古稀は、年老いたことへの慰めの日ではない。古来稀なるとされた長い人生を経てなお、矍鑠たることの祝いと励ましの日である。憲法も同じだ。今日は、単に日本国憲法が年を経たことの、懐古・懐旧の日ではない。70年日本国民が、平和憲法と平和を守り抜いた誇りの日として祝おう。そして、もっともっと憲法を使いこなすべく、決意をかためるべき日なのだ。
その憲法記念日の東京新聞。本日の「平和の俳句」が眼に突き刺さる。胸が痛む。
長兄次兄戦死父焦土の首都に焼死せり 江川節夫(84)東京都練馬区
これに付された、いとうせいこうの解説も句作さながら。さすがのものだ。
「このゴツゴツした字余り。慟哭の呪文のごとき文字列。そこに作者八十四歳の思いがぎっしりと詰まっている。八人きょうだいの末っ子。」
社会面に、江川さんを取材した記事がある。「平和継がなければ」「戦争は家族を破壊する」「揺らぐ憲法の理念 あきらめムード危ぶむ」という大きな見出し。
その最後に、江川さんの言葉がある。
「平和を守り続けてきた憲法の大切さは、理論的に言うだけでは伝わらない。家族を破壊する戦争の悲しみ、苦しみを若い人に語り継がなければ」
まったくそのとおりだ。平和憲法は、理論的に生み出されたものではない。家族や知人を失った、生き残りの日本人の悲しみと苦しみこそが生みの親であった。70年間、この平和憲法を守り抜いてきたのもまた、日本人の戦争体験とその継承による、悲しみと苦しみの記憶だった。もちろん、これに加害責任の自覚も伴っている。
日本国憲法とは、なによりも平和憲法なのだ。戦争の惨禍に対する痛苦の反省から生まれたが、戦争の記憶が薄れると、再びの軍事大国化願望が首をもたげてくる。アベのごとき、平和憲法に露骨な敵意をもつ者に、政権を担わせてしまっているのだ。
本日・憲法記念日は戦争を忌避し、平和の価値を再確認すべき日。しかし、各紙の社説は、一様ではない。憲法に対する、とりわけその平和主義に対する姿勢のコントラストが著しい。
産経は極右と政権の立場を代弁して、「北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となりつつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう」と言っている。読売も、「憲法施行70年 自公維で3年後の改正目指せ」と改憲の応援団役を買って出て旗を振っている。
日経は、「身近なところから憲法を考えよう」という。時代に切り結んでいるかはともかく、改憲の旗は振っていない。毎日は「施行から70年の日本国憲法 前を向いて理念を生かす」。朝日は「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ」と、それぞれ見識を示している。
感動的なのは、やはり東京新聞。「憲法70年に考える 9条の持つリアリズム」というタイトル。穏やかな語り口で、問題の核心に切り込んで説得力がある。
同社説は、次のリードを置いている。
「日本国憲法が施行されて七十年。記念すべき年ですが、政権は憲法改正を公言しています。真の狙いは九条で、戦争をする国にすることかもしれません。」
アベ政権の改憲のねらいを「戦争をする国にすること」と端的に喝破している。「戦争のできる国にすること」「戦争を政策の選択肢としうる国にすること」とまだるっこしいことをいわない。なるほど、政権の究極の狙いは「戦争をする国にすること」に帰着するのだ。
社説の本文は、冒頭に金森徳次郎の言を、末尾に石橋湛山の文を引用している。
<今後の政治は天から降って来る政治ではなく国民が自分の考えで組(み)立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない>(金森)
<わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす>(湛山)
この湛山の言葉を受けて、同社説は「これが九条のリアリズムです。『そういう(国を滅ぼす)政治家には政治を託せない』と湛山は断言します。九条の根本にあるのは国際協調主義です。不朽の原理です」と解説する。
そして最後をこう締めくくっている。
「国民は種まきをします。だから『悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない』?。金森憲法大臣の金言の一つです。愚かな政治を招かないよう憲法七十年の今、再び九条の価値を確かめたいものです。」
同社説の中の次の各指摘を真摯に受けとめたいと思う。
「九条も悲惨な戦争を体験した国民には希望でした。戦争はもうこりごり、うんざりだったのです。かつて自民党の大物議員は『戦争を知る世代が中心である限り日本は安全だ。戦争を知らない世代が中核になったときは怖い』と言っています。今がそのときではないでしょうか。」
「それなのに一部は反省どころか、ますます中国と北朝鮮の脅威論をあおり立てます。同時に日米同盟がより強調され、抑止力増強がはやし立てられます。抑止力を持ち出せば、果てしない軍拡路線に向かうことになるでしょう。」
本日の「施行70年 いいね!日本国憲法?平和といのちと人権を!5.3憲法集会」は55000人の参加で盛りあがり、インパクトのある集会となった。憲法改正阻止の大運動に向けて、力強さを感じる。4野党の党首クラスと、沖縄の風の伊波洋一が、護憲とアベ政権打倒を訴えた。
護憲の理念は、単に成文憲法の改悪阻止にとどまらない。その時々に、憲法の理念をめぐっての、個別のテーマが必ず存在する。
本日の集会で、繰り返し訴えられたテーマは、「共謀罪」「沖縄」「戦争法廃案」「脱原発」「軍学共同反対」「脱格差・反貧困」「反ヘイト」。そして「アベ政権の暴走を許さない」「野党と市民の共闘」であった。
あらためて、憲法の平和主義の理念の内実と、これをないがしろにする日米安保体制への批判を再確認した。帰りのバスで見た歩行者天国の平和で穏やかな風景。これを守るのは、断じてカールビンソンではない。市民の生活の平穏を守るのは、平和憲法であり、憲法に依拠して平和を守ろうとする人々の熱い思いと行動なのだ。
(2017年5月3日・連続第1494回)
1.日本国憲法施行70年を迎える憲法記念日が近づいています。憲法は前文
で「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存す
る権利を有することを確認」しています。ところが今、朝鮮半島に「戦争の
危機」が迫っています。
私たち日本民主法律家協会は、米国および北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和
国)両国の対立から、東アジアで戦争が起きることを断固として回避し、あ
くまで話し合いによって問題解決を図るよう、米、朝両国政府に訴えるとと
もに、日本政府と韓国、中国、ロシアを初めとする東アジアの各政府が問題
を深刻にとらえ、対話による問題解決の道を開くため、あらゆる努力を傾注
することを求めます。
2.北朝鮮政府は、度重なる国連の決議にも拘わらず、核兵器および、その運
搬手段である中、長距離の弾道ミサイルの開発を進め、実験を続けてきてい
ます。これに対し、米国の新政権は、これまでの北朝鮮への経済制裁、韓国、
日本との共同訓練だけでなく、武力による制圧を計画し、近海への空母攻撃
団の派遣など圧力を強めています。そしてさらに、米国は「あらゆるオプシ
ョンがテーブル上にある」「中国が協力しなければ、独力で北朝鮮核問題を
解決する」「一線を越えれば、トランプ大統領は行動に出る」などと発言、
一方の北朝鮮も「米国が選択すれば戦争に乗り出す」「米国の無謀な軍事作
戦に先制打撃で対応する」「トランプ政権の対朝鮮政策は、歴代政権と比べ
てもさらに悪辣で好戦的」などと応酬、「宣伝戦」を続けています。
4月18日に行われたペンス米副大統領と安倍晋三首相との会談では、ペン
ス米副大統領が、「平和は力によってのみ初めて達成される」と述べたこと
に対し、安倍首相が事実上同意して、この「力による『平和』」を支えるた
めに「北朝鮮が真剣に対話に応じるよう圧力をかけていくことが必要だ」な
どと軍事的対立を煽るかのような発言をしています。
こうした日本国憲法の平和理念と正反対の動きに竿をさす安倍首相の責任
は重大であり、私たちは強く抗議します。
これらの発言は、メディアで取り上げられ、拡大され、それぞれの考え方
や思惑を越えて、世界に不安と不信を広げています。
3.私たちは、いかなる事情があろうとも、問題を武力で解決しようとする双
方の考え方を支持することはできません。
私たちは日本中をがれきにし、アジアで2000万、日本人だけで300
万を超す犠牲者を出した戦争の惨禍を経て、非戦、非武装の日本国憲法を守
り、70年を生きてきました。
しかし、今回、いずれかの国が「先制攻撃」をし、もう一方がそれに「反
撃」をすれば、米朝両国だけでなく、韓国も日本も、その戦争に巻き込まれ
多大な犠牲を出すであろうことは、火を見るより明らかです。まして、いっ
たん核兵器が実戦に使われたならば、一地域の問題ではなく、地球規模の被
害となることも必定です。
国民の生命と財産を守るべき日本政府は、こうした状況を冷静に見据え、
あくまで、朝鮮半島がそのような事態にならないよう、両国に訴えかけるな
ど、積極的な努力をしなければなりません。そして同時に、平和的な外交手
段を通じて、北東アジア地域全域の「武力によらない平和と安全保障」を追
求しなければなりません。
いま私たちは、この危機に直面して、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と
欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とう
たった憲法前文と、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行
使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とした憲
法九条を改めて思い起こし、「軍事力で問題は解決しない」ことを、声を大
にして訴えます。
日本政府と米朝両国、また、両国をはじめ世界の人々が、直ちに、話し合
いの呼びかけなど、そのための具体的な努力をされるよう、こころから訴え
るものです。
2017年 4月19日
日本民主法律家協会
理事長 森 英 樹
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少しだけ、私見を付け加える。
今対決すべきは、「平和は力によってのみ初めて達成される」という思想。70年前の日本国憲法制定時に、われわれはこれを採らないとした思想だ。私たちは戦争の惨禍を経て、「武力による平和」という考えを捨てて平和憲法を採択した。私たちのテーブルには、豊富な平和への選択肢がある。しかし、武力による威嚇や武力の行使による平和構築という選択肢はない。
樋口陽一氏の講演録からの引用である。
「1931年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(1896ー1993)は、「これは日本の自衛行動ではない」と断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手許にある。その中で横田は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この2人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。」
今必要なのは、「平和は力によってのみ初めて達成される」に対置される、「平和を欲するがゆえの平和を準備」にほかならない。平和を欲して「平和を準備する」その一歩は、とにもかくにも平和を望む声をあげることだ。日民協の声明は、その一つの試み。その声明を紹介する私のこのブログも、そのような小さな声の一つ。
日民協の緊急声明。是非とも、転載拡散をお願いしたい。
(2017年4月19日)
誰もが思うことでも、口にすることをはばかることがある。誰もは思わないことなら、なおさらである。
その典型の一つは、権力批判である。政治的あるいは経済的・社会的な権力者を批判すると、回りまわって何らかの報復を受け、不利益を被ることになる恐れがある。だから、権力者への批判は、口にすることをはばかられるのだ。痛烈な批判であればあるほど、である。
もう一つの典型は、権威の批判である。天皇や天皇制に関わる言論がその最たるものだろう。権威とは、社会的多数派による特定の人物や事象に対する敬意や神聖性の承認を強制する圧力のことである。社会的排外主義が、すべからく権威の批判者を攻撃目標とする。だから、権威への批判は、口にすることをはばかられるのだ。痛烈な批判であればあるほど、である。
保身を前提とする限り、権力批判も権威批判も、慎むべきが正常な平衡感覚を持つ者の合理的な判断と言ってよい。ゴマを擂ったり、忖度しての阿諛追従まではせずとも、口を慎み沈黙すべきが常識人の処世術にほかならない。
「口は禍の元」「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」「大きなものには呑まれろ」「敬して遠ざけよ」「さわらぬ神に祟りなし」と、その手の教訓は世に満ちている。それだけではない。「和を以て貴しと為す」「逆らうことなきを旨とせよ」との書紀の記述以来、従順なる沈黙は道徳の域にまで高められ、権力や権威に対する批判は慎むべきが美徳として染みついているのがこの社会の伝統である。メデイアもこの伝統をよく身につけ、権力者とはともに寿司を食い、天皇には「陛下」と呼んで畏まり、歌を忘れたカナリアとなっている。
我が国のメデイアの自由度の国際的なランク付けが、昨年(2016年)は対象180カ国・地域のうちの72位とされたのは、情けないながらも、さもありなんというべきだろう。国際NGO「国境なき記者団」(本部・パリ)は今年も、もうすぐランキングを発表する。日本が、昨年よりもランキングをあげているとは到底考えがたい。
さて、「誰しもが思うことで、口にすることをはばかること」である。
北朝鮮の現体制は戦前の日本の体制に酷似している。明治維新以来の神権天皇制が三代続いて、その國體は塗炭の苦しみとともに崩壊した。この間ほぼ77年である。北朝鮮が1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の樹立を宣言して、もうすぐ70年。既に金帝国が三代続いて、この擬似帝国もそろそろ崩壊の時を迎えているのではないか。
ともに、極端な個人崇拝と権威主義。政権に服しないものには容赦ない弾圧。そして、徹底した情報統制と情報操作。個人崇拝のための漫画チックで大仰な演出。自国のみを貴しとする独善。世界からの孤立。20世紀前半の日本は、無理に無理を重ねたいびつな国家だった。21世紀の北朝鮮も、まことによく似ていると言わねばならない。
さすがに北朝鮮は領袖を神とまでは言わない。統治の正統性の根拠を、フィクションではあれ人民の意思としている。この点では神権天皇制よりはよほど開明的ではある。それでも、「将軍さま」は「天皇陛下」の模倣であり、その実態において正統なる後裔というべきだろう。主体思想が教育勅語に当たることになろうか。両体制の放送におけるアナウンサーのトーンまでがそっくりではないか。
最近、アメリカが「北朝鮮の体制の転換までは求めない」と言い出していることが興味深い。「北朝鮮の体制の転換」とは、金世襲政権の覆滅ということだろう。太平洋戦争末期、敗戦が必至となって降伏の遅延は大規模な国民の生命の喪失を意味することが明らかな事態で、天皇(裕仁)が「國體の護持」にこだわって、終戦を遅延させ、東京大空襲、沖縄の悲劇、広島・長崎の原爆投下をもたらしたことを思い起こさせる。国民の命よりも、天皇制の存続が重要事だったというわけだ。いま、北朝鮮も似たような状況にあるのだろう。そして、アメリカのコメントは、戦後日本の政策に天皇を利用したように、骨を抜いた金世襲政権に利用価値を見だしているというなのだろうか。
とはいえ、旧天皇制日本の軍国主義侵略主義にも「3分の理」はあった。1941年の天皇制日本は、先進帝国主義連合のABCD包囲網に経済的な行き詰まりをみて、その打開のために無謀な先制攻撃で開戦に踏み切った。これを「自存自衛」のやむをえざる戦争といった。
もちろん、北朝鮮にも3分の理がある。すべての軍事的行動は周辺諸国からの具体的な圧力や脅威に対抗するための自衛手段に過ぎない。これ以上軍事的・経済的包囲網が狭められれば、「自存自衛」のための暴発をしかねないではないか。1941年時の日本との違いは、この国が既に核をもっていることにある。この国に対する挑発は危険だ。韓国だけでなく、米軍基地のある日本が戦火の危険にさらされることになる。だから、今回は絶対に軍事的な選択肢をテーブルの上に置くことはできない。現に、次期大統領の椅子を争っている、韓国大統領選挙候補者5人のすべてが、揃ってアメリカの北への先制攻撃に反対しているではないか。
「平和主義」(パシフィズム)には、臆病で姑息だというニュアンスが込められている。しかし、強がってのチキンゲームは危険に過ぎる。北朝鮮を、1941年の日本のごとくにしてはならない。臆病でも姑息でも「平和主義」に徹して、外交努力による平和解決を目指す以外に方法はない。中国が果たすべき役割は大きいが、日本には外交的に口を出すべき余地が極めて小さい。そもそも、それだけの権威も信頼感もないのだ。アベ政権頼むに足りず、なのだ。この外交力の欠如は、近隣諸国との外交を軽視してきたアベ政権のこれまでの姿勢の表れである。せめて憲法九条をもつ日本国民の一人として、「平和的手段による解決」を、と声を出し続けよう。
(2017年4月16日)
A国首脳からB国首脳への打電
秘密が厳重に守られていることを信頼して、ご連絡いたします。
貴国が、本日(3月6日)午前7時36分ごろ、貴国西岸から東北東に向けて発射した飛距離約1千キロの弾道ミサイル4発のうち3発がわが国西岸海域の排他的経済水域(EEZ)に到達して落下。残る一発も域外近海に着水。私は、貴国を強く非難する談話を発表し、防衛相は「引き続き、情報収集・警戒監視に万全を期せ」との指示を出した。折しも、わが国の国会は、小学校新設問題をめぐっての私と妻のスキャンダルで騒然としていたところ。私の名を冠した校名で寄付を集め、私の妻が名誉校長に就任していた小学校の新設。その校地の国有地払い下げに私ども夫婦が関与したという疑惑。いつものことながら、実にタイミングよく貴国がミサイルを発射して、国民の関心をそらしていただき、私の窮地を救っていただいたことを感謝申し上げます。
B国首脳からA国首脳への返信
お役に立てたこと、欣快の至りでございます。
貴殿を首班とする長期政権が貴国の政治に継続することが、わが国にとっての死活的利益なのです。貴殿は、貴国を軍事大国化するとして、強引に突出した防衛予算膨張政策を続けていますが、その政策こそが我が国と軌を一にするところです。貴国が軍事費の膨張を重ねるから、我が国も軍備拡張してミサイル発射の口実をもつことができる。貴国も、我が国の軍備拡張を根拠に、防衛予算の拡大ができる。持ちつもたれつの親しい間柄ですから、貴殿の事情は常に把握し、必要あると忖度されるときは果敢にミサイル発射でも、核実験でもさせていただきます。貴国のナショナリズム喚起のため、そして何よりも貴殿の政権存続のために。
A国首脳からB国首脳への再打電
貴殿は貴国創建者の3代目。私も、政治家3代目。お互い気心が通じる素地があろうかと思います。私は、我が国の防衛力を強化して軍事大国化することが念願ですが、そのためには国民精神が危機意識をもってナショナリズムに覚醒しなければならりません。ところが、我が国には平和憲法があって、国民は平和主義・国際協調主義にすっかり慣れてしまっています。笛吹けど踊らぬ国民を踊らせるには、貴国の存在が何より必要なのです。世論調査における私の支持率は、貴国のミサイル発射のたびに持ち直すのです。今後も、よろしくお願いします。
B国首脳からA国首脳への再返信
我が国こそ、とりわけ私こそ、貴殿に感謝と恩義を感じています。
仮に、貴国において平和憲法を守ろうという政治勢力が政権に就くようなことがあれば、お互いにとってこの上ない悪夢というしかありません。貴国の軍備は削減されて、領海や国土の保全機関に徹することになり、あるいは大規模な環境保護部隊や災害救助専門部門に改組されて、我が国にとっての脅威でなくなるとすれば、我が国の軍事力維持増強の根拠が崩壊することになる。これは、恐るべき事態ではありませんか。
A国首脳からB国首脳への再々打電
まったく、おっしゃるとおり。腹を割ってお話しすれば、お互い利害を共通にし、同じ悩みももつもの同士。自国の民心を掌握するためには、ナショナリズムを喚起し隣国に対する敵愾心を掻きたてなければなりません。「自国は常に正義、相手国は常に邪悪」とお互いに非難し合うことが効果的なのは、歴史の示すところ。
B国首脳からA国首脳への再々返電
今回のミサイル発射は、今月1日から始まったC・D両国合同軍事演習に対する不快感の表明でもあり、自国民へのアピールでもあります。国民は、自国の軍備の増強には、無邪気に素直に喜ぶのです。国民は、政権と被治者の間の敵対関係を見抜くことなく、「自国」の軍備増強大歓迎なのです。このことは貴国でも事情は同じことでしょう。私の国から見ますと、天皇制政府が被抑圧階級を搾取し弾圧したことは動かしがたい歴史の事実。その天皇制政府の高官として、戦争突入内閣の商工大臣を務め、大陸侵略の大立て者だった人物の孫を、被抑圧階級が選挙で選んでいることが信じがたい滑稽なことではあります。それでも、ミサイル発射は貴殿の窮状を救うためなのです。
A国首脳からB国首脳への再々々打電
私の方こそ、貴国の独裁体制には批判があるのですが、それを言い始めると、いつものようにぶち切れますのでやめておきます。いずれにせよ、貴殿と私とは、一心同体ともいうべき軍事力信奉者であり、軍備拡大論者なのですから、お互いに相手の軍備増強姿勢を批判しつつも根拠にしつつ、表向きは相手国を挑発者と罵りながらしっかりと軍備増強に励もうではありませんか。
B国首脳からA国首脳への再々々返電
そう、お互いがお互いを挑発者とし、軍事演習を不快とし、新しい兵器の調達や防衛予算の拡大を口実にし合いながら、持ちつ持たれつで、軍備の増強に励もうでありませんか。
両首脳からの同時発信
有意義な意見交換でした。表面は反発し合いつつ、それぞれの国の軍備を増強しましょう。
(2017年3月6日)
「白馬は馬にあらず」とは詭弁である。
詭弁は、何らかの実益をもたらす「論証」のためのものである。
「それゆえ、馬の所有への課税も、私の白馬には非課税だ」
「それゆえ、白馬に乗っているかぎり、『下馬』も『乗馬禁止』も無視してよい」
「馬は徴発の対象となっても、白馬を徴発することは許されない」
「殺傷行為も武力衝突も戦闘ではない」は詭弁である。
この詭弁はPKO派遣部隊の違憲行動を糊塗する。
「それゆえ、殺傷行為があっても武力衝突があっても戦闘があったとは言えない」
「現地に戦闘がない以上、自衛隊の憲法9条違反が問題となる余地はない」
「法は法的概念のみを取り扱う」は、もう一つの詭弁である。
「殺傷行為も武力衝突も事実的な概念であって、法的概念ではない」
「だから、いかに砲弾が飛び交い人が死んでも、全ては『殺傷行為・武力衝突』に過ぎず、戦争を放棄した憲法9条違反ではない」
この詭弁の行き着くところは、こんなところだろうか。
「事実として何が起ころうとも、憲法に禁止されている言葉以外で表現すれば、違憲の問題は起きない」
「戦争も、武力による威嚇も武力の行使も、『殺傷・破壊・武力衝突』と言い換えた途端に、憲法9条違反とはならない」
昨日(2月8日)と今日(9日)、イナダ防衛大臣の答弁として報じられているところは、こうだ。
「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」「戦闘行為ではないということに、なぜ意味があるかと言うと、憲法9条の問題に、関わるかどうかということでございます。その意味において、戦闘行為ではないと言うことでございます」「法的な意味の戦闘行為ではない。国会答弁する場合には、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」「紛らわしい言葉は使わない」
南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)をめぐり、稲田朋美防衛相が8日の衆院予算委員会で「国会答弁する場合には、(戦闘という)憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから『武力衝突』という言葉を使っている」と答弁したことについて、菅義偉官房長官は9日午前の記者会見で「(PKO参加5原則が崩れた状態としないために言い換えているとの)批判は当たらない。全く問題ない」と述べた。(朝日)
だれが聞いても、イナダの答弁は、「PKO参加5原則が崩れた状態としないために言い換えている」以外のなにものでもない。「批判は大当たり」だからこそ、弁明が必要なのだ。
この人は、イデオロギーのいびつさ以前に、事実を事実として認めるという謙虚さに欠けている。こんな詭弁を弄する人物が防衛大臣とは、危険きわまる。野党からの辞任要求は当然のことではないか。
なお、一言。こういう人物が弁護士であることが恥ずかしい。
多くの人が思うことだろう。
「イナダはひどい詭弁を弄する」
「イナダは弁護士だ」
「きっと、弁護士とは詭弁を弄する生業なのだ」
こんなことを思われたくはない。私も、声を大にして要求する。
「一刻も早く、イナダは防衛大臣をヤメロ」「議員を辞めろ」「政治家を辞めろ」
(2017年2月9日)
複数のメディアやジャーナリストから情報開示請求のございました「南スーダン PKO陸自部隊日報」の件。廃棄済みで不存在として、昨年12月いずれも不開示決定をしたところでございます。当該資料は、飽くまでも法的意味において廃棄したもので、一般的な意味においては廃棄によって不存在とはなっていなかったということでございますので、このほど開示請求に応じることにいたしました。
開示請求があったあの時期は、PKO部隊の駆けつけ警護新任務についての国会論議がかまびすしいときでございまして、資料公開がPKO5原則の根幹を揺るがす問題と誤解されかねない事態でした。ですから、あの時点での情報開示は政権にとって極めて不都合でございましたから、一般的な意味では隠蔽したと受けとられてもやむを得ないのでございますが、法的意味においては隠蔽にあたらず、何ら問題のないものであることをご理解ください。ようやく今は公開しても喉元過ぎれば云々で、もう良かろうと判断した次第なのでございます。
もとより、アベ首相が、「南スーダンは永田町と比べればはるかに危険だ」「任務が増えるからといって、その分だけリスクも増えるわけではない」「自衛隊員が実際に負うリスクは1足す1足す1は3といった足し算で考えられるようなものではない」と述べたとおりでございまして、こうした不誠実な姿勢は一般的には大いに問題と批判のご意見もあろうかと存じますが、法的にはなんの問題もないことなのでございます。
で、このたび情報開示に応じた資料は、2016年7月11、12日の南スーダン派遣施設隊の「日々報告」第1639、1640両号と、報告などに基づいて上級部隊の中央即応集団司令部がまとめた「モーニングレポート」同7月12、13日付の計4点の文書でございます。
この中には、確かに「戦闘」の表記が複数ございます。これは一般的には、政権に不都合な表現です。これあればこそ隠蔽したのではないか、飽くまで一般的には、そのように受けとられてもいたしかたないところではございます。しかし、これも法的にはまったく問題がないことなのでございます。
ご存じのとおり、PKO5原則というものがございます。
1 紛争当事者の間で停戦合意が成立していること。
2 国連平和維持隊が活動する地域の属する国及び紛争当事者が当該国連平和維持隊の活動及び当該平和維持隊への我が国の参加に同意していること。
3 当該国連平和維持隊が特定の紛争当事者に偏ることなく、中立的立場を厳守すること。
4 上記の原則のいずれかが満たされない状況が生じた場合には、我が国から参加した部隊は撤収することができること。
5 武器の使用は、要員の生命等の防護のための必要最小限のものを基本。(以下略)
戦闘が起こっている事態は、明らかに「停戦合意が崩壊」していることを意味しますし、南スーダンにおける政府軍と元副大統領派軍の戦闘は、PKO部隊の中立的立場厳守を事実上不可能にします。本来自衛隊は撤収すべきだったのでしょう。でもそれでは、なし崩しに自衛隊を国防軍化するというアベ政権の基本路線に矛盾することになってしまいます。そこで、この矛盾追及を切り抜けるために、「戦闘という用語は、一般的な意味で用いた。政府として法的な意味の戦闘が行われたとは認識していない」と説明申しあげた次第です。アベ政権の二枚舌。ごまかしは今に始まったことではありませんが、この「一般的な意味」と「法的な意味」の使い分け。便利なものですから、これからもちょくちょく使わせていただくつもりでございます。
一般的には、「ある」と「ない」、「存在」と「不存在」、戦闘の「有・無」は、対立する概念です。でも、真面目にそんなことを論じていては、政権の維持はできません。アベ政権では、「ある」は「ない」であり、いつでも「ない」も「ある」に変わります。融通無碍、変幻自在なのです。
ジョージ・オーウェルの「1984年」に出て来る、真理省のスローガンを想い起こしてください。このスローガンはまさしく、アベ政権のものなのです。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
南スーダンにおいては戦争こそが平和であります。「戦闘」が起こっているとしても「衝突」に過ぎません。アベ政権を信頼して盲従している人々こそが自由なのです。そして、国民は無知でよろしい。知らないことほど力強いことはないのです。
それにしても生々しい。公開された文書のうち、7月11日の日々報告は、ジュバ市内で政府側と前副大統領派の戦闘が発生したことを受け、自衛隊の宿営地内での流れ弾による巻き込まれや、市内での突発的な戦闘への巻き込まれの注意を喚起。宿営地周辺で射撃音が確認されたこと、国連南スーダン派遣団司令部のあるUN(国連)ハウス周辺でも射撃事例があったと報告しています。
モーニングレポートの7月12日付は、政府側と前副大統領派の戦闘がジュバ市内全域に拡大し、10、11両日も戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘がUNハウスや宿営地周辺で確認され、UNハウスでは中国兵2人が死亡するなど国連部隊の兵士が巻き込まれる事案が発生していることを明らかにしています。また、日々報告には政府側と前副大統領派の関係が悪化した場合の予想シナリオとして、ジュバでの衝突激化に伴う国連の活動停止など、PKO活動が継続不能になる可能性も指摘しています。
こんな文書の公開が、激論が行われている国会審議のさなかに出せるわけがないではございませんか。そのことは、法的にではなく、一般的常識的にご判断いただきたいものと思います。
なお、最後に申しあげておきます。「法的意味の戦闘行為」を最初に言ったのは、あの頼りない泣きべそ稲田朋美防衛相です。昨年秋の臨時国会で、7月の南スーダン状勢に触れて、「国際的な武力紛争の一環として行われる人の殺傷や物の破壊である法的意味の戦闘行為は発生していない」と発言しています。この人、けっして泣きべそかいているだけの人ではありません。泣きながらも、けなげにアベ政権の防衛大臣としての任務を遂行しようというのですから、見上げたものではございませんか。
「一般的意味」と「法的意味」との使い分け。ずいぶん応用が利きそうです。アベ政権への国民の批判の声が小さいことをこれ幸いに、今後大いに活用させていただくことといたします。
(2017年2月8日)
「2・4 軍学共同反対・大学の危機突破 学術会議まえ大要請行動」にお集まりの皆さま、そして、本日の学術会議主催フォーラム「安全保障と学術の関係」にご参加の研究者の皆さま、少しの時間耳をお貸しください。
本日の要請行動の主催団体の一つである日本民主法律家協会理事の澤藤です。私は、日民協から推薦されて、長く公益財団第五福竜丸平和協会監事の任にあります。
ご存じのとおり、1976年に都立第五福竜丸展示館開館以来、平和協会はこの船の展示を中心に、核兵器のない世界の実現を目指す平和運動を続けてまいりました。1954年のビキニ環礁におけるアメリカの核実験に対する抗議や、被爆船第五福竜丸の保存運動には、多くの科学者・研究者が関わってきました。科学が戦争に利用され、科学が人類を不幸のどん底に突き落としたことへの反省の気持からの運動参加であったと思います。
人間に幸福をもたらすはずの科学が、いびつな発達を遂げて、数多くの残虐な兵器をつくり出し、さらには悪魔の兵器である原爆の完成にまで至りました。45年8月6日の広島で明らかにされたとおり、人類は遂に人類を消滅させるに足りる力を手にしたのです。間違った科学は人類を破滅させるのです。
さらに、1954年3月1日、ビキニ環礁におけるキャッスル計画での最初の一発、「ブラボー」と名付けられた水爆は、広島型原爆の1000倍の威力を持つもので、核兵器が絶対悪であることを人類に知らしめました。この悪魔の兵器をつくり出したのが、科学であり、科学者でありました。第五福竜丸保存運動に関わった科学者や市民は、科学の進歩を戦争に利用させてはならないという強い思いがあったはずです。
日本は、平和憲法を持つ国です。悪夢の戦争体験から、再び戦争を繰り返してはならないことを憲法に書き込んで誓約した国です。侵略戦争だけでなく自衛の名による戦争も放棄しました。自衛の名による戦力の不保持も宣言した国なのです。これまで、一切の戦争のための学術、戦争のための科学研究を拒否してきました。それが今、アベ内閣の思惑によって、大きく方向を転換しようとしています。
その理屈の一つが、「個別的自衛権は認められているのだから、自衛のための兵器開発やその研究は問題ないのではないか」というものです。
しかし、私たちは知っています。いまだかつて、侵略の名で始められた戦争などありません。どこの国にも、「防衛」省があり「防衛」産業があり、「防衛」問題があります。どの戦争も、自国に関しては「防衛」であり、「自衛」なのです。けっして、「侵略」省も「攻撃」省も、「攻撃」産業や「侵略」問題はないのです。国防軍も自衛隊も、あたかももっぱら個別的自衛権行使だけを行う如しではありませんか。現実が違うことは皆さまご承知のとおりです。
どんな道理のない戦争も、自衛の名で行われます。場合によっては、自衛のための先制攻撃まであり得るとされるのです。どんな兵器も、自衛のためのものとされます。絶対悪としての核兵器ですら、抑止力という名で自衛に役立つとされているのです。
悪魔は、こう囁きます。「平和は、戦争の危険の均衡によって保たれる」「お互いに、より危険な武器を、より多く携えることこそが、より確実な平和をもたらすのだ」。
学術会議が自衛のための防衛技術開発を是認することは、この悪魔の声に耳を傾けることにほかなりません。「自衛のための戦争なら是認できる」、としてはなりません。「自衛戦争に有効な科学の開発は是認できる」となり、あらゆる戦争が各当事者の自衛の名による戦争である以上、「全ての戦争への科学の動員を是認してしまう」ことにならざるを得ないのです。
ここにいたって急浮上してきた軍学共同は、アベ政権が平和憲法をないがしろにしている事態の一面が表れたものとして看過し得ません。平和を愛する国民の声をつよくし、核兵器廃絶を願う国民の共同の輪を広くして、軍学共同にストップをかけようではありませんか。
(2017年2月4日)
パールハーバーでのアベ晋三の、なんとも面妖な17分間の演説。朝、ラジオで聞いていて、神経に障った。不愉快極まりない。
なるほど、詐欺師と総理大臣とは、平気で嘘をつかねば務まらない。「アンダーコントロールでブロック」のときも呆れたが、今度は戦争と平和についての問題として、さらに深刻だ。
演説の内容は、3つの部分からなる印象。
(1) どうでもよい、情緒的で無内容なつまらぬ部分。
(2) それ自体間違ってはいないが、「そんな演説をする資格があるのか」と突っ込まねばならない部分。
(3) そして、本音の問題発言部分。
(1) 「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入江。」「耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。」「あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で、死んでいった…」
誰が書いた文章なのかは知らないが、こんな浮わついた駄文の朗読を聞かされる身にもなって見よ。耳が痒くなる。尻が落ち着かない。それが、「日本国民を代表して」と繰り返されての発言なのだから、目から火が出るほどに恥ずかしい。日本とは、この程度の首相しか出せない国なのだ。
それはともかく、驚いたのは次のくだりだ。
(2) 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
「日本国総理大臣として」の部分を除けば、このように演説のできる人、このような演説を口にして違和感のない人物は、保守革新の立場を問わず、日本に少なからずいる。しかし、そのような人は、アベ政権とその周囲にはいない。「不戦の誓いを貫いてまいりました」と言える人は、例外なくアベ晋三の批判者である。政敵であるといってもよい。
「戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない」とは日本国憲法の根幹の理念である。一貫して憲法を敵視し、とりわけ九条改憲に執着してきたアベの口から出れば、デマゴギーである。あるいはマヌーバーなのだ。教育基本法を改悪し、特定秘密保護法や戦争法の制定を強行し、日本を戦争のできる国にしたばかりか、非核三原則や武器輸出三原則をないがしろにして、防衛予算だけを聖域化してきたアベではないか。どの口からどの舌をもって「平和国家としての歩みに静かな誇りを感じ、この不動の方針をこれからも貫いてまいります」などと言えるのか。
(3) さらに、「勇者は、勇者を敬う」の引用が愚かしくも危険極まりない。アベは、奇襲した側の皇軍の兵士も、奇襲を受けたアメリカ軍の兵士も、ともに「勇者」として称えているのだ。靖国の思想に通底する。戦争を徹底して愚かなものと見ないのだ。それぞれの祖国のために勇敢に闘った勇者と勇者。そのように美化する戦没兵士観。これは同盟国同士の戦意高揚演説ではないか。
最大の問題点は、平和を語っていたのが、いつの間にか日米の同盟の賛美を語りはじめる点だ。この演説の本音はここにある。同盟(alliance)とは、軍事に関わる用語ではないか。共通の仮想敵国を想定しての軍事同盟(military alliance)を意味しているのだ。そのような理解で読めば、文意が明瞭になる。
「歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた(軍事的)同盟国となりました。」「それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の(共通の仮想敵国がもたらす)困難に、ともに立ち向かう(軍事)同盟です。明日を拓く、『(軍事的勝利という)希望の同盟』です。」というもの。
こんな軍事同盟はやめて、どこの国とも積極的に友好関係を結ぶべきではないか。そうすれば、特定国との軍事同盟の必要は無くなる。そのような姿勢こそ、「不戦の誓いを貫く」ものとして、誇るに足りるものではないか。
ところで、この演説の中に何度も出て来る「日本国民」とは、はたして沖縄県民を含んでいるのだろうか。いや、沖縄県民に共感してアベ政権を批判する多くの全土の国民を含んでいるのだろうか。アベ政権は、「不戦の誓いを貫く」とは正反対の行動として、沖縄に新軍事基地を建設しようと狂奔している。アベのパールハーバー行の最中に、名護市辺野古大浦湾埋め立て承認の「取り消し処分」が取り消され、日米軍事同盟を強化して、戦争のための基地建設工事が再開された。
こうしてアベ政権と沖縄県民との基地建設の工事をめぐる攻防も再開された。到底、ここに「自由で民主的な国」の姿はない。「法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました」とは、ぬけぬけとよくも言ったもの。「平和国家としての歩みに静かな誇りを感じ」る事態とはほど遠い。
翁長知事は今後も、あらゆる手段で辺野古新基地建設を阻止する考えに変わりないことを強調している。地元の理解や協力なくして、防衛も安全保障もあり得ない。
これを見れば、米軍とアベ政権のパールハーバーでの共同セレモニーは、結局のところ、国民を無視しての支配層同士・軍部同士の、日米軍事同盟強化のパフォーマンスだったと言うべきではないか。
(2016年12月28日)
本日(12月12日)沖縄タイムスと琉球新報が、ともに号外を発行した。ほぼ同じ大見出し。「辺野古 県敗訴へ」「最高裁 弁論開かず」「20日上告審判決」「高裁判決確定」というもの。
記事の内容は「名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が翁長雄志知事を訴えた『辺野古違法確認訴訟』で最高裁は12日までに、上告審判決を今月20日午後3時に言い渡すことを決めた。辺野古沿岸部の埋め立て承認取り消しを違法とし、知事が敗訴した福岡高裁那覇支部の判決の見直しに必要な弁論を開かないため、県側敗訴が確定する見通し。知事は今後、埋め立て承認取り消しを撤回する手続きに入る。」というもの。
もちろん、12月20日の判決で問題は解決しない。ことの性質上、国が敗訴すれば、問題は解決する。しかし、県が敗訴しても紛争が終息するはずもない。沖縄の民意が新基地建設反対である以上は、その切実な要求を掲げた闘いは続く。知事には、幾つも手段が残されている。大浦湾埋立工事は再開できるのか。恒久的な新基地建設は完成に至るのか。予断を許さない。さて、これから局面は具体的にどうなるか。
沖縄タイムスは、こう言っている。
「国は早期に埋め立て工事を再開する考え。ただ、国が工事を進めるために必要な設計概要や岩礁破砕の許可申請に対し、県は不許可とすることを検討。埋め立て承認の撤回も視野に入れている。新基地建設を巡る国と県の争いは新たな段階に突入する。」
琉球新報はこうだ。
「翁長知事は『確定判決には従う』と述べており、最高裁判決後にも埋め立て承認取り消しを“取り消す”見通しとなった。国が新基地建設工事を再開する法的根拠が復活する。一方、翁長知事は敗訴した場合でも『あらゆる手法』で辺野古新基地建設を阻止する姿勢は変わらないとしており、移設問題の行方は不透明な情勢が続く。」
最高裁の12月20日判決言い渡しが沖縄県敗訴となる公算は限りなく高い。予想されていたことながら、この局面だけを見れば残念なこと。敗訴確定して、沖縄県は「その内容に不服だから、確定判決といえども従わない」とは言えない。言うべきでないとも言えるだろう。では、確定判決によって何が確定して、争えなくなるのか。
訴訟は、国土交通相(国)が原告となって、沖縄県知事を訴えた「不作為の違法確認訴訟」である。「地方自治法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件」と事件名が付されている。弁護士にだってなじみのない事件名。その一審・福岡高裁那覇支部判決の主文は以下のとおりである。
「原告(国)が被告(県)に対して平成28年3月16日付け『公有水面埋立法に基づく埋立承認の取消処分の取消しについて(指示)』(国水政第102号)によってした地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて,被告が公有水面埋立法42条1項に基づく埋立承認(平成25年12月27日付沖縄県指令土第1321号,沖縄県指令農第1721号)を取り消した処分(平成27年10月13日付沖縄県達土第233号,沖縄県道農第3189号)を取り消さないことが違法であることを確認する。」
経過についての予備知識なしに理解しうる文章ではない。なんとか分かるように、日本語を組み直してみよう。
まず「仲井眞承認」(辺野古基地建設のために国が大浦湾埋立をすることの許可)があった。これを前知事の間違った承認として翁長現知事が取り消した(「翁長取消」と呼ぶ)。原告(国)は被告(県)に対して、「『翁長取消』を取り消せ」と是正指示(地方自治法に基づくもの)をした。ところが、被告(県)はこれに従わない。そこで、「国の指示に従って、県は「翁長取消し」を取り消すべきなのにこれを取り消さない。この県の不作為は違法」と裁判所に宣告を求めたのがこの訴訟である。
今年(2016年)9月16日、福岡高裁那覇支部は、「翁長知事による前知事の承認取り消しは違法」として、同取り消しの違法の確認を求めていた国の主張を全面的に認める判決を出した。上告棄却によって、この高裁判決が確定することになる。
判決が確定すれば、遺憾ながら「『翁長取消し』を取り消さない県の不作為が違法であること」が確認され、その蒸し返しはできないことになる。「不作為の違法確認」と「作為の強制」とは異なるから、「取消の作為を命じる強制力はない」という議論もあるのだろうが、知事の採るべき選択ではなかろう。
しかし、「翁長取消し」が違法とされた結果として「仲井眞承認」が復活したとしても、工事の続行ができるかどうかは別問題である。
国が海面の埋立工事を進めるためには県の承認(許可と同義)が必要だが、一回の包括的承認で済むことにはならない。「仲井眞承認」の有効を前提としても、今後の工事続行は種々の知事の許可が必要なのだ。まずは、設計概要や岩礁破砕の許可が必要なところ、そのような国の申請に対し県は不許可を重ねることになるだろう。このことは以前から報じられていたことだ。知事側が徹底抗戦すれば、工事の続行は困難といわなければならない。さらには、仲井眞承認に瑕疵のあることを前提とした『取消』ではなく、「県の公益が国の公益を上回った場合には、『撤回』もできる」という考え方もある。
これだけの地元の反対がある中での基地の建設や維持がそもそも無理というべきなのだ。沖縄県民の反基地世論が燃え、本土の支援がこれに呼応する限り、辺野古新基地建設は至難の業というべきであろう。最高裁判決に意気阻喪する必要はない。そして、こんなことで沖縄を孤立させてはならない。
(2016年12月12日)
12月8日。再びの戦争を起こさない決意を確認すべき日。そのためには、戦争に至る歴史を振り返って、戦争の原因を再確認しなければならない。いま、あの大戦の前と同様の危険な動きはないだろうか。悪夢の歴史を繰り返す徴候はないだろうか。そのことに鋭敏でありたいと思う。
あからさまに「戦後レジームからの脱却」を語り、「戦後の歴史から『日本』という国を日本国民の手に取り戻す」と広言する「トンデモ首相」が君臨する今の世である。立憲主義も人権も平和も国民主権もなげ捨てようという憲法改正草案を掲げる政党が政権与党となっているこの時代。平和の危うさは、誰の目にも明らかではないか。
政権は憲法を壊すことに血道を上げ、自衛隊という名の実力組織は次第に攻撃用の武器を装備し、海外での武力活動に道を開きつつある。学校は日の丸・君が代を強制し、大学では軍学共同が大手を振るう。NHKは「政府が右と言えば左とは言えない」体質を露わにし、政権は停波の脅しまでしてメディアを統制する。しかも、権力への忖度と自己規制の空気が瀰漫している。新聞・雑誌・出版界には排外的な右翼論調があふれ、巷にはヘイトデモが闊歩する。インターネットには醜悪なネトウヨ族が棲息して歴史の捏造に喝采を送る。あの活気に満ちた戦後民主主義は、いつからこんなふうにねじ曲がってしまったのだろうか。
しかし、まだ言論の自由はなくなっていない。軍国主義の本格的な復活にも至っていない。それぞれの分野で民主主義や平和を守るために努力を重ねている少なからぬ人々の献身によって、今の平和はようやくにして保たれている。この人々の力量に期待し自信をもちたいと思う。
ところで、日本国憲法は、戦争の惨禍をもたらしたものを抉りとってこれと訣別した。軍隊、軍国主義、国家主義、滅私奉公、経済の集中、政治弾圧、軍機保護、家父長制、男女差別、民族差別、国民間にも貴賤の差別、人権の軽視…。その中で最も重大なものが、旧天皇制である。それは、国民に大きくのしかかった政治権力であり権威でもあった。民主主義の敵対物であり、人権の抑圧者であり、しかも天皇制こそが平和の障害であった。
天皇制が戦争をもたらした大きな要因であっただけでなく、昭和天皇個人が戦争に直接の責任を有していた。太平洋戦争の開戦に重大な責任があり、終戦を遅らせて戦禍を拡大させたことにも大きな責任を負っている。12月8日には天皇の開戦の責任を、8月15日には終戦遅滞の責任を問い返さねばならない。
この問題意識に、最も明瞭に回答を出しているのが、「天皇の戦争責任」(井上清・現代評論社、後に岩波)である。その「第?章 天皇裕仁が対英米開戦を決定した」において、天皇(裕仁)がいかに積極的に深く開戦に関与していたかが活写されている。紹介したいのは、その章の末尾にある次の指摘。「宣戦の詔書は国際法を無視」という小見出しの叙述である。戦争の違法を天皇が認識していたことを明らかにしている。
「12月8日、日本海軍は、政府の対米最後通牒が先方にとどく前に、真珠湾を奇襲攻撃して対米英戦の火ぶたを切った。海軍の対米不意打ちが、国際法違反とか、日本の侵略性の証拠とか、いってさわがれる。だが私は、これはたいした問題ではないと思う。アメリカがわが上手に日本を挑発して先に発砲させただけのことである。
真珠湾奇襲とは質的にちがう、日本の国際法違反は、12月8日未明、日本が軍隊をタイ国の同意なしに同国領に進駐させ、同国南部を占領して、そこからマレー半島に南下していったことである。またそれとは別に、日本は8日正午にはタイ国政府を軍事的に脅迫して、日本軍のタイ国通過を認めさせたが、これほど明白な公然たる侵略がまたとあろうか。タイ国はこれまでどんな小さな対日挑発もしなかったし、日本の敵国と同盟してもいなかった。そのタイ国に日本は不意打ちをかけ、さらに12月21日には日泰軍事同盟を強制した。天皇と軍部は、本章の前節でのべたように大義名分をすて、国際法をもふみにじり、奇襲の成功を選んだ。」
「天皇裕仁は開戦の日、日本国民に「米英両国に対する宣戦の詔書」を発した。裕仁はこの詔書で、「朕が陸海軍将兵」、「朕が百僚有司」、「朕が衆庶」がそれぞれの持場で全力をつくし戦争目的を達成せよと、全国民に号令した。この詔書こそ、日本国民にこの戦争は日本の自存自衛のためにやむをえない戦争であると信じさせ、国民を戦争にかりたてた最大の原動力であった。
この詔書は、これまでに明治天皇と大正天皇が発したすべての対外宣戦の詔書とくらべて、きわだった相違がある。以前の詔書は必ず「国際法に俘らざる限り」(日清戦争)、「凡そ国際条規の範囲に於て」(日露戦争、日独戦争のさいも同文言)、いっさいの手段をつくして勝利をかちとれというが、裕仁天皇の宣戦の詔書には、そのような限定が一字もない。裕仁は詔勅に何を書くかはとくに慎重に配慮したことは前にものべた(第?章第三節)。その慎重な裕仁が、この詔書で日本の軍隊・国民の戦争行為を従来のすべての宣戦詔書とはちがって、国際法のゆるす範囲内に限定しなかったのは、意味深いことである。天皇も政府も国際法をふみにじって宣戦以前に奇襲攻撃をかけることを予定していたのだから、「国際法に俘らざる限り」とか「凡そ国際条規の範囲に於て」とか、詔書に書きこむことはできなかったのである。」
なお、井上清は、その書全体の末尾に、「天皇の戦争責任を問う現代的意味」という項を設けて次のように結んでいる。
「天皇は輔弼機関のいうがままに動くので責任は輔弼機関にあり、天皇にはないという論法に、何の根拠もない。
東条首相はそのひんぴんたる内奏癖によって、天皇の意向をいちいち確かめながら、それを実現するように努力したのであって、天皇をつんぼさじきに置いて、勝手に戦争にふみ切り、天皇にいやいやながら裁可させたのではない。」
「占領軍の極東国際軍事法廷は、天皇裕仁の責任をすこしも問わなかった。それはアメリカ政府の政治的方針によることであったとはいえ、われわれ日本人民がその当時無力であったためでもある。降伏決定はもっぱら日本の支配層の最上層部のみによって、人民には極秘のうちに、『国体』すなわち天皇制護持のためにのみ行なわれた。人民は降伏決定に何ら積極的な役割を果すことがなかった。そして降伏後も人民の大多数はなお天皇制護持の呪文にしばりつづけられた。日本人民は天皇の戦争責任を問う大運動をおこすことはできなかった。
アメリカ帝国主義は、天皇の責任を追及するのではなく、反対に天皇をアメリカの日本支配の道具に利用する道を選んだ。しかも現代日本の支配層は、自由民主党の憲法改定案の方向が示すように、天皇を、やがては日本国の元首とし、法制上にも日本軍国主義の最高指揮者として明確にしようとしている。」
「この状況のもとで、1931?45年の戦争における天皇裕仁の責任を明白にすることは、たんなる過去のせんぎだてではなく、現在の軍国主義再起に反対するたたかいの、思想的文化的な戦線でのもっとも重要なことである、といわざるをえない。」
立憲主義を破壊したアベ政権下、天皇責任論タブー視の言論状況の中で、井上清が1975年に発した警告を一層深刻に受け止めなければならない。天皇制とは、国民主権・民主主義の対立概念である。主権者国民の自立意識と民主主義の成熟が、国際協調と平和に親和的である。天皇制と天皇の責任を歴史の中に確認することが、再び権力や権威に操られない自立した国民の自覚を形成する上で必要不可欠だと思う。
アベ首相のパールハーバー参りは「謝罪抜き」だということである。戦争の原因や責任を語ることもないのだろう。自然災害による死者に対しては、「慰霊」で十分であろう。しかし、天皇と東条内閣がたくらんだ不意打ちの奇襲による戦死者に、謝罪抜きの「慰霊」で向き合うことがはたして可能であろうか。安倍晋三は、東条内閣の商工大臣であった岸信介の孫でもある。どうしても責任はまとわりついて離れない。戦没者は、戦争の悲惨とその原因を重く問いかける。戦争を反省しようとしない安倍晋三は、はたしてパールハーバーで亡くなった米軍の兵士たちに届く言葉を発することができるだろうか。
(2016年12月8日)