「平成の天皇制とは何かー制度と個人のはざまで」を読む。
岩波から今年7月に出た論文集。吉田裕と渡辺治のネームバリューでこの書を手に取る読者が多いのだろうが、執筆者は総勢9人。若い研究者の見るべき論稿もある。天皇(明仁)の「生前退位希望メッセージ」をめぐる問題だけでなく、「象徴天皇とは何か」「天皇の公的行為をどう考えるべきか」を論じる際のスタンダードを提供するもの。
渡辺治が、「近年の天皇論議の歪みと皇室典範の再検討」と題する30頁の論文を掲載している。さすがに説得力があり熟読に値する。その最後を「天皇制度そのものの廃止は、上記のような憲法のめざす象徴性の構想の実現、典範改正による自由の制限、差別を解消していく方向の徹底を通して以外にあり得ない。それは、とりもなおさず、国民が自らの上に立つ権威への依存を否定し、民主主義と人権の貫徹する社会へ向けて前進する営みにほかならない」と、将来の天皇制の廃止への展望で結んでいることが印象的である。
巻末の座談会で、最も若い河西秀哉(77年生)が、こう言っているのが興味深い。
「明仁天皇が、即位して以降、右肩上がりの経済成長はみられず、格差社会が進行しています。(天皇には)そのことへの危機意識(があります)」「だからこそ彼は、社会の中心からこぼれ落ちる人たちをいかに救うかということを考えているのだと思います。」「社会福祉施設を積極的に訪問したり、地震の被災者を訪問したりする」「そのような人たちを自分が能動的に統合していかなければ、どんどん日本という共同体が崩壊していく」「だからこそ、その機能を象徴天皇である自分が果たせなくなったときは、退位せざるを得ない、ということになる」
これに、同年代の瀬畑源(76年生)も同意してこう言う。
「沖縄もそうですね」「戦後70年が経つ今でも、基地問題をはじめ、沖縄の人は、日本国内からいわば疎外されているわけです。その沖縄に天皇が通い続けるのは、明らかに国民として沖縄の人々を統合するためでしょう」「国民統合の一番危ういつなぎ目である沖縄に対して、明らかに天皇が肩入れし、しかもそれが機能している」
54年生まれの吉田裕が賛意を表しつつ、その効果については疑問を呈する。
「昭和天皇と違うのは、やっぱりそこですね。自らの行為が統合としての意味を持ち得ている。ただ、逆に言えば、さらに社会の分断が進んだときに、あの程度の行為で統合できるのかという問題にもなるかとは思いますが」
なるほど、そういうことなのだ。平成流と言われる現天皇の象徴としての行為とは、競争至上主義の政治と経済によって置き去りにされた人々を、日本という共同体につなぎ止めるための統合が目的なのだ。いわば、保守政治の補完作業。尻ぬぐいといった方が分かり易い。あるいは、体制が必然化する綻びの弥縫の役割。
河西は天皇(明仁)の意識を「社会の中心からこぼれ落ちる人たちをいかに救うか」にあると言う。しかし、天皇の行為としての「救う」とは事態を解決することではない。格差や差別を生み出す構造にメスを入れることでもない。むしろ、客観的な役割としては、その反対に社会の矛盾を糊塗し、何の解決策もないままに諦めさせること。しかも、心理的な不満を解消して、共同体に取り込み、こぼれ落ちた民衆の不満が社会や政治への抵抗運動に結びつかないようにする、「避雷針効果」が天皇の役割なのだろう。
このような天皇の機能や役割は、天皇を権威として認める民衆の意識なくしてはあり得ない。そして、このような民衆の意識は、意図的に刷り込まれ植えつけられたもので、所与のものとして存在したわけではない。この書の中で、森暢平が皇太子時代の明仁が伊勢湾台風被災者慰問のエピソードソーを紹介している。
「ご成婚」から間もない皇太子時代の明仁は、1959年10月伊勢湾台風の被災地を慰問に訪れている。当時25歳。4月に結婚した皇太子妃美智子は妊娠中で単身での訪問だった。伊勢湾台風は59年9月26日に東海地方を襲い、暴風雨と高潮で愛知、岐阜、三重3県に甚大な被害をもたらし、死亡・行方不明は5千人、100万人以上が被災の規模におよんだ。
中部日本新聞(のちの中日新聞)の宮岸栄次社会部長は、多くの被災者は「むしろ無関心でさえあった」と書いた。「いま見舞っていただいても、なんのプラスもない。被災者にとっては、救援が唯一のたのみなのだ。マッチ一箱、乾パン一袋こそが必要なのだ、という血の叫びであった」とまで断じている。皇太子の警護に人が取られ、「かえって逆効果」という新聞投書(45歳男性、「読売」1959年10月3日)もあったという。
この皇太子の慰問には、事前の地元への問い合わせがあった。これに対して、「災害救助法発動下の非常事態であるため、皇太子の視察、地元はお見舞いなどとうてい受け入れられる態勢ではなかった」「さきに天皇ご名代として来名(名古屋来訪)される話があったときも、すでにおことわりするハラであったし、十分な準備や警備は、むろんできないばかりか、そのためにさく人手が惜しいほどだったのだ」との対応だったが、それでも宮内庁側は「重ねて来名の意向を告げてきた」という。伊勢湾台風被災地訪問は、皇太子明仁の強い意欲もあったとされるが、成功していない。
私は、このときの水害被災者の受け止め方を真っ当なものと思う。深刻な苦悩を背負っている被訪問者が、天皇や皇太子に対して、「あなたは、いったい何をしに来たのか? あなたが私のために何ができるというのか?」と反問するのは至極当然のことではないか。
あれから60年。人心が変化したのだろうか。それとも、宮内庁とメディアによる「情け深い皇室」の演出が巧みになってきたのだろうか。
(2017年11月4日)