澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「ある医療過誤事件の報告」 ー 1996年の論稿

幼子を失った中原中也は、こう呟く。
 「愛するものが死んだ時には、
 自殺しなければなりません。
 愛するものが死んだ時には、
 それより他に、方法がない。
 ……
 愛するものは、死んだのですから、
 たしかにそれは、死んだのですから、
 もはやどうにも、ならぬのですから」

最近、医療過誤事件の受任が多い。そのほとんどが患者死亡事故で、愛する者を失った依頼者の痛切な思いの一端を背負うことになる。時にその重さにたじろがざるを得ない。
「もはやどうにも、ならぬ」身近な人の死について、いったい訴訟という無機質の手段は何をなし得るのだろうか。依頼者本人と受任弁護士とは、共同で何をしようとしているのだろうか。答えのないままに、訴訟は始まり、進行し、終わっていく。

1992年暮の12月29日午後6時、当時27歳のSさんは甲府の産科診療所で妻の出産に安堵の思いをしていた。初産の妻は過期妊娠として入院しており、陣痛誘発剤の投与による4350グラムの「巨大児」の出産だった。
ところが、事態は思いもよらない悲劇に発展する。妻は分娩室からなかなか出てこない。不安が募るうちに分娩室の様子が慌ただしくなり、午後9時30分救急車の出動要請となった。妻は地元の大学病院に搬送されるが、救急車に同乗したSさんが見た妻の姿は生者のものではなかった。
後の手続きで顕出された大学病院でのカルテの最初に書かれた3文字は、「DOA」(デッド・オン・アライバル、到着時死亡状態)。死亡診断書の死亡時刻は、その日の午後11時54分とされている。
Sさんはこの年の2月に結婚、12月には夫婦が赤ちゃんを迎えるはずの家を新築したばかり。妻はこの新居に3日だけ住んで帰らぬ人となった。こうして、生まれた子は自分の誕生日を母の命日として記憶することになった。
間もなく、Sさんの動める会社の紹介で私が事件の依頼を受けた。最初に、Sさんはこう言った。
 「妻の死を、このまま受け容れることができません。妻のために、できるだけのことをしなければならない気持ちです。訴訟という手段があるなら、妻のためにとことんやってみたい。」
セオリーどおりに証拠保全手続きをしてカルテを入手した。その中に、大学病院の産科長からの報告書があった。「遺族には、子宮破裂か羊水塞栓症による産科ショックと説明」「マルプラクティス(医療過誤)はないと思う。産科ショックは早期発見、管理は難しい」。壁は厚い。
提訴が、1993年の暮。3年間甲府の裁判所に通った。
被告の主張は、患者は羊水塞栓症だったということ。羊水塞栓は2万ないし3万の分娩に1例生ずる珍しい症例である。その発症機序は明らかでなく、予見も予防も不可能。そして治療方法はなく、死亡率は極めて高い。原告は、羊水塞栓の主張は産婦死亡事故における医師の常套手段であり、逃げ場に過ぎないとしてこれを争い、法廷では熾烈なやりとりが行われた。
この間、亡くなった妻の親族の多数が傍聴席を占め、Sさん自身の主張や立証手段の理解に熱心だった。進行につれて、被告となった医師側の事情や気持ちもわかってきたのではなかろうか。
この件では鑑定はなされず、後医として患者の死亡診断書を書いた若い医師の、冷静で客観的な証言がこれに代わる役割を担った。こうして、証拠調べを終えて、双方から最終準備書面が提出された段階で裁判所から和解勧告がなされた。
「合議の結果、転医措置の遅延に関しては有責との心証ですが、果たして早期の転医が実現していれば救命できたかという因果関係の点に関しては、必ずしも十分な心証を得たとは言えません。」
この前提で和解の交渉は進行したが、原告がこだわったのは和解金の金額ではなく被告の死亡患者に対する謝罪と再び同様事故を起こさないという誓約だった。被告がこれを容れることは困難だったが、交渉進展の中でSさん自身の気持ちが整理されていった感がある。その本来の願いは、医師の責任を追及して「謝罪」を求めるよりは、むしろ妻への「哀悼」の意思表明を求めるものであったろう。
何度かの和解案の摺り合わせのあと、最終的な和解条項第1項の文言はつぎのとおりとなった。
「被告(医師)は、原告らに対し、亡S女の診療に関し理想の診療に至らざるところがあったことを認め、今後理想の診療のために努力を重ねることを確約するとともに、亡S女に対して深甚の哀悼の意を表明する」
最後にSさんが納得したのは、被告医師が妻への墓参を約束してくれたことによる。なお、和解金は1800万円でまとまり、Sさんに金額の不満はなかった。
1996年12月10日、甲府地裁での和解成立直後に関係者は車に分乗してSさんの妻の墓所に向かった。うららかな冬の午後の日差しのなかで、先ほどまで被告だった医師は、用意した花束と線香を墓に供えた。被告代理人の弁護士も同道して、同様に死者に哀悼の意を表した。
Sさんや、亡くなった妻の両親、残された子らに対して、医師は「今後、このような事故をおこさぬよう、研讃をいたします」と、頭を下げた。誠実な態度だった。
Sさんは、万感の面もちで答礼した。妻の母は涙を浮かべて、「おかげさまで胸のつかえがとれ、もう気持ちが晴れました。あの子も成仏できます」と医師に精一杯の言葉を返した。
甲府駅までの車のなかで、Sさんは言った。
 「妻のために、できるだけのことをした思いです。これで、ようやく妻の死を受け容れることができます」
特に普遍的な影響を持つ「意義のある」訴訟ではない。しかし、今までにない、後味のよい受任事件の「解決」であった。生きた人間の営みの手段として訴訟が有効に働いたとの満足感があった。
自分が同様の被告事件を受任したら、あの被告代理人のように、線香と花束を用意して和解成立後の墓参に行ってみたいとも思った。
「キタニ ケンカヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイイ」と手帳に書き留めた賢治の気持ちは分からないではない。「それでは弱者の人権が…」と息巻くつもりもない。賢治がイメージした訴訟は、勝敗に関わらず、詩人にとって生きる価値とは無縁のものであった。
しかし、「愛するものが死んだ時に」「もはやどうにも、ならぬ」気持ちを癒す訴訟もあり得る。
そのような訴訟を担う人に、ワタシハナリタイ。
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以上は、私が、東京弁護士会・期成会の機関誌「Wa」に掲載した1996年の寄稿である。もう、23年も前のことだ。
創立60周年を迎えた期成会が、本日(10月29日)は盛大な祝賀会を開いた。60周年記念企画として、これまで機関誌に掲載された会員の論稿の中から優秀作の表彰が行われた。光栄なことに、上記の私の論稿が「Wa傑作大賞」を受賞した。
私のこれまでの人生は、受賞とか表彰とは無縁だったが、弁護士仲間に表彰してもらうことは、とてもありがたいと思う。もちろん、司法制度や憲法論の、理論的に優れた論稿は他に多くあったはず。私の論稿は、弁護士のありかた、事件との関わり方が、選考委員に好感を持たれたものだろう。

ところで、東弁・期成会とは何かを説明しておきたい。
弁護士会には、「会派」というものがある。全国最大の単位会である東京弁護士会には、戦前からの「親和」と、戦後すぐに結成された「法友」の2大会派が重きをなしている。この「派閥」の弊害をなくす目的で、後に期成会が作られた。私も、東京弁護士会所属以来一貫して、期成会の会員である。

その期成会が、期成会をこう解説している。

期成会は、1959年(昭和34年)11月に産声を上げました。
それまでの東京弁護士会は、2大会派が非民主的な選挙抗争を繰り広げたり、各種委員や破産管財人の人事を壟断したりしていて、新たに発足した司法研修所で修習し、弁護士法第1条の理念を実現しようという気概に燃えた若い弁護士たちにとっては、改革の対象と映っていました。期成会という名称にも、「修習何期」というように呼ばれた司法研修所修了者たちによる会という意味が込められています。
今でこそそのような実感を抱くことはまずなくなりましたが、ここに至るまでには、40年余りの永きにわたって、期成会に集う会員たちが弁護士会の民主化のために脈々と活動を続けてきたのです。
今でこそ当然のように行われている日弁連の会長選挙も、古くは代議員による間接選挙でした。期成会の呼びかけに呼応した全国の弁護士が、これを現在の直接選挙の形に改革したのです。(以下略)

勲章や褒賞を授与といわれたら突っ返すが、東弁・期成会からの表彰なら、名誉なこととしてありがたく頂戴する。
(2019年10月29日・連続更新2402日)

私が出会った弁護士(その6) ― 岡林辰雄

岡林辰雄こそは、伝説の弁護士である。
なによりも彼は社会進歩を目指す闘士であった。戦前は思想犯として3度逮捕されている。弁護士資格剥奪の難にも遭っている。また、彼は闘士であるだけでなく理論家でもあった。あの弾圧厳しい時代に資本論の対訳註解書を上梓しているし、クルプスカヤの「レーニンの思ひ出」という訳書もある。

戦後は、松川・三鷹・菅生をはじめとする謀略冤罪事件の多くに関与し、最前線で「裁判闘争」を闘った。「大衆的裁判闘争」や「主戦場は法廷の外に」などの主唱者であり、実践者としても知られている。当然に、優れたオルガナイザーでもあった。そして、いくつもの成果を挙げている。岡林こそ、これ以上はない「伝説の弁護士」。

なによりも松川事件弁護団のリーダーとしての活動で知られ、14年にわたる大裁判・大運動の立役者となった。映画「松川事件」(監督・山本薩夫、脚本・新藤兼人)の法廷場面で常に弁護団の先頭にいる岡林役を宇野重吉が演じている。

私が弁護士になった頃、既に岡林は伝説の人であり、雲の上の人であった。その伝説の人に、ばったりと出会ったことがある。私が岩手弁護士会の会員だった1980年ころのある日、盛岡地裁庁舎内にあった岩手弁護士会の控え室でのこと。私は、少なからず驚き興奮した。何しろ、雲の上の伝説の弁護士に、偶然出くわしたのだから。「あれっ? 岡林先生ではありませんか。いったい何用あってここへ?」

彼は一人ではなく、竹澤哲夫弁護士との同道だった。親しかった竹澤さんから説明を受けた。「小繋事件をご存知でしょう。あの民事事件は幾つかあり、今でも終わっていない事件があるんですよ。いまだに、私と岡林先生とで事件を続けている」

15分くらいだったろうか。私は、学生時代に松川事件支援の活動を通じて弁護士を志し、自由法曹団員となっているという話をし、彼は、私の質問に応じて、戦前勾留されていた当時のことを話してくれた。「ともかく身体と思考力をなまらせてはいけないと思って運動を怠らなかった。四股を踏むのが一番よかった。負けるものかという気概が湧いてくる」と聞いた憶えがある。

かつて、まだ弁護士を志す前の学生時代に大きな集会で演説する彼を見上げたことがある。盛岡で言葉を交わした伝説の弁護士は、往時の精悍さを欠いているように見えた。その後間もなく、病牀に伏せったと知らされ、長い闘病生活を経て1990年3月の訃報を聞くこととなった。伝説の弁護士と言葉を交わしたのは、この一度だけである。

先日、地元「国民救援会・文京支部」が映画「松川事件」の上演会を催した。改めて、70年前の松川事件の経過とこれに取り組んだ伝説の弁護士を思い起こした。あのような弁護士になりたいと思った時期があったことも。

今、私の手許に日弁連人権擁護委員会から「再審通信」118号が届いている。15もの再審請求事件の現状が各弁護団から報告されているが、そのパンフの表紙に、「題字:故竹澤哲夫会員(東京)」と記されている。あのときご一緒だった竹澤哲夫さんも、2012年に鬼籍に入られたのだ。

なお、岡林は「われも黄金の釘一つ打つ 一弁護士の生涯」(大月書店)という自伝を残している。このタイトルは、与謝野晶子の歌「劫初より作りいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」から採られている。

歌人である晶子がイメージした殿堂と、共産党幹部でもあった岡林が作りあげようとした殿堂とは大きく異なるものであったろう。しかし、人類の壮大な営みに、「我も黄金の釘一つを打ち得た」という両人の矜持には脱帽せざるを得ない。岡林辰雄は、自伝の表題の選定でも、伝説の弁護士となった。
(2019年10月27日・連続更新2400日)

弁護士としての初心を思い起こす旅に ― 23期の仲間たちと

本日(10月24日)から2泊3日、司法修習生時代の同期の仲間と旅をする。どこに出向くか、降るか晴れるかはさしたる問題ではない。久しぶりに、気のおけない仲間と顔を合わせてお互いの健在と変わらぬ立場を確認し、とりとめもなくしゃべる時間があればよい。これが近年恒例の楽しみ。だから、今日から3日間のブログは予定稿のアップということになる。ご承知おきを。

仕事が忙しかった時代には、懐かしい昔の仲間で集まろうとか、一緒に旅をしようなどという贅沢な時間は作れなかった。そんな気分にもなれなかった。いま、みんな年齢相応に第一線からは少し退き、昔を懐かしむだけの余裕ができてきたということだ。

私の司法修習期は23期になる。新憲法下、新法曹養成制度発足以来23年目の採用年度に当たるということだ。戦前の官尊民卑時代には、判検事と弁護士とは、採用選考も研修もまったくの別コースだった。天皇の司法が国民の司法に転換したことを象徴する制度の変化の一つが、統一試験・統一修習の法曹養成制度だった。弁護士・判事・検事の法曹三者を志望する者は、統一の司法試験によって資格を得、最高裁が運営する司法研修所で統一した司法修習を受ける。そのあと、それぞれの志望に従った法曹のコースを選ぶことになる。

当時、修習期間は2年、最初の4か月を東京の司法研修所で授業を受け、全国に散って各地の裁判所・検察庁・法律事務所で1年半の実務修習を受ける。そのあと再び研修所に戻って起案中心の授業の後に、卒業試験(通称「2回試験」)を受けて卒業となる。当時、2回試験は長時間のハードなものながらも、不合格は殆どなかった。

研修所は、紀尾井町にあったオンボロ木造の庁舎。我々がここを最後に使って、次の期からは湯島の新庁舎に移っている。その23期の入所が、1969年4月のこと。同期の修習生は500人だった。あれから、ちょうど50年、半世紀にもなるが、けっして往時茫々ではない。むしろ、茫々にしてなるものか、という思いでの半世紀だった。

当然のことながら、同期の500人がみんな懐かしいわけではない。気の合う仲間は、自ずから限られる。当時、修習生運動として、「司法反動」への反対運動をともにした一味徒党が,今も交流の続く気の合う仲間たちなのだ。

私が、弁護士を志した60年代の半ばには、司法権の独立・裁判官の独立は常識とされていた。それが、23期の修習が始まった頃には、急激に危うくなった。それを「司法反動」あるいは「司法の危機」と呼んだ。23期は、司法反動のただ中にあって、これに果敢に抵抗した。その理念と運動が、同期の紐帯となっている。

司法反動は、明らかに当時の判決内容に対する資本や保守勢力の不満に端を発していた。自民党(その先鋒が、田中角栄幹事長)や、反共・右翼メディアがそのことを露骨に表明していた。そして、裁判所内部からこれに呼応したのが、当時最高裁長官だった石田和外である。今でも、この石田和外という名を目にすると、アドレナリンが噴出する。

裁判所内部の動きが外に見えるようになったのは、1969年9月の「平賀書簡問題」から。23期の実務修習が始まったばかりの頃のこと。この事件をきっかけに、公然たる青法協攻撃が始まる。

当時、札幌地裁に「長沼ナイキ基地訴訟」が係属していた。長沼に新たな自衛隊基地を建設して地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」を配備しようという計画があり、これを阻止しようと地域の住民が提起した訴訟。基地建設のための保安林の解除という処分の取り消しを求める行政訴訟だった。本格的に自衛隊の合違憲を問う訴訟として、全国に注目されていた。

その事件を担当したのが福島重雄裁判長。この人に、当時札幌地裁所長だった平賀健太が“一先輩のアドバイス”と題する詳細なメモを手交した。その内容は、訴訟判断の問題点について原告の申立を却下するよう誘導し示唆したもので、明らかな裁判干渉だった。そのため、札幌地裁の裁判官たちは、裁判所法の手続に則った裁判官会議を開いて、平賀所長を厳重注意処分とした。

ところが、事態は思わぬ方向に展開した。事件発覚の直後、鹿児島地裁の所長だった飯守重任(田中耕太郎の実弟)が所信を発表して、一石を投じた。何しろ、この人は筋金入りの反共右翼。「青法協は革命団体で、最高裁は昇給のストップ、判事補は判事に昇格させないようにすべきだ」という確信犯。後には、所内の裁判官の思想調査までして地家裁所長職を解職され判事に格下げされ、結局は裁判官を辞めた人。

この人が、「問題は、平賀にではなく革命団体青法協に所属している福島にこそある」と口火を切った。これ以後、右翼や自民党の青法協攻撃が続くことになる。これに呼応したのが「ミスター最高裁長官」石田和外(在任1969年1月11日~1973年5月19日)だった。裁判官は政治的団体への加入は慎むべきとの立場から、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。

70年春、22期司法修習修了生の裁判官任官希望者の内、2人が最高裁から任官を拒否された。我々は、所属団体あるいは思想信条による差別と確信し、由々しき事態と認識した。23期にとって明日は我が身のこと。のみならず、このままでは、憲法や人権擁護を口にする裁判官が裁判所にはいなくなるのではないか。ことは、日本の民主主義や人権にかかわる大問題。同期修習生の過半数が青法協の会員であり、当然のことながら裁判官任官希望者も大勢いた。

議論が巻きおこり、「任官拒否を許さぬ会」が結成され、集会が持たれ、そのための同期の署名活動や、弁護士からの支援の署名活動にも取り組んだ。

そして迎えた、71年の春。同期修習生の裁判官志望者7名の任官拒否(うち6名が青法協会員)という惨憺たる結果となった。これに抗議の発言をした阪口徳雄・23期司法修習生の罷免にまで発展した。また、考えもしなった、13期宮本康昭裁判官の再任拒否事件も起こった。

我々23期にとっては、7人の任官拒否と阪口君罷免が、法曹人生出発点における原体験となった。昔の仲間と会うことは、あの頃の自分と出会うこと。あの頃の自分を思い出し、あの頃の志と向かい合うことでもある。

確かに、みな髪は薄くなり、白くはなったが、話を始めればすぐにあの頃に戻る。みんな、昔と少しも変わっていない。その変わりのなさに驚ろかざるを得ない。権力にも資本にも迎合することなく、ひたすら強者に抵抗を試みてきた弁護士たちだ。

昨年の集まりのあと、メーリングリストにこんな発言が重ねられている。
「あの頃、司法行政は我々の運動を弾圧して、7人の裁判官希望を拒否し、さらにその抗議の声をあげた阪口徳雄君の罷免までした。しかし、同時にそれは我々を鍛え、団結させることでもあった。」「23期が初志を貫いてこられたのは、政権と一体になった反動石田和外や最高裁当局のお陰でもある。」「あのときの怒りは、個人としては持続しているが、その怒りを次に伝え切れているだろうか。あの時代と比較して、司法は少しはマシになったと言えるだろうか。」

もう50年に近い昔のことなのに、あの頃のことを思うと、新たな怒りが吹き出してくる。理不尽なものへの憤り。負けてなるものかというエネルギーの源泉。

その男、石田和外。青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。そして、青年法律家協会裁判官には、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」と言った。

ところが、何と彼は、定年退官後に新設された「英霊をまもる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。さらに、彼は、自ら「元号法制化実現国民会議」を結成してその議長ともなり、79年3月の防衛大学校卒業式において、軍人勅諭を賛美した祝辞を述べて物議を醸している。筋金入りの反動なのだ。

なお、「元号法制化実現国民会議」の後継団体が「日本を守る国民会議」であり、これが右翼の総元締め「日本会議」となっている。

私は、学生運動の経験はない。修習生運動の中で、反権力の立場の法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を決定したたとも言える。まぎれもなく石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。

さて、2泊3日。久しぶりの懐かしい面々と、そんな来し方をとりとめなく話し合おう。
(2019年10月24日)

私が出会った弁護士(その5) ― 佐藤邦雄

1977年8月、私は東京弁護士会から岩手弁護士に登録替えした。34才になる直前。弁護士経験は満6年余。自分としては、既に中堅弁護士としての力量を身につけているつもり。盛岡の中心部に位置する城趾と中津川を隔てたマンションの小さな2室を借りた。1室がマイホームとなり、もう1室が法律事務所となった。

盛岡は、私の故郷。母の生地でもあり、父の勤務地でもあった。四季折々に美しく穏やかな街。啄木や賢治が過ごした街でもある。ここで働くに当たって、若い私は張り切っていた。自分の力で、なにごとかをなす意気込みに溢れていた。

そんな私の最初の刑事事件が二戸市議選の選挙弾圧事件であり、民事事件としてはある組合の不当労働事件だった。もう40年も昔のことで正確には憶えていないのだが、少数組合を代理して会社に内容証明郵便を発送した。組合間差別に対する抗議と是正を求める内容だったと思う。誠実に団体交渉に応ぜよ、という内容でもあったと思う。

会社側から、「団体交渉はするけど、その前に会社の代理人弁護士と会っていただきたい」という要請があって、弁護士会で初めてお目にかかったのが、佐藤邦雄弁護士だった。当然のことながら、期前(戦後の司法修習制度開始以前)の長老弁護士。岩手弁護士会の重鎮であった。

私は、相手が重鎮だろうが権威だろうが気にしない。当時はよく回った口で、遠慮なく会社側の対応の不誠実さを難詰した。弁護士の指導も批判したと思う。しばらく私の話を聞いていた、佐藤弁護士はこう言った。

キミ、そんなに老人を苛めるもんじゃない。私は、明日、77才になるんだよ。いろいろ言い分のあることは分かった。急には無理だが、だんだん何とかなるだろうよ。

佐藤弁護士の物言いは、飄々としてトゲトゲしさのないものだった。気の利いた何かを言ったわけではないが、私が感じたのは、独特の風格だった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものか。この交渉に陪席して、その後の実務を引き取ったのが、偶々東京でシビアな交渉相手となったことのある野村弁護士だった。私より3期先輩。

最初私は、佐藤邦雄さんを地元のブル弁(ブルジョワ弁護士)と規定したが、なかなか一筋縄ではおさまらない。けっこう仲良くなった。戦前の弁護士活動の話をよくしてくれた。それが、固有名詞の滑らかに出てくるみごとな話術なのだ。そして、昔の検事や判事がこんなに横柄でひどかったという話になる。とりわけ、我々の世代の知らない陪審裁判の話が興味深かった。戦前の盛岡地裁には、陪審専用法廷も、陪審員用の宿舎もあったという。そして、陪審員を説得して無罪を勝ち取った手柄話を実に楽しそうにした。

私にとって、佐藤邦雄さんが、いかにも戦前からの、弁護士らしい弁護士像となった。もちろん、保守の人。反体制ではないが、明らかに在野の筋をもっていた。当時、岩手弁護士会も、刑法改悪反対、スパイ防止法反対、拘禁二法反対などの運動に取り組んだ。重鎮たちの反対あればできなかったことだが、弁護士会が在野を貫く運動に、重鎮たちが異を唱えることはなかった。

そのころ、佐藤さんの「本職」は、ヤクルト・スワローズ球団の社長職にあった。広岡達朗監督で飛ぶ鳥を落とす勢いの球団を支えていたわけだ。念のために、ネットで調べると、佐藤社長の在職期間は、1973.2~1985.4、広岡監督の在任は1974 ~ 1979とのことである。嫌みのない球界裏話で、みんなを楽しませていた。

もう少し何かないか。ネットで見つかったのは、岩手高校の文化活動での講演会記録。1950年のこと、講演者は二人。金森徳次郎と佐藤邦雄弁護士である。金森徳次郎は、人も知る制憲議会での政府側答弁の立役者、おそらくはお二人で、若者に「新憲法」のなんたるかを語ったのだろう。

当時、岩手県全体で、弁護士数は30名余に過ぎなかった。佐藤弁護士とも何度かは事件の相手方になったが、自分で書面を書いたり、尋問することはなかった。それでも、佐藤弁護士がいれば、汚いことはしない、上手に落としどころを心得た和解にもっていってくれる。という信頼があった。これが、重鎮といわれる弁護士の風格というものであろう。

古きよき時代の、そんな弁護士らしい風格をもった弁護士、佐藤邦雄さん。最初に出会った頃の彼の年齢に私も近くはなったが、到底ああいう風格は身につけられない。

(2019年8月26日)

日弁連・消費者委員長在任中に殺害された、津谷裕貴弁護士を悼む

本日(4月10日)、警察の使命 市民の安全が最優先~秋田・弁護士殺害事件高裁判決を読み説く」と題した報告集会に参加した。

「秋田・弁護士殺害事件」の被害者は、津谷裕貴さん。2010年11月4日未明,自宅で殺害された。犯人は、津谷さんが受任していた離婚事件の相手方であった。拳銃や枝切りばさみ、一緒に自爆するための火薬入りベストなどを用意して侵入。津谷さんを殺害しようともみ合いになった。津谷さんは、犯人から拳銃を取りあげたが、そこに妻の110番通報で警察官2人が駆けつけた。警察官は、犯人から拳銃を取り上げていた津谷さんを犯人と誤って取り押さえ、そのその隙に犯人が津谷さんの胸などを枝切りばさみで複数回刺して殺害したという。結果論だが、警察官の不用意な介入がなければ津谷さんが殺されることはなかった。

犯人は、殺人罪で無期懲役が確定したが、遺族は国家賠償請求訴訟を起こした。駆けつけた警察官の過失によって津谷さんが死に至ったという主張。ところが、一審秋田地裁はこの請求を棄却した。銃をもっていた津谷さんを犯人と誤って取り押さえたことは、この状況下ではやむを得ず、警察官に過失はない、という判断だった。

控訴審である仙台高等裁判所秋田支部は,2019年2月13日,第一審判決を破棄し,現場の警察官の過失を認める逆転勝訴判決を言い渡した。判決の中に,「警察官としては,被疑者の逮捕よりも国民の生命身体の保護を優先すべき」という一文があるという。本日の報告集会は、「警察の使命とは何か」という視点で高裁判決を読み解く、というもの。事件記者として警察取材の経歴が長い、ジャーナリストの青木理さんを交えてのパネルディスカッションは、興味深いものだった。秋田県側の上告があって、舞台は最高裁に移っている。事件が確定した段階で、詳細報告をしたい。

ところで、津谷さんは、殺害された当時、日弁連の「消費者問題対策委員会」の現役委員長であった。日弁連の活動とは、委員会活動にほかならない。その委員会の代表格として、消費者委員会の活動がある。消費者問題の間口は広く、奥行きは深い。日弁連消費者委員会は、その重要な全領域をカバーして、たいへんアクティブな委員会として知られている。

消費者問題に関する情報を交換し、研究し、被害救済の実践例を持ち寄り、成果を啓発し、各地の消費者行政や運動と連携し、さらには立法活動に奔走している。弁護士としてやりがいのある分野であり、この委員会に拠って活動している弁護士の所属意識や連帯感は強い。消費者族などという言葉がある。消費者族は、場合によっては全国的な大事件に弁護団を組み、さらに連帯感を高める。

この委員会の2代目委員長が、大阪弁護士会の中坊公平さん。私は8代目だった。津谷さんが何代目かは承知していないが、現役委員長の殺害は衝撃だった。

直後に発行された、同委員会の「消費者問題ニュース・No.140」に、委員長代行石戸谷豊弁護士(横浜)の追悼の言葉「津谷委員長とともに」が掲載されている。強く胸を打つものがある。

以下は、その一部である。
…津谷さんは,いなくなったわけではない。そう思い直した。私は,妻を癌で亡くして以来,自ずと涌きあがってくるものを詩の形にしている。これが,故人と会話する私なりの作法となった。津谷さんの葬儀の翌日が,消費者委員会の正副委員長会議であった。その翌日は全体委員会で,委員長代行として臨むことになった。事件当日以来,浮かんできたあれこれの思いを詩の形にして,津谷委員長に捧げ,委員会を迎えた。だから,津谷さんも,ともに委員会にいてくれたはずである。そして,不招請勧誘の禁止ルールが消費者法に導入される日には,ともに喜んでくれるはずである。全国の仲間と一緒に,歩んでくれるはずである。いつもの笑顔で,いてくれるはずである。

   津谷さんへ

津谷さん
津谷さんが亡くなったと
報じられたけれども
テレビで流れている映像は
いつもの津谷さんの姿であり
そこに
津谷さんがいるようでもある
  
けれども
セレモニーホールでは
棺の中に
津谷さんが眠っており
小雨降りしきる中で
納棺の儀が行われ
遺骨が安置され
大きな写真が置かれ
部屋いっぱいに花が飾られて
会長が弔辞を読んでいる
  
津谷さん
してみると津谷さんは
やはり
亡くなったのだな

そうだ
津谷さんは
先物事件に情熱を注いだ
津谷さんは
被害者の話をよく聞き
自ら憤り
訴状を書き
裁判を戦い
判決をとり
最高裁の判決もとり
熱く語り
活字にして
手引きにして
改訂して、また改訂して、
何度も何度も改訂して
いつも新しい情報を届けた
各地の弁護士は
それを活用して
裁判を戦い
大勢の被害者を救った
  
それに
津谷さんは
こんな法律はおかしいと
意見書を書き
日弁連の意見書を書き
先物研の意見書を書き
審議会に持ち込み
議員会館をまわり
政党を動かし
国会を動かして
法案の修正に持ち込み
法改正に持ち込み
多くの被害を防いだ

津谷さん
あれだけ情熱を注いだ
不招請勧誘の禁止が
ついに商品先物にも導入されたのだ
その改正法は
もうすぐ施行されるのに
やはり逝ってしまうのか
  
津谷さん
今日は委員会が開かれて
津谷さんの大好きな
津谷さんを大好きな
仲間が集まっているのだから
それだから
今日は
皆と共にいてください
そして
議論を見守ってください
いつもの笑顔で
まとめてください
  
ぜひ、そうしてください
ぜひ、そうしてください
  
2010年11月11日
消費者委員会を迎えて 

(2019年4月10日)

中国の人権状況を憂うる

「中国 人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決」のニュースには、暗澹とせざるを得ない。中国よ、革命の理想はどこに追いやったのか。人権も民主主義も法の支配も捨て去ったというのか。野蛮の烙印を甘受しようというのか。

弱者の権利を擁護するために法があり、適正な法の執行のために司法制度がある。脆弱な国民の人権を擁護するために、司法の場で法を活用するのが本来の弁護士の役割である。「人権派」弁護士こそが、本物の弁護士である。

権力に屈せず、カネで転ばぬ「人権派」弁護士は、権力にとっても、体制内で甘い汁を吸っている経済的強者にとっても目障りな存在である。しかし、文明社会の約束事として、法の支配も人権派を含めた弁護士の存在も受け入れざるを得ない。

この文明社会の約束事を放擲して弁護士を弾圧すれば、野蛮の烙印を甘受しなければならない。野蛮極まる天皇制政府は、それをした。治安維持法違反で起訴された共産党員を弁護した良心的弁護士を、治安維持法違反(目的遂行寄与罪)で集団として逮捕し起訴して有罪とした。有罪となった弁護士は資格を剥奪されたが、残念なことに、時の弁護士会はこれに抗議をしなかった。

今、中国でリアルタイムに同じことが起こっている。人権保障のための最低限に必要な、法廷の公開や弁護権の保障もなされていない。

BBCの下記の記事が、怒りをもって事態をよく伝えている。

中国、人権派弁護士に4年6カ月の実刑判決  国家政権転覆罪で
https://www.bbc.com/japanese/47025148

中国・天津の裁判所は28日、人権派弁護士の王全璋氏(42)に国家政権転覆罪で4年6カ月の実刑判決を言い渡した。王氏は政治活動家や土地接収の被害者、政府が禁止している気功集団「法輪功」の信者を弁護していた。
2015年に中国政府が何百人もの弁護士や活動家を弾圧した際に逮捕されたが、昨年12月まで裁判が行われていなかった。
中国はここ数年、人権派弁護士の取り締まりを加速させている。
裁判所は王氏を国家政権転覆罪で有罪とし、「4年6カ月の禁錮刑のほか、5年間の政治的権利のはく奪」を言い渡した。
裁判は非公開で行われ、ジャーナリストや外国の外交官なども裁判所への立ち入りを禁止された。

「国連の恣意的勾留に関する作業部会では、王氏の勾留を恣意的なものと認定した。つまり国際法上では、王氏はまず起訴されるべきではなく、よってどんな判決も受けてはならないことになる」
また、人権団体アムネスティ・インターナショナルはこの裁判を「いかさま」と呼び、判決は「非常に不公正なものだ」と批判した。
アムネスティの中国研究員ドリアン・ラウ氏は「王全璋氏中国で、人権のために平和的に立ち上がったことで罰せられるのは許しがたい」と述べている。
2015年7月9日に起きたことから「709事件」と呼ばれている中国政府による弁護士弾圧は、習近平国家主席の政権下で反体制に対する不寛容が広がってきた兆候だと活動家たちは見ている。709事件では200人以上が拘束され、多くが懲役刑や執行猶予、禁錮刑などを科せられている。」

その記事の最後を締め括る、次の指摘には、背筋が寒くなる。

北京で取材するBBCのジョン・サドワース記者は、弁護士が今回有罪になったのは、共産党が支配する司法制度に中国の法律そのものを使って対抗しようとしたからだと指摘する。
「共産党は近年、態度を明示してきた。立憲主義や司法の独立といった概念は、危険な西洋式理想なのだという立場だ」、今回の判決も「ぞっとするようなその主張を補強するためのものだ」と解説している。

この解説は恐い。世界の経済大国であり軍事大国でもある中国が、文明とは隔絶した恐怖国家となるかも知れないというのだ。既に中国では、人権や、人権擁護のための立憲主義や権力分立、司法の独立などを無視した、むき出しの権力が暴走している。中国国内での批判が困難であれば、国際世論が批判しなければならない。我々も、できるだけのことをしなければならない。
(2019年1月31日)

労働契約の「偽装請負化」に厳正な対応を

昨夕(1月20日16:59配信)の朝日新聞デジタルの記事。ヤマハ英語教室の女性講師が労組結成 待遇改善求める」というタイトル。リードは次のとおりだ。

 楽器販売「ヤマハミュージックジャパン」(東京都)が運営する英語教室で働く講師の女性14人が労働組合をつくった。女性たちは契約上は個人事業者とされて社会保険などが適用されないが、「実態はヤマハ側の指示で働く労働者だ」として、直接雇用や社会保険の適用などの待遇改善を求める団体交渉を同社側に申し入れているという。

組合の名称は「ヤマハ英語講師ユニオン」。昨年12月6日に結成した。組合によると、講師は同社と1年更新の委任契約を結び、講師はレッスンを任される形式で働いている。契約上は個人事業者となるため、ヤマハが雇用した社員とは異なり社会保険が適用されず、残業手当や有給休暇などもないという。

女性たちは昨年8月、会社側に直接雇用などを求める要望書を提出。同社から明確な回答がないことから組合結成を決めた。全国約1500カ所の教室で約1400人いるとされる講師たちに加入を呼びかけ、ヤマハ側に待遇改善を求めていくという。

労働組合の結成は社会の進歩だ。立ち上がった講師たちの毅然とした姿勢に敬意を込めつつ祝意を表したい。

実態は従属性ある労働契約でありながら、形式上請負として、労働者に対する保護を僣脱しようという、きたないやり口は、いま流行りだ。社会全体としての労働運動にかつての勢いがないいま、労働者が侮られているのだ。安倍政権下、労働基準行政も厳格さを失っている。

私の法律事務所でも、同様の事件を受任している。下記のブログをご覧いただきたい。

今日は良い日だ。労働仮処分に勝利の決定。
(2017年5月8日・連続第1499回)
http://article9.jp/wordpress/?p=8528

 ……いま私の手許に、2通の労働仮処分の決定書がある。同じ使用者を「債務者」(仮処分事件では相手方をこう呼ぶ。本訴になれば被告にあたる呼称)とするもので、事実上の解雇を争い、同年2月以後の賃金の仮払いを求める内容。1件は、「毎月21万2000円を仮に支払え」という申立の全額が認められた。もう1件は、「毎月12万円を仮に支払え」という決定主文。この人は、別の収入があるのだから、仮払い金額としてはこれでよいだろうというもの。あとは本訴で勝ち取ればよいのだ。なによりも、決定の理由が素晴らしい。

この事件は、澤藤大河が弁護士として依頼を受け、方針を定め、申立書を作成し、疎明資料を集め、審尋を担当してきた。今年の正月明けの1月4日に、東京地裁労働部に賃金仮払いの仮処分を申し立て、事件番号が労働仮処分事件として今年の01番と02番の事件番号が付いた。その後、審尋期日に疎明を尽くし、裁判所は債権者(労働者)側の勝利を前提とした和解を提案したが、債務者の受け入れるところとならず、4月12日審尋を終えて、今日まで決定の通知を待っていたもの。

2人の労働者はアメリカ人でいずれもリベラルな知性派だが、日本語が堪能とは言えない。私もリベラルな知性派だが、英語が堪能とは言えない。会話はほとんどできない。依頼者とのコミュニケーションはもっぱら英語によらざるを得ないのだから、この事件は大河にまかせるしかない。私の出る幕はない。

2人の勤務先は都内に12のブランチをもつかなり大きな語学学校で、この2人は英語講師としてかなり長く働いてきた。その間、労働者であることに疑問の余地はないと考えてきた。使用者は、広告によって受講者を募集し、授業時間のコマ割りをきめ、定められた受講料のうちから、定められた講師の賃金を支払う。労働時間、就労場所、賃金額が定められている。これまでは、疑いもなく、労働契約関係との前提で、有給休暇の取得もあった。

ところが、経営主体となっている株式会社の経営者が交替すると、各講師との契約関係を、「労働契約」ではなく「業務委託契約」であると主張し始めた。そして、全講師に対して、新たな「業務委託契約書」に署名をするよう強要を始めた。この新契約書では有給休暇がなくなる。一年ごとの契約更新に際して、問答無用で解雇される恐れもある。

経営側が、「労働契約上の労働者」に対する要保護性を嫌い、保護に伴う負担を嫌って、業務請負を偽装する手法は今どきの流行りである。政権や財界は、労働形態の多様性という呪文で、正規労働者を減らし続けてきた。これも、その手法の主要な一端である。

法とは弱い立場の者を守るためにある。経済的な弱者を守るべきが社会法であり、その典型としての労働者保護法制である。本件のような、「請負偽装」を認めてしまっては労働者の権利の保護は画餅に帰すことになる。

本件の場合、講師の立場は極めて弱い。仕事の割り当ては経営者が作成する各コマのリストにしたがって行われる。受講者の指名にしたがったとするリストの作成権限は経営者の手に握られている。このリストに講師の名を登載してもらえなければ、授業の受持はなく、就労の機会を奪われて賃金の受給はできない。これは、解雇予告手当もないままの事実上の解雇である。やむなく、多くの講師が不本意な契約文書に署名を余儀なくされている。

しかも、外国籍の労働者には、就労先を確保することがビザ更新の条件として必要という特殊な事情もある。つまり、労働ビザでの滞在外国人労働者にとっては、解雇は滞在資格をも失いかねないことにもなるのだ。その学校での100人を超す外国人講師のほとんどが、契約の切り替えに憤ったが、多くは不本意なからもしたがわざるを得ない、となった。

それでも、中には経営者のやり口に憤り、「断乎署名を拒否する」という者が2人いた。「不当なことに屈してはならない」という気概に加えて、この2人は永住ビザをもつ立場だった。

この五分の魂をもった2人は大河の友人でもあった。大河は、友人の役に立てただけでなく、弁護士として労働者全体の利益のために貢献したことになる。この事件の争点は、2人の労働者性認定の可否だった。債権者側が提示したメルクマールをほぼ全て認めて、完膚なき勝利の決定となった。

明日には、債務者から任意に支払いを受けるか、あるいは強制執行をすることになるかが明確になる。本案訴訟の判決確定までフルコースの解雇訴訟となるも良し、早期解決も良しである。今日は実に良い日だ。
 (2017年5月8日・連続第1499回)

この事件、実はいまだに係争中である。この賃金仮払い仮処分決定の後、まずは強制執行せざるを得なかった。一度執行したあとは任意の支払いが続いている。また、賃金仮払い仮処分が命じられる期間は、現在の実務では1年の期間を限度とする。結局2度目の賃金仮払い仮処分決定を得て、現在は毎月2人分で合計40万円の支払いが継続している。

そして、本案訴訟が粛々と進行している。被告側が慌てて本訴での和解を申し入れるか、あるいは訴訟進行の促進をはかるかと思いきや、どちらでもなかった。次回1月31日、東京地裁民事14部での原告両名と被告代表者本人尋問で事実上の結審となる。本案訴訟の判決確定までフルコースの解雇訴訟となる確率が高い。本案判決が思わぬ結果となるはずはない。

2人の英語学校教師労働者(米国人)の、それぞれ2件の賃金仮払い仮処分決定。参考になろうかと思う。「ヤマハ英語講師ユニオン」からのご連絡があれば、郵送させていただく。
(2019年1月21日)

「浮気・不倫の慰謝料」請求に特化したビジネスモデルの問題点

昨日紹介した東京弁護士会の懲戒事例。昨日の記事は、この懲戒事案との対比で、スラップ受任弁護士に懲戒あってしかるべしとの内容。
 スラップ受任弁護士には遠慮なく懲戒請求を
  ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第146弾
http://article9.jp/wordpress/?p=11929
本日は、この懲戒事例がアディーレの業務における不祥事であることについての感想を記しておきたい。

この事件をTBSは次のとおり報道している。さすがにこれは分かりやすい。

 アディーレ法律事務所に所属する弁護士が慰謝料の支払いを請求した相手に不当な要求などをしていたとして、東京弁護士会は業務停止1か月の懲戒処分としました。
  東京弁護士会が業務停止1か月の懲戒処分にしたのは、東京・豊島区のアディーレ法律事務所に所属する吉岡一誠弁護士(31)です。
  東京弁護士会によりますと、吉岡弁護士は2016年8月に、女性から夫の不倫相手に慰謝料500万円を請求するための依頼を受けましたが、依頼を受けたことを告げる「受任通知」を不倫相手の女性に送らず、この女性の職場に何度も電話をかけるなどしたということです。不倫相手の女性は教員で、吉岡弁護士はこの女性に対して、「誠意が見られなければ教育委員会に通告することも検討している」などと伝えていました。
  弁護士会の調査に対して、吉岡弁護士は、「正当な弁護士活動だった」などと主張しているということです。

 懲戒を受けたこの若い弁護士は弁護士としての職業生活をアディーレ文化の中でスタートした。アディーレが集客した事件を、アディーレから配点されて、アディーレのスキームにしたがって、アディーレ流のスタイルで業務に従事して、懲戒をうけた。やや気の毒な側面を否定し得ない。

アディーレは払い金請求・債務整理」に特化した業務を行っていると思っていた私が迂闊。この件で、「浮気・不倫の慰謝料請求」も行っていることを知った。この業務が、過払い金請求とならんで定型化に馴染むものと考えてのことだろう。そのニーズを掘り起こすべく顧客誘引のネット広告を打っている。

「浮気・不倫の慰謝料問題なら弁護士法人アディーレ法律事務所」というサイトがあって、「解決事例」が列記されている。「このサプリを飲んで、こんなに元気になりました」を思わせる類の広告。例えば、こうだ。

 「不倫相手を懲らしめたい! 弁護士が強気で交渉して,慰謝料400万円を獲得!」「離婚を悩んでいるなら,まずは不倫相手に慰謝料請求。弁護士の交渉で100万円を獲得!」「夫が会社の部下と浮気。離婚を前提として弁護士が毅然と主張し慰謝料150万円を獲得!」

要するに、「浮気・不倫の慰謝料トラブルに関するご相談」に特化し、「400万円獲得!」「100万円を獲得!」「150万円を獲得!」と、獲得慰謝料金額を実績としてアピールしているのだ。

多面的な社会生活の一面の一部分を切りとってビジネスモデル化した「浮気・不倫の慰謝料請求」事件の受任。医療の現場では、「この医師は病気だけをみて、病人をみようとしない」が、批判の言葉となっている。開き直って弁護士が、「病気だけ」をみようというのだ。小さな患部の治療だけを専門にやります。その範囲をはみ出した面倒なことは一切いたしません、というわけだ。

そのこと自体は違法とも不当とも言いがたい。顧客の要請に応えていると言えば、確かにそうとも言える。そのようなニーズは確実に存在するだろう。しかし、どうしても、違和感をぬぐい得ない。手っ取り早く儲かりそうなところだけをビジネスにしているその姿勢に、である。

いずれは、弁護士業務の世界にも市場原理が持ち込まれる。弁護士もビジネスである以上は、人権だ社会正義だなど言ってはおられず、楽に金になる仕事を漁ることになるだろう。そう、「いずれは…」と語られていた事態が、「既に…」現実になっているのだ。

今回の若い弁護士の懲戒事案。私が違和感を拭えないとする弁護士ビジネスのありかたと深く関わっているものと考えざるをえない。アディーレがネットで宣伝している、「弁護士が強気で交渉し」「弁護士が毅然と主張する」という手法は、懲戒事案の「弁護士が、交渉相手を威迫し困惑させる」という手法と紙一重。手っ取り早く慰謝料を獲得しようというビジネスとしての姿勢が、相手方の言い分に十分に耳を傾けて社会的に妥当な解決に至ろうという弁護士本来のありかたに背反することになったものと推察される。

真っ当な弁護士なら、相手方の言い分にも十分に耳を傾ける。それが、妥当な解決の第一歩なのだ。ところが、弁護士業務をビジネスとしてだけとらえる弁護士には、そのような姿勢がない。例えば、スラップ弁護士。スラップ提訴は、提訴で威圧すること自体が目的なのだから、社会的に妥当な解決など眼中にない。そもそも適正妥当な請求金額という考え方がない。結局は、提訴者本人にも受任弁護士にも社会的な非難が集まることになって、提訴者の利益にはならない。

アディーレも同様。高額慰謝料額の請求や獲得をアピールするような、はしたないことは真っ当な弁護士はしないものなのだ。

ネットには、下記のような、法曹でない方からの感想もある。

若い弁護士は何を焦っているのでしょうか? 早く結果を求めるのでしょうか、大手の弁護士法人でもここまで焦って事件処理をする原因は何でしょうか、事務所から早い結果を求められる、売上を求められるのでしょうか? 勤務弁護士に対し毎月のノルマでもあるのでしょうか?

このような批判には、十分に耳を傾けるべきだろう。

なお、アディーレやこれに類似の弁護士からの請求を受けた方には、弁護士会へのご相談をお勧めする。真っ当な弁護士が法律相談に乗ってくれる。個人的対応で十分という判断もあろうし、個人での対応が難しければ受任弁護士の紹介もしてくれる。請求に威迫が伴っている場合には、弁護士懲戒の手続も教えてくれるはず。
ネット検索よりは、弁護士会を信頼することの方がずっと賢明な対応手段なのだ。
(2019年1月19日)

スラップ受任弁護士には遠慮なく懲戒請求を ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第146弾

日弁連機関誌「自由と正義」(月刊)には、巻末に全国52単位会の弁護士懲戒全例が掲載される。弁護士会の会員に対する懲戒権は弁護士自治の根幹を支えているものだから、その行使の適切に関心をもたねばならない。もちろん、我が身にまったく無縁なことでもない。読むに気の重いことではあるが、他山の石としても目を通さざるをえない。

数日前に届いた「自由と正義」1月号の、以下の記事が目にとまった。私にとって、これは注目に値する。

懲戒処分の公告

東京弁護士会がなした懲戒の処分について同会から以下の通り通知を受けたので、懲戒処分の公告及び公表等に関する規定第3条第1号の規定により公告する。
1 処分を受けた弁護士
  氏 名      吉岡一誠   
  登録番号     51064
  事務所      東京都豊島区東池袋3-1-1 サンシャイン60
           弁護士法人アデイーレ法律事務所    
2 処分の内容  業務停止1月
3 処分の理由の要旨  
被懲戒者は、2016年8月頃に被懲戒者の所属する弁護士法人AがBから受任した、懲戒請求者とBの夫Cとの不貞行為についての懲戒請求者に対する慰謝料請求事件についてその担当となった。被懲戒者はBとCとの婚姻関係が破綻に至っておらず、不貞行為を裏付ける証拠が弁護士法人Aが作成した定型的な書式に概括的に記入されたC名義の文書のみであり、懲戒請求者に否認されたときには慰謝料請求権の存否が問われかねないものであったところ、およそ判決では認容され難い500万円もの慰謝料を請求する目的で住民票上懲戒請求者が単身で居住していることを知りながらあえて受任通知を送付せず、同年9月15日から同月19日まで多数回懲戒請求者の携帯電話に電話して不安をあおり、さらに同月20日には懲戒請求者の勤務先に電話してその不安を高め、携帯電話の履歴から電話をしてきた懲戒請求者に対し、500万円もの高額の慰謝料を請求し、その交渉材料として懲戒請求者の人事等に関する権限を有する機関への通告を検討していることを伝えて畏怖困惑させ、これにより相当な慰謝料額よりも高い賠償金を支払わせようとした。
被懲戒者の上記行為は弁護士法第56条第1項に定める弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。
4 処分が効力を生じた日 2018年10月15日
    2019年1月1日 日本弁護士連合会

 処分理由の要旨を読むには少し骨が折れるが、この弁護士は女性の依頼者(B)からの相談を受け、その夫(C)の浮気相手と思われる女性(懲戒請求者)を相手に何度も電話をかけて慰謝料の請求をした。この女性(懲戒請求者)は教員だった。交渉材料としたというのは、「教育委員会に通告を検討している」旨伝えたということ。請求金額は500万円だった。

東京弁護士会がこの弁護士を「業務停止1月」の懲戒とした理由を整理してみよう。
この弁護士の受任事務は、依頼者の夫(C)と相手方女性との不貞行為にもとづく、慰謝料請求である。それ自体に、違法も不当も、弁護士としての非行もない。
弁護士としての非行があったとされたのは、次の理由だ
 (1) 慰謝料請求の根拠は薄弱だった。
 (2) にもかかわらず、およそ判決では容認されがたい500万円もの高額の慰謝料を請求した。
 (3) 何度も相手側に電話を掛け、「教育委員会への通告を検討している」とまで言って脅した。

(1)と(2)とは相関関係にある。まとめれば、「当該の具体的状況においては、およそ判決では容認されがたい過大な金額の慰謝料を請求した。」ことが、弁護士としての非行の根拠とされている。

そして、もう一つの非行の根拠として、(3)の請求や交渉の態様の悪質さがある。

私(澤藤)は、DHCの会長である吉田嘉明から、慰謝料6000万円の請求を受けた。請求は、訴訟という形でのことだった。吉田嘉明からこの件を受任して提訴したのは、第二東京弁護士会の今村憲外2名の弁護士である。

同弁護士らが受任した件は、
 (1) 慰謝料請求の根拠は極めて薄弱だった(後に、敗訴が確定している)。
 (2) にもかかわらず、およそ判決では容認されがたい6000万円もの高額の慰謝料を請求した。
 (3) しかも、事前の交渉はまったくなく、いきなりの2000万円請求の提訴だった。これを被告(澤藤)が、当該の提訴自体がスラップ訴訟として違法なものだとブログで反撃を始めるや、今村憲らは直ちに2000万円の請求を6000万円に増額した。

どうだろうか。今村憲らのスラップ受任は、「弁護士としての品位を失うべき非行に該当する。」と十分に言えるのではないだろうか。本来、躊躇なく、今村憲らを所属弁護士会に懲戒請求すべきだったのだと今にして思う。

スラップ訴訟とは、言論の自由を封殺しようという社会悪である。私が、吉田嘉明を批判したのは、典型的な政治的言論だつた。吉田嘉明が、渡辺喜美という政治家に、8億円もの巨額の裏金を渡して、金の力で政治を動かそうとしたことを批判したものだ。この批判を嫌って、言論を封殺しようとしたのが、DHCスラップ訴訟である。

吉田嘉明だけでは提訴はできない。こんな事件でも受任してくれる弁護士が必要なのだ。慰謝料請求の根拠は極めて薄弱で、勝訴の見込みがゼロに近いことは普通の弁護士なら分かることだ。いささかなりとも憲法感覚のある弁護士ならば、「吉田さん、およしなさい」「裁判なんかやったら、かえってあなたの立場が悪くなる」と諫めるべきだった。

にもかかわらず、今村憲外2名は、私を被告として提訴した。当初は2000万円の請求額、そしてその後には6000万円への請求の拡張。およそ判決では容認されがたいことが客観的に明らかな高額の慰謝料請求である。私の件を含め、同様のスラップは少なくとも10件あった。すべて、今村憲らが代理人として受任している。

スラップ防止の立法が困難だとすれば、スラップの提訴自体を違法とする損害賠償認容判決の積み重ねが有効だと考えてきた。しかし、スラップ受任弁護士の懲戒請求も有効ではないだろうか。結局のところ、スラップを違法という根拠は、民主主義社会における言論・表現の自由の価値に対する格別の尊重にある。それは、少なくとも弁護士会内では、十分に理解してもらえるものではないか。

裁判所にも、弁護士会にも問題を提起しつつ、商品市場ではスラップを常套とするDHCに不買運動で対応することが必要だと思う。
(2019年1月18日)

「DHC 私は買いません」 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第140弾

いつもカバンにくっつけているそれ。小さなポスターみたいなの。それなんなの?

ああ、これ。よく見てね。「DHC 私は買いません」っていう、ミニポスター。みんなに、「DHCの商品は買わないようにしましょう」って、宣伝して歩いているんだ。

DHCって、いっぱいコマーシャルをやってる、あの化粧品やサプリメントの会社でしょう。あの会社の商品を「買ってください」ではなくて、「買っちゃいけないっ」て宣伝しているの?

そう。DHCの商品はけっして買っちゃいけない。DHCを儲けさせちゃいけない。それが、世のため人のため。みんなのためになる。

へえ、そうなの。DHCって、何の頭文字?

ほら、ここに書いてある。
 D デマと
 H ヘイトの
 C カンパニー

そうなんだ。とっても面白い。だけど、ホントは違うんでしょう。

ホントは、「大学翻訳センター」の頭文字らしい。でも、デマとヘイトのカンパニーの方が、「名は体を表す」で本当っぽいよね。

DHCの商品、どうして買っちゃいけないの? デマとヘイトの会社だから?

うん、まずはデマとヘイトだ。
DHCは、沖縄への偏見をあおったテレビ番組「ニュース女子」の制作会社「DHCテレビ」の親会社なんだ。「DHCテレビ」の株式の100%をもっているし、代表者も同じ吉田嘉明という男。事実上、DHCテレビはDHCの一部門といってよい。
そのDHCテレビが、「沖縄で基地建設に反対している人たちの中には、数々の犯罪や不法行為を行っている人たちがある」と、取材もしないでウソをばらまき、お正月の娯楽番組であざ笑ったんだ。ゆるせないだろう!

「ニュース女子」のムチャクチャなデマ放送は有名になったから知っている。現地の取材もしないでウソの報道。あれが、DHCの仕業なら、「デマのD」は納得。「ヘイトのH」は?

DHCテレビは、「ニュース女子」以外でも、「虎ノ門ニュース」「放言Barリークス」などのネット番組で、沖縄や在日の人だちへの差別発言を繰り返しているんだ。DHC会長の吉田嘉明は、会社のホームページや産経のネットサイトで、在日の人たちを「日本の悪口ばっかり言っている似非(エセ)日本人」「母国に帰っていただきましょう」なんてヘイト発言を発信している。沖縄差別、在日差別で凝り固まっているんだね。

いまどき、そんな恥知らずなことを大っぴらに言う人がいるんだ。お灸を据えなくっちゃね。そんな会社だと知らずにDHCの商品を買うと、デマとヘイトを応援することになっちゃう。

そう。何も知らない消費者がDHCの宣伝に惑わされてその商品を買うと、そのカネが、沖縄や在日をバッシングするデマとヘイトの資金になる。

DHCの問題って、デマとヘイトだけ? ほかにはないの?

DHCと吉田嘉明はスラップ訴訟の常習犯だ。自分に都合の悪いことを言った人を相手に、やたらと裁判を起こすんだ。2000万円支払えとか、1億円支払えとか。私もやられた。6000万円支払えって裁判。

6000万円の請求はメチャクチャ。さぞかし、びっくりしたでしょうね。

最初の請求は2000万円だった。なんの前触れもなく、ある日突然に訴状が届いた。「私のブログの記事がDHCと吉田嘉明の名誉を毀損しているから、謝罪の上2000万円を支払え」という、まったくバカバカしい提訴。無性に腹が立ってしょうがなかった。

バカバカしいのに、腹を立てたの?

こんなわけの分からない汚い輩が、カネの力だけでエラそうにしていられるこの社会に腹を立てた。こんな汚い訴訟を引き受ける弁護士がいることにも腹を立てた。

バカバカしくても、腹が立っても、裁判には付き合わなければならないから、たいへんだったでしょうね。

私は弁護士だから、「ことは言論の自由に関わる」「こんな不当に屈してはいけない」「不当な提訴とは徹底して闘う」と決意した。で、「DHCスラップ訴訟を許さない」、というDHCと吉田嘉明を糺弾するシリーズを猛然と書き始めた。そしたらすぐに、2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。

へー。DHCと吉田嘉明会長は、「黙れ」「批判は許さない」という目的で提訴したことを認めたも同じじゃない?

私がDHC・吉田嘉明の批判を続けたら請求金額はどんどん増額されるかとも思ったが、さすがに吉田嘉明もあきらめた。そのあとの請求の拡張はなかった。DHC・吉田嘉明を批判する私のブログは、本日が140回目となる。

で、裁判は勝ったの?

私の代理人の弁護団は優秀でDHC・吉田嘉明を理論的に圧倒した。まったく勝負にならなかった。もともとDHCに勝ち目のある裁判ではなかったけど、嫌がらせが目的だから、DHC・吉田嘉明は、高裁・最高裁まで争って完敗した。DHCは判決では負けてばっかり。だけどそれでもかまわないんだ。「DHCを批判してみろ。すぐに裁判をかけるぞ。裁判やられたら面倒だろう。だから、DHCを批判するようなことを言うな」というわけだ。

じゃあ、裁判にまけても、DHCはへっちゃらなんだ。

だから、今、私が原告になって「反撃訴訟」をやっている。DHC・吉田嘉明がこんなムチャクチャな裁判を提起したこと自体が違法だという主張。来年(2019年)のうちには一審の判決が出る。

どんなブログが、6000万円の損害賠償請求の対象になったの? 読んでみたい。

これを見ると書いてある。「いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
http://article9.jp/wordpress/?p=3036

DHC関係の私のブログは、下記のURLで全部読める。
http://article9.jp/wordpress/?cat=12

DHCや吉田嘉明の問題は、デマ・ヘイト・スラップということね。

まだある。吉田嘉明は渡辺喜美という政治家に8億円の裏金を渡している。その目的は、規制緩和のための政治を求めてのもの。これは、消費者問題に携わってきた私には、どうしても許せない。

分かった。デマ・ヘイト・スラップ・裏金・規制緩和、悪い会社だから徹底して抗議をしましょうってわけね。

そう。見解の相違とか、ものの見方が違う、などと言うレベルの問題ではない。DHC・吉田嘉明のやっていることは、民主主義の基本ルールを大きく逸脱している。だから、抗議というよりは、こんなとんでもない会社にお灸を据えようということ。心ある多くの人々がDHCの商品を買わないとなれば、DHCも反省しなけりゃならなくなる。DHCは商売で儲けた金を、公然とデマとヘイト、スラップ、政治家への裏金の資金にしている。その資金を断つことが民主主義のために有効だと思う。

フーン。選挙ではなく、どこの会社の商品を買うかの選択でも、世の中をよい方向にもっていくことができるんた。

沖縄の問題や、在日差別、スラップ、政治資金規正の話題が出てきたら、「ところでDHCの商品を買うのはやめましょう」「それにつけても、DHC私は買わない」と言ってね。

了解。私だって、民主主義が好き。表現の自由が好き。デマもヘイトも大嫌いだものね。もう、絶対にDHCの商品は買わない。
(2018年11月24日)

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