(2021年6月18日)
昨日(6月17日)の毎日新聞夕刊。花谷寿人論説委員の連載コラム「体温計」欄に、「祭典は誰のために」という落ちついた一文。「スポーツの祭典は誰のために開かれ、何を残すのか」を問うて、目前の東京五輪の開催意義に疑問を呈している。その論旨の半分には敬意を表しつつも、その余の半分には同意しかねる。
前回64年東京オリンピックの公式記録映画の製作を指揮したのが、市川崑監督だった。その映像について、花谷はこう言う。「空前の大ヒット映画を見返すと気づく。日の丸が掲揚されるシーンが少ない。試写を見た当時の五輪担当相、河野一郎氏は「記録性を無視したわけのわからんひどい映画」と言い放った。予想とあまりに違い、腹にすえかねたようだ。」「アジア初の五輪成功を高らかにうたい上げる。政治家はそんな作品を期待したのだろう。」
また、花谷はこう呟く。「当時『記録か芸術か』の論争になった。だが論争の本質は『国家か個人か』だったのではないか。」
なるほど、そのとおりなのだ。国費を投じた国策映画である。期待されたものは、国威の発揚であったろう。戦後の復興を遂げたこの国家の、国家としての勢いや自信の映像化であったはず。国家を描くとなれば、「日の丸」は必須のアイテムとなる。
しかし、市川が描いたものは国家ではなかった。敢えて「日の丸」掲揚のシーンを避けて、国家の威信を飾ろうという姿勢を捨てた。結局描かれたものは、個人たるアスリートの内面だったという。
国家に個人を対置させて、個人こそが存在の根源という思想を描いたのだろうか。そんなことを意識することもなく、『単なる記録ではなく芸術性を指向した』結果が、国家を捨象した個人の映像となったのだろうか。いずれにせよ、ここまでの花谷の立論には何の違和感もない。
続いて花谷はこう述べている。「映像はアスリートが大観衆に鼓舞され躍動していく姿を伝えている」と。大観衆とアスリートとの関係は、明らかに肯定的に描かれている。この「大観衆」には、国籍がないのが救いだが、個人としてのアスリートは大集団に鼓舞される存在であり、また競技場での大観衆の一人ひとりも一人のアスリートの活躍によって、集団に統合された存在となる。
花谷は、国家は否定しても、大観衆という集団は肯定的に描く。「五輪は他の大会以上に選手と観衆が一体となって作り上げる祭典だ」という。オリンピックには、大観衆の存在が不可欠なのに、目前の大会はそのような大観衆を動員できない。とすれば、本来のオリンピックではない。それでも開催するという東京オリパラ2020は、結局のところ「国の威信や政治の都合で」開催されるというしかない。
オリンピックは、ナショナリズムを高揚させ、観客の一体感を醸成させる恰好の舞台なのだ。大観衆の大声援は、通常ナショナリズムと結びついている。その大声援に鼓舞されて超人的な力量を発揮するアスリート、そんな姿を素晴らしいと思える人々が大勢いるからこそ、オリンピックは人心収攬のツールとして使えるのだ。パンデミックがあろうとなかろうと、オリンピックは無用に願いたい。
(2021年6月17日)
視聴者104名が、NHKと森下俊三(経営委員長)を被告として、文書開示請求を求める訴えの訴状提出が6月14日(月)午前のこと。その提訴を同日の午後、司法記者クラブでの記者会見で報告した。テーマが、「経営に介入されない報道の自律性」であっただけに、記者の関心は高かった。
6月16日(水)の東京新聞が、『NHK経営委 議事録公開に応じよ』というタイトルで、歯切れのよい社説を掲載した。まことに真っ当なその姿勢に敬意を表せざるを得ない。
さして長くはないその社説の全文は、東京新聞ホームページの下記URLをご覧いただきたい。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/110857?rct=editorial
社説は、経営委員会による番組制作への干渉疑惑を重大視し、その疑惑を検証するために不可欠なのだから、「NHK経営委員会よ 議事録公開に応じよ」という。極めてシンプルで分かり易い。
もっとも訴訟では、議事録を中心とした文書の開示を求める相手方は、経営委員会ではなくNHKとしている。形式的にはそうであっても、実質において議事録の開示を妨げているのは、東京新聞社説の言うとおり経営委員会である。経営委員会こそが、会長の任免権をにぎるNHKにおける最高意思決定機関である。そして、この件での議事録開示の直接の妨害者でもある。
どうして、この森下のようなとんでもない人物が、「衆参両院の同意を得て、内閣総理大臣に任命される」ことになるのだろうか。あるいは、森下のようなとんでもない人物だからこそ、「衆参両院の同意を得て、内閣総理大臣に任命される」ことになるのだろうか。安倍政権以来、トンデモ人事には慣らされてしまって驚かなくなったことにあらためて驚く。もっと新鮮に驚き、怒らねばならないと思う。
問題の核心は、2018年10月23日経営委員会における、「経営委員会からNHK会長(上田良一)に対してなされた厳重注意」である。これは、2018年4月「クローズアップ現代十(プラス)」が、かんぽ生命保険の不正販売を追及する番組を放送したことについての、加害者側日本郵政グループの抗議をそのまま受けてのもの。
本来、外部の介入や干渉から番組制作現場の自律性を守るための番組制作と経営の分離であり、外部の圧力からの防波堤となるべき経営委員会が、NHKの報道を不満とする郵政グループと一体になって、NHKの番組制作に介入・干渉をしたということなのだ。その責任を追及する前提として、まずは検証のための議事録開示の請求である。東京新聞社説は、この点をよく押さえている。
また、社説はこうも言っている。
「経営委員長は『非公表を前提とした会議だから公表できない』などと国会などで弁明したが、この論理はおかしい。仮に、非公開で会議を開き、その席でNHK会長に対して、経営委が番組制作について批判し、影響力を行使すれば、番組制作と経営との分離という垣根は容易に崩れてしまう。」
「番組が抗議や圧力にやすやすと屈せば、『自主自律』であるべき放送の前提が崩壊してしまう。経営委の介入・干渉の有無は十分に検証されねばならない。」
この社説の論理が前提とするものは、何よりも「放送の自主自律」である。放送は、「表現の自由」の重要な一局面として、権力や社会的強者の介入・干渉に曝されてはならない。このことが「放送の自主自律」と表現されている。その「自主自律」の直接の権利主体は、『番組制作部門』であって、『経営部門』ではない。
番組制作の「自主自律」を貫徹するためには、まず、経営との分離の垣根を築いて、経営の論理の影響を遮断しなければならない。それこそが、報道の自由を担うメディアのあり方である。NHKの番組制作現場は、NHK会長以下の執行部からも、その上に君臨する経営委員会からも、「分離の垣根」で守られなければならない。
本来、消費者被害摘発報道の加害者側からのクレームは、経営委員会や執行部のレベルで処理をして、番組制作現場の自主自律を擁護しなければならない。経営委員会はその逆をやったと疑惑を持たれている。だから、厳格な検証が必要なのだ。
仮に「非公表を前提とした会議だから公表できない」などという森下の弁明を許してしまえば、「非公開で会議を開き、外部の誰にも知られぬよう密室でNHK会長を批判し、経営委が番組制作について影響力を行使する」ことが可能となるではないか。それでは、番組制作と経営との分離という垣根は容易に崩れてしまう。その結果、番組制作の「自主自律」が崩壊し、「放送の自由」が失われ、「表現の自由」が傷つくことになるのだ。
東京新聞社説は、そう主張している。
(2021年6月16日)
本日、第204通常国会が150日の会期を終えて閉会した。予定どおりではあるが、政権や与党の「逃げるがごとき閉会」という印象である。政権も、与党も国会の論戦を続ければ、支持が低下するばかり。それなら、一刻も早く閉会するに越したことはない、という判断なのだ。
長く、国会とは政権と与党のために開かれるという固定観念に縛られてきた。政権が、けっして国民の利益にはならない法案を提出し、与党がその法案をゴリ押しして数の力で通すところ、である。世論と野党がこれに抵抗して審議が遅延すると、国会を延長して、強行採決に持ち込むというのが定着したパターン。
それが、いつの頃からかの様変わりである。野党が国会開会を要求して与党がこれに応じない。野党が会期を延長しようと提案して与党がこれに反対する。数の力に勝る野党が国会を開いて何を恐れるのか、それは議論である。国民の目の前での議論によって、それぞれの国民にとって、どの政党どの政治家が味方であり敵であるかが明瞭になることを恐れるのだ。また、政府の無為無策、与党の無能が暴かれることになるからでもある。
「国民」は多様である。富める者と貧しき者とがあり、力の強い者と弱い者とがある。声の大きな者と小さな者との区別もある。長く与党と政権とは、富める者・強い者・声の大きい者のための政策を押し通し、貧しき者・弱き者・声の小さき者を無視し続けてきた。国会での論戦は、そのことを少しずつ説き明かしていく。与党にとって、そんな国会は不要なのだ。
このコロナ禍は、政治というものが実は誰にも身近なものであることを実感するチャンスである。政治を今の与党と政権に任せていると、命と暮らしを潰されかねない。議会の論戦は、誰が味方で誰が敵なのか、国民に切実に示すものとなる。これが、政権や与党には不都合なのだ。
その国会閉会の日に、「東京 新型コロナ501人感染確認 前週同じ曜日より61人増」(NHK)という報道である。
「16日までの7日間平均は384.6人で、前の週の95.8%です。この数値は、先月中旬以降、70%台から80%台を維持していましたが、今月13日に90%を超えて90.1%になると、翌日の14日が90.0%、15日は92.1%、そして16日が95.8%と減少の幅がさらに小さくなっています。
都の担当者は『人の流れも増え続け、変異ウイルスが流行している。いつ下げ止まってもおかしくない。とにかく人との接触機会を減らして欲しい』と呼びかけています。」「501人のうち、およそ62%にあたる312人はこれまでのところ感染経路がわかっていません。」
変異株についての情報はないが、本日、予想外の出来事として突然に感染者数が増大したのではない。いったん減少に転じた感染者数が、漸次減少幅を減らして、本日増加に転じたのだ。十分に予想されたことであり、今後の感染蔓延のリスクも高いと予想される事態なのだ。
にもかかわらず、政府は「沖縄を除く9都道府県で、20日に期限を迎える緊急事態宣言を解除」の方針だという。科学者の知見に耳を傾けるのは都合のよいときだけ。今や、東京五輪の開催に向けて、大和魂の発揚なのである。「撃ちてし止まん」であり、「大君の辺にこそ死なめ」なのである。民族の伝統とは、恐ろしい。
なるほど、こんなときに国会で真面目な議論に付き合ったら、野党に点を稼がせるだけ。数々の政治家の疑惑も追及されている。中でも安倍晋三の国政私物化に対する国民の憤懣はおさまるところがない。政権・与党には、こんなときに国会なんぞ開いておく理由はない。たとえ、逃げたという印象を避けられないにせよ、国会延長に応じることはあり得ないのだ。
(2021年6月15日)
先週の金曜日(6月11日)、「改憲手続き法」(メディアは「国民投票法」とも)の改正法が成立した。これまで3年にわたって、8国会で棚ざらしになってきた法案の成立。典型的な不要不急の法案が、コロナ禍のドサクサに紛れての成立である。残念でならない。
これまで野党は連携して、この法案の成立を阻止し続けてきた。が、そのスクラムが崩れた。最大野党の立民が自民党に妥協したのだから、如何ともすべからざるところ。立民にも言い分はあるだろう。「情勢を読んでの最善策だった」「附則4条が、与党に新たな宿題を与えた」「事実上3年は改憲発議はできないはず…」。だが、果たしてそう言えるだろうか。なによりも、国民世論を背景とした改憲阻止の野党共闘を傷付けたことには、率直な批判が必要であろう。
「付則4条」とは、「施行後3年を目途に、有料広告制限、資金規制、インターネット規制などの検討と必要な法制上の措置その他の措置を講するものとする」というもの。改憲派は付則4条の措置がとられなくても、改憲発議は可能と広言している。この条項が、立民の思惑のとおりに生きるか、死文となるかは、今後の国民世論次第というしかない。
本日、改憲問題対策法律家6団体連絡会(社会文化法律センター・自由法曹団・青年法律家協会弁護士学者合同部会・日本国際法律家協会・日本反核法律家協会・日本民主法律家協会)は、連名で「『日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律』の可決成立に強く抗議する法律家団体の声明」を発表した。
この声明は、法案の成立に強く抗議しながら、立民の姿勢を批判していない。その点で、個人的にはいささかの異論の残るところではあるが、全構成員からの賛意を得るにはやむを得ない。その上で、法案の成立に強く抗議し、再結束して4項目の「安倍・菅改憲」を阻止しようという訴えに異論はない。
声明の全文はやや長いが、次の4節からなっている。
1 拙速な可決成立に対して、強く抗議する
2 改正法は、憲法改正国民投票の公平公正を確保しない欠陥法である
(1) 投票できない国民がいることを放置したままである
(2) 憲法改正国民投票の公平公正が担保されていない
3 改正改憲手続法のもとで、改憲発議を行うことは憲法上許されない
4 市民と野党の共闘で、自民党改憲4項目(安倍・菅改憲)発議を阻止しよう。
この、各節のタイトルをつなぐことで、次のように大意を把握することができる。
「議論未成熟のままの拙速な法案成立に強く抗議する。この成立した改正法は、(1)投票できない国民の存在を放置し、(2)憲法改正国民投票の公平公正を担保することのない欠陥法である。従って、この改正改憲手続法のもとで、改憲発議を行うことは憲法上許されない。このことを国民に明らかにしつつ、市民と野党の共闘を強化して、自民党改憲4項目(安倍・菅改憲)発議を阻止しよう。」
改憲発議を本丸攻撃に喩え、今回の改憲手続き法改正成立を、濠が埋められたに等しいという議論がある。今回の法改正で濠は埋められ城は裸になった。切迫した落城を危惧せざるをえない、というものである。私は、今回の改正法の成立をまことに残念には思うが、濠がなくなったとも、落城寸前とも思わない。
改憲手続き法は2007年5月の成立である。当時も濠を埋められた感はあったが、改憲派からの改憲発議はできなかった。その改正法が成立したから、また突然に危機が深まったとも考えにくい。手続き法は飽くまで手続き法。その整備は、改憲発議の気運成熟とは別次元のもの。
もっとも、改憲手続きが正確な主権者国民の意思を正確に反映するものでなければ、改憲発議の条件も整っていないことになる。だから、本日の6団体声明は、「改正改憲手続法も欠陥法で、この手続法のもとでの改憲発議を行うことは憲法上許されない」としていることが重要だと思う。その部分を抜粋して紹介したい。
「改憲手続法については、2007年5月の成立時において参議院で18項目にわたる附帯決議がなされ、2014年6月の一部改正の際にも衆議院憲法審査会で7項目、参議院憲法審査会で20項目もの附帯決議がなされる等、多くの問題点が指摘されているにもかかわらず、こられの本質的な問題点が、改正法ではまたもや放置され先送りとされた。
とりわけ、?ラジオ・テレビ、インターネットの有料広告規制の問題やインターネット、ビッグデータ利用の適正化を図る問題、?公務員・教育者に対する不当な運動規制がある一方で、外国企業を含む企業や団体、外国政府などは、費用の規制もなく完全に自由に国民投票運動に参加できるとされている問題、?最低投票率が設けられていない問題の見直しは、国民投票の公平公正を確保し、憲法改正の正当性を担保するうえで不可欠の根本問題である。
今回成立した改正法は、以上のような国民投票の公平公正を担保し、投票結果に正しく国民の意思が反映されるための措置について全く考慮されていない欠陥法であり、このままでは違憲の疑いが極めて強いといえる。」
相変わらず、改憲気運の醸成は希薄である。コロナ禍への対応に改憲が不可欠という改憲派の宣伝はまったく功を奏していない。そのことに自信を持ちつつ、じっくりと改憲阻止の世論高揚りために地道な努力を積み上げていくしか方法はない。
(2021年6月14日)
本日、NHKと森下俊三(経営委員長)の両名を被告とする、NHK文書開示等請求事件の訴状を東京地裁に提出した。訴訟の概要は、以下のとおりである。
原告は、NHKの視聴者104名。文書の「開示の求め」手続に着手後2か月を経ていまだ開示を受けていない者
被告1 NHK 文書開示義務の主体
被告2 森下俊三(経営委員長) 文書開示拒否の責任者
請求の内容 (1) 受信契約に基づく文書開示請求
(2) 不法行為損害(慰謝料+弁護士費用)計2万円の賠償請求
その後の記者会見で、私は2点を強調した。
まず、第1点。
この事件で問われているものは、何よりもNHKの最高機関における意思形成についての説明責任のあり方である。あるいは、意思決定プロセスの透明性の確保についての経営委員らの認識。
放送法41条は、「委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない。」と定める。にもかかわらず、2018年10月から11月にかけての3回の経営委員会議事録はいまだに、公表されていない。
これまで、森下俊三やNHKの幹部が、「議事録を公開できない」「議事録の非公開も許される」としてきたのは、「非公開の約束の会議だから公表できない」「これを公開すれば、今後忌憚のない意見交換ができなくなる」ということ。とんでもない。その認識自体の誤りが糺されなければならない。
非公開でなくては意見を言えないという経営委員やNHK幹部にも猛省が必要である。公共放送の報道の在り方や、それを支える体制のあり方についての議論は、一国の民主主義の帰趨に関わる。明らかに、放送法は経営委員の説明責任を求めている。議事録を公開することによって、それを担保しようとしている。例外は最小限とすべきが当然ではないか。
誰がどのような発言をし、どのような議論を重ねてNHKの方針が決まったのか。誰が責任をもつべきか、どのような教訓が引き出せるのか、そのことが議事録の公開で初めて明らかになる。それが非公開でよいはずはない。議事録の開示を命じる判決は、NHK経営委員の説明責任のあり方を明確にするだろう。
そして2点目。
問題の議事録には、経営委員会の上田NHK会長に対する厳重注意の経過が記載されているはず。厳重注意とされた理由はガバナンスの不備である。経営委員会がいう「NHK会長のガバナンス」とはなんぞや。
NHKの番組「クローアップ現代+」で放映された、「かんぽ生命保険不正販売問題」について、郵政側はNHK会長に番組制作の現場を押さえこむよう期待した。しかし、NHKの番組制作現場は郵政との交渉において、一貫して「NHKでは、番組制作と経営は分離している。番組作成に会長は関与しない」と説明している。
「番組制作と経営は分離している」ことは報道機関のあり方として当然ことではないか。だが、日本郵政側はこれに納得しなかった。「放送法上編集権は会長にある」との立場で、NHKのガバナンスのあり方を問題としたのだ。つまり、郵政側が言う「NHKのガバナンスのあり方についての不満」とは、「かんぽ生命不正販売報道」を黙認し、その続編放映を中止させないNHK執行部の姿勢についての不満にほかならない。
ガバナンスとは、経営陣がしっかりと番組制作現場を押さえ込んでかってな報道をさせないこと、なのだ。そりゃなかろう。これは、NHKだけの問題ではない。すべてのマス・メディアに通有の問題ではないか。あるいは、すべての企業の経営陣と、自律的に伸び伸びと働いている現場とに通有の問題なのかも知れない。
経営陣は、あるいは組織トップは、いざというときは外部からの攻撃に対して防壁となって現場を守らなければならない。経営に、外部と一体となって報道現場を攻撃することに加担せよ、というのが森下流のガバナンスだったのだ。
(2021年6月13日)
急遽、NHKを被告として、文書開示請求訴訟を提起することになった。明日(6月14日)に東京地裁に提訴、その後記者会見の予定。
被告はNHKと、経営委員会委員長森下俊三の2名。原告は、各地でNHKのウォッチに取り組んでいる市民運動の活動家105名。心強い限り。
訴訟で開示を求める文書は、次の2種類。
(1) 「クローズアップ現代+」を巡ってNHK経営委員会でなされた議論の内容(上田良一会長に対して厳重注意をするに至った議論を含む)がわかる一切の記録・資料
(2) 「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」が提出した答申を受けて、NHK経営委員会が行った当該議事録等の開示を巡る議論の内容がわかる一切の記録・資料
実は、この(1)に関しては、5件の先行開示例がある。が、訴訟は初めて。多分、NHKに対する情報公開請求訴訟として初めてのことなのだろう。
5件の先行開示請求例が、いずれも経営委員会議事録の開示を求めて拒否され、NHKの第三者機関である「情報公開審議委員会」が5件のどのケースでも、「開示せよ」と答申している。それでも、開示しないのが、NHK流のようだが、もしかすると森下俊三流なのかも知れない。
105名は、4月7日NHKに経営委員会議事録などの開示請求の手続をしたが、いまだに応答がない。期限を延期してくれというばかり。時間を無駄にせず、提訴した方がよいという判断になった。
請求の趣旨は、次のとおり。
1 被告日本放送協会は原告らに対し、別紙開示請求文書目録記載の各文書を、いずれも正確に複写して交付する方法で開示せよ
2 被告らは連帯し各原告に対し各金2万円、ならびにこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払い済みまで年3パーセントの割合による金員を支払え
本件訴えの概要は下記のとおり。
1 本件は、原告らと被告NHK間の各受信契約に基づいて、被告NHKが保有する文書の開示を請求する訴えである。
また、原告らが有する各文書の開示請求権の行使を拒否した被告らの責任を問い、原告らに生じた開示拒否に伴う損害の賠償を請求する訴えでもある。
2 ことの発端は、NHK番組「クローズアップ現代+(プラス)」が、「日本郵政職員のかんぽ保険不正販売問題」を放映し、元総務事務次官の経歴をもつ日本郵政上級副社長鈴木康雄が郵政側の中心にあって、この番組に抗議するとともに、続編の放映を妨害したことにある。
NHK経営委員会は鈴木康雄の意向に従って、当時の上田良一NHK会長を厳重注意とした。経営委員会でその中心的役割を果たしたのが被告森下俊三(当時、委員長代行)である。
3 経営委員会がした、NHK会長に対する厳重注意を異様なものとして、主としてマスコミ各社がNHKに対して、関係する経営委員会議事録等の文書開示手続を試みたがNHKはこれに応じない。諮問を受けたNHK常設第三者機関も複数回にわたって開示相当と答申しているが、NHKはいまだに開示を拒否したままである。
4 以上の経過を踏まえて、原告らは被告NHKに対して、下記2群の文書(以下、「本件各文書」)の開示を求めた。
5 しかし、被告NHKはこれに応じようとしないので、原告らは受信契約に基づく視聴者の権利を行使して本件各文書の開示を請求するとともに、併せて両被告に対して不開示による不法行為と債務不履行の損害賠償を請求する。
さまざまな場で誠実によい仕事をしている人たちがいる。ところが、そのよい仕事を妨害し、むやみに威張って理不尽を押し通そうというよからぬ人がいる。法は、こんな理不尽を許さない…ようにできているはずなのだ。
明日提訴の訴訟が、そんな役割を果たしてくれるといいな。
(2021年6月12日)
オリパラは完全に堕落した。政権浮揚の道具になり下がったのだ。スポーツにとってもアスリートにとってもこの事態は悲劇であろう。政権は、なりふり構わず開催と盛り上げに狂奔し、いつものとおり提灯持ちの連中がこれに追随している。
コロナ禍を押しての東京五輪開催の理念が語られることはなく、商業主義とナショナリズムが大手を振っている。菅政権や小池都政は、利用できるものはなんでもという姿勢で、子どもたちまでが利用されようとしている。何ともおぞましい。オリンピックとは、かくも汚辱にまみれたものであったか。
しかし、わずかに爽やかなニュースもある。「小中学生の五輪観戦、辞退次々 電車移動と密回避に不安」という埼玉のローカルニュース。(朝日デジタル)
東京五輪・パラリンピックで子どもたちに割り当てられている「学校連携観戦チケット」をめぐり、さいたま市がすべての辞退を決めるなど、キャンセルする動きが埼玉県内で相次いでいる。新型コロナウイルスの感染への心配を払拭できないためだ。
さいたま市は当初、市内の埼玉スタジアムとさいたまスーパーアリーナが会場となる五輪のサッカーとバスケットボールで、中学2、3年生ら向けの約2万1千人分と引率教員約2千人分を希望していた。だが、「不確定なことが多い」(市教育委員会)として、すべてを見合わせる。
越谷市も埼玉スタジアムへのシャトルバスがある北越谷駅周辺の小学校3校と中学1校で306枚のチケットを希望していたが、すべて見送る。市教委の担当課長は「子どもの安全を第一に考えた」と話す。
「観戦チケット」は大会の延期前に各学校からの希望を受け、県内全体で大会組織委員会から五輪8万5500枚、パラリンピック7100枚のチケットが割り当てられた。新型コロナの感染拡大を受け、組織委が県を通じてキャンセルを受け付けることになった。
各校の判断に委ねた川口市によると、市内の36校から辞退の意向があった。割り当てられた8829枚のうちキャンセルは4488枚に。川越市では割り当てられた5558枚のうち改めての希望は約2400枚にとどまった。市内32校のうち8校が希望していた草加市では、754枚の割り当てのうち628枚をキャンセルした。
組織委が会場への移動を「公共交通機関が原則」としていることも、相次ぐ辞退の要因になっている。小学校のある校長は「専用のバス移動なら対策できるが、電車だと『密』を回避しきれない恐れがあり、断念せざるを得ない」と漏らす。
神奈川では、「【新型コロナ】平塚市、小中学生の五輪観戦中止『密集リスクある』」というニュース。(神奈川新聞)
「新型コロナウイルス感染症を巡り、平塚市教育委員会は11日までに、市立小中学校の児童・生徒らによる東京五輪観戦の中止を決定した。
市教委によると、横浜市内で試合が行われる野球やサッカーなどのチケット計540枚を確保し、市立小中学校計45校を対象に希望者を募り、観戦する予定だった。
市教委は「密集するリスクがある上、観客の有無も決まっていない状況などを考慮した」としている。
神奈川県は、県内の公立・私立学校の児童、生徒らの観戦チケット代金の一部を補助している。」
残念ながら、まだ東京からは、「小中学生の五輪観戦、辞退続々」という報道はない。しかし、次のように、声を上げるべきなのだ。
「百害あって一利もない東京オリパラを中止せよ」
「猛暑の中の生徒動員に反対する」
「生徒をコロナ感染のリスクに曝すな」
「子どもたちを政権浮揚の道具に使うな」
「教育に商業主義を持ち込んではならない」
「ナショナリズム刷り込みのオリンピック利用を許さない」
「教育を小池百合子の私物にするな」
「菅や小池の思惑で、オリンピック観戦を強制してはならない」
「オリンピックではなく、子どもたちの運動会を安全にやらせろ」
「小池百合子よ、人気が回復の切り札はオリンピック中止だぞ」
(2021年6月11日)
以下は、昨夕(6月10日)の共同通信の報道である。続報はまだないようだ。
タイトルは、「国連報告者の訪日要請放置」「政府、福島避難者調査巡り」。
「国連のセシリア・ヒメネス・ダマリー特別報告者(国内避難民の権利担当)が、東電福島第1原発事故の避難者調査のため18年から3回にわたり訪日を要請しながら、日本政府は一度も回答せず事実上放置していることが10日分かった。うち2回の要請については受け入れられないと判断したが伝えていなかった。
ダマリー氏は「回答を一切受け取っていない。政策に避難者らの意見をより反映させるためには、聞き取り調査が必要だ」と話した。
政府は11年に国連人権理事会で特別報告者の訪問を原則、常時受け入れると宣言しており、説明なしに訪問を認めないやり方は国際的な批判を受ける可能性もある。」
以上が全文である。短い記事だが、読者の感想はどうだろうか。驚くべきことと思う方もあれば、どうせそんなものだろうと冷めた反応の向きもあろう。私は、驚いた方だ。けっして、驚いて見せたということではなく、本当に驚いた。
私の気持ちの中には、まだ日本という国に対する信用というものがある。国の真っ当さを信じる気持ちが強いのだ。真っ当ならざるこの国の行動にうろたえざるを得ない。
比較の対象として、中国を意識している。この真っ当ならざる国は、ウイグルに入りたいという国連の調査団を受け入れようとしない。調査の仕方にあれこれ注文を付けるやり口で、結局は受け入れを拒否している。人権後進国は国際的な非礼をせざるを得ないのだ、そう苦々しく思う。中国よ、みっともないぞ。国連の代表を人類の代表として受け入れるべきではないか。
ところがどうだ。日本もおんなじだ。恥部には触れられたくない。都合が悪いことにはダンマリなのだ。日本政府は、3度の申し入れに一度も回答せず事実上放置しているというのでは、中国以下だ。国際社会に非礼に過ぎる。
どうしてこんなことになるのか。「18年から3回にわたり訪日を要請」と言えば、3回とも、少なくとも2回は、安倍政権下でのこと。安倍晋三と言えば、2013年9月、ブエノスアイレスIOC総会の場で、フクシマ第1原発の状況は「完全にアンダーコントロール」と言い放った大嘘吐きである。国連の担当者に、「首相のウソ」がバレたらたいへんだと、3回までもダンマリを決めこんだのであろうか。
しかも、この「アベのウソ」は、東京五輪に絡んでいる。「アンダーコントロール」が真っ赤なウソと分かれば、東京五輪の開催が危うくなると気を回したことでもあろうか。
「政策に避難者らの意見をより反映させるためには、聞き取り調査が必要だ」という国連側の熱意は至極真っ当だ。過酷事故を起こした日本である。事故の実態をよく見てもらって、せめてはこれを世界の教訓にしてもらうべきことが真摯な日本の在り方ではないか。ダンマリは、中国以下であろう。だから驚くのだ。
この共同のニュースに驚かない向きは日本を見捨てている。日本とは所詮その程度の国ではないか。とりわけ、安倍晋三が首相になって以来、何もかにもおかしくなった。とりわけ道義は地に落ちた。「国連からの要請にダンマリ」くらいで、驚いていられるか、という気持なのだろう。
私は、愛国とか祖国、憂国などの言葉に虫酸が走る。それでも、日本には真っ当な国であってもらいたいと思う。だから、日本政府よ、国連を無視したり、非礼な態度をとるのはやめていただきたい。中国にさえ冷笑されるではないか。
(2021年6月9日)
多様な分野に、それぞれの専門ジャーナリストがいる。政治・経済・司法・外交・軍事・科学・医療・教育・福祉・芸能・芸術・文化・家庭・ジェンダー…。中には、皇室ジャーナリストや、右翼ジャーナリスト、政権ベッタリ・ジャーナリストもいる。ジャーナリズムに関するジャーナリストなどというのもある。
スポーツジャーナリストというのも大勢いるのだろうが、社会現象としてのスポーツを見据えた論稿にはなかなかお目にかかれない。その中で、谷口源太郎は異色であり貴重な存在である。
その谷口が本日の毎日新聞夕刊の「特集ワイド」に登場している。タイトルは、「東京五輪は誰のため? スポーツジャーナリスト・谷口源太郎さんは問う」「理念失い形骸化、政治利用は許されない」と、極めて辛口である。権力や体制に迎合する姿勢が微塵もなく、スポーツ愛好家の好みにおもねるところもない。これがスポーツライターではない、スポーツジャーナリストの真骨頂なのだろう。
谷口が五輪に関心を持ったのは、1980年夏のモスクワ大会以来だという。当時は東西冷戦のまっただ中。社会主義国では初めての大会で、「IOCをはじめ、多くの人が興味を抱いていた。大会を開催すれば、ソ連の現実を知ることができる。私も注目していました」という。
だが、米国が、ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、モスクワ大会のボイコットを呼びかけ、日本もそれに追随した。谷口は、「政治的対立を乗り越えて開催することで、国際協調主義の実現と大会成功が期待されていたが、カーター大統領がボイコットに出て五輪の存在意義を否定した。五輪の理念、平和主義はふっとび、政治によってずたずたにされた」と解説する。
IOCは76年夏のモントリオール大会が赤字となり危機に陥ったが、状況を反転させたのが84年夏のロサンゼルス大会だった。スポンサーを1業種1社に絞って広告価値を高め、テレビ局から高い放映権料を得るなどして黒字化に成功したのだ。市場経済にのみ込まれていった五輪を目の当たりにした谷口はこう振り返る。
「ロサンゼルス大会は商業主義が露骨。ショーアップもすさまじかった。IOCも五輪ビジネスを展開し始めた。これで五輪の質は変化した。五輪の歴史を振り返る時、モスクワとロサンゼルスはエポックメーキングな大会ととらえています」
誰のための、何のための五輪なのか――。そんな疑問を抱き、スポンサー契約、テレビ放映権といった五輪ビジネスの裏側などについて取材を重ねた。その谷口の結論である。「五輪自体、もういらない。やめたほうがいい。そうしないとスポーツが殺されてしまう。政治利用や商業主義を排除することなど、できっこないのだから」「オリンピックが理念を喪失して形骸化し、政治利用されるだけだとすれば、東京五輪は中止すべきです」。
谷口はこうも語っている。「この機会にもう一度、誰のためのスポーツなのかと見直し、すべての国民、市民が主人公となるスポーツ活動ができる世の中をどうつくるかを考え、一から議論しなければいけない」。パンデミックの中でオリンピック開催の意義が問われている。改めて五輪の原点をすべての人が考える必要がある。
本日の国会での党首討論。共産党の志位和夫と菅義偉首相との、たった5分の「論戦」。志位がパンデミック下での東京五輪開催の意義を問うた。「国民の生命をリスクにさらしてまでオリンピックを開催しなければならない理由を聞きたい。答えてください」。これに対する菅の答が、「国民の生命と安全を守るのが私の責務です。守れなければやらないのは当然じゃないでしょうか」という、典型的なヤギさん答弁。語るべき五輪の理想や原点をもちあわせていないのだ。まさか、「政権浮揚のため、カネのため、ナショナリズム高揚のためだよ」と、ホンネも言えないし。
(2021年6月8日)
明治天皇(睦仁)以来、天皇は精力的に全国の各地を行脚した。
その天皇の行脚には「巡幸」という特別の言葉が使われた。天皇の外出を行幸といい、外出先が複数あれば巡幸というのだという。天皇の身体は玉体、天皇の顔は竜顔、天皇が見物すれば天覧、天皇が死ねば崩御。天皇の神聖性を演出するために、特別の言葉まで動員されてきたのだ。
その天皇の行脚には、出迎えに子どもたちが動員された。どこの世界でも子どもたちの歓迎は絵になる。心優しき為政者を演出するためにはもってこいなの図柄なのだ。子どもたちは、整列して天皇を待ち受け、教えられたとおりに深く礼をし、通り過ぎる天皇の気配に少国民なりの光栄を意識し感動した。整列と敬礼と感動の押し売りである。こうして、忠良なる臣民が育った。
問題は、戦後もこの事情にさしたる変化がなかったことである。戦後の戦犯天皇の行脚を、その行く先々で主権者となった国民多数が歓呼して迎えた。これが、臣民から主権者になったはずの国民の意識レベルであった。日本が独立してからも、日の丸の小旗を持たされた子どもたちの動員が行われた。飽くまでも、自主的な参加というかたちにおいて、である。
天皇の送迎に子どもたちを動員した学校や教師は、子どものためによい教育をしているという思い込みがあったろう。世界に比類ない国体を体現する天皇への賛美というのみならず、世の大勢に順応して世間の風潮に逆らわない生き方を教えるという意識もあったろう。これを「天皇制教育」と名付けてよかろう。
いま、「オリンピック教育」が話題となっている。その中身は「天皇制教育」とよく似ている。東京都教育委員会も、オリンピック・パラリンピック教育の重要性に鑑みて、猛暑とコロナ禍の夏休み中のオリパラに、児童生徒を動員するという。
スポーツ庁ホームページによると、次のようなものであるらしい。
※ 「オリンピック・パラリンピック教育」とは、大別して、
?「オリンピック・パラリンピックそのものについての学び」と、
?「オリンピック・パラリンピックを通じた学び」から構成されると考えられ、
※ こうした学習を通じて、社会の課題の発見や解決に向けて他者と協働しつつ主体的に取り組む態度や、多様性の尊重(人間としての共通性、他者への共感、思いやり等)、公徳心(マナー、フェアプレー精神、ボランティア精神、おもてなし精神等)の育成・向上を図ることが求められる。こうした力を身につけることは、これからのグローバル化が進み、変化の激しい時代を生き抜いていくために、今後ますます重要になる。
オリンピックほど、タテマエとホンネが乖離し、上辺と内実、理念と現実に齟齬のあるイベントや組織も珍しい。オリンピック憲章の崇高な理念とバッハら一味徒党の商業主義や傲慢さの現実との目の眩むような落差。これも天皇制とよく似ている。
皇軍の兵は、けっして強要されることなく、志願して死地に赴いたとされる。もちろんタテマエだけのこと。東京都教育委員会の担当者も、児童・生徒のオリパラ観戦は、けっして強制ではないと言う。では、子どもや親が断れるかというと、現実はなかなか難しいのだ。そんなことは、計算済み。
では、本音のオリンピック教育とはなんだろうか。これまで、「日の丸・君が代」強制に狂奔してきた都教委である。いったい、何をたくらんでいるのだろうか。もちろん、チケットの売れない空席を埋めるための生徒動員という目的はあろう。絵になる、子どもたちの感動に包まれたオリンピックという演出も目的のひとつではあろう。しかし、その目的の最も中心に位置するものは、ナショナリズムの涵養である。それ以外には考えがたい。
オリンピックの中核をなすスポーツ競技は、敵味方に分かれて勝敗を競う。団体競技だけでなく個人競技も、多数観客を二分して応援者集団を構成する。当然のことながら、応援者集団の一体感が醸成される。他国チームとの競技を通じての日本人応援集団の一体感の醸成の場として、オリンピックに優るものはない。この恰好の舞台において、熱く日本選手を応援することで培われる連帯意識。このボルテージが、ナショナリズムを高揚する。これに、「君が代」と「日の丸」が加われば、理想的なのだ。
かつて天皇の全国行脚で、これに接した国民の一体感や連帯意識が、ナショナリズムを涵養したごとく、今、オリンピックがその代役を果たそうとしている。オリンピックとは、ナショナリズム涵養の舞台だ。オリンピック教育とは、子どもたちを整列させて観客席に着け、自国の選手に応援させて、日本人としてのアイデンティテイを涵養することが狙いなのだ。
こうして、子どもたちは、この夏の酷暑の中、パンデミックの危険に曝されながらも、健気にオリンピック会場に整列し観客席を埋めて日本の選手団を応する。教えられたとおりに「日の丸」や「君が代」に威儀を正して感動する。やはり、整列と敬礼と感動の押し売りなのだ。こうして、日本国民としてのナショナリズムが育っていく。