(2021年6月26日)
信仰とは仲間内だけで通じるもの。「イワシの頭教」信者の信仰は、「サバの尻尾教」の信者には理解しようがない。ブードゥー教の信仰がその信者以外に受容されることは考え難い。天皇を神聖とする信仰もまったく同じことだ。醒めた目で天皇教を見つめれば、虚妄これに過ぎるものはない。
にもかかわらず、天皇教信者の横暴は甚だしい。仲間内でしか通じようのない天皇神聖信仰を社会全体に押し付けようとするからだ。この押しつけがましさは、過去の天皇教の歴史における赫々たる成功体験に基づくものである。「天皇は神聖にして侵すべからず」と憲法に書き込ませ、それを根拠に、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と政治権力を握った、あの体験である。
このいびつな「天皇教の宗教国家」は1945年に亡びた…はずだった。新生日本は、天皇教の残滓を払拭する努力を重ねた…はずだった。しかし、必ずしもそれに成功していない。天皇教信者の残党が、いまだに我がもの顔に振る舞っているのがこの国の現実である。これでよいのか、とあらためて問い質さなければならない。
国民の多くが、天皇教信者の暴力や社会的圧力を恐怖と感じている。大逆罪も不敬罪も治安維持法もなくなったが、この社会にはその残影が確実に存在している。人々の記憶の底に、天皇の神聖性を傷付ける言動に伴う権力的ないしは社会的な制裁への畏怖がある。多くの人が、天皇批判の言動に対する社会的圧力を恐れ、天皇に関する言動を躊躇せざるを得ないとする心性を捨てきれていない。
そんな事情を背景に、「宮内庁長官『陛下は五輪開催を懸念と拝察』」(毎日)との記事である。念のためだが、「陛下」とは天皇(徳仁)のこと。この見出しは、「宮内庁長官が、『天皇(徳仁)は東京五輪開催でコロナ感染が拡大しないか懸念している」ようだと私は思う、と発言した」というニュース。オリンピックとコロナ、誰もが思っていることだが、天皇の懸念となると大きなニュースになる。
天皇教やら天皇教信者やらへの阿りから、「開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している」などという、面倒極まりない言葉遣いになっている。世の中の天皇教への阿りが、天皇を特別の存在と思わせ、天皇発言の社会的影響力の源泉となっている。そのことこそが、天皇の存在を危険なものとしている。
西村長官は、こう述べたようだ。
「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています。」
このコメント、読みようによって、天皇(徳仁)の真意を、「心配だから、中止してはどうか」「心配だから、せめて無観客でやるべきだ」「感染の心配あるから、私は出席したくない」「国民の間に不安の声がある中で東京オリパラの名誉総裁など辞退したい」などと幾様にも解釈できる。しかし、天皇に確認しようはない。確認すべきでもない。
記者からは、「五輪について開会宣言する場合、その文言はオリンピック憲章で決まっていて、祝うという文言が入ることになる。中止論もある中で、陛下が大会開催を祝福するような文言を述べるのはどうか」という質問も出たという。
宮内庁長官が独断で、天皇の懸念を言えるはずはない。天皇がわざわざ言わせたと考えるのが常識というもの。とすれば、官邸や組織委員会など当事者やオリパラ推進派には、面白くない話だろう。東京オリパラ開催に対する天皇からのクレームなのだから。
しかし、オリパラ反対派が、「天皇まで懸念している」などと自説補強の論拠としてはならない。そもそも、天皇が口を出すべきことではない。天皇には、内閣の指示に従う以外の選択肢はない。オリンピック開催の是非について勝手な発言は許されない。天皇に意思表明の自由はないのだ。
天皇には、この原則を厳格に守らせなければならない。さもないと、再び天皇教信者の跳梁跋扈を招きかねない。
そして今、東京と大阪で企画されている「表現の不自由展」が、ともに天皇(裕仁)への不敬を根拠に、妨害に遭っている。天皇教信者による、実力での表現の自由侵害である。天皇は憲法上の存在ではある。しかし、明らかに憲法体系の中での異物である。いま、象徴天皇制に対する根底的な批判が必要になっていると思う。
(2021年6月25日)
本日、東京都議選の告示。7月4日(日)の投開票日まで、9日間の選挙戦である。
私は、選挙となれば日本共産党を支持し応援してきた。人権や民主主義を擁護するその姿勢を評価してのことである。そしてもう一つ、権力の集中を危険だとする基本的立場から、どの政党への支援が権力の抑制に最も効果があるかと考えてのことでもある。
権力を握っている自民党を応援してはならない。それは、愚かなことであるというよりは危険な行為である。自民党に擦り寄る姿勢を見せている諸政党についても同様である。自民党と政権を争う野党第一党をこそ支援すべきという意見もあろうが、かつての民主党や、今の立憲民主党が自民党の権力を抑制するに足りる存在とは到底思えない。衆院に共産党100議席。そのくらいが、私の理想とする国会の勢力図である。
本日は、本郷三丁目交差点での福手ゆう子候補の街頭演説に足を運んだ。コロナ禍の中での選挙戦。いつもとは様変わりの風景。聴衆は皆マスクで、密にならないよう距離をとっている。いつの日か、あんな選挙もあったっけと、回想する日が来るのだろうか。
それでも、それぞれの陣営が、それぞれの意見を訴える選挙の本質に変わりはない。自由な言論による選挙戦が可能なこの日本の社会、それだけでもなかなかのものではないか。香港の報道に接して、改めてそう思う。
福手ゆう子候補の演説は、気合いが入っていた。
オリンピックの中止を求めコロナ対策に全力を傾注しようという訴えには、説得力があった。文京区内12000人の小中学生がオリンピックに観客として動員される計画だったが、区長への申し入れで、取りやめになったと報告された。そして、地元都立病院の独法化の動きの危険や都内の急性期病牀数の削減問題に触れ、ジェンダー平等の問題に切り込んだ。
そしていつになくボルテージを上げて、「前回選挙では215票差の次点に終わりました。あの無念を繰り返したくはありません。今度こそ、是が非でも、私を押し上げてください」として訴えを締めくくった。
その前座を務めたのが、清水忠史衆院議員だった。私は初めてこの人の話を聞いた。話の初めから、押しつけがましさのない柔らかい話しぶりだとは思ったが、だんだんと演説に心地よいリズムがあることに気が付いた。
そして、「政治には、腹が立つことばかりではありませんか。公文書にしてもそうです。偽造、捏造、安倍晋三(ギゾウ、ネツゾウ、アベシンゾウ)」と続けて、聴衆を引きつけたのに感心した。言葉が流暢で耳に快く、目線が同じで感じよく、面白くて分かり易い話だった。
大阪市議から衆院議員になった人だが、この人の前歴は「お笑い芸人」だという。なるほど、年期の入ったプロの話芸だ。そして、自分自身の言葉で、聞く人を楽しませようと語っていることがよく分かる。学ぶべきところが多い。
彼の本日のツイッター3通を引用させていただく。
@tadashishimizu
福手ゆう子 都議選出発式 https://youtu.be/uyp4tUMCSyw @YouTubeより
まもなく始まります。#福手ゆう子 #文京区 #都議選は日本共産党
【都議を選ぶ3つの基準】
?五輪開催強行、カジノ誘致など間違った政治にキッパリ反対できるひと
?都立駒込病院、大塚病院を都の直営として守る等、都民の願い実現へトコトン頑張るひと
?金権腐敗にメス、清潔な力でジェンダー平等都政を目指すひと
出発式で訴えました。#福手ゆう子 #文京区
先程、後楽園駅近くで告示日の活動を終えました。命よりも五輪を優先させる都政にキッパリものが言えるのが、市民と野党の共同候補 #福手ゆう子 さんです。福手候補や区議のみなさんと今日一日で12ヶ所で支持を訴えました。反応は上々。明日からも勝利を目指して頑張りましょう。#都議選は日本共産党
なお、東京オリンピック開催是か非かを問う都議選告示の日に、東京はリバウンドの徴候と報道されている。7月4日、さてどうなるか。
(2021年6月24日)
香港に冷たい雨が降っている。この雨は香港の人々の涙でもあろう。その雨中での悲痛な別れだ。別れを強いられているのは、「蘋果日報」ばかりではない。報道の自由であり、民主主義であり、文明でもある。
香港でまた歴史の歯車が、軋みながら逆にまわった。誰の目にも分かる形で、香港の民主主義が、さらに一段と踏みにじられた。唯一、反権力を貫いてきたとの評価の高い日刊紙「蘋果日報(リンゴ日報)」が廃刊を余儀なくされた。人々の悲鳴が聞こえる。民主主義を踏みにじり、歴史の歯車を逆回転させたのは、中国共産党とその配下の勢力にほかならない。
この事態をどう表現したらよいのだろうか。「野蛮な暴力による文明の蹂躙」と言うより外に思いつかない。中国共産党は、党に従わず党を批判する言論を許容し得ない。野蛮の本質はそこにある。恫喝に屈しない新聞社の幹部を逮捕し、社の資産を凍結し、暴力をもって「言論の自由」の息の根を止めた。
かつて、野蛮な天皇制が神聖なる天皇の批判を許さなかった如くに、中国共産党も神聖なる党や国家に対する批判の言論に寛容ではいられないのだ。言論による批判に新聞廃刊という措置をもって報復した。これが、21世紀の現代における大国のやることであろうか。いまだ歴史は、野蛮を脱していないのか。
中国共産党創建100周年を記念する式典が7月1日に予定されている。その1週間前の今日(6月24日)、「蘋果日報」は、「港人雨中痛別」と大書した最後の朝刊100万部を刷って市民の手にわたした。
「午前1時半ごろ、九竜半島の繁華街、旺角(モンコック)のニューススタンドでは長方形の一区画をぐるっと一回り、約500メートルの長蛇の列ができていた。この店ではまず最初に800部が用意され、1人2部に制限したが約25分で売り切れた。」と報じられている。
「蘋果日報」は、正面から中国共産党指導部を批判し続けたメディアとして知られる。その姿勢ゆえに市民からの信頼は厚かったが、その姿勢ゆえに中国共産党や中国政府から、最も警戒すべき対象とみなされた。昨年(20年)8月に創業者の黎智英(ジミー・ライ)が、今月には同紙の編集トップら幹部6人が逮捕され、社の資金も凍結されて、廃刊に追い込まれた。
このメデイアへの弾圧は、創立100年を迎えた中国共産党の体質を象徴する重大事件である。党と、すべての党員と、党の支持者とは、この野蛮を恥としなければならない。国際社会は、力の及ばない無念さを噛みしめなければならない。せめて、香港の民主主義と連帯し、中国共産党の野蛮を批判する意思を表明しよう。
本日の[台北=ロイター]配信記事によると、台湾で対中政策を所管する大陸委員会は、「この残念な出来事は、香港における報道、出版、言論の自由の終わりを告げるだけでなく、国際社会が共産党体制の全体主義と専制主義を目の当たりにすることを可能にした」とし、
さらに、「自由と民主主義、他の普遍的価値の追求が歴史によって終わることはないが、歴史は常に、自由を抑圧する権力者の醜い顔を記録する」とも表明したという。
同意せざるを得ない。かつては中国こそが進歩の象徴で、台湾は反動的存在だった。今や、その立場は完全に逆転している。中国は批判の言論制圧に成功した思いだろうが、実は、失ったものの大きさを知ることになるだろう。きっと、さほど遠くない将来に。
(2021年6月23日・毎日更新連続第3004回)
6月23日。1945年沖縄地上戦終結の「慰霊の日」であり、1960年1月19日署名の現行日米安保条約発効の日でもある。バカバカしいかぎりだがオリンピック・デーでもあるという。
そして、この日が敬愛する吉田博徳さんの誕生日。本日、吉田さんは、満100歳となった。しかも、頗るお元気である。健康で長寿は古今東西誰もが望むところ。コロナ禍のさなかではあるが、まことに目出度い。
吉田さんは、笑顔を絶やさない。ときに得意の歌を唱って、周囲をなごませる。今日もお電話して、「100歳になったら、周りの景色が変わって見えませんか」と聞いてみたら、「何にも変わりませんよ。別に頑張って長生きしているわけでもないんですから」と淡々としたもの。最近は、コロナを警戒して外出は控えているそうだが、近い再会を約束した。会えば、楽しいし得るものがある。
吉田さんは、1921年6月23日の生まれ。来月7月1日に中国共産党が党創立100周年の記念式典を行うというから、吉田さんの方が中国共産党よりも少しだけ年嵩なのだ。そして、沖縄戦終結の日が24歳の誕生日だったことになる。
大分県で生まれ、6歳のとき一家で植民地時代の朝鮮(全羅北道金堤邑)に移住している。地元の金提尋常高等小学校を経て京城師範学校を卒業、1941年長安国民学校教師となった。世が世であれば教師としての人生を送るはずが、翌年招集されて都城の部隊に入営。次いで、ノモンハン事件直後の満州ハイラル(現内モンゴル自治区)に配属となる。そして1945年大分陸軍少年飛行兵学校の教官で終戦を迎えた。
戦後は福岡地方裁判所に書記官として就職し、労働運動に身を入れる。全司法労働組合中央執行委員として専従活動家となった。全司法労働組合中央本部書記長から,伝説の解雇撤回闘争を担った委員長となる。その後、日朝協会、原水協、平和委員会で活躍。小平市長選挙にも立候補している。私とは、日本民主法律家協会でのお付き合い。
その多忙な活動の人生で、齢をとることを忘れてしまったのかも知れない。とても100歳の人とは思えない。姿勢も、足取りも、発声もしっかりしたもの。お話しの論理に破綻がない。矍鑠という言葉はこの人にためにつくられたとさえ思わせる。一部では「怪物」ともささやかれている。
吉田博徳さんは、どんな小さな会議でも大集会でも、背筋を伸ばしてはっきりと発言される。声量豊かで滑舌にくぐもりがない。常に正論で、論旨明快でもある。だから、吉田さんが話を始めると、自ずと聞く姿勢になる。私も、襟をただして聞く。
吉田さんに近づいたところで、経済的利益にはつながらない。政治的に威勢を振るうことにもならない。それでも、「徳は孤ならず 必ず隣有り」なのだ。このように齢をとりたいというお手本であり、私にとっての師匠である。
お師匠さん、いつまでもお元気で。
(2021年6月22日・毎日更新連続第3003回)
東京地裁でも、ときに立派な判決が出る。昨日の「映画『宮本から君へ』助成金不交付取消」事件判決。真っ当に表現の自由の価値を認め、これを制約する行政裁量を限定した。共同通信は次のように報じている。
〈映画「宮本から君へ」に出演したピエール瀧さんの刑事処分を理由に助成金1千万円の交付を取り消されたのは違憲だとして、映画製作会社が文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」(芸文振)を相手取り、交付を求めた訴訟の判決で、東京地裁は21日、「処分は裁量権の逸脱で違法」として、不交付決定の取り消しを命じた。
判決によると、映画が完成した2019年3月、瀧さんは麻薬取締法違反容疑で逮捕され、同7月に執行猶予付きの有罪判決が確定した。これを受け、芸文振は内定していた映画への助成金を交付しない決定をした。〉
事件は次のとおりである。
原告 スターサンズ(映画製作会社)
被告 「独立行政法人・日本芸術文化振興会」(芸文振)
訴えの内容 内定した助成金1000万円の不交付決定取消請求
裁判所 東京地裁民事51部(清水知恵子裁判長)
判決 2021年6月21日 請求認容(「不交付決定を取消す」)
内定した助成金1000万円不交付の理由は「公益性」とされた。その具体的内容は、出演者のひとりである俳優ピエール瀧の刑事処分であった。表現の自由とは何物にも替えがたい重要な理念ではなかったか。いったい「公益」とは何だ、行政裁量はかくも安易に表現の自由を制約しうるのか、が争われた。
朝日の報道に、原告会社社長のコメントが掲載されている。
判決を受け、原告の製作会社スターサンズの河村光庸社長と弁護団が会見し、判決を「画期的」と評価した。
河村社長は「私は公益性とは国民の一人ひとりの利益の積み上げだと考えていたが、彼ら(芸文振や文化庁)の公益性は国益なのだと理解せざるをえない。国民の憲法がいつのまにか為政者の憲法にすりかえられている。今後も公益性とは何かについて追求していく」と厳しい表情で話した。
「河村さんは喜びを口にする一方『為政者が人間たる表現をうやむやにし、ないがしろにしようとしている。現実を直視していきたい』と、国会審議を含めた現政権の姿勢を批判した。」(東京新聞)とも報じられている。
この事件に注目するのは、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」問題によく似ているからでもある。
文化庁は、「文化資源活用推進事業」として審査の上、交付が内定していた「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金約7800万円について全額不交付とした。これが2019年9月26日のこと。あのときの衝撃は忘れがたい。「宮本から君へ」芸文振への助成金不交付決定から2か月後のこと。
その後補助金申請者である愛知県は同年10月24日に不服申立をした。世論の後押しもあって、2020年3月23日文化庁は折れて6,661万9千円の交付決定に至った。(下記URL参照)
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/20032301.html
具体例を見る限り、文化庁とは「文化阻害庁」のごとくである。しかし、ひとつは世論の力で、そしてもう一つは真っ当な司法の存在で、文化阻害行政を本来の任務である「文化の振興」に舵を切らせることが可能なのだ。この社会、まだ望みはある。
(2021年6月21日・連続更新第3002回)
「人の噂も75日」って言うだろう。今年の1月18日に召集された通常国会の会期が6月16日閉会までちょうど150日。75日が二廻りだ。通常国会開会時の噂ももう途絶えたころ…そう考えてもおかしくはないじゃないか。
あの通常国会開会の日は、コロナによる緊急事態宣言の真っ最中。その晩、銀座で飲んで物議を醸したのが、我が党の松本純・田野瀬太道・大塚高司の3議員。「銀座豪遊3人衆」とか、「ウソつきトリオ」とも言われたな。緊急事態宣言下での飲酒・会食を週刊誌にすっぱ抜かれた。イタリアンレストランやクラブなど3軒のハシゴ。女性2人の同席があったことも暴かれて、ウソの弁明がみっともなさに上塗りされて世の顰蹙を買った。あのときの世論は殺気立っていた。あれでは、党もかばいようがなかったんだ。
ウソをつく、ごまかす、はぐらかす、などは我が党の前総裁が得意としたところ。でもこのトリオ、ウソのバレ方がひどかった。そして時期も悪かった。飲食が悪かったんじゃない。それは我が党の議員の多くがやっているとこだ。しかし、バレたら覚悟が必要だ。脇が甘いのは政治家としての致命的欠陥だよ。因果を含めて離党届を出させたのが、今年の2月1日だったな。ここから数えても、そろそろ150日になる。
幸いなことに、我が国の選挙民は忘れっぽい。いや、大らかとか寛容とか度量が広いというべきだろう。いつまでもしつっこく他人を責めない、政治家の失態を笑って許してくれる、竹を割ったような性格の良い人が大多数なのだ。意地の悪い例外もいるが、150日の経過はチャンスだよ。
そこで、通常国会閉会を潮時に、何人かの懇意な記者にリークしてみたというわけ。それがたちまち、各紙の記事になった。たとえば次のように。
〈自民党内で、新型コロナウイルス緊急事態宣言下の深夜に東京・銀座のクラブを訪問した不祥事の責任を取り、離党した松本純元国家公安委員長ら3氏の次期衆院選前の復党論が浮上している。複数の関係者が17日、明らかにした。〉
ぶっちゃけた話、これはいわゆるアドバルーン記事だ。この記事を書いた記者の意図は知らんが、こうした記事の世論の反応で、復党の可否を見極めようというわけ。
もちろん、我が党に抜かりはない。念のために、次のような記事も書いてもらっている。
〈党幹部は、コロナ禍でクラブを訪れた3氏の記憶は新しいと指摘。「自分の力で衆院選を勝ち抜き、みそぎを済ませる前に復党を認めれば、有権者から『身内に甘い』と非難される。党全体の勝敗に大きく影響しかねない」と懸念を示す〉
世論の風を見ながらの両論併記の高等作戦。どっちに転んでも傷は避けられないが、できるだけ軽く済むよう二股かけているわけだ。復党させたいのが本音だが、いま復党させれば、全国の有権者がせっかく忘れかけていたあの事件の記憶を鮮明にして、我が党のイメージをいたく傷つけかねない。とは言え、党からの資金援助をしてやれない現状では、貴重な「現有3議席」を野党にもぎ取られるかも知れない。それは余りに惜しい。もったいない。
いま無所属のこの3人、いずれも衆院議員で、松本純は神奈川1区、大塚高司は大阪8区、田野瀬太道は奈良3区。それぞれ、麻生派、竹下派、石原派。これまでは、次期総選挙での当選後に復党させようというのが暗黙の合意。これなら、ミソギを済ませたという名分が立つ。
ところが、今度の選挙は我が党に厳しい。内閣支持率も低迷している。追い込まれ解散でもある。候補者不在の空白区を解消して全国的な選挙態勢を整備しなければならないいま、復党させたいのだ。この3区を空白区扱いとすれば、比例票の目減りともなる。地方選への影響も否定できない。けれどもそれが裏目に出るかも。…だから、迷うんだ。
復党させよかなー
それとも させるのよそうかなー
そろそろ噂も下火になった
だけど気になる 世論はこわい
復党させよかなー やっぱりよそうかなー
(2021年6月20日・毎日更新連続第3001回)
A 最近、つくづく思うんだ。オリンピックって、戦争によく似ている。もしかしたら、政府はオリンピックに名を借りて、戦争準備の練習をしようとしているんじゃないのかな。
B これはまた、とてつもないことを。オリンピックは平和の祭典じゃないか。戦争とは真反対だと思うけど。
A でもね、中国への侵略も太平洋戦争も、東洋平和のためだった。古来どんな戦争も、平和を実現するためやむを得ないものとして行われた。「平和」の看板を鵜呑みにしちゃいけない。
B だからといって、オリンピックが戦争と似ているというのは、よくわからない。オリンピックが戦争の練習というのは、なおさらだね。
A 「よく似ている」がわからないはずはないだろう。今回東京オリンピックなんて世論調査じゃ到底無理だと思ったが結局は断固やることになりそうだし、専門家のご意見をよく聞いてなんて言うのも真っ赤なウソ。要するに、国家意思は決まっているんだ。着々と実行あるのみ。犠牲は厭わないと広言するところも戦争と同じだろう。
B とは言え、国家や政権だけでは、戦争もオリンピックもできやしない。国家意思を国民に支持してもらわねばできないことじゃないのか。
A 国民の自発的協力なくして戦争はできない。だから、官民あげての国民精神総動員体制を作らなければならない。そのための大義をでっち上げ、これを国民に吹き込む。そのために、国の中枢から隅々に至るあらゆる機関が動員される。メディアや、学校や、企業や、町内会や、ボランティアや…。この点、戦争だけじゃない、オリンピックもおんなじだ。
B 問題はその大義だ。多くの人を動かすためには正義のスローガンが必要というのは、そのとおりだろう。でも、戦争とオリンピック、大義が同じであるはずはない。
A 問題は大義の中身じゃない。重要なのは、どれだけ強く、どれだけ多くの人を動かせるかだ。その目的で大義は作りあげられる。かつては、「皇国の御稜」やら「国体の護持」やらが持ち出された。「八紘一宇」や「暴支膺懲」などというとんでもないものもあった。こんな荒唐無稽のスローガンをいい大人たちに信じ込ませて、国民の大多数を欺すことができたんだ。そして、欺せない人々は非国民とし弾圧して黙らせた。
B それはそうかもしれんが、戦前と戦後は違う。戦争とオリンピックは、もっと違う。現実に、東京五輪反対と言える世になっているではないか。
A 戦前と戦後、大した違いはないように思えるね。誰かが笛を吹けば、みんなが踊る。この挙国一致体質あればこその、オリンピック開催じゃないか。確かに今は何とか、オリンピック反対とは言える。しかし、必死になって言い続けないと、たちまちものを言えない世になりかねない。
B それはともかく、国民精神総動員オリンピックの大義とは、いったい何だね。
A まずは、経済効果だろうね。国際交流とは、経済的にはインバウンドの客を呼び込むことだ。オリンピックは確実に国外消費者の呼び込みにつながる。景気の回復にも寄与する。予算もふんだんに使える。この点も戦争と似ている。おおきく儲けることができるのだから、財界の強い支持を獲得できる。
B それが、そんなに不当なことかな。正当な大義として認めてもいいんじゃない。
A 平和とか国際交流の本音がインバウンドの拡大ということ。それはそれで、目くじら立てるほどのことではない。もう一つの本音が、ナショナリズムの高揚だ。
B ナショナリズム高揚は不当なことかい?
A ナショナリズムは常に危険なものだ。民族差別・人種差別につながる。国の内側に向けては国論の統一を強要し、国外との関係では軋轢を煽って国際紛争の原因ともなる。
B ナショナリズムも愛国心も、独立国家を支える国民意識として肯定してよいと思うね。対内的な国論のまとまりも必要だし、国際社会が国民国家を単位として成立している以上は国際関係とは、各国のナショナリズムの調整ということだ。
A そういう楽観論が危険だと思う。ナショナリズムとは、あるべき理念ではなく、実在するエネルギーとして人々をとらえている。これをアンダーコントロールすることは非常に難しい。
B 責められるべきは、ナショナリズムそのものではなく、ヘイトや排外主義ということではないのか。「過剰なナショナリズムを警戒する」、あるいは「排外主義に陥ったナショナリズムを非難する」ということで足りるのではないか。
A 問題の根源は、「過剰でないナショナリズムは警戒の必要がない」のか、あるいは「排外主義に陥いらないナショナリズムは非難に値しない」のか、にある。私は、ナショナリズムとは理性をもった国民の内発的な意識だとは思わない。国民を国家という外側から、あるいは支配階層が上から国民を統合しようというときに活用されるもの。常に危険なものだ。
B フーン。ところで、もう一つ。オリンピックが「戦争の練習」だというのは、どういうことなんだ。
A オリンピック実施は「戦争準備のシミュレーション」というべきだろうか。国民精神を総動員し、メディアや教育機関を煽り、オペレーションの正当性を宣伝し、国会や政党を統御しつつ予算を組んで、現場組織をうごかす。これができれば、オリンピックだけでなく、戦争だってできる。
B 分からんでもない。まずは国家意思を組み立て、次いでこれを国民に注入して国家意思を全うしようという手口。戦争も大規模イベントも同じだということだね。
A 要は、国民の一部でも、声の大きな部分を取り込めばよい。あとは、同調圧力と権力的な押しつけだ。文句を言わせないやり方を東京五輪で練習しておけば、戦争の準備に役立つ。だから、コロナ禍でも、簡単にはやめられない。
B まあ、そう言われればそうかも知れないけど…。オリンピックのイメージが、ずいぶん変わってしまったね。
(2021年6月19日・毎日更新連続第3000回)
本日の万能川柳に下記の一句。
佐川さん黒川さんは元気かな (相模原 林ヒロシ)
佐川さんとは元財務省理財局長の佐川宣壽のこと、黒川さんとは「官邸の番犬」こと黒川弘務・元東京高検検事長。なるほど、既に懐かしい響きとなっている。しかし、けっして忘れてはならない名前。
かつての万能川柳にこんな一句があった。
リズムよし「モリカケ桜クロカワイ」
佐川宣壽が切られた尻尾となった森友学園事件も、加計学園疑惑も、桜を見る会問題も、黒川弘務を取り込んだ官邸による検察私物化も、そして河井克行・案里夫妻の公選法事件も、実は解決しているものはひとつとしてない。経過の真相も、裏に隠れた真のワルの振る舞いもぼんやりとした霞の彼方である。そのぼんやりの中から安倍晋三という稀代のワルの責任を白日の下にさらけ出さねばならない。
ときに、「モリカケ桜クロカワイ」やカジノ関連事件が話題になる。昨日(6月18日)は、河井克行の選挙買収事件での判決があった。懲役3年の実刑である。彼も、実は哀れ尻尾に過ぎない。尻尾を切った本体は、知らぬ顔を決めこんでいる。
この尻尾、なんと元法務大臣である。法の支配を標榜する国において、法務行政の占める地位は重い。人権擁護行政も刑事司法行政も法務大臣の管轄下にある。
その法を司る法務大臣経験者が、大規模な選挙買収事件を起こし、逮捕され起訴されて、懲役3年の実刑判決を受けたのだ。おそらくは前代未聞のこと、みっともないにもほどがある。あらためて、あの安倍晋三政権の汚さおぞましさを再確認しなければならない。
参院広島選挙区に敢えて自民党から二人の候補者を立てたのは、現職溝手顕正候補との確執をもつ安倍晋三の主導だとされてきた。だから、自民党からの選挙資金が溝手陣営1500万円に対して、河井陣営は1億5000万円となったのだという。安倍事務所の秘書が河井選挙で実働していたことも報道されていた。
奇妙なことに、刑事訴訟の公判審理では、検察側からも弁護側からもその背景事情はまったく触れられなかった。巨額の買収資金の出所はどこなのか。隔靴掻痒の感の残るところ。
河井克行は、一昨年(2019年)7月の参院選前後に、広島選挙区の計100人に約2900万円を配ったとして公職選挙法違反(買収)の罪に問われた。検察側は論告で「これほどの大規模買収は過去に前例がなく前代未聞だ」として懲役4年、追徴金150万円を求刑した。克之の妻・案里については、懲役1年4カ月執行猶予5年の有罪判決が確定している。
各紙の報道によると、判決は要旨次のとおりの<量刑の理由>を述べたという。
「河井は、地元議員らとの関係性や議員らの立場、地域における影響力の大きさなどを踏まえて、誰が誰にいくら渡すのか検討するなど、犯行全体を差配し、大半は自らが実行した。供与の相手方は広島県全域にわたり実人数は100人と極めて多く、金額も計2871万7450円と多額で、極めて大規模な選挙買収といえる。現金の受領を拒む者に何度も受領を迫ったり、無理やり受け取らせたりするなど、悪質な態様に及んでいるものも少なくない。」
「本件は、民主主義の根幹である選挙の公正を著しく害する極めて悪質な犯行で、刑事責任は重く、同種の選挙買収の中でも際立って重い部類に属する事案だ。犯行後、証拠を隠滅する行為に及んでおり、犯行後の情状も良くない。被告人質問の段階で犯行の大半を認めるなど、反省の態度を示していることを考慮しても、相当期間の実刑に処するのが相当だ。」
顧みれば、安倍晋三政権の9年間に、政治の私物化が進行し、民主主義の根幹がいかに害されたか。その象徴が、元法務大臣による選挙買収であり、元法務大臣への実刑判決である。しかし、この買収資金の出所さえも明らかになっていない。これで幕引きとしてはならない。
河井さん晋三さんは元気かな
これでは、洒落にもならない。河井にも安倍にも、元気で再活躍などされては困るのだ。「民主主義の根幹」が、こう言っている。
もう二度と出番はないね安倍河井
(2021年6月18日)
昨日(6月17日)の毎日新聞夕刊。花谷寿人論説委員の連載コラム「体温計」欄に、「祭典は誰のために」という落ちついた一文。「スポーツの祭典は誰のために開かれ、何を残すのか」を問うて、目前の東京五輪の開催意義に疑問を呈している。その論旨の半分には敬意を表しつつも、その余の半分には同意しかねる。
前回64年東京オリンピックの公式記録映画の製作を指揮したのが、市川崑監督だった。その映像について、花谷はこう言う。「空前の大ヒット映画を見返すと気づく。日の丸が掲揚されるシーンが少ない。試写を見た当時の五輪担当相、河野一郎氏は「記録性を無視したわけのわからんひどい映画」と言い放った。予想とあまりに違い、腹にすえかねたようだ。」「アジア初の五輪成功を高らかにうたい上げる。政治家はそんな作品を期待したのだろう。」
また、花谷はこう呟く。「当時『記録か芸術か』の論争になった。だが論争の本質は『国家か個人か』だったのではないか。」
なるほど、そのとおりなのだ。国費を投じた国策映画である。期待されたものは、国威の発揚であったろう。戦後の復興を遂げたこの国家の、国家としての勢いや自信の映像化であったはず。国家を描くとなれば、「日の丸」は必須のアイテムとなる。
しかし、市川が描いたものは国家ではなかった。敢えて「日の丸」掲揚のシーンを避けて、国家の威信を飾ろうという姿勢を捨てた。結局描かれたものは、個人たるアスリートの内面だったという。
国家に個人を対置させて、個人こそが存在の根源という思想を描いたのだろうか。そんなことを意識することもなく、『単なる記録ではなく芸術性を指向した』結果が、国家を捨象した個人の映像となったのだろうか。いずれにせよ、ここまでの花谷の立論には何の違和感もない。
続いて花谷はこう述べている。「映像はアスリートが大観衆に鼓舞され躍動していく姿を伝えている」と。大観衆とアスリートとの関係は、明らかに肯定的に描かれている。この「大観衆」には、国籍がないのが救いだが、個人としてのアスリートは大集団に鼓舞される存在であり、また競技場での大観衆の一人ひとりも一人のアスリートの活躍によって、集団に統合された存在となる。
花谷は、国家は否定しても、大観衆という集団は肯定的に描く。「五輪は他の大会以上に選手と観衆が一体となって作り上げる祭典だ」という。オリンピックには、大観衆の存在が不可欠なのに、目前の大会はそのような大観衆を動員できない。とすれば、本来のオリンピックではない。それでも開催するという東京オリパラ2020は、結局のところ「国の威信や政治の都合で」開催されるというしかない。
オリンピックは、ナショナリズムを高揚させ、観客の一体感を醸成させる恰好の舞台なのだ。大観衆の大声援は、通常ナショナリズムと結びついている。その大声援に鼓舞されて超人的な力量を発揮するアスリート、そんな姿を素晴らしいと思える人々が大勢いるからこそ、オリンピックは人心収攬のツールとして使えるのだ。パンデミックがあろうとなかろうと、オリンピックは無用に願いたい。
(2021年6月17日)
視聴者104名が、NHKと森下俊三(経営委員長)を被告として、文書開示請求を求める訴えの訴状提出が6月14日(月)午前のこと。その提訴を同日の午後、司法記者クラブでの記者会見で報告した。テーマが、「経営に介入されない報道の自律性」であっただけに、記者の関心は高かった。
6月16日(水)の東京新聞が、『NHK経営委 議事録公開に応じよ』というタイトルで、歯切れのよい社説を掲載した。まことに真っ当なその姿勢に敬意を表せざるを得ない。
さして長くはないその社説の全文は、東京新聞ホームページの下記URLをご覧いただきたい。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/110857?rct=editorial
社説は、経営委員会による番組制作への干渉疑惑を重大視し、その疑惑を検証するために不可欠なのだから、「NHK経営委員会よ 議事録公開に応じよ」という。極めてシンプルで分かり易い。
もっとも訴訟では、議事録を中心とした文書の開示を求める相手方は、経営委員会ではなくNHKとしている。形式的にはそうであっても、実質において議事録の開示を妨げているのは、東京新聞社説の言うとおり経営委員会である。経営委員会こそが、会長の任免権をにぎるNHKにおける最高意思決定機関である。そして、この件での議事録開示の直接の妨害者でもある。
どうして、この森下のようなとんでもない人物が、「衆参両院の同意を得て、内閣総理大臣に任命される」ことになるのだろうか。あるいは、森下のようなとんでもない人物だからこそ、「衆参両院の同意を得て、内閣総理大臣に任命される」ことになるのだろうか。安倍政権以来、トンデモ人事には慣らされてしまって驚かなくなったことにあらためて驚く。もっと新鮮に驚き、怒らねばならないと思う。
問題の核心は、2018年10月23日経営委員会における、「経営委員会からNHK会長(上田良一)に対してなされた厳重注意」である。これは、2018年4月「クローズアップ現代十(プラス)」が、かんぽ生命保険の不正販売を追及する番組を放送したことについての、加害者側日本郵政グループの抗議をそのまま受けてのもの。
本来、外部の介入や干渉から番組制作現場の自律性を守るための番組制作と経営の分離であり、外部の圧力からの防波堤となるべき経営委員会が、NHKの報道を不満とする郵政グループと一体になって、NHKの番組制作に介入・干渉をしたということなのだ。その責任を追及する前提として、まずは検証のための議事録開示の請求である。東京新聞社説は、この点をよく押さえている。
また、社説はこうも言っている。
「経営委員長は『非公表を前提とした会議だから公表できない』などと国会などで弁明したが、この論理はおかしい。仮に、非公開で会議を開き、その席でNHK会長に対して、経営委が番組制作について批判し、影響力を行使すれば、番組制作と経営との分離という垣根は容易に崩れてしまう。」
「番組が抗議や圧力にやすやすと屈せば、『自主自律』であるべき放送の前提が崩壊してしまう。経営委の介入・干渉の有無は十分に検証されねばならない。」
この社説の論理が前提とするものは、何よりも「放送の自主自律」である。放送は、「表現の自由」の重要な一局面として、権力や社会的強者の介入・干渉に曝されてはならない。このことが「放送の自主自律」と表現されている。その「自主自律」の直接の権利主体は、『番組制作部門』であって、『経営部門』ではない。
番組制作の「自主自律」を貫徹するためには、まず、経営との分離の垣根を築いて、経営の論理の影響を遮断しなければならない。それこそが、報道の自由を担うメディアのあり方である。NHKの番組制作現場は、NHK会長以下の執行部からも、その上に君臨する経営委員会からも、「分離の垣根」で守られなければならない。
本来、消費者被害摘発報道の加害者側からのクレームは、経営委員会や執行部のレベルで処理をして、番組制作現場の自主自律を擁護しなければならない。経営委員会はその逆をやったと疑惑を持たれている。だから、厳格な検証が必要なのだ。
仮に「非公表を前提とした会議だから公表できない」などという森下の弁明を許してしまえば、「非公開で会議を開き、外部の誰にも知られぬよう密室でNHK会長を批判し、経営委が番組制作について影響力を行使する」ことが可能となるではないか。それでは、番組制作と経営との分離という垣根は容易に崩れてしまう。その結果、番組制作の「自主自律」が崩壊し、「放送の自由」が失われ、「表現の自由」が傷つくことになるのだ。
東京新聞社説は、そう主張している。