澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「教師の私が起立することは、大きな強制力を持って生徒を起立させ、その内心の自由を奪うことでした」 ー 東京「君が代」裁判の法廷で。

(2022年7月15日)
 昨日の東京地裁709号法廷。午後3時から、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第5回口頭弁論。担当裁判所は民事第36部。原告側から、準備書面(8)と(9)と書証を提出して、原告2人と代理人1人の口頭意見陳述があった。

 709号法廷の傍聴席数は42。その全席を埋めた傍聴の支援者を背に、意見陳述は迫力に満ちていた。原稿を目で追って読むのと、本人を目の前にしてその肉声を聴くのとでは、訴える力に格段の差が生じる。肉声なればこそ、本人の気迫が伝わる。それだけではなく、その必死さ、真摯さ、悩みや葛藤の深刻さが伝わる。聞く者の胸に響く。裁判官3名は、よく耳を傾けてくれた印象だった。

 次回も次々回も、原告2人と代理人1人の意見陳述の予定。真面目な教員であればこそ、「日の丸・君が代」強制に応じがたく、悩みながらも勇気をもって不起立に及んだ原告の心情に、担当裁判官の人間としての共感が欲しいのだ。

 昨日の法廷での、原告のお一人の陳述の内容をご紹介する。家庭科の教員をしておられる方。「起立して国旗に正対し、国歌を斉唱せよ」という職務命令に従えなくなったのは、担任した在日の生徒との関わり方に悩んでの末のことだという。

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 原告の一人として意見を申し上げます。
 1993年に都立高校の教員になり、足立高校定時制に勤めました。定時制の生徒の多くは、中学校時代まで不登校だったり問題行動を起こしたりと、教師や社会に対してよい印象を持っていません。真剣に向き合わないと欺瞞や嘘はすぐ見抜かれてしまいます。一日一日が真剣勝負です。私は生徒と同じ目線で対話を繰り返すことで信頼関係ができること、信頼関係ができれば生徒も変化していくことを学びました。

 外国籍の生徒も多く、私のクラスにも在日韓国人の生徒がいました。彼女は周囲に対してすぐとんがって喧嘩してしまい、問題を起こす生徒でした。彼女とは民族のアイデンティティを大切にして対話することを試みました。「もうひとつ名前があるでしょ」と、2人きりで話す時は本名で呼び、それに慣れた頃、地元の在日コリアンの高校生の集まりに誘いました。その時、彼女の表情がやわらいで、別人のようにおとなしくなりました。これが本当の彼女でした。とんがっていたのは、バカにされないように精一杯虚勢をはっていたからでした。自身の民族性にふれるうち少しずつ変化がみられ、クラスの女子とうまくやろうと努力し始めました。

 また家庭訪問をくりかえすうちに、彼女の母親も自分のことを話してくれるようになりました。戸籍がなくて大人になってから自分で取り寄せたこと、民族学校が閉鎖されてなかなか教育を受けられなかったことなど戦中戦後の苦労話です。生徒たちが抱えている問題の背景には戦争があることを実感しました。侵略戦争のシンボルだった日の丸君が代は、特にアジアの人々には強制すべきでないと確信を持ちました。

 4年生の担任を受け持ったクラスには、60代のOさんがいました。当時の卒業式では、式場に君が代・日の丸はなく、校長との話し合いで屋上に日の丸を三脚で立てていました。卒業前のHRでどんな卒業式にしたいか、日の丸・君が代についてどう思うか、話した時です。普段寡黙なOさんが怒りをあらわにしました。「私は小学校の頃、ガキ大将だった。戦争中は休みの日にも天皇関係の行事で学校があって、サボると教師に殴られた。戦争が終わると墨塗りの教科書になり、教師達の言うことが180度変わった。教師なんて信用できない。教育なんてくそ喰らえ、と思って中学卒業と同時に働きに出たが、社会に出ると学歴の壁は厳しかった。人生のしめくくりとして高校に来ました。その卒業式に日の丸・君が代はやめて下さい。」Oさんが教育に対してそんな思いでいたとは驚きでした。時代によってコロコロ言うことが変わるなんて信用できない。Oさんの言う通りです。Oさんに信用される教師になりたいと思いました。自分が正しいと思ったことはどんな時代がきても、信念を持ってちゃんと伝えられる教師になりたいと思いました。

 2003年10.23通達が出された時、私は豊島高校定時制の4年生の担任でした。職場は大混乱。生徒にどう話そうか悩んでいたら、当時大々的にニュースに流れていたので、生徒の方から自分達の卒業式はどうなるんだと質問や不安の声が飛びかいました。そこで学年合同HRを行うことにしました。1回目のHRは、不登校や引きこもりだったおとなしく真面目な生徒だけが参加していました。「色々変わって、教員の私には不起立の自由はないけど、生徒のみんなには内心の自由があるよ。」と説明しました。しかしいくら説明しても、「たまき(教師である私を生徒は名前で呼びます)も一緒に座ってよ」と、声があがるだけでした。

 式場で立つように言われて立たないのは勇気の要ることです。私が起立せず座ればそれが彼女たちの防波堤になると思いました。翌週2回目のHRの時は、前の週欠席していたヤンキーやギャルの一団が加わりました。彼らは日の丸・君が代があると「式っぽい」とか「かっこいい」と大賛成。そのとたん、前回のHRであれほど「たまきも一緒に座って」と声をあげていた生徒達が一斉に口をつぐみました。彼らが怖くて自分の意見が言えないのです。気まずい抑圧された雰囲気のままHRは終了しました。口をつぐんでいた生徒の一人が寄ってきて「歌いたくない人は座ってもいいでしょ」と念押ししにきました。意見を言えなくても行動できる生徒がいると救われた気持ちでした。

 さて卒業式はどうしようか。HRで自分の意見も言えない弱い彼らを守るには私が座るしかないと思いました。生徒の内心の自由は守りたい。しかし初めて出された職務命令に従わなければどうなるのか想像もつきません。まだ私は若かったし、定年までの人生を考えるとどうなるかわからない恐ろしさは半端ではありません。

 卒業式当日、悩み抜いた結果、苦渋の末に起立しました。すると「たまきも座って」と言っていた生徒たちがうらめしそうにこっちを見ています。そして「座ってもいいでしょ」と念押ししにきた生徒だけが座りました。でも、彼は落ち着きなさそうに周囲をきょろきょろ見渡し、居たたまれなくなって曲の途中からゆっくりと腰をあげ、曲の最後には立ちました。この光景は忘れられません。わたしは、立ったことを激しく後悔しました。私を頼ってきた生徒の信頼を完全に裏切ってしまいました。私が立つということは、生徒の内心の自由を守れなかっただけではなく、生徒を立たせてしまい、大きな強制力を持って生徒の内心の自由を奪うことだったのです。「教師なんて信用できない。教育なんてくそ喰らえ」と言ったOさんを思い出しました。

 しかし私は生きていくために働かなくてはいけない。馘にならないで働き続けるには命令に従ってやり過ごすしかない。そう自分に言い聞かせて、その後は、君が代が流れる40秒間は心とからだを分裂させ、この辛いことをやり過ごす努力をしてきました。「私はここに立っているけど私の魂はここにはない」と、40秒の間、体育館の上空に魂を飛ばしていました。しかしいくら自分をごまかしても、息苦しさは増すばかりでした。

 2013年に担任を持つことになりました。10.23通達の出た年以来10年ぶりの担任です。入学者名簿を見ると、外国籍の生徒や障害を持つ生徒がいるなど様々です。今度は後悔したくない。また生徒と真摯に向き合いたい。今度こそ生徒に信用される教師になりたい。そう思うと、もう入学式でも卒業式でも立つことはできませんでした。

 生徒それぞれにいろいろな背景やルーツがあります。君が代を強制することは生徒の人権を侵害することです。起立斉唱の強制は、教師だけではなく、生徒たちも苦しめ、生徒の人権を抑圧しています。10.23通達と職務命令を続けることは、生徒の人権抑圧を許すことになります。どうか裁判所にはそのことに目を向けていただき、10.23通達を違法とする判断をお願いいたします。

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