(2021年6月11日)
以下は、昨夕(6月10日)の共同通信の報道である。続報はまだないようだ。
タイトルは、「国連報告者の訪日要請放置」「政府、福島避難者調査巡り」。
「国連のセシリア・ヒメネス・ダマリー特別報告者(国内避難民の権利担当)が、東電福島第1原発事故の避難者調査のため18年から3回にわたり訪日を要請しながら、日本政府は一度も回答せず事実上放置していることが10日分かった。うち2回の要請については受け入れられないと判断したが伝えていなかった。
ダマリー氏は「回答を一切受け取っていない。政策に避難者らの意見をより反映させるためには、聞き取り調査が必要だ」と話した。
政府は11年に国連人権理事会で特別報告者の訪問を原則、常時受け入れると宣言しており、説明なしに訪問を認めないやり方は国際的な批判を受ける可能性もある。」
以上が全文である。短い記事だが、読者の感想はどうだろうか。驚くべきことと思う方もあれば、どうせそんなものだろうと冷めた反応の向きもあろう。私は、驚いた方だ。けっして、驚いて見せたということではなく、本当に驚いた。
私の気持ちの中には、まだ日本という国に対する信用というものがある。国の真っ当さを信じる気持ちが強いのだ。真っ当ならざるこの国の行動にうろたえざるを得ない。
比較の対象として、中国を意識している。この真っ当ならざる国は、ウイグルに入りたいという国連の調査団を受け入れようとしない。調査の仕方にあれこれ注文を付けるやり口で、結局は受け入れを拒否している。人権後進国は国際的な非礼をせざるを得ないのだ、そう苦々しく思う。中国よ、みっともないぞ。国連の代表を人類の代表として受け入れるべきではないか。
ところがどうだ。日本もおんなじだ。恥部には触れられたくない。都合が悪いことにはダンマリなのだ。日本政府は、3度の申し入れに一度も回答せず事実上放置しているというのでは、中国以下だ。国際社会に非礼に過ぎる。
どうしてこんなことになるのか。「18年から3回にわたり訪日を要請」と言えば、3回とも、少なくとも2回は、安倍政権下でのこと。安倍晋三と言えば、2013年9月、ブエノスアイレスIOC総会の場で、フクシマ第1原発の状況は「完全にアンダーコントロール」と言い放った大嘘吐きである。国連の担当者に、「首相のウソ」がバレたらたいへんだと、3回までもダンマリを決めこんだのであろうか。
しかも、この「アベのウソ」は、東京五輪に絡んでいる。「アンダーコントロール」が真っ赤なウソと分かれば、東京五輪の開催が危うくなると気を回したことでもあろうか。
「政策に避難者らの意見をより反映させるためには、聞き取り調査が必要だ」という国連側の熱意は至極真っ当だ。過酷事故を起こした日本である。事故の実態をよく見てもらって、せめてはこれを世界の教訓にしてもらうべきことが真摯な日本の在り方ではないか。ダンマリは、中国以下であろう。だから驚くのだ。
この共同のニュースに驚かない向きは日本を見捨てている。日本とは所詮その程度の国ではないか。とりわけ、安倍晋三が首相になって以来、何もかにもおかしくなった。とりわけ道義は地に落ちた。「国連からの要請にダンマリ」くらいで、驚いていられるか、という気持なのだろう。
私は、愛国とか祖国、憂国などの言葉に虫酸が走る。それでも、日本には真っ当な国であってもらいたいと思う。だから、日本政府よ、国連を無視したり、非礼な態度をとるのはやめていただきたい。中国にさえ冷笑されるではないか。
(2021年6月9日)
多様な分野に、それぞれの専門ジャーナリストがいる。政治・経済・司法・外交・軍事・科学・医療・教育・福祉・芸能・芸術・文化・家庭・ジェンダー…。中には、皇室ジャーナリストや、右翼ジャーナリスト、政権ベッタリ・ジャーナリストもいる。ジャーナリズムに関するジャーナリストなどというのもある。
スポーツジャーナリストというのも大勢いるのだろうが、社会現象としてのスポーツを見据えた論稿にはなかなかお目にかかれない。その中で、谷口源太郎は異色であり貴重な存在である。
その谷口が本日の毎日新聞夕刊の「特集ワイド」に登場している。タイトルは、「東京五輪は誰のため? スポーツジャーナリスト・谷口源太郎さんは問う」「理念失い形骸化、政治利用は許されない」と、極めて辛口である。権力や体制に迎合する姿勢が微塵もなく、スポーツ愛好家の好みにおもねるところもない。これがスポーツライターではない、スポーツジャーナリストの真骨頂なのだろう。
谷口が五輪に関心を持ったのは、1980年夏のモスクワ大会以来だという。当時は東西冷戦のまっただ中。社会主義国では初めての大会で、「IOCをはじめ、多くの人が興味を抱いていた。大会を開催すれば、ソ連の現実を知ることができる。私も注目していました」という。
だが、米国が、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、モスクワ大会のボイコットを呼びかけ、日本もそれに追随した。谷口は、「政治的対立を乗り越えて開催することで、国際協調主義の実現と大会成功が期待されていたが、カーター大統領がボイコットに出て五輪の存在意義を否定した。五輪の理念、平和主義はふっとび、政治によってずたずたにされた」と解説する。
IOCは76年夏のモントリオール大会が赤字となり危機に陥ったが、状況を反転させたのが84年夏のロサンゼルス大会だった。スポンサーを1業種1社に絞って広告価値を高め、テレビ局から高い放映権料を得るなどして黒字化に成功したのだ。市場経済にのみ込まれていった五輪を目の当たりにした谷口はこう振り返る。
「ロサンゼルス大会は商業主義が露骨。ショーアップもすさまじかった。IOCも五輪ビジネスを展開し始めた。これで五輪の質は変化した。五輪の歴史を振り返る時、モスクワとロサンゼルスはエポックメーキングな大会ととらえています」
誰のための、何のための五輪なのか――。そんな疑問を抱き、スポンサー契約、テレビ放映権といった五輪ビジネスの裏側などについて取材を重ねた。その谷口の結論である。「五輪自体、もういらない。やめたほうがいい。そうしないとスポーツが殺されてしまう。政治利用や商業主義を排除することなど、できっこないのだから」「オリンピックが理念を喪失して形骸化し、政治利用されるだけだとすれば、東京五輪は中止すべきです」。
谷口はこうも語っている。「この機会にもう一度、誰のためのスポーツなのかと見直し、すべての国民、市民が主人公となるスポーツ活動ができる世の中をどうつくるかを考え、一から議論しなければいけない」。パンデミックの中でオリンピック開催の意義が問われている。改めて五輪の原点をすべての人が考える必要がある。
本日の国会での党首討論。共産党の志位和夫と菅義偉首相との、たった5分の「論戦」。志位がパンデミック下での東京五輪開催の意義を問うた。「国民の生命をリスクにさらしてまでオリンピックを開催しなければならない理由を聞きたい。答えてください」。これに対する菅の答が、「国民の生命と安全を守るのが私の責務です。守れなければやらないのは当然じゃないでしょうか」という、典型的なヤギさん答弁。語るべき五輪の理想や原点をもちあわせていないのだ。まさか、「政権浮揚のため、カネのため、ナショナリズム高揚のためだよ」と、ホンネも言えないし。
(2021年6月8日)
明治天皇(睦仁)以来、天皇は精力的に全国の各地を行脚した。
その天皇の行脚には「巡幸」という特別の言葉が使われた。天皇の外出を行幸といい、外出先が複数あれば巡幸というのだという。天皇の身体は玉体、天皇の顔は竜顔、天皇が見物すれば天覧、天皇が死ねば崩御。天皇の神聖性を演出するために、特別の言葉まで動員されてきたのだ。
その天皇の行脚には、出迎えに子どもたちが動員された。どこの世界でも子どもたちの歓迎は絵になる。心優しき為政者を演出するためにはもってこいなの図柄なのだ。子どもたちは、整列して天皇を待ち受け、教えられたとおりに深く礼をし、通り過ぎる天皇の気配に少国民なりの光栄を意識し感動した。整列と敬礼と感動の押し売りである。こうして、忠良なる臣民が育った。
問題は、戦後もこの事情にさしたる変化がなかったことである。戦後の戦犯天皇の行脚を、その行く先々で主権者となった国民多数が歓呼して迎えた。これが、臣民から主権者になったはずの国民の意識レベルであった。日本が独立してからも、日の丸の小旗を持たされた子どもたちの動員が行われた。飽くまでも、自主的な参加というかたちにおいて、である。
天皇の送迎に子どもたちを動員した学校や教師は、子どものためによい教育をしているという思い込みがあったろう。世界に比類ない国体を体現する天皇への賛美というのみならず、世の大勢に順応して世間の風潮に逆らわない生き方を教えるという意識もあったろう。これを「天皇制教育」と名付けてよかろう。
いま、「オリンピック教育」が話題となっている。その中身は「天皇制教育」とよく似ている。東京都教育委員会も、オリンピック・パラリンピック教育の重要性に鑑みて、猛暑とコロナ禍の夏休み中のオリパラに、児童生徒を動員するという。
スポーツ庁ホームページによると、次のようなものであるらしい。
※ 「オリンピック・パラリンピック教育」とは、大別して、
?「オリンピック・パラリンピックそのものについての学び」と、
?「オリンピック・パラリンピックを通じた学び」から構成されると考えられ、
※ こうした学習を通じて、社会の課題の発見や解決に向けて他者と協働しつつ主体的に取り組む態度や、多様性の尊重(人間としての共通性、他者への共感、思いやり等)、公徳心(マナー、フェアプレー精神、ボランティア精神、おもてなし精神等)の育成・向上を図ることが求められる。こうした力を身につけることは、これからのグローバル化が進み、変化の激しい時代を生き抜いていくために、今後ますます重要になる。
オリンピックほど、タテマエとホンネが乖離し、上辺と内実、理念と現実に齟齬のあるイベントや組織も珍しい。オリンピック憲章の崇高な理念とバッハら一味徒党の商業主義や傲慢さの現実との目の眩むような落差。これも天皇制とよく似ている。
皇軍の兵は、けっして強要されることなく、志願して死地に赴いたとされる。もちろんタテマエだけのこと。東京都教育委員会の担当者も、児童・生徒のオリパラ観戦は、けっして強制ではないと言う。では、子どもや親が断れるかというと、現実はなかなか難しいのだ。そんなことは、計算済み。
では、本音のオリンピック教育とはなんだろうか。これまで、「日の丸・君が代」強制に狂奔してきた都教委である。いったい、何をたくらんでいるのだろうか。もちろん、チケットの売れない空席を埋めるための生徒動員という目的はあろう。絵になる、子どもたちの感動に包まれたオリンピックという演出も目的のひとつではあろう。しかし、その目的の最も中心に位置するものは、ナショナリズムの涵養である。それ以外には考えがたい。
オリンピックの中核をなすスポーツ競技は、敵味方に分かれて勝敗を競う。団体競技だけでなく個人競技も、多数観客を二分して応援者集団を構成する。当然のことながら、応援者集団の一体感が醸成される。他国チームとの競技を通じての日本人応援集団の一体感の醸成の場として、オリンピックに優るものはない。この恰好の舞台において、熱く日本選手を応援することで培われる連帯意識。このボルテージが、ナショナリズムを高揚する。これに、「君が代」と「日の丸」が加われば、理想的なのだ。
かつて天皇の全国行脚で、これに接した国民の一体感や連帯意識が、ナショナリズムを涵養したごとく、今、オリンピックがその代役を果たそうとしている。オリンピックとは、ナショナリズム涵養の舞台だ。オリンピック教育とは、子どもたちを整列させて観客席に着け、自国の選手に応援させて、日本人としてのアイデンティテイを涵養することが狙いなのだ。
こうして、子どもたちは、この夏の酷暑の中、パンデミックの危険に曝されながらも、健気にオリンピック会場に整列し観客席を埋めて日本の選手団を応する。教えられたとおりに「日の丸」や「君が代」に威儀を正して感動する。やはり、整列と敬礼と感動の押し売りなのだ。こうして、日本国民としてのナショナリズムが育っていく。
(2021年6月7日)
物語を面白くするには、悪役が必要である。その悪役も、安倍晋三や菅義偉のごとき底の浅い軽薄な悪役だけではストーリー展開に厚味が欠ける。料理に喩えれば、歯ごたえもなく、コクも旨味も出てこないのだ。意外なところから、「本当のワル」が登場してこそ、場は盛り上がる。そして、ことの本質が明瞭となる。
「パンデミック下の東京五輪開催是か非か物語」において、ボッタクリ男爵とその一味が、悪役として顔を出して以来、主役の影が薄い。菅も小池も橋本も丸川も、完全に喰われてしまった。この一味徒党は、オリンピックというものの本性をあからさまにし、オリンピックを推進している連中の傲慢さや俗物性を余すところなく目に見える形にしてくれた。その功績はまことに偉大である。オリンピックとは、かくもつまらぬもの、運動会ほどの楽しさも意義もないのだ。
このボッタクリ一味が悪役の真打ちと思っていたところに、さらにその奥に潜む「意外なワル」が悪役として名乗りを上げた。今度は、一見「ボッタクリ学者」であるが、実はオリンピックスポンサーである。オリンピックが儲けのタネとされ、都民・国民の命や健康を犠牲にしての利潤追求が批判されているそのときに、タイミングを計ったように、オリンピックを儲けのタネにしている象徴的人物が舞台に登場した。これで、物語の筋書きはたいへん分かり易く、興味深いものとなった。
竹中平蔵といえば、学者のようでもあり、政治家のようでもあるが、その本体は利潤を求める経営者である。新自由主義の旗手であるだけでなく、その実践者として知られる。なにせ、悪名高いパソナグループ会長なのだ。バッハは「ボッタクリ男爵」として名を挙げたが、パソナは「中抜き・ピンハネ」で話題を振りまいてきた。もちろん、東京五輪の公式スポンサーである。
五輪で儲けているご本人が、五輪中止の世論に噛みついた。「世論が間違ってますよ」と言ったとか。これは、分かり易い。昨日(6月6日)の読売テレビ番組「そこまで言って委員会」でのこと。東京五輪の中止や再延期を求める世論が高まっていることに関連し、「世論が間違ってますよ。世論はしょっちゅう間違いますよ」などと発言したという。
竹中には、こう言っておこう。「竹中さん、間違っているのはあんたの方だ。あんたはしょっちゅう間違っている」「例の分科会のあの尾身座長の発言なんか、以前は菅の言いなりでひどかった。でも、菅にいいように利用されて、さすがに専門家としてのプライドを傷付けられたと自覚したんだね。最近の発言は、ようやく本音を語るようになって立派なものだ」「分科会がオリンピックのこと決める権限があるわけじゃないが、オリンピックを開催したらコロナの蔓延はどうなるのか、科学的な基礎資料や知見の提供は明らかに分科会の任務じゃないか」「その提言を、手の平を返したように無視するのは明らかに政権の越権だね」「国会で、国民が最も知りたいことを問われて専門家としての信念を吐露しているのだから、あれは立派なものですよ」「オリンピック、やるかやらないかって議論をするのは、当然でしょ。オリンピックでコロナ蔓延拡大の恐れがあり、医療崩壊の危険もあるのだから。国民の命と健康がかかっている問題なんだから」
竹中の結論は、「世界のイベントをたまたま日本でやることになっているわけで、日本の国内事情で世界のイベントをやめますということは、やっぱりあってはいけない」というもの。何という傲慢、何というムチャクチャ。この人には、一人ひとりの命や生活が最も大切だという認識がない。たかがオリンピックのために、コロナの蔓延拡大を許してよいのかという問題意識すらない。
今、パソナはオリンピックでよほど儲けているのだろう。その儲けをフイにするような世論だから「間違っている」というのだ。もうすぐ都議選だ。オリンピック推進派に素晴らしいエールを送ったことになる。悪役あってこそ、悪役が活躍してこその、分かり易く、わくわくするような盛り上がりの選挙戦になりそうだ。
(2021年6月6日)
西日本新聞北京特派員坂本信博記者の「抑圧の街からー新疆ウイグルルポ」が話題を呼んだが、バンコク特派員川合秀紀記者の記事も貴重なもの。5月31日付で、「不敬罪復活、タイの若者苦闘 王室批判で立件…『次世代のため』有罪覚悟」という報道が目に留まった。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/747131/
昨年来世界に知れ渡ったが、タイには不敬罪という前世紀の遺物がまだ生きている。その不敬罪を定めているのが刑法112条で、国王・王妃・王位継承者らを侮辱することを禁じ、違反1件当たり3?15年の禁錮刑を科すものだという。
不敬罪は我が国にもあった。1907年制定の現行「刑法」は、第一編「総則」と、第二編「罪」の2編で構成されている。第二編「罪」は具体的な犯罪の構成要件と法定刑を定めるもので、第1章から第40章まであるが、その冒頭の第1章4か条(73条?76条)は削除されている。かつてここには、「皇室に対する罪」が位置を占めていた。日本の刑法は、何よりも皇室に対する臣民の罪を処罰するものとして制定されたのだ。
1947年に削除された73条は大逆罪,74条が不敬罪である(なお、75条、76条は皇族に対する罪)。条文を引用する。
第73条(大逆)は、「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という恐るべきもの。選択刑として懲役も禁錮もない。未遂も死刑である。
第74条(不敬)は、以下のとおり。
「1項 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ3月以上5年以下ノ懲役ニ処ス
2項 神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ」
「不敬の行為」とは、余りに漠然として特定性を欠く構成要件。なんでも引っかけ、誰でもしょっぴくことのできる、権力にとっては便利な小道具。その意味では、大逆罪だけでなく不敬罪も恐るべき犯罪類型であった。こんなものが、タイにはまだ生き延びているのだ。国民主権も、表現の自由もないということだ。
王室への侮辱に最長15年の禁錮刑を科し「世界で最も厳格」とされるタイの不敬罪。昨年来の反体制デモで異例の王室批判を展開した学生リーダーらが今、相次いで不敬容疑で摘発されている。聴取中を含む立件対象は90人以上。国王の指導で約2年停止していた不敬罪立件の再開によってデモが失速する一方、タブーを破った若者たちの苦闘はなお続いている。(バンコク川合秀紀)
人権派弁護士グループによると、不敬罪の摘発対象94人(5月27日時点)の大半が10?20代で、うち20人が既に起訴されている。その多くが一連のデモを率いた反体制派リーダーたちだという。
その一人が、パトラサワリーさん(25)
「(最初は)みんな『そこまで言うの?』という顔だったし、私も怖かった。でも王室改革の議論が最も必要なことだと思い、自分でも演説に加わろうと決めた」。若者たちが次々に王室批判を公言し、デモ参加者は数万人規模に膨れ上がっていった。
彼女の不敬容疑は3件。昨年9月と10月、今年3月のデモで行った演説が不敬に当たるとされる。全て起訴され有罪になれば最長45年の禁錮刑が科される可能性がある。それでも「有罪になってもたいしたことじゃない。次の世代に私たちの闘いの正しさを知ってもらえる」と既に覚悟を決めているようだった。「私も一人で闘っているわけじゃない」
最も激しく王室批判を展開してきた大学生リーダーのパリットさん(23)は2月以降、仲間の中で最多となる計20件の不敬罪で起訴された。勾留中に抗議の意思を示すハンガーストライキを57日間続け、今月(5月)11日に10回目の申請でようやく保釈が認められた。
パリットさんの保釈条件は王室の中傷など混乱を招く言動をしないこと。翌12日、会員制交流サイト(SNS)に「私は私のままだ」と投稿。「王室改革と真の民主化を求める闘いは力強く続ける」と支持者たちに訴えた。
2件の不敬容疑がかけられている大学1年ベンジャさん(22)はパリットさんと高校時代からの同級生。13日、検察庁に出頭した際に「投稿を読んで安心した。彼の気持ちが弱くなることはあり得ない」と語った。
宇宙開発分野の仕事に携わるのが夢だが、パリットさんに感化され王室改革要求のデモに加わった。弁護士や友人からは、将来のため罪を認めた上で王室問題の発言を控えるよう勧められる。だが「それが当局の狙いだ」と思う。「デモが沈静化した今こそ、私たちがどれだけ闘い続けられるかが重要だ」
このルポは、苦しい中での「若者たちの苦闘」を取材して報告している。けっして明るくはない事態の中で、闘い続ける人々の存在に、私たちも勇気づけられる。
日本で不敬罪が廃絶されたのは、残念ながら日本人自身の闘いの成果としてではなかった。自分たちの運動で不敬罪をなくそうと奮闘している若者たちに敬意を表したい。オリンピック選手などが、「自分がスポーツに頑張ることで、みんなに勇気や力を与えたい」とエラそうにトンチンカンなことを言っているのを見聞して不愉快になるが、そんな若者ばかりではないのだ。毅然と闘う若者に未来を期待したい。
(2021年6月5日)
いまだ中止の決断ないままの東京五輪開会予定日まで50日に満たない。そして、東京都議選の投開票まではちょうど30日である。東京五輪は中止しなければならない。都議選は、都民の五輪中止の意思表明の場となるだろう。
いまや、肥大しただけでなく、カネと権力にどっぷり浸かったオリンピックは平和の祭典としての意義を失い、弊害の方が遙かに大きくなっている。とりわけ東京五輪の害悪は、到底看過し得ない。東京五輪は本来誘致されるべきものではなかった。東京五輪は中止しなければならない。こんなものに、際限もない大金を投じてきた輩の責任は大きい。
しかも、いま恐るべきパンデミックの事態である。国民の生命と健康が危険に曝されているこのときに、東京五輪開催の強行は正気の沙汰ではない。東京五輪の開催が国の内外に爆発的なコロナ蔓延のリスクを有すること、貴重な医療リソースを剥奪することを通じて、国民の生命と健康の危険を激化することは目に見えているではないか。にもかかわらず、敢えて東京五輪を開催すべき大義はあり得ない。
さらに、問題は根深い。今夏の東京オリパラの開催はあり得ないというのが、都民・国民の大多数の認識である。この圧倒的な民意を無視して、敢えて開催させようという反民主々義的な力学が働いている。その反民主の元兇は菅政権であり小池都政でもあるが、これにとどまらない。「誰もが犠牲を払わないといけない」と、都民への犠牲要求を広言するボッタクリ男爵とこれを首領とするIOC帝国をも糾弾しなければならない。
以上の、東京五輪を中止すべき理由を箇条書きにして、書き留めておきたい。
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第1条 オリンピック開催に、何の大義も名分もない。
所詮オリンピックとは規模の大きな運動会に過ぎない。運動会との質的な違いは、権力が関与し、ナショナリズムが動員され、大金が動くことである。大金が動くところ必ず利権が生じる。権力と資本の思惑による大衆操作のイベントを神聖視したり、特別視してはならない。
第2条 国威発揚・ナショナリズム涵養のオリンピックは百害あって一利もない。
ヒトラーのベルリン大会以来、オリンピックは、国威発揚とナショナリズム涵養の舞台となった。
第3条 商業主義に絡めとられたオリンピックに踊らされてはならない。
オリンピックにおいて、スポーツは権力の走狗となっただけでなく、商業主義の僕となっている。企業の思惑があの手この手を駆使して「感動」を作り出し、人々の感情を操作して儲けのタネにしている。
第4条 新たな貴族と新たな差別とをもたらすオリンピック
オリンピックに集まるカネと名声が新たな貴族階級をつくっている。IOC会長のバッハが「天皇に会わせろ」と要求しているという。旧特権階級に近づこうという、新興特権階級の愚かな姿勢と嘆かざるを得ない。
第5条 開催都市と国とに、莫大な負担をもたらすオリンピックをもうやめよう
オリンピックは権力と資本に利用されて大規模化を続け、今日のごときモンスターとなった。開催都市・国の財政負担と、混雑・混乱の負担は耐えがたい。一部の思惑で、住民に迷惑なオリンピックはもう止めよう。
第6条 ウソとゴマカシ、賄賂にまみれた招致活動の東京五輪は開催に値しない。
安倍晋三お得意「ウソとゴマカシ」、JOCと電通による賄賂の提供。こんなみっともない誘致で決まった東京五輪。プライドあるなら、返上しかないだろう。
第7条 政権浮揚を目的の東京五輪を開催させてはならない。
落ち目となったアベ・スガ政権の人気浮揚策としての東京五輪ではないか。また、こちらも不人気の小池都政の起死回生の人気浮揚策。こんなものに付き合ってはおられない。
第8条 東京五輪はこれ以上ない税金を無駄遣い
不思議なことに、五輪名目だと打ち出の小槌のごとく予算が出て来る。国と都と、財界の協賛金と、予算は際限なく膨らんで1兆6000億円を超えている。財政破綻をもたらす五輪はごめんだ。
第9条 そもそも愚かな真夏の東京のオリンピック
東京の真夏の蒸し暑さは格別である。特に、温暖化進展の近年はひどい。その夏の苛酷なスポーツイベントは中止が賢明である。
第10条 コロナ禍のさなか、国民の命と健康を損なう
今夏の東京五輪が開催されれば、大規模に人が動き、大規模に人と人とが接触する。爆発的な新型コロナの蔓延拡大を憂慮せざるを得ない。国民の命と健康に直接関わり、さらに経済活動に障害となる。
第11条 国民の医療資源が奪われる。
「安全・安心」を目指して、どんなに慎重な配慮を尽くしても、貴重な有限の医療資源が五輪のために奪われる。国民の生命と健康、安全安心が奪われるということだ。
第12条 東京五輪開催で、国民はアスリートを怨嗟することになる。
権力と資本が、思惑あって東京五輪を強行すれば、アスリートを特別扱いすることにならざるを得ない。アスリートと非アスリートの差別が生じる。国民はアスリートをリスペクトするどころか、その特別な待遇を非難することになるだろう。ここにも、国民の分断による新たな差別が生じる。
第13条 IOC帝国の侵略を許してはならない。
IOCとは、何様であるのか。自分を何様と思い込んでいるのか。緊急事態宣言下でも、「オリンピックは開催せよ」「犠牲はやむを得ない」とは、何たる言い草か。
日本は主権国家である。IOCの思惑のとおりには動かない。菅や小池はいざ知らず、主権者国民・あるいは都民は怒っている。けっして、IOCやバッハのいうとおりにはならない。東京オリパラを中止せよ、しかも即刻に。
(2021年6月4日)
6月4日。1989年のこの日の早朝、北京天安門広場とその周辺に集まった無防備・無抵抗の群衆に人民解放軍が襲いかかった。「針一本、糸一筋も盗まない」ことで、人民からの信頼を得てきた中国共産党の武力装置が人民に銃を向け発砲したのだ。
天安門広場に集まった大群衆は、党と国の民主化を求めていた。この人たちが銃撃され、夥しい死傷者を出した。殺戮されたのは広場に集まった学生や市民ばかりではない。民主主義や人権も虐殺された。
事件の犠牲者数は、公式には319名とされているが、これを信じる者はない。犠牲者数の推計は数千人説から数万名説まである。ちょうど、関東大震災時の軍と民衆とによる、朝鮮人・中国人虐殺犠牲者数と事情がよく似ている。正確なところは分からない。弾圧者側が犠牲者の数すら数えようとしないからだ。
中国共産党は、1921年7月1日を党創立記念日(「建党節」)とする。もうすぐ100年である。党による、民主化闘争へのこの武力弾圧事件は、100年の党の歴史の中での明らかな汚点である。公式の党100年史にはどう書くのだろうか。民衆を殺し、民主主義を殺しただけでなく、歴史をも殺すのだろうか。我が国の歴史修正主義者と同様に。
天安門事件の中心物の一人で、その後亡命せず何度にも渡る投獄にも屈しなかった人物の典型として劉暁波が知られている。彼が起草し、仲間とともに発表したとされるのが、中国民主化のグランドデザインを描いた「08憲章」である。2008年12月10日付でインターネット上にアップされたもの。今、これを読み直して、胸が痛む。武力ではなく言論で中国の民主化が可能だと信じた彼らの理想が語られている。が、今なお、現実はほど遠い。
「08憲章」は、下記の4章から成っている。
1、まえがき
2、我々の基本理念
3、我々の基本的主張
4、結語
(訳文の出典は主として下記のブログによる。)
https://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/597ba5ce0aa3d216cfc15f464f68cfd2
「まえがき」の一節に、中国政治の現状がこう書かれている。
「法律があっても法治がなく、憲法があっても憲政がなく、依然として誰もが知っている政治的現実がある。統治集団は引き続き権威主義統治を維持し、政治改革を拒絶している。そのため官僚は腐敗し、法治は実現せず、人権は色あせ、道徳は滅び、社会は二極分化し、経済は奇形的発展をし、自然環境と人文環境は二重に破壊され、国民の自由・財産・幸福追求の権利は制度的保障を得られず、各種の社会矛盾が蓄積し続け、不満は高まり続けている。」
「2、我々の基本理念」として取りあげられているのは、「自由・人権・平等・共和・民主・憲政」の6項目である。それぞれに詳細な解説が掲げられ、その上で、次の一節で締めくくられている。今読んで、党に対する鋭い批判となっている。
「中国では、帝国皇帝の権力の時代はすでに過去のものとなった。世界的にも、権威主義体制はすでに黄昏が近い。国民は本当の国家の主人になるべきである。「明君」、「清官」に依存する臣民意識を払いのけ、権利を基本とし参加を責任とする市民意識を広め、自由を実践し、民主を自ら行い、法の支配を順守することこそが中国の根本的な活路である。」
「3、我々の基本的主張」には、19項目の具体的主張が書き連ねられている。その中の印象的なものを抜粋する。
- 民主的な立法:各級立法機関は直接選挙によって選出され、公平・正義の原則に則り、民主的な立法を実行する。
- 司法の独立:司法にはいかなる干渉も禁止される。司法の独立と公正を確保する。憲法裁判所を設け、違憲審査制度を打ち立てる。国家の法治を損なう共産党の政法委員会を早期に廃止し、公共機関の私物化を禁止する。
- 公共機関の公共性:軍隊の国家化を実現し、軍人は憲法と国家に忠誠を尽くさなければならない。共産党組織は軍隊から退かなければならない。軍隊の職業化をレベルアップしなければならない。警察も含め、全ての公務員は政治的中立を維持しなければならない。公務員は党派の別なく平等に採用しなければならない。
- 人権の保障:人権委員会を設立し、政府による公権濫用・人権侵犯を防止し、とりわけ公民の人身の自由を保障する。いかなる人も不法な逮捕、拘禁、召喚、審問、処罰を受けない。「労働教養制度(注 裁判などの手続きを経ることなく最長4年まで拘禁可能な制度)」を廃止する。
- 公職選挙:民主的な選挙制度を全面的に推し進め、一人一票の平等な選挙権を確立させる。各級行政首長の直接選挙を制度化して一歩一歩推し進める。
- 都市部と農村部の平等:現行の都市部・農村部の二元戸籍制度を廃止し、公民が一律に平等な制度を確立する。公民の自由移動の権利を保障する。
- 結社の自由:公民の結社の自由を保障し、現行の社団登記の審査・許可制を届出制に改める。結党の禁止を解除し、憲法と法律によって政党行為の規範を定め、一党による事実上の独裁を解消し、政党活動の自由と公平な競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。
- 集会の自由:平和的な集会、行進、デモ及び自由の表現は、憲法が規定する公民の基本的自由であり、政権政党や政府から不法な干渉や違憲の制限を受けてはならない。
- 言論の自由:言論の自由・出版の自由・学問の自由を確立し、公民の情報を知る権利と監督権を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、報道に対する制限を解除する。現行「刑法」中の”国家政権転覆扇動罪”の条文を削除する。言論を理由に罪を科してはならない。
- 宗教の自由:宗教の自由と信仰の自由を保障し、政教分離を実行する。宗教・信仰の活動に政府は介入してはならない。宗教の自由を制限若しくは剥奪する行政法規、行政定款、地方条例を審査並びに撤廃する。行政立法によって宗教活動を管理することを禁止する。
- 公民教育:一党独裁に奉仕させる政治教育及び政治試験を廃止し、普遍的価値と公民の権利を基本とする公民教育を推進し、公民意識を確立させ、社会に奉仕する公民の美徳を唱道する。
- 連邦共和制:香港・マカオの自由制度を維持する。台湾については、自由・民主の前提の下で、平等な立場での交渉と協力的な対話により海峡両岸の和解計画を追求する。各民族の共同繁栄の道筋と制度設計を模索し、民主・憲政のシステムの下、中華連邦共和国を樹立する。
- 正義の転換:政治運動において迫害を受けた人及びその家族に対し、名誉を回復し、国家賠償を行う。全ての政治犯、「良心の囚人」、信仰を理由に罪を着せられた人を釈放する。真相調査委員会を設立し、歴代の事件の真相を明らかにし、責任を整理し、正義を実現し、社会の和解を追求する。
「4、結語」は、こう結ばれている。
遺憾なことに、今日の世界のすべての大国の中で、ただ中国だけがいまだに権威主義の政治の中にいる。またそのために絶え間なく人権災害と社会危機が発生しており、中華民族の発展を縛り、人類文明の進歩を制約している。このような局面は絶対に改めねばならない! 政治の民主改革はもう後には延ばせない。
そこで、我々は実行の勇気という市民的精神に基づき、「08憲章」を発表する。
我々は、同様の危機感・責任感・使命感を抱いている全ての中国公民が、政府と民間の区別なく、身分を問わず、小異を残して大同に就き、積極的に公民運動に参与して、中国社会の偉大な変革を共に推し進め、一日も早く自由・民主・憲政の国家を打ち立て、国民が100余年の間粘り強く抱き続けてきた夢を実現することを希望する。
熱く「100年の夢」を語った劉暁波は、その実現を見ることなく2017年に亡くなっている。果たして中国は、いつになったらこの夢を実現できるだろうか。いま、状況はさらに困難に見える。しかし、見果てぬ夢に終わることはあるまい。
(2021年6月3日)
人権とは、権力による侵害とせめぎ合うことを宿命づけられた存在である。人権は何よりも権力の横暴から擁護されなければならない。人権対権力、そのもっとも苛烈なせめぎ合いの最前線が、刑事司法の舞台である。刑事司法における被疑者・被告人の人権状況は、その国全体の人権状況を物語っている。
野蛮な社会の刑事手続においては、権力が正義をふりかざして「犯罪者」を糾問する。文明社会では、被疑者・被告人に人権擁護のための手続き的諸権利が保障され、訴追権との対等性の確保が目指される。そして、可能な限りの刑事手続の透明性・公開性が尊重される。
私は、カルロス・ゴーンという人物を虫酸の走るほどに嫌な奴と思ってきた。この嫌悪感は、彼が多くの労働者のクビを切ることで日産の救世主ともてはやされた頃からのもの。人を不幸に陥れることの対価として、巨大な報酬を手にすることを恥とも思わぬ悪辣な人物というイメージである。
悪辣なゴーンも被疑者・被告人となれば、強大な権力と対峙する弱い人権主体に過ぎない。「善人」であろうと「悪漢」であろうと、刑事手続における被疑者・被告人には厳正な人権保障がされねばならない。
そのゴーンが、日本の刑事司法手続を、遅れたもの、不十分なもの、国際水準に達していないもの、と攻撃したことが記憶に新しい。「人質司法」である、「密室司法」である、「取り調べに弁護人の立会権すらない」…などと。この指摘が当たっている面のあることは、否定しがたい。日本の刑事司法は、被疑者被告人の人権保障の面から必ずしも十全とは言えない。いくつもの欠陥や改善点が指摘されている。
しかし、下には下がある。中国の刑事司法と比較すると、日本の刑事司法における人権保障は何とも立派に見える。中国にも刑事裁判制度はあり、立派な裁判所の建物もある。が、そこは人権保障のために権力が制約される場ではない。とうてい文明国の刑事司法とは言えない。下記は当ブログに1年前に載せた記事だが、事態が改善される見通しはない。
https://article9.jp/wordpress/?p=15120 (2020年6月21日)
中国最新人権事情 ー おぞましい天皇制時代なみではないか。
国立大学法人北海道教育大学の袁克勤(えん・こくきん)教授が、母親の葬儀に参列のため里帰りした長春で当局に拘束(拉致というべきか)されてから2年にもなる。同氏は、札幌に長く居住しているが中国籍。日本政府が袁克勤氏救出に向けて動く気配は見えない。
2年間拘束されて、袁氏の裁判はまだ開かれていない。公開の法廷での裁判は期待しがたい。弁護人との接見が初めて実現したのが、拘禁開始から2年を経た今年の5月になってのことだという。保釈など、およそ無理な話。
「救う会」が公表している袁教授拘束の経緯は以下のとおりである。(理解し難い用語も多いが、そのままとする)
【2019年】
5月25日 母親の葬儀に出席するため、妻と日本を出国。中国大連に到着
5月28日 長春での母親の葬儀に参列
5月29日 長春駅近くで、突然現れた長春市国家安全局員に妻とともに拘束される。目隠しされて別々の車で連行される。
6月 1日 妻だけが解放され、袁さんは長春市第3看守所へ移送される
6月中旬 妻だけ札幌に帰宅。北海道教育大に対し、袁さんが「高血圧の治療のため帰国できなかった」と説明
7月上旬 妻が再び中国へ。中国当局の指示通り、袁さんのパソコンなどを持参
同上 妻が袁さんの妹に事情を打ち明け、事件が発覚
9月11日 国家安全局が妻を呼び出し、袁さんをスパイ容疑で正式に逮捕したと通知。弁護士の依頼を許可する
11月初め 国家安全局が事件を長春市検察院に送致
11月25日 「証拠不十分」で不起訴となり、国家安全局へ戻される
【2020年】
2月24日 検察院に再度送致されるが、「証拠不十分」で再び不起訴となる
3月 6日 検察院が起訴。長春市中級人民法院へ送る
3月13日 刑事事件第二廷へ移される
3月26日 中国外務省が袁さんをスパイ容疑で拘束したことを認める
【2021年】
1月 事件を長春市中級人民法院が担当することが決まる
4月22日 中国外務省が袁さんを起訴したと明かし、「事実を包み隠さず自供し、証拠も確か」と説明
5月9日 中国の弁護人から、家族に「袁さんと接見できた」と連絡が入った。
袁氏がなぜ拘束されたのか、いまだに謎のままである。中国政府はスパイ罪としているが、起訴内容など、具体的な罪状については明かしていない。
以下は、NHKの報道である。
今年(2021年)4月に新たな事実が分かりました。中国外務省の定例記者会見で、報道官がNHKの質問に対して答えました。
NHK 「北海道教育大学の袁克勤教授が捕まってから1年以上が過ぎている。彼はどこに拘束され、どのような状態にあるのか。家族によると、弁護士も家族も袁さんに面会が出来ていないようだが、どのような状況なのか」
中国外務省報道官 「袁克勤氏は中国国民で、スパイ犯罪に関わった疑いで中国の国家安全部門により法に基づいて取り調べを受けている。本人は犯罪事実を包み隠さず供述し、証拠は確かだ。すでに起訴され、裁判所で審理が行われている。担当機関は彼の訴訟に関する権利を十分に保障している」
袁さんは、起訴されていたのです。その一方で、報道官は詳しい理由や健康状態には言及しませんでした。今後予想される袁さんの裁判については、積極的な情報の開示は行われず、非公開のまま判決が出される可能性もあるとみています。
中国外務省報道官の回答の真偽はともかく、その語り口はなかなかに興味深い。中国も、野蛮とみられることはイヤなのだ。何とか、文明国としての取り繕いをしたいのだ。だから、「法に基づいて取り調べを受け」「本人は犯罪事実を供述」「証拠は確か」「すでに起訴され、裁判所で審理が行われている」「彼の訴訟に関する権利を十分に保障している」などと言ってみせるのだ。人権擁護のための刑事司法の手続き的原則を無視しているとは言えないし、思われたくない。
もっとも、ゴーンは日本の刑事司法の不備を激しく攻撃した。しかし、釈放後の袁氏が中国の刑事司法の野蛮を攻撃できるとはとうてい思えない。批判を許さない恐ろしさ、それこそが野蛮なのだが。
(2021年5月31日)
東京都議選の告示は6月25日だが、事実上の選挙戦は既に始まっている。投開票の7月4日は東京五輪開会式まで20日たらず。この都議選、今秋総選挙の前哨戦であるよりは、東京オリパラ開催可否の民意を問う住民投票という性格が強い。
本日の毎日新聞コラム「風知草」(山田孝男)に、こんな注目すべき一節がある。
菅首相はなぜ、五輪中止と言わないか。菅の心境を知る人物に聞くと、「いろんな人が努力してやってきたから」という。
「いろんな人」の筆頭は安倍晋三前首相だろう。安倍は五輪を成長戦略の柱に据えた。陣頭指揮で招致に成功、経済界と国民を鼓舞した。菅は安倍に仕え、安倍の支持を得て総裁選に勝利。長期政権8年を支えた人脈がなお五輪実現で結束しており、菅の一存では動かない――らしい。
アベ人脈の意向が壁で五輪中止とは言えない…のであれば、都民の意思で言わせるしかない。都知事選がその絶好の機会ではないか。
東京新聞5月25日の「都民意識調査」の結果が、極めて興味深い。
問1 あなたは東京五輪・パラリンピックについてどう考えますか。(数字は%)
観客を制限して開催する 17.3
無観客で開催する 11.0
中止する 60.2
どちらともいえない・わからない 11.5
問2 菅義偉首相は五輪・パラリンピックについて「国民の命や健康を守り、安全・安心の大会を実現することは可能」と説明していますが、納得できますか。
納得できる 13.2
納得できない 67.2
どちらでもない 19.6
問3 あなたは政府の新型コロナ対策を評価しますか、評価しませんか。
大いに評価する 3.8
ある程度評価する 17.0
あまり評価しない 34.3
全く評価しない 42.9
わからない 2.0
過半の都民の意思は、政府のコロナ対策を批判し、オリパラの中止を求めているのだ。そのような政策を掲げる政党・候補者の選挙戦勝利が現実化すれば、政権に打撃を与え、オリパラの中止を実現することが可能となる。そのことが、コロナの蔓延再拡大を抑制し、多くの人命を救うことにもなる。
では、オリンピックの中止についての、各政党の姿勢はどうなっているか。東京都議会文教委員会は先週金曜日(5月28日)、東京五輪・パラリンピックの中止を求める陳情について採決した。共産、立憲民主が賛成したが、少数で不採択となった。反対にまわったのが、都ファ、自民、公明である。
賛成討論で、共産は「都も国も新型コロナウイルス対策に全力を挙げるべきだ」とし、立民は「都民、国民に理解と協力を得るための努力も十分ではない」と、それぞれ採択を主張した。注目すべきは都ファの「反対討論」である。「再度の延期も含むあらゆる選択肢を視野に入れるべきだ」と言うのだ。けっして、「断乎開催」の主張ではない。それでは都民の支持を得られないことが自覚されている。そこで「再延期」という中途半端な選択肢。なお、自・公は発言をしていない。
さらに注目すべきは、都ファの「特別顧問」となっている小池百合子の意向である。小池は、同日(5月28日)の定例会見で、オリパラの再延期は困難とニベもない。それどころか、この特別顧問氏、いまだに来たるべき都議選で、都ファを「支援する」とは口にしていない。
2017年の前回都議選では、小池が率いる「都民ファーストの会」が公明党と組んで大勝し、孤立した自民が大敗を喫した。今回選挙は構図が一変。自公が再連携して都ファが孤立している。小池は、今に至るもその都ファへの支援を鮮明にしていないのだ。
結局、議会最大勢力の「都ファ(現有46議席)」に、「自・公(現有48議席)」と「共・立(現有18+6、計24議席)」が挑むという、3ブロックの争いになる。オリパラ中止のためには、「共・立」ブロックの勝利が必要だが、その条件が見えているのだ。
都民のオリパラ中止世論の追い風がある。先に引用した東京新聞の「都民意識調査」の予定投票先政党を問う設問に対する回答をご覧いただきたい。
問7 もし今、都議選で投票するとしたら、どの政党・政治団体の候補者に投票しようと思いますか。
都民ファーストの会 9.6
自民党 19.3
公明党 3.4
共産党 12.9
立憲民主党 14.0
東京・生活者ネットワーク 1.6
日本維新の会 3.4
国民民主党 0.5
旧N国 0.5
れいわ新選組 2.0
「都ファ(現有46議席)」はわずか9.6%。おそらくは惨敗となる。「自・公(現有48議席)」は合計22.7%。対して、「共・立(現有24議席)」が計26.9%と最大勢力となっている。大いに、期待して良いのだ。
なお、あと二つの設問を引用しておこう。都民の菅政権に対する評価は、極めて厳しいのだ。
問5 医療従事者や高齢者へのワクチン接種が区市町村ごとに行われています。あなたはワクチン接種が順調だと思いますか。
順調だ 4.1
どちらかといえば順調だ 13.9
あまり順調ではない 35.3
まったく順調ではない 43.2
わからない 3.5
問9 あなたは菅義偉内閣を支持しますか、支持しませんか。
支持する 16.1
支持しない 64.4
わからない 19.5
(2021年5月30日)
中公選書「『敦煌』と日本人―シルクロードにたどる戦後の日中関係」(21年3月刊・榎本泰子著)に目を通した。懐かしい風景を見直すような、過ぎ去った良き昔を思い出させる書である。あの時代、日中友好とは革新派のみならず良識ある日本人共通の了解事項であった。お互いが相手国を脅威としてはならないとの認識があった。日本人の多くにとって、中国の文物は好ましいものであり、シルクロード・敦煌はその象徴的存在であった。
私も、中国へは何度も出かけた。西安までは何度か足を運んでいるが、敦煌に行ったのは一度だけ。1泊2日飽きずに莫高窟の各室を眺め、鳴沙山と月牙泉の風景を堪能した。はるけくもあこがれの地に来たという感慨が深かった。
榎本の著書は、私の世代の日本人の中国観をよく写している。章立ては以下のとおりである。
第一章 井上靖と「敦煌」
第二章 日中国交正常化とNHK「シルクロード」
第三章 改革開放と映画『敦煌』
第四章 平山郁夫の敦煌
ここまでの叙述は、まことに心地よく読める。
ところが、「第五章 大国化する中国とシルクロード」で状況は、ガラリと変わる。中国に親しみを抱いて育った世代には、読み進むのがつらい。まずは、「天安門事件の衝撃」である。長く革新陣営にとっての希望の星だった「人民中国」が、無防備の人民に銃を向け殺戮したのだ。中国を希望としてきた期待が音を立てて崩れた「衝撃」である。この点を抜粋する。
「1989年4月改革派のリーダーで既に失脚していた胡耀邦が死去したのをきっかけに、政治の民主化を求める学生・市民らがデモを始めた。5月には中ソ対立の終結を意味するゴルバチョフ書記長の訪中があったことなどから改革に対する期待が高まり、北京の天安門広場に集結した人々は100万人とも言われた。民主化運動が全土に広まったが、中国共産党指導部内では対応を巡って改革派と保守派の間で激しい対立が起こり、危機感を抱いた最高指導者鄧小平は人民解放軍の投入を決断した。6月4日未明天安門広場に戦車が突入し、市内各所では無防備の市民らを部隊が銃撃、死者多数を出す流血の大惨事となった。その様子は外国メディアによって一斉に世界に封じられ、独裁政権の暴挙として国際社会の強い批判を浴びた。
それまで一貫して友好ムードで中国に接していた日本人の間にも、激震が走った。」
残念ながら天安門事件での「恐い中国」のイメージは基本的に修復せず、習近平の時代となって、さらに深化して定着する。一帯一路政策によってである。最近の新疆ウイグルの事態を著者はこう記している。
「2014年4月、新疆ウイグル自治区を視察した習近平国家主席を狙ったとされる爆破事件がウルムチ南駅で発生したことを契機に、現政権によるウイグル族の思想教育が全面的に行なわれるようになった。従来はテロや独立運動に関わる(と見なされる)者を逮捕・拘束する一方、ウイグル族指導層・知識層・宗教指導者などの再教育を重点的に行なっていたが、2016年以降社会の安定や治安維持を目的とする条例やガイドラインを相次いで制定し、これに違反するとみられるウイグル族市民市民を全て職業技能教育研修センターで再教育することにした。その目的は、実質的にウイグル族からイスラム教の風俗習慣を奪い、文化伝統の継承を禁じ漢族との同化を進めることである。中国共産党が一党支配を進めるにあたり、宗教を信じる者が党幹部よりも神や宗教指導者の言葉に耳を傾けるようでは不都合だ。そこで、ウイグル族にとっては外国語に等しい中国語(漢語)を教育し、習近平思想を学習させ、共産党をたたえる歌を歌わせたりするのである。
現在、新疆ウイグル自治区のウイグル族一般市民は、スマートフォンに監視アプリをダウンロードさせられ、日常の行動経路や通話記録インターネットの閲覧履歴などを公安当局に把握されている。また、無料健康診断と称してDNAや虹彩・指紋などの生体情報が収集され、個人情報とリンクさせて犯罪とみなされる行為の摘発に役立てられているという。
在外ウイグル人の証言や欧米系メディアの取材に基づけば、研修センターは中国当局の言う職業訓練施設などではなく、思想改造のための隔離収容施設であり、犯行するものを拷問し死に至らしめる場所であるという。」
デジタル技術を駆使しての個人情報の完全把握。かつては不可能と思われていたことが今や可能なのだ。中国政府は、ウイグル市民一人ひとりの生育歴から、健康状態、日常行動や思想内容まで、すべてを把握し管理しているのだという。これは、ジョージ・オーウェルが想像した『1984年』の世界を遙かに凌駕するデストピアではないか。
いつの日か、中国の党と政府が人権弾圧を反省して謝罪する日が来るだろうか。また、日本の国民がアメリカの支配や国内保守政権のくびきを脱して、民主的な国家をつくる日は来るのだろうか。そのように面目をあらためた日中両国の人民が、緊密な友好を確立することは夢でしかないのだろうか。その日が、遠くない将来のいつか来るだろうことを願うばかりである。