「自民党憲法改正草案」は、第9章「緊急事態」を新設しようとしている。内閣総理大臣は「緊急事態の宣言」を発して、法律と同一の効力を有する緊急政令を制定することができるほか、財政上必要な措置や地方自治体に対して必要な指示をすることができる、とする。憲法を停止して一党独裁を可能とするこの制度、危険極まりない。
緊急事態とは、「我が国に対する外部からの武力攻撃」、「内乱等による社会秩序の混乱」、「地震等による大規模な自然災害」「その他の法律で定める緊急事態」(「草案」98条)とされている。しかし、周知のとおり、武力攻撃に関しては武力攻撃事態法と関連諸法があり、「内乱等」には諸種の治安立法があり、自然災害には災害対策基本法以下の厖大な関連諸法がある。その法整備や運用改善の努力をするのではなく、全ての不都合を憲法の所為にして憲法改正と結びつけようという姿勢には、秘められた魂胆があるといわざるを得ない。
緊急事態の問題は、国家緊急権として論じられてきた。「平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家の存立を維持するために、政府が、憲法をはじめとする法的制約、つまり立憲的な憲法秩序を一時停止して、非常措置をとる権限をいう」(渋谷秀樹「憲法・第2版」)
その本質は、緊急事態を理由とした「立憲的な憲法秩序の一時停止」にある。一時にもせよ、人権も民主々義も凍結されるのだ。その間に抑圧された「立憲的な憲法秩序」が緊急事態終了後に回復できるという保障はない。濫用の虞は甚だしい。こんな危険なものを認めてはならない。
旧憲法31条は、「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」と、第2章の「臣民権利義務」の規定は、全て平時においてのみ適用されるもので、有事の際の留保を明言した。その原則の実現手法として、14条が「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と戒厳の権限を天皇に与え、また、 8条「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」と、緊急勅令を発する権限を与えた。70条ではその場合の財政措置まで整備されている。
「戒厳」と「緊急勅令」、一見別物のごとくだが、実は緊密な関係にある。
戒厳とは、「戦時又はそれに準じる緊急事態に対応するために、国家の統治権のすべて又は一部を軍に委譲すること」(青林書院「新版体系憲法事典」)で、その要件と効果を定めた法規を「戒厳令」(1882年太政官布告)といった。我々が歴史書で記憶している戒厳は、明治・大正・昭和に各一度ずつある。
1905(明治38年)の日比谷焼打事件(日露戦争後の講和条約反対暴動)
1923(大正12年)の関東大震災後の騒乱
1936(昭和11年)の二・二六事件
注目すべきは、そのいずれの場合も、戒厳令による戒厳ではなく緊急勅令による戒厳令の準用であったということ。戒厳令では戒厳を宣する要件は具備されていなかった。しかし、政府は戒厳必要として緊急勅令で同じ効果をもたらすことができたのである。
草案98条・99条によって、内閣の政令が緊急勅令と同じ要件と効果を持つ。新設される国防軍に、必要な実力行使を命じることが可能となる。政治的反対勢力や民衆運動を抑圧することが可能となる。全ての情報を遮断して、国民世論を誘導することも容易になる。
草案の公式解説である「Q&A」は、次のように弁解している。
「どのような事態が生じたときにどのような要件で緊急事態の宣言を発することができるかは、具体的には法律で規定されます。緊急事態の宣言の基本的性質として、重要なのは、宣言を発したら内閣総理大臣が何でもできるようになるわけではなく、その効果は次の99 条に規定されていることに限られるということです。よく『戒厳令ではないか』などと言う人がいますが、決してそのようなことではありません。」
自民党の弁明は無力である。緊急政令は、緊急勅令同様に、国防軍に必要な行動をさせることができる。緊急勅令が事実上の戒厳の発動をしたごとくにである。しかも、新設される国防軍は「法律の定めるところにより、公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」のである。緊急時の「公の秩序」を守るために、あるいは「国民の生命若しくは自由を守るため」にとする出動はその本務の一部なのである。
1933年、ヒトラーが政権を取る過程で、国会放火事件を利用して、全権委任法を成立させたことはよく知られる。この法律でヒトラー政権は一党独裁で法律を作る権限を手にした。同じ過ちを繰り返してはならない。
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『雪かと見まごう、白い木の花』
5,6月の今ごろ、一つ一つは小さくて目立たないけれど数の力で目を引く「白い木の花」が咲いている。木の下にはいって、青臭い強い匂いで、花の咲いていることに気づくこともある。高いところに立って、下の景色を見た時、木を覆う白い花の美しさに驚くこともある。
「ネズミモチ」は革質の小型の葉っぱが密につく常緑樹で、刈り込まれて生け垣にされる。枝の先の円錐花序に筒状の白い小花をびつしりつける。この花には気づいたことがなくても、晩秋に成る粉を吹いたような黒紫色の実には見覚えがあると思う。コロコロとしたネズミの糞にそっくりというのが、名前の所以である。子どもが空気鉄砲の玉としておもちゃにした。
ネズミモチに花も実もそっくりなのが、近縁の「イボタノキ」である。ふさっと咲く白い花、コロコロした黒い実。こちらは落葉樹で、隙間がスースーとあって風通しが良い木なので生け垣には使えない。白いイボタロウムシが、枝に刺した竹輪のようにビッシリついて、良質のロウソクの原料を提供して役に立っている。また、細かい波のような蛇の目模様で隈取りをして、ギョロリとした大きな二つの目の玉模様をもったイボタガの食草でもある。
「ナンテン」の白い花も今ごろ咲く。ツーツーと立ち上がった幹の先端に、円錐花序がカッチリと上向きにつく。6弁の白い花に黄色い葯がついて、白いご飯に卵ふりかけをかけたように見える。冬になると赤い実がやはり円錐形について、寂しい風景の彩りとなって大変美しいものである。雪ウサギの赤い目として使われる。
「サンゴジュ」の白い花房はボリュームがあって、手に持ったらズッシリするようだ。大木となった樹冠全体に花が咲くと、雪が積もったのかと見まごうほどの美しさである。晩秋になると、そのまま真っ赤な実で覆われる。実のついた軸まで赤くなるので、サンゴジュといわれる。実のある間じゅうメジロなどの小鳥がうるさいほど集まってくる。厚い葉をもった照葉常緑樹なので、防火の役に立つとして垣根や屋敷回りに好んで植えられた。
「ゴマギ」も傘状の円錐花序に白い小さな5弁花をつける。秋になると赤から黒に熟す実を、お盆に盛ったように付ける。少しでも葉に触ると、香ばしいゴマの香りがする。
どれもこれもひとつひとつは1センチに満たない小花だけれども、よく見ると花びらは砂糖細工のような厚みをもっている。その白い花がたくさん集まると、遠くからでも目を引く美しさをもつことになる。秋になる小さな実も、花の数に応じてたくさん実って、小鳥や人間の目を喜ばせてくれる。
残念ながら今では、こうした変化に富んだ生け垣や庭木は少なくなってしまった。公園に植えられる木でさえも、虫がつく、落ち葉が落ちて困るとされて、種類が少なく面白みがなくなってしまった。せめて、自分の身の周りだけでも美しい木々で飾ろうと思うけれど、庭は狭くてままならない。雨の降らない梅雨空をにらんで、蚊に食われながら水やりをするのも容易なことではない。
(2013年6月10日)
自民党が昨年4月27日に発表した「日本国憲法改正草案」のネーミングを考えていて、今日思いついた。そうだ、これは「君が代・憲法」だ。
日本国憲法前文の冒頭の文章は以下のとおりである。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
常識的に、ひとまとまりの文書の冒頭には、起草者のもっとも関心あることが書かれる。日本国憲法においては、国民主権と、国際協調主義と、自由と平和と、そして不再戦の決意とが述べられている。
では、自民党改憲草案には、同じ位置に何が書いてあるか。
「草案」の前文第1段落の冒頭は、「日本国は、長い歴史と固有の文化をもち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、…」と始まる。
「草案」は、現行日本国憲法が「国民主権と、国際協調主義と、自由と平和と、そして不再戦の決意」を述べた同じ場所に、「日本国は天皇をいただく国家である」と書き込んだのだ。自民党にとっては、天皇を戴く国であることこそが、何にも替えがたい重要な憲法事項だというのだ。なんたるアナクロニズム、なんたる志の低さであろうか。
さらに、自民党草案前文の第5段落は、「日本国民は、よき伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」という。日本国民がこの憲法を制定するのは、「よき伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため」だというのである。憲法制定の目的を、国民の福利や自由の獲得・維持とはせずに、「国家を継承するため」という恐るべき無内容の国家主義の露呈である。しかも、よき伝統とは、「天皇を戴く国柄」以外には考えられない。結局、第5段落を意味あるものとして読めば、「日本国民は、天皇を戴く国家を、末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」ということになる。
どこかで聞いた言葉だ。そう、「君が代は千代に八千代に細石の苔のむすまで」。あれを条文の用語に翻訳して憲法前文に挿入したものだ。これからは、「自民党草案」を「君が代・憲法」と呼ぶことにしよう。
自民党の思想水準は、その程度のものでしかないのだ。
東京都議選が近い。6月14日が告示で23日が投票日である。このたびの都議選は、参議院議員選挙の前哨戦として格別の意味をもっている。改憲を許すか否かの天下分け目の闘いの、既にその一部といってよいだろう。私は、改憲阻止の一点で、日本共産党の躍進を期待している。
曇りない目で見るとき、日本共産党が改憲阻止の運動における揺るぎない本体としての立ち場にあることに異論は無いだろう。衆議院憲法審査会では、50人の委員のうちたった一人の「純正改憲反対派」として、共産党議員(笠井亮さん)が奮闘している。全国各地で地を這うような改憲阻止の組織活動に取り組んでもいる。この本体を強く大きくせずして、改憲阻止の運動の成功はおぼつかない。さらにこの本体を一回りも二回りも大きくすることによって、改憲阻止にとどまらず、憲法の理念を実現する壮大な運動の力を生み出すこともできよう。日本国憲法を大切と思う人に、日本共産党への支持・支援を呼び掛けたい。
その闘いにおける「敵」は誰か。自民・維新というよりは、「靖国派」というべきではないだろうか。本日(6月8日)の赤旗に拠れば、「日本会議地方議員連盟」の正会員計41人が、都議選に立候補の予定だという。この41人が、日本国憲法の理念に敵対する改憲派として「敵」といわざるを得ない。
靖国神社境内では、毎年8月15日に「戦歿者追悼中央国民集会」が開催される。その主催者となっているのが「英霊にこたえる会」と並んで、「日本会議」である。「日本会議」は、日本の右翼運動のナショナルセンターと言ってよかろう。ちなみに、この右翼組織の会長は三好達・元最高裁長官である。最高裁と右翼、よくお似合いなのだ。
日本会議の憲法問題についての認識を要約すれば、次のとおりである。
「皇室を敬愛する国民の心は、千古の昔から変わることはありません」「わが国の憲法は、占領軍スタッフが1週間で作成して押し付けた特殊な経緯をもつとともに、数々の弊害ももたらしてきました。すなわち、自国の防衛を他国に委ねる独立心の喪失、権利と義務のアンバランス、家族制度の軽視や行きすぎた国家と宗教との分離解釈、などなど」「日本人自らの手で誇りある新憲法を創造したい、これが私たちの願いです」
つまりは、明確な改憲運動団体である。と言うよりは、憲法を根底から否定してまったく別の原理に立つ新憲法の制定をめざす、反体制組織である。彼らには、憲法改正の限界論など眼中にない。
その「日本会議」の地方議員版として地方議員連盟があり、その正会員計41人が都議選立候補予定だという。会派の内訳は以下のとおり。
自民 36人(現職28)
民主 1人(現職1)
維新 2人(元職2)
みんな 2人(新人2)
これら“靖国派”は、歴史認識において先の大戦を正義の戦争とし、日本の「国柄」を天皇が君臨する国体とし、憲法の個人主義を排斥して国家主義を鼓吹し、人権ではなく秩序を重んじ、国際協調を否定して排外主義をとる。要するに日本国憲法がことごとく気に入らない。
本日の赤旗は、そのうちの何人かを紹介している。
維新の野田数は、都議会維新の会の中心にあって、12年10月の都議会本会議で、「現行憲法を無効とし、戦前の大日本帝国憲法の復活を求める時代錯誤の請願」に賛成して批判を浴びた人物。また、自民党都議だった10年12月の都議会本会議でも、明治天皇が首相らに与えた「教育勅語」について「日本人の芯となる価値が存在している」と賛美。民主党政権の日韓併合100年や過去の政権の謝罪談話は大間違いだと非難しているという。
自民の中屋文孝は10年11月の都議会総務委員会で、都議会自民党を代表して、「慰安婦問題に関して謝罪及び個人補償をしないよう求める意見書提出を求める陳情」の採択を主張。旧日本軍「慰安婦」問題について、「日本政府が韓国政府及び韓国国民に対する謝罪や個人補償を行うことに反対」と主張したとのこと。
このように、「自民が右翼となった。維新がさらに右から自民を補完している」この図式が、国会だけでなく、都議会にも現れようとしている。そして、「みんな」にはもちろん、民主にも靖国派は棲息している。
都議選の構図は、「日本共産党」対「靖国派」の対決。日本国憲法を大切に考える都民には、ぜひともその考えに最もふさわしい選択をお願いしたい。
(2013年6月8日)
今の日本でもっとも尊敬すべき人物を一人挙げるとすれば、中村哲さんを措いてほかにない。アフガニスタン・パキスタンの医療支援・農業支援の活動を続けて30年にもなろうとしている。その困難に立ち向かう一貫した姿勢には脱帽せざるを得ない。宮沢賢治が理想として、賢治自身にはできなかった生き方を貫いていると言ってよいのではないか。
中村さんは、1984年から最初はパキスタンのハンセン病の病棟で、後にアフガニスタンの山岳の無医村でも医療支援活動を始めた。2000年、干ばつが顕在化したアフガニスタンで「清潔な飲料水と食べ物さえあれば8、9割の人が死なずに済んだ」と、白衣と聴診器を捨て、飲料水とかんがい用の井戸掘りに着手。03年からは「100の診療所より1本の用水路」と、大干ばつで砂漠化した大地でのかんがい用水路建設に乗り出した。パキスタン国境に近いアフガニスタン東部でこれまでに完成した用水路は全長25・5キロ。75万本の木々を植え、3500ヘクタールの耕作地をよみがえらせ、約15万人が暮らせる農地を回復した。
昨日(6月6日)の毎日夕刊「憲法よーこの国はどこへ行こうとしているのか」に、中村さんのインタビュー記事が載った。「この人が、ことあるごとに憲法について語るのはなぜなのか。その理由を知りたいと思った。」というのが、長い記事のメインテーマである。ライターは小国綾子記者。優れた記者によるインタビュー記事としても出色。
「僕と憲法9条は同い年。生まれて66年」。冗談を交えつつ始めた憲法談議だったが核心に及ぶと語調を強めた。「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし、それが正常な国家だなどと政治家は言う。これまで本気で守ろうとしなかった憲法を変えようだなんて。私はこの国に言いたい。憲法を実行せよ、と」
ならば、中村さんにとって憲法はリアルな存在なのか。身を乗り出し、大きくうなずいた。「欧米人が何人殺された、なんてニュースを聞くたびに思う。なぜその銃口が我々に向けられないのか。どんな山奥のアフガニスタン人でも、広島・長崎の原爆投下を知っている。その後の復興も。一方で、英国やソ連を撃退した経験から『羽振りの良い国は必ず戦争する』と身に染みている。だから『日本は一度の戦争もせずに戦後復興を成し遂げた』と思ってくれている。他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」
あなたにとって9条は、と尋ねたら、中村さんは考え込んだ後、「*******これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔。しかし同時に『お位牌(いはい)』でもある。私も親類縁者が随分と戦争で死にましたから、一時帰国し、墓参りに行くたびに思うんです。平和憲法は戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の位牌だ、と」。
窓の外は薄暗い。最後に尋ねた。もしも9条が「改正」されたらどうしますか? 「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊がアフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」。長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。
「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。僕はもう、日本国籍なんかいらないです」。悲しげだけど、揺るがない一言だった。
未熟な論評の必要はない。日本国憲法の国際協調主義、平和主義を体現している人の声に、精一杯研ぎ澄ました感性で耳を傾けたい。こういう言葉を引き出した記者にも敬意を表したい。
ただひとつ、ざらつくような違和感をおぼえる言葉に引っかかる。
*******とした7文字の伏せ字を起こせば、「(9条は)天皇陛下と同様、これがなくては日本だと言えない」というのだ。9条と並べて、「天皇陛下」も「これがなくては日本だと言えない。近代の歴史を背負う金字塔」と読むことも可能だ。中村さんは本当にそういったのだろうか。
中村さんの「天皇陛下」を「これがなくては日本だと言えない」という文脈は、肯定否定の評価を抜きにした客観的な判断の叙述と読めなくもない。しかし、中村さんは9条を「お位牌でもある」と言っている。310万人と数えられている日本の死者、2000万といわれる近隣諸国の民衆の死者。その厖大な犠牲は、天皇の名による戦争がもたらしたものではないか。天皇こそは、最たる戦争責任者であり、人民を戦争に向けて操作する格好の道具だてでもあった。再び戦争を起こさないという位牌の前の誓いは、天皇という恐るべき危険な道具の活用を二度と許さないという決意を含むものでなくてはならない。これを、さらりと「天皇陛下」と尊称で呼ぶ姿勢に、私の神経がざらつくのだ。
私は忖度する。おそらくは、中村さんに計算があるのだろう。理想を実現するには多額の経費が必要だ。企業からも庶民からも寄金を集めねばならない。そのとき、反体制、反天皇では金が集まらない。憲法9条の擁護なら信念を披瀝できても、天皇の問題となれば、「天皇陛下」と言わざるを得ないのではないか。私には、そのような配慮の積み重ねこそが、現代の天皇制そのものであり、忌むべきものなのだが。
(2013年6月7日)
たまたま内田雅敏さんと弁護士会で出会った。待っていましたというがごとくに、刷り上がったばかりという自著を手渡された。「第一級の靖国論だから読め」とのたまう。サラリとこう言えるところが、いかにも内田さんらしい。
「天皇を戴く国家」という主書名に「歴史認識の欠如した改憲はアジアの緊張を高める」という長い副題がついている。内田雅敏著・株式会社スペース伽耶発行、初版第1刷の発行日が2013年6月15日。この日付は特に選んでの設定なのだろう。定価は800円+消費税。奥平康弘さんの推薦文という折紙付きである。
頷くところがほとんど。達者な文章だし、個性的な切り口に感心するところも少なくない。が、見解を異にする一点がある。
「無断合祀による戦死者の独占という虚構こそが靖国神社の生命線」という内田さんの論述にはまったく同感だ。だから、靖国神社はいったんした合祀の取り下げには絶対に応じない。取り下げを認めると、戦死者の独占という虚構が崩れてしまうから。これも指摘のとおりだろう。
内田さんは、さらに進んで「だから、東條英機らA級戦犯を合祀した以上は、靖国神社はA級戦犯の合祀取り下げはできない」という。「靖国神社の歴史認識からすれば、A級戦犯こそ靖国神社にふさわしいのであって、同神社はA級戦犯の分祀をなすことはできない」と結論する。ここにいささかの異議がある。
今のところ、靖国神社は「教義のうえから分祀はできない」という。しかし、靖国神社に格別の拠るべき教義がある訳ではない。信教の自由を盾にし、教義を口実にして分祀論の圧力に抵抗しているだけのことである。
陸・海軍省の共管であった宗教的軍事施設・靖国神社は、敗戦時、宗教法人となるか、国立メモリアルとなるかの選択肢があった。後者であれば、全面的に宗教色を払拭しなければならない。で、前者の道を選んだ。
こうして靖国神社は一宗教法人にはなったが、国との関係を断ち切ることはしなかった。国と靖国神社と両者の思惑の一致があったからである。共犯関係となったと表現してもよい。厚生省援護局が戦没者名簿を調製して靖国神社に渡し、神社がこれに基づいて「祭神名票」をつくって合祀の対象とする。この関係が続いた。
A級戦犯についても、同様に厚生省が調製して靖国神社に渡された名簿に記載されているのだ。当初は東條英機元首相ら12人、後に松岡洋右と白鳥敏夫が追加されて14人となっている。これについて、神社の総代会では合祀が了承されたものの、当時の筑波藤麿宮司の在職中は実施されなかった。
筑波に代わって松平永芳が宮司となってA級戦犯合祀が強行された。1978年の10月とされている。しかし、神社はこれを秘密とした。人の知るところとなったのは翌79年4月の新聞報道においてである。同神社はこれを「昭和殉難者」と呼んでいる。なお、後に明らかにされた「富田メモ」では、この合祀を知って天皇に不快の発言があったという。
A級戦犯の合祀を問題視し、これを祭神から分祀して合祀を取り下げるべしとの意見は一貫して存在した。水面下では、具体的な動きもあった。板垣正元参院議員は、その著書『靖国公式参拝の総括』(展転社2000年6月刊)において、同氏が官邸からの要請で水面下でA級戦犯の合祀取り下げについて遺族や靖国神社との折衝にあたった経過を明らかにしている。これによると、「白菊遺族会(戦犯者遺族の会)」の会長の同意をえることまではできたが、東條英機元首相の長男(東條英隆氏)の反対で頓挫したという。
「A級戦犯」分祀論は、主として国外からの靖国神社公式参拝批判をかわす目的から出てきている。国外だけでなく、国内世論としても、「戦争の加害者と被害者の同列合祀には釈然としないものが残る」という趣旨の批判の声が高い。そして、「天皇の靖国神社親拜を実現するには、なによりもA級戦犯の合祀取り下げが必要だ」という論調まである。
この問題の本質は戦争責任観にあると思う。「一般の戦没将兵は戦争の被害者で、14名のA級戦犯が加害者」という観点からは、分祀あってしかるべきとなる。しかし、一億総懺悔の立ち場からも、一億総加害者論の立ち場からも、分祀は些細な問題でしかないこととなる。
私は、戦争責任はなによりも天皇にあると考えている。天皇の戦争責任追求をタブーとし国民自身で明確にできなかったことが、戦後国民精神史の諸悪の根源と思っている。分祀問題においても、A級戦犯の戦争責任は論じられるが、天皇の責任は看過される。「A級戦犯を分祀すれば、国外からの批判もなく、天皇の親拜も可能となる」では本末転倒も甚だしい。
「靖国神社の歴史認識からすれば、A級戦犯こそ靖国神社にふさわしい」という内田さんの指摘には、全面的に賛意を表する。しかし、「同神社はA級戦犯の分祀をなすことはできない」との結論には異議を述べざるを得ない。靖国神社が教義や信念を持っていて、それに忠実であろうとしているというのは、買いかぶりではないだろうか。
突然、あるときにA級戦犯14名について、「分祀と遷座が完了した」と発表される日が来るのではないか。そして、多くの閣僚や議員が堂々と「A級戦犯合祀のない靖国神社」を参拝し、この輩が「外国の批判もなくなった。天皇の参拝を要請する」と言い出すことになるのではないか。その確率は、次の原発事故が起こるよりも遙かに高い。
A級戦犯合祀批判は、重要ではあるが靖国神社批判の一部にしか過ぎない。靖国神社批判の本質は、A級戦犯を祀っていることにあるのではない。むしろ、庶民出身の兵士の戦没者を祭神として祀り顕彰しているところにある。その戦死の意味づけを通じて戦争を肯定していることにある。その視点を明確にしておかなければならない。
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『グミ(茱萸)とザクロ(石榴)』
グミというと今の子どもは、多分、ゼラチンで出来たお菓子のグミを思い浮かべるだろう。あのグニュグニュしたガムのようなお菓子ではなくて、木に成るグミ(茱萸)という実がある。梅雨が始まる今頃、種が透き通って真っ赤に実る。年配の人は、庭や近所に赤い実のなる木のあったことを懐かしく思い出すだろう。お菓子などなかつた子どもの頃は、グミが赤く色づくのを待ちかねて食べたものだ。
2年ほど前に値落ちの鉢植えを買って庭におろしておいたグミの木に、たわわに実がなった。大きな実のなる「ビックリグミ」という種類だと説明がついていた。とても成長の早い木だ。スラリと伸びた枝にプランプランと重いほどの実を付けている。実を結んだ順に、赤、オレンジ、黄色、グリーンと実の色が違っているのが美しい。透き通るように赤く熟れて、触るとポロリと落ちそうなのを選んで口に入れてみる。ああこんなものだったのかと納得する。トロリと甘いけれど、舌の上に苔でも生えたように渋みが拡がる。試しにオレンジ色が残った堅めの実を食べてみると、口中がシブシブに麻痺したようになる。グミは葉っぱにも白い花にも赤い実の表面にもザラザラした細胞がついている。青柿と同じく、タンニンという渋みで全身武装している。これでは今の子どもは食べないだろうと思う。今の私も、昔のように、たくさんは食べられない。やっぱり観賞用だ。茂った緑のなかのルビーのような実の美しさを楽しめばいい。しばらくすれば小鳥が訪れて、渋みなんか何のその、喜んで食べてくれる。
万緑叢中紅一点のザクロの赤い花もいま盛りの季節。秋になると丸い手投げ弾のような形をした実がなる。硬い皮の中に透き通ったルビーのような小さな実がギッシリつまっている。こちらは甘くて渋みはないけれど、種がいっぱいで食べるのに苦労する。グレナディンジュースを作ったり、果実酒を作る人もいる。形が面白いので、机の上にでも転がしておいて楽しんだり、絵を描く人には良い画材になる。木にそのまま冬まで残しておけば、メジロやヒヨドリがご執心で通ってくる。
両方ともかなり原始的な植物で、実がよく成る。種の多いザクロなどは多産の象徴になっている。しかし、日本では品種改良はあまり取り組まれていない。商品価値がないのだろうか。渋みのないグミや種のないザクロを作ったところで、正体不明として退けられ、人気が出そうにない。美味しいものが身の回りにあふれている時代には、歓迎されそうにもない。贅沢なことだけれど、少し寂しい。
(2013年6月6日)
昨日のブログに掲載の第六潜水艇沈没・佐久間艇長事件は、過去形だけで語ることができない。事故の起こった日の4月15日には、毎年追悼式が行われることで、現在に尾を引く問題となっているからだ。しかも、式には自治体がからみ、公立学校の子どもたちが動員されている。
追悼式は、潜水艇の基地のあった呉市の鯛乃宮神社と、事故現場に近い山口県岩国市、そして佐久間の出身地である福井県三方町の佐久間記念館の3か所で行われている。今年が104回目だという。
誰が誰の追悼式を行おうと、我が国の憲法では自由である。しかし、それは私人が自分の意思で行動する範囲でのこと。自治体が絡んだり、事実上の強制が行われれば、憲法問題となりうる。とりわけ、子どもの教育に関わって、授業を潰して参加させられた参列の子どもに特定のイデオロギーを吹き込むとなると問題は俄然大きくなる。
以下は、政教分離問題での情報の収集者であり、発信者ともなっている辻子実さんからの情報。今年の鯛乃宮神社での追悼式の模様は、問題意識を持って今年初めて参加したという奥田和夫市議会議員(日本共産党)の報告に拠れば下記のとおりであったという。
この式の主催は『呉海上自衛隊後援会』、会長は神津善三朗氏(商工会議所会頭)です。第6潜水艇追悼式には呉中央小学校6年生が参加します。式が土、日の場合は希望者が、平日は全員が参加し、代表が言葉を読み上げています。
式が始まり、銃を持った自衛官が整然と行進して入ってきて「旗揚げ」の合図で日の丸を掲揚、その間「敬礼」まさに軍隊と同じです。追悼文を主催者が読み、中で、「参加した生徒の生きた教育になる」と述べました。市長も「人が責任を果たすとき生死を超える。先人の労苦で今の平和がある。遺志を引き継ぐ」
児童代表も作文を朗読しました。
「4年の時に授業で学習した。厳しい訓練や学習をを通し”強い心”を持った。最後まで持ち場を離れなかったのはすごいことだと思う」先生から「あなたたちならどうしましたか」と聞かれ、「逃げる」「我先に逃げる」自分も逃げると思った。家族などのために命尽きるまでがんばるのはすごいこと。自分のことばかり考えるのはよくないと思った。最後まで責任をもつことの大切さをを学んだ」
その後に献花、遺書奉読、献詠、追悼の演奏、国旗降下。間には10人の自衛官が空に向け、銃を3発撃つ場面もありました。
このような形で、自衛隊が旧軍との精神的なつながりを堅持していること自体が信じがたい。憲法の想定するところではない。天皇の軍隊において、天皇の軍人として殉職した者の追悼式を、日本国憲法の下にある自衛隊が執り行う。しかも、かつて天皇を神とした国家神道を支えた神社においての追悼式である。日本国憲法の平和主義・政教分離・教育を受ける権利・個人の尊厳等々の憲法的視点から望ましからざることは一見明白である。厳格な批判がないと、たちまちこのような形になってしまうという見本といってよい。
さて、この行事、「神社」と「自衛隊」と「市長」と「公立学校の児童」の4者が会しており、この組み合わせが憲法問題を引きおこしている。神社は、自衛隊・市長・児童のいずれとも親和性を欠き、公的な接触は憲法問題となりうる。神社における旧軍人の追悼式への市長の列席と、児童生徒の事実上の参加強制の2点が大きな憲法問題となり得る。関係者が飽くまで神社の敷地でこのような行事を続けたければ、呉市を切り離し、公立学校の行事とは無関係にし、さらに自衛隊とも袂を分かって、純粋に私的な行事として行うことだ。
まず追悼式への市長の参加である。憲法20条3項は「国及びその機関は、…いかなる宗教的活動もしてはならない」とさだめる。戦前の国家神道が国民の精神の内奥にまで立ち入ってこれを支配したことを許さない趣旨である。したがって、式が宗教的な行事であれば、市長が公的資格においてこの式典に参列したことは、「国の機関の宗教的活動」となって違憲違法な行為となる。
何が宗教的活動かについて、最高裁は津地鎮祭大法廷判決以来、「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるか否かをもって」その限界を画するという目的効果基準を採る。しかし、これも「伸び縮みする物差し」であって、これで一義的に決まるわけではない。神社で行われたという「場所の性格」がもっとも重要な要素であろう。これに、職業的宗教者の式への関与の有無、神道形式の採用の有無、玉串料や神饌料・供物料その他の宗教的な献金がなされているか、などを詳細に検討しなくてはならない。
ついで、児童への出席強要の問題。これは戦前の天皇制政府による児童への宮城遙拝や神社参拝の強制を想起せざるを得ない。今どきの世に、児童生徒に対して戦前同様の強制をすることはできない。教職員に対する日の丸・君が代強制は、職務命令をもってなされた。教育委員会も校長も、特定のイデオロギーの教化を目的とした生徒への式典出席強制はできない。
この場合も、追悼式が宗教性を帯びるものである場合には、憲法第20条2項の「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」によって、論理は簡明となる。そして、20条2項の宗教性のハードルは、3項のハードルよりも格段に低いものとされている。
また、神社内で挙行される追悼式典への参加は憲法20条3項が禁じる宗教教育にあたる可能性もある。さらに、児童には憲法26条による「教育を受ける権利」が保障されている。特定のイデオロギーに基づく教育を拒絶する権利がある。
20条2項は、強制されない権利だから、保護者の意に反して強制することが違法になる。仮に、場所が神社でなく、しかも「宗教性を厳格に排した殉職旧軍人の追悼式」であったとしても、19条(思想良心の自由保障)の問題になりうる。19条には、20条2項に相当する規定がないが、やはり「何人も、自らの思想良心の侵害となる、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」権利の保障は当然にある。
声を出し、批判していくことが大切だと思う。政教分離、信仰の自由、教育の自由、そして平和と思想良心の自由を守るために。
(2013年6月5日)
美談には、宿命的に胡散臭さがつきまとう。軍国美談となればなおさらのこと。
かつての国定教科書「修身」は数々の軍国美談で満ちているが、そのほとんどは荒唐無稽、胡散臭さが鼻について読むに耐えず、現代に通用するものはごく少ない。その中で、佐久間勉艇長の第六潜水艇沈没事件は、例外中の例外。今にしてなお、「責任感」や「使命感」、「勇気」「沈着」「集団の統率」などという徳目を語るに値する内容をもっている。‥そう思っていた。昨年までは。
昨年ある会合で、この分野の専門家である藤田昌士さんと同席する機会があってこの事件が話題になった。そのとき、「実はあの潜水艇事故は艇長の初歩的なミスから生じたものであり、しかも、上官の指示に違反しての航行だった」「海軍は、直後に徹底した事故調査をしており、その分析は厳格で軍国美談とは異質のもの」「最近の防衛庁の紀要に優れた研究論文がある」と教えられた。無能で独善的な若い将校が重大事故を起こした責任の部分は覆い隠しての軍国美談と理解した。同時に、海軍の事故調査の内容には関心を持ち、その紀要の論文を読んでみたいと思った。
本日、読みたいと思っていたその論文を読む機会を得た。なんと、インターネットで容易に手に入るのだ。山本政雄氏(2等海佐、戦史部第1戦史研究室所員)の「第六潜水艇沈没事故と海軍の対応ー日露戦争後の海軍拡張を巡る状況に関する一考察」というもの。これを読んで、驚きもし、感心もし、考えさせられた。
戦前の小学校六年生用「修身」の教科書に「沈勇」という標題で掲載されていた内容は以下のとおり。
「明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口県新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が侵入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽しましたが、艇はどうしても浮揚りません。その上悪ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないようになったので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔にはいって来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺書を書きつけました。
遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くような事があってはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくわしく記してあります。次に部下の遺族が困らぬようにして下さいと願い、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。
艇の引揚げられた時には、艇長飫以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
格言 人事ヲ尽クシテ天命ヲ待ツ。」
最後の格言は取って付けたようで拙劣だが、ここで伝えられている限りでは佐久間の行動は感動的である。アメリカもイギリスも、軍人の鑑として賞賛を惜しまなかったという。漱石のような近代人をすら感動させたという逸話すらある。
その遺書は手帳39頁にわたるもの(原文はカタカナ)で、以下は抜粋。
小官の不注意により
陛下の艇を沈め
部下を殺す、
誠に申し訳なし、
されど艇員一同、
死に至るまで
皆よくその職を守り
沈着に事をしょせり
我れ等は国家のため
職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は
天下の士は
これの誤りもって
将来潜水艇の発展に
打撃をあたうるに至らざるやを
憂うるにあり、
願わくば諸君益々勉励もって
この誤解なく
将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を
さすれば
我ら等一つも
遺憾とするところなし、
謹んで陛下に申す、
我が部下の遺族をして
窮するもの無からしめ給わらん事を、
我が念頭に懸かるものこれあるのみ、
もちろん、マスコミが大いにもてはやした。大々的に公葬が行われ、天皇からの下賜金や贈位も行われた。
驚いたのは、山本政雄氏の筆の冷静・沈着さ。当時の軍国主義的風潮を肯定するところが微塵もない。艇長に共感を寄せるところすらまったくない。科学者が対象を見つめる、そのような冷厳な姿勢に徹している。
山本氏が共感を寄せていると思われる、加藤友三郎(呉鎮守府長官、後の首相)の以下の文章が引用されている。呉の神社の顕彰碑に遺言を刻することに賛成しがたいとする内容である。
「該遺書ガ一面世間より非常ナル同情ヲ得タルノ一大源因タリシハ申迄モ無之、眼前死ノ迫リツツアル如此場合ニ於テ該遺書ヲ認メタル艇長ノ慎重ナル態度ニハ何人モ異議可無之候得共、一面ニ於テハ遺書ヲ認ムル丈ケノ余裕アラハ先ツ艇ヲ浮揚クルノ手段ニ於テ尚ホ尽スヘキ事ハアラサリシカ、又該遺書ニあまり同情ヲ表スル時ハ将来如此場合ニハ先ツ以テ遺書ヲ認メ、然ル后ニ本務ニ取懸ルト云フガ如キ心得違ノ者ヲ生スルノ恐レハナキヤ(中略)永久的石碑ニハ何等アタリサハリナキ文句ヲ彫シ置ク方隠當ナランカト存候」(平仮名と片仮名の書き分けは原文のママ)
なんという徹底した合理主義であろうか。「遺言を書くヒマがあったら、最後まで脱出の努力をしろ」と言う。「このような遺書を持ち上げては、ヒロイズムから真似をする者が出ると困る」とも言うのだ。
事故の原因調査の査問委員会の経過も厳密に科学的に行われている。これには感心させられた。事故調査は佐久間艇長の人物像を偶像化することをしない。その調査結果は、世間の雑音に耳を貸すことなく、容赦なく事故の原因にせまり、佐久間艇長の責任はすこぶる大きいとする。旧海軍には、このような合理主義的伝統があったのだ。山本政雄氏は、言外に自分もその潮流にあると言いたげである。
そして、読後に考えさせられた。この修身の軍国美談における精神主義と、査問における合理主義との落差についてである。軍事は、科学であり技術であるからには、精神主義では勝てない。しかし、精神主義の鼓舞までを計算に入れての旧海軍の軍国美談作りだったのだろうか。そして、今、自衛隊は山本氏のような合理主義派が主流に位置しているのだろうか。あるいは、精神主義派が圧倒しているのだろうか。
佐久間の遺書は、天皇への詫びであり、天皇への要望である。天皇への忠誠という徳目作りが、軍の統率という点で有効であったことが十分に窺える。旧軍の合理主義は、天皇というシンボルを操作することの効果を計算して、軍と国民の精神的な統合をはかっていたと言えるだろう。
では、いま、自衛隊の合理主義は、軍と国民の精神的統合を何に求めているのだろうか。私は、自衛隊存在の憲法適合性を根底から否定する立場だが、当の自衛隊がどう考えているかについて興味を持たざるを得ない。
自民党改憲草案のごとくに、再び「天皇を戴く国家」を目指すものではあるまい。今の日本において、天皇がそのようなシンボルとして有効性を持つとは考えがたい。では、代わって何を。国民・民族・民主々義・自由…。どれも、軍事的な意味での国民統合のシンボルたりうるとは到底考えられない。日の丸・旭日旗・君が代、しかり。本来、彼らが忠誠を誓うべきは日本国憲法であるが、さて‥。
最も合理主義的な思考は、軍事的な意味での統合のシンボルを不要とする結論だろうとおもう。軍事的な忠誠対象として何らかのシンボルを設定することを、積極的に拒絶する考え方である。それこそが、専守防衛に徹した自衛組織にふさわしいあり方ではないか。理念やイデオロギーを持った軍事組織としてではなく、純粋に合理主義的技術主義的な自衛組織に徹してこそ初めて国民の信頼を得る地歩を獲得することができよう。自衛隊の合理主義派は、そのように考えているのではないだろうか。その意味で、旧軍にこそ軍国美談がふさわしく、自衛隊に美談は一切無用である。
(2013年6月4日)
柏木新さま、著書をお送りいただきありがとうございます。しかも、ご署名と落款まで付けていただいて。たいへん面白く拝読させていただきました。
落語大好き人間の私は、「落語の歴史 江戸・東京を舞台に」が、東京民報連載中から充実した連載と注目して愛読していました。「好評連載」の惹句に偽りも掛け値もないことをよく知っています。
先年、たまたま東京民報の荒金編集長とお話しする機会があって、この連載を話題としたことがあります。筆者が同社のスタッフだと伺って驚きました。しかも、「話芸史研究家」の肩書だけでなく、護憲の落語を演じることもされるとか。世の中には、器用なお人もいらっしゃるものと感嘆しました。
この書は、江戸落語の通史として信頼できる力作だと思います。
鹿野武左衛門から江戸落語の始まりを説き起こし、江戸期の寄席や噺家の歴史を追って、明治期の円朝、珍芸四天王、三代目小さんと漱石に触れ、青い目の落語家や女流を語って、震災とラジオ放送開始のここまでが、いわば「歴史編」でしょうか。
後半の戦前編以後が「同時代史編」として緊張した内容になります。戦争を目前にした時代の落語の試練と、落語家の戦争被害の悲劇を描いて、戦後の平和のありがたさと庶民文化としての落語の再生が描かれます。志ん生、圓生、金馬、文楽、正蔵など、私にもなじみの名人上手が出てきて隆盛の時代を迎えますが、けっして順風満帆ではない。団体の分裂や席亭との軋轢など深刻な事態の経過も語られています。
その中で、愛好家がさまざまに落語をもり立てる努力を重ねていることが明るい話題として提供されています。これだけの歴史を重ねた落語はけっして柔なものではない、庶民とともにしたたかな生命力を持っている、そのようなメッセージが伝わってきます。
時代背景をしっかりと書き込み、「笑いの文化は平和であってこそ花開く」「時の権力に翻弄されながらも、したたかさを失わなかった」という観点からの落語の通史として本書は意義があるものと思います。そして、多くのゆかりの地の写真が、落語散策の手引きとしても好個の書となっています。
この書で、知らなかったことをたくさん教えていただきました。前半、圓朝の解説に相当の紙幅が費やされています。そこでは圓朝を持ち上げるだけでなく、政府の方針に迎合したこと、井上馨との交友が体制順応の傾向を加速させたことが的確に指摘されています。
私は、落語こそが近世以来の庶民文化の華だと思っています。反体制とまでいえずとも、少なくも「非体制」が真骨頂。圓朝の墓を探して初めて全生庵を訪れたときには驚きました。圓朝が、山岡鉄舟だの、井上馨だのという胡散臭い体制派人物と深く交流していたことを、そこで初めて知ったからです。天皇の「ご養育係」であった鉄舟も、三井などの政商と癒着していた薄汚い井上も、圓朝と明治落語の双方にとって疫病神でしかなかったと思っています。上品ぶらず、市井の人物のありのままを活写する、落語の伝統が生き続けてほしいものです。
ところで、私は、毎日欠かさず就寝時に名人上手のCDを聞いています。なんたる贅沢の極みと毎夜幸福感に浸っています。圓朝の録音は世にありませんが、漱石が「彼と時を同じくして生きているわれわれは仕合わせである」と言わしめた三代目小さんの「粗忽長屋」は手許にあります。もっとも、これを聞いても漱石の絶賛は理解できませんが。
そして、たまに鈴本や池袋演芸場に出かけます。プロの芸は凄い。いつも満足して帰ってきます。落語という庶民文化は確実に生きています。
いつか、貴兄の、護憲落語、九条落語、平和落語、民主落語、人権落語、革新落語、を聞かせてください。私も非才を顧みず、いつか憲法落とし話のシナリオ作りに挑戦してみたいと思います。
さらに、充実した次作を楽しみにしています。
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『後発白内障と「鎌倉権五?」』
2年前の真夏、黄斑前膜剥離術をうけた。眼球の網膜の中心部にある黄斑に細胞が増殖して膜がかかった状態になって目が見えにくくなる。厄介な症状ではあるが、その膜をはがす手術をすれば、視力が回復するということであった。
その手術のついでに白内障の手術もうけた。日常生活に適したレンズを入れてもらったので、眼鏡の必要もなくなり、物も鮮明に見えるようになり、室内のほこりが目について困るほどだった。しかし、左右の視力差が改善されなかったため、読書用と遠景用の2つの眼鏡を作ることにはなった。
ところが近ごろどうも、またまた物がよく見えなくなっているような気がしてきた。少しづつ進行する事態はどうも自覚しずらい。担当医師によると「後発白内障」で、年齢相応、平均的な発症状況だという。「2年前、白内障手術をした時、眼内レンズを入れるあたって、レンズを固定するため、水晶体の袋を残しておいた。その袋に徐々に混濁した細胞が増殖して、光を通さなくなったためものがすべて霞んで見えるようになっている。だから、レーザーでその袋の真ん中を破って、濁りのつく袋の部分を取りのぞく。そうすれば、もう再発はない。手術は痛みもないし、数分で終わる」とのこと。2年前の手術の時にも立ち会ってもらっているこの主治医には全幅の信頼をおいている。即、レーザーによる手術をお願いする。
目の玉の手術というのは不思議なものだ。2年前の剥離術の時は、さすがに局部麻酔をかけての施術だったが、手術の経過がすべて見えるのがおかしい。小さなピンセットが膜をはがそうとして、ガサガサさぐりまわり、膜の端をつまんで一生懸命引っ張る。麻酔は効いているけれど、それを見ているだけでひりひり痛くなる。
今回は、レーザーで何カ所かカットして、袋の膜を丸く(たぶん)切ると、サランラップのようなものがクシャクシャになって、目の下の方に落ちていくのが見えた。麻酔はしていないけれど、ひとつも痛くない。でもいい気分はしない。
ところで、鎌倉権五郎景政は16歳で、八幡太郎義家に従い、奥州後三年の役に出陣した(1083年)。戦いのさなか右目に矢をいられたけれど、敵を討ち取って帰陣した。このとき、味方の三浦為次が権五郎の顔を足で踏んで矢を抜こうとした。ところが、五郎は刀を抜いて「弓に当たって死ぬのは武士の本望だが、生きながら足で顔を踏まれるのは武士の恥辱である。おまえを切って自分も死ぬ」と言ったそうだ。為次は畏れいって謝罪し、膝をかがめて矢を抜いた。これを多くの者が賞賛し、権五郎は鎌倉党の要になった。今でも彼は鎌倉御霊神社に祀られている。
とうてい私は権五?の足元にも及びもつかないが、目の手術をする時は「かまくらごんごろうさま」と唱えることにしている。目の玉の中に落ちたサランラップがなくなるまで「飛蚊症」どころか「飛ゴキブリ症」になっているけど、「鎌倉権五?」のことを考えれば、たいしたことではないと思える。
(2013年6月2日)
風俗業活用発言と、飛田の料理組合顧問問題に限って、橋下徹の弁護士としての責任を考えて見たい。いずれも、売春防止法の視点からの検討である。
売春防止法第3条は、「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない」と定める。売春をすることも、その相手方となる(買春する)ことも、法は明確に禁止している。まずもってその原則を確認しなければならない。
なぜ、売春は禁止されているのか。
売春防止法の目的規定である第1条に、次の文言がある。「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、売春を助長する行為等を処罰する…」
法は、売春を
人としての尊厳を害するものであり、
性道徳に反するものであり、
社会の善良の風俗をみだすものである、
ととらえている。実定法上の定めだからそのように考えなければならない、というのではなく、よく考えぬかれた納得できる規定ではないだろうか。通常の感覚からは首肯するしかなく、反論はなし難い。
ここまでは分かりやすい。問題は、売春とはなんぞやにある。何が「法において禁止された売春」なのか。
同法は、定義規定である第2条で、「この法律で『売春』とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう」と定める。この定義は、かなり厳格なもので、禁止される売春は限定され、あるいは立証を困難としている。別の角度から見れば、悪智恵の発揮次第では脱法が可能となる。
売春防止法は、処罰を伴う特別刑法に属する以上、罪刑法定主義が貫徹されなければならない。したがって、処罰対象行為が厳格に定められることを要する。そのため、性交類似行為などという曖昧な概念を処罰対象としていない。そのことから、橋下の言う「風俗業の活用」論が出てくる。
「売春」とは性行為のみに限定される。たとえ、「対価を受けて不特定の相手方に性的サービスを行った」としても、性交を伴うものでない限りは売春にならない。売春でなければ犯罪ではない。だから大いに活用したらよい、との論法につながりうる。
橋本の言を朝日から引用すれば、次のとおり。
「だから僕はあの、沖縄の海兵隊、普天間に行ったときに、司令官の方に、もっと風俗業を活用してほしいっていうふうに言ったんです。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって」「米軍ではオフリミッツだと。禁止って言ってるもんですからね。そんな建前みたいなことを言うからおかしくなるんですよと。法律の範囲内で認められてるね、中でね。」「いわゆるそういう性的なエネルギーをある意味合法的に解消できる場所は、日本にあるわけですから、もっと真正面からそういう所を活用してもらわないと、海兵隊のあんな猛者の性的なエネルギーをきちんとコントロールできないじゃないですか。」
法は、売春の定義を厳格化した。犯罪の範囲は、限定されたものになった。
しかし、「性風俗産業における対価を受けて不特定の相手方に対してする性的サービスの提供」は、性交を伴わないものとはいえ、
人としての尊厳を害するものであり、
性道徳に反するものであり、
社会の善良の風俗をみだすものである、
とは言えないだろうか。通常の感覚からは首肯するしかなく、反論はなし難い。
売春防止法は、売春の助長行為を犯罪とする。風俗業活用の勧めは、確かに売春の助長行為でない。しかし、「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだす」行為の助長ではないのか。犯罪でないことは当然としても、弁護士としての品位にもとる行為というべきではないか。
弁護士法56条は、「職務の内外を問わずその品位を失うべき非行」を懲戒事由としている。性風俗産業の活用を勧めることは、売春を勧めたものではないにせよ、懲戒事由たりうる。橋下の「僕は政治家の立場として発言した。懲戒請求権の乱用で、政治活動に対する重大な挑戦だ」は、噛み合わない反論である。法が、職務の内外を問わずと明定しているのだから、問題は「品位を失うべき非行」にあたるか否かの判断に尽きる。
その際、「風俗業」の所管法である「風俗営業等取締法」の立法趣旨をも勘案すべきであろう。
同法は、「本法の風俗営業は、風俗犯罪の予防という見地を特に入れて、これに関係あるものに範囲を限った。風俗犯で最も実質的内容をなすものは、売淫と賭博であって、こうした犯罪がこの種の営業にはとかく起こりやすいので、これを未然に防止するために、防犯的な見地からこの種の営業を規制する」(立法時の政府説明員の委員会答弁)との見地からの立法である。
橋下の発言は、人としての尊厳を蹂躙する行為の勧めであるだけでなく、「直接に売春を勧めてはいないが、とかく売春に陥りやすい風俗業の活用を積極的に勧めた」点でも、品位に欠ける発言というべきである。
ところで、飛田新地の営業の実態は、性交を伴う点において売春の要件を具備している。となると、橋下が顧問をしていたという料理組合加盟の各「料亭」には、売春の場所の提供者として以下の各条の犯罪該当行為があったことになる。
第11条(場所の提供) 情を知つて、売春を行う場所を提供した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
2 売春を行う場所を提供することを業とした者は、七年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
第12条(売春をさせる業) 人を自己の占有し、若しくは管理する場所又は自己の指定する場所に居住させ、これに売春をさせることを業とした者は、十年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
飛田新地の営業を「売春ではない」と強弁するためには、知恵を絞らなければならない。「性交との対価関係に立つ対償の授受がない」「金銭の授受はあったが、それは料理の対価に過ぎない」「不特定の相手方との性交ではない」「場所は提供したけど売春が行われるなどの事情は知らなかった」…などという苦しい言い訳をしなければならない。形ばかりの料理を出して、料亭、料理屋、料理組合などと称する必要も出てくる。顧問弁護士の役割は、そのような智恵を求められての法的アドバイスであることが推認される。あるいは、警察の取締りへの牽制の役割を期待されてのことなのかも知れない。
いずれにせよ、彼が飛田料理組合顧問の時代に飛田の営業態様が抜本的に変わったとの話しを耳にしない以上は、
法が禁圧する売春を覆い隠し、
売春を持続させることによって、
人としての尊厳を害する営業を助長し、
性道徳に反する行為を助長し、
社会の善良の風俗をみだすことを助長した、
と認定される可能性が極めて高い。
犯罪者も違法業者も弁護士の法的助言を受けることができる。弁護士も犯罪者や違法業者に法的助言をすることができる。しかし、犯罪を隠蔽し助長する内容の助言については、この限りでない。弁護士は、依頼人の正当な権利の実現には誠実に努力する義務を負うが、違法、不当な目的に利用されてはならない。法の抜け道を探すことが弁護士の仕事であってはならないのだから。
(2013年6月1日)
「日本維新の会の幹部が、『大戦当時は公娼制度があって、慰安婦は合法の存在だった』と言っています。これについてご意見を伺いたい」
先日、IWJの憲法鼎談のさなかでの突然の質問。「当時の売春に関する法制度についてはまったく知らない。制度がどうであろうとも、女性の自由を奪って性的サービスを強要することが許されるはずがない」としか答えられなかった。で、少し調べてみた。以下の出典は主として、「注解特別刑法7『売春防止法』」(青林書院新社・佐藤文哉著)。
江戸期の遊郭制度は、「傾城町の外傾城屋商売致すべからず」(1617(元和3)年幕府掟書)として、一定地域(傾城町)の公娼を認めるとともに、それ以外の私娼による密売淫(傾城屋商売)を禁止するものだった。明治期になって、人身売買としての売春を禁ずる1872(明治5)年の芸娼妓解放令(太政官布告)が発せられたが、基本的に遊郭制度はそのまま維持されたという。
1900(明治33)年内務省令として「娼妓取締規則」が制定され、敗戦まで制度を形づくる根拠法となった。「大戦当時の公娼制度」はこの行政法規に基づく以外にない。
この法規は、いわば、「売春の登録制である」という。娼妓を所轄警察官署に備え付けた名簿に登録して警察の監督に服せしめる。娼妓への監督は次のように徹底している。これでは、まさしく「籠の鳥」である。
「第七条 娼妓は庁府県令を以て指定したる地域外に住居することを得ず
娼妓は法令の規定若くは官庁の命令により又は警察官署に出頭するが為め外出する場合の外警察官署の許可を受くるに非ざれば外出することを得ず但し庁府県令の規定に依り一定の地域内に於て外出を許す場合は此限に在らず」(原文はカタカナ)
そして、重要なことは、売春営業(娼妓稼)の場所が「貸座敷」内に限定されての公許であること。
「第八条 娼妓稼は官庁の許可したる貸座敷内に非ざれば之を為すことを得ず」
つまり、公許の売春は、「公許された貸座敷における、登録された娼妓の娼妓稼」に限られ、それ以外の「密淫売」は、違法であって警察犯処罰令で「30日未満の拘留」に処せられた。
軍慰安所の始まりは、第一次上海事変(1931年)の際に海軍が作ったものとされる。陸軍は翌年これを追った(吉見義明「従軍慰安婦」)。しかし、これが「官庁の許可した貸座敷」において「登録された娼妓の娼妓稼」としてなされたものとは考えがたい。少なくとも、内務省令「娼妓取締規則」は戦地における遊郭制度・公娼制度を想定してはいない。前記「注解特別刑法」における「売春防止法の沿革」の記事も、戦時における記載は一行もない。
戦争の激化と戦線の拡大に伴って、中国のみならず東南アジア、南方各地に広がった軍や軍周辺の慰安所が、「娼妓取締規則」に則ったものとしての合法性を獲得した公許の営業であったはずはなかろう。
日本維新の会の幹部が、「大戦当時は公娼制度があった」というのは、そのとおりである。しかし、その「公娼制度」でさえも売春一般を合法としたものではない。むしろ、警察的取締りと監督の制度を整えて、監督に服する公許の売春のみを合法とした。公許されていない売春一般は、違法であり犯罪であった。
「大戦当時は公娼制度があって、慰安婦は合法の存在だった」は、明らかに間違い。「公許の貸座敷で、登録娼妓が稼働していることを資料をもって立証できた限りにおいて、合法」の存在だったのだ。
なお、念のために付言しておくが、仮に当時は「合法」だったとしても、人倫において許されるものではない。また、刑法典においても、当時日本が加盟していた国際条約においても、強制を伴う売春が違法であったことは言うまでもない。
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『梅雨とアジサイ』
5月29日、関東地方が早々と梅雨入りした。もっとも、65年には5月6日梅雨入りという記録もあるそうだから、驚くほどではない。天保年間の随筆には「花葵の花咲きそむるを入梅とし、だんだん標(すえ)のかたに花の咲き終わるを梅雨の明くるとしるべし」とあるそうだ。子どもの頃にはあちこちでよく見た「タチアオイ」の花が、下の方から上の方に、だんだんに咲き上がっていくあいだが梅雨だといっている。今では「タチアオイ」を見るのは難しい。2メートル以上にまで丈高く育つので、狭い場所向きではないからだろう。そういえば「カンナ」も見なくなった。「ヒマワリ」も30センチほどの丈でで花をさかせるように改良されてしまった。陽の当たる広い庭がなくなり、植えられる植物の流行も変わってしまった。
変わらぬものもある。梅雨に付きものの「アジサイ」だ。あちこちの垣根の隙間から顔を出している。今は早咲きの「ヤマアジサイ」系が咲いている。全体に小ぶりで、茎も細く、せいぜい1メートルぐらいにしか育たない。花は真ん中に粟粒のような両性花をこんもりと付け、そのまわりに四弁の装飾花がちらばり、径10センチくらいにまとまる。ブルーか薄いピンクで、いかにも風通しが良さそうで、涼しげである。
本格的な梅雨時になると、「ヤマアジサイ」を一回り大きくしたような「ガクアジサイ」が咲き始める。装飾花も大きく、茎や葉もがっちりして、背丈も2メートルほどにもなる。公園などに広く植えられている、ブルーがかったボールのような、いわゆる「アジサイ」も色づいてくる。「アジサイ」には両性花はなく、装飾花だけが集まって、手まりのようにまるく咲く。咲き進むにつれて、色が七変化するので、見飽きることはない。
西洋で品種改良されて、日本に里帰りした西洋アジサイ(ハイドランジア)にいたっては、「アジサイ」とは別物のような豪華絢爛さだ。「ガクアジサイ」の粟粒のような両性花を人工授粉して、品種改良する。 毎年新しい花が園芸カタログに紹介されている。時々、庭にアジサイの実生がはえていることがある。花の咲くまで四,五年待ってみよう。びっくりするような花が咲くかもしれない。とにかくアジサイ類は種類が多いので、欲張りな私でも、集めようという気力がわかない。
そんななかで一番のおすすめは、草と木の中間のような「ヤマアジサイ」系だ。日陰でも、数多くは望めないが、かならず花を付ける。花は雨に打たれてもしっかり形が保たれて、次第に変わる色の変化が楽しめる。秋までほうっておけばドライフラワーが出来る。ほとんど害虫がいない。元々小ぶりなので、小さく育てられる。湿度の高い少々日当たりの悪い都会の庭にピッタリだ。水を切らさないように注意すれば、鉢植えでも花を咲かせられる。日当たりのよい場所に置けば、花がたくさんつく。香りがないのもかえってサッパリしていい。
ブルーの小ぶりの花の爽やかさは、梅雨時のうっとうしさを振り払ってくれる。うっとうしさは梅雨時だからというだけではない、モヤモヤとした世の中の、先行きの見えないうっとうしさの中で、この花は鬱屈した気分を慰める清涼剤となってくれている。
(2013年5月31日)