安保法制懇報告を受けての5月15日首相記者会見は今や指弾の的。リアリティのない状況設定をむりやりに拵えあげて、集団的自衛権行使容認のための世論つくりをねらった姑息なやり口と悪評この上ない。
とはいうものの、同日の記者会見の席上、首相は「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してない」と確かに言った。これは集団安全保障への日本の参加はないことを明言したものである。さすがに集団的自衛権行使容認だけで手いっぱい、それ以上ははむりだと判断して先送りとしたのだな、そう了解した。
ところで、これまで当ブログは、わが国の首相の言動について、「悪徳商法セールスの才能豊か」「『コントロールとブロック』のウソでオリンピック招致を掠めとった」などと酷評してきた。だから、国民は軽々に危険なこの人物の言うことを信用してはいけないと警告してきたつもり。自分は欺されないとの思い込みを前提にしてのこと。
ところが、昨日(6月20日)の朝刊トップの見出しにおどろいた。「集団安保でも武力行使 政府自民容認へ転換」(朝日)、「集団安保で武力行使 政府・与党調整」(毎日)。与党協議を経ての閣議決定には、集団的自衛権行使容認だけでなく、集団安全保障における武力行使容認まで含まれるというのだ。えっ? 5月15日会見はウソだったか。私もころっと欺されていた。警戒心が足りなかった。
反省して、あらためて教訓を胸に刻んでおこう。
「安倍の話は、たっぷりと眉に唾を付けて聞け」
6月19日に突如として降って湧いたように、自民党は「国連の集団安全保障での武力行使にも自衛隊が参加できるようにすべきだ」と言いだした。こういうのを、「どさくさ紛れ」「火事場泥棒」というのではないか。いや、悪徳商法のあの常套手法、「高い値段をふっかけて、半値にまけて買わせる」ことを狙っているのだろうか。憲法がもてあそばれている。
これまでの与党協議では、自衛権の話しをしていたはず。「集団的自衛権とは『他国防衛のための武力行使を認める』ということ自衛とは無関係ではないか」などと議論していたはずが、自衛とも他衛とも無関係の、集団安全保障という「特定国に対する武力制裁の話し」にまで進行してしまっている。
「政府・自民党の提案は、安倍晋三首相が意欲を示すシーレーン(海上交通路)での戦闘中の機雷掃海を、集団的自衛権だけでなく、集団安全保障としてもできるようにするのが狙いだ」というのが各紙のもっぱらの見方。
「安倍首相は‥今月9日の参院決算委員会では、武力の行使には2種類あると説明。『爆撃を行ったり、部隊を上陸させて戦闘させたりする行為』である武力行使は行わない一方、『受動的かつ限定的な行為で性格を異にする』機雷掃海は行うべきだと主張した」という(6月21日「毎日・クローズアップ2014」)。自民党は「集団的自衛権の行使としての機雷除去が集団安全保障に切り替わったら継続できないのはおかしい」とも言っているようだ。ホルムズ海峡に敷設された機雷の掃海に争点が移ってきた如くである。掃海は受動的かつ限定的な防御行為であるのだから、集団的自衛権の行使としても、集団安全保障の武力行使としてであろうとも、最小限度性をクリヤーできるのではないか、と語られているわけだ。
同様の議論を20年前にたっぷりした経験がある。1991年の湾岸戦争の時のことだ。時の首相は海部俊樹。自民党の幹事長が小澤一郎だった。政府は海上自衛隊の掃海艇部隊をペルシャ湾に派遣した。戦後の日本にとって、はじめの海外軍事行動である。また、日本は多国籍軍に対して90億ドル(当時のレートで1兆2000億円)の戦費を負担した。
この掃海艇派遣と戦費の支出を差し止めようという1000人余の提訴が、市民平和訴訟であった。私が弁護団の事務局長を務めた。そのとき、なじみのない軍事用語に向き合った。掃海とか航路啓開の手法を学んだ。掃海艇がすべて木造船であること、機雷の種類も多種あって、海上自衛隊の掃海能力が国際的に高水準にあることなども初めて知って驚いた。このとき軍事知識の基本を教えてくれたのが大江志乃夫さん。大江さんがなによりも強調したのは、掃海あるいは航路啓開という行為は、海上の戦闘に不可欠で優れて戦闘そのものというべき積極的行為だということ。
防御行為と攻撃行為とは、常に一体としてある。戦闘行為の一部を切りとって、攻撃とは無縁の受動的な防御行為というのは詭弁に過ぎない。「攻撃こそ最大の防御である」とは言い古された言葉であり、「防御を固めておればこそ、強い攻撃に徹することができる」ことも理の当然である。しかし、掃海の戦闘行為としての積極性はそのレベルではない。
堂々たる大艦巨砲の進路を啓開するのが掃海艇の役割。いわば、掃海艇は、戦艦や駆逐艦、潜水艦の艦隊を後に従えて先頭を行く尖兵なのだ。爆撃機を護衛する戦闘機の役割を「防御」という者はない。掃海も同じことなのだ。だから、自衛隊による機雷掃海とは、まさしく積極的戦闘参加行為であって、これを「受動的・限定的」などという言い訳が通じるはずもなく、機雷敷設国から日本に対する反撃を覚悟しなければならない。
だから、湾岸戦争が終結する以前には掃海部隊の派遣はできるはずもないとされた。掃海艇が出航したのは、湾岸戦争終了後、PKO協力法に基づいてのことだった。戦争終結後は無主の浮遊物となった機雷の除去は戦闘参加ではないと確認してのことである。それでも反対世論は沸騰した。
しかしあの頃、「戦争終結以前に、多国籍軍の一員として、戦闘海域に自衛隊の掃海艇を派遣して多国籍軍艦隊の航路を啓開せよ」などという乱暴な議論は聞かなかった。いま、臆面もなくそのことが言い出されている。当時の「海部・小澤」と、今の「安倍・石破」との危険度の開きの大きさを痛感せざるを得ない。
(2014年6月21日)
たまたま、「軍事研究」という月刊誌の最新号(2014年7月号)に目を通した。
普段は私に縁のない異界の専門誌だが、水島朝穂さんの愛読誌なのだそうだ。水島さんが、もう10年も前の「直言」に次のように記載している。
「私は、『朝雲』よりも1年早く『軍事研究』の定期購読を始めた。自宅書庫には、‥創刊号(1966年4月号)からの‥38年分がぎっしり詰まっている。‥一時期、正確には1973年7月号から1979年2月号まで、表紙の題字の下に『戦争のあらゆる要因を追求して人類恒久の平和を確立する』という言葉が掲げられていた。まるで『平和研究』誌である。軍事を語ることにそれだけイクスキュースが必要だったのだろう。
ところで、この雑誌で毎号まっさきに読むのがイエローページ、『市ヶ谷レーダーサイト』である。防衛庁が六本木にあったので、長らく「六本木レーダーサイト」といった。筆者は『北郷源太郎』。小名孝雄(『軍事研究』創設者)のペンネームと言われている。この人物は、北海道で『北方ジャーナル』というブラックジャーナルを主催。憲法学の世界では周知の『北方ジャーナル事件』の当事者である。この事件で最高裁判所大法廷は、『人格権としての名誉権』を基礎として、権利侵害を予防するための差止め請求権を承認し、これにより表現行為(この場合は雑誌という出版物)に対して差止めを行うことを一定の条件のもとで許容するという注目すべき判決を出している(1986年6月11日)。『市ヶ谷レーダーサイト』は、その小名の経験とセンスを遺憾なく発揮して、将官人事の動向から次期幕僚長候補、内局の人事異動まで異様に詳しい。」
水島さんにこれだけ論じてもらえれば「軍事研究」も本望だろう。私も、水島解説に大いに興味をそそられる。
最近号は、特集記事「ウクライナ侵攻作戦&中国原子力空母」で手にしてみたのだが、件のイエローページ「市ヶ谷レーダーサイト」に目が行った。タイトルは「安倍総理の防衛知識は大丈夫なのか?」。結論は、「姑息な手段に逃げないで、堂々と憲法改正をすべきである」だが、その過程になかなか注目すべきことが書いてある。
注目すべき第1点は、「安倍総理の防衛知識は大丈夫なのか?」の内容。
「安倍総理は5月15日の記者会見で、集団的自衛権行使容認の必要性とその為の憲法解釈の変更の必要性を、自らパネルを使い熱弁をふるって説明した。‥驚くべきは二つに絞ったパネルの内容である。一つは避難邦人を乗せた米輸送艦を日本の護衛艦が護衛できないというもの。もう一つは海外派遣されている自衛隊がテロリストに襲撃されたNGOを救援できないというもの。小保方先生の実験ノートにも驚かされたが、このパネルはそれに匹敵するほどお粗末な代物だ。‥隣国で有事となり逃げ遅れた邦人を救出しなければならない場合で、米輸送艦を護衛するための護衛艦を派遣できる環境と余裕があるのなら、なにも米輸送艦に頼む必要など最初からないのであって、海自の輸送艦やチヤーター船を派遣すればいいのではないだろうか。そもそも米輸送艦が邦人を輸送するというケースなどあるのだろうか。少なくとも日米安保条約上の義務として米軍がそうする義務はまったくないし、軍事的合理性から見てもそのようなことはしないだろう。次のNGO救援も然り。‥また良く喧伝されるグレーゾーンについても治安出動や海警行動で対処できるものばかりである。」
注目すべき第2点が、軍事研究専門家から見た、集団的自衛権概念の捉え方である。
「巷の意見を聞いても、集団的自衛権の行使ができなければ日本の防衛が心配だという声となって来る。しかしそれは集団的自衛権を、日米が集団となって自衛しようという権利とでも誤解しているに違いない。集団的自衛権とはあくまで集団になって防衛する権利ではなく、『武力攻撃を受けた国が自国と密接な関係にある場合に、これをもって自国の平和と安全を侵害するものと認め、被攻撃国を援助して共同防衛に当たる権利』である。平たく言えば自ら攻撃されてなくても侵略国を攻撃する権利だ。即ち憲法9条で禁止された戦力にはできても防衛力にはできない『先制攻撃』と『海外派兵』をすることなのである」
敢えて繰り返す。集団的自衛権を、「日米が集団となって自衛しようという権利」などと誤解してはいけない。集団的自衛権とは、「武力攻撃を受けた国が自国と密接な関係にある場合に、これをもって自国の平和と安全を侵害するものと認め、被攻撃国を援助して共同防衛に当たる権利」なのである。ここまでは、平凡で平板な記述。目を惹くのは、「平たく言えば」以下の底意。「自ら攻撃されてなくても侵略国を攻撃する権利だ」。もっと具体的には、「憲法9条で禁止された戦力にはできても防衛力にはできない『先制攻撃』と『海外派兵』をすること」だという。つまるところ、集団的自衛権とは現行憲法では認められない『先制攻撃』と『海外派兵』をする権利なのだ。
少し、コメントを加えたい。「自ら攻撃されてなくても侵略国を攻撃する権利」は不正確であろう。集団的自衛権行使の相手国は、「侵略国」である必要はない。「武力攻撃を受けた国」で十分なのだ。ベトナムがアメリカに対する侵略国だから、わが国がベトナムに対して集団的自衛権としての武力行使が可能となるわけではない。アフガン、イラクについても同様。集団的自衛権行使が、「侵略国」を相手にする場合にだけ認められるというロジックはありえない。
集団的自衛権とは、具体的には「憲法9条で禁止された戦力にはできても防衛力にはできない『先制攻撃』と『海外派兵』をすること」と喝破しているのは炯眼というべきである。水島さんが、筆者の「経験とセンスが遺憾なく発揮」されていると言うのもむべなるかな。
憲法9条(2項)は「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定めている。憲法によって保持を禁じられた「戦力」とは、「自衛権行使のための最小限度」を超過する実力を意味する。集団的自衛権の行使を容認するとは、「自衛のため」の実力という制約を取り払うこと。それは、自衛力(この記事では「防衛力」)ができなかったことを可能とすること。現行憲法では禁止された「戦力」を保持することであり、自衛力では突破できなかった『先制攻撃』と『海外派兵』を可能とすることなのだ。
筆者北郷源太郎は「だから、今の憲法のもとではできない。堂々と国民に信を問う手続を踏んで憲法改正をすべきだ」と言う。
私は、「今の憲法のもとではできない。姑息な解釈改憲は許されない」点には同意する。しかし、「だから、堂々と、明文改憲をすべきだ」という見解には、到底賛成できない。「先制攻撃」も「海外派兵」も許さぬ憲法を守り抜こう。
(2014年6月19日)
有楽町駅頭をご通行中の皆様、ご紹介いただきました東京弁護士会憲法問題対策センター委員の澤藤と申します。ただいま、東京弁護士会会長、第二東京弁護士会会長以下、集団的自衛権問題で、弁護士が駅頭の訴えをさせていただいております。しばらくお耳をお貸しください。集団的自衛権問題を解説している日弁連のリーフレットを配布しています。ぜひ、お手にとってお読みください。
「集団的自衛権」とは何でしょうか。なぜその行使を容認し得ないのでしょうか。このことを分かりやすくどう訴えたらよいのか、永く考え続けてきて、少しずつ自分なりに考えが整理されまとまってきました。
集団的自衛権には、権利の「権」が付いています。いったいどんな権利というべきでしょうか。「自衛権」なら分かりやすい。「戦争をしかけられたときに、やむをえない範囲での反撃として武力を行使する権利」。このように説明して、誰にでも理解してもらえると思います。しかし、集団的自衛権の方は、自国が攻撃されていない場合を想定しているのですから、明らかに自衛のために武力を行使する権利とは違うもの。分かりにくいこと、この上ない。
自衛のためにするものではない武力の行使とは、「戦争をしかける」ことにほかなりません。自衛権の行使ではない武力の行使を権利とする集団的自衛権とは、結局のところ「戦争をしかける権利」だと言わざるを得ません。ですから、わが国が集団的自衛権を発動して武力を行使した場合、武力行使をしかけられた相手国は、当然に自衛権を行使してわが国に武力をもって反撃する権利を取得することになります。これはわざわざ危険を招き寄せる愚行というべきではないでしょうか。
戦争は、仕掛ける国があって始まります。これまで、わが国は専守防衛に徹することを頑なに宣言し続けてきました。現実にわが国が攻撃をしかけられた場合にだけ自衛権を発動する、そのための自衛隊だという原則を守ってきました。絶対に戦争を仕掛ける国にはならないとしてきたのです。ところが、集団的自衛権の行使容認とは、その原則を投げ捨てて、「日本が戦争を仕掛けることができる国になる」ということなのです。集団的自衛権とは、「戦争をしかける権利」のこと。安倍政権はいま、その「他国に戦争をしかける権利」を手に入れようとしているのです。しかも、国民の意思も国会の意思さえも問うことなく、閣議決定による一内閣の憲法解釈変更をもって、憲法をねじ曲げてしまおうということなのです。
なぜ、集団的自衛権行使を容認し得ないのか。それは憲法が「他国に戦争をしかける権利」など認めていないことが明らかだからです。集団的自衛権行使とは、積極的に戦争を仕掛けることであり、平和を破壊する行為そのものだからです。日本国憲法をどう読んでも、集団的自衛権の行使を認める余地はありません。
この世には戦争をしたい人が確実にいます。戦争間近の緊張関係を歓迎する人は、もっと数が多い。一部の人にとっては、兵器の調達で莫大な儲けを掴むチャンスです。また、戦争とは領土を保全し、市場を獲得し、資源を確保するために有効な手段だと信じられてもいます。景気を刺激する手段として有効だとも考えられています。国内の諸矛盾や国民の不満を、戦争の熱狂をもって一気に逸らして解決する手段として魅力的でもあります。鬱屈した国民の気分を刷新し統合するために、あるいは売名意欲の高い者にとっては、功を遂げ、歴史に名をなす絶好のチャンスだともとらえられています。
しかし、まだ、さすがに、時代の空気は、大っぴらには「戦争しましょう」と呼び掛けることを許してはいません。そんな呼びかけは、安倍首相といえども躊躇せざるをえません。そこで、戦争をしたい人々は、国民に向かってこう言うことになります。
「危険な敵性国が、どんな出方をしても直ちに武力対応できるように準備怠りなくしておきましょう」「万全の想定の下、万全の武力行使の準備を整えておくことが安全で安心につながる方策として納得いただけますよね」。
実は、これこそ、戦争を招き寄せる危険な言動ではないでしょうか。近隣諸国を敵性国と規定して、その適性国がわが国に危険な行為をするであろうと大っぴらに公言して、対処の方法を整備する。これは挑発以外の何ものでもありません。近隣諸国の側から見れば、こうなるはずです。
「日本は平和主義を捨てたのだ」「日本は、自国が攻撃を受けなくても他国に武力攻撃をする決意を固めつつある」「それなら、日本がどんな出方をしても直ちに武力対応できるように準備怠りなくしておかなければならない」「そのように準備しておかねば安全も安心もない」。
このような危険な負のスパイラルを断ち切らなければなりません。安倍内閣がやっていることは、危険極まりないものと言わねばなりません。
私たちの国は69年前に、戦争の惨禍の反省の上に、再び政府の行為によって戦争の愚を繰り返さぬことを誓って再生しました。平和を大切にしよう。戦争は絶対に繰りかえしてはならない。そのために、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と憲法で決めたのです。自衛権の行使であればともかく、自国が攻撃されてもいないのに、「他国に戦争をしかける権利」など、日本国憲法の下で認められるはずがありません。集団的自衛権の行使を容認する余地のないことが明らかです。
安倍内閣は、今国会会期中にも閣議決定で憲法9条の解釈を変更して集団的自衛権行使を容認しようとしています。これは、憲法改正の手続を踏むことでの改正の自信がないからです。そのような姑息な手段での、憲法の破壊、平和の放棄を許してはなりません。
この安倍内閣の危険なたくらみを許すのか否か。最終的に決めるのは、主権者国民です。明日が今日に続く平和でありますように、「安倍内閣の集団的自衛権行使容認ノー」、「閣議による解釈改憲を許さない」「他国に戦争を仕掛ける権利を認めてはならない」という声を大きく上げていただくようお願いいたします。
(2014年6月18日)
正午ころ、ぽとりと郵便受けに投函されたものがある。封筒に入った「坂のまちだより」。毎月欠かさずに届けられるが、ポスティングする方をお見受けしたことはない。
「坂のまち」とは、文京の町の異名。本郷台、白山台、小日向台、小石川台、関口台などの台地の尾根と、元々は谷や川だった道路とを結んで多くの坂がある。名前のついている坂の数が120を超えるとか。
その「文京」の、「九条の会」機関紙が「坂のまちだより」。手作り感、地元密着感が魅力のA4・1枚に裏表の印刷物。題字は、芝増上寺法主の八木季生さんの筆になるもの。それに、「『憲法は宝』文京の町から憲法九条の声を響かせます」との惹句が添えられている。
今号の一面は、内藤功さんの「集団的自衛権の問題について」の寄稿。紹介に値するものとして、以下に一部を抜粋する。
「集団的自衛権とは、『自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利』です。『自衛』ではありません。『他衛』です。憲法9条の下で、集団的自衛権行使が許されるわけはありません。
1939年当時、海軍省軍務局長として、日独伊軍事同盟に反対した井上成美大将は、1946年1月、海軍将官の反省会で語っています。『国軍の本質は、国家の存立を擁護するにあり。他国の戦いにはせ参ずるごときは、その本質に反す。第一次大戦に日本が参戦せるも邪道なり。たとえ同盟軍が、他より攻撃された場合に於いても、自動的参戦は絶対に不賛成にして、この説は堅持して譲らざりき』
集団的自衛権行使を許せば、自衛隊が海外で『武力行使をしない』『戦闘地域に行かない』という二つの歯止めは外され、自衛隊が『戦闘地域で』『戦闘に従事する』ことになります。」
内藤功さんは、1945年4月奈良県の海軍経理学校橿原分校入校という経歴をもつ。本土決戦に備えて、棒地雷を持って戦車に飛び込む自爆攻撃の訓練をしていたという。銃剣術の訓練では、南方の陸戦隊帰りの兵曹長が「内地ではこんなワラ人形でやってるが、戦地では、捕虜を突いている。心臓を一撃で刺す。エグルように抜く」と話していたそうだ。
その内藤さんにとって、「最後の海軍大将・井上成美」の言葉は当時に於いて重い響きをもっていたにちがいない。その人の言葉が68年の時を経て、今、安倍政権の下において、新たな意味をもって生き返ることとなった。
井上は、こう言っている。
安倍政権は国軍の本質を知らない。国家の存立を擁護することこそその本質的任務であって、国家の存立を擁護することと無関係に、他国を侵略することも、他国の戦いにはせ参ずる集団的自衛権行使のごときも、国軍の本質に反する。第一次大戦に日本が参戦せるは邪道であったが、今また安倍政権はその邪道に一歩を踏み出す過ちを犯そうとしている。たとえ同盟軍が、他より攻撃された場合に於いても、我が軍の参戦は絶対に不賛成にして、この説を堅持して譲ってはならない。
いま、井上成美が世にあらば、安倍晋三をしかり飛ばしたであろうか。はたまた精神注入棒で活を入れたであろうか。いや、諄々と不心得を説きあかしたであろうと思われる。
「たより」の読後、確かに、文京の町に響いた憲法九条の声が聞こえた。
(2014年6月17日)
本日は地元の学生グループに招かれてごく小さな規模の憲法学習会の講師を務めた。テーマは、特定秘密保護法の問題点と集団的自衛権。少人数の聞き手とのやり取りは結構楽しかった。
報告は3パートになった。「立憲主義」・「解釈改憲」・「秘密保護法制」である。「立憲主義とは何か」、「どうして今集団的自衛権行使容認の解釈変更なのか」、そして「特定秘密保護法のどこがどう問題なのか」という問いかけから始まるレポート。
※近代憲法の何たるかは、1789年フランス革命後の人権宣言16条に定式化されている。「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」というもの。ここに、人権こそが至高の憲法価値であること、公権力は人権を制約することのないよう謙抑的につくられていなければならないこと、つまり「個人主義」と「自由主義」とが明瞭に宣言されている。以来、憲法は「人権のカタログ」部分と、人権を侵害しないように設計された「統治機構」部分とから構成されるようになった。
ここには、「主権者国民が権力を創設するが、その公権力は最も大切な国民の人権を傷つけることのないように設計され運用されなければならない」「そのために、公権力の設計と運用の在り方についての主権者の意思を予め確定し、この主権者の意思を公権力の担当者に示して、これにしたがって公権力を行使するよう命じる」という大原則が前提にされている。このようにして公権力行使を統制する考え方が立憲主義である。
※主権者国民から権力担当者に対する命令が憲法であるから、その命令の内容を軽々に変更はできない。変更するとなれば、慎重に国民の意思を確認してからでなくてはならない。民主主義社会では時の権力は国会での過半数の勢力によって形成されるから、国会での過半数の議決で憲法改正ができるとすれば、憲法が権力を統制するという役割を果たせなくなる。憲法改正は必然的に立法手続以上の厳格な要件を要求することになる。これが憲法が「硬性」であるということ。
安倍政権が成立するや、自民党改憲草案を念頭に、明文改憲が試みられた。そのための戦略として、まず96条先行改正が目指された。つまり、憲法改正手続を改正して、硬い憲法を軟らかくほぐしておいて、改正しやすい憲法にすることから始めようとした。しかし、これが評判が悪かった。「姑息なやり方」「国民を欺くもの」「裏口入学的手法」「96条改憲の向こうに9条改憲」「立憲主義の何たるかを理解していない」と散々。昨年の憲法記念日を挟んで、世論は完全に96条先行改憲論にノーを突きつけた。第1ラウンド、安倍の負けであった。
明文改憲ができないととなるや、安倍は第2ラウンドは解釈改憲を持ち出した。憲法9条に手を付けずに、内閣限りでその解釈を変えて、実質的な9条改憲をやってのけようということ。具体的には、これまで憲法9条2項によって「集団的自衛権の行使は憲法上できない」とされていた解釈を、強引に変えてしまおうということ。
しかし、これは、96条先行改憲以上に、実質的な9条改憲であり、「立憲主義の何たるかを理解していない」やり口。「姑息なやり方」「国民を欺くもの」「裏口入学的手法」である。それでも、安倍政権は、内閣法制局長官の首をすげ替え、自分で選任した安保法制懇の報告を受け、自作自演で集団的自衛権行使容認の路線を突っ走りつつある。
そのための与党協議において、座長の高村自民党副総裁から、「高村私案」が示されている。これが昨日(6月13日)のこと。これまでは、個別的自衛権行使には次の3要件が必要と政府解釈が確立していた。
(1)我が国への急迫不正の侵害がある
(2)これを排除するために他に適当な手段がない
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる
この3要件のすべてを満たした場合にはじめて自衛権の発動が可能となる、というもの。
高村私案は、この要件を次のように変更しようというものだ。
?我が国に対する武力攻撃が発生したこと、または他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること
?これを排除し、国民の権利を守るために他に適当な手段がないこと
?必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
問題は、(1)と?の差である。自衛権の発動は、従来政府解釈(1)では「我が国への急迫不正の侵害が現在している」場合に限られている。これに対して、高村私案?は、「我が国に対する武力攻撃が発生した」場合に限られない。「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ」た場合に拡大されている。これが、集団的自衛権の行使を容認するということだ。
問題はそれだけではない。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』があること」がくせ者。?の文章を「(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)、または(他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること)」と重文として読めば、集団的自衛権についてだけ「幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』があること」が要件として関わってくることになる。これも、『おそれ』という曖昧さが大きな問題をはらむものとなっている。
さらに大きな問題は、「{(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)、または(他国に対する武力攻撃が発生し)}これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」と複文として読めば、個別的自衛権行使の要件としても『おそれ』が関係してくることになる。
つまり、「我が国に対する武力攻撃が発生したことにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』がある」場合には、個別的自衛権行使が可能となるというのだ。従来解釈に比して、「急迫不正の侵害」という要件を抜いていることに加えて、「我が国の存立が脅かされる『おそれ』がある場合」、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『おそれ』がある場合」にも、ひろく武力行使が可能と、どさくさに紛れて要件を緩和したことになる。このような姑息なやり方には、徹底した批判が必要だ。
※そして、特定秘密保護法の問題である。
民主主義政治過程のサイクルは、一応は「国民意思⇒選挙⇒立法府⇒行政府⇒司法」と図式化することができる。この国民意思形成の過程では、国民に十分な情報が提供されていなければならない。とりわけ、国政に関する情報は、国民の財産であって、国民がこれに接して、民意の形成に役立てなければならない。
戦前、軍機保護法や港湾要塞法などは軍の装備や編成を軍事機密として国民の目から秘匿した。戦時色が深まると、軍用資源秘密保護法や国防保安法はさらに、外交、財政、経済、資源等、総力戦を構成するすべての部門の重要機密を厳罰をもって保護するようになった。その基本的な考え方は、「国民はよけいなことを知る必要がない」「必要な情報は政府が管理しておけば十分」というもの。
特定秘密保護法も同じ考え方、「40万件といわれる特定秘密は国民は知らなくてよい」「政府が国民に知らせてもよいという情報だけを知らせておくことで十分」という基本的な考え方でできている。国会議員にも、裁判官に対しても、同様の考え方が貫かれている。これは、民主主義を衰弱される危険な法律。
2013年12月6日に特定秘密保護法は成立し、同月13日に公布された。その1年後、本年12月13日に施行ということになる。ぜひ、それまでに法の廃止を実現したい。そうでなくては、民主主義の政治サイクルが空回りすることになり、議会制民主主義は形骸化し衰退しかねない。
(2014年6月14日)
本日(6月10日)の各紙朝刊が、「集団的自衛権:『限定容認』で20日にも閣議決定へ」「閣議決定骨子判明」と報じている。これまでの「与党で一致することが極めて重要。時間を要することもあるだろう」という首相の構えからは、急旋回の方針転向。安倍政権は、どうしてこんなにも焦っているのだろうか。集団的自衛権行使容認問題では、無理に無理を重ねて、国民の不信と保守陣営の軋みや亀裂を招いている。まったく余裕が感じられない。
それでも、強行しなければならないとする判断は、「やれるとしたら今しかない」「議席数も支持率も、今が最大瞬間風速の時」「この機を逃せば、永遠に憲法解釈変更は不可能」との認識に基づくものであろう。
おそらくは、政権中枢には、「現在の政権与党の議席占有率は小選挙区のマジックで掠めとったもの」「国民の支持の実態は、議席数の見かけとは大きく離れている」「第1次安倍政権も、政治問題を前面に出して支持を失いみっともなく崩壊した」「現政権が順調なのは経済が好調なうち」という意識が強いものと思われる。
この点を、本日の朝日は、「首相が閣議決定を急ぐのは、今年後半にかけて景気回復が鈍化し、高い内閣支持率を維持してきた政権の勢いがそがれる事態を懸念しているためだ。安倍政権の命運がかかる経済政策では、政府が今月まとめる新たな成長戦略と『骨太の方針』に対する市場の反応が見極めにくい。首相は今年末に消費税率10%への引き上げの判断も迫られる。」と解説している。
毎日の報道では、「集団的自衛権の行使容認など安全保障法制整備のため、政府が今国会中を目指す閣議決定の原案が9日、判明した」とし、その内容を「集団的自衛権は『自国の存立を全うするために認められる必要最小限度の武力行使』に含まれるとの考え方を表明。その上で『集団的自衛権を行使するための法整備について今後検討する』と明記する。行使は認められないとしてきた現行憲法解釈を事実上変更し、日本の武力行使を個別的自衛権に限ってきた長年の憲法9条解釈を根本から転換する内容だ」と報じている。
また、その時期については、「閣議決定は20日にも行う案が政府内で浮上しており、政府高官は『調整局面に入ってきた』と述べ、公明党の理解は得られるとの期待を示した」「安倍晋三首相は今国会中の20日にも閣議決定する構え」としている。明らかに、与党協議が進展しないことに業を煮やした政権が、公明党に期限を切って最後通牒を突きつけたのだ。このまま20日閣議決定するとなったら、公明党から閣議に参加している太田昭宏国土交通大臣は窮地に陥ることになる。
公明党が、「平和の党」としての立党の精神を守り抜けるか、それとも政権の「下駄の雪」でしかなかったことになるのか。公明党の正念場でもある。
一方、読売は相変わらずの安倍政権提灯持ち役。従来型保守のイメージではとらえられない極端な論調で、「集団的自衛権『容認』閣議決定へ調整を急げ」という社説を掲げている。
さすがに、冒頭の一文は、「日本の安全保障を左右する問題だけに、徹底した議論は必要だ」となっている。そのとおり、徹底した議論を尽くすべきで、押し付けや恫喝をすべきではない。また、「徹底した議論」の透明性確保が重要で、密室での取引で収めてはならない。これまで公表されている議論の経過を追えば、「必要な徹底した議論」がなされていないことは明瞭ではないか。
にもかかわらず、これに続く文章が「一方で政府・与党は、時期が来れば、きちんと結論を出す責任がある」という。今、問題は、今会期内の閣議決定が必要かという文脈。到底、議論を尽くしての「きちんとした結論を出す』時期が到来しているとは考えがたい。それこそ、「無責任」と言わざるを得ない。
読売社説の意味のある見解は次の部分だけ。
「必要最小限の集団的自衛権に限って行使を認める『限定容認論』は、過度に抑制的だった従来の見解とも一定の整合性が取れる、現実的な解釈変更と言える」
微妙な表現である。限定容認論は、集団的自衛権の行使を違憲としてきた従来の政府解釈との「一定の整合性が取れる」というのだ。「一定の」という言葉の選択を微妙と言わざるを得ない。もちろん、「従前の解釈と整合」しているとは言えない。「従前の解釈と違う」とはなおさら言えない。そこで「かろうじて」「ギリギリ」「何とか」「曲がりなりにも」「どうにかこうにか」などとは言わず、「一定の」整合で収めたのだ。
あらためて、5月15日の、集団的自衛権に関する安倍記者会見の一節を記しておきたい。
「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。憲法前文、そして、憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために、必要な自衛の措置を取ることは禁じられていない。そのための、必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です」
さすがに、読売もこの安倍の牽強付会には付いてはいけなかったということだ。
(2014年6月10日)
昨日(13日)の毎日・万能川柳に次の句が。
安倍総理(おやぶん)に好かれた人が有識者 (別府・タッポンZ)
まことに言い得て妙ではないか。
安保法制懇の正式名称は、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」。名称には「有識者懇談会」と銘打ってはいないのだが、「懇談会は、別紙に掲げる有識者により構成し、内閣総理大臣が開催する」とされているからには、このメンバー14人はいずれも「有識者」なのだ。もちろん、すべて安倍総理(おやぶん)に好かれた人だけ。安倍総理(おやぶん)の、安倍総理(おやぶん)による、安倍総理(おやぶん)のための私的懇談会。初めから、結論が見えすいている。こんな懇談会のメンバーに指名されて、露骨に安倍総理(おやぶん)にゴマをする人たちを、「有識者」といえるだろうか。
有識者という言葉は、いつころから定着しているのか興味はあるが分からない。かつて、売春防止法制定の際の審議会において、恒例では「学識経験者」を委員に充てるところを、さすがに「経験者」は不都合として、この法律についてだけは「学識者」としたと聞いたことがある。この頃から、学識者を有識者に置き換えたのだろうか。
有識の「識」とは、ものごとの是非善悪を見分ける能力のことといって良いだろう。知識、弁識、識別の識であり、学識、見識、良識、博識、鑑識、識者の識である。おやぶんに取り入って、右顧左眄する人物は到底有識者に値しない。
その「有識者」14人が、明日(15日)安倍総理(おやぶん)に報告書を奉る。当然に、安倍総理(おやぶん)の意に沿った形の集団的自衛権行使容認への解釈変更を可能とするもの。朝日は、その全文を入手済みとして概要を既に報道している。また、この報告を受けて、安倍は記者会見の用意を調えている。出来レースの形づくり。
本日(14日)朝日夕刊の「素粒子欄」。寸鉄人をさす切れ味。
「縛りから解き放たれて、思うがままに武力を使いたい。首相腹心が作った報告書。想像の大国への情念があふれ。」「まず『限定した事例』からスタートし、間口を広げ。ある日気づいたら、憲法は葬られ。そう『ナチスの手口』。」
予想のとおりではあるが、「小さく産んで大きく育てよう」との意図がありあり。どんなに厳格に限定された集団的自衛権の行使といえども、原則を破って容認に踏み出すことが途方もなく重大なことなのだ。「この程度なら」と許容するようなことがあってはならない。
「我が国の外交・安全保障・防衛を巡る状況は大きく変化しており、…我が国の平和と安全を維持し、地域及び国際社会の平和と安定を実現していく上では、従来の憲法解釈では十分に対応できない状況に立ち至っている」「我が国が本当に必要最小限度の範囲として個別的自衛権だけで国民の生存を守り国家の存立を全うすることができるのか」このあたりがポイントのようだ。
ここに露わにされているのは、事情が変われば憲法の解釈は当然に変えてしかるべきだという考え方。それも、時の政権の手によってである。憲法が定める改正手続など経ることなく、政府が必要と考えれば、遠慮なく憲法解釈を変えなさいという、傲慢安倍総理(おやぶん)に奉る、憲法軽視、主権者無視の報告内容と言わねばならない。
おやぶんに知恵を付けているところがあるとすれば、これまでは常識的に理解されていた「自衛のための最小限度の実力」の範囲を拡大することによって、集団的自衛権の一部を取り込むことができる。そうすれば、「違憲論を突破できる(かも知れない)」としたことくらいか。
自国が現実に攻撃を受けた場合に、他に方法がなければ、相当の範囲で反撃をすることが「自衛」の名の下に許されうる、という個別的自衛権の論理は理解不可能ではない。そのような意味での自衛権を行使するための最小限の実力をもつことは憲法上許されるとしてきたのが、これまでの政府解釈である。「最小限度」は当然に自国が攻撃を受けた場合に限られ、他国が攻撃を受けたときにまで及ぶとは考えの及ぶところではなかった。
普通の神経ではできないことを、「遠慮することはない」「やればできる」と安倍総理(おやぶん)を焚きつける14人。これは有識者ではなく、正確に曲学阿世の徒というべきだろう。
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☆抗議先は以下のとおり
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〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
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☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年5月14日)
3月31日自民党「安全保障法制整備推進本部」第1回会合。集団的自衛権行使容認論への反発を宥和するための落としどころとして、高村正彦副総裁が「限定的な集団的自衛権行使容認論」を提案した。
さっそく、昨日(4月4日)の読売社説が賛成論を述べている。「集団的自衛権限定容認論で合意形成を図れ」というタイトル。産経の社説はまだないが、4月3日の「正論」欄に、百地章の「集団自衛権の『日本的定義』正せ」という意見が掲載されている。高村提案には直接触れていないものの、読売社説と同旨である。安倍政権は、保守勢力の支援をえて、この線での閣議決定による「解釈改憲強行突破」路線を歩もうとしている。
本日の東京新聞社説が、これに真っ向から異議を唱えている。タイトルは「集団的自衛権 『限定容認』という詭弁」。手厳しい批判となっている。
ほかに目についたのは、北海道新聞(4月3日)。「集団的自衛権 限定容認論は通らない」
「憲法が許容する必要最小限度の自衛権の範囲に、一部の集団的自衛権行使も含まれると憲法解釈を改めるのが柱だ。」「憲法解釈変更の突破口だけ開いておけば、後はいくらでも拡大解釈できると考えているのだとすれば、憲法軽視もはなはだしい。」
河北新報(4月5日)。「集団的自衛権/限定容認、歯止めにならず」
「集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の見直しに向け、まずはハードルを低めにして、風穴を開けることを優先するということなのだろう。」
琉球新報(4月5日)。「集団的自衛権 『限定』で本質隠すな」
「歴代内閣が積み重ねた解釈を国民的議論も尽くさず、憲法改正の手続きも経ずして変える暴挙は許されない。『限定』といった言葉で議論の本質を隠してはならない。」
おそらくは、96条先行改憲論への賛否で見られた、「読売・産経の政権擁護論」対「地方紙の良識」の対抗パターンが、再度繰り返されることになるのだろう。あのとき、国内世論の大勢を決めたのは圧倒的多数となった地方紙の論調だった。
両論の代表として、「読売」と「東京」の論理を対比させてみよう。
☆高村提案に対する総括的評価
読売:現行の憲法解釈と一定の論理的整合性を保ちつつ、安全保障環境の悪化に的確に対応する。そのための、説得力を持つ理論と評価できる。
東京:限定的なら認められる、というのは詭弁ではないのか。政府の憲法解釈は長年の議論の積み重ねだ。一内閣の意向で勝手に変更することは許されない。
☆高村提案の位置づけ
読売:幅広い与野党の合意を形成し、国民の理解を広げて、新解釈の安定性を確保するには、バランスの取れた現実的な手法と言える。
東京:違憲としてきた集団的自衛権の行使を、一内閣の判断で合憲とすることには公明党や自民党の一部に根強い慎重論がある。限定容認論は説き伏せる便法として出てきたのだろう。
☆これまでの政府解釈との整合性
読売:自衛権は必要最小限の範囲内にとどめるとの現行解釈を継承しながら、一部の集団的自衛権の行使はこの範囲内に含まれる、とする抑制的な解釈変更となる。
東京:たとえ限定的だったとしても、政府の憲法解釈を根本的に変えることにほかならない。このやり方がいったん認められれば、憲法の条文や立法趣旨に関係なく、政府の勝手な解釈で何でもできる。憲法が空文化し、権力が憲法を順守する「立憲主義」は形骸化する。
☆砂川判決を論拠とすることへの評価
読売:「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置はとりうる」との砂川事件に関する1959年の最高裁判決を根拠としている。(それ以上の肯定論の言及はない)
東京:いかにも無理がある。個別的自衛権を有するかどうかが議論されていた時代の判決を、集団的自衛権の行使の一部を認める根拠にするのは「論理の飛躍」(公明党幹部)にほかならない。
☆あるべき今後の議論の方向
読売:今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。
東京:限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。立憲主義の危機にあることを、すべての国会議員が自覚すべきである。
読売の論理の出発点は、「集団的自衛権は憲法上行使できないとの現行解釈は誤りであり、全面的に行使を容認すべきだという主張も根強い。理論的にも、十分成り立とう。」という極端なところにある。これを前提とした議論なのだから、通説的な理解とはほど遠い。読売や産経とはなかなか、意味のある意見交換自体が難しい。
一方、東京は「集団的自衛権をめぐる議論の本質は、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国のために武力行使することが妥当か、長年の議論に耐えてきた政府の憲法解釈を、一内閣の意向で変えていいのか、という点にある。」と争点を押さえている。
両社説を読み比べて浮かびあがってくる論争の現実的な焦点は、「限定された容認」が武力行使への歯止めとしての有効であるか否かである。東京は、「限定容認なら大丈夫と高をくくってはいけない。」とし、読売は「限定容認論によって、集団的自衛権行使の歯止めや条件を明確化することが有効である」という。
この論争における勝敗は自ずと明らかである。集団的自衛権行使否定論は、それなりの明確性をもった議論になっているが、「限定容認論」の外延の不明確さは覆うべくもない。そもそも「限定容認論」は、全面容認論では国民の納得を得られないとして出てきた苦肉の策ではないか。その出自自体が「限定」の不明確、伸縮自在をものがたっている。読売が、「今後、議論すべきは、行使を限定的に容認する範囲や条件だ。抽象論でなく、具体的な事例に即した論議が求められる。」というのは、不明確を自認していることにほかならない。「具体的な事例に即して、個別に判断」せざるを得ないのは、基準が不明確だからなのだ。しかも、その判断の主体は時の政権でよいというのでは、憲法論になっていない。
読売社説では、つまりは高村提案では、憲法の平和主義がないがしろにされざるを得ない。「限定容認論」とは、どこまで限定するかについての程度について、原則をもたない「限定の程度を無限定とする容認論」にほかならないのだから。
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春の妖精たちの一番美しいとき
ハッカクレンの開きかけのたぐまった傘のような芽が土の中から出てきた。昨年は伸びきる前に虫に囓られ、ある日クシャリと折れていた。それなのに強いものだ、今年も芽吹いた。
ニリンソウの白い小梅のような花が咲いている。一輪伸びた花の下の托葉の上に豆粒のような蕾が控えて、行儀よく咲く順番を待っている。
雪割草の花は終わって、その横で薄紫色のショウジョウバカマの花が首を伸ばしている。
ハナイカダは折りたたんだ葉をやっと開いたばかりなのに、よくみると、そのうえに芥子粒のような蕾を付けている。たいした花じゃなくても、葉っぱの上にくっついた花を咲かせるだけでじゅうぶん珍重される。
ヤマユリも何本か芽を出した。昨年花をつけすぎて、疲れたんだろうか。今年はとうてい花を咲かせられないような一枚葉もたくさんある。それでもいい。2年や3年はお待ちしましょう。
ルイヨウボタンもクリーム色の芥子粒のような蕾を先端に付けて、スックリと立ち上がった。たいそう地味な花だけれど、その渋いところが気に入っている。
おや、花びらがとれて蘂だけになったサクラが集まって落ちていると思ったら、ヒトリシズカの花芽だ。黒褐色の葉っぱの上に白い木綿糸を束ねたような花穂が出ている。
これらはみんな小さな者たち。かがんでよく見ておかないと、春の妖精たちの一番素晴らしい時を見逃してしまう。
腰を伸ばして、上を見ると、3日前に盛りを迎えていたソメイヨシノは、雨と風に吹かれて無残な姿になってしまった。半月前に春の先駆けですとばかりにキリリと咲いていたキブシの花もあっという間にほうけて、葉っぱがぐんぐん出てきている。大きい者たちの美しいときも一瞬だ。
そのキブシの可愛らしさについて、宇都宮貞子さんは次のように書いている。「この莟の穂は前年の9月というともうちゃんと出来ていて、細いのが3,4センチ丈にチョロリと垂れ、何かの虫の尻尾のようだ。・・その白い粒のついた撚り糸みたいな穂を中社のおばあさんに見せると、『マメンブチ(キブシ)がへえもう来年の花をだんどってる(用意している)』といった」「長野辺の里山では、キブシは大体4月中旬に盛りとなる。時により、場所により、この花穂の下がった景色を枯れ枝に雫を綴っていると感じたこともあるし、冬ざれ山で淋しいものだから、ブラリ簪を沢山さしておしゃれしているな、と思ったこともある。木々の芽は外套を脱ぎ始めてはいるが、まだ裸木にしかみえないのだ。少しでも青いのは低い連中で、マユミやミヤマイボタ、ノバラの幼い葉ぐらいなのである。キブシのすだれの奥から、ツツピン・ツツピンとシジュウカラの愛らしい早口歌が降ってくる」(「春の草木」新潮文庫)
(2014年4月5日)
陽光燦々の4月。東京周辺は花満開。ここにもあそこにも、桜、桜、桜。気がつかなかったが、こんなにも桜が多かったのか。桜だけではなく、辛夷も桃も椿も、春の花が咲き誇っている。
美しい季節とは裏腹に、一夜明けて今日からは消費税8%の世界に。そして「武器輸出3原則」から「防衛装備移転3原則」へ変更の閣議決定。地教行法改正に自・公の合意成立と、政治は美しくない。
当ブログは、2年目の始まり。また、連続更新を目指して書き続けていくことになる。
「憲法」のキーワードでグーグル検索をすると、検索ページに700万件がヒットする。「澤藤統一郎の憲法日記」はトップページ(12件)に位置して現在11位のランク。すぐ目の前に、「憲法会議」と「キーワード・憲法-(赤旗)日本共産党中央委員会」の背中が見える。当面はこの両者に、追いつき追い越すことが目標。来年の4月1日に再度のご報告をしたい。
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さて、集団的自衛権行使容認の問題。
安倍政権の解釈改憲路線に自民党内の反発が強かった。その反発を吸収するために、総裁の直属機関として「安全保障法制整備推進本部」が立ち上げられ、昨日(31日)その第1回会合が開かれた。衆参156人の議員が参加したという。
この席で、高村正彦副総裁が講師を務めて、「限定的な集団的自衛権行使容認論」の線を出し、その理由づけとして「砂川事件最高裁大法廷判決(1959年)」を持ち出し、判決の論理を根拠として政府の限定的な憲法解釈変更が可能だと説明したとのこと。
この「論理」は、近々予定されている安保法制懇の答申の内容として報道されており、安倍首相も国会答弁で口にしている。おそらくは、これが着地点と予定されたところなのだろう。出席した議員からは目立った異論は出なかったという。
今後は、高村解説の「『必要最小限度の範囲』には、集団的自衛権行使の一部が入りうる」という、「集団的自衛権行使限定容認論」をめぐって議論がかわされることになる。
高村解説はいかにも苦しい説明。砂川事件最高裁判決からそこまでを読み取ることは困難だろう。同訴訟で争われたのは、旧安保条約に基づいて日本に駐留する米軍が、憲法9条2項で「保持しない」とされた戦力に当たるか否かである。原審東京地方裁判所の伊達判決はこれを肯定して違憲判断をし、跳躍上告審の最高裁はこれを逆転した。その説示部分の中心は以下のとおりである。
「憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」
これを素直に読めば、「9条2項の法意が自衛のための戦力の保持をも禁じたか否かについては判断しない」「外国軍隊の駐留は日本の侵略戦争の火種にはならないから禁じられた戦力に当たらない」というもの。ヘンな理屈ではあるが、集団的自衛権行使容認とは無縁である。そもそも、安保条約は集団的自衛権の行使を前提に締結されたものではない。
また、判決に、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。」との一節がある。これが、個別的自衛権の論拠とされることはあり得ても、集団的自衛権の論拠とはなしえない。経過は、訴訟における争点の射程距離も、裁判所を含む当時の訴訟関係者すべての認識も、集団的自衛権論とは無縁であったことをものがたっている。これを、あとからの解釈としてこじつけることがどだい無理なのだ。
むしろ、心強いのは、世論調査での国民の意思は冷静で、最近の毎日の調査では以下のとおりである。
憲法解釈変更 反対64% 賛成30%
集団的自衛権行使 反対57% 容認37%
安倍政権は、実は政権自身にとっても極めて危ない橋を渡っているといわざるを得ない。
(2014年4月1日)