澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

都議選が問う「コロナとオリパラ」 ー 実は、「コロナとオリパラ」に問われる都民の意識

(2021年7月2日)
 7月4日都議選が目前である。前回選挙時には予想もできなかった、コロナ絡み、オリパラ絡みの、何とも形容しようのない絶妙な首都の議会選挙となっている。

 コロナの蔓延はいったん収まるかにみえて、今、疑うべくもなくリバウンドの途上にある。この最悪の時期、しかも酷暑の東京でのオリパラ開催のデメリットは誰の目にも明らかである。一方、オリパラ開催のメリットや意義は霞の彼方、主催者の説明すら二転三転して定かではない。それでも、オリパラは強行されようとしている。そのオリパラ強行の是非についての民意を問う、はからずも絶好のタイミングでの都議選である。

 国威発揚と商業主義と売名と、そして民衆を愚民化する意識操作と。オリンピックの本質が、これほどに深く鋭く問われ論議され断罪されたことはかつてなかった。権威を剥奪されたオリンピック開催とコロナの蔓延とが重なって、以前から日程が予定されていた選挙がはからずも命の重みを問う選択になっている。偶然とは言え、何という興味深い展開であろうか。

 このような非常事態には、平時に用意された手垢のついた常套句は用をなさない。それぞれの政治グループや候補者がもっている、イデオロギーや基本姿勢が露骨にあぶり出されることになる。

こんにちは、kanrisha さん

 「コロナとオリパラ」という組み合わせられた論点への解は、基本的には二つ。一つは「コロナ対策徹底のために、オリパラを中止せよ」であり、もう一つは、「オリパラ開催を前提に、必要なコロナ対策を」というものである。前者は、都民の命と健康を最優先する考え方であり、後者は国威発揚と商業主義と売名を優先させる考えである。

 今、都議選は、「コロナとオリパラ」を巡って、基本的に3グループの争いになっている。一方に「オリパラを中止して、コロナ対策に専念せよ」という共産、その対極に「オリパラ開催を当然として、安全・安心な大会に」という自民。そしてその中間に、「無観客での開催」という都ファ。あとは、そのバリエーションである。

 自民のいう「安全・安心」は、まったくの無内容である。具体性がない、科学的根拠がない。言わば、空念仏。それでも、オリパラ開催の方針だけが明瞭なのだ。最近になって、菅が、「(一部)無観客もあり得る」と言い始めた。
 水際対策のダダ漏れ、穴だらけのバブル方式、ワクチン調達の挫折、変異株蔓延の恐怖、医療態勢の逼迫、世界各地での再拡大…。勝負に出たはずの菅が、明らかに躊躇し始めている。が、けっして中止とは言わない。

 都ファが、「無観客開催」を言っているのが興味深い。前回選挙では吹いた追い風が、今回は期待できない。彼らは、生き残りのために、ひたすら都民の意向を探っている。その都ファが、小池百合子の方針に従っていたのでは全滅しかねない、という判断なのだ。オリパラ中止とは言えないが、「無観客開催」と言わねば生き残れないという結論。

 共産の立場はシンプルで分かり易いだけでなく、一貫していてブレがない。これは、人権思想徹底の賜物と言うべきだろう。

 都議選では、各党の各候補者が、「コロナとオリパラ」をテーマに政策を競い合っている。しかし、実のところ、「コロナとオリパラ」問題で問われているのは首都の選挙民の意識である。何よりも都民の命を大切にする政治を選択するのか、「安全・安心」の空念仏で「国威発揚と商業主義と売名」の場としてのオリパラ開催を優先させるのか。その中間で良しとするのか。その最悪の選択は、第5波の感染拡大をもたらし、多くの人命を奪うことにもなる。選択の間違いは恐ろしい。

 重大な都議選である。選択の間違いは悔やみきれないことになる。

中国共産党創建100周年に祝意を表することはできない。

(2021年7月1日)
 本日が、中国共産党創建100周年だという。残念ながら、とうてい祝意を表する気持ちにはなれない。

 私が若かった頃、中国共産党こそは希望の星であった。社会主義は当然あるべき人類の未来図であり、そこに最初に到達する国が中国となるに違いない。当然の如く、そう考えていた。その社会主義中国を牽引する実績と能力と、人民からの信頼をも備えた中国共産党に尊敬の念を惜しまなかった。今は昔の話である。おそらくは、私が変わったのではない。中国共産党が、尊敬すべからざる存在に様変わりをしたのだ。

 本日の創建100周年の記念式典で、習近平は灰色の人民服をまとい1時間強にわたって演説し、「経済発展を実現して中国から貧困をなくしたとする功績」を誇示したという。貧困をなくす…、それは確かに重要なことだ。

 高校生の頃、漢文の授業で「鼓腹撃壌」という言葉を教えられた。聖帝・尭の時代には、こんなにも世の中がうまく治まっていたというエピソード。

 老人有り、哺を含み腹を鼓し、壌を撃ちて歌ひて曰はく、
「日出でて作し、日入りて息ふ。
井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。
帝力何ぞ我に有らんや。」と。

 農夫が腹鼓を打ち地を踏んで踊り、「帝の力なんてなくたって満足さ」と歌っている。「帝力何ぞ我に有らんや」は、「帝の力なぞ私にとってまったく関わりない」という意味だという。漢文の先生は、「これが、政治の理想だよ」「ところが、現実の政治はこうなっていないから、国民が苦労するわけだ」と言った…ように覚えている。

 同じ頃、英語の演習で、リンカーンのゲティズバーグの演説を学んだ。その最終部分の、次の文章を初めて読んだ。
 government of the people, by the people, for the people

 尊敬する英語の先生は、このフレーズを「人民の人民による人民のための政治」と訳して、「これが、民主主義の神髄ですよね」と言った…ように記憶している。

 私は、「by the people と for the people は分かります。でも、of the people というのがよく理解できません」と頼りない質問をした。これに対して、先生は至極真面目に、こう言われた…ように思う。今はもう、確かめようもないけれど。

 「同格の of という使い方ですね。government と the people が同格ということですよ。でも、所有格の of と理解したってかまわないし、リンカーンもあんまり深くは考えずに、調子がよいからこう言ったのかも知れません。ともかく、政治は人民が自分たち自身で作るものっていうことですよね」

 今日の習近平演説が、余りに「鼓腹撃壌」的で、「民主主義の神髄」的ではないことに驚かざるを得ない。中国共産党は、いまだに「民は由らしむべし、知らしむべからず」と考えているのではないか。

 「鼓腹撃壌」は人民を被治者としか見ない政治観である。老農夫の腹をどう満たしてやろうかという発想は、古代の堯舜も、赤子を慈しむという天皇も、習近平も変わらない。ここには、上から目線の for the people だけがあり、by the people は欠けている。of the people に至っては、カケラほどもない。

 そもそも、(仮に)共産党がどんなに立派であったとしても、飽くまで私的な組織であって、全人民を代表する正当性を持たない。憲法に書き込んだところで、事情は変わらない。

 習は、本日の演説で、「中華民族の偉大な復興を実現させるため、中国共産党は人民を団結させて導いてきた」と何度も繰り返し、「中国の特色ある社会主義があってこそ中国は発展できる」と主張した。香港についても「国家安全を維持するための法律や組織を導入し、香港社会を安定させた」と自賛したという。

 天安門事件以来、中国共産党の強権的体質は誰の目にも顕著ではないか。「人民を団結させて導いてきた」は、こじつけも甚だしい無理な主張というほかはない。「中国の特色ある社会主義」とはいったい何だろうか。あの安倍晋三のいう「積極的平和主義」を思い出させる。「積極的」という言葉をかぶせるだけで、「平和主義」の内容を反転させるマジック。習も、「中国の特色ある」という修飾語で「社会主義」を、格差容認社会に反転させてしまうのだ。

 さらに問わねばならない。「香港社会は安定」しただろうか。香港も、ウイグルも、チベットも、内蒙古も、とうてい「安定」しているようには見えない。不満と不安定のマグマの噴出が、力で押さえつけられているだけではないか。

 古代中国の皇帝も野蛮な天皇制もそして中国共産党も、鼓腹撃壌する人民には穏やかに接する。慈しみさえする。しかし、皇帝や天皇や党の権威に逆らう人民には徹底して非寛容なのだ。党を批判し、党とは異なる立場からの政治参加を求める人民には容赦のない弾圧を厭わない。これが、中国共産党100周年の姿である。人権と民主主義という、人類が獲得した普遍的な叡智を顧みず、野蛮な一党支配を続けるいびつな大国を作りあげた中国共産党。その100周年は祝福に値しない。

 今日は、香港で、ウイグルで、チベットで、内蒙古で、そして中国本土で、中国共産党の弾圧と闘っている側の人々の困苦を思いやるべき日である。

「法と民主主義」6月号紹介 ー あらためて問う 「司法はこれでよいのか」

(2021年6月29日)
 今からちょうど50年前、私は2年間の司法修習の過程を終えて弁護士となった。その1971年の春4月は、「司法の嵐」が吹き荒れた季節であった。「司法の危機」の時代とも呼ばれた。「司法反動と闘う」ことが、民主主義や人権を大切に思う人々の共通の課題として意識され、当時民主的な運動に携わる人々は、それぞれの立場で「司法はこれでよいのか」と問いを発した。もちろん、「司法がこれでよいはずはない」との強い思いからである。

 「司法の嵐」の震源は、おぞましいまでの天皇主義者でもあり、反共主義者でもあった司法官僚の首魁・石田和外が主導した青年法律家協会攻撃であった。彼は、公安と一体となった極右出版や自民党に与して、青法協を過激思想団体と決めつけ、裁判官会員には脱退を強要し、青法協会員裁判官の中心的存在とみなされた札幌地裁福島重雄裁判官を非難し、13期宮本康昭裁判官の再任を拒否した。そして、23期司法修習生の中の裁判官志望者にも、青法協を脱退するよう肩たたきが行われた。

 青法協攻撃という外形の内実は、人権や民主主義や平和という憲法理念への排撃であり、憲法擁護運動への牽制であり、裁判官に対する思想統制であった。憲法の砦たるべき最高裁自らが思想差別を行い、裁判官の独立をないがしろにしているのだ。これから、法律家になろうとする司法修習生たちは、身近に起こっているこの異常な事態を看過してよいはずはないと考えた。

 同期の裁判官志望者を思想信条や団体加入で差別してはならない。そのような運動が澎湃として盛り上がったが、結果は7人の裁判官志望者が任官を拒否された。

せめて、終了式の場で任官を拒否された彼らに、その思いの一端を発言する機会を与えてもらおうではないか。これが同期の総意となった。誰かが式の冒頭で、研修所長に同期の総意を伝えなければならない。その役割を担ったのが、クラス連絡会の阪口徳雄委員長だった。
 阪口君は、修習修了式の冒頭、式辞を述べようとした研修所長に対して発言の許可を求めた。所長は明らかに黙認し制止をしなかった。所長からの許しを得たと思った阪口君が、マイクを取って「任官不採用者の話を聞いていただきたい」と話し始めた途端に、「終了式は終了いたしまーす」と宣告されて式は打ち切られた。開会から式の終了まで、わずか1分15秒の出来事。この行為をとらえて、最高裁はその日の内に阪口君を罷免処分とした。
 この出来事は、権力機構としての司法府の本質を露わにするものとして強く世論を刺激し、前例のない司法の民主化を求める運動に火を付けることになった。その運動の高揚の中で阪口君の法曹資格は2年後の1973年4月に回復となる。

 そして、半世紀が経過した今、あらためて、同じ問を発しなければならない。「司法はこれでよいのか」「本来、司法はどうあるべきなのか」「どうすれば、司法本来のあるべき姿を実現できるだろうか」と。

 「司法の嵐」吹き荒れる中で実務法律家となった23期の集団は、その後の法律家としての職業人生において、それぞれに司法の在り方を問い続けてきた。そして、50年を記念して、同期の有志が一冊の書籍を刊行した。「司法はこれでいいのか―裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」(23期・弁護士ネットワーク著・現代書館)である。当時の司法状況についての資料というだけでなく、原体験を共有した23期群像のその後の生き方をも活写して読み応えのある労作となっている。

 そして、この書籍の出版を記念した集会を開催した。「法と民主主義」6月号【559号】の特集は、4月24日「アルカディア市ヶ谷」において開催された出版記念集会の各発言をそれぞれの発言者が加筆し編集したものである。50年前の司法に、いったい何があったか。そのとき、司法は本来あるべき姿とどう変わってしまったのか。そして、50年後の今、どうしたら司法に希望を見出すことができるのか。その問題意識が凝縮した集会発言集になっている。内容は、下記のとおりである。

 司法のあり方に関心をお持ちの方には、是非、ご購読いただきたい。

「法と民主主義」6月号内容紹介
https://www.jdla.jp/houmin/index.html

リード
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202106_01.pdf

「法と民主主義」申込みフォーム(今号単独購入であれば、ナンバー欄に「559」と、定期購読ご希望であれば同欄に「0」と御記入を)
https://www.jdla.jp/houmin/form.html

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法と民主主義2021年6月号【559号】(目次と記事)

特集●司法はこれでいいのか ── 「危機の時代」から50年

◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆出版と集会、その目的と思い … 村山 晃
◆50年前に何があったか、当事者としての感想と挨拶 … 阪口徳雄
◆23期の50周年を祝う ── 連帯のメッセージ … 宮本康昭

●パネルディスカッション冒頭発言●
◆司法の現状:制度と運用の実態をどう把握するか
──司法官僚制的人事慣行と石田和外裁判官 … 西川伸一
◆司法への絶望と希望
── 行政事件「鑑定意見書」執筆の経験から … 岡田正則
◆私たちの責任 ── 司法の希望への道筋をどう見い出すか … 伊藤 真

●具体的事件を通じて司法の希望を語る●
◆勝たなければならない裁判で勝てた理由
── 東海第二原発差止訴訟 … 丸山幸司
◆生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟について … 小久保哲郎
◆「結婚の自由をすべての人に」北海道訴訟
── 違憲判決からみる司法の展望 … 皆川洋美
◆建設アスベスト訴訟を通して感じる司法 … 谷 文彰
◆東京大空襲訴訟を通じての問題提起 … 杉浦ひとみ

◆司法は厳しい、されど気概ある裁判官になお期待したい
──パネラーの各発言と弁護団報告に触発されて … 森野俊彦
◆司法の希望を切り拓くために── 報告のまとめとして … 豊川義明
◆青法協弁学合同部会議長 挨拶 … 上野 格
◆希望への道筋 ── 良心の力を信じて進む … 梓澤和幸

ここにも安倍から菅への継承 ー 官邸による露骨なNHK支配

(2021年6月28日)
 奸悪な指導者の政権は腐敗する。奸悪ならざる指導者の長期政権も腐敗する。ならば、安倍政権の腐敗は余りに当然のこと。そして今、後継の菅内閣が、安倍内閣の腐臭を承継している。

 安倍政権腐敗の根源は、権力の過度の集中にあった。各省幹部官僚の人事権を掌握しただけでなく、警察、検察、司法、メディア、学術の支配をもたくらんだ。それぞれの対象領域のめぼしい人物に目を付けて、これを手なずけ子飼いにして、官邸の意思を貫徹しようとした。

 どこの世界にも、権力に尻尾を振ることを潔しとしない気骨の人物はいるものである。しかしまた、どこの世界にも、自尊心に欠け、時の政権におもねることを躊躇しない人物もいる。官邸が「番犬」ないしは「守護神」を探すのに、手間はかからなかった。

 このような人物としてよく知られているのが、杉田和博(警察)、北村滋(警察)、黒川弘務(検察)など。佐川宣壽(財務省)もその一人といってよいだろう。そして、メディアの部門では「ジャーナリストとしての良心を悪魔に売り渡した」とされる少なからぬ人物を数えることができるが、別格の存在なのがNHKの板野裕爾(専務理事)である。はやくから、安倍政権寄りのNHK幹部と目されてきたが、ここに至って菅政権が積極的にこれを使おうとして動いたとの報道である。

 本日の毎日新聞朝刊2面に、「NHK異様な人事」「専務理事退任案 会長が土壇場撤回」「『政権寄り』 内部から疑問の声」という目立つ記事。さらに、社会面には、「板野氏再任『理由分からぬ』」「自民議員『官邸意向の可能性』」「『自主自律』に疑念」の大見出し。

 渦中の人が、NHKの板野裕爾専務理事。安倍政権寄りとして知られ批判されてきた人物。本日の記事でも、「15年には…安全保障関連法案に関する複数の放送を見送るよう指示し、16年3月には政権の方針に疑問を投げかける『クローズアップ現代』の国谷裕子キャスターの降板も主導したとされる。NHK内では、いずれも当時の安倍政権の意向が背景にあったとみられている。」と紹介されている。

 この禍々しい人物が、今年の4月に3期目の任期切れとともに当然退任のはずだったのが、直前に方針転換となって再任された。その不自然さは4月当時も報道されたが、今回はこの異様な人事の裏に、『官邸意向の可能性』というのが目玉の記事。それ故に、NHKに求められている「自主自律」に疑念が呈されている、という調査報道である。

 長文の記事だが、ハイライトは以下のとおり。

 NHKの前田晃伸会長(76)が4月、板野裕爾専務理事(67)を退任させる役員人事案を経営委員へいったん郵送させながら、同意を得る経営委員会の直前に撤回し、再任する案に差し替えていたことが毎日新聞の取材で判明した。経営委は賛成多数で再任案に同意したが、委員2人が反対した。送付された人事案の撤回は極めて異例で、人事案に反対が出るのも異例だ。NHK内部から、政権寄りとされる板野氏の再任の過程に疑問の声が上がっている。

 複数のNHK関係者によると、当初は4月6日の経営委会合で板野氏の退任を含む理事らの役員人事が決められることになっており、前田会長は事務方を通じて4月2日に最初の人事案を各経営委員へ郵送させていた。しかし、6日の直前になって各委員に「なかったことにしてほしい」と事務方から連絡があり、6日の会合では理由の説明なしに人事案の文書は回収された。

 放送行政に詳しい複数の自民党国会議員は「板野氏退任の人事案を知った首相官邸の幹部が、再任させるよう前田会長に強く迫ったと聞いている」と証言する。また、複数のNHK関係者は「前田会長は抵抗したが、断り切れずに翻意したと聞く」と話す。それは板野氏退任の人事案が経営委員に郵送された4月2日以降で、6日の経営委で回収されるまでの数日の間だったという。

 放送行政に詳しい政府関係者は「安倍、菅の両政権が板野氏にこだわってきたのは、国民への影響力の大きいNHKの動向を監視し、政権批判をけん制したいからではないか」と指摘。ある自民党国会議員は「安倍政権の頃から、官邸は会長だけでなく専務理事などの役員人事にも目を光らせていた」と話す。

 いうまでもなく、NHKは国営放送ではない。政権の広報担当ではないのだ。大本営発表を垂れ流した反省から公権力からの独立を謳って再出発した公共放送である。「自主自律」を標榜するNHKの人事に、官邸が干渉していたとなれば、大問題である。安倍政権の体質とその腐敗は、しっかりと菅政権に受け継がれている。

コロナと五輪とバブルと、そして都議選と。

(2021年6月27日)
三題噺は即興で行われた寄席芸である。名人と言われた噺家は、客から三つのお題を頂戴して、即座に一席の噺をまとめオチまで作ったという。『鰍沢』や『芝浜』は、こうして作られた噺だと伝えられている。その名手として初代の可楽や圓朝の名が残るが、今、こんなことのできる芸人がいるのだろうか。

三題噺は、一見無関係なお題をどうつなげるかが腕の見せどころ、聴きどころである。「コロナと五輪とバブルと、そして都議選」は自分で選んだ四題、一見も二見も関係性十分で底が割れている。常識的なことしか語れない凡俗な話者の仕業。その四題の関連は、常識的にはこう語るしかなかろう。

「コロナ」感染の蔓延は人の生命と健康に関わり、社会に壊滅的な打撃を与えかねない。感染拡大防止は喫緊の重大事であって、そのために社会の総力を傾注しなければならない。これに比して、「五輪」の開催は明らかに些事である。金儲けやナショナリズム鼓吹の機会ではあっても、社会全体の要請ではない。コロナ拡大阻止にいささかなりとも支障をきたすのであれば、五輪開催を中止すべきが正常な判断である。

この判断を狂わせるために持ち出されたのが、「バブル」方式である。シャボン玉の泡の如くに、選手や関係者を包み込んで外部との接触を遮断する。だから、コロナ禍のさなかでも、安全・安心に五輪開催が可能だという。権力者と金の亡者の安全安心論を打破して、「五輪は中止、コロナ対策に集中を」という世論を示すことが、この「都議選」の主要な課題だ。

誰が名付けたか「バブル」方式。この命名がコロナ対策としての自信のなさを表している。バブルは脆弱さの象徴。実体なく膨らんで、容易にはじけるもの。薄く弱い頼りのないものである。外界との遮断の壁が、壊れて消えるシャボン玉では、「安全」でも、「安心」でも、「しっかり」でもあり得ない。

 オリンピック選手や役員に籠城の真似はできない。兵糧米を蓄え、井戸を堀り、野菜も植えて、外部からの侵入を防御したその真剣さはない。従って、バブルはけっして完結し得ない。多くの人が、バブルの中の集団を生存させるために、壁の内外を行き来しなければならない。コロナは容易にバブルの中へ侵入もし、またバブルの中に発生したコロナの感染は外へも拡大する。形だけ、やってるフリだけの感染対策でしかない。

 「無観客開催」にしても、選手を包んだバブルが抜け穴だらけなのだから事情は基本的に変わらない。海外からの選手と関係者の入国を一切拒絶した「無選手・無関係者開催」であって初めて、コロナ蔓延防止対策となるだろう。コロナ対策とオリンピック、本質的に相性が悪いということなのだ。

さて、四題噺の続きである。都議選の結果で、ストーリー展開は極端に分かれることになる。望むべくは、都議選で東京オリパラ反対の圧倒的民意が示され、オリンピックは中止、政府も都政もコロナ対策に専念しました、となって欲しいもの。しかし、その反展開展開も、ないではない。

政権と、IOC・JOC・組織委と都政は、「バブル」方式の有効性を徹底して宣伝した。オリンピックで金儲けをたくらんでいる連中がこれに呼応して、大宣伝がおこなわれた。シャボン玉の泡は強固でけっしてこわれるはずはないと言うのである。その結果、しっかりと安全・安心に「五輪」開催が可能だという気分が都民に横溢し、なんと、「都議選」では、五輪反対派が惨敗した。その結果、意気揚々と、東京五輪は開催となった。その結果として、オリンピック競技のさなかに、デルタ変異株を中心に東京を第5波のコロナ感染蔓延が襲うこととなった。

 各国選手団に相次いでクラスターが発生したが、医療態勢はたちまち崩壊した。病床は不足し収容先の施設は溢れ患者は放置された。あらためて、「コロナ」感染の猛威を世界は知ることになった。日本社会の壊滅的な打撃を心配せざるを得ない事態に、人々はあらためて、「オリンピック開催は明らかに些事であった。金儲けやナショナリズム鼓吹のための東京オリパラを開催してコロナ拡大対策を疎かにしたことは愚策だった」と深く反省した。

 このことが菅政権の大失態と意識され、目前の総選挙で自公政権崩壊に至ることを疑う者はいない。

天皇教信者におもねってはならない。天皇教信者の横暴を許してはならない。

(2021年6月26日)
 信仰とは仲間内だけで通じるもの。「イワシの頭教」信者の信仰は、「サバの尻尾教」の信者には理解しようがない。ブードゥー教の信仰がその信者以外に受容されることは考え難い。天皇を神聖とする信仰もまったく同じことだ。醒めた目で天皇教を見つめれば、虚妄これに過ぎるものはない。

 にもかかわらず、天皇教信者の横暴は甚だしい。仲間内でしか通じようのない天皇神聖信仰を社会全体に押し付けようとするからだ。この押しつけがましさは、過去の天皇教の歴史における赫々たる成功体験に基づくものである。「天皇は神聖にして侵すべからず」と憲法に書き込ませ、それを根拠に、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」と政治権力を握った、あの体験である。

 このいびつな「天皇教の宗教国家」は1945年に亡びた…はずだった。新生日本は、天皇教の残滓を払拭する努力を重ねた…はずだった。しかし、必ずしもそれに成功していない。天皇教信者の残党が、いまだに我がもの顔に振る舞っているのがこの国の現実である。これでよいのか、とあらためて問い質さなければならない。

 国民の多くが、天皇教信者の暴力や社会的圧力を恐怖と感じている。大逆罪も不敬罪も治安維持法もなくなったが、この社会にはその残影が確実に存在している。人々の記憶の底に、天皇の神聖性を傷付ける言動に伴う権力的ないしは社会的な制裁への畏怖がある。多くの人が、天皇批判の言動に対する社会的圧力を恐れ、天皇に関する言動を躊躇せざるを得ないとする心性を捨てきれていない。

 そんな事情を背景に、「宮内庁長官『陛下は五輪開催を懸念と拝察』」(毎日)との記事である。念のためだが、「陛下」とは天皇(徳仁)のこと。この見出しは、「宮内庁長官が、『天皇(徳仁)は東京五輪開催でコロナ感染が拡大しないか懸念している」ようだと私は思う、と発言した」というニュース。オリンピックとコロナ、誰もが思っていることだが、天皇の懸念となると大きなニュースになる。

 天皇教やら天皇教信者やらへの阿りから、「開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している」などという、面倒極まりない言葉遣いになっている。世の中の天皇教への阿りが、天皇を特別の存在と思わせ、天皇発言の社会的影響力の源泉となっている。そのことこそが、天皇の存在を危険なものとしている。

西村長官は、こう述べたようだ。
「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声がある中で、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています。」

このコメント、読みようによって、天皇(徳仁)の真意を、「心配だから、中止してはどうか」「心配だから、せめて無観客でやるべきだ」「感染の心配あるから、私は出席したくない」「国民の間に不安の声がある中で東京オリパラの名誉総裁など辞退したい」などと幾様にも解釈できる。しかし、天皇に確認しようはない。確認すべきでもない。

記者からは、「五輪について開会宣言する場合、その文言はオリンピック憲章で決まっていて、祝うという文言が入ることになる。中止論もある中で、陛下が大会開催を祝福するような文言を述べるのはどうか」という質問も出たという。

宮内庁長官が独断で、天皇の懸念を言えるはずはない。天皇がわざわざ言わせたと考えるのが常識というもの。とすれば、官邸や組織委員会など当事者やオリパラ推進派には、面白くない話だろう。東京オリパラ開催に対する天皇からのクレームなのだから。

しかし、オリパラ反対派が、「天皇まで懸念している」などと自説補強の論拠としてはならない。そもそも、天皇が口を出すべきことではない。天皇には、内閣の指示に従う以外の選択肢はない。オリンピック開催の是非について勝手な発言は許されない。天皇に意思表明の自由はないのだ。

天皇には、この原則を厳格に守らせなければならない。さもないと、再び天皇教信者の跳梁跋扈を招きかねない。

そして今、東京と大阪で企画されている「表現の不自由展」が、ともに天皇(裕仁)への不敬を根拠に、妨害に遭っている。天皇教信者による、実力での表現の自由侵害である。天皇は憲法上の存在ではある。しかし、明らかに憲法体系の中での異物である。いま、象徴天皇制に対する根底的な批判が必要になっていると思う。

都議選始まる ー 文京・福手ゆう子候補の街頭演説会から

(2021年6月25日)
 本日、東京都議選の告示。7月4日(日)の投開票日まで、9日間の選挙戦である。
 私は、選挙となれば日本共産党を支持し応援してきた。人権や民主主義を擁護するその姿勢を評価してのことである。そしてもう一つ、権力の集中を危険だとする基本的立場から、どの政党への支援が権力の抑制に最も効果があるかと考えてのことでもある。

 権力を握っている自民党を応援してはならない。それは、愚かなことであるというよりは危険な行為である。自民党に擦り寄る姿勢を見せている諸政党についても同様である。自民党と政権を争う野党第一党をこそ支援すべきという意見もあろうが、かつての民主党や、今の立憲民主党が自民党の権力を抑制するに足りる存在とは到底思えない。衆院に共産党100議席。そのくらいが、私の理想とする国会の勢力図である。

 本日は、本郷三丁目交差点での福手ゆう子候補の街頭演説に足を運んだ。コロナ禍の中での選挙戦。いつもとは様変わりの風景。聴衆は皆マスクで、密にならないよう距離をとっている。いつの日か、あんな選挙もあったっけと、回想する日が来るのだろうか。

 それでも、それぞれの陣営が、それぞれの意見を訴える選挙の本質に変わりはない。自由な言論による選挙戦が可能なこの日本の社会、それだけでもなかなかのものではないか。香港の報道に接して、改めてそう思う。

 福手ゆう子候補の演説は、気合いが入っていた。
 オリンピックの中止を求めコロナ対策に全力を傾注しようという訴えには、説得力があった。文京区内12000人の小中学生がオリンピックに観客として動員される計画だったが、区長への申し入れで、取りやめになったと報告された。そして、地元都立病院の独法化の動きの危険や都内の急性期病牀数の削減問題に触れ、ジェンダー平等の問題に切り込んだ。

 そしていつになくボルテージを上げて、「前回選挙では215票差の次点に終わりました。あの無念を繰り返したくはありません。今度こそ、是が非でも、私を押し上げてください」として訴えを締めくくった。

 その前座を務めたのが、清水忠史衆院議員だった。私は初めてこの人の話を聞いた。話の初めから、押しつけがましさのない柔らかい話しぶりだとは思ったが、だんだんと演説に心地よいリズムがあることに気が付いた。

そして、「政治には、腹が立つことばかりではありませんか。公文書にしてもそうです。偽造、捏造、安倍晋三(ギゾウ、ネツゾウ、アベシンゾウ)」と続けて、聴衆を引きつけたのに感心した。言葉が流暢で耳に快く、目線が同じで感じよく、面白くて分かり易い話だった。

大阪市議から衆院議員になった人だが、この人の前歴は「お笑い芸人」だという。なるほど、年期の入ったプロの話芸だ。そして、自分自身の言葉で、聞く人を楽しませようと語っていることがよく分かる。学ぶべきところが多い。

彼の本日のツイッター3通を引用させていただく。

@tadashishimizu
福手ゆう子 都議選出発式 https://youtu.be/uyp4tUMCSyw @YouTubeより
まもなく始まります。#福手ゆう子 #文京区 #都議選は日本共産党

【都議を選ぶ3つの基準】
?五輪開催強行、カジノ誘致など間違った政治にキッパリ反対できるひと
?都立駒込病院、大塚病院を都の直営として守る等、都民の願い実現へトコトン頑張るひと
?金権腐敗にメス、清潔な力でジェンダー平等都政を目指すひと
出発式で訴えました。#福手ゆう子 #文京区

先程、後楽園駅近くで告示日の活動を終えました。命よりも五輪を優先させる都政にキッパリものが言えるのが、市民と野党の共同候補 #福手ゆう子 さんです。福手候補や区議のみなさんと今日一日で12ヶ所で支持を訴えました。反応は上々。明日からも勝利を目指して頑張りましょう。#都議選は日本共産党

 なお、東京オリンピック開催是か非かを問う都議選告示の日に、東京はリバウンドの徴候と報道されている。7月4日、さてどうなるか。

「港人雨中痛別」

(2021年6月24日)
 香港に冷たい雨が降っている。この雨は香港の人々の涙でもあろう。その雨中での悲痛な別れだ。別れを強いられているのは、「蘋果日報」ばかりではない。報道の自由であり、民主主義であり、文明でもある。

 香港でまた歴史の歯車が、軋みながら逆にまわった。誰の目にも分かる形で、香港の民主主義が、さらに一段と踏みにじられた。唯一、反権力を貫いてきたとの評価の高い日刊紙「蘋果日報(リンゴ日報)」が廃刊を余儀なくされた。人々の悲鳴が聞こえる。民主主義を踏みにじり、歴史の歯車を逆回転させたのは、中国共産党とその配下の勢力にほかならない。

 この事態をどう表現したらよいのだろうか。「野蛮な暴力による文明の蹂躙」と言うより外に思いつかない。中国共産党は、党に従わず党を批判する言論を許容し得ない。野蛮の本質はそこにある。恫喝に屈しない新聞社の幹部を逮捕し、社の資産を凍結し、暴力をもって「言論の自由」の息の根を止めた。

 かつて、野蛮な天皇制が神聖なる天皇の批判を許さなかった如くに、中国共産党も神聖なる党や国家に対する批判の言論に寛容ではいられないのだ。言論による批判に新聞廃刊という措置をもって報復した。これが、21世紀の現代における大国のやることであろうか。いまだ歴史は、野蛮を脱していないのか。

 中国共産党創建100周年を記念する式典が7月1日に予定されている。その1週間前の今日(6月24日)、「蘋果日報」は、「港人雨中痛別」と大書した最後の朝刊100万部を刷って市民の手にわたした。

 「午前1時半ごろ、九竜半島の繁華街、旺角(モンコック)のニューススタンドでは長方形の一区画をぐるっと一回り、約500メートルの長蛇の列ができていた。この店ではまず最初に800部が用意され、1人2部に制限したが約25分で売り切れた。」と報じられている。

「蘋果日報」は、正面から中国共産党指導部を批判し続けたメディアとして知られる。その姿勢ゆえに市民からの信頼は厚かったが、その姿勢ゆえに中国共産党や中国政府から、最も警戒すべき対象とみなされた。昨年(20年)8月に創業者の黎智英(ジミー・ライ)が、今月には同紙の編集トップら幹部6人が逮捕され、社の資金も凍結されて、廃刊に追い込まれた。

 このメデイアへの弾圧は、創立100年を迎えた中国共産党の体質を象徴する重大事件である。党と、すべての党員と、党の支持者とは、この野蛮を恥としなければならない。国際社会は、力の及ばない無念さを噛みしめなければならない。せめて、香港の民主主義と連帯し、中国共産党の野蛮を批判する意思を表明しよう。

本日の[台北=ロイター]配信記事によると、台湾で対中政策を所管する大陸委員会は、「この残念な出来事は、香港における報道、出版、言論の自由の終わりを告げるだけでなく、国際社会が共産党体制の全体主義と専制主義を目の当たりにすることを可能にした」とし、

さらに、「自由と民主主義、他の普遍的価値の追求が歴史によって終わることはないが、歴史は常に、自由を抑圧する権力者の醜い顔を記録する」とも表明したという。

 同意せざるを得ない。かつては中国こそが進歩の象徴で、台湾は反動的存在だった。今や、その立場は完全に逆転している。中国は批判の言論制圧に成功した思いだろうが、実は、失ったものの大きさを知ることになるだろう。きっと、さほど遠くない将来に。

吉田博徳さん、満100歳お目出度うございます。

(2021年6月23日・毎日更新連続第3004回)
 6月23日。1945年沖縄地上戦終結の「慰霊の日」であり、1960年1月19日署名の現行日米安保条約発効の日でもある。バカバカしいかぎりだがオリンピック・デーでもあるという。
 そして、この日が敬愛する吉田博徳さんの誕生日。本日、吉田さんは、満100歳となった。しかも、頗るお元気である。健康で長寿は古今東西誰もが望むところ。コロナ禍のさなかではあるが、まことに目出度い。

 吉田さんは、笑顔を絶やさない。ときに得意の歌を唱って、周囲をなごませる。今日もお電話して、「100歳になったら、周りの景色が変わって見えませんか」と聞いてみたら、「何にも変わりませんよ。別に頑張って長生きしているわけでもないんですから」と淡々としたもの。最近は、コロナを警戒して外出は控えているそうだが、近い再会を約束した。会えば、楽しいし得るものがある。

 吉田さんは、1921年6月23日の生まれ。来月7月1日に中国共産党が党創立100周年の記念式典を行うというから、吉田さんの方が中国共産党よりも少しだけ年嵩なのだ。そして、沖縄戦終結の日が24歳の誕生日だったことになる。

 大分県で生まれ、6歳のとき一家で植民地時代の朝鮮(全羅北道金堤邑)に移住している。地元の金提尋常高等小学校を経て京城師範学校を卒業、1941年長安国民学校教師となった。世が世であれば教師としての人生を送るはずが、翌年招集されて都城の部隊に入営。次いで、ノモンハン事件直後の満州ハイラル(現内モンゴル自治区)に配属となる。そして1945年大分陸軍少年飛行兵学校の教官で終戦を迎えた。

 戦後は福岡地方裁判所に書記官として就職し、労働運動に身を入れる。全司法労働組合中央執行委員として専従活動家となった。全司法労働組合中央本部書記長から,伝説の解雇撤回闘争を担った委員長となる。その後、日朝協会、原水協、平和委員会で活躍。小平市長選挙にも立候補している。私とは、日本民主法律家協会でのお付き合い。

その多忙な活動の人生で、齢をとることを忘れてしまったのかも知れない。とても100歳の人とは思えない。姿勢も、足取りも、発声もしっかりしたもの。お話しの論理に破綻がない。矍鑠という言葉はこの人にためにつくられたとさえ思わせる。一部では「怪物」ともささやかれている。

 吉田博徳さんは、どんな小さな会議でも大集会でも、背筋を伸ばしてはっきりと発言される。声量豊かで滑舌にくぐもりがない。常に正論で、論旨明快でもある。だから、吉田さんが話を始めると、自ずと聞く姿勢になる。私も、襟をただして聞く。
 
 吉田さんに近づいたところで、経済的利益にはつながらない。政治的に威勢を振るうことにもならない。それでも、「徳は孤ならず 必ず隣有り」なのだ。このように齢をとりたいというお手本であり、私にとっての師匠である。

 お師匠さん、いつまでもお元気で。 

文化庁を、「文化阻害庁」ではなく、「文化振興庁」とするために。

(2021年6月22日・毎日更新連続第3003回)
 東京地裁でも、ときに立派な判決が出る。昨日の「映画『宮本から君へ』助成金不交付取消」事件判決。真っ当に表現の自由の価値を認め、これを制約する行政裁量を限定した。共同通信は次のように報じている。

 〈映画「宮本から君へ」に出演したピエール瀧さんの刑事処分を理由に助成金1千万円の交付を取り消されたのは違憲だとして、映画製作会社が文化庁所管の独立行政法人「日本芸術文化振興会」(芸文振)を相手取り、交付を求めた訴訟の判決で、東京地裁は21日、「処分は裁量権の逸脱で違法」として、不交付決定の取り消しを命じた。
 判決によると、映画が完成した2019年3月、瀧さんは麻薬取締法違反容疑で逮捕され、同7月に執行猶予付きの有罪判決が確定した。これを受け、芸文振は内定していた映画への助成金を交付しない決定をした。〉

 事件は次のとおりである。
 原告 スターサンズ(映画製作会社)
 被告 「独立行政法人・日本芸術文化振興会」(芸文振)
 訴えの内容 内定した助成金1000万円の不交付決定取消請求
 裁判所 東京地裁民事51部(清水知恵子裁判長)
 判決 2021年6月21日 請求認容(「不交付決定を取消す」)

 内定した助成金1000万円不交付の理由は「公益性」とされた。その具体的内容は、出演者のひとりである俳優ピエール瀧の刑事処分であった。表現の自由とは何物にも替えがたい重要な理念ではなかったか。いったい「公益」とは何だ、行政裁量はかくも安易に表現の自由を制約しうるのか、が争われた。

 朝日の報道に、原告会社社長のコメントが掲載されている。

 判決を受け、原告の製作会社スターサンズの河村光庸社長と弁護団が会見し、判決を「画期的」と評価した。
 河村社長は「私は公益性とは国民の一人ひとりの利益の積み上げだと考えていたが、彼ら(芸文振や文化庁)の公益性は国益なのだと理解せざるをえない。国民の憲法がいつのまにか為政者の憲法にすりかえられている。今後も公益性とは何かについて追求していく」と厳しい表情で話した。

 「河村さんは喜びを口にする一方『為政者が人間たる表現をうやむやにし、ないがしろにしようとしている。現実を直視していきたい』と、国会審議を含めた現政権の姿勢を批判した。」(東京新聞)とも報じられている。

 この事件に注目するのは、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」問題によく似ているからでもある。

 文化庁は、「文化資源活用推進事業」として審査の上、交付が内定していた「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金約7800万円について全額不交付とした。これが2019年9月26日のこと。あのときの衝撃は忘れがたい。「宮本から君へ」芸文振への助成金不交付決定から2か月後のこと。

 その後補助金申請者である愛知県は同年10月24日に不服申立をした。世論の後押しもあって、2020年3月23日文化庁は折れて6,661万9千円の交付決定に至った。(下記URL参照)

https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/20032301.html

 具体例を見る限り、文化庁とは「文化阻害庁」のごとくである。しかし、ひとつは世論の力で、そしてもう一つは真っ当な司法の存在で、文化阻害行政を本来の任務である「文化の振興」に舵を切らせることが可能なのだ。この社会、まだ望みはある。

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