澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

9条改憲を許したら‥こんな泥沼の戦争に

自民党憲法改正草案における9条改憲の大目標は国防軍の創設だが、これと並んで集団的自衛権容認がある。具体的には、アメリカの戦争に日本の軍隊が加担できるようにすることだ。そのアメリカの戦争の実態を『勝てないアメリカー「対テロ戦争の日常」』(大治朋子著 岩波新書)が懇切に教えてくれる。

09年毎日新聞の取材で、アフガニスタンの米軍基地を訪れた著者は、米軍の中尉とともに厳重な装甲車に乗ってパトロールに出かける。基地から8キロメートルぐらい離れた時、「突然座席の下から巨大なかなづちで一撃されたような衝撃を受けた」。持っていたカメラもノートもペンも散乱し、背中に激痛が走る。結局、けが人は出なかったが、装甲車は大破していた。「わずか10ドルほどのIED (手製爆弾)が、4800万円以上の米軍の最新鋭の装甲車を一瞬にして破壊し、部隊全員を不安に陥れる。立ち往生させ、待ち伏せ攻撃の可能性に何時間も緊張を強いられる。基地に戻ったのは爆発から7時間後だった」「「持たざる者」が、「持てる者」を振り回す。小さな蜂の群れが、巨象を襲う。それがこの戦争の日常だ。これが非対称の戦争なのだ。」

装甲車の防備も、兵士のボディアーマーも格段の進歩を遂げた。戦場での医療も手厚い。以前の戦争なら確実に命を落とした爆弾攻撃でも、いまでは兵士は生き延びる。ところが、新たな傷害、PTSD(心的外傷ストレス障害)やTBI(外傷性脳損傷)が兵士を蝕む。外見は元気に帰還した若者たちが長期にわたって、こうした「見えない傷」で苦しんで、療養を強いられる。09年、米国防総省はイラクやアフガンに派遣された米兵180万人のうち、約1?2割(18?36万人)がTBIだと発表した。退役軍人省によると帰還兵の治療や保障に02年?10年までの間に費やした費用は60億ドル、帰還した兵士が急増した10年1年間で20億ドルということだ。

戦争の非対称性の象徴が、戦争のゲーム化だ。米国本土から遠隔操縦される、無人飛行機・プレデター(捕食動物) やリーパー(死神)がイラクやアフガンの上空を飛び回り、偵察し、爆撃する。ハリウッド映画のような罪悪感を伴わない「テロリストとの殺人ゲーム」。必然的に引き起こされる、誤爆や民間人殺害。これらは時と場所によっては、民間戦争請負会社やCIAの職員が肩代わりする。米軍の責任回避に都合がいい。「兵士の戦死という犠牲があるからこそ、米国はこれまで国民も政治家も、戦争には慎重になってきました。多数が死傷すれば、派遣に賛成した議員は選挙で負けるからです。けれどもパキスタンでの空爆は(米兵が死なないので)米議会で審議されず、戦争という認識さえ持たれていません。これは無人機戦争の拡大が生み出した民主主義社会の破壊です。」(ブルッキングス研究所研究員ピーター・シンガー氏の弁)

イラク・アフガン戦争の関連出費は4兆ドル。米兵と治安部隊の死者3万人。民間人と武装勢力死者25万人(ブラウン大学ワトソン研究所試算)。「米国がこれほど莫大な戦費と人命をかけたにもかかわらず、両国は安全になったのか、テロの脅威は消え去ったのかといえば、決してそうではない。テロ事件はなお続き、多くの市民が犠牲となっている」「責任ある終結」など容易に出来はしない。

オバマ政権は11年にイラク戦争の終結を宣言し、部隊は撤退した。14年にはアフガン戦争の終結をしようとしている。しかし、アフガンのカルザイ大統領は、5月9日、14年以降も米軍が国内基地9カ所での駐留継続を要求していると演説している。米国がひっくり返したびっくり箱からテロリストが世界中にばらまかれてしまった。11年1年間に起きたテロ事件は世界70カ国で1万283件、犠牲者は1万2533人にのぼると、米国務省が発表している。

「多数の人命と莫大な戦費、膨大な時間を使い果たしてもなお勝てないアメリカの現実だ」とこの本の著者は結論づけている。

さて、日本では憲法改定論議が盛んだ。目標は9条を変えて、米国と一緒に戦争できる国にすること。9条改憲で国防軍を持てば、自衛の範囲にこだわらずに世界の各地でアメリカの下請けの戦争ができる。あるいは集団的自衛権行使を可能とすれば、アフガンでもパキスタンでもアメリカと一緒に戦闘が可能だ。しかし、どう考えても、こんな無責任で危険な米国と組んで、泥沼のような戦争をしてはいけない。蟻地獄のような戦争に引きずり込まれてはいけない。自分の首が回らないのに、これ以上の借金を重ねて貢いではいけない。そしてなにより、大切な若者たちを大義のない、果てしもない戦場に送ってはいけない。

96条改憲批判ーその8          橋下徹はアウト、96条改憲もアウトだ

本日は私的な慶祝の日。5年前の春、肺がんで右肺上葉摘除手術を受け、以後5年にわたって経過観察の通院受診を続けた。本日が、その5年の執行猶予期間満了の日。

通い慣れた「つくばエクスプレス線」で、「柏の葉キャンパス」駅下車。ここからバスで、国立がん研究センター東病院に。血液採取と画像撮影の後2時間近い待ち時間。主治医の永井完治医師から、晴れて「転移、再発はありません」「手術対象の肺がんは治癒したと考えて結構です」との快癒宣言。もう、次回通院の予定はなくなった。お世話になった永井医師にはただただ感謝あるのみ。

5年前に、その永井医師からの「肺がん宣告」だった。「外科的治療ができるから大丈夫」と勇気づけられはしたものの、がんの宣告を受けるのはつらい。当事者の立場になってみないと、その辛さは本当には分からない。私も長年、「弁護士としての最も大切な資質は、他人の悩みへの共感能力だ」と言ってはきた。そのような弁護士たらんと広言もしてきた。しかし‥、実は言ってはみたけれど、実践できたわけではない。

これまで、全て患者側で医療過誤訴訟を数多く手がけてきた。自分自身が、がんの宣告を受けて不安な気持ちで手術を受けて、ようやく少しは依頼者の辛い気持ちを理解することができるようになったかと思う。日の丸・君が代強制に承服できないとして、孤立しながら不起立を貫く教員の心労。会社への批判的言動故の配置転換から解雇に至った労働者の悔しさ。つくづくと、その立場に陥った人の辛さを理解し共感することの難しさを痛感している。いじめられた人の辛さは、いじめた側にも傍観者にもなかなか本当には分からない。

このような弱者への共感能力の欠如は、政治家にとっては致命的な欠陥である。その典型が、石原慎太郎と橋下徹。いずれも、共感能力の不足と言うよりは、共感しようという姿勢そのものが欠如している。

一昨年の東日本大震災の直後、私は石原の「震災は天罰」発言に怒り心頭に発して石原批判のブログを書きつづった。下記のリンクをぜひご覧いただきたい。
http://www.news-pj.net/npj/sawafuji/index.html
そして、今また、「慰安婦は必要」「沖縄の風俗業を活用せよ」と言った橋下徹に同じ批判を浴びせねばならない。

橋下は、自らの品性が下劣なことを売り物にしている稀有な「政治家」である。「本音」を語って、同類から喝采を得ることが彼の支持獲得の手法である。きわどく、あざとい発言を続けることなしには彼の政治的支持基盤を維持しえない。いわば、問題発言の永久運動を強いられている存在なのだ。

しかし、今回は、きわどい球を投げたつもりが、恐るべきビーンボールとなった。これまで橋下に擦り寄った同類も、橋下の近くにいることの危険を覚らざるを得ない。女川で住民の声として聞かされたあの言葉がよみがえる。「これまでは原発に喰わせてもらっているとの思いがあったが、今は原発に殺されるのではないかと心配だ」。原発を橋下に置き換えなければならない。「これまでは橋下人気にあやかれるとの思いがあったが、今は橋下と一緒と思われては自分までも沈没だ」。もっとも、たったひとりの同志がいるようだ。石原慎太郎という同じ穴の生き物。

本音を語って、正体をさらけ出したことによって、橋下は全女性を敵に回した。全沖縄を敵に回した。韓国・朝鮮・中国・台湾・フィリピン、シンガポール・マレーシア・インドネシア・ベトナム・オランダ‥等々の諸国を敵に回した。米欧を中心とする国際外交のすべてを敵に回した。そして、真面目に歴史を考え、真面目に人権と政治を考えるすべての人からの指弾を覚悟しなければならない。

ときあたかも96条改憲論議のさなかである。安倍自民が96条先行改憲を打ち出したのは、明らかに党外勢力としての維新が96条改憲に熱意を有していたからである。そして、その維新が2012年12月総選挙で「躍進」を遂げたからである。公明党に代わる維新という応援団あっての96条先行改憲路線であった。

このような人物が推進する96条改正。それが実現したあとに何が待ち構えているのか。橋下の言動が如実に語っている。戦争への無反省であり、歴史の修正であり、人権の否定であり、外交感覚欠落の非国際協調主義であり、沖縄の現状固定化であり、なによりも不真面目極まりない政治である。

96条先行改憲の推進力であった維新・橋下の品性の下劣さがここまで明らかになり、橋下へのアウト宣告は、96条改憲へのアウト宣告でもある。こんな人物に、大切な憲法をもてあそばれてたまるものか。

96条改憲批判ーその7          このワンフレーズを使いこなそう

「リベラル21」というインターネットメディアに、原水禁運動などの論評で高名なジャーナリストの岩垂弘さんが、「憲法記念日の社説を点検する」という記事を掲載している。

岩垂さんは国会図書館で、5月3日付の一般新聞53紙を閲覧した。そのうち46紙が憲法記念日にちなんだ社説を掲載しており、いずれも96条改定問題を論じていた。「その論調を大まかに分類すると『改定賛成』が6紙、『論議を深めよ』といった、いわば中立的な立場が5紙、『改定反対』が35紙であった。つまり、『改定賛成』13%、『中立』10%、『改定反対』76%という色分けだった」という。読売、産経は、この13%の少数派にはいることになる。

岩垂ブログはこれで終わらず、96条改定反対派の理由を次のように3分類できると整理している。
(1) 立憲主義を覆す、という反対論
(2) 本当の狙いを隠している、という反対論
(3) 96条改定より先にやるべきことがある、という反対論

一読に値する。ぜひ参照していただきたい。
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2376.html

※ ※ ※
岩垂さんの報告を見ても、96条改憲の目論みが改憲勢力の思惑外れになりつつあることは明らかだ。しかし決着はまだ先のこと、批判の手を緩めてはならない。
私なりに、使えそうな「96条改憲批判・ワンフレーズ」を集めてみた。それぞれで補強し、工夫して、これを使いこなそう。

岩垂さんに倣って、3分野に分類してみる。
(1) 96条改憲は立憲主義を覆す
 「96条改憲は、憲法を憲法でなくする禁じ手だ」
 「96条改悪は、憲法を壊す道」
 おそらく、この二つが王道。

 「96条改定は、形式や手続きだけでなく憲法の根幹を根こそぎ変えてしまう」
 立憲主義を語るきっかけのフレーズに。

 「憲法は硬いところが値打ち」「軟らかい憲法は憲法ではない」
 硬性憲法の理念を語るきっかけに。

 「96条改正を許せば、全ての憲法原則が壊れる」
 「96条に穴が開くことは、憲法の土台を崩すこと」
 「ときの政権が96条改憲を言い出すなんぞ、本末転倒も甚だしい」
 
(2) 本当の狙いを隠している
 「国民を欺いてはならない」
 「正々堂々とやれ」
 「卑怯・姑息・汚い」
 「裏口の手口」
 「敵は本能寺ではないか」
  ‥‥まだまだあるだろう。

 「入り口は96条(改正)で、出口が9条(改正)」
 「96条改憲の先に、9条改憲が待ち構えている」
 「96条から手をつけて、9条改正に至る」
 「表は96条、裏は9条」

 「気をつけよう。くらい夜道と96条改憲」
 「『手続くらい変えたって』甘い言葉に毒がある」
 「うっかり信じちゃ泣きをみる。振り込め詐欺と96条改憲」
 「96条の一穴は、平和と人権と民主々義を押し流す」

 「何を変えるかを論じずに、変え方だけを論じるのは奇妙奇天烈」
 「中身の合意を棚上げして手続だけ緩めるのは、不毛の混乱を招くばかり」
 「嫁さんの顔を見せないで、ともかく結婚しろというが如し」
 「改憲の狙いを明らかにしないのは、裏があるからだ」

(3) 96条改定より先にやるべきことがある
 「改憲より復興を」
 「どさくさに紛れた改憲策動に反対する」
 「災害便乗の改憲を許すな」
 「改憲ではなく、今こそ憲法の完全実施を」

いずれ、増補改訂版を掲出したい。

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 『万緑の季節』
 いつの間にか万緑の季節になってしまった。高い木も低い草もわれもわれもと競い合って、空間の奪い合いだ。遠慮会釈なく生命を謳歌している。万緑の下で、植物たちはとにかく忙しく自己増殖に励んでいる。おかげで我々は呼吸も出来るし、野菜や果物や穀物をいただけるという仕組みになっている。人間は圧倒されて、若者だって「五月病」で元気が出ない。
 あんなに潔く散ったソメイヨシノはしっかりと小さな緑色の実を付けていて、それが赤から黒紫に変わる頃には小鳥がうるさいほど群がる。サクランボほどではないけれど、甘くて人間が食べたって美味しい。
 タンポポは盛んにヘリコプターのような種を無数に飛ばして、どんなコンクリートの隙間にだって着地したら根を張らずにはおかない構えだ。ぺんぺん草も長く伸びた花軸に小さな三味線のばちのような種をつけて、風にさらさら鳴っている。カラスノエンドウもレンゲ草も小さな鞘の中に豆を作って大事そうに抱えている。
 その種について、「園芸家12ヶ月」(カレル・チャペック著)の5月の園芸家より。
 「どの園芸書にも「苗は種から育てるにこしたことはない」と書いてある。・・まいた種は一粒もはえないか、全部はえるか、どっちかだ。これが、つまり、自然の法則なのだ。・・種を一袋買ってきて、まき鉢にまき、種が美しく芽生えるのをたのしみにしている。しばらくたつと移植の時期になる。園芸家はみごとに育った実生苗を鉢に170本もつくり、歓声をあげてよろこぶ。そして、種から育てるのがいちばんだ、と考える。やがて実生苗を地面におろす時期がくる。だが、170本のアザミをいったいどう始末したらいいのか。すこしでもすきまのある地面を、あますところなく利用したが、それでもまだ130本以上あまっている。あんなに丹精して育てたものを、いくらなんでも、ごみ箱にほうりこむわけにはいかない。
「どうです、アザミの実生苗があるんですがね、2,3本お宅でお植えになりませんか。」
「そうですか、植えたっていいですよ」
さあ、ありがたい。助かった。隣の主人は実生苗を30本もらい、いま、それを持って途方にくれ、庭のなかをさかんにあっちこっち歩きまわって、植え場所をさがしているあとまだ左側と、向こう側のお隣がのこっている。」
 ことほどさように、種の力は偉大なり。数だけでなく、時空をこえて、2千年後に芽をだす蓮の種さえあるのだから。

96条改憲批判ーその6          「樋口陽一さんは、こう語った」

昨日(5月11日・(土))の午後、日弁連の講堂で、久しぶりに樋口陽一さんの講演を聞いた。演題は、「国会・民意・反映ー憲法理論から問題を取りあげる視角」というもの。その中での、「憲法96条と民意」についての部分を抜粋してお伝えしよう。録音していたわけではない。斯界の権威の言の要約であるが、飽くまで私が理解した内容としてのものである。

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ある学者が、「ノーマル・ポリティクス」(通常の政治)と、「コンスティテューショナル・ポリティクス」(憲法政治)という言葉の使い分けをしています。その学者が各用語に込めた考え方はさておいて、この二つを区別した用語法だけに着目して転用すれば、「通常の政治過程における民意」とは区別された「憲法そのものに対面する場合の民意」というものを考えることができます。

ノーマルな民意は単純過半数をもって確定できるとしても、コンスティテューショナルな民意においては必ずしもそうはなりません。日本国憲法96条においては改憲の要件としての民意を単純過半数ではたりず、もっと厳格なものにしています。これは多くのデモクラシー諸国のとるところで、各別に日本国憲法が厳格というわけでもありません。

これを不当とする考え方もあります。「今日の国民が明日の国民を縛ってはならない」とするものです。しかし、この理はノーマルな民意についてはともかく、コンスティテューショナルな民意においてはあてはまりません。どうして、憲法はそのような自己制約の制度を採用しているのでしょうか。

まだ自民党が政権を取る以前のことですが、安倍さんは「たった3分の1を超える国会議員の反対で国民投票が邪魔されて発議できないのはおかしい。そういう横柄な議員には退場してもらう以外にない」という趣旨の発言をしています。この「横柄」という言葉に引っかかりを感じて確認しましたが、このとおりだったようです。

憲法改正の発議要件が両議院の3分2を要するとされているのは、3分の2の多数意見形成に至るまでとことん議論を煮詰めること、そこに至るプロセスを明らかにすることが国会の職責とされているということなのです。その国会の職責が全うされて初めて、国民のインフォームドコンセンサス(正確な情報を提供されたうえでの合意形成)が可能になります。憲法は、そのようにして、コンスティテューショナルな民意を形成するように求めているのだと考えます。

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 『小選挙区制の違憲論』
なお、樋口講演は、日弁連と東京3会が共催した「国会は民意を反映しているか」というシンポジウムの基調講演。当然に小選挙区制が議論の中心テーマだが、小選挙区制の功罪や憲法論に焦点が集中せず、よくいえば幅広い視野からの議論、遠慮無くいえば、消化不良のぼけた印象の議論に終わった。

この日私が、「質問・意見書」に記載した内容を少し整理して記載しておきたい。時間がないとして、結局は読み上げてはもらえなかったのだから。
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私が、「一票の格差訴訟」判決を評価するのは、選挙制度の設計における国会の裁量の幅が意外に小さいものであることを大法廷が確認したことにおいて。この判断の射程が、小選挙区制といういびつな制度設計の合理性判断にどう及ぶか、それが関心事である。

パネルディスカッションにおいて、五十嵐仁さんが政治学的立場から明らかにされた小選挙区制の不当・不合理は極めて説得的で反論はなしがたい。これを憲法論として考察する場合には、選挙制度としての合理性の問題と、選挙民の基本権侵害という両面からとらえる必要がある。

とりわけ不足している議論が、基本権としての参政権の平等性侵害の議論。今回の総選挙では、小選挙区制に限っていえば、自民党へ投票した有権者数は2564万3309票、これで237議席を獲得してるから、自民党投票者は、10万8000人で1議席を獲得している。一票の議席反映価値は、その逆数つまりは11万分の1になる。ところで、日本共産党の立候補者は小選挙区で470万0289票を得ているが、全て死票となって1議席の獲得にも結びついていない。「11万票で1議席」対「470万票で0議席」である。

これは、憲法14条にいう「信条による政治的差別」に該当し、平等原則に違反するといわざるを得ない。この不平等を合理化する憲法上の対抗価値がありうるか。唯一考えられるのは、選挙制度設計に関する立法の裁量である。しかし、「一票の格差判決」で示された、「居住地域による一票の格差」を合理化しないとされた国会の裁量が、支持政党の如何における一票の格差を合理化するものとは到底考えがたい。

もう一つ、小選挙区という選挙制度設計が基本権に及ぼす影響について指摘したい。いわゆる小選挙区効果といわれる現象がある。当選を争うとされる政党に投票が集中するということだ。選挙民の側から見ると、少数しかとれないと予想される政党の支持者が、心ならずも、当選可能な他党候補者に投票を余儀なくされることである。共産党の支持者が、無念ではあるが、自民や維新よりはマシな民主党候補者に一票を投じるということは現実にあり得ること。他のより合理的な制度設計が可能であるにかかわらず、このような自らの思想に反する投票行動を余儀なくさせる選挙制度の設計は、憲法論的にいったい何をもって合理化されるだろうか。端的に、憲法19条違反というべきではないだろうか。

いずれにせよ、小選挙区は罪が深い。選挙制度の設計として最悪というだけでなく、選挙民の参政権の平等や思想良心の自由を侵害する。

蔓延する「自己規制ファシズム」「従順ファシズム」

「毎日」5月9日夕刊で、辺見庸さんが「息苦しさ漂う社会の空気」と題して次のように述べている。

「ファシズムとは・・独裁者の言葉に突き動かされるのではなく、そんたくや自己規制、自粛といった日本人の『得意』な振る舞いによって静かに広がっていくということだ。」

「銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」

「80年代までは貧者が増えれば階級闘争が激しくなると思われていたけど、今は彼らがプロレタリアートとして組織化され立ち上がる予感は全くない。それどころか保守化してファシズムの担い手になっている。」

大いに同感。同時に、私自身にも思いあたることとして耳が痛い。
先日図書館回りをして、各館に掲示の「図書館宣言」を写真に撮ってきたときのこと。「撮影させていただきます」と形式的にひと言挨拶したつもりが、「はい、どうぞ」とはならない。みんな口を揃えて、「責任者に聞いてきます。」となる。そして、館長のお出まし。
「どうして自分で判断できないんだろう」と友人に不満を言うと、「それはあなたが責任をスタッフに押しつけたからだよ。黙って撮ればいいのに」と指摘された。なるほど、おっしゃるとおり。文句を言われたら、もめたら嫌だからという気持ちが自分にもあった。プライバシー権や肖像権を尊重しますという、常識人を演じたかったからでもあった。

このごろつくづく、人の集まるところに行きたくない。先日、新宿御苑にお花見に行ったら、持ち物検査をするのでバッグを開けろという。東京都庁へ行って、展望台へ行こうとしたら、ここでもだ。当然抗議した。ガードマンと言い合いをするのは覚悟の前だけれど、周りの一般人からも胡散臭い顔をされ迷惑そうにされる。どうして、みんなそんなに従順なんだ。

国民栄誉賞授与式の行われた、東京ドームもこの手のことを徹底してやる。金属探知の身体検査までする。国民栄誉賞なら、それに文句がある人が爆弾を持ってくることの疑いも分からないではないが、「ラン展」でも「キルト展」でもの厳重検査はわからない。女性のハンドバッグを覗きたいのかしらと思う。時には「君が代」に付き合えとまでも。何の権利があってこんな理不尽な目に遭わせることが出来るのか。しかも多くはたいそうな料金をとってのこと。この理不尽を成り立たせているのが、不気味なみんなの従順さ。だから私は人の集まるところには行きたくないのだ。

「自己規制ファシズム」とは、「従順ファシズム」「良い子シンドローム」でもある。「抵抗の美徳」を再確認しよう。

辺見庸さんにひと言の異論。「昔は気持ちの悪いものは気持ち悪いと言えたんですよ」とのご意見ですが、はたしてそうでしょうか。昔からこの国では、はっきりとものが言えなかったし、そのことが「美徳」で、「得意」でもあったのではないでしょうか。

漱石大先生でも「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」とおっしゃっているではありませんか。

もっと古い例を探せば、
「方丈記(第7節)」には、「世にしたがへば、身、苦し。したがわねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき。(世間の常識に従えば、納得しがたいこの身が苦しい。さりとて、従わなければ常識外れと激しいバッシング。いったい、どこでどうすれば、心が安まるだろうか)」とあり、

また、「徒然草」(75段)には、「世にしたがへば、心、外の塵に奪われて惑い易く、人に交われば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心に非ず。(社会的同調圧力に身をまかせれば、自分自身を失ってしまう。人と上手に付き合おうとすると言葉一つにも相手の意向を気遣いしなければならない。自分の心のままに語ることなんてできっこない)」とあるとおり。

96条改憲批判ーその5          衆院憲法審査会・笠井亮意見に共感

5月9日の衆院憲法調査会で、焦点の96条改憲問題が議題とされ、各党の意見が表明された。日本共産党の笠井亮さんの意見の全文が、本日の「しんぶん赤旗」第2面に掲載されている。見出しは、「96条改憲 根本精神を否定」。よく練られた完成度の高い内容で、審査会でのこれからの論議は、この笠井意見を軸にして行われざるを得ない。96条改憲問題に関心を寄せる全ての人に熟読していただきたいと思う。

その全文は、既に赤旗ウェブ版にアップされている。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-05-10/2013051002_04_0.html)
それをお読みいただくこととして、要約をご紹介したい。但し、赤旗の掲載記事は、編集の都合だろうが、必ずしも小見出しの付け方が適切とは言いがたい。私なりに整理しての笠井意見紹介である。

『笠井亮委員意見要約』
※96条は立憲主義の表れ
 近代の立憲主義は、主権者である国民が、その人権を保障するために、憲法によって国家権力を縛るという考え方に立っています。ですから、憲法改定の要件も、ときの権力者に都合のいいように改変することが難しくされています。日本国憲法でも、圧倒的な賛成が得られて初めて、国民に承認を問えることにしているのです。
 96条の改定は、単なる「手続き論」や「形式論」ではなく、憲法の根本精神を否定するもので、憲法が憲法でなくなるという「禁じ手」なのです。ましてや、ときの政権がこれを求めるなど、本末転倒といわなければなりません。

※96条改憲の真の狙いは9条改憲
 なぜいま、96条改定か。その狙いが9条改憲にあることは明白です。
 9条改憲に向けてハードルを低くする、あるいは、国民に改憲の体験を積ませることで改憲に「慣れ」させる。このような姑息なやり方は、国民をあざむくものと言わなければなりません。

※96条改憲正当化根拠への反論
*日本国憲法は、「世界でも特別に変えづらい」「諸外国と比較して厳しすぎる」という主張がありますが、事実に反します。多くの国で共通しているのは、一般の法律の制定・改正よりも厳しい規定が設けられているということです。国民主権と立憲主義の要請によるもので、日本だけが特別に憲法改定が難しい国などということは、まったくありません。
*「国会が過半数で発議したとしても、国民投票がある」という主張もありますが、国民投票で判定できるのは、国会が発議した改憲案に賛成か反対かだけであって、国民が憲法改定案の内容を変えられるわけではありません。だからこそ、国会の発議は、熟議の結果、国会の圧倒的多数が合意しておこなう必要があるのです。
*「諸外国では改憲が頻繁に行われており、日本国憲法は時代に合わなくなっている」などという主張がありますが、日本国憲法は、9条をはじめ、基本的人権でも世界に誇れる先駆的な内容をもっています。先駆的で豊かな内容をもっている日本国憲法だから国民は改憲してこなかったのであって、ハードルが高いからではありません。

※改憲ではなく、憲法の完全実施を
 今日、憲法問題で問われていることは、改憲ではなく、9条をはじめとする憲法の平和的、民主的条項の完全実施をはかるとともに、憲法の全条項を守り抜き、どう生かすかです。

※96条改憲反対の国民的共同を
 憲法96条改定を9条改定の突破口として押し出す動きは、いま、9条改定の是非をこえて多くの人々からの批判を広げています。日本共産党は96条改定反対の一点で、国民的共同を広げ、改定を許さないため力をあわせるものです。

笠井意見については、ぜひ次のように語りたい。

★国会の憲法審査会での憲法改正の是非をめぐる議論が話題になっているね。
☆衆参両院に憲法審査会が設置されている。参院の方は選挙を目前にして、ほとんど審議は進んでいない。これに比して、衆院の方は、昨年末の総選挙で大勝した自民党の主導で一気呵成の勢いだね。

★改憲派、護憲派入り乱れてたいへんだろうね。
☆実は、「入り乱れる」という状況にはほど遠い。国会の議席は国民世論の分布を反映していない。50人の審査会委員のうち憲法改正阻止を明確に掲げる委員は、日本共産党の笠井亮さんたったひとりなんだ。

★そういえば委員の名簿の中に社民党の議員の名前がないね。
☆前回総選挙で5議席から2議席に後退した社民党には、委員の割り当てがなかった。笠井さんが孤軍奮闘せざるをえない。

★そのような勢力関係で、自民党が96条先行改憲論を目論むようになったのはどうしてだろう。
☆安倍自民は、世の中にある「憲法は古くなった」「そろそろ変えても良いんじゃない」という漠然としたムードが利用できると読んだのだろう。具体的に憲法のどこをどう変えるかとなると話しはなかなかまとまらない。しかし、96条の改憲手続き条項の改正なら、改憲派を総結集できるに違いないと踏んだ。橋下維新という右からの応援団の後押しもあったしね。

★しかし、昨日の審査会の論議では、96条先行改憲が成功しそうな勢いではないようだね。
☆そのとおり。安倍自民の思惑大外れというところだ。東京新聞の見出しが、「96条先行に異論続出」。船田元・自民党憲法改正推進本部長代理の「国民の多くは、改正のための改正と受けとめるきらいがある」の発言を紹介。自民・維新・みんなの積極改憲3党内でも、前向き、慎重の議員が混在していることが浮かびあがった、と報道している。毎日も、「96条先行 自民にも異論」「『ためにする改正』批判を懸念」と見出しを打った。

★その中で、笠井さんの発言はどうだったの。
☆朝日が、「一般法並みにハードルを下げるのは、憲法が憲法でなくなる禁じ手」と要約している。本質をよくとらえているだけでなく、分かり易く説得力がある。

★近代立憲主義が硬性憲法を要求することに必然性があるという、あの論理だね。
☆それだけでなく、いくつかの96条改憲の論拠とされるものに、的確な批判がなされている。短い文章だが全面的だ。論戦を通じて、「多数派のゴリ押改憲を可能とする96条改憲は姑息で本末転倒。国民を欺す禁じ手でもある」ということが、審査会全体にもメディアにも浸透してきた印象がある。

★それは心強いけれど、議会での共産党の議席は絶対少数だ。改憲阻止の防波堤の役割を果たせるだろうか。
☆そのことは国民世論の動向次第。今や、日本共産党が改憲阻止運動の最前線の主力部隊であることが明確になっている。改憲阻止の成否が、日本共産党の消長にかかっているといって過言でない。参院選も、その前哨戦である都議選も、憲法の命運をかけた闘いだが、その焦点は日本共産党の議席がどうなるかだ。
★結局は、安倍自民や、橋下・石原維新の改憲目論見を阻止するためには、なによりも共産党の議席を増やすことが王道ということだな。

96条改憲批判ーその4          「96条改正は改正限界を超える」説

一昨日のブログで、法には序列があることを述べた。実は憲法の内部にも序列がある。これなければこの憲法ではなくなるという「憲法の中の憲法」を根本規範といい、それ以外を憲法津と読んで、差別化している。ハンス・ケルゼン以来の通説的な憲法論だ。

憲法改正は何でもありではない。改正には限界がある。根本規範は、憲法制定権者の意思を体現するものとして、これを法的な意味で改正することはできない。現行憲法の規定で選任された国会議員や首相や閣僚が、この根本規範をないがしろにするような改正の原案作成はできない。国会はそのような改正案の発議ができない。

「できない」の意味は飽くまで法的なもので、政治的な意味ではやってできないことではない。むりやりにやられてしまえば、事後に法的に争うことが困難であることは否めない。しかし、そのようにしてできた憲法は日本国憲法とは別の憲法であって、日本国憲法と一体性のある改正憲法ではなくなる。そのような「改正の限界を超えた改正案の発議」がもつ正当性の欠如は、「改正手続」において、十分に吟味し批判されなければならない。その際の十分な理論的批判の根拠たりうるのだから、改正の限界を論ずる実益はある。

何が根本規範か。国民主権・基本的人権・平和主義、この日本国憲法3本の柱を根本規範というべきことではほぼ一致している。問題は、96条の憲法改正手続条項である。憲法制定権力が憲法を確定する際に、憲法の硬性度について自ら決めて、憲法に書き込んだ。その96条を、今にして覆すことができるのか。

憲法改正規範については、根本規範に準じる位置にあるとの考え方が常識的なところ。国民主権・基本的人権・平和主義と同様に、改憲手続き条項も、立憲主義の表れの一面として、日本国憲法が日本国憲法であるための根本規範に準じるということができる。

従って、96条改正も「憲法改正の限界」の対象たりうることが憲法学界の大方の考えといってよいだろう。少なくとも、国民投票抜きの国会の議決だけで憲法改正を可能とする改正手続条項への変更は、「改正の限界」を超えるものとするのが多数説。

では、国会の発議要件を3分の2という特別多数から、一般の法律制定と同じ2分の1超まで緩和することは、憲法が許容するところだろうか。それとも改正の限界を超えるものというべきだろうか。

通説とまではいえないが、「改正規範(96条)の改正」は、憲法制定権力自らが憲法改正権を制約して、憲法全体の擁護を意図したものである以上、改正規範(96条)の改正は根本規範同様にできない、という有力説がある。日弁連の意見書では、これを多数説と紹介している。

問題は、学者の意見分布よりは、自分がどう納得し、どう人に語りかけることができるかだ。
こんなふうに語ってみてはどうだろうか。

*「何とか、安倍自民の目論む96条改憲を阻止したいと思うんだ。究極の批判としてどんなことが言えるんだろうか」
☆「究極の批判ねえ。『96条改憲は、憲法改正の限界を超えている』という批判はどうだろう」

*「憲法改正に限界なんてあるのかい? どういうこと?」
☆「憲法はまとまった一つの体系を形成しているから、これをはみ出す「改正」は、もとの憲法との同一性を保つことはできない。そのような「改正」は憲法が許すところではない、ということだ」

*「憲法の体系をはみ出すって、たとえばどんなもの?」
☆「たとえば、旧憲法では天皇主権だったが現行憲法では国民主権となった。これをもう一度天皇主権に戻すという「改正」は、明らかに現行憲法体系をはみ出す。このことを「改正」の限界を超えているという。これに対して、象徴天皇制を廃止するという内容であれば、当然許容される改正範囲内。憲法が想定している改正には自ずから限度があって、想定外のものは改正とはいわないということだ」

*「分からないではないが、まだ腑に落ちない。想定内と想定外の境界の線引きはどうするんだ」
☆「憲法は、主権者である国民が憲法制定権力となって制定した。従って、憲法における主要なプレーヤーは、『憲法を作った主権者である国民』と『憲法によって作られた国家権力』の2者となる。そして、憲法は、国民の国家権力に対する命令の体系としてできている。この国民主権を変更することは原理的にできない。また、人権と平和は、憲法の最高の価値でその価値を守るため、守らせるために憲法ができている。これも変えることはできない。このような、憲法の中の憲法というべき条項を根本規範といっている。根本規範を改正することは想定外だ」

*「分かったことにして先に進もう。問題は96条の改正が憲法の許容する改正の範囲内なのか、想定外として許されないのかだ」
☆「改正手続条項自体は根本規範とは言いがたい。でも、主権者が憲法体系全体をどの程度変えてはならないものと憲法に書き込んだかは、尊重されなくてはならない。だから、改正手続条項は『根本規範に準じる』ものとしての位置づけが与えられる」

*「結局、改正の限界を超えているといえるのかい」
☆「いま、改憲問題や小選挙区制問題で大活躍の上脇博之さんは、近著「日本国憲法対自民党改憲案ー緊泊! 9条と96条の危機」(日本機関紙出版センター・2013年5月10日刊)で、歯切れ良く「硬性憲法の軟性化は違憲」として、国会の発議要件のあり方を軽視してはならないと警鐘を鳴らしている。この書は、一般向けにコンパクトだが丁寧な叙述で分かり易い。改憲問題の経過や背景事情についてもよく書き込まれている。値段もお手頃(857円)。お薦めしたい」

*「結局はそちらで勉強しろということか」
☆「96条改憲が、国民投票抜きの手続への改正となれば、憲法改正の限界を超えるとして許容されないというのは多数説だ。自民党改憲案のような、国会の発議要件だけを変えることを憲法が許さないとする考えが多数説とは言えない。しかし、憲法を制定するに際して、主権者国民が大事な憲法をできるだけ変えてはならないとして3分の2条項を書き入れたのだ。その主権者の意思が脈々と憲法に生きていると考えれば、『96条の手続要件緩和は改正の限界を超えたものだ』と言えると思うんだ。これが究極の批判だろうね」

「再発防止研修」という名の思想弾圧に抗議する

本日の服務事故再発防止研修受講者は、日の丸・君が代強制の職務命令に服さなかったとして懲戒処分を受け、さらに、懲戒処分を受けたことを理由に、研修受講を命じられている。その受講者を代理して、教育庁の研修課長と研修担当の職員の皆さんに抗議と要請を申しあげる。

私は先月もここに来て、本日と同じようにあなた方に抗議と要請の申し入れをした。しかし、こんな近くでマイクを使いながら、私の声はあなた方の耳に届かなかったようだ。それなら、私は、あなた方の耳に届くようなお話しをしたい。課長も、そして本日の研修に携わる職員の皆さんにもよく聞いていただきたい。あなた方の個人としての責任をお話しする。

第2次大戦が終わったあと、ドイツの戦犯を裁く国際法廷がニュールンベルグで開かれた。そこで、平和に対する罪、人道に対する罪を問われた被告人は、「自分は国家に忠誠を誓っただけだ」「ヒトラーの命令に逆らえなかった」などと抗弁したが、受け入れられなかった。犯罪行為が上司の命令だから免責されることにはならない。

このことは、後にニュールンベルグ第4原則として次のように定式化され、国際的に承認されるところとなった。
「自分の政府や上官の命令に従って行動した事実は、道徳的選択が実は可能であったならば、その者の国際法の下での責任を免除しない」

本日の研修命令受講者は、「日の丸に正対して起立し、君が代を斉唱せよ」という職務命令の違反を問われている。しかし、職務命令は必ずしも正しいとは限らない。間違った職務命令に従うことが犯罪にもなり得るのだ。研修命令に携わるあなた方にも警告をしておきたい。上司の命令に従ってするのだからという理由では、あなた方の個人としての責任を消し去ることはできない。

確認しておきたい。都教委は、最高裁判決によって、これまで鋭利な武器としてきた懲戒処分の機械的累積加重システムを放棄せざるをえなくなった。その代わりとして考え出したのが、被処分者に対する服務事故再発防止研修の厳格化である。回数を増やし、時間を長くし、密室で数人がかりでの糾問までしている。今や、あなた方が、思想弾圧の最前線に立っている。

このような、イジメに等しい研修は違法だ。いささかでも受講者の内心に踏み込み、くり返し執拗に反省を迫るようなことがあれば、思想良心を侵害することにもなる。東京都や教育委員会だけでなく、個人としてのあなた方もその責任の一端を負わねばならない。上司の命令だからということで、あなた方の個人としての責任が免除されることにはならない。

国家賠償法の法文上は、国等が賠償責任を負うばあい、公務員個人は被害者に直接の責任は負わず、国等からの求償の責任しか負わないように見える。しかし、加害行為の悪質性の程度が高い場合には、公務と無関係な違法行為と見るべきである。その場合は、国家賠償法ではなく、民法上の不法行為が成立して公務員個人の責任を追求することが可能となる。

あなた方が、無能な知事や、憲法に無知な教育委員の命を受けて、やむを得ず研修作業に携わっているという消極姿勢の限りにおいては、ニュールンベルグ原則を振りかざすようなことはしない。しかし、キリシタン弾圧の役人や特高まがいに、積極的な研修受講者への思想弾圧と思しき行為が報告された場合には、あなた方の個人としての責任を追及することを考えざるをえない。

そのような事態を迎えることがないように配慮を願いたい。これから、研修センターに入館する教員たちは、いずれも自らの思想や、教員としての良心を貫いた誇りの高い人たちだ。このような尊敬すべき教員たちを、その品性にふさわしく鄭重に遇していただきたい。本来この人たちに研修の必要はなく、真に再発防止研修の必要があるのは、研修を命じた側の知事と教育委員の諸君なのだから。

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  『「ユニクロ」柳井家大儲け』
「しんぶん赤旗」(5月8日付)のコラム「アベノミクス もうけるのは誰」によると、ユニクロ社の柳井正氏家族4人のこの5カ月間の保有株式の株価増加は次のとおりです。
柳井正氏本人              4047億円
2人の息子と妻             2093億円
家族所有の3つの資産管理会社  2408億円
驚くなかれ、合計8548億円の資産増加ということです。

同社の有価証券報告書によれば、全労働者の「給与手当」は839億円とされているので、柳井氏家族4人の資産増加額は、全従業員給与総額の10年分にも相当することになります。

同社の従業員総数は3万8339人(正社員は約半数)で、平均給与は220万円足らず。この10年間に本社の正社員は給与を上げる代わりに人数を減らして「少数精鋭化」し、元々低い準社員やアルバイトの賃金をさらに引き下げることで利益を上げてきました。

当ブログ「バングラデシュのユニクロ」でもふれましたが、柳井氏は「世界統一賃金構想」を打ち出し、日本人従業員について、「低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」と言ってはばかりません。「労働者は奴隷のごとく、我が一族は王族のごとし」というわけです。これが、公正な社会のあり方でしょうか。狂気の沙汰というべきではないのでしょうか。

神野直彦著「人間回復の経済学」は次のように書いています。
「企業組織から労働の主体である人間が急速に排除されていく。しかも、企業組織からより多くの人間を追放した経営者こそ、優秀な経営者だと格付けされていく。・・・民間企業も政府も人間の首を切るゲームに熱中するようになる。」「失業者は巷にあふれ人間の社会から人間を追放するという狂気が、正気だと思われるようになってしまう。ケインズ的福祉国家は行きづまり、人間はいつ自分が社会から追放されてしまうのかという、雇用不安におびえて生きていくことになる。」(81ページ)

人を人とも思わず、自分の金儲けを恬として恥じない柳井氏のような経営者を絶賛し、社会から追放されないために、どんな酷い労働条件にも甘んじる人を大量につくり出すのが「アベノミクス」の本質なのです。
(5月8日)

96条改憲批判ーその3          「憲法とダイヤモンドは硬いのが値打ち」

人に貴賤上下の別はあり得ないが、法規には厳然たる上下の序列がある。その序列に従い、上位法が順次下位法の制定に権限を与えて法体系が形成されている。あらゆる法規が生みの親には逆らえない。下克上は許されない。

周知のとおり、法律・政令・条例・規則等々の厖大な法体系の最高法規として憲法が位置づけられている。下位法の制定改廃は容易に出来るが、上位法の制定改廃の要件はより厳格となる。憲法41条は、国会に「法律」制定と改廃の権限を与え、その要件を定める。法律より上位の最高法規たる憲法の改廃が、法律と同じ手続で良かろうはずはなく、その手続は自ずからさらに厳格となる。この手続の厳格性ー改正要件のハードルの高さーが「硬性」という言葉で表現される。法律と同じ手続で改廃可能な憲法は、「軟性憲法」である。

 
この区別は、イギリスのJ・ブライスに始まる説として、どの教科書にも紹介されている。典型的なものとして芦部信喜さんの解説を大胆に要約してみよう。
「軟性憲法とは『通常の法律と同じレベルにある』もので、そういう憲法は、『通常の法律を作る権力と同一の権力から生れ、通常の法律と同じ方法で発布または廃止される』が、硬性憲法は、『それが規制する他の国法よりも上位にある』もの、すなわち、『通常の立法権より高い権力または特別の権力をもった人または団体によって制定され、かつ、それらによってのみ変更することのできる』ものだ」

ここに、「憲法を作る権力」と、「憲法によって作られた権力」との明確な区別がある。前者が主権者である国民の憲法制定権力であり、後者が憲法によって権限の根拠を与えられた国家権力の一作用である。この別を混同してはならない。

憲法改正とは、本来憲法によって根拠を与えられた権力作用ではなく、主権者たる国民の憲法制定権力の行使なのだ。だから、立法作用とは異なる厳格な手続き要件があって当然なのだ。そのことが、憲法の硬さに表れている。憲法改正手続き要件の厳格さこそが、憲法の憲法たる所以である。成文憲法は自ずから硬性憲法であるが、硬い憲法ほどより高次の権力に支えられていることの証拠といってよい。ダイヤモンドと同様、憲法は硬いからこそ価値がある。輝きを放つのだ。

しかも、憲法とは、本来憲法によって権力を授けられた者の手を縛り、その権力の恣意的な発動を抑制するためにあることを思えば、権力を有する者の唱導による安易な改正を許さない硬さをもった憲法こそが意味のある「価値の高い」憲法と言うべきであろう。その権力は選挙における単純過半数の議席で成立することを思えば、発議要件を国会の過半数にまで引き下げることは、憲法の価値を貶めるものというべきである。

「憲法とダイヤモンドは硬いのが値打ち」説はこんなふうに語れるだろう。

*「国会ってさ選挙で選ばれた議員で構成されているんだから、国会の議決は国民の意思と考えて良いだろう。だとすれば、96条が憲法改正の発議の要件として3分の2の特別多数を要求しているのは、厳しすぎるんじゃない?」
☆「国会と国民とを同視してしまうと、『国会の議決だけで憲法を改正してもよい。国民投票は不要だ』となりかねない。とてもとても、国会と国民とを同視することはできないと思うね」

*「一票の格差や小選挙区制の問題があって、国会が正確に民意を反映していないことはよく分かる。そのような選挙制度の不公正を是正してもやっぱり、96条の厳格な手続が必要なのかな」
☆「問題は、憲法を改正するという行為と、法律を作ったり変えたりする行為とは、まったく次元の異なるものだということだ。憲法は、法体系において法律より高次の存在だから、法律と同じ手続で改正できるはずがない」

*「96条と41条。どちらも同じ憲法に並んでいる条文じゃないか」
☆「条文のならびはそうであっても、性格がまったくちがう。主権者である国民が作ったのが憲法、その憲法によって作られ縛られているのが国家権力。立法権は国家権力の一部門だ。通常の立法と同じ手続で憲法をいじることは許されない」

*「すると、憲法改正の手続は、必ず法律制定の手続よりも厳格にできているのかな」
☆「手続的な厳格さを憲法の「硬性」という言葉で表現している。変えにくい、ということだね。硬いからこそ、憲法の格は法律より上なのさ」

*「安倍首相や、維新・みんなは、まずは硬い憲法を軟らかくしようというわけなんだな」
☆「そのとおりだ。憲法に縛られる立ち場の権力者が、都合が悪いから変えようとしても、そんなに都合良くは変えさせませんという役割を硬性憲法が果たしている」

*「憲法は硬いところに価値があるというわけか。ダイヤモンドと同じだ」
☆「ボクは、憲法の硬性は立憲主義に必須のものだと思う。その意味では、憲法もダイヤも、硬いからこそ輝くと思うね」

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  『図書館の自由宣言めぐり』
 ゴールデンウィークの最後の日、文京区の区立図書館めぐりをしました。「図書館の自由宣言」が本当に掲げられているか気になったから。
 疑ってごめんなさい。10館中5館しか巡れなかったけれど、1館を除いて、キチンと掲げてありました。掲げてなかった1館も館長さんらしき方が出てきて、申し訳なさそうに「展示の陰になったので外しています。指摘していただいて良かったです。すぐ、良い場所を選んで展示します。」と対応してくれました。
 どこも窓口対応の方は、一瞬頭に浮かばないようでしたが、説明しているうちに思い出したり、そばにいた別の司書の方が「あれです」と指さしてくれました。若い方より年配の方のほうが反応は良いように感じました。とっさには思い出せなかった方も、思い出せば自慢げな素振り。「かっこいい宣言ですね。図書館のような意義のある職場で働けていいですね」と言うと、嬉しそうに「司書になる時必ず教えられます」と答えてくれました。図書館もアウトソーシングで厳しい職場になっていると聞いていますが、皆さん忙しい時間を気持ちよく割いてくれました。
 休日最後の日とあって、図書の返却の人がたくさんいて、本離れなんて本当かしらと思われる賑わいぶりでした。「文化の砦がんばれ」と声援したくなりました。
 「図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る」
 司書の皆さん、よろしくお願いします。私たちも後方支援いたします。(これは映画の原作、有川浩著の「図書館戦争」の主人公笠原郁のノリ)
 なお、どこの図書館にも「文京平和宣言」(1979年12月7日)と「文京非核平和宣言」(1983年7月13日)のプレートが有りました。「英知と友愛に基づく世界平和の実現を」「非核三原則の堅持とともに核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え」などという格調高い言葉がしっかり刻まれていました。このような宣言を是とする心が憲法9条の改憲を押しとどめているのだと改めて思いました。
 また、そのうち暇を見つけて残りの5館を巡ってきます。

96条改憲批判ーその2          「敵は本能寺」論の切り口

安倍首相は、こういう。
「6、7割の国民が憲法を変えたいと思っていても、3分の1をちょっと超える国会議員が反対すれば、国民が一切、指一本触れることができないのはおかしい」「3分の1超の国会議員が反対すれば議論すらできない。あまりにもハードルが高すぎる」

えっ? 「6、7割の国民が憲法を変えたい」ですって? 何をどのように変えたいということでしょうか。「9条2項の削除」と「集団的自衛権の明記」、そして「基本的人権の縮減」に「天皇の元首化」ですって。それが、国民大多数の意見? それはないでしょう。国民ではなくて、あなたが変えたい憲法の中身じゃないですか。

えっ? 「6、7割の国民が憲法を変えたい」は仮定の話ですって? そんな仮定に過ぎない話で、大切な憲法を変えようだなんて、それこそ不謹慎。

96条は改憲手続き条項。改憲勢力が手続条項の改正だけに甘んじるはずはない。96条改憲は、紛れもなく「改憲のための改憲」である。「手段としての改憲」であるからには、必ず「目的としての改憲」が想定されている。では、安倍自民と維新・みんなの右翼3党が「手段としての改憲」のあとに、真の狙いとしている「目的としての改憲」の内容とは何か。

96条改憲の目的を意識すると、「96条改憲は、9条改憲の突破口」「96条改憲の先には、軍事大国化への道がある」「96条改憲は、本丸攻撃への外堀を埋めること」「96条改憲は、戦争への一里塚」「96条改憲の狙いは天皇を戴く国作りのため」「96条は9条の防波堤」「96条は人権と平和の砦だ」‥と言えよう。

改憲派の戦術は、まずは改憲手続のハードルを下げておくと言うこと。改憲の真の目的については、敢えて明確にしない。手続の変更だから国民の抵抗は激しくはあるまい。改憲要件を緩めておけば、頃合いを見計らって、真の目的達成に有利にことを運ぶことができる。これが右翼3党の思惑である。夏の陣の前に、大阪城の外堀・内堀を埋めた、あのやり方だ。何のための96条改憲かは伏せておいて、突如「敵は本能寺にあり」というあのやり方でもある。

「敵は本能寺」論はこんな語り口だろうか。

*「安倍首相は、『3分の1をちょっと超える国会議員が反対すれば、国民が憲法を変えたいと思っても実現できないというのはおかしい』と言っているね。議会より国民の意思が優先すべきなのだから、一理あるんじゃない」
☆「それ、まさしく『敵は本能寺』だ。安倍さんは、国民の意思を尊重しようなんて思っているんじゃない。本音のところは、憲法を根本から変えてしまおうと思っているだけさ」
*「96条の手続ではなく、その先にある変えたい憲法の中身が『本能寺』ってわけか。具体的にはどんなことだろう」
☆「ボクは、四つに整理している。日本国憲法の3本の柱である、基本的人権・国民主権・戦力の放棄の全部をなし崩しにしてしまうこと、そしてその3本の柱の土台である立憲主義を骨抜きにしてしまうこと」
*「いきなり『敵は本能寺』なんて言わずに、堂々と攻撃対象を明確にしたってよさそうじゃないか」
☆「それができないから、ごまかしているんだと思うよ。安倍さんが自分でも言っているとおり9条改憲の提案はハードルが高すぎる。9条改憲を争点に選挙するリスクも回避したい。取りあえずは、アベノミクスのボロがでる前、支持率が高いうちに96条改憲をやってしまいたい。」
*「手続きを変えるんだから、抵抗も少ないという読みだろうね。それで、『敵は本能寺にあり』と名乗りを上げるのは、いつになるんだろうね」
☆「96条改憲が終わって、しばらくしてから。右派勢力を糾合して改憲発議の案文を作るときだね」
*「明智光秀の作戦は図に当たった。本当の狙いはできるだけ隠しておくことが、有効だったわけだ。改憲も同じことだろうか」
☆「96条改憲の真の狙いが何で、発議要件緩和のあとに何が続くかを見極めておかないと、信長同様に、われわれ国民が寝首をかかれることになる」

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