澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「安定的な皇位継承策の議論」は、重大でも喫緊の課題でもない。

(2021年3月28日)
 愛読する毎日新聞、最近はその社説に違和感を覚えることが滅多にない。ときどきは大いに肯いて、肯いた自分を保守化したのだと感じたりもする。

 しかし、3月24日社説「皇位継承の有識者会議 国民的議論が欠かせない」だけは別。どうしても納得できない。民主主義理解と表裏一体の天皇制に関しての毎日新聞の姿勢は明らかにおかしい。もっとも、毎日新聞だけではないのだが。

不正確にならないように抜粋・引用する。
 「安定的な皇位継承策などを議論する政府の有識者会議が初会合を開いた。オープンで、国民が納得できる議論が求められる。
 2017年に成立した退位特例法の国会付帯決議は、皇位継承の議論を退位後速やかに行うよう政府に求めている。
 天皇陛下より若い皇位継承資格者は皇嗣(こうし)の秋篠宮さま(55)と長男悠仁(ひさひと)さま(14)の2人だけだ。
 しかし、安倍前政権は19年4月30日の上皇さまの退位以降も議論を先延ばしにしてきた。喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い。
 先送りの背景には、安倍前政権の支持基盤である保守派が、皇族の女性が皇位を継承する「女性天皇」や、父方に天皇がいない「女系天皇」に強く反対していることがある。
 各種世論調査では、女性・女系天皇を容認する意見が7割前後に上っている。有識者会議はこうした世論も踏まえつつ、女性・女系天皇について議論を深めるべきだろう。
 皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。
 菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」

 「安定的な皇位継承」とは、「万世一系の皇統」というに等しい。社会の木鐸を任じるジャーナリズムが、保守多数の国会に追随し、アプリオリに「安定的な皇位継承」を肯定してはならない。少なくも、根強く天皇制廃止の意見もあることを両論併記して意見を言うべきだろう。

 「喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い」は、毎日新聞の論説陣が本気で言っていることなのだろうか。薄汚い安倍前政権攻撃の材料の一つとして、言って見せているだけなのだろうか。

 コロナ対策が喫緊の課題、被災地復興は喫緊の課題、地球環境保存のための排出ガス規制は喫緊の課題、絶滅危惧種保護のための生態系保存は喫緊の課題等々なら分かる。しかし、皇位継承なんぞ、「喫緊の課題」であろうはずはない。ましてや、コロナ禍さなかでのこと。私は、「課題」ですらないと思う。

 「女性・女系天皇について議論を深める」とは何を意味しているのだろうか。「女性・女系天皇を認めて、天皇制を護持することが大切」と、世論を誘導したいのだろうか。むしろ、「民主主義と天皇制との矛盾について議論を深める」ことが今、最も重要なことではないか。ついでに言えば、「天皇制と表現の自由」「天皇制と報道の自由」「天皇制と教育の自由」「天皇制と大学の自治」「天皇制と古代歴史研究の自由」の葛藤などにも、本当の意味での「議論を深める」努力をしていただきたい。

 「皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。」には、のけぞるばかり。これが、日本を代表する大新聞のリベラル度の水準なのか。皇族の減少は歓迎すべきことである。国民の主権者としての自立意識に資することになろうだけでなく、「皇族が減ればその分だけ経費負担が減り、社会福祉にまわすことができる」ではないか。

 「菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」を、どう読むべきだろうか。

 天皇制やその支持勢力への欺瞞的な妥協だろうか、あるいは、販売促進政策上の保守的読者層へのへつらいと見るべきか。毎日新聞もつらいのかも知れないが、矜持を捨てないでいただきたい。

 なお、この有識者会議のメンバーは、下記の6人。
 上智大学の大橋真由美教授、慶應義塾の清家篤前塾長、JR東日本の冨田哲郎会長、俳優で作家の中江有里氏、慶應義塾大学の細谷雄一教授、千葉商科大学の宮崎緑国際教養学部長。

 これは明らかに偏った人選。天皇制に迎合することなく象徴天皇制を全面的に語ってきた実績のある横田耕一や原武史などの一群の人々を意識的に外しているとしか思えない。

 総理大臣官邸で開かれた有識者会議の初会合で菅首相は、こう語っている。

 「高い識見を有する皆様にご議論をお願いする」「議論していただくのは、国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。十分に議論を行い、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい」

 菅政権にとっては、象徴天皇制の持続は《国家の基本に関わる極めて重要な事柄》なのだ。毎日新聞が、「社の方針も同様」では、戦前と変わるところがない。本当にそう考えているのか。

「社会主義核心価値観」とは、現代中国版「教育勅語」である。

(2021年3月27日)
 金曜日には「週刊金曜日」を読もうとして、なかなか時間がとれない。今日、土曜日に3月26日号に目を通している。今号は、いつにもまして充実の趣。弱者目線にブレがないところがよい。

 対照的な、広島高裁伊方原発異議審決定と水戸地裁東海第二運転差し止め判決の紹介。札幌地裁同性婚違憲判決レポート。ソウル中央地裁「慰安婦」判決の関連記事。石橋学記者の差別断罪論。矢崎泰久の「左京」…。あれもこれも頷けるなかで、「『社会主義核心価値観』を読み解く」(麻生晴一郎)という中国情勢紹介記事に目が留まった。簡潔で分かり易い。が、やや違和感も禁じえない。

 世界情勢の中で俄然、存在感を増す中国。その政治思想を支えるのが、たった24文字の「社会主義核心価値観」だ。その内容とは? というリード。

 中国はスローガンのお国柄。至るところに、党や国家の政治スローガンが氾濫している。早川タダノリさんが紹介する戦前の日本も、空虚なスローガンに溢れた鬱陶しい社会だったようだ。何か、共通するものがあるのだろう。

 今、その多様な政治スローガンの頂点に君臨しているのが、12語(24文字)の「社会主義核心価値観」なのだ。この12語は、次のとおり3分類されるのだという。

 国家が目標とすべき価値:富強、民主、文明、和諧
 社会が重んじるべき価値:自由、平等、公正、法治
 個人の道徳規範の価値 :愛国、敬業、誠信、友善

 漢字2字の熟語だから、なんとなく分かるような気もする。おそらく、「富強」「愛国」などは、われわれのイメージと大きくは変わらないのだろう。「富国強兵」「忠君愛国」を連想させる。

 しかし、「民主」「自由」「平等」「公正」「法治」などは、われわれのイメージとはまったく違う。「はっきりしているのは、社会主義核心価値観が、中国で『普世価値(人類の普遍的価値)』と呼ばれることもある欧米中心の基準とは一線を画していることである」という。

 ならば、紛らわしい言葉遣いはきっぱりとやめて、正確に別の言葉を使うべきだろう。「民主」とは「専制」のこと。「自由」とは「一党独裁に従うべきこと」。「平等」とは「あらゆる格差を忍ぶべきこと」。「公正」とは党が全てを把握すべきこと。「法治」とは「党が恣に作る法による統治」である。

私の印象では、これは、「中国版・教育勅語」である。偉大なる党中央から、無知蒙昧な人民にたまわりし、ありがたくも、温情溢れたスローガン。こんなものは、自由とも民主主義とも、法の支配ともまったく無縁である。

というだけでなく、驚くべきは、「社会主義核心価値観」と言いながらも、「社会主義」の周辺にも当たるスローガンがない。

むしろ、党のホンネは、「七不講(チーブジャン)」にあるという。習近平体制になってから「党中央が各学校に対して通知した、七つの話してはならないこと」というが、「七つの禁句」と言った方が分かり易いだろう。(もっとも、いま、党は公式には否定しているという。)

禁句とされる「七不講」とは次のとおり。
(1) 人類の普遍的価値
(2) 報道の自由
(3) 市民社会
(4) 公民の権利
(5) 党の歴史的錯誤
(6) 特権資産階級
(7) 司法の独立

これにも、多少のコメントをしておきたい。
(1) 「人類の普遍的価値」と言えば、人権のことである。中国では人権は禁句なのだ。それはそうだろう。
(2) 「核心価値観」の中に「自由」はある。しかし、「報道の自由」という、党に不都合な自由は含まないのだ。
(3) 「市民社会」は、専制を倒した後の自由を基調とする社会。党の専制に抵触するのだろう。
(4) 「公民の権利」の最たるものは普通選挙である。人民の意を反映する選挙権を与えたら、全中国が香港化することになる。
(5) 「党の歴史的錯誤」が禁句なのは、文革も天安門事件もフランクに語る自信がないということなのだ。
(6) 「特権資産階級」が禁句なのは、「深刻な経済格差のなかで、特権的な資産階級が存在している」現実があるからにほかならない。
(7) 「司法の独立」は、選挙とともに法の支配の要である。司法が立法府や行政府、そして党の支配から独立していなければ、自由も民主主義も画餅に帰すことになる。「三権分立」も「司法の独立」もない社会は、市民社会成立以前の、非文明の専制社会と言わざるを得ない。

このような中国と、どのようにしたら共通の言葉で話ができるのか。麻生晴一郎論稿は、最後をこう結んでいる。
 「日本も含めて、さまざまな問題で中国政府に意見を述べ、働きかける際も、社会主義核心価値観など中国スタンダードの文脈の中で語らなくてはならない時代になっていくのではないか。そうしなければ、香港問題同様、中国政府は外からの声に聞く耳を持たない可能性が大きいのである。」

これに違和感がある。これは、対中国敗北の論理ではないか。人類史が積み重ねてきた叡智と知性の敗北でもある。中国とは、大いに対話をすべきであるが、卑屈で姑息な態度をとるべきではない。

聖火リレーの行き着く先は?

(2021年3月26日)
 ここ上野不忍池はかつての東叡山寛永寺境内の一隅。四季の移りの中で二度ばかりは、この地が極楽浄土となる。一度は盂蘭盆会を間近の蓮の華が咲き誇る頃。そして、もう一度が、花が咲きそろい鳥の鳴く頃。まさしく、本日のこの景色が極楽浄土さながらと言うよりほかはない。

 本日の早朝、空は飽くまで青く晴れわたり、風はそよやか。池の畔のソメイヨシノが今を盛りと咲き誇り、ちらほらと散り始め。これにベニユタカやシロタエが彩りを添えている。花は紅、柳は緑。弁天堂近くではウグイスの鳴き声。行き交う人はまばらで、甲高い外つ国の言葉は聞こえない。

 とは言え、この極楽、行き交う人々はまばらだが、皆マスクを着用している。一人の例外もなく。この世の現実から逃れられない極楽なのだ。

 東京オリンピックも、希望や理念を語りはするものの、コロナ蔓延の現実から逃れることができない。

 昨日から、聖火リレーが始まった。コロナ再感染第4波を押してのことである。初日から、火が消えて再点火するというアクシデントが2度。台風並みの風雨でも「絶対に消えない聖火」との触れ込みだったトーチの火が消えたのだ。本日(3月26日)には、火の消えたトーチのまま一区間が走られた。消えてはならない聖火が消えた。将来を暗示するものではないか。いや東京五輪の現実を語っているというべきか。

 聖火リレーは、フクシマから始まった。10年前地獄と化した原発事故の地。アンダーコントロールという、あの男のウソを改めて思い出す。そして、復興五輪というゴマカシも。東京五輪は、東北復興に水を差したではないか。それを糊塗するための見え透いた演出。

 政府は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪開催」と、まだ言っている。太平洋戦争も、原発依存の国策も、決定的な破綻に行き着くまで方向転換できなかった。東京五輪も同様なのだ。このままでは玉砕五輪とならざるを得ない。

 聖火リレーの出発式典で、大会組織委員会会長の橋本聖子は、「東京大会の聖火は、神聖で力強く、温かい光となって日本全国に一つひとつ希望を灯していってほしい」「日本と世界の皆さんの希望が詰まった大きな光となり、国立競技場に到着することを祈念する」「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」などと述べたという。

 はたしてこの火は、神聖だろうか。力強いだろうか。温かい光となるだろうか。全国に希望を灯せるだろうか。日本と世界の希望が詰まった大きな光だろうか。そもそも、無事に国立競技場に到着することができるだろうか。

 「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」は、意味不明である。私は、東北の出身者として、「打たれても、叩かれても、虐げられても、中央には文句の一つも言わない」と、蔑まれた思いを抱かざるを得ない。

 よく知られてるとおり、聖火リレーはヒトラー政権下の1936年ベルリン五輪から始まった。ファシズムの心理的演出手法として位置づけられたものである。

 極楽の風景もコロナの現実から逃れることはできない。聖火リレーのまがい物の希望も同様である。まずは、コロナ拡大のリスクを冒してまで、聖火リレーなどやる意味があるかを考えよう。聖火リレーも東京五輪も、腐敗した政権や政治家の野心が民衆を統制する演出に過ぎないというべきであろう。確かなのは、東京五輪が大企業の金儲けの手段となっていること。

 火は必ずしも聖なるものとは限らない。人家を焼く火災の火ともなり、おぞましい戦火とも、原発の核の火とも、煉獄の炎ともなる。コロナ禍のさなかに、Jビレッジを出た火は、途切れながらも、人から人へのリレーを重ねて行き着くところで、極楽の聖なる火となるだろうか、あるいは地獄の劫火となるのだろうか。

甲子園に流れた韓国語校歌の感動

(2021年3月25日)
 自分でも現金なものと呆れるが、かつては「春はセンバツから」が身体に染みついていた。母校が甲子園の常連校で常勝校でもあった頃のこと。今は、高校野球になんの興味もない。母校の野球部は廃部になってしまっている。だから、どこの高校が勝とうが負けようがどうでもよいことで、随分と紙幅をとっている毎日新聞のスポーツ欄は目障りなのだ。

 ところが、昨日の一戦だけは別。京都国際高校対柴田高校(宮城)の初出場対決。延長戦の末、5―4で京都国際が勝利した。その試合後に流れた校歌が「韓国語」だったという。同校は、現在はいわゆる「1条学校」だが、その前身は在日韓国人の学校。校歌は、昔のとおりのハングルの歌詞。球場の大型スクリーンには、ハングルの歌詞と日本語訳の両方が映し出されたと報道されている。これは、すてきなニュースではないか。

 私は、ナショナリズム一般の価値を認めない。ナショナリズムとは全体主義的統合機能をもつものとして危険であり、反価値でしかないと思う。しかし、特定の状況において、虐げられている人たちを鼓舞する抵抗のエネルギーの源泉としてであれば、その限りで評価を惜しまない。

 在日の人々が置かれている立場では、そのナショナリズムは尊重に値すると思うし、敬意を禁じえない。その在日のナショナリズムに寛容な日本社会であって欲しい。今、京都国際の野球部員は全員が日本人であるというが、彼らが抵抗なく韓国語の校歌を唱う図には、日本社会の寛容度を見直させるものがある。

 この校歌の歌詞を直訳すれば、「東海を渡りし大和の地は 偉大なわが祖先の昔の夢の場所」で始まるものという。「東海(トンへ)」とは、韓国でいう日本海のこと。韓民族が日本海を渡ってやって来た「ここ大和の地は、偉大なわが祖先の昔の夢の場所」という。「夢の場所」とまで言われた「大和」側の一人としては、気恥ずかしいほどの親日の歌詞。

 この校歌についての報道は概ね好意的である。「校歌が韓国語で何の問題があるのか」という主調。主催者も、メディアも、学校も、そして選手も、大らかに韓国語校歌を容認したのだ。その寛容さに拍手を送りたい。

朝日が、同校野球部のOBを取材してこんな記事を書いている。
「OBの李良剛(イヤンガン)さん(35)=東京都品川区=は手拍子をし、マスクを着けたまま小さく口を動かした。「韓国とか日本とかではなく、グローバルの時代。野球を通じて国境を超えて感動を与えてほしい」

 18年前の夏、京都大会の開会式で日本語と韓国語の両方で選手宣誓した。「魂(オル)・感謝(カムサ)・感動(カムドン)」。拍手が送られた。「高校野球に民族や国籍は関係ないと感じた。高校野球はいいなと思った」と振り返る。

 とは言え、まったく問題がなかったわけではない。非寛容な右派勢力が、「東海(トンへ)」に噛みついたのだ。地名は国際的に「日本海」が正しい。これを「東海(トンへ)」とはなにごとか。学校も怪しからんが、こんな歌を唱わせた主催者もおかしい、というわけだ。

 もっとも、このような事態は予想されたところで、球場の大型スクリーンに映された日本語訳は、「東海」ではなく「東の海」となっていた。「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」とした妥協を思い出させる。

 おそらくは、学校は一定の譲歩をしたのだろうが、状況をよく見ての知恵と言ってよいだろう。無理なく、甲子園に、そして中継を通じて全国に、たくさんの祝福の笑顔に包まれて韓国語の校歌が流れたことの意味は大きい。こんなときだけは、日本人もなかなかのものだと思う。

 その折も折、米インド太平洋軍は24日、北朝鮮による弾道ミサイル発射に関する声明の中で、日本海を韓国式名称である「東海」と表記した。米政府はこれまで、日本海の表記を使用してきた。
 インド太平洋軍報道官のマイク・カフカ大佐は声明で「米国は北朝鮮による今朝の東海へのミサイル発射を認識している」と説明した。
 米地名委員会は、日本海を「通常」表記、東海などを「変異」表記と区別している。【時事】

 日・韓・朝、そして米。各国のナショナリズムの交錯が複雑で緊張感も高まっているる。日韓のナショナリズムの対峙は深刻にもなっている。しかし、在日の人々のナショナリズムを象徴する韓国語の校歌を、甲子園は笑顔で包んだ。私の母校とは無縁となった甲子園だが、たまにはよい風景も見せてくれるのだ。

「河井克行は離党させたのだから、もう自民党に責任はない」「アベ・スガ・ニカイに火の粉はごめんだ」

(2021年3月24日)
 河井克行という大規模公職選挙法違反事件の被告人は、元法務大臣である。まったく法務大臣として不適格なこの人物を特に選んで法務大臣に据えたのは、当時の腐敗政権を支えた安倍晋三と菅義偉だった。時の政権の腐敗を象徴する人事として、これ以上の「適材適所」はない。

 そして、この法無大臣に、巨額の河井案里選挙資金をつかませたのが自民党幹事長二階俊博である。河井克行の犯罪には、この黒幕3人組が深く関わっている。

 その河井克行が、昨日(3月23日)の公判廷で、これまでの無罪主張を翻して犯行を認め、議員辞職の意向を明らかにした。注目さるべきは、河井の今後よりは、河井の犯罪に深く関わっている黒幕3人組(ブラック・トライアングル)の責任の取り方である。

 そのブラックトライアングルの一角・二階俊博は、頭を捻って高等戦術に打って出た。23日の党会合で、幹事長として「党としても、他山の石として、しっかり対応していかなければ」と語ったのだ。

 河井事件を「他山の石」と言ってのけた狡猾さ。さすがに智恵者。さりげなく「河井事件は、自分の問題でも、自分たち自民党の問題でもない」と印象をふりまき、その上で、しかし「『他山の石』として教訓にしよう」と神妙なフリをして見せたのだ。

 うっかり聞いていると、「ああ、『他山の石』なのか、二階さんのことでも自民党のことでもない、他人・他党のことなんだ」と思わせる高等戦術。「たくさんの人に引っかかってほしい」という期待を込めた詐欺的言葉遣い。詐言・詐術と言ってもよかろう。

 だが、どうも評判は散々のようだ。これで国民を欺けると思うたは国民を甘く見るにもほどがある、という雰囲気。

 野党側は真面目に怒っている。二階批判は厳しい。「日本語を理解されていないのか、ちょっと意味不明の発言であり、まさに自民党のど真ん中で起きた事件だ」「自民党として、しっかり事件に対応しなかった」(立民・枝野幸男代表)、「他人と自分の区別もつかなくなったのか。他山ではなく、紛れもない『自山』だ」(共産・小池晃書記局長)

 一方、自民党の森山国対委員長は、「決して人ごとというふうには思っておられないんだと思います。今、自民党員ではないという意味でおっしゃりたかったのでは」と述べたという。これはなおさら悪い。

 不祥事を起こした政治家は離党させる。そうすれば全てが他人事になるというのだ。自民党時代の党が絡んだ不祥事も、離党させればもう他人事。自分のこととしての反省材料にはならないというのだ。森山説は、随分とはっきりそう言ったのだ。

 この二階・森山流の責任回避姿勢の姑息さは、二階の、いやトライアングルの傷口を広げる。不祥事あれば、率直に認めて真摯に反省の上、謝罪しなければならない。その上で、しかるべき具体的な措置に及ばなければならない。そ失せずに、姑息な策を弄しようとすれば、それこそ傷口はさらに深く大きくなる。このことを他山の石としなければならない。

権力の発動に異議を唱えた市民の訴えには、まずは共感の姿勢で耳を傾けよう。

(2021年3月23日)
 ややこしい話だが、新型コロナの蔓延に対応している法律の名称は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」である。昨年(2020年)3月、この特措法に新型コロナ対応を盛り込んだ改正を行って以来、この改正法を指して「新型コロナ特措法」などと呼ばれることもある。

 今年(2021年)2月3日に、その「新型コロナ特措法」が再改正されて、同月13日に施行となった。その改正部分に、知事の強制権限が盛り込まれている。知事は非常事態宣言の有無にかかわらず、「(コロナ蔓延の)予防的措置」として、飲食店等に対して時短や休業などを「要請」するだけでなく、「命令」を出せるようになった(同法45条3項)。命令に対する違反には、行政罰として30万円以下の過料という制裁が科されることにもなる(同法79条)。

 小池百合子都知事が、さっそくこれに飛びついた。3月18日、時短「要請」に応じなかった27店舗に午後8時以降の営業停止を「命令」したのだ。全国で初めてのことである。ところが、これを不服とする訴訟が提起された。知事としては、思いもかけないことであったろう。

 営業停止を「命令」された27店舗のうちの26店舗は、飲食チェーン「グローバルダイニング」が経営するもの。同社が東京都を相手に、処分取消の訴訟ではなく、国家賠償請求の訴訟を提起した。請求金額は、象徴的な意味合いの損害としてわずかに104円であるという。

 さて、この提訴。まだ訴状の構成の詳細は分からない段階でのことだが、基本的にどう評価すべきだろうか。いろんな考え方があるに違いない。「この非常時ではないか。時短要請に応じるべきが当然だろう」「要請に応じた店舗がほとんどなのだから、平等原則上原告は身勝手極まる」「行政裁量の壁を乗り越えられないだろう」「こういう訴訟は敗訴した場合のデメリットが大きい。こんな提訴をしてホントに大丈夫だろうか」「この店や弁護士のパフォーマンスが鼻について好感が持てない」…

 私は、この提訴を積極的に評価して、まずは歓迎したい。力の弱い者と強い者との軋轢があれば、取りあえずは弱い方に肩入れすべきが「正しい」態度であると私は思っている。労働者と資本、消費者と事業者、市民と警察、被疑者と検察官、女性と男性、野党と与党、患者と医師、そして国民と公権力、である。

 東京都の公権力発動に対して、権利の制約を受ける立場となる店舗が異議を唱えて司法の場で争おうというのだ。その意気やよし、とまずは歓迎すべきであろう。少なくも、その言い分に耳を傾けてしかるべきである。

 報道の限りでのことだが、グローバルダイニングの主張のキーワードは、二重の意味での「狙い撃ち」にあるようだ。一つは、都内で2000店舗以上が時短要請に応じてないにも拘わらず、命令の対象となったのはグローバルダイニングの店舗であつたこと。もう一つは、グローバルダイニングが行政指導に応じない考えなどをネット上で発信したことを理由に同命令を出したこと、だという。これを、「営業の自由(憲法22条)と表現の自由(21条)の保障、それに法の下の平等(14条)に違反している」と構成しているようである。

 グローバルダイニングは、東証2部への上場企業である。22日の終値248円が、23日には9時31分に、328円(+80円、+32%)のストップ高となった。これは興味深い。もしかしたら、このストップ高は、小池都知事への不快感の反映とも読めるのではないか。この先、注目せざるを得ない。

大石又七さんありがとうございました。

(2021年3月22日)
貴重な歴史の証人が失われた。第五福竜丸乗組員として「死の灰」の被曝を体験され、その体験を語り続けてこられた大石又七さんが亡くなった。享年87。

大石さんは第五福竜丸展示館を運営している公益財団法人第五福竜丸平和協会の評議員でもあった。昨日(3月21日)、協会の理事会で初めて訃報に接した。亡くなられたのは3月7日だという。

昨日、第五福竜丸展示館ホームページは、以下の「お知らせ」を掲載した。

第五福竜丸の乗組員として、ビキニ水爆実験に被ばくした大石又七さんが、去る3月7日に亡くなられました。
大石さんは、第五福竜丸の保存が実現し、夢の島公園に展示館が開館した数年後の1980年ごろから時折展示館を訪れていました。1983年に中学生に請われ自らの体験を語ったことを契機に、証言者として歩みはじめました。展示館への来館校が増える中で、クリーニング業を営みながら、断ることなく証言・講和に臨みました。また各地からも声にもこたえ、講演の数は700回を超えます。第五福竜丸を前にしては500回以上お話されてきました。

大石さんは、子どもたちに自らの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別や社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。1991年には公開された福竜丸被災に関する日米間の外交文書を読みこみ、水面下での政府間のやりとりも著作の中で紹介しています。ここにも「子どもたちに話すからには間違ったことは言えない」との大石さんの真摯な姿勢が感じられます。…

大石さんは、被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました。
第五福竜丸平和協会は、大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界にむけて、第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました。

 「大石又七さんありがとうございました。」には、特別の実感がこもっている。23人の被曝乗組員の中で、大石さん以外に積極的な語り部はいない。その大石さんも、被災直後から体験を語りはじめたわけではない。30年ほどは、口をつぐんでいた。実は、被曝の体験を語るのは容易なことではない。大きな社会的圧力を乗り越えなければできないことのだ。

大石さんの著書、『ビキニ事件の真実 : いのちの岐路で』(みすず書房 2003年)の中に、次の一節がある。

 ここでまた運動とは逆行することも起こる。他船の被爆者たちの動きだ。俺たちもそうだったが、自分から被爆の事実を隠しはじめたのだ。
 当時、乗組員たちには最低補償も労働組合もなく、貧しいその日暮らしだった。補償金が出ないとなれば働かなければならない。うっかり話でもしたら足止めされ、出漁もできなくなる。出漁できなければ、明日から生活に困る。そのとき、体が動けば、自分から「被爆しました」などと言うばかはいない。
福竜丸のように騒ぎに巻き込まれれば、白い目で見られたうえに、差別もされるーそれは船元も同じだった。多くの船子を抱え、船をあそばせておくわけにはいかない。事件の波紋が大きくなるにつれ、みんな恐れをなして自分から隠しはじめたのだ。漁船の生活は船元・船頭を中心とした典型的なタテ社会である。特に焼津は、昔から身内で要職を固める一船一家主義の土地柄、上下関係にもきびしい世界だった。その下で働く漁師たちはたとえ意見を持っていても、従う以外に道はない。そして船という小さな枠で仕切られて、広い海にちらばっているのだ。

 やがて、乗組員の中からも事件を忘れさせようとする働きかけが始まる。気がつくと、福竜会という会報が一方的に送られて来るようになった。それは意外なもので、乗組員の発病や苦悩に対して助け合うものならともかく、「俺たちに近づいてくる者はみな共産系の者だ」「気をつけろ」などと口をふさぐものだった。そして、仲間が発病しても死んでも、「被爆とはもう関係ない、一般の病気だ」「第五福竜丸であるとか、元乗組員であるとか、そんなことはみんな忘れろ」「ずい分長生きさせてもらった、放医研の検査には協力しよう」『己のわがままで、どこかに不信の念ありとすれば、人間失格だ』とまで書いて、乗組員から不満が出ないようにした。元乗組員たちは元気な者ほど、今も口をつぐんだままでいる。

 被災体験の証言は、口を封じようとする圧力に抗してなされるのだ。屈することなく、その使命感から証言を続けてこられた大石さんに感謝せずにはおられない。亡くなられた今、大石さんが果たした役割の大きさを感じる。

なお、大石さんの著作は、『ビキニ事件の真実』以外に、下記のものがある。

大石又七著、工藤敏樹編『死の灰を背負って : 私の人生を変えた第五福竜丸』 新潮社 1991年
大石又七お話、川崎昭一郎監修『第五福竜丸とともに : 被爆者から21世紀の君たちへ』新科学出版社 2001年
大石又七『これだけは伝えておきたいビキニ事件の表と裏 第五福竜丸・乗組員が語る』かもがわ出版、2007年
大石又七『矛盾 : ビキニ事件、平和運動の原点』武蔵野書房 2011年

「桜を見る会前夜祭」告発人集会 ー 安倍晋三を検察審査会申立へ

(2021年2月2日)
本日、「桜を見る会を追求する法律家の会」が、オンライン集会を開いた。
「会」は、「桜を見る会前夜祭」における参加者への費用補填に関する告発(政治資金規正法・公職選挙法違反)が秘書についての罰金だけで終わって、肝心の安倍晋三を不起訴としたことを不服として、本日検察審査会へ「起訴相当」の議決を求めて審査申立をし、併せて記者会見、告発人集会を開いた。

集会では、米倉洋子・日民協事務局長から申立内容についての報告の後、辻元清美議員、宮本徹議員、上脇博之教授、毛利正道弁護士、次いで私が、それぞれの立場から、発言・報告をした。

この中であらためて明らかにされたことは、安倍晋三後援会の3年分(2017年?2019年)の政治資金収支報告書の記載についての、泥縄式「訂正」の奇妙さである。この訂正は、配川博之(秘書)起訴・安倍晋三不起訴という処分をした12月24日の前日の「訂正」。おそらくは、検察からの指導によるものではないかと推測せざるを得ない。少なくとも、検察の黙認でなされたものではあろう。

奇妙の第1点は、子どもだましの明らかな辻褄合わせだということ。訂正前、前夜祭会費の補填費用は、一切報告がなかった。捜査の最終版で、補填費用が支出として計上せざるを得なくなった。とすれば、それに見合う収入も書き込まなければならない。さてどうするか。これを「前年からの繰越金を増額訂正する」という方法で、辻褄を合わせたのだ。

最後の「桜・前夜祭」が開催された2019年の収支報告書は訂正されて、補填額2,604,908円(A)の支出が記載されるとともに、「前年(18年)からの繰越金」が、補填額相当の2,604,908円(X)の増額訂正となった。

その前年の2018年の収支報告書は訂正されて、補填額1,506,365円(B)の支出が記載されるとともに、「前年(17年)からの繰越金」が、次年度への繰越金増額(X)に補填額相当の1,506,365円(B)を加算して、4,111,273円(Y)の増額訂正となった。

さらに、その前年の2017年の収支報告書は訂正されて、補填額1,901,056円(C)の支出が記載されるとともに、「前年(16年)からの繰越金」が、次年度への繰越金増額(Y)に補填額相当の1,901,056円(C)を加算して、6,012,329円(Z)の増額訂正となった。

面倒だが、
19年の前年からの訂正繰越金増加金額 X=A
18年の前年からの訂正繰越金増加金額 Y=X+B=A+B
17年の前年からの訂正繰越金増加金額 Z=Y+C=A+B+C

つまり、計算上のことだが、これが続けば訂正繰越金増加金額は、
W= A+B+C+D+E+F… と際限なく拡大することになる。

実際に訂正されたのは、公訴時効の問題で17年分までの3か年分だけになった。これでも、16年の収支報告書における「次年度への繰越金」は、17年の「前年からの繰越金」額とは、6,012,329円(Z)の齟齬が生じている。これは、現状を糊塗しようとして、新たな虚偽報告を行ったことになる。安倍晋三が、ウソとゴマカシを糊塗しようとする度に、新しいウソを重ねてきたことを思い出させる。

奇妙の第2点は、上脇さんの指摘である。上記の(A)(B)(C)の各年の補填額が一円単位まで書かれているのは、何を資料として記載したものかと問わねばならない。「領収証も明細書もない」というのは、実はウソではないのか。手許にあるからこそ、「正確な」金額を書けたのではないか。あるいは、安倍晋三後援会には、裏帳簿があったのではないか。数字はそこから拾ってきたのではないか。納得のいく説明がどうしても必要となっている。

また、奇妙の第3点は、この訂正は、安倍晋三の国会での証言(「補填の費用は自分や家族の金から支出した」)と、決定的に異なる。この点についての徹底した追及が必要となっている。

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私の発言は大要、以下のとおり。

私は、今回に限っては検察審査会の判断に大きな期待を寄せています。匿名の市民たちには、権力者を忖度する動機がありません。素直に法の趣旨を把握して条文を読み込めば、「安倍晋三有罪」という心証に到達するに違いありません。また、民主主義の何たるかを常識的に理解し、政治資金収支の主権者に対する透明性の確保徹底の観点からは、安倍晋三のようなウソにまみれた政治家に議員資格を与えておいてよいことにはならないはずと理解いただけると思うのです。

とりわけ強調したいことだけを申し上げます。
私と澤藤大河の両名が「第2次告発」、つまり政治資金管理団体である「晋和会」の会計責任者である西山猛と、同会代表としての安倍晋三を告発したのは、昨年の12月22日で、同日付の書面を東京地検特捜部に持参して提出しています。これに対する不起訴処分通知が、同月の24日付なのです。特捜は、実は実質的には何もこの点についての捜査をしていない。安倍晋三の政治日程に合わせた年内不起訴処分ではなかったでしょうか。

私は、晋和会代表者・安倍晋三の責任を政治資金規正法25条2項で問うていることが、とても分かり易いと思っています。

2013年最初の前夜祭の収支は、全て晋和会のものとして報告書が作成されていました。その後も補填の原資が晋和会から出ていることはごく自然なことでもあり、報道されているところでもあります。おそらくは、ホテルの領収証の宛先も、晋和会。つまりは、「補填資金」の出所は「晋和会」だったことになります。しかし、晋和会の政治資金収支報告書に前夜祭の収支についての記載はありません。

とすれば、まず、晋和会の会計責任者(西山)の不記載罪(法25条1項1号)が問われねばなりません。これを免責する理由は見あたらない。

同時に、晋和会の代表者である安倍晋三の刑事責任も免れないことになります。
25条2項は「前項の場合において、政治団体の代表者(安倍晋三)が当該政治団体(晋和会)の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、50万円以下の罰金に処する」とあります。

つまり、安倍晋三が収支の不記載について「知らぬ、存ぜぬ」「秘書の責任」を押し通して、25条1項の罪責を会計責任者だけに押し付け、最高刑禁錮5年の罪責を免れたとしても、「会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたとき」には処罰され、罰金を科せられることになります。

問題は、「会計責任者の《選任》及び《監督》について政治家に要求される相当の注意」の水準です。会計責任者の不記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されなければなりません。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書の作成に、常に注意し責任をもつべきは当然だからです。

被告発人安倍において、十分な措置をとったにもかかわらず会計責任者の不記載を虚偽記載を防止できなかったという特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えるべきです。とりわけ、被告発人安倍晋三は、当時内閣総理大臣として行政府のトップにあって、行政全般の法令遵守に責任をもつべき立場にありました。自らが代表を務める資金管理団体の法令遵守についても厳格な態度を貫くべき責任を負わねばなりません。

25条2項の法定刑は、最高罰金50万円に過ぎませんが、被告発人安倍晋三が起訴されて有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から原則5年間公民権(公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権)を失います。その結果、安倍晋三は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失うことになります。

この結果は、法が当然に想定するところです。いかなる立場の政治家であろうとも、厳正な法の執行を甘受せざるを得ません。本件告発に、特別の政治的な配慮が絡んではなりません。臆するところなく、検察審査会は厳正な判断をすべきです。

権力者は軽々に「象を撃っ」てはならない。民衆は撃たせてはならない。

(2021年1月9日)
本日の毎日新聞朝刊「時の在りか」に、伊藤智永の「象を撃つ政治指導者たち」という記事。達者な筆で読ませる。
https://mainichi.jp/articles/20210109/ddm/005/070/007000c

「象を撃つ」は、作家ジョージ・オーウェルの23歳での体験だという。ビルマという英国植民地の警察官であった彼は、民衆に対して権力者として振る舞うべき立場に立たされる。

銃を手にした彼は2000人もの群衆の眼を背に意識しつつ、逃げた象と対峙する。一人のインド人を殺した象ではあったが、既に凶暴性はなかった。撃つ必要はなく、撃ちたくもなかった。伊藤の文章を引用すれば、

 「あの時、どうすべきだったのだろう。オーウェルは書いている。「私にははっきりと分かっていた。近づいてみて襲ってきたら撃てばいいし、気にもかけないようなら象使いが帰ってくるまで放っておいても大丈夫だと」。でも、そうしなかった。できなかった。撃て。そう群衆が無言で命じるのを背中が聞いたからだ。民衆と権力者のその手のやり取りに言葉は要らない。」

 こうして、権力者が、群衆の無言の命令のもと、群衆に迎合した無用の行動に走ることになる。その行動が「象を撃つ」であり、人種や民族の差別であり、侵略戦争でもある。「象を撃つ」は、民衆を支配しているはずの権力者が、民衆の願望に支配される、逆説の一面の象徴となる。伊藤は続ける。

 「「議事堂へ行くぞ」。トランプ米大統領は、象を撃った。象は倒れたか。撃った弾数は今、何発目だろう。いや、すでに群衆は、まだ生きている象の肉を一部そいでいる。これはディストピア小説ではない。」

 トランプは、自分の支持者を煽動し支配しているつもりで、実は支持者たちの過剰な期待に応えねばならない苦しい立場に立たされたのだ。「議事堂へ行くぞ」「議事を阻止せよ」と、強がりを言わざるを得ない立場に追い込まれた。こうして、トランプは撃ちたくもない「象を撃った」。トランプが撃った象とは、民主主義という巨像である。幸い、まだ、撃たれた象は致命傷には至っていない。

トランプの心境は、オーエルが綴っている、以下のとおりであったろう。

「象は静かに草をはんでいた。一目で撃つ必要はないと確信したが、いつの間にか2000人を超えた群衆は、暗い期待で興奮している。撃ちたくなかった。だが、白人は植民地で現地民を前におじけづいてはならない。撃つしかなかった。」

もちろん、この事態は、今のアメリカだけのことではない。伊藤はこう言う。

「日本にもよそ事ではない。敗戦した神国ニッポンの軍国体制、ウソを重ねて恥じない指導者をウソと知りつつ支持し続けた国民、コロナ時代の「自粛警察」に表れた相互監視にいそしむ黒々した庶民心理。どれも立派に「オーウェル的」である。」

《神国ニッポンの軍国体制》の構造は分かり易い。天皇制権力が臣民を欺いて煽動する。煽動された臣民が、本気になって「神国ニッポン」という妄想を膨らませて政府の弱腰を非難し始める。こうなると、政府は臣民をコントロールできなくなって、やみくもに「象を撃ち」始めたのだ。こうして始まった戦争は、敗戦にまで至ることになる。

《ウソを重ねて恥じない指導者と、ウソと知りつつこれを支持し続けた国民》の関係はやや分かりにくい。安倍晋三という稀代のウソつきが総理大臣になって、ウソとゴマカシで固めた政治を強行した。ところが、少なからぬ国民がこのウソつきを許容した。「株さえ上がればよい政治」という人々の責任は重い。ウソつきと知りながら、そのウソに目をつむったまま、ウソつき政治家を抱えていると、ウソつき政治家は、自分の背中を見つめる民衆の目を誤解して、間違った方向に「象を撃ち」始める。こうして、安倍晋三政権は、いくつもの負のレジームを残した。

さて、背に受けた群衆の無言の圧力に負けて発砲する指導者では困るのだ。必要なのは、象使いが到着するまで群衆の興奮を静めるだけの力量を持った政治指導者である。民衆の信頼獲得しており、民衆との誠実な対話の能力が備わっていなければならない。安倍や菅のように、質疑とは論点をずらしてはぐらかすこと固く信じている輩は、明らかに失格なのだ。

「ノーベル賞・本庶佑教授 『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

(2021年1月5日)
毎日新聞デジタルの本日付のインビュー記事のタイトルである。私はノーベル賞の権威を認めない。だから、ノーベル賞受賞者の言をありがたがる心もちは皆無である。が、この人、臆するところなく、言うべきことをきちんと口にしている。なるほど、読み応え十分である。その、本庶さんの語るところを抜粋してみる。

僕は、医療を守り、安全な社会を作ることでしか経済は回復しないと考えます。政府はこの順番を間違えています。人々が安心して活動できてはじめて、自然と経済活動が活性化するはずです。政府は観光業を救おうと需要喚起策「GoToキャンペーン」を昨年の夏に始めましたが、検査を求めても受けられないようでは、旅行する気にはなかなかならないのではないでしょうか。

(コロナの流行を抑えるには)検査をしっかりやる体制が必要だと考えます。入国時の防疫体制も重要です。ワクチンでコロナの流行がいきなりなくなるわけではありません。政府は「検査をやり過ぎると医療が崩壊する」と言って相変わらず検査数を抑え込んでいます。旅行業界や飲食店はGoToで支援しようとするのに、医療従事者や医療機関にはどんな支援があったのでしょうか。看護師不足や患者の受診控えによる医療機関の経営悪化の問題。「医療は大切」と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう。政府予算の中で、医療提供体制の強化策は経済対策と比べて極めて微々たるものです。国民の安全、安心に関係することをなぜしっかりやらないのでしょうか。医療の逼迫は人為的に引き起こされている面があると言わざるを得ません。

少なくとも「感染しているかも」と思ったら即座に検査を受けられる体制を作るべきで、早期の検査はコロナ感染の広がりを防ぐ予防手段なのです。日本のクラスター(感染者集団)対策ですが、あくまでコロナが発生した後の処理で、コロナの感染が拡大するのを予防することはできません。予防的観点からの広範な検査体制の確立と陽性者の隔離が必要なのです。また、検査に資金を投じた方が社会的還元は大きいと考えます。政治の最大の使命は国民が安心して生活できることのはず。それによって経済が活性化していくわけで、現在はそれができていない。根本的な問題だと思います。

崩壊が取り沙汰されている医療提供体制は、感染症に対してもっと備えておくべきです。たとえ新型コロナが収束しても、新しい感染症のリスクは常にあるからです。司令塔不在の厚生労働省、医療従事者の犠牲によって成り立つ国民皆保険制度、それぞれの改革にきっちり取り組むべきでしょう。

本庶発言の白眉は、「政府は『医療は大切』と言葉では言いますが、具体的に何をしてきたのでしょう」という重い一言。思い当たるし、具体性があるから、厳しいものになっているのだ。

毎日も、このフレーズをタイトルにとって、「『医療は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」とアピールした。これは、広範囲に応用が利く。『医療』を他の言葉に置き換えることがいくらでも可能なのだ。

「『学問の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか
「『教育は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『人命は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『真実は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『説明責任は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『憲法は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『公平な選挙制度は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『福祉は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『貧困の撲滅は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『表現の自由は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『政教分離は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『平和は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『司法の独立は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『歴史の真実を見つめることは大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『デマやヘイトの一掃は大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」
「『国民の豊かな生活こそが大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

「『公文書の管理は何より大切』と言いながら政府は何をしてきたのか」

政府は何もしてこなかった。ただただ、総理大臣のオトモダチを優遇し、国民には自助努力を求めてきただけではないか。

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