(2021年6月5日)
いまだ中止の決断ないままの東京五輪開会予定日まで50日に満たない。そして、東京都議選の投開票まではちょうど30日である。東京五輪は中止しなければならない。都議選は、都民の五輪中止の意思表明の場となるだろう。
いまや、肥大しただけでなく、カネと権力にどっぷり浸かったオリンピックは平和の祭典としての意義を失い、弊害の方が遙かに大きくなっている。とりわけ東京五輪の害悪は、到底看過し得ない。東京五輪は本来誘致されるべきものではなかった。東京五輪は中止しなければならない。こんなものに、際限もない大金を投じてきた輩の責任は大きい。
しかも、いま恐るべきパンデミックの事態である。国民の生命と健康が危険に曝されているこのときに、東京五輪開催の強行は正気の沙汰ではない。東京五輪の開催が国の内外に爆発的なコロナ蔓延のリスクを有すること、貴重な医療リソースを剥奪することを通じて、国民の生命と健康の危険を激化することは目に見えているではないか。にもかかわらず、敢えて東京五輪を開催すべき大義はあり得ない。
さらに、問題は根深い。今夏の東京オリパラの開催はあり得ないというのが、都民・国民の大多数の認識である。この圧倒的な民意を無視して、敢えて開催させようという反民主々義的な力学が働いている。その反民主の元兇は菅政権であり小池都政でもあるが、これにとどまらない。「誰もが犠牲を払わないといけない」と、都民への犠牲要求を広言するボッタクリ男爵とこれを首領とするIOC帝国をも糾弾しなければならない。
以上の、東京五輪を中止すべき理由を箇条書きにして、書き留めておきたい。
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第1条 オリンピック開催に、何の大義も名分もない。
所詮オリンピックとは規模の大きな運動会に過ぎない。運動会との質的な違いは、権力が関与し、ナショナリズムが動員され、大金が動くことである。大金が動くところ必ず利権が生じる。権力と資本の思惑による大衆操作のイベントを神聖視したり、特別視してはならない。
第2条 国威発揚・ナショナリズム涵養のオリンピックは百害あって一利もない。
ヒトラーのベルリン大会以来、オリンピックは、国威発揚とナショナリズム涵養の舞台となった。
第3条 商業主義に絡めとられたオリンピックに踊らされてはならない。
オリンピックにおいて、スポーツは権力の走狗となっただけでなく、商業主義の僕となっている。企業の思惑があの手この手を駆使して「感動」を作り出し、人々の感情を操作して儲けのタネにしている。
第4条 新たな貴族と新たな差別とをもたらすオリンピック
オリンピックに集まるカネと名声が新たな貴族階級をつくっている。IOC会長のバッハが「天皇に会わせろ」と要求しているという。旧特権階級に近づこうという、新興特権階級の愚かな姿勢と嘆かざるを得ない。
第5条 開催都市と国とに、莫大な負担をもたらすオリンピックをもうやめよう
オリンピックは権力と資本に利用されて大規模化を続け、今日のごときモンスターとなった。開催都市・国の財政負担と、混雑・混乱の負担は耐えがたい。一部の思惑で、住民に迷惑なオリンピックはもう止めよう。
第6条 ウソとゴマカシ、賄賂にまみれた招致活動の東京五輪は開催に値しない。
安倍晋三お得意「ウソとゴマカシ」、JOCと電通による賄賂の提供。こんなみっともない誘致で決まった東京五輪。プライドあるなら、返上しかないだろう。
第7条 政権浮揚を目的の東京五輪を開催させてはならない。
落ち目となったアベ・スガ政権の人気浮揚策としての東京五輪ではないか。また、こちらも不人気の小池都政の起死回生の人気浮揚策。こんなものに付き合ってはおられない。
第8条 東京五輪はこれ以上ない税金を無駄遣い
不思議なことに、五輪名目だと打ち出の小槌のごとく予算が出て来る。国と都と、財界の協賛金と、予算は際限なく膨らんで1兆6000億円を超えている。財政破綻をもたらす五輪はごめんだ。
第9条 そもそも愚かな真夏の東京のオリンピック
東京の真夏の蒸し暑さは格別である。特に、温暖化進展の近年はひどい。その夏の苛酷なスポーツイベントは中止が賢明である。
第10条 コロナ禍のさなか、国民の命と健康を損なう
今夏の東京五輪が開催されれば、大規模に人が動き、大規模に人と人とが接触する。爆発的な新型コロナの蔓延拡大を憂慮せざるを得ない。国民の命と健康に直接関わり、さらに経済活動に障害となる。
第11条 国民の医療資源が奪われる。
「安全・安心」を目指して、どんなに慎重な配慮を尽くしても、貴重な有限の医療資源が五輪のために奪われる。国民の生命と健康、安全安心が奪われるということだ。
第12条 東京五輪開催で、国民はアスリートを怨嗟することになる。
権力と資本が、思惑あって東京五輪を強行すれば、アスリートを特別扱いすることにならざるを得ない。アスリートと非アスリートの差別が生じる。国民はアスリートをリスペクトするどころか、その特別な待遇を非難することになるだろう。ここにも、国民の分断による新たな差別が生じる。
第13条 IOC帝国の侵略を許してはならない。
IOCとは、何様であるのか。自分を何様と思い込んでいるのか。緊急事態宣言下でも、「オリンピックは開催せよ」「犠牲はやむを得ない」とは、何たる言い草か。
日本は主権国家である。IOCの思惑のとおりには動かない。菅や小池はいざ知らず、主権者国民・あるいは都民は怒っている。けっして、IOCやバッハのいうとおりにはならない。東京オリパラを中止せよ、しかも即刻に。
(2021年6月4日)
6月4日。1989年のこの日の早朝、北京天安門広場とその周辺に集まった無防備・無抵抗の群衆に人民解放軍が襲いかかった。「針一本、糸一筋も盗まない」ことで、人民からの信頼を得てきた中国共産党の武力装置が人民に銃を向け発砲したのだ。
天安門広場に集まった大群衆は、党と国の民主化を求めていた。この人たちが銃撃され、夥しい死傷者を出した。殺戮されたのは広場に集まった学生や市民ばかりではない。民主主義や人権も虐殺された。
事件の犠牲者数は、公式には319名とされているが、これを信じる者はない。犠牲者数の推計は数千人説から数万名説まである。ちょうど、関東大震災時の軍と民衆とによる、朝鮮人・中国人虐殺犠牲者数と事情がよく似ている。正確なところは分からない。弾圧者側が犠牲者の数すら数えようとしないからだ。
中国共産党は、1921年7月1日を党創立記念日(「建党節」)とする。もうすぐ100年である。党による、民主化闘争へのこの武力弾圧事件は、100年の党の歴史の中での明らかな汚点である。公式の党100年史にはどう書くのだろうか。民衆を殺し、民主主義を殺しただけでなく、歴史をも殺すのだろうか。我が国の歴史修正主義者と同様に。
天安門事件の中心物の一人で、その後亡命せず何度にも渡る投獄にも屈しなかった人物の典型として劉暁波が知られている。彼が起草し、仲間とともに発表したとされるのが、中国民主化のグランドデザインを描いた「08憲章」である。2008年12月10日付でインターネット上にアップされたもの。今、これを読み直して、胸が痛む。武力ではなく言論で中国の民主化が可能だと信じた彼らの理想が語られている。が、今なお、現実はほど遠い。
「08憲章」は、下記の4章から成っている。
1、まえがき
2、我々の基本理念
3、我々の基本的主張
4、結語
(訳文の出典は主として下記のブログによる。)
https://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2
「まえがき」の一節に、中国政治の現状がこう書かれている。
「法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。」
「2、我々の基本理念」として取りあげられているのは、「自由・人権・平等・共和・民主・憲政」の6項目である。それぞれに詳細な解説が掲げられ、その上で、次の一節で締めくくられている。今読んで、党に対する鋭い批判となっている。
「中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。」
「3、我々の基本的主張」には、19項目の具体的主張が書き連ねられている。その中の印象的なものを抜粋する。
- 民主的な立法:各級立法機関は直接選挙によって選出され、公平・正義の原則に則り、民主的な立法を実行する。
- 司法の独立:司法にはいかなる干渉も禁止される。司法の独立と公正を確保する。憲法裁判所を設け、違憲審査制度を打ち立てる。国家の法治を損なう共産党の政法委員会を早期に廃止し、公共機関の私物化を禁止する。
- 公共機関の公共性:軍隊の国家化を実現し、軍人は憲法と国家に忠誠を尽くさなければならない。共産党組織は軍隊から退かなければならない。軍隊の職業化をレベルアップしなければならない。警察も含め、全ての公務員は政治的中立を維持しなければならない。公務員は党派の別なく平等に採用しなければならない。
- 人権の保障:人権委員会を設立し、政府による公権濫用・人権侵犯を防止し、とりわけ公民の人身の自由を保障する。いかなる人も不法な逮捕、拘禁、召喚、審問、処罰を受けない。「労働教養制度(注 裁判などの手続きを経ることなく最長4年まで拘禁可能な制度)」を廃止する。
- 公職選挙:民主的な選挙制度を全面的に推し進め、一人一票の平等な選挙権を確立させる。各級行政首長の直接選挙を制度化して一歩一歩推し進める。
- 都市部と農村部の平等:現行の都市部・農村部の二元戸籍制度を廃止し、公民が一律に平等な制度を確立する。公民の自由移動の権利を保障する。
- 結社の自由:公民の結社の自由を保障し、現行の社団登記の審査・許可制を届出制に改める。結党の禁止を解除し、憲法と法律によって政党行為の規範を定め、一党による事実上の独裁を解消し、政党活動の自由と公平な競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。
- 集会の自由:平和的な集会、行進、デモ及び自由の表現は、憲法が規定する公民の基本的自由であり、政権政党や政府から不法な干渉や違憲の制限を受けてはならない。
- 言論の自由:言論の自由・出版の自由・学問の自由を確立し、公民の情報を知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道に対する制限を解除する。現行「刑法」中の”国家政権転覆扇動罪”の条文を削除する。言論を理由に罪を科してはならない。
- 宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障し、政教分離を実行する。宗教・信仰の活動に政府は介入してはならない。宗教の自由を制限若しくは剥奪する行政法規、行政定款、地方条例を審査並びに撤廃する。行政立法によって宗教活動を管理することを禁止する。
- 公民教育:一党独裁に奉仕させる政治教育及び政治試験を廃止し、普遍的価値と公民の権利を基本とする公民教育を推進し、公民意識を確立させ、社会に奉仕する公民の美徳を唱道する。
- 連邦共和制:香港・マカオの自由制度を維持する。台湾については、自由・民主の前提の下で、平等な立場での交渉と協力的な対話により海峡両岸の和解計画を追求する。各民族の共同繁栄の道筋と制度設計を模索し、民主・憲政のシステムの下、中華連邦共和国を樹立する。
- 正義の転換:政治運動において迫害を受けた人及びその家族に対し、名誉を回復し、国家賠償を行う。全ての政治犯、「良心の囚人」、信仰を理由に罪を着せられた人を釈放する。真相調査委員会を設立し、歴代の事件の真相を明らかにし、責任を整理し、正義を実現し、社会の和解を追求する。
「4、結語」は、こう結ばれている。
遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。
そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。
我々は、同様の危機感・責任感・使命感を抱いている全ての中国公民が、政府と民間の区別なく、身分を問わず、小異を残して大同に就き、積極的に公民運動に参与して、中国社会の偉大な変革を共に推し進め、一日も早く自由・民主・憲政の国家を打ち立て、国民が100余年の間粘り強く抱き続けてきた夢を実現することを希望する。
熱く「100年の夢」を語った劉暁波は、その実現を見ることなく2017年に亡くなっている。果たして中国は、いつになったらこの夢を実現できるだろうか。いま、状況はさらに困難に見える。しかし、見果てぬ夢に終わることはあるまい。
(2021年6月3日)
人権とは、権力による侵害とせめぎ合うことを宿命づけられた存在である。人権は何よりも権力の横暴から擁護されなければならない。人権対権力、そのもっとも苛烈なせめぎ合いの最前線が、刑事司法の舞台である。刑事司法における被疑者・被告人の人権状況は、その国全体の人権状況を物語っている。
野蛮な社会の刑事手続においては、権力が正義をふりかざして「犯罪者」を糾問する。文明社会では、被疑者・被告人に人権擁護のための手続き的諸権利が保障され、訴追権との対等性の確保が目指される。そして、可能な限りの刑事手続の透明性・公開性が尊重される。
私は、カルロス・ゴーンという人物を虫酸の走るほどに嫌な奴と思ってきた。この嫌悪感は、彼が多くの労働者のクビを切ることで日産の救世主ともてはやされた頃からのもの。人を不幸に陥れることの対価として、巨大な報酬を手にすることを恥とも思わぬ悪辣な人物というイメージである。
悪辣なゴーンも被疑者・被告人となれば、強大な権力と対峙する弱い人権主体に過ぎない。「善人」であろうと「悪漢」であろうと、刑事手続における被疑者・被告人には厳正な人権保障がされねばならない。
そのゴーンが、日本の刑事司法手続を、遅れたもの、不十分なもの、国際水準に達していないもの、と攻撃したことが記憶に新しい。「人質司法」である、「密室司法」である、「取り調べに弁護人の立会権すらない」…などと。この指摘が当たっている面のあることは、否定しがたい。日本の刑事司法は、被疑者被告人の人権保障の面から必ずしも十全とは言えない。いくつもの欠陥や改善点が指摘されている。
しかし、下には下がある。中国の刑事司法と比較すると、日本の刑事司法における人権保障は何とも立派に見える。中国にも刑事裁判制度はあり、立派な裁判所の建物もある。が、そこは人権保障のために権力が制約される場ではない。とうてい文明国の刑事司法とは言えない。下記は当ブログに1年前に載せた記事だが、事態が改善される見通しはない。
https://article9.jp/wordpress/?p=15120 (2020年6月21日)
中国最新人権事情 ー おぞましい天皇制時代なみではないか。
国立大学法人北海道教育大学の袁克勤(えん・こくきん)教授が、母親の葬儀に参列のため里帰りした長春で当局に拘束(拉致というべきか)されてから2年にもなる。同氏は、札幌に長く居住しているが中国籍。日本政府が袁克勤氏救出に向けて動く気配は見えない。
2年間拘束されて、袁氏の裁判はまだ開かれていない。公開の法廷での裁判は期待しがたい。弁護人との接見が初めて実現したのが、拘禁開始から2年を経た今年の5月になってのことだという。保釈など、およそ無理な話。
「救う会」が公表している袁教授拘束の経緯は以下のとおりである。(理解し難い用語も多いが、そのままとする)
【2019年】
5月25日 母親の葬儀に出席するため、妻と日本を出国。中国大連に到着
5月28日 長春での母親の葬儀に参列
5月29日 長春駅近くで、突然現れた長春市国家安全局員に妻とともに拘束される。目隠しされて別々の車で連行される。
6月 1日 妻だけが解放され、袁さんは長春市第3看守所へ移送される
6月中旬 妻だけ札幌に帰宅。北海道教育大に対し、袁さんが「高血圧の治療のため帰国できなかった」と説明
7月上旬 妻が再び中国へ。中国当局の指示通り、袁さんのパソコンなどを持参
同上 妻が袁さんの妹に事情を打ち明け、事件が発覚
9月11日 国家安全局が妻を呼び出し、袁さんをスパイ容疑で正式に逮捕したと通知。弁護士の依頼を許可する
11月初め 国家安全局が事件を長春市検察院に送致
11月25日 「証拠不十分」で不起訴となり、国家安全局へ戻される
【2020年】
2月24日 検察院に再度送致されるが、「証拠不十分」で再び不起訴となる
3月 6日 検察院が起訴。長春市中級人民法院へ送る
3月13日 刑事事件第二廷へ移される
3月26日 中国外務省が袁さんをスパイ容疑で拘束したことを認める
【2021年】
1月 事件を長春市中級人民法院が担当することが決まる
4月22日 中国外務省が袁さんを起訴したと明かし、「事実を包み隠さず自供し、証拠も確か」と説明
5月9日 中国の弁護人から、家族に「袁さんと接見できた」と連絡が入った。
袁氏がなぜ拘束されたのか、いまだに謎のままである。中国政府はスパイ罪としているが、起訴内容など、具体的な罪状については明かしていない。
以下は、NHKの報道である。
今年(2021年)4月に新たな事実が分かりました。中国外務省の定例記者会見で、報道官がNHKの質問に対して答えました。
NHK 「北海道教育大学の袁克勤教授が捕まってから1年以上が過ぎている。彼はどこに拘束され、どのような状態にあるのか。家族によると、弁護士も家族も袁さんに面会が出来ていないようだが、どのような状況なのか」
中国外務省報道官 「袁克勤氏は中国国民で、スパイ犯罪に関わった疑いで中国の国家安全部門により法に基づいて取り調べを受けている。本人は犯罪事実を包み隠さず供述し、証拠は確かだ。すでに起訴され、裁判所で審理が行われている。担当機関は彼の訴訟に関する権利を十分に保障している」
袁さんは、起訴されていたのです。その一方で、報道官は詳しい理由や健康状態には言及しませんでした。今後予想される袁さんの裁判については、積極的な情報の開示は行われず、非公開のまま判決が出される可能性もあるとみています。
中国外務省報道官の回答の真偽はともかく、その語り口はなかなかに興味深い。中国も、野蛮とみられることはイヤなのだ。何とか、文明国としての取り繕いをしたいのだ。だから、「法に基づいて取り調べを受け」「本人は犯罪事実を供述」「証拠は確か」「すでに起訴され、裁判所で審理が行われている」「彼の訴訟に関する権利を十分に保障している」などと言ってみせるのだ。人権擁護のための刑事司法の手続き的原則を無視しているとは言えないし、思われたくない。
もっとも、ゴーンは日本の刑事司法の不備を激しく攻撃した。しかし、釈放後の袁氏が中国の刑事司法の野蛮を攻撃できるとはとうてい思えない。批判を許さない恐ろしさ、それこそが野蛮なのだが。
(2021年5月31日)
東京都議選の告示は6月25日だが、事実上の選挙戦は既に始まっている。投開票の7月4日は東京五輪開会式まで20日たらず。この都議選、今秋総選挙の前哨戦であるよりは、東京オリパラ開催可否の民意を問う住民投票という性格が強い。
本日の毎日新聞コラム「風知草」(山田孝男)に、こんな注目すべき一節がある。
菅首相はなぜ、五輪中止と言わないか。菅の心境を知る人物に聞くと、「いろんな人が努力してやってきたから」という。
「いろんな人」の筆頭は安倍晋三前首相だろう。安倍は五輪を成長戦略の柱に据えた。陣頭指揮で招致に成功、経済界と国民を鼓舞した。菅は安倍に仕え、安倍の支持を得て総裁選に勝利。長期政権8年を支えた人脈がなお五輪実現で結束しており、菅の一存では動かない――らしい。
アベ人脈の意向が壁で五輪中止とは言えない…のであれば、都民の意思で言わせるしかない。都知事選がその絶好の機会ではないか。
東京新聞5月25日の「都民意識調査」の結果が、極めて興味深い。
問1 あなたは東京五輪・パラリンピックについてどう考えますか。(数字は%)
観客を制限して開催する 17.3
無観客で開催する 11.0
中止する 60.2
どちらともいえない・わからない 11.5
問2 菅義偉首相は五輪・パラリンピックについて「国民の命や健康を守り、安全・安心の大会を実現することは可能」と説明していますが、納得できますか。
納得できる 13.2
納得できない 67.2
どちらでもない 19.6
問3 あなたは政府の新型コロナ対策を評価しますか、評価しませんか。
大いに評価する 3.8
ある程度評価する 17.0
あまり評価しない 34.3
全く評価しない 42.9
わからない 2.0
過半の都民の意思は、政府のコロナ対策を批判し、オリパラの中止を求めているのだ。そのような政策を掲げる政党・候補者の選挙戦勝利が現実化すれば、政権に打撃を与え、オリパラの中止を実現することが可能となる。そのことが、コロナの蔓延再拡大を抑制し、多くの人命を救うことにもなる。
では、オリンピックの中止についての、各政党の姿勢はどうなっているか。東京都議会文教委員会は先週金曜日(5月28日)、東京五輪・パラリンピックの中止を求める陳情について採決した。共産、立憲民主が賛成したが、少数で不採択となった。反対にまわったのが、都ファ、自民、公明である。
賛成討論で、共産は「都も国も新型コロナウイルス対策に全力を挙げるべきだ」とし、立民は「都民、国民に理解と協力を得るための努力も十分ではない」と、それぞれ採択を主張した。注目すべきは都ファの「反対討論」である。「再度の延期も含むあらゆる選択肢を視野に入れるべきだ」と言うのだ。けっして、「断乎開催」の主張ではない。それでは都民の支持を得られないことが自覚されている。そこで「再延期」という中途半端な選択肢。なお、自・公は発言をしていない。
さらに注目すべきは、都ファの「特別顧問」となっている小池百合子の意向である。小池は、同日(5月28日)の定例会見で、オリパラの再延期は困難とニベもない。それどころか、この特別顧問氏、いまだに来たるべき都議選で、都ファを「支援する」とは口にしていない。
2017年の前回都議選では、小池が率いる「都民ファーストの会」が公明党と組んで大勝し、孤立した自民が大敗を喫した。今回選挙は構図が一変。自公が再連携して都ファが孤立している。小池は、今に至るもその都ファへの支援を鮮明にしていないのだ。
結局、議会最大勢力の「都ファ(現有46議席)」に、「自・公(現有48議席)」と「共・立(現有18+6、計24議席)」が挑むという、3ブロックの争いになる。オリパラ中止のためには、「共・立」ブロックの勝利が必要だが、その条件が見えているのだ。
都民のオリパラ中止世論の追い風がある。先に引用した東京新聞の「都民意識調査」の予定投票先政党を問う設問に対する回答をご覧いただきたい。
問7 もし今、都議選で投票するとしたら、どの政党・政治団体の候補者に投票しようと思いますか。
都民ファーストの会 9.6
自民党 19.3
公明党 3.4
共産党 12.9
立憲民主党 14.0
東京・生活者ネットワーク 1.6
日本維新の会 3.4
国民民主党 0.5
旧N国 0.5
れいわ新選組 2.0
「都ファ(現有46議席)」はわずか9.6%。おそらくは惨敗となる。「自・公(現有48議席)」は合計22.7%。対して、「共・立(現有24議席)」が計26.9%と最大勢力となっている。大いに、期待して良いのだ。
なお、あと二つの設問を引用しておこう。都民の菅政権に対する評価は、極めて厳しいのだ。
問5 医療従事者や高齢者へのワクチン接種が区市町村ごとに行われています。あなたはワクチン接種が順調だと思いますか。
順調だ 4.1
どちらかといえば順調だ 13.9
あまり順調ではない 35.3
まったく順調ではない 43.2
わからない 3.5
問9 あなたは菅義偉内閣を支持しますか、支持しませんか。
支持する 16.1
支持しない 64.4
わからない 19.5
(2021年5月30日)
中公選書「『敦煌』と日本人―シルクロードにたどる戦後の日中関係」(21年3月刊・榎本泰子著)に目を通した。懐かしい風景を見直すような、過ぎ去った良き昔を思い出させる書である。あの時代、日中友好とは革新派のみならず良識ある日本人共通の了解事項であった。お互いが相手国を脅威としてはならないとの認識があった。日本人の多くにとって、中国の文物は好ましいものであり、シルクロード・敦煌はその象徴的存在であった。
私も、中国へは何度も出かけた。西安までは何度か足を運んでいるが、敦煌に行ったのは一度だけ。1泊2日飽きずに莫高窟の各室を眺め、鳴沙山と月牙泉の風景を堪能した。はるけくもあこがれの地に来たという感慨が深かった。
榎本の著書は、私の世代の日本人の中国観をよく写している。章立ては以下のとおりである。
第一章 井上靖と「敦煌」
第二章 日中国交正常化とNHK「シルクロード」
第三章 改革開放と映画『敦煌』
第四章 平山郁夫の敦煌
ここまでの叙述は、まことに心地よく読める。
ところが、「第五章 大国化する中国とシルクロード」で状況は、ガラリと変わる。中国に親しみを抱いて育った世代には、読み進むのがつらい。まずは、「天安門事件の衝撃」である。長く革新陣営にとっての希望の星だった「人民中国」が、無防備の人民に銃を向け殺戮したのだ。中国を希望としてきた期待が音を立てて崩れた「衝撃」である。この点を抜粋する。
「1989年4月改革派のリーダーで既に失脚していた胡耀邦が死去したのをきっかけに、政治の民主化を求める学生・市民らがデモを始めた。5月には中ソ対立の終結を意味するゴルバチョフ書記長の訪中があったことなどから改革に対する期待が高まり、北京の天安門広場に集結した人々は100万人とも言われた。民主化運動が全土に広まったが、中国共産党指導部内では対応を巡って改革派と保守派の間で激しい対立が起こり、危機感を抱いた最高指導者鄧小平は人民解放軍の投入を決断した。6月4日未明天安門広場に戦車が突入し、市内各所では無防備の市民らを部隊が銃撃、死者多数を出す流血の大惨事となった。その様子は外国メディアによって一斉に世界に封じられ、独裁政権の暴挙として国際社会の強い批判を浴びた。
それまで一貫して友好ムードで中国に接していた日本人の間にも、激震が走った。」
残念ながら天安門事件での「恐い中国」のイメージは基本的に修復せず、習近平の時代となって、さらに深化して定着する。一帯一路政策によってである。最近の新疆ウイグルの事態を著者はこう記している。
「2014年4月、新疆ウイグル自治区を視察した習近平国家主席を狙ったとされる爆破事件がウルムチ南駅で発生したことを契機に、現政権によるウイグル族の思想教育が全面的に行なわれるようになった。従来はテロや独立運動に関わる(と見なされる)者を逮捕・拘束する一方、ウイグル族指導層・知識層・宗教指導者などの再教育を重点的に行なっていたが、2016年以降社会の安定や治安維持を目的とする条例やガイドラインを相次いで制定し、これに違反するとみられるウイグル族市民市民を全て職業技能教育研修センターで再教育することにした。その目的は、実質的にウイグル族からイスラム教の風俗習慣を奪い、文化伝統の継承を禁じ漢族との同化を進めることである。中国共産党が一党支配を進めるにあたり、宗教を信じる者が党幹部よりも神や宗教指導者の言葉に耳を傾けるようでは不都合だ。そこで、ウイグル族にとっては外国語に等しい中国語(漢語)を教育し、習近平思想を学習させ、共産党をたたえる歌を歌わせたりするのである。
現在、新疆ウイグル自治区のウイグル族一般市民は、スマートフォンに監視アプリをダウンロードさせられ、日常の行動経路や通話記録インターネットの閲覧履歴などを公安当局に把握されている。また、無料健康診断と称してDNAや虹彩・指紋などの生体情報が収集され、個人情報とリンクさせて犯罪とみなされる行為の摘発に役立てられているという。
在外ウイグル人の証言や欧米系メディアの取材に基づけば、研修センターは中国当局の言う職業訓練施設などではなく、思想改造のための隔離収容施設であり、犯行するものを拷問し死に至らしめる場所であるという。」
デジタル技術を駆使しての個人情報の完全把握。かつては不可能と思われていたことが今や可能なのだ。中国政府は、ウイグル市民一人ひとりの生育歴から、健康状態、日常行動や思想内容まで、すべてを把握し管理しているのだという。これは、ジョージ・オーウェルが想像した『1984年』の世界を遙かに凌駕するデストピアではないか。
いつの日か、中国の党と政府が人権弾圧を反省して謝罪する日が来るだろうか。また、日本の国民がアメリカの支配や国内保守政権のくびきを脱して、民主的な国家をつくる日は来るのだろうか。そのように面目をあらためた日中両国の人民が、緊密な友好を確立することは夢でしかないのだろうか。その日が、遠くない将来のいつか来るだろうことを願うばかりである。
(2021年5月29日)
またまた、野蛮な中国の姿が際だっている。一昨日(5月27日)の香港でのことだ。文明からほど遠いこの国には、大国の風格も余裕もない。法の支配も、人権の尊重も民主主義の片鱗もない。自由な選挙さえも許容できないのだ。まざまざとそのことを見せつけられて溜息が出るばかり。
5月27日、香港立法会(議会)は、選挙制度改正の条例案を可決した。実は、中国政府の意向は本年3月の全人代で決まっていた。その北京の指示が、そのとおりに香港で実行されたのだ。恐るべきことというべきか、あるいは馬鹿馬鹿しいというべきか、「愛国者」でなければ立候補できないというトンデモ選挙制度ができあがった。
いかに馬鹿馬鹿しくても、世界のもの笑いであっても、当局が「非愛国的」と判断した人物は香港立法会の議員選挙に立候補できないのだ。こんなことが今現実に起こっている。いったい、今は何世紀であったか。
「愛国」とはいったい何だ。その内容はどうでもよい。「候補者資格審査委員会」が「非愛国者」と認定すれば、立候補はできない。事実上中国共産党の判断と指示次第で、立候補者が決められる。こんなものを選挙とは呼べない。
選挙とは民意の選択によって立法府ないしは権力機構を構成することである。その民意の選択の前に、党の意思、政府の意思が立ちはだかる。党の意思に反した民意の反映などあってはならないとするのが、新「選挙」制度である。
雨傘運動の高揚以来、香港の圧倒的な民意は中国と闘ってきた。その民意がどこにあるか、自由・民主主義・人権の尊重・法の支配・三権分立を求めていることは明らかである。野蛮な中国は香港の文明を許せないのだ。香港の文明は、野蛮な中国の武力によって蹂躙された。21世紀の大国の蛮行として記憶にとどめておかねばならない。
林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、「審査委員会は立候補者を政治観で差別しないと述べた一方、あらゆる『非愛国者』を除外する」と述べたという。何という野蛮で露骨な物言いであろうか。言うまでもなく、『非愛国者』とは、中国共産党・中国政府から見て、望ましからぬ人物、弁えぬ人のことである。一方、『愛国者』とは権力におもねり、権力にへつらう人物を言う。『非愛国者』とは節を曲げない廉潔の士を意味し、『愛国者』とは阿諛追従の俗物のことである。いかなる境遇にあろうとも、けっして「愛国者」にはなりたくない。
我が国の戦前、野蛮な天皇制下の衆議院議員選挙法が改正されて普通選挙法が制定されたのが、1925年である。治安維持法などの弾圧法規とのセットではあったが、天皇制すら「愛国」を立候補の条件とはしなかった。中国共産党恐るべしである。
同じ、5月27日。香港の警察当局は、民主派団体が6月4日に計画していた天安門事件の犠牲者を追悼する集会について、開催不許可とした。
野蛮な中国本土では天安門事件を口にすることもできない。これに反して、文明の香港では、毎年の追悼集会が開かれてきた。これが、昨年初めて不許可となった。表向きの理由はコロナ対策だが、信じる者はない。続いて今年も、である。警察を管轄する李家超保安局長は同日、記者団を前に「いかなる者も未許可の集会に参加したら違法だ」と強調。「違法行為には厳しく対処する」と警告したという。
かくて、これまで香港に保障されていた「集会の自由」「政治活動の自由」が、中国本土の圧力でなくなった。香港が、限りなく中国化されつつあるのだ。
そして、昨日(5月28日)香港の民主活動家「リンゴ日報」の創業者らに、無許可集会を組織した罪で、再び実刑判決が言い渡された。集会の自由がないだけではない。中国化した香港には、裁判の独立もなくなったのだ。
一昨年(2019年)10月1日、中国建国70周年の国慶節に、香港で行われた抗議デモをめぐり無許可の集会を組織した罪などに問われた民主派の活動家ら10名に対し、香港の裁判所は禁錮1年2月から1年6月の実刑判決を言い渡した。
民主活動家として著名な李卓人氏や中国政府に批判的な論調で知られる香港の新聞「リンゴ日報」の創業者黎智英氏ら8人に対し禁錮1年2月から1年6月の実刑判決を、残る2人に執行猶予の付いた有罪判決をそれぞれ言い渡した。この結果、李氏と黎氏の刑期については、別の抗議活動に関連してすでに言い渡されている実刑判決と合わせて禁錮1年8月が科せられるという。
民主主義の理想を求めた香港の多くの活動家が獄につながれ、あるいは逼塞を余儀なくされている。89年の天安門事件後の中国本土の事情と変わらない。胸が痛むが、この民主化を求める市民のエネルギーは沈静することはない。沸々とたぎったマグマが、いつの日か噴出することになるだろう。そう、願わざるを得ない。
(2021年5月28日)
維新とは、特定の主義主張や体系的な理念に基づいて結成された政党ではない。ひとえに世の風向きを見てこれに乗ろうという本性だから、右にも左にも大きくブレる。ブレないところは、反共の素性と権力への摺り寄りの姿勢である。今や、自民党の補完勢力たらんとして、その地位を公明党と争う立場だが、公明党よりは遙かに右の立ち位置から、自民を引っ張りつつある危険な存在となっている。
もともと、維新は改憲問題にさしたる関心を示さなかった。公式には、この党の「憲法改正への取り組み」は、「70年前に施行されて以来一言一句の改正も行われていない現行憲法を、時代の変化に合わせ、わが国が抱える具体的問題を解決するために改正する」というレベルのもの。その改憲に向けた熱意は低い。
具体的な改憲案としては、「わが党は、教育無償化、統治機構改革、憲法裁判所の設置という3点に絞り込み憲法改正原案を取りまとめた」というにとどまる。中間政党ないし「ゆ党」の宿命として、国民に体系的な政治理念を提示して憲法を語るということはない。維新の言う「教育無償化」は憲法改正なくともできること、「憲法裁判所の設置」は国民の利益になるとは限らない。「統治機構改革」の内実は必ずしも明瞭ではないが、結局は規制緩和政策であり道州制の提案であって、財界の要求の焼き直しに過ぎない。
如上のとおり、維新の憲法政策に自民党のようなギラギラした熱や反動性は感じられない。ところが、今や維新の看板となっている吉村洋文が、昨年12月7日のツイッターでこう呟いて、物議を醸した。
「本日、呉地方総監、自衛隊の皆さまと。国民の生命、財産を守って下さいまして、ありがとうございます。違憲のそしりを受けることがあってはならない。保守を自称する国会議員は、命がけで憲法9条の改正をやってくれ。維新は命がけで都構想をやって大将の首をとられた。その迫力が全く感じられない。」
「(自衛隊が)違憲のそしりを受けることがあってはならない」「保守を自称する国会議員は、命がけで憲法9条の改正をやってくれ」というのだ。これは、アベ自民党へのオマージュではないか。これが維新のわけのわからなさであり、ブレであり、恐さなのだ。
今月(5月)6日の衆院憲法審査会で、「改憲手続き法」改正法案の修正案に立民が賛成したことで衆院を通過した。この日の審査会の採決では、自民、公明、立民、国民の各党が、改正案の原案と修正部分に賛成する一方、共産は改正案原案にも修正案にも反対した。維新は原案に賛成し、修正部分には反対した。
はからずも、国会内での維新の立ち位置が明瞭になった。「自民、公明、立民、国民」という一塊の集団の、左外側に共産があり、右外側には維新がいる。その維新の役割が、自民よりも右に立って「命がけで憲法9条の改正をやってくれ」と言い募っているのだ。
この危険な役割を演じつつある維新を、批判しなければならない。批判の材料はいくつもある。繰り返し報道されているとおり、維新は「不祥事のデパート」なのだから。
まずは、愛知県知事リコール運動の事務局長を務めて署名偽造によって逮捕された田中孝博。まぎれもない維新の総選挙立候補予定者として活動していた人物である。こういう民主主義を理解していない輩が、維新にはゴマンといる。
先月、日本維新の会梅村みずほ参議院議員の男性公設秘書が知人を車で故意にはねたとして大阪府警に逮捕された。被疑罪名が殺人未遂であったことが世間を驚かせた。その後、罪名が傷害に切り替わり起訴猶予となったことで再び話題を呼んだ。
大阪維新の会の公認で2019年4月に初当選した、大阪府池田市の冨田裕樹市長も市政を大混乱させた。家庭用サウナやトレーニング機器などさまざまな私物を市庁舎に持ち込み、市議会で追及されたのだ。問題発覚後に離党している。
2020年8月、日本維新の会に所属していた東京都港区の男性区議が下半身を露出したとして、公然わいせつ罪で罰金15万円の略式命令を受けた。当時、この区議は維新の支部長。事件を受けて除名処分になった。19年5月には、日本維新の会に所属していた丸山穂高衆院議員が、北方領土のビザなし交流で訪れた国後島で、元島民に「戦争で島を取り返すのは賛成ですか」などと言い、さらに「女性買いたい」発言まで公となって除名された。
維新勢力が跋扈している大阪のコロナ対策は甚だ心もとない。昨日(5月27日)までの累計コロナ死者数は大阪府がトップの2247名で、2位の東京都2042名を凌駕している。人口10万人あたりの累積死者数では大阪府25.49名で、東京都の14.62名を大きく上回っている。
そもそも大阪のワクチン対策として思い出されるのは、イソジン、大阪ワクチン、雨ガッパなどである。場当たり、非科学、思い付きの対応なのだ。またか、と看過せず、しっかりと維新を批判しよう。民主主義のためにも、自民党主導の改憲を阻止するためにも。
(2021年5月27日)
今通常国会は6月16日(水)に閉会となる。残された日程は、20日にも足りない。ここまでの審議を振り返って特筆すべきは、入管法改正法案の撤回であったろう。間もなくの解散、総選挙という日程を考えれば、事実上の廃案である。菅内閣も与党も、実はそれほどの強さをもってはいないのだ。彼らも、メディアや世論の目が恐い。次の選挙を意識せざるを得ないから、分かり易く不人気なテーマをゴリ押しすることはできない。そのことを如実に教えてくれた法案の扱いであった。
同法案をめぐって、野党は、名古屋出入国在留管理局の収容中に起きたスリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん死亡事件の真相解明を強く要求した。立民、共産、国民3野党国対委員長は、ウィシュマさん収容中の「容態観察」のビデオ開示を求め、これを拒否する政府与党との攻防が法案の成否を決した。
政府は、どうしてもこのビデオを公開したくないのだ。徹底して公開を求める野党の方針が揺るがないとみるや、与党は一転法案審議の進行を諦めた。喧伝されているとおり、これは「国民世論と野党共闘の大きな勝利」と言うべきだろう。これを機に、入管行政の抜本改革が望まれる。この点について、本日配刊の「週刊金曜日」(5月28日号)『政治時評』に、望月衣塑子がこう解説している。
「与党はいったん強行採決に踏み切る姿勢を見せていた。成立断念の理由は『人権上の懸念』でも、『人管行政の不備』を認めたからでもない。ひとえに『ビデオを見せないまま強行採決すれば、選挙に不利に働く』という打算だった。」
「なぜ開示しないのか。五輪の直前に、これら非人道的な映像と記録に注目が集まれば、ホスト国・日本の人権意識の低さが世界に露わになる。五輪を政権浮揚と選挙対策に、ともくろむ菅義偉首相にとって、最も避けたい状況だろう。」
なるほど、そのとおりであろう。今回の法案審議の過程で、多くの人が、入管行政の反人権的な在り方を知って心を痛めた。なぜ、入管の体質はこんなにも高圧的で、反人権的なのだろうか。入管行政には、特殊な組織文化とか、組織体質があるのではないかと訝しんだ。あるいは、日本自体が持つ外国人に対する排外主義的傾向の露呈なのだろうか。
それに答えるものが、5月22日付朝日新聞の(天声人語)欄「特高と入管」であった。その一部を引用する。
「戦前の特別高等警察、略して特高は反体制運動を弾圧した。治安維持の名の下、捕らえた人の扱いは熾烈(しれつ)を極めた。プロレタリア作家小林多喜二を拷問して死に至らしめたのは有名な話だ▼特高が担った役割の一つが外国人、それに朝鮮など植民地の人たちを扱う入国管理だった。戦後、その特高関係者の少なからぬ部分が公職追放を免れ、様々な形で入管の仕事に携わったと国際法学者の大沼保昭氏が指摘している(『単一民族社会の神話を超えて』)▼もしやかつての体質を引きずっているのではないか。そう思わせる現代の入管である。」というのだ。
この点を、敷衍して五野井郁夫という若い政治学者が「日本の入管が持つ、警察行政のDNA」として、こう解説している。
戦前、日本の入国管理は、警視庁や各都道府県の特別高等警察(特高)と同様に内務省が所管しており、警察行政の一環として入国管理が行われていた。
1945年の敗戦にともない、占領軍によって内務省は解体された。それにともない特高警察も解体されたものの、おもに大日本帝国内での市民だった朝鮮人や外国籍の者たち、そして共産主義者らを取り締まっていた官僚たちの多くが公職追放を免れたことで、戦後の初期から出入国管理業務に携わる部署の一員として引き続き雇用されることとなった。
これについて国際法学者の故大沼保昭は、敗戦直後の占領期に出入国管理体制に携わった人々からのインタビュー調査を行っている。
調査の結果、入管業務従事者とその周辺のかなりの部分が旧特高関係者で占められており、とりわけ在日朝鮮人らに対する強い偏見や差別観をもち、入管業務対象者に対してはつねに公安的な発想で接していたことが、明らかとなったという。
戦後初期の入管担当者に聞き取りをした故大沼の表現を借りれば、旧大日本帝国の植民地下にあった在日韓国・朝鮮人、台湾人に対する管理と差別意識がそのまま「外国人と日本国民の間に差別があるのは当然」という形で正当化され、また悪名高い戦前の特高警察が主要な担い手であったことから「戦前の感覚」が存在して、引き継がれたというのである(「論座」)。
「悪名高い戦前の特高警察が主要な担い手であったことから「戦前の感覚」が、今に至るまで引き継がれた」というのだ。この指摘もなるほどと思わせる。そのとおりだとすると、私たちの社会は、いまだに「戦前」を払拭できていないのだ。
戦前と戦後は断絶しているというのが建前ではある。しかし、この建前は飽くまでタテマエに過ぎず、実は多くのところで戦前の残滓が顔を出し、あるいは大手を振っている。もちろん天皇の存在も、日の丸・君が代も、家父長制の残滓も然りである。安倍晋三の人格などは、徹頭徹尾戦前的なるもので形成されている。それには驚かないが、戦前の天皇制と専制政治を支えた制度の精神の根幹をなす特高の組織体質が、脈々と今に生きているとの指摘には驚かざるを得ない。
(2021年5月25日)
A 都議選が間近になってきた。ちょうど1か月後の6月25日告示で、7月4日が投開票だ。コロナ禍のさなかの東京オリパラは7月23日に始まるが、この開催を実行するのか、それとも中止するのか。都民の最大の関心事に、各党はどういう方針を持っているのだろう。
B 共産党だけは明確だ。この1月以来、国会でも、都議会でも、機関紙でも、「今夏の東京五輪は中止し、コロナ収束に全力を」と言い続けてきた。論拠としては、(1) 世界のワクチン接種のスピードが集団免疫獲得にはとうてい間に合わない。(2) 我が国の医療体制の逼迫が許さない。(3) 各国のコロナ蔓延の事情の差が、「フェアな大会」開催を不可能としている、というもの。
C それに対して、他の政党は方針がはっきりしない。与党の都ファは、何の意思表示もしておらず、お粗末極まるとしか言いようがない。小池百合子の顔色を窺っているだけ。実は、都議会自民党も公明党都議団も同じ。目前のオリンピック、やるのかやらないのか方針がない。どれもこれも、政党としての体をなしていない。政策理念も立案能力もないと言わざるを得ない。ひたすらに世の風向きを眺めてなびこうという姿勢なのだ。
A 都ファや自公が世の風向きを見ているだけというのなら、今夏の東京五輪開催はもう無理、中止は確定と言って良いのではないか。東京オリパラ2020は儚い夢と散ってしまったか。
B おや、そうだろうか。私は、東京オリパラは強行されると思う。どのような形でも開催に漕ぎつけると思ってるよ。なんと言っても、カネづる、カネ絡み。
C ウーン、私も結局は開催になると思うんだが、開催実行への意志的なものは感じない。むしろ、後戻りできないまま、ずるずるとショボい大会になるんじゃないのかな。
A しかし、5月17日発表の朝日新聞世論調査結果は、五輪「中止」43%、「再延期」40%と、合計83%が今夏のオリパラに反対じゃないか。毎日新聞5月23日世論調査では、「菅政権のコロナ対策を評価しない」が69%にも達している。これを受けて菅政権の支持率は31%、不支持率が59%だ25日東京新聞世論調査では、菅内閣支持率16.1%にもなっている。これで、オリパラ強行できるわけがない。
B 五輪「中止」や「再延期」も、内閣支持率の低下も、そんなに固まったものだろうか。コロナ次第、ワクチン次第のような気がする。新規感染者数が減少し、ワクチン接種進展を見通すことができるようになれば、容易に逆転するのではないか。とりわけ、ワクチン接種を済ませた人が、コロッと意見を変えることになるだろう。
C 今、菅政権の延命はワクチンの接種状況にかかっている。無理をしてでも、高齢者への接種を7月中には終えようとしている。しかし、それができたところで、65歳未満の人には未接種で、結局はオリンピックに間に合わない。そんな状態で、大きく都民の意見が変わるだろうか。
A 世論を刺激しているのが、IOC幹部の発言だ。ジョン・コーツ副会長の「緊急事態宣言下でも東京五輪は実施する」はひどい。バッハ会長の「東京大会を実現するために犠牲を払わなければならない」というのも物議を醸している。これに、反発する国内世論が東京オリパラ開催返上となるのではないか。
B そこまでの期待は、甘いように思う。五輪「中止」も「再延期」も、その大半は「できればやるべきだが、残念ながら今夏は無理だろう」というものだ。根底には、平和の祭典としてのオリンピックの意義を認めている。安全にできるものなら開催が望ましいというのだから、コーツやバッハの発言への大きな反発は期待しにくい。
C メディアも開催慎重論から脱して、中止論を語り始めている。5月23日の信濃毎日の社説が明確に「中止」を打ち出した。本日の西日本新聞社説も、「開催の理念はどこへ」と問うかたちで、信毎に続いている。
A なるほどそのとおりだ。そもそも東京五輪・パラリンピックの開催の理念とは何か。それを問い直さねばならない。僕は、「コロナ禍の今、中止もやむを得ない」という論調に、違和感がある。コロナ以前の東京オリパラ招致のときから、反対だった。コロナの蔓延があろうとなかろうと、オリパラに肯定すべき理念などない。むしろ、オリンピックとは有害なもの、危険なものなのだ。
B 私は、オリパラが危険で有害とまでは思わない。国際交流の必要性も、平和の祭典としての意義も認める。しかし、コロナ拡大のリスクを冒してまでの開催の必要性や意義があるかと言えば、否定せざるを得ない。それでも強行するという当事者の姿勢には、首を傾げざるを得ない。
C 「その理由は三つある。まずカネ、次にカネ、そしてカネ」だ。オリンピックは商業主義に絡めとられ、利権と結び、際限のない金食いイベントとなり、歪んだ再開発の舞台にもなっている。その上、堕落した政権の浮揚策ともなり得る。こんな汚いイベントは、コロナのリスクがなくても、私は反対だ。
A 僕は、オリンピックとは国威発揚の舞台であり、為政者が国民を統合する手段になっていると思う。また、ナショナリズム涵養の装置としても、有害で危険なものと思う。また、今回の「東京」五輪は震災復興を阻害した、日本とりわけ東北の被災3県に背を向けたものとなった。コロナ以前に、もとから危険で有害なものだった。
B その東京オリパラ、このままだと開催になだれ込むことになる。カネが絡んでいる以上、そういう力学が働くのだと思う。
C むしろ、中止には、大きなエネルギーが必要だが、そんなものは期待できないということではないか。おそらくは、もう引き返せないところまできているのかも知れない。
(2021年5月24日)
毎日新聞日曜コラム「松尾貴史の ちょっと違和感」が頗る好調である。切れ味鋭いというだけではない。民主主義の何たるかから説き起こしての説得力をもつものになっている。イラストの出来栄えも併せて大したものだ。
先週日曜(5月16日)が「維新幹事長が『立憲民主は必要ない』発言 民主主義の否定だ」というもの。
https://mainichi.jp/articles/20210516/ddv/010/070/002000c
馬場伸幸維新幹事長の問題発言を糸口に、維新という特異な政党の体質に対する根底的な批判となっている。私も、維新の反民主主義体質と改憲に向けての先走りの役割を危険なものと考えており、大いに頷くところが多い。この松尾のコラムは、繰り返し引用されてしかるべきだ。
そして昨日(5月23日)が、DHC・吉田嘉明批判の論稿。「大手化粧品会社会長の差別発言 利用者は考え支持しているのか」というタイトル。
https://mainichi.jp/articles/20210523/ddv/010/070/002000c
以下、文意を曲げない程度に、抜粋して紹介する。
「大手化粧品会社「DHC」の吉田嘉明会長が、自社の公式サイトに…差別的な表現を繰り返し書き連ねていた。各方面から指摘や注意を受けながらも、掲載をやめず、削除することがなかった。
大阪市の人権団体が、DHCと取引をする銀行やコンビニエンスストア、ドラッグストアなど30社に対して、取引を停止するよう求める要望書を送った。
日本テレビは、会長のメッセージを「会社としての意見」として受け止めて問題視し、DHCからのスポット広告の申し込みを拒否したという。金額としては数千万円にのぼると見られるが、毅然とした対応は評価されるだろう。
「金を積まれても差別は許されない」日本テレビの姿勢は真っ当だ。DHCは新聞の折り込み広告についても、毎日折込、読売IS、サンケイアイの3社に拒否されたという。
吉田氏のメッセージには「この美しい歴史のある日本に、グローバリズム、多様性、同性結婚、ジェンダーフリー、夫婦別姓など全く似合いません。何かというと多様性・多様性と口にする政治家の野田聖子、私の最も嫌いな政治家です」などとも書かれている。化粧品や多くの女性も使うことを想定して作られているサプリメントなどを購入するユーザーは、こういう考え方を支持しているのだろうか。
これだけの騒ぎになっていても、コンビニエンスストアの大手は態度を明らかにせず、商品を置き続けている。目先の利益よりも、ここは長い目で社会に貢献することを選択していただきたいものだ。」
この松尾のコラムを読んで、私のDHCに対する批判の在り方を、甘くて生温いものであったと反省せざるを得ない。DHCへの批判は、ひとり吉田嘉明の言動を批判するだけでは足りないのだ。すべての関係者に、「DHC吉田嘉明の考え方を支持するのか」「結果として支持していることを容認するのか」と問い正ささねばならない。吉田嘉明のヘイトコメントを許容する環境やこの社会の生温さをこそ批判しなければならない。実は、DHCとは、デマとヘイトとステマとスラップの4拍子を揃えた稀有な反社会的企業なのだ。その企業体質を支える関係者への批判に躊躇があってはならないと思う。
まずは、すべての消費者の一人ひとりに訴えたい。
DHCが販売する商品を買ってはならない。DHCの商品を買うことは、DHCという企業の体質を容認し支持することなのだ。あなたが、DHCの商品を買うことは、デマと差別の蔓延を助長することなのだ。あなたが、DHCの商品を買い控えることが、少しでもより良い社会を作ることにつながる。
あなたの日常の商品選択は、その商品を作っている企業のイデオロギーの選択でもある。だから、デマとヘイトとステマとスラップの企業の商品を買ってはいけない。そのような消費者の自覚が、民主主義と人権を支えるのだ。
次いで、DHCの従業員諸君に言いたい。君達は、こんなデマとヘイトとステマとスラップで著名となった天下に悪名高い企業で働いていることを恥ずかしいとは思わないか。君達は、客観的に吉田嘉明がしているデマと差別とステマとスラップの共犯者となっている。そのことに心が痛まないか。
まずは、DHC従業員であることの恥を知らねばならない。そのうえで、会社の体質を変える努力があってしかるべきではないか。労働組合の結成ができれば、素晴らしいことだ。それができなくても、内部情報の公益通報という手段もある。少なくも、会社からカネをもらってのステマはやめたまえ。会社の手先となって消費者を欺してはいけない。
さらに、取引先に問いたい。コンビニやドラッグストアの経営者の皆さん、DHCとの取引の継続は、あなたのお店の体質を問われることになりますよ。あなたの店の一隅にあるDHC商品のコーナーは、あなたの店が、デマやヘイトや消費者保護に潔癖でないことを宣伝していることになっているのですよ。
広告業界にももの申したい。「金を積まれても差別は許されない」という日本テレビの心意気を学んでいただきたい。DHCごときヘイト企業に擦り寄っていけない。ヘイト企業DHCの広告を引き受けることは、広告媒体自身のヘイト体質を広告することになる。このことを肝に銘じていただきたい。
地方自治体にも申し上げたい。つい先日まで、ヘイト企業DHCとの連携協定を結んでいたのが下記の各自治体である。これは各自治体の恥であり、住民の恥である。このうち、南国市、宿毛市、合志市の3市が早速の見直しに動いたが、他についてはいまだ報道がない。ヘイト企業DHCとの特別の関係を持つことで、住民にに忸怩たる思いをさせていることを反省して、直ちにDHCとの関係を断つべきが当然である。
北海道 長沼町
岩手県 二戸市
宮城県 石巻市
茨城県 守谷市 境町 行方市 下妻市
千葉県 横芝光町
神奈川県 松田町
静岡県 御殿場市 伊東市 小山町
高知県 宿毛市 南国市
佐賀県 唐津市 みゆき町
熊本県 合志市 長洲町
鹿児島県 南九州市 鹿屋市 長島町
最後に、メデイアに申し上げたい。もっとDHCの企業体質の問題を取材し、報道していただきたい。DHCが10件の典型的なスラップを提起したとき、言論の自由への挑戦と論陣を張ったメディアはなかった。DHC対澤藤の訴訟が7年をかけて澤藤の完全勝訴で確定しても、その意義についての十分な報道はない。
違法・不当な企業の横暴を社会がどうコントロールするか、これは勝れて現代的な、民主主義の重要テーマである。メデイアの批判が不十分なことが、今のDHC・吉田嘉明の放埒を助長してきたのではないか。あらためて、その責任を自覚されたい。