(2021年4月5日)
私にとって、4月5日は特別な日である。私は、1971年の春4月に司法修習を終えて弁護士となった。その司法修習の終了式が、ちょうど50年前の今日、4月5日であった。その日、私は怒りに震えた。あの日の怒りが、その後の私の職業生活の原点となった。その怒りの火は今なお消えない。そして、今後もこの怒りを忘れまいと思う。
法曹(弁護士・判事・検事)資格を取得するには、司法試験合格後に司法修習の課程を履修しなければならない。1969年春4月に私は23期の司法修習生となった。戦後、法曹三者の統一修習制度が発足して以来23年目の採用ということ。同期生は500人。修習期間は当時2年だった。国費の給付を受けて、修習専念義務を課せられた準公務員という立場。
その2年間、司法研修所と東京地裁・東京地検・二弁の法律事務所で、生の民刑事の事件を素材とした実務の修習に余念はなかったが、同時に課外の自主活動にも積極的に参加して多くのことを学んだ。
私が弁護士を志望した60年代後半は、司法が比較的健全な時代であった。反共の闘士・田中耕太郎最高裁長官(1950年3月?1960年10月)以後で、裁判官の独立を蹂躙した石田和外長官(1969年1月?1973年5月)以前の、比較的穏やかな司法の時代だった。国会には、護憲勢力の「3分の1の壁」が築かれ、60年安保闘争の国民的盛り上がりの余韻の中で、労働運動も学生運動も盛んだった。その社会の空気を反映して、裁判所が真っ当な判決、あるいはずいぶんとマシな判決を重ねていた時代。裁判所に正義があると国民からの信頼を得ていた、今は昔のことと語るしかない頃のこと。
当時憲法理念に忠実でなければならないとする若手の弁護士だけでなく、裁判官や司法修習生も、憲法と人権擁護を旗印とする青年法律家協会(青法協)に結集していた。時の自民党政権には、これが怪しからんことと映った。当時続いた官公労の争議権を事実上容認する方向の判決などは、このような「怪しからん」裁判官の画策と考えられた。いつの時代にも跋扈する反共雑誌の「全貌」が執拗に青年法律家協会攻撃を始め、自民党がこれに続いた。驚くべきことに、石田和外ら司法官僚上層部はこの動きに積極的に迎合した。こうして、裁判所内で「ブルーパージ」と呼ばれた青法協会員攻撃が行われた。
攻撃側の中心にいたのが、「ミスター最高裁長官」石田和外(5代目長官)である。彼は、青法協会員裁判官に、協会からの脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知の発送までを強要した。
私は、当然のごとく青年法律家協会の活動に加わった。東京で修習した実務期には修習生部会議長を引き受けもした。時節柄、この時の活動は最高裁当局との対決色を濃くするものとなり、22期から2名の青法協会員任官拒否者(裁判官への任官を希望しながら、最高裁から採用を拒否される者)が出たことで、決定的になった。私たちは、これを最高裁の思想差別ととらえた。そして、この差別は自民党や右翼勢力の策動に司法部の独立性が脆弱であることの反映と理解した。
菅義偉内閣の学術会議会員任命拒否とよく似た構図である。修習後半の1年は、ひたすら同期の仲間から任官拒否者を出すな、教官は青法協脱退工作に加担するな、逆肩たたき(任官辞退誘導)をするな、という具体的なテーマを追及する運動に明け暮れた。
2年の修習を終えて、忘れることのできない71年4月を迎える。
最高裁は、23期7人の任官志望を拒否した。そのうち6名が青法協会員だった。当局の覚え目出度くないことを知悉しつつ、良心を枉げることはできないと覚悟した潔い人びとである。運動は目的を達成できなかった。その意味では手痛い敗北だった。
それに先んじて、最高裁は13期裁判官である宮本康昭氏の(採用10年目での)再任を拒否していた。青法協裁判官部会活動の中心人物と見なされてのことである。われわれは、最高裁の頑迷な、そして確固たる意思を思い知らされた。
23期の修習修了式4月5日の前日、松戸の研修所の寮で話し合いがあった。「この事態を看過できない。明日の式では、修習生を代表して誰か抗議の一言あってしかるべきではないか」。クラス連絡会の代表だった阪口徳雄君がその役を引き受けた。
終了式の式場は、当時紀尾井町にあった木造司法研修所庁舎の講堂。当日開式直後に挨拶に立った守田直研修所長に、阪口君は「所長、質問があります」と語りかけた。500人の出席者から、「聞こえない。マイクを取れ」「こちらを向いて話せ」と声が飛んだ。所長も、耳に手をやって聞こえないというしぐさをした。彼が少し前に出て一礼し、所長の黙認を確認してマスクを取り、あらためて任官拒否の不当について話し始めた。とたんに、かねてからの手筈ででもあったかのように、司会の研修所事務局長から、声がかかった。「終了式は、終了いたしまーす」。この間、わずか1分15秒である。
そして、そのあとの長い長い教官会議があり、夕刻、最高裁は阪口君を罷免処分とした。私は、その酷薄さに怒りで震えた。同時に、権力というものの非情さと理不尽さを、肌身で知った。このときの怒りと反権力に徹しようという決意は今に続いている。
最高裁のこの暴挙には、国民的な抗議の世論が巻き起こった。なんと、最高裁自身が思想差別の張本人となっている。しかも、そのことを不当と声を上げようとする者を問答無用で切り捨てたのだ。これが、司法部の実態であれば、わが国の人権も民主主義も危うい。弁護士となった私の最初の活動は、この抗議の市民運動に参加することだった。阪口君は、資格を剥奪されたまま最高裁の不当を訴えて、全国を行脚していた。同期の者が安閑としておられるはずはなかった。
この司法の独立を求める市民運動への関与は、阪口君が2年後に世論を背景として資格の回復を勝ち取り弁護士になるまで続いた。弁護士になった彼は、私と同じ法律事務所で机を並べて同僚としてしばらく仕事をした。
こうして、「司法の嵐」「司法の危機」あるいは「司法反動」といわれた時代に、私は実務法律家となった。「憲法改正を阻止し、憲法の理念を擁護する」だけではたりない。独自の運動課題として、憲法が想定する真っ当な裁判所をつくる必要がある。司法の民主化なくして人権も民主主義もありえない。人事権を握る司法官僚が、第一線裁判官の採用・再任・昇進・昇格・任地を左右する権限を恣にしている実態を改革しなければならない。
1971年4月5日の出来事こそが、私の弁護士人生の原点となった。反権力を貫こうというだけではない。政治からも、行政府や立法府からも独立した司法への改革が必要なのだ。50年前のあの日の震えるほどの怒りを忘れまい。あの日に身に沁みた権力の理不尽と非情を忘れまい。今もなお、《憲法の理想》は《司法の現実》によって曇り続けている。この相克を解決すべく努力を続けたい。
(2021年4月4日)
澁谷知美著『日本の包茎 男の体の200年』(発刊2021年4月4日、筑摩選書)が話題である。一つは、ジェンダーやセクシュアリティに関しての学術的な関心からの話題であるが、もう一つは「消費者問題」や「医療・医師のあり方」としての話題である。しかも、後者の話題には、大村知事リコール問題での大規模な署名偽造問題の渦中にある高須克弥が絡んでいることで関心は高い。
澁谷知美とは1972年生まれの社会学者。東大大学院で教育社会学を専攻し、現在は東京経済大学教育センター准教授という肩書。ジェンダー及び男性のセクシュアリティの歴史を専門分野としているという。学問の世界も多様化してきたものだ。
昨日(4月3日)の毎日新聞書評欄に渡邊十絲子(詩人)がこの書を取りあげ、大要、こう述べている。
「包茎は日本人男性の多数派なのに、なぜ恥ずかしいのだろうか。病気でないのに手術を受けるのは、不自然ではないのか。…この書にまとめられた熱意あふれる調査研究は、これが男性の自意識や生き方にかかわる大問題であることを示している。
著者(澁谷)が調べた文献は、江戸後期から現代まで、医学書から週刊誌までと幅広い。包茎を恥とする文化は「男性による男性差別」であると著者は見ている。その背景にあるのは、男性の自己肯定感の築き方がとても偏っているという事実だ。
このような事情で男性は劣等感を抱きがちだが、それを巧妙に刺激して大儲けしたのが、包茎手術を勧めるクリニックだ。ひところは、いくつもの男性向け雑誌がタイアップ記事(実質的には広告)で「女は包茎が大嫌い」というキャンペーンを展開した。そこで「女性の意見」として紹介されていたのは、実は男性が作為的に用意した言葉だ。本来は必要のない手術を受けさせるために包茎をこきおろし、でも「悪口を言っているのは女性」という体(てい)にしたずるさに、強い怒りをおぼえる。」
同じ4月3日。文春オンラインが、同じ問題意識の記事を掲載した。
「手術失敗を苦にして自殺した14歳少年も…多数派なはずの“仮性包茎”が“恥ずかしい”ものになってしまった理由とは」
https://bunshun.jp/articles/-/44070
「包茎は過去の商品になってしまったな」“常識”を“捏造”して日本を包茎手術大国にした仕掛け人の本音
https://bunshun.jp/articles/-/44071
その記事の中に、「手術の不要性と消費者問題」という小見出しがある。なるほど、これは歴とした消費者問題なのだ。以下はその一節。
「仮性包茎は医学上、病気ではなく、手術の必要性もない。しかし、「そのままでは女性に嫌われる」といった喧伝から、手術に走る男性は後を絶たなかった。こうしたコンプレックス商法はいったい誰の手によって、どのように市場をつくりだしてきたのだろうか。
ここでは、社会学者である澁谷知美氏の著書『日本の包茎 男の体の200年史』(筑摩書房)を引用。コンプレックス商法で包茎手術が一大ブームとなった背景、そして、男性性を手玉に取り、包茎を「商品」にした仕掛け人の言葉を紹介する。」
文春オンラインは、澁谷論文を引いて、包茎手術を「コンプレックス商法」による消費者被害と構成する。大衆消費社会では消費者の需要や、消費者の欲望すらも、企業の操作によって創出される。つまり、本来要らない商品やサービスを売り付けられるのだ。そのようにして、ぼろ儲けする仕掛け人がいる。数々の悪徳商法に共通の構図である。その仕掛け人こそ高須克弥なのだ。
ネットで検索すると、澁谷知美論文を読むことができる。
戦前期日本の医学界で仮性包茎カテゴリーは使われていたか
―1890-1940 年代の実態調査の言説分析―
https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/10920/1/jinbun140-07.pdf
その中(61ページ)に、下記の記述がある。
「包茎手術をビジネス化し,「金勘定ばかりの“実業家”」(大朏博善,『美容(外科)整形の内幕』医事薬業新報社。1991:149)とも評価される,美容整形外科医の高須克弥がこのような証言をしている。
『僕(高須)が包茎ビジネスをはじめるまでは日本人は包茎に興味がなかった。僕,ドイツに留学してたこともあってユダヤ人の友人が多いんだけど,みんな割礼しているのね。ユダヤ教徒もキリスト教徒も。ってことは,日本人は割礼してないわけだから,日本人口の半分,5千万人が割礼すれば,これはビッグマーケットになると思ってね。雑誌の記事で女のコに「包茎の男って不潔で早くてダサい!」「包茎治さなきゃ,私たちは相手にしないよ!」って言わせて土壌を作ったんですよ。昭和55年当時,手術代金が15万円でね。〔中略〕まるで「義務教育を受けてなければ国民ではない」みたいなね。そういった常識を捏造できたのも幸せだなぁって(笑)』(「鈴木おさむの伝説の男10人目 高須クリニック院長 高須克弥」『週刊プレイボーイ』2007年6月11日:81?82ページ)
包茎を「商品」にした消費者問題の仕掛け人とは、ほかならぬ高須クリニック院長・高須克弥なのだ。この男のこの語り口のなんという下劣さ。これが人の生命と健康を預かる医師の言葉だろうか。
文春オンラインに戻る。高須は、「包茎は過去の商品になってしまったな」と見切りを付けているという。これも、澁谷の引用である。
「2013年は「ひとつの時代の終わり」を感じさせる出来事がふたつ起きた。ひとつは、包茎ビジネスを牽引してきた高須がその終焉を宣言するかのようなツイートをしたことである。「香料、お茶、阿片と儲かる商品は移り変わる。今度は何かな?包茎は過去の商品になってしまったな」と書いている(8)。包茎手術が意図的に作り上げられた「商品」であることを高須は2007年のインタビュー(9)ですでに暴露していたが、その商品も売れなくなっていることを示唆する内容である。」
*(8)https://twitter.com/katsuyatakasu/status/304393036325076992、2020年9月18日アクセス
*(9)『週刊プレイボーイ』2007年6月11日、81?82頁
なるほど、この男の頭の中では、包茎手術は、「香料、お茶、阿片」と並ぶ、「儲かる商品」だったのだ。しかも、その商品需要はこの男が「捏造」したことを得意げに語っているのだ。「今度は何かな?」というのは、医師の職業倫理から出てくる言葉ではない。まことに、「金勘定ばかりの“実業家”」と呼ばれるにふさわしい。これが、「ネトウヨ」として高名な高須の本性なのだ。澁谷知美の学術書が、思わぬ副産物をもたらしている。
(2021年4月3日)
本日の東京新聞第6面に、以下の見出しの記事。
「沖縄戦慰霊碑を『顕彰碑』」「高校教科書 元学徒ら『戦争美化』」「批判受け訂正へ」
見出しをつなげるとこういう意味だ。「ある高校教科書が、沖縄戦犠牲者の慰霊碑を『顕彰碑』と記載した。元学徒らは、この記載を『戦争美化』と批判し、批判受けて教科書の記載は訂正されることになった」
この記事。いくつもの問題を孕んでいる。何よりも、戦没者追悼のありかたが問われている。今に生きる者の戦争に対する評価が、戦没者追悼のあり方を決することになる。ことは、学徒隊の戦没者追悼の問題にとどまらない。維新以後の軍国日本の侵略戦争における戦没者を「英霊」と呼ぶ歴史風土に根底的な問題が横たわっている。
この東京新聞の記事のリードは、共同通信配信記事のようだが、以下のとおり。
文部科学省が検定結果を公表した2022年度の高校教科書のうち明成社(東京)の歴史総合が、沖縄戦の戦没学徒の慰霊碑「一中健児之塔」(那覇市)を「顕彰碑」と表記し、報道機関の指摘を受け「慰霊碑」に訂正申請する考えを示したことが1日、分かった。文科省によると、検定で修正を求める意見は付かなかった。元学徒らは「戦没者を英雄視し、戦争を美化することは許されない」との声明を発表した。
明成社とは、人も知る右翼出版社。日本会議の本を多く出している。教科書としては、「日本人の誇りを伝える最新日本史」を出版している。その編者が、渡部昇一・小堀桂一郎・櫻井よしこ・中西輝政・国武忠彦という、目の眩むような御仁たち。自ら、この本のキャッチを「新教育基本法に最も適った高校用歴史教科書。この教科書は、自虐史観・反日史観にとらわれない初の歴史教科書…」と言っている。
その、同じ明成社の歴史総合教科書の記述が、「▲一中健児の塔 県立第一中学校の戦没学徒の顕彰碑」としている。「顕彰」とは、明らかに戦没者を「褒め称えている」含意をもっ用語。右翼にとっては、「君のため国のために闘って死んだ」ことは、悲惨であるよりは、褒めそやすべき立派な行跡なのだ。
「顕彰」碑という言葉遣いの中に、戦争の肯定的評価がある。「英霊」という言葉が、あの戦争を侵略戦争だと言い切ることをためらわせる効果があるように、である。
東京新聞の記事本文の重要部分を略記する。
元学徒らはその説明文の中で、ひめゆり学徒隊を「ひめゆり部隊」と表記したことも「独立編成で軍隊と一緒に戦った印象を与える」と問題視した。
塔を管理する養秀同窓会によると、明成社から3月末、顕彰碑の表記と写真の無断使用について謝罪の連絡があり、訂正申請する意向を伝えられた。
沖縄戦に動員された沖縄県内21校の出身者らで作る「元全学徒の会」が今月1日、那覇市で記者会見し、共同代表の与座章健さん(92)は、「世の中が戦争を肯定するような方向に動き出していないか非常に心配だ」と危機感を示した。
中学生(旧制)の戦死に対して、一方は悲惨な死と見、他方は国に殉じた称賛すべき死とみる。「元学徒の会」は、徹底して前者の立場に立つことで、後者の立場が台頭しつつある風潮を深刻に嘆いているのだ。
だが、靖国という装置は、まさしく戦死者の美化による戦争肯定の役割を担うものなのだ。そこでは、慰霊という言葉も悪用されている。死者は、万人によって悼まれるべきものであって、死者の霊魂を慰めるという宗教性を一般化してはならない。ましてや、特定の信仰に結びつけて戦死者を「英霊」などに祀り上げてはならない。戦死者を神として崇めることは、その戦争を美化し肯定することにほかならないのだから。
(2021年4月1日)
年度替わりの本日(4月1日)は、当ブログの連載開始記念日である。「憲法記念日」ではなく、「憲法日記・記念日」。「日本国憲法の理念をこよなく愛する憲法日記の連載開始を祝うべき日」である。人権と民主主義と、そして恒久平和の発展を期するべき日でもある。
当ブログは、第2次安倍政権の発足に刺激されて誕生した。思い起こせば、2012年12月16日の第46回総選挙。この選挙で自民党は第一党に返り咲き、総裁安倍晋三は、12月26日に第2次安倍内閣を組閣した。当時、これはたいへんなことになったと思った。
安倍晋三こそは、典型的な歴史修正主義派政治家であり、軍事大国化路線の主犯である。戦後民主主義を否定し戦前日本への復古を目指す、改憲派とも靖国派とも呼ばれる勢力の頭目として、日本国憲法の天敵である。安倍には教育基本法改悪の前科がある。「こんな男に負けるわけにはいかない」「憲法の視点からの批判が不可欠である」。そう思って書き始めたのが、「澤藤統一郎の憲法日記」なのだ。
少なくとも、「アベが政権を去るその日までは、憲法擁護のブログを書き続けよう」と連載を開始したのが、2013年1月1日。そのときには、日民協ホームページの軒先を借り受けてのこと。直後に窮屈な間借り生活から飛び出て、自前の独立した本ブログを立ち上げた。多少の助走期間を経て同年4月1日を第1回として、今日の形での連載を始めた。以来、満8年。2923回の毎日連載となって、今日を迎えている。
昨年の「憲法日記・記念日」には、その安倍晋三がまだ総理の座にいた。その政権の私物化、ウソとゴマカシの政治を国民から強く批判されながらもである。その安倍は、何度も繰り返し「憲法改正を実行する」と言いながら、その端緒もつかめないままに、政権の座を下りた。
しかし、安倍後継の首相となった菅義偉も、実は安倍晋三と大同小異。同じ穴のムジナである。まだ、筆を擱くわけには行かない。もう少し、連載を続けざるを得ない。
当ブログのモットーは「当たり障りのあることだけを書く」ということ。当たり障りのないことなら書く意味がない。権力をもつ者、権勢を誇る者、富貴を貪る者、出自をひけらかす者、そして多勢を恃む者らの耳に痛いことでなければ語るにも書くにも値しない。
そのような心意気で、もうしばらく当ブログの連載を続けたい。願わくば、政権が改憲を断念するその日まで。そして、ブログの字数を縮めて、読み易くしよう。できるだけ…。
(2021年3月31日)
悪名高い「10・23通達」発出が、2003年10月23日のこと。時代は、これも悪名高い石原慎太郎都政第2期。この極右政治家の暴走によって、「都立の自由」が蹂躙され、都内公立校の学校行事で「日の丸・君が代」強制が導入された。あれから、17年余にもなる。
この17年余にわたって、都内公立校の卒業式・入学式では、全教職員一人ひとりに、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」という職務命令が発令される。これだけで異様な事態というほかはない。そして、不起立の教員には懲戒処分が課せられる。
国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に違和感をもつ教員は、数多くいる。多数派と言ってもよいだろう。その理由はさまざまだが、何よりも、この旗と歌は、天皇制下の軍国主義や侵略主義、植民地支配、偏狭な思想統制などの負の歴史とあまりに強く結びついたイメージを払拭し得ていない。
かつての枢軸3国の内、ナチス・ドイツとファシズム・イタリアは、敗戦後旧体制との決別の意味を込めて、国旗も国歌も変えている。当然のことだろう。しかし、日本だけが、大日本帝国憲法時代の象徴を今も使っている。これに抵抗感を持つ人々が存在することは、健全で当然というべきではないか。
また、国旗も国歌も、国家の象徴として個人に対峙する。起立して斉唱せよという強制を是とすることは、個人の尊厳を凌駕する国家の憲法価値を是認することにほかならない。これは、日本国憲法における主権原理にも人権理念にも悖るものといわなければならない。この強制と懲戒処分の違憲性を認めない司法は、その役割を果たしていないのだ。
これは、現代の踏み絵である。起立したくはないが良心を詐って立たざるを得ないと考えるか、種々の不利益を甘受して不起立を貫くべきと考えるか、全教員が踏み絵を命じられるキリシタンと同様の葛藤を味わうことになっている。
この都教委の仕打ちを容認できないとした教員たちが原告になって、いくつもの訴訟を提起してきた。憲法の根幹に関わる重大な憲法訴訟である。最初の提訴が、起立斉唱の差し止めを求める「予防訴訟」、次いで処分取消を求める提訴が、1次?4次まで。それに続いての第5次訴訟が本日の提訴。原告数15名、取消を求める処分の数が26件である。
本日は、午前10時に訴状を提出した。200ページの訴状は、気迫に充ちたものとなっている。11時から記者会見、午後には77人のリアル参加での報告集会というスケジュールだった。
以下は、取消5次訴訟原告団・弁護団の声明である。これまでの経緯や本日提起の訴訟の概要をご理解いただけるものと思う。
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東京「日の丸・君が代」処分取消五次訴訟提訴にあたっての声明
1 私たち東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟原告団(東京「君が代」裁判原告団)15名は、本日、東京都教育委員会を被告として、原告らに対する懲戒処分26件の取消を求めて、東京地方裁判所に提訴しました。
原告ら(都立学校の教員・元教員)は、2003年10月23日に出された通達(「10・23通達」)に基づく職務命令に違反したとして処分を受けました。この通達は、学校長に対する職務命令として、校長が、教職員にあてに卒業式等において「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること」を命じる職務命令を出させることをその内容としています。これまでにも起立斉唱命令違反を理由とする懲戒処分の取消訴訟を提起してきましたが、今回の提訴は、東京「日の丸・君が代」処分取消訴訟としては第5回目の提訴となります(第1次訴訟2007年2月提訴:原告173名、第2次訴訟2007年9月提訴:原告67名、第3次訴訟2010年3月提訴:原告50名、第4次訴訟2014年3月提訴:原告14名)。
2 10・23通達をめぐっては、2011年5月30日以降、最高裁において、起立斉唱に関しては、「国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」であるとして個人の思想良心の自由に対する間接的な制約となるとの判断が示されました。起立斉唱命令に違反したことを理由とする懲戒処分についても、第1次訴訟の最高裁2012年1月16日判決で「減給以上の処分を選択することの相当性を基礎づける具体的な事情」が必要であるとされ、過去の不起立を理由とする処分歴が相当性を基礎づける具体的な事情に当たらないとして、都教委が行ってきた「累積加重処分」を断罪し、減給以上の処分がすべて取り消されました。減給以上の処分が取り消される判断は、第2次訴訟の最高裁2013年9月6日判決でも確認され、第3次・第4次提訴でも踏襲されています。なお、戒告については取り消されることはありませんでしたが、第1次訴訟最高裁判決では、都教委に対して強権的に処分を繰り返すのではなく謙抑的な対応によって教育現場の状況の改善を求める補足意見が出されています。
3 原告ら起立斉唱命令違反を理由として懲戒処分を受けた教職員は、自身の思想、信条から起立斉唱できないにもかかわらず、そのことを理由として繰り返し懲戒処分を科され、再発防止研修の受講を義務付けられるなど自身の思想信条に対する不利益を受けながら、また、処分されたことを理由として勤務評定をさげられる等教員としての尊厳を傷つけられながらも、粘り強く裁判を闘ってきました。
しかし、都教委は、最高裁判決が求める謙抑的な対応による解決ではなく、強権的に処分を繰り返す対応に終始してきました。原告らが求める話し合いには一切応ぜず、処分を取り消された者への謝罪・名誉回復は全く行わない、断罪された「累積加重処分」の根本的な見直しすら行わない、さらにはあろうことか再処分を強行する、再発防止研修を異常なまでに強化する一方、現場では、批判を許さない体制を作り上げ、最後には再任用を打ち切って教育現場からの排除に繋げる等々、反省のかけらも見られません。
4 原告らの中には、一度は減給以上の処分を取り消された後、再び同じ卒業式等での不起立を理由として今回取り消しを求める戒告処分を受けた者が含まれています。都教委の違法な懲戒処分が取り消されたにもかかわらず、なぜ原告らは、精神的苦痛も十分に慰謝されぬまま、再度の懲戒処分によってかつての減給処分以上の経済的損失を被らなければならないのでしょうか。とりわけこの間に、都職員の昇給と勤勉手当に関する規則が2度にわたって改訂され、懲戒処分による経済的損失が大幅に増大されています。再処分を受けた者は、都教委が違法な減給処分をしなければ受けなくて済んだはずの経済的損失を被ることを余儀なくされています。
また、都教委は、現在のコロナ禍においても感染防止のため卒業式等の簡略化を求めつつ、「国歌斉唱」のみは必ず実施するよう指示し、職務命令を出し続けています。「国歌斉唱」の「職務命令」に執着し、実質的な二重処罰となる再処分をも厭わない都教委の姿勢はもはや異常というほかありません。
本日までに「10・23通達」に基づく起立斉唱命令に違反することを理由とする懲戒処分は485件という膨大な数にのぼっています。この数字も、東京の教育行政の異常さを物語っています。
そして、2019年、国際機関(ILO/UNESCO)から、式典で明らかな混乱をもたらさない場合にまで国歌の起立斉唱行為のような愛国的な行為を「強制」することは、個人の価値観や意見を侵害するとの勧告がだされたことによって、東京の教育行政の異常さは国際社会にも認識されるに至っています。
5 「10・23通達」発出からすでに17年余がたちました。10・23通達以来の職務命令によって教職員を従わせようとする都教委の、学校の命である自由闊達な教育実践を大きく阻害しています。その最大の被害者は生徒たちです。これ以上、可能性に満ちた生徒たちを都教委による管理統制の下に置くことはできません。
私たちは、本日、「人権の最後の砦」である裁判所に懲戒処分の取消を求めて第5次訴訟を提訴しました。今こそ裁判所は、都教委の暴走から国民の権利・自由を守るため、問題解決に向けてその役割を果たすべきときです。
教職員や生徒らの「思想・良心・信仰の自由」が守られる自由で民主的な教育をよみがえらせるため、教職員・生徒・保護者・市民と手を携えて、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に反対し、すべての処分を撤回させるまで闘い抜く決意です。
皆様のご理解とご支援を心よりお願い申し上げます。
2021年3月31日
東京「君が代」裁判5次訴訟原告団
同 弁護団
(2021年3月30日)
毎日新聞が、「香港『1国2制度』事実上終わる 全人代、選挙制度の見直し決定」と伝えている。なんということだ。香港に花開いた民主主義は、中国の野蛮な暴力に押し潰されたというのだ。文明の敗北であり、歴史の後退と嘆かざるを得ない。
「中国の全国人民代表大会(全人代=国会)常務委員会は30日、香港の選挙制度見直しに関する議案を全会一致で可決した。香港政府トップの行政長官と立法会(議会)議員の選挙で民主派を徹底排除する内容で、次回の選挙から導入される見通し。中国の習近平指導部による香港への統制強化は区切りを迎え、香港の高度な自治を認めた『1国2制度』は事実上、終わりを告げた形だ。」
予てから知られているとおり、中国に三権分立はなく、司法の独立もない。さらには地方自治の観念もない。そもそも人権思想がなく、民主主義の観念もない。だから、権力を縛るものがない。一党専制という権力は、何者にも掣肘されることなく、好き勝手にやり放題なのだ。そして、国外にある文明世界からの批判には、「内政干渉だ」と聞く耳を持たない。
それゆえに、中国共産党という権力は、平然と香港の選挙制度を骨抜きにできるのだ。この蛮行は、民主主義の根幹をなす選挙制度の大骨も小骨も抜いてしまった。骨を抜かれて残ったグロテスクなものは、もはや「選挙」の骸ですらない。醜悪な権力の手先の任命手続でしかない。この、香港の民主主義に対する死の宣告が、「全会一致で可決した」ことに戦慄せざるを得ない。
「今回の制度見直しで、当局が愛国者と認めた人物しか選挙に出馬できなくなり、政治も完全に統制下に置いたといえる。新制度では、共産党や政府の方針に従う「愛国者」であるのかを基準に、立候補の可否を審査する委員会を設ける。」
選挙とは本来、主権者人民が権力を形成する営みである。少なくも、主権者の意思を集約して権力に反映する手続でなくてはならない。だから、選挙制度設計の基本思想は、可及的に正確な人民の意思の集約と集約された意思のその議会への正確な反映である。自由な政党が存在し、自由な選挙運動が保障され、自由で平等な選挙権・被選挙権が保障されなければならない。秘密投票の徹底も必要である。
ところが、今回の選挙制度の見直しは、その正反対なのだ。権力が人民の意思の正確な表出を、徹底的に歪めてしまおうというのだ。もちろん、権力の望む方向にである。予め選別した権力に迎合する人物だけを候補者として認め、不都合な人物には被選挙権を与えない。これは、「似非民主主義」とも、「擬似民主主義」とも言わない。専制支配というほかはない。
ここで、権力の好悪の基準とされているものが、「愛国」である。「愛国」とは、共産党や政府の方針に従うことである。人民の意思で、党・権力を形成するのではなく、党・権力に追随する者のみを議員として取り込もうという発想。だからこそ、このようなグロテスクな「選挙制度」の議案が、全会一致で可決されるのだ。
細かい仕組みについての改悪の説明は省く。要するに、行政長官選挙も、立法会議員選挙も、「愛国者」ではない民主派を徹底して押さえ込む制度となったのだ。「愛国者」という言葉の、なんという薄汚なさであろうか。「愛国」とは、権力による民衆操作のキーワードであり、他国民や国内少数派に対する差別用語でもある。
人民の政治参加の王道は選挙にあり、路上での政治行動がこれに次ぐ。中国共産党は、路上の抗議行動を徹底して弾圧しただけでなく、選挙制度をへし曲げて人民の政治参加を妨害したのだ。
毎日新聞の記事は、「全人代は、香港住民に約束した内容をほごにした格好だ。欧米諸国が制度見直しへの批判を強めるのは必至とみられる。」と結んでいる。
われわれも、非力ながらもせめては、途切れることなく声を上げ続けよう。香港の民主主義を支持し、中国の横暴を非難する発言を続けよう。現地で声を封じられた人たちを思いつつ。
(2021年3月29日)
ミャンマーからの報道に胸が痛む。これは、軍による無辜の人民の大量虐殺以外のなにものでもない。報道では、昨日(3月28日)までの弾圧犠牲者数は423人を数えるという。
首都ネピドーで行われた3月27日の国軍記念日の式典で、ミン・アウン・フライン総司令官なる、この大量虐殺を指示した人物は、国民民主連盟(NLD)が大勝した昨年11月の総選挙で「不正があった」と主張し、クーデターは「避けられなかった」と述べたという。とうてい理解できない。総選挙で「不正があった」ことは所定の司法手続で糺せばよいだけのことで、クーデター正当化の理由になろうはずもない。
それだけではない。国内で拡大する抗議デモを念頭に「安定と安全を害する暴力的行為は適切ではない」と述べてもいる。式典に先立ち、軍は国営テレビを通じて「若者が暴動に参加しようとしているが、頭や背中を銃弾などが貫通する危険がある」と警告した(NHK)という。要するに、デモ参加者には頭を狙って狙撃するぞ、という殺人予告をしているのだ。
この27日の「殺人者集団創立記念式典」には8か国から出席があったという。その筆頭がロシア。ミン・アウン・フライン司令官は、演説の中で「ロシアは真の友人だ」と述べたそうだ。なるほど、なるほど、類は友を呼ぶとか。奥が深い。次いで、中国も参加している。こちらも、呼ばれた友であろう。
軍隊とは、基本的に殺人組織である。これが、勝手に動き出したら、これほど危険なものはない。必要悪としての存在を認めざるを得ない場合にも、厳重なシビリアンコントロールが不可欠であって、けっして独り歩きさせてはならない。ミャンマー軍がその危険、その恐ろしさを遺憾なく曝け出している。
このような折も折。日本を含む12カ国の軍のトップがミャンマー軍を非難する声明を出した。自衛隊の最高機関である、統合幕僚監部のホームページに以下の「お知らせ」が掲載されている。
令和3年3月28日
統 合 幕 僚 監 部
各国参謀長等による共同声明について
統合幕僚長山崎幸二陸将は、令和3年3月28日(日)(日本時間)、ミャンマーで生起している事態に対する平和的な解決を求めて、以下の共同声明を発出することと致しました。
(声明仮訳)
ミャンマーにおける同国軍による暴力行為を非難する
各国参謀長等による共同声明
以下は、オーストラリア連邦、カナダ、ドイツ連邦共和国、ギリシャ共和国、イタリア共和国、日本国、デンマーク王国、オランダ王国、ニュージーランド、大韓民国、イギリス及びアメリカ合衆国の参謀長等による共同声明である。
参謀長等として、我々はミャンマー国軍と関連する治安機関による非武装の民間人に対する軍事力の行使を非難する。およそプロフェッショナルな軍隊は、行動の国際基準に従うべきであり、自らの国民を害するのではなく保護する責任を有する。我々はミャンマー国軍が暴力を止め、その行動によって失ったミャンマーの人々に対する敬意と信頼を回復するために努力することを強く求める。
ノーテンキに、これを立派なこととか称賛に値することと、持ち上げてはならない。「非武装の民間人に対する軍事力の行使」が非難さるべきは当然であるが、そのような意思表明は官邸か外務省が行うべきであって、自衛隊のなすべきことではない。
政治や外交に関わることを軍のトップが口出ししてはならない。シビリアンコントロールはどこに行ってしまったのか。考えても見よ。自衛隊幹部が、独自の判断で中国やロシアの軍のありかたを批判する発言をはじめたら収拾のつかないことになる。容認する発言ならなおさらのことである。自衛隊を軍隊と定義するか否かはともかく、危険な実力組織には、独り歩きをせぬように厳重な統制が必要なのだ。
日本国憲法は軍隊の存在を想定していない。にもかかわらず、現実に存在する実力組織には、幾重にも、シビリアンコントロールの厳重な網をかぶせておかなければならない。それが、日本国憲法の平和主義、国民主権原理の求めるところである。
是非、野党は、この問題を看過せず、国会で追及していただきたい。
(2021年3月28日)
愛読する毎日新聞、最近はその社説に違和感を覚えることが滅多にない。ときどきは大いに肯いて、肯いた自分を保守化したのだと感じたりもする。
しかし、3月24日社説「皇位継承の有識者会議 国民的議論が欠かせない」だけは別。どうしても納得できない。民主主義理解と表裏一体の天皇制に関しての毎日新聞の姿勢は明らかにおかしい。もっとも、毎日新聞だけではないのだが。
不正確にならないように抜粋・引用する。
「安定的な皇位継承策などを議論する政府の有識者会議が初会合を開いた。オープンで、国民が納得できる議論が求められる。
2017年に成立した退位特例法の国会付帯決議は、皇位継承の議論を退位後速やかに行うよう政府に求めている。
天皇陛下より若い皇位継承資格者は皇嗣(こうし)の秋篠宮さま(55)と長男悠仁(ひさひと)さま(14)の2人だけだ。
しかし、安倍前政権は19年4月30日の上皇さまの退位以降も議論を先延ばしにしてきた。喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い。
先送りの背景には、安倍前政権の支持基盤である保守派が、皇族の女性が皇位を継承する「女性天皇」や、父方に天皇がいない「女系天皇」に強く反対していることがある。
各種世論調査では、女性・女系天皇を容認する意見が7割前後に上っている。有識者会議はこうした世論も踏まえつつ、女性・女系天皇について議論を深めるべきだろう。
皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。
菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」
「安定的な皇位継承」とは、「万世一系の皇統」というに等しい。社会の木鐸を任じるジャーナリズムが、保守多数の国会に追随し、アプリオリに「安定的な皇位継承」を肯定してはならない。少なくも、根強く天皇制廃止の意見もあることを両論併記して意見を言うべきだろう。
「喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い」は、毎日新聞の論説陣が本気で言っていることなのだろうか。薄汚い安倍前政権攻撃の材料の一つとして、言って見せているだけなのだろうか。
コロナ対策が喫緊の課題、被災地復興は喫緊の課題、地球環境保存のための排出ガス規制は喫緊の課題、絶滅危惧種保護のための生態系保存は喫緊の課題等々なら分かる。しかし、皇位継承なんぞ、「喫緊の課題」であろうはずはない。ましてや、コロナ禍さなかでのこと。私は、「課題」ですらないと思う。
「女性・女系天皇について議論を深める」とは何を意味しているのだろうか。「女性・女系天皇を認めて、天皇制を護持することが大切」と、世論を誘導したいのだろうか。むしろ、「民主主義と天皇制との矛盾について議論を深める」ことが今、最も重要なことではないか。ついでに言えば、「天皇制と表現の自由」「天皇制と報道の自由」「天皇制と教育の自由」「天皇制と大学の自治」「天皇制と古代歴史研究の自由」の葛藤などにも、本当の意味での「議論を深める」努力をしていただきたい。
「皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。」には、のけぞるばかり。これが、日本を代表する大新聞のリベラル度の水準なのか。皇族の減少は歓迎すべきことである。国民の主権者としての自立意識に資することになろうだけでなく、「皇族が減ればその分だけ経費負担が減り、社会福祉にまわすことができる」ではないか。
「菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」を、どう読むべきだろうか。
天皇制やその支持勢力への欺瞞的な妥協だろうか、あるいは、販売促進政策上の保守的読者層へのへつらいと見るべきか。毎日新聞もつらいのかも知れないが、矜持を捨てないでいただきたい。
なお、この有識者会議のメンバーは、下記の6人。
上智大学の大橋真由美教授、慶應義塾の清家篤前塾長、JR東日本の冨田哲郎会長、俳優で作家の中江有里氏、慶應義塾大学の細谷雄一教授、千葉商科大学の宮崎緑国際教養学部長。
これは明らかに偏った人選。天皇制に迎合することなく象徴天皇制を全面的に語ってきた実績のある横田耕一や原武史などの一群の人々を意識的に外しているとしか思えない。
総理大臣官邸で開かれた有識者会議の初会合で菅首相は、こう語っている。
「高い識見を有する皆様にご議論をお願いする」「議論していただくのは、国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。十分に議論を行い、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい」
菅政権にとっては、象徴天皇制の持続は《国家の基本に関わる極めて重要な事柄》なのだ。毎日新聞が、「社の方針も同様」では、戦前と変わるところがない。本当にそう考えているのか。
(2021年3月27日)
金曜日には「週刊金曜日」を読もうとして、なかなか時間がとれない。今日、土曜日に3月26日号に目を通している。今号は、いつにもまして充実の趣。弱者目線にブレがないところがよい。
対照的な、広島高裁伊方原発異議審決定と水戸地裁東海第二運転差し止め判決の紹介。札幌地裁同性婚違憲判決レポート。ソウル中央地裁「慰安婦」判決の関連記事。石橋学記者の差別断罪論。矢崎泰久の「左京」…。あれもこれも頷けるなかで、「『社会主義核心価値観』を読み解く」(麻生晴一郎)という中国情勢紹介記事に目が留まった。簡潔で分かり易い。が、やや違和感も禁じえない。
世界情勢の中で俄然、存在感を増す中国。その政治思想を支えるのが、たった24文字の「社会主義核心価値観」だ。その内容とは? というリード。
中国はスローガンのお国柄。至るところに、党や国家の政治スローガンが氾濫している。早川タダノリさんが紹介する戦前の日本も、空虚なスローガンに溢れた鬱陶しい社会だったようだ。何か、共通するものがあるのだろう。
今、その多様な政治スローガンの頂点に君臨しているのが、12語(24文字)の「社会主義核心価値観」なのだ。この12語は、次のとおり3分類されるのだという。
国家が目標とすべき価値:富強、民主、文明、和諧
社会が重んじるべき価値:自由、平等、公正、法治
個人の道徳規範の価値 :愛国、敬業、誠信、友善
漢字2字の熟語だから、なんとなく分かるような気もする。おそらく、「富強」「愛国」などは、われわれのイメージと大きくは変わらないのだろう。「富国強兵」「忠君愛国」を連想させる。
しかし、「民主」「自由」「平等」「公正」「法治」などは、われわれのイメージとはまったく違う。「はっきりしているのは、社会主義核心価値観が、中国で『普世価値(人類の普遍的価値)』と呼ばれることもある欧米中心の基準とは一線を画していることである」という。
ならば、紛らわしい言葉遣いはきっぱりとやめて、正確に別の言葉を使うべきだろう。「民主」とは「専制」のこと。「自由」とは「一党独裁に従うべきこと」。「平等」とは「あらゆる格差を忍ぶべきこと」。「公正」とは党が全てを把握すべきこと。「法治」とは「党が恣に作る法による統治」である。
私の印象では、これは、「中国版・教育勅語」である。偉大なる党中央から、無知蒙昧な人民にたまわりし、ありがたくも、温情溢れたスローガン。こんなものは、自由とも民主主義とも、法の支配ともまったく無縁である。
というだけでなく、驚くべきは、「社会主義核心価値観」と言いながらも、「社会主義」の周辺にも当たるスローガンがない。
むしろ、党のホンネは、「七不講(チーブジャン)」にあるという。習近平体制になってから「党中央が各学校に対して通知した、七つの話してはならないこと」というが、「七つの禁句」と言った方が分かり易いだろう。(もっとも、いま、党は公式には否定しているという。)
禁句とされる「七不講」とは次のとおり。
(1) 人類の普遍的価値
(2) 報道の自由
(3) 市民社会
(4) 公民の権利
(5) 党の歴史的錯誤
(6) 特権資産階級
(7) 司法の独立
これにも、多少のコメントをしておきたい。
(1) 「人類の普遍的価値」と言えば、人権のことである。中国では人権は禁句なのだ。それはそうだろう。
(2) 「核心価値観」の中に「自由」はある。しかし、「報道の自由」という、党に不都合な自由は含まないのだ。
(3) 「市民社会」は、専制を倒した後の自由を基調とする社会。党の専制に抵触するのだろう。
(4) 「公民の権利」の最たるものは普通選挙である。人民の意を反映する選挙権を与えたら、全中国が香港化することになる。
(5) 「党の歴史的錯誤」が禁句なのは、文革も天安門事件もフランクに語る自信がないということなのだ。
(6) 「特権資産階級」が禁句なのは、「深刻な経済格差のなかで、特権的な資産階級が存在している」現実があるからにほかならない。
(7) 「司法の独立」は、選挙とともに法の支配の要である。司法が立法府や行政府、そして党の支配から独立していなければ、自由も民主主義も画餅に帰すことになる。「三権分立」も「司法の独立」もない社会は、市民社会成立以前の、非文明の専制社会と言わざるを得ない。
このような中国と、どのようにしたら共通の言葉で話ができるのか。麻生晴一郎論稿は、最後をこう結んでいる。
「日本も含めて、さまざまな問題で中国政府に意見を述べ、働きかける際も、社会主義核心価値観など中国スタンダードの文脈の中で語らなくてはならない時代になっていくのではないか。そうしなければ、香港問題同様、中国政府は外からの声に聞く耳を持たない可能性が大きいのである。」
これに違和感がある。これは、対中国敗北の論理ではないか。人類史が積み重ねてきた叡智と知性の敗北でもある。中国とは、大いに対話をすべきであるが、卑屈で姑息な態度をとるべきではない。
(2021年3月26日)
ここ上野不忍池はかつての東叡山寛永寺境内の一隅。四季の移りの中で二度ばかりは、この地が極楽浄土となる。一度は盂蘭盆会を間近の蓮の華が咲き誇る頃。そして、もう一度が、花が咲きそろい鳥の鳴く頃。まさしく、本日のこの景色が極楽浄土さながらと言うよりほかはない。
本日の早朝、空は飽くまで青く晴れわたり、風はそよやか。池の畔のソメイヨシノが今を盛りと咲き誇り、ちらほらと散り始め。これにベニユタカやシロタエが彩りを添えている。花は紅、柳は緑。弁天堂近くではウグイスの鳴き声。行き交う人はまばらで、甲高い外つ国の言葉は聞こえない。
とは言え、この極楽、行き交う人々はまばらだが、皆マスクを着用している。一人の例外もなく。この世の現実から逃れられない極楽なのだ。
東京オリンピックも、希望や理念を語りはするものの、コロナ蔓延の現実から逃れることができない。
昨日から、聖火リレーが始まった。コロナ再感染第4波を押してのことである。初日から、火が消えて再点火するというアクシデントが2度。台風並みの風雨でも「絶対に消えない聖火」との触れ込みだったトーチの火が消えたのだ。本日(3月26日)には、火の消えたトーチのまま一区間が走られた。消えてはならない聖火が消えた。将来を暗示するものではないか。いや東京五輪の現実を語っているというべきか。
聖火リレーは、フクシマから始まった。10年前地獄と化した原発事故の地。アンダーコントロールという、あの男のウソを改めて思い出す。そして、復興五輪というゴマカシも。東京五輪は、東北復興に水を差したではないか。それを糊塗するための見え透いた演出。
政府は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪開催」と、まだ言っている。太平洋戦争も、原発依存の国策も、決定的な破綻に行き着くまで方向転換できなかった。東京五輪も同様なのだ。このままでは玉砕五輪とならざるを得ない。
聖火リレーの出発式典で、大会組織委員会会長の橋本聖子は、「東京大会の聖火は、神聖で力強く、温かい光となって日本全国に一つひとつ希望を灯していってほしい」「日本と世界の皆さんの希望が詰まった大きな光となり、国立競技場に到着することを祈念する」「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」などと述べたという。
はたしてこの火は、神聖だろうか。力強いだろうか。温かい光となるだろうか。全国に希望を灯せるだろうか。日本と世界の希望が詰まった大きな光だろうか。そもそも、無事に国立競技場に到着することができるだろうか。
「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」は、意味不明である。私は、東北の出身者として、「打たれても、叩かれても、虐げられても、中央には文句の一つも言わない」と、蔑まれた思いを抱かざるを得ない。
よく知られてるとおり、聖火リレーはヒトラー政権下の1936年ベルリン五輪から始まった。ファシズムの心理的演出手法として位置づけられたものである。
極楽の風景もコロナの現実から逃れることはできない。聖火リレーのまがい物の希望も同様である。まずは、コロナ拡大のリスクを冒してまで、聖火リレーなどやる意味があるかを考えよう。聖火リレーも東京五輪も、腐敗した政権や政治家の野心が民衆を統制する演出に過ぎないというべきであろう。確かなのは、東京五輪が大企業の金儲けの手段となっていること。
火は必ずしも聖なるものとは限らない。人家を焼く火災の火ともなり、おぞましい戦火とも、原発の核の火とも、煉獄の炎ともなる。コロナ禍のさなかに、Jビレッジを出た火は、途切れながらも、人から人へのリレーを重ねて行き着くところで、極楽の聖なる火となるだろうか、あるいは地獄の劫火となるのだろうか。