澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

お辞め下さい、表現の自由を損なう愛知県知事リコール運動。

(2020年6月20日)
6月17日(水)、「お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会(代表 高須克弥)」なる団体が、《大村秀章愛知県知事不信任議決の請願書》を愛知県議会に提出した。もっとも、団体名は単なる肩書で、請願者は高須克弥個人なのかも知れない。

この請願は、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の展示内容を不当として、主催者である知事の責任を追及するものである。表現の自由を封殺しようとする危険な行為として傍観してはおられない。

仮に、この請願に基づく知事不信任案が県議会に上程された場合には、地方自治法(178条)の定めによって、議員数の3分の2以上が出席する県議会本会議において4分の3以上の賛成によって不信任が成立する。ハードルは極めて高く事実上不可能というべきであろう。

また、さらに「仮に」を重ねて、不信任議決が成立したときは、知事は10日以内に議会を解散することができ、議員は失職する。その後の選挙を経て初めて招集された議会で再び不信任決議案が提出された場合は、今度は出席議員の過半数の賛成で成立し、知事は失職する。

その請願の全文を読みたいものと思っていたところ、豊橋市の市会議員「長坂なおとのblog」に(書き起こし)を見つけた。謝意を表しつつ引用させていただく。

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大村秀章愛知県知事不信任議決の請願書

愛知県議会議長 様
紹介議員 しまぶくろ朝太郎

【内容】
(1)あいちトリエンナーレ2019表現の不自由点、展示による主催者責任
(2)新コロナ愛知県感染者の広報による個人情報流出管理責任と個人保護の対応

【理由】
1・昭和天皇のお写真をバーナーで焼き下足で踏みつぶす動画を開会時隠されて、再開示の展示責任
1・慰安婦像の展示責任
1・日本軍人、間抜けな日本人と称する展示責任
1・県民・市民・国民の税金(血税)による公営会場の展示会を、独断開催、実行委員会主催名義だが事実上は県市の主催開催であったということは、県市が上記著しく政治的に偏向した展示にお墨付きを与えたことになり、日本を愛する人々を深く傷つけた責任。
展示一時中止後の独断再開と県民・市民・国民(主権在民)多数の反対意見を無視した開催(実行委員会の非開催問題)
1・名古屋市民の負担金未払い結果による、あいちトリエンナーレ会長名での(名古屋市・名古屋市民)を提訴
1・あいちトリエンナーレ2019における全体経費の内、平成31年度愛知県負担金を名古屋市・国は減額をしたが、何故愛知県は減額をしなかったのか。
又、減額に対して愛知県議会では議論をしなかったのか。
以上の理由により、愛知県知事不信任の可決を愛知県議会に求めます。

令和2年6月17日

お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会代表 高須克弥

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なんという粗雑で杜撰な内容。この投げやりな姿勢に一驚を禁じえない。指弾の相手方は、仮にも選挙によって県民の信任を得ている現職知事である。その知事を解職せよという不信任議決請願の重大性認識がまるでない。文字どおり児戯に等しい軽さ。この雑駁な請願書の提出は、県議会の議員に対しても、愛知県民に対しても、失礼極まると評するほかはない。

請願者は、知事に解任に値する理由があることについて、当不当はともかく自分なりの意見を展開する努力を尽くさねばならない。それこそが最低限の礼儀であろう。にもかかわらず、提出された請願書の、なんと雑駁で、いいかげんさであろうか。真っ当な文章を綴ろうという誠意の片鱗すらない。問題の焦点が憲法上の表現の自由に関わるだけに請願者の不誠実さは際立っている。とうてい、真っ当な世界での論議に耐えうるものではない。

しかも、この請願者は、「万が一、全く議員さん達に無視されたら、僕は愛知県議会の議員さん達は大村愛知県知事と同じ考えの方々だと理解します。その時は、県議会議員さんたちも併せてリコールするつもりです」とツイートしている。これも、自分の意見に積極賛同しない者は全て敵という、非論理・非常識を重ねての、幼児性丸出しの発言。まるで駄々っ子ではないか。

請願書の文中から、知事不信任の理由を探せば、「県民・市民・国民の税金(血税)による公営会場の展示会を、独断開催、実行委員会主催名義だが事実上は県市の主催開催であったということは、県市が上記著しく政治的に偏向した展示にお墨付きを与えたことになり、日本を愛する人々を深く傷つけた責任」というところだろうか。

文章の拙さが問題なのではない。天皇批判を政治的偏向と決めつける昔ながらのガラパゴス的心情、「日本を愛する人々を深く傷つける」表現の自由はないとする偏見と独断、県が主催する展示の政治的主張には県がお墨付きを与えたとする無定見な決めつけ。とうてい、真っ当な批判に耐えうる内容ではない。

高須という人の直情の吐露なのだろうが、それだけに危険だという指摘が必要だ。この人は、人権とか自由とか民主主義とかを自分の問題として考えたことはない。常に安全なところにいて、多数派の側あるいは権力の側からの無邪気な発言によって、貴重な少数派の言論を弾圧する尖兵となっている。

表現の自由とは、何よりも少数者の権利である。多数派や時の権力から嫌悪され、不快とされる思想や信条を表明する自由のことである。突き詰めれば、天皇や権力を遠慮なく批判する自由にほかならない。国民の多くを不快にするからとして、裕仁や安倍の批判が許されないとすれば、表現の自由はなきに等しい。

高須は、ツイッターで「日本国憲法の第一条に明記されている国民の象徴である天皇陛下のお写真にバーナーで火をつけ足で踏みにじる行為が日本国憲法で保証(ママ)されているはずがありません。日本の統合の象徴に対する侮辱は日本人全員に対する侮辱です。国民を侮辱する行為を国民の血税を搾取して支援する者は国民の敵。国賊」とも述べている。

高須の煽動の危険性はここによく表れている。天皇批判の表現は国民の敵・国賊という、俗論を超えた極論である。もちろん、このような言論にも表現の自由があるが、看過せずに批判が必要である。この高須の言説は、天皇を聖なる存在とする信仰の表白にほかならない。その天皇神聖の信仰の共有を全ての国民に押し付けようというのが戦前の政府と社会が行った過ちであった。高須は、今の世にこれを繰り返そうというのである。

もちろん、生身の天皇は他の国民と同等に人権主体である。これを傷つけたり脅迫する行為は、他の国民に対する傷害・脅迫と同様に犯罪となる。しかし、言論による天皇や天皇制の批判は最大限許容されなければならない。それが、同調圧力社会において、表現が困難であればこそ、「表現の自由」の保障が意味をもつのである。

天皇を聖なる存在とする信仰とは、聖なる血に対する信仰である。アマテラス・神武以来の聖なる血統という古代政権の愚かな信仰。これこそ、不合理な差別の源泉であり、合理性を追求してきた近代社会が意識的に排除してきたものである。

天皇の血を高貴で神聖なものとする思想は、その対極に卑賤な血という差別を生み出す。聖なる天皇を戴く日本を貴しとして他国を蔑む排外主義をも生み出す。これは、明治政府が作り出した国民総マインドコントロールの残滓なのだ。

最近、「白頭血統」「白頭山の血統」という言葉を聞く機会が多い。国民統合のために、聖なる血への信仰が利用されているのだ。これも、天皇制支配の残滓というほかない悲劇である。高須克弥と金与正、聖なる血統を崇拝するという精神構造において酷似していると指摘せざるを得ない。

聖なる血への信仰は愚かというにとどまらない、政治的に利用されることで危険なのだ。マインドコントロールを解く努力が、国民的課題として求められている。

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