(2021年9月2日)
DHCは、デマとヘイトとスラップとステマで名高い悪質な企業である。そのデマとヘイトを象徴する事件が、「DHCテレビジョン」制作の「ニュース女子」沖縄基地問題放映。高江の米軍ヘリパッド反対運動を取りあげて事実に基づかない中傷をし、その背後に在日3世の辛淑玉さんがいるとして、名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起された。昨日(9月1日)その一審判決となったが、原告の辛さん側が「画期的な判決をいただいた」と表明する認容判決となった。慰謝料と弁護士費用を合計した認容額は550万円。異例の高額である。しかも、謝罪文の掲載命令まで言い渡されている。
「DHCテレビジョン」はDHCの子会社。親会社のDHCと同様に、その代表取締役会長が、差別主義者として知られる吉田嘉明。メディアも官僚も法曹も裁判所も在日が支配していると妄想している人。この人の体質がヘイト番組の制作に関わっている。吉田は、今回の東京地裁(大嶋洋志裁判長)の判決をも、在日の裁判官による在日のための判決などと強弁するのだろうか。
番組は、基地建設反対派の人たちを「テロリスト」「犯罪者」と表現したほか、「黒幕」として辛さんを名指ししていた。「在日韓国・朝鮮人の差別に関して戦ってきた中ではカリスマ。お金がガンガンガンガン集まってくる」などという発言もあったという。
この番組をめぐっては、既にBPO(番組倫理向上機構)の2つの委員会が審査の上、取材の欠如や事実確認の不足、人権や民族を取り扱う際に必要な配慮を欠いたことなどを指摘のうえ、「重大な放送倫理違反」「名誉毀損」などと結論づけている。このDHC子会社の番組は、沖縄の平和運動に対するヘイトでもあり、在日に対する偏見の発露でもある。
判決は、番組で「(辛さんの)社会的評価が著しく低下し、重大な精神的損害を受けた」とまずは名誉毀損を認めた。その違法性を阻却する事由があるかに関して、「重要な部分の真実性が証明されているとは到底いえない」「真実と信じるについての相当な理由があったともいえない」と結論した。裏付け取材ないままの、デマ報道であったと認めたことになる。
判決を受けての記者会見で、辛さんは、次のように述べたという。
「この番組は私を利用して沖縄の平和運動を愚弄する、もっとも悪質なフェイクニュースでした。」「日本人ではない私が、反戦運動に声をあげること、沖縄のことに思いを馳せることを巧みに利用された。そして、そのことで2017年から受けた私への仕打ちは、酷いものでした」
「今回の判決は、番組が問題であったということを明確に示した。私への名誉毀損の部分でしか戦うことはできませんでしたが、あの番組が問われているのは、まごうことなきフェイクです。沖縄の人たちを愚弄し続けたのです。そこの部分はこれから次のステージで戦っていかなければいけない」
またこうも語ったという。
「多くの人に支えられ、持ちこたえられた。在日3世の私が日本の良心とタッグを組んで、道が開けるということを思い起こさせてくれた。第1ラウンドが終わった」
「差別を禁止する法律があれば、と感じました。1行でも良いので、これは人種差別だったと記載してほしかった。そういうものがダメなんだと活字になって出ていくことは、私たちマイノリティにとって大きな力になると思っています」
第1ラウドは終わったが、第2ラウンドがすぐに始まる。訴訟は終わっても、民族差別のない社会への歩みは続くことになる。この社会の歪みを直す道のりは、まだ険しい。
(2021年8月29日)
アフガンから米軍が撤退を開始して、現地にはタリバンの支配が戻りつつある。あらためて、武力による他国への侵攻や支配の当否が話題となり、アフガンという地域の歴史や風土、そして中村哲医師の業績に関心が寄せられている。
毎日新聞8月27日の「金言」欄に、「手術では治らない」との標題で小倉孝保論説委員が中村医師を回顧している。「手術では治らない」は、中村医師が国会で述べた言葉だ。「手術」とは武力の行使、あるいは武力による威嚇のこと。この場合は、自衛隊のアフガン派兵を意味している。「手術」を必要とする疾患は、「テロ」である。アフガンのテロ組織を根絶するために、自衛隊を現地に派遣してはどうかという議論に対して、現地を最もよく知る中村が、「手術では治らない」と言ったのだ。「自衛隊派遣は、有害無益」とも。
以下、「金言」の抜粋である。
「米同時多発テロから約1カ月後の2001年10月13日、衆院特別委員会が開かれた。政府は当時、自衛隊が米軍の対テロ活動を支援できるよう法整備を急いでいた。
軍事評論家らとともに参考人として出席したのが医師の中村哲だった。1983年に国際NGO『ペシャワール会』を設立し、アフガニスタンで農地を作ろうと井戸を掘って水路を通し、隣国パキスタンでも医療活動をしていた。
中村はアフガンの状況について、『私たちが恐れるのは飢餓』と述べ、テロを抑え込むため自衛隊を派遣することを、『有害無益』と明言する。
浮世離れした発言と受け止められたのか、議員席には嘲笑が広がった。『有害無益』発言を取り消せとの自民党議員の要求を中村は、『日本全体が一つの情報コントロールに置かれておる中で、率直な感想を述べただけ』と突っぱねている。
テロを防ぐには敵意の軽減が必要で、武力によってそれは成し遂げられない。『このやろうとたたかれても、報復しようという気持ちが強まるばかり』と述べている。
国の荒廃や混乱の背景には教育や医療の欠如、貧困や飢えがある。それを人道支援で予防、改善することで、最後の手段であるべき『外科手術』を回避できると中村は考えていた。
米軍によるアフガン侵攻から20年。飢餓や貧困は改善されず、崩壊したタリバンが勢力を盛り返し、ほぼ全土を掌握した。世界一の「外科医」である米軍をもってしても、アフガンの患部は治癒しなかった。
中村は2年前、アフガンで武装勢力に銃撃され命を落とした。タリバンが戻ってきた今、この国とどう向き合うか。中村が嘲笑を浴びながら残した言葉にこそ、貴重な答えがある。」
当日委員会の議事録で、次のような中村の発言を読みとることができる。
○中村参考人 自衛隊派遣が今取りざたされておるようでありますが、当地の事情を考えますと有害無益でございます。かえって私たちのあれ(現地支援活動の成果)を損なうということははっきり言える。笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのはだれか。私たちが十数年間かけて営々と築いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます。
○中村参考人 現地は対日感情が非常にいいところなんですね。これは世界で最もいいところの一つ。その原因は、日本は平和国家として、戦後、あれだけつぶされながらやってきたという信頼感があるんですね、我々の先輩への。それが、この軍事的プレゼンスによって一挙にたたきつぶされ、やはり米英の走り使いだったのかという認識が行き渡りますと、これは非常に我々、働きにくくなるということがあります。
○中村参考人 私は、テロの発生する土壌、根っこの背景からなくしていかないと、ただ、たたけたたけというげんこつだけではテロはなくならないということを言っているわけです。本当に人の気持ちを変えるというのは、決して、武力ではない。私たち医者の世界でいえば、外科手術というのは最後の手段…。
中村を嘲笑し、発言を取り消せ、とまで言った自民党議員とは誰だつたのだろうか。特定はできないが、出席議員として衛藤征士郎、下村博文、鈴木宗男などの名が見える。
中村は、その後2008年11月5日の参院外交防衛委員会でも、要旨次のように述べている。
「ヒロシマ、ナガサキのことは現地の皆が知っており、かつては親日的であった。
最近は、日本が米軍の軍事活動に協力していることが知れ渡り、日本人も危険になってきた。
以前は日の丸を付けていれば安全だったが、今は日の丸を消さざるを得ない。」
「外国軍隊の空爆が治安悪化に拍車をかけている。自衛隊の現地派遣は『百害あって一利なし』。また、現在の給油活動について『油は空爆に使われない』と言っても現地の人には通用しない」
以上は、中村哲が語る、日本国憲法9条のリアリティである。同医師の早すぎた逝去が惜しまれてならない。
(2021年8月24日)
「20時当確」という言葉は聞いていたが、「ゼロ打ち」は知らなかった。8月22日20時。横浜市長選の投票箱が閉まると同時に、メディア各社は一斉に山中竹春当確と報じた。開票率ゼロパーセントで当確を打ったのだ。この瞬間に、小此木八郎の大敗が確実となり菅政権が大きく揺れた。
この選挙では、誰が当選するかではなく、もっぱら小此木八郎の勝敗が焦点だった。菅政権の命運を占うものとして注目されたのだ。菅義偉の政治家としての出身地、いまだに地元とも、お膝元とも言われる横浜である。菅と小此木との関係は、切っても切れない間柄。しかも、小此木八郎は現役閣僚を辞しての出馬。菅も、ここは自分の政治生命に直結する踏ん張りどころと、なりふり構わず前面に出た。その結果が、「ゼロ打ち」である。菅から見れば「ゼロ打たれ」。自業自得とは言え、菅の衝撃やいかばかり。
「ゼロ打ち」は、小此木ではなく、明らかに菅内閣への不信任である。とりわけ、コロナ対策への無為無策に対する市民の苛立ちの表明。コロナ禍の中で、市民は政権のあり方が自分の命や暮らしに直結することを実感し始めているのだ。だから、投票率も上がった。だから、次の総選挙、決して菅義偉安泰ではないのだ。
菅の選挙区は神奈川2区、横浜市の西区・南区・港南区がその区域。今回の山中票と小此木票の出方を較べてみると以下のとおり。
西 区 (山中)13,103票 30.79% (小此木)9,362票 22.00%
南 区 (山中)23,765票 31.84% (小此木)18,275票 24.10%
港南区 (山中)31,246票 33.72% (小此木)21,016票 24.10%
1994年の小選挙区制導入以来、8回の選挙で菅義偉は連続当選を果たしている。その菅の選挙区で、小此木は圧倒的に負けているのだ。闘い方次第では、次の選挙で菅落選もあり得なくはない。
カジノ(IR)問題はやや影が薄くなった感があるが、本日の朝日社説がこう論じている。これは、重要な指摘だと思う。
首相は安倍前政権の官房長官当時からIRの旗振り役を務め、地元横浜市は候補地として有力視されていた。にもかかわらず、今回、(IR反対に転じた)小此木氏支持を打ち出したのは、市民の間に反対が強いとみて、野党系市長の誕生阻止を最優先したのだろう。
IRには、ギャンブル依存症の増加やマネーロンダリング(資金洗浄)、治安の悪化などの懸念がある。推進の林氏の得票率は13%にとどまった。首相はこの機会に、IR政策全体の見直しに踏み込むべきだ。でなければ、小此木氏支援はご都合主義の極みというほかない。
本来であれば、IR誘致をどうするのか、方針を転換するならするで、党内論議を重ね、意思統一をしたうえで有権者に提示するのが、政党としてあるべき姿だろう。自民党のガバナンスもまた問われている。
そして、もう一つの注目点が、「カジノ反対の市長を誕生させる横浜市民の会」などの市民運動とも連携した野党共闘の成果である。朝日社説は、こう触れている。
「当選した山中氏は、共産、社民両党も支援する、事実上の野党統一候補だった。内閣支持率が下がっても、野党の支持率は低迷が続くが、しっかりした受け皿を用意できれば、政権への批判票を呼び込めることが示された。総選挙でも有権者に認められる選択肢を示せるか、野党の協力が試される。」
野党は4月の衆参3補選・再選挙で「全勝」し、東京都議選でも議席を伸ばしている。共闘ができれば大きな勝利の展望が開けることの実証を、また一つ積み上げた。共闘は難しいが、総選挙目前の今喫緊の課題なのだ。
(2021年8月22日)
香港情勢の報道には胸が痛む。民主的な運動に携わっていた人々が、野蛮な権力に次第に追い詰められている。歴史は、必ずしも進歩するものではなく、正義は必ずしも勝利するものでもない。この理不尽が、現実なのだ。
ドイツの作家ミヒャエル・エンデのファンタジー「はてしない物語」(ネバーエンディング・ストーリー)を思い出す。「The Nothing」(無)の膨張によって崩壊の危機に瀕した異世界の物語り。あの異世界は中国のことであったか、「The Nothing」(無)とは中国共産党のメタファーであったか、今にしてそう思う。
国家安全維持法施行以来、じわじわと香港での「The Nothing」(無)の膨張は続いている。民主派メデイアの「リンゴ日報」が廃刊になり。最大教員組合の「香港教育専業人員協会」(教協)が解散となり、今度は、「民陣」への弾圧。そして、弁護士協会も危ない。
以下は、赤旗【北京=小林拓也】の報道である。見出しは、「香港民主派団体「民陣」が解散」「大規模デモ主催 弾圧で運営不能に」「主要幹部相次ぎ逮捕 『市民に感謝』と声明」
香港で大規模デモを主催してきた民主派団体「民間人権陣線(民陣)」が15日、解散を宣言しました。昨年6月末の国家安全維持法(国安法)施行後、主要メンバーが次々逮捕され、事務局の機能が維持できなくなったのが理由。民陣は解散を宣言した声明で「香港人がんばれ。人がいれば希望はある」と呼び掛けました。
民陣は2002年、民主派政党や団体によって創設。毎年7月1日の香港返還記念日デモなどの大規模デモを主催。「平和、理性、非暴力」を掲げ、デモによる市民の政治的意見表明を主導してきました。03年7月には50万人デモで「国家安全条例」案を撤回に追い込みました。19年6月には「逃亡犯条例」改定案に反対するデモを呼び掛け、最大で200万人が参加。その後の反政府行動でも重要な役割を果たしました。
国安法が施行された直後の昨年7月1日にもデモを呼び掛けました。しかし同法による弾圧が強まる中、今年の7月1日は創設以降初めてデモを行いませんでした。昨年来、民陣の元代表4人が逮捕され、実刑判決を受けた人もいます。弾圧により事務局の運営が不可能になったとして、13日の会議で解散を決めました。
香港警察は、民陣やそのメンバーが国安法などに違反していないか全力で追及すると表明。中国政府で香港政策を所管する国務院香港マカオ事務弁公室と出先機関の中央駐香港連絡弁公室は、民陣について「反中国で、香港を混乱させた」組織だとし、法によって責任追及すべきだと主張しました。
民陣は15日の声明で、19年間共に歩んできた香港市民に感謝を表明。大規模デモで「世界が香港に注目し、自由や民主の種を人々の心に植え付けた」と強調しました。その上で、「民陣がなくなっても、別の団体が理念を堅持し、市民社会を支援していくと信じている」と訴えました。」
さらに、弁護士会の自治も危うい。英国流の法制度をもつ香港には、2種類の資格の弁護士があり、《香港大律師公会》(法廷弁護士(バリスター)の弁護士会)と、《香港律師会》(事務弁護士(ソリシター)の弁護士会)の2会がある。その両者とも法の支配や人権、民主主義に親和的だが、《香港大律師公会》の方がより尖鋭だという。香港大律師公会のポール・ハリス会長は、民主派政治家への懲役刑を批判し、中国政府高官から「反中国」政治家と批判されている。
この弁護士会の姿勢を「政治主義」と攻撃するのが、中国共産党である。党の方針に忠実でなければ、偏向した政治主義なのだ。『人民日報』(中国共産党機関紙)8月14日付は、香港律師会に関する、大要以下の論説を掲載したと報じられている。
「香港律師会は会員に対して責任を持ち、専業を選び政治を行うべきではない。市民に対して責任を持ち、建設を選び破壊を行うべきでない。香港律師会の重要な役割は香港の法治精神を守ることで、香港法治の盛衰と存亡がその盛衰と存亡に直接の関係がある。」「反中乱港分子と一線を画せば、香港教育専業人員協会(教協)のように特区政府の認可を失うことはない。1国2制度の方針を擁護し、基本法を順守すれば、香港大律師公会のように中国本土との交流・協力を断絶し活路を失うことはない」「8月末(24日)の理事会改選で選出される新たな指導層が建設的役割を発揮するよう求める」
これは、明らかな権力による恫喝である。民主主義を標榜する国家では到底考えがたい。ここでいう「香港の法治精神を守る」とは、中国共産党の指導に服従するということで、法によって権力の横暴を縛るという立憲主義への理解の片鱗もない。民主制国家では、国民世論がこのような権力の暴言を許さない。敢えてすれば、次の選挙でこのような野蛮な政権は潰えよう。しかし、中国共産党のこのような横暴に歯止めはかからない。
先には、「香港民主主義の父」といわれた弁護士・李柱銘氏が、民主化集会開催をめぐり有罪判決を受けて、弁護士資格を剥奪されることになった、という報道もあった。「The Nothing」(無)の拡大は止まるところを知らぬように見える。果たして、本当に「人がいれば希望はある」だろうか。
(2021年7月20日)
東京五輪が、目も当てられぬぐちゃぐちゃの事態である。国民の過半が開会に反対し中止を求めている。これほど、開催国民から愛されず、期待されず、不人気で、中止せよと言われ続けたオリンピックは、過去に例を見ないだろう。おそらくは今後の五輪のあり方を変えるきっかけとなるだろう。
まずはコロナの蔓延である。本日の東京都内での新たな感染者数は1387人。火曜日としては過去最多人数という。先週火曜日の830人から、557人の増。率にすると67%のアップである。これは恐ろしいことになってきた。第5波は、第4波を遙かに凌駕する規模のものとして到来しているのだ。その重大なときに、ワクチンの供給もヨレヨレになっている。菅・河野の無責任な弁明が虚しく不安は募るばかり。そして、コロナに加えて、なんという不愉快な今日の暑さだ。こんなときに大規模運動会を予定したことは正気の沙汰ではない。
次々とバブルの穴が報告される。オリンピック出場のために来日した選手の逃亡が報じられている。国立競技場は強姦の舞台となった。得意げに自分のイジメ体験を吹聴していた異常者が開会式の楽曲を担当していたことが明らかになった。それでも、バッハや菅にも小池にも、危機意識が見えない。
本日の毎日新聞社会面トップの見出しの中に、『この大会呪われている』という言葉が踊る。一瞬そうかも知れないと誰でも思う。コロナに見舞われただけでなく、数々の不祥事の出来で、汚れてぐちゃぐちゃなのだ。
毎日の見出しは、正確には「小山田氏辞任 『この大会呪われている』 五輪組織委関係者嘆く」というもの。
私は、不明にして小山田圭吾を知らない。その辞任のインパクトの大きさはさっぱり分からないが、報道された彼が自ら吹聴する障害者の同級生2人に対する「イジメ」の凄惨さには唖然とするしかない。人が人にそこまで非道なことができるとは信じられないほどの悪行。人非人の所業といってもよい。このような明らかな犯罪行為が学校で行われ、処罰もされずに放置されてきたこと、それを加害者側が得意げにしゃべり、それを記事にする業界誌もあることが信じがたく、慄然とせざるを得ない。
この小山田イジメ記事は業界ではかなり知られたことだったという。小山田と接触した組織委の担当者も、業界には詳しかろうから、知っていたのではないか。あるいは少し調べれば分かること。こんな連中を集めてオリンピックをやっているのだ。
組織委関係者は毎日の記者に、「人間として許しがたく辞任は仕方ない。開幕直前までいろいろなことが起き、本当にこの大会は呪われている」と嘆いて見せた。しかし、そうではあるまい。おそらくは、東京五輪に群がっている連中が薄汚く、劣化しているのだ。
このぐちゃぐちゃのルーツは、安倍晋三の「フクシマは完全にアンダーコントロール」というウソの招致演説にある。その後に、竹田恒和(JOC会長)の2億円賄賂疑惑の発覚もあった。この二人だけでない。競技場デザイン問題もあり、エンブレム問題もあった。電通も、森喜朗も、佐々木宏も、そして小山田も、社会の劣化を象徴する人物なのだ。
薄汚くてぐちゃぐちゃな五輪に近づくと企業イメージが傷付く。「最高位スポンサー」というトヨタが、そう考えてオリンピックと距離を置く方針に踏み切った。五輪を利用したコマーシャルは一切打たず開会式にも出席しないという。これに、同じく最高位スポンサーであるパナソニックが続いた。同社も開会式には出席しないと発表した。「最高位」ではないがこれに次ぐ地位にあるというスポンサー企業では、NTT、NEC、富士通も開会式出席はないという。これは主催者側の大きな痛手だろう。東京五輪は、閉会後に巨大な負のレガシーを残すことになるだろうが、既に開会前からしっかりと負のイメージを焼きつけているのだ。
一方、その不人気の開会式に、天皇(徳仁)が出席し、開会を宣言することがきまったと報じられている。この出席の是非についての本人の意思はない。内閣の指示に従うだけの存在。自分のイメージにどう影響するかの考慮も、それ故の選択も一切許されない。それが彼の立場である。彼が日本の元首であるはずはないにせよ。
なお昨日、上野千鶴子や元駐仏大使の飯村豊らが、東京オリパラの中止を求める要望書と13万9576人分の署名を都や組織委に提出したことが報じられている。要望書では、大会を契機としてコロの爆発的な感染が懸念されるとして「危険なイベントを即刻中止するよう求める」というもの。
都庁で開いた記者会見で上野はこう言ったという。
「多くの人が中止を求めている中で、強行開催するのは正気の沙汰ではない。最後まで中止を訴えていく」
私もあきらめず、最後まで東京五輪中止を訴えていきたい。
(2021年7月19日)
昔学生時代に復帰前の沖縄に1か月余の滞在をしたことがある。そのとき、特別なニュアンスで「異民族支配」という言葉を何度も聞かされた。「日の丸」が、復帰運動のシンボルだった時代の話である。
ナショナリズムとは、思想でもイデオロギーでもない。おそらくは信仰に近い感情的な精神現象であろう。私自身は、そのナショナリズムの呪縛から比較的自由な立場にあると思っていたが、当時の沖縄の人が口にする「異民族支配」という言葉の忌まわしさには共感せざるを得なかった。
異民族支配においては、支配権力の正統性の根拠が被治者の同意や支持に無関係に成立している。だから支配者は被治者の利益に無関心でいられる。被治者多数の批判の声がなかなかに支配者の耳に届かない。そこから、「異民族支配」という言葉の忌まわしさが生まれる。
私の古い記憶の地層の底にある、その忌まわしさを今思い出している。IOC会長トーマス・バッハの言動に接して、である。そして、バッハをのさばらせている我が国の首相や都知事の不甲斐なさに接して、でもある。こいつ、本当に嫌な奴だ、こいつら本当に情けない奴らだ、と思わざるを得ない。
既に、オリンピックのイメージは泥にまみれ、IOCの権威も地に落ちた。バッハという人物を知らないうちはなんの批判もなかったが、この「ぼったくり男爵」の独善ぶり、高慢さがよく分かってきた。それにしても、なにゆえにこんなときに愚かな五輪の強行かと、腹が立ってならない。この人の発言の度に、「異民族支配」の忌まわしさが甦る。
「(緊急事態宣言は)東京オリンピックとは関係ない」(4月21日)、「我々はいくつかの犠牲を払わなければならない」(5月22日)、「国内の感染状況が改善した場合は観客を入れての開催を」(7月14日)、そして「日本の方は大会が始まれば歓迎してくれると思う。アスリートを温かく歓迎し、応援してください」(7月18日)というノーテンキな軽忽さ。日本国民の怒りの空気の読めなさは、天性の傲慢の故なのか、それとも生来の遅鈍のゆえなのだろうか。
昨日(7月18日)の報道では、バッハは記者団に「安全な五輪開催に自信」と述べたという。そして、話題になったのは、「五輪関係者の感染は0・1%」という安全・安心の根拠だ。
国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は17日、東京で行われた理事会後に記者会見を開き、23日に開幕する東京オリンピック(五輪)が安全・安心に実施できるとあらためて自信を示した。マスク姿で会場に現れたバッハ会長は、根拠として大会組織委員会からの報告データを持ち出した。
「7月1日から16日までに入国した選手や関係者は約1万5千人で、新型コロナウイルス感染が確認されたのは15人。0・1%と低い確率だ。これを見れば対策は整っているし、機能している」
この「1万5千人の母集団からの感染者15人、率にして0・1%」は、決して低い数値ではない。むしろ、既に許容されざるリスクが顕在化した危険な値なのだ。おそらくは、組織委員会の担当者はこの数値の高さに困惑したに違いない。が、ものの分からない異民族支配者は、この数値を安全・安心の根拠とした。
政府の分科会は、感染状況の深刻度の最も分かり易い指標として、「直近1週間の人口10万人あたりの感染者数」を設定して、毎日国民に報告している。
バッハが最近1週間の感染者数を発表してくれれば、比較は容易なのだがそうはさせてくれない。我々は大本営発表の数値しか与えられていないが、結論としての0・1%は、10万人当たりとすると100人である。これは本格的な選手団来日以前の感染者数(率)として驚くべき数値なのだ。
分科会指標を、「7月1日から16日までに入国した選手や関係者約1万5千人のうち、新型コロナウイルス感染が確認されたのは15人」に当てはめてみよう。「7月1日から16日までに、毎日傾斜的に増加して入国した選手や関係者数の累計が1万5千人だから、この間の平均人数を7500人と仮定する。「7月1日から16日まで」を、ほぼ2週間とすれば、7500人の母集団から、一週間では7.5人の感染者を出したことになる。これを10万人当たりに換算すれば、
7.5人×10万人÷0.75万人=100人となる。
周知のとおり、この数値が「25人以上」になると、感染状況が最も深刻な「ステージ4」となる。また、「15人以上」が感染者が急増している段階である「ステージ3」に相当することになる。
16日を2週間としたことに対する批判を容れて修正すれば、
100人÷16日×14日=88人
となって大差はない。
昨日(7月18日)の都道府県別でのこの指標でのレベル4に達しているのは1都2県。最高値は、東京都の53.7人である。来日オリンピック関係者群は、その倍近い濃密な感染者集団なのだ。
なお、バブル方式とは、バブルの内側は徹底してクリーンであることを当然の前提として、バブルの外部からのバブル内部へのウィルス侵入を防いで、バブル内部のクリーンを保持しようとするコンセプトに基づくものである。ところが、既にバブルの内側が外よりも遙かに深刻な汚染状態にあることが明らかになったのである。既に、内外を遮蔽するバブルの存在は、まったく意味をなさない。選手村は、巨大なダイヤモンド・プリンセス号となっているのだ。
しかも、今後、この感染状況はさらに急激に深刻化することが予想されている。バッハによる異民族支配のリスクが、さらに顕在化しつつあるのだ。
(2021年7月18日)
小堀桂一郎という人物がいる。ドイツ文学者で東京大学名誉教授だそうだが、専門分野の業績についてはよく知らない。世に知られているのは、右翼言論人としてである。ウィキペディアには、「歴史教科書問題などが顕在化した1980年代初頭より歴史認識問題などへの発言を開始し、著名な保守系の論客となる。」と記されている。なるほど、右翼と言わずに保守系か。そして、ふーん、「論客」なんだこの人。
私の印象は、恐ろしくもったいぶった古めかしい文体で無内容なことを断定的に書く人というところ。自分は、こんな虚仮威しの文章を書く人にはなりたくないという、反面教師のおひとりである。
ところで、何を切っ掛けにいつからだったかはもう忘れたが、「産経ニュースメールマガジン」が、私にも毎日配信されている。その7月9日号のコラム「正論」欄に、小堀桂一郎の「政教分離原則の根本的再検討を」という一文が紹介されている。《「孔子廟訴訟」の違憲判決》を機に、「右翼の論客が政教分離原則の根本的再検討を論じる」という触れこみなのだから、興味をそそるではないか。
しかし、これが見かけ倒し。いかにも右翼の文体という、おっそろしく古風な筆致で、内容には何の説得力もない。まず、批判のマナーとして、できるだけ正確に、「小堀論文」を引用して、私の感想を述べておきたい。
《まつりごとの意味は》
この慶事(日本人の宗教心の起源が縄文時代の文明の内にある事を普通教育の教科書【自由社版】が明記したことー澤藤註)の背景には言ふまでもなく近年の考古学的遺跡発掘の包括的且(か)つ精密な学術情報の整理、出土品に対する形態学上の解釈の進歩、人類学の視点からしての形態意味解明の驚くべき成功の実績がある。其等に依(よ)れば、集落の住居址の発掘からは縄文時代人が既に立派な葬送と祖霊崇拝の文化を有してゐた事が判明した。
又、先史時代の物的資料として学界の研究対象となつて以来130年余り、その作因も用途も不明だつた奇怪な形状の土偶が、実は食用植物や漁撈(ぎよろう)の収穫たる魚介類を模して作られた一種の祭具であるとの明快な説明も為(な)された(竹倉史人『土偶を読む』)。
最近の学説の更なる紹介は紙面の制約上できないが、結論のみを言へば、縄文文化は現代の我々と同じ日本人の歴史のうちであり、その時代に我々の先祖は自然の恵みへの感謝と自己の現存在の原因としての祖先の崇拝といふ「宗教」を有してゐた。そこで人々の営む祭(まつり)は現代の祈年祭や新嘗祭(にいなめさい)の前身であつた。
その祭を行ふ祭祀共同体が村落の、そしてその集合が国家の起源であり、成員を世界観の上で統合し、相互に和合せしめる作業がまつりごとであつた。
日本人の宗教心と実生活に於けるその発現様式である祭祀には、以上の如く約5千年の沿革がある。一方西洋近世に於ける国家と教会の覇権争ひの妥協の所産たる政教分離の思想が輸入され、法制に位置を占めた歴史は漸(ようや)く70年余である。此(こ)の事実を念頭に置いて考へてみれば、宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。
この冗長な文章の趣旨は、「宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。」という一文に尽きる。舌足らずで分かりにくいこの一文に少し言葉を補えば、「伝統的な日本の祭祀を対象として、欧米流の政教分離原則にいう宗教性の存否を、法的に問い、あるいは裁いてはならない」ということ。結局、日本の祭祀を、政教分離原則(憲法20条)という規範で裁くことを拒否しているのだ。
その結論は何とか読み取れるのだが、「自明」とまでいうその理由ないし根拠はさっぱり分からない。「祭祀には約5千年の沿革がある。一方政教分離が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余(に過ぎない)」という一文だけが《理由》としか読みようがない。これは、恐るべき没論理というにとどまらない、恐るべき法の支配への無理解であり、立憲主義への挑戦でもある。さすがに、右翼言論人の論客の論説。
没論理は一見自明である。小堀は、こうも言うのであろうか。
「男女の不平等には日本開闢以来の沿革がある。一方欧米の両性の平等が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余に過ぎないから、性による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
「身分制の秩序と身分差別は、人類が権力構造をつくって以来の長い々い沿革がある。一方社会の成員の平等を謳った法制は市民革命後の短い歴史しかもたない。それゆえ、身分による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
「人類は、発祥以来戦争を重ねてきた。戦争の歴史は人類の歴史といっても過言ではない。一方、国際法が戦争を違法化し、一部の国内法がこれに続いたのは、せいぜい最近100年のことに過ぎない。それゆえ、戦争や戦争犯罪を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
法的な規制は、それまでは見過ごされてきた弊害を伴う慣行や社会的事象を看過しがたいとして立法化される。法的規制の理念が、規制対象の社会的事実よりも歴史が浅いのは、事理の当然である。日本国憲法における政教分離原則は、戦前に猖獗を極めた天皇教(=国家神道、天皇とその祖先神を神聖とする信仰とこれを利用した国家の癒着体制)の害悪を廃絶するとともに、再び天皇教が復活することを予防する制度的な歯止めである。飽くまで、政教分離は厳格でなくてはならない。
これを小堀は、「祭祀には約5千年の沿革がある。裁判所はその宗教性の有無の判断をしてはならない」というのだ。小堀流論説は、政教分離原則の全面否定である。要するにこの人、日本人の祭祀を憲法で裁かせたくはないのだ。この人の頭の中には、縄文以来の祭祀こそが日本人の精神の神髄であり、村落共同体と天皇制国家の起源であるという凝り固まった考えがある。この神聖な祭祀を日本国憲法ごときに裁かせてはならないというのだ。
これは明らかに、小堀桂一郎流の、憲法無効宣言であり、憲法破壊宣言にほかならない。なるほど、「著名な保守系の論客」なればこその論説である。
(2021年7月17日)
わたし、トーマス・バッハです。IOCの輝ける会長ですよ。できることならバッハ閣下と呼んでいただきたい。わたしゃ、並みの国家元首よりもエラいんだから。
ところが、最近、チャイニーズ・ピープルの、いやジャパニーズの皆さんの、わたしに対する敬意がまったく感じられない。小馬鹿にしたような、うさんくさいものを見るようなその目つきが気に入らない。中には敵意剥き出しの者さえいる。こんなことで、本当に日本はいいんでしょうか。まことに遺憾に存ずる次第です。
わたしもそれほどのバカじゃない。日本人との付き合い方については、来日以前にそれなりの研究もし、専門家のアドバイスも受けてきました。その結論は下記の三つ。
「日本人はこちらが高飛車に出れば恐れ入る。だから常に上から目線の姿勢を貫け」
「日本人は、天皇や首相や知事などの権威に弱い。だから、わたしが天皇や首相や知事などの権威と同等の立場にあることを見せつけることが肝要」
「日本人は情にもろい。だから、わたしが平和主義者であり、オリンピックが平和の祭典であることをアピールしさえすれば、チョロいもの」
来日以来、これを頑なに実践しているのですがね、することなすこと悉くうまく行かない。不満だらけ。急激にわたしに対する日本国民の態度が冷淡になってきている。間近に迫ったオリンピックにも、悪罵が投げつけられている。そろそろ、わたしにも我慢の限度というものがあることを申し上げねばならない。
不満の第一は、わたしに対する呼び方の問題だ。誰も、閣下とは呼んでくれない。まあ、それはいたしかたないとして、「ボッタクリ男爵」「コロナ男爵」「疫病神」「死に神バッハ」「うそつきバッハ」と、散々。中には「バッカじゃないか」とも。その一つひとつが、グサリと思い当たるから、タチが悪い。
そして、どこに行っても、「バッハは帰れ!」「東京五輪即時中止」「オリンピックやめろ」「IOCはぼったくりをやめろ」「IOCに殺されてたまるか」のプラカードとシュプレヒコール。
とりわけ昨日(7月16日)は、広島で、「バッハはヒロシマに来るな」「広島はバッハを歓迎しない」「平和をバッハの野望に利用するな」「被爆地を五輪に利用するな」「どこが平和の祭典だ」「被曝者を傷付けるな」「CANCEL THE TOKYO OLYMPICS」の大合唱。皆さん、あんなに熱心に賄賂まで使って東京への五輪招致活動をしたことをお忘れか。東京2020が決まったときには、皆さんあんなにも喜んだではないですか。それを今さら何をいうのか、理解できませんね。
一昨日(7月15日)には、わたしに「嘘つき!」ですよ。そりゃそう言われて思い当たるところがないわけではない。しかし、このわたしに面とむかって、ジャーナリスト風情が、「嘘つき!」という面罵。ホストには反省してもらわねばならない。
あれは、小池都知事との会談での写真撮影の時。会場にいた男性が突然、わたしに向かって、大声で叫んだのです。
「President Bach,You are liar! Airport is dangerous! Bubble is broken!」
という言葉。ウーン、確かに、バブルは崩壊しているし、空港での水際対策は失敗して危険な状態であることは、事実として認めざるを得ない。
とすれば、「コロナのリスクをわれわれが持ち込むことは絶対にない」とした14日菅総理との会談でのわたしの発言。ありゃあウソと言えばウソに違いない。だから、「バッハ、あんたは嘘つきだ。空港は危険だ。バブルは崩壊している」と言われるのもごもっとも。ごもっともだけど、外ならぬわたしに対して失礼じゃないか。
そう言えば、菅首相との会談では、わたしの《新型コロナの感染状況が改善した場合は観客入場を検討してほしいと要望》がKYだとして、批判炎上したと聞かされた。緊急事態宣言で青息吐息の日本中の業者から怒りの声が巻き上がっているのだそうだ。
でもね、わたしゃ緊急事態宣言などという日本のローカルルールついては、何も知らないし、関心もない。わたしは、IOCの会長として、IOCの利益のために発言をしているだけ。
ご存知でしょう。「我が亡き後に洪水よ来たれ」という箴言。これが高貴な人の態度なのですよ。もちろんわたしも、同じ見解です。大きな声では言えませんが、ホンネのところは、つつがなく東京五輪で稼がせてもらうことができさえすれば、五輪後の東京にいかにコロナが蔓延しようとも、わたしの知ったことではないのです。
ただ困るのは、「コロナ禍での東京五輪反対」だけでなく、パンデミックがあろうとなかろうと『オリンピックの正体見ちゃった。もう、これからはすべてのオリンピックに反対』という国際世論が蔓延して拡大すること。でも、…もう手遅れかも…。
(2021年7月16日)
本日から、「表現の不自由展かんさい」が始まった。なるほど、この社会の「表現の不自由」をよく示す企画展になった。この国の「法治」が危ういことも教えている。そして、何よりも、この企画を通して表現の自由を守るには覚悟と努力が必要なことを学ばねばならない。
いつの世にも、表現の自由を巡ってのせめぎ合いが絶えることはない。一方に自由な表現を希求する表現者が必ずあり、他方にその表現を不都合とする権力が必ずある。表現の自由を嫌うのは、権力というものの宿命と思うべきであろう。
いま、この表現者対権力という古典的な構造は必ずしも、露骨に目に見える形にはなっていない。権力は、表現の自由尊重の体裁をとらざるを得ないからだ。権力者は表現の自由尊重のポーズをとりつつも、理由あってやむなく表現の自由を制約せざるを得ない、と言い訳しながら表現の自由を圧殺する。
表現の自由に対する敵対者はいくつかに役割を分担し分業しているのだ。脅迫文を郵送したり街宣車で恫喝したりの直接的な妨害行為に出る役割の者、世論を装って電話やファックスでのクレームを繰り返す者、そしての妨害行為やクレームを口実に表現の自由を圧殺する権力本体。この三者の暗黙のチームプレイ。今や常套手段となった権力のこの手口にごまかされてはならない。
「表現の不自由展かんさい」の会場は、大阪府所有の施設「エル・おおさか」。なんの問題もなく、会場を借りることができた。ところが、展覧会に対する抗議の電話や右翼の街宣活動が相次いだことを受けて、指定管理者(公的施設の管理を受託している民間業者)が6月25日、「安全確保が困難だ」として会場利用承認を取り消した。この問題で指定管理者が独自の判断をできるはずはない。大阪府の判断と受けとめるべきが当然である。この段階から、大阪府知事吉村洋文の姿勢が問われ続けている。
吉村には二つの選択肢があった。一つは、職員を配置し、警察を動員してでも、断乎たる姿勢で『表現の自由の妨害を許さない』とすること。おそらく、そうすれば、彼の評価は変わっていただろう。しかし、彼はそうしなかった。吉村が選択したのはもう一つの選択肢、つまり、「表現の自由尊重のポーズをとりつつも、抗議の電話や右翼の街宣を口実に、やむなく表現の自由を制約せざるを得ないと言い訳しながら表現の自由を圧殺する」ことであった。
不自由展の実行委員会は、6月30日やむなく大阪地裁に、「会場利用承認取り消し処分」の取消を求めて提訴し、同時に執行停止(民事訴訟の仮処分に相当する)を申し立てた。結果は目に見えていた。7月9日、大阪地裁は執行停止を申立を認める決定をした。「警察の適切な警備などによっても混乱を防止することができない特別な事情があるとは言えない」との理由で、「不自由展」の会場利用を認めたのだ。この日吉村は記者団に「最終判断は(施設の)指定管理者になるが、内容に不服があるので抗告することになる」と自らの意思を語っている。
この決定を不服として、7月12日事実上大阪府が、大阪高裁への即時抗告を申し立てた。名古屋市で開催された展覧会で会場の施設に届いた郵便物が破裂し、臨時休館となったことを挙げて「警備を強化して対応できるレベルを超えた実力行使により負傷者が出る具体的な危険がある」などと主張したという。名古屋の右翼の妨害行為も吉村の主張を援護することになるのだ。
また、吉村は、「施設所有者として管理権があり、裁量がある。施設には保育所もあり、労働相談も受けている。施設利用者を守っていく役割がある。管理権として利用停止を判断する権限はある」と主張。「地裁では認められなかったので、高裁に判断を求めていきたい」とも言っている。「卑劣な表現の自由への妨害者をけっして許さない」「あらゆる手立てを尽くして表現の自由を守る」とは言わないのだ。
それでも、昨日(7月15日)大阪高裁が即時抗告を棄却した。吉村はこれに従わざるをえないとしながらも、なお、最高裁に特別抗告をするという。
なお吉村は、2019年開催の「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の際に、同様の展示を「反日プロパガンダ」と酷評していた。そして今なお、「僕自身の評価は変わりません」と言っている。
その彼の見解は、下記の彼の発言によく表れている。
「僕自身は愛知で行われている時に否定的な意見も言っている。だからといって、施設利用は認めないのはあってはならないし、表現の中身に踏み込むつもりはない。でも、かなり不快に思う人はたくさんいる。その人たちにも理由があって、そこでぶつかることもありえる。表現の不自由展をやってる方が自分たちが正義だと思っているのは分かるが、そうじゃない人の正義もある」
彼は、この問題を、「表現の不自由展をやってる方の正義」と「表現の不自由展を不快に思うたくさんの人の正義」との衝突という図式でとらえているようである。が、問題は「誰の正義が真の正義か」ではない。誰にも表現の自由は保障されている。一方には、妨害を受けることなく表現の不自由展企画し実行するする自由が、そして他方にはこの展覧会を批判する表現の自由が保障されなければならない。そして言うまでもなく、互いに実力で相手の表現を妨害することは決して許されない。表現の不自由展を企画し実行する自由が制約される理屈は成り立たない。
吉村のコメントは、「表現の自由を不快に思う」人々の気持を肯定しこれに肩入れする立場から、展覧会の開催の自由を何とか制約したいとする心情に溢れている。「かなり不快に思う人はたくさんいる。その人たちにも理由があって、そこでぶつかることもありえる」という表現で、展覧会の開催の妨害にも首肯すべき理由があり、会場使用承認取消にも十分な理由があるとの判断の伏線となつている。そのような心情と論理で、実行委が提起した取消訴訟の提起にも、執行停止の申し立てにも対応している。
結局は、公権力が右翼の実力による展覧会妨害行為に理解を示しつつ、右翼の妨害行為の及ぼす危険を根拠に、会場使用承認の取消を合理化しようとしているのだ。この点、右翼との連携による暗黙のチームプレイの構造を見抜かねばならない。
(2021年7月15日)
東京五輪開会まであと10日。本日の東京のコロナ新規感染者数は1308名。小池百合子は、疫病神バッハとおしゃべりなどする暇があったら、感染対策に奔走しなければならない。コロナ禍を押してまで、やろうと言う恐るべきオリンピックとはいったい何なのか。
一昨日(7月13日)発表の東京五輪に関する国際世論調査が、各紙に紹介されている。朝日は、「東京五輪「反対」28カ国で57% 米仏など世論調査」という見出し。共同通信は、「五輪開催反対57%、日本78% 28カ国世論調査」だ。「色褪せた東京五輪」「中止すべき東京五輪」というのは、開催国日本での印象だけではない。世界中が同意見なのだ。それだけでない。この調査、細部を見るとなかなかに興味深い。オリンピックの性格を読むこともできそうだ。
この世論調査は、グローバル・マーケティング・リサーチ会社IPSOS(本社・パリ)が行ったもの。国際的な世論調査も仕事の内だという。13日、米国やフランスなど28カ国を対象にした、今夏の東京五輪についての世論調査結果を明らかにした。28カ国の計1万9510人が回答したという規模の大きなオンライン調査だが、実施日は5月21日?6月4日だというからやや古い。最新の意識調査ではないのは惜しい。
東京五輪に関心があるかとの質問には「まったくない」(29%)、「それほどない」(25%)の合計が、「ややある」(30%)、「とてもある」(16%)の合計を上回った。五輪への関心が高かった上位3カ国はインド(70%)、南アフリカ(59%)、中国(57%)で、ベルギー(28%)、韓国(30%)、日本(32%)が下位3カ国だった。
2022年に北京冬季五輪を控える中国は57%が「関心がある」と回答した一方、24年パリ夏季五輪を開催するフランスは、68%が「関心がない」と答えている。
この中仏の対比は興味深い。直接的にはフランスと中国との、国民意識の多様性の差だが、多様性は成熟度と言い換えても大きくはな間違ってないと思う。最大人口国家中国は、国民意識の均質化ないし統合化が顕著なのだ。伝統的国民性というものではあるまい。国民意識統合操作が成功している結果と見るべきだろう。
東京五輪開催の是非については、28カ国の平均で「開催すべき」と答えた人は43%、「開催すべきでない」と答えた人は57%。反対の市民は、韓国(86%)、日本(78%)、カナダ(68%)で多かった。米国は48%が反対だった。東京五輪開催の支持率が高いのは、トルコ(71%)、サウジアラビア(66%)、ロシア(61%)、ポーランド(60%)。開催国である日本での「開催すべき」が22%、「開催すべきでない」が78%は、ほぼ実感の通り。
注目すべきは、中国の東京五輪賛成派は41%にとどまり、59%が反対であること。つまり、「オリンピックに関心はあるが、東京五輪開催には反対」というのが、中国人の意見の代表なのだ。
オリンピック選手に優先的に新型コロナウイルスのワクチン接種を行うべきだという意見に同意か否かを問う質問がある。これに、平均71%が賛成している。賛成多数の国を並べると、中国(92%)、サウジアラビア(89%)、インド(88%)、トルコ(87%)となり、ドイツ(50%)、イギリス(52%)、ベルギー(54%)、オランダ(56%)の順で低い結果となっている。
また、オリンピックは「国を団結させる」という意見への同意の有無を聞いている。厳密には、客観的認識についての質問か、賛同の意見を聞いているのか分かりにくいが、全体の65%がこれに同意している。
国によって回答のばらつきは大きく、賛同上位国は、中国(92%)、インド(84%)が突出している。日本が賛同36%で、ドイツ(37%)とともに最下位であることは、現在のコロナかでの五輪当事国としてオリンピックのバカバカしさに直面しているという事情があるとは言え、誇って良いことだと思う。
確かに、オリンピックには各国の国民統合作用がある。権力にとって、オリンピックに感激し、自国の国旗を打ち振る国民は、御しやすさにおいて大歓迎なのだ。オリンピックこそは、ナショナリズム発揚の最高の舞台である。
しかし、東京2020は、はからずもコロナ禍によってその神話崩壊の第一歩となったのではないか。成熟した市民は、オリンピックごときに精神の動員を受け付けないのだ。そして思う。2022北京冬季五輪が、この神話復活の舞台となることはないだろうか。