澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

醜悪なり、安倍国葬という名のカルト集会。

(2022年9月28日)

岸田はアベ国葬に何を求めたのか

 昨日、アベ国葬が終わった。岸田政権は、どうしてこんなことを思いつき、なにを獲得しようとしたのだろうか。そして、その目的は達成されたのか。あるいは、目算外れだったか。

 常識的に「国葬」といえば、国民の圧倒的な多数が敬愛する人物を対象とするものであろう。国民的な敬意と弔意を確認することによって、全国民の一体感を高揚させるに足りる人物。多くの場合には、国葬を通じて偉大な被葬者の意思に沿った国家の運営の正当性を確認し、国民を鼓舞することを目指すことにもなる。

 はたして岸田が国民の一体感の獲得を目標にアベ国葬を思い立ったか。おそらく、それはあるまい。安倍晋三は、政治的なレガシーをもたざる政治家である。むしろ、負のレガシーがあげつらわれる長期政権担当者。遠慮した物言いでも、毀誉褒貶定まらない人物。そして、人格的な問題を指摘されこそすれ、けっして尊敬される人格者ではなかった。ましてや、政治家稼業三代目のボンボン。庶民の苦労とは無縁でもある。ゴマすりメディアの操作には定評があったが、とうてい国民の圧倒的な多数が敬愛する人物ではない。葬儀を通じて、国民の一体感を確認し高揚することなど、夢想もしえない。その意味では、まつりあげようにもタマが悪過ぎる。

 しかし、岸田は考えたに違いない。全国民の一体感や団結ではなく、保守陣営の一体感や結束には資するのではないか。その演出は、アベの支持層であった自民党右派や右翼への「貸し」を作ることができる。うまく行けば、保守化しているとされる若年層にもアピールできるのではないか。

 岸田は「聞く耳」をもっていることをキャッチフレーズとした。安倍政権があまりに頑なに岩盤支持層である右派右翼の声しか聞かなかったことに対する、アンチテーゼである。その岸田が、今回は、国葬反対の声が高まっても、その声に耳を傾けようとはしなかった。岸田にしてみれば、反対の声の高まりは「貸し」を大きくすることと認識した。安倍派とその取り巻き、右翼の面々には、「大きな国民の声を押し切って国葬実施に漕ぎつけた」というアピールの材料として、好都合だったのだろう。

 こうして、アベ国葬は、国民全体の一体感獲得や国民的結束ではなく、党内右派、あるいは国民の安倍支持層を岸田政権の支持につなげるための目論見として位置づけられた。その目的に照らせば、国葬強行はけっして失敗ばかりでない。

「ただ涙」「ありがとう」という参列者

 国葬の報道は二通りある。進行の手際が悪く、何時間も会場に閉じ込められた参列者の不満が爆発したとか、トイレの待ち時間がたいへんだった、紋切り型で一方的な挨拶ばかり、などという醒めた報道が一つ。そしてもう一つが、歯の浮くような感動を報じるもの。おそらくは、両面があったのだろう。

 本日のあるスポーツ紙の見出しがこうなっている。《安倍晋三元首相の国葬に参列した人々「ただ涙」「ありがとう」思い出を語り、感謝を口にする人も》。見出しはこのスホーツ紙が付けたものであろうが、共同配信の記事である。

 「安倍晋三元首相の国葬に参列した人々は、会場で黙とう、献花し追悼の思いを新たにした。「ただ涙が止まらなかった」「『ありがとう』と心の中で伝えた」。生前の安倍氏との思い出を語り、感謝を口にする人も。

 国際政治学者の三浦瑠麗氏は「安倍政権に関わった多様な人々が来ており、厳粛な空気だった。菅義偉前首相のスピーチは、戦友でないと分からないエピソードや情愛をとつとつと語り、感動的だった」とした。

 自民党の田野瀬太道衆院議員は「ただただ涙が止まらなかった。事件当日、病院に駆け付けた時のつらい記憶がよみがえった」と声を詰まらせた。」

 統一教会は信者を獲得しその信者の信仰を固めるために、ビデオメッセージを見せ、外界から閉ざされた集会を催して「感動的な」スピーチを聞かせる。昨日の武道館は、さながらカルト集会だった。安倍晋三が政治を私物化した張本人であること、失政を重ねて日本を衰退させ、国民に貧困と格差を持ち込んだことなども伏せられた。あたかも安倍晋三が、民主主義の推進者であるかのごとく語られて、「ただ涙」「感謝」だったのだ。これは、武道館に集まった、愚かな4200人のカルト集会と評するほかはない。

 注文の多い旅料理店では、愚かな二人の紳士がだまされ、あわやというところで、犬の吠え声に救われる。4200人のマインドコントロールは、「なんとまあ、あのウソつき晋三に国葬かよ」という一言で解ける体のものといえよう。

岸田首相の駄言への感想

 「従一位、大勲位菊花章頸飾、安倍晋三・元内閣総理大臣の国葬儀が執り行われるに当たり、ここに、政府を代表し、謹んで追悼のことばを捧げます。」

 (「従一位」「大勲位菊花章頸飾」ってなんだか分からないけど、民主主義社会では恥ずかしくも揶揄の対象にしかならない肩書じゃないの。ホントに真面目に言ってるんだろうか)

 「あなたはわが国憲政史上最も長く政権にありましたが、歴史は、その長さよりも、達成した事績によって、あなたを記憶することでしょう。」

(これは、相手を間違えている。正しくは、「歴史は、あなたの反憲法的で反立憲主義・反民主主義的な強権姿勢と、政治の私物化、政治の腐敗、「忖度」という流行語に象徴される官僚への締めつけ、公文書の隠匿・偽造、そして、嘘とゴマカシで日本を貶めた『最悪・最低の首相』として、あなたを記憶することでしょう」)

 「あなたが敷いた土台のうえに、持続的で、すべての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていくことを誓いとしてここに述べ、追悼の辞といたします。」

(おいおい正気かね。アベ政治を清算し脱皮することで、岸田政権はなんとかもっていたという認識はないのか。こんな風に、アベ政治ベッタリを宣言して、本当に大丈夫なのかね)

菅義偉の歯の浮く弔辞

 菅の歯の浮く弔辞は、気恥ずかしくて聞くに耐えない。あの密室のカルト集会であればこそ、あんなことが言えるのだろう。風通しのよい明るい場所で読み直してみての菅本人の感想が聞きたいものである。

 安倍晋三と一体となった菅であればこその挑発的な政治発言もあったが、最後の締めくくりには驚いた。そのアナクロニズムにである。そして、外交的なセンスの欠如にも。

 「何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が国、日本にとっての、真のリーダーでした。
 あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著『山県有朋』です。ここまで読んだという、最後のページは、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
 しるしをつけた箇所にあったのは、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。
 かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます。」

 菅は、安倍を伊藤博文に、自分を山県有朋に喩えたのだ。なんという無神経。なんという不適切。ここで、会場の参列者から大きな拍手が湧いたという。これが、カルト集会の効果なのだ。

 伊藤は韓国統監府の初代統監として、文官でありながら韓国に進駐する日本軍の指揮権を握る地位にあった。1905年12月から09年6月までのこと。朝鮮独立を蹂躙する象徴的人物と目されて、2010年3月に志士安重根に銃撃され落命している。伊藤を持ち上げることは、韓国・北朝鮮の国民への配慮を欠いた無神経と言わざるを得ない。両国からの国葬参列者は、いかなる思いであったろうか。

 山県有朋も、軍閥・藩閥の長老として、天皇制明治政府に君臨した人物。今の世に懐かしむべき人物像ではない。和歌を引用するのなら、日本の文化には、よりふさわしい挽歌はいくつもある。よりによって、山県有朋とは虫酸が走る。

 とは言うものの、なるほどこれが、安倍・菅らの心情なのだと思わせる、貴重なエピソードではある。

アベ政治を許さない。アベ国葬も許さない。今後とも。

(2022年9月27日)
 早朝から、むやみにヘリコプターがうるさい。とうとう今日が安倍国葬の日となった。

 昨日、情報通の知人から、「進行台本」《故安倍晋三 国葬儀》なるものをメールで送っていただいた。表紙を含む57ページの大部のもの。一読して、恐るべきアナクロニズム。なんともばかばかしくも不愉快きわまる安倍国葬の進行。これが、安倍晋三流なのか、あるいは自民党風なのか。

 不愉快の第一は、自衛隊の大きな顔だ。弔砲撃ったり、儀仗兵やら軍楽隊やら、やたらと出番が多い。軍楽隊は、「国の鎮め」やら「悠遠なる皇御国」などという曲目を流す。軍国主義者安倍晋三には似合いかも知れないが、これが国葬なのか。こんなことをさせてよいものだろうか。

 不愉快の第二は、皇族連中の大きな顔だ。出たりはいったりの度に、臣下は起立を促される。復古主義者安倍晋三には似合いかも知れないが、これが日本国の国葬なのか。主権在民はどこへ行ったのだ。

 不愉快の第三は、安倍晋三の政治姿勢の露骨なねじ曲げと持ち上げである。こんなアナウンスが流れる。
 「故人が、『常に闘う政治家でありたい』との揺るぎない信念のもと、国家・国民のためであれば、いかなる批判をも恐れず、ただひたすらに行動してきた、その政治家としての軌跡を、ご遺影へと真っ直ぐに伸びていく生花の道で表現しています」

 耳を疑う。「安倍晋三が、激しく国民と闘ってきた」なら、よく分かる。民主主義と闘い、平和主義と闘い、人権尊重原理と闘って、憲法改正を目指していたのが、安倍晋三ではなかったか。まさしく、安倍政治を美化し、安倍の腐敗、安倍の失政に蓋をするための国葬となった。

 「安倍政治を許さない」という市民のスローガンは、本日は「安倍国葬を許さない」と書き直された。安倍晋三、死してなお、安倍国葬で民主主義に敵対しているのだ。

 本日、私と妻は、昼休みの礫川公園での街頭宣伝活動に参加した。参加者40人、今日は気合いがはいっていた。以下は、妻・政子の気迫十分だったスピーチ。なお、そのあと、2時からの国会前大集会にも参加した。この日この国は、国会前と武道館内との、二つの異なる原理の各集団に引き裂かれた。

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 間もなく、午後2時から、安倍元首相の国葬が行われます。私たちは、その国葬に反対するためにここに集まっています。
 ここに集まった私たちだけではありません。国葬に反対する国民は、大きく過半数を超え、6割にも7割にも達して、国中に「安倍国葬反対」の声がこだましています。どうして、こんなにも多くの人々が、こんなにも大きく声を上げて反対しているのでしょうか。

 あらためて、安倍政治の8年8ヶ月を思い起こし、安倍自民党政治を繰り返してはならない。安倍政治によって壊された日本の民主主義や平和主義を修復しなければならない。そのためには、安倍国葬を許してはならない。そういう思いで、私たちはここに集まり、私はここに立っています。

 私たち文京の区民や文京に職場をもつ者は、安倍長期政権が続いた8年あまり、この場所や、近くの本郷三丁目交差点などで、安倍政治の間違いやその危険性について、批判の声を上げ続けてきました。
 たとえば、皆さんご記憶のモリ・カケ・サクラです。それだけではなく、黒川検事問題も、河井案里問題も、アキタフーズの増収賄も、カジノ汚職もありました。安倍政権とは、政治を私物化した腐敗政権でした。しかも、安倍晋三という人は、国会で数え切れないほどの嘘をつきました。高潔な公務員赤木俊夫さんは、安倍晋三首相の嘘に辻褄を合わせるための文書の改竄を命じられ、苦しんだ末に自殺にまで追い込まれたのです。安倍首相の嘘の犠牲になったと言って間違いありません。

 これから、国葬が行われようとしてる安倍晋三元首相とは、国会で平気で嘘をつき、自分の手は汚すことなくヒラメ官僚に忖度させ、公文書の隠匿・改ざんをさせた人物なのです。
 
 安倍政治は、この上なく無能な政治でもありました。コロナ対策の不備のため今まで亡くなった4万4000人余の方々にお詫びをしても取り返しがつきません。役立たずの「安倍マスク」が無能政治の象徴です。その作成にだけでなく、保管にも、果ては捨てるためにも、大金をかけたことを思い出していただきたいのです。

 しかも、政治の私物化にも、無能政治にも、国民にはどれひとつとして納得のいく説明もなくうやむやなままです。安倍元首相の不誠実と無責任は明らかで、とうてい国葬に値する人物ではないことが明確ではありませんか。

 また、安倍元首相は、アベノミクスと名付けた経済政策でも大きく失敗し、日本経済を衰退させ、私たち国民に生活苦をもたらしました。大企業はお金を貯め込み、株価は上がって、大金持ちには立派な経済政策でしたが、国民にもたらされたのは、天井知らずの物価高、医療費・教育費の高騰、子供や女性の貧困、災害無策等々数え上げたらキリがありません。とりわけ、非正規の低賃金労働者を大量に生み出して、日本社会に貧困と格差をもたらしました。多くの人の希望を失わせ、絶望の中にたくさんの若者を放り出したのも安倍政治です。そうして社会から疎外されたと感じた若者の一人に、安倍さんご自身が銃撃されたのではないか。私は、そう考えています。

 岸田首相が、安倍国葬を行う根拠の一つに掲げている外交についても考えてみましょう。安倍さんは、今や世界一の悪役となったプーチン大統領とは盟友ということでした。安倍さんは、「君と僕とは同じ未来を見ている。ゴールまで二人の力で駆けて駆けて駆け抜けようではありませんか」などと虫唾が走るようなセリフを並べました。それなのにに今年2月にプーチンがウクライナ侵略を始めても、ダンマリを決め込んで一言の苦言も助言もしようとしませんでした。日本には「類は友を呼ぶ」という格言があります。プーチンと手を携えてどこへ行こうというのでしょうか。日本を戦争に引きずり込もうとでも言うのではないのでしょうか。

 国際社会はしたたかで計算高いものです。残念ながら弔問外交の目論見は大失敗です。Gセブンの首脳は、一人として、安倍国葬に参加はしないのです。

 また、安倍さんの評価を一段と貶めている統一教会問題についても触れなければなりません。岸信介以来三代の安倍家が、統一教会と因縁の強い結びつきがあったことだけでなく、亡くなる直前の安倍さんと統一協会の深い癒着も明らかとなり、さらに、統一教会が自民党を通じて、政治に深く介入していたことが白日のもとに曝け出されようとしています。10月3日から開かれる予定の臨時国会での徹底した質疑で、安倍元首相が、とうてい国葬に値する人物ではなかったと、天下に明らかになるはずです。

 最後に、安倍政治の最も許し難いこと、安倍さんが日本を戦争できる国にしてしまったことに触れなければなりません。国家秘密保護法、国家安全保障会議の設置、武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権行使を容認した安保法制の制定など、安倍政治は、民主主義、立憲主義、平和主義を踏みにじって、戦争への道を開く法制度を作り上げました。

 法制度を作っただけでなく、安倍さんは軍事費を2倍にする、アメリカと核共有すると大変物騒なことを公言していました。こうした戦争へ続く企みを何とかをして止めようと私たちは安倍政治に反対してきたのです。そんな安倍さんに、弔意も敬意も表明することはできません。国葬なんてとんでもない。

 皆さん、今日の安倍国葬の日9月27日を忘れず、再び安倍政治を許さない平和日本を作る再スタートの記念の日にしようではありませんか。
 憲法改正をさせない世論を盛り上げ、平和な日本を作り出す決意の日とすることを呼びかけて、私の訴えを終わります。ありがとうございました。

憲法と落語(その9) ― 安倍晋三は「らくだ」である。死後にその生前の行状があげつらわれている。

(2022年9月26日)
 しばらく、途絶えていた「憲法と落語」。大ネタの「らくだ」を取りあげるなら、安倍国葬を明日に控えた今日をおいてない。

 この噺、元はと言えば上方ネタの「駱駝の葬礼」。これを、3代目柳家小さんが東京へ移したという。夏目漱石をして、「この人と同じ時代に生まれたことを好運と思う」と言わしめた、あの3代目小さん。噺のなかの焼場は大阪の千日前が落合に変わり、多少はアレンジされてアクが抜けたものの、基本は変わらない。初めは、「らくだの馬」とも題したそうだ。「馬」は、らくだの本名である。

 この噺は、貧乏長屋でフグにあたって死んだらくだが見つかるところから始まる。生きたらくだは出てこない。出てくるのは、登場人物によって語られるらくだ生前の乱暴狼藉、悪行の数々。この生前の悪行を死後も責めて、葬儀だの香典などとんでもないとするのか、「あんなに乱暴ならくださんでも、死んでしまえば罪も報いもない仏」とする倫理観で宥すのか、それが噺のテーマになっている。

 「安倍晋三の生前の悪行・失政は徹底して追及されねばならない。これに蓋をしようという国葬などとんでもない。最後まで撤回を求める」と筋を通して考えるべきか、あるいは、「安倍晋三生前の功罪をあげつらうよりは、国葬と決めた以上は非業の死を遂げた元首相を粛々と送るべきが良識ある社会人の態度ではないか」とするか。

 安倍晋三とらくだ。その葬儀をめぐっての論争は、よく似た側面があり、また違う側面も見落としてはならない。

 死んだらくだを最初に見つけたのは、らくだの兄貴分である。これが、葬儀を出し焼き場に運ぼうという義侠心を出し、たまたま来合わせた屑屋の久さんを脅してこれを使いっ走りにする。長屋から香典を集めさせ、大家には酒肴を用意させ、八百屋からは早桶代用の菜漬けの樽をもってこさせる。

 この「葬儀準備」の過程で、らくだの死を喝采して喜ぶ人々も、半ばは後難を恐れ半ばは死者への接し方の倫理観から、極めて消極的ながらも葬儀には最小限の協力をする。噺の聞き手に興味深いのは、最初は脅されやむなく使いっ走りをしていた屑屋が、次第に興に乗って積極的に協力するようになっていく姿である。

 さて、この図は安倍国葬とそっくりではないか。らくだを懇ろに葬ってやろうという兄貴分は、言うまでもなく安倍派の面々、あるいは安倍をトップとしてきた右翼の輩。いずれも強面の勢力である。これが、幾つかのルートで、屑屋の久こと岸田に働きかけた。岸田首相は、半ばは安倍派・右翼におもねり、半ばは自分のリーダーシップを誇示するチャンスと国葬を決し、押し進めた。

 周囲は大いに迷惑である。長屋の連中も大家も八百屋も困惑したとおり、「政治を私物化した安倍晋三の国葬なんぞとんでもない」のだ。しかも、「非業の死を遂げた元首相」という形容は実態にそぐわず、安倍が癒着していた統一教会の怨みを被った自己責任と結論づけられつつある。

 らくだは、市井の一乱暴者でしかない。周囲から疎まれてはいたがその罪は小さい。その葬儀も飽くまで私的なものに過ぎない。公金が出ることはない。これに比して、政治を私物化し、失政を重ねた安倍晋三の影響力は大きく、罪は深い。岸田も同罪である。

 「らくだ」の噺は、庶民の死者に対する畏敬の念や葬儀についての礼儀の常識がベースとしてある。その社会的な良識を踏まえてなお、らくだの死をあからさまに歓迎する人々の遠慮ない言葉が、笑いを誘う。安倍国葬もどこか同じブラックユーモアを感じさせるようになってきている。

 「らくだ」では、通夜のまねごとへの酒と肴を渋る大家に向かって、兄貴分がこう言って大家を脅す。「死骸のやり場に困っております。こちらに死骸を担ぎ込んでカンカンノウを踊らせてご覧にいれます」。
 これは、らくだを安倍晋三に置き換えると示唆的である。「安倍晋三は亡くなりましたが、その影響力がなくなったわけではありません。安倍国葬への攻撃は、安倍の後ろ盾からの反撃あることを心していただきたい」ということなのだ。安倍派・右翼・統一教会一体となっての、カンカンノウである。

 いま、安倍国葬積極推進の世論はほぼない。代わって目につくのは、「死者やその家族に対して失礼ではないか」「外国の要人を呼んでおきながらの国葬反対行動は、みっともない」「静粛であるべき葬儀の時に騒ぐのは、市民社会の常識に反する」と言う類いの国葬防衛論ばかり。

 屑屋の久さんの声が聞こえる。
 「生前は数々の罪を重ねた安倍晋三でも、死んでしまえば罪も報いもない仏さま。死んでしまった安倍晋三に手を合わせるのは当たり前、生前の安倍晋三に手向けをするのではない。だから、家族が粛々と行う葬儀に反対するのは非常識だろう。でも、国葬となれば話は別だ。国葬って、国民に生前の安倍の業績を認めろという強制じゃないのか。俺は、断固反対するね」
 

朝日デジタル記事《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?》紹介

(2022年9月25日)
 安倍国葬が明後日に迫っている。国家とは何か、政治とは何か、政治家とはいかにあるべきか、そして日本の保守政治の実態とはいかなるものであるのか。多くのものを見せつけ、多くのことを考えさせる、醜悪なイベント。

 その安倍国葬をどう考え、どう対応すべきかを考える素材として、朝日新聞デジタルの《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?第1回》が、実に面白い。「国葬で休校 反対して座りこんだ高校生たち 待っていた意外な結末」というタイトル。

 あの日とは、1967年11月1日のこと。「吉田茂国葬」の翌日である。当時北野高校に在籍していた約20人が、集団で議論の末授業を無断で欠席、大阪府教育委員会に赴き「吉田茂国葬」に抗議したのだという。なんという、素晴らしい若者の自主性、そして褒むべき行動力。

 彼らが手にした抗議文には、それぞれが調べた吉田茂に対する評価が盛り込まれていたという。「米英との戦争には反対したが、中国への侵略には積極派だった」「日米安保条約を結んだ一方、沖縄を米軍統治下にして犠牲にした」等々。

 相反する評価が交錯する首相経験者に対し、国を挙げて功績をしのび、喪に服する。政治的に中立であるはずの学校が休みになる。そんな「国葬」に疑問を持たざるを得なかったのだ。 

 その抗議文をすぐには受け取ってもらえず、庁舎の玄関先で1時間ほど座り込んだ。このとき、異様さに気づいたマスコミが続々と集まってきて、期せずして彼らの行動は、報道されることとなった。

 ようやく府教委の職員が現れ、抗議文を受け取ると、「係に渡します」とだけ言い残し、去っていった。あまりにあっさりとした対応に張り合いなく、生徒たちは学校に戻る道すがら、次第に心細くなったという。

 朝日が、そのうちの一人を取材している。「みんな怖くなっていました。退学処分を心配して、仕事を探すとまで言う生徒もいました」 校則に違反する初めての抗議行動。無届けの集会、授業ボイコット、そして府教委への抗議…。はたして、どんな処分が待っているのか。

 「学校に帰り着くと、ちょうど昼休みの時間帯だった。生徒たちがうつむき加減で校門を通ると、意外な光景が待ちうけていた。建物まで50メートルほど。在校の生徒たちがずらりと並び、拍手をして迎えてくれたのだ。列の中には、先生たちの姿もあった。「やりましたねー」と興奮気味に声をかけてくれる人もいた。みな、お昼のニュースで抗議の様子を知ったようだ。」

 数日後、処分が言い渡された。保護者が学校に呼び出され、口頭での「注意」を受けるだけで済んだ。生徒たちから恐れられていた生活指導の先生の対応は穏やかだったという。「お越しいただき、ごくろうさまです」「生徒はいろんな体験をすることが大切ですね」と述べ、「注意」のたぐいは一切なかったという。学校にも、余裕があったのだ。

 学校の歴史をつづった「北野百年史」によると、このときのことは「吉田茂国葬事件」として記述されているそうだ。そこには、生徒たちが許可なく集団欠席したことなどを重くみる一方、「当時の社会情勢としてこのような行動をする生徒の心理を単純な事件として取扱うことなく、学校全体として新しく考えていく出発点として受止めている」と、職員会議録の内容が紹介されているという。

 今は、沖縄で印刷業を営むという、当時の高校3年生(74)は、当時の大人たちの寛容さを「若いときに望まない戦争に駆り出され、戦地で思い出したくないようなつらい体験をしていた」「彼らの世代にとって、国が特定の政治家をたたえ、国民に弔意を強制することに違和感があったんじゃないでしょうか」と述べている。

 そして今、「様々な評価がある元首相を国を挙げて顕彰することへの違和感はぬぐえない」と言う。そのうえで、「高校3年のときの自分が、9月27日の安倍氏の国葬を迎えたら…」、と思いをめぐらせる。「やっぱり授業を休んで、何らかのかたちで反対の意思表示をしたと思います」と、記事は締めくくられている。爽やかな読後感。

 あれから55年である。日本の民主主義はあのときよりも進歩しているのだろうか。退歩してしまったのだろうか。願わくは、今の若者もこうであって欲しいと思う。そして、学校も家庭も、このような若者の自主性や行動力に寛容であって欲しいとも思う。なによりも大切なのは、一人ひとり、ものを考え、行動する個人なのだから。

安倍晋三は国賊なるや、国賊にあらざるや。

(2022年9月24日)
 自民党の村上誠一郎(元行革相)が、安倍晋三を「国賊」と評して、自民党内での物議を醸している。安倍晋三は「国賊」なるや「国賊」にあらざるや、しばらく、党内論議から目を離せない。

 私は、昔から「愛国心」という言葉になじめない。端的に言えば大キライだ。この言葉には、常に煽動の臭いがつきまとう。「愛国」とは「偏狭」と同義だと信じて疑わない。「真の愛国者」と言ってみても変わらない。「祖国」は、さらにいかがわしい。

 「愛国」の裏返しである「売国」や、「非国民」にも虫酸が走る。「売国奴」「国賊」などという言葉を聞くだにアレルギー症状が出る。「愛国者」も「売国奴」も、常に差別と分断と紛争を伴って使用される。

 しかし、私の好悪とは無関係に、「愛国」は褒め言葉となり、「売国」は悪罵として使われる。とりわけ、ナショナリストを気取る人物にとっては、「売国奴」「国賊」という言葉は最大級の侮辱となるようだ。だから、場合によっては効果絶大な言葉の武器にもなる。

 それぞれの部分社会ごとに、特定の言葉が罵り言葉となる。安倍晋三は、質問に立っている野党議員に向かって、「キョーサントー」「ニッキョーソ」と野次を飛ばした。彼と彼が所属する特殊な部分社会においては、「共産党」も「日教組」も悪罵なのだ。なるほど、統一教会・勝共連合と気脈が通じるわけだ。

 自民党内での「国賊」は、「キョーサントー」「ニッキョーソ」を上回る最大限の侮辱語彙なのだろう。味方陣営内での論争ではタブーと思われる。おそらくは、安倍晋三にとって「国賊」と面罵されることは、我慢のならないことに違いない。

 硬骨漢として知られる自民党の村上誠一郎は、このタブーに頓着しなかった。20日安倍晋三を批判して国葬欠席を表明し、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と述べた。「党本部で記者団の質問に答えた」ものと、時事通信が報じている。

 安倍晋三の生前の業績を「財政・金融・外交・官僚機構」を「ぼろぼろにし壊した」という総括にではなく、「国賊だ」という一言に党内が反発し、あるいは反発して見せて、問題が生じている。

 村上にしてみれば、安倍長期政権は、「内政・外交・政治姿勢」のあらゆる面で失政を重ね、日本という国のありかたを貶め、国力を低下させたのだ。一言でこれを総括する言葉として「国賊」がふさわしいと考えた。「安倍晋三の所業は国賊と言うに値する」との評価である。

 亡き安倍晋三に代わって、安倍派内の議員が反応した。「絶対に許さない」「除名だ」などと激怒する声が広がっているという。安倍の跡目を争う面々が、声を上げざるを得ない。派閥幹部の萩生田光一(政調会長)と世耕弘成(参院幹事長)は、翌21日、村上が総務会メンバーであることから、遠藤利明総務会長に事実確認と「けじめ」を要求したという。また、萩生田は茂木敏充幹事長とも意見交換したとも報じられている。

 国賊発言は「党員の品位を汚す行為」に当たる可能性があるとして、幹事長権限で「党役職停止」処分とし、村上氏を総務会メンバーから外す案が浮上している。安倍派内には、より重い処分を求めて「党紀委員会で処分を検討すべきだ」(閣僚経験者)との意見もあるそうだ。

 ことは、自民党内の党内民主主義に関わる。正確に言えば、自民党の民主主義イメージに関わる。「自由」と「民主主義」を看板にする「国民政党」の、言論の自由度が問われている。村上発言が党によって圧殺されるとなれば、その程度の「自由」であり、「民主主義」かと言うことになる。
 
 「国賊発言」を大ごとにすれば、世論の注目を集める。あらためて国民が、安倍長期政権の功罪を考えざるを得ない。今は、「安倍政治とは国葬に値するものであるか」というレベルで問われているが、次は、「安倍の所業は国賊と言うに値するものでないか」というレベルでの問いかけに回答が求められる。大ごとにすることを避けて無難に収めようとすれば、安倍派の面子をつぶすことにならざるをえない。さて、どうするか。どうなるか。興味津々というところ。

《安倍国葬強行》と《統一教会対応の不徹底》ゆえの《国民の政権不信》

(2022年9月19日)
 大型台風が九州を襲って天候は不穏だが、毎日新聞朝刊の一面トップからは爽やかな風。同紙世論調査結果報道の見出しの付け方がよい。

 「内閣支持続落29%」「旧統一教会対応『評価せず』72%」「国葬『反対』62%」

 この調査と報道に、国民の関心事である3テーマが凝縮されている。《安倍国葬強行》、《統一教会対応の不徹底》、それゆえの《国民の政権不信》である。岸田政権の《安倍国葬》実施決定と強行を機に、自民党(とりわけ安倍周辺)と《統一教会》との癒着の旧悪が暴かれ、これに対する政府・与党の対応の不手際、不徹底が《国民の政権不信》となって「内閣支持率3割を割る」数字となって表れている。しかも、「続落」である。

 毎日の今回調査は、9月17・18日。前回調査は8月20・21日だった。なお、前々回は7月16・17の両日。この間の世論の変動は衝撃的ですらある。

 岸田内閣の支持率 29% (前回比7%減、前々回比23%減)
 同   不支持率 64% (前回比10%増、前々回比24%増)

 自民党支持率   23% (前回比6%減、前々回比11%減)

 旧統一教会の問題を巡る岸田政権の対応を
  「評価する」      12%
  「評価しない」     72%
  「どちらとも言えない」 16%

 自民党が実施した旧統一教会と党所属議員との関係の調査が
 「十分だ」       14%
 「不十分だ」      76%

 自民党は安倍氏と旧統一教会との関係についても
 「調査すべきだ」    68%
 「調査する必要はない」 24%

 安倍氏の国葬「反対」  62%(前回比9%増)
       「賛成」  27%(前回比3%減)

 この調査結果に関連した、毎日2面の記事が興味深い。「政権『耐えるしかない』」「支持率29%、危険水域に」というタイトル。政権・与党は、なすすべなくお手上げというのだ。

「内閣支持率は「危険水域」とされる20%台まで落ち込んだ。自民党の国会議員と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との根深い関係が相次いで判明したことや、安倍晋三元首相の国葬への反対論が強いことが影響したとみられる。政府・与党は危機感を強めるが政権浮揚への特効薬はなく、『今は耐え忍ぶしかない』といった声が相次いだ。」

 毎日だけではない。共同通信世論調査は、「内閣支持急落、最低の40% 不支持46%、初めて逆転」と伝えられている。これも、インパクトのある調査結果。

 「共同通信社が(9月)17、18両日に実施した全国電話世論調査によると、岸田文雄内閣の支持率は40・2%で8月10、11両日の前回調査から13・9ポイント急落し、昨年10月の内閣発足以降最低となった。不支持率は岸田内閣として最も高い46・5%となり、支持率を初めて逆転した。安倍晋三元首相の国葬に「反対」「どちらかといえば反対」が計60・8%を占め、「賛成」「どちらかといえば賛成」の計38・5%を上回った。」

 「自民党が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と党所属議員の関係を公表した調査をめぐり、自民党の対応が「十分ではない」との回答は80・1%で、「十分だ」16・1%を大きく上回った。自民党と旧統一教会との関係について「関係を断つことができない」と思うとの回答が77・6%に上った。」

 日本経済新聞社とテレビ東京の16?18日世論調査の結果も発表されている。「岸田内閣支持、最低の43% 旧統一教会調査『不十分』79%」

 「岸田文雄内閣の支持率は43%で8月調査(57%)から14ポイント低下した。2021年10月の政権発足後で最低となった。内閣を「支持しない」と答えた割合は49%だった」

 各報道機関の調査のうち、安倍国葬に《「賛成」「評価する」》対《「反対」「評価しない」》の割合はは以下のとおりである。

 時事通信 25.3% 対 51.9%、
 朝日新聞 38%  対 56%
 NHK   32%   対 57%
 共同通信 39%  対 61%
 毎日新聞 27%  対 62%

 いずれも「反対」が大きく上回り、国民の過半が反対していることが明らかである。この点について、NHKが、次のように解説をしている。

 「NHKに限らず他社の調査でも、(国葬に)肯定的評価を否定的評価が上回り、しかもその差が開いていく傾向が顕著です。安倍元首相の国葬に対する世論は、「賛否拮抗」「二分」から「反対(ないしは否定的評価)多数」に変わっています。」

 「さらに興味深いのは18?39歳の若い世代の動向です。
 NHKの今回(9月)の調査では、18?39歳では「評価する」43%に対し、「評価しない」47%と、否定的な回答が上回っています。8月の調査では、「評価する」53%、「評価しない」30%と、「評価する」が23ポイントも上回っていました。1カ月の間に、「評価する」は10ポイント減り、「評価しない」が17ポイントも増えるという急激な変化が起きています。」「これですべての世代で「評価しない」が「する」を上回ることになりました。」

 岸田による安倍国葬決定と強行がもたらした世論の変化。こんなにも、世論が急激に変化することは珍しいのではないか。

 国民意識は「豚に真珠、安倍に国葬」ではと呟いたら、とたんに異議が出た。「それじゃ、国葬がとても立派なことみたいじゃないの」。なるほど。では、「目くそと耳くそ、安倍と国葬」と言い直したら、「品がない」と却下。面白くはないが、「臭い物に蓋、安倍の所業に国葬」ということで、了解となった。

ヘーエ、安倍国葬への批判は非国民だって?

(2022年9月16日)
 時事通信9月世論調査(9?12日)の結果が大きな話題となっている。政権・与党に危機感をもたらしているという。そんな情勢なのかね。

 同調査では、岸田内閣の支持率が前月比12.0ポイント減の32.3%と急落し、昨年10月の政権発足後最低となった。不支持率は同11.5ポイント増の40.0%で、初めて不支持率が支持率を上回った。その逆転差8ポイント。

 各紙が「内閣支持32%、発足後最低」「内閣支持急落、迫る『危険水域』」と報道している。黄金の3年の幕開けどころではない。内閣の命運が危ない、この支持率の低下は、政権がもつやもたざるや、すれすれの危険水域だという。

 その原因は明確である。何よりも安倍国葬の強行、それとセットになった旧統一教会と自民党との癒着の表面化。さらに、その両者についての内閣と与党、とりわけ岸田首相の説明不足に国民が苛立っている。

 政権は、情勢不利と見て国会論戦を恐れ、野党の臨時国会開会請求を無視した。しかし、その姿勢に国民の批判が集まっているとの読みで、9月8日の閉会中審査に応じた。この日衆参両院の議運で、それぞれ短時間ではあったが、首相の「ていねいな説明」が行われた。また、同日自民党が所属国会議員と教団の接点に関する点検結果を公表した。時事の世論調査は、そのあとに行われたものだけに、政権・与党には衝撃が大きい。もう何の切り札もないのだから。

 一般に、内閣の危険水域とされる支持率は30%割れだという。こうなると、首相の求心力低下に拍車が掛かり、政権維持が困難になるとされる。今32%の支持率が、上昇に転じる好材料は何もない。何しろ、首相のていねいな説明とは、「同じことのていねいな繰り返し」で、「他人事みたいな作文の朗読」だと見破られてしまった。万事休すではないか。

 国民は今、国葬をきっかけに安倍晋三という人物の生前の所業を思い出している。憲法論よりは、「こんな男を国葬か」「とうてい国葬に値しないだろう」「これを国葬にというのは何らかの魂胆あるに違いない」という気分なのだ。

 さらに、自民党と統一教会との癒着だけでなく、それを隠し誤魔化そうという政府・与党の姿勢に、国民は怒っている。加えてコロナだ。物価高だ。10月初旬まで、国会は開かない。政権は、あっという間に危険水域に突っ込むことになるだろう。

 時事調査では、安倍晋三国葬「反対」が51.9%、「賛成」は25.3%。いやしくも国葬である。国民の圧倒的多数の賛意がなければ、国葬のかたちにもならない。少なくも90%を超える「賛成」があって当然なのだ。ところが、国民の過半数が「反対」という。反対派が賛成派の2倍を超えているというのだ。こんな国葬はあり得ない。

 なお、朝日新聞の調査(9月10、11日実施)では、国葬「賛成」38%、「反対」56%。NHKの調査(9月9?11日実施)でも「評価する」32%、「評価しない」57%。同じようなもの。

 そして、統一教会問題である。時事調査では、首相の旧統一教会問題への対応を「評価しない」が62.7%を占め、「評価する」は12.4%だった。首相や議員の説明に関しても、「納得できない」が74.2%、「納得できる」が5.5%。無党派層では「納得できない」が76.5%に上ったという。惨憺たる事態というほかはない。民意は、政権・与党を信認していない。
 
 各紙は、与党内は危機感に覆われつつある、政権末期の雰囲気と報じている。こういうときには、与党内に足を引っ張る輩が現れる。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂という類い。本日、その役割を引き受けて登場したのが、二階俊博・元幹事長である。TBSのCS番組収録で、こう語ったそうだ。

「長年務めた総理が亡くなったのだから、黙って手を合わせて見送ってあげたらいい。こんなときに議論すべきじゃない」「(国葬が)終わったら、反対していた人たちも必ずよかったと思うはず。日本人ならね」

 これは聞き捨てならない。「日本人なら、今は反対していても、国葬終われば必ずよかったと思うはず」とは、「終わったあとも国葬よかったと思わないのは、日本人ではない」ということである。これは、国葬反対の日本の過半数を「非国民」と罵ることにほかならない。

 二階はさらにこうも言ったという。

 (立憲民主党の執行部が欠席する考えを示したことについて)「欠席しようがしまいが国葬に関係ない。世の中にあんまり賢くないなということを印象づけるだけだ。欠席する人は後々長く反省するだろう。選挙で取り戻すのは大変だ」

 ヘーエ、この人賢いんだ。私は、賢くない人の側に立ちたい。そして、徹底して、非国民であり続けよう。

安倍論法での安倍国葬擁護論。

(2022年9月15日)
 ネットを開いたら、デイリースポーツ 2022/09/14 22:04のタイムスタンプで、「ひろゆき氏 国葬反対派に時論『例え反社の人でも葬式くらいは静かに礼節』『村八分でも葬式手伝う』」という記事が、目に入った。

 時論は持論の間違いだろうが、たいしたことではない。問題は、こんなつまらない意見を拡散するスポーツ紙の姿勢である。面白くもオカシクもない、ひねりも落ちもない、安倍国葬反対論に対する、たどたどしい揶揄。こんなものを取り上げて報道するいかほどの意味があるというのか。

 「ひろゆき意見」がどんな背景や奥行きをもったものかは論じようがない。報じられている彼のツイッターの文言だけに反論しておきたい。

 デイリースポーツが報じる「ひろゆきツィッター」は以下の3件のようだが、(2)と(3)は、同じ1件のツィッターの一部なのかも知れない。

(1) 「同意しない人も多いと思いますが、、」「例え反社の人でも葬式ぐらいは静かに送ってあげる礼節を持つべきだと、おいらは考えます」「昔から日本人は村八分であっても葬式の手伝いはしてました」「『酷いことをした人だから葬式を妨害していい』と言える人は、誰にも迷惑を掛けずに生きてきた人なのかな?」

(2) 「人の葬式に行かない人は、黙って行かなければいいだけです。『行きません』とわざわざ言う必要はないと思います。遺族と参列者に失礼です」

(3) (反対デモなどについて)「『国葬に反対だけど、葬式は静かに見守る』という大人の対応をすべきかと。安倍氏の国葬に反対という意思表示は表現の自由で守られるべきですが、葬式で集まって騒ぐのは不道徳」

 ひろゆき意見は、庶民の私的な葬儀と国家が行う国葬とをことさらに混同させて、私的な葬儀についての社会常識やマナーをもって、国葬という政治権力の暴走に対する批判の言論を封じようというもの。私的な葬儀は参列者だけで完結するが、国葬は全国民を巻き込んで弔意を求めるものである。私的な葬式と、権力作用としての国葬。これを混同してはならない。

 実は、その意識的混同こそが政権のねらいなのだ。日本社会に根強くある、死者への批判は遠慮すべきだとする社会意識を利用しようという魂胆。安倍国葬を強行しても、死者を鞭打つことになる反対論は口にしにくいものとなるだろう、だから世論が大きく国葬を批判することにはなるまいという読み。

 さすがに政権は、恥ずかしくて、このようには言わない。政権の言えないホンネを露骨に口にする、政権の走狗というものが必ず出てくる。いま、その役割を果たそうというのが、ひろゆき意見にほかならない。

「同意しない人も多いと思いますが、…例え反社の人でも葬式ぐらいは静かに送ってあげる礼節を持つべきだと、おいらは考えます」 

 おいらだけではない、だれだってそう考える。同意しない人も多い…はずはない。他人の葬式を静かに送ってあげる礼節を否定する者はない。7月12日に行われた安倍晋三の葬儀を妨害したり非難したりする者は皆無だったではないか。にもかかわらず、まるで国葬反対派が礼節を持たざる人々と言わんばかり。

 「昔から日本人は村八分であっても葬式の手伝いはしてました」「『酷いことをした人だから葬式を妨害していい』と言える人は、誰にも迷惑を掛けずに生きてきた人なのかな?」

 ひろゆき意見は、安倍晋三を「反社」にたとえたり、「村八分」を例に出す。死者に対して、失礼と言えば失礼な言辞。もしかしたら、本心は安倍晋三を軽侮し揶揄しているのかも知れない。

 ひろゆき意見の悪質さは、唐突に『酷いことをした人だから葬式を妨害していい』と、あたかも、安倍国葬反対派が、言論の行使を超えて『実力による葬儀の妨害』を企図しているかのごとくにすり替えていることに見える。こういう、相手の言っていないことで、攻撃してはならない。

「人の葬式に行かない人は、黙って行かなければいいだけです。『行きません』とわざわざ言う必要はないと思います。遺族と参列者に失礼です」

 個人の葬儀なら、失礼か失礼でないかだけの問題。しかし、国葬の是非は大きな政治的なテーマになっている。安倍晋三の葬儀を国葬として行うべきかどうか、そのことについて、一人ひとりの国民が主権者として賛否を問われている。明確に賛否を表明することは、失礼か失礼でないかを超えた、主権者としてのあるべき姿勢である。

「『国葬に反対だけど、葬式は静かに見守る』のが大人の対応」なら、その大人は主権者としては未成熟。実は、権力にとって御し易い「こんな未成熟な大人」が大半だったから、政権私物化甚だしい安倍長期政権を許したのだ。

 そして、最後にまた出た「葬式で集まって騒ぐのは不道徳」。だれも国葬を実力で妨害して騒ごうなどと企図していない。こういう詭弁で、論争相手を貶めようとしたのが、生前の安倍晋三だった。ひろゆき意見は、まるで生前の安倍晋三の国会答弁である。泉下の晋三、クシャミをしているに違いない。

「安倍国葬」強行は、安倍政治承継と改憲の宣言である。

(2022年9月13日)                                                                         
 きょうは、青空に白い雲がゆっくり泳いでいます。その青空を仰ぎながらの「本郷湯島九条の会」の街頭宣伝です。私は、「九条の会」の石井彰です。安倍晋三氏の「国葬」に反対しています

 宣伝行動の始まる前に、中年のご婦人が私たちの用意した「安倍国葬反対」のプラスターを見て、「ほんとにそうよ。何でこんな人に敬意だの弔意だのしなけりゃなんないの。冗談じゃないよ」と言って息巻いていました。まことに、おっしゃるとおりです。国葬反対は、今や大きな世論となっています。

 安倍晋三氏の「国葬」に反対する理由の核心にあるものは、「国葬」をおこなうことそれ自体が、全ての国民に安倍晋三氏に対する弔意を強制する意味をもつことになるということです。「国葬」に伴う黙祷や歌舞音曲停止という具体的な行為の強制があってはならないのはもちろんのこと、全ての国民がこぞって弔意を表明すると意味付けられた儀式の挙行は、明らかに弔意を表したくないという国民の内心を傷付けます。全ての国民が費用負担を強いられることにも納得できるはずはありません。

 日本国憲法は、個人の尊厳を最高の価値としています。そのことを定める憲法13条は日本国憲法の核心部分です。この核心部分をものの見事に崩落させて、国の意思によって、特定の人物に対する弔意を強制するのが、「国葬」なのです。

 安部晋三元首相が2022年7月8日に奈良市で銃撃で殺害された事件そのものが民主主義社会においてあってはならない所業であり、絶対に許されない行為であることは言うまでもありません。しかしこの事件をきっかけに、自民党が統一協会・国際勝共連合と半世紀にわたって深い癒着の関係にあったことが露呈しました。その自民党の中心に安倍三代、岸信介・安倍晋太郎・安倍晋三がいました。この三代が、韓国発祥の統一協会・国際勝共連合に「日本という国を売り渡していた」ことが明らかになったのです。

 その安倍氏を「国葬」にすることは日本人の理性の欠如を世界に示すことにほかなりません。その結果、「国葬」とは、安倍氏の葬儀であるよりは、日本という沈殿した国の葬儀になっしまったのではないでしょうか。

 「国葬」を実施するのかやめるのか。それはカゲロウの国になるのか、理性・民主主義国家への道を歩むのかの分水嶺です。「国葬」反対の世論を全国で圧倒的に広げようではありませんか。

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 皆さま、月に一度の街頭宣伝です。「本郷湯島九条の会」の澤藤が最後にお話しをさせていただきます。もう少しの時間、耳をお貸しください。

 予定されている安倍晋三の国葬、轟々たる反対世論を押し切って、まだ政府は撤回しようとしません。無理をしてでも、やってしまおうという姿勢です。

 国葬反対の理由は、先程来、いくつも語られてきました。その多くは、国葬そのものが違憲であり、あるいは立憲主義に反し、あるいはこの度の国葬が手続き的に許されない、というものです。しかし、分かり易いのは、「国葬反対」論よりは「安倍国葬反対」論です。端的に言えば、「ウソつき晋三に国葬はふざけている」というフレーズ。

 国葬の対象となるには、国民がこぞって敬意を表するにふさわしい人、それゆえに国民の大多数が弔意を表明したいという人でなくてはなりません。そのような人を具体的に想定することは困難ですが、少なくとも、安倍晋三が国葬にふさわしい人物でないことは明白ではありませんか。

 彼は、少なくとも国会で118回のウソをついたことが明らかになっています。ウソつきを国葬にしてはいけません。

 彼は政治を私物化したとして悪名高い人物です。彼は、忖度という政治文化を蔓延させました。安倍政治とは、公文書の偽造・隠匿・改竄、ウソとゴマカシで特徴付けられています。要するに、安倍晋三とは尊敬に値する人物ではなく、道義的にも政治的にも廉潔性を欠いた、薄汚い唾棄すべき人物なのです。こんな汚い人物が国葬にふさわしくないことは明らかではありませんか。

 内政外交に安倍晋三が遺したのは負のレガシーばかり。アベノミクスで格差と貧困を拡げ日本経済を衰退させました。アベノマスクでは無能無策をさらけ出して国家財政に巨額な負担を負わせ、ウラディーミルのお友達としてどこまでも駆けて駆けて駆け抜けた無能な外交手腕。

 何よりも、彼は改憲論者でした。日本国憲法を敵視し、とりわけその平和主義をせせら笑って攻撃し、核共有論さえ語っていた人物です。とうてい、国民こぞって敬意を表明し、その死を悼むことのできる人物ではありません。

 しかも、彼は3代続いた年季のはいった統一教会との同志ではありませんか。筋金入りの反共というイデオロギーで結びついた同志。その関係が今暴かれつつあります。

 無理を承知で、こんな人物の国葬を強行しようというのは、現政権に魂胆があるからです。安倍政治の悪政を国民に忘れさせ、国民からの批判のトゲを抜き、安倍政治を国民に承認させ、安倍晋三が果たせなかった改憲を実現するための安倍政治承継の魂胆。それは、改憲への道筋を付けようとするものにほかなりません。

 安倍晋三の死を政治的に利用しようというたくらみを許容することはできません。どのような死に方をしようとも、安倍晋三の生前の所業をごまかしてはならない。ウソつき晋三を国葬という化粧で塗り込め、その罪を覆い隠すして、改憲策動に利用しようというたくらみを決して許してはなりません。

 ですから、皆さん。国葬参加者を注視しましょう。いったい誰が、なんのために、ウソつき晋三の国葬に参加するのか。これだけ違憲・違法と評判の悪い国葬に、敢えて出席するのか。どの政党、どの政治家、どの首長、どのジャーナリスト・経済人が出席するのか見極めようではありませんか。 

 街頭から、もう一度「安倍国葬反対」と呼びかけて、ここ本郷三丁目交差点での本郷湯島九条の会の訴えを終わります。

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 [本日のプラスター]★「国葬」反対、モリ・カケ・サクラ・クロカワイ。★国民不在「国葬」反対。★人類の理想・戦争放棄の9条。★「国葬」反対、政治の私物化許すな。★「国葬」イントク・カイザン・コウブンショ。★軍事費12兆円、アメリカの盾、捨て石ゴメンデス。★「国葬」反対ウソの答弁118回。

安倍晋三と統一教会、その関係を総理に語らせるわけにはいかんだろう。

(2022年9月9日)
 私が山口俊一。昨日(9月8日)の衆院閉会中審査、あの質疑を取り仕切ったのが議運委員長の不肖私。徳島を地盤に現在11期目。麻生派ですよ。これまで、パッとした業績はありませんが、突然に有名になっちゃった。どう見ても頼りない総理を、鋭い野党の攻勢から私が守ったわけだから、我ながらの大きなお手柄。

 この日の審議の議題は「安倍元首相の国葬儀について」だった。本来は、どうすれば立派な国葬儀ができるかの知恵を寄せ合う議論をするはず。どうすればより深くより暖かく、元首相に対する敬意と弔意を示す儀式とするか。建設的で、提案型の諸意見集約の場とすべきが当然のこと。

 ところが、野党の側は元首相に対する敬意と弔意のカケラもない連中ばかり。質問とは名ばかりの国葬儀への嫌がらせ。不肖私が割ってはいらなければたいへんなことになっていたはず。

 議題が「安倍元首相の国葬儀」だということは、旧統一教会問題の議論をすべき場ではないということ。安倍元首相と統一教会との関連がいかに親密なものであろうとも、統一教会問題の議論は論点ずらしではないか。いや、安倍元首相と統一教会との関連が極めて親密なものであるからこそ、ここを野党に衝かせるわけにはいかんのだ。

 だから、総理が危なくなれば、「本日の議題は国葬儀」と、不肖私がレフリーの身でクリンチを繰り返す。野党やその支持者には面白くなかろうが、これも闘いの一場面。ハラハラしていたはずの、政権も自民党も、そして統一教会も、胸をなで下ろしたろう。

 立憲民主党泉健太の舌鋒は、さすがに鋭い。「自民党と旧統一教会との関係を考えた場合に、安倍元総理は最もキーパーソンだったのではないか」と、総理に迫った。これに対する総理答弁が、いかにも頼りない。余計なことを口にしての時間稼ぎという狙いが見え見えだから、なおさらだった。

 「本人が亡くなられたこの時点において、実態を十分に把握することは限界がある」「自民党として丁寧に説明しなければいけない。それぞれの点検結果について、取りまとめを行い、説明責任をしっかり果たしていこうという作業を進めている」とまあ、誰が聞いても下手くそな論点ずらし。

 「限界はあろうが、可能な限り調査する」なら分かるが、「限界があるから一切調査しない」って、いったいそりゃなんだ。これで、納得しろと言うのが無理な話。だから、私の出番が必要なのだ。泉に対して、「本日の議題は国葬儀だ」「それをよく踏まえてのご質問を…」と何度かのブロック。質問の腰を折って、それなりの効果があったと思うね。

 委員長席で聞いていても、総理の答弁は、今まで小出しに言ってきたことを繰り返しただけ。そして、聞かれたことにははぐらかし。どう考えても、ひいき目に見ても、「丁寧な説明」にはなっていない。野党も国民も納得できるはずはない。

 でも、本日の日刊ゲンダイが不肖私を、《岸田政権の新たな守護神誕生だ》と持ち上げてくれたことは、ややこそばゆい。我が党は人材豊富なのだ。入れ替わり立ち替わり、新たな政権擁護の立役者を生み続ける。

 共産党の塩川鉄也もしつこかった。「国政選挙における安倍氏と統一教会の関係についてはどう考えるか」と、安倍と統一協会との関りを明らかにせよと追及して、明らかに総理を困らせていた。だから、私は、総理の顔を見ながら、「直接議題と関係ないことには、お答えいただかなくて結構でございます」と、恩を売っておいた。総理は、「安倍氏がなくなられているいま、関係を調査することには限界がある」との主張を繰り返すばかり。正直のところ、こりゃダメだね。

 安倍国葬を検討するに際して、安倍と統一協会の関係の究明を避けて通ることができないことくらいは分かりきったこと。安倍晋三が統一協会の広告塔の役割を果たし、統一協会の活動を側面支援し、国政選挙において統一協会の組織票配分を差配していた。みんな知っていることだが、そんなことを総理に答弁させるわけにはいかない。だからこその私の働き。

 昨日から今日のメディアの論調は、不肖私が、安倍元首相と統一教会の密着性を却って浮き彫りにし、閉会中審査を契機に国葬反対論がさらに拡大することが避けられない情勢だという。おそらくはそのとおりだろう。それでよいのだ。何よりも私の知名度が上がることが大事なのだから。悪名は無名に優る、というではないか。

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