言えばお気の毒だけど」
「宮内庁の経費も含めれば、皇室の予算は年額200億円を超しますよ。あの広い皇居や赤坂御所を占拠もしている。兎小屋に住み、低賃金の中から税金を納めている国民が不満を言わないことが、私には不思議でならない」
「あの人たちは雲の上の人ですから、自分と較べることなんて出来っこないんじゃないですか」
「天皇の地位は国民が認めているからあるので、自分と較べてもいいんです。あんなのに税金を使いたくないと国民多数が言えば、天皇制をなくすることも出来るんですから」
「そう言う話はどこまで行っても尽きないんでしょうが、今日は菊を買っていただいてありがとうございました」

握手することはなく、お別れ。もちろん、お互いに名乗り合うこともない。気分は爽快とまではいかないが、天気のせいか、菊のおかげか、あるいは弾んだ会話の効用か、特に不愉快ということもなかった。

今は亡き弟、35歳での労組支部長就任挨拶

(2021年11月12日)
 弟・明の急逝が本年8月12日。葬儀が同月の15日だった。本日が、3度目の月命日となる。喪失感は、まだ癒えない。

 先月12日の当ブログに、亡弟についての記事を書いたところ、元毎日新聞労働組合本部書記長を務めた福島清さんから、ご親切に弟の組合活動に関する資料をお送りいただいた。厖大な資料の中から探していただいたであろうことに、感謝に堪えない。

 送っていただいた資料の中に、毎日労組西日本支部の機関紙「いぶき」のコピーがあった。1983年10月4日号の一面が「第37回定期支部大会」を報じている。その大会で、弟は支部長に選任されている。

 その紙面に、「39期澤藤執行部がスタート」という見出しで、下記の澤藤明新支部長の挨拶が掲載されている。「1人1人手携え」「前途多難 乗り越える努力」という表題が付けられ、いかにも若々しい、弟の顔写真が添えられている。当時、弟は35歳。

 やや長文で、掲載は抜粋にしようと思ったが、どうしても削れない。全文を掲載させていただく。

 「今責任の重さに身が打ちひしがれそうな状態です。西部支部760人の生活と権利を守っていく戦いのトップに立たねばならない。自分の器でやれるのだろうか。若くて未熟な私がやって本当によいのだろうか。正直言ってこんな疑問を自分自身にぶつけながらの支部長就任でした。

 推薦委員会からの推薦を受け職場(整理部)の仲間から尻をたたかれるような『激励』の波に洗われているうちに、山口支局時代に取材した自衛官合祀訴訟の原告中谷康子さんの言葉をふと思い出しました。中谷さんの夫は自衛官として在職中に死亡。その霊を自衛隊が護国神社に合祀したことにクリスチャンである中谷さんが反発、合祀を取り下げるように求めました。憲法の「信教の自由」を真っ正面から問う訴訟の取材に伺ったのは第一審判決の直前の頃でした。

 私が「こんな大きな訴訟を女手一つで戦ってこられた原動力は何ですか」と問うと、中谷さんは、聖書の中の一節を示してくれました。それは「神はその人の力に能(あた)わざる試練は与え給わず」という言葉でした。「人生にはいろんな試練が次から次に降りかかってくるものです。でも、澤藤さん。どんな難事に見えることでも、必ずその人の力で乗り越えられるものなのよ」と中谷さんは笑顔で解説してくれました。

 実際、中谷さんは、一審、二審とも勝訴し、見事に試練に耐え抜き、勝利を掴んでいます。

 西部支部支部長という自分に課された試練の重さを改めて思うにつけ、あの時中谷さんが示してくれた聖書の言葉の深い意味が実感されます。私は35年間、どちらかと言うと淡々とした道を歩いてきました。長という肩書きがついた仕事は小学校の時学級委員長というのをやったくらい。人の世話をしたり、人を引っ張っていくといった仕事には無縁でしたし、今後も縁がないだろうと思っていました。

 それだけに、中谷さんの言葉を一つの励みとし「自分の力でこの試練は乗り切ることが出来る」と自分自身に言い聞かせながら、歩を進めていきたいと決意しております。

 試練に立たされているのは私一人ではありません。組合員一人一人であり、新執行部であり、会社という組織全体でもあるわけです。一人一人と手を携えて試練に立ち向かっていきましょう。

 また中谷さんを取材した時の話になりますが、「聖書の言葉だけが、あなたの導きだったのですか」と問うと、「それだけではありません」と言って、押入れの中からダンボール二箱にいっぱい詰まった全国からの激励の手紙を見せてくれました。小学生からのたどたどしい文字の手紙、お年寄りからの手紙、「お小遣いを貯めましたので」と書き添えられたカンパ……。「この一つ一つの支援の声がなかったら、私は途中で投げ出していたでしょう」と中谷さんは正直に話してくれました。

 組合の執行部は、リーダーシップを発揮せねばならない立場にあります。しかし中谷さんと同じように、多くの人の支えがなければ、この難局を乗り越えていくことはできません。生まれたばかりの新執行部に絶大な支援をお願いしてやみません。」

 いかにも、若い頃の弟らしい、穏やかで柔らかい発言。ああ、弟はこうして懸命に生きていたのだ、という感慨一入である。

75年前に三笠宮(崇仁)が語った女性天皇時期尚早論

(2021年11月11日)
 昨日に続いて、裕仁の末弟・三笠宮(崇仁)の「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」(1946年11月3日、新憲法公布の日)からの引用である。「女帝について」と表題した個所。当然に彼は女帝容認論かと思う向きもあろうが、さに非ず。ややねじれている。

 下記に【D】とあるのは、憲法14条に記載の「すべて国民は法の下に平等であつて人種、信条、性別、社会的身分又は門地により政治的経済的又は社会的関係において差別されないこと」である。これでは煩瑣なので、【D】に「両性の平等」を代入して読んでいただけば、意味を損ねない。

「先づ問題になるのは女帝を認めないことと【D】との関係であらう。純粋に【D】を解釈すればどうしても女帝を認めねばならぬ。しかし之については私は現在としては政府案で結構と考へる。その理由として法律論でない実際論から一つだけ述べておく。今の女子皇族は自主独立的でなく男子皇族の後に唯追随する様にしつけられてゐる。之は決して御本人の罪ではなく周囲が悪いのであるが之では仮令象徴でも今急に全国民の矢表に立たれるのは不可能でもあり全くお気の毒でもある。其の上天皇を補佐すべき各大臣が皆男子である。従つて当分女帝は無理と思はれるが何と考へても【D】は全世界に共通の傾向であり今や婦人代議士も出るし将来女の大臣が出るのは必定であつて内閣総理大臣にも女子がたまにはなる様な時代になり、一方今後男女共学の教育を受けた女子皇族が母となつて教育された女子皇族の時代になれば女子皇族の個性も男子皇族とだんだん接近して来るであらうからその時代になれば今一応女帝の問題も再研討せられて然るべきかと考へられる。」

 これを素材にいろんな議論が出来そうである。これと真逆なのが、憲法学者・故奥平康弘の「『萬世一系』の研究」(岩波書店)に紹介されている、1882年当時の有力紙・東京横浜毎日新聞が掲載した「女帝を立(たつ)るの可否」の議論。その中に、「立憲主義国では平凡な君主で構わないから女性でも務まろう」という立論があったという。「立憲主義国では平凡な君主で構わない」までは卓見だが、「女性でも務まろう」がいただけない。

 三笠宮、今あれば、女性天皇問題にどう発言するだろうか。案外、「仮令象徴でも全国民の矢表に立たれるのは、男でも女でも負担が大きく全くお気の毒でもある。象徴天皇制そのものを廃止してはどうか」と言うのではないだろうか。

この議論を上手にまとめた、ある行政書士さんのブログに、子どもにも分かるようにと、こう記されている。

「天皇に女性がなること」 について…

日本では昔から
あーでもない、こーでもないと
議論が続けられてきた歴史がある。

少なからず、そこには
“男尊女卑”(だんそんじょひ)
という考え方があった。

海外では、
英国のエリザベス女王をはじめ
女帝が君臨する例もあったが
日本では、明治憲法で、
天皇を男性に限定していた。

昭和時代に制定された 現在の憲法である
日本国憲法では

条文上は、世襲とされ 男性には限定していない。

なぜなら、新憲法では 「法の下の平等」
つまり、「男女平等」を 原則としているから。

天皇家・皇族にも
自由や人権があって当然である。

では、日本の天皇制は どうあるべきか?

個人の尊重
男女平等
人権、民主主義…

全て踏まえて 考えていく必要がある。

この文章は、《日本国憲法の趣旨を正確に踏まえるなら、女性天皇容認論が結論とならざるを得ない》という論旨。それも一理であろうが、果たしてそうだろうか。本当に正確に憲法の理念を把握するなら、天皇制そのものが、個人の尊重・人間の平等・人権・民主主義…に背馳するものではないか。女性天皇も、天皇である以上、差別構造の上にしか成立し得ない。

天皇制の存在は憲法の容認するところだが、世襲の天皇の血統が絶えれば、天皇制はなくなる。言わば自然死することになる。女性天皇の拒否は、天皇制の自然死への道として歓迎すべきことではないだろうか。

三笠宮(崇仁)の《天皇皇族・籠の鳥》論。

(2021年11月10日)
 大正天皇(嘉仁)には4人の男子があった。長男が昭和天皇(裕仁)で、裕仁の末弟が三笠宮(崇仁)である。オリエント史学者として知られた人だが、リベラルで硬骨な発言者でもあった。

 その三笠宮が、1946年11月3日の「新憲法公布記念日」に、「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という私案を発表している。今読んでも興味深い内容。

 この中で、最もよく知られ、よく引用されるのは、皇族の結婚に関しての下記の一文。
 <種馬か種牛を交配する様に本人同士の情愛には全く無関心で(中略)人を無理に押しつけたものである。之(これ)が為(ため)どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し(中略)たことであらうか>

 しかし、この部分的抜粋では三笠宮も不本意であろう。「皇族の婚姻」と表題された節の全文を引用しておきたい。この口調の激しさには、驚かざるを得ない。

(4)皇族の婚姻
 「私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。抑、物事を会議にかけるといふことは常に可決を期待するのでなく否決あるを予期しての話である。愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい。従来の皇族に対する性教育はなつて居なかつた。さうしていざとなつてから宛も種馬か種牛を交配する様に本人同志の情愛には全く無関心で家柄とか成績とかが無難で関係者に批難の矢の向かない様な人を無理に押しつけたものである。之が為どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し果は生死の境をさ迷ふたことであらうか?私は言ふ。皇室典範で「皇族の婚姻に判定を必要とする」と書くのはまるで「皇族が物品を取得する時は正当に買つたのか、盗んだのか裁判する」と書くのと同じであると。しかも之からの皇族は小さい時から男女共学となり、指導に依つては立派に自分自身で皇族の配偶者としてふさはしい立派な人を選び得るのであるから何卒若い皇族の純情を最後の関門でふみにじらない様に心からお願ひする。若しどうしても皇族に信用がない場合でも親たる皇族の同意に止めたいものである。」

 これは、新憲法(24条)が「婚姻を両性の合意のみで成立する」とし、戦後の新民法が家制度を解体して新憲法に沿った婚姻制度を作ったことに鑑みて、皇族の婚姻を皇室会議の同意を条件とするのは差別ではないかという、皇族の側からの異議である。

 この差別を解消するには、差別を甘受しなければならない皇族をなくすに越したことはない。天皇制と家制度は、家父長制として密接につながっているのだから、天皇制を残したままの家制度の廃止は、中途半端で画竜点睛を欠くものだった。

 しかし、三笠宮も「天皇制を解体せよ」とまでは言わない。同じ「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」の冒頭、「はしがき」で、こんなことを述べている。

 「終戦以来今迄世間での皇室に関する議論を見聞するのに之を富士山の議論にたとへて言へば皆遠くから富士山を眺め時としては頭だけ見て或は雲のかゝつた所を見ての議論が多く、せいぜい近くても御殿場あたりから見た程度で中腹なり頂上から見た富士山論が殆んどない。唯私の記憶に残つてゐるものでは民衆新聞社長の小野氏の「天皇は籠の鳥で窮屈でお気の毒だから天皇制を止めた方がよい」といふ議論である。之は私には非常にピンと響いた。何故ならば私は約三十年間此の籠について考へ続けて居るのだから。と言つて私が此の議論に賛成といふのでは絶対にない。全国民の為否世界全人類の為にほんとうに役立つならどんな狭い籠の中でも我慢をせねばならぬのだ。」

 興味深いのは、三笠宮は「籠の鳥で窮屈」を否定していないことだ。むしろ、肯定して我慢を要求している。三笠宮は本心から「天皇制の存置が、全国民の為、世界全人類の為にほんとうに役立つことになる」と考えて、享年100までを「狭い籠の中で窮屈を我慢し」て皇族として生きたのだろうか。だとすれば、「お気の毒な」生涯であったというしかない。

本降りの雨のなか、本郷三丁目交差点「かねやす」前で

(2021年11月9日)
 (本郷湯島九条の会・石井 彰)
 本降りの雨のなか、本郷三丁目交差点「かねやす」前で、7人の会員がプラスターを掲げ、「9条改憲許さず」の声を上げました。

 衆議院総選挙の結果について3人の弁士はそれぞれ「9条改憲の危機」を訴えました。自公維新が改憲に必要な310議席を大幅に上回る334議席を獲得し、「野党共通政策」を掲げた立憲民主党・日本共産党・社会民主党・れいわ新撰組は110議席と改憲勢力の33%に終わったことに警鐘を鳴らしました。

 メディアは野党共闘の「失敗」を喧伝し、何とか野党共闘の分断を図っていることを訴えました。一方、野党統一候補は62議席を獲得し、惜敗率80%以上の選挙区は54選挙区に上り、合わせると116選挙区になり、289選挙区の40%で接戦、大接戦になっていたことを知らせました。この接戦区で競り勝つことでできていれば、自民党は確実に過半数を割っていたのです。

 岸田文雄首相は、11月1日、「党是である憲法改正を積極的に進めたい」と発言し、30議席増の維新の松井一郎代表は「来年の参議院選挙は改憲の国民投票」をおこないたいと力説しました。私たちは、衆参両院の憲法審査会をこれ以上動かしてはいけない、そう訴えました。

 さらに今こそ立憲主義、憲法に基づいた政治、民主主義を貫くことの重要性を訴えました。戦後一貫して憲法9条を守り、ふたたび戦争しないことを世界に宣言した日本の約束を果たさなければならない。それはまさに戦前のような「ものをいえない社会」に戻してはいけないことだ、そう訴えました。

 [プラスター] ★人類の理想戦争放棄の9条、★9条改憲、戦争できる国ストップ ★改憲論議は不要不急 ★戦争の泥沼を忘れたのか ★私たちは憲法9条を守ります。★格差・貧困をなくせ、税源は金持ちから 大企業から

○ みなさま本当にご苦労様でした。衆議院総選挙の結果、ますます日本の支配層は頭に乗って国民を蔑ろにする政治をおこなうことになるでしょう。負けてはいられません。多くの国民とともに9条を守り、温暖化をはじめとした地球的課題解決のためのたたかいを一層強めなければなりません。頑張りましょう。

 次回は12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日です。多くのかたがたのご参加をお待ちしております。


(以下、澤藤)

 マイク代わります。雨の中ですが、ほんの少しの時間、お耳貸してください。

 この度の総選挙は、8年9か月に及んだ安倍・菅政権の国政私物化に対する審判のはずでした。ところが、その対策として、自民党は直前に表紙になる顔を取り換え、看板を付け替えました。看板代えたところで自民党商店の売ってる商品は同じじゃないか、国民はそんな姑息な小手先に欺されるほど愚かではない、というのが私たちの思いでした。…が、結果を全体としてみれば、もののみごとに騙されてしまったようです。

 自民党が議席を減らしたにせよ過半数を確保し、そして改憲・反共「ゆ党」の維新にも勢いづかせてしまいました。この選挙結果は、無念で重いと言わねばなりません。
 
 岸田自民党は、安倍・菅政権とは別物なのでしょうか。岸田さんは、「新しい資本主義」を掲げ、「成長と分配の好循環」を謳っています。これ、なんだか、お分かりですか。イメージだけが目新しく、何かやってくれそうで、実は空っぽ。これ、悪徳商法の手口です。気をつけなくてはなりません。

 岸田さんの言うことは、「資本主義」とも「古い資本主義」でもない、「新しい資本主義」。「新自由主義」ではない「新しい資本主義」。そりゃいったい何じゃ?その言葉、とうてい自分でも分かって使っているとは思えません。

 無内容なことをもっともらしく語って聞かせることこそが、悪徳商法の手口の基本。皆さん、騙されちゃいけない。

 もう一つの岸田キャッチフレーズが、「成長と分配の好循環」。なんという無内容。これまで9年近くもどちらもできなかったから、看板を掛け替えざるを得なくなったのです。問題はどうしたら、成長や分配を実現できるかなのに、具体策ないままに両方やりますでは悪徳商法の、「実現性のない甘い投資勧誘」。こんな初歩的詐欺に引っかかってはいけません。

 古くも新しくも資本主義は資本主義。資本による利潤の追求を認め、必然的に富の偏在と貧富の格差を生み出し、むしろ貧富の格差を積極的に容認する社会。さまざまな矛盾が噴出するのは当然のことです。その矛盾は、この社会に生きている人間の尊厳を傷付けます。それをどう克服するのか。産業革命以後人類が直面している大きな課題です。

 資本主義の生み出す諸矛盾を平和的に解決する手段として議会制民主主義を意識し、これを活用しなければならないのではありませんか。選挙を通じて、格差や貧困にあえぐ人々の政府をつくることが目標です。

 その方向を指向して、少なくとも公助の手を広く差し伸べる政府でなくてはなりません。「成長」か「分配」かを問われれば、「成長」は資本の自己責任で結構、「分配」こそが公助を責務とする政府の取り組むべき課題です。

 資本主義が必然的に生み出した富の偏在を、議会制民主主義が可能とする作用で大胆に再配分して真の公正を実現すること。労働運動や多様な社会運動と連携しあるいは支えられつつ、議会内に、そのことをなし得る勢力を形作ること。それこそが、この社会に生を受けたすべての個人の尊厳を擁護するすべではありませんか。

 私は確信しています。人権や民主主義尊重の思想が社会的に力をえて、まっとうで公正な議会と行政府を構成することによって資本の横暴を克服することが可能であることを。

 今、その途上で逆流に遭遇していますが、決して本流を変えることはできません。  

「生徒への人権侵害に加担できない」「自由闊達な議論の場を取り戻したい」「アイヒマン的人間を作らないための教育を」 ー 私の不起立の理由

(2021年11月8日)
 通常の民事訴訟では、法廷での発言は訴訟代理人の弁護士が行う。訴訟手続を身につけた弁護士の発言が的確で当事者本人の利益に適うからだ。忙しい裁判所にしてみれば、要領を得ない当事者の発言に耳を傾ける余裕はなく、代理人弁護士の整理された発言だけを聞こうとする。

 しかし、「通常ならざる民事訴訟や行政訴訟」においては、当事者本人が直接裁判所(裁判官)に発言を希望し、裁判所にその発言を聞いてもらうべき場合が少なからずある。

 弁護士は当事者の求めに応じた法的論理を組み立て、その論理に沿った事実を、当事者に代わって論述することはできる。通常の法廷で求められているのはそこまでである。しかし、当事者のもつ怒りや悲しみ、悩みや苦しみ、理想や情熱、あるいは気迫を裁判所に伝えたいという当事者や事件も少なくない。そのことの代弁は弁護士にはできない。

 そういう事件の当事者の姿を、その振る舞いや物腰を裁判官には直接に見てもらいたい。その訴えの声に耳を傾けていただきたい。そのことを通じて、当事者本人の人格や真摯さに触れていただきたい。そして、その人の要求の切実さや要求を求める心情の真っ当さに共感していただきたい。

 「聞くまでのこともない、紙に書いた文字を読めば分かる」というものではない。法廷での発言する当事者本人の息遣いを感じて欲しい。発言する側も、裁判所の態度を見守っている。真摯に聞いていただけたら、裁判所に対する信頼が増す。相互の信頼関係を形成し継続する過程として訴訟は進行しなければならない。

 本日、東京「君が代」裁判・第五次訴訟の第2回口頭弁論期日であった。裁判所は、事前には原告本人の意見陳述には難色を示していた。しかし、口頭弁論直前の進行協議の場で当方の要望を容れて、原告本人2名、代理人弁護士1名の意見陳述を認めた。裁判所の柔軟な姿勢が好印象だった。

 この訴訟の原告となつている教員の皆さんは、それぞれに実に多様なのだ。どなたのお話を聞いても、個性に溢れている。本日の原告本人の陳述内容をご紹介したい。

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 意見陳述を認めていただきありがとうございます。Iと申します。36年間都立高校で英語の教員を務めて一昨年定年退職し、現在は非常勤教員として勤務しています。

 私は卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったために3回処分を受けました。そのうちの2回の減給処分は裁判により取り消していただきましたが、いずれも取消された直後に改めて戒告処分を受けました。都教委はこの2回に渡る再処分について「」判決に沿って処分の出し直しをした」と主張していますが、どの様な議論を経てどの様な根拠で前例のない再処分を出したかを全く明らかにしていません。また、懲戒処分に不可欠としてきた再発防止研修をこの再処分については実施しませんでした。つまりこの再処分は、私にボーナス減額などの経済的不利益を再度与えることが目的だったのです。このような執拗ないじめのような処分が一体合法なのか、裁判官の皆さまには私の身になってお考えいただきたいのです。

 私が君が代斉唱時に起立できない理由は二つあります。一つは、都立高校が生徒に国歌斉唱を強制し生徒の人権を侵害しているから、そして私が起立して歌えばその人権侵害に加担することになると思うからです。日本は少数派に対する想像力が低い国だと思います。

 2003年の10.23通達発出以前は、私たち教員は入学式・卒業式の前に「国旗国歌に対してはいろいろな考えかありますから、生徒のみなさんは自分の考えに従って行動して下さい」と説明することができました。生徒の中には外国にルーツを持つ生徒や様々な背景を持つ生徒がいて、君が代を歌うのが本当に辛い生徒や歌いたくないと考える生徒がいることを私たちは知っています。そういう生徒の心を守りたい、多様な意見が尊重されることを生徒に伝えたいと心から願っていました。

 しかし、10.23通達後この説明は禁止されました。現在都教委の指示で作成される式の進行表には「起立しない生徒がいる場合は起立を促す」と書かれています。生徒に起立しない自由はありません。立ちたくない、歌いたくない生徒たちはどんな思いで立っているのでしょう。どうして彼らの人権を踏みにじって許されるのでしょう。生徒に国歌斉唱を強制する目的は一体何でしょう。

 反対意見はロにするな、権威や常識は疑うなと教えるためでしょうか。もし私が処分を恐れて起立斉唱したら、権威には逆らえないと生徒に教えることになります。圧倒的な同調圧力に屈して立って歌えと強制する側に回ってしまいます。それだけはできないとの必死の思いで、私は強制に反対してきました。

 起立斉唱できないもう一つの理由は、都立高校に自由闊達な議論の場を取り戻したいからです。10.23通達後の都立高校では、教員が徹底的に議論して合意形成するという文化がなくなってしまいました。学校運営については管理職と主幹や主任などが企画会議で決め、一般教員はそれに従うというシステムです。そして職員会議でも教員は意見を言わなくなりました。もはや上層部の決定に疑問すら持たなくなっていると感じます。

 私の勤務校でこの春、卒業式に関する包括的職務命令を校長が出した際、「職務命令」という耳慣れない言葉の意味を知らない教員は多いはずなのに誰一人質問すらしませんでした。私は慌てて挙手し「なぜ職務命令を出すのか、若い教員にも分かるように説明してください」とお願いしました。

 「言われた通りに仕事をするだけ」「どうせ校長が決めるのだから」。職員室ではこういう声が聞かれます。校長に反論すると自分に不利になることを、教員は私たちの処分を見て感じ取っています。教員が疑問を持たない、議論もしない学校で、生徒に自由闊達な議論の場を作ってやれるでしょうか。疑問を持ち自分で考えることの重要性を教えられるでしょうか。自分たちが世の中を変えていくのだと思う生徒を育てられるでしょうか。

 裁判所におかれては、今度こそ生徒を人権侵害から守るために、都立高校に自由闊達な教育を取り戻すために、10.23通達は違法であると判断を下してくださるようお願いいたします。

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 原告のNと申します。私は、これまで不起立は3回ですが、2度の再処分があるため5回の処分を受けています。2回目、3回目で減給処分をされ、この処分を最高裁は2013年9月に取り消しました。ところが、東京都は、取り消しの連絡をしないまま、最高裁が減給処分を取り消した現職の教員全員に再度の処分を出しました。また、以降の不起立者にも減給処分を出し続けています。

 日の丸・君が代の強制は、その価値への賛否以前に、それについて考察すること自体を封じるもので、反対や賛成の意志を持たず、与えられた形式の通りに機械的に行動することを求めています。しかしながら、我々人類はかつてのナチスの興隆や日本の軍部の暴走を教訓として共有しています。

 その反省の結果として、個々が深く考えることを重視し平和を志向する教育が世界各地で広まってきています。それに逆行する東京都教育委員会の形式的愛国強制は、戦前の亡国教育の再現に他ならず、加担できないと考えて、不起立を選択しました。 東京都教育委員会の姿勢には、役所がやることは自動的に「公共の正義」であるかのような錯覚・誤認があります。しかし、歴史上、官公庁の命令に従わなかったことが正義であった例は枚挙にいとまがありません。ナチス支配下でアンネ・フランクの一家を支えていたミープさんたちは、ュダヤ人迫害の命令に従いませんでした。杉原千畝も本国政府の意向に反してビザを出し続けました。逆に、命令に唯々諾々と従ったアイヒマンは、ュダヤ人大量虐殺の一翼を担いました。強制収容所への移送の中心的役割を果たしていながら、己の罪を理解せず、命令を無謬の存在と位置づけ、自らの思考は停止することで、公共の正義とは正反対の不道徳行為を行いました。

 戦後の世界は、全体主義の下でアイヒマン的人物が多数存在したことを反省し、また倫理的に誤った指示に強制力を持たせうることの非を理解して、以下のような人が育つ教育はやめようと考えました。
  ・トップダウンの命令に、善悪を考えず従う人
  ・少数者の排除に加わる人
  ・自分の行為に責任感を抱かない人
  ・式典等の形式が人の内面と不可分なことを無視する人
 以上のような全体主義下で望まれる人物像を平和に反するものと考え、そうならないための教育を目指すのが世界の教育の大きな流れです。

 そのような世界の動向に逆行し、形式の強制と処分による統制を行う10・23通達は、再びアイヒマン的公務員・教員を作ろうとする企てであり、我々教員は倫理上の危機にさらされています。その先にあるのは、子どもたちの思考停止、そして論理・倫理的価値判断力を行政府に奪われた国民の増加です。しかし、私たちは公共の善という視点から行政の過ちを正すべきであり、アイヒマン的人間を作らないための教育こそ目指すべきものです。

 日の丸・君が代の強制は、戦中の「国民儀礼」の強制にならっています。明治憲法第28条の拡大解釈で、安寧秩序の意味する範囲が広げられ、1939年3月に成立した「宗教団体法」で、法制上、神社神道は宗教ではなく、宗教に優越する存在であり、それゆえに、どのような宗教を信じる人にも、法的には「国民儀礼」として神社参拝と天皇崇拝を強制しうるという詭弁を弄しました。それは従えない人の存在を最初から想定した上で、その人々を明らかにし、処罰して見せしめとする予定で作られた法でもありました。

 私は、戦前の全体主義や、その表れである「国民儀礼」の復活や「宗教団体法」の再生に反対します。この点では、最高裁判断とも国民の一般常識とも一致していると信じています。それゆえに、国旗国歌に対する正しい認識とは、本来はそれらが全体主義の為に悪用されることを許さないことだと考え、都教委の起立命令に従いませんでした。

 今回の裁判でお願いしたいのは、東京都は全体主義を肯定している、という認識の下に判決文を書いていただきたいということです。世間一般とは善悪の価値観が逆転している東京都に逃げ道の余地を残さず、全体主義を不正義と考えて起立しなかった者への処分は一切認めない、と明確にしてくださることを願っています。

夫婦別姓訴訟での判決姿勢が分けた最高裁裁判官国民審査の結果

(2021年11月7日)
 思えば、先週の日曜日が総選挙の投開票日。あれから1週間だが、遠い日の出来事のようでもあり、昨日のことのようでもある。期待と現実の落差が大きく、まだしばらくは元の気分になれない。

 同じ日に、最高裁裁判官の国民審査。こちらは、それなりの手応え。中央選管の広報も、各紙の報道も、それなりのものではあったが、さて誰に「×」を付けるべきか、実は参考にならない。

 日民協プロジェクトチームの国民審査リーフレットが、「この裁判官に、こういう理由で「×」を」と明示しての訴えたことが好評だった。

 一応の総括案が提示されたのでご紹介したい。

2021 国民審査の結果について

第1 不信任の数が多い順 (左の数字は、記入用紙を右から見た並び順です)
1)深山卓也(67)=裁判官出身 4490554 票(7.85%)
5)林道晴(64)=裁判官出身 4415123 票(7.72%)
6)岡村和美(63)=行政官出身 4169205 票(7.29%)
11)長嶺安政(67)=行政官出身 4157731 票(7.27%)
3)宇賀克也(66)=学者出身 3936444 票(6.88%)
8)草野耕一(66)=弁護士出身 3846600 票(6.73%)
7)三浦守(65)=検察官出身 3838385 票(6.71%)
2)岡正晶(65)=弁護士出身 3570697 票(6.24%)
4)堺徹(63)=検察官出身 3565907 票(6.24%)
9)渡辺恵理子(62)=弁護士出身 3495810 票(6.11%)
10)安浪亮介(64)=裁判官出身 3411965 票(5.97%)

第2 「夫婦別姓」が争点化された
上記の審査対象の裁判官は、いずれも不信任とはなっていませんが、下記の新聞報道のとおり、また西川伸一先生のご指摘のとおり、夫婦別姓訴訟で何の悩みもなく「合憲」とした 4 人の判事のみが7%を超えています。

 また、具体的な裁判への関与がない岡、堺、渡辺、安浪の各氏は下位4人に入っています。
 「夫婦別姓訴訟」について大きな争点を作り上げたという意味では、私たちの活動も大きな役割を果たしたと言ってよいと思います。

第3 各社報道(抜粋)
朝日  7%を超えたのは、6 月の最高裁決定で夫婦別姓を認めない民法規定を合憲とする多数意見に加わった深山氏、林道晴氏、岡村和美氏、長嶺安政氏の 4 人(以下、敬称略)だった。

毎日 夫婦別姓を認めない民法の規定を「合憲」と判断した 4 人の裁判官の罷免を求める率が、他の7 人の裁判官と比べて 2 ポイント前後高かった。特定のテーマで罷免を求める率に突出した差が出るのは異例。

東京 不信任率が最も高かったのは、深山卓也氏の7.9%。「夫婦別姓」を認めない現行の民法と戸籍法の規定について「合憲」と判断した4人の罷免を求める率が、他の7 人と比べて高い傾向となった。

NHK 西川教授は「対象となった11人のうち、罷免を求める割合が7%を超えた 4人はいずれも夫婦別姓をめぐる判断で『民法の規定は憲法に違反しない』という結論に賛同していた。一方、6%台やそれ未満の7人は『憲法違反』と判断、または当時、就任していなかった。夫婦の名字をめぐる議論は身近なテーマで、選挙の争点の1つにもなっていて、1%の差が生じたのは決して偶然ではなく、それぞれの裁判官の判断が投票行動に影響した可能性が高いと考えられる」としています。

そのうえで「裁判官の判断に対して、国民が意思を示したのだとすれば、国民審査の意義に沿うもので歓迎すべきことだ。一方、今回は、就任したばかりで最高裁での仕事ぶりが十分に分からない裁判官が4 人も審査の対象となるなど、制度の課題は多い。国民審査を、より質の高い制度にするための議論が必要だ」と指摘しています(NHK)。

第4 若干の分析
1 夫婦別姓「明確合憲4人組」とその他の比較
 夫婦別姓「明確合憲4人組」(深山、林、岡村、長嶺)の罷免可の平均は、7.53%。一方で、その余の判事7名の罷免可の平均は、6.41%。両者は、1.17 倍の差があります。かなり有意な数字だと思います。
 特に、他でも悪い判決を出している深山・林は、岡村・長嶺に比べても、罷免可の率は、高いといえます。

2 最上位と最下位の比較など
 また、最上位の深山と最下位の安浪の差は、1.31 倍にも達します。

3 2017 年は、夫婦別姓が争点化しにくかった
2017 年国民投票(審査は 7 名)では、夫婦別姓については、判断材料にはならなかったようです。というのも、合憲判断(2015 年)に加わった小池、大谷(その他の 5 人は関与なし)については、小池は確かに最上位ですが、大谷は 7 人中 4 位です。
このときは、違憲判断を下した 5 名の判事が既に退官していたことから、「対比」の打ち出しができませんでした。

4 過去 5 回分の最上位と最下位の比較
2017年国民投票(審査は7名)では、最上位と最下位の差は、1.15倍です(8.56%と7.47%)。
2014 年国民投票(審査は 5 名)では、1.14 倍(9.57%と 8.42%)。
2012 年国民投票(審査は 10 名)では、1.10 倍(8.56%と 7.79%)。
2009 年国民審査(審査は 9 名)では、1.29 倍(7.73%と 6.00%)。
2005 年国民審査(審査は 6 名)では、1.05 倍(8.02%と 7.63%)。
今回は、近時の中では、最上位と最下位の差が一番大きく表れたと言えます。

維新「八策」は、自民右派のパクリではないか。

(2021年11月6日)
 この度の総選挙では維新が、大阪を中心に大幅に議席を増やした。維新は、自民党の補完勢力である以上に積極改憲派である。私には不愉快で嘆かわしいことだが、これが悪夢ではなく痛い現実なのだ。

 私は、政策以前にこの政党がかもし出す空気に嫌悪感を募らせてきた。公立学校での「日の丸・君が代」強制の徹底ぶりや、自治体労働者の団結権の侵害など、なんという人権や民主主義への配慮を欠いた傲慢で高圧的な強権体質。

 しかし、吉村知事のイソジン推奨会見や、コロナ対策の致命的失敗で、府民からの目は厳しいものと思い込んでいた。それが、総選挙の日程が近づくにつれて、票を取りそうだ、議席を増やしそうだという報道である。そして蓋を開けて驚愕ということになった。

 私の周りに維新の風は吹いていない。「イソジン吉村が、なぜ選挙の顔に」という疑問ばかり。いったい大阪はどうなつているのか実態がつかみがたい。選挙後に冷静な維新票の分析がなされ始めており、いくつかに目を通したが、よく分からない。「維新支持者の中核は保守派の安倍菅路線批判層」「維新支持の有権者は決して熱狂的な支持者ではなく支持の熱は低い」「恒久的な支持者ではなく選挙の度ごとにブレは大きい」「ポピュリズム政党と一刀両断するのは不正確」「全国政党にはならないだろう」などと言われているが、簡単に納得はしがたい。

 そこで、維新の政策を初めて読んでみた。「政策提言 維新八策2021」としてまとめられているもの。無理に「八策」にまとめられた政策の柱は、以下のとおりである。

  1. 「身を切る改革」と徹底した透明化・国会改革で、政治に信頼を取り戻す
  2. 減税と規制改革、日本をダイナミックに飛躍させる成長戦略
  3. 「チャレンジのためのセーフティネット」大胆な労働市場・社会保障制度改革
  4. 多様性を支える教育・社会政策、将来世代への徹底投資
  5. 強く靭やかに国土と国民を守る危機管理改革
  6. 中央集権の限界を突破する、地方分権と地方の自立
  7. 現実に立脚し、世界に貢献する外交・安全保障
  8. 憲法改正に正面から挑み、時代に適した「今の憲法」へ

 この政党には核になる思想がない。原理原則となる政治理念もなければ、独自の国家観も社会観も歴史観も示すことができない。だから、八策が体系になっていない。どこかの政策のつまみ食いを寄せ集めたという印象でしかない。なぜ、これで選挙に勝てるのだろうか。

 ホームページには、「八策」に関連付けた、「日本維新の会の目指すところ」という文章が掲載されている。その全文が以下のとおりである。

旧態依然とした政治。増え続ける国民の税負担。
この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。
真の改革を進めなければ、この国に未来はありません。
政治家のための政治をなくす。
本当に支援を必要としている人のための、
国民の皆さまのための政治に変えなければなりません。
私たちには、大阪で改革してきた実績があります

 ここに掲げられているキーワードは「真の(政治)改革」だが、その中身はよく分からない。「政治家のための政治」を否定した「国民の皆さまのための政治」だけでは、当たり前に過ぎてキャッチフレーズにはならない。

むしろ気になるのは、「この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。」というフレーズ。明らかに、中曽根康弘の「戦後政治の総決算」、あるいは安倍晋三の「戦後レジームからの脱却」からのパクリである。言葉だけではなく、政策の中身もパクリと解せざるを得ない。保守に親和性強く、戦後民主主義には相性が悪いのだ。

 この政党の立ち位置をよく表しているのが、下記の「選択的夫婦別姓」に関しての政策である。これも、自民右派のパクリ。

選択的夫婦別姓
226.戸籍制度を維持しながら実現可能な夫婦別姓制度の導入を目指します。具体的には、同一戸籍・同一氏の原則を維持しながら、旧姓使用にも一般的な法的効力を与える選択的夫婦別姓制度を創設し、結婚後も旧姓を用いて社会経済活動が行える仕組みを整備します。

 少し言葉をいじってはいるが、「同一戸籍・同一氏の原則を維持」である。「旧姓を(通称として)使用することを容認でよい派」。「維新」(これ新たなり)とは看板倒れ、守旧の「維持」派に過ぎないのだ。

8本の柱の最後だけを見てみよう。(⇒は、私のコメントである)

8 憲法改正に正面から挑み、時代に適した「今の憲法」へ
★教育無償化
(1)総論
337.すべての国民は経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを憲法に明文化します。
338.機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育から高等教育(高校、大学、大学院、専門学校等)についても、法律の定めるところにより無償とします。
⇒憲法26条1項を変える必要はまったくない。多様性尊重社会実現のためには教育の自由こそが死活的に重要なのだが、そこに触れるところはない。

★道州制(略)

★憲法裁判所
(1)総論(法の支配の徹底)
342.政治、行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、法令又は処分その他の行為が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する第一審にして終審の裁判所である憲法裁判所を設置します。
343.憲法裁判所の判決で違憲とされた法令、処分などは、その効力を失うこととし、判決は全ての公権力を拘束する効力を持たせます。
⇒憲法裁判所は、簡便な法令・処分の合憲お墨付き付与機関になりかねない。こんなもののために改憲をしてはならない。

★その他
(1)憲法審査会・9 条
344.国民に選択肢を示すため、各党に具体的改正項目を速やかに提案することを促し、衆参両院の憲法審査会をリードします。憲法9条についても、平和主義・戦争放棄は堅持した上で、正面から改正議論を行います。
⇒憲法改正こそ、究極の不要不急課題。憲法審査会の議論リードなど余計なこと。

(2)国民投票
345.憲法改正国民投票を行うことにより、現行憲法が未だに国民投票を経ていない等の問題点を解消します。
⇒どうして「問題点」なのか、理解不能。

(3)緊急事態条項
346.新型コロナウイルス感染症対策を受けて必要性が議論されている「緊急事態条項」について、憲法に緊急事態条項のある国や法律で対応している国など、さまざまな国の状況を参考に積極的な議論と検討を行います。
⇒コロナ対策の名を借りた改憲策動には要注意。断固反対。

(4)皇室
347.皇室制度については、古来例外なく男系継承が維持されてきたことの重みを踏まえた上で、安定的な皇位継承に向け旧宮家の皇籍復帰等を選択肢に含めて、国民的理解を広く醸成しつつ丁寧な議論を率先します。
⇒典型的な極右の路線に国民を誘導しようというパクリ「政策」。なるほど、維新とは「明治維新」時代の感覚なのだ。

「反共」という共闘阻害の劇薬

(2021年11月5日)
 政党間の共闘が成立するのは、それぞれが共闘によるメリットを確信するからだ。小選挙区制を前提とする限り、4野党がバラバラでは議席を獲得することができないのは理の当然。共闘によって候補者を調整し、一本化された共闘候補者への投票の集中が議席の獲得を可能とする。だから共闘は必然である、とも言える。

 しかし、各政党はそれぞれに理念も信条も異なり、活動の歴史も人脈も別である。本来はむしろ激しく競い合うべき間柄で、信頼関係の形成は難しく、その共闘は至難の技。政策協定も、候補者調整も、共闘候補者の議会活動も、実はとてつもない難事というほかはない。

 だから、安易な共闘に走ることなく、それぞれが自党の党勢の拡大をはかることに専念すべきだという意見も、当然に根強くある。永年のうちには、政党の消長が進行して、自党こそが単独で政権を担うことになり得るという期待を込めてのもの。

 とは言え、百年河清を待つ余裕はない。格差貧困問題解決も、労働条件の改善も、社会保障の充実も、税負担不公平の是正も、改憲阻止も、ジェンダー不平等の解消も喫緊の課題ではないか。野党の共闘を求める声の高まりが、時の氏神の采配宜しきを得て、野党の共通政策となった。そして、実務的な候補者調整の作業が進行して今回の総選挙を迎えた。

 野党共闘の成果はどうであったか。議席獲得に成功した例あり、善戦したが議席獲得に至らなかった例あり、また明らかに失敗した例もある。そして、全体としては、共闘参加の野党の議席を減らした。元気の出ない野党共闘の結果である。

 現実には期待された結果を出せなかった野党共闘だが、野党共闘あったがゆえのこの結果であったのだろうか。むしろ、野党共闘あったにもかかわらずの結果と言うべきではないだろうか。もっと早い段階で、もっと深い信頼関係を築き、もっと共通政策を選挙民に訴え切ることができていたら、事態は変わっていたかも知れない。

 企業社会では、「シナジー効果」が語られる。企業の提携や合併による収益の向上の相乗効果を語る言葉。1+1が2で終わらず、3にも4にもなることをいう。政党間の共闘でも、シナジー効果(相乗効果)が大いに期待されるのだが、今回、それは部分的な効果に留まった。

 野党間の共闘は総論的には不可避だが、共闘による相乗効果の発揮は容易なものではない。その難しさは内部的な問題にあるだけでなく、外部からの悪意のトゲにも留意が必要である。

 野党共闘成立以来、「反共」という悪罵の嵐が吹き荒れ、いまだに終熄しない。国民意識の中に潜在する反共意識を煽り、これに付け込んで悪用しようという言動が一定の効果を発揮しているのだ。

 反共意識は、支配の側が作り出して民衆に刷り込んだもの。古くは、「天子に弓引く不忠不義の共産党」であり、「私有財産を否定して社会を紊乱する共産党」であった。また、天皇が唱道する戦争に反対して平和を唱えるという、「とんでもない非国民・共産党」でもあった。

治安維持法は何よりも共産党弾圧を主たる目的として立法された。天皇制政府の弾圧の対象となった共産党は支配者からみて「恐るべき政党」であるだけでなく、民衆の側にも「共産党との関わりを疑われると恐ろしい」存在になったのだ。この残滓が今も残っている。企業社会でも政治社会でも有用なものとして使われる。

こうしてつくられ今なお残っている社会の反共意識を、ライバル政党は徹底して煽り利用した。中国共産党のイメージの悪さも、大いに悪宣伝に使われた。4野党の共闘が期待したほどの進展を見せなかった大きな原因が、いまだにこの世にはびこっている反共意識の所為のように見える。

「反共意識」の蔓延は、民主主義の未成熟度を表すもので、「共産党を支持しない」見解とは大きく異なる。議会制民主主義と政党政治の健全な発展のために、「反共意識」の克服は重大な課題だと思う。

「日本の有権者の選択はかなり愚か」ではあったろう。さはさりながら…。

(2021年11月4日)
 前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)の、今回総選挙結果の評価に関する2本のツィートが話題を呼んでいる。とは言え、予想される人々からの予想される反応以上のものではない。もう少し、賛否両論がヒートアップしても良さそうなもの。

 前川ツィートのその一本は、「人権感覚が欠如し、排外主義に染まった集団が維新。この政党に投票した有権者は猛反省するべきだ」という、維新とその支持者に対する批判。理由や根拠についての言及はないが、極めて常識的な意見の表明と言ってよい。

 前川は、今回の選挙結果が出た直後には「日本が辻元清美代議士を失った損失は計り知れない。大阪10区の有権者にはよくよく考えてもらいたい」と投稿している。「大阪10区の有権者」批判では足りず、「維新に投票した有権者全員」に猛省を迫ったのだ。

 当然のことだが、政党の支持も批判も、支持者に対する批判も、タブーにしてはならない。堂々と発言してしかるべきである。私も、前川意見にまったく同感だ。維新に投票した有権者諸君に、その軽率さ、思慮の足りなさを猛省していただきたい。

 維新当選者の酷さについては、リテラの記事が詳細である。下記をお読みいただきたい。
 https://lite-ra.com/2021/11/post-6065.html

 もう一本の前川ツィートは、「政治家には言えないから僕が言うが、日本の有権者はかなり愚かだ。」というもの。こちらは、維新支持者に留まらない有権者一般に対して、今回総選挙の結果をもたらしたことに対する批判。このツィッターに対しては、リベラル陣営からも批判が寄せられているようだ。「民主主義を否定する謬論」「愚民観と選良意識の表れ」…。果たしてそうだろうか。

 橋下徹は、相変わらずのものの言い方で、こう毒づいている。
 「元官僚にはこの手の勘違い野郎が多い。自分の考えこそが絶対に正しいと信じて疑わない。古賀茂明も。だから選挙が必要で、政治家が官僚を統制しなければならない。選挙の結果を否定したら民主主義など成り立たない。」
 悪意と悪罵は伝わるが、論理の切れ味は鈍く、説得力はない。

 果たして前川は、「選挙の結果を《否定》している」のか。選挙の結果を批判してはならないのか。この選挙結果をもって「日本の有権者はかなり愚か」と言ってはならないのか。そもそも有権者に対する批判はタブーなのか。

 橋下の「選挙の結果を否定したら民主主義など成り立たない」は大いなる勘違い。有権者の選択が常に正しいとは限らない。選挙の結果を大いに批判してよいのだ。選挙の結果は暫定的な民意の確認であって神判ではない。今回の選挙結果には次の選挙まで誰もが従わざるを得ないが、次回選挙ではどうにでも変わり得る。次回選挙のための言論戦は、既に始まっている。選挙結果への批判は大いにあってしかるべきなのだ。

 普通、選挙に関わろうとする者が有権者を愚かと言うことはない。有権者を味方に付けなくては選挙に勝てないからだ。それでも、維新の議席を伸ばし、自公与党に過半数を与えた今回総選挙の有権者の投票行動を「愚か」と言わざるを得なかったのが前川の心情。その気持ちはよく分かる。私も同じだ。

 しかし、橋下と同レベルでの悪罵の交換と思われるのは不本意極まる。今回、維新に投票した有権者の耳に届く言葉で、語りかけなければならない。面倒なことだし容易なことではないが、それが民主主義の政治過程というものなのだろう。

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