第五福竜丸の受難を描いた新ドキュメンタリー映画 ― 「西から昇った太陽」
1954年3月1日、アメリカは太平洋ビキニ環礁で史上最大規模の水爆実験を行った。「ブラボー」と名付けられた広島型原爆の1000倍の破壊力を持つ水爆は、爆心から160キロ離れたマグロ漁船「第五福竜丸」(静岡県焼津市)に死の灰を降り注いだ。その被爆の日が「3・1ビキニデー」。あれから65年が経過した。まだ人類は、この悪魔の兵器を廃絶し得ていない。東京・夢の島に展示されている第五福竜丸は、世界から核をなくする使命を、なし終えていない。
今年(2019年)の第五福竜丸平和協会「3・1 記念行事」は、映画上映会となった。豊島区のシネマハウス大塚を会場に、昨日(3月2日)下記のプログラムで行われた。
◆上映映画◆
?10:30? 「西から昇った太陽」(監督舞台挨拶)
?13:30? 「死の灰」/「荒海に生きる」(トークを予定)
?15:30? 「わたしの、終わらない旅」(監督舞台挨拶予定)
?18:00? 「西から昇った太陽」(監督舞台挨拶)
各回ともチケット完売で、【満員御礼】となった。
目玉は、完成したばかりのビキニ事件を題材としたドキュメンタリー「西から昇った太陽」(2018年75分)。アメリカ人の若い監督が作ったことに格別の意義がある。
以下は、同映画の宣伝。
1954年3月1日、第五福竜丸の乗組員たちは太平洋上で巨大な水爆実験を目撃した。「西から太陽が昇ったぞ・・・!!」
映画「西から昇った太陽」は、水爆実験に遭遇するという怖ろしい出来事が漁師たちにもたらした苦悩と人生の困難を、当時を体験した乗組員3名のインタビューと1000枚を超えるイラストによるストップモーションアニメで再現しました。
米・ピッツバーグに拠点を置く製作チームは2014年から度重ねて来日し、3人の第五福竜丸元乗組員を取材。過去の資料や映像、写真だけに頼らない、体験者の生の声を映像化することを目指しました。
イラストとCGの独特な味わいと、静かな語りから悲しみが立ち昇る、アメリカの若手作家たちによる新しい第五福竜丸の物語です。
監督・プロデューサー:キース・レイミンク
製作:ダリボルカフィルム
演出デザイン・イラストレーション:Josh Lopata
アニメーション:Jsutin Nixon
音楽:Troy Reimink
現地インタビュー:Peter Bigelow
2月28日、「3・1ビキニデー」行事のひとつとして、静岡で特別試写会が先行している。この映画「西から昇った太陽」は、元乗組員の見崎進さん、池田正穂さん(86)=焼津市=、大石又七さん(85)=東京都=による証言映像と、日本の紙芝居に着想を得たアニメーションで構成するドキュメンタリー。元乗組員が船上で目撃した爆発の光景や放射能の影響だけでなく、漁師の暮らしや帰国後の治療の経過、家族との絆など、一人一人の歩みを丹念に追った。
以下は、NHK(静岡放送局)報道の抜粋。
アメリカ人の監督が制作した映画「西から昇った太陽」は、1954年3月1日、南太平洋で操業中だった「第五福竜丸」が、アメリカの水爆実験で放射性物質を含んだ「死の灰」を浴び、乗組員23人が被ばくで苦しみ1人が亡くなった状況や、周囲の偏見を乗り越えて生きていく姿などを、3人の元乗組員のインタビューやアニメーションで描いた1時間15分の作品です。
映画では、4日前に92歳で亡くなった元乗組員の見崎進さんが「夜明け前に一面に光って、西から太陽が出るわけがないと大騒ぎになった。最年長の乗組員が亡くなり今度は自分の番だと悪いことばかり考えた」と証言していました。
キース・レイミンク監督は「核兵器の問題はアメリカではあまり論じられていないが、日本人とアメリカ人が協力して事実を共有することが重要だ」と話していました。
?映画を鑑賞した静岡市の40代の女性は、「この事件を知らないアメリカの若者にも広まってほしい。核の廃絶を訴えていきたい」と話していました。
静岡新聞はこう報じている。
第五福竜丸元乗組員の見崎進さん(92)=島田市=が(2月)25日、亡くなった。晩年はビキニ事件の記憶を語り継ごうと取材や聞き取り調査に応じてきた。米国人映像作家が見崎さんら元乗組員の人生を描いた映画が、28日のビキニデー集会に合わせて日本で初めて披露される直前の訃報だった。被ばくから65年。事件の実情を伝える数少ない証人がまた一人この世を去った。
見崎さんが出演したのは、米国人映像作家のキース・レイミンク監督による映画「西から昇った太陽」。元乗組員らの証言を基に約4年間の制作期間を経て完成した映画を、見崎さんは昨年、自宅で視聴し「ええっけよ。よくできているよ」と喜んだという。
レイミンク監督の取材をサポートしたのは同市の粕谷たか子さん(69)。2013年に地元の中高生が行った聞き取り調査をきっかけに見崎さんとの交流を続けてきた。「本当にたくましく、明るく前向きな方」と人柄をしのび、「被害に遭った人にしか分からない痛みや苦しみを、若者たちへ真剣に伝えてくれた」と惜しんだ。
3・1ビキニデー県実行委員会運営委員会代表の成瀬実さん(82)=焼津市=は「事件の後、家族のためにじっと耐えてきた。生きざまがそのまま歴史になっている」と振り返る。記憶を語り続けた見崎さんの思いを「仲間が亡くなる中で『伝えなければ』という危機感があったのでは」と推し量った。同実行委員会事務局長の大牧正孝さん(69)=静岡市葵区=は「事件を風化させないために、われわれが伝えていかなければならない」と言葉に力を込めた。
試写会後、監督を務めた米国在住の映像作家キース・レイミンクさんは「言葉の壁や金銭的な問題もあり完成に時間がかかったが、事実を正確に記録した良い映画ができた」とあいさつした。
第五福竜丸の乗員23名は、全員が被爆して、東京の国立第一病院に1年2か月余入院する。その間に最年長の久保山愛吉さんが亡くなり、生存者も不安の日々を過ごすことになる。病室のテレビに映った地元焼津の未婚女性が、「被爆者との結婚は考えられない」という言葉にショックを受ける。退院後も、「放射能がうつる」との差別がつきまとい、再就職も困難となり、婚約を破棄された人もある。被爆の事実や、被爆の被害を伏せざるを得ない。
この映画のインタビューに応じた3人の内の一人が亡くなって、第五福竜丸乗組員の生存者は4人となったという。平和協会の安田和也事務局長が言うとおり、「半世紀もの時間が流れたことで、明かされた証言もある。若い人にこそ、映画を通じて今日まで続く核被害の歴史に触れてほしい」ものと思う。
なお、第五福竜丸展示館は、1976年の開館から42年となる。現在、大規模改修工事中で全面休館となっている。あと1か月の準備の後、本年4月2日にリニューアルオープンする。新しい第五福竜丸展示館に、ご期待とご支援を。
(2019年3月3日)