澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

バッハという「異民族支配者」の忌まわしさ

(2021年7月19日)
 昔学生時代に復帰前の沖縄に1か月余の滞在をしたことがある。そのとき、特別なニュアンスで「異民族支配」という言葉を何度も聞かされた。「日の丸」が、復帰運動のシンボルだった時代の話である。

 ナショナリズムとは、思想でもイデオロギーでもない。おそらくは信仰に近い感情的な精神現象であろう。私自身は、そのナショナリズムの呪縛から比較的自由な立場にあると思っていたが、当時の沖縄の人が口にする「異民族支配」という言葉の忌まわしさには共感せざるを得なかった。

 異民族支配においては、支配権力の正統性の根拠が被治者の同意や支持に無関係に成立している。だから支配者は被治者の利益に無関心でいられる。被治者多数の批判の声がなかなかに支配者の耳に届かない。そこから、「異民族支配」という言葉の忌まわしさが生まれる。

 私の古い記憶の地層の底にある、その忌まわしさを今思い出している。IOC会長トーマス・バッハの言動に接して、である。そして、バッハをのさばらせている我が国の首相や都知事の不甲斐なさに接して、でもある。こいつ、本当に嫌な奴だ、こいつら本当に情けない奴らだ、と思わざるを得ない。

 既に、オリンピックのイメージは泥にまみれ、IOCの権威も地に落ちた。バッハという人物を知らないうちはなんの批判もなかったが、この「ぼったくり男爵」の独善ぶり、高慢さがよく分かってきた。それにしても、なにゆえにこんなときに愚かな五輪の強行かと、腹が立ってならない。この人の発言の度に、「異民族支配」の忌まわしさが甦る。

 「(緊急事態宣言は)東京オリンピックとは関係ない」(4月21日)、「我々はいくつかの犠牲を払わなければならない」(5月22日)、「国内の感染状況が改善した場合は観客を入れての開催を」(7月14日)、そして「日本の方は大会が始まれば歓迎してくれると思う。アスリートを温かく歓迎し、応援してください」(7月18日)というノーテンキな軽忽さ。日本国民の怒りの空気の読めなさは、天性の傲慢の故なのか、それとも生来の遅鈍のゆえなのだろうか。

 昨日(7月18日)の報道では、バッハは記者団に「安全な五輪開催に自信」と述べたという。そして、話題になったのは、「五輪関係者の感染は0・1%」という安全・安心の根拠だ。

 国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は17日、東京で行われた理事会後に記者会見を開き、23日に開幕する東京オリンピック(五輪)が安全・安心に実施できるとあらためて自信を示した。マスク姿で会場に現れたバッハ会長は、根拠として大会組織委員会からの報告データを持ち出した。
 「7月1日から16日までに入国した選手や関係者は約1万5千人で、新型コロナウイルス感染が確認されたのは15人。0・1%と低い確率だ。これを見れば対策は整っているし、機能している」

 この「1万5千人の母集団からの感染者15人、率にして0・1%」は、決して低い数値ではない。むしろ、既に許容されざるリスクが顕在化した危険な値なのだ。おそらくは、組織委員会の担当者はこの数値の高さに困惑したに違いない。が、ものの分からない異民族支配者は、この数値を安全・安心の根拠とした。

 政府の分科会は、感染状況の深刻度の最も分かり易い指標として、「直近1週間の人口10万人あたりの感染者数」を設定して、毎日国民に報告している。

 バッハが最近1週間の感染者数を発表してくれれば、比較は容易なのだがそうはさせてくれない。我々は大本営発表の数値しか与えられていないが、結論としての0・1%は、10万人当たりとすると100人である。これは本格的な選手団来日以前の感染者数(率)として驚くべき数値なのだ。

 分科会指標を、「7月1日から16日までに入国した選手や関係者約1万5千人のうち、新型コロナウイルス感染が確認されたのは15人」に当てはめてみよう。「7月1日から16日までに、毎日傾斜的に増加して入国した選手や関係者数の累計が1万5千人だから、この間の平均人数を7500人と仮定する。「7月1日から16日まで」を、ほぼ2週間とすれば、7500人の母集団から、一週間では7.5人の感染者を出したことになる。これを10万人当たりに換算すれば、
 7.5人×10万人÷0.75万人=100人となる。

 周知のとおり、この数値が「25人以上」になると、感染状況が最も深刻な「ステージ4」となる。また、「15人以上」が感染者が急増している段階である「ステージ3」に相当することになる。

 16日を2週間としたことに対する批判を容れて修正すれば、
  100人÷16日×14日=88人
となって大差はない。

 昨日(7月18日)の都道府県別でのこの指標でのレベル4に達しているのは1都2県。最高値は、東京都の53.7人である。来日オリンピック関係者群は、その倍近い濃密な感染者集団なのだ。

 なお、バブル方式とは、バブルの内側は徹底してクリーンであることを当然の前提として、バブルの外部からのバブル内部へのウィルス侵入を防いで、バブル内部のクリーンを保持しようとするコンセプトに基づくものである。ところが、既にバブルの内側が外よりも遙かに深刻な汚染状態にあることが明らかになったのである。既に、内外を遮蔽するバブルの存在は、まったく意味をなさない。選手村は、巨大なダイヤモンド・プリンセス号となっているのだ。

 しかも、今後、この感染状況はさらに急激に深刻化することが予想されている。バッハによる異民族支配のリスクが、さらに顕在化しつつあるのだ。

小堀桂一郎流の憲法破壊宣言

(2021年7月18日)
 小堀桂一郎という人物がいる。ドイツ文学者で東京大学名誉教授だそうだが、専門分野の業績についてはよく知らない。世に知られているのは、右翼言論人としてである。ウィキペディアには、「歴史教科書問題などが顕在化した1980年代初頭より歴史認識問題などへの発言を開始し、著名な保守系の論客となる。」と記されている。なるほど、右翼と言わずに保守系か。そして、ふーん、「論客」なんだこの人。

 私の印象は、恐ろしくもったいぶった古めかしい文体で無内容なことを断定的に書く人というところ。自分は、こんな虚仮威しの文章を書く人にはなりたくないという、反面教師のおひとりである。

 ところで、何を切っ掛けにいつからだったかはもう忘れたが、「産経ニュースメールマガジン」が、私にも毎日配信されている。その7月9日号のコラム「正論」欄に、小堀桂一郎の「政教分離原則の根本的再検討を」という一文が紹介されている。《「孔子廟訴訟」の違憲判決》を機に、「右翼の論客が政教分離原則の根本的再検討を論じる」という触れこみなのだから、興味をそそるではないか。

 しかし、これが見かけ倒し。いかにも右翼の文体という、おっそろしく古風な筆致で、内容には何の説得力もない。まず、批判のマナーとして、できるだけ正確に、「小堀論文」を引用して、私の感想を述べておきたい。

《まつりごとの意味は》
この慶事(日本人の宗教心の起源が縄文時代の文明の内にある事を普通教育の教科書【自由社版】が明記したことー澤藤註)の背景には言ふまでもなく近年の考古学的遺跡発掘の包括的且(か)つ精密な学術情報の整理、出土品に対する形態学上の解釈の進歩、人類学の視点からしての形態意味解明の驚くべき成功の実績がある。其等に依(よ)れば、集落の住居址の発掘からは縄文時代人が既に立派な葬送と祖霊崇拝の文化を有してゐた事が判明した。
又、先史時代の物的資料として学界の研究対象となつて以来130年余り、その作因も用途も不明だつた奇怪な形状の土偶が、実は食用植物や漁撈(ぎよろう)の収穫たる魚介類を模して作られた一種の祭具であるとの明快な説明も為(な)された(竹倉史人『土偶を読む』)。
最近の学説の更なる紹介は紙面の制約上できないが、結論のみを言へば、縄文文化は現代の我々と同じ日本人の歴史のうちであり、その時代に我々の先祖は自然の恵みへの感謝と自己の現存在の原因としての祖先の崇拝といふ「宗教」を有してゐた。そこで人々の営む祭(まつり)は現代の祈年祭や新嘗祭(にいなめさい)の前身であつた。
その祭を行ふ祭祀共同体が村落の、そしてその集合が国家の起源であり、成員を世界観の上で統合し、相互に和合せしめる作業がまつりごとであつた。
日本人の宗教心と実生活に於けるその発現様式である祭祀には、以上の如く約5千年の沿革がある。一方西洋近世に於ける国家と教会の覇権争ひの妥協の所産たる政教分離の思想が輸入され、法制に位置を占めた歴史は漸(ようや)く70年余である。此(こ)の事実を念頭に置いて考へてみれば、宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。

 この冗長な文章の趣旨は、「宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。」という一文に尽きる。舌足らずで分かりにくいこの一文に少し言葉を補えば、「伝統的な日本の祭祀を対象として、欧米流の政教分離原則にいう宗教性の存否を、法的に問い、あるいは裁いてはならない」ということ。結局、日本の祭祀を、政教分離原則(憲法20条)という規範で裁くことを拒否しているのだ。

 その結論は何とか読み取れるのだが、「自明」とまでいうその理由ないし根拠はさっぱり分からない。「祭祀には約5千年の沿革がある。一方政教分離が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余(に過ぎない)」という一文だけが《理由》としか読みようがない。これは、恐るべき没論理というにとどまらない、恐るべき法の支配への無理解であり、立憲主義への挑戦でもある。さすがに、右翼言論人の論客の論説。

 没論理は一見自明である。小堀は、こうも言うのであろうか。
 「男女の不平等には日本開闢以来の沿革がある。一方欧米の両性の平等が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余に過ぎないから、性による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
 「身分制の秩序と身分差別は、人類が権力構造をつくって以来の長い々い沿革がある。一方社会の成員の平等を謳った法制は市民革命後の短い歴史しかもたない。それゆえ、身分による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
 「人類は、発祥以来戦争を重ねてきた。戦争の歴史は人類の歴史といっても過言ではない。一方、国際法が戦争を違法化し、一部の国内法がこれに続いたのは、せいぜい最近100年のことに過ぎない。それゆえ、戦争や戦争犯罪を法的に問ふ事の非は自明であらう。」

 法的な規制は、それまでは見過ごされてきた弊害を伴う慣行や社会的事象を看過しがたいとして立法化される。法的規制の理念が、規制対象の社会的事実よりも歴史が浅いのは、事理の当然である。日本国憲法における政教分離原則は、戦前に猖獗を極めた天皇教(=国家神道、天皇とその祖先神を神聖とする信仰とこれを利用した国家の癒着体制)の害悪を廃絶するとともに、再び天皇教が復活することを予防する制度的な歯止めである。飽くまで、政教分離は厳格でなくてはならない。

 これを小堀は、「祭祀には約5千年の沿革がある。裁判所はその宗教性の有無の判断をしてはならない」というのだ。小堀流論説は、政教分離原則の全面否定である。要するにこの人、日本人の祭祀を憲法で裁かせたくはないのだ。この人の頭の中には、縄文以来の祭祀こそが日本人の精神の神髄であり、村落共同体と天皇制国家の起源であるという凝り固まった考えがある。この神聖な祭祀を日本国憲法ごときに裁かせてはならないというのだ。

 これは明らかに、小堀桂一郎流の、憲法無効宣言であり、憲法破壊宣言にほかならない。なるほど、「著名な保守系の論客」なればこその論説である。

「東京五輪閉会後に、コロナ禍よ来たれ」

(2021年7月17日)
 わたし、トーマス・バッハです。IOCの輝ける会長ですよ。できることならバッハ閣下と呼んでいただきたい。わたしゃ、並みの国家元首よりもエラいんだから。

 ところが、最近、チャイニーズ・ピープルの、いやジャパニーズの皆さんの、わたしに対する敬意がまったく感じられない。小馬鹿にしたような、うさんくさいものを見るようなその目つきが気に入らない。中には敵意剥き出しの者さえいる。こんなことで、本当に日本はいいんでしょうか。まことに遺憾に存ずる次第です。

 わたしもそれほどのバカじゃない。日本人との付き合い方については、来日以前にそれなりの研究もし、専門家のアドバイスも受けてきました。その結論は下記の三つ。

 「日本人はこちらが高飛車に出れば恐れ入る。だから常に上から目線の姿勢を貫け」

 「日本人は、天皇や首相や知事などの権威に弱い。だから、わたしが天皇や首相や知事などの権威と同等の立場にあることを見せつけることが肝要」

 「日本人は情にもろい。だから、わたしが平和主義者であり、オリンピックが平和の祭典であることをアピールしさえすれば、チョロいもの」

 来日以来、これを頑なに実践しているのですがね、することなすこと悉くうまく行かない。不満だらけ。急激にわたしに対する日本国民の態度が冷淡になってきている。間近に迫ったオリンピックにも、悪罵が投げつけられている。そろそろ、わたしにも我慢の限度というものがあることを申し上げねばならない。

 不満の第一は、わたしに対する呼び方の問題だ。誰も、閣下とは呼んでくれない。まあ、それはいたしかたないとして、「ボッタクリ男爵」「コロナ男爵」「疫病神」「死に神バッハ」「うそつきバッハ」と、散々。中には「バッカじゃないか」とも。その一つひとつが、グサリと思い当たるから、タチが悪い。

 そして、どこに行っても、「バッハは帰れ!」「東京五輪即時中止」「オリンピックやめろ」「IOCはぼったくりをやめろ」「IOCに殺されてたまるか」のプラカードとシュプレヒコール。

 とりわけ昨日(7月16日)は、広島で、「バッハはヒロシマに来るな」「広島はバッハを歓迎しない」「平和をバッハの野望に利用するな」「被爆地を五輪に利用するな」「どこが平和の祭典だ」「被曝者を傷付けるな」「CANCEL THE TOKYO OLYMPICS」の大合唱。皆さん、あんなに熱心に賄賂まで使って東京への五輪招致活動をしたことをお忘れか。東京2020が決まったときには、皆さんあんなにも喜んだではないですか。それを今さら何をいうのか、理解できませんね。

 一昨日(7月15日)には、わたしに「嘘つき!」ですよ。そりゃそう言われて思い当たるところがないわけではない。しかし、このわたしに面とむかって、ジャーナリスト風情が、「嘘つき!」という面罵。ホストには反省してもらわねばならない。

 あれは、小池都知事との会談での写真撮影の時。会場にいた男性が突然、わたしに向かって、大声で叫んだのです。
 「President Bach,You are liar! Airport is dangerous! Bubble is broken!」
という言葉。ウーン、確かに、バブルは崩壊しているし、空港での水際対策は失敗して危険な状態であることは、事実として認めざるを得ない。

 とすれば、「コロナのリスクをわれわれが持ち込むことは絶対にない」とした14日菅総理との会談でのわたしの発言。ありゃあウソと言えばウソに違いない。だから、「バッハ、あんたは嘘つきだ。空港は危険だ。バブルは崩壊している」と言われるのもごもっとも。ごもっともだけど、外ならぬわたしに対して失礼じゃないか。

 そう言えば、菅首相との会談では、わたしの《新型コロナの感染状況が改善した場合は観客入場を検討してほしいと要望》がKYだとして、批判炎上したと聞かされた。緊急事態宣言で青息吐息の日本中の業者から怒りの声が巻き上がっているのだそうだ。

 でもね、わたしゃ緊急事態宣言などという日本のローカルルールついては、何も知らないし、関心もない。わたしは、IOCの会長として、IOCの利益のために発言をしているだけ。

 ご存知でしょう。「我が亡き後に洪水よ来たれ」という箴言。これが高貴な人の態度なのですよ。もちろんわたしも、同じ見解です。大きな声では言えませんが、ホンネのところは、つつがなく東京五輪で稼がせてもらうことができさえすれば、五輪後の東京にいかにコロナが蔓延しようとも、わたしの知ったことではないのです。

 ただ困るのは、「コロナ禍での東京五輪反対」だけでなく、パンデミックがあろうとなかろうと『オリンピックの正体見ちゃった。もう、これからはすべてのオリンピックに反対』という国際世論が蔓延して拡大すること。でも、…もう手遅れかも…。

表現の自由を侵害する、権力と右翼との暗黙のチームプレイの構造。

(2021年7月16日)
 本日から、「表現の不自由展かんさい」が始まった。なるほど、この社会の「表現の不自由」をよく示す企画展になった。この国の「法治」が危ういことも教えている。そして、何よりも、この企画を通して表現の自由を守るには覚悟と努力が必要なことを学ばねばならない。

 いつの世にも、表現の自由を巡ってのせめぎ合いが絶えることはない。一方に自由な表現を希求する表現者が必ずあり、他方にその表現を不都合とする権力が必ずある。表現の自由を嫌うのは、権力というものの宿命と思うべきであろう。

 いま、この表現者対権力という古典的な構造は必ずしも、露骨に目に見える形にはなっていない。権力は、表現の自由尊重の体裁をとらざるを得ないからだ。権力者は表現の自由尊重のポーズをとりつつも、理由あってやむなく表現の自由を制約せざるを得ない、と言い訳しながら表現の自由を圧殺する。

 表現の自由に対する敵対者はいくつかに役割を分担し分業しているのだ。脅迫文を郵送したり街宣車で恫喝したりの直接的な妨害行為に出る役割の者、世論を装って電話やファックスでのクレームを繰り返す者、そしての妨害行為やクレームを口実に表現の自由を圧殺する権力本体。この三者の暗黙のチームプレイ。今や常套手段となった権力のこの手口にごまかされてはならない。

 「表現の不自由展かんさい」の会場は、大阪府所有の施設「エル・おおさか」。なんの問題もなく、会場を借りることができた。ところが、展覧会に対する抗議の電話や右翼の街宣活動が相次いだことを受けて、指定管理者(公的施設の管理を受託している民間業者)が6月25日、「安全確保が困難だ」として会場利用承認を取り消した。この問題で指定管理者が独自の判断をできるはずはない。大阪府の判断と受けとめるべきが当然である。この段階から、大阪府知事吉村洋文の姿勢が問われ続けている。

 吉村には二つの選択肢があった。一つは、職員を配置し、警察を動員してでも、断乎たる姿勢で『表現の自由の妨害を許さない』とすること。おそらく、そうすれば、彼の評価は変わっていただろう。しかし、彼はそうしなかった。吉村が選択したのはもう一つの選択肢、つまり、「表現の自由尊重のポーズをとりつつも、抗議の電話や右翼の街宣を口実に、やむなく表現の自由を制約せざるを得ないと言い訳しながら表現の自由を圧殺する」ことであった。

 不自由展の実行委員会は、6月30日やむなく大阪地裁に、「会場利用承認取り消し処分」の取消を求めて提訴し、同時に執行停止(民事訴訟の仮処分に相当する)を申し立てた。結果は目に見えていた。7月9日、大阪地裁は執行停止を申立を認める決定をした。「警察の適切な警備などによっても混乱を防止することができない特別な事情があるとは言えない」との理由で、「不自由展」の会場利用を認めたのだ。この日吉村は記者団に「最終判断は(施設の)指定管理者になるが、内容に不服があるので抗告することになる」と自らの意思を語っている。

 この決定を不服として、7月12日事実上大阪府が、大阪高裁への即時抗告を申し立てた。名古屋市で開催された展覧会で会場の施設に届いた郵便物が破裂し、臨時休館となったことを挙げて「警備を強化して対応できるレベルを超えた実力行使により負傷者が出る具体的な危険がある」などと主張したという。名古屋の右翼の妨害行為も吉村の主張を援護することになるのだ。

 また、吉村は、「施設所有者として管理権があり、裁量がある。施設には保育所もあり、労働相談も受けている。施設利用者を守っていく役割がある。管理権として利用停止を判断する権限はある」と主張。「地裁では認められなかったので、高裁に判断を求めていきたい」とも言っている。「卑劣な表現の自由への妨害者をけっして許さない」「あらゆる手立てを尽くして表現の自由を守る」とは言わないのだ。
それでも、昨日(7月15日)大阪高裁が即時抗告を棄却した。吉村はこれに従わざるをえないとしながらも、なお、最高裁に特別抗告をするという。

 なお吉村は、2019年開催の「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の際に、同様の展示を「反日プロパガンダ」と酷評していた。そして今なお、「僕自身の評価は変わりません」と言っている。

 その彼の見解は、下記の彼の発言によく表れている。

「僕自身は愛知で行われている時に否定的な意見も言っている。だからといって、施設利用は認めないのはあってはならないし、表現の中身に踏み込むつもりはない。でも、かなり不快に思う人はたくさんいる。その人たちにも理由があって、そこでぶつかることもありえる。表現の不自由展をやってる方が自分たちが正義だと思っているのは分かるが、そうじゃない人の正義もある」

 彼は、この問題を、「表現の不自由展をやってる方の正義」と「表現の不自由展を不快に思うたくさんの人の正義」との衝突という図式でとらえているようである。が、問題は「誰の正義が真の正義か」ではない。誰にも表現の自由は保障されている。一方には、妨害を受けることなく表現の不自由展企画し実行するする自由が、そして他方にはこの展覧会を批判する表現の自由が保障されなければならない。そして言うまでもなく、互いに実力で相手の表現を妨害することは決して許されない。表現の不自由展を企画し実行する自由が制約される理屈は成り立たない。

 吉村のコメントは、「表現の自由を不快に思う」人々の気持を肯定しこれに肩入れする立場から、展覧会の開催の自由を何とか制約したいとする心情に溢れている。「かなり不快に思う人はたくさんいる。その人たちにも理由があって、そこでぶつかることもありえる」という表現で、展覧会の開催の妨害にも首肯すべき理由があり、会場使用承認取消にも十分な理由があるとの判断の伏線となつている。そのような心情と論理で、実行委が提起した取消訴訟の提起にも、執行停止の申し立てにも対応している。

 結局は、公権力が右翼の実力による展覧会妨害行為に理解を示しつつ、右翼の妨害行為の及ぼす危険を根拠に、会場使用承認の取消を合理化しようとしているのだ。この点、右翼との連携による暗黙のチームプレイの構造を見抜かねばならない。

成熟した市民社会は、オリンピックを道具としたナショナリズム発揚を受け容れない。

(2021年7月15日)
 東京五輪開会まであと10日。本日の東京のコロナ新規感染者数は1308名。小池百合子は、疫病神バッハとおしゃべりなどする暇があったら、感染対策に奔走しなければならない。コロナ禍を押してまで、やろうと言う恐るべきオリンピックとはいったい何なのか。

 一昨日(7月13日)発表の東京五輪に関する国際世論調査が、各紙に紹介されている。朝日は、「東京五輪「反対」28カ国で57% 米仏など世論調査」という見出し。共同通信は、「五輪開催反対57%、日本78% 28カ国世論調査」だ。「色褪せた東京五輪」「中止すべき東京五輪」というのは、開催国日本での印象だけではない。世界中が同意見なのだ。それだけでない。この調査、細部を見るとなかなかに興味深い。オリンピックの性格を読むこともできそうだ。

 この世論調査は、グローバル・マーケティング・リサーチ会社IPSOS(本社・パリ)が行ったもの。国際的な世論調査も仕事の内だという。13日、米国やフランスなど28カ国を対象にした、今夏の東京五輪についての世論調査結果を明らかにした。28カ国の計1万9510人が回答したという規模の大きなオンライン調査だが、実施日は5月21日?6月4日だというからやや古い。最新の意識調査ではないのは惜しい。

 東京五輪に関心があるかとの質問には「まったくない」(29%)、「それほどない」(25%)の合計が、「ややある」(30%)、「とてもある」(16%)の合計を上回った。五輪への関心が高かった上位3カ国はインド(70%)、南アフリカ(59%)、中国(57%)で、ベルギー(28%)、韓国(30%)、日本(32%)が下位3カ国だった。

 2022年に北京冬季五輪を控える中国は57%が「関心がある」と回答した一方、24年パリ夏季五輪を開催するフランスは、68%が「関心がない」と答えている。

 この中仏の対比は興味深い。直接的にはフランスと中国との、国民意識の多様性の差だが、多様性は成熟度と言い換えても大きくはな間違ってないと思う。最大人口国家中国は、国民意識の均質化ないし統合化が顕著なのだ。伝統的国民性というものではあるまい。国民意識統合操作が成功している結果と見るべきだろう。

 東京五輪開催の是非については、28カ国の平均で「開催すべき」と答えた人は43%、「開催すべきでない」と答えた人は57%。反対の市民は、韓国(86%)、日本(78%)、カナダ(68%)で多かった。米国は48%が反対だった。東京五輪開催の支持率が高いのは、トルコ(71%)、サウジアラビア(66%)、ロシア(61%)、ポーランド(60%)。開催国である日本での「開催すべき」が22%、「開催すべきでない」が78%は、ほぼ実感の通り。

 注目すべきは、中国の東京五輪賛成派は41%にとどまり、59%が反対であること。つまり、「オリンピックに関心はあるが、東京五輪開催には反対」というのが、中国人の意見の代表なのだ。

 オリンピック選手に優先的に新型コロナウイルスのワクチン接種を行うべきだという意見に同意か否かを問う質問がある。これに、平均71%が賛成している。賛成多数の国を並べると、中国(92%)、サウジアラビア(89%)、インド(88%)、トルコ(87%)となり、ドイツ(50%)、イギリス(52%)、ベルギー(54%)、オランダ(56%)の順で低い結果となっている。

 また、オリンピックは「国を団結させる」という意見への同意の有無を聞いている。厳密には、客観的認識についての質問か、賛同の意見を聞いているのか分かりにくいが、全体の65%がこれに同意している。

 国によって回答のばらつきは大きく、賛同上位国は、中国(92%)、インド(84%)が突出している。日本が賛同36%で、ドイツ(37%)とともに最下位であることは、現在のコロナかでの五輪当事国としてオリンピックのバカバカしさに直面しているという事情があるとは言え、誇って良いことだと思う。

 確かに、オリンピックには各国の国民統合作用がある。権力にとって、オリンピックに感激し、自国の国旗を打ち振る国民は、御しやすさにおいて大歓迎なのだ。オリンピックこそは、ナショナリズム発揚の最高の舞台である。

 しかし、東京2020は、はからずもコロナ禍によってその神話崩壊の第一歩となったのではないか。成熟した市民は、オリンピックごときに精神の動員を受け付けないのだ。そして思う。2022北京冬季五輪が、この神話復活の舞台となることはないだろうか。

開示されたNHK経営委員会議事録 ー 森下俊三は「もはや辞任は当然」

(2021年7月14日)
 NHK経営委員会議事録開示請求問題とはこういうことだ。報道の自由の旗を高く掲げて自主・自立であるべきNHKの報道番組制作現場に、明らかに違法な外部からの権力的介入が行われた。具体的には、2018年4月「クローズアップ現代+」の、かんぽ生命保険の不正販売報道の続編制作妨害である。

 見える範囲での妨害のルートは、鈴木康雄郵政グループ上級副社長(元総務事務次官)→森下俊三NHK経営委員会委員長代行→NHK経営委員会→上田良一NHK会長→NHK番組制作現場

 NHK経営委員会は、事実上「クローズアップ現代+」についての番組の作り方を注意され郵政に謝罪せざるを得ない立場に追い込まれた。消費者被害告発の有益な番組の制作が批判され、NHKトップが加害企業側に謝罪を余儀なくされたのだ。まさしく、石流れ木の葉が沈む景色である。

 このNHK経営委員会によるNHK会長への「厳重注意」を行ったのが、2018年10月23日経営委員会の席においてのこと。ところが、その議事録が公表されてこなかった。放送法では議事録作成が法的義務とされ、直ちに公表しなければならないとされているにもかかわらず、誰が請求しても出てこなかった。

 ところが、急転直下その議事録が公開となった。切っ掛けは、民事訴訟の提訴であったと思う。100名余のNHK問題に関する市民活動家らが、不開示の場合は提訴することを広言して、2018年10月23日経営委員会議事録を中心とする諸文書に関して、NHK独自に制定された情報開示請求(NHKの定めた制度では、「開示の求め」)に踏み切った。以後の経過は次のとおりである。

 2021年
 4月7日  NHKに対する文書開示の求め
 5月6日  NHK文書開示判断期間延長の連絡
 6月6日  NHK文書開示判断期間再延長の連絡
 6月14日 原告104名文書開示請求の提訴
 7月6日  NHK文書開示判断期間再々延長の連絡
 7月7日  NHK「(一部)文書開示の連絡」書を発送
 7月8日  NHK「(一部)文書開示の連絡」書を受領
 7月9日  開示文書(合計47ページ)受領
 7月10日 毎日新聞社説
 7月13日 朝日新聞社説
 7月13日 衆院総務委員会NHK経営委議事録について質疑
 7月14日 東京新聞社説

7月10日毎日新聞社説は「NHKの議事録開示 経営委の番組介入は明白」と題するもの、7月13日朝日新聞社説は「NHK経営委 視聴者への背信明らか」、そして本日の東京新聞社説は「NHK議事録 番組介入は明らかだ」という表題。なお、東京新聞は、提訴時に6月16日の社説「NHK経営委 議事録公開に応じよ」を出してもいる。

なお、地方紙では7月11日に高知新聞の「【NHK経営委】番組介入は認められない」がある。その末尾で、公開された議事録の内容についてこう言っている。

 当時の上田会長は、公になれば「非常に大きな問題になる」と抵抗している。厳重注意は現場を萎縮させ、それだけで番組介入に等しいとする見方もある。
 厳重注意の問題は、情報開示を拒んだ経営委の姿勢も含め公共放送を担うNHKへの信頼を揺るがせた。経営委の在り方や委員の選任についても検証する必要がある。

 経営委の選任がまことにひどい。これは、安倍晋三の恣意的人事の典型と言ってよいだろう。その恣意的人事が、公共放送を担うNHKへの信頼を揺るがせ、有意義なNHKの番組潰しに加担したのだ。今、誤った人事を象徴するものが、森下俊三の任命であり、再任であり、その委員長職就任である。

東京新聞の末尾を引用させていただく。

 かんぽ生命の不正販売では実に多くの被害者が出た。経営委の姿勢は視聴者をも裏切ったことになる。放送の自主自律を脅かしたことは明らかだ。
 経営委は「議論は非公開が前提だった」ことを理由に、速やかに開示すべき議事録を非開示としてきた。これも放送法の定めに反する。NHKの第三者機関が昨年五月と今年二月に出した「開示すべきだ」との答申も拒んできた。視聴者が提訴した後にようやく開示した。それまで約三年もかかったこと自体が異常である。
 森下委員長は国会でも番組介入を否定していたが、どう言い逃れするつもりか。経営委員は国会の同意を得て首相が任命するが、もはや辞任は当然と考える。

 まったく同感である。このような人物を、公共放送のあり方を左右する地位に留めておいてはならない。「もはや辞任は当然」ではないか。

天皇のオリンピック開会宣言は、本来越権である。

(2021年7月13日)
 権力と金力とに過剰に結びついた今日の五輪は本来なくすべきものである。少なくとも、五輪開催の積極的意義は認めがたい。にもかかわらず、コロナ禍を押しての東京五輪の開催強行。とうてい正気の沙汰ではない。開催中止では困ると横車を押す人々がいるのだ。「何がなんでも開催だ。その結果がどうなろうと知ったことではない」というとんでもない連中が実権を握っていて、コロナ禍に加えての五輪禍を拡大し続けている。
 
 無観客で行われるという開会式の予定日まであと10日である。無観客でも、多数の関係者による人の流れと渦とが、動くことになる。コロナ感染や拡大の危険はつきまとう。まだ間に合う。あきらめず、「東京五輪中止」の声を上げ続けようと思う。本日発表の読売世論調査(東京)でも、中止派が50%で、無観客開催派28%を大きく上回っている。都民にとって、オリンピックは鬱陶しいものになっている。

 ところで、無観客の開会式が強行された場合、そこに天皇は出席するのだろうか。開会宣言を読み上げるのだろうか。

 いうまでもなく、象徴天皇とは政治的な利用を予定された道具としての存在である。天皇自身の判断や意見表明はあってはならず、神聖な天皇像を強調するか、マイホーム皇室像を演出するか、政権の判断と思惑次第なのだ。開会宣言問題についても、政権にとって、どう天皇を扱うのが最も有効な政治的利用になるかを今考えている。

 巷間言われているところは、「世論二分の渦中において、オリンピック開催に祝意の表明は無理だろう」という憶測。端的に言えば、「世論の過半はオリンピックに反対なのだから、天皇に開会宣言をさせると天皇の評判はがた落ちになる。それでは、長い目で見た天皇の政治利用のあり方としてまずい」のだ。では、どうするか。これがちと面倒。

 世間が東京五輪開催歓迎のムード一色のときは、天皇の出番だ。開催に祝意を表明させることで、天皇の民衆からの支持は高まり、政治的利用の道具としての有用性もさらに高まることになる。しかし、今、少なからぬ人がコロナに命を奪われ、病床に伏し、多くの人が職を失い、弱い立場にある者ほど生活苦にあえいでいる。土石流や大雨の被害の記憶も生々しい。こんなとき、天皇に国民の生活苦と遊離した祝意を述べさせるのは危険、そう考えざるを得ない。当たり前のことだ。

 では、天皇(徳仁)に開会を宣言させるとして、政権は、国民をねぎらうべきどのような文言の工夫をして、天皇に読み上げさせるのだろうか。そのように一瞬思った私が愚かだった。そんな余地はないのだという。

 不敏にして知らなかったが、オリンピック憲章の中には、開会宣言の文句は決まっているのだそうだ。天皇(徳仁)は、こう述べるほかはない。

 「私は、第32回近代オリンピアードを祝し、オリンピック東京大会の開会を宣言します。」

 たったこれだけの脳天気な祝意の表明。これが、オリンピック憲章第5章4プロトコールの3に明記されているという。コロナ禍も、コロナ禍が暴き出した社会の矛盾も、それによる国民多数の労苦も、土石流の被害者の涙も、復興にはほど遠い原発事故被害も、なにもかにもどこ吹く風の祝祭の別世界。本当にこのとおりやったとしたら、いい気なもんだと炎上ものだろう。

 ならば、天皇(徳仁)の開会宣言はなしにしたらどうかという提案が出て来る。開会宣言なしにするか、あるいは別の誰かにやらせるか。先に引用したオリンピック憲章には、「オリンピック競技大会の開会宣言は開催国の国家元首によって行われる」とあるそうだ。

 政府はこれまで、オリンピック憲章における「国家元首」を天皇と解釈して、前回東京五輪と札幌冬季五輪は昭和天皇(裕仁)、長野冬季五輪は当時の天皇明仁に開会宣言をさせた。これも、保守政権の思惑あっての政治利用である。しかし、政府もこの見解に自信をもっているわけではない。ここで、政府がその解釈を変更して、「日本の元首は、実は天皇ではない。内閣総理大臣なのだ」として、菅義偉得意のペーパー朗読をする手はあるのだ。

 周知のとおり、大日本帝国憲法第4条は、「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」と天皇を元首と明記していた。「元首」とは、対内的には統治権を掌握し、対外的に国民を代表する地位にあるものを言うとされた。当時の天皇は、まさしく元首であったろう。

 しかし、日本国憲法は、これをご破算にして天皇を「象徴」とした。つまりは、天皇の元首としての地位や権能を積極的に否定したものと理解する以外にない。現行憲法下においては、天皇は元首ではない。

だからこそ、自民党は結党以来、憲法改正のテーマとして、「天皇の元首化」を求め続けてきたのだ。2012年4月の自民党改憲草案も、その第1章・第1条は、「天皇は、日本国の元首であり…」から始まっている。これが守旧派のとんでもない夢なのだ。この「改正」のメドも立たぬ今、天皇を元首と言ってはならない。

 従って、本来政権は「天皇は元首ではないから開会宣言はさせません」と言うべきだったのだが、開会式直前の今これを言い訳に使ってもよい。あるいは、オリンピックそのものを中止とすれば、そんなことを考えるまでもないのだが。

 なお、オーソドックスな政府見解も天皇を元首と言いきることはできない。第113回国会1988.10.11参議院内閣委員会で、政府委員(大出峻郎・当時内閣法制局第一部長、後に最高裁裁判官)が、こう答弁している。

「天皇は元首であるかどうかということに関連しての御質問かと思いますが、現行憲法上におきましては元首とは何かを定めた規定はないわけであります。元首の概念につきましては、学問上法学上はいろいろな考え方があるようでございます。したがいまして、天皇が元首であるかどうかということは、要するに元首の定義いかんに帰する問題であるというふうに考えておるわけであります。

 かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろうと思います。

 しかし、今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えないというふうに考えておるわけであります。」

 つまり、元首という言葉の定義を思いっきり緩くすれば、「天皇を元首と言えなくもない」という程度の頼りないものなのだ。もちろん、オリンピック憲章にも元首の定義規定はない。だから、厳密には天皇が元首として振る舞い、開会式の宣言をすることは越権なのだ。違憲と言ってもよい。だが、これを訴訟で争う手段は思いつかない。

「不敬」という言葉を社会から駆逐しよう

(2021年7月11日)
 私は、強権的な言葉狩りには反対の立場だ。しかし、差別用語の横行が差別を助長する効果をもたらすことは否定しようがない。人から発せられる言葉が、人々に働きかけ人々の意識を変える力をもっているのだ。差別用語を駆逐したい。ただし、強権的にではなく。

 同じことは、逆差別にも当てはまる。差別用語と同じ発想で、「不敬」という言葉をこの社会から駆逐したいと思う。「陛下」も、「殿下」も、「今上」もやめよう。主権者として、余りに情けなくもあり、バカバカしくもある。

 差別用語が社会に差別を蔓延させて被害者を作る如く、「不敬」や「陛下」は社会の権威化を助長し自由な発言の桎梏となる。民主主義や表現の自由を依拠すべき価値と標榜する人が、中国における共産党の神聖性は揶揄しながら、天皇の神聖性を傷付けてはならないと気苦労する図は滑稽でしかない。

 ところが、ときに思いがけない人から、「不敬」や「陛下」の言葉が発せられて戸惑うことがある。最近刊の週刊朝日(7月16日号)に掲載された、室井佑月「不敬よな」(連載コラム「しがみつく女」)もその一つ。普段のあっけらかんとした室井の発言に好感をもっていただけに、驚かざるを得ない。

 この記事のリードは、「宮内庁長官の『陛下が五輪で感染拡大を懸念と拝察』発言を、意に介さない菅首相や閣僚。作家・室井佑月氏は、『不敬』と憤る。」というもの。これだけで、察しはつく。室井の文章(抜粋)は、次のようなもの。

 陛下はコロナ対策分科会の尾身会長から何度か説明を受けているようだし、真っ当にあたしたち国民の心配をしてくださっただけだ。そして、長官の口を借り、メッセージを出された。

 しかし、この事実を認めたくない輩(やから)もいる。菅義偉首相は25日、
「長官ご本人の見解を述べたと、このように理解している」
 加藤勝信官房長官も25日の記者会見で、
「宮内庁長官自身の考え方を述べられた」
 といった。五輪開会式での陛下の宣言については、まだ関係者間で調整中だとも。

 はぁ? 陛下のメッセージさえなかったことにしてしまえってか。
 結局、この人たちの頭の中は、自分たちのことしかない。菅首相は東京五輪で国威発揚を狙い、その勢いで秋までに行われる衆議院選挙に臨みたい。あたしたち国民の命や健康を差し出した大博打(ばくち)をやりたい。

 感染症の専門家の意見でさえ、聞くつもりはない。なので、陛下が見るに見かねて、メッセージを出したんでしょ。今の政府とは違って、国民のことを考えていると。メッセージを出さずとも、開会式の宣言がいまだ調整中ってことでも、わかれってものだ。

 でも、このことをツイッターでちょっとつぶやいたら、「天皇の政治利用。不敬」といってくる輩がわらわら湧いてきて。
 ちょっと待て。自民党政権が、平和の祭典を政治利用し、天皇陛下でさえ政治利用しようとし、それがうまくいかなかった、てのが今回の真相だろ。国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ちを、そのまま受け取れない方が不敬だと思うけど。

 結局室井の頭の中は、「国民を思いやる英邁な陛下」「その意を体することのない不敬な君側」という構造。「国民に寄り添ってくれた陛下のお気持ち」「そのまま受け取れない方が不敬」という締めくくり方は最悪ではないか。誰にも恐れ入らないリベラルな感性の持ち主というイメージのある室井にして、天皇の権威は別のようだ。あらためて、この社会の人々の意識の奥まで侵蝕している、天皇制の逆差別構造の根深さを見る思いである。だから、「不敬」や「陛下」という言葉を駆逐しよう。

ようやく開示されたNHK経営委議事録を読む ー ガバナンスが効いていないのは経営委員会だ

(2021年7月10日)
 昨日(7月9日)、4月7日付で開示を請求(NHK独自の手続では「開示の求め」という)していた下記3点の文書(写)の交付を受けた。別紙を含め全部で47ページである。
 (1) 別紙                 1枚
 (2) 2018年10月09日経営委員会議事録  表紙+本文8ページ
 (3) 2018年10月23日経営委員会議事録  本文35ページ
 (4) 2018年11月13日経営委員会議事録  表紙+本文2ページ

 相当な分量だが、この議事録、なかなかに読み応えがある。我々が想像していたストーリーがこの議事録で細部にわたって裏付けられている。それだけでない。これは巧まずして出来上がったドラマだ。悪役と善玉のコントラストがくっきりしていてまことに分かり易い。これに、場と場をつなぐ裏のやりとりを加えれば、興味深い劇にもなる。映画にもなる。

 ところで、放送法41条は、(議事録の公表)について、「経営委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない。」と定める。経営委員会というNHKの最高機関で何が議論されたのか、視聴者・国民に「遅滞なく公表せよ」というのが、法の要求するところ。これが、遅滞に遅滞を重ねて2年半を経てようやく日の目を見た。

 「ようやく」の意味は、期間だけではない。NHK(実質においては経営委員会)は、抵抗に抵抗を重ねて、遂に矢尽き刀折れて開示せざるを得ないところまで追い込まれたのだ。2年半は、悪あがきの積み重ねだった。

 まず毎日新聞などメディアがこの議事録の開示を求めて拒否され、NHKの内規に従った不服申立手続きである「再検討の求め」を申し立てた。この手続において諮問を受けた「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」は、20年5月開示すべしと明確に答申した。しかし、NHK(実質においては経営委員会)はこれを拒否した。

 その後メディアなどからする3件の開示の求めがあり、その「再検討の求め」において、「審議委員会」は、再度開示せよと答申した。21年2月のことである。だが、NHKはこれにも従おうとはしなかった。そこで、NHKに関連する市民運動が乗りだした。市民団体の100余名が、仮に開示を拒否されれば提訴することを広言して、開示の求めをした。これが、4月7日のことである。

 この開示の求めに対して、NHKは2度にわたっての「回答延期」を通知した。この段階で、104名が提訴した。6月14日のこと。そして、3度目の「回答延期」のあと、開示の通知に至った。

 問題の議事録には、経営委員会の上田良一NHK会長(当時)に対する「厳しい注意」の経過が詳細に記載されている。注意とされた理由はガバナンスの不備である。経営委員会がいう「NHK会長のガバナンス」とはなんぞや。

 NHKの番組「クローアップ現代+」で放映された、「かんぽ生命保険不正販売問題」について、郵政側はNHK会長に番組制作の現場を押さえこむよう期待した。しかし、NHKの番組制作現場は郵政との交渉において、一貫して「NHKでは、番組制作と経営は分離している。番組作成に会長は関与しない」と説明している。

 「番組制作と経営は分離している」ことは報道機関のあり方として当然ことではないか。だが、日本郵政側はこれに納得しなかった。「放送法上編集権は会長にある」(形式的にはその通り)との立場で、NHKのガバナンスのあり方を問題としたのだ。つまり、郵政側が言う「NHKのガバナンスのあり方についての不満」とは、「かんぽ生命不正販売報道」を黙認し、その続編放映を中止させないNHK執行部の姿勢についての不満にほかならない。

 ガバナンスとは、経営陣がしっかりと番組制作現場を押さえ込んでかつてな報道をさせないこと、なのだ議事録の中で議事録の中で森下俊三(当時、経営委員長代行)は、こう発言している。

(森下代行・現経営委員長)
 本当は彼ら(郵政側)の気持ちは納得していないのは取材の内容なんです。こちら(NHKの取材)に納得していないから、経営委員会に言ってくるためにはこのポイント(ガバナンス)しか(ない)、経営委員会は番組のことは扱わないのでこう言ってきている(ガバナンス不備と言ってきている)けども。本質的にはそこ(取材の内容)で、本当は彼らが(番組の制作に)不満感を持っているということなんですよね。

 (村田委員・現経営委員長代行)
 それは森下代行言われたように、やっぱり彼ら(郵政側)の本来の不満は(取材の)内容にあって、内容については突けないからら、その手続論の小さな瑕疵のことで攻めてきてるんだけども。でも、この経営委員会の現実としても、手紙が来た以上経営委員会が返事しないわけにはいかないですよね。

 誰もがよく分かっている。本当は、郵政側も経営委員会も、「クローアップ現代+」がとんでもない番組を作って放映したことを問題としているのだ。どうして、とんでもないか。総務省の天下り幹部を擁している、郵政グループの悪徳商法摘発などという、言わば「お上に楯突く」番組だからだ。しかし、そうは言えないから、「ガバナンスに不備がある」「今後は視聴者目線に立って適切な対応をする」というのだ。「視聴者目線」とは、悪徳商法被害者の目線ではない。加害者である悪徳業者側の目線に立つというのである。正気か。

 今回開示された議事録が明らかにした当時の経営委員の責任は極めて重い。とりわけ森下俊三である。その責任は徹底して追及されなければならない。森下本人も、これを任命した政権も、である。

平穏な表現行為に対する実力での妨害を厳重に処罰せよ。

(2021年7月9日)
 中国のことはさて措き、私たちのこの国の民主主義的状況を語らねばならない。この日本には満足な表現の自由があるのだろうか。いや、そんな他人事のような言い方はやめよう。この日本社会の表現の自由の現実は、大きく抉られた穴だらけのものでしかない。今のうちに何とかしなければ、再びあの暗い時代の轍を踏むことになりかねない。

 表現の自由とは、当たり障りのないことを発言する自由を意味するものではない。おべんちゃらを述べることは「自由」とも「権利」とも言うに値しない。誰かの人格を毀損し、誰かにとっては神聖なものを傷付け、誰かにとっては不愉快な表現が、権利として許されるということでなければならない。

 端的に言えば、言いにくいことを、言いにくい相手に対して、発言する自由が基本的人権ひとつとして保障されているのだ。政治権力に反抗し、社会的な強者を批判し、社会的な権威を否定し、多数者の常識に挑戦する少数者の言論の自由が保障されなければならない。国家も、政治家も、政党も、企業も、企業主も、大学も、学者も、新聞もテレビも言論人も、法曹も、検察も最高裁も、宗教家も、芸術家も、アスリートも、そして天皇も皇室も皇祖皇宗も、批判の言論から免れることはできない。あらゆる権力や権威への批判の表現の自由の保障が、民主主義の基礎を形作っている。

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は、その時点までの表現の不自由の実例の展示を敢えてする問題提起の企画だった。それが、はからずも多くの人の注視のに表現の不自由を再現する場となる衝撃を社会に与えた。

 あの衝撃が意味するものをもう一度考え直そうとする展示会が、今年の6月から7月の予定で企画された。東京・大阪・名古屋の3会場で行われるはずであった。しかし、またまた、この3会場の企画がともに日本社会には満足な表現の自由がないことを立証する経過をたどっている。

 この事態を、「表現の自由を守ろうという陣営と、これを攻撃しようという勢力がせめぎ合っている」などと表現することは不正確で誤解を招くものと思う。正確には、「いま、表現の自由が、暴力と恫喝によって逼塞を余儀なくされようとしている」のだ。社会がこのことを重く受けとめ、この暴力と恫喝を許さないとする民主主義的な力量を持たねばならないが、残念ながらそこまでに至っていない。

 しかし、平穏な表現行為に対しての実力をもってする妨害は、明らかに犯罪である。せめて我が国が法治国家であるという証しを見せてもらわねばならない。

 今夏に各地で開催される予定だった「表現の不自由展・その後」の内、民間展示施設で6月25日から開催の予定であった「東京展」が、右翼による周辺での妨害行為などの末、開会予定日の前日に延期に追い込まれた。実行委員会は、「あくまでも延期です。これから更なる会場選定を行い、東京都内で「表現の不自由展」を開催いたします。」と声明したが、今のところ新たな開催の通知はない。

 大阪市中央区の府の施設「エル・おおさか」で、7月16〜18日に予定されていた「表現の不自由展かんさい」の開催も同様の右翼の妨害行為があり、施設の管理者が6月25日付で利用承認を取り消した。驚くべきは、吉村洋文府知事の発言である。翌26日に記者団に対して、「安全な施設の管理・運営を果たすのは(抗議活動によって)難しい」「取り消しには賛同している」と述べたという。大阪展の主催者は同30日に指定管理者を相手取り、大阪地裁に処分の取り消しと、執行停止を申し立てた。本日(7月9日)、大阪地裁は、実行委員会に会場の利用を認める執行停止決定を出した。

 そして、最も順調に見えた「名古屋展」(7月6?11日の予定)が卑劣な妨害行為に見舞われた。昨日(7月8日)午前9時半ごろ、同展が行われていた「市民ギャラリー栄」で郵便物の開封時に破裂音がする事件があった。破裂音がしたのは施設7階市文化振興事業団の事務室。郵送された茶封筒(縦約23センチ、横約12センチ)を職員が開封したところ、破裂音が10回ほど続いた。捜査関係者によると、爆竹とみられ、周囲に黒い粉が散乱したという。封筒は同ギャラリー宛てで、不自由展中止を求める内容の文書が添えられていた。

 明らかに威力業務妨害である。しかし、名古屋市はこれに断乎たる姿勢を見せず、「安全上の観点」から11日まで施設を臨時休館すると決めた。展覧会は事実上の展示中止となっている。主催団体側が主張しているとおり、この犯行は「暴力による表現の封殺」を狙ったもので、その目的を遂げている。

 皇室批判に対する反批判はあってもよい。歴史の真実に対する歴史修正主義的な批判も自由である。しかし、平穏な展示を実力をもって妨害することは許されない。結果としてであれ、これを許してしまっては、法的秩序が崩壊する。法治主義の国家ではなくなる。

 東京・大阪・名古屋とも、表現の自由の受難がそれぞれに多様である。大阪展は、前途多難ではあろうが司法的救済がかろうじて間に合った。名古屋展は、2日だけは開催できたものの、4日の日程が潰されることになりそう。東京の苦心は続いている。日本社会の「表現の不自由」は、今なお現実のものなのだ。

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