澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

入管行政に色濃く残されていた戦前的なるものの残滓「特高の組織体質」

(2021年5月27日)
 今通常国会は6月16日(水)に閉会となる。残された日程は、20日にも足りない。ここまでの審議を振り返って特筆すべきは、入管法改正法案の撤回であったろう。間もなくの解散、総選挙という日程を考えれば、事実上の廃案である。菅内閣も与党も、実はそれほどの強さをもってはいないのだ。彼らも、メディアや世論の目が恐い。次の選挙を意識せざるを得ないから、分かり易く不人気なテーマをゴリ押しすることはできない。そのことを如実に教えてくれた法案の扱いであった。

 同法案をめぐって、野党は、名古屋出入国在留管理局の収容中に起きたスリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん死亡事件の真相解明を強く要求した。立民、共産、国民3野党国対委員長は、ウィシュマさん収容中の「容態観察」のビデオ開示を求め、これを拒否する政府与党との攻防が法案の成否を決した。

 政府は、どうしてもこのビデオを公開したくないのだ。徹底して公開を求める野党の方針が揺るがないとみるや、与党は一転法案審議の進行を諦めた。喧伝されているとおり、これは「国民世論と野党共闘の大きな勝利」と言うべきだろう。これを機に、入管行政の抜本改革が望まれる。この点について、本日配刊の「週刊金曜日」(5月28日号)『政治時評』に、望月衣塑子がこう解説している。

 「与党はいったん強行採決に踏み切る姿勢を見せていた。成立断念の理由は『人権上の懸念』でも、『人管行政の不備』を認めたからでもない。ひとえに『ビデオを見せないまま強行採決すれば、選挙に不利に働く』という打算だった。」

 「なぜ開示しないのか。五輪の直前に、これら非人道的な映像と記録に注目が集まれば、ホスト国・日本の人権意識の低さが世界に露わになる。五輪を政権浮揚と選挙対策に、ともくろむ菅義偉首相にとって、最も避けたい状況だろう。」

 なるほど、そのとおりであろう。今回の法案審議の過程で、多くの人が、入管行政の反人権的な在り方を知って心を痛めた。なぜ、入管の体質はこんなにも高圧的で、反人権的なのだろうか。入管行政には、特殊な組織文化とか、組織体質があるのではないかと訝しんだ。あるいは、日本自体が持つ外国人に対する排外主義的傾向の露呈なのだろうか。

 それに答えるものが、5月22日付朝日新聞の(天声人語)欄「特高と入管」であった。その一部を引用する。

 「戦前の特別高等警察、略して特高は反体制運動を弾圧した。治安維持の名の下、捕らえた人の扱いは熾烈(しれつ)を極めた。プロレタリア作家小林多喜二を拷問して死に至らしめたのは有名な話だ▼特高が担った役割の一つが外国人、それに朝鮮など植民地の人たちを扱う入国管理だった。戦後、その特高関係者の少なからぬ部分が公職追放を免れ、様々な形で入管の仕事に携わったと国際法学者の大沼保昭氏が指摘している(『単一民族社会の神話を超えて』)▼もしやかつての体質を引きずっているのではないか。そう思わせる現代の入管である。」というのだ。

 この点を、敷衍して五野井郁夫という若い政治学者が「日本の入管が持つ、警察行政のDNA」として、こう解説している。

 戦前、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察(特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていた。
 1945年の敗戦にともない、占領軍によって内務省は解体された。それにともない特高警察も解体されたものの、おもに大日本帝国内での市民だった朝鮮人や外国籍の者たち、そして共産主義者らを取り締まっていた官僚たちの多くが公職追放を免れたことで、戦後の初期から出入国管理業務に携わる部署の一員として引き続き雇用されることとなった。
 
 これについて国際法学者の故大沼保昭は、敗戦直後の占領期に出入国管理体制に携わった人々からのインタビュー調査を行っている。
 調査の結果、入管業務従事者とその周辺のかなりの部分が旧特高関係者で占められており、とりわけ在日朝鮮人らに対する強い偏見や差別観をもち、入管業務対象者に対してはつねに公安的な発想で接していたことが、明らかとなったという。

 戦後初期の入管担当者に聞き取りをした故大沼の表現を借りれば、旧大日本帝国の植民地下にあった在日韓国・朝鮮人、台湾人に対する管理と差別意識がそのまま「外国人と日本国民の間に差別があるのは当然」という形で正当化され、また悪名高い戦前の特高警察が主要な担い手であったことから「戦前の感覚」が存在して、引き継がれたというのである(「論座」)。

 「悪名高い戦前の特高警察が主要な担い手であったことから「戦前の感覚」が、今に至るまで引き継がれた」というのだ。この指摘もなるほどと思わせる。そのとおりだとすると、私たちの社会は、いまだに「戦前」を払拭できていないのだ。

 戦前と戦後は断絶しているというのが建前ではある。しかし、この建前は飽くまでタテマエに過ぎず、実は多くのところで戦前の残滓が顔を出し、あるいは大手を振っている。もちろん天皇の存在も、日の丸・君が代も、家父長制の残滓も然りである。安倍晋三の人格などは、徹頭徹尾戦前的なるもので形成されている。それには驚かないが、戦前の天皇制と専制政治を支えた制度の精神の根幹をなす特高の組織体質が、脈々と今に生きているとの指摘には驚かざるを得ない。

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