君、矜持を捨てることなかれ
気骨を失うことなかれ
筆を抑えることなかれ
膝を屈することなかれ
折節正しき言行の
末頼もしき君なれば、
君への期待はまさりしも
よもや安倍の風情にへつらって、
閣僚人事に名を連ね、
魂売るとは思いきや
いかでか理由は知らねども、
ブログを消すとはなさけなや
親の情けはまさりしを
安倍に屈して生きよとて、
五十二までを育てしや
かつては党のあるじにて
正統保守の良心と
令名高き親の名を
嗣いで来たりし君なれば
君 籠絡さるることなかれ
自分を廉く売るなかれ
安倍の自民は
風前の塵と吹き飛ぶときならん
世論の支持の急落は
民意と天意のなせるわざ
君の出番にあらざるぞ
この出陣は情けなや
君は知らじな民の瞋恚
憲法九条は猛虎の尾
安倍と一緒に踏むなかれ
ああ河野太郎よ君を泣く
節を屈することなかれ
脱原発を述べし君
「核のゴミには目をつぶり、
やみくもに再稼働しようというのは無責任」
安倍を批判の舌の根の
乾かぬうちの入閣で、
はや その気骨は挫けたか
若き麒麟と勇ましく
国家秘密法に反対の狼煙を上げし谷垣も
老いては駄馬になりさがる
君 同じ轍を踏むなかれ
安倍のお粗末内閣の
名簿に君の名を見つけ
民のなげきのいたましや
まことの保守はすでになく
右翼の輩がのさばりぬ
安倍を批判の頼もしき
君の言葉が潰えなば
ああまた誰をたのむべき
君 膝を屈することなかれ
(2015年10月8日・連続921回)
富国・強兵、強兵・富国。
キョウヘイ・フコク、フコク・キョウヘイ。
なんとすばらしいハーモニー。
富国と強兵とは、表と裏、一体にして不二。
強兵のための富国であり、富国のための強兵ではないか。
アベノミクスは、実は民生のための経済政策ではない。
「格差が広がった。貧困が深刻化した」
それでよいのだ。強兵のための富国政策なのだから。
そして、富国のための強兵策が、積極的平和主義。
富国と強兵とが相支え相補いあって、
戦後レジームからの脱却を可能とする。
昔日の強い軍国日本を取り戻すことができる。
それこそ、ワタクシ安倍晋三と仲間たちの目論むところ。
第二次安倍内閣成立当初は、はじめは処女のごとくの喩えそのままの経済政策優先。これがアベノミクスの表向きの姿だ。2015年選挙がない年には戦争法のごり押し。そして、戦争法の無理が一段落した今、また経済政策に逆戻り。新アベノミクスだ。富国から強兵、強兵からまた富国へ。
富国も強兵も、すべてはお国のため。国民はお国のために子を産み、子を育て、子を国家に役立てることになる。当たり前の話ではないか。国の子は、「強兵」に育つか、産業戦士に育てるのか、二つに一つだ。どちらもいやだという、利己的な若者の跋扈には、追々箍をはめていかねばならない。
戦争は必ずしも起きなくてもよい。しかし、戦争ができるような国の秩序はどうしても作っておかねばならない。強兵あっての有利な外交であり、強兵こそ富国の支えではないか。
強兵策の最大のハードルは、私が最も忌むところの日本国憲法だ。憲法9条こそ私の天敵。一刻も早くこの天敵を成敗して、戦争のできる憲法に作り替えたいのだが、急いては事をし損じるの喩え。やむなく、急がば回れの解釈改憲。そして、もっぱら違憲と評判の安保関連2法だ。
戦争ができる国の秩序には、法整備が不可欠だが、しばらくはこれでよかろう。この法律と、特定秘密保護法の組み合わせで、相当のことまではできるようになった。また、いつか、「我が国を取り巻く防衛環境が変わった」という魔法の杖をもう一振りすれば、戦前並の国防保安法や国家総動員法、そして治安維持法の制定も夢じゃない。
今回は、公明党によく働いていただいた。しかし、このように働いてくれる政党は、公明党ばかりではない。いつの世にも、政権与党につながって甘い汁を吸いたい政党や政治家がすり寄って来るものなのだ。それと組んで、もう一押しの強兵策。
しかし、強面ばかりでは民意が離れる。民意を掌握する要諦は、期待を長く引っ張ることだ。今は豊かにならないが、我慢すればそのうちに豊かになれるという幻想を与え続けることなのだ。3本の矢がうまくいかなければ、新しい別の矢を3本放てばよい。それも的に当たらなければ、目先を変えてもう4、5本射てばよい。下手な鉄砲も数の喩え、何本も射ることによって、まぐれでもいくつか当たればよいのだ。いや、当たる可能性があると信じさせればよいだけのこと。
えっ、なに? それは詐欺の手口ではないかだと? 教えていただきたい。政治と詐欺の違いを。政治家と詐欺師の言に、いったいどんな違いがあると言うのか。
(2015年10月4日・連続917回)
いつものように、新宗教新聞(2015年9月25日号)が届いた。紙面に目をやって、多少の驚きと感動を禁じ得ない。
第1面が、「安保法案 強行採決に反対、抗議」の大見出しの記事と、「新宗連声明『立憲主義 根底から揺るがす』」という「安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明」の紹介・解説で埋めつくされている。
新宗連は、政教分離問題でこそ政治と関わらざるを得ないが、それ以外のテーマでは政治色を押さえた姿勢だったはず。その主張は、どちらかと言えば革新色であるよりは保守色が濃厚との印象だった。ただ、命を大切にする宗教者の立場から平和や人権問題に真面目に取り組んでいるという姿勢を好しく見ていた。
その新宗連が、第1面のほぼ全部を、安保法案強行採決に抗議の記事にした。その大要は以下のとおり。
「安全保障関連法案が9月17日午後の参議院平和安全法制特別委員会、翌18日の本会議で与党ほか賛成多数で可決された。新宗連は19日、保積秀胤理事長名で『安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明』を発表。採決を『わが国の最高法規である日本国憲法の規範性を毀損するもの』と憂慮し、立憲主義の危機を訴えた。今回の参議院採決に前後して、宗教界から反対声明が相次いで発表された。
立正佼成会は9月19日、『安全保障関連法案可決に対する緊急声明』を発表。冒頭で『多くの国民が本法案に反対するなかでの強行採決は、誠に遺憾』と述べ、政府に対していかなる外交問題にも『安全保障関連法で容認された武力行使を回避し、対話による信頼醸成に基づく平和的解決に向けて、最大限の努力をするよう強く要望いたします』と訴えた。
このほか、宗教界からの安保法案及び強行採決に対する抗議声明・見解は17日に日本バプテスト連盟理事会が、18日に日本福音ルーテル教社会委員会が発表。また、19日には真宗大谷派(東本願寺)が里雄康意宗務総長名で、日本カトリック正義と平和協議会は勝谷太治会長名で発表した。」
8月30日の総がかり国会包囲大行動の模様を伝える記事の中に、「メーンステージの国会正門前には『南無妙法蓮華経』と『南無阿弥陀仏』ののぼり、創価学会の三色旗もはためき、僧侶や創価学会員が一般参加者とともにシュプレヒコールを繰り返した。…『宗教者九条の和』を代表し宮城泰年聖護院門跡が法案反対を訴えた」とある。
新宗連の「安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明」を紹介しておきたい。
「新日本宗教団体連合会は、日本の行方に大きな影響をもたらす安全保障関連法案が、参議院特別委員会で強行採決され成立したことに対し、わが国の最高法規である日本国憲法の規範性を毀損するものと深く憂慮いたします。国民主権を定める憲法のもと、正規の憲法改正手続きを経ず、政府による『解釈改憲』によって国の基本政策を大きく変えることは、わが国の立憲主義を根底から揺るがすものといわざるを得ません。
同法案については、多くの憲法学者から『憲法違反』となることが指摘され、また、内閣法制局長官経験者からも『憲法違反』との指摘がなされました。しかし、国会審議では国民が納得する説明がなされず、さらに審議の結果、法文の定義、解釈が不明確であることが判明するなど、数々の問題を有していることが明らかになりました。こうしたなかで『良識の府』、参議院においても採決が強行されたことは、与野党による広範な議論と合意によって成案を得る議会制民主主義を破壊するものであります。
政府及びすべての国会議員に対して、戦後、わが国が培ってきた自由と民主主義、それを支える立憲主義が政府の『解釈改憲』によって二度と損なわれることがないよう、重ねて強く訴えるものであります。
平成27年9月19日
新日本宗教団体連合会
理事長 保積 秀胤」
真面目に社会と関わろうする姿勢を持ち、真面目にものごとを考えようとする集団は、必然的にこのような政権批判の声明を出すことになるのだ。かつては、「真面目な集団=反自民」ではなかった。しかし今や、宗教団体でも平和団体でも、女性団体でも消費者団体でも、「真面目な集団=反安倍政権」の図式が確立していると考えざるをえない。新宗連がそのよい実例ではないか。願わくは、この姿勢をぜひ来年夏の参院選挙まで持続して、安倍政権の追い落としに力を貸していただきたい。
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同じ、新宗教新聞の4面に私の名前が出ていた。
9月11日の全国霊感商法対策全国弁連(事務局長・山口広弁護士)全国集会の紹介記事。スラップ訴訟ミニシンポでの私の発言が次のような記事になっている。
「澤藤統一郎弁護士は、健康食品会社DHCが渡辺喜美・みんなの等代表(当時)に8億円を貸し付けたことをブログで批判。現在、同社から損害賠償を求める提訴を受け、係争中であることを説明した。スラップ訴訟の対応策に、『萎縮しないこと、却下を求めること、反訴を認容させること』などを挙げ、言論の自由を奪うスラップ訴訟を抑える立法に向かうべきと方針を示した」
私は、スラップ訴訟という言葉を社会に浸透させたいと思っている。そして、スラップを恥ずべき行為であり、訴訟の原告を恥ずべき人物・企業と指弾する世論をつくりたいとも願っている。その恥ずべきスラップの常連企業としてDHCの名が、至るところで話題となることを熱烈に歓迎する。新宗教新聞には、感謝を申しあげたい。
が、この記事だけだとややインパクトを欠く。DHC・吉田嘉明からの損害賠償請求額が6000万円だと具体的な金額を挙げていただけたら、もう少し世間に注目したいただける記事になったのではなかろうか。また、「係争中」はそのとおりだが、原告(DHC・吉田)全面敗訴の一審判決が既に出ていることも、DHCは同種他事件でも敗訴続きであることなども書いて欲しいところではあった。ここまで、書いていただけたら、被告にされた私の気持ちも晴れやかになるのだが。
(2015年9月28日・連続911回)
さあて、本日(9月24日)は、自民党総裁再選に伴う記者会見の日だ。これを、安保関連法の軋轢と混乱に終止符を打つセレモニーとしなければならない。
憲法の季節は終わりだ。安保関連法のことなど、みんな早くきれいさっぱりと忘れてもらいたい。立憲主義違反だとか、平和主義にもとるとか、非民主的だとか、いろいろ言われたけれど、法案が成立してしまえば、もうこっちのもの。あとは、目立たないところで、制服組と外務省の官僚諸君が良きにはからうだろう。最初から国民を刺激する愚策は講じない。少しずつ、小出しになし崩していくんだ。これが安倍晋三流。
しばらくは、憲法や安全保障の課題を離れよう。この法案審議の中で生まれた、「数々の安倍およびその取り巻きたちの名言集」は見たくも聞きたくもない。一刻も早く忘れたいし忘れてもらいたい。問題は、国民がいつまで覚えているかだ。国民の記憶力、どうせ大したものじゃない。
今日からは、政治を離れて「経済の季節」だよ。国民に憲法改正問題を忘れてもらうには、政権の目標を経済の復興におくことしかないということだ。
とはいえ、どうにも力がはいらない。自分でも、自分の言葉が空虚だと思えてならない。何か、国民にアピールするものが欲しいところだが、そんなうまい話があるわけないから仕方がない。ああ空しい。言葉だけが宙に浮いている。そう思いながらの記者会見だから、迫力に欠けることこの上ない。
ホントなら、東京オリンピックを語って盛り上げたいところだ。だってそのために招致した国民統合のためのイベントだろう。国威発揚の舞台だ。端的に言えば、国民が政権に反抗しないように与えておく娯楽として、これに優るものはないじゃないか。ところが、これはダメだ。使えない。ブエノスアイレスでの招致演説で、「放射能は完全にコントロールされ、ブロックされている」なんて私自身がデタラメ言っちゃったし、その後の国立競技場建設問題も、エンブレムもみんなおかしくなってきた。このネタ、古傷を思い出させて、とても使えない。
それで、苦し紛れの「アベノミクスは第2ステージに移る。『1億総活躍社会』をめざす」なーんちゃって。こういう普通の感覚ではとても恥ずかしくて口にできないことを、堂々と言ってのけるのが、やっぱり総理総裁たる私の器なんだな。
アベノミクスは、このところすこぶる評判が悪い。アホノミクスという揶揄の言葉が定着しつつある。とりわけ、アベノミクスの本丸となる「第3の矢・成長戦略」の成果がまったく見えないではないか、という批判が強い。いつまでも、「もう少し待て」「その内に、地方も良くなる、庶民の懐も暖かくなる」と言って来たけれど、結局は貧困と格差の拡大だけが現実となっているというわけだ。そう言われてもやむを得ないね。そのとおりなんだもの。
だからここで、趣向を変えてみよう。アベノミクスの第3の矢に替えて、「新3本の矢」だ。これぞ、矢のインフレ、デフレからの脱却の術。またの名を安倍流忍法「国民の目先・目眩ましの術」。「強い経済(GDP600兆円)」「子育て支援」「社会保障」だ。少子高齢化の社会に挑戦して、女性の活力も高齢者の労働能力も活用して、強い経済をつくっていこうという呼びかけ。「えっ? いままでそんなことも考えて来なかったの?」と言われると、グサッと胸を抉られる思い。「問題はどうやって実現するかの具体策でしょう? 何か名案があるの?」と聞かれると、グサッグサッと来る。さらに、「安定した財政再建のためとして、庶民増税を実行し、社会保障を削ってきたのは安倍政権じゃないの」などと言われると、グサグサグサッと3本の矢が方向を変えて、私の顔に突き刺さる。
でも、国民のほとんどが私の言うことを素直に聞いてくれるお人好しばかり。NHKや産経・読売のような、政権を批判しないことを身上とする御用メディアが、大いに頼りになる。だから、これでもなんとか持ちこたえられる。
もっとも、話題を経済だけで済ませるわけにはいかない。記者の質問に応じて、「憲法改正は自民党の党是」だと言っちゃった。「改正に支持が広がるように努力を重ねていく」とも述べておいた。来夏の参院選では一応「公約に掲げていくことになる」と言わざるを得ない。ホントは言いたくはなかったのだけど、逃げているように見られるのもみっともないからね。「安倍政権の間は憲法改正の議論はしないというかたくなな態度ではなく、未来の日本、今の日本のために何が必要か勇気を持って(憲法改正の)議論に参加してほしい」と呼びかけたが、まずかったかな。この頃、何もかもうまくいかなくて、さっぱり自信がないんだ。
それでも、これからは「経済問題」を前面に押し出して、ビリケン(非立憲)安倍といわれないように、点を稼がなくてはならない。とりあえずは、来年夏の参院選までが勝負だ。安保関連法案での安倍内閣へのバッシングを国民が忘れてくれるかどうか。そこが勝敗の分かれ目だ。
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戦争法案採決の不存在を主張し審議の続行を申し入れる緊急のメール署名は、醍醐聰さんが提唱し、一昨々日の当ブログでも拡散を呼びかけたもの。
http://form1.fc2.com/form/?id=009b762e6f4b570b
署名数は本日(9月24日)の17時現在で27,000筆を超えたとの報告である。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-bd74.html
「あんな採決は認めない」という市民の怒りの声を、明日(9月25日)参院議長と特別委委員長に届けたい。私も、醍醐さんに同道する。未署名の方は、ぜひ緊急にお願いしたい。
(2015年9月24日・連続907回)
孫子の兵法に「兵は詭道なり」とある。安倍政権と与党とは、政治を「兵」とこころえて、「詭道」に奔った。しかし、民主主義の政治過程に詭道が持ち込まれてはならない。とりわけ、権力を有する政権与党が詭策を弄することなど、あってはならないことではないか。
政権が憲法を閣議決定で蹂躙し、与党の数の力で違憲立法を押し通すことは、究極の詭道にほかならない。10法の改正案を1本にまとめ、立法事実についての説明はあとになって引っ込めた。挙げ句の果てに、怒号と混乱の中、スクラムを組んで「採決」を強行するなどは、民主主義国の政権与党にあるまじき愚行。安倍政権と自公両党は、してやったりとほくそ笑んでいるのであろうが、この「だまし討ち」が、国民の怒りの火に油を注ぐ結果となったことを思い知らねばならない。
さて、これからどうするか。
迂遠なようでも、運動を継続することによって世論を喚起し続けて、自公の与党を少数派に追い込み、立憲主義・民主主義・平和主義を標榜する政治勢力を選挙で勝たせることが王道。当面は、来年(2016年)7月の参院選が目標となる。ここで、「オール沖縄」に倣っての「オール日本」で選挙に勝たねばならない。弾みを付けて、次の総選挙で安倍内閣を打倒することが目標だ。これが正規軍による正規戦。デモ・集会・ビラ・チラシ・インターネットなどによる言論戦、そして各政党を結集しての選挙戦、その王道をこそ堂々と推し進めなくてはならない。
しかし、総力戦においては、正規軍だけが兵力ではなく、ゲリラもパルチザンも便衣隊も、大いに活躍しなければならない。王道以外に何ができるだろうか。
まずは、あの「暴力的強行採決」の不存在ないしは無効を主張する運動。そして種々の局面での違憲訴訟の提起、さらに議員立法による戦争二法の廃止法案上程や、「賛成議員の落選運動」などが考えられる。
採決の不存在を主張し審議の続行を申し入れる緊急のメール署名は、醍醐聰さんが提唱し、昨日の当ブログでも拡散を呼びかけたもの。
http://form1.fc2.com/form/?id=009b762e6f4b570b
本日午後9時時点で、既に1万5000筆を超えたと報告されている。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-bd74.html
「あんな採決は認めない」という市民の怒りの意思表明として、大いに意味がある。
次いで、種々の局面での違憲訴訟の提訴である。
民事訴訟は、原告の具体的な権利侵害を回復しあるいは予防するためにある。具体的な権利侵害を離れての訴訟の提起は、訴えの利益を欠くものとして不適法とされ、却下判決をもって打ち切られる。
この点を「警察予備隊違憲訴訟・最高裁(大法廷)判決」は、「わが現行の制度の下においては、特定の者の具体的な法律関係につき紛争の存する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所がかような具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲牲を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何等の根拠も存しない。」とされている。
このハードルを越えて、いま誰もが提訴できる方法としては、市民一人ひとりがもっている平和的生存権が侵害されたという構成を採ることが考えられる。平和的生存権は、日本国憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」に根拠をもつ。憲法は、本来人権の体系である。第9条の戦争の放棄・戦力の不保持も、平和的生存権という基本権を保障するための制度と読むべきなのだ。9条をないがしろにする安倍内閣の行為によって平和的生存権が侵害されたとして、戦争法が違憲であることの確認や慰謝料請求が考えられる。
自衛隊員が戦争法によって海外への派兵を命じられる事態となれば、違憲な法律によって権利侵害が差し迫っていることになるのだから、派兵命令の差し止め請求が可能であろうし、派兵命令拒否による懲戒や刑事罰を争う訴訟がおこわれることにもなるだろう。
さらには、海外で活躍しているNGOの諸君が、法改正によって危険にさらされる事件が起これば、国家賠償訴訟を提起することができる。
すみやかに、成立した戦争2法を廃止する法案の国会上程をすべきことも提唱されている。現在、その法案成立の見込みはないが、国会での審議の過程で、国民にこの無法な戦争法成立過程をあらためて思い出させる効果を狙ったものだ。政権は、国民の忘却を期待している。私たちは、記憶を呼び起こし、忘れない努力を持続しなければならない。
そして、戦争法に賛成した議員の落選運動である。各地・各分野で、大いに盛り上げようではないか。誰かを当選させるための落選運動ではなく、徹底した純粋の落選運動をやろう。
私は、大阪の阪口徳雄君らとともに、弁護士として「賛成議員を落選させよう・弁護士の会」あるいは、「戦争法案賛成議員を落選させよう・弁護士の会」を立ち上げたいと思っている。「安保連法案賛成議員を落選させよう・弁護士の会」でもよい。「憲法違反議員はいらない・弁護士の会」「違憲議員を落とそう・弁護士の会」という案も出ている。略称を「落とそう会」とでもしようか。「落選させる会」「落選させよう会」でもよい。
所詮は非正規軍のゲリラ戦であって、正規軍にふさわしい運動ではないと思う。が、私は法が主権者に要請している運動スタイルだと確信している。
落選運動の中心は、議員の徹底した「身体検査」である。権力が行うプロファイリングではなく、市民が非権力的手段で行う情報収集と情報交換と情報分析である。そして、その結果をホームページやブログなどを通じて公開する。メディアにも取材してもらう、違法があれば遠慮せずに告発をする。
政治資金規正法上の政治資金収支報告書、公選法上の選挙運動収支報告書を中心に、自公の議員の政治資金・選挙資金の流れを徹底して洗い出す。これは、法が主権者である市民に期待する活動なのだ。
政治資金規正法・第一条(目的)は、「この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。」と定めている。「国民の不断の監視と批判」こそが、求められているのだ。
具体的には、ターゲットの候補者(自民・公明・次世代・改革・元気)を定めて、多くの市民や団体・メディアに、落選運動への参加を呼びかける。主としてインターネットサイトを舞台に、公開資料分析のノウハウを提供し、各ターゲットごとに、各地の担当班をつくって、徹底したプロファイリングを行う。そして、遠慮なく公開質問状の送付や告発を行い、メディアに情報を提供する。メディアも、素人に負けてはならじとがんばるだろう。相当に効果を期待できるのではないか。
採決不存在の確認を求めるメール署名は15000筆を超えたという。25日午前10時の締め切りまで、まだまだ増えることだろう。
多くの人が何かをしたいと待ち構えている。受け皿をつくることが大切だ。戦争法案賛成議員の落選運動。飽くまで、王道とは別の非正規活動分野だが、多くの人々の感覚にフィットして、違憲の戦争法成立を暴力的に強行した安倍政権と与党の暴挙を記憶に留めるための優れた活動形態ではないだろうか。
(2015年9月22日・連続905回)
ワタクシ、安倍晋三です。とうとうやりました。感無量です。
強行採決? 民主主義の蹂躙? 立憲主義の破壊? そんな泣き言は負け犬の遠吠え。力こそ政治、数こそ民主主義です。分かりきったことではありませんか。バンザイを叫びたいところですが、ここは我慢のしどころ。神妙な表情を造っておかなくては。しかし、辛い。噛み殺しても、どうしても笑みがこぼれてしまう。これで、戦後レジームを壊して、軍事大国日本を取り戻す道筋がはっきりしてきたのですから。
安保関連法案成立に伴う私のコメントを、誤解のないように自分で解説しておきましょう。
「平和安全法制は国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な法制で、戦争を未然に防ぐためのものだ。」
このフレーズの意味は国民の皆さまによく理解いただけたはず。解説の必要もありませんが、平和とは何よりも安全と安心のことです。安全と安心は、武力なくしてはあり得ません。近隣諸国を上回る武力を整備し、いつでも現実に使えるようにしておくことによって、ようやく安全と安心を手に入れることができるのです。
我が国を取り巻く国際環境は劇的に変わりました。北朝鮮だって、中国だって、いつ我が国に攻めてくるか分かったものじゃない。韓国だって油断はできない。攻めてこられたら、原発一基が爆撃されても壊滅的な被害となります。だから、武力は増強すればするほど、国民に安全と安心を保障します。武力こそが平和そのものなのです。国民が喰えなくても軍事力増強が必要なのです。ミサイルも、空母も、攻撃型潜水艦も、多ければ多いほど平和なのです。
切れ目なくいつでもどこでも、誰とでも戦争ができるように準備しておくことが平和の条件です。相手国が、負けるものかと武力を増強すれば、さらに我が国もこれを上回る軍事力を整備すればよいのです。いずれ、大国にふさわしく核兵器も運搬手段も装備して、近隣の悪者国家を震えあがらせなければなりません。そうすることによってはじめて、戦争を未然に防ぐことかができるのです。
「子どもたちや未来の子どもたちに平和な日本を引き渡すために、必要な法的基盤が整備された。」
言うまでもなく、「平和な日本」は、強力な軍備なくして実現し得ません。子どもたちや未来の子どもたちは、平和な日本を守るための軍備を支える、貴重な兵士の供給源なのです。その子どもたちを、平和をつくるために戦争に派遣することのできる法制がようやくにして成立したのです。何とお目出度いことではありませんか。
「今後とも積極的な平和外交を推進し、万が一への備えに万全を期す。」
このフレーズを平板に読んではなりません。大切なポイントは、「万が一への備えに万全を期す」ということなのです。万が一への備えとは、外交交渉がうまくいかなかったときの奥の手として、これまで憲法が禁じていた「国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使」のことです。握手しながらも、後ろ手に銃を持っていればこその外交ではありませんか。この法律の制定で、ようやくにして強い外交ができる立場を我が国が獲得したのです。
これも、国民の皆さまにはよくお分かりのとおり、「平和外交の推進」には武力の支えが不可欠なのです。「積極的な平和外交推進」には、交渉相手国を圧倒する武力が必要なのです。そんなことは、歴史が証明しているところではありませんか。
「今回、参議院では、野党からも複数の対案が提示され、議論も深まったと思う。民主的統制をより強化する上での合意が、野党3党となされたわけだ。与党だけではなく、野党3党の賛成も得て、皆さまの支持の下に、より幅広く、法案を成立させることができた。」
自分でも白々しい言葉だとは思いますが、次世代・元気・改革の3党が賛成にまわってくれたことは、最大限活用しなくっちゃ。法案の修正はしていないのだから、「議論も深まった」は言い過ぎだろうが、ああいう野党の存在は貴重だね。なんと言われようと、「与党だけなら強行採決と言われてもしょうがないが、今回は野党3党も賛成にまわったのだから強行ではない」で、押し通すことを強行しなくては。
「今後も国民に誠実に粘り強く説明していく。世論調査の結果によれば(国民理解のために)まだまだこれから粘り強く、丁寧に法案の説明を行っていきたい。」
めんどくさいけど、今さら遅いとも思うけど、「誠実に粘り強く説明していくフリをしなくてはならない情勢」ではあるようだ。私もそれほどバカではないから、その努力の必要性は認めざるを得ません。今後とも、今日の言葉に明日は責任を持たず、二転三転しながら、分からないと言われても、同じ言葉を繰り返すことによって、誠実に粘り強く見える説明を心掛けていきたい。
「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」が私のDNA。戦後レジームとは、結局のところ日本国憲法の理念とこれを実現するためのシステムのことですから、「戦後レジームからの脱却」とは日本国憲法を徹底して破壊すること。それこそが私の本能的な願望なのです。
できれば、明文改憲をしたいところですが、まだそこまでは国民が付いてこない。だから、解釈を変えるのですよ。変えた解釈にそって、法律を作ってしまう。この作戦図星だったじゃないですか。黄泉で戦犯の濡れ衣を着せられたお祖父さんもさぞ喜んでいることでしょう。
戦後レジームから脱却して、どんな日本を取り戻すのか。基本的には、万世一系の天皇を戴く戦前の輝く強国大日本帝国以外にないじゃないですか。それこそが、「日の丸・君が代」に何の抵抗感もない日本国民の望むところでしょう。
なんたって、三度の選挙で自民党と公明党に多くの議席を与えてくれた国民の皆さまではありませんか。皆さまに感謝申し上げるとともに、平和のためには戦争を準備し、平和のためとあらば戦争をすることに躊躇しない、ワタクシ、安倍晋三の「積極的平和主義」を末永くご支持いただくようお願い申し上げます。
(2015年9月20日・連続903回)
スペイン内戦で、反ファシズム陣営の合い言葉となったのが、「No Pasarán(奴らを通すな!)」。国会前の集会でも、たびたび演説者の決意として引用もされ、コールもされた。
そうだ。奴らを通してはならない。奴らはファシストなのだ。立憲主義をないがしろにし、民主主義を踏みにじり、教育の国家統制をはかり、労働法制をずたずたにして貧困と格差を生み出している。それだけではない。沖縄に新たな恒久的米軍基地をつくり、全国にオスプレイを配備しようとしている。この国を軍事大国にしようとしているではないか。明日にはいよいよ明文改憲にも手を付けかねない。
国会内では、奴らは数の力を押し通したが、今度は押し戻さねばならない。選挙の関門を通してはならない。奴らを通すな。奴らを落とせ。たたき落とせ。
奴らとは、今国会で戦争法案に賛成した自・公の与党議員全員だが、当面の目標は来夏の参院選だ。参議院議員として、戦争法案に賛成した、自・公・次世代・元気・改革の議員の中で、来年7月に6年の任期が満了して、「選挙区」から立候補しようとしている者が下記の42名だという。これがターゲットだ(党名記載ないのはすべて自民)。堂々たる市民主体の落選運動を展開して、奴らを落とそう。そうして、立憲主義と民主主義を回復しよう。
北海道 長谷川岳
青森 山崎力
宮城 熊谷太
秋田 石井浩郎
山形 岸宏一
福島 岩城光英
茨城 岡田弘
栃木 上野通子
群馬 中曽根弘文
埼玉 関口昌一 西田実仁(公明)
千葉 猪口邦子
東京 竹谷とし子(公明)中川雅治 松田公太(元気)
神奈川 小泉昭男
新潟 中原八一
富山 野上浩太郎
石川 岡田直樹
長野 若林健太
岐阜 渡辺猛之
静岡 岩井茂樹
愛知 藤川政人
京都 二の湯智
大阪 北川イッセイ 石川博宗
兵庫 末松信介
和歌山 鶴保康介
鳥取 浜田和幸(次世代)
島根 青木一彦
広島 宮澤洋一
山口 江島潔
徳島 中西祐介
香川 磯崎任彦
愛媛 山本順三
福岡 大家敏志
佐賀 福岡資麿
長崎 金子原二郎
熊本 松村佑史
宮崎 松下新平
鹿児島 野村哲郎
沖縄 島尻安伊子
具体的にどうするか。大きくは二つの柱がある。一つは、直接に奴らの票を減らすこと。そしてもう一つは、統一候補者を擁立して反安倍陣営全体で押し上げることだ。
奴らの票を減らす方法の王道は言論戦である。何よりも、言論戦を重視しなければならないことは言うまでもない。しかし、王道だけでは芸が無い。できることはなんでもやろう。何かないか。
弁護士・研究者・公認会計士などの専門家集団から成る「政治資金オンブズマン」が、たいへん興味深い運動の準備を始めているという。私もこれに参加しよう。
http://blog.livedoor.jp/abc5def6/archives/1040526008.html
政治資金オンブズマンは、政治とカネにまつわる問題で、多くの政治家を刑事告発し、あるいは大きくマスコミ公表するなどの経験を積み重ねている。この経験を生かして市民運動体の落選運動に役立てようというのだ。
具体的な最初の取り組みとしては、次のようなアウトライン。
? 奴らが所属する政党からの寄付金(政策推進費、交付金)などの調査、及び奴らが代表を務める政党支部や資金管理団体、後援会の各収支報告書の収入と支出、及びそれに添付している領収書類のコピーを徹底して調査する。(調査方法はHPに公表するが、同時に運動団体に弁護士などを無料で派遣することを検討中)
? そこから違法事実が判明すれば、政治資金規正法違反、公職選挙法違反などで告発することのアドバイス、告発状の作成なども無料で行うことも検討中。(なお政治とカネ問題だけでなく、どこかの議員のように未公開株式などの問題もおこれば法的なアドバイスも行う)
? 仮に違法でなくても、不当、不透明な収入や支出などが判明すればその情報をHPなどに公表し拡散することで、落選運動に寄与する。
奴らと言論でたたかうだけでなく、叩いてホコリを出そうというアイデアだ。徹底した身体検査をこちらでやって、不合格者をはねつけようという企画なのだ。非立憲・反民主の議員を叩くことが、同時に政治とカネとのつながりを断って政界を浄化することにもなる。一石二鳥ではないか。
もう一つ。奴らを落とすには、対抗馬として強力な反ファシズム統一候補が必要となる。完勝したオール沖縄方式、善戦もう一歩だったオール山形市方式だ。少なくとも、候補者調整が必要だ。
憲法が決壊し、日本の立憲主義と民主主義の危機なのだ。市民が一丸となって、奴らと闘い、奴らを叩き、そして強力な対抗候補を押し上げる。こうして、奴らを落とさねばならない。No Pasaránだ。
(2015年9月19日・連続902回)
日程と体力の余裕の限りだが、このところ連日国会周辺に出向いている。自分に何ができるわけでもないが、そうせずにはおられない。議員に聞こえるところで声を上げたい。何が起こったかを見届けたくもある。
昨日(9月17日)は雨中の集会だった。降りしきる雨の中、参加者の熱気はすさまじかった。そして今日(9月18日)は、夜分になってから続々と詰めかける人の列が途切れない。驚くべき数の集会参加者の人波に国会周辺は埋めつくされている。今日のコールは、「強行採決絶対反対」と「強行採決徹底糾弾」だ。
先日、鬼怒川の堤防決壊による洪水の被害が報じられた。一昨日は、眼前で警察が設置したバリケードが決壊して、群衆の渦が国会正面の車道になだれ込む瞬間を目にした。たった一個所の堤防の決壊が堤防全体の機能を喪失させ、広範な流域に甚大な洪水被害をもたらす。
憲法は堤防だ。権力という暴れ川の暴走を止め、洪水を防ぐ装置なのだ。政治は憲法に基づいて行われることによって秩序を獲得し、暴走が未然に防止される。公権力は憲法に基づいて、暴走せぬよう、溢水せぬよう、洪水を起こして国民に被害を及ぼすことのないよう行使されなければならない。
もともと権力は奔流となって暴走しようとする本能をもっている。これを憲法が堤防となって制御しているのだ。戦後保守政権は、これまで比較的抑制的な姿勢を示してきた。が、安倍政権だけが例外となった。富国強兵を国是とし、侵略と植民地主義を国策とした、あの時代のDNAによって形成された政権。その軍事大国たらんとする願望を解き放って暴走し、ついに戦争法の成立という形で憲法を決壊させようとしている。
この安倍政権の暴走によって決壊したのは、直接には憲法の平和主義であり9条である。しかし、洪水の被害はもっと広範囲に及ぶことを覚悟しなければならない。閣議決定で解釈を変えることによって事実上憲法を変えるという憲法破壊のこの手法は、無数の堤防決壊をもたらす危険を孕んでいる。
しかも、今回の強行に次ぐ強行採決の強引な審議のあり方はどうだ。政権と多数党とが法の支配を放擲したというほかないではないか。これで日本も立派な一党独裁国家だ。価値観を共有する国と言えば、「ならず者国家」と言われる諸国以外になくなったではないか。
決壊した堤防を修復し、洪水で水浸しとなった被害を少しずつ回復する作業は、なまなかなことではない。しかし、国民は自分たちの力で、これを始めなければならない。
本日の国会前集会に参加して、この修復は案外可能ではないかという希望を実感する。参加者に、諦めや敗北感が微塵もないのだ。この多数の参加者にみなぎっているものは怒りだけではない。この日からの再スタートの決意と自信とを共有しているように見える。
安倍政権というデビル、あるいはモンスターを、ここまで追い詰めた。姑息で粗暴な強行採決をせざるを得なかったのは、奴らの弱みだ。彼らは、議論ではボロボロだったではないか。法案反対勢力は、安倍政権を追い詰める中で自分たちの力量を自覚した。とりわけ、大きな共闘が成立したこと、中高年層から若者層へのバトンタッチができたことの意味は大きい。さらに、広範な人々が、これまでは社会的に孤立した存在でしかないとの無力感から脱皮して、政治的な課題の活動に参加を始めたことの意味ははかりしれない。
戦争法が成立したとしても、これを発動させないたたかいは新たに始まることになる。また、戦争法案反対の運動は次の課題に繋がる。まずは沖縄・辺野古新基地建設反対の共闘がある。各地へのオスプレイ配備反対もだ。さらには労働者の権利闘争にも展望が開けてくるだろう。
安倍晋三は、憲法破壊の巨悪として歴史にその悪名を刻むことになる。と同時に案外と、国民に対して自覚的な運動に起ち上がる契機を与えた反面教師としても、名を残すことになるのではないだろうか。
(2015年9月18日・連続901回)
本日の朝刊各紙に、戦争法案反対の全面広告。「強行採決反対!」の大きな活字が重い。続いて、「戦争法案廃案!」「安倍政権退陣!」のスローガン。そして、「国会に集まろう!」という総掛かり行動実行委員会からの呼びかけ。
具体的な行動日程は、下記のとおり。
14日・月曜日 13:00?17:00 国会正門前座り込み行動
18:30 強行採決反対・安倍政権退陣要求国会包囲大行動
15日・火曜日 12:30?17:00 国会正門前座り込み行動
18:30 戦争法案廃案! 国会正門前大集会
16日・水曜日 13:00?17:00 国会正門前座り込み行動
18:30 戦争法案廃案! 国会正門前大集会
17日・木曜日 13:00?17:00 国会正門前座り込み行動
18:30 戦争法案廃案! 国会正門前大集会
18日・金曜日 13:00?17:00 国会正門前座り込み行動
18:30 戦争法案廃案! 国会正門前大集会
さあ、いよいよ明日から始まる月曜から金曜までが大詰め。ここに来て、違憲法案推進勢力と反対勢力の色分けが鮮明になってきた。敵と味方の分水嶺は、強行採決によっての今国会成立に、イエスかノーかだ。
国会の中だけが、推進勢力の数が優る。国会の外では、圧倒的に反対勢力が優勢だ。理論的にも反対派が圧倒している。それでも、決めるのは国会なのだ。議会外の力関係を、議会内にどう反映させるか、問題はその一点にある。
大手メディアでの戦争法案推進勢力は、読売と産経のグループだけ。朝日・毎日・東京と地方紙は、圧倒的に反対論だ。しかも、理論水準や説得力に格段の開きがある。よろよろしている日経だが、その社説のトーンは「政府は具体例をあげて、(法律事実を)説明すべきだ」というのだから、今国会成立には慎重の範疇に数えてよい。NHKの報道姿勢の評価は最悪だが、市民の目の厳しさもあって、さすがに読売や産経のような法案への積極推進姿勢はない。
憲法学界・公法学会をはじめとする学界では法案の違憲論が席巻している。「安全保障関連法案に反対する学者の会」の廃案を求める署名は13,796人とされている。各大学に次々と反対する会が結成されて、教員と学生の共闘が進んでいる。実務法律家の集合体である日弁連や全国の単位会も全力を上げて反対運動に取り組んでいる。元内閣法制局長も堂々と声を上げている。この事態に黙っておられないと、元最高裁裁判官も声を上げ始めた。濱田邦夫、那須弘平、そして山口繁元最高裁長官まで。
核分裂における連鎖反応の如くに、次から次へと声があがっている。シールズにミドルズ、オールズ、ティーンズ、トールズ、ママの会と続いている。映画・演劇界や芸能界などの表現者グループも、法案成立が表現の自由に関わるものとして次々に声を上げている。「韓国ではネットが民主運動の進展に大きな役割を果たしたが、日本のネットは右翼に占拠されている」とは昔日のことではないのか。戦争法案反対のグループつくりにはネットが大きな役割を果たしている。
もう、これくらいで十分だろうと思っていたら、重量級の反対意見がまだあることを知った。歴代首相5人の反対論である。当然に安倍批判と一体のものとなっている。昨日(9月12日)の毎日新聞に、保坂正康「昭和のかたちシリーズ」が「元首相たちと安保法制」との記事で情報を提供している。
「8月14日の安倍晋三首相による談話発表の前に、元首相5人が安倍首相に提言を試みた。戦後の長期間、マスコミで働いてきた記者・編集者が、『歴代首相に安倍首相への提言を要請するマスコミOBの会』をつくり、12人の元首相に要請文を送ったのだという。その結果、5人が文書で1人が電話での回答になった。この5人の文書を、たまたま私も入手したのだが、安倍首相に対する率直な不満や不信を知り、驚くほどの内容であった。」
結局は6人がものを言ったことになるが、文書で安倍晋三への提言を試みたとして氏名を明らかにされている元首相は、羽田孜、鳩山由紀夫、細川護熙、村山富市、菅直人の5名。その内、羽田・鳩山・細川の「提言」が紹介されている。
「羽田孜氏の提言には、「『戦争をしない』これこそ、憲法の最高理念。平和憲法の精神が、今日の平和と繁栄の基礎を築いた。特に、9条は唯一の被爆国である日本の『世界へ向けての平和宣言』であり、二度と過ちを繰り返さないという国際社会への約束」とあり、末尾は「安倍総理から日本を守ろう」と結んでいる。」
これはすごい。そのとおり、「安倍総理から日本を守」らねばならない。
「鳩山由紀夫氏の2400字に及ぶ提言では、いくつかの鋭い指摘がされている。たとえば、「あまり報道されませんでしたが、昨年オバマ大統領が来日した際の記者会見で、『小さな岩のことで中国と争うのは愚の骨頂』と諫(いさ)めた通りです。安保環境が悪化しているならまだしも、その時よりはるかに良くなっているにも拘(かかわ)らず、『戦争に参加するための法案』を、なぜ今更議論するのでしょうか」と弾劾している。」
また鳩山は、「私は日本を『戦争のできる普通の国』にするのではなく、隣人と平和で仲良く暮らすにはどうすれば良いかを真剣に模索する『戦争のできない珍しい国』にするべきと思います」と結んでいるという。耳を傾けるべき貴重な提言ではないか。
「細川護熙氏は「安保法制の審議について」と題し、2500字で自らの意見を鮮明にしている。冒頭ではっきりと、「安保法制関連法案は廃案にすべき」と断じ、その内容と手続きの両面で問題があると指摘する。内容については、「憲法9条をもつ平和憲法を変えることは(解釈改憲によるとしても)、世界に確立した平和国家日本のイメージを損なう危険があるばかりでなく、日本人自身にとっても、その目指すべき将来の国家像を混乱させる」と訴えている」
また、細川は、「やじを飛ばすような唯我独尊の姿勢に苦言を呈し、『そのような手法で、違憲の疑いの強い安保法制を成立させることは、わが国の国益を損なうことになると言わざるを得ない』とたしなめている」という。
元首相たちの目には、現首相の姿勢が、危なっかしく見てはおられないのだ。しかも、その現首相の取り巻き連中が、安倍をたしなめることはない。ならば、国民がたしなめるしかないのだ。明日からあと5日がヤマ場だ。安倍総理から日本を守ろう。
(2015年9月13日・連続896回)
昨日に続いて、東京新聞「平和の俳句」からの話題。
上掲句の投句者は浜松市西区・倉橋千弘(76)とある。敗戦を6歳で迎えた方だ。戦没者のご遺族だろうか。靖国には参拝をする方だろうか。
いとうせいこうの選評は、「死者から賜ったことを次の生者につなぐのは、今生きる我々の責務。」というもの。特に異論あるわけではないが、いつもの的確で鋭さに欠けてもの足りない。このコメントでは、せっかくの「九条」が生きてこない。
もうひとりの選者である金子兜太は、「数百万におよぶ戦死者の霊魂が憲法九条を生んだのだ。忘れるな。」と言っている。同感。僭越ながら、憲法九条に関連して兜太の言を敷衍してみたい。
この句は、よく考え抜かれた、推敲の末の作品だと思う。まずは、「戦死者」「戦没者」ではなく「全戦死者」とされていることに注目したい。
「全」は、曖昧さを残さずに戦没者の差別を認めない姿勢を表している。敵と味方、戦闘員と非戦闘員、積極的加担者と抵抗者、社会的地位や業績の有無に関わりなく、戦争によってもたらされたすべての死を悼む立場が強調されている。
この句では、「戦争」と「すべての命」とが対比されている。ひょんと死んだ名もない兵、爆心地で跡形もなくなった子どもたち、東京大空襲で焼け死んだ無辜の市民、その以前に重慶の爆撃で殺された多くの中国人、日本の炭坑で強制労働を強いられ殺された中国人・朝鮮人、沖縄戦での日米の兵と地元の人たち…。その死は、ひとつひとつすべて等しく悲惨である。
九条は、「すべての命」を等しく貴しとする思想を根底に、すべての戦争を否定している。死を何らかの基準で差別するとき、いかなる命も貴しとする純粋さは失われる。そのことは、いかなる戦争も否定するのではなく、戦争を肯定する思想に結びつくことになる。
この句は、「全」を入れることで、すべての命を大切にし、すべての戦争を否定する姿勢を鮮明にしている。それこそが憲法九条の精神である。
身近な死を悼む気持は誰にもある。遺族が戦没者を悼む気持には誰もが厳粛な共感を持たざるを得ない。この心情を利用しようとして創建されたのが戦前の別格官幣社靖国神社であり、宗教法人靖国神社もその思想の流れをそのまま酌んでいる。
靖国神社(改称前は東京招魂社)とは、内戦における官軍(天皇軍)の戦死者だけを祀る宗教的軍事組織として創建された。上野戦争では賊軍の屍を野にさらして埋葬することを禁じ、皇軍の戦死者のみを神として祀って顕彰した。この徹底した死者への差別、死の意味の差別が靖国の思想である。当然に、天皇の唱導する聖戦を積極的に肯定する意図があってのものである。
遺族の心情を思いやるとき、戦没者の「顕彰」には口をはさみにくい。しかし、その口のはさみにくさこそが、靖国を創建した狙いであり、いまだに国家護持や公式参拝を求める勢力の狙いでもある。それは死の政治的利用であり、戦没遺族の心情の政治利用である。
死は本来身近な者が悼むものである。いかなる戦死も国家が顕彰してはならない。ましてや、敵味方を分け、味方の戦闘員の死だけを、国家に殉じたものと意味づけて顕彰するようなことをしてはならない。
再びの戦死者を出してはならない。全戦死者がそう思っているに違いないというのが、引用句の精神だと思う。
これに反して、戦死者をダシにして、戦争を肯定し、国家の存在を意味あらしめようというのが、戦没者慰霊にまつわるイヤな臭いの元なのだ。
毎年、8月15日には、日本武道館で政府主催で全国戦没者追悼式が行われる。「戦没者を追悼し平和を祈念する」ことが目的とされる。さすがに、靖国神社ほどの露骨さはない。
しかし、今年の式典で安倍晋三は、「皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。」と式辞を述べている。やはり、戦死者の政治的利用の臭いを払拭できない。
同じ式での、天皇の式辞がある。
「ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
こちらの方が、政治的利用の臭いが薄い。もちろん、「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」だけの追悼であり、「さきの大戦に対する深い反省」の内容の曖昧さや加害責任に触れていないことの不満はあるにせよ、である。
再びの戦死者を出してはならない。その思いの結実が憲法九条なのだ。
(2015年9月8日・連続891回)