(2021年3月6日)
本日(3月6日)の毎日新聞夕刊の第5面(放送欄)に、「問われる公的機関の自覚」の大きな横見出し。「公的機関」とはNHKのこと。「NHKよ。汝に公的機関としての自覚はあるのか」と、問うているのだ。
https://mainichi.jp/articles/20210306/dde/018/040/006000c
もっとも、自覚を問われているのは、けっしてNHK全体ではない。その最高意思決定機関である経営委員会であり、なかんずく経営委員長の森下俊三である。もっとも、この人に公的機関幹部たるの自覚を求めることは無意味といわざるを得ない。既に経営委員としての資質を欠落していることが明らかなのだから、速やかに辞職してもらわねばならない。
毎日記事の見出しは、「NHKかんぽ報道問題 審議委が議事録全面開示再び答申 元委員・宍戸常寿教授に聞く」と続いている。新事実の報道はないが、問題点を上手にまとめている。読者は、「元委員・宍戸常寿教授」と一緒に、怒らざるを得ない。NHKとは、経営委員会とは、そして森下俊三とは、なんて酷いんだ、と。その酷さは、政権の酷さに直結している。
私なりに、経過と問題点を噛み砕いて説明してみよう。まず、何があったか。
◇ NHKは2018年4月の「クローズアップ現代+」で、かんぽ生命保険の不正販売を報道した。これは、スクープであっただけでなく大規模な消費者被害摘発報道としてNHKの制作現場の能力と意気込みを示した優れた番組であった。NHKの健在を示す表彰ものと言ってよい。
◇ ところが、これに加害者側の日本郵政グループが噛みついた。7月に、「クローズアップ現代+」が続編の放送を予告し、情報を募るネット動画を投稿したところ、「悪役その1」が登場した。元総務次官で日本郵政筆頭副社長の鈴木康雄。NHK経営委員会に、番組続編報道予告の削除を要求した。
◇ このような外部からの理不尽な攻撃から、番組制作現場を守るのが、NHK本部や経営委員会の役割である。とりわけ、放送法上NHKは、「予算、事業計画を総務大臣に提出しなければならず、総務大臣はこれに意見を付し、内閣を経て国会に提出し、その承認を受けなければならない」。NHKは総務省には弱い立場にある。だからこそ、元総務次官や郵政グループの圧力に屈してはならない。
◇ しかし、「悪役その1」に同調したNHK経営委員会は10月の会合で、当時の上田良一会長を厳重注意とした。この議事をリードしたのが、森下俊三経営委員長代行(当時)、「悪役その2」の登場である。上田会長は事実上の謝罪文を郵政側へ届けさせた。厳重注意を行った経営委会合で委員複数が番組を批判したことも明らかになり、放送法が禁じる委員の番組介入が疑われている。
◇ こうして、番組続編の放送は無期延期となり、情報を募るネット動画は削除された。立派な番組を作った現場は、悪役の2人とその取り巻きによって、一時的にせよ、押し潰された。いったい、どんな議論によって「石流れ、木の葉沈む」理不尽な結論に至ったのか。誰がどんな発言をしたのか。議事録を見たい。議事録を見せろ。
◇ 放送法41条は、経営委員会の会義議事録の作成と公開を義務付けている。ところが、経営委員会は議事の要約は出しても議事録は出さない。そこで、毎日新聞社が、NHK自身の定めによる情報公開制度に基づいてこの議事録を請求した。NHK本部や経営委員会が公開を拒否した場合、NHKが設置する第三者機関「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」(以下、「審議委」という)がその当否を判断する。審議委は2020年5月、経営委議事録を全面開示すべきだとする答申を出した。
◇ それでも、経営委員会はこれに従わない。そこで審議委の元委員でもある宍戸常寿・東京大大学院教授(憲法・情報法)らが2回目の情報公開請求をした。これに対して、この2月改めて再度の全面開示答申が出た。これが、経営委員会が挙げてきた公開できない理由を全て否定した立派な内容。これについて、毎日新聞が宍戸教授から、要点を聞いているのが、以下の本日夕刊の記事。
◆ 宍戸教授の今回の答申についての総括的な感想は、「前回の答申の後、経営委が挙げた『開示できない理由』を全て否定し、かなり踏み込んだ内容だ。審議委の強い思いを感じる」。
◆ 答申が特に問題視したのは、前回の全面公開答申に対し経営委が要約した文書しか開示しなかったこと。今回の答申では「要約された文書は開示の求めの対象文書との同一性を失ったもの」として、「制度の対象となる機関自らが手を加えることは制度上予定されておらず、対象文書の改ざんというそしりを受けかねない」と経営委を厳しく批判した。宍戸教授は「そもそも情報公開制度は、対象文書をありのままに見せることが大前提。答申では、不開示の理由があったとしても、対象文書の全部または一部を黒塗りにし、不開示部分が分かるように回答するものだとも述べている。情報公開について一から教えてくれている、教科書のような答申だ」と話す。
◆ 放送法41条の存在にもかかわらず、経営委は内規を根拠に議事録全体の公開を拒んできた。しかし、今回の答申では「当該組織体が非公表としたことだけで(議事録が)当然不開示になるということではない」と指摘。「視聴者から開示請求があった場合は、その都度、情報公開の可否について当審議委員会の審議に付される必要がある」と強調した。宍戸教授は、この記述に注目。「経営委が『非公開にしたい』と思うものを、いくらでも非公開にできるわけではないと言っている。審議委の存在も含め、NHK全体の情報公開制度やガバナンスが成り立つことを強調した」と指摘する。
◆ また答申では、当時委員長代行だった森下氏ら複数の経営委員が放送法違反の番組介入が疑われる発言をし、会長を厳重注意していたことなどが国会やメディアで取り上げられ、「NHKの公共性、透明性、経営委の議事の経過などに疑念が呈されている」ことにも言及。受信料で運営される公共放送として「視聴者に対する十分な説明責任が求められている」とも述べた。宍戸教授は「これでも審議委の答申を無視するならば、開示しない理由を国民に説明する責任がある。経営委の公的機関としての自覚が問われている」と話す。
市民運動としての第3次の情報公開請求の取り組みが準備中である。仮に、それでも情報公開に応じないようなら、提訴の工夫があってしかるべきである。経営委員会・森下俊三、なにゆえにかくも頑なであるのか、NHKと総務省の闇は果てしなく深い。
(2021年3月5日)
昨日(3月4日)の当ブログを読み返してみた。最終行が「声を上げよう。『東京オリパラは、早急に中止せよ』『政府も自治体もコロナ対策に専念せよ』」と結論を述べている。これが、なんとなく物足りない。
読みようによっては、「東京オリパラ自体は本来素晴らしい意義をもったイベントなのだが、今コロナ禍という特別の事態では、国民の健康保持や公衆衛生を優先せざるを得ない。残念だが、オリパラは開催中止として、コロナ禍対応に注力しなければならない」と意味をとられかねない。もちろん、これは誤読・誤解である。
オリパラ中止へ多くの人の賛同を得るには、以上の文脈でもよいのだろうが、そのように受け取られるのは、私の本意ではない。私は、コロナ禍なくとも、東京オリパラの開催自体に積極的に反対である。「アスリートにはリスペクトを惜しまないし、その無念さには同情するが、今の事態でのオリンピックはコロナ蔓延に拍車をかけることになる」「世論調査で、多くの人がコロナ禍を理由に東京オリパラ開催は無理だと言っている」、だから開催反対という及び腰の消極的反対論では不十分だと思う。国家・国民を総動員しようというこのイベントの本質に切り込んで、積極的反対論を展開しなければならないと思う。
以下は、最近の当ブログの記事。「五輪ファシズム」をキーワードに、積極的オリンピック反対論を展開し、「東京五輪を中止せよ」「北京冬季五輪も中止を」と声をあげている。こちらが私の本意。
鵜飼哲「五輪ファシズム」論に賛同の拍手を送る(2021年2月14日)
article9.jp/wordpress/?p=16323
聖火リレーは「五輪ファシズム」の象徴(2021年2月17日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16341
政治的な国民精神総動員システムとしてのオリパラを「五輪ファシズム」と呼ぶとすれば、経済面で大資本の収奪を可能とするオリパラの機能を「祝賀資本主義」と呼ぶ。「惨事便乗型資本主義」からの着想で生まれたという「祝賀資本主義」。『週刊金曜日』2月26日号の特集「五輪はオワコン」の中の一編。鈴木直文「オリンピックに経済効果なし」が、この点を、短く、読み易く、手際よくまとめている。
鈴木直文論稿は、積極・消極の東京五輪中止論の区別を意識してこう言っている。「今回の東京大会は、あまりにもお粗末で醜悪な舞台裏の状況がかなり溢れ出てきていますが、それでもまだオリンピックそのものの構造的問題への批判というよりは、新型コロナウイルス感染拡大への懸念から中止、または最延期するべきであるという意見が多いようです。」
「オリンピックそのものの構造的問題への批判」として、鈴木が論じるのが、「祝賀資本主義」である。下記が核心部分である。
「際限なく膨張した開催費用の用のほとんどは税金です。納税者は長年にわたり多大な負担を強いられるが、大企業とIOCはその利益を独占するのです。
米国の政治社会学者ジュールズ・ボイコフはこの原理を「祝賀資本主義」と呼び、これが、20世紀後半以降のオリンピックの歴史を通じて肥大してきたと言っています。招致をめぐる政治的意思決定の舞台裏が大衆の目にふれることはなく、表では官民が一体となったプロモーションでお祭り気分を盛り上げる。そして、大衆が世界的なスポーツの祭典に酔っているうちに、実はさまざまな形で公共の資産が民間の大企業へと移転される構造がっくられます。」
政治的には「五輪ファシズム」、経済的には「祝賀資本主義」。これこそが、五輪に対する構造的批判と言えよう。
なお、週刊金曜日2月26日号特集「五輪はオワコン」に掲載された下記4本の論稿は、いずれも積極的反対論を展開しており、教わることが多い。
本間龍(インタビュー) 「五輪は『負けてやめられなくなったパチンコ』」「莫大な税金の無駄遣い」「沈黙するメディア」「投資ビジネスの五輪」
鈴木直文 「オリンピックに経済効果なし」「都市経済は成長せず、貧富の差が拡大する」
來田享子 「差別を克服し未来を開くという五輪の意義を知って招致したか」「ジェンダー平等目指す五輪の方針と逆行」「五輪の歴史に汚点残したバッハ会長」
武田砂鉄 「五輪は中止すべき。以上」
武田砂鉄執筆記事の中に、「2013年9月、2020五輪の開催都市が東京に決まった瞬間の安倍晋三氏、森喜朗氏ほか」という、今となっては恥ずかしい限りの例のバンザイの写真が掲載され、みごとなキャプションが添えられている。
体を痛めている人が
路肩に倒れている。
その人に向けて
「俺たち、これからカラオケに
行くんで、歌声を聞いて
元気になってくださいよ」と
告げる人たち
(2021年3月4日)
私もその一員である自由法曹団は、弁護士だけの任意団体で、広辞苑では「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護伸張を旗じるしとする。」と解説されている。その東京支部が、2月末に第49回となる総会を開き、下記6本の特別決議を採択した。
?「コロナ禍の下で命とくらしを最優先する政策への抜本的転換を求める決議」
?「敵基地攻撃能力の保有を許さず、明文改憲阻止のだたかいに全力をあげる決議」
?「新型コロナウイルスの流行下において労働者の生活と権利を守る立法及び措置を求める決議」
?「性差別・LGBT問題に全力で取り組む決議」
?「「送還忌避・長期収容の解決に向けた提言」等に反対する決議」
?「東京オリンピック・パラリンピックの開催中止を求める決議」
各決議の表題が、「闘う弁護士」たちの今の関心事を物語っている。コロナ禍がもたらす社会的弱者への皺寄せの事態に、権力や企業と闘わざるを得ないのだ。東京五輪中止問題もその文脈にある。いまや、オリパラどころではない。政府も東京都も、コロナ対策に専念すべきなのだ。決議をご覧いただきたい。
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東京オリンピック・パラリンピックの開催中止を求める決議
2020年夏に開催予定の東京五輪(オリンピック・パラリンピック)が延期となり、2021年の開催まで5か月となったが、緊急事態宣言が3月7目まで延長され、新型コロナウイルスの感染は未だ収束する見通しはない。東京都内の医療体制は逼迫し、全国各地で体調が急に悪化して自宅などで死亡する例も急増している。
予選を兼ねて3月にドイツで予定していた体操の個人総合のワールドカップが中止になるなど半数以上の競技で出場選手が未だに確定せず、競技会場で活動する約8万人の大会ボランティアから辞退者が相次ぎ、日本医師会は医療提供体制のひっ迫状況が改善されない限り、さらなる外国人患者の受け入れは可能ではないと述べ、国内外からのアスリートだちからも多くの市民が望まない中での大会への参加を疑問視する声が上がっている。もはや東京五輪は、開催が可能であるとの理由を探す方が困難な状況である。共同通信の世論調査では今夏開催の「中止」「再延期」を合わせた反対意見は80.1%と昨年12月の前回調査の同61.2%から激増した。
しかるに国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、予定どおり7月に開催できると述べ、日本オリンピック委員会(JOC)や東京都、政府は「東京大会を開催することにゆるぎない決意を持っている」(山下泰裕JOC会長)、「ウイルスとの戦いに打ち勝つ証しを刻んでいきたい」(小池百合子都知事)、「人類がウイルスに打ち勝った証しとして東京で開催する決意だ」(菅義偉首相)等と科学的根拠のない精神論を強調するのみである。
五輪が平和の祭典とは程遠いビジネスのための大会に堕し、テレビ放映権料やスポンサー収入を得ることが目的となっていることは多くの市民が指摘するところである。経済の活性化を前面に押し出して誘致した東京五輪であるが、多額の税金を投入して今夏に開催する大義はすでに失われた。
自由法曹団東京支部は、今夏の東京オリンピック・パラリンピックの中止を直ちに決定し、東京都の組織力、財政力を新型コロナウイルスの対策に集中することを求める。
2021年2月26日
自由法曹団東京支部第49回定期総会
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また、3月1日同期弁護士有志のメーリングリストに、梓澤和幸君から下記の投稿があった。
23期の皆さん。
コロナ生命危機なのにオリパラやめようの声が呟きの声しかあがらない。
京都新聞、信濃毎日、共同通信、毎日、朝日、東京新聞も少しは言うけれど大きな声はあげずに沈黙。ものすごい圧力で黙らされている。
そこで僕の生きる拠点国分寺市民連合は明日をスタートに
#コロナあぶない
#オリパラやめよう
とTwitterデモを打ち上げます。
皆さん。明日以降反応して下さい。
梓澤和幸
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そして、昨日(3月3日)の英紙タイムズ「東京オリ・パラ 『中止すべき時が来た』」が話題を呼んでいる。
東京オリンピック「中止すべき時が来た」 英紙タイムズがコラム掲載
感染拡大を引き起こす可能性を指摘し、日本はおろか世界へと広がるリスクが大きすぎるとしている。
今夏の東京オリンピック(五輪)・パラリンピック開催について、英紙タイムズは3日、東京支局長の写真と名前入りのコラムを掲載し、「今年の東京五輪を中止すべき時が来た」と報じた。感染拡大を引き起こす可能性を指摘し、日本はおろか世界へと広がるリスクが大きすぎるとしている。
理由として、200を超える国から1万5千人以上の選手や、関係者、審判らに加えて多くの観客が来日することを指摘した。厳しい規制などでリスクを抑え込み、大会を開催できる国があるとすれば「それは日本」と認めつつも、「確証はない」としている。(朝日新聞デジタル)
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そして、本日(3月4日)、政府の方針が「東京五輪の海外客見送りへ」「開催へ安全安心を優先」に変更された旨、大きく報道されている。
政府も東京都も、そして組織委も、海外客受け入れが不可能であることは容認した。だから、現実の進行は、
「海外客受け入れ断念」⇒「国内観客制限」⇒「オリパラ中止」
の手順とならざるを得ないように見える。
しかし、南北アメリカやヨーロッパ各国を見ても、コロナの猖獗はオリンピックどころでない。2020東京五輪の開催不可能はもはや明白ではないか。商業主義や国威発揚、あるいは目立ちたがり関係者の思惑で、コロナのリスクを拡げてはならない。むしろ政府も自治体も民間もスポーツ団体も、早急に「オリパラ中止」を決断して、コロナ対策に専念すべきである。
声を上げよう。「東京オリパラは、早急に中止せよ」「政府も自治体もコロナ対策に専念せよ」
(2021年3月3日)
なるほど、なるほど。とても面白いし楽しい篠原資明さんの作品。言葉遊びもこの水準にまでなれば、遊戯の域を超えて、文芸か芸術作品と言ってよい。
ところが、なんとももったいないし残念なことに、ネット上にあったその原作は、既に全部削除されている。結局、ここで引用できる作品は、新聞記事から孫引きした下記4作品だけ。篠原さんご自身は、「アートとして思いついたもので、政治的意図はない」「五輪中止時の『墓碑銘』となるように祈りを込めた。良い意味も悪い意味もない」と説明しているという。ならば、篠原さんの作品に、私が私なりの理解を書き込むことに何の問題もなかろう。受け取り方は人それぞれなのだから。
(1) 「かいかい 死期」(開会式)
東京オリンピック開会式のイメージ展開である。コロナ禍のさなかに、世界中からの感染者予備軍を集めての開会式は、確率的に参加者の誰かの死期となる。そうならずとも、暗い死期を予見させる開会式とならざるを得ない。
もしかしたら、ここで死ぬのは、商業主義や国威発揚演出と闘って一敗地にまみれた五輪憲章とその精神なのかも知れない。
(2) 「すぽ お通夜」(スポーツ屋)
「かいかい 死期」に臨んで通夜を営むのは、(スポーツ屋)である。(スポーツ屋)とは、五輪をメシのタネと儲けをたくらむ電通などの企業や、竹田恒泰ら裏金を操作する連中、そして、森喜朗、橋本聖子、丸山珠代らの五輪政治家ばかりではない。権力機構のなかで国威発揚と売名にいそしむ輩、菅義偉や小池百合子らをも含むものというべきだろう。
(3) 「ばっ墓萎凋」(バッハ会長)
言わずと知れた(スポーツ屋)の元締めが、この人物だ。IOCを神聖にして侵すベからざるものとしてはならない。オリンピック精神の死期におけるIOC会長こそは、「罰」「墓」「萎縮」「凋落」のイメージにピッタリではないか。
(4) 「世禍乱なぁ」(聖火ランナー)
今や、東京五輪は風前の灯である。実は単にコロナ禍のためばかりではない。国威発揚や商業主義跋扈のせいだけでもない。オリパラ推進勢力が、この国を形作っている旧い体質とあまりに馴染み、人権や民主主義の感覚とは大きく乖離しているからなのだ。聖火ランナーを辞退せずオリンピックに協力することは、家父長制やら女性差別に加担する、「旧世代人」イメージを背負うリスクを覚悟しなければならない。まっとうな人は、そんなにしてまで走らんなあ。
篠原資明さんは、京大で美学・美術史を教えていた人。今は名誉教授で高松市美術館の館長。この2月、ツイッターの個人用アカウントに「東京オリンピック、なくなりそうな予感。なので墓碑銘など、いまから考えてみませんか」とした上で、みずからが生み出した「超絶短詩」の幾つかを書き込んだ。
「超絶短詩」とは、一つの言葉を二つの音に区切ることで思いがけない意味を持つ表現方法だという。『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「超絶短詩は、篠原資明により提唱された史上最短の詩型。ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するという規則による。たとえば、「嵐」なら「あら 詩」、「赤裸々」なら「背 きらら」、「哲学者」なら「鉄が くしゃ」となる。」と解説されている。「おっ都政」(オットセイ)という秀逸もある。
篠原さんは、「メディアからの取材を受けたことで『ことば狩り』と感じ、美術館のスタッフにも迷惑をかけたくないと思ってアカウントを削除した」と話しているという。オリンピック批判はまだ日本社会ではタブーなのだろうか。こんな楽しい言葉遊び作品を削除せざるを得ない、この社会の窮屈さこそが、大きな問題ではないか。
(2021年3月2日)
私はスポーツの世界にはほとんど関心がない。ウサイン・ボルトの名くらいは知っていたが、ヨハン・ブレーク(ジャマイカ)は知らなかった。陸上100メートルの世界記録はボルトの9秒58、ブレークの記録はこれに次ぐ歴代2位の9秒59だという。200メートルでも、世界歴代2位の19秒26をマークしており、ボルト引退後の現役選手としては世界の最高峰に位置している。過去2回のオリンピックに出場して、金2・銀2のメダルを獲得しており、もし、今年東京五輪が開催されるようなことになれば、100・200のメダル有力選手だとか。
そのブレークが、「新型コロナウイルスのワクチンを接種するぐらいなら、むしろ東京五輪を欠場した方がまし」とワクチン拒否を宣言して話題を呼んでいる。これは、興味深い。
ジャマイカの地元紙によると、ブレークは3月27日に「固い決意は変わらない。いかなるワクチンも望まない」と述べ、五輪欠場をいとわない意思を表明した。国際オリンピック委員会(IOC)はこれまで、東京五輪参加者へのワクチン接種を強制はしないものの、推奨する姿勢で、選手団に接種させる方針を示している国もある。(時事)
彼のワクチン拒否の理由は報道では分からない。が、これを拒否する信念の固さは、伝わってくる。オリンピック出場を捨てでも、守るべき大事なものがあるということなのだ。
このブレークの信念は、著名な最高裁判決(1996年3月8日最高裁判決)に表れた高専の剣道実技受講拒否事件事件を思い起こさせる。
神戸市立工業高等専門学校に「エホバの証人」を信仰する生徒がおり、信仰上の理由から体育の剣道実技履修を拒否した。校長は、体育科目は必修であるとし、この生徒を2年連続して原級留置処分としたうえ、退学処分とした。
最高裁は、この退職処分を違法とした。その理由は、次のとおりである。
(ア) 剣道実技の履修が高等専門学校において必須のものとまでは言い難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも可能である(代替的方法の存在)が、神戸高専においては原告および保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も拒否したこと、
(イ) 他方、この学生が剣道実技への参加を拒否する理由は、信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったこと、
(ウ) 学生は、剣道実技の履修拒否の結果として、原級留置、退学という事態に追い込まれたものであり、その不利益は極めて大きく、本件各処分は、原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと、
以上の事情からすると、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものとして、裁量権の範囲を超える違法なものである。
生徒が、学校がカリキュラムとして定めた剣道の授業を拒否した。校長には「生徒のワガママ」と映った。ワガママは許されないとして、遂には退学処分にまでした。この生徒の授業拒否を奇矯なものとして、処分もやむを得ないと校長側の肩を持つ意見も少なくはないだろう。「剣道の授業って真剣でやるわけじゃなかろう。竹刀を振り回していりゃいいんだから、授業拒否まですることはあるまい」という意見。
しかし最高裁は、生徒の剣道授業拒否を真摯な信仰の発露と認めた。校長に対して、剣道ではない別の体育メニューを受講させるよう配慮すべきだったと判断したのだ。最高裁も、たまには立派な判決を書く。
ブレークのワクチン拒否にも、社会には多様な意見があるだろう。「ワクチン打たないリスクをよく考えろよ」「副反応の確率は決して高くないよ」「そんなに頑なに拒否するほどのことか」「ワクチンは、自分のためだけのものではない。周りの人のためにも打つべきだ」「オリンピック出場を棒に振ってもワクチン拒絶とは理解し得ない」…。
彼のワクチン拒絶が、信仰上の理由によるものであるか否かは分からない。それでも、彼の精神の核心部分と密接に関連する真摯なものであることは、容易に理解しうる。人生をスポーツへの精進に懸けて来たアスリートが、オリンピック出場をあきらめても、ワクチンを拒絶しているのだ。その確信は、信念と言ってもよいし、思想と言ってもよい。仮に、他人の目には奇矯なものと見えても、尊重されなくてはならない。それが、多様性を尊重するということではないか。
もちろん、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制への拒否も同様である。信仰上の信念からでも、歴史観や社会観に起因するものであっても、その姿勢は尊重されるべきで、強制などあってはならない。
(2021年3月1日)
3月1日、ビキニデーである。1954年のこの日、「ブラボー」と名付けられたアメリカの水爆実験によって遠洋マグロ漁船第五福竜丸が死の灰を被り、乗組員23人が被爆した。45年8月のヒロシマ・ナガサキにおける原爆投下の惨劇から9年を経ないこの日に、人類は新たに水爆による災厄を経験することとなった。
この大事件は日本中を震撼させた。私は当時焼津に近い、清水市内の小学校に通う4年生。騒然たる雰囲気を覚えている。日本の社会全体が放射能の脅威を身近なものとして、おののいた。
その日本社会の雰囲気を背景に、この年の11月東宝の特撮映画「ゴジラ」が封切りになって、観客動員数961万人を記録する空前の大当たりとなった。
「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が水爆実験の影響で目を覚まし日本を襲う」というストーリー。大暴れするゴジラだが、最後は断末魔の悲鳴を残し泡となって太平洋に消える。人々が歓喜に湧く中、志村喬扮する古生物学者がこう呟く。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない」。
あれから67年である。我が国の政府が、核にも原発にも、断固とした廃絶の決意を持っていないことが歯がゆい。ゴジラは、今なお世界のどこかに潜んでいて、日本にも上陸する恐れなしとしない。いや、2011年3月11日、ゴジラは福島浜通りに姿を現したのではなかったか。
ところで、破壊をほしいままにするゴジラは、暴虐な水爆の化身のようにも見えるが、その最期は哀れで悲しげな印象を与える。ゴジラが何を象徴するか、多様な見方が可能だろう。
手許にある平和委員会の「平和新聞」最新号には、「私は『ゴジラ研究者』」「ゴジラは平和を語り続ける」という表題で、伊藤宏さんという大学教授とゴジラの主演俳優だった宝田明さんの対談の写真が掲載されている。伊藤さんは、「ゴジラは反核平和を語り続ける存在」「ゴジラ作品は、核兵器を絶対に使わない、という強いメッセージを持っている」という。
朝日新聞の取材に対して、宝田さんは、ゴジラを「ヒバクシャの悲運を背負った存在」と次のように語っている。なるほど、確かにそのとおりだ。
「海底に暮らしていた巨大生物ゴジラは米軍の水爆実験で安住の地を追われ、東京に上陸し、銀座や国会議事堂を焼き尽くす。そして最後は人類が生み出した残酷な兵器で海に沈む。映画の試写を見ながらわーわー泣きました。『憎っくきゴジラ』ではないのです。人間の強欲によって『ヒバクシャ』とされ、悲しい運命を背負わされた存在。ひとりの観客として心を揺さぶられたのです。」
「核兵器禁止条約が効力を持つのは、もろ手を挙げて万々歳です。目の前の扉がふっと開いた、緞帳(どんちょう)がすーっと上がったという気がします。ただ、被爆国の日本は加わっていない。『核だけは絶対にダメだ』と言える国なのに。なぜ真っ先に批准しないのか、また後れをとるのかという思いです。」
「俳優であるために政治的発言を控えていましたが、還暦を過ぎて戦争体験を語り始めました。「ゴジラ」1作目の制作陣のほとんどが鬼籍に入る中、彼らの思いも語る責任があると思います。…かろうじて生きながらえている戦争体験者として、語るべきことを語り、言わざる聞かざる見ざるの「三猿」にはならないようにしたいと思います。」
3月1日ビキニデーに、あらためて思う。核兵器を必要悪などと言ってはならない。核と人類の共存を認めてはならない。核によって安住の地を追われたゴジラとともに、核廃絶の声を上げよう。
(2021年2月27日)
私が、いま巷の話題を独占している「時の人」、あの有名キャリア官僚。もと総務審議官で、首相秘書官の経歴もある。今は内閣広報官。有名になったら、ヤメロ、引っ込めという理不尽な声や、「続投はあり得ない」という野党や与党の一部のご意見もあるけど、どこ吹く風ね。私から辞表は考えられないし、なんと言っても内閣総理大臣ご自身が私の続投を望んでいらっしゃる。
育鵬社っていう教科書会社ご存知でしょう。右翼偏向だとか政権ベッタリと言われるけど、私は立派な教科書を出していると思っている。安倍政権支持という教科書も珍しいし、安倍さんと私を載せているんだもの。育鵬社版中学公民教科書に「憲政史上初の女性首相秘書官(2013年)」という光栄な見出しを付けてね、「安倍晋三首相から辞令を受ける山田真貴子氏」という写真が掲載されているのよ。だから、まっとうな教育を受ける機会に恵まれた若い方には、私はお馴染みだと思うの。
自己紹介はここまで。これからの私のお話、若い人たちに、とりわけ女性に聞いていただきたいの。皆さん、よくお勉強なさいね。何のための勉強なんて考える暇があったら勉強すること。成績を上げれば、ちゃんとした大学に行けるわ。ちゃんとした大学で、学業に精を出せば、キャリアの官僚にもなれる。そこからの前途は洋々。いま、官僚志望の若い方が減っているんだけれど、官僚って魅力的な職業ですよ。
でも、官僚としてのやり甲斐は、出世をしてからのことね。官僚は出世しなくちゃあね。出世には官僚としての処世術が肝要なのよ。私のように出世して、2代の総理のおぼえめでたく、高給を食む地位に達するには、幸運を引寄せる力がなければならないの。この力は、勉強だけでは身につかない。青くさい理想を語っていてもだめね。
出世は、誰かに目を留めてもらい、その人に信頼され、引き立ててもらわなければならない。つまり、勉強しただけで出世はできないってこと。出世は、そういう人やチャンスに巡り会わなければならないのね。誰もが、自分にチャンスをくれる人に出会ったり、実績をあげられるプロジェクトにめぐりあったり、そういう幸運に恵まれたいと思うでしょう。そういう、プロジェクトや人にめぐりあう確率が人によってそう違うはずはありません。違いはどれだけ多くの人に出会い、多くのチャンレジをしているか。イベントやプロジェクトに誘われたら、絶対に断らない。まぁ飲み会も断らない。
断る人は二度と誘われません。幸運に巡り合うそういう機会も減っていきます。私自身、仕事ももちろんなんですけど、飲み会を絶対に断らない女としてやってきました。お高くとまっていてはだめなのよ。ポッキーゲームだってやったのよ。楽しそうなフリをして。勉強、プロジェクト、人、多くのものに出会うチャンスを愚直に広げていってほしいと思います。
こうして出会いのチャンスを広げることで、自分を引き立ててくれる人が見つかる。そういう人を見つければ、その人に対する忖度一直線。それこそが、出世の秘訣ね。
総務省を牛耳っていた菅さんが官房長官になり、首相になった。菅さんが、私に出世のチャンスをくれた。その菅さんの長男を、出世のためのアンテナを張り続けていた私が意識しなかったはずはないでしょう。菅さんは私に出世のチャンスをくれた。私は、自分の権限の範囲内で菅さんの喜ぶことをして恩を返し、さらなる出世を確実なものとする。これって、麗しいウィンウィンの関係じゃないですか。
電波行政の責任者だった私ですよ。菅さんの長男が衛星放送事業者の幹部社員になっていたことを知らないはずはないじゃないですか。放送事業者の幹部から接待を受ければ当然に公務員倫理に違反する。そんなことは分かっていますよ。それでも、「東北新社」側から接待を持ちかけられれば、菅さんのご長男が接待役なのですから断れるわけがない。1人あたり7万4203円の接待だったと言いますが、そのくらいの金額、大袈裟にいうほどのことでもないでしょう。
この接待が、たまたま公になったのは誤算でしたが、少ししおらしく、「心の緩みであって、利害関係者かどうかのチェックが十分でなかった」くらい言っておけば、大丈夫なんですよ。
そして、会席に菅さんの息子がいたことを明確には言わない。ぼかしてみせるのが、出世する官僚のマナー。国会で、「5人の会食で、首相の息子がいたかどうか分からないのか」と聞かれて、「私にとって大きな事実だったかというと、必ずしもそうではない」と少し笑いながら答えたのは、首相2人の身近に仕えた自分の大物ぶりをアピールしただけではなく、私を引き立ててくれた菅さんの恩義への報い方なのですよ。
つまり、憲法15条を本気で信じて「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」なんて、融通のきかないのは出世をしない人。出世をしようと思ったら、引き立ててくれる上司や政治家を見極めて奉仕する心構えが必要なのね。しっかりとこう心得て、菅さんや安倍さんに引き立ててもらい、恩を返してながら、出世の階段を昇ってきたのが話題の私です。是非、若い皆さんも、参考にしてくださいね。
おや、どうしたの? 少し白けた雰囲気ではないですか。皆さん、気色ばんで何か言いたそうな面もち。そんな態度では出世はできそうにありませんね。ご質問は受け付けますが、一人一問に限らせていただきます。業界では「更問(さらとい)」と言いますが、重ねて質問を畳み込むような無作法なことはやめてくださいね。
(2021年2月27日)
私が総理の器ではないというご指摘…。そりゃあ、私には、あのう、なんて言うんですか、高邁な理想も政治哲学もありませんよ。国民の心に響くような語るべき言葉を持っていない。でも、前任者をよく見てきましたが、あの人だって理想や哲学を持っていなかったというのが事実ではないでしょうか。それでも、7年8か月も総理が務まった。器なんて、誰にでもあるといえばある、ないと言えばない。そんなもんではないでしょうか。
えっ? 一国の総理たるものが、落ち着きなくイライラしてどうしたんだ、と言うんですか。総理だろうと、天皇だろうと、人間ですよ。面白くないことが重なれば、イライラするのは当然でしょう。そういうことも事実ではないでしょうか。
よくご存知でしょう。面白くないことだらけですよ。内閣支持率は下がりっぱなし。コロナ対策はうまく行かない。この頃、専門家が政治家の言うことを聞かなくなってきた。ワクチンの供給がどうなるか私も不安でたまらない。東京五輪は風前の灯だし、私の長男の総務官僚接待問題で話題持ちきりだし、首相広報官の7万4000円接待問題が庶民感情をいたく傷つけている。うまく行ってることは一つもない、こんな状態で選挙も近い。世論にもメディにもトゲがある。みんな遠慮をしなくなっている。それでも、国会で野党の質問に答弁しなければならないし、意地悪な記者の取材にも応じなければならない。イライラして当然というのは、これも事実ではないでしょうか。
昨日(2月26日)、新型コロナ緊急事態宣言の首都圏以外は先行解除をようやく決めた。当然国民の多くが記者会見を行うと思ったでしょうが、そんなこと、できるわけがないでしょう。内閣記者会から会見を開くよう申し入れを受けたが、これを断って、「ぶら下がり取材」とした。立ったまま記者からの質問に答えたんですけど、これが特別にイライラのイヤイヤでした。
官邸の記者会見では、広報官が作成したペーパーを読んでりゃいいんだし、嫌な質問は広報官がブロックし、広報官が「次の日程がありますので」などと適当な口実で切り上げてくれる。でも「ぶら下がり」では、その広報官がいない。山田広報官、会見に出てこれないんだ。出て来りゃ、私の話よりも「一食7万4000円ごちそう問題」に質問が集中するのは目に見えている。そのことも事実ではないでしょうか。
それでも、案の定礼儀を弁えぬ記者からは「緊急事態宣言の6府県解除をしたのに、なぜ記者会見を行わなかったのか? 高額接待を受けた山田内閣広報官の問題が影響したのか」という質問。ああいう記者の顔と名前はよく覚えておかなくては。
用意していたとおり、「山田広報官のことはまったく関係ありません。昨日、国会で答弁されてきたことも事実じゃないでしょうか」と言ってはみたけど、我ながら迫力に欠ける。ついつい、イライラが声に表れる。
その後も記者たちは遠慮がない。「山田広報官から接待の詳細は聞いたのか」「山田広報官を続投させる方針に変わりないか」「政治責任をどう考えるか」と矢継ぎ早の質問だ。イライラは募るばかり。
さらには「会見を行わずに(コロナ対策に)国民の協力が得られると思うか?」と聞かれて、「だから今日こうして、ぶら下がり会見を行っているんじゃないでしょうか」という声が震えた。これが、「総理キレた」とか、「気色ばんだ」とか、あるいは「台本ないとダメだね」「素の菅さんはこんな感じなのか」と、意地悪く報道されてしまった。支持率70%のころにはこんなことはなかったのに。
最後の質問は、「今度の会見では最後まで質問を打ち切らずにお答えいただけるのか?」だというんだ。もう、総理に対するイジメじゃないか。「いや、私も時間がありますから。みなさん、出尽くしてるんじゃないですか。先ほどから、同じような質問ばっかりじゃないでしょうか」とようやく終わることができた。
中に、こんな質問があって驚いた。
― 先ほど東北新社が社長の退任と幹部の処分を発表した。総理の長男も役職を解任され、人事部付となりました。受け止めは。
「私は承知していません。会社としてのけじめだと思います」と答えるしかなった。しかし、長男解任を「けじめ」と言ってよかったのか、長男の責任を認めたことになるのかな。
いずれにせよ不愉快極まる。なんだ、手のひらを返したような、この東北新社の態度は。目を掛けてやった恩を忘れたのか。それが、総理の長男に対する処遇だというのか。「人事部付き」って何もやることがないってことではないのか。総務省接待以外には、使いようがないということなのか。それよりも、総理の権威はどうなった。もう誰も総理の意向を忖度しないというのか。だれも私を恐れないというのか。
これじゃ、世も末ではないでしょうか。あ?あ、「総理なんかになるんじゃなかった」と愚痴をこぼすにも一理あるのではないでしょうか。だから、私がイライラしてることも、事実なのではないでしょうか。
(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。
歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。
「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」
「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」
北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。
軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。
軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。
かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。
今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。
そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。
世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。
(2021年2月25日)
昨日(2月24日)の最高裁大法廷判決。「那覇市・孔子廟事件」で、政教分離に関するやや厳格な判断が積み上げられた。
那覇市の公園の一角に「孔子廟」がある。市は、相当の使用料月額48万円の全額を免除していた。判決は、この那覇市の無償提供を「違憲」と判断したもの。最高裁による政教分離の「厳格な」判断として評価し、歓迎したい。
もっとも、この住民訴訟の原告となったのは、那覇の「右翼オバサン」である。弁護団も明白な右寄り人脈。本来、政教分離規定はリベラル・人権派、ないしは天皇制に弾圧された宗教者にとっての金科玉条。右翼が政教分離の旗を掲げての訴訟には、大きな違和感を禁じえない。どのような思惑で提訴に至ったのか理解し難いところは残る。それでも、誰が原告であろうとも、政教分離の「厳格な」判断を歓迎すべきことに変わりはない。
政教分離とは何か。今朝の毎日新聞社説は、こう言う。
「憲法の政教分離の規定は、戦前に国家と神道が結びついて軍国主義に利用され、戦争に突き進んだ反省に基づいて設けられた。」
沖縄タイムス社説はもう少し踏み込んで、説明している。
「かつて(日本は)国家神道を精神的支柱にして戦争への道を突き進んだ。政教分離の原則は、多大な犠牲をもたらした戦前の深い反省に立脚し、つくられたのだ。」
政教分離の「政」とは国家、あるいは公権力を指す。「教」とは宗教のこと。国家と宗教は、互いに利用しようと相寄る衝動を内在するが、癒着させてはならない。厳格に高く厚い壁で分離されなくてはならない。
この原則を日本国憲法に書き込んだのは、戦前に《国家と神道》が結びついて《国家神道》たるものが形成され、これが軍国主義の精神的支柱になって、日本を破滅に追い込んだ悲惨な歴史を経験したからである。国家神道の復活を許してはならない。これが、政教分離の本旨である。
《国家神道》とは、今の世にややイメージしにくい言葉となっている。平たく、『天皇教』と表現した方が分かり易い。天皇の祖先を神として崇拝し、当代の天皇を現人神とも祖先神の祭司ともするのが、明治以来の新興宗教・天皇教である。
天皇の祖先を神と崇め、その神のご託宣によって、この日本を天皇が統治する正当性の根拠とする荒唐無稽の政治的宗教。睦仁・嘉仁・裕仁と3代続いた教祖は、教祖であるだけでなく、統治権の総覧者とも大元帥ともされた。
この天皇教が、臣民たちに「事あるときは誰も皆 命を捨てよ 君のため」と教えた。天皇のために戦え、天皇のために死ね、と大真面目で教えたのだ。直接教えたのは、学校の教師だった。教場こそが、天皇教の布教所であった。目も眩むような、一億総マインドコントロール、それこそが国家神道であり、その反省が政教分離である。
もちろん、戦前の体制に対する徹底した反省のありかたとしては、天皇制の廃絶が最もふさわしい。しかし、戦後改革の不徹底さが日本国憲法における象徴天皇制となった。この象徴天皇を、再び危険な神なる天皇に先祖がえりさせないための歯止めの装置が政教分離なのだ。
だから、リベラルの陣営は厳格な政教分離の解釈を求め、歴史修正主義派は緩やかな政教分離の解釈を求めるということになる。靖国神社公式参拝・玉串料訴訟、即位の礼・大嘗祭訴訟、護国神社訴訟、地鎮祭訴訟、忠魂碑訴訟等々は、そのような立場からの訴訟であった。
もっとも、憲法の政教分離に関する憲法規定は、神道だけでなく宗教一般と国家との癒着を禁じた。そこで、仏教やキリスト教との関係でも、政教分離問題は生じうる。今回の判決も、神道に限らず儒教でも宗教性が認められれば、憲法に抵触しうることを確認したものとなっている。儒教と自治体の関係を問う訴訟は、二の丸、三の丸での闘いである。しかし、その結果は本丸としての神道と国家との関係に影響を及ぼさずにはおかない。今回の判決、リベラル派としては、喜んでよい。
本日の産経社説(「主張」)が、この点に言及していて興味深い。
表題が「那覇の孔子廟判決 『違憲』の独り歩き避けよ」というもの。右派の産経にとって、好もしからぬ判決であり、その影響を限定しようという「主張」なのだ。
同社説の立場は、はっきりしている。靖国神社公式参拝や玉串料・真榊奉納などを違憲と判断されては困るのだ。何とか、限定的に解釈しなければならない。
「違憲」が独り歩きしては困る。今回の判決を盾に、社寺の伝統行事などにまで目くじらを立てるような「政教分離」の過熱化は避けたい。
孔子廟は全国にあるが、湯島聖堂(東京)や足利学校(栃木)のように国や自治体が所有する歴史的施設もあり、設立経緯などが異なる。今回の違憲判決の影響は限定的とみるのが妥当だろう。
政教分離規定の厳格な適用は好ましくない。たとえば、地域社会に伝わる文化、行事は伝統的な宗教と密接な関係にある。
北海道砂川市の「空知太(そらちぶと)神社訴訟」で最高裁は、市有地を神社に無償提供したことを違憲とした。だが、このとき合憲とした裁判官の反対意見が「神社は地域住民の生活の一部になっている」などと指摘し、違憲とした多数意見について「日本人の一般の感覚に反している」と述べていたのはうなずける。
首相ら公人の靖国神社参拝や真榊(まさかき)奉納に「政教分離」を持ち出す愚も避けるべきだ。
産経の当惑している様子が伝わってくる。しかし、判例というものは、独り歩きをするものである。独り歩きを止めようとて、止められるものではない。その意味で、大法廷の厳格な政教分離解釈は、リベラル陣営にとっての財産なのだ。