正気か。今どき「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。
国民主権の世に、何たることか。「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。主権者が天皇を仰ぎ見ての「テンノーヘイカ・バンザイ」は、倒錯も甚だしい。
侵略戦争に駆りたてられた兵士が、死に際に本当は「お母さん…」と言い残したのに、「『テンノーヘイカ・バンザイ』と叫んでみごとに散った」と捏造された忌むべき言葉。ああ、平和の世に、「テンノーヘイカ・バンザイ」とは。
しかもだ。この野蛮の「テンノーヘイカ・バンザイ」を正面から批判するメディアの言論が何と萎縮し脆弱なのだ。嗚呼。
10月22日、新天皇の就任をめでたいとは思わない人々が、元号強制反対の集会を開いた。元号を語ることは、天皇制を語ると意識してのこと。以下は、私の報告に限ってのレジメである。
「安倍商店大売り出しの『新元号』は欠陥商品である」
? レジメのレジメ
☆本日は、新任天皇就任式。(「テンノーヘイカ・バンザイ」の日)
天皇という公務員職の存在は、「国民の総意」によるとされる。
演出され、作りだされる、「国民の総意」。
主権者に強制される祝意。本末転倒・主客逆転の実態。
天皇制とは、「権力に調法なもの」として、拵えられ維持されてきた。
日本の民主主義は、天皇制と拮抗して生まれ、天皇制と対峙して育ってきた。
象徴天皇制も、強固な権威主義と社会的同調圧力によって支えられている。
いま、この同調圧力に抗する「民主主義の力量」が問われている。
天皇批判言論の自由度が、表現の自由のバロメータとなっている。
☆元号とは、天皇制を支える小道具の一つである。
元号・祝日・「日の丸・君が代」・叙位叙勲・恩赦・歌会始・御用達…
賜杯・天皇賞・恩賜公園……等々。
元号とは、イデオロギーとしては、
皇帝が時を支配するという宗教的権威顕示の道具であり、
政治的には、支配と服属関係確認の制度である。
古代中国の発明を近隣の小権力が模倣したが、
「一世一元」は、明治政府の発明品。
新憲法下の皇室典範はこれを踏襲した。
元号は天皇制と一体不可分である。
国民の元号使用の蔓延が天皇制を支える構造にある。
☆元号は、「欠陥商品」である。
元号は国民の日常生活において使用される道具として、
消費生活における商品に擬することができる。
「商品」とは、消費市場における消費者の選択によって淘汰されるもの。
通常は、商品の「性能と価格」が、消費者の選択の規準となる。
その「性能」の重要な要素として、「安全性」がある。
表示され,期待された性能を持たないという意味での「欠陥」と、
一見しただけでは消費者に見えない危険の意味での「欠陥」とがある。
☆元号は、紀年法として、不便・不合理極まる欠陥を有する。
元号は、賞味期限も消費期限もあまりに短い。
元号通用の地域限定性は、耐えがたい欠陥である。
元号は必然性なく突然に変わる。
たった一人の人間の生死や都合に、他の全員が付き合わされる。
国民生活における西暦・元号の併用のコストは許容しがたい。
☆元号は、不便・不合理を越えて有害である。
元号は、天皇制を支える非民主的な存在として有害である。
元号は、天皇を神とするイデオロギーに起源をもち、
政教分離の精神に反する存在として有害である。
元号は、現体制への服属を肯定するか否かの踏み絵となる点で有害である。
歴史やニュースの国際的理解を妨げる。ナショナリズム昂揚に資する。
元号は、これを使いたくないと考える国民に、事実上使用強制となる点で、
思想・良心の自由(憲法19条)を侵害するものである。
☆いまどき、そんな欠陥商品が、何故大売り出しされるのか。
戦後民主主義の高揚期には天皇退位論だけでなく、元号廃止論が有力だった。
その典型が日本学術会議の「元号廃止・西暦採用の申し入れ」(1950年5月)
内閣総理大臣と、衆参両院の議長に宛てた申し入れ。(後掲資料)
元号の不合理だけでなく、民主国家にふさわしくないことが強調されている。
ところが、保守政権とともに、天皇制が生き延び、元号も生き延びた。
1979年には元号法が制定され、2012年自民党改憲草案には憲法に元号を書き入れる案となっている。
合理性を追及するビジネスマインドからは元号廃絶が当然の理だが、
改憲志向・戦前志向・天皇制利用志向・歴史修正主義・ナショナリズム志向の安倍政権には、新元号制定を「手柄」とし、政権浮揚の道具とする意図があったと考えられる。そして、残念なことに、少なからぬ国民とメディアがそれを許している。
? レジメ(のちほど、お読みください)
※はじめに
私は、弁護士として長く消費者問題に取り組んできました。消費者問題とは、もともとは個々の消費者が安全・安心な消費生活を送るにはどうすればよいかという問題意識から出発ています。
主として、個別の事業者と消費者間の消費者契約という関係を通じて、あるべき消費生活を考えることになります。食品の安全性の確保や悪徳商法被害の救済などが、典型例となりますが、消費者問題は、それにとどまらない背景をもっています。
市場における消費者集団の連帯した行動を通じて、より望ましい社会の形成を目指すことができるのではないか,という問題意識です。あくまで、主体は消費者、その消費者の消費市場における日常の賢い選択で、より良い社会を築くことができるはず。そういう発想です。
※そのような発想から、「元号は欠陥製品だ。この際、使うのやめよう。」という意見が出てきます。
明治・大正・昭和・平成という元号。年を表示するための道具だが、これは使い勝手の悪い、不便な道具だ。道具としては出来の悪い欠陥品というしかない。時は、切れ目なく続くのに、元号は何の合理性もなく不自然に、そして突然に時代を区切ってしまう。そこに、欠陥の本質がある。
ある人の生年月日と死亡年月日から、その人の死亡年齢を計算しようとする。西暦表示なら引き算一回で済むところを、元号表示だと、異なる元号を西暦に換算したうえでの計算を必要とする。この元号から西暦への換算は、あらゆるところで問題となり厖大なビジネスのコストとなる。
元号の欠陥は、その賞味期限限定性と、地域限定性にまとめることができる。
元号は有限であって、その期間は一世代分しかもたない。平均30年というところである。しかも、現在の元号がいつ終わるか、次の元号がいつから始まるかわからない。何よりも、次の元号が決まらないのだから、将来の年の表示ができない。これは、致命的な欠陥である。
もう一つ重大な欠陥は、このグローバルの時代に、元号は日本以外に通用しないということ。国内限定の製品なのだ。内向き、外向きで使い分ける? そんなバカバカしいことをする必要はない。すべて西暦で統一すればよいだけのこと。
平成が終わった。これを機に、こんな不便な欠陥品の押しつけは拒否しようではありませんか。
※同じ発想で、次のようなことも。
DHCとは、デマとヘイトとスラップの三位一体企業。皆様に、この場をお借りして三つのお願いを申しあげたい。
一つ、DHCという会社の商品をけっして買わないこと。
二つ、DHCという会社の商品をけっして買うことのないよう、お知り合いに広めていただくこと。
そして三つ目が、DHCという会社の不当・違法をことあるごとに話題にしていただくこと。
ときに、「それって営業妨害になりませんか」と、おそるおそる聞く人がいる。 そのとおり。私は、「みんなで、DHC・吉田嘉明の営業を妨害しましょう」と、呼びかけている。ぜひ皆様、DHC・吉田嘉明が、「デマやヘイトやスラップは、社会から反撃を受けることになって、商売上まずい」「やっぱり、真っ当な商売に徹しないと売り上げに響く」と反省するまで、できることなら、心を入れ替えるまで、その営業を徹底して妨害しようではありませんか。
不買運動の本質は、まさしく「営業妨害」である。しかし、実力(威力)やデマ(偽計)を用いる営業妨害ではない。堂々と言論を行使して、多くの消費者の理性に訴えて、不買を呼びかけようというものである。その合法性に一点の疑念もない。
サプリにせよ、化粧品にせよ、DHCの製品を買うか買わないかは、消費者の選択の自由に任されている。DHCの商品を買わなければ困ることなんてない。外の会社の製品で、間に合わない物などあり得ない。消費者の市場での購買行動は、通常は商品の性能と価格、そしてブランドイメージなどで、決まることになる。
しかし、これだけを動機とする消費行動は、賢い消費者のものとは言えない。民主主義社会の主権者としての消費者行動でもない。消費生活に、社会的な公正の視点を据えていただきたいのだ。
たとえば、価格は低廉であっても、環境問題を無視した製法による商品、少年労働によって作られた製品などは買ってはならない。同じく、パワハラやセクハラが横行している企業、政治資金規制法の脱法をしている企業の製品を購入することは、そのような体質の企業を応援することになり、社会の公正を損なうことになる。
私は、この経済社会の消費者が、同時に政治構造の主権者でもあることの自覚が大切だと思う。消費者としての行動の積み重ねによって、反社会的な企業を駆逐することができる。必ずしも駆逐する必要まではないが、企業の反社会的な行為に反省を迫り、やめさせることができる。それが、特定企業に対する商品ボイコットである。不買運動と言った方が分かり易いかも知れない。
DHCという企業は、MXテレビに「ニュース女子」という番組を提供して俄然有名になった、天下に悪名とどろくあのDHC。あれ以来、「デマ(D)とヘイト(H)のカンパニー(C)」として、全国に知られるようになった。
デマとヘイトとスラップ。DHCはこの三拍子を揃えた、三位一体の反社会的な体質をもった企業なのだ。消費者の一人が、なんとなく無意識のうちにDHC製品を買えば、デマとヘイトとスラップの三拍子に加担して、社会悪を蔓延させることになる。うっかりとDHCの製品を購入することがないよう訴えたい。貴重なお金の一部が、DHCに回れば、この社会における在日差別の感情を煽り、沖縄の基地反対闘争を貶めることになる。このことは、安倍改憲の旗振りに寄与することでもある。さらに、言論の自由を抑圧するスラップ訴訟の資金となり、こんな訴訟を引き受ける弁護士の報酬にまわることにもなる。
(以上のDHCを安倍政権に、DHC製品を元号に置き換えて、お読みください)
※ 元号は不便なだけでなく、有害なのだ。この際元号使用を止めよう。
元号とは、天皇の代替わりがあると、時代をリセットして年を数え直すという仕組み。一億人の日本人のうちのたった一人の都合に、ほかの全員が付き合わされるという無茶苦茶な年の数え方。
なぜ、誰が考えてもこんな不合理なことがまかり通るのか。為政者が国民に元号を使わせたいからだ。なぜ、為政者は国民に元号を使わせたいのか。元号と天皇制とが緊密に結びついており、国民生活に天皇制を刷り込むためには、元号使用が効果的だからだ。為政者は、なぜ国民生活に天皇制を刷り込みたいのか。天皇の権威を受容する国民こそが、御しやすい為政者に好都合な被治者だからだ。憲法が想定する、自立した主権者としての意識を確立した国民こそは、為政者のもっとも嫌うところなのだ。
だから、元号使用は「臣民」にこそふさわしい。主権者としての自立した国民に元号使用はふさわしくない。これを機会に元号使用はもうやめよう。
※「元号使用」の拒否こそが主権者としてのありかただ。
元号使用の法的義務はありません。そんな押しつけができるわけはない。しかし、為政者は巧妙に元号を使わざるを得ないような仕掛けを考えます。役所に行けば、元号の世界。断固拒否するのは、やや勇気の要ること。また、問題は、元号使用強制の社会的圧力です。一人ひとりの個人が自由であるとは、自分を取り巻くいくつもの集団の圧力に縛られないということなのですが、これがなかなかに難しいことと言わねばなりません。
とりわけ、このところ少し社会の風向きがおかしいように思うのです。気になるのは、メディアの天皇への過剰な敬語や、皇族への過剰な遠慮。なんとなく恐れ入った態度の蔓延です。
さて、天皇が交替します。天皇・明仁からその長男・徳仁へ。天皇が誰であろうと、私たちの暮らしに何の関わりもありません。あってはならないのです。この、騒ぐこともない、どうでもよいはずのことを、なんだかたいへんなことのように、大騒ぎする人々がいます。それを煽る人々がいます。天皇の交替で、時代が変わるもののごとくに。
その「時代が変わる」と思わせる仕掛けが元号の変更です。実際は何も変わりません。天皇の交替など、国民にとって、どうでもよいことなのです。元号という時の区切り方を発明した本家は中国です。こちらが、「皇帝が時を支配する」という大ウソの本家本元。中国の周りの国のミニ皇帝たちが、これを真似しました。ウソの分家です。日本もその一つ。本家の中国では、今は元号を使っていません。煩わしくて、ビジネスにも政治や経済にも日常生活にも、学問や科学技術にも、そして何よりも国際交流に、不便なことが明らかだからです。年代の表記はグローバルスタンダードである西暦一本とすることが最もシンプルで便利。いまや、元号というローカルなツールに固執しているのは、日本のみ。こんなものを後生大事に抱えていて、日本はホントに大丈夫なのでしょうか。
天皇制と結びついた、不便な元号など使わないことが、主権者としての国民に最もふさわしいありかただと思います。ところが、そうすると往々にして、社会的同調圧力が働きます。「あなたは日本人でありながら、日本に固有の元号を使わないの?」「もしかして、あなたは非国民では?」という圧力。イジメの構造と変わるところがありません。この圧力に負けてしまうと、国民主権の実質が失なわれかねません。天皇制を便利な道具としようという、政権運営の思惑を許してしまうことになってしまいます。
元号変更の機会に、ちょっとの勇気を発揮して、元号使用を止めませんか。役所や、銀行や、郵便局や、宅配業者などの窓口で、元号での年月日記入を求められることがあったら、必ず西暦で記入しましょう。それを咎められたら、「元号使用を強制するとおっしゃるのですか」「私は西暦使用にこだわります」とがんばってみてください。小さな抵抗の積み重ねが大切だと思います。勇気をもってのイジメからの離脱が、イジメをなくすることにつながるように、小さな元号使用拒否の動きが、再び天皇の政治利用を許さない、民主主義社会の形成につながるものと思うのです。
※10月22日。まったくバカげた光景が国民の眼前に展開される。仰々しく行われる一連の新天皇就任式。その儀式の中心をなすのが「即位礼正殿の儀」。その式次第の一部が次のとおりである。
1 三権の長、皇族、天皇、皇后の順に正殿松の間に参入する。
2 天皇、皇后が高御座、御帳台に昇る。
3 参列者が鉦の合図により起立する。高御座、御帳台の帳が開けられる。
4 参列者が鼓の合図により敬礼する。
5 内閣総理大臣が御前に参進する。
6 天皇の「おことば」がある。
7 内閣総理大臣が寿詞を述べる。
8 内閣総理大臣が即位を祝して万歳を三唱する。参列者が唱和する。
自衛隊により、21発の礼砲がうたれる。
以上の次第のとおり、安倍晋三は、高御座(たかみくら)の新天皇(徳仁)を仰ぎ見て、臣下として「テンノーヘイカ・バンザイ」とやるのだ。これに、衆参両院の議長や最高裁長官らが唱和する。何という、未開野蛮の恥ずべき光景。天皇と臣下との関係を可視化して、国民に見せつけようというのだ。もちろん、そうすることが、この国の国民を統御するために有効だとの思惑あっての演出である。安倍晋三は、国民代表を僭称する立場で、新天皇に臣従の意を表す。主権者としての国民代表ではなく、臣民の代表としてである。
これが、国民主権の国家儀式なのだ。一見喜劇だが、実は救いようのない悲劇ではないか。
? 資料1(日本学術会議の元号廃止 西暦採用について)
昭和25年5月6日
衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣
日本学術会議会長 亀山直人
元号廃止 西暦採用について(申入)
本会議は,4月26日第6回総会において左記の決議をいたしました。
右お知らせいたします。
記
日本学術会議は,学術上の立場から,元号を廃止し,西暦を採用することを適当と認め,これを決議する。
理 由
1. 科学と文化の立場から見て,元号は不合理であり,西暦を採用することが適当である。
年を算える方法は,もつとも簡単であり,明瞭であり,かつ世界共通であることが最善である。
これらの点で,西暦はもつとも優れているといえる。それは何年前または何年後ということが一目してわかる上に,現在世界の文明国のほとんど全部において使用されている。元号を用いているのは、たんに日本だけにすぎない。われわれば,元号を用いるために,日本の歴史上の事実でも,今から何年前であるかを容易に知ることができず,世界の歴史上の事実が日本の歴史上でいつ頃に当るのかをほとんど知ることができない。しかも元号はなんらの科学的意味がなく,天文,気象などは外国との連絡が緊密で,世界的な暦によらなくてはならない。したがって,能率の上からいっても,文化の交流の上からいっても,速かに西暦を採用することか適当である。
2. 法律上から見ても、元号を維持することは理由がない。
元号は,いままで皇室典範において規定され,法律上の根拠をもっていたが,終戦後における皇室典範の改正によって,右の規定が削除されたから,現在では法律上の根拠がない。もし現在の天皇がなくなれば,「昭和」の元号は自然に消滅し,その後はいかなる元号もなくなるであろう。今もなお元号が用いられているのは,全く事実上の堕性によるもので,法律上では理由のないことである。
3.新しい民主国家立場からいっても元号は適当といえない。
元号は天皇主権の1つのあらわれであり,天皇統治を端的にあらわしたものである。天皇が主権を有し,統治者であってはじめて,天皇とともに元号を設け,天皇のかわるごとに元号を改めるととは意味かあった。新憲法の下に,天皇主権から人民主権にかわり日本が新しく民主国家として発足した現在では,元号を維持することは意味がなく,民主国家の観念にもふさわしくない。
4.あるいは,西暦はキリスト教と関係があるとか,西暦に改めると今までの年がわからなくなるという反対論があるが,これはいずれも十分な理由のないものである。
西暦は起源においては,キリスト教と関係があったにしても,現在では,これと関係なく用いられている。ソヴイエトや中国などが西暦を採用していることによっても,それは明白であろう。西暦に改めるとしても,本年までは昭和の元号により、来年から西暦を使用することにすれば,あたかも本年末に改元があったと同じであって,今までの年にはかわりがないから,それがわからなくなるということはない。
?資料2 元号法(昭和五十四年法律第四十三号)
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附 則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
(2019年10月22日)