澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「何が秘密かはヒミツ」の危険

終戦で廃止になるまで軍国日本を支えた法律のひとつに軍機保護法があった。1899年に公布され、1937年戦争一色となった時代に全面改正され、さらに太平洋戦争突入前夜の1941年にも改正されて、軍部による国民統制の強力な手段の一つとして猛威を振るった。陸海軍大臣が定めた軍事上の秘密の探知、収集、漏泄などを罪とするもので、軍人のみならず一般人も対象となり、言論や出版だけでなく、旅行や写生・撮影までも制限された。最高刑は死刑。ゾルゲや尾崎秀実がこの罪名で刑死した。

軍国主義には、軍機保護の法制が不可欠であり、戦時色の進展にともなってそれにふさわしい厳格な法制度が必要なのだ。いま、安倍内閣が特定秘密保護法の制定に着手していることの意味を考えねばならない。また、万が一にもこの法律が制定されれば、今後の軍国主義の進展とともに、必ずや改悪されていくことになろう。

軍が階級社会であることにふさわしく、軍事秘密にも階級が付けられた。最高秘密が「軍機」、以下「軍極秘」、「極秘」、「秘」、「部外秘」の順。かつて国家機密法反対運動をした当時には、防衛庁(当時)の防衛秘密には、「機密」「極秘」「秘」の3段階があると教えられた。だから、われわれは、1985年に提案側が「スパイ防止法」と呼んだ法案を「国家機密法」と呼んだ。しかし、この区別は今はなく、現在の防衛省の訓令では、「特別防衛秘密」、「防衛秘密」、「秘」の3段階なのだそうだ。

もっとも、軍機保護法の条文に5段階の等級が定められていたわけではない。あくまで、内規での取扱い。特定秘密保護法にも「行政機関の長」が指定する特定秘密に等級はない。内規での等級がどうなるかはともかく、特定秘密保護法が成立すれば一挙に40万件余とされる「特定秘密」が誕生する。その法的性格はいくつかに分類できると思う。

特定秘密とは、以下の実質的要件を満たす情報であって、行政機関の長が指定したものである(法案第3条1項)。
(1) 当該行政機関の所掌事務に係る別表に掲げる事項に関する情報で
(2) 公になっていないもので
(3) その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの

実質的に以上の(1)?(3)の要件を具備する情報とされ、手続において行政機関の長による特定秘密の指定を経た情報群を仮に「指定秘密」(A群)としておこう。A群に接してA群には含まれない情報群を「非指定秘密」(B群)とする。もちろん、国民誰もB群情報の取扱いに関して刑事責任を科されることはない。A群に限って、情報の漏えいや取得に関して厳罰が用意されている。

ところが、何がA群の範疇に属する秘密であるかはヒミツなのだ。「当該指定に係る特定秘密の取扱いの業務を行わせる職員」または、「特定秘密を保有させられた当該適合事業者」以外には、厳重に秘匿されている。一般国民にはA群とB群との境界はまったく分からない。なにしろ、「何が秘密かはヒミツ」なのが秘密の本質なのだから。

その境界が分からない以上、公権力はA群だけでなくB群に属する情報もできるだけ広範囲に秘匿しようと振る舞うことが可能となる。国民の側から見れば、あらゆる情報へのアクセスに萎縮効果がはたらくことにならざるをえない。

それだけではない。むしろ問題はA群の中にある。
本来国家の情報は国民のものであることが原則。しかし、国家の持つ情報のすべてを国民に公開することの徹底は非現実的といえよう。入札に関する情報や、裁量範囲内での交渉の落としどころに関する情報などを典型として秘密を保持すべき情報があることは否定し得ない。このような実質秘とするに合理性を持っている秘密を仮にA1群としておこう。それ以外の情報は、秘密指定に問題ありということになるが、その範疇を二つに分けて考察することが有益だと思う。当該行政機関の真摯な検討において上記(1)?(3)の要件を厳格に充足しているとして積極的に秘密指定の必要ありとするものと、必ずしも(1)?(3)の要件を充足しているとは言いがたいものについて国民に知られたくない不都合な情報として特定秘密の指定をされた情報群とである。これを、A2群、A3群と名付けておこう。

比喩的に、A1は白、A2はグレイ、A3は黒である。そのA1、A2、A3の各群の境界はまことに不明確である。「何が秘密かはヒミツ」なのだから、検証も困難である。不可能に近い。

最も問題なのは、「その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要である」という文言の解釈である。当然に、この文言は憲法に照らして解釈されなければならない。日本国憲法は、武力に依拠した平和という観念を持たない。また、その9条2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明言している。自衛隊という軍事組織の存在を前提とし、安保条約という武力超大国との軍事同盟の存在を前提とする防衛秘密がどこまで法的保護に値する合法的な秘密でありうるかは、常に微妙な問題を孕んでいる。

しかも、特定秘密指定の実質的要件を充足することが必ずしも十分とは言えないA3群について、これを国民の目に触れることによる批判から逃れるために、特定秘密として指定して隠蔽することが可能であり、そのことを検証する手段がない。これも、「何が秘密かはヒミツ」の効果である。

以上のとおり、国民が主権者として知りたいと望み、政策決定のために知らねばならない情報が、特定秘密の指定によって秘匿される。戦争と平和に関わる、国民にとって最も重要な情報が隠蔽されることになるのだ。国民がアクセスしたい情報が、A情報(指定情報)なのかB情報(非指定情報)なのか、A情報(指定情報)としてA1(白)なのか、A2(グレイ)なのか、A3(黒)なのか。すべては、闇の中である。

これを可能としているのが、「何が秘密かはヒミツ」「秘密の範囲はヒミツ」「我が国の安全保障のために一切お答えできない」というこの法律の本質である。平和主義と民主々義を破壊する天下の悪法といって差し支えない。軍機保護法の再来を許してはならない。

その法案が、明日(11月7日)から衆議院で審議入りするという。心ある国民が、一斉に廃案への声をあげることを期待したい。
(2013年11月6日)

ニューヨークからの新しい爽やかな風の予感

2012年東京都知事選ではリベラル派候補惨敗に終わったが、2013年ニューヨーク市長選では「元左翼活動家」とされるリベラル派市長候補の圧勝確実と報じられている。

各種世論調査によって、本日(11月5日)行われる市長選で当選確実視されているのは、民主党の市政監督官ビル・デブラシオ氏(52)。市政監査官とは耳慣れぬ言葉だが、public advocateの訳語でニューヨーク市では「市長に次ぐナンバー2の地位にあり、市長と同様に選挙で選任される」のだそうだ。

デブラシオ氏は01年にニューヨーク市議に初当選し、10年に市政監督官に就任した。高校時代から反核運動などに取り組み、90年代初頭まで中米ニカラグアの左派サンディニスタ民族解放戦線を募金活動などで支援していたことで知られている(毎日)、とのこと。

これまでの市政が大企業寄りの政策で「富裕層と貧困層の格差が拡大した」との現市長批判や、年収50万ドル(約4900万円)以上の市民に増税して幼児教育を拡充する公約が支持を集める(毎日)。また、病院閉鎖の回避や黒人や中南米人を狙いうちにした警察の捜査手法に制限を加えるなど、富裕層と貧困層という「市の両極」に向き合うと公約している(ロイター)という。10月の連邦政府機関一時閉鎖で「戦犯」視された共和党の不人気も追い風となり、最近の世論調査では、7割近くが「これまでと方向が異なる市政」を望むとの結果と報じられている。

さらに、人口動態もデブラシオ氏を後押ししていると指摘されている。白人比率は90年の43%から10年には33%に減少。一方、この20年間でヒスパニック系が24%から29%に増加、黒人、アジア系を加えると計64%だ。こうした非白人層は民主党支持者が目立ち、デブラシオ氏が「救済」を訴える貧困世帯も多い。

さて、ニューヨークと言えば資本主義世界のメッカ。資本主義と言えば、レーガノミクスや新自由主義を連想する。事実、現ブルームバーグ市長は紛れもない、「世界一の金持ち市長」として知名度を誇る人物。

ウィキペディアによれば、彼は、ハーバード・ビジネス・スクールで経営管理学修士号(MBA)を取得し、その後は証券会社大手のソロモン・ブラザーズに勤務。退社後に通信会社ブルームバーグを設立し、ウォール街の企業へ金融情報端末を販売して巨万の富を築き上げた、世界でも有数の大富豪とのこと。唾棄すべき「金融賭博業界」でアブク銭を掴んだ勝者、薄汚い「アメリカン・ドリーム」の体現者なのだ。

ほかならぬニューヨークでの、「ウォール街の大富豪市長」から「格差是正を掲げる左翼活動家市長」への象徴的大転換。新自由主義に揺れた振り子が方向転換のきっかけにならないか。なんとなく、爽やかで暖かい新しい風が吹き始める、そんな予兆を感じるのだが‥。
(2013年11月5日)

特定秘密保護法は、地雷埋設と同様の危険行為である。

特定秘密とは地雷である。どんな地雷がどこに仕掛けられているかは厳重に秘匿される。それゆえの恐怖の効果によって「敵」の進軍を防ぐことが可能となる。同様に、どこにどのような処罰対象の特定秘密があるかは秘匿される。それゆえの絶大な威嚇効果が、国民の国家情報へのアクセスへの萎縮効果を招くことになる。

地雷を踏んで初めて、地雷が仕掛けられていたことが明らかになる。同様に、逮捕され起訴されて初めて、当該の情報が処罰対象の特定秘密であったことが判明するのだ。

地雷を踏んだ兵士の犠牲によって、個別の地雷の位置と性能は明らかになるが、地雷原の広さは分からない。さらに無数の地雷が存在しているであろうという恐怖が、進軍を防止する効果を高める。同様に、個別の特定秘密漏洩事件の処罰も、その現実化した恐怖が国家権力による国家情報へのアクセス禁止の威嚇効果を高め、国民のあらゆる情報へのアクセスの努力について、さらなる萎縮効果をもたらすことになる。

特定秘密保護法が地雷敷設にたとえられるのは、その危険性と埋設自体の秘匿がもたらす恐怖が近似しているからである。ところが、特定秘密保護法案を提出した政府与党の頭の中は、「自軍の地雷の所在を漏洩したり探知して公表することが利敵行為として処罰の対象となるのは当然ではないか。国家秘密漏洩や教唆も同じこと」というものであろう。実は、それが大間違いなのだ。

本物の地雷の破壊力は「敵軍」に向けられるものだが、特定秘密保護法の危険は自国民の権利に向けられる。自国民に向けられた地雷の付設が許されてよいはずはない。さらに、地雷の敷設は開戦後の戦時下に限られるところ、特定秘密保護法は平時に猛威を発揮する。戦時下特定の限られた局面では、地雷の埋設が合理的な防衛措置となる場合があるかもしれない。しかし、だからといって、平時に猛威を発揮する特定秘密の保護と同列に論じてはならない。戦争は絶対に回避しなければならないし、日本国憲法は一切の戦争を禁じている。

地雷埋設情報と特定秘密。その秘匿の合理性の異同を考えるに際しては、「現実に戦争になった場合には」との前提であってはならない。あくまでも、「万が一にも戦争など起こしてはならない」とする基本視点からの考察でなくてはならない。すべては、戦争を防止する視点からの立論を当然とする。戦時を想定しての地雷敷設が、戦争の想定を許さない平時における法制と「同じこと」であってよいわけわけがない。

さらに、自国の「自衛」のための軍備の増強は、近隣諸国の疑心を招き相手国の「自衛」のための軍備の増強の引き金となる。お互いの「自衛」の軍備増強が、お互い相手国に「自衛力増強」の必要性を語らせることになる。同様に、「安全保障の法整備」の強調も、「防衛秘密保護の立法」も、近隣諸国の疑心を招き相手国の「自衛」のための軍備の増強の要因をつくり出す結果となる。

特定秘密保護法の制定は、平時において国民の知る権利を侵害して民主々義に危険を及ぼすだけでなく、戦争を招き寄せる危険性をも孕むものである。その意味で、法の制定自体が地雷の埋設と同様の危険な行為なのだ。
(2013年11月4日)

天皇が公布せしめた「国民主権」憲法

1946年11月3日「日本国憲法」が公布された。よく知られているとおり、この日は明治節(明治天皇・睦仁の誕生日)を特に選んでのもの。憲法記念日「5月3日」は、「公布の日から起算して6箇月を経過した日」(憲法100条1項)にあたる日本国憲法の施行期日を、国民の休日としたものである。

67年前の今日、天皇裕仁は、午前8時50分宮中三殿において憲法公布を「皇祖皇宗」に「親告」し、次いで午前11時、国会議事堂貴族院本会議議場において、日本国憲法公布の勅語を読みあげた。その全文は以下のとおり。

「本日、日本國憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝國憲法を全面的に改正したものであつて、國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたものである。即ち、日本國民は、みづから進んで戰爭を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が實現することを念願し、常に基本的人權を尊重し、民主主義に基いて國政を運營することを、ここに、明らかに定めたものである。
朕は、國民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたいと思ふ。」

これに対する総理大臣吉田茂の「奉答文」が次のとおり。まさしく、「臣・吉田茂」としてのものである。

「まことにこの憲法は,民主主義に基いて国家を再建しやうとする日本国民の意によつて,確定されたものであります。そして,全世界に率先し,戦争を放棄することをその条項に明らかにしたことにつきまして,私どもは,かぎりない誇りと責務とを感ずるものでござゐます。今後私どもは,全力をあげ,相携へて,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」

この日、午後2時より、皇居前で東京都主催による新憲法公布の祝賀会が開催され、天皇夫妻が参加、約10万人の民衆が参集した。翌日の各紙は、「群衆は両陛下の周りに殺到し、帰りの馬車は群衆の中を左右に迂回しつつ二重橋に向かった」と報じている。(以上の時刻などは川島高峯氏による)

こうして公布された日本国憲法には、前文の前に以下のとおりの「上諭」と御名御璽が付せられている。「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」というもの。

何とも珍妙な光景ではないか。また、何とも形容しがたいパラドックスではないか。徹底した国民主権原理に基づく日本国憲法が、天皇主権の帝国憲法第73条による改正手続として行われたのだ。昨日までは主権者であり、神聖な現人神でさえあった天皇が、「ここにこれを公布せしめる。」と上から目線で国民主権憲法を裁可し、主権者の代表であるはずの内閣総理大臣が「私どもは,全力をあげ,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」と奉答している。そして、民衆は、天皇を糾弾するでもなく、戦争責任を追及するでもなく、天皇の馬車の周囲に蝟集している。

中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「世の所謂民権なる者は、自ら二種あり。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜の民権と称すべき者あり。上より恵みて之を与ふる者なり。」という有名な一文がある。

私の言葉で翻訳すれば、「勝ち取った民権」と、「与えられた民権」の区別である。前者の分量の多寡は人民が随意に定めることができが、後者は与えられた限りのものとならざるを得ない。

日本国憲法の場合は、必ずしも人民が勝ち取った主権とは言いがたいが、旧天皇制権力はその分量の多寡を定める力も権限も持っていなかった。それゆえの、67年前の今日の、天皇と首相と群衆の珍妙な光景だったといえよう。

日本国憲法が、人類普遍の原理に基づいた民主々義憲法として定着するか、それとも日本固有の歴史・伝統・文化にそぐわない借り物として廃棄されることになるか、憲法公布の日には定まってはいなかった。この、混沌とした憲法の運命を確固たるものとしたのは、ひとえに国民の憲法意識と憲法運動とであった。

国民自身が、憲法擁護を我が利益とし、改憲の策動を人権や平和を侵害する危険なものとして意識的に抵抗し続け、憲法を日々選びとってきた歴史が、今日まで一度の改憲も許さない成果を収め、憲法を国民自身のものとして定着させてきたのだ。

今、かつてない規模の改憲策動に直面しているが、憲法擁護の運動の始まりの日である67年前の今日に思いを馳せ、改めて憲法の理念を確認するとともに、これを堅持する決意を固めたいと思う。
(2013年11月3日)

敢えて山本太郎議員に苦言を呈する

山本太郎議員の天皇への書状交付に対するバッシング事件。私のスタンスは、あくまでも天皇の権威を後生大事とする勢力からのバッシングの危険に警鐘を鳴らすもの。自民党の一部に、「世が世であれば不敬罪」という発言があったことが報道されている。これに、世論が靡くようなことあれば背筋が寒くなる。「世は世でない」ことをしっかりと弁えてもらわねばならない。園遊会や、叙勲や、国体や、被災地訪問や‥、天皇の政治利用は山ほどある。これを不問に付したままの山本バッシングは明らかに理不尽といわねばならない。山本議員辞職勧告決議などあってはならない。

だから、昨日のブログでは「敢えて山本太郎議員を擁護する」一文をものした。しかし、同議員の行動を褒めるべきものとは思っていない。本日は敢えて山本太郎議員に苦言を呈したい。

考えなければならないのは、天皇への働きかけのもつ意味についてである。天皇とは、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(憲法4条)存在である。もちろん、選挙権も被選挙権も有しない。政治的な表現の自由すら持たない。したがって、天皇その人に何らかの政治的見解に与してもらうべく働きかけることはまったく無意味である。天皇への働きかけによって、天皇が何らかのメッセージを発することを期待するとしたら、それこそ天皇の政治利用そのものである。つまりは、天皇への働きかけは無意味・無駄であるか、有害であるかのどちらかでしかない。

天皇への働きかけによって天皇の意見に影響を与え、その結果として天皇に何らかの言動を行わせようとすることが典型的な天皇の政治利用であろう。これは、天皇の権威や影響力の利用という点で、本来無力であるべき天皇に政治的な力を確認させる危険な行為である。もちろん、この点は政権を有する勢力に対し、より厳格に回避を求めるべきではあるが、国民すべてに自制が求められる。

そもそも、民主々義とは主権者たる国民間の討議による相互説得の政治過程にほかならない。ここに天皇の権威が介入する余地はない。自らの見解を天皇の賛意によって権威付けようという動機の不純さは徹底して批判されなければならない。天皇への接触によって世間の耳目を集めようとのパフォーマンスも、厳格にこれを排斥しなければならない。そうでなくては政権与党に効果的な天皇の政治利用を許す口実を与えることとなってしまうだろう。

保革を問わず、政治家たるものは民衆に向かってものを言わねばならない。民主々義憲法に夾雑している異物としての天皇に向けての発言は、明らかにそのベクトルを間違えている。

私は、山本議員の反原発の姿勢や情熱を評価するにやぶさかではない。しかし、天皇への語りかけのパフォーマンスは、民衆の立場を標榜する政治家としてなすべきことではなく、天皇の権威の利用はセンスが悪いとしか言いようがない。この点の批判の視点は、今回の同議員の行動が社会人として礼を失するとか、穏当さを欠くからというものではない。あくまでも、民主々義の理解が浅薄で、天皇制批判を軽視する姿勢を問題としているのだ。彼に続いて、愚行を重ねる者が出ることがないよう願っている。
(2013年11月2日)

敢えて山本太郎を擁護する

天皇に文書を手渡した山本太郎議員に対するバッシングは、はからずも現代における天皇制の実像を可視化するものとなった。天皇の神聖性を傷つける山本の行為をタブーに触れたとする攻撃は凄まじく、法とは乖離した象徴天皇制の体制維持圧力の危険を露わにしている。改めて、象徴天皇制のもつ本質的な危険性を指摘せざるを得ない。その文脈で、私は敢えて山本太郎を擁護する。

本日(11月1日)自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で「憲法違反は明確だ。二度とこういう事が起こらないように本人が責任をとるべきだ」と要求したと報道されている。ほかにも、下村博文文部科学相は「議員辞職ものだ。これを認めれば、いろんな行事で天皇陛下に手紙を渡すことを認めることになる。政治利用そのもので、田中正造に匹敵する」と批判。公明党の井上義久幹事長は「極めて配慮にかけた行為ではないかと思う」、同党の太田昭宏国土交通相も「国会議員が踏まえるべき良識、常識がある。不適切な行動だ」。古屋圭司国家公安委員長は「国会議員として常軌を逸した行動だ。国民の多くが怒りを込めて思っているのではないか」。新藤義孝総務相は「皇室へのマナーとして極めて違和感を覚える。国会議員ならば、新人とはいえ自覚を持って振る舞ってほしい」。田村憲久厚生労働相は「適切かどうかは常識に照らせばわかる」、稲田朋美行政改革相は「陛下に対しては、常識的な態度で臨むべきだ」と不快感を示した。民主党の松原仁・国会対策委員長までが、「政治利用を意図したもので、許されない」と批判。興味深いのは、日本維新の橋下徹大阪市長。他人のこととなれば、「日本国民であれば、法律に書いていなくても、やってはいけないことは分かる。陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない。しかも政治家なんだから。信じられない」と遠慮がない。安倍晋三首相も周囲に「あれはないよな」と不快感を示したという。自民党の石破茂幹事長は記者会見で「見過ごしてはならないことだ」と言明。谷垣法相も「天皇陛下を国政に引きずり込むようなことにもなりかねない」と懸念を示した。不快、批判、懸念のオンパレードだ。

各政治家の口から出ているのは、良識・常識・マナー・配慮、不適切などの曖昧模糊とした感情的語彙のみ。論理を語る者がいない。比較的正直なコメントが、「陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない」という、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」感覚のホンネ。そして、「天皇の政治利用」あるいは、「天皇を国政に引きずり込むようなことにもなりかねない」とさすがに断定を避けた歯切れの悪い物言い。これも、なぜそうなるのかに切り込んでいない。

ハッキリしておこう。マナーとルールとは、まったくの別物だ。山本の行動をマナー違反と誹るのは、表現の自由に属する。山本も国会議員である以上、批判の言論に曝されることは覚悟しなければならない。しかし、山本の行為をルール違反として制裁を科することには慎重でなくてはならない。「憲法違反は明確だ」という批判には、批判者の責任が生じることを覚悟しなければならない。

山本の行為は、明仁という個人に話しかけ文書を手渡した私的行為であるか、天皇という官署に請願をしたかのどちらかである。どちらであるかは、園遊会という行事の憲法上の位置づけと関わる。

園遊会が私的な行事だとすれば、客として呼ばれた山本が、ホストと会話を交わし私的な文書を手渡したというだけのことに過ぎない。ルール違反の問題は起きようもない。

園遊会が公的な行事だとすれば、山本が会話し文書を手渡した相手は官署としての天皇だったことになる。天皇宛に手渡した文書の内容に、「損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項」に関する要請が含まれているとすれば、天皇に対する請願権の行使となる。憲法16条は、「何人も平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と明記する。ちなみに、大日本帝国憲法ですら、こう定めていた。「第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」。

請願権の行使先に天皇が含まれることは自明であって、請願法はこの旨を明記している。また、山本が平穏に請願権を行使したことに疑問の余地はない。ならば、「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」というのがルールである。まさしく、憲法は請願権の行使に対するバッシングがあり得ることを危惧し、請願を封殺することがないよう配慮して差別待遇を禁じているのである。

もっとも、現行請願法3条は、「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」とする。本来は内閣に提出することが筋ではある。しかし、同法第4条は、「請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは、その官公署は、請願者に正当な官公署を指示し、又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない。」と救済規定を置く。あくまで、請願を実効あらしめようという配慮なのだ。

そして、同法第5条は「この法律に適合する請願は、官公署において、これを受理し誠実に処理しなければならない。」と定める。天皇は、請願書を内閣に送付し、内閣においてこれを受理し誠実に処理しなければならない」のである。

要約して言えば、園遊会が私的行事なら私人間における言論の授受に何のルール違反もなく、園遊会が公的行事なら山本の天皇宛の請願権の行使は内閣において誠実に受理し処理しなければならない。請願は平穏になされなければならないが、「畏れ多い」だの、「陛下にたいしてやってはいけない」などと言う情緒的理由による制約は憲法上あり得ない。請願法は、憲法と重複する規定として「第六条 何人も、請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と定めている。これに反して、参議院が、憲法と請願法を無視して、山本議員に対する制裁を科すようなことがあってはならない。

再度確認しておきたい。マナーは曖昧なものである。批判者が勝手に「これがマナーだ」と決めつけて、その基準でマナー違反を批判することが可能である。しかし、当然のことながらマナー違反に違反者の権利や資格を剥奪する効果はない。たいして、ルール違反には、何らかの実効的な制裁がともなう。したがって、ルールは一義的に明確なものでなくてはならない。

今のところ、山本に対するルール違反の明確な指摘はない。ただただ、曖昧な感情的批判が積み上げられているだけ。その非理性的な情緒的批判の集積が巨大な社会的圧力となり、マナーとルールの壁をも突き破りかねない。ここに危険な天皇制の本質を見る思いである。山本に対するバッシングの付和雷同を看過してはならない。
(2013年11月1日)

園遊会こそが天皇の政治的利用ではないか

本日(10月31日)山本太郎参院議員が、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会で、天皇に文書を手渡したとのこと。報道では「手紙」を渡した、とされている。山本自身が記者会見で明らかにしているところでは、文書の内容は「原発事故での子どもたちの被曝や事故収束作業員の劣悪な労働環境の現状を記したもの」だという。

田中正造の直訴事件を思い起こさせる。予てから、足尾銅山の鉱毒問題に取り組んでいた田中は、被害農民の「押し出し」に対する警察の弾圧に憤激し、1901年12月天皇に直訴を敢行する。名文家として知られた幸徳秋水に案文の起草を依頼して直訴状を作成。これを懐に日比谷で天皇の馬車を待ち伏せ渡そうとするが、警備の警官に取り押さえられて失敗する。

直訴には失敗したが、この事件は天下の耳目を集めた大騒ぎとなって、直訴状の内容は広く市民に知れ渡ることとなった。田中の直訴の意図如何に関わらず、「直訴事件」の結果として足尾鉱毒問題への政府の対応を批判する世論喚起には絶大なものがあった。その意味で田中のパフォーマンスは大成功だった。

山本太郎の今回の行為は、田中正造のパフォーマンス成功に学んでのものであろう。おそらく彼の心中に、天皇の神聖性も権威もない。「手紙」を読んだ天皇が何ごとかをなす政治力があると考えているはずもない。とにもかくにも、天下の耳目を集めること、とりわけテレビの画像に映ることと、その後の記者会見で自分の見解を語る機会を得ることが意図するところであったろう。

そこまでは彼の意図は成功した。しかし、その先にあるはずの彼の見解への世論の支持を獲得できるかはまた別の問題。田中の成功は、限られたその時代状況の中でのもの。その後100年余を経た今、山本が同じ効果を狙ってのパフォーマンスが世論の支持を得ることは難しかろう。このパフォーマンスによって、原発事故による被害自体や被害の対処に関しての山本の問題提起を社会が肯定的に受けとめてくれるか、おそらくは否ではないか。

山本の行為に対して、天皇の政治利用という観点からの批判が予想される。まさか、「神聖であるべき天皇に手紙を渡すなんて怪しからん」「天皇から声をかけられるのを待つべきなのに、庶民の分際で自分から話しかけるとはもってのほか」などと言える時代ではない。せいぜいが、「本来政治的に無色であるべき天皇に特定の意見を披瀝し」「自分の意見を世に広めるために天皇との接触の機会を利用した」ことを天皇の政治利用ということになろう。そのことをまったく否定はできず、褒むべきこととは言わない。しかし、たいへんに怪しからんことをしたとも思わない。

そもそも、園遊会とは何であろうか。「各界で活躍する人々を招待して春秋に行われる園遊会も、天皇家のパーティではなく、公的行事として位置づけられ、公的支出である宮廷費でまかなわれている」(横田耕一「憲法と天皇制」)というしろもの。憲法に規定のない講学上の「天皇の公的行為」の典型なのだ。憲法上天皇の行いうる行為は「憲法の定める国事に関する行為のみ」に限られている(4条1項)。「公的行為」について合憲説もあるが違憲説も有力である。

天皇の園遊会主催は「国事行為」ではない。端的に言って、国民への人気取りのパフォーマンスであり、内閣による天皇の政治利用である。天皇・内閣の側の「天皇の政治利用」に比較すれば、山本の行為は批判するほどのものとは考えがたい。

園遊会に呼ばれてのこのこ出掛ける見識は問われようが、呼んだのは天皇の側、呼ばれた山本は客の立ち場である。客である山本が天皇に話しかけても、会話は長くなるから文書を読んでくれと言っても、格別に無礼な行為でも、非常識でもあるまい。所詮は、天皇の人気取りパフォーマンスに参加のチャンスをとらえての新進議員の個人的パフォーマンス。大事件と騒ぐほどのことではない。100年前の統治権の総覧者であり神であった天皇への直訴とは、そのインパクトにおいて格段の差がある。

園遊会とは、違憲の疑いが濃い、少なくとも憲法が想定していない、天皇利用の国民の人気取りイベントである。このイベントが内閣の思惑どおりに進行しなかったとして、不快感を露わにしているのが現状。マスコミも、市民も、内閣の尻馬に乗って、山本批判をすべきではなかろう。それは、天皇神聖化や天皇の権威拡大につながる。

しかし、山本議員には、申し上げておきたい。国会議員たるもの、国民に語りかけるべきが本来の在り方ではないか。天皇に語りかける発想は、民衆の側に立とうとする議員のものではない。心ある議員は、天皇に呼ばれてホイホイと園遊会などには出向かないものだ。天皇が出てくる国会の開会式にも出席すべきではなかろう。天皇から「親授」される勲章などはもらってはならない。憲法を厳格に遵守する姿勢とは、象徴としての天皇を否定はしないが、その一切の政治利用を厳格に拒否するものである。天皇の神聖性や権威の拡大に手を貸すことをしてはならない。
(2013年10月31日)

「国家機密法案」を廃案にした教訓

国家秘密を保護する立法の企ては初めてのことではない。1985年6月にも、議員立法としての「スパイ防止法案」が第102通常国会に提案された。第2次中曽根内閣の当時のこと。与党内に谷垣禎一議員らの反対もあり、言論界の評判も悪く、閣法としての上程ではなかった。それでも、自民党は数で押しきることができる状勢ではあったが野党が猛反発した。社会党・公明党・民社党・共産党・社民連がこぞって反対。審議拒否なども重なり、102国会では継続審議、103臨時国会の終了の同年12月21日審議未了で廃案となった。

この法案のフルネームは、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」。これを政府与党側は「スパイ防止法」と略称したが、マスコミの多くは「国家秘密法」と言い、運動側の多くは「国家機密法」と呼んだ。提案者の側は法案の趣旨を「スパイ天国・日本の不正常を正して、国の安全をはかる法律」と強調し、マスコミや運動側はスパイ行為の処罰に限らない広範な国家秘密保護が必然的に国民の知る権利を侵害する則面を重視したのだ。

公務員に秘密厳守を要求するのなら、公務員法や自衛隊法の守秘条項の手直しで足りる。別の立法が必要というのは、民間人の処罰を狙っているからだ。具体的にはメディアが狙われている。メディアが萎縮すれば、もっとも知らねばならなことが、隠される。そのことによって主権者が適切に主権を行使できなくなる。これは、民主々義の危機ではないか。到底黙ってはおられない。

当時私は岩手弁護士会の中堅弁護士で、この地での反対運動に参加した。運動の中心勢力は、地元のメディアと大学人と弁護士会と労働組合だった。「言論の自由を守れ」「国民の知る権利を侵害してはならない」「戦前の弾圧体制の再来を許さない」という訴えは、市民の理解を得て浸透した。

私が参加した岩手の運動において、中心のそのまた中心に位置したのが地元紙の第一線の記者たちだった。その反応のみごとさに、心強さを感じた。若手だけではない。老舗地方紙の幹部も、ジャーナリストとしての気骨を示した。紙面に「国家秘密法反対」の論陣が張られ、反対の意見広告が掲載された。この社の労組を中心に他の労組、他のマスコミ各社にも運動は波及した。

マスコミ・大学・弁護士会などをつないで、「国家秘密法に反対する県民の会」がつくられ、いくつもの企画を行った。弁護士と新聞記者とは、共同して国家秘密法に反対する演劇を行った。北上山中に米軍機が墜落しその取材の過程で重要な防衛秘密が明らかになる。果敢にこれを報道した記者が逮捕され‥、という筋書き。大ホールを大入り満席にして、盛岡と一関で2公演した。私も新聞社のデスク役で出演した。「国家秘密法に反対する歌」がつくられて集会で歌われ、録音テープも売られた。

私は、岩手弁護士会の担当委員として何度も上京し、日弁連の会議に参加し、国会議員周りもした。なかなか議員本人とは会えなかったが、地元の議員あるいは秘書には、良く耳を傾けていただいた印象がある。小沢一郎氏ひとりを除いては。

もっともアクチブに運動に参加した記者のひとりから、聞かされたことがある。「たまたま、ボクが日常目を通している新聞の中に赤旗がありましてね。その中の国家秘密法に関する記事や論説には、共感できるものがあった。ボクが比較的早くこの問題の危険性を認識したのは赤旗からですね」

確かに、赤旗はいち早く警鐘を鳴らし、その報道や論評は的確で圧倒的な分量でもあった。私の方は赤旗に加えて、日弁連と自由法曹団からのニュースや資料の提供があり、全国の弁護士の意見に接することもできた。私は貴重な立ち場にあったことになる。責任も感じた。

日弁連、赤旗や自由法曹団が問題を提起し、ジャーナリスト、学界などがこれに続く。マスメディアが動き、市民運動、大衆運動が盛りあがり、そして政党が動く。国会の内外で与党を包囲して、「こうなってしまってはゴリ押ししない方が得策」と思わせる状況をつくり出したときに、法案が廃案になった。

85年当時と比較して、国会内の議席分布では今回は格段に不利ではある。野党の力量の不足は覆いがたい。しかし、与党盤石ということではない。いくつもの分野で安倍自民の政策を批判する国民運動が起きつつある。

今しばらくは国政選挙の機会がない。このことが、政権を強気にさせていると言われる。しかし、いくつもの地方選挙で自民党は顔色を失っている。たとえば川崎市長選。たとえば神戸市長選。あるいは岡山市長選。自民・公明・民主3党推薦候補圧勝の思惑が、接戦にもつれ込み、あるいは無所属候補に敗れている。昨日の「毎日」社説は、この選挙結果を「消費増税の使途の説明不足や特定秘密保護法案への対応など危うさをのぞかせている」と説明している。政権安泰どころではない。安倍自民は薄氷を踏む事態というのが実態なのだ。

今回の法案は、その危険性が見え見えなのが最大の弱点だ。明文改憲、集団的自衛権行使の憲法解釈変更、NSC法、国家安全保障基本法、防衛大綱見直し、自衛隊に海兵隊機能・敵基地攻撃機能などと、パッケージとなった特定秘密保護法案である。そのきな臭い危険性は誰の目にも明らかではないか。さらに、消費増税、福祉の切り捨て、TPPと問題山積の中の問題法案である。運動の盛り上がりによって政権へダメージを与えること、そして85年当時のように、この法案を廃案に追い込むことは可能だと、私は考えている。
(2013年10月30日)

坂本修著「アベノ改憲の真実」を推す

昨年(2012年)4月に発表された自民党「日本国憲法改正草案」は、右派陣営が望んでやまない「理想の憲法」のモデルである。赤裸々に彼らのホンネを語るものとしてまことに貴重な資料となっている。その批判的検討は、自ずから安倍自民の目指す国家像や基本政策と総体として対決するものとならざるを得ず、平和・人権・民主々義の各分野においての具体的な対立点と運動課題を明示することになる。

この度、「本の泉社」から、坂本修さんが、「アベノ改憲の真実ー平和と人権、暮らしを襲う濁流」を上梓された。10月15日の発刊。既にそれぞれの特色を持ったいくつかの「草案」批判解説書があるが、坂本書は、けっして屋上屋を重ねるものではない。

坂本さんは、私よりひとまわり先輩の弁護士。その発言には、常に抜きん出た存在感がある。坂本さんが何を言っているのかを知らないわけには行かない。さっそく読ませていただいた。

一読、その情熱に胸を打たれる。そして、あの人柄そのままの語り口が、無味乾燥になりがちな解説書をみごとに血の通ったものにしている。これは、余人にできることではない。もちろん、私などに真似はできない。坂本さんは数多くの労働訴訟や人権訴訟に携わってきた人。一々の具体的な事例の詳細紹介は省かれているが、その豊富な経験が分かりやすく説得力のある叙述となっている。

まずは、この書のはしがきにあたる「はじめにーあなたへの手紙として」をじっくりと読まねばならない。わずか2ページだが、この時代を誠実に生きてきた一個の知性が、読者の一人ひとりに真剣に語りかけている。これを読めば、背筋が伸びて、あとの100ページを読み通さねばならないという気持にならざるを得ない。

本文は全6章からなる。よく練られた章立てとなっていて読みやすい。
その第1章において「政治的背景事情」が語られる。その中で、安倍政権の「壊憲」の意図や戦略についても触れられる。第2章から、第5章が草案の解説となっており、終章である第6章が改憲阻止を展望する運動論となっている。

つまり、この書の構成は、法律的解説の前に政治状況と政権の意図を明らかにし、改憲草案解説の後に政治状況を切りひらいて改憲を阻止し「憲法の生きる日本を目指す」展望を示す実践の書となっている。これは、坂本さんの生き方そのものだ。法律を解説するだけの弁護士ではない。判例にしたがって、法廷活動をするだけの弁護士でもない。社会を変革する立ち場を旗幟鮮明にした弁護士が憲法についての書物を著せば、必然的にこうなるのだ。

さて、法律的な解説部分の章立ての構成を内容として示せば以下のとおりである。
第2章 総論=立憲主義と憲法3原則の否定
第3章 各論1 平和主義への攻撃
第4章 各論2 社会権への攻撃
第5章 各論3 自由権への攻撃

以上のまとめだと無味乾燥となる。現実の目次は以下のとおりに、工夫が凝らされている。
第1章 迫る『壊憲』濁流ーその陣立てと戦略をどう見るか
第2章 「改憲草案」の『壊憲』の原理ー憲法3原則抹殺と立憲主義の否定
第3章 「改憲草案」の第1の顔ー「戦争をする国」
第4章 「改憲草案」の第2の顔ー「弱肉強食の国」
第5章 「改憲草案」の第3の顔ー自由と人権のない強権支配の国
第6章 勝利の課題と展望をどう見るかー私たちは勝利できる

大雑把に言えば、「戦後レジーム」から脱却して「戦争のできる国・日本」を目指すことが「アベノ改憲」の正体であり、その中身は日本国憲法の骨格である近代立憲主義と憲法3原則を根こそぎ否定すること。具体的には、侵略戦争を任務とする国防軍を作り集団的自衛権の行使を認めて海外での戦争を可能とすること、新自由主義を徹底して弱肉強食の日本をつくること、市民的な自由も否定して国家秩序優先の社会をつくること、がたくらまれている。そして、その策動は、明文改憲だけでなく、解釈改憲・立法改憲の同時進行複合攻撃となっている。

問題は、国会での議席が足りないのに、この攻撃に対抗する運動に勝利の展望はあるのだろうか、ということ。坂本さんは、「知恵と力を合わせて闘えば勝利できると確信しています」と言う。ここが、坂本さんの真骨頂。精神論ではなく、「なぜか」が具体的に述べられている。

坂本さんは、「この改憲策動にはいくつもの弱点がある」とおっしゃる。改憲策動が進めば、その弱点も大きくなる。たとえば、安倍改憲を志向する政治は、社会のあらゆる分野で改憲阻止につながる大きな国民運動を巻き起こすことになる。原発再稼動反対、消費増税阻止、生活保護切り捨て反対、ブラック企業追及、TPP反対、辺野古やオスプレイ問題、言論の自由、公務員労働者の権利の問題‥、多くの要求闘争が憲法を活かす課題、改憲阻止の課題と結びつく必然性をもっている。また、安倍改憲策動は世界から孤立化するものという指摘も肯ける。

是非、熟読されるようお勧めする。100ページ余、価格800円と手頃なボリュームでもある。これをお読みのうえ、改憲阻止のために何をすべきか何が出来るかを、それぞれにお考えいただきたい。僭越ながら坂本修さんに代わってお願い申しあげる。
(2013年10月29日)

風が変わりはじめた?特定秘密保護法案に反対の世論調査結果

自信をもとう。風向きの変化を感じる。ようやく、特定秘密保護法案を批判する世論の風が吹き始めた。

先日、大新聞の元記者と雑談を交わす機会があった。「今の新聞社の内部の雰囲気が、国家秘密法に社をあげて反対した当時とはずいぶん違ってますね」とおっしゃる。「じゃあ、今回は負けいくさですか」と聞くと、「それは外の運動の盛り上がりしだいですよ」とのこと。「新聞は社会の木鐸をもって任じておられるじゃないですか。言論封殺の特定秘密保護法には真っ先に反対とはならないんですか」と再度問うと、「社内のみんな、反対と思ってはいるけれども、思いきって記事が書ける雰囲気にはなっていない」「外が盛りあがれば、新聞も書けるんです」と言われる。言外に、反対運動の盛り上がりが今ひとつではないか、ということのようだ。

この会話。必ずしも悲観的というばかりでもない。「市民の運動が盛りあがればメディアも動ける。メディアが動けば、大きく世論を変えることもできる」ということでもあるのだから。プラスの循環が始まれば、政権を追い詰めることができようというもの。なに、実は安倍政権の支持基盤が脆弱なことは政権自体がよくご存じのとおりだ。世論を甘く見て暴走すれば、政権の命取りになりかねない。議席数を数えるだけでは、法案の成否は分からない。与党に、「無理押しすると、政権がもたなくなるかも」という危惧を抱かせるだけの世論の形成ができるかどうか、それが勝負の分かれ目だ。

今朝の共同配信記事が、「秘密保護法、世論調査では過半数が反対」というもの。これは、大事件だ。このところ、各紙の社説がかなり変わってきている。ここ数日、どこの集会でも特定秘密保護法に反対する声を聞くようにもなった。96条先行改憲論に反対世論が盛りあがったあのときのような、「春二番」を感じる。良い循環の歯車が回り始めたのではないか。

「共同通信社が26、27両日に実施した全国電話世論調査によると、政府が今国会に提出した特定秘密保護法案に反対が50・6%と半数を超えた。賛成は35・9%だった。慎重審議を求める意見は82・7%を占め、今国会で成立させるべきだとする12・9%を上回った。機密を漏らした公務員らへの罰則強化を盛り込んだ特定秘密保護法案には国による情報統制が強まるとの批判がある。政府、与党は今国会での成立を目指しているが、調査結果は世論の根強い懸念を鮮明にした。」というのが記事の内容。
 
さらに、この調査結果の解説が立派なものものだ。
「共同通信社の世論調査で特定秘密保護法案に反対が半数を超えたのは、国民の『知る権利』が大幅に制約されかねないという国民の疑念を反映した結果だ。政府は『米国などとの情報共有には秘密保全のための法整備が不可欠』との立場だが、世論の理解が進んだとは言い難い。
今国会での成立にこだわらず、慎重な国会審議を求める声も82・7%に達した。与党は11月上旬に審議入りし中旬までに衆院を通過させたい考えだが、数の力に頼った『成立ありき』の国会運営は慎み、議論を尽くすべきだ。
『特定秘密』の指定は第三者のチェックを受けず、政府が 恣意的な運用をする懸念は消えない。特定秘密は30年を超える場合でも内閣の承認があれば延長可能で、政策決定過程が「歴史の闇」に葬られて検証できない恐れもある。
数々の問題が指摘される法案であるにもかかわらず、安倍晋三首相は所信表明演説で特定秘密保護法案に明示的に触れなかった。政府は国民が抱える不安を直視し、疑問に答えるべきだ」

元記者氏のおっしゃる「外の運動の盛り上がり」が既にできつつあるのではないか。なるほど、この世論調査の結果あればこそ、このような解説を書くことができる。

私見では、自民党の町村信孝さん(この問題の自民党プロジェクトチーム座長)の発言がジャーナリストのプライドを大いに刺激して、反対運動に大きな役割を果たしたのだとおもう。彼は、10月19日テレビでこう言った。「まっとうな取材をしている記者は法律の適用外だ。逮捕されることはない」。この発言、まっとうな記者には、「政府がまっとうと認める限りの取材なら記者の逮捕はしない」「政権がまっとうと認める範囲での取材をしておくのが身のためですよ」と聞こえたはず。まっとうなジャーナリスト魂をいたく傷つけ、果敢にたたかう筆をとらせたのだ、と思う。

以前当ブログに掲載したが、特定秘密保護法の賛否を問う世論調査は惨憺たる結果だった。国民にこの問題の本質が分かりにくいことがその原因。意識的な世論への働きかけなしには、自然に反対世論が盛りあがることはない。

これまでの世論調査結果についての当ブログの記事を再掲する。
時事通信が9月6?9日に行った世論調査で、「機密情報を漏えいした国家公務員らの罰則を強化する特定秘密保全法案」について賛否を聞いたところ、「『必要だと思う』と答えた人は63.4%、『必要ないと思う』は23.7%だった」という。

さらに、産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が9月14?15両日に実施した合同世論調査では、「機密を漏らした公務員への罰則強化を盛り込んだ『特定秘密保護法案』について、必要だとしたのは83.6%、必要だと思わないが10.4%だった」という。

本日(10月4日)の「毎日」に、10月1?2日実施の新たな世論調査の結果が発表されている。これが、見出しを付けるとすれば、「特定秘密保護法必要の世論 6割に近く」として不正確とは言えない内容。産経の83.6%はさすがに眉唾としても、毎日の「必要だ」は57%、「必要でない」は15%に過ぎない。毎日の社会的信頼度を考慮すれば無視しえない。

時系列に、時事→産経→毎日⇒共同 の調査結果の推移を単純に比較してみよう。
 反対 24%→10%→15%⇒51%
 賛成 63%→84%→57%⇒36%

この推移は劇的な変化と言って良い。しかも、今国会で成立させるべきだとする「安倍追随世論」は13%に過ぎず、反対世論が83%を占めていることの意味は限りなく重い。同時に行われた内閣支持率、自民党支持率とも、着実に低下をしてもいる。

思い起こそう。「特定秘密保護法案の概要に対するパブリックコメント募集に対して、9月3日から17日までの15日間に94000件の意見が寄せられ、そのうち反対が77%を占め、賛成は13%に過ぎなかった」のだ。

自信をもって、世論の喚起に務めよう。できる限りの自分の周囲に法案の危険性を知らせよう。この法案、きっと潰せる。
(2013年10月28日)

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