澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安倍国葬出席の最高裁長官、不見識ではないか。

(2022年10月12日)
 安倍国葬という奇妙奇天烈な代物については、多方面にわたって問題山積である。今後長期にわたっての徹底的な検討で解明しなければならない。

 私も、問題と思った一点を書き留めておきたい。戸倉三郎最高裁長官が当然のごとく「葬儀」に参列して追悼の辞を述べたことへの違和感である。これを違憲・違法とまでは言いがたいが、どう考えても不見識である。戸倉長官は、内閣からの参列要請を拒否すべきではなかったか。

 もし、長官が司法の独立の観点から安倍国葬参列を拒否し、その理由を記者会見で明示でもしていれば、司法に対する世人の見方を変えることができたであろう。「司法の実態は行政権の一部でしかない」との社会に蔓延している固定観念を覆し、行政権からの、また政権与党からの、司法権の独立をアピールする絶好の機会であったが、無念なるかな、その機を逸した。

 現実には、戸倉長官は、内閣から期待された役割を期待されたとおりに無難にこなした。内閣からも、政権与党からも無難な「番犬」との信頼を篤くしたところであるが、結局は何の問題提起もせず、国民には何の益するところももたらさなかった。

 メディアの一部には、「国葬であるからには、三権の長の列席があって当然」という感覚がある。その感覚の前提として、「最高裁長官とは結局のところ行政官ではないか」「内閣に指名された長官ではないか。内閣の要請を受けて当然」という牢固たる認識がある。

 しかし、日本国憲法の構造上、司法権の真骨頂は、内閣からの独立にある。確かに、最高裁長官は、内閣が指名し天皇が任命する。天皇の任命が形式的なものに過ぎないことは当然として、内閣が指名するから内閣に劣位する存在ではない。毅然として内閣の違憲・違法を糺すべき立場にある。

 今回の安倍国葬は、憲法にも法律にも根拠をもたない。仮に、最高裁が内閣法制局が首相に進言したという法的根拠の屁理屈を是認するとすれば、不見識も甚だしい。国権の最高機関とされる国会の関与もない。このような閣議決定限りの国葬に、内閣の要請で出席することを不見識という。

 「内閣の要請に応えて国葬の形を調えることに協力しても差し支えないのでは」との反論もあるかも知れない。しかし、最高裁は司法権の頂点に立ち、最高裁長官は大法廷の裁判長を務める。裁判体の長でもあるのだ。この国葬の違憲・違法をあらそう訴訟は既に数多く提起されており、これからも提起が予想される。それらの訴訟は最終的に最高裁の判断を仰ぐことになるのだ。

 最高裁長官の公正中立に対する信頼は、行政権と対峙して怯むところがないという全ての裁判官の姿勢から生まれる。最高裁長官が、内閣からの要請で、総理大臣を長く務めたというだけの保守政治家の葬儀に列席することは、憲法の想定するところではなく、国民の期待するところでもない。

受任の医療過誤事件が結審した。

(2022年10月3日)
 私と、澤藤大河とで担当している医療過誤損害賠償請求事件が、本日結審となった。東京地裁医療集中部の一つに係属している術後脳梗塞発症事案である。この手術の執刀者は、「神の手」とメディアからもてはやされた心臓外科医。原告は、チーム医療の不備を問題としてきた。被害者となった患者は開業医で、被告は都内の大学病院である。

 本日、最終準備書面を陳述し、原告訴訟代理人澤藤大河が10分余の、「主張の要点」を口頭で陳述した。最終準備書面の冒頭部分と、意見陳述要旨の冒頭をご紹介しておきたい。医療事故や医療過誤訴訟の一端をご理解いただきたい。

最終準備書面冒頭

                        

第1 事案の概要と主たる争点
1 人は病を得て診療を受ける。疾病を治療するために通院し入院し治療を受け、疾病を治癒しあるいは寛解を得て、日常に復帰する。病人として入院し、健康を回復して退院するのである。少なくとも、当初の疾患における症状を軽減して診療を終える。これが、患者の期待であり、通常の診療の推移である。そのために、医療はある。
 ところが本件においては、原告は開業医としての稼働に支障のない健康状態で、不要不急の入院治療を受け、労働能力を完全に喪失する医原性の疾患を得て退院した。健康体として入院し、重篤な障害者として退院した。障害は、被告の過失による医原性の事故によるものである。

2 原告の施術は、無症候性心筋虚血を原疾患とするものであった。原告に心疾患の自覚症状はなく、開業医としての原告の職業生活にまったく支障のないものであった。原告が敢えて不要不急の手術を受けたのは、被告病院の心臓外科に、「神の手」ともてはやされる練達の医師を迎えたという惹句によるものである。
 被告は、原告とその家族に対して、「神の手」による執刀の手術成績を誇大に喧伝し、術前になすべき手術の正確な危険性(リスク)についての説明を懈怠した。

3 原告は、被告病院心臓外科において不要不急の冠動脈バイパス(5枝)手術(以下、本件手術という)を受け、術直後に施術に起因する術後脳梗塞を発症し、間もなく症状固定して、後遺障害等級1級に相当する後遺障害が残存して今日に至っている。
 入院直前まで開業医として稼働していた原告が、術直後から労働能力を完全に喪失して今日に至り回復の見込みはない。

4 本件術後脳梗塞は、術中低血圧の継続に起因する低還流型と呼ばれる典型症状である。
 心臓外科手術中における患者の適正血圧維持は極めて重要な術者の義務であるところ、被告は臨床医学の知見において許容される術中患者の血圧の下限値を超えた血圧管理における明らかな過誤によって、原告に低還流型術後脳梗塞を発症させたものである。血圧管理過誤の存在が原告の低還流型術後脳梗塞発症を推認させるものであり、また、低還流型術後脳梗塞発症が被告の血圧管理の過誤、すなわち適正血圧維持の注意義務懈怠を物語るものでもある。

5 以上の事案の概要に即して、下記の各点が本件の争点となっている。
(1) 術中における患者の適正な血圧管理の懈怠
(2) 術前における手術リスクについての説明義務違反
(3) 各過失と損害との因果関係
(以下略)

原告主張の要約を陳述する。

                    

1.術中血圧管理における過失について
 被告には、適切な術中血圧管理によって十分な脳血流を維持し、患者の安全を確保すべき注意義務がある。
 脳は、生存に不可欠な重要臓器として極めて多量の酸素と栄養分を必要とし、これを脳血流から得ているが、その欠乏には脆弱である。必要で十分な脳血流を維持するために、人体には自動調整能が備わっている。
 通常、血圧に応じて血流量が決まる。しかし、様々な要因で変動する血圧に応じて脳血流量が変化するのでは、脳機能の維持に障害が生じ脳細胞の生存にも危険が生じる。一定の範囲では、血圧の変化にかかわらず、過不足ない脳血流を確保するための仕組みが自動調整能である。
 しかし、自動調整能の働く血圧範囲にも限界がある。血圧が低くなりすぎて自動調整能が作動する範囲を逸脱した場合、直ちに血流が途絶えることにはならないが、必要な脳血流量を維持することはできず、脳虚血が生じる。
 その血圧の下限には個体差もあり、個々のケースで脳虚血が生じる血圧下限を明確に知ることはできない。だからこそ、患者の安全のために、長年の経験の蓄積によって、間違いなく安全であると確認されている成書の記載に従うほかない。
 最も権威ある麻酔科の教科書『ミラー麻酔科学』には、端的にMAP(平均血圧)70mmHgとされている。被告提出の成書『神経麻酔』によっても、同65mmHgである。これを下回ることのないよう術中血圧を維持すべきが医療水準として求められ、術中血圧管理における被告の注意義務の根拠となる。
 本件手術中の血圧記録によれば、主位的な主張であるMAP70mmHg維持義務違反で3時間16分間、全手術時間に対して65.8%に及ぶ。また、予備的な主張であるMAP65mmHg維持義務違反で2時間44分間、全手術時間に対して55%である。
 被告の過失は明白で、術中長時間にわたり脳に深刻な虚血が生じたことも明らかというべきである。
 被告の血圧管理についての反論は、結局のところ、術中血圧管理の基準はないという驚くべきものであった。実際、術前に血圧管理の目標値を定めた事実はなく、術終了まで、基準を意識した形跡もない。
 被告は、オフポンプのバイパス手術であることを低血圧が許容される理由としているが、明らかな誤りである。自動調整能は、人間の生体としての機能であって、その作動の範囲が手術の目的や態様で左右されることはありえない。人間の体は、オンポンプであれば脳血流を維持しえないが、オフポンプであれば脳血流を頑張って供給するという便利な仕組みにはなっていない。
 医療水準を無視した危険なオフポンプ手術の例をいくら並べても、本件手術における被告の過失がなくなるわけではない。そのような例においては、安全のために見込まれたマージンをギリギリまで使っただけであって、本件で脳虚血が生じていない証拠にはならない。被告がこの点の根拠として引用する文献や医師意見書については、甲B6落合亮一医師の厳密な医学的見地からの反駁をご理解いただきたい。
 なお被告は、繰り返し術中のセンサーにより脳虚血を検知できる態勢をとっていたと述べているが、全く無意味な主張である。現実に本件脳梗塞を生じさせた脳虚血は検知できていないし、本件術中の検査態勢はそもそも患者の脳梗塞を検知するためのものではない。(中略)

3.説明義務違反について
 手術適応の有無に関する術前検査が終了した時点で、医師は患者に対して、最終的な術前説明の義務を負う。具体的な検査結果を一般的な医学的知見に照らして、予定された当該手術のリスクとメリットを正確に患者に伝達し、手術を受けるか否かの最終判断を可能とするための説明である。これは、医師の専門家責任の一端でもあり、患者の自己決定権が要求するところでもある。
 被告は果たしてそのような説明を行ったか。明らかに否である。(以下略)

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 医療過誤訴訟は患者の人権擁護の問題である。他の現代型訴訟と同様に、原告(患者)と被告(医師・医療機関)とは、けっして平等ではない。診療記録は全て被告側にあり、専門的知見にしても、また鑑定人や証人の準備にしても、訴訟にかける費用負担能力にしても、圧倒的な格差がある。いかにして、この格差を埋め、民事訴訟における実質的平等を実現するか。その営々たる努力がつみ重ねられてきた。

 本件を担当して、あらためて、その道半ばであることを痛感する。判決は来年1月。期待して待つ以外にないが、裁判所にはこの点についての十分な認識を得たい。

最高裁に告ぐ! 「こんなんじゃ、現場はやってられませんよ。裁判所の信頼を失墜させているのは、あなたたちでしょ」

(2022年6月21日)
 昨夜、ネットを検索して、たまたま岡口基一判事のブログに遭遇し、本日のタイトルの書き込みに衝撃を受けた。
 「岡口基一の『ボ2ネタ』」という連続ブログ。「2003年から続いている老舗「司法情報」ブログです。過去の司法記事の検索やリンクバーでの最新情報のチェックが便利です」との惹句がある。

 その全文が下記のとおり。これを見て、私は岡口基一判事に対するこれまでの見方を変えた。

2022-06-20 最高裁に告ぐ!!(怒)
東京高裁時代は白井部長が、
仙台高裁に来てからは上田部長が、
それこそ、夏休みも土日もなく、毎晩遅くまで残って、原発訴訟の起案をされ、
それこそ魂のこもった判決を仕上げられました。
どちらも、国の責任を認めるものでした。

それを、あんな、いい加減な理由で、いとも簡単に破棄し、差し戻すこともなく、自判してしまう。

 こんなんじゃ、現場は、やってられませんよ。
裁判所の信頼を失墜させているのは、あなたたちでしょ。最高裁に告ぐ!

 蛇足かも知れないが、少し解説しておきたい。岡口判事の現在の任地は仙台高裁、前任地が東京高裁である。「白井部長」とは、白井幸夫裁判官(36期)のこと。2021年2月19日、東京高裁第22民事部の裁判長として、国の責任を否定した千葉地裁判決を逆転し、東電への規制権限を行使しなかった国にも賠償責任があるとして、国と東電に計約2億7800万円を支払うよう命じる判決を言い渡している。

 また、「上田部長」とは、上田哲裁判官(40期)。2020年9月30日、仙台高裁第3民事部の裁判長として、「生業訴訟」に、国と東電の責任を認める判決を言い渡している。

 そして、「あんな、いい加減な理由で、いとも簡単に破棄し、差し戻すこともなく、自判」とは、先週金曜日(6月17日)の、国の責任を否定した最高裁第三小法廷判決を指していることは言うまでもない。

 これまで私は、岡口判事を、司法行政にまつろわぬ姿勢の裁判官として、貴重な存在と見ていた。このブログは、はるかにその域を超えている。この苦境の中で、最高裁に対する批判の発言を躊躇しないその信念には脱帽するしかない。

 民主主義社会では、誰もが批判の対象とならざるをえない。もちろん、最高裁も批判されねばならない。いや、最高裁にこそ的確な言論による批判が必要である。三権の一つの頂点にありながら、ややもすれば独善に陥りがちな最高裁である。まことに批判が不十分なのだ。本来憲法や人権を擁護すべき最高裁である。権力や資本や社会的強者の走狗となってはならない。その最も的確で有効な批判をなし得るのは、現場の裁判官ではないか。岡口判事は、その貴重な役割を意識的に果たしている。

 おそらくは、「こんなんじゃ、現場は、やってられませんよ」という岡口コメントに、多くの現場裁判官が内心は同じ思いをしていることであろう。だが、これに賛同の声を期待することは現実には困難である。そのような発言はすべきではないという倫理をもつ裁判官も少なくなかろう。しかし、最高裁への批判の声が上がらないのは、消極的な同意とみなされることになる。声を上げずしては、最高裁の姿勢は変わらない。岡口判事は、現場裁判官のホンネを代弁する貴重な役割をも果たしている。

 言論による権力批判は、民主主義社会の土台をなすものとしてその自由が保障されなければならない。最高裁には、この上なく不愉快な内部からの批判のコメントであろうが、だからこそ貴重なコメントと認識しなければならない。

 けっして岡口判事を罷免してはならない。日本が民主主義を標榜する社会である限り。

細田博之による文春への提訴もスラップである。その違法の追及が必要だ。

(2022年6月19日)
 18日付の各紙が、「細田博之衆院議長が文芸春秋社を提訴 『セクハラ報道、事実無根』」と報じている。細田は17日、女性記者へのセクハラ疑惑を報じた週刊文春の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の文芸春秋社に2200万円の損害賠償、謝罪広告の掲載、オンライン記事の削除を求めて東京地裁に提訴したとのこと。

 『週刊文春』5月26日号(同月19日発売)は、細田が過去に女性記者に対して、深夜自宅に「今から来ないか」と誘うなどセクハラ発言を繰り返していたと報道。翌週と翌々週にも続報記事2本を掲載した。細田側は「記事に記載されたセクハラや虚偽の説明、口止めを行ったことはなく、事実無根だ」と主張している。

 一方の文芸春秋側は、「小誌のセクハラ報道以来、国権の最高機関のトップである細田議長が、公の場で一度も説明されないまま提訴に至ったことは残念に思います。記事は複数の証言、証拠に基づくもので十分自信を持っており、裁判でセクハラの事実を明らかにしてまいります」と余裕のコメント。

 私は週刊文春も週刊新潮も大嫌いである。しかし、その報道の自由は尊重しなければならない。とりわけ、衆議院議長のセクハラ報道である。政治的・社会的圧力によって、その報道が闇に葬られてはならない。

 この件については、「細田博之・セクハラ疑惑報道に対するスラップの構造 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第200弾」(2022年5月28日)として、既に当ブロクに私の見解をアップした。
 https://article9.jp/wordpress/?p=19220

 スラップ訴訟の定義は必ずしも定まらないが、この細田による文春への提訴もスラップと呼んでよい。侵害された自分の権利の救済を求めての訴訟提起ではなく、自分の意に染まない言論を牽制しての提訴なのだから。

 但し、この提訴。言論に対する恫喝であるよりは、言論からの防衛の動機が透けて見える。あるいは、沸騰した世論の糾弾をかわすための時間かせぎの提訴。セクハラは事実無根と主張した以上は提訴せざるを得ず、訴訟の継続で時間を稼いでいる内に、世論が報道を忘れて沈静化するだろうという思惑。それでも、被告とされる側の応訴の手間暇や経済的負担に変わりはない。

 この種の訴訟には、社会的な要請として反訴が必要ではないか。その反訴では、細田の提訴の意図を徹底して追及してもらいたいと思う。

 この細田の対文春2000万円請求提訴はそれ自体が、不当なスラップとして違法となり得る。その理由は以下のとおりである。

 本来、民事訴訟とは、正当な権利や利益の侵害を救済するための制度である。ところが、そのような民事訴訟法本来の趣旨からは明らかに逸脱した提訴がある。被告に応訴の負担をかけることで言論を妨害しようとするものが典型で、このような場合は、提訴自体が違法行為となり、提訴者において損害賠償の責めを負わねばならない。細田の対文春提訴も、その種の提訴である。

? どのような場合に提訴が違法になるか。1988(昭和63)年1月26日?最高裁判所第三小法廷判決は、このように定式化している。

 「訴えの提起は、提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、同人がそのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて提起したなど、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り、相手方に対する違法な行為となる」

 これを本件に当て嵌めてみれば、次のとおりである。

「細田博之の文春に対する訴えの提起は、
(A)提訴者である細田が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、
(B1)細田がそのことを知りながら、又は
(B2)通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて提起したなど、
裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合は、文春に対する違法な行為となる。」

 この(A+B(1or2))の充足がスラップ違法の方程式。本件では、客観要件である(A)も、主観要件である(B1)も、事前に細田にはよく分かっているはずのこと。

 結局のところ、「2人きりで会いたい」「愛してる」「お尻を触られた」「文春はほぼ正しい」「抱きしめたいと言われ…」云々の週刊文春の記事が真実であれば、原告細田の名誉毀損訴訟が敗訴となるだけでなく、その提訴自体が違法となって反対に損害賠償債務を負担することになる。

 DHC・吉田嘉明は、私を名誉毀損で訴えて6000万円を請求してゼロ敗しただけでなく、その提訴が違法なスラップとして165万円の損害賠償を命じられた。スラップは民主主義の根幹をなす「表現の自由」に敵対する社会悪である。この社会悪をなくすために、文春にも「表現の自由」の旗を掲げて、細田と徹底して闘ってもらいたい。   

司法とは所詮は権力の一部なのだから、この最高裁判決は宿命というべきものなのだろうか。

(2022年6月18日)
 3・11福島第1原発事故に関しての「避難者訴訟」。昨日、注目の国の責任に関する最高裁判決が言い渡された。結果は、ニベもない請求棄却(自判)で終わった。この判決は、誰の意を体してのものなのだろうか。そして、あらためて思う。最高裁っていったい何者なのだろう。

 昨日の判決は、先行した福島(生業訴訟)、群馬、千葉、愛媛の4避難訴訟についての上告審。原審の各高裁判決は、国の責任を認めたもの3件、否定したもの1件だった。同種の集団訴訟は今回の4件を含めて約30件、原告総数は1万2000人以上となっている。これまで、1、2審で国の責任を肯定する判決が12件、否定するものが11件と割れているとは言え、肯定するものが多い。最高裁は、原審の判断を尊重するだろう。そんな楽観的な雰囲気の中での、敢えてした国寄り判決である。しかも、明らかに無理を押しての逆転判決。

 毎日新聞が「『最高裁、国にそんたく』『肩すかし』原告ら憤り」「原告らに冷淡な結末」と見出しを打ち、朝日は、「『将来に恥ずかしい判決』と原告」とした。産経までが、「『こんな判決出るとは』無念の原告 疲労と失望」である。

 第二小法廷は長官を出しているので、判決には4裁判官が関わる。結果は多数意見が3、反対意見が1だった。反対意見は検察官出身の三浦守判事のみ。弁護士出身判事までが多数意見にまわっているのはなんたることか。

 国が有する規制権限を適切に行使しなかった場合、国に国家賠償法上の損害賠償責任が生じる。3件の原判決は、国の機関が2002年に公表した地震予測「長期評価」に基づく津波対策を講じなかったことを違法とし、国の責任を認めた。ところが、最高裁は、国が(経済産業相)事故前の想定津波に基づき東電に防潮堤を建設させる規制権限を行使しても、東日本大震災の津波による原発事故を防ぐのは困難だったとして、国を免責した。これが、判決理由の骨格である。

 「判決理由の骨子」を引用すれば、以下のとおり。結果回避可能性否定の判断で請求を切り捨てている。

A(判断の枠組みの提示と有責の2要件)
 公務員による規制権限の不行使は、その権限を定めた法令の趣旨、目的等に照らし、(1) 《その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるとき》は、国家賠償法1条1項の適用上違法となる。そして、国が公務員による規制権限の不行使を理由として国家賠償責任を負うというためには、(2) 《上記公務員が規制権限を行使していれば被害者が被害を受けることはなかった》であろうという関係が認められなければならない。

B(想定された規制権限行使の態様)
 本件事故以前の我が国における原子炉施設の津波対策は、津波による原子炉施設の敷地の浸水が想定される場合、防潮堤、防波堤等の構造物を設置することにより上記敷地への海水の浸入を防止することを基本とするものであった。したがって、経済産業大臣が、2002年7月に公表された「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」(本件長期評価)を前提に、電気事業法(改正前のもの)40条に基づく規制権限を行使して、津波による福島第一原子力発電所(本件発電所)の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付けていた場合には、本件長期評価に基づいて想定される最大の津波が到来しても本件発電所の1?4号機の主要建屋の敷地(本件敷地)への海水の浸入を防ぐことができるように設計された防潮堤等を設置するという措置が講じられた蓋然(がいぜん)性が高い。

C(当該規制権限行使態様の非有効性)
 ところが、現実に発生した地震は、本件長期評価に基づいて想定される地震よりもはるかに規模が大きいものであり、また、現実の津波(本件津波)による主要建屋付近の浸水深も、本件試算津波による主要建屋付近の浸水深より規模が大きいものであった。そして、本件試算津波の高さは、本件敷地の南東側前面において本件敷地の高さを超えるものの、東側前面においては本件敷地の高さを超えることはなく、東側から海水が本件敷地に侵入することは想定されていなかったが、現実には本件津波の到来に伴い、本件敷地の南東側のみならず東側からも大量の海水が浸入している。
 これらの事情に照らすと、本件試算津波と同じ規模の津波による浸水を防ぐ防潮堤等は、本件敷地の南東側からの海水の浸入を防ぐことに主眼を置いたものとなる可能性が高く、一定の裕度を有するように設計されるであろうことを考慮しても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に侵入することを防ぐことはできなかった可能性が高い。

D(結論・有責要件(2) を欠いている)
 以上によれば、仮に経済産業大臣が、本件長期評価を前提に、規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に浸入し、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にあるといわざるを得ない。
 そうすると、経済産業大臣が規制権限を行使していれば本件事故またはこれと同様の事故が発生しなかったであろうという関係を認めることはできないから、被告国が原告らに対して国家賠償責任を負うということはできない。

 以上は、「一応の辻褄合わせの理屈」でしかない。最高裁が国の立場に立てば、国の主張をつなぎ合わせて、このような国の免責ストーリーを描くことはできよう。しかし、もちろん被害住民の立場に立てば、まったく別の立論が可能なのだ。何よりも、原発という途方もない危険物の管理についての国の責任の厳格さの捉え方がまったく違う。最高裁は、ことさらに国の立場に立ったのだ。

 我が国の最高裁は、どうして人権の側に立って権力に厳しい姿勢を貫くことができないのだろうか。これは我が国の最高裁に特有の欠陥なのだろうか。それとも、司法とは所詮は権力の一部にしか過ぎないのだから、宿命というべきものなのだろうか。

大阪高裁「旧優生保護法・違憲判決」に思う ー 法的正義を実現することが司法の役割だ

(2022年2月23日)
 法における正義とは何か、司法の役割とは、裁判官はどうあるべきか。そして人権とは、人間の尊厳とは、差別とは。さらに国会とは、議員とは。もちろん、弁護士のありかたも…。いくつものことを考えさせられ、教えられることの多い、昨日の旧優生保護法・違憲判決である。

 まずは、大阪高裁での逆転認容判決を喜びたい。国は、上告することなくこの問題の全面的な政治解決を試みるべきだろう。スモンの橋本龍太郎、ハンセンの小泉純一郎に倣うことができれば、岸田文雄の株も大いに上がろうというもの。

 法は正義の体系であり、法の正義を実現する手続が司法である。裁判官は、正義を見極めて判決を言い渡さなければならない。が、何が正義であるかは必ずしも容易に見えない。正義の所在を裁判官に示すのが、法廷での弁護士の役割である。

 各地の弁護団に、とりわけ最初にこの事件に取り組んだ仙台弁護団に敬意を表しなければならない。仮に、私にこの事件の受任依頼があったとして、果たして喜んで受けたであろうか、と考えざるを得ない。事案の内容はこの上なく深刻な人権侵害である、しかも国家による違憲・違法な行為。いまだ社会に根強い優生思想と切り結ぶ事案である。真っ当な弁護士なら義憤を感じて役に立ちたいと思うのは当然である。

 しかしこの事件、受任して本当に勝てるだろうか。勝訴の見込みは極めて低い。敗訴に終わった場合のリスクを考えると二の足を踏まざるを得ない。これが、普通の弁護士の感覚であろう。

 除斥期間の壁はあまりにも高く堅固である。除斥期間の起算点を強制された不妊手術時ではなく、旧優生保護法の「差別条項」が削除され、母体保護法に改正された1996年9月まで遅らせても、除斥期間の経過は明らかである。現実にこの壁を突破できるのか。

 むしろ、除斥期間の壁の突破ではなく、この壁を回避して、国会における人権救済立法措置を懈怠したという立法不作為の違法を問うとする請求の建て方の方が、まだしも見込みはあるというべきだろうが、これとて、立法不作為の違法を認めさせることは「ラクダが針の穴を通る」ほどの難しさ。受任の可否を打診された私は、「裁判は困難ですから、行政や国会での救済策が本筋でしょう」などと言っていたかも知れない。

 それでも、各地に被害者の人権を救済しようという弁護団が結成されて、8地裁に困難覚悟の提訴がなされた。日本の弁護士、なかなかに立派なものではないか。

 「原告らの無念の思いが裁判官の心に届いた」という、昨日判決後の大阪弁護団のコメントが、心に残る。裁判官に求められる最も必要な資質は、この「無念の思い」への共感力である。これあれば、法の正義の実現のために、一般的な法制度の壁を乗り越えることもできる。この判決は、「本件の提訴時には、既に20年の除籍期間は経過していた」ことを認めた上で、「除斥期間適用の効果をそのまま認めることは著しく正義・公平の理念に反する」と判断して、救済につながる除斥期間の適用制限を導き出した。

 判決は、要旨以下のとおりに旧優生保護法とこれに基づく「優生手術」強制の違憲違法を認定した。

 「旧優生保護法は特定の障害などを有する者に優生手術を受けることを強制するもので、子を産み育てるか否かについて意思決定をする自由や、意思に反して身体への侵襲を受けない自由を明らかに侵害するとともに差別的取り扱いをするものであるから、公共の福祉による制約として正当化できるものではなく、憲法13条、14条1項に反して違憲である。」

 この自己決定権や身体の自由、差別を受けない権利の保障の実現が、「法的正義」である。この正義実現のために、時効制度も除斥期間も可能な限り正義実現のための合目的的な解釈を要求される。本判決はその見本となった。

 ところで、この判決は、「旧優生保護法の立法目的は、優生上の見地から不良の子孫の出生を防止するものであり、特定の障害や疾患がある人を一律に「不良」と断定するものだ。非人道的かつ差別的で、個人の尊重という日本国憲法の基本理念に照らし、是認できない」(要旨)と述べている。優生思想を反憲法的で唾棄すべきものとする前提で貫かれている。

 人は平等である。どの人の尊厳も等しく尊重されねばならない。人に、「良」も「不良」もない。そのようなレッテルを貼ってはならない。ましてや「優生手術」の強制などおぞましいかぎりである。

 たまたま、本日は天皇誕生日。その「血統」故に「尊貴」な立場にあるとされる人物と、「血統不良」として子孫の出生防止の見地から若くして「優生手術」を強制された原告らと。同じ国の同じ時代に生きる者の間のあまりに深い落差に目が眩む思いがする。血統における「尊貴」も「不良」も厳格に否定するところから人権の尊重は始まる。

岡口基一判事の弾劾裁判・初回期日は3月2日 ー 罷免の判決をさせてはならない

(2022年2月13日)
 仙台高裁の岡口基一判事(55)が、国会に設けられている裁判官弾劾裁判所(裁判長・船田元)に罷免訴追されたのが昨年(21年)の6月。その第1回公判期日が3月2日に指定され、召喚状が送付された。

 弾劾裁判所は衆参両院の議員7人ずつ計14人の「裁判員」で構成され、3分の2以上の賛成で罷免される。罷免以外の処分はなく、仮に罷免判決となれば不服申し立ての手続はない。罷免の効果として、岡口判事は法曹資格を失う。弁護士としての登録もできない。

 報道によれば、罷免訴追は、2012年に盗撮事件で罰金刑を受けた大阪地裁の判事補以来で9人目(10件目)となった。そのうち過去7人が弾劾裁判で罷免判決を受けているという。また、初公判では人定質問や訴追状朗読などの手続きが行われ、2回目以降の期日は未定だが、判決は今国会中に言い渡されると言われている。

 法廷は公開である。傍聴手続は以下のとおり。
  ○事  件  名   罷免訴追事件(令和3年(訴)第1号)
  ○開 廷 日 時   令和4年3月2日(水)午後1時30分
  ○場 所     裁判官弾劾裁判所(参議院第二別館南棟9階)
  ○傍 聴 席 数   19席
  ○申込み方法等  2月24日(木)の正午までにメール又ははがきで申し込まれた方を対象に抽せん。
   メールで申し込まれる方はこちらから
    https://www.dangai.go.jp/info/boucho.html
 はがきで申し込まれる方は、住所、氏名、電話番号を明記の上
  郵便番号 100?0014
  東京都千代田区永田町一丁目11?16参議院第二別館内
  裁判官弾劾裁判所事務局総務課宛てに申し込みを

私は、昨年8月にこの件についての記事を当ブログに掲載した。目を通していただけたらありがたい。

弾劾裁判所は、岡口基一裁判官を罷免してはならない。
(2021年8月28日)

https://article9.jp/wordpress/?p=17458

「不当な訴追から岡口基一裁判官を守る会」が作られ、罷免に反対する共同声明への賛同者を募集し集約している。

 https://okaguchi.net/
 https://okaguchi.net/?page_id=93

岡口基一裁判官の罷免に反対する共同声明

 本年(2021年)6月16日、仙台高等裁判所判事である岡口基一氏が、裁判官訴追委員会により裁判官弾劾裁判所に罷免訴追された。訴追状によれば、都合13件にわたる訴追事由が挙げられているところ、いずれも職務と関係しない私生活上の行状であり、その全てがインターネット上での書き込み及び取材や記者会見での発言という表現行為を問題とする訴追となっている。
 訴追事由13件のうち10件は、殺人事件被害者遺族に関するものであり、その中には遺族に対してなされたものもあり、内容的あるいは表現的に不適切なものもないわけではなく、この点同判事にも反省すべき点があるのかもしれない。しかしながら、弾劾裁判による罷免は、裁判官の職を解くのみならず退職金不支給、法曹資格の剥奪という極めて厳しい効果をもたらす懲罰であり、裁判官の独立の観点から、軽々に罷免処分がなされてはならない。重大な刑事犯罪により明らかに法曹として不適任な者に対してなされてきた従前の罷免の案件とは異なり、本件には刑事犯罪に該当する行為はなく、行為そのものも全て職務と関係しない私的な表現行為であって、従前の罷免案件に比べ明らかに異質である。このような行為に対する罷免は過度な懲罰であり、岡口氏個人としての人権上も極めて問題であるばかりか、裁判官の独立の観点から憂慮すべき事態である。また、本件が先例となることにより、裁判官の表現行為その他私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。本件行為に不適切性があるとするなら、話し合いや直接の謝罪等で解決されるべきであり、罷免とすることは相当ではない。
 私たちは、裁判官弾劾裁判所に対し、従前の案件との均衡や弾劾裁判所による罷免の重大性等を十分考慮の上、罷免しないとする判決をされるよう要請する。

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 現在、元裁判官(21人)と、弁護士(985人)、および「裁判所職員、司法書士、その他の士業、司法修習生」が賛同者として名を連ね、コメントを寄せている。

まず私のコメント
澤藤統一郎 司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。司法行政の統制に服することなく市民的自由を意識的に行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。その貴重な裁判官を訴追し罷免することは、司法の独立の核心を揺るがすことであり、政治権力による司法部に対する統制を許すことにもなる。けっして罷免の判決をさせてはならない。

そして、元裁判官の何人かのコメントをご紹介したい。

井戸謙一
 弾劾裁判による罷免は、比例原則に違反します。更に他の裁判官は、表現活動で枠を踏み越えると強烈なサンクションが待っていると学習すれば、今以上に、内に閉じこもることになるでしょう。裁判所全体に与える悪影響は図り知れません。

森野俊彦
 「私たちの主張」にもあるとおり、岡口氏の言動中には不適切なものもあるが、これに対して死刑ともいうべき「弾劾罷免」に処することは、到底納得し難く、それでなくとも社会に対して発言しない裁判官をますます萎縮させることになるから、百害あって一利なしというべきである。

山田徹
 岡口君ほど,法律関係の最新の情勢をフォローし,調べた上で自ら考え,臆さずに発信してくれる現役の裁判官はいない。だからこそ今回の件では言い過ぎたところがあるかもしれないが,裁判官としての能力や資質は、明らかに人並み以上である。彼を罷免することなど,法曹界だけでなく社会にとって大きな損失であるし,戒告処分で終わったはずのことである。たくさん物を言ったからといって,そのごく一部分だけをとらえて,これも表現の自由を体現している白ブリーフ写真などと適宜リンクさせるなどして,出る杭は打つかのごとく,自由に物を言える雰囲気を,国家が奪おうとするのであれば,ヒラメ裁判官の養殖こそが優先されることにもなり,貴重な情報に市民が触れることもできなくなり,これこそ表現の不自由展を国が主宰しているようなものだ。訴追委員会や弾劾裁判所を構成する国会議員は,そういったことをわかっているのか。

仲戸川隆人
 裁判官弾劾法2条2号は,「その他職務の内外を問わず,裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行があったとき」を弾劾による罷免の事由と規定している。弾劾による裁判官の罷免は,裁判官を失職させるばかりか,法曹資格を5年以上の長期にわたって喪失させるもので,その法律効果が極めて重大な制裁であるから,その法律要件である同号の「裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行」の解釈適用にあたっては,『著しく』を厳密に解釈し,過去に弾劾裁判で罷免された事案の様に,刑事罰に該当する行為や明確な違法行為に匹敵する行為に限定して適用すべきものである。そうすると,本件で,仮に,訴追状記載の13の各事由が認められたとしても,また,これらを総合して評価をしたとしても,同号の「裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行」に該当すると判断することはできない。万一,本件で岡口基一裁判官を罷免する判決がなされた場合,同号の構成要件を幅広く拡張して解釈して適用する悪しき先例となるから,裁判官の表現行為にとどまらず,裁判官の身分保障,裁判の独立,裁判官の市民的自由に対して計り知れない深刻な影響を与えると考える。

下澤悦夫
1 岡口基一裁判官が、2015年11月12日発生の強盗殺人、強盗強姦未遂刑事事件及び犬の返還請求民事事件に関して、インターネット上で発言した行為は、いずれも憲法が保障する表現の自由に基づいて裁判官に許された行為である。
2 したがって、岡口基一裁判官の前記表現行為は、裁判官として、裁判官弾劾法第2条第1号所定の職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったときに該当せず、また、同条第2号所定の裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったときに該当しない。
3 裁判官弾劾裁判所が岡口基一裁判官に対して、前記刑事事件及び民事事件に関してインターネット上で発言したことを理由に罷免の裁判をすることは違法かつ不当である。

なお、裁判官弾劾裁判所裁判員等名簿は以下のとおり。

裁判長 船田 元(衆・自民)
第一代理裁判長 松山 政司(参・自民)
第二代理裁判長 階  猛(衆・立民)

衆議院選出裁判員
山本 有二(自民)
稲田 朋美(自民)
山下 貴司(自民)
杉本 和巳(維新)
北側 一雄(公明)

参議院選出裁判員
有村 治子(自民)
野上 浩太郎(自民)
鉢呂 吉雄(立憲)
古賀 之士(立憲)
安江 伸夫(公明)
片山 大介(維新)

弁護団は、虎の尾を踏んだのか、はたまた窮鼠に噛まれたか。

(2022年2月7日)
 弁護士は、民事訴訟では当事者の訴訟代理人となり刑事事件では弁護人となって、相手方弁護士や検察官と対峙する。本来闘う相手は、相手方弁護士であり検察官であって、裁判官ではない。

 裁判官は、言わば行司役である。力士は行司と闘わない。あるいは採点競技の審判員。フィギュアのスケーターは審判員とは争わない。法廷における弁護士ないし弁護団にとっても、裁判官は節度をもって接すべき説得の対象であって闘う相手ではない。これが平常時のセオリーである。

 しかし、非常時となれば話は別だ。ときには口角泡を飛ばしても裁判所と対決しなければならないこともある。最近、あまり弁護団と裁判所の法廷内の厳しい衝突を聞かないが、1月28日(金)午後、東京地裁102号法廷において「非常時」出来の報に接した。

 2月5日赤旗の報道を引用する。「裁判官が突然退廷」「東京地裁 『弁論権侵害』原告ら会見」という見出し。この見出しどおりの、奇妙なことが起こった。奇妙なだけではなく、看過できない問題をはらんでいる。

 戦争法(安保法制)違憲訴訟は、現在全国の22地域に25件の事件が係属しており、その原告総数は7699名になるという。東京では3件の訴訟が提起され、その一つが、「安保法制違憲訴訟・女の会」の提訴事件。原告121人と弁護団の全員が女性だけの国家賠償請求訴訟。係属裁判所は、東京地裁民事6部(武藤貴明裁判長)。この訴訟で事件が起こった。当日の法廷は東京地裁102号。通常は刑事専用の「大法廷」である。

 原告と弁護団は4日、司法記者クラブで記者会見を開いた。会見での説明は、「口頭弁論の最中に裁判官たちが突然退廷したことで弁論権を侵害された」ということ。

 1月28日午後の口頭弁論期日では開廷後30分間、弁護士3人が更新弁論の陳述を行った。4人目の弁護士が発言しようと起立し、「今後の立証について…」と意見を述べ始めたところ、それを遮るように裁判長が右手を差し出し、陪席裁判官に目配せした上で後ろの扉から退廷した、という。

 このときに裁判長は何らかの発言をしたようだが、小声で聞き取れなかった。代理人弁護士が『裁判長に戻ってきていただきたい』と書記官に求めたところ、1時間以上も待たされて『裁判長は来ない。閉廷した』と告げられた。これが、閉廷までに生じた顛末の全てのようなのだ。ここまでは、裁判長の訴訟指揮の問題。しかし、より大きな問題が法廷外に生じていた。

 およそ2時間後、原告・弁護団・傍聴人が法廷を出ようとすると、廊下に警察官を含む数十人の警備要員と柵がバリケードのように配置されていた、という。その人数は、60人にも及んでいた。これは、懐かしいピケである。弁護団は民事6部に出向こうとしたが、このピケに阻まれた。弁護団は、原告らが移動できない状態で「威圧された」とし、この過剰警備の法的根拠を明らかにするよう求めている。 
 この事態は、裁判所の側から、非常事態のスイッチを入れたことを意味している。一見和やかに見える民事訴訟の審理だがそれは平常時でのこと。非常時には強権が顔を出す。

 法廷内では、裁判長は強い訴訟指揮権をもっている。場合によっては法廷警察権の行使も可能である。訴訟指揮の権限は民事訴訟法上のもの(同法148条)だが、法廷の威信を保ち法廷の秩序を維持するために、裁判所法(71条1項など)は法廷警察権を明記している。法廷において裁判所の職務の執行を妨げたり,不当な行状をする者に対して退廷を命じることなどができる。その権限行使にあたっては,廷吏のほか警察官の派出を要求することもできる。

 さらに、「法廷等の秩序維持に関する法律」(略称「法秩法」)というものがある。
 裁判官の面前で,裁判所がとった措置に従わなかったり,暴言,暴行,喧騒そのほか不穏当な言動で裁判所の職務執行を妨害したりした場合、直ちに20日以下の期間での「監置」を命じることができる。これは恐い。

 法廷の外で裁判所の敷地内では、司法行政当局の庁舎管理権が幅を利かせることになる。裁判所構内への横断幕やプラカード持ち込み禁止、シュプレヒコール禁止、撮影禁止、禁止、禁止…は、この当局による庁舎管理権の行使によるものである。しかし当日、警察を呼ばざるを得ないような警備の必要がどこにあったというのか。

 いうまでもなく司法とは権力の一部であり、司法作用も権力作用の一部ではある。だから、非常時には強力な実力行使が可能という制度は調えられている。とはいえ、文明が想定する民主主義国家の司法とは、国民の納得の上に成立するものでなければならない。軽々に非常時のスイッチを入れてはならない。裁判所も、司法行政も、そして在野法曹も。

 普段は猫のように見えても、非常時のスイッチが入れば司法は虎となり得る。うっかり虎の尾を踏むと監置にもなりかねない。警察と対峙せざるを得なくもなる。しかし、今回の事件、とうてい弁護団が不用意に虎の尾を踏んだようには見えない。

 むしろ、係属裁判所も東京地裁当局も、「安保法制違憲訴訟・女の会」とその弁護団を過剰に恐れた故の事件だったのはないだろうか。どうも、裁判所は虎でなく、猫ですらなく、鼠だったごとくである。過剰に弁護団に対する恐怖に駆られて窮鼠となり、猫を噛んだとの印象が強い。裁判長にお願いしたい。法廷では、もっとフランクに、代理人席にも傍聴席にもよく聞こえるように発語願いたい。そして、けっして強権が支配する裁判所にはしないように配慮していただきたい。今回のごとき無用の強権発動は、結局のところ、国民の司法に対する信頼を失わしめるものなのだから。 

夫婦別姓訴訟での判決姿勢が分けた最高裁裁判官国民審査の結果

(2021年11月7日)
 思えば、先週の日曜日が総選挙の投開票日。あれから1週間だが、遠い日の出来事のようでもあり、昨日のことのようでもある。期待と現実の落差が大きく、まだしばらくは元の気分になれない。

 同じ日に、最高裁裁判官の国民審査。こちらは、それなりの手応え。中央選管の広報も、各紙の報道も、それなりのものではあったが、さて誰に「×」を付けるべきか、実は参考にならない。

 日民協プロジェクトチームの国民審査リーフレットが、「この裁判官に、こういう理由で「×」を」と明示しての訴えたことが好評だった。

 一応の総括案が提示されたのでご紹介したい。

2021 国民審査の結果について

第1 不信任の数が多い順 (左の数字は、記入用紙を右から見た並び順です)
1)深山卓也(67)=裁判官出身 4490554 票(7.85%)
5)林道晴(64)=裁判官出身 4415123 票(7.72%)
6)岡村和美(63)=行政官出身 4169205 票(7.29%)
11)長嶺安政(67)=行政官出身 4157731 票(7.27%)
3)宇賀克也(66)=学者出身 3936444 票(6.88%)
8)草野耕一(66)=弁護士出身 3846600 票(6.73%)
7)三浦守(65)=検察官出身 3838385 票(6.71%)
2)岡正晶(65)=弁護士出身 3570697 票(6.24%)
4)堺徹(63)=検察官出身 3565907 票(6.24%)
9)渡辺恵理子(62)=弁護士出身 3495810 票(6.11%)
10)安浪亮介(64)=裁判官出身 3411965 票(5.97%)

第2 「夫婦別姓」が争点化された
上記の審査対象の裁判官は、いずれも不信任とはなっていませんが、下記の新聞報道のとおり、また西川伸一先生のご指摘のとおり、夫婦別姓訴訟で何の悩みもなく「合憲」とした 4 人の判事のみが7%を超えています。

 また、具体的な裁判への関与がない岡、堺、渡辺、安浪の各氏は下位4人に入っています。
 「夫婦別姓訴訟」について大きな争点を作り上げたという意味では、私たちの活動も大きな役割を果たしたと言ってよいと思います。

第3 各社報道(抜粋)
朝日  7%を超えたのは、6 月の最高裁決定で夫婦別姓を認めない民法規定を合憲とする多数意見に加わった深山氏、林道晴氏、岡村和美氏、長嶺安政氏の 4 人(以下、敬称略)だった。

毎日 夫婦別姓を認めない民法の規定を「合憲」と判断した 4 人の裁判官の罷免を求める率が、他の7 人の裁判官と比べて 2 ポイント前後高かった。特定のテーマで罷免を求める率に突出した差が出るのは異例。

東京 不信任率が最も高かったのは、深山卓也氏の7.9%。「夫婦別姓」を認めない現行の民法と戸籍法の規定について「合憲」と判断した4人の罷免を求める率が、他の7 人と比べて高い傾向となった。

NHK 西川教授は「対象となった11人のうち、罷免を求める割合が7%を超えた 4人はいずれも夫婦別姓をめぐる判断で『民法の規定は憲法に違反しない』という結論に賛同していた。一方、6%台やそれ未満の7人は『憲法違反』と判断、または当時、就任していなかった。夫婦の名字をめぐる議論は身近なテーマで、選挙の争点の1つにもなっていて、1%の差が生じたのは決して偶然ではなく、それぞれの裁判官の判断が投票行動に影響した可能性が高いと考えられる」としています。

そのうえで「裁判官の判断に対して、国民が意思を示したのだとすれば、国民審査の意義に沿うもので歓迎すべきことだ。一方、今回は、就任したばかりで最高裁での仕事ぶりが十分に分からない裁判官が4 人も審査の対象となるなど、制度の課題は多い。国民審査を、より質の高い制度にするための議論が必要だ」と指摘しています(NHK)。

第4 若干の分析
1 夫婦別姓「明確合憲4人組」とその他の比較
 夫婦別姓「明確合憲4人組」(深山、林、岡村、長嶺)の罷免可の平均は、7.53%。一方で、その余の判事7名の罷免可の平均は、6.41%。両者は、1.17 倍の差があります。かなり有意な数字だと思います。
 特に、他でも悪い判決を出している深山・林は、岡村・長嶺に比べても、罷免可の率は、高いといえます。

2 最上位と最下位の比較など
 また、最上位の深山と最下位の安浪の差は、1.31 倍にも達します。

3 2017 年は、夫婦別姓が争点化しにくかった
2017 年国民投票(審査は 7 名)では、夫婦別姓については、判断材料にはならなかったようです。というのも、合憲判断(2015 年)に加わった小池、大谷(その他の 5 人は関与なし)については、小池は確かに最上位ですが、大谷は 7 人中 4 位です。
このときは、違憲判断を下した 5 名の判事が既に退官していたことから、「対比」の打ち出しができませんでした。

4 過去 5 回分の最上位と最下位の比較
2017年国民投票(審査は7名)では、最上位と最下位の差は、1.15倍です(8.56%と7.47%)。
2014 年国民投票(審査は 5 名)では、1.14 倍(9.57%と 8.42%)。
2012 年国民投票(審査は 10 名)では、1.10 倍(8.56%と 7.79%)。
2009 年国民審査(審査は 9 名)では、1.29 倍(7.73%と 6.00%)。
2005 年国民審査(審査は 6 名)では、1.05 倍(8.02%と 7.63%)。
今回は、近時の中では、最上位と最下位の差が一番大きく表れたと言えます。

「最高裁裁判官の国民審査、投票棄権の権利について」補論

(2021年10月29日・その2)
 昨日(10月28日)の当ブログ「最高裁裁判官の国民審査、投票棄権の権利について」の記事に、Blog「みずき」の東本さんからのコメントをいただいた。

 最高裁裁判官国民審査についての投票棄権の選択に関して…「投票所まで出向いて投票棄権の意志を告知するとどうやら『信任』にはカウントされないらしい(この点について澤藤さんははっきりと書いていないので『らしい』としか言えない)」というもの。

 「この点について澤藤さんははっきりと書いていない」とのご指摘に責任を感じて、投票日が迫っているので、急遽追加の記事を掲載する。

 選挙における棄権は投票所に足を運ばないだけのことで、「棄権の権利」とか、「投票棄権の選択」などを意識する必要もない。ところが、最高裁裁判官国民審査(以下、「国民審査」)の投票用紙は衆議院議員選挙の投票用紙と一緒に交付される。多くの人にとって、衆議院議員の選挙投票の目的で出向いた投票所で、国民審査の投票用紙の交付を受けることになる。従って、国民審査の投票棄権は、意識的にしなければならないことになる。

 目の前には国民審査の投票箱のみがあって棄権票入れの箱はない。投票用紙を受領した有権者(法律では「審査人」という)が、この状況をしつらえた選管の思惑のとおりに、そのまま何も書きこむことなく投票用紙を投票箱に投入すれば、「全裁判官信任」という取り扱いになる。この点、生活感覚と整合しないこととして違和感を禁じえない。

 「それは本意ではない。自分はすべての最高裁裁判官について、信任も不信任もしたくないのだ」という人が、少なからずいるはずである。この人たちについて、その意のとおり正確に取り扱いされるよう、国民審査投票「棄権の権利」を語る意味がある。

 国民審査投票の棄権は次の方法で可能である。
 (1) 投票所に足を運ぶことなく、総選挙投票とともに棄権する。
 (2) 総選挙の投票はするが、投票所での国民審査投票用紙交付の際に受領を拒否する。
 (3) いったん受領した国民審査投票用紙を投票箱に投入せず、選挙管理の職員に返還する。

 だから、「投票所まで出向かず総選挙の投票とともに国民審査投票を棄権すれば『信任』とも『不信任』ともならない」「しかし、投票所まで出向いて総選挙の投票をすれば、その機会に押し付け同然に国民審査投票棄用紙を交付される。このとき国民審査だけを棄権しようと思えば、国民審査の投票用紙を突っ返すしかない」「突っ返さずに漫然とそのまま投票用紙を国民審査の投票箱に入れてしまうと、『全裁判官信任』となってしまうからご注意」ということになる。なお、投票用紙を破棄したり持ち帰ることは、お勧めしない。

少し、法の定めを整理しておきたい。
最高裁裁判官国民審査は憲法上の制度である。

憲法第79条第2項 最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
同条第3項 前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
同条第4項 審査に関する事項は、法律でこれを定める。

79条3項の「投票者」に棄権者は含まれない。
同条4項によって「最高裁判所裁判官国民審査法」が制定されている。必要な条文を摘記する。

第6条 審査は、投票によりこれを行う。
? 投票は、一人一票に限る。

第15条(投票の方式)審査人は、投票所において、罷免を可とする裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に自ら×の記号を記載し、罷免を可としない裁判官については、投票用紙の当該裁判官に対する記載欄に何等の記載をしないで、これを投票箱に入れなければならない。

第22条(投票の効力)審査の投票で次の各号のいずれかに該当するものは、無効とする。
一 所定の用紙を用いないもの
二 ×の記号以外の事項を記載したもの
三 ×の記号を自ら記載したものでないもの

棄権は、そもそも票数に数えられない。○やら△を書き込んだ投票は法22条2号によって無効。「×だけを付けた(罷免を可とする)投票」と、「何も付けない(罷免を可としない)投票」だけが有効で、前者が後者を上回れば、当該裁判官は罷免されることになる。

 国民が裁判官の適格性を判断するとすれば、A適格・B不適格・Cどちらとも言えない(あるいは判断しがたい)の3選択肢が必要になろう。しかし、法は2択しか認めていない。×を付けない「AとC」とは区別されることなく結果として裁判官信任の意思表示として扱われることになる。通常人の生活感覚とは明らかに齟齬がある。

 従って、「適格・不適格のどちらとも言えない(あるいは判断しがたい)」という場合には積極的に棄権を選択するしかないし、棄権票の数が、×の投票に準ずる最高裁への批判として意味のあるものにもなる。

 但し、棄権は(今回は11人の)審査対象裁判官全員一括でしかできない。そのうちの何人かを積極的に信任し、あるいは不信任にして、その余についてだけ棄権するという方法は用意されていない。これは明らかに欠陥法の欠陥と言えよう。技術的には簡単なことで、各裁判官ごとに信任・不信任・棄権(○・×・△)の3択とすればよいだけのことなのだから、いずれ法改正を考えなければならない。

念のためだが、私は棄権をお勧めしているのではない。どうすればよいのかよく分からないとおっしゃる方には、全裁判官に「×」を付けるようにお勧めしたい。比較的マシな裁判官には、「×」をつけたくない、とおっしゃる方は、宇賀克也裁判官にだけは「×」を付けずに、他の10裁判官に「×」を付けて投票していただきたい。
 
各裁判官の具体的な評価については、下記のURLを参照願いたい。

国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf

第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html

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