「無実の死刑囚 三鷹事件 竹内景助」を薦める。
高見澤昭治さんの近著「無実の死刑囚? 三鷹事件 竹内景助」(増補改訂版)を読み終えた。読後感は重い。
日本評論社刊のこの書物の発行日は、2019年10月1日。周知のとおり、東京高裁が遺族からの再審請求を棄却したのが7月31日である。この増補改訂版は、「再審開始決定」を想定しての、言わば「再審開始決定・祝賀記念版」として出版準備がなされていたに違いない。それが、弁護団にとっては思いもかけない棄却決定となり、裁判所・検察への抗議と、世論への訴えの書となった。泉下の竹内とその妻(政)は、度重なる試練をどう受け止めているだろうか。
私は、学生時代に松川事件の救援運動の末端に関わった。その関わりの限りで、三鷹事件にも関心をもってはいた。松川も三鷹も、あるいは菅生も、青梅も白鳥も鹿地事件も「階級的弾圧としての謀略」と考えていた。松川の全員無罪を言い渡した仙台高裁門田判決後の時期、三鷹事件でも共産党員被告全員無罪が確定していた当時のこと。
松川も三鷹も、法廷闘争において既に赫々たる成果を上げ得たとの印象が強く、三鷹事件の再審はさほどの規模をもつ運動にはなっていなかった。そのことに、なんとはなしの引け目のような違和感を持ち続けてきた。非党員竹内景助一人を有罪にしながら、11名の党員被告全員無罪を大きな成果と喜んでいることへの引っかかりである。
しかも、竹内は一審判決では無期懲役だったが、控訴審では弁護人の方針に従って事実を争わないままに死刑判決を得た。そして、最高裁判決は8対7で、上告を棄却し竹内の死刑を確定させた。一票の差が生命を奪う判決となったのだ。なんという後味の悪い経過であったろう。
確かに、竹内の供述は揺れ動いた。否認・単独犯行・共同犯行を、法廷の供述で行きつ戻りつし,裁判所は単独犯行と認定した。この供述の揺れはどうしてなのだろうか。三鷹事件の裁判に関心をもつ者がおしなべて謎とするところである。同書は、この点について弁護人からの働きかけの問題点を幾度となく指摘している。たとえば、次のように。
『文藝春秋』1952年2月号に、獄中の竹内からの寄稿が掲載されている。「おいしいものから食べなさい」という題名。文章は次のような書き出しで始まっているという。
「おいしいものから食べなさい。冒頭から、まことにおかしなことを書きはじめたが、正月の料理だの、婚礼祝いの御馳走だの、要するに、日常茶飯の間において、人は御馳走が出たら、一番うまいものから順に食べて、まずいものはなるべく後に残しておくがいい、という至極当たり前のことなのである。ところが、こんな当然過ぎることを、私は齢30過ぎになって、しかも死刑囚という汚名に呻吟する身になって、初めて理解したのだ。」
奇妙な書き出しであるが、一般の読者に興味を持って読んでもらうために、自分の小さいときからの性癖を紹介し、死刑囚となった原因がそこにあるということを印象づけるねらいがあった。手記には検事の拷問的な取調べについても厳しく糾弾していたが、支援運動などに携わっているものにとって一番衝撃的であったのは、単独犯行であるといい続けることが他の共産党員の被告を救うためにも、また竹内自身のためでもあると弁護人から説得されたことが詳細に書かれ、さらに共産党を批判した部分であった。
その内容については、すでに引用して紹介したので省略するが、上告が退けられた後には、「竹内君、余り心配しなさんな。すぐには殺されないだろうからね…」と弁護人から言われ、「この一点非のうちどころのなき冷酷、非情な一言を聞いて、私ははじめて彼の陰謀に踊らされてきた自分の愚かさを悟ったのである」という思いを書き綴っている。そしておそらく編集部で付けたと思われる「共産党員の背徳」の項では、「想えば彼等に信頼、友情、人間愛などを期待した私は本当に馬鹿者であった。私は彼等を責めるより先に、自分の間抜けさを責めなければならないかも知れない」と記している。それが「おいしいものから食べなさい」という表題をつけた真意だというのだ。
普通、人はまず美味しいものから箸をつける。竹内は、自分もそのようにすべきだったと後悔しているのだ。むろん、美味しいものとは「無罪」である。無実なのだから、揺るがずに無罪を叫び続ければよかった。ところが、優先順位を間違えて、私的な利益に箸をつけることなく、共産党や労働運動への信義という、苦い味のものに箸をつけてしまったというのだ。その結果が、死刑の判決だった。
また、精神科医として竹内と面会した加賀乙彦は、竹内がこう言ったと記している。
「おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。それが過ちのもとでした。けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです。」
竹内は共産党員ではなかったが、明らかに党には敬意とシンパシーをもっていた。その彼の単独犯行自白の維持は、迷いつつも身を犠牲にして党を救おうという意図に出たものだったのだろう。彼なりの使命感であり、ヒロイズムであり、誠実な生き方であったと思われる。しかし、まさかその結果が死刑判決とは思ってもいなかった。
死刑判決の後は、凄まじい覚悟で、上告趣意書を書き、厖大な再審請求書の作成に没頭する。再審請求書とその補充書は併せて60万字にも及ぶという。その執念の再審請求にようやく曙光が当たり、実を結ぶかと思われたそのときに、竹内は獄中で無念の死に至る。
竹内景助。その劇的な生涯は多くのことを語りかけている。この好著を通じて、ぜひ彼の語りかけてくるところに耳を傾けられたい。
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(2019年12月14日)