澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都教委よ、裁判官よ、憲法の叫びに耳を傾けよ

昨日(3月15日)、東京「君が代」裁判第4次訴訟の最終弁論。
2014年3月17日に提訴し、以来3年間15回の口頭弁論を経て、本日弁論終結した。判決言い渡しの指定日は9月15日である。

私は、この裁判の弁護団の一員として多くのことを考えさせられ、また学んだ。乱暴に教育を破壊しようとする権力の潮流が一方にあり、真摯に生徒の立場を思いやり真っ当な教育を取り戻そうとする多くの教員の抵抗がある。怒らねばならない場面にも遭遇し、また心温まる多くの経験もした。

国旗・国歌(日の丸・君が代)にまつわる憲法論を考え続けて、今確信していることがある。日本国憲法は、国家と国民(個人)との対峙の関係を規律することを最大の使命としている。国民は国旗国歌を通じて国家と対峙するのだから、公権力による国旗国歌への敬意表明強制の是非こそは、憲法が最も関心をもつべきテーマなのだ。

また、「日の丸・君が代」は、戦前の旧天皇制のシンボルであった。「日の丸・君が代」への敬意表明強制の是非は、旧体制を徹底して否定して成立した現行憲法の価値観を尊重するか否かの試金石だ。

私は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が許されるか否か、それは日本国憲法の理念を生かすか、殺すかの分水嶺だと確信する。憲法を殺してはならない、是非とも生かしていただきたい。そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決に期待したい。

結審の法廷で、お二人の原告が堂々たる意見陳述をした。まさしく、呻吟する憲法が叫んでいるの感があった。そのうちのお一人、渡辺厚子さんの陳述をご紹介する。もうひとかたの陳述も、ご了解を得たうえで、近々紹介することにしたい。

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私は昨年7月27日第11回口頭弁論の際、原告本人の陳述をさせていただきました。今回は、結審に当たり、原告を代表して、障がい児への人権侵害について陳述いたします。

学習指導要領の片隅に国旗国歌条項が入れられて以来、どこの学校でも、保護者や子どもたちのなかにある多様な価値観を、「指導」と云う名で、否定するようなことはしてはならないと、心を砕いてきました。

小平養護学校では、毎年卒業式に向けて、学校として保護者に手紙を出してきました。「日の丸・君が代」に対してどのような態度を選択するかは子ども自身や保護者の権利であると告げてきたのです。そうやって子どもたちの多様性、思想良心の自由の権利、思想良心形成の自由の権利を守ろうとしました。教員が個人的に「日の丸・君が代」をどう思うのかとは別次元の、学校や教員の職務責任であると考えてきたからです。

しかし通達はそれを一変させました。

教職員に起立するよう職務命令を出す。全教職員の起立という圧力で子どもたちを起立させる。通達は私達に、全員の子どもを起立させる道具、加害者になるよう命じました。

通達後、子どもたちは教員起立がもたらす同調圧力によって起立させられています。そればかりか学校は、不起立を表明する子どもに圧力を加えています。

町田特別支援学校では、母親と相談して不起立を決めた生徒に、本当に家庭で話したのか、と校長は家庭への思想調査をしようとしました。生徒は一緒に話し合って不起立を決めた母親が悪いのか、と泣いて訴えました。白鷺特別支援学校など様々な学校で、全員の子どもを起立させるために、お尻を持ち上げたり、手を引っぱったりして起立させています。教員起立に同調できない子どもには、文字通り力づくで起立をさせているのです。

昨年10月、卒業生の人工呼吸器が緊急音を発し職員が対応したところ、跳んで来た管理職はあろうことか起立を命じた、ということを証言いたしました。これに対し都教委は、“結果的には何ごともなかったのですね?”と言われました。私は愕然としました。生命軽視の事実があったことを知りながら「何事もなかったから問題ない」とでも言うのだろうか。たまたま無事だっただけで、「教員の起立を優先させるあまり子どもの生命を軽んじている事態が起きている」ということに、都教委は戦慄しないのだろうか。反省しないのだろうか。我が耳を疑いました。

城北特別支援学校では、身体の痛みに苦しむ子どもを抱きあげて座った教員を、不起立だと校長がとがめました。そして、介助をしないで起立をしろ、さもなくば子どもを式に参加させないという選択肢もある、と言い放っています。多摩特別支援学校の校長は「儀式では体に負担がかかるものだということを、車椅子にのせたままで教えていく必要がある」と発言し、床におろすことを許しませんでした。様々な学校で、子どもが泣き叫んでも斉唱中は連れ出すな、子ども同士が喧嘩をしても斉唱中は放置しろ、トイレ介助のために式場をでるな、子どもにおむつをつけろ、などと言われ、教員は怒り、悔しさ、悲しみに血の涙の出る思いでした。

都教委は、子どもに「決して苦痛を与えていない」と主張します。しかし実際は教員を起立させようとして、子どもの生命や安全や人権を様々に侵害しているのです。

現在の職務命令書には、緊急事態には校長に指示を仰ぎ対処すること、と記されています。校長がとなりの席ならば指示を仰ぐのも可能です。ですが遠くはなれた体育館の端からは、緊急事態の子どもを放置して、指示を仰ぎに走っては行けません。君が代斉唱中に、緊急事態です!と大声で叫ぶこともできません。結局は「指示を仰げず」ネグレクトするか、処分覚悟で命令に違反するか、教員個人が即断を迫られているのです。子どもたちの危機は回避されていません。

起立職務命令は、本来は第1義であるべき急を要する子どもへの関わりを、「管理職に許可をもらって初めて可能になる」第2義的なことにしてしまいました。

起立斉唱命令の本質は、ここにこそ現れていると私は思います。「日の丸・君が代」強制は命をないがしろにする。国家や国家シンボルへの敬愛強制は、個人を支配し、果ては命まで支配する、ということです。

職務命令による教員起立によって、子どもの思想良心の自由は侵害され、のみならず、生命や安全までもが実際に脅かされているという現実をどうか直視して下さい。

10・23通達と同時に出された実施指針は、フロアー会場の使用を禁じ、全員の子どもに壇上に上がるよう命じました。

04年3月光明特別支援学校では、卒業生の保護者全員がこれに反対し、式をボイコットするとして紛糾しました。04年当時、強弱はあるものの、すべての障がい児学校で、壇上しか認めないことに反対の声が上がっています。教職員も保護者も、どのような会場形式にするのかは、学校で決めさせてほしい、と都教委に訴えました。各学校では卒業生の特徴により、壇上にしたりフロアーにしたり、その年々の会場形式を決めてきたからです。殆どの子どもが車椅子を使用する肢体不自由学校ではフロアー会場をずっと選んできました。

しかし都教委は、学校が会場形式を決めることを許さず、壇上を使用しろ、壇上で証書を受け取れ、の一点張りでした。

この13年間、障がい児学校のなかで、ステージの下で渡すことを許されたのはたった1例のみです。これは、祐成八王子東特別支援学校元校長が自分で証言しているように、あまりに大きい寝台タイプの車椅子のためステージ上で向きをかえられなかったからです。子どもへの「配慮」ではなく「不可能」だったからです。

たどたどしくとも自分で電動車椅子を操作して証書をもらいたいと涙ながらに訴える子ども・保護者・教員の懇願を、都教委は一切聞き入れませんでした。これが最後の姿になるかもしれない夭折の危険の中でいきている子どもたちの、痛切な願いを無碍に却下しました。

本来自分の力で動きたいというのは許可を受けることではなく、権利なのではないでしょうか。都教委には保障すべき義務があるのではないでしょうか。

ところが都教委は“バリアーフリーの考えとは、「通常の学校」で行われている壇上儀式と同様の経験ができること”なのだと言うのです。“フロアー式は最初から壇上が無理と決めつけて一律に特別扱いしていること”だと言うのです。

障害のない子どもが「通常」であって、障害のある子どもはその「通常」をめざして奮闘すべき存在だ、とでもいうのでしょうか?子どもの様々な有り様、ニーズに応じたあり方を保障することが「特別扱い」だというのでしょうか?子どもたちは1人1人の個性に応じた支援を受ける権利があります。都教委の特異なバリアーフリー論には根本的に、障がい児が、ありのままの姿でありのままに存在することを認めようとしない差別がある、と感じます。津久井やまゆり園障がい者殺傷事件は、 “ありのままの姿”の尊厳を否定した行き着く先のことであったのではないでしょうか。

私は、子どもへの加害行為を黙認してはならない、加担してはならない。教員として、子どもと教育に誠実でありたい。誠実であろうとしてきたこれまでの自分自身を否定してはならない、とギリギリの思いで命令に従いませんでした。

14名の原告たちは皆、一人ひとり、教員としての自分はどうあるべきか真剣に悩んだ末に不起立に至りました。これは教育と言う職務に忠実であろうとした結果です。決して個人的なわがままではありません。裁判官のみなさまにはこの私達の思いをぜひとも分かっていただきたい。

私達の不起立は、教育の変質、子どもの人権無視、に対する止むに止まれぬ良心的不服従なのだ、ということを強く申し上げます。

私達原告全員の処分を取り消してください。そして私達の処分の取り消しが、子どもたちの権利回復にどうか良い影響を与えるものになりますよう、心から願っています。
(2017年3月16日)

「共謀罪」は、法案として提出されても4度目の廃案に追い込める。

本日の憲法学習会例会にお招きの電話をいただいた際に、二つ返事で承諾申しあげました。3月15日を特に選んでの共謀罪をテーマにした学習会。これは、お引き受けしなければならない、と思ったわけです。

この地域のみなさまが、10年以上の長期にわたって、毎月の憲法学習会例会を続けていらっしゃることに敬意を表します。ご期待に応えるような、ご報告となるよう努めたいと思います。

今日は「3・15」の当日ですから、最初に治安維持法のお話しをさせていただき、次に「治安維持法」と「共謀罪」とがつながっていることを理解するための幾つかのキーワードをご説明し、そのあとに共謀罪を語りたいと思います。共謀罪がどのように危険で、かくも危険な共謀罪を導入必要という政府説明のウソをあばくかたちでレポートしたいと思います。

1928年3月15日は、治安維持法の最初の本格的発動の日として記憶されています。治安維持法は1925年に普選法成立と並んで成立しています。政府によるアメとムチの使い分けとも言えますが、ときは大正デモクラシーの時代、民衆の側に普通選挙を実現させるだけの力量があったのですから、けっして治安維持法が無警戒に成立したわけではありません。

その危険性については、ジャーナリズムも院内勢力も指摘したところです。それでも、1923年の虎ノ門事件(摂政襲撃事件)やコミンテルンなどによる、「テロの危険」防止の必要が政府側から強調されたことは、いま想起されるべきことだと思います。

また法案を提出した政府側は、法案を言論の自由を直接取り締まるものではなく結社を規制するにとどまっているとし、濫用の危険はないと防戦に務めました。このことも、教訓としなければなりません。

1925年成立時の法は、「国体の変革」と「私有財産制の否定」を目的とする結社を禁じました。だれが見ても、これは共産党弾圧の法です。天子に弓引く国賊とされた共産党。多くの人が、国民の結社の自由弾圧を怒ることなく、共産党を孤立させました。権力にも、そのような計算があったはずと思われます。

最初の弾圧対象は意識的に共産党とされ、次第に弾圧対象は拡散して政権にまつろわぬ者へと無限に拡散していくことになります。

とりわけ、1928年改正で追加された「目的遂行のためにする行為」罪の新設が決定的でした。組織の設立や加入だけでなく、「結社の目的遂行のためにする行為」という曖昧模糊な漠然とした犯罪類型の創設が権力の側にとっては、この上なく使い勝手のよい、民衆の運動弾圧に調法な道具となったのです。権力にとっての調法は、民衆にとっての大迷惑。

労農弁護士団事件では、弁護士の弁護活動が「結社の目的遂行のためにする行為」とされました。3・15事件や、4・16事件で検挙され起訴された共産党員を弁護した弁護士が、治安維持法の「共産党の目的遂行のためにする行為」を行ったとして逮捕され、起訴され、多くは執行猶予付きでしたが有罪判決を受けました。そして、弁護士資格剥奪となったのです。

人権を擁護する弁護士の任務遂行が犯罪とされる時代、それが現首相が取り戻したいとする日本なのです。教育勅語が子どもたちに刷り込まれた時代の日本の姿なのです。

治安維持法の危険の本質は、
(1) 表だって、国体に反する思想そのものを弾圧対象としたこと
(2) いかようにも使える権力にとっての調法さ
にあったと考えられます。

実は、(2)については共謀罪もまったく同じです。そして、そのことを通じて、政権が不都合とする思想を弾圧したり、萎縮させたりすることができるのです。

日本国憲法の根幹には自由主義があります。権力を恐るべき警戒対象とし、その暴走の抑制によって国民の自由を擁護しなければならない、とする考え方です。

この自由主義の理念が刑法に表れて、刑法の人権保障機能を形づくることになります。その際の原則が罪刑法定主義であり、その核をなすものとして求められるものが、構成要件の厳格性です。とりわけ、犯罪構成要件における「実行行為」こそが、が権力発動の可否を画する分水嶺です。

犯罪構成要件における「実行行為」は、それぞれの犯罪に相応した定型性をもっています。「人を殺す」「人の財物を窃取する」「火を放つ」等々、明らかに日常的な行為とは性質を異にする、違法が明確な特別の行為、と言えます。

ところが、「共謀罪」は、そのような実行行為着手の段階での取り締まりでは遅い、もっと前の段階で取り締まらなければテロの防止はできない、と言うのです。ここに、共謀罪の無理があります。自由や人権を擁護する体系として積み上げられてきた刑法の体系を崩さなければ、あるいははみ出さなければ、共謀罪は創設し得ないのです。

実行行為の着手に至らない予備・陰謀・「準備」・「共謀」などで、犯罪を覚知するためには、実行行為としての定型性がない行為を犯罪と認定しなければなりません。日常生活の一部である会話、電話、買い物、預金の引出し、などのそれ自身では違法性のない行為が、共謀罪として犯罪にされるのです。

このような共謀罪が、どうしても必要だという政府説明はウソです。 国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(パレルモ条約)といわれる国連決議に基づく条約締結のために共謀罪の立法が必要だということはウソです。名前を変えて、「テロ等準備罪」としていますがその名称もウソ。「組織的犯罪集団」に適用限定というのもウソ。「準備行為」が権力濫用の歯止めになるというのもウソ。

「安全・安心の獲得」という宣伝に欺されて、国民の自由や人権を売り渡してはならない。強くそう思います。

「アベ内閣は強そうに見える。共謀罪を廃案に追い込むだけの展望をどう考えているか」というご発言がありました。私は、廃案にできる、と考えています。もちろん、自動的にそうなるのではないが、運動の成果は結実するに違いない。

共同通信社が3月11、12両日実施した全国電話世論調査によると、「共謀罪の構成要件を変えた組織犯罪処罰法改正案については反対が45・5%、賛成は33・0%だった。賛成42・6%、反対40・7%だった一月調査とは賛否が逆転。政府はテロ対策が目的だと説明しているが、与党に当初示した条文案に「テロ」の表記がなかったことなどが影響したとみられる。」と報道されています。

アベ政権は、自衛体を南スーダンから撤退させると決断しました。隊員からの死亡者が出たら政権はもたない、との判断からだと思います。オスプレイの横田配備も当分ないことになった。

アベ政権は世論に押されつつあり、また、世論は変わりつつあります。政府与党は、内部の摺り合わせを終了して、近々閣議決定の上法案提出の予定とされていますが、提案されても、きっと4度目の「共謀罪」廃案を実現することはできると考えています。
(2017年3月15日)

「3・15」弾圧を繰り返すことのないよう、共謀罪への反対を訴えます。

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。毎月第2火曜日の昼休みに続けております、「本郷湯島九条の会」からの訴えです。
春に似つかわしくない陰鬱な日に、陰鬱な話題となりますが、皆さま、しばらく耳をお貸しください。

今日は3月14日。明日が、忘れてはならない『3・15事件』の当日となります。小林多喜二が小説「1928年3月15日」で描いたとおりの、野蛮きわまる天皇制政府による思想の大弾圧事件です。

89年前の、3月15日払暁午前5時。全国1道3府(東京・大阪・京都)27県の警察が一斉に日本共産党との関連を疑われる組織や個人宅を襲いました。合法政党だった労農党、全日本無産青年同盟、日本労働組合評議会、日本農民組合などの団体の事務所や個人宅百数十か所。検挙者数は1600名。押収文書1万余点とされています。

3・15事件は、治安維持法の最初の本格的発動の日として記憶されています。治安維持法とはなんだったのでしょうか。いまにつながる問題として、思い返してみなければなりません。参議院のホームページで、「治安維持法犠牲者に対する国家賠償法の制定に関する請願書」を読むことができます。ここに、治安維持法とは何であるかが、簡潔に記されています。その要旨は以下のとおりです。

「戦前、天皇制政治の下で主権在民を主張したため、あるいは平和を望んで侵略戦争に反対したために、多くの国民が治安維持法で弾圧され犠牲を被った。治安維持法が制定された一九二五年から廃止されるまでの二十年間に、逮捕者数十万人、送検された人七万五千六百八十一人(起訴五千百六十二人)、警察署で虐殺された人九十五人、刑務所・拘置所での虐待・暴行・発病などによる死者は四百人余に上っている。
 治安維持法は日本がポツダム宣言を受諾したことにより政治的自由への弾圧と人道に反する悪法として廃止されたが、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。世界では、ドイツ、イタリア、アメリカ、カナダ、韓国、スペイン、イギリスなど主要な国々で戦前、戦中の弾圧犠牲者への謝罪と賠償が進んでいる。日本弁護士連合会主催の人権擁護大会(一九九三年)は「治安維持法犠牲者は日本の軍国主義に抵抗し、戦争に反対した者として…その行為は高く評価されなければならない」と指摘し、補償を求めている。再び戦争と暗黒政治を許さないために、国が治安維持法犠牲者の名誉回復を図り、謝罪と賠償をすることを求める。…」

治安維持法は、1925年4月に制定され、1928に大改正、さらに1941年に全面改正されています。言わば、小さく生まれて、大きく育てられたのです。

治安維持法は、もともと「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者」を処罰する法律でした。教育勅語で教えられた國體つまりは天皇制を変革しようとする思想や行動、そして私有財産制度を否定する思想や運動を取り締まるための法律でした。まさしく、時の政権に不都合な思想を取り締まり弾圧する道具としての稀代の悪法でした。

しかも、1928年改正で追加されたのが、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定です。端的にいえば、共産党の目的遂行ノ為にする行為とレッテルを貼ることによって、政権や公安警察にとって不都合なあらゆる行為を弾圧の対象とすることができたのです。

こうして弾圧されたのは、最初は共産党でした。しかし、共産党にとどまることなく、弾圧の対象が拡大していったのは、皆さまご存じのとおりです。労働組合活動、農民運動、生活協同組合活動、ジャーナリスト、宗教者、平和主義者、リベラリスト、学生、教員、軍国主義批判、綴り方運動…。天皇制を賛美することのないあらゆる思想や活動が弾圧の対象となり、批判の言論を失った国家は暴走して破滅に至りました。その轍を再び踏んではなりません。

今、共謀罪が、治安維持法の再来であり復活を目ざすものとして、表舞台への登場をたくらんでいます。権力にとって、自らの政策に反対する人や組織や、その運動を取り締まる便利な道具があれば、何と調法なことでしょう。その道具を振り回さずとも、国民を萎縮させることができれば、こんなに好都合なことはありません。治安維持法はまさしく、そのようなものでした。そして、共謀罪も同様の役割を期待されているのです。

治安維持法が悪法であった理由は、表だって思想の弾圧を掲げた法律であったこと、そして、刑罰を科する対象の行為に限定なく、なんでも弾圧できたことにあります。さすがに、共謀罪が表向き特定思想の弾圧を掲げていることはありません。しかし、刑罰を科する対象の行為に限定なくなんでも弾圧できる危険をもっていることは治安維持法と変わりません。このことを通じて、政権は特定の思想や、特定の政党を狙い撃ちにした弾圧が可能となるのです。

いつものパターンのとおり、自民党が共謀罪の最悪シナリオを発表し、公明との協議で「少しマイルドになりました」という与党案を提出しようとしています。共謀罪ではなく、「テロ等準備罪」だ。「組織的犯罪集団」だけが刑罰の対象だ、と言いますが、実はその危険性に変わりはありません。

これまで3度廃案になった「共謀罪」。4度目に通してはなりません。治安維持法の前史から、誕生の経過、そしてそれがどう改悪を重ねて、どのように猛威を振るったかを、教訓として、「共謀罪」の成立を阻止するよう訴えます。陰鬱な、あの時代を繰り返すことがないように。

(2017年3月14日)

「アベ友疑惑」解明に、背任罪告発でメスの試み

世の中のできごとは、9分9厘までは常識的な理解の範囲にある。ところが、1厘にも達しない確率ではあるが、ときに常識では理解し難い驚くべきできごとが明らかになる。

豊中市では、路線価を基準に値踏みすれば10億円を下るはずのない国有地が、わずか1億3400万円で新設小学校敷地として売却された。しかも、代金の支払いは10年の分割払いだという。それだけではない。国は既にこの土地の土壌汚染除去費用1億3200万円を支払い済みである。ただ同然での払い下げと言って良い。校舎建設にも、6000万円近い補助金が支払われている。いたれりつくせりというほかはない。

今治市では、これまで52年間認可が下りなかった大学獣医学部の開設が国家戦略特区構想の利用で実現し、来年4月開校予定だという。同市は36億7500万円相当の学校敷地を無償で提供した。それだけではない。今後8年間で校舎建設等に補助金64億円も拠出するという。これまた、いたれりつくせりというほかはない。

どちらも、外面だけを眺める限りにおいては常識では理解し難いできごとだ。何かウラがある、と考えるのが健全な思考である。何にも考えようとしない者を愚民といい、あるいは奴隷という。どんな「ウラ」か、さしたる推理力は必要ない。どちらにもアベ・シンゾーとその妻の影があるのだ。いや、これ見よがしにアベと妻が大っぴらに存在感を際立たせている。「なるほど、それなら常識で理解できそうなこと」と合点がいく。合点がいくだけでなく、猛烈に腹が立つ。

前者の件で異例の利益を受けたのは、その極右思想においてアベとの同志的連帯を誇示する真正右翼の学校法人経営者。当初当該土地に新設される予定の校名は、「安倍晋三記念小学校」であり、現実にその校名を売り物にした寄付の募集も行われた。アベの妻は、この法人が経営する幼稚園で3度講演し、その教育方針に大いに共鳴して新設予定小学校の名誉校長職を引き受けて、広告塔となった。

後者の件で、異例の利益を受けたのは、アベの「腹心の友」を喧伝する学校法人理事長。ここでも、アベの妻が、この法人が経営する保育園の名誉園長を引き受けて、今なお広告塔におさまっている。

衆目の一致するところ、両事件とも「アベ友・疑惑」というほかはない。常識的には、アベ自身か、あるいはその取り巻きが、担当者に口利きをしたのだろうと推察される。それが、健全な思考による推認というほかはない。しかし、このような口利きは、通例密室で行われ、表に現れることは稀である。だから、直接証拠はなく、疑惑が疑惑にとどまることが多いこととなる。それをよいことに、アベは激昂して否定する。「失礼だ」「証拠を出せ」「私は一切関与していない」。うろたえて、ムキになるアベの姿は、ますます疑惑を深めるものとなっている。

口利きの事実は、状況証拠を積み上げて推認するしかない。既に積み上げられた状況証拠に基づく国民の心証は、アベ疑惑クロまではともかく、クロに近い濃い灰色の域にまでは行っている。仮に、口利きの事実がないというなら、アベやその取り巻きの側で、立証責任を負担するレベルに達している。積極的に、関係者の参考人招致実現を図らなければならないのは、そちらの側ではないか。

もし、アベやその取り巻きの口利きの事実がなく、関係者の忖度だけで、これだけのことが運んだとすれば、これまた恐るべき事態というほかはない。アベ自身が口も出さず手も汚さず、アベの意思が忖度されて実現したことになる。「アベ友」と思われる者に、自然と不公平な利益が集中するという、不公正きわまる政治社会が完成しているというのだろうか。

さて、今治のアベ友疑惑解明はこれからだが、豊中アベ友疑惑は新たな展開を見せた。前日まで強気一辺倒だった理事長が、3月10日態度を豹変させて小学校設立認可の申請を取り下げた。またまた、ウラに何があるかを推察せざるを得ない。追及の手を緩めることはできないが、この段階で法的手段行使の報である。

この問題に最初に切り込んだ、木村真豊中市議のグループが、刑事告訴を予定しているという。被告発人を近畿財務局の「氏名不詳」とし、「著しく低い価格と知りながら、学園に利益を図り、国に損害を与える目的で売り渡した」とする背任容疑。3月22日に、大阪地検に告発状提出の予定だという。木村市議は、「いびつな契約が結ばれた経緯を、検察に明らかにしてもらいたい」と話した旨、報じられている。

刑法第247条(背任罪)の条文は以下のとおり。

「他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたときは、5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。」

この条文中の「他人のためにその事務を処理する者」が被告発人(近畿財務局員)、「第三者」が森友学園、「本人」が国にあたる。そう考えて、条文を読んでいただきたい。

背任罪の主体は「他人のためにその事務を処理する者」とされているが、本件被告発人(近畿財務局員)は「国家公務員として国のために公務を処理する者」であって、この要件を充足することに問題はない。

「その任務に背く行為」とは、法令に従って国有財産の管理や処理を適正にしなかったことを指すことになろう。森友学園への貸付・売却が適正であったか、売却金額が適正であったかが、問われることになる。

「財産上の損害を加えた」は、国に損害が生じたかということで、結局は背任行為の有無と同じ判断になる。

問題あるとすれば、図利加害目的である。背任罪成立のためには、被告発者である近畿財務局員が、森友の利益を図ったか(図利)、あるいは国に損害を加える(加害)目的をもっていたことが必要とされる。

森友の利益を図ったという判断の過程で、誰か政治家の口利き圧力に屈してのことなのか、あるいは単に被告発人が行政の上層部や政権の意向を忖度した結果として異例のサービスをしたのかが、解明されなければならない。

ここまで解明されれば、国民はあらためて「アベ政治を許さない」との決意を固めることができるだろう。
(2017年3月13日)

古稀を迎えた第五福竜丸ー負の遺産忘却の潮流に負けずに

本日(3月12日)は、江東区夢の島で公益財団法人第五福竜丸平和協会の理事会。私は協会の監事として、理事会にも評議員会にも出席する立場。もっとも、私の実務はたいしたことはない。理事・評議員の役員全員が核廃絶の理念に共鳴したボランティア。当然のことのごとく、まったくの無償での活動に頭が下がる。

席上、2016年4月から17年2月まで11か月の第五福竜丸展示館の入場者数が、98,389人と報告された。6年前の東日本大震で入館者数が激減した。いま、震災前までの回復までには至らないものの、ようやく年間入館者数10万人台突破確実の見込みとなった。

関連して、小・中学校の先生たちに、原水禁運動や核廃絶問題についての関心が薄れているのではないかとの議論があった。本当にそうなのだろうか。原発と核兵器との関連や、核拡散問題は大きな社会的関心事となっていると思うのだが。

子供も大人も、多くの人に第五福竜丸展示館に足を運んでいただき、歴史の生き証人である巨大な船体を眺めながら、充実したパネル展示やガイドの説明で、1954年3月1日のできごとの意味をお考えいただきたいと思う。

なお、第五福竜丸展示館の公式ホームページは以下のとおり。
http://d5f.org/

さて、東京都から第五福竜丸展示館運営の委託を受けているのが公益財団法人第五福竜丸平和協会。その協会が、「都立第五福竜丸展示館ニュース 福竜丸だより」を発行している。最新号が、2017年3月1日付の398号(3・4月号)。8頁建ての充実した内容。

今号トップは、「70年を記念して 福竜丸をつくる」という、今年の展示内容の紹介の記事。
「この3月、第五福竜丸は建造から70年を迎えました。
展示館の開館にあたり東京都は『木造船での近海漁業は現在でも行われていますが、当時はこのような船で遠くの海まで漁を求めて行ったのです……遠洋漁業に出ていた木造船を実物によって知っていただく」と展示の趣旨を掲げています。
 70年は、人でいえば古稀です。木造船は本来20年前後の耐用年数ですが、『原水爆による惨事をふたたび起こさないように(都の展示趣旨)』との市民の願いをこめて、本造船の実物の保存が実現したのです。
 今年は木造船・第五福竜丸を発信していく企画展示をすすめます。現在の『この船を知ろう~建造70年の航跡』につづき6月からは、『第五福竜丸・木造船をつくる』(仮称)と題して、どのように船が造られるのかをたどります。建造の地和歌山県古座(串本町)、練習船改修の旧強力造船(三重県伊勢市)などから資料の提供をうけ、船大工、研究者の協力で船造りの工程や船大工の技、大工道具などを展示します。
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 「福竜丸だより」は来る7月号で400号を迎えます。展示館開館時の「福竜丸ニュース」「平和協会ニュース」に代わり1978年4月に「都立第五福竜丸展示館ニュース」を冠して刊行されました。福竜丸と来館者、展示館の模様や協会の取り組みをたどる貴重な積み重ねの記録です。今号は、「3・1ビキニ記念のつどい」でのフランスの核実験と被害について、講演録を収録。これからも皆さんと第五福竜丸をつなぐ「たより」として編集したいと思います。

その「たより」7頁に、「ワシントンからの通信(1)」が掲載されている。連載第1回のタイトルが「オバマの広島訪問と謝罪問題」。執筆者名は、私には馴染みのない、樋口敏広という方。肩書に、「ジョージタウン大学外交学院助教」とある。若い人なのだろう。

ジョージタウン大学といえば、著名な私立大学。ビル・クリントンの卒業校であり、現在「下院議員16名及び、上院議員6名が同大学の卒業生」だとのこと。とりわけ、外交関係への影響は飛び抜けて大きいようだ。

その大学の学生、つまり「将来のアメリカ外交を担う若者」の核に対する意識についての報告が興味深い。

「昨年5月27日、バラク・オバマが現職の米国大統領として初めて公式に広島を訪問した。当時、アメリカでは国論を二分する大統領選が行われていたが、主要政党とメディアはこの訪問を好意的に評価した。しかし、それは主に日米和解の証として捉えられ、原爆投下に対する謝罪の必要性が正面から論じられることは皆無であった。オバマの広島訪問の「成功」は、むしろ原爆投下に関するアメリカの『神話』、すなわち原爆が終戦をもたらし、現在の日米友好につながったとの通説を一層強化したと言えよう。
では、将来のアメリカ外交を担う若者は原爆投下をめぐる歴史と記憶をどのように考えているのか。昨秋、私は大学一年生向けのゼミでオバマの広島訪問をとりあげた。驚いたことに多くの学生は謝罪問題を原爆投下の必要性や人道的影響といった従来の論点だけでなく、加害者としての歴史を否定する現在の世界的な潮流の一環として論じていた。ある学生は、日米両国が負の遺産を常に直視し謝罪し続けない限り、加害と犠牲の上に成りたっている自国を盲目的に肯定する思想が若者の間で台頭する、とその危険を指摘した。
 事実、アメリカでも先住民征服と奴隷制の過去と現在まで続く構造的暴力の存在を忘却し、自国を無条件に礼賛する歴史修正主義が高まっている。アメリカの多様性の象徴として登場したオバマ大統領が原爆投下に対する謝罪を避けることで国民統合を図ったとすれば、それは誠に皮肉だと言えよう。
負の遺産を否定し忘却しようとする動きが国内外で強まる中、その遺産をどのように展示し継承するかは、第五福竜丸展示館をはじめとする各資料館に共通する課題ではなかろうか。(ひぐちとしひろ ジョージタウン大学外交学院助教)」

短い文章だが、歴史修正主義蔓延の指摘だけでなく、その克服の希望をも語っている点で読み応えを感じさせ、連載2回目以後が楽しみではないか。

「たより」の定期購読については、以下のURLを開いていただきたい。
http://d5f.org/contribute.html
(2017年3月12日)

教育勅語とは、天皇のために死ねという教典である。これを持ち上げるイナダを防衛大臣に居座らさせてはならない。

今日は、3・11。震災・津波・原発の被害について、ぜひとも書かなければならないところだが、思いがまとまらない。PKO部隊の南スーダンからの撤退問題も、アベ友小学校設立認可問題の新局面も、共謀罪も沖縄も韓国も豊洲も軍学共同もトランプも…、書くべきことが山積している。しかし、残念ながら、読んでいただくに値するほどの文章を書ける自信がない。やむなく、イナダ防衛相の資質に関連して、教育勅語について書くことにする。

結論から言おう。イナダは自衛隊を統率する人物として明らかに失格だ。こんな偏頗な思想の持ち主を防衛省のトップに据えておくことは、危険極まりない。この人物、頼りないというだけではない。現行憲法の理念がまったく分かっていない。いや、頭の中が、完全に「反・日本国憲法」で「大日本帝国憲法ベッタリ」なのだ。

大日本帝国憲法時代の日本は、天皇を神とし教祖でもあるとした宗教国家であった。その宗教を国家神道と呼んでいる。国家神道とは、分かり易い言葉を使えば「天皇教」というオカルトである。その教典こそが、教育勅語だった。日本中の教場を布教所として、訓導たちが天皇教の布教者となって子どもたちを洗脳した。日本中が、あの「塚本幼稚園」状態であったわけだ。

いささかなりとも理性をもった目で読めば、神なる天皇から臣民に下しおかれたという、明らかにバカげたカルト文書。少しでも理性の持ち合わせがあれば、こんなものを持ち上げることもありがたがることもできるはずがない。普通の感覚からは、教育勅語を評価していると思われることは、知性も理性もないと言われることと同旨。「恥ずかしい」ことなのだ。

教育勅語は大日本帝国憲法と一対をなすものであった。大日本帝国憲法が失効して、なお妥当性を保つことは出来ない。1948年6月、両院でその廃絶の決議が成立している。とりわけ参議院の決議は、日本国憲法に則って教育基本法を制定した結果として、教育勅語は既に廃止されて効力を失っているとした。教育勅語に代わって、日本国憲法と一対をなす教育の大原則が教育基本法である。

教育勅語の中に、「國憲を重んじ」という一文がある。国憲とは大日本帝国憲法のことにほかならない。当時主権は天皇にあった。だから、エラそうに、天皇が上から臣民を見下して、「憲法を守れ」などと説教できたのだ。

日本国憲法は主権者である国民が作った。その宛名の筆頭は、憲法99条に明記されているとおり天皇である。「憲法を守れ」とは、主権者国民が天皇に向かって言う命令なのだ。だから「教育勅語にもいいところがある」などとは、口が裂けても言ってはならないのだ。

教育勅語の原文は、もったいぶった虚仮威しの言い回しによる読みにくさはあるが、深淵な思想や哲学をかたっているわけではない。さして長くはない文章。句読点をつけるべきところを一字空け、適宜改行して、読み易くしてみよう。

敎育ニ關スル勅語
朕惟フニ 我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ 此レ我カ國體ノ精華ニシテ 敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

爾臣民
 父母ニ孝ニ
 兄弟ニ友ニ
 夫婦相和シ
 朋友相信シ
 恭儉己レヲ持シ
 博愛衆ニ及ホシ
 學ヲ修メ 業ヲ習ヒ
 以テ智能ヲ啓發シ 
 徳器ヲ成就シ 
 進テ公益ヲ廣メ 
 世務ヲ開キ 
 常ニ國憲ヲ重ジ 國法ニ遵ヒ
 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ
 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ 實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ 咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名(睦仁)御璽

ご覧のとおり、教育勅語には「我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ」と、忠孝から始まる幾つかの徳目が書き込まれている。もちろん、天皇制権力に好都合な徳目を羅列して臣民に押しつける類のもの。個性・自主性・自律性の確立、貧困を克服し格差を是正する努力、個人の尊重、男女の平等、権力に対する抵抗、弱者の連帯や団結、平和への献身、国際貢献、自由・人権の重視、宗教や政治信条への寛容、政治的な関心の涵養などは、徳目として書き込まれるはずもないのだ。普遍性を欠いた教育勅語の一部の徳目を持ち上げ、「それ自体は悪くない」などと言うのは笑止千万というべきである。

「修身斉家治国平天下」という中国・朝鮮伝来の儒教思想で固められ、その枠の中の「孝」であり「友」であり、「和」「信」ではないか。「親孝行も、夫婦仲良くも良いことだから、教育勅語も悪くない」は、ものを考えようとしない愚者の言か、人を騙そうとする扇動者の言でしかない。

教育勅語のすべての臣民の徳目は、「常ニ國憲ヲ重ジ 國法ニ遵ヒ 一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂する。

私流に、これを現代語訳してみよう。なお、「朕」の訳語は「オレ様」、「爾臣民」は「おまえたち家来ども」がぴったりだ。
「おまえたち国民はオレ様の家来だということをよくわきまえて、オレ様が作った大日本帝国憲法と、オレ様の議会が作ってオレ様が公布するすべての法律に文句を言わずに従え」「もし戦争や内乱や革命など、一大事があるときには、必ずオレ様の兵隊となって命令のとおりに勇猛果敢に命を投げ出す覚悟をせよ。そのようにして、オレ様一族の繁栄が永遠に続くよう最善を尽くさなければならない。それこそがおまえたち家来が守るべき最高の道徳なのだ」

だから教育勅語は、軍国主義の核でもあり基礎でもあるというのだ。富国強兵の時代にはともかく、平和憲法の時代には失効するしかなかった。

以上が、常識的な見解である。ところが、このような常識をもちあせていないことを明言した大臣がいる。イナダ防衛大臣。

3日前の水曜日、3月8日の参議院予算委員会。福島みずほ議員が、教育勅語の評価に関して稲田朋美防衛大臣の認識を問いただして追及した。以下は、その抜粋である。

○福島みずほ 稲田大臣にお聞きをいたします。「ウイル」2006年10月号、228ページの下段、御自身の発言を読み上げてください。
○イナダ (抵抗したが、結局は読み上げる)「教育勅語の素読をしている幼稚園が大阪にあるのですが、そこを取材した新聞が文科省に問合せをしたら、教育勅語を幼稚園で教えるのは適当でないとコメントしたそうなんです。そこで文科省の方に、教育勅語のどこがいけないのかと聞きました。すると、教育勅語が適当でないのではなくて、幼稚園児に丸覚えさせる教育方法自体が適当ではないという趣旨だったと逃げたのです。しかし新聞の読者は、文科省が教育勅語の内容自体に反対していると理解します。今、国会で教育基本法を改正し、占領政策で失われてきた日本の道徳や価値観を取り戻そうとしている時期に、このような誤ったメッセージが国民に伝えられることは非常に問題だと思います。」

○福島みずほ この幼稚園というのは塚本幼稚園のことですか。
○イナダ 今報道等で取り上げられている状況等勘案いたしますと、ここで私が指摘をしているのは塚本幼稚園のことだと推測いたします。

○福島みずほ この後に教育勅語について発言をされているんですが、最後の一行も含めて教育勅語の精神は取り戻すべきという考えは現在も維持されていますか。
○イナダ 教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません。

○福島みずほ 最後の一行まで全部正しいとおっしゃっていますが、これでよろしいんですね。
○イナダ  私は、その教育勅語の精神であるところの、日本が道義国家を目指すべきである、そして親孝行ですとか友達を大切にするとか、そういう核の部分ですね、そこは今も大切なものとして維持をしているところでございます。

○福島みずほ 念のため聞きます。この文章はこうです。稲田さんが、「麻生大臣は最後の一行が良くないと、すなわち『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』といったような部分が良くないと言っているが私はそうは思わない」と言っているんです。つまり、これ全部ということなんですね。この部分も含めて全部ですね。
○イナダ 今申し上げましたように、全体として、教育勅語が言っているところの、日本が道義国家を目指すべきだというその精神ですね、それは目指すべきだという考えに今も変わっていないということでございます。

○福島みずほ 教育勅語が、戦前、戦争への道、あるいは国民の道徳の規範になって問題を起こしたという意識はありますか。
○イナダ そういうような一面的な考え方はしておりません。

イナダに比べれば、麻生太郎が常識的な人物に見えてくる。かくも、防衛大臣は非常識で危険なのだ。

なお、イナダは答弁の中で、執拗なまでに「道義国家」という言葉を繰り返している。教育勅語は、明らかに好戦的な軍国主義の宣言であって、国家としての道議を説くものとなっていない。もとより、「道義」も「道義国家」も教育勅語の原文にはない。

「実は、稲田が持ち出してきた『道義国家』は、『国民道徳協会』現代語訳教育勅語にある「私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます」から引いていると思われますが、教育勅語にはこんな文句はないわけです。明らかに教育勅語が〈読めてない〉」(早川タダノリ)というのが同氏の指摘。なるほど、指摘されて見るとそのとおりなのだ。イナダの答弁は、この現代訳からの借り物。

早川氏には、日民協の「法と民主主義」2017年3月号(3月下旬発刊)にその間の事情を詳しく寄稿いただいている。是非、ご一読いただきたい。

戦前、天皇のために死ぬことが誉れという、天皇教の教義を国民に叩き込んだ教典としては、教育勅語のほかに「軍人勅諭」があり、東条内閣の時代に「戦陣訓」も作られた。兵に天皇の命令のままに死ねと教えた「軍人勅諭」と「戦陣訓」。ともに今はないが、防衛大臣が、教育勅語を持ち上げるのは不気味で恐ろしい。

イナダが、ヌケヌケと教育勅語礼賛を語ることができるのは、アベ政権あればこそである。籠池という尻尾を切っただけでよしとすることはできない。頭も胴体も潰しておかねばならない。イナダのごとき、バランス感覚を欠いたこんな危険人物を防衛大臣にしておくことはゆるされない。
(2017年3月11日)

春宵のまどろみにラジオのニュースがこう聞こえたー韓国憲法裁判所大統領罷免決定のインパクト

2012年4月26日、「日民協 韓国司法制度調査団」は韓国憲法裁判所を訪問した。我が国の、高邁な憲法理念と高邁ならざる最高裁判決との落差に臍を噛んでばかりの日本の弁護士には、韓国憲法裁判所の判決は驚嘆の内容。行政に対する厳格なこの姿勢はいったいどこから生まれてきたのだろう。その疑問ゆえの韓国憲法裁判所訪問であった。

韓国憲法裁判所では、見学者に対する応接の親切さと説明の熱意に驚いた。まずは15分ほどの憲法裁判所のプロモーションビデオを見た。みごとな日本語版であった。そのタイトルが「社会を変える素晴らしい瞬間のために」というもの。憲法裁判所の、国民一人ひとりの幸福に直接つながる活動をしているのだという強い自負が伝わってくる。日本の最高裁が、「社会を変える素晴らしい瞬間」を作ったという話は滅多に聞けない。そのような発想があるとすら思えない。

ビデオを見たあと、最高裁調査官にあたる憲法研究員(判事)二人から憲法裁判所の理念や仕組みそして、その運用の実態や社会的評価について2時間にもわたって懇切な説明を受け、充実した質疑応答があった。研究員の一人は、日本に留学(東北大学)の経験ある方で、完璧な日本語での説明だった。その気取らない応対の姿勢にいたく感心し、わが国の最高裁のあの威圧的で横柄な対応との懸隔を嘆いたものだった。

その日、法廷の見学もした。日本の最高裁大法廷よりは、一回り小さいものだが、権威主義的ではない明るい印象があった。屋上庭園にも案内され、青瓦台を遠望もした。後年、ここで大統領の訴追に対する弾劾の裁判が行われるとは思いもよらなかった。

その韓国憲法裁判所が、本日(3月10日)朴槿恵大統領に、罷免の審判を言い渡した。憲法裁判所は、強い司法積極主義を印象づけた。

今日の夕刻、ラジオのニュースを聞きながら多少まどろんだ際に、次のようなニュースが耳に跳び込んできた…ように聞こえた。

我が国のアベ首相に対する国会の弾劾訴追を審理していた最高裁判所大法廷は10日、アベ氏の思想的同志である籠池泰典氏による小学校建設をめぐる一連の権力濫用疑惑(いわゆる「アベ友疑惑」)事件について、違法・違憲と断定し、それが在任期間の全般にわたって続いたとして、アベ氏の罷免を言い渡した。アベ氏は即座に総理大臣と国会議員としての職を失するとともに、今後7年間公民権を停止され、公職に関する選挙権と被選挙権を失うことになる。
 これに伴い憲法54条の規定に準じて40日以内に衆議院総選挙が行われることとなり新たな首班指名の段取りとなると思われるが、この際投開票日を敢えて5月3日の憲法記念日として、国民が立憲主義の基本を再確認すべきとする案も有力視されている。
 我が国憲政史上、弾劾による首相の失職は初めてのこと。この歴史的決定は、最高裁裁判官15人全員の一致した意見となった。国民の8割近くが首相の弾劾に賛成していた世論を反映した形だが、アベ氏を支持する少数派右翼層は強く反発しており、我が国社会の混乱は続きそうだ。

 テラダ最高裁長官は決定文を読み上げ、アベ友疑惑事件について、アベ氏が「首相の地位と権限を濫用した」と断定。疑惑解明のための関係者の国会招致や特別検察官などの捜査に応じなかったことについて「もともと、被訴追者アベは、立憲主義思想理解の素養に欠け、違法・違憲行為を繰り返して行政府の長として意を尽くすべき憲法遵守の姿勢の片鱗も窺えない」と厳しく指摘した。そのうえで「(アベ氏の)違憲、違法行為は国民の信任に背き、重大な違法行為だ。その違法行為が我が国の憲法秩序に与える否定的な影響と波及効果は重大」として罷免が妥当だとした。

籠池氏による極右教育を売り物とした小学校建設に伴う、アベ政権の口利き疑惑の数々は、2017年2月初旬以来我が国メディアの報道するところとなり、国民のアベ弾劾の気運は急激に高まって、各地でのアベ氏退陣を求める市民による大規模集会が行われた。

我が国国会は先日、アベ友学園疑惑に関するアベ氏の行動は、限りなく違憲濃厚として弾劾訴追案を圧倒的多数で可決。
最高裁は、
(1)国民主権主義や立憲主義・法治主義に違反したか
(2)首相の口利きや職権濫用の事実があったか
(3)籠池氏と共謀共同正犯となり得る刑事犯罪があったか
(4)メディア弾圧を行ったか
(5)教育勅語など違憲内容の教育助長の意図があつたか
の五つの争点について、違憲もしくは重大な違法行為にあたるかを審理してきた。アベ氏側は「選挙で選ばれたのだから、私が国民の意思であり法律だ」「口利きや忖度というが、正しいことをしている」「教育勅語のどこが悪い」「すべては、メデイアのでっちあげ」などと全面的に否定してきた。

政権を支えてきた保守層は既にアベ氏を見放し支持率は5%まで下落している。しかし、コアな極右勢力5%がアベの支持を継続している。トーキョー市中心部では毎週金曜日、退陣を求める大規模集会が開かれてきた。

アベ氏はこれまで、首相としての立場で逮捕を免れていたが、失職したことで近く検察に逮捕、起訴されると見られている。

心地よい夢から覚めてうつつの世界に戻ったが、さてあれは正夢か。それとも逆夢なのだろうか。
(2017年3月10日)

クロマグロ捕獲規制と民主主義

最近、漁業・漁民との関わりの機会が増えている。

本日(3月9日)午後、お誘いを受けて参議院会館1階講堂で行われた「沿岸漁民の視点からクロマグロの漁獲規制を考える」シンポジウムに参加した。「全国沿岸漁民連絡協議会」(JCFU)と、NPO法人「21世紀の水産を考える会」の共催。北海道から、壱岐・対馬までの沿岸漁民が参加して盛会だった。

シンポジウムのタイトルは、「クロマグロの漁獲規制を考える」だが、内容は、「規制による漁民の悲鳴」と、「漁民の怒り」が噴出した集会であった。沿岸漁民の水産行政への不信は根深い。

シンポジウム開催の趣旨は、次のように述べられている。
「現在、沿岸漁業にクロマグロ漁獲の半減規制がすすめられていますが、各地漁村では様々な混乱が生じています。水産庁のプレスリリース、それをベースにした中央マスコミの報道を見る限り沿岸漁民が違反者・悪者になっています。しかし、そもそもこの混乱を引き起こしている原因は沿岸漁民にあるのでしょうか? 漁獲規制の仕組み、実行体制そのものに問題なしといえるのでしょうか?
各地の沿岸漁民は、『規制をやるなら混乱が生じない内容でやってほしい。規制中にはきちんとした所得補償対策を実施してほしい。このままのマクロ規制では沿岸漁民の経営は成り立たない』と言ってきました。日本の沿岸漁家は近年減少を続けていますが、クロマグロ漁獲規制が沿岸漁家経営を一層困難にさせ、経営体減少に拍車をかけてしまうのでは、真の水産政策とはいえないでしょう。
本フォーラムでは沿岸漁民の立場からより良いクロマグロ漁獲規制になるよう現在の施策の問題点をさぐります。」

問題は深刻であり解決は難しい。当然のことながら水産行政は「国際条約による規制だ。しかも、水産資源保護のための合理的な規制なのだから、やむをえない」という姿勢。これに漁民が苛立っている。

水産資源の保護に必要と納得できれば、現場の漁民が受け入れないはずはない。資源を保護して漁業の存続を願うのは、だれよりも漁民自身である。漁業の持続のために、今は我慢せざるを得ないとするのは、当然と考えるはず。しかし、現在の規制のあり方に苛立ちがあるのは、水産資源の保護の必要という根拠に納得できないものを感じているからであり、何よりも規制の公平性に不満を持っているからだ。

いくつもの不満が噴出している。「マグロを漁獲制限されたら、私たちに代わりの魚種はない」「漁民の生活を守ってもらいたい」「生活のための漁と儲けのための漁を同視するようでは困る」「自分たちの零細な釣り漁法はけっしてマグロを捕りすぎることはない」「乱獲して資源を減らしたのは、大規模な巻き網業者ではないか」「規制は大規模な巻き網漁からにしてもらいたい」…。

中に、こんな報告があった。
「水産庁交渉のさなかに、漁民の一人が職員の態度に思わず大声を上げた。『何をエヘラエヘラ笑っているんだ』」「私には、この漁民の気持ちが良く分かる。水産庁の役人にとっては所詮他人事。自分の給料が減ることはない」「しかし、マグロ漁で食っている漁民にとっては、職員が給料を半減されるのと同じ目に遭っている。本当に笑っていられるような場合ではないのだ」

マグロの規制に関連して、印象に残った報告があった。千葉勝浦のキンメ漁師からのもの。
「我々キンメ漁師は、父親の時代からキンメ資源を漁師自ら大事にしてきました。40年前から勝浦沖キンメ漁場では、7月、8月、9月の3か月間を自主的に禁漁期としています。この3か月はキンメの産卵期と重なることから禁漁とすることで漁民全体の納得を得ているのです。そのほかにも、操業時間の短縮、釣数の制限など、現在まで30数回も自主的に規則を作りかえてきました。この会議は全員一致を原則としています。反対の船団があっても、多数決にはしません。反対の船団に説明に行き、その人たちの意見も聞いて、しこりを残さぬよう解決して、全員一致の規約づくりをしています。みんなで決めたルールですから、みんなが守ることになります」

行政による上からの押しつけ規制に対する、この上ない批判となっている。なるほど、これが民主主義というものか。少数意見者に多数決を押しつけることなく、全員一致を目指しての話し合いの継続。その姿勢が結実しているのだ。

先日、まったくのその反対の事例に接した。岩手県では、大規模定置網漁者の利益を損ねてはならないとして、零細漁民の小規模サケ漁が禁じられている。「これが民主的な漁業調整のあり方か?」という、「浜の一揆訴訟」における原告からの問に、被告岩手県(知事)側はこう答えている。「民主的手続は、海区漁業調整委員会という場で保障されている」。問題はその海区漁業調整委員会の運営の実態である。

会議で、議長が少数派の委員二人にこう言うのだそうだ。「あんた方はどうせ採決で負ける。だからムダな発言はしない方が良い。それが民主主義だ」。そして、実際少数派委員二人以外の発言はない。有識者委員が一度だけ、「県が提案した原案に一字の間違いがある」と言ったのが印象に残っている、とのこと。

多数決で押し切る「民主主義」とは行政の道具となっているまがい物。全員の一致点を見極めようという話し合いこそが、有効な本物の民主主義。案外分かり易いのではないか。アベ政権に、民主主義の片鱗やある。
(2017年3月9日)

学術・科学の分野におけるアベ政権との対峙

昨日(3月7日)、日本学術会議の「安全保障と学術に関する検討委員会」が、「軍事的安全保障研究に関する声明(案)」をとりまとめて発表した。その全文を、末尾に掲載する。この案は、3月24日の学術会議幹事会での議論を経て、4月13日から開かれる総会で確定するものと見られている。

このような声明案が検討されるきっかけは、アベ政権の軍事大国化政策である。具体的には、2015年度に防衛省が創設した「安全保障技術研究推進制度」である。初年度3億円の予算規模で始まり17年度には110億円に膨張して話題と憤激を呼んだあの制度。研究者を金で締め上げ、政権に身をすり寄せる矜持のない者についてだけ、紐付きの研究費を恵んでやろうという発想である。

学術会議は、この防衛省の紐付き研究資金公募制度開始を機に、新たな声明案作成の作業に着手した。当初は、学術会議の方針が軍事研究容認に傾くのではないかと懸念されたが、結局はアベ政権のこの卑劣な手口にたいする科学者集団の危機感が、今回の声明案に結実したと言ってよい。その内容を吟味してみたい。

日本学術会議は、1948年7月公布の日本学術会議法に基づいて、1949年1月に設立された公法人である。同法は前文を持ち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」と宣言している。教育基本法などと並んで、戦後民主主義の息吹にあふれたもの。平和憲法の学術科学版でもある。

人間に幸福をもたらすはずの科学が、いびつな発達を遂げて、数多くの残虐な兵器をつくり出した。1945年8月6日の広島で明らかにされたとおり、人類は遂に人類自身を消滅させるに足りる科学力を手にしたのだ。間違った科学は人類を破滅させる。

学術会議は、1950年4月の総会で、科学者が戦争に協力した戦前の反省に立って法の目的を具現すべく、「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)」を総会で決議している。その決意のみずみずしさが今読む者の胸を打つ。「科学者としての節操」の言葉が輝いている。

  戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)
 日本学術会議は,1949年1月,その創立にあたって,これまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに科学文化国家,世界平和の礎たらしめようとする固い決意を内外に表明した。
  われわれは,文化国家の建設者として,はたまた世界平和の使徒として,再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに,さきの声明を実現し,科学者としての節操を守るためにも,戦争を目的とする科学の研究には,今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。
  昭和25年4月28日 日本学術会議第6回総会

学術会議は、さらに重ねて67年の総会でも下記の声明を出している。今こそ、読んで噛みしめるべき内容ではないか。

   軍事目的のための科学研究を行わない声明
 われわれ科学者は、真理の探究をもって自らの使命とし、その成果が人類の福祉増進のため役立つことを強く願望している。しかし、現在は、科学者自身の意図の如何に拘らず科学の成果が戦争に役立たされる危険性を常に内蔵している。その故に科学者は自らの研究を遂行するに当って、絶えずこのことについて戒心することが要請される。
 今やわれわれを取りまぐ情勢は極めてきびしい。科学以外の力にょって、科学の正しい発展が阻害される危険性が常にわれわれの周辺に存在する。近時、米国陸軍極東研究開発局よりの半導体国際会議やその他の個別研究者に対する研究費の援助等の諸問題を契機として、われわれはこの点に深く思いを致し、決意を新らたにしなければならない情勢に直面している。既に日本学術会議は、上記国際会議後援の責任を痛感して、会長声明を行った。
 ここにわれわれは、改めて、日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。
 昭和42年10月20日第49回総会

以上の理念が、長く日本の科学者の倫理と節操のスタンダードとされ、これに則って大学や公的研究機関の研究者は軍事研究とは一線を画してきた。当然のことながら、日本国憲法の平和主義と琴瑟相和するもの。ところが、いま、この科学者のスタンダードに揺るぎが生じている。言うまでもなく、アベ政権の平和憲法への攻撃と軌を一にするものである。

問題は深刻な研究費不足であるという。政権や防衛省が紐をつけた軍事研究には、予算がつく。アベ政権の平和崩しは、ここでもかくも露骨なのだ。

さらに大きな問題は、大西隆現会長ら政権に近い筋が、「1950年、67年の声明の時代とは環境条件が異なって専守防衛が国是となっているのだから、自衛のための軍事研究は許容されるべき」「デュアルユースなら許されてよい」などと発言していることだ。

「デュアルユース」とは、技術研究を「民生用」と「軍事用」に分類し、「軍事用研究」も「民生」に役立つ範囲でなら許容されるというもの。ところが、「軍事用研究」の中に「専守防衛技術」というカテゴリを作ると、「専守防衛のための軍事技術は国是として許容されるのだから、民生に役立つかどうかを検討するまでもない」となる。結局は限りなく、許容される軍事技術の研究分野を広げることになる。

そのような経過で、今軍事と科学の関係に関する、3番目の声明案がとりまとめられたのだ。この声明案は、学術会議が1950年と67年に出した過去の2声明にについて、「科学者コミュニティーの戦争協力への反省と再び同様の事態が生じることへの懸念があった」と指摘のうえ、「軍事的安全保障研究」は学問の自由や学術の健全な発展と緊張関係にあるとして、過去の「2つの声明を継承する」と明記した。

私は、学術会議が科学者の総意をこの内容の声明案に結実させたことを高く評価したい。過去の二つの声明の継承を明記した上、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)を、名指しで批判している。今後は、この声明の精神を具体化していくこととなろう。

ここにも重要なアベ政権との対峙の運動がある。
(2017年3月8日)
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       軍事的安全保障研究に関する声明(案)
日本学術会議が1949年に創設され、1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究が学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。
 科学者コミュニティが追求すべきは、何よりも学術の健全な発展であり、それを通じて社会からの負託に応えることである。学術研究がとりわけ政府によって制約されたり動員されたりしがちであるという歴史的な経験をふまえて、研究の自主性・自律性が担保されなければならない。軍事的安全保障研究では、研究の期間内および期間後に、研究の方向性や秘密性の保持をめぐって、政府による研究者の活動への介入が強まる懸念がある。
 防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、学術の健全な発展という見地から問題が多い。むしろ必要なのは、科学者の自主性・自律性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。
 研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、攻撃的な目的のためにも使用されうるため、研究の入り口で研究資金の出所等に関する慎重な判断が求められる。大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、自由な研究・教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。学協会等において、それぞれの学術分野の性格に応じて、ガイドライン等を設定することも求められる。
 研究の適切性をめぐっては、学術的な蓄積にもとづいて、科学者コミュニティにおいて一定の共通認識が形成される必要があり、個々の科学者はもとより、各研究機関、各分野の学協会、そして科学者コミュニティ全体が考え続けて行かなければならない。科学者を代表する機関としての日本学術会議は、そうした議論に資する知見を提供すべく、今後も率先して検討を進めて行く。

アベさん。何そんなむきになっているんですか。

昨日(3月6日)の参議院予算委員会。民進党の福山哲郎が、首相に対して次のように質問した。

福山哲郎  この(瑞穂の國記念小学校の)許認可が始まる直前に名誉校長に就任を受諾をして、寄附金集めには、「安倍昭恵夫人が名誉校長だ」とか、さらには「講演に来られているか」とか、そういう話も出るはずです。これ大阪の財務局の立場でいえば、安倍昭恵夫人が名誉校長に就任している小学校を、手続ができないからといって先送りなんかして開校を延長したら、それは「昭恵夫人に恥かかせたのか」、「安倍総理に恥をかかせたのか」、近畿財務局だって財務省だって忖度するでしょう、それは。

これだけの許認可とこれだけの補助金が下りている状況の中で(首相の妻が)名誉校長に就任された。そして、その日に、名誉校長に就任された日に安倍総理は本当は講演の予定だった。だから、安倍昭恵夫人が講演されたのは安倍総理の代わりです。誰が見たって、ああ、昭恵夫人が名誉校長をやって、安倍総理も講演に来るところだったんだなと役所はみんな考えますよ。そこを延期するとか、そんなことしたら総理に恥かかせることになる、そういうことを状況としてつくったこと自身が問題なんじゃないですか…。
総理、いかがですか。

これまでの経過を上手に整理して、だれもが考えるところを指摘して、あなただってこうお考えでしょうと確認を求める質問。けっして事実を問い質して経過を明らかにしようというものではない。耳を傾けている国民に、なるほどこれまでの経過はこのようにまとめられ評価されるのだと肯いてもらえたらそれで目的が達成される。

形式的な質問の趣旨とはかかわりなく、実質的には、近畿財務局(長)が忖度せざるをえない状況にあることの鋭い指摘である。忖度とは、目の前にいる国有財産買い受け希望者(籠池)が特別の人脈をもつ存在で、その背後には首相夫妻が控えており、当該国有財産売買交渉においては買い受け希望者にできる限りの便宜を払ってやるよう、首相夫妻の強い意向があると思い込むことだ。朝日は、「『開校が延期になったら首相や夫人に恥をかかせる』と忖度」と言っている。

さらに、福山のこの質問は、首相夫妻が近畿財務局(長)の忖度の原因を作っていることまでの指摘を含むものであり、その忖度の原因に同意を求めるものとなっている。

だから、この質問に対する答弁においては、首相の妻と首相自身両者それぞれの、森友学園、ないしは塚本幼稚園との関係を明確にすることが求められている。

これに、首相がどう答えたか。答弁の速記録は、以下のとおりである。少し長いが、記録にとどめておくに値すると思う。

安倍晋三  今、福山委員は、もうまるで、まるで私と妻がこの結果に働きかけをしていたかのごとくの……(発言する者あり)いや、影響は、影響を与えた……(発言する者あり) 済みません。ちょっと後ろのベンチの方、テレビを見ている方分からないかもしれませんが、後ろでやじられると大変うるさいんですよ。ですから、本当にこの審議を妨害するのはやめていただきたいと思います。よろしいでしょうか。
そこで、そこで、言わば私と妻が、この理財局等に、あるいは学校の認可等々に私たちが結果として影響を与えていたかのごとく議論をしておられますが、まず第一点、第一点、西田委員(自民党)が今日質問をする中で明らかになりましたよね、この売買においては値引きをする法的根拠について明確にしたじゃないですか。それを、それについて、言わばこれもあのやり取りはおかしいということであれば、やり取りがおかしいということであれば、これは不当な値引きだったということになりますよ。
あと、この一年前にという開校を控えての中で、どうして理財局が判断したかということについても、これ明確になりましたよね、訴訟リスク等があるということについて。それが違うということであれば、そもそも大きなこれは問題であるということになりますが、それはそもそもそうではないわけであります。そうではない中において、ということはつまり、法的に、法的にちゃんとプロセスにのっとって正しい根拠を持ってやったということであれば、私も妻も関係ないじゃありませんか。
さらに、私も妻も誰も理財局長等々に、誰にも言っていないのに、この名誉校長に安倍昭恵という名前があれば、これ印籠みたいに恐れ入りましたとなるはずがないんですよ。日本のですね、かつてそんなことあったんですか。そんなことあったんだったら、一つでもいいですから例を出していただきたいと思います。私の妻が名誉何々になっていて、それをそんたくした事実が、事実がないのにまるで事実があるかとのことを言うというのは、これも典型的な印象操作なんですよ。
だから、そこで、長々と私と妻がここにまるで関わっているかのごとく、まるで大きな不正があって犯罪があったかのごとく言うのは、これは大きな間違いでありますから、だから、私はちゃんと時間を掛けて御説明をさせていただいているところでございます。

福山哲郎  私は、昭恵夫人は被害者かもしれないと申し上げたんです。犯罪扱いなんかしていません。それこそ印象操作だと私は思いますよ。何そんなむきになっているんですか。

人は、痛いところを突かれるとムキになり、うろたえる。この安倍晋三のうろたえぶりはいったい何なのだ。このあとには、共産党の辰巳孝太郎からも「何むきになっているんですか」と言われ、「私の妻のことだからムキになっている」と居直っている。だれが聞いてもヘンだなとという思いが深まるばかり。

当然のことながら、疑惑は疑惑のままで放置しておけない。ましてや首相の疑惑ではないか。徹底して追及し解明しなければならない。疑惑解明のための質問を不愉快と怒ってはならない。口を封じるようなことはなおあってはならない。

「名誉校長に安倍昭恵という名前があれば、これ印籠みたいに恐れ入りましたとなるはずがないんですよ」は通らない。正確には、「安倍晋三内閣総理大臣夫人 名誉校長安倍昭恵先生」である。まさしく、首相の権威を笠に着た開設予定小学校だったのである。天下の副将軍水戸黄門ほどの印籠の効き目はなくとも、首相安倍晋三の印籠程度の効き目は現にあったではないか。

「日本のですね、かつてそんなことあったんですか。そんなことあったんだったら、一つでもいいですから例を出していただきたいと思います。」は、口をとがらせた子どものクチゲンカのセリフだ。

「私の妻が名誉何々になっていて、それをそんたくした事実が、事実がないのにまるで事実があるかとのことを言うというのは、これも典型的な印象操作なんですよ。」
疑惑解明の質疑は、疑惑とされた事実があるかも知れない前提で行われる。当然のことだ。この質問を「事実がないのにまるで事実があるかとのことを言う」などと非難してはならない。質問者は疑惑の根拠を示して具体的な事実を確認し積み重ねていく。「そんたくした事実がない」ではなく、忖度したであろう根拠たる事実の有無に関して、一つ一つ認否し、確認していかねばならない。

これまでのところで、「忖度の根拠」については、ほぼ勝負あったと言うべきだろう。実は、忖度ではなく、首相からあるいはその代理人たる政治家からの国有財産管理や処分の権限をもつ官僚への直接の働きかけがあったのではないか。疑惑解明の本番はこれからだ。
(2017年3月7日)

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