嗚呼 天皇礼賛一色 ― 権力とメデイアと学者の”Ugly Harmony”
私は、毎日新聞の長年の愛読者である。そのクォリティと読み易さの工夫に敬意を払いつつ、50年以上も付き合ってきた。その私が、昨今の皇室記事は、気恥ずかしくて読むに堪えない。記者諸君に問いたい。君たちはこんなおべんちゃら記事を書くために、ジャーナリストを志したのか。食うための身過ぎ世過ぎと割り切ってのことなのか。読者を莫迦にして、「読者とはこの程度のものを欲しているから、提供しているだけだ」というのだろうか。天皇の交替に伴う、政権側の演出はまだ始まったばかり。これから先が思いやられる。
なかでも、4月1日以来の新元号フィーバーには驚かざるを得ない。政権の演出を、メデイアが積極的に後押ししてのこの事態。権力とメディアとの “Ugly Harmony”そのものではないか。これは恐い。メディアが、当然に権力を批判するものとは限らない。それは承知だ。産経や読売が政権に擦り寄ることを経営方針としていることには驚かない。令和まんじゅうや令和せんべいにも、令和新撰組などというトンチンカンにも驚かない。クォリティ紙をもって任じる毎日までが…、というのが驚きであり恐しいのだ。
その毎日が、昨日(4月16日)の夕刊ワイドに、ようやく新元号フィーバーを冷めた目で見つめる記事を書いた。「『令和』礼賛一色に疑問」「新元号 礼賛一辺倒だが…」「令和『負』の面にも目を」というもの。もっともその中身は、よくぞ書いたと言うべきか、なんだこの程度かと言うべきか…。
リードは、「世の中が新しい元号『令和』ブームに沸いている。各種の世論調査で7割前後の人が『好感が持てる』と回答。出典となった万葉集にも注目が集まり、関連本の増刷も相次ぐ。だが、そんな『礼賛一辺倒』に疑問を投げ掛ける人もいる。」という、やや腰の引けたもの。
東大史料編纂所の本郷和人(中世史)、青学大の小松靖彦(国文学)による、それぞれの令和論だが、本郷和人の言は極めて常識的な内容。批判の論陣と言うほどのものではない。小松靖彦の言には、「歌集は格下、戦争利用の過去も」と見出しを付けられている。新元号が万葉集を出典としたことを冷静に見て、「海行かば」や「醜の御楯」などの万葉発の言葉が、戦争に利用された過去を忘れてはならないとする。万葉集研究者として、確かな姿勢である。中西進などよりも、数段立派だ。
この夕刊ワイドの結びの言葉がまた、及び腰。「おめでたいムードにケチをつける気は毛頭ない。だが、こうした『負』の部分もしっかり見つめて、新しい時代に踏み出したい」というのだ。こんなカビの生えた古くさい元号で表示される時代を、「おめでたい」「新しい時代」というのか。真っ当な批判が、「おめでたいムードにケチをつける」ことなのか。
そして、本日(4月17日)朝刊に、またまた歯の浮くような皇室記事。「クローズアップ」蘭に、第3面をほぼ全面使っての「両陛下、きょうから最後の訪問」「平成流、地方に寄り添い」という例のごとくの提灯記事。これに、「河西秀哉氏・名古屋大学大学院准教授の話」が、くっつけられている。権力とメディアだけでなく、研究者を加えた”Ugly Harmony”の三重奏。
河西のコメントは、「取り残された地域を重視」「「2人で」戦後定着」というタイトルで、やや長文。冒頭が、「天皇、皇后両陛下の地方訪問を振り返ると、平成に入って社会の格差・分断が進む中、東京に代表される都市部の発展から取り残されている地域を重視しているように映る。被災地や島々に代表される過疎化した地方、基地を押しつけられている沖縄などへの訪問はその傾向が強い。両陛下の訪問によって、こうした地域の人々に『自分たちは忘れられていない』というメッセージが伝わっている。訪問がなければ、結果的にもっと不満が高まっていたかも知れない」というもの。
河西は、こう続けるべきだった。「天皇夫妻は、このようなかたちで格差や分断という社会の矛盾を覆い隠し、底辺の人々の不満をなんの解決もせぬまま宥和する役割を果たしてきた。失政に対する国民の追及や政権に対する抗議の行動を起こさぬように封じ込める安全弁として機能してきたのだ」と。
しかし、河西はそうは言わない。「天皇陛下の考える象徴天皇の本質とは、ただそこにいるということではなく、国民と触れあい、声を聞き、苦楽をともにすること。」と何の批判もなく言ってのける。これが学者の言か、研究者のあり方か。これこそ、曲学阿世の徒と言うほかはない。毎日にして、こんなものを使うのか。嗚呼。
(2019年4月17日)