澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

アベ・シンゾーが語る「9条改憲」のホンネ

本日は12月8日、実に感慨の深い日だ。ボクは、この日になると自ずと背筋が伸びる。高揚した気持ちになる。本当は12月8日をこそ国民の祝日にすべきなんだ。12月8日だけでなく、柳条湖事件の9月18日や、盧溝橋事件の7月7日もね。南京陥落の12月13日もいい。8月15日や6月23日、3月10日などはいけない。もちろん、8月6日、9日の両日も。

76年前の今日、日本は世界の大国である米・英両国に宣戦布告をした。なんてったって、世界を相手に戦争をするほどの日本人の気概を示した日なんだ。もっとも、日曜日を狙ったパールハーバー奇襲の方が宣戦布告よりは早かったけどね。

それだけじゃない。今日はNHKが「大本営発表」を始めた日でもある。

昔はよかった。元気に戦争だってできたし、放送の統制だってなんなくできた。天皇陛下の思し召しというだけで、大概のことはできた。本当に天皇って便利だったんだ。「戦争には反対」だの、「放送は真実を伝えなければならない」などとツベコベうるさいのは、「天子様に弓を引く国賊め」としょっぴくことができた。政権運営に便利この上なく大切な天皇制。これこそ、魔法の杖だよね。これはいつまでも大切にしなければいけない。

ボクは、毎年12月8日になると「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」を読むんだ。例の大詔渙発というやつ。天皇陛下が臣民に下したありがたいミコトノリ。原文はカタカナ書きで読みにくいし、漢字が難しい。国会で官僚の作った原稿を「でんでん」と読んだボクの国語能力ではよく理解できないけど、雰囲気は分かる。国民にも敵国にも上から目線で、大威張りの態度。そして、戦争に踏み切ったら、国民の拍手喝采だったというじゃないの。なによりも、そこがうらやましい。

今の憲法は平和主義だ。だから、戦争をやるっていえば猛反対を受ける。だから、ボクはこそこそと少しずつ、戦争のできる国にするために小さなレンガを積んで努力しているんだ。前の憲法の時代はよかった。東条英樹閣下がうらやましい。陛下を使えば、簡単に戦争ができたんだもの。ボクもその時代に総理をやりたかった。それが無理だから、憲法9条を骨抜きにしたいんだ。そのための「アベ9条改憲」のスケジュールを組んだんだ。

「宣戦ノ詔書」の一部をひらがな書きにすると次のようなもの。正確には分からないけど、だいたいのところは分かる。

「朕、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は、励精職務を奉行し、朕が衆庶は、各々其の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期せよ。(以下略)」

こんなことも書いてある。
「米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威を加う。」

これって、今の北朝鮮の言っていることとまったく同じ。

「朕は、政府をして事態を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延せしめて、此の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従せしめんとす。」

我が国は平和を望んで我慢に我慢を重ねたが、邪悪な敵は少しも譲ろうとしない。だから日本は、今や自存自衛の為、決然と戦争に決起する以外に道はなくなった。ここだよ、感動するのは。「自存自衛の為の決然たる決起」だ。

同じ日に、私が尊敬する東条首相もこう言っておられる。

「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。…東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。

事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の危機を打開し、自存自衛を全うする為、断乎として立ち上るの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪へず、私不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんと念願するのみであります。国民諸君も亦(また)、己が身を顧みず、醜の御楯(しこのみたて)たるの光栄を同じくせらるるものと信ずるものであります。およそ勝利の要訣は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗つて戦いに敗れたるを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日迄隠忍と自重との最大限を重ねたのでありますが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危きに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。」
なんと、胸おどる言葉ではないか。名演説だ。ボクもこう語ってみたい。

「76年前も今も、日本になんの変わりはありません。私たちは正義の旗を掲げています。東洋平和であり、隠忍自重です。にもかかわらず、邪悪な敵が我が国の誠意に応じないときには、蹶然起たざるを得ないのであります。」

ところで、アベ政権は、戦闘機から遠隔地の目標物を攻撃できる複数の「長距離巡航ミサイル」の導入検討を決めた。自衛隊が導入を検討する長距離巡航ミサイルは「JASSM(ジャズム)―ER(イーアール)」、「LRASM(ロラズム)」、「JSM(ジェイエスエム)」。航空自衛隊の主力機F15や最新鋭ステルス機F35に搭載することなどを想定している。

結局のところ、「自存自衛」とは敵の基地を奇襲することさ。パールハーバーを叩いたときのように。今も事情は変わらない。先制的に敵の基地を叩かなければ、こちらがやられちゃうじゃないか。12月8日だ、じっくりと「自存自衛」の戦略を練ろう。今度こそは、絶対に負けないようにしなくては。

その第一歩が、「9条改憲」だ。
(2017年12月8日)

天皇と天皇制を語るーやっぱりない方がよい

気の置けない同年配(70代)の弁護士数名との歓談の機会があり、話題が天皇のことになった。誰もが、天皇制を歓迎はしていないが、温度差がある。

A 敗戦後の天皇の人間宣言は、当時の人々にどう受け止められたのだろうか。人間宣言後も「天皇の神聖は揺るがず」と思われていたのではないだろうか。

B 天皇の神格化は、戦前の政府がでっちあげた人民統治のための演出に過ぎない。敗戦によって、こんな信仰を維持することができなくなったから、神格放棄を宣言したというだけの話だろう。

C 神風は吹かなかった。誰の目にも神州不滅はウソと分かった。敗戦によって、天皇の化けの皮が剥がれた結果の人間宣言だろう。

A とは言うけれど、戦後も多くの人が天皇制を支持し、天皇に好意を寄せたのはどうしてだろうか。

B 戦後の国民の多くが天皇に好意を寄せていたというのは本当だろうか。天皇に対する深い幻滅から天皇に対する嫌悪感も強かったのではないのか。

C それでも、戦後における天皇の全国各地訪問には大勢の人が集まった。物見高さもあったろうが、刷り込まれた感情じゃないのか。戦前の永きにわたって刷り込まれてきた天皇に対する敬意の国民感情は、軽々に払拭できないということだと思う。

A だから、天皇の戦争責任を厳しく問う国民世論は生まれてこなかったというわけか。

C 昭和天皇が戦争責任を負うべきは当然だ。彼は、戦争遂行のすべてについて報告を受け是認してきた。310万の日本人の死と、2000万人の被侵略地人民の死に責任を持たなければならない。

D 「戦争遂行のすべてについて報告を受け是認してきた」というものの見方は、形式的にはそうかも知れない。しかし、実質的には彼に歴史の流れを変えうる力があったとは思えない。戦争責任は飽くまで軍部にあって、昭和天皇の罪は副次的なものではないか。

E 天皇の例の記者会見での発言にショックを受けた。戦争責任問題を問われて「そういう言葉のアヤについては、よく分からない」と述べ、原爆投下について「やむをえない」という発言。あれには、右翼も幻滅したのではないか。

B 戦後の天皇がやってきたことが最近の資料発掘で明るみに出ている。昭和天皇が反省していたなどとはとうてい考えられない。

A 昭和天皇裕仁の責任は重いとしても、現在の天皇明仁についてはどうだろうか。 明仁については、直接の戦争責任の問題がない。むしろ、憲法擁護の姿勢において、安倍晋三よりもずっとマシだという評価が定着しつつあるように思えるが。

C それは危ない考え方だ。国民に好感を持たれる天皇ほど、実は国民主権の危機となる危険な天皇と考えなければならないと思う。

A 結局、天皇制とは必要なものだろうか。なくしてしまうべきものだろうか。

B 天皇制は国民主権思想と矛盾する。人間の平等にも反する。当然に廃止すべきだと思う。

E なにも性急になくす必要もないのではないか。近い将来、国民の総意によって廃止する日が来るだろう。それまでは、社会の安定のためにあってよいと思う。

C 私は反対だ。天皇とは権威だ。単に、権力に利用される恐れとして危険というだけではなく、社会にこのような権威が存在すること自体が危険なのだ。天皇の存在が、権威尊重の風潮や国民意識の根源となっている。企業や、役所や、地域や、民主団体や、あらゆる部分社会の権威主義を払拭するには、天皇という存在をなくすることか効果的だと思う。

A ところで、日の丸や君が代についてはどう思う?

D 日の丸・君が代ともに、国民の圧倒的支持がある。これを尊重すべきは社会通念としてやむをえないのではないか。

C 「日の丸・君が代」はともに天皇賛美だ。特に君が代の歌詞は馬鹿げている。また、兵士や戦争体験者の憎悪、嫌悪の念が強い。けっして、国民の圧倒的支持があるとは言えないと思う。

B 問題は、価値の多様性を認めるかどうかだ。強制は間違っているということが、多数派ではないだろうか。

A で、生前退位には賛成? 反対?

E 天皇にも人権があるだろう。高齢で公務の負担が大きいとなれば、生前退位は結構ではないか。

B 公務は皇太子が代理できるし、摂政をおいてもよい。生前退位を認める必要はさっぱり分からない。

C 生前退位問題は、天皇制イデオロギー再生産の材料として使われているという印象がある。天皇の「公的行為」や「象徴的行為」という形で、天皇の存在感が拡大することを警戒しなくてはならない。
(2017年12月7日)

東京「君が代」裁判(第4次訴訟)、控訴理由書作成中。

「10・23通達」関連訴訟の中核に位置づけられる東京「君が代」裁判(第4次訴訟)。9月15日に東京地裁民事第11部(佐々木宗啓裁判長)の判決があり、今12月18日を提出期限と定められた控訴理由書を鋭意作成中である。

同判決は、減給以上の全処分(原告6名についての7件)を取り消した。この点については評価しうるのだが、戒告処分(9名についての12件)については取り消し請求を棄却した。不当であり無念というほかない。

原告団・弁護団は、何よりも違憲論を重視している。
《「10・23通達」⇒起立斉唱を命じる校長の職務命令⇒職務命令違反を理由とする懲戒処分》という、行政の一連の行為が違憲だという主張。違憲の根拠を、「客観違憲論」と「主観違憲論」に大別した。

立憲主義に基づく憲法の構造上、そもそも公権力が国民に対して、「国に敬意を表明せよ」などと命令できるはずはない。また、憲法26条や23条は教育の場での価値多様性を重視しており、公権力が過剰に教育の内容に介入することは許容されず、本件はその教育に対する公権力の過剰介入の典型事例である。というのが、客観違憲論。誰に対する関係でも都教委の一連の行為は違憲で、違法となる。

憲法で規定され保障された、思想・良心の自由(憲法19条)、信仰の自由(20条)、教育者の自由(23条)などを根拠に、各原告の基本権が侵害されたことを理由とする違憲の主張が主観的違憲論。特定の思想・良心・信仰を持つ人との関係でのみ違憲となる。

また、必ずしも違憲判断に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことが可能である。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、この不利益も同判決が採用するにはいたらなかった。

事案の全体像のとらえ方を示している同判決の一部をご紹介しておきたい。      *******************************************************************

☆ 事案の要旨
(1) 被告(東京都)の設置する高等学校又は特別支援学校の教職員である原告らが,その所属校において行われた卒業式又は入学式において,国歌斉唱時には指定された席で国旗に向かって起立し,国歌を斉唱することを求める校長の職務命令に違反して起立しなかったところ,東京都教育委員会は,かかる不起立は地方公務員法32条及び33条に違反するものであるとしたうえ,同法29条1項1号ないし3号に基づき,原告らに対し,戒告,減給又は停職の懲戒処分を行った。
(2) 本件は,原告らが,起立斉唱命令,その前提とな’った都教委の通達ないしそれらによる原告らに対する起立斉唱の義務付けは,原告らの思想・良心の自由,信教の自由,教育の自由を保障した憲法及び国際条約の規定に違反し,公権力行使の権限を踰越するものであり,「不当な支配」を禁じた教育基本法の規定にも抵触するから,原告らに対する起立斉唱命令は重大かつ明白な瑕疵を帯びるものとして無効であり,その違反を理由とする懲戒処分も違法であることに帰するし,仮に起立斉唱命令が有効であるとしても,その違反に対して戒告,減給又は停職の処分を科したことについては手続的瑕疵及び裁量権の逸脱・濫用があるから違法であるなどと主張して,被告に対し,各処分の取消しを求めるとともに,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償(懲戒処分1件につき55万円)及びこれに対する訴状送達日(平成26年4月14日)の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

☆ 争点
(1)原告Xに対する起立斉唱命令(本件職務命令)の有無
(2)本件職務命令等の憲法19条違反(思想・良心の自由の侵害)の有無
(3)本件職務命令等の憲法20条違反(信教の自由の侵害)の有無
(4)本件職務命令等の憲法26条,13条及び23条違反(教師の教育の自由の侵害)の有無
(5)本件職務命令等の国際条約違反の有無
(6)本件職務命令等の公権力行使の権限踰越ゆえの違憲・違法の有無
(7)本件職務命令等の教基法16条1項(不当な支配の禁止)違反の有無
(8)本件処分の手続的瑕疵の有無
(9)本件職務命令違反を理由として少なくとも戒告処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(10)本件職務命令違反を理由として減給又は停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無
(11)国賠法1条1項に基づく損害賠償請求の当否

今進めている作業は、上記の(1)~(11)までの原判決の判断に対する反論である。
上記(10)に関する裁判所の判断だけが納得しうるもので、その余の判断は全て納得しがたい。

憲法は、国家と国民の関係を規律する。国家象徴(国旗・国歌)と国民個人の価値的な優劣の関係は、憲法の最大関心事のはず。主権者国民の僕に過ぎない国家が、その主人である主権者国民に向かって、「吾に敬意を表明せよ」と命じることなどできるはずがない。これは憲法価値の序列における倒錯であり、背理でもある。真っ当な憲法判断を獲得すべく弁護団・原告団は努力を重ねている。
(2017年12月6日)

流行語に浮かびあがる「もりかけ元年」の政治の貧困

既に師走。はや、今年を振り返る時期になった。恒例の「今年の重大ニュース」「今年の漢字」「今年の一冊」「マン・オブ・ザ・イヤー」等々が話題となる季節。いささか押しつけがましいこれらの企画に、最近は「新語・流行語大賞」(現代用語の基礎知識選)が加わっている。

12月1日発表となった年間大賞を、「忖度」と「インスタ映え」の2語が受章した。「忖度」の受章は、さもありなん。「インスタ映え」の方はさっぱり分からんが。

トップ10の他の8語には、「Jアラート」「フェイクニュース」「プレミアムフライデー」「魔の2回生」「○○ファースト」などが選ばれている。なるほど、今年はそういう一年であった。

この授賞。正確には、「ユーキャン新語・流行語大賞」というそうだ。この1年の間に話題となった「さまざまな『ことば』のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その『ことば』に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの。」だという。

1984年創始だというから、もう30年を超える歴史をもつことになるが、話題になってからは、まだ日が浅いという印象。まずは、『現代用語の基礎知識』収録の用語をベースに、自由国民社および大賞事務局がノミネート語を選出するのだそうだ。

その今年ノミネートされた30語が下記のとおり。

アウフヘーベン/インスタ映え/うつヌケ/うんこ漢字ドリル/炎上〇〇/AIスピーカー/9.98(10秒の壁)/共謀罪/GINZA SIX/空前絶後の/けものフレンズ/35億/Jアラート/人生100年時代/睡眠負債/線状降水帯/忖度/ちーがーうーだーろー!/刀剣乱舞/働き方改革/ハンドスピナー/ひふみん/フェイクニュース/藤井フィーバー/プレミアムフライデー/ポスト真実/魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー/ワンオペ育児

私にはさっぱりの言葉もあるが、アウフヘーベン、炎上○○、共謀罪、Jアラート、人生100年時代、忖度、ちーがーうーだーろー!、働き方改革、フェイクニュース、プレミアムフライデー、ポスト真実、魔の2回生/〇〇ファースト/ユーチューバー、などと並べると、なるほど2017年の世相が見えてくる。トランプ、安倍晋三、安倍夫妻、安倍チルドレン、そして小池百合子などの愚昧ぶりが想い起こされる。

選考委員会は、「忖度」についてこう述べている。
「今年は、マスコミから日常会話に至るまでのあらゆる場面でこの言葉の登場機会が増えた。きっかけは3月、「直接の口利きはなかったが、忖度があったと思う」という籠池泰典氏の発言。ネット辞書の検索ランキング(goo辞書)では4カ月間、この言葉が1位を独走したという。2017年最大の政治テーマであった「モリカケ問題」を象徴するこの言葉は、この問題が決着するまでは出番が続きそうである。」

また、「魔の2回生」について。
「2歳になる子どもが第一次反抗期を迎えて「イヤイヤ」を始めることを「魔の2歳児」という。そこから連想して、産経新聞の森山志乃芙さんはこの言葉を記事にしたのだという。務台俊介内閣府政務官、中川俊直議員、豊田真由子議員、武藤貴也議員、宮崎謙介議員…暴言、不倫、重婚…、当選2回の「安倍チルドレンン」たちの不祥事が続発した。それは政権の支持率急落という「魔」の事態を招いたのであった」

〇〇ファースト
「まずは、アメリカのトランプ大統領が、選挙の段階からしきりに繰り返していた「アメリカ・ファースト」というフレーズ。日本では、小池百合子都知事による「都民ファースト」が続き、最近では「自分ファースト」な人たちがやり玉にあげられている。」

個人的には、「印象操作」と「丁寧な説明」の併せて一本を期待していた。安倍シンゾーという人物。人の話は「印象操作」。自分に痛いことは「印象操作」。反論できないことも「印象操作」。自分の話は「丁寧な説明をいたします」。これを繰り返してある日突然「丁寧な説明をいたしてまいりました」と変わる。平気でこう言える性格をどう表現すればよいのだろう。狡猾、厚顔、鉄面皮、破廉恥? あるいは卑劣、奸佞、邪悪とでも。もし安倍政権が続いたら、いずれこれらの語も、新語大賞に輝くことになるだろう。

そのほか、印象に残ったアベ語としては「こんな人たち」「でんでん(云々)」「怪文書だ」など。小池百合子関連で強烈だったのが「排除いたします」。

2017年は、「もりかけ元年」だった。そのパーソンズ・オブ・ザ・イヤーは、まず安倍昭恵。次いで籠池泰典加計孝太郎。そして前川喜平。悪玉・善玉の色分けがくっきりである。

さらに、「もりかけ元年」を象徴する川柳の秀句を朝日川柳欄から。

   夫婦して「李下に冠」理解せず 佐藤吉男

   詳細は御用新聞読めと言い   下道信雄

   記録ない確認できない記憶ない 西村健児

新元号はいらない。「もりかけ」の元号で十分ではないか。来年も再来年も、「もりかけ」問題追求の年にしよう。

いずれにせよ、政治の貧困は流行語に表れる。
(2017年12月5日)

弁護士自治とは、人権擁護を職責とする弁護士の重要な砦である。

産経新聞の記者から、以下のメールをいただいた。趣旨は、インタビューの申込みである。

「先生に取材をお願いしたく、連絡させていただきました。
弊紙では、今年4月から、「戦後72年 弁護士会」という企画を掲載しております。 弁護士会の戦後の歩みを振り返るというもので、これまでに以下のようなテーマ・概要で記事を掲載いたしました。

第1部 政治闘争に走る「法曹」=近年の会長声明や意見書などから安全保障など各分野への日弁連の姿勢を考察
第2部 左傾のメカニズム=日弁連会長選挙など弁護士会の仕組みを紹介
第3部 恣意的な人権・平和=拉致や国旗国歌など戦後の各問題への日弁連の姿勢を考察
第4部 左傾の源は憲法学=東大法学部が牽引した戦後憲法学が現在の改憲議論などに与えた影響を考察

12月初旬ごろから掲載予定の第5部では「揺らぐ土台」というテーマで、弁護士会の地殻変動につながる可能性のある事象を考察したいと考えております。
具体的には、5回構成で、
①法科大学院世代の逆襲…法科大学院出身で「弁護士会の任意加入制の導入」を訴える弁護士が、東京弁護士会正副会長選挙に出馬したことなど
②波乱含みの救済制度…弁護士による横領被害者に見舞金を支払う制度をめぐる賛否など
③日弁連VS新興勢力…ウェブ広告をめぐる懲戒処分や、長野県、千葉県弁護士会への入会を求める訴訟など、アディーレと弁護士会をめぐる対立など
④淘汰される法科大学院…学生募集停止が相次ぎ、予備試験に後塵を拝する法科大学院の苦境など
⑤加速する弁護士離れ、廃業宣言も…司法試験に合格しても弁護士会に登録せずに企業内弁護士として活動するなど
を取り上げたいと考えております。

つきましては、①の記事の関係で、先生に、弁護士自治のあり方などについて、ご意見を伺えないでしょうか。
①では、平成27、28年の東京弁護士会正副会長選挙に立候補した赤瀬康明弁護士(64期)が、
「弁護士会の任意加入制の導入」、「弁護士会費の半減」「委員会活動などの事業仕分け」を訴えたことを取り上げる予定です。
先生は、両年の選挙についてブログで複数回、見解を示されていらっしゃいますが、改めて、
◎そもそも、なぜ弁護士会は強制加入制度をとっているのか(弁護士自治の必要性)
◎「弁護士会の任意加入制の導入」を訴える候補が立候補したこと、また、その得票数などをどうとらえていらっしゃるか
という点について、ご意見を伺えればと思っております。」

ご親切なことに、第1部から第4部までの過去の記事をPDF添付で送っていただいた。いやはや、なんとも凄まじい日弁連に対する「左傾化」批判。さすがは産経、なのである。

きれいはきたない、きたないはきれい。みぎはひだりだ。ひだりもひだり。産経から見れば、全てが「左傾」。そんな産経と私は折り合いが悪い。これまで何度か、インタビューやコメントを求められたが、全てお断りしてきた。「貴紙の論調に違和感がある」「貴紙に協力したくない」と、明確に理由を述べてのことである。

しかし、今回は自分が書いたブログの記事に目を止められての取材要請。自分の書いたものには責任を持たねばならない。そう考えて、インタビューをお受けし、本日産経の記者に会った。

そのブログが、下記のとおりだ。

今年は平穏無事だー2017年東京弁護士会役員選挙事情 (2017年2月7日)
http://article9.jp/wordpress/?p=8108

東京弁護士会副会長選挙における「理念なき立候補者」へ(2016年2月1日)
http://article9.jp/wordpress/?p=6329

野暮じゃありませんか、日弁連の「べからず選挙」。(2016年1月29日)
http://article9.jp/wordpress/?p=6309

東京弁護士会役員選挙結果紹介-理念なき弁護士群の跳梁(2015年2月15日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4409

弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか(2015年2月2日)
http://article9.jp/wordpress/?p=4313

産経と私の間には、越えがたい深い溝がある。私がしゃべったことがどんな記事になるかは、予想しがたい。産経側の意図がどんなものであったとしても、言うべきことは言っておきたい。

当然のことながら、産経にも言論の自由がある。しかし、率直に言って産経にほめられるような日弁連であってはならないし、私の望むところでもない。

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「そもそも、なぜ弁護士会は強制加入制度をとっているのか(弁護士自治の必要性)」

弁護士の弁護士会への強制加入制度は、弁護士自治と表裏一体の関係にある。弁護士会に自治を認め、行政からの統制を遮断して、会に会員の入退会や指導監督の権限を委ねる以上は、一元的な弁護士管理の必要上、単一の弁護士会に全弁護士の所属が求められる。強制加入は、弁護士自治の当然の帰結なのだ。

ではなぜ、弁護士の自治が必要なのか。ことは弁護士という職能の本質に関わる。弁護士とは、基本的人権の擁護をその本務とする。人権を誰から擁護するのか。まずは公権力からである。弁護士は在野に徹し公権力から独立していなければならない。

弁護士が国民の人権の守り手として公権力と対峙するときに、公権力が、その弁護士の活動を嫌って弁護士の行為を制約し、あるいは身分の剥奪をはかるようなことが許されてはならない。弁護士の身分が権力から独立してはじめて、十全の人権擁護活動が可能となる。弁護士の身分は、権力からの統制を完全に遮断した弁護士団体によって保障されなければならない。これが、弁護士の自治である。

国民の人権は、公権力からだけではなく、資本からも、あるいは社会の多数派からも侵害の危険にさらされる。個々の弁護士が人権擁護活動を行うとき、資本や社会の多数派とも果敢に切り結ばねばならない。そのとき、弁護士会はそのような任務を遂行する弁護士を、こぞって支援しなければならない。そのために、会は公権力からだけではなく、資本からも、多数派からも独立していなければならない。

法は人権擁護のためにある。法がなければ、この世は無秩序な弱肉強食の世界だ。法あればこそ、合理的な秩序が形成され、強者の横暴を押さえて弱者の人権が擁護される。人権侵害に対する最後の救済手段が訴訟であり、訴訟の場において人権擁護のために法を活用する専門家が弁護士である。弁護士とは、そのような基本的任務を負うものとして、社会に必要とされる。弁護士会とは、そのような弁護士の活動を相互に支援することを任務とする。社会的な圧力から、個別の弁護士の活動を守るために、弁護士会がある。

戦前、弁護士自治はなかった。弁護士は司法省・検事局の統制の下にあった。人権擁護の守り手としての弁護士の活動は、司法省によって制約された。布施辰治も、山崎今朝弥も、その弁護活動を咎められて懲戒を請求され、弁護士登録抹消となり、あるいは業務停止となった。労農弁護士団事件では、治安維持法違反被告事件を弁護した弁護士が、共産党の目的に寄与する行為があったとして、有罪となり弁護士資格を剥奪された。これに、弁護士会が抗議の声をあげることはなかった。

これは、一握りの弁護士の問題ではない。もっとも厳しく権力との対峙をした局面における象徴的事件なのだ。その余の弁護士にとっての見せしめでもあった。こうして、弁護士が真っ当にその任務を果たすことのできない時代には、国民の人権は惨憺たるありさまとなった。

戦後、弁護士自身の起案による、新弁護士法が制定された。政府はこれを歓迎せず、閣法としなかった。そのため、49年制定の現行弁護士法は議員立法として成立した。言うまでもなく、新弁護士制度の中心には、確固たる弁護士自治が据えられている。

弁護士自治は、弁護士のためにあるのではなく、国民の人権擁護のためにあるのだ。「自治などどうでもよい」「任意加入でよいではないか」など、弁護士本来の任務を忘れた妄言を、軽々しく発してはならない。
(2017年12月4日)

「官僚養成学校」の片隅にひっそりと咲いた叛骨の文化

63年入学の澤藤から、幹事の一人として、閉会の辞を申しあげます。
本日は、楽しく有意義な「Eクラス」合同同窓会の集いをもつことができました。お互い、元気な姿で集まることができたことを喜びた合いたいと思います。参加者は、51年入学組から67年組までの48名でした。

自分自身を形づくる時期を青春というのなら、まぎれもなく、ここ駒場に私たちの青春がありました。その青春の時期を想い起こすには、その場所に赴き、その時を共にした友人と語り合うこと。本日は、そのような機会であったと思います。その青春の時期に抱いた理想を想い起こすことは意味あることではないでしょうか。

51年入学の石川忠久さんの開会の辞の中に、当時の想い出として「血のメーデー」で警官に殴打されて負傷した同級生のお話しが出てきたことに驚きました。田仲一成さんのスピーチには大講堂での山村工作隊員募集の件もありました。その後に60年安保の時代があり、フランスの中国承認があって、米中の和解や日中国交回復が「Eクラス」の消長にも大きな影響を与えることになりました。

それぞれの時代の背景事情が、そのときどきの学生に大きなインパクトを与えてきました。その時代を超えて、私たちは、何を共通のバックボーンとしたのでしょうか。おそらくは、思想とか信条というものではなく、権勢にも多数派にもおもねることを潔しとしない心情とか感性であったような気がします。

それは富貴を求めず、名声や権力を指向しない生き方。叛骨・在野の精神を矜持としてもつ生き方の感性ではなかったかと思うのです。本日は、あらためて、そんなことを確認する機会ではなかったでしょうか。

また来年、集まりましょう。それまで健康にお気を付けてお過ごしください。

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本日(12月3日)は、恒例となった学生時代の同窓会。東大教養学部で第2外国語に中国語履修を選択した「Eクラス」の各期48名が参集して和気あいあいのうちに歓談した。度々の引用となるが、下記の詩のとおりである。

 同榜 同僚 同里の客
 班毛 素髪 華筵に入る
 三杯 耳熱くして歌声発す
 猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを

(註 「同榜」は合格掲示板に名を連ねた同窓の意。「素髪」は白髪頭。「班毛」はごま塩頭。いずれも老年を指す。「華筵」はにぎやかな饗宴のこと)

拙訳はころころ変わる。今は、こんなところ。

 口角に泡を飛ばしたあのころの
 古き友らと宴の席に
 飲んではしゃいで語って熱い
 おれもおまえも変わらない

教養学部のクラス編成は第2外国語の選択で編成されている。私が在籍した当時、文系の第2外国語は独・仏・中の3語だけ。ドイツ語の既修クラスがA、未習がB。フランス語既修がC、未習がD。そして、中国語が未習のみで「Eクラス」を作っていた。なお、理系には中国語はなく、ロシア語のFクラスがあった。1963年入学者のEクラス総勢は27名。ほぼ3000名の入学者の内、中国語を学ぼうという者は1%に満たなかったのだ。

当時中国語を学ぼうという学生の多くは、49年の中国革命に大きな関心をもつ者であった。かなりの部分がその思想や実践を肯定的にとらえていたと思う。もちろん、圧倒的な少数派。それに、工藤篁という特異なキャラクターをもつ教師の個性が加わって、「国家経営の官僚養成学校」の片隅に叛骨の文化がひっそりと咲いたのだ。あれ以来、少数派であり続けてきた思いがあるが、そのことに悔いはない。
(2017年12月3日)

天皇代替わりに、国民意識操作への警戒を

昨日(12月1日)開催の皇室会議なるもので、天皇代替わりの日程がほぼ決まったようだ。2019年4月30日に現職が退任し、同年5月1日に後任が就任することになる模様。

2019年4月30日から5月1日へ日付が変って…、なにが起こるわけでもない。当事者の父子や、その家族には大きなできごとではあろうが、国政に関する権能を有しない公務員職の交代が、政治にも行政にも何の意味も持つはずはない。というよりは、意味をもってはならないのだ。せいぜいのところ、国民にとって切実に意味を持つのは、皇室予算がどれだけ増えるかである。このことには、大いに関心をもたざるを得ない。

天皇の代替わり自体に格別の意味はない。御名御璽の、ギョメイが、「明仁」から「徳仁」に変更されるだけ。これを大事件と騒ぎたてて国民意識を操作し、代替わりを意味あるものとしたい。それが、伝統右翼の目論むところであり保守政権の立場でもある。自立した主権者の側としては、この大騒ぎを警戒しなければならない。ところが、メディアが、右翼のお先棒かつぎに一役買っているのが気になるところ。

代替わりに際して、幾つかの留意点ないし警戒すべき点がある。
☆祝意の強制を許してはならない。
☆厳格に政教分離の原則を貫かなければならない。
☆「平成」の終焉を機に日常生活から元号使用をなくしたい。
☆「日の丸・君が代」、元号、祝日などの小道具を使っての天皇制刷り込みに注意。
☆これを好機とした天皇制ナショナリズム鼓吹を警戒しよう。

ところで、本日の各紙が社説に天皇代替わり問題を取り上げている(朝日の社説は、この話題に触れていない)。概してお先棒担ぎの提灯社説。とりわけ、案の定というべきではあろうが産経がひどい。読むだに恥ずかしくなる。

見出しだけ並べてみよう。
産経 「譲位日程固まる 国民はこぞって寿ぎたい」
読売 「天皇退位日 代替わりへ遺漏のない準備を」
日経 「退位・改元の準備を滞りなく進めよう」
毎日 「天皇陛下の退位日決まる 国民本位を貫く姿勢こそ」
東京 「天皇の退位と即位 国民の理解とともに」

リベラルなはずの毎日や東京も、天皇を論じるとなるとまことに歯切れが悪くなる。歯の浮くようなお追従もあちこちに見える。それだけ、社会的な圧力が強いということなのだ。読売が本文はともかく見出しでは「天皇退位」と「陛下」を抜きにしているのに、毎日が「天皇陛下の退位日」とは情けない。

産経は、見出しで「国民はこぞって寿ぎたい」という。おかしな日本語ではあるが、意味の忖度は可能だ。しかし、私は「寿ぎたくない」し、「けっして寿がない」。そして、今どき「国民こぞって」なんてこの上なく薄気味悪い。祝意の強制はまっぴらご免だ。

私は、北朝鮮指導者の事実上の世襲体制を唾棄すべき遅れた社会のあり方と思う。その代替わりのイベントも、祝意を国民に押しつけるものとして醜悪な印象をもった。しかし、あれは、天皇制の亜流なのだ。ルーツは明らかに日本にある。戦前の天皇制が、植民地に押しつけたものなのだ。宮城遙拝、ご真影への敬礼、教育勅語奉戴などによって叩き込まれた天皇への敬意や祝意の強制の残滓が、いま北朝鮮では金正恩への讃辞となり、日本では産経の社説におどっているのだ。

産経社説はいう。「立憲君主である天皇の譲位は、日本にとっての重要事である。一連の日程が固まったことを喜びたい。いよいよ譲位や即位、大嘗祭、改元の準備が本格化する。」「安倍晋三首相が「国民の皆さまの祝福の中でつつがなく行われるよう全力を尽くしてまいります」と表明したことは重い。」「譲位の日取りは、…200年ぶりとなる、譲位による御代替わりを、国民こぞって寿ぐことにもふさわしい。」「国の始まりから日本の君主であり、国民統合の象徴である天皇にふさわしい代替わりを実現することが大切である。」

ムチャクチャだが、いったい、なぜ、何が、寿ぐべきことなののだろうか。時代錯誤も甚だしい産経のことだ。もしかしたら、「金甌無欠なる我が國體が連綿として天壌無窮なること」などと言い出しかねない。

産経社説の一節が別な意味で興味を惹く。
「陛下は平成31年4月30日に皇位を退かれる。5月1日に皇太子殿下が第126代の天皇に即位され、改元が行われる。」

ここでの、「5月1日」は、もはや平成ではない。だから、「同年5月1日」とは言えないことになる。平成31年4月30日の次の日である5月1日は、新元号を冠した日付の初日になるはずだが、新元号は未定であるから、日付の表記ができない。

だから、産経を除く他の全ての社説が、元号が替わる予定の年を「2019年」と西暦で表記している。たとえば、読売でさえ次のように。

「2019年4月30日に天皇陛下が退位される。5月1日に皇太子さまが天皇に即位され、この日から新元号となる。」

この読売調なら論理的に不自然さはない。産経のように元号使用にこだわるから、滑稽なことになる。いや、はからずも、産経社説は元号使用にこだわることによって、将来の歴年を表記できない元号の致命的欠陥を露わにしているのだ。

日経の社説は、締まりのないおざなりなものだが、看過しがたい一文がある。
「政府や企業は今後、退位と改元に向けたさまざまな準備を遅滞なく進める必要がある。」というのだ。唐突に出てきた「企業」の2文字。代替わりイベントで儲けようというのなら資本主義的合理性に支えられた健全さかも知れない。ここでは、官民一体となった、祝賀ムード作りが「企業」に求められているのだ。そのような役割が企業に求められ、企業を介して、国民全体に社会的同調圧力が及ぶことになるのだ。

天皇制とは、面従腹背の文化にほかならない。腹の中ではどう思っていようとも、天皇を語るときは、「国民をいたわってくださるありがたい存在」「常に、国の平安を祈っておられる立派な方」と言わなければならない。皇室の話題は、常に「おめでたい」「心が明るくなります」なのだ。弔事には、「おいたわしい」「国民全体の不幸」が決まり文句。この点、戦前とも北朝鮮とも同様なのだ。

そのような社会的同調圧力の空気を醸成しているのが、毎日や東京も含むメディアであることを強く意識せざるを得ない。厳格な政教分離の要請など、出てこないではないか。各社・各紙、これでよいのか。猛省を促したい。
(2017年12月2日)

「浜の一揆」訴訟結審の法廷での意見陳述ー漁業の「民主化」こそが指導理念だ

本日は、盛岡地裁「浜の一揆」訴訟第10回の法廷。最終準備書面の交換があって結審した。その結審の法廷で、原告側が最終準備書面を要約した下記の意見陳述を行った。

判決言い渡しは2018年3月23日(金)15時と指定された。手応え十分とは思うが、判決は言い渡しあるまで分からない。しばらくは、まな板の上の鯉にも似た心境である。

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原告ら訴訟復代理人の澤藤大河から、訴訟の終結に際して、貴裁判所にご理解いただきたいことを、要約して陳述いたします。

原告らは、本件訴訟を「浜の一揆」と呼んでまいりました。ご存じのとおり、旧南部藩は、大規模な一揆が頻発したことで知られています。一揆は、藩政に対する領民の抵抗であり、藩政に癒着した豪農や網元あるいは大商人への抵抗にほかなりません。
原告らは、現在の県の水産行政を、一揆を招いた藩政や領内の身分支配の秩序と変わるところがないではないかと批判し抗議しているのです。
一揆の原因には、まずは生活の困窮がありました。それに藩政の非道への怒りが重なって決死の決起となったのです。本件浜の一揆も事情は同様です。今のままの漁業では食っていけない。後継者も育たない。廃業者が続出している。とりわけ3・11後は切実な状況になっている。これが、提訴の原因となっています。
さらに、どうして浜の有力者と漁協だけにサケ漁を独占させて、零細漁民には一切獲らせないというのだ。こんな不公平は許せない。という理不尽に対する怒りが、漁民100人に提訴を決意させたのです。この原告らの心情と、原告らをこのような心情に至らしめた事情について、十分なご理解を戴きたいと存じます。

 本件における原告らの請求は、憲法上の権利としての「営業の自由」を根拠とするものです。
三陸沿岸を回遊するサケは無主の動産です。井田齊証言にあったとおり、大いなる北太平洋の恵みが育てたものであって、誰のものでもありません。養殖による漁獲物とは決定的に異なるものとして、そもそも誰が採るのも自由。これが大原則であり、議論の出発点です。

 漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲することは、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければなりません。

もちろん、憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられたもっともな理由があれば、その制約も可能ではあります。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がない限り、軽々に基本権の制約はできないということになります。

 この憲法上の権利を制約するための、合理性・必要性に支えられた理由を、法は2要件に限定しています。漁業法65条1項の「漁業調整の必要あれば」ということと、水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養の必要あれば」という、2要件です。
その場合に限って、特定の魚種について、特定の漁法による漁を、「県知事の許可を受けなければならない」と定めることができるとしているのです。

この法律を具体化した岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めています。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければなりません。

 したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となります。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならず、同時に、許可が義務付けられることにもなります。

このうち、「水産資源の保護培養の必要」は比較的明確な概念で、井田齊証人の解説で、この理由がないことは明確になっています。サケ資源の保護培養のためには、河川親魚の確保さえできればよく、原告らに対する本件許可がそれに影響を与えることはあり得ないからです。

なお、被告は原告らが年間10トンの上限を設けて申請していることについて、「そのような上限が守られるはずはない」と、原告らに対する不必要な不信と憎悪をむき出しにしています。しかし、生業を成り立たせ、後継者を育てるために、資源の確保にもっとも切実な関心をもっているのが、原告ら漁民自身であることは、原告尋問の結果から、ご理解いただけるところです。

一方、「漁業調整の必要」は、はなはだ曖昧な概念ですが、これを行政が曖昧ゆえに恣意的に基本権制約の根拠とすることは許されません。

 お考えいただきたいのです。現状が、極端に不公平ではありませんか。「調整」を要する一方、すなわち大規模な定置網業者がサケ漁を独占しています。一方、原告ら零細漁民には、過酷な罰則をもって、サケ漁が禁止されています。原告らは、定置網漁を禁止せよなどと言っていません。ほんの少し、自分たちにも獲らせてくれと言っているだけではありませんか。どうして頑なに、現状に固執しなければならないのか。これに対する原告らの不信がまさしく、「浜の一揆」の原因となっています。

「漁業調整」の本来の指導理念は、漁業法第1条に、「この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法が特別に明記した「民主化」でなくてはなりません。経済的強者に資源の独占を許し、零細漁民に漁を禁止することが、「民主化」の視点から、許されることでしょうか。

また、本件では、定置網漁業者の過半を占める漁協の経済的存立のために漁民のサケ漁を禁止することの正当性が問われています。いったい、漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるのでしょうか。

 水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」。これが漁協本来の役割です。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、これは法の理念に真っ向から反することではありませんか。

 弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは、明らかに「民主化」への逆行と言わざるを得ません。言うまでもなく、「漁民あっての漁協」であって、「漁協あっての漁民」ではありません。

貴裁判所が「漁協栄えて漁民が亡ぶ」という倒錯した被告県側の主張に与することなく、一揆の心意気で本提訴に踏み切った原告らの思いに応える判決を言い渡されるよう、お願いして、代理人陳述といたします。

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閉廷後の報告集会に、当ブログを見て参加という方が現れて驚いた。毎日書いている苦労が報われる思い。

昨日も、「「憲法日記」読んでいます」という方にお目にかかった。そのあとに、「長い文章で読むのがたいへんだけど」と付け加えられた。そうなのだ。短く、的確な表現は難しいのだ。そんな難しい技をこなせるようになるには、あと10年もかかるのではないだろうか。
(2017年12月1日)

共産党都議団、いやがらせ都教委に「日の丸・君が代強制」反対の申し入れ

都内の公立校では、卒業式や入学式の直前に、全教職員の一人ひとりに対して「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」よう、文書による職務命令が発せられる。2003年の「10・23通達」以来繰り返されている異様な風景だ。

「職務命令があろうとなかろうと、起立できない」とする教員がいる。「命令なければ起立も斉唱もするが、教育の場にあってはならない命令には従えない」という教員もいる。こうして、毎年起立できないとする教員に、懲戒処分が繰り返され、処分取消の訴訟も繰り返されている。

9月15日の「東京君が代裁判・第4次訴訟判決」では、原告6名についての7件の減給・停職処分が違法な処分として取り消された。都教委は、その内5名・5件の処分については控訴を断念し処分取り消しは確定した。ところが、これで話しは終わらない。なにしろ相手は、執念深い都教委だ。裁判に負けて、司法から「都教委の処分は違法。だから取り消す」と言われても、恥ずかしいとはおもわない。絶対に謝罪も反省もしない。できるいやがらせは最大限やろうという根性。その具体化が、まだ退職せずに在籍している教員にたいする「再処分」である。

再処分とは、減給が重すぎるとして取り消されたから、もう一度同じ「職務命令違反」に対して戒告の処分をし直そうということなのだ。せっかく裁判に勝った教員は、もう一度フルコースで、行政手続と訴訟手続をやり直すことになる。

その行政手続の最初が、バカバカしい2度目の事情聴取となる。本日(11月30日)午前、一人の教員に対する、再処分・事情聴取が行われたが、これに先立ち、日本共産党東京都議会議員団(18名)は、都教委(中井教育長)に対して「『日の丸・君が代』にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ」を行った。都教委側は江藤人事部長が対応し申し入れ書を受け取ったという。

本日夕刻、たまたま文京区出身の都議を永く務め、このほど勇退された小竹紘子さんの「ご苦労様パーティー」があった。小竹さんは、今回都議改選まで都議会文教委員会委員長を務めた方。今は、小竹さんに代わって、やはり共産党の里吉ゆみさんが文教委員長となっている。

パーティーで里吉さんと言葉を交わした。「君が代裁判の原告団も弁護団も、決してあきらめません。闘い抜く覚悟ですからご支援を」と言ったところ、里吉さんも、「私たちも決してあきらめません。本日もその問題で都教委に党の議員団として申し入れを行いました。明日の赤旗をご覧ください」。打てば響くような、力強いご返答。

その申入書は、日本共産党東京都議会議員団HPで見ることができる。

「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
https://www.jcptogidan.gr.jp/category01/2017/1130_784

その全文が以下のとおり。
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2017年11月30日
東京都教育長 中井 敬三 殿
日本共産党東京都議会議員団
「日の丸・君が代」にかかわる再処分を行わず自由闊達な教育を求める申し入れ
東京地方裁判所は9月15日、教職員が入学式や卒業式で「君が代」斉唱時の起立斉唱を命じた職務命令の拒否を理由とする、懲戒処分の取り消しを求めた裁判の判決を出しました。6名、7件の減給・停職は相当性を基礎づける具体的事情がなく、社会通念上著しく妥当性を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとの判断を示すと同時に、不起立の回数のみを理由とする加重処分を断罪しています。
この間の訴訟では63名、73件にのぼる処分を違法とする判決が出ています。今、教育委員会としてなすべきは、教職員への謝罪と名誉回復・権利回復です。
ところが教育委員会は、5名については控訴を断念し処分取り消しは確定しましたが、1名については控訴しました。処分取り消しが確定した原告からは、中井教育長あてに謝罪を求める申し入れもされていますが、何の回答もしていません。
さらに、処分取り消しが確定した原告のうち、現職の都立高校教員2名について、減額分の給料も支払わないまま事情聴取を行おうとしており、新たに戒告処分という「再処分」をする意図があると推測せざるを得ません。
教育委員会の対応は、国旗に向かって起立し斉唱することなどを命じた職務命令が、思想および良心の自由について間接的な制約となり得ることを認め、自由で闊達な教育のために、すべての関係者の真摯で速やかな努力を求めた最高裁判決にも反し、教育行政としてもふさわしくありません。
よって日本共産党都議団は、以下の4点について申し入れます。

1、今回の東京地裁判決で処分が取り消された教職員に対し、再処分のための事情聴取および再処分を行わないこと。1名の控訴を取り下げること。

2、処分取り消しが確定した5名の原告に謝罪し、直ちに名誉回復・権利回復措置を行うこと。処分が取り消された旨を、都教育委員会ホームページで公表すること。

3、原告らが強く求めている話し合いに応じるとともに、学校現場で自由闊達な教育が実施できるよう、教育行政のあり方を改善すること。

4、10・23通達を撤回し、校長の職務命令、累積加重処分、再発防止研修などの「日の丸・君が代」を強制するための一連のやり方を抜本的に改めること。
以上

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「国旗・国歌(日の丸・君が代)」強制問題は、多面性をもっている。立憲主義にも関わる、国家観・歴史観にも関わる。ナショナリズムの問題でもあり、人権の問題でもある。そして、教育の本質に関わる問題でもある。なによりも、国民の価値感の多様性の保障に関わる問題と思う。別の言い方をすれば、社会の寛容度に関わる問題なのだ。日本共産党が、社会の寛容度を最大限化することにもっとも、熱心であることが興味深い。

今日も、「第4次訴訟」控訴理由書作成のための弁護団会議だった。その中で、一人の弁護士が呟いた。「結局は外的な圧力で集団的な統制を徹底したいというのが、都教委や保守派のホンネなんだ。その統制徹底の姿が、北朝鮮や中国の議会や集会じゃないか。あれを理想だとするのが、都教委であり10・23通達の思想なんだ」。

石原慎太郎や小池百合子、そして自民党も、実は北朝鮮流の一糸乱れぬ集団的統制が大好きで憧れているのではないだろうか。私は、人間をコマと扱うああいう集団統制は、虫酸が走るほど大きらいだ。天皇制日本やその亜流である北朝鮮の集団的統制を許容する世の風潮はまっぴらごめん。だから闘い続けようと思い定めている。
(2017年11月30日・連日更新第1705回)

「現状変えればなんでも革新」? それはないでしょう

本日(11月29日)の毎日新聞夕刊で、詩人アーサービナードが、「日本語は消滅に向かっている」と嘆いている。彼は、本気で日本語の衰退を心配しているのだ。その最大の原因は安倍晋三に象徴される対米従属にあるという。鋭い詩人の感性がそう言わせている。

詩人でない私には、そこまでの危機感はない。しかし最近戸惑うことが多い。言葉が時代とともに移ろうことは避けられないが、これが急激に過ぎると、コミュニケーションに支障をきたすことになりかねない。

極端に至れば、真理省のスローガンとなる。
 戦争は平和である (WAR IS PEACE)
 自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
 無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)

既に、「保守」と「革新」のイメージが、若者層ではすっかり様変わりしていると話題になっている。
 革新とは、現状を変えること。
 保守とは、現状を肯定することだ。
 だから、「憲法改正」は革新で、「憲法守れ」は保守なのだ。
 したがって、自民党が革新で、共産党は保守である。

この「論理」は、「革新」の代わりに、「リベラル」あるいは「改革派」の用語でも語られる。これは、真理省一歩手前ではないか。

 改憲阻止運動をめぐる議論も込み入ってきた。「護憲的改憲論」もあれば、「改憲的護憲論」もあるそうだ。妖しげな人物が、「護憲のための改憲論」を喧伝している。「9条の理念を実現するための9条改憲論」、「保守に先制した改憲論」もあるという。はて、なんとも面妖な。問題は、言葉の変遷だけの問題ではなさそうだ。まさしく、真理省のスローガン状態。「新九条論」はさまざまなパターンに細分化しつつあるようだ。

たまたま、室橋祐貴という若いライターの文章を目にした。

若い世代の自民党支持率は高く、今回の衆院選でも、18~19歳の47%、20代の49%(ANN調べ)が比例で自民党に投票したという。しかし、けっして若者が「保守化」しているのではなく、若者基準では自民や維新こそが「改革」ないし「リベラル」で、「共産党」や「民進党」は現状維持の「保守」なのだそうだ。

「自民党支持の結果から、若者は「保守化」していると見られがちだが、若者から見れば、自民党は「改革派」であり、決して現状維持を望んでいる訳ではない」。なんだ、そりゃ?

「特に10代や20代前半にとっては政権末期の民主党や、民主党政権時代の「自民党=野党」のイメージが強く、「改革派」の自民党、「抵抗勢力」の野党(民進党、共産党)という構図で捉えているようだ。」という。

その室橋が紹介する若者の意見に驚かざるを得ない。

「自民党は働き方改革やデフレ脱却など、抜本的ではなくとも、悪かった日本の景気や雇用状況を改革しようとしているように見える」

「野党はアベノミクスに変わる経済政策の具体策を提示できておらず、単に自民党政権の政策を中止しろと言っているだけ。年功序列とか前時代的な給与・労働体系を守ろうとする現状肯定派であり、旧来の枠組みから脱出することのない保守的なものに映る」

そして、極めつけは、中学3年の男子学生(15)の言。「共産党や民進党は政権批判ばかりしていて、共産主義も過去の時代遅れの思想で古いイメージが強い。自民党は新しい経済政策で株高などを実現させており、憲法改正も含めて改革的なものを感じる」。

15歳が共産主義を「過去の時代遅れの思想」と言う時代なのだ。かつての天皇制権力は、15歳を洗脳して多くの軍国少年を作りあげた。今の資本主義社会は、労せずして、15歳を反共主義者とすることに成功している。資本主義批判のもっとも、根底的で体系的な思想としての共産主義が15歳児に貶められているということなのだ。

保守と革新の用語の使い方には、暗黙の前提があったはず。それは、歴史はある法則性をもって進歩していくという考え方だ。独裁から民主へ。権力の専制から人民の政治的自由へ。全体主義から個の確立へ。人権の軽視から重視へ。身分的差別から平等の確立へ。機会の平等から結果の平等へ。格差のない経済社会へ。戦争から平和へ。ナショナリズムからインターナショナリズムへ。そして、搾取と収奪と抗争を克服した社会へ…。

漠然としたものではあっても、このような歴史の進歩を押し進めようとするのが「革新」の立場であり、これを押しとどめようとするのが「保守」。歴史を逆行させようというのは、「反動」と呼ばれる。

現状を変更しようという試みも、それが歴史の方向から見て退歩であれば「保守」か「反動」の挙であって、「革新」とは言わない。その退歩を押しとどめようというのは、現状維持でもまさしく「革新」の事業である。

今、歴史のジグザグの中で、革新が十分な力量をもっていない。本来であれば、「革新」の立場は、よりよい憲法を目指す真の意味での改憲でなくてはならない。とりあえずは、天皇制を廃止して身分制度の残滓を一掃すること。ナショナリズムを克服して、全ての人種・民族に徹底した平等を保障すること。すべての人の生計の基盤を実質的に保障すること。国民世論の分布を正確に議会に反映する選挙制度を作ること、などが考えられる。

しかし、現実にはこれが難しいから、今精一杯現行憲法を守っているのが「革新」の立場。これを敢えて逆行させようというのが自民党。現状変更でも、「平和から戦争へ」という逆行の改憲なのだから、これを「革新」とは呼ばないのだ。ゆめゆめお間違えなきよう。
(2017年11月29日・連日更新第1704回)

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