澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

権力の発動に異議を唱えた市民の訴えには、まずは共感の姿勢で耳を傾けよう。

(2021年3月23日)
 ややこしい話だが、新型コロナの蔓延に対応している法律の名称は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」である。昨年(2020年)3月、この特措法に新型コロナ対応を盛り込んだ改正を行って以来、この改正法を指して「新型コロナ特措法」などと呼ばれることもある。

 今年(2021年)2月3日に、その「新型コロナ特措法」が再改正されて、同月13日に施行となった。その改正部分に、知事の強制権限が盛り込まれている。知事は非常事態宣言の有無にかかわらず、「(コロナ蔓延の)予防的措置」として、飲食店等に対して時短や休業などを「要請」するだけでなく、「命令」を出せるようになった(同法45条3項)。命令に対する違反には、行政罰として30万円以下の過料という制裁が科されることにもなる(同法79条)。

 小池百合子都知事が、さっそくこれに飛びついた。3月18日、時短「要請」に応じなかった27店舗に午後8時以降の営業停止を「命令」したのだ。全国で初めてのことである。ところが、これを不服とする訴訟が提起された。知事としては、思いもかけないことであったろう。

 営業停止を「命令」された27店舗のうちの26店舗は、飲食チェーン「グローバルダイニング」が経営するもの。同社が東京都を相手に、処分取消の訴訟ではなく、国家賠償請求の訴訟を提起した。請求金額は、象徴的な意味合いの損害としてわずかに104円であるという。

 さて、この提訴。まだ訴状の構成の詳細は分からない段階でのことだが、基本的にどう評価すべきだろうか。いろんな考え方があるに違いない。「この非常時ではないか。時短要請に応じるべきが当然だろう」「要請に応じた店舗がほとんどなのだから、平等原則上原告は身勝手極まる」「行政裁量の壁を乗り越えられないだろう」「こういう訴訟は敗訴した場合のデメリットが大きい。こんな提訴をしてホントに大丈夫だろうか」「この店や弁護士のパフォーマンスが鼻について好感が持てない」…

 私は、この提訴を積極的に評価して、まずは歓迎したい。力の弱い者と強い者との軋轢があれば、取りあえずは弱い方に肩入れすべきが「正しい」態度であると私は思っている。労働者と資本、消費者と事業者、市民と警察、被疑者と検察官、女性と男性、野党と与党、患者と医師、そして国民と公権力、である。

 東京都の公権力発動に対して、権利の制約を受ける立場となる店舗が異議を唱えて司法の場で争おうというのだ。その意気やよし、とまずは歓迎すべきであろう。少なくも、その言い分に耳を傾けてしかるべきである。

 報道の限りでのことだが、グローバルダイニングの主張のキーワードは、二重の意味での「狙い撃ち」にあるようだ。一つは、都内で2000店舗以上が時短要請に応じてないにも拘わらず、命令の対象となったのはグローバルダイニングの店舗であつたこと。もう一つは、グローバルダイニングが行政指導に応じない考えなどをネット上で発信したことを理由に同命令を出したこと、だという。これを、「営業の自由(憲法22条)と表現の自由(21条)の保障、それに法の下の平等(14条)に違反している」と構成しているようである。

 グローバルダイニングは、東証2部への上場企業である。22日の終値248円が、23日には9時31分に、328円(+80円、+32%)のストップ高となった。これは興味深い。もしかしたら、このストップ高は、小池都知事への不快感の反映とも読めるのではないか。この先、注目せざるを得ない。

大石又七さんありがとうございました。

(2021年3月22日)
貴重な歴史の証人が失われた。第五福竜丸乗組員として「死の灰」の被曝を体験され、その体験を語り続けてこられた大石又七さんが亡くなった。享年87。

大石さんは第五福竜丸展示館を運営している公益財団法人第五福竜丸平和協会の評議員でもあった。昨日(3月21日)、協会の理事会で初めて訃報に接した。亡くなられたのは3月7日だという。

昨日、第五福竜丸展示館ホームページは、以下の「お知らせ」を掲載した。

第五福竜丸の乗組員として、ビキニ水爆実験に被ばくした大石又七さんが、去る3月7日に亡くなられました。
大石さんは、第五福竜丸の保存が実現し、夢の島公園に展示館が開館した数年後の1980年ごろから時折展示館を訪れていました。1983年に中学生に請われ自らの体験を語ったことを契機に、証言者として歩みはじめました。展示館への来館校が増える中で、クリーニング業を営みながら、断ることなく証言・講和に臨みました。また各地からも声にもこたえ、講演の数は700回を超えます。第五福竜丸を前にしては500回以上お話されてきました。

大石さんは、子どもたちに自らの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別や社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。1991年には公開された福竜丸被災に関する日米間の外交文書を読みこみ、水面下での政府間のやりとりも著作の中で紹介しています。ここにも「子どもたちに話すからには間違ったことは言えない」との大石さんの真摯な姿勢が感じられます。…

大石さんは、被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました。
第五福竜丸平和協会は、大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界にむけて、第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました。

 「大石又七さんありがとうございました。」には、特別の実感がこもっている。23人の被曝乗組員の中で、大石さん以外に積極的な語り部はいない。その大石さんも、被災直後から体験を語りはじめたわけではない。30年ほどは、口をつぐんでいた。実は、被曝の体験を語るのは容易なことではない。大きな社会的圧力を乗り越えなければできないことのだ。

大石さんの著書、『ビキニ事件の真実 : いのちの岐路で』(みすず書房 2003年)の中に、次の一節がある。

 ここでまた運動とは逆行することも起こる。他船の被爆者たちの動きだ。俺たちもそうだったが、自分から被爆の事実を隠しはじめたのだ。
 当時、乗組員たちには最低補償も労働組合もなく、貧しいその日暮らしだった。補償金が出ないとなれば働かなければならない。うっかり話でもしたら足止めされ、出漁もできなくなる。出漁できなければ、明日から生活に困る。そのとき、体が動けば、自分から「被爆しました」などと言うばかはいない。
福竜丸のように騒ぎに巻き込まれれば、白い目で見られたうえに、差別もされるーそれは船元も同じだった。多くの船子を抱え、船をあそばせておくわけにはいかない。事件の波紋が大きくなるにつれ、みんな恐れをなして自分から隠しはじめたのだ。漁船の生活は船元・船頭を中心とした典型的なタテ社会である。特に焼津は、昔から身内で要職を固める一船一家主義の土地柄、上下関係にもきびしい世界だった。その下で働く漁師たちはたとえ意見を持っていても、従う以外に道はない。そして船という小さな枠で仕切られて、広い海にちらばっているのだ。

 やがて、乗組員の中からも事件を忘れさせようとする働きかけが始まる。気がつくと、福竜会という会報が一方的に送られて来るようになった。それは意外なもので、乗組員の発病や苦悩に対して助け合うものならともかく、「俺たちに近づいてくる者はみな共産系の者だ」「気をつけろ」などと口をふさぐものだった。そして、仲間が発病しても死んでも、「被爆とはもう関係ない、一般の病気だ」「第五福竜丸であるとか、元乗組員であるとか、そんなことはみんな忘れろ」「ずい分長生きさせてもらった、放医研の検査には協力しよう」『己のわがままで、どこかに不信の念ありとすれば、人間失格だ』とまで書いて、乗組員から不満が出ないようにした。元乗組員たちは元気な者ほど、今も口をつぐんだままでいる。

 被災体験の証言は、口を封じようとする圧力に抗してなされるのだ。屈することなく、その使命感から証言を続けてこられた大石さんに感謝せずにはおられない。亡くなられた今、大石さんが果たした役割の大きさを感じる。

なお、大石さんの著作は、『ビキニ事件の真実』以外に、下記のものがある。

大石又七著、工藤敏樹編『死の灰を背負って : 私の人生を変えた第五福竜丸』 新潮社 1991年
大石又七お話、川崎昭一郎監修『第五福竜丸とともに : 被爆者から21世紀の君たちへ』新科学出版社 2001年
大石又七『これだけは伝えておきたいビキニ事件の表と裏 第五福竜丸・乗組員が語る』かもがわ出版、2007年
大石又七『矛盾 : ビキニ事件、平和運動の原点』武蔵野書房 2011年

「桜を見る会前夜祭」告発人集会 ー 安倍晋三を検察審査会申立へ

(2021年2月2日)
本日、「桜を見る会を追求する法律家の会」が、オンライン集会を開いた。
「会」は、「桜を見る会前夜祭」における参加者への費用補填に関する告発(政治資金規正法・公職選挙法違反)が秘書についての罰金だけで終わって、肝心の安倍晋三を不起訴としたことを不服として、本日検察審査会へ「起訴相当」の議決を求めて審査申立をし、併せて記者会見、告発人集会を開いた。

集会では、米倉洋子・日民協事務局長から申立内容についての報告の後、辻元清美議員、宮本徹議員、上脇博之教授、毛利正道弁護士、次いで私が、それぞれの立場から、発言・報告をした。

この中であらためて明らかにされたことは、安倍晋三後援会の3年分(2017年?2019年)の政治資金収支報告書の記載についての、泥縄式「訂正」の奇妙さである。この訂正は、配川博之(秘書)起訴・安倍晋三不起訴という処分をした12月24日の前日の「訂正」。おそらくは、検察からの指導によるものではないかと推測せざるを得ない。少なくとも、検察の黙認でなされたものではあろう。

奇妙の第1点は、子どもだましの明らかな辻褄合わせだということ。訂正前、前夜祭会費の補填費用は、一切報告がなかった。捜査の最終版で、補填費用が支出として計上せざるを得なくなった。とすれば、それに見合う収入も書き込まなければならない。さてどうするか。これを「前年からの繰越金を増額訂正する」という方法で、辻褄を合わせたのだ。

最後の「桜・前夜祭」が開催された2019年の収支報告書は訂正されて、補填額2,604,908円(A)の支出が記載されるとともに、「前年(18年)からの繰越金」が、補填額相当の2,604,908円(X)の増額訂正となった。

その前年の2018年の収支報告書は訂正されて、補填額1,506,365円(B)の支出が記載されるとともに、「前年(17年)からの繰越金」が、次年度への繰越金増額(X)に補填額相当の1,506,365円(B)を加算して、4,111,273円(Y)の増額訂正となった。

さらに、その前年の2017年の収支報告書は訂正されて、補填額1,901,056円(C)の支出が記載されるとともに、「前年(16年)からの繰越金」が、次年度への繰越金増額(Y)に補填額相当の1,901,056円(C)を加算して、6,012,329円(Z)の増額訂正となった。

面倒だが、
19年の前年からの訂正繰越金増加金額 X=A
18年の前年からの訂正繰越金増加金額 Y=X+B=A+B
17年の前年からの訂正繰越金増加金額 Z=Y+C=A+B+C

つまり、計算上のことだが、これが続けば訂正繰越金増加金額は、
W= A+B+C+D+E+F… と際限なく拡大することになる。

実際に訂正されたのは、公訴時効の問題で17年分までの3か年分だけになった。これでも、16年の収支報告書における「次年度への繰越金」は、17年の「前年からの繰越金」額とは、6,012,329円(Z)の齟齬が生じている。これは、現状を糊塗しようとして、新たな虚偽報告を行ったことになる。安倍晋三が、ウソとゴマカシを糊塗しようとする度に、新しいウソを重ねてきたことを思い出させる。

奇妙の第2点は、上脇さんの指摘である。上記の(A)(B)(C)の各年の補填額が一円単位まで書かれているのは、何を資料として記載したものかと問わねばならない。「領収証も明細書もない」というのは、実はウソではないのか。手許にあるからこそ、「正確な」金額を書けたのではないか。あるいは、安倍晋三後援会には、裏帳簿があったのではないか。数字はそこから拾ってきたのではないか。納得のいく説明がどうしても必要となっている。

また、奇妙の第3点は、この訂正は、安倍晋三の国会での証言(「補填の費用は自分や家族の金から支出した」)と、決定的に異なる。この点についての徹底した追及が必要となっている。

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私の発言は大要、以下のとおり。

私は、今回に限っては検察審査会の判断に大きな期待を寄せています。匿名の市民たちには、権力者を忖度する動機がありません。素直に法の趣旨を把握して条文を読み込めば、「安倍晋三有罪」という心証に到達するに違いありません。また、民主主義の何たるかを常識的に理解し、政治資金収支の主権者に対する透明性の確保徹底の観点からは、安倍晋三のようなウソにまみれた政治家に議員資格を与えておいてよいことにはならないはずと理解いただけると思うのです。

とりわけ強調したいことだけを申し上げます。
私と澤藤大河の両名が「第2次告発」、つまり政治資金管理団体である「晋和会」の会計責任者である西山猛と、同会代表としての安倍晋三を告発したのは、昨年の12月22日で、同日付の書面を東京地検特捜部に持参して提出しています。これに対する不起訴処分通知が、同月の24日付なのです。特捜は、実は実質的には何もこの点についての捜査をしていない。安倍晋三の政治日程に合わせた年内不起訴処分ではなかったでしょうか。

私は、晋和会代表者・安倍晋三の責任を政治資金規正法25条2項で問うていることが、とても分かり易いと思っています。

2013年最初の前夜祭の収支は、全て晋和会のものとして報告書が作成されていました。その後も補填の原資が晋和会から出ていることはごく自然なことでもあり、報道されているところでもあります。おそらくは、ホテルの領収証の宛先も、晋和会。つまりは、「補填資金」の出所は「晋和会」だったことになります。しかし、晋和会の政治資金収支報告書に前夜祭の収支についての記載はありません。

とすれば、まず、晋和会の会計責任者(西山)の不記載罪(法25条1項1号)が問われねばなりません。これを免責する理由は見あたらない。

同時に、晋和会の代表者である安倍晋三の刑事責任も免れないことになります。
25条2項は「前項の場合において、政治団体の代表者(安倍晋三)が当該政治団体(晋和会)の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、50万円以下の罰金に処する」とあります。

つまり、安倍晋三が収支の不記載について「知らぬ、存ぜぬ」「秘書の責任」を押し通して、25条1項の罪責を会計責任者だけに押し付け、最高刑禁錮5年の罪責を免れたとしても、「会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたとき」には処罰され、罰金を科せられることになります。

問題は、「会計責任者の《選任》及び《監督》について政治家に要求される相当の注意」の水準です。会計責任者の不記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければなりません。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書の作成に、常に注意し責任をもつべきは当然だからです。

被告発人安倍において、十分な措置をとったにもかかわらず会計責任者の不記載を虚偽記載を防止できなかったという特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えるべきです。とりわけ、被告発人安倍晋三は、当時内閣総理大臣として行政府のトップにあって、行政全般の法令遵守に責任をもつべき立場にありました。自らが代表を務める資金管理団体の法令遵守についても厳格な態度を貫くべき責任を負わねばなりません。

25条2項の法定刑は、最高罰金50万円に過ぎませんが、被告発人安倍晋三が起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から原則5年間公民権(公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権)を失います。その結果、安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失うことになります。

この結果は、法が当然に想定するところです。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ません。本件告発に、特別の政治的な配慮が絡んではなりません。臆するところなく、検察審査会は厳正な判断をすべきです。

権力者は軽々に「象を撃っ」てはならない。民衆は撃たせてはならない。

(2021年1月9日)
本日の毎日新聞朝刊「時の在りか」に、伊藤智永の「象を撃つ政治指導者たち」という記事。達者な筆で読ませる。
https://mainichi.jp/articles/20210109/ddm/005/070/007000c

「象を撃つ」は、作家ジョージ・オーウェルの23歳での体験だという。ビルマという英国植民地の警察官であった彼は、民衆に対して権力者として振る舞うべき立場に立たされる。

銃を手にした彼は2000人もの群衆の眼を背に意識しつつ、逃げた象と対峙する。一人のインド人を殺した象ではあったが、既に凶暴性はなかった。撃つ必要はなく、撃ちたくもなかった。伊藤の文章を引用すれば、

 「あの時、どうすべきだったのだろう。オーウェルは書いている。「私にははっきりと分かっていた。近づいてみて襲ってきたら撃てばいいし、気にもかけないようなら象使いが帰ってくるまで放っておいても大丈夫だと」。でも、そうしなかった。できなかった。撃て。そう群衆が無言で命じるのを背中が聞いたからだ。民衆と権力者のその手のやり取りに言葉は要らない。」

 こうして、権力者が、群衆の無言の命令のもと、群衆に迎合した無用の行動に走ることになる。その行動が「象を撃つ」であり、人種や民族の差別であり、侵略戦争でもある。「象を撃つ」は、民衆を支配しているはずの権力者が、民衆の願望に支配される、逆説の一面の象徴となる。伊藤は続ける。

 「「議事堂へ行くぞ」。トランプ米大統領は、象を撃った。象は倒れたか。撃った弾数は今、何発目だろう。いや、すでに群衆は、まだ生きている象の肉を一部そいでいる。これはディストピア小説ではない。」

 トランプは、自分の支持者を煽動し支配しているつもりで、実は支持者たちの過剰な期待に応えねばならない苦しい立場に立たされたのだ。「議事堂へ行くぞ」「議事を阻止せよ」と、強がりを言わざるを得ない立場に追い込まれた。こうして、トランプは撃ちたくもない「象を撃った」。トランプが撃った象とは、民主主義という巨像である。幸い、まだ、撃たれた象は致命傷には至っていない。

トランプの心境は、オーエルが綴っている、以下のとおりであったろう。

「象は静かに草をはんでいた。一目で撃つ必要はないと確信したが、いつの間にか2000人を超えた群衆は、暗い期待で興奮している。撃ちたくなかった。だが、白人は植民地で現地民を前におじけづいてはならない。撃つしかなかった。」

もちろん、この事態は、今のアメリカだけのことではない。伊藤はこう言う。

「日本にもよそ事ではない。敗戦した神国ニッポンの軍国体制、ウソを重ねて恥じない指導者をウソと知りつつ支持し続けた国民、コロナ時代の「自粛警察」に表れた相互監視にいそしむ黒々した庶民心理。どれも立派に「オーウェル的」である。」

《神国ニッポンの軍国体制》の構造は分かり易い。天皇制権力が臣民を欺いて煽動する。煽動された臣民が、本気になって「神国ニッポン」という妄想を膨らませて政府の弱腰を非難し始める。こうなると、政府は臣民をコントロールできなくなって、やみくもに「象を撃ち」始めたのだ。こうして始まった戦争は、敗戦にまで至ることになる。

《ウソを重ねて恥じない指導者と、ウソと知りつつこれを支持し続けた国民》の関係はやや分かりにくい。安倍晋三という稀代のウソつきが総理大臣になって、ウソとゴマカシで固めた政治を強行した。ところが、少なからぬ国民がこのウソつきを許容した。「株さえ上がればよい政治」という人々の責任は重い。ウソつきと知りながら、そのウソに目をつむったまま、ウソつき政治家を抱えていると、ウソつき政治家は、自分の背中を見つめる民衆の目を誤解して、間違った方向に「象を撃ち」始める。こうして、安倍晋三政権は、いくつもの負のレジームを残した。

さて、背に受けた群衆の無言の圧力に負けて発砲する指導者では困るのだ。必要なのは、象使いが到着するまで群衆の興奮を静めるだけの力量を持った政治指導者である。民衆の信頼獲得しており、民衆との誠実な対話の能力が備わっていなければならない。安倍や菅のように、質疑とは論点をずらしてはぐらかすこと固く信じている輩は、明らかに失格なのだ。

「ノーベル賞・本庶佑教授 『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

(2021年1月5日)
毎日新聞デジタルの本日付のインビュー記事のタイトルである。私はノーベル賞の権威を認めない。だから、ノーベル賞受賞者の言をありがたがる心もちは皆無である。が、この人、臆するところなく、言うべきことをきちんと口にしている。なるほど、読み応え十分である。その、本庶さんの語るところを抜粋してみる。

僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。政府は観光業を救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのではないでしょうか。

(コロナの流行を抑えるには)検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数を抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営悪化の問題。「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の逼迫は人為的に引き起こされている面があると言わざるを得ません。

少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。根本的な問題だと思います。

崩壊が取り沙汰されている医療提供体制は、感染症に対してもっと備えておくべきです。たとえ新型コロナが収束しても、新しい感染症のリスクは常にあるからです。司令塔不在の厚生労働省、医療従事者の犠牲によって成り立つ国民皆保険制度、それぞれの改革にきっちり取り組むべきでしょう。

本庶発言の白眉は、「政府は『医療は大切』と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう」という重い一言。思い当たるし、具体性があるから、厳しいものになっているのだ。

毎日も、このフレーズをタイトルにとって、「『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」とアピールした。これは、広範囲に応用が利く。『医療』を他の言葉に置き換えることがいくらでも可能なのだ。

「『学問の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか
「『教育は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『人命は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『真実は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『説明責任は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『憲法は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公平な選挙制度は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『福祉は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『貧困の撲滅は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『表現の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『政教分離は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『平和は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『司法の独立は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『歴史の真実を見つめることは大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『デマやヘイトの一掃は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『国民の豊かな生活こそが大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

「『公文書の管理は何より大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

政府は何もしてこなかった。ただただ、総理大臣のオトモダチを優遇し、国民には自助努力を求めてきただけではないか。

コロナが突きつける問 ?「国家は何のためにあるのか」

(2021年1月2日)
めでたくもないコロナ禍の正月。年末までに解雇された人が8万と報じられたが、そんな数ではあるまい。暗数は計り知れない。一方、株価の上昇は止まらない。なんというグロテスクな社会。あらためて、この国の歪み、とりわけ貧困・格差の拡大が浮き彫りになっている。

暮れから年の始めが、まことに寒い。この寒さの中での、路上生活者がイヤでも目につく。心が痛むが、痛んでも何もなしえない。積極的に具体的な支援活動をしている人々に敬意を払いつつ、なにがしかのカンパをする程度。

コロナ禍のさなかに、安倍晋三が政権を投げ出して菅義偉承継政権が発足した。その新政権の最初のメッセージが、冷たい「自助」であった。貧困と格差にあえぐ国民に対して、「自助努力」を要請したのだ。明らかに、「貧困は自己責任」という思想を前提としてのものである。

国家とは何か、何をなすべきか。今痛切に問われている。
国家はその権力によって、社会秩序を維持している。権力が維持している社会秩序とは、富の配分の不公正を容認するものである。一方に少数の富裕層を、他方に少なくない貧困層の存在を必然とする富の偏在を容認する社会秩序と言い換えてもよい。富の偏在の容認を利益とする階層は、権力を支持しその庇護を受けていることになる。

しかし、貧困と格差が容認しえぬまでに顕在化すると、権力の基盤は脆弱化する。権力の庇護を受けている富裕層の地位も不安定とならざるをえない。そこで国家は、その事態を回避して、現行秩序を維持するために、貧困や格差の顕在化を防止する手段を必要とする。

また、貧困や格差を克服すべきことは、理性ある国民の恒常的な要求である。富裕層の利益擁護を第一とする国家も、一定の譲歩はせざるを得ない。

ここに、社会福祉制度存在の理由がある。が、その制度の内容も運用も、常にせめぎ合いの渦中にある。財界・富裕層は可能な限り負担を嫌った姿勢をしめす。公権力も基本的には同じだ。しかし、貧困・格差の顕在化が誰の目にも社会の矛盾として映ってくると、事態は変わらざるを得ない。今、コロナ禍は、そのことを突きつけているのではないか。

本来、国家は国民への福祉を実現するためにこそある。今こそ、国庫からの大胆な財政支出が必要であり、その財源はこれまで国家からの庇護のもと、たっぷりと恩恵に与っていた財界・富裕層が負担すべきが当然である。富の再配分のありかたの再設定が必要なのだ。

生活保護申請者にあきらめさせ申請撤回させることを「水際作戦」と呼んできた担当窓口の姿勢も変わらざるを得ない。

この暮れ、厚労省が「生活保護は国民の権利です」と言い始めた。
「コロナ禍で迎える初めての年末年始に生活困窮者の増加が心配されるなか、厚生労働省が生活保護の積極的な利用を促す異例の呼びかけを始めた。「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」といったメッセージをウェブサイトに掲載し、申請を促している。」「厚労省は22日から「生活保護を申請したい方へ」と題したページを掲載し、申請を希望する人に最寄りの福祉事務所への相談を呼びかけている。」(朝日)

結構なことだが、これだけでは足りない。相も変わらぬ「自助努力」要請路線では、人々が納得することはない。昔なら、民衆の一揆・打ち壊しの実力行使が勃発するところ。幸い、われわれは、表現の自由の権利をもち、投票行動で政権を変えることもできる。

今年は、総選挙の年である。無反省な政権に大きな打撃を与えたいものである。

国民に焼き付けられた、「菅義偉とは、国民の気持ちが分からず、頑固で、無能で、頼りない」というイメージ

(2020年12月15日)
人は時に、取り返しのつかない失言をする。「失言」とは、「その言葉の深刻な影響に考え及ばないままの不用意な発言」を意味する。不用意な一言が思わぬ結果を招き、大きく事態を変えてしまう。これまでの成果や苦労を水の泡に帰してしまう。そのことを恐れて、菅義偉はこれまで記者会見は敬遠し、国会での発言は原稿棒読みに徹してきた。みっともない、ふがいないとの批判を甘受しても、失言のダメージを避けることを選択したのだ。ところが、少しの気の緩みから、やっちまった。ああ、覆水は盆に返らない。

失言で思い出すのは、得意の絶頂だった小池百合子の「排除いたします」の一言。この傲岸な発言が繰り返しテレビで報じられ、小池百合子だけでなく希望の党も取り返しのつかないダメージを受けた。この時焼き付いた「小池百合子とは即ち排除の人」というイメージは、いまだに拭えない。

森喜朗の「日本の国は天皇を中心としている神の国であるということを、国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」という、愚かな「失言」の影響も甚大であった。以後、彼が何をどう言っても、「天皇中心の神の国」がつきまとい、記録的な低支持率のまま首相の座を下りた。この時焼き付いた「森喜朗とは即ち天皇と神の国の人」というイメージは、いまだに拭えない。

そして、菅義偉である。どういう風の吹き回しか、記者会見嫌いな彼が動画配信サイト「ニコニコ生放送」の番組に出演した。記者を相手では意地の悪い質問に晒されるがニコ生なら気楽にしゃべれる、とでも思ったのであろうか。その気の緩みが、失態を招いた。

先週の金曜日(12月11日)の夕方、ニコ生の番組での「失言」は以下の3点である。

(1) 冒頭の「こんにちは、ガースーです」という、ふざけた自己紹介。

(2) 「GoToトラベル停止『まだ考えていない』」という、コロナ感染対策に消極姿勢。

(3) 「いつの間にかGoToが悪いことになってきたが、移動では感染はしないという提言も(分科会から)頂いている」という言い訳。

国民各層に、以上の3点が、極めて不快な印象をもたらした。まず、(1)の「ガースー」発言。本人は、親しみやすさを狙ったユーモアのつもりなのだろうが、完全にすべっている。国民の重苦しい気分とのズレが甚だしい。空気を読めない人、国民の気持ちを分かろうとしない人、というイメージが植え付けられた。この印象は今後に大きく影響するだろう。

そして、(2)である。翌、12月12日毎日新聞朝刊の一面トップが、「新型コロナ 首相、GoTo停止考えず」と、大見出しを打った。既に分科会の尾身でさえ、「GoTo見直し」を政府に提言している。これを無視した形になった。考え方に柔軟さを欠いた頑固な首相、専門家の意見に聴く耳をもたない非科学的な政治家、経済一辺倒の危ない政策。そして、思考や判断の根拠に自信がなく、国民への訴えに説得力をもたない頼りないリーダー、というイメージの定着である。

そして、(3)「移動では感染はしない」という開き直りには、多くの国民がのけぞったのではないだろうか。東大の研究チームが約2万8000人を対象に調査したところ、1か月以内に嗅覚・味覚の異常を自覚した人は、GoToトラベルを利用した人、しなかった人で、統計的には約2倍の差が生じたと報じられている。また、英スコットランド自治政府のスタージョン首相が12月9日の会見で、ウィルスの遺伝子配列の解析を根拠に「新型コロナウイルスの感染拡大は旅行が原因だった」と発表している。これが我が国でも話題になっているが、菅という人は情報に疎い、あるいは情報を理解する能力に欠ける人ではないか、というおおきな不安を国民に与えた。

結局、このたび国民の印象に焼き付けられたのは、「菅義偉とは、即ち、国民の気持ちが分からず、頑固で、無能で、頼りない」というイメージ。おそらく、将来にわたってこれを拭うことはできないだろう。ということは、首相失格というほかはない。

学術会議被推薦者6名の任命拒否は、それ自体が直ちに学問の自由の侵害である。

(2020年12月12日)
毎日新聞が、「菅語」を考えるというシリーズで12月6日に、「国語学者・金田一秀穂さんが読む首相の「姑息な言葉」 すり替えと浅薄、政策にも」という記事を掲載している。
https://mainichi.jp/articles/20201205/k00/00m/040/216000c

「総合的・俯瞰的」「多様性」「バランス」「既得権益」……。日本学術会議の任命拒否問題を巡っては、菅義偉首相が抽象的なフレーズを繰り返す場面が目立つ。具体性を著しく欠いた国のトップの説明は、日本語の専門家にはどう映っているのだろうか。国語学者の金田一秀穂さんは「本来的な意味での『姑息』」と指摘し、政権が打ち出す政策にも相通ずるものがあるとみる。

金田一秀穂という人の本来の語り口は、もの柔らかく優しい。しかし、「菅語」に対する批判は、たとえば次のようにまことに厳しい。

 ――菅さんは抽象的な言葉が多い印象です。どう見ていますか。
 ◆あまり考えた発言とは思えないですね。その場その場をしのげればいいと思っているんでしょう。(学術会議について)「女性が少ない」とか「私立大所属が少ない」「既得権益」とか、思いついたことをとりあえず言っている感じですね。これらは中身を伴わない、何の意味もない言葉です。「何も考えていないんだろうな、この人は」と思いますね。ポリシーがあって言っているわけではないことが分かってしまう。

 つまりは姑息なんです。姑息は「ひきょう」という元々なかった意味で使われることが多いですが、本来の意味は「その場限り」。菅さんはその場限りの答弁を繰り返して当座をしのぎ、いずれ国民が飽きて聞く気がなくなるのを待っているんでしょう。

しかし、最後の設問に対する次の回答の一部にやや違和感がある。

――改めて、学術会議の任命拒否問題についてはどう考えていますか。
 ◆すぐに学問の自由を侵すことにはならないと思います。ただ、今回が最初の一歩で、これから同じようなことが続いていくかもしれない。「アカデミズムは政府が主導できる」なんて考えられたら、たまったものではない。その意味で、政府がアカデミズムに介入できてしまった今回の経験は非常に恐ろしい。将来的には国立大の教授人事とかにも関わってくるかもしれない。そうなったらもっと恐ろしいし、絶対にやめてほしい。
 国家権力がアカデミズムや芸術といったものに触っちゃうと、貧しい国になります。豊かさというのは、いろいろな考えがあって初めて成り立つものです。それは歴史的にも明らかです。だから今回の任命拒否を認めてはなりません。

「『アカデミズムは政府が主導できる』なんて考えられたら、たまったものではない。その意味で、政府がアカデミズムに介入できてしまった今回の経験は非常に恐ろしい。」「だから今回の任命拒否を認めてはなりません。」は、まことにもってそのとおりである。しかし、「すぐに学問の自由を侵すことにはならないと思います。」には、賛成しかねる。今回の任命拒否は、直ちに「日本学術会議法に違反」し、かつ「学問の自由を侵す」ことにもなるのだ。

日本国憲法は、人の精神活動の自由を、内面の「思想・良心」の自由(19条)と、自由に形成された「思想・良心」を外部へ表出する「表現の自由」(21条)の両面において保障している。「学問の自由」(23条)の保障が、19条と21条に重なる「研究の自由・研究結果発表の自由・教授の自由」だけであれば、日本国憲法が旧体制の反省の中から、大日本帝国憲法を克服して制定された意義を没却することになると考えねばならない。

19条と21条とは別に、「学問の自由の保障」(23条)を定めた憲法の趣旨は、19条と21条ではカバーしきれない、「学問研究機関の権力からの独立性」「学問研究者の自律性」をこそ憲法の保障として重視すべきであろう。

伝統的な憲法学は、「学問の自由の保障」(23条)規定を、その制度的保障としての「大学の自治」に重点を置いて解説する。「自由」よりは「自治」「自律」が客観的法規範として重要なのだ。これまで、「大学の自治」として論じられてきたのは、伝統的に大学が主たる学問研究機関であったからであり、ポポロ事件など判例が大学を舞台とするものであったからでもある。しかし、日本学術会議は、まぎれもなく学問・学術の専門家集団であり研究機関でもある。設立の趣旨からも、憲法23条にもとづく「自治」「自律」が保障されるべきことは明らかと言わねばならない。

だから、政権が日本学術会議の人事に介入することが、直ちに学術会議の自治・自律を侵すものとして、「学問の自由」(憲法23条)を侵害することになる。菅政権は、自らの憲法違反を認識しなければならない。

負けを認めないトランプと、トランプの負けを信じたくない支持者たちと。

(2020年12月3日)
自分の望まない真実は、なかなかに受け容れがたいもの。時に人は、厭うべき歴史を修正して認識し、望ましからぬ眼前の事実さえも否定する。

戦後長く、ブラジルやハワイの日本人社会に、「勝ち組」と「負け組」の熾烈な対立があった。「勝ち組」とは、天皇制日本の敗戦を認められない人たちである。神国の敗北という情報は、敵の謀略であり陰謀に違いないと本気になって信じていた。いまだに繰り返される、「南京大虐殺はなかった」「関東大震災時の朝鮮人虐殺はデマだ」の類は、日本人性善説を信じたい人々の同じ心理のなせる業。

いま、トランプが「勝ち組」を煽動している。バイデンの大統領選勝利は不正があったからに違いない。これは、大がかりな謀略であり陰謀の結果である。本当はトランプが勝っていたのだ。「真実のために最後までたたかう」というトランプ自身の悪あがきは、政治的な計算あってのことだろうが、多くのトランプ支持者が本気でトランプの逆転勝利を信じているという。

NBCテレビの集計によると、トランプ陣営や関係者が各地で起こした選挙関連訴訟は少なくとも41件あるという。そのうち、既に27件が敗訴や取り下げに追い込まれた。トランプ側勝訴は一件もない。14件が、未確定ということになるが、常識的に選挙結果の逆転はあり得ない。

とうとう、トランプ政権のウィリアム・バー司法長官(法務大臣に相当)までが、「大規模な不正は見つかっていない」「大規模不正見つからず」と、AP通信のインタビューに語るに至っている。「集票システムが操作されるなど組織的な不正行為があったとの主張に対して国土安全保障省と共に調査したが、その事実を裏付けるものは何も見つかっていない」と明言したとの報道である。

もちろん、バーは共和党員。トランプに最も忠実な側近の一人だという。その司法行政担当閣僚によるギブアップ宣言である。悪あがきも、これでおしまいだと思うのが普通の感覚だが、それでも自分の望まない真実はなかなかに受け容れがたいものなのだ。トランプ陣営は、法廷闘争を続ける姿勢を改めて強調する声明を発している。

奇妙でもあり興味深くもあることは、日本国内の右翼諸君がトランプの「勝ち組」と同じ心理状況となっていることだ。

11月29日(日)に、「『トランプ米大統領再選支持』集会・デモ In 東京」という催しがあった。そのポスターが、「決着はまだついていない」「マスコミのフェイクに惑わされるな」「日本の左派、マスコミの巨悪を許さない」というもの。「正義は必ず勝つ」という、神風待望論もここでは健在なのだ。

アジア太平洋戦争の末期を彷彿させる。客観的な戦況を無視して、負けを認めない天皇や軍部と、皇国の敗戦を信じたくない国民たちとの関係。今のトランプと、その支持者たちによく似ているではないか。

「議会開設130年記念式典」 ー この奸悪なるアナクロニズム

(2020年11月30日・連続更新2800日)
昨日(11月29日・日曜日)国会では、「議会開設130年記念式典」なる催しがあった。不明にして、こんな行事の予定があったことは知らなかったが、参列者全員マスクを着けてのやや滑稽な儀式。コロナ禍のさなかに不要不急な行事の典型でもある。税金の無駄使いというだけではない、そんな暇があったら臨時国会の会期末が近い貴重なこの一日、集中審議に使ったら国民のためにさぞかし有益であったろうに。

マスクの天皇(徳仁)は、式辞で新型コロナウイルスの感染拡大で世界各国が困難な状況に直面しているとした上で、「国会が国権の最高機関として、国の繁栄と世界の平和のために果たすべき責務はますます重要になってきていると思います」と、述べたそうだ。おやおや、天皇の言としては少し危うい。「国会の…果たすべき責務は、ますます重要になってきている」などという上から目線調、天皇が主権者に向かっていう言葉だろうか。

130年前、1890年11月29日に明治天皇(睦仁)が、第1回の貴族院開院式で「朕 貴族院及衆議院ノ各員ニ告ク」と、正真正銘の上から目線で勅語を発し、これに対して貴衆両院は、臣下として「奉答文」を奉ったという。11月29日は、国民主権の国会開設の日ではなく、天皇協賛の帝国議会が始まった記念日なのだ。そんな日を記念して、議会開設記念式典は1990年から10年ごとに実施されているという。バカバカしさに呆れるしかない。

各党各会派の代表者らが出席する中、共産党だけは「戦前の帝国議会と戦後の国会の歴史を厳格に区別していない」との理由で欠席した(共同)という。これは救いだが、どうして欠席は共産党だけなのだろうか。他の議員は、みんな喜々としてこんな式典に出席しているのだろうか。議員諸君の知性のレベルと、社会的同調圧力の底の深さを見る思いである。

あらためて、この式典の狙いを考えざるを得ない。「明治100年」も「150年」も、「元号」も、「日の丸・君が代」も、そしてなにより天皇制の存続自体が、敗戦と新憲法の制定で、日本社会の構造が根本的な転換を遂げたことを覆い隠そうというものなのだ。戦前の天皇制国家との断絶を明確に意識するところから、国民主権も、民主主義も、人権も、恒久平和も出発する。戦前も戦後も、帝国議会も国会も、連綿と続いているというイデオロギーを峻拒しなければならない。

なお、この日の式典では新型コロナ感染の危険に配慮して、国歌(「君が代」)は斉唱せずに演奏のみが行われたという。別に、唱わなかったからといって、何の不都合もなかったはず。次には演奏を止めてみてはいかがか。そして、全国の学校でも、これに倣ってまずは斉唱を止めてみるべきであろう。

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