澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

安倍首相の靖国神社参拝への執念

7月までのネコが、8月にはオオカミになる。選挙後の自民党の変身が心配される。まずTPP交渉であり、原発再稼動であり、そして集団的自衛権の解釈変更である。中でも焦眉の急の問題として、8月15日の靖国参拝問題が懸念される。

本日、複数のメディアが「安倍首相 終戦記念日の靖国参拝見送りへ」「中・韓に配慮」と報道している。参院選での圧勝による政権基盤強化の余裕なのかも知れないが、取りあえずは結構なこと。

たまたま本日、〔ソウルー時事〕が次の記事を配信している。
「27日の朝鮮戦争休戦60周年を前に、北朝鮮・平壌で25日、朝鮮戦争に参戦した兵士の墓地『祖国解放戦争参戦烈士墓』が完成し、竣工(しゅんこう)式が行われた。金正恩第1書記がテープカットを行い、黙とうをささげた。朝鮮中央通信など北朝鮮メディアが伝えた。」

日本の靖国神社と、北の「祖国解放戦争参戦烈士墓」。似ているようでもあり、ちがうようでもある。

安倍晋三と金正恩とは、ともに「国のために戦った方々に敬意と尊崇の念を表し、冥福を祈るのは当然だ」と考えている似たもの同士。「お国ための戦死者を国が祀らないで、誰が国に命を捧げるか」という点でも、「これから兵士には危ないことをさせるのだから、安心して死ねるよう死後の安住の設備を整えておかなくては」という思いでも、きっと意気投合の間柄。この点は瓜二つのそっくりさん。

しかし、靖国と烈士墓とは、神社と墓地という決定的な違いがある。いうまでもなく靖国神社は特定の宗教施設だが、墓地は宗教宗派を超えた存在で、必ずしも宗教と結びつかない。

我が日本国憲法の厳格な政教分離原則は、戦前の国家神道が国民の精神支配の道具となった点の反省から生まれている。とりわけ、「天皇への忠死者を神として祀る」という軍国主義的信仰を廃絶するための憲法原則である。だから、首相の靖国神社参拝は、「外交上賢明な対応として避けるべき」という筋合いのものではない。我が国の根本規範としての憲法が、「国の代表者が公的資格において靖国神社を参拝することを許さない」としているのだ。参拝の対象が、神社ではなく、一切の宗教色を排した墓地となるとずいぶん話しが違ってくる。

では、北の烈士墓には宗教性がない(あるいは希薄)から問題はないのか。報道の画像を見る限り違和感を禁じ得ない。まるで、天皇の行幸の雰囲気。墓地の竣工式は戦前の臨時大祭に相当するのだろう。墓地といえども、あれはやはり事実上の「ヤスクニ」だ。

おそらく問題の本質は、戦死という国民個人の悲劇を、個人次元のものから国家が取りあげて、国家目的遂行に適合するよう再構成してしまうところにある。「戦死者の魂の国家管理」と言ってもよい。戦死は個人的に悼むべきものではなく、お国のための名誉の戦死と意味づけられる。戦死がもたらす死者の周囲への反戦・厭戦の心理は払拭される。戦争の悲惨さ、戦争の犯罪性は捨象され、聖戦における皇軍兵士の忠死として、戦争への批判を許さない。

そのような戦死者の取扱いとしては、かつての日本では神道形式による「魂の管理」が国民心理に適合的であった。今、北では「将軍様にお参りいただける烈士墓」の形式が適合しているのだろう。いずれも、これから戦没者となりうる兵士やその家族に、死を公的なものとして覚悟させ、戦死を意義あるものとして受容させる国家的心理装置なのだ。

安倍首相の靖国神社公式参拝が実現すれば、それは過去の戦没者たる祭神に対する礼拝の要素は希薄である。むしろ、これからの戦没者を意識してのものといわねばならない。国防軍を作り集団的自衛権を認めて、専守防衛を超えた戦争をする国としようという安倍にとっては、新たな戦争による新たな戦没者を合祀する施設としての靖国が不可欠であり、その靖国への国家的な権威付けが必要なのだ。当然のことながら、天皇の利用も念頭にあるに違いない。

改憲・国防軍・戦争、その三題噺を見据えての靖国神社公式参拝への執念なのだ。
(2013年7月25日)

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Published in 木曜日, 7月 25th, 2013, at 22:38, and filed under 未分類.

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