澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

本日速記記念日に「速記録改竄」への抗議

この度初めて知ったことだが、今日(10月28日)は「速記記念日」とのこと。そんな記念日があることすら知らなかった。

公益社団法人日本速記協会のホームページには、「1882年(明治15)9月19日、田鎖綱紀(たくさり こうき)が、ピットマン系のグラハム式に基づいて「時事新報」紙上に「日本傍聴記録法」を発表しました。また、同年10月28日、東京で第1回講習会を開きました。これを記念して、日本速記協会は10月28日を速記の日と定めました。」とある。

田鎖綱紀の名は聞いたことがある。私の郷土・盛岡出身の名士としてである。速記の父と呼ばれ、「伊藤博文からは『電筆将軍』の称号を贈られ終生この称号を愛用した」という。

速記は円朝の人情話を活写して言文一致体の成立に寄与したなど説かれるが、何よりの功績は正確な議事記録を可能としたことである。
「田鎖式速記術は弟子達により改良された後、元老院大書記官であった金子堅太郎により帝国議会における議員の発言や政府の説明・答弁を記録するために導入されるなど、日本憲政史において多大な功績を遺した。」(ウィキペディア)という。

正確な記録の作成には、速記の技術だけではなく、速記者の矜持が必要である。ありのまま、聞こえるままの正確な速記は、その改竄や捏造を許さない速記者のプライドによって保たれる。

古代中国の王室には、記録を司る「史官」という職があった。その司が「太史」である。太史の正確な記録者としての矜持について、春秋左氏伝に下記のよく知られたエピソードがある。

斉の大夫崔杼が、君主の荘公を殺し、その弟の景公を立てて大臣となった。すると斉の太史が『崔杼、其の君を弑す』と事実を史書に書いたので、崔杼はこれを殺した。後をついだ太史の弟も同じことを書いたので、二人目に殺された。しかし、もうひとりの弟が三度同じことを記すに及んで、さすがの崔杼も記録の抹殺を断念した。太史兄弟が次々に殺されたことを聞いた別の史官は『崔杼其の君を弑す』と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰った。

春秋の昔から、記録の正確さは大切なものとされ、記録者の矜持も尊重され称賛されたのだ。記録の改竄、歴史の捏造は、時代を問わず忌むべきものとされてきた。

それがどうだ。戦争法案審議の最終盤、「参議院の安保平和安全法制に関する特別委員会」の議事録が惨めに改竄された。田鎖綱紀も怒るであろうし、太史の面々も、太史公を称した司馬遷も怒らずにはおられまい。

その「速記の日」を選んで本日、参議院議長や鴻池祥肇(当時委員長)等に、「公表された議事録作成の経緯の検証と当該議事録の撤回を求める申し入れ」を行う。3000筆を上回る署名を添えてのことである。

その申し入れに、次の一文がある。改めて思い起こそう。改めて、忘れてはならないと再確認しよう。
「そもそも存在しない安保関連法案の『採決』『可決』を後付けの議事録で存在したかのように取り繕う姑息なやり方に強く抗議します。
9月17日の委員会室は速記録で『議場騒然』『聴取不能』と記載されたような状況であり、テレビで実況中継を視聴した国⺠の圧倒的多数は『あれで採決、可決などあり得ない』と受け止めています。今回の議事録に追加された『議事経過』には、次のような重大な偽り、あるいは採決の存在を議事録への追記で証明しようとする試みの道理のなさが露呈しています。」

指摘のとおり、やり口が姑息きわまる。記録の改竄に心痛むところがないのだ。鴻池議員らには、田鎖綱紀や太史たちの爪の垢を煎じて飲ませねばならない。
(2015年10月28日・連続第941回)

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Published in 水曜日, 10月 28th, 2015, at 07:08, and filed under 戦争法.

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