澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

オウム信者の権威主義と、臣民の精神構造

人の生命はこの上なく重い。犯罪者の生命も例外ではありえない。
だから、死刑の判決には気が滅入る。被害者や肉親の被害感情を考慮しても、国家による殺人を正当化することは文明の許すところではない。死刑執行の報道にはさらに辛い思いがする。少なくとも、死刑を言い渡した裁判官も、求刑した検察官も、執行を命じた法務大臣も、死刑執行にはその全員が立ち会うべきだと思う。それが、人の死の厳粛さに向き合う国家の誠実さであろう。

昨日(7月6日)、麻原彰晃以下7名のオウム真理教幹部の死刑が執行された。
偶然の暗合だろうか。1948年12月23日、東条英機以下のA級戦犯処刑も7名であった。この日は、当時の皇太子(明仁・現天皇)の誕生日を特に選んでのこととされている。

A級戦犯7人の遺体は、横浜の斎場で火葬され遺骨は米軍により東京湾に捨てられている。遺骨を軍国主義者の崇拝の対象としないための配慮からである。死刑の執行や遺体・遺骨の処理をめぐっても、政治的な思惑はつきまとうのだ。今回のオウムの場合の政治的な意図の有無や内容はまだよく分からない。しかし、現代においては、他の刑死者と異なる取り扱いが許されるはずはなく、遺体ないし遺骨は、しかるべき親族に引き渡されることにならざるをえない。

私的な感情においては、この事件を坂本堤弁護士一家被害の立場から見ざるを得ないのだが、全体としてのオウム事件は社会史的・文明史的な事件として多様な角度から検証が必要である。

最大の問題として、信者の教祖に対する権威主義的な盲目的信仰のありかたが問われなければならない。あまりにも旧天皇制の臣民に対する精神支配構造に似ているのだ。この点についての精緻な分析の必要を痛感する。

オウムの信者とは、はたして「凡庸な教祖」と「浅薄な教義」に惑わされた、特別に愚かな被洗脳者集団であったろうか。あるいは、特殊な洗脳技術の犠牲者というべきだろうか。そうではあるまい。70余年前まで、この国の全体が「教祖とされた凡庸な一人の人物」と「浅薄な国家神道教義」に惑わされた被洗脳臣民集団が形づくる宗教国家であったのだから。

当時、支配者が意識的に煽ったナショナリズムが信仰の域に達して、天皇を神とする天皇教が国民の精神を支配した。天皇はその教義に則って現人神を演じ、国民は支配者が作り出した浅薄きわまりない天皇を神と崇める教義を刷り込まれ、信じ込まされた。あるいは、信じたふりを強要された。

当時の平均的日本人は、「万世一系の天皇を戴く神の国日本に生まれ、天皇の慈しみを受ける臣民であることの幸せ」を受け入れていた。この国全体が、オウムと同様に「凡庸な教祖」と「浅薄な教義」に惑わされた狂信的信者に満ち満ちていたのだ。

天皇や、天皇の宗教的・道徳的権威に対する、国民の批判精神の極端なまでの脆弱さ。その権威主義的精神構造が、「天皇と臣民」の関係をかたちづくった。換言すれば、臣民根性の肥大こそが、神なる天皇と、神聖な天皇に拝跪する臣民の両者を作ったのだ。

敗戦によって、日本国民は天皇制の呪縛や迷妄から解き放されて、自立した主権者になった…はずだった。が、本当に国民は自立した精神を獲得したのだろうか。為政者や権威に対する批判的精神は育っているだろうか。時代は社会的同調圧力に屈しない人格に寛容だろうか。自他の尊厳を尊重する人権意識が共有されているだろうか。自分の精神の核にあるものにしたがって、理不尽な外的強制を拒否する精神の強靱を、一人ひとりがもっているだろうか。

明治150年論争が盛んである。その前半の旧天皇制の支配を許した精神構造を、後半の時代が克服し得ているか。これが最大のテーマのはず。残念ながら、オウムの事件は、これに否定的な答を出しているようではないか。天皇制を許した権威主義的国民精神の構造が、そのまま尊師の権威を尊崇する精神になっているように見えるからだ。

「たとえ人を殺しても、尊師の命令に従うことが正しいことだ」という精神構造は、「天皇のために勇敢に闘え。天皇の命じるところなのだから、中国人や鬼畜米英を殺せ。」という、あの時代の精神が伏流水のごとくに吹き出してきたものに見える。地下水脈は枯れてはいなかった。一億総洗脳の時代のカケラが、部分的洗脳となったに過ぎないのではないか。

オウムの事件は、国民の権力や権威に対する批判精神が、いまだ不十分であることを示している。天皇制を支えた国民の権威主義が払拭されずそのままであるとすれば、象徴天皇制が、いまなお国民を支配するための道具としてすこぶる有用ということでもある。オウムの事件を通じて教訓とすべき最大のものは、権威主義の克服ということであろうかと思う。
(2018年7月7日)

トランプと「カジノ王」肝いりのカジノ法案

「盗人にも三分の理」という。この「盗人」の読みは、貧者から盗む奴には怒りと侮蔑の念を込めて「盗人(ぬすっと)」と読まねばならず、金持ちからの窃盗犯には穏やかに「盗人(ぬすびと)」と読むべきだろう。「盗人(ぬすっと)」と「盗人(ぬすびと)」、それぞれの「三分の理」の内容には自ずから異なるものがある。大金持ち専門の盗賊は「義賊」ともなる。この世に格差がある限り、「盗人の理」も永遠不滅と言わざるを得ない。落語「花色木綿」に出てくる「貧の末の出来心」というあの言い訳。

「盗人に三分の理」とは、「三分しか言い訳できない」ことでもある。この点は、博打も同様。確率から言えば、必ず損をするのが博打。その点憐れではあるが、相手の懐にある金を我がものにしようという点では、盗人と変わるところはない。博打を賭博と言っても賭け事と言っても、あるいはカタカナ語でカジノと言い換えてもまったく本質は同じこと。

賭場では、お互いに他人のカネをむしり合う。このむしり合いを煽り高みで眺めながら、テラ銭を稼ぐのが胴元。リスクなく利益だけをむさぼるという点で、割のよい商売だが、それだけにタチが悪い。刑法では、賭博場開張罪として重く罰せられる。歴とした犯罪者である。
「賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、3月以上5年以下の懲役に処する。」(刑法186条2項)

賭場開帳者と言っても、カジノ経営者と言っても同じこと。人の不幸を作り出してテラ銭を掠めとる蔑むべき犯罪者。やっていることは本来的悪行である。こんな輩に、「一分の理」も語らせてはならない。

本日(7月6日)、参院でカジノ法案が審議入りした。そして、その前提としてのギャンブル依存症対策法が成立した。何ともヘンな話しだ。「食中毒にならないように腐った物の客への提供を禁止する」のではなく、「客の方に、腐った物への耐性をつけさせよう」という法案なのだ。自民・公明・維新が提案者。これを記憶に留めておこう。罪の深いことといわなければならない。

「盗人猛々しい」という言葉さながらに、アベがバクチ解禁の「一分の理」を趣旨説明した。「経済振興」というのだ。バクチで経済振興。博打で観光客誘致。これがまともな政府の言うことか。さすが、戦後民主主義を否定して戦前日本へ回帰のアベ政治。植民地や占領地にアヘンを売りさばいて戦時財政の原資を捻出した没義道国家の再生ではないか。

本日(7月6日)の東京新聞一面トップに、「カジノ法案にトランプ氏の影 きょう参院審議入り」の大見出し。「カジノ解禁を安倍政権が急ぐ背景には、米カジノ業界から支援を受けるトランプ米大統領の影が見え隠れする。ギャンブル依存症の増加など多くの懸念が指摘される法案は結果的に、日本参入を目指す米側の要求が反映された。」という内容。

トランプの有力支持者として、「カジノ王」シェルドン・アデルソンの名が出て来る。「カジノの経営者」だから、わが国の刑法から見れば歴とした犯罪者。「カジノ王」というぐらいだから、多くの博打打ちから莫大なテラ銭を掠めとって来た人物。人の不幸で大儲けをし、さらに儲けようと虎視眈々。

こんな輩が、「大統領選で40億円近い資金援助をし、今秋の中間選挙でも共和党に資金提供を約束していると報じられる。政権の政策にも大きな影響力を持つ。イスラエルのネタニヤフ首相の支援者でもあるユダヤ系で、米大使館のエルサレム移転を歓迎し、費用の寄付も申し出ている。」という。トランプ陣営の何たる醜悪。

17年2月訪米したアベは、「朝食会でアデルソン氏らを前に、前年12月に公明党幹部の反対を押し切って強硬に成立させたカジノを含むIR整備推進法が施行されたことを『手土産』にアピールした。」という。トランプに輪をかけたさらなるアベの醜悪さ。

アデルソンは日本でのカジノ運営に関して、「客への金融サービス実施や面積規制の緩和も求めた。」と口を出した。その後、「政府案に当初盛り込まれていた面積の上限の数値は消え、カジノ事業者が顧客に賭け金を貸し出すことも認めた。米側の要求と一致したと国会でも指摘されたが、政府は日本の政策判断だと強調する。」

カジノで大儲けできるように、掛け金の貸し付けまでやらせようというのだ。こんな法案が国会通るのなら世も末ではないか。

東京新聞の記事は、最後をこう結んでいる。
「立憲民主党の枝野幸男代表は『米国カジノ業者が子会社をつくり運営し、日本人がギャンブルで損した金を米国に貢ぐ。国を売る話だ』と厳しく批判している。」

はて? アベシンゾーとは、真正の売国奴であったか?
(2018年7月6日)

速報が出る度もしや「アベ逮捕」

昨日(7月4日)の毎日新聞仲畑万能川柳欄に、刺激的な一句。
速報が出る度もしや「安倍辞任」 (秦野・たっちゃん)

明けての今日(7月5日)なら、こうでなくてはならない。
速報が出るたびもしや「アベ逮捕」 (よみびと知らず)

昨日現職の文科省局長が、受託収賄の容疑で逮捕されたというのだ。この容疑、どこかで聞いたことがあるような…。日本中で、「もしやアベ逮捕」の期待が高まったとして少しもおかしくない。近畿財務局や佐川理財局長の訴追には鳴りを潜めていた特捜が、今回ばかりはえらく張り切っている。裏があるやらないのやら。難波の仇を江戸で討つのおつもりか。

局長逮捕の被疑事実は「請託をうけて、『(A)東京医科大を文部科学省の私立大学支援事業の対象に選定するという便宜を図る』見返りに、『(B)被疑者の子どもを医科大学に不正入学させてもらった』」ということのようだ。『(A)公務員の職務権限行使』の見返りに、『(B)賄賂の収受』が行われたという、(A)と(B)と、「(C)両者の関連性(見返りに)」の存在が、単純収賄罪成立の骨格である。「請託をうけて」という加重要件が加われば、受託収賄罪として法定刑が重くなる。

誰もが連想する。「もしやアベ逮捕」はあり得ないのか。首相とて公務員である。ロッキード事件では田中角栄が受託収賄で起訴され、1・2審とも有罪判決となった。もっとも、上告中に田中は死亡し、公訴棄却で終わっているが、首相の収賄罪も成立するのだ。検察にやる気さえあれば。

アベの犯罪成立のためには、「『(A)腹心の友が経営する学校法人加計学園の獣医学部設立の要望実現に最大限の便宜を図る』見返りに、『(B)加計学園側から被疑者(アベ)本人に対して賄賂(「人の欲望を満たすに足りる何らかの有形無形の利益」)が提供されてこれを収受した』」ということが必要になる。

誰の目にも(A)は明らかと言ってよかろう。では、(B)の賄賂の収受はどうか。これはことの性質上、表だって人目に付くことではない。必ず裏で行われることだが、その端緒が見えないわけではない。たとえば、アベとの付き合いについて、加計孝太郎はしばしばこんな話を周囲に漏らしているという。
「安倍総理とゴルフに行くのは楽しいけどお金がかかるんだよな。年間いくら使って面倒見てると思う?」(週刊新潮17年7月20日号)

「年間いくら使って面倒見てると思う」かって? そりゃ知りたい。教えていただきたい。是非とも、国会の証人尋問でしゃべっていただきたい。あるいは、特捜の捜査に資料を提供していただきたい。ゴルフ接待、会食接待を調べるところから、賄賂収受が見えてくるだろう。

「魚は頭から腐る」。このごろ、よく聞く。ロシアの諺だというが、なるほど霞が関の腐り方を言い得て妙である。首相が腐り、大臣が腐り、次官が腐り、局長が腐ってきたのだ。上からの腐りが局長まで及んだのに、局長だけが逮捕されて、大臣や首相が安閑としておられるのがおかしいし面白くない。

速報が出る度に、もしや「アベ逮捕」と期待してもよいはずではないか。アベ責任追求の世論がさらに沸騰し、検察にやる気があれば、の話だが。
(2018年7月5日)

広島県教委の政権への忖度は、前川喜平人気を押し上げる結果となる。

独断的な思い入れではあろうが、今、好感度の高い国内の人気者を3人挙げろと言われたら、まずはシャンシャン。次が藤井聡太。そしてもうひとりが前川喜平ではなかろうか。「人寄せパンダ」という言葉があるが、前川喜平講演会もパンダに負けない集客力がある。真面目な人柄の真っ当な物言いだけでなく、爽やかさとしたたかさのキャラクターがうけている。

反対に好感度マイナスのアンチヒーローを3人挙げろと言われたら、まずはアベ晋三。次が麻生太郎だが、もうひとりが難しい。安倍昭恵、加計孝太郎のどちらかとするか、あるいは佐川宣壽・福田淳一か。いずれも丙丁つけがたい。

アベ・麻生・加計・佐川らと対極に位置することが前川人気の源泉である。その落差が際立つほど、前川人気が大きくなる。この灰色の時代を形づくるダーティーな人物群への批判を象徴する立場となっているからだ。

学生諸君よ、官僚になるのも悪くない。が、最後まで面従腹背の人生で終わってはつまらない。権力者ベッタリというみっともない生き方にはどこかでサヨナラしよう。自分流に爽やかにしたたかに生きよう。佐川にならずに、前川を目指そうではないか。

昨年(2017年)11月、前川は寺脇研との共著で、ちくま新書「これからの日本、これからの教育」を出している。その惹句が以下のとおり。
「一人ひとりの生きる力をサポートするのが教育の使命。その思いのもと、どんな人でも、いつでもどこでも学べるよう改革を進めてきた二人の文部官僚。復古的なナショナリズムと、弱肉強食を放置する市場主義が勢いを増すなかで、加計学園の問題は起きた。この問題を再検証し、生涯学習やゆとり教育、高校無償化、夜間中学など一連の改革をめぐって、とことん語り合う。これからの日本、これからの教育を展望する希望の書である。」 真っ当で立派なものだ。

そして、ごく最近単著を出した。タイトルが、そのものズバリ「面従腹背」(毎日新聞出版)だから読んでみたくもなる。「あったことをなかったことにはできない」との決めゼリフが副題となっており、「文部科学省という組織の中で、『面従腹背』しながら行政の進むべき方向を探し続けた38年間の軌跡を振り返る」内容とのこと。

ネットで検索すると、動画での講演やインタビューがふんだんにアップされている。文字情報では、「文春オンライン」で、「前文部科学事務次官・前川喜平 2万字インタビュー」を読むことができる。これが滅法面白い。
http://bunshun.jp/articles/-/7862?page=2

なかで、「思想的には相容れない、加戸守行さんのこと」という章が楽しい。前愛媛県知事加戸守行は、前川の直接の上司だったという。これは奇縁。

以下は、インタビューの抜粋

――実際に入省されての文部省の印象はいかがでしたか?
前川 いや、入る前からひどく保守的なところだろうとは思ってました。扱う分野は教育、科学、文化と大事なものばかりですが、役所自体が後ろ向きの姿勢だと感じていました。私は教育はもっと自由でなければいけないという信条でしたが、文部省は教育に対する国家の支配を強めようとしていましたから。これは自分の思想と、組織の論理は食い違うだろうなと覚悟してました

――リクルート事件の話に戻りますが、このときに官房長だった加戸守行さんも連座してお辞めになっています。加戸さんはその後、愛媛県知事となり加計学園獣医学部の今治市への誘致を進めていたとして、国会の参考人招致で前川さんと再び顔を合わせることになりますね。
前川 実は加戸さんは私が文部省に入って間もない頃の上司なんです。私は官房総務課に配属されたんですが、その後総務課長に来られたのが加戸さん。私の結婚式で歌を2曲歌ってくれました。

――あっ、そうなんですね。ちなみに何を歌われたんですか?
前川 全然覚えてないんだけど、同じく元文部官僚の寺脇研さんの結婚式では「芸のためなら 女房も泣かす?」っていうあの歌、『浪花恋しぐれ』を歌ったそうです。なんでこれを歌ったんですかね(笑)。

 ――加戸さんはどんな上司でしたか?
前川 加戸さんから建国記念の奉祝式典に潜入してこいと「密命」を帯びたことがあるんです。式典に文部省が後援名義を出すので、様子を見て報告しろと。それで行ってみると、のっけから紀元節の歌をみんな起立して歌っているわけです。「雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も」って。講演も右翼チックなものばかり。まさに紀元節復活みたいな強い雰囲気があって、これは参ったなと加戸さんに報告したら「そうかそうか、よかったよかった」って言うんです。加戸さん、右翼なんですよね。総務課長室に建国記念の日のポスター、ダーンと貼っていたのもそういうことかと。だから、思想的には私とは相容れないところがあるんです。

前川が、「私は教育はもっと自由でなければいけないという信条でした」「加戸さん、右翼なんですよね。」と言う、面従腹背ぶりが鮮やかである。

その前川の講演と自治体との関わりが、話題となっている。本日(7月4日)の毎日夕刊の記事。

 広島市で9月30日に開催予定の前川喜平・前文部科学事務次官による教育をテーマにした講演会について、広島県教委と広島市教委が後援申請を断っていたことが4日、分かった。県教委は「政府に対する批判的発言が目立ち、講演で触れる可能性が高い」、市教委は「教育行政の推進に支障をきたしかねない」としている。一方で、同県廿日市市教委は後援を受諾した。
講演会はNPO法人フリースクール木のねっこ(廿日市市)などが企画し、5月下旬に3教委に後援申請した。同NPOのホームページによると、講演会では不登校問題や憲法・道徳教育について前川氏とNPO法人フリースクール全国ネットワーク(東京)の代表理事らが対談する。

 県教委によると、幹部による協議を踏まえ、「特定の宗教や政党を支持しないとする内部基準に適さない」として6月15日に申請を断った。広島市教委は「前川氏の講演会は複数の自治体で後援の判断が分かれており、積極的に後援できない」として今月3日に拒否した。一方、廿日市市教委は「目的が生涯学習の推進という事業に当てはまる」として後援を認めた。

 前川氏の講演を巡っては、4月の講演会について山口県下関市教委が後援を断り、同じ日に予定された別の講演会で、北九州市教委が後援を認めるなど判断が割れている。

これはおかしい。前文科事務次官の講演を「特定の宗教や政党を支持しないとする内部基準に適さない」はあり得ないだろう。前川は講演依頼の趣旨によって、話題を選んでいる。「不登校問題や憲法・道徳教育について」というテーマで、「特定の宗教や政党の支持」が語られるはずがない。結局は、時の政権の意向を忖度し、ご威光にひれ伏しての、いやがらせに過ぎない。行政は公平でなくてはならない。この見識の無い教育委員会の措置は厳しく批判されねばならないが、これで前川人気に翳りが及ぶことはない。却ってこの話題が前川人気を煽ることになるだろう。

もしかしたら、広島県教委と市教委の智恵者が、前川人気を煽る目的での後援拒否だったのかも知れない。これこそ、みごとな「面従腹背」ぶりではないか。
(2018年7月4日)

「サッカー日本代表の皆さん。つかの間の安らぎに心からの感謝」 ― アベシンゾー

トランプもすなるツィッターといふものを、アベもしてみむとてするなり。
アベは、1918年7月3日早暁サッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会でベルギーに敗れた日本代表チームへの「感謝の言葉」をツイッターに投稿した。

「最後まで全力を尽くし、たくさんの感動を与えてくれたサッカー日本代表の皆さんに、心から感謝します。毎日がわくわくで、夢のような2週間をありがとう!」

これは表向きに取り繕っての、余裕ありげな感謝のメッセージ。しかし、ホントのところは敗戦が残念至極。側近がいくつもの素案を作っていた。ボツになったそのいくつかをご紹介しよう。

「新聞もテレビも、森友や加計問題を忘れて、サッカーばかりを報じてくれた夢のような2週間をありがとう! 予選を勝ち抜いた皆さんに心から感謝します。」

「高プロもカジノも、どさくさに紛れてさしたる批判のないままうまくやれました。たくさんの恩恵を与えてくれた日本代表の皆さん、夢のような2週間ありがとう!」

「最後まで全力を尽くし、たくさんの悪法を作ってきました。国民の多くがサッカーに気をとられている隙をねらって大成功です。日本代表の皆さんありがとう!」

「低迷していた支持率も、サッカーW杯をきっかけに上向きそう。毎日がわくわくで、夢のような2週間をありがとう! 心から感謝します。」

「昔から政治の要諦はパンとサーカス。今の時代は、株高とスポーツ。政治のボロを取り繕ってくれたW杯サッカー日本代表の皆さんに、心から感謝します。」

「ホントのところ、もっと勝ち進んで、日本中の話題がサッカー一色という事態を期待してました。そうすりゃ、改憲発議もできたかも知れないのに。残念。」

「国民栄誉賞の濫発が手っ取り早い人気取り。将棋の羽生に、碁の井山、そしてフィギュアの羽生弓弦。これにサッカーW杯、負けて惜しいことをした。」

「毎日がわくわくで夢のような2週間。我が大和民族の、いざというときの一体感はすごい。これなら十分、ほかの国と闘える。」

「W杯もオリンピックも、ナショナリズム高揚の絶好機。「日の丸」振って、「君が代」唱って、感動を与えてくれた日本代表の皆さんに、心から感謝。」

「最後まで全力を尽くし、私とアキエを守り抜いた官僚の皆さんに、心から感謝します。毎日がドキドキで、悪夢のような一年をご苦労様!」

「肩をならべて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです。お国のために戦った日本代表の皆さん、ありがとう。」

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又、以テナンジ祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン」
(2018年7月3日)

「日の丸・君が代強制」を合理化する最高裁「間接制約」論の構造

東京「君が代」裁判・4次訴訟の上告理由書提出の締め切りが間近である。
多様な上告理由を述べてはいるが、最も中心的なテーマは、最高裁が発明した奇妙な判断枠組み「間接制約論」をどう批判するかという課題。

憲法上の基本的人権は最大限尊重されなければならないが、絶対無制限ではない。他の人権や憲法上の利益と衝突する局面では、自ずから調整が必要となり、その限りで制約を受けることはやむを得ない。憲法学の常識では、公権力の行使が精神的基本権を制約しうるには、目的と手段の両面についての「厳格な審査基準」のテストをクリヤーしなければならない。

(1) 当該公権力行使は、真にやむを得ない目的(利益)をもっているか。
(2) 手段(規制方法)が目的を達成するために必要最小限(必要不可欠)なものであるか。

この厳格なテストのクリアーは至難の業といわざるを得ない。ところが、最高裁は、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制には服しがたいとする教員の思想・良心・信仰を制約する職務命令や懲戒処分の行使に関しては、「厳格な審査基準」によるテストは不必要で、より緩やかな「合理性の規準」で合憲性を認定してよいという。これは、通例経済的な自由の制限の可否の審査に用いられる規準。

要するに最高裁は、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は教員の思想・良心・信仰を侵害して違憲ではないのか」と問われて、何とか合憲の回答を与えようと知恵を絞って、緩やかな違憲審査基準の適用でよいとしたのだ。

そのための「知恵」としてひねり出されたのが、「間接制約論」である。判決の説示そのものが必ずしも明快ではないのだが、「思想・良心に対する直接の制約の局面ではなく、この場合は『間接的な制約』に過ぎないのだから、公権力側に甘い緩やかな審査基準の適用で合憲としてよいのだ」という論理の展開となっている。

最初の「間接制約論」判決となった2011年6月6日最判は、こういう。

「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」「本件職務命令は,特定の思想をもつことを強制したり,これに反対する思想をもつことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものと言うこともできない」

以上の文脈は、「(起立・斉唱を命じる)本件職務命令」は、「特定の思想をもつことを強制したり,これに反対する思想をもつことを禁止したりするものではない」という結論を導く苦心のレトリックである。

しかし、先入観のない目で見れば「国旗・国歌(日の丸・君が代)大好き」も思想だし、「国旗・国歌(日の丸・君が代)を卒業式に持ち込んではならない」も思想。「教員は、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制に従うべきではない」も思想に決まっている。それなら、国旗・国歌(日の丸・君が代)大好きな都知事や都教委が、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明には従えない」とする教員の思想をことさらに無視して、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を強制するのは、「そりゃ直接的な思想の制約だろう」と思うのだが、そうではないというのだ。

最高裁は、まず「学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為」を、「一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するもの」と性格づける。「儀式的行事における儀礼的な所作」あるいは、「儀式的行事における慣例上の儀礼的所作」という言葉が出発点となっている。が、その内容は空疎で、十分な説明はなくよく分からない。

「儀式的行事」も「儀礼的な所作」も、「思想とも良心とも信仰とも無関係の無色のもの」と言いたいところなのだろう。が、なかなかそうも言い切りにくい。そこで、「一般的,客観的に見て」を入れて、何とか収めている。つまり、「一人ひとりには、異論もあるだろうが、一般的,客観的に見れば、『儀式的行事における儀礼的な所作』と言うべきだ」と言っている。これは、あなた個人がどう思おうと、社会一般から見れば、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明行為は、思想・良心・信仰とは無関係なんですよ」と言っているわけだ。

以上の文章に続いて、突然に接続詞「したがって」が登場し、一気に結論を導く。「起立斉唱行為は儀式的行事における儀礼的所作に過ぎない」。したがって、以上の論理的な帰結として、「上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人らに対して上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とする本件各職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。」

日本語を解する多くの人に伺いたい。最高裁が言ってる、この論理、説得力があるだろうか。いや、それ以前に日本語として読み取れるだろうか。

改めて、ここまでの論理のスジを追ってみると、
「起立斉唱行為は一般的客観的には儀式的行事における儀礼的所作である。したがって、起立斉唱する者の思想や信仰とは不可分に結び付くものではなく、強制したところで思想や信仰の否定にはならない。」

この論理は、「一般的客観的」な視点で、「特定個人の」思想・良心の侵害を合理化する結論を導き出している。これは、ズルイ。と言うよりは禁じ手と言ってよかろう。社会の多数派は、その思想や信仰を公定のものとして少数派を従わせたいという衝動をもつ。これが、洋の東西を問わずすべての社会の多数派の願望。人権という概念は、国家からも社会からも歓迎されざる少数派を擁護することにこそ意義がある。思想の自由・信仰の自由は、国家からも社会の多数派からも疎まれ、危険視される少数者の思想や信仰を擁護してこそ自由の真骨頂と言うべきなのだ。

判決は続けて、「本件職務命令は,特定の思想をもつことを強制したり,これに反対する思想をもつことを禁止したりするものではない」という。それはなかろう。少なくとも、「本件職務命令は人事権者による、『国家への敬意表明は教育上意義のあることだとする特定の思想』を表白するもので、その支配下にある教職員に対して、これに反対する思想をもつことには懲戒処分を科すことを以て禁止し、その見せしめを通じて、人事権者に迎合する思想を持つよう慫慂するものにほかならない」のだから。

以上の大前提をおいた上で、最高裁判決も、「もっとも,上記国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる『日の丸』や『君が代』に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」とはいう。

言っていることが、バカバカしいほどにまだるっこしいのは、論理が滑らかではないからだ。無理な論理が重ねられているからだ。要するに、「国旗・国歌に対する起立斉唱を強制されれば、個人としては辛いこともあるでしょう」というのだが、それを端的に「思想の自由の制約」とも侵害ともいわない。そう言ってしまうと、公権力や社会の多数派を窮地に立たせることになる。そこで、「その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」とひねり出したのだ。

ここにようやく「間接的な制約」が出てくる。何のことはない。「厳格な審査基準」の適用を排除して、「合理性の審査基準」の適用で足りるということを導き出すためのまだるっこしい操作なのだ。「厳格な審査基準」の適用は違憲判断と、「合理性の審査基準」の適用は概ね合憲判断と結びつくことになる。最高裁は、合憲判断を導くためのステップとして、無理を重ねて「間接的な制約」とし、だから「合理性の審査基準」で足りるとしたわけだ。

ここまで来ればあとは簡単。「このような間接的な制約について検討するに,……社会一般の規範等と抵触する場面において,当該外部的行動に対する制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限によってもたらされる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。」「このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びにこれによってもたらされる上記の制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。」

合憲の結論があって、これを導くために何か考えて判断をしているフリをしているだけ。「当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当」という言い回しには、正直驚かざるを得ない。「当該職務命令の合違憲の判断」は、「上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かで決める」は、実は何にも語っていない。何の判断もしていない。判断の適正を検証しようもない。アプリオリに結論を決めて、あとからその理由付けをしようということだから、こうなるのだ。

さて、まさに今、これに対する有効な反論を考慮中。
(2018年7月2日)

これが自衛隊の実態 ― 防衛大学校の暴行・イジメ・いやがらせ

都立高の教員と話し合う機会が多い。ときに、進路指導としての自衛隊への就職が話題となる。幹部教育機関としての防衛大学校への『進学』と、一般自衛官としての隊員募集にどう対応すべきか。

現場では、「自衛隊違憲論」や「軍への就職の倫理性」などが問題になる余地はほとんどなさそう。もちろん、自衛隊員の使命や国防の大切さなども論外。もっぱら関心の対象となり問題となるのは、職場の安全性とのこと。ブラック企業なみのイジメはないのか。事故死や自殺はどうなのか。その不安が払拭できない。

その防衛大学校。正規の教育機関ではない。自衛隊幹部候補生への就職と考えねばならないが、客観的統計からは、入学辞退・中退・任官拒否などの割合が極めて高い。入試志願者や合格者からも、望ましい『進学先』あるいは就職先と意識されてはいないのだ。

朝日新聞が報道した「上級生からの暴行を受けた元学生が、当時の上級生らと国に損害賠償を求めて福岡地裁に提訴した訴訟」。弁護団の情報公開請求によって興味深い資料が収集され、訴訟に提出されている。

それによると、「防衛大の入校者(学生舎に入った者)に対して、約1週間後の入学式までに辞退する者が数十名、その後中退する者も数十名、卒業時に任官辞退する者も少なくない。入校者に対する任官者の割合は70%程度である。これを、60期(2012年入学、16年卒業)でみると、次のようになる。
 定員   480名
 合格者 1460名(定員の3倍)
 着校者  555名(合格者の38%・「入寮者」を意味する)
 入学者  502名(入学前の辞退者53名)
 中退者   79名
 卒業者  419名(着校者に対する卒業者の割合74.9%)
 任官者  370名(着校者に対する任官者の割合66.6%)」

辞めていく大きな理由が学生舎(寮)生活でのいじめやいやがらせにあるというのが、同訴訟弁護団の主張である。

中退者79名のなかには、学生舎を飛び出して行方不明になる者が少なくない。これを自衛隊では一般に「脱柵」と呼ぶそうだ。死亡が確認されたという記録もある。他にも、深刻な事件・事故が毎年起きている。刑法犯に当たる行為も相当数にのぼる。

6月22日付朝日の記事を引用しておこう。入隊すれば、「徹底したイジメ・体罰(虐待)が横行して」いるのだ。軍事・軍隊は不条理なくして成り立たない。訓練とは、上級のいかなる不条理な命令も受容する心性を作りあげること。防衛大学校の幹部教育においても、その観点から、上級による下級へのイジメ・虐待が必要にして不可欠なのだ。

https://www.asahi.com/articles/ASL6H5HS2L6HTIPE02Z.html

見出しは、『防衛大、過半数が下級生いびり 「粗相」数え、体毛に火』

防衛大学校(神奈川県横須賀市)の学生だった福岡県の男性(23)が在校時に上級生らから暴行された事件を受け、防衛大が実施したいじめや学生間指導に関するアンケートの内容が判明した。当時の4年生の過半数が「粗相ポイント制」と呼ばれる激しい下級生いびりをしたことがあると回答していた。

アンケートは2014年8月、当時の在校生約1800人を対象に聞き取りなどで実施したが、結果は公表されなかった。暴行を受けた元学生が当時の上級生らと国に損害賠償を求めて福岡地裁に提訴した訴訟で、弁護団が学年ごとに回答結果をまとめた文書を情報公開請求で入手した。弁護団はアンケートなどを基に、防衛大全体としていじめをする環境があったと主張する。

弁護団によると、「粗相ポイント制」は下級生が不手際をした際に加算される「ポイント」を清算するという趣旨で行われていた。体毛に火を付ける▽カップ麺をお湯なしで食べる▽風俗店に行って撮影――などを強いていたという。

回答結果をまとめた文書によると、粗相ポイント制を「やったことがある」と答えたのは、最上級生の4年生の57%。一方で「やられた」と回答したのは学年別に26~52%だった。行為への認識を聞く設問では「許されない」との回答は0~1%にとどまった。

 体毛を燃やされたことがあると回答したのは学年別に2~13%、エアガンで撃つ行為の被害を受けたのは0・4~8%だった。ロッカーや机の中身を何度も荒らす行為は24~45%に上った。

 行為を止めなかった理由について、3、4年生からは「いじめと感じていない」「昔から実施されていた」「上級生がやっていたため慣習で受け継いで実施」などの回答があった。

 学生間の不適切な指導として「殴る」のを見たとする回答は21~57%、「怒号・罵声を浴びせる」を見たのは5~72%だった。「髪を切る」「退校願を書かせる」などの行為を見聞きしたとの回答もあった。

 弁護団は「下級生の指導を求められる4年生が、犯罪に相当する行為や人権侵害の加害者になっている。学校全体の責任が極めて大きい」と主張している。

念のためだが、火をつけられた「体毛」とは、「すね毛」や「胸毛」のことではない。「除菌スプレーを陰毛にかけて燃やす」という常軌を逸した凄まじさ。幹部教育の防大においてこのありさまである。このような環境で育った幹部が、一般隊員を教育し指揮命令することになる。推して知るべし、一般隊員のイジメ、体罰、事故死や自殺率の高さを。さらには、訓練死というブラックボックスの闇の深さを。

これが、アベ9条改憲で憲法に明記を目論まれている自衛隊の実態にほかならない。
(2018年7月1日)

おしつけないで!6.30 リバティ・デモ 報告

東京「君が代」裁判・4次訴訟原告の先生方を励ますために、ご参集いただいた皆様に感謝申しあげます。限られた時間ですので、お話しできることも限られたものになることをご容赦ください。

私たちの裁判での主張は、日の丸の否定でも、君が代の違法でもありません。その骨格は、
★「国旗・国歌」にどのような考えを持とうとも自由なはず
★「国を愛する」気持ちを押しつけることなどできるはずもありまん
★教育は自由がなくては成り立たない。失われた学校の自由を取り戻したい
というものなのです。

その根拠は、近代憲法の典型である日本国憲法がその根本としている「個人主義」と「自由主義」にあります。個人主義とは、個人の尊厳を憲法上の価値の根源とする考え方です。国家ではなく、社会でもなく、個性をもった一人ひとりの個人こそが最も大切だという考え方です。自由主義とは、その大切な個人の尊厳を傷つける存在としての国家の危険性を自覚して、国家権力が暴走することがないよう、厳格に制約しなければならないとする考え方です。

このような考え方を徹底してきたのが、アメリカの司法です。とりわけ、連邦最高裁の判例は厳格にこの考え方を貫いてきました。そのうち、国旗・国歌に関わるいくつかをご紹介します。

▼1940年 ゴビティス事件・連邦最高裁判決
エホバの証人の信者であるゴビティス家の子供たちは、公立学校の国旗宣誓敬礼の強制拒否して退学処分となり、これを違憲と争いましたが、連邦最高裁で敗れました。違憲とした裁判官はわずか1名。8名が合憲としました。多数派の意見は、個人の尊厳よりも国家のまとまりが大切だとしたのです。

▽1943年 バーネット事件・連邦最高裁判決
ゴビティス判決は、わずか3年で劇的に逆転します。それが、今に至るまでのリーディング・ケースとなっているバーネット判決です。事案はゴビティス事件と同じく、エホバの証人の信者の国旗宣誓敬礼拒否による退学処分の合違憲判断です。6対3で違憲の判断は今日まで維持された判例法となっています。

▽1969年 ティンカー事件・連邦最高裁判決
ヴェトナム戦争反対の黒い腕章をつけて登校した生徒に対する停学処分の合違憲判断が争われて生徒側が勝訴した事件です。
「生徒・教師が憲法上の権利を校門で捨てるとの主張はできない」「(腕章着用)は、静かで受動的な表現」「われわれの憲法は、われわれが混乱のリスクを引き受けなければならないと語っている」などという理由が述べられています。

また、一連の国旗焼却刑事事件の無罪判決があります。
▽1969年 ストリート事件(無罪)
▽1989年 ジョンソン事件(無罪)
▽1989年 アイクマン事件(無罪)

アメリカ国民には、星条旗を焼却する「表現の自由」の保障があります。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体ですから、強固なナショナリズムの統合作用なくして国民の一体感形成は困難だという事情がありねます。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強いのですが、それだけに、国家に対する抵抗思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えません。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定しました。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはなく、ベトナム反戦運動において国旗焼却が続発し、合衆国全土の2州を除く各州において国旗焼却を処罰する州法が制定されました。その法の適用において、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこしたのです。

著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっています。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実ですが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反です。

連邦法は、68年「国旗冒涜処罰」法では足りないとして、89年「国旗保護」法では、アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までを構成要件に取り入れました。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付け、そして、無罪の判決を獲得したのです。

アイクマン事件判決の一節です。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている自由、そして尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」
なんと含蓄に富む言葉ではありませんか。

その他の州レベルでの判決です。
▽1965年 バンクス事件 フロリダ地裁判決
「国旗への宣誓式での起立拒否は、合衆国憲法で保障された権利」
▽1977年 マサチューセッツ州最高裁
「公立学校の教師に毎朝、始業時に行われる国旗への宣誓の際、教師が子どもを指導するよう義務づけられた州法は、合衆国憲法にもとづく教師の権利を侵す。バーネット事件で認められた子どもの権利は、教師にも適用される。教師は、信仰と表現の自由に基づき、宣誓に対して沈黙する権利を有する。」
▽1977年 ニューヨーク連邦地裁
「国歌吹奏の中で、星条旗が掲揚されるとき、立とうが座っていようが、個人の自由である」

自由の到達点において、わが国が国際基準に比較していかに遅れているか。君が代不起立がいかにささやかな、自己防衛行為でしかないか、お分かりいたたけるのではないでしょうか。
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本日の「おしつけないで!6.30 リバティ・デモ」は、予定のとおり、にぎやかに楽しくおこなわれた。参加者数は、主催者発表で80名。但し、出発前集会参加数確認は75名。「デモだけに参加した者が5人はいたと思われる」とのことでの、総員80名。
(2018年6月30日)

財界の意を受けた、企業のための「働かせ方改革法」が今後のルールだ。

うふふ。アベだよ。えへへ。シンゾーさ。今国会の最重要法案が通ったよ。

ほら、「働かせ方改革法案」、いや間違えた「働き方改革法案」だったっけ。今日成立した。いや、むりやり通したよ。公明党も義理がたい。こんな不人気な法案に付き合ってくれて有り難い。とこかで借りを返さなくっちゃね。それから、維新だ。どこかで御礼して帳尻を合わせなくっちゃね。

我ながら、こんな法案よく通ったもんだと感慨深いんだ。厚労大臣も、まあよくこらえたもんだ。普通あれくらい嘘がばれたらへたるものだが、立派に持ちこたえた。たいしたものだ。総理の私も、嘘つき呼ばわりされることはしょっちゅうだが、やっぱりズシンとこたえる。「嘘つき」って、ウソじゃないものね。ホントに私の言うことウソが多いんだからね。加藤厚労大臣、私に代わっての罵倒の受け皿役、改めてご苦労様。

今回の労働法制改革の目玉は、もちろん「高プロ」。「残業代ゼロ法案」とか「働かせ放題法案」と言った方が定着して分かり易いね。誰のための法改正で、誰のための目玉かって? もちろん、企業と財界の利益のための法案。竹中平蔵さんが成立を煽っている法案だからバレバレ。なんたって、財界の永年の夢の法案。だけど、財界のため、企業のための法案なんて、本当のことを正直に言っちゃあ。そりゃお終いだろう。労働者のための法案ってウソをつかなきゃ通せない。

最後の最後まで、よくもまあ嘘を突き通せたものさね。「労働者の働き方の選択肢を増やす」なんて子供だましが通用したから、笑いがこみあげてくる。これなら、どんな法案も、破綻なくいけそうじゃないの。我が内閣の国民欺しテクニック向上の成果だ。

昨日は、エラそうに「ルール守んなきゃ」って言ってみた。今日は、「民主主義とはルールのことだ」と言ってみよう。粛々と多数決で、「働かせ方改革法案」が通ったじゃない。これが民主主義だ。「財界の要請だ」「立法事実に欠ける」「労働者の要請があるなんて嘘っぱち」なんて言ったってもう遅い。多数決というルールこそが民主主義。これに代わるものはない。

ルールは大切ですぞ。Wカップでの日本のサッカーをご覧なさい。ルールを研究し尽くして決勝トーナメント進出を決めたじゃないですか。ブーイングの中10分もパス回しを続けて、勝つためにルールを活用したことが素晴らしい。「スポーツマンシップに悖る」だの、「何のためのサッカーか?」など批判があるようだが、どれもトンチンカン。ルールの範囲なら何をしても非難される筋合いはない。その辺の割り切り方が曖昧だと損をするだけ。

ルールが変われば、そのルールを徹底活用すべきが当然のこと。高プロはもう新ルールとなった。だから、企業がその徹底活用を図ろうというのは当然のことだよね。きっと、ブーイングを恐れず、来年(19年)4月から「働かせ方改革」に邁進することになるでしょう。それでこそ、私が財界の意を受けて財界のために、この法律を作った苦労が報われるというもの。

これで、財界には大きな貸しを作った。次の選挙と「9条改憲」にご協力いただけるはず。だから、「うふふ。アベだよ。えへへ。シンゾーさ。」って訳。
(2018年6月29日)

国政私物化の張本人、公正であるべき行政をねじ曲げた当の人物が、エラそうに「ルール守んなきゃ」とはチャンチャラおかしい。

国会での「ルール守んなきゃ」って発言が話題になってるね。
「ルール」は大切だよね。たしかに「ルールは守んなきゃ」。アベかアソウが、また何かしでかしたんだろう。

そうじゃない。「ルール守んなきゃ」って言ったのが、アベ晋三。言われたのが、「無所属の会」の岡田克也代表。昨日(6月27日)の党首討論でのこと。
えーっ!? あのアベが、どの口で『ルール守んなきゃ』って?

すごくヘンな感じがするだろう。誰だって、アベに対しては『オマエからだけは言われたくないよ』って思うもんね。
どんなきっかけで「ルール守んなきゃ」が出てきたんだろう?

岡田さんが、「総理ね、良心の呵責を感じませんか? あなたを守ろうとするから官僚は…。」とまで言ったら、アベは席を立って、「やっぱり岡田さん、ルール守んなきゃ」って捨てゼリフ。
そうか。アベの言う「ルールを守れ」って、決められた質問時間を守れってことなのか。「良心の呵責を感じませんか?」に答えたくないってことか。

自分に都合よく、つまみ食いでルール違反を持ち出した、といってよいだろうね。
ところで、岡田さんの質問時間は何分あったんだい?

わずか6分。この日の5党首の持ち時間合計が45分だから、これじゃ実質的な討論にはならないね。
その6分は、アベの答弁もいれての6分だろう。アべは、いつも論点ずらして勝手なことをしゃべくるじゃないか。

この日は特にひどかった。日刊スポーツの報道だとこうなっている。
「最終討論者の衆院会派「無所属の会」の岡田克也代表が、森友学園をめぐる昭恵夫人の責任問題に言及すると、首相は制限時間をかなり越えて答弁。委員長に3度も、「総理、時間が超過しています」と注意を受けたが、答弁を続けた。」
なんだいそりゃ、いったい。ルール違反は、アベの方じゃないか。それでいて、「ルール守んなきゃ」とは、なるほどアベらしい。

毎日新聞の報道だと、「岡田氏は『私が再度質問する時間がないように(首相が)長く話したとしか思えない』と記者団に不満を語った」そうだ。他紙も、「首相はこの日、持ち時間内の発言という約束事を守らない場面が多くみられた。」と報じている。また、アベは「『委員長すみません、これで終わります』と言った後も答弁を続け、…『妻の名誉にかかわる話だ』と、答弁を続けた理由を主張した。」ともある。
だいたい分かったよ。自分で時間を食っておいて、時間切れをねらおうという姑息な戦法。自分の不誠実を棚に上げて、人に対しては、臆面もなく「ルールを守れ」と言ってのけるわけだ。たいへんな面の皮。

アベが「ルール」を口にし、他党の代表に「ルールは守んなきゃ」とエラそうに言うことに、ざらつく違和感がある。これはいったい何なのかね。
その正体はね、アベの「ルール大切」が大ウソだからということじゃないのか。あいつは、本当のところルールは嫌いなんだ。それなのに、自分にとって都合の良いときにだけ、つまみ食いの「ルール大切」を振りかざす。そのバレバレの大ウソに、大きな違和感ということだろう。

アベは、本当にルールが嫌いなのかね。
そりゃそうだ。ルール無用でなんでもできることが権力者の天国だ。「権力者は本質的にルールが嫌い」と言っていいんじゃないか。

ルールもいろいろだが、世のルールの基本は円滑な権力行使のためのものじゃないのかね。
アベは、憲法という最高のルールが大嫌いじゃないか。自分を縛る憲法が気に入らないから、自分に都合の良いように書き換えようという人物だ。すべてのルールは、アベの嫌いな憲法を頂点とする体系の中にある。アベはルールが嫌いだと思うよ。

そんな大上段の議論ではなくて、アベという人格にざらつく。この人は、自分を客観視できない。自分に非があっても決して認めない。ごまかし、忖度させながら、自分との関わりを否認し通す。それでいて、他人に責めるべき落ち度を見つければ、エラそうに教訓を垂れる。アベの発言の端々が、こんな人物をわが国の権力者としていることの嘆きとなる。そんなざらつきのようなんだ。
何とも、小難しいアベ批判だな。国政私物化の張本人、公正であるべき行政をねじ曲げた当の人物が、エラそうに「ルール守んなきゃ」とはチャンチャラおかしい、でいいんじゃないの。

ウーン、このところアベが息を吹き返して、人を小馬鹿にした本性が表れたかという思いから、気分がざらつくのかも知れない。

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時間超過ねらいの、無意味な繰りかえしアベ答弁を記録しておきたい。

岡田「総理の発言ですね、『私や妻が認可あるいは国有地の払い下げに関係していれば、間違いなく総理大臣も国会議員も辞める』と。この発言を受けて、それと矛盾ないような答弁にするために改竄を行ったり、虚偽の答弁をしたというのが現実ではないか。」「こういう答弁、財務官僚は好きでやっているわけではない。やっぱり総理を守らないといけないという中で、もちろん保身もあったでしょうけど、しかし、総理を守らなければならないという中で、こういう発言が次々と出てきた。私は気づいた官僚も多いと思う。そういうことに関して、総理は責任を感じておられないのかということを言っているわけです」

アベ「あのときも、前の党首討論においても、明らかにさせていただきましたが、私が申し上げた関与ということについては2月の17日でしたね、平成29年。福島委員から、福島委員といっても、ここにおられる福島(瑞穂・社民党副党首)さんではなく、もう1人の福島(伸享・元衆院議員)さんだが、『法律を潜脱していて、脱法的な疑いがあるわけですよ』という質問があったわけです」

 「そうしたことに対し『私は妻がこの認可あるいは国有地払い下げに、もちろん事務所も含めて』という答弁をしているわけです。そして先般の党首討論のやり取りにおいても、枝野委員から『ついこの間の答弁では随分、定義を変えたではないか』という質問がありました。おそらく私の答弁をずっとちゃんと議事録を読んでいないんだろうと思いましたが、3月24日については『この問題の発端は国有地が不正に安く払い下げられたのではないか。そこに政治の関与があったのではないか』という点、そして『学校の認可に政治的な関与があったのではないか』という何か大きな問題点であったはずであります」

 「そこで例えば、だからいろいろな、これを臆測から、いろんな報道等であったのは、では、そこで何か政治家にお金の共有があったのではないかという、そういう議論があったはずであります、ということになります。何か政治に籠池(泰典・元森友学園理事長)さんが、そして、そこに何かお金の流れ、いわば籠池さん側が政治家等に対してさまざまな便宜を図る中において、政治家が応えたのではないかという、これはそういう疑惑だったはずです、という、これは3月の昨年の3月24日に答弁をしているわけです。こう答弁をしているわけですから、これに関わるかどうかということになるんだろうと思います」
 
「さらには削除された中において、私の妻が述べたのは『進めてください』と述べたというのは、これは妻が財務省に『進めてください』と言って財務省に電話をかけたわけではないし、実際、妻が実際述べたのではなく、籠池さんが妻がそう述べているということが書いてあるわけであり、これは削除する必要は全くないと思う。少しコメントが長くなりましたが、これはまさに名誉にかかわることでありますし、今、岡田委員がですね、委員長すいません、これでこの討論は終わりますが、つまり、私が申し上げたのは、そういうことで申し上げたのであります。大変、言葉が長くなったことをおわびを申し上げたいと思います」

岡田「総理ね、総理の良心の呵責を感じませんか。あなたを守ろうとするから、官僚はちょと虚偽の答弁は普通やりませんよ。これをあえてやったのはあなたを守ろうという気持ちからでしょう。そういうことについて良心の呵責、感じませんか、あなた、それだけ申し上げておきます」

「やっぱり岡田さん、ルール守んなきゃ!」

(2018年6月28日)

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