したたり落ちるしずく無し とほうにくれてじっと手を見る
待てど暮らせどこぬしずく がまんがまんと 未来永劫
富む者でブロック万全アベノミクス 一滴たりともしずく落さじ
アベノミクス 成果はほんとにあるのやら しんぼう足りぬとしかる晋三
失政のそしりに対し大声で株価あげたと叫ぶ晋三
あろうこと 金持ち優遇庶民に増税 そんな政権 選挙で縁切り
あろうこと 貧困格差は見えぬ振り そんな政権 選挙で縁切り
あろうこと 非正規雇用は本人希望 そんな政権 選挙で縁切り
もってのほか 年金運営株でやれ アベノリスクは選挙で縁切り
うまく行くはずない政治 アホノミクスは選挙で縁切り
株高の今のうちなら勝てそうだ? その判断はアベノミス
(「アホノミクス」は浜矩子氏、「アベノミス」は鎌田慧氏からの借用)
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昨日(11月25日)、自民党が「重点政策2014」を発表した。
https://www.jimin.jp/news/policy/126585.html
「衆院選で訴える政権公約」という位置づけ。「政調会設置の各部会から寄せられた個別の政策を約300項目にわたって、幅広く掲載したもの」だという。それゆえであろう、体系性が見えてこない。脈絡に乏しい300項目の政策の断片を読ませられるのは苦痛。それでも、自民党が選挙に勝てば、「この公約に盛り込まれている以上は民意の支持を得た」として、独断政治の大義名分とするつもりなのだ。
その典型が公約の最後第6節に位置する憲法改正についての2項目である。
「? 憲法改正<時代が求める憲法を>
○憲法改正国民投票法一部改正法が施行されたことに伴い、国民の理解を得つつ憲法改正原案を国会に提出し、憲法改正のための国民投票を実施、憲法改正を目指します。
○憲法改正のための投票権年齢が4年経過後に18歳になることを踏まえ、選挙権年齢を前倒しして18歳以上に引き下げます。」
要約ではない。これが全文なのだ。これを読んだ有権者は、まさか今回選挙が改憲選択選挙だとは思わない。しかし、「憲法改正原案を国会に提出し、憲法改正を目指します」とはしっかり書き込まれている。その原案の内容は、「天皇をいただく国」をつくり、「自衛隊を国防軍にして、自衛の範囲を超えた海外での戦争もできる」ようにし、「公序・公益によってあらゆる権利の制限を可能とする」自民党改憲草案ということになる。安倍自民への投票は、あとから改憲容認票と主張されかねないのだ。
大義なき解散に関して、「アベノズルサ」「アベノコソク」を指摘する声は高い。目立たぬよう、公約に「憲法改正」をもぐり込ませた「アベノテグチ」についても大いに批判をしなければならない。
(2014年11月26日)
昨日(11月24日)、「九条の会」が初めて街頭に打って出た。「安倍内閣の改憲暴走を許さない! 九条の会集会&パレード」という画期的な企画。日比谷公会堂で2500人の集会をしたあと、賑々しく銀座へ繰り出した。
これを、今朝の東京新聞と毎日新聞が写真入りで報道している。東京新聞の見出しは、「九条守る意思示そう 日比谷から銀座2500人デモ」。毎日は、「九条の会:集団的自衛権行使容認に反対 都内で集会」。どういうわけか、朝日は黙殺。萎縮してるのでなければよいのだが。
毎日の記事の冒頭が以下のとおり。この時期当然ことながら、総選挙を意識した報道になっている。
「憲法9条の堅持を訴える市民団体『九条の会』は24日、東京都千代田区の日比谷公会堂で集会を開き、12月2日公示、同14日投開票の衆院選に向けて、憲法改正に意欲を示す安倍晋三政権に対抗する勢力の結集を呼び掛けた。全国各地から約2500人が参加。集会後はJR東京駅近くまでの約2キロをパレードし、集団的自衛権の行使を認めた閣議決定の撤回などを求めた」
そして、「九条の会」呼びかけ人二人のスピーチが紹介されている。いずれも総選挙に触れている。
「集会では呼び掛け人で憲法学者の奥平康弘・東大名誉教授が『アベノミクスという限られた観点から総選挙に出たことは驚き。支配層の思惑に対し我々の政治的努力が問われている』と強調。同じく呼び掛け人で作家の澤地久枝さんは『安倍内閣に反対の一点で戦えないか』と訴えた。」
最後は、「東京都小平市のNPO理事長、木村重成さん(68)は『党派を超えて世界に誇る憲法9条を守っていきたい』と話した。」と締めくくられている。
毎日の記者は、「選挙直前の今、九条の会が党派を超えた護憲勢力の総結集を訴えた」ととらえたのだ。澤地の『安倍内閣に反対の一点で戦えないか』は各党に候補者調整を呼びかけたものであろう。護憲の立場からは、安倍退陣を実現しなければならない。安倍退陣のためには、護憲の各政党が乱立して共倒れになってはならない。大同団結して安倍に対峙する「護憲の選挙」を構想しなければならないとする必死の訴え。
興味深いのが本日の赤旗の報道ぶり。もちろん九条の会の「集会&パレード」を無視してはいない。取材記事の掲載はある。しかし、一面の記事ではなく15面(社会面)左下の位置。写真もない。2500人の大集会の護憲集会の扱いとしてはまことにもの足りない。しかも、澤地の「安倍内閣に反対の一点で戦えないか」との訴えはまったく報道されていない。また、赤旗ホームページの25日欄には16本の記事がアップされているが、そこには昨日の九条の会の集会に関する記事の転載はない。
本日の赤旗トップは、「青年の力で暴走ストップーともに政治動かす共産党ー東京・新宿駅東口 山下書記局長訴え」である。「近づく総選挙。青年の力で日本共産党を躍進させ、青年の声が生きる政治を実現しようと、『暴走政治ストップ 国民の声で動く政治を! 若者×日本共産党 大カクサンDay』が24日、東京・新宿駅東口で行われました」という内容。大きなカラー写真は、「たくさんの青年を前に訴える山下芳生書記局長と笠井亮、池内さおり両衆院東京ブロック比例候補と吉良よし子参院議員」とキャプションを付けたもの。
明らかに共産党は「政党選択の選挙」に走り出している。党勢拡大の選挙といってもよい。今さら「一点共闘」だの「候補者調整」だのという呼び掛けに付き合う気持はないということなのだろう。この今の時期だからこそ、「護憲の選挙」か「政党選択の選挙」がが問われている。
常に定数1の首長選では、大同団結を目ざしての候補者調整はときに大義となる。現に沖縄知事選では共産党も保守の候補者を推して当選させた。では、同じ定数1の小選挙区制の選挙ではどうなのか。悩ましいところ。
遙か昔を思い出す。私が初めて選挙権を得た頃のこと。安保闘争の余韻の残る世の空気のなかで、私は当然に共産党の候補に投票すると口走った。これに、訳知り顔の級友が渋い顔をしたのを覚えている。「今、何をもって投票の基準とすべきか。最も重要なのは憲法改正を阻止する国会の3分の2の壁を崩さぬよう守り抜くことではないか。護憲の社会党に投票を集中しないのは利敵行為だと思う」「直情径行に支持政党に投票する前に、自分の投票行動がどのような客観的効果をもたらすか見つめ直した方がよい」「せっかくの一票、死票にしてはもったいない。よりマシな選択として野党第1党への投票として生かすべきだろう」というのだ。
釈然としないものの、的確な反論ができなかった。当時の社会党をそれなりに、評価していたこともあったからだろう。今また、『護憲の大義をもって、安倍内閣の改憲に反対の一点で大同団結して総選挙を戦えないか』という澤地の真摯で切実な呼び掛けに悩まざるを得ない。安倍自民に勝たせるよりは、まだマシの選択が現実に可能だとすれば…。
このような葛藤は、比例代表制の選挙では生じない。かつての中選挙区制でも死票が生じたが、小選挙区制の不合理はその比ではない。死票を避けようという有権者心理につけ込んで、二大政党制に誘導する目的から小選挙区制ができあがった。第1党に圧倒的に有利で、第2党にも利益があり、第3党以下には極端な不利益がもたらされる。この支持政党の如何によってもたらされる不平等は違憲だと思う。
小選挙区制は、有権者から政党選択の自由の権利を奪い、有権者の意見分布を正確に映すべき国会の議席構成を歪めてしまう。糺すべきは、まず小選挙区制にある。
とはいえ、今回の選挙に制度改革論を対置させても間に合わない。澤地の訴えは、結局は実ることがないだろう。どの政党どの団体を護憲勢力として、どのように調整すべきかを具体的に考えると、共闘や調整の環境が熟していないと判断せざるを得ない。沖縄のように、政党の枠を超えて重要な共通の課題が存在するとの、認識の共有と信頼関係がなければ、候補者調整は難しかろう。
しかし、澤地の問題提起は重要だと思う。いつか、「憲法擁護統一戦線」あるいは「憲法改悪阻止国民連合」が、ファシスト的な保守連合と選挙戦を戦わねばならないときが来ることの予感がある。
そのとき、否応なく、大同団結をしなければならない。いまは、悩みつつも、それぞれが反安倍の立場を最も有効に貫く方法の選択をするしかない。
(2014年11月25日)
私のブログは転載転用自由。引用元の表示も不要。一部の引用も改案改変もけっこう。時に、丁寧に転載引用の許可の申し入れを受けることがあって恐縮してしまう。律儀なご報告も要らない。労働組合の「分会ニュース」や「職場新聞」のネタに、あるいは民主団体の通信の穴埋めなどに使える記事はそれなりに拾えると思う。少しでも利用していただけたらありがたい。
さて、既に衆議院が「大義なき解散」をした。目前に総選挙がある。言うまでもなく、今回総選挙は日本の岐路に関わる重大な政治戦である。平和か緊張か、国民生活の充実か格差拡大か、脱原発か原発依存継続か、そしてこんな人物を首相にしておいてよいのか、という選択が目の前にある。
菅義偉官房長官は19日の記者会見で、衆院選のテーマについて「何を問うか問わないかは、政権が決める」と述べた。安倍政権の傲りと挑発の姿勢が見てとれる。当然のことながら総選挙のテーマは国民が決める。今回総選挙は、何よりも安倍自民2年間の政治に対する国民の審判である。私は、民主党政権が成立したときには、全面的にではないにせよその評価を惜まなかった。改憲が遠のいたということだけでも胸をなで下ろした。しかし、安倍自民については評価ゼロである。安倍政権がやろうとしていること、やってきたことに、プラス評価すべきところは一つとしてない。この危険な政権は、国民の批判によって一日も早く退陣に追い込まなければならない。今回総選挙はそのチャンス。すくなともその第一歩としなければならない。
国民の側から鋭い矢を放ち、安倍自民を撃たねばならない。射貫くべき的は4個あると思う。この的を的確に射貫く4本の矢が必要である。
4個の的とは、?政治分野の的、?経済問題の的、?原発再稼働阻止の的、そして?安倍晋三という人物の資質についての評価の的である。
国民の側から放つべき、それぞれの的を射貫く矢は、?「平和の矢」、?「生存権の矢」、?「脱原発の矢」、そして?「総理おかわりの矢」でなくてはならない。
?政治分野では、問題山積である。まずは改憲策動から始まって、歴史修正主義、安保防衛問題、非友好的な近隣外交、憲法違反の靖国参拝、沖縄基地拡張、オスプレイ導入、特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、NHK経営陣人事問題、教育再生などなど…。一口に言って、これまでの保守政権とは次元を異にした安倍政権の「右翼的好戦姿勢」が際立っている。世界中で戦争のできる国を作るための立法が目前にある今、この安倍政権の好戦的政治姿勢を撃つ国民の側からの矢は、国民がこぞって望む「平和の矢」である。
平和の矢は、「9条の矢」でもある。国際協調の外交の智恵を尽くして、安倍政権の戦争準備、緊張増強の政策を批判しなければならない。
?経済問題は、言わずと知れたアベノミクスへの批判である。新自由主義の基本発想は「経済活動は規制のくびきを解いて自由に放任せよ。そうして富者をしてより富ませよ。さすればいつかは貧者にもおこぼれがしたたるであろう」というもの。「企業にとっての天国を作ろう」という政策は、労働者と消費者の犠牲をいとわないということである。非正規雇用を増大させ、首切りを自由とし、残業代踏み倒しの放任による労働者イジメは、消費の低迷をきたし、中小企業と地方の冷え込み、農漁業の切り捨ての悪循環をもたらす。租税負担を応能主義の原則によるものとし、格差貧困を克服しなければならない。国民の側からのアベノミクスへの批判の矢は、「生存権の矢」である。国民の生存権をかけて、アベノミクスと対決しなければならない。
?原発再稼働阻止は、喫緊の大問題として独立して取り上げなければならないテーマである。再びの安全神話が作られつつあり、安全を無視した再稼働への動きが急である。それだけでなく、原発プラントの輸出に血眼になっている安倍政権を徹底して批判しなければならない。国民の側から、あらためて安倍政権へ「脱原発の矢」を射込まなければならない。
さらに、?安倍晋三という人物の資質を問題にしなければならない。この人、到底総理の任にあるべき人ではない、私は長年悪徳商法被害救済に取り組んできた経験から、安倍政権の手法を悪徳商法の手口とよく似ていると指摘してきた。
たとえば、2013年9月10日の「嘘で掠めとった東京五輪招致」をご覧いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=1154
彼は、IOC総会で、福島第1原発事故の放射能被爆の影響について、「状況はコントロールされている」「汚染水による影響は湾内で完全にブロックされている」と言ってのけた。嘘は人を不幸にする。一国の首相の嘘は、その国の国民の信用を落とすことになる。悪徳商法の被害者は、誠実そうなセールスマンを信用したことをあとになって後悔する。世界も日本も、あとになって、「アベノダマシ」に臍を噛むことになる。
それだけでない。最近の首相の言動の幼児性と精神の不安定性に言及する論者は少なくない。本日の東京新聞「本音のコラム」欄の山口二郎「総理の器」は、辛辣というよりは、深刻で恐ろしい指摘である。首相にあるまじき、逆ギレ、いら立ち、市民にいちゃもんなどの具体例を引いたあと、「こんな不安定な人物を国の最高指導者に据えていることを日本人は認識した方がよい。衆院解散のスイッチを押して権力を維持できれば、次は戦争のスイッチを押すかも知れない」と言う。私も当たっていると思う。首相には、そう思わせるものが確かにある。国民の側から、大きな声とともに「総理おかわりの矢」を放たねばならない。
(2014年11月23日)
明日(11月21日)に予定されている解散とこれに続く総選挙には、「大義なき解散」「党利党略のジコチュウ選挙」という批判の声が高い。頷かせる材料が満載だ。呼応する見解のなかには、「大義なき解散」は総理の職権濫用」であり「憲法違反」でもある、という論調すら見られる。
もちろん、これに対して「解散は総理の専権」だとか、「解散については総理の嘘も許される」という御用評論家の提灯論調もある。
違憲と断じることができるかはともかく、選挙が民意の正確な反映を可能とするよう公平な仕組みでなければならないことには異論のないところ。とすれば、プレーヤーの片方だけに、試合開始の時期を一方的に選択できるというルールの不公平は誰の目にも明らかではないか。自チームの弱点が見えているときは開戦を先送りし、相手チームの弱点が見えているときに、相手チームの態勢がととのわないときを狙って、開戦の時期を決められる。これはアンフェア極まるルールではないか。
相撲においては、先に突っかける立ち会いは恥とされる。相手力士がいつ立ってもそれに合わせて、後の先をとるのが横綱相撲であり力士本来の品格とされる。解散権とは、相手不十分の内に突っかける、みっともない立ち会いの権利を一方だけに認めるものではないか。しかも、体格の優る横綱の側だけに認めるというのだ。これはあきらかに美学に反する。憲法が想定する公平な選挙のあり方ではない。
しかし、このみっともない解散の権利は先例として定着している。こんな有利な武器を使わない手はないのだから、当然といえば当然。現行憲法下での解散・総選挙はこれまで23回に及ぶ。今回の「大義なきアベノジコチュウ解散」は24回目となる。その24回のうちに内閣不信任決議に対抗しての解散が4回ある。解散せず任期満了による総選挙はわずかに1回のみ(毎日新聞の年表による)。
衆議院の解散に触れている憲法の条項は、次の2か条。
第69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」
第7条「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。第3号 衆議院を解散すること。」
憲法には、内閣の専権としていつでも理由なく都合のよいときに解散できるという明文規定はない。しかしまた、これを禁じていると断定もなし難い。国民主権の理念や三権分立・選挙制度の趣旨から考察するしかない。
現行憲法下の最初の解散は、第2次吉田内閣の「なれあい解散」(1948年12月)であった。当時既に「解散は69条が定める場合(不信任決議または信任否決決議があったとき)に限る」とする野党側と、「7条によって、いつでも可能」とする政府側の解散権論争が激しかった。GHQは、「いつでも解散可能というのは旧憲法的な考え方」と、理論的には野党の肩をもったとされるが、結局はなれあい解散(野党が不信任案を提出し、その可決を経ての解散)となり、解散詔書の文言は「第7条及び第69条により衆議院を解散する」となった。
問題は第3次吉田内閣の「抜き打ち解散」(1952年8月)時に起きた。69条ではなく、7条のみによる初めての解散。このときに、解散の根拠と有効性をめぐって、苫米地事件という訴訟が起こされる。
苫米地義三という保守系の政治家がいた。青森県を地盤として新憲法下の第1回総選挙から立候補し、順調に当選を重ねた。1950年4月には、国民民主党を結成して、その最高委員長を務めている。1951年のサンフランシスコ講和会議では野党代表の一人として全権委員に名を連ねているそうだ。最後は、保守合同によって成立した自民党に籍を置いている。
その苫米地が、衆議院の「抜き打ち解散」に怒った(のだろう)。そして、憲法史に名高い「苫米地訴訟」を起こした。内閣の解散権など憲法のどこにも書いていない。この解散は憲法違反で無効であるという主張をもっての提訴である。
苫米地訴訟は二つある。まず彼は、直接最高裁に提訴する。解散の違憲・無効を確認せよとの訴えである。しかし、53年4月最高裁はこの訴えを斥けた。裁判所の違憲審査権は、具体的な法律上の争訟の解決に必要な範囲においてのみ行使しうるものとの判断で、憲法裁判所としての役割を否定したのだ。
そこで、苫米地は改めて、国を被告として任期満了までの議員歳費支払いを求める訴訟を東京地裁に提起し、その請求原因として「7条解散」の違憲無効を主張した。
苫米地は一審判決で勝訴して世間の注目を集める。判決が解散無効と判断したのだから、激震クラスのインパクトであったろう。もっとも、勝訴の理由は「7条解散の違憲無効」が認められたのではなく、7条解散の手続き要件である「内閣の助言と承認」が適法な閣議決定として行われていない、ということであった。
苫米地勝訴の一審判決は、東京高裁の控訴審において逆転され、舞台は最高裁に移る。ここで、著名な1960年6月8日大法廷判決の「統治行為論」の展開となる。
最高裁田中耕太郎コートは、「衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であって、かくのごとき行為についてその法律上の有効無効を判断することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは明らか」と判示した。判断を避けた、というよりは逃げたのだ。結局、このテーマについては、権力に司法のチェックがおよばないこととなり、いまだにその事態が継続している。たとえば、1986年の衆参同時選挙における衆院の解散について、「解散権行使の限界を超えて違憲」と選挙無効を主張した訴訟において、名古屋高裁は統治行為論を採用して請求を棄却している(87年3月判決)。
結局、日本では統治行為ゆえに訴訟という手段では「大義なき解散」を違憲無効と断じることができない。そのため合憲の判断もないまま実務慣行がまかり通っている。憲法の理念や制度の趣旨からする解散権の有無や行使の条件についての議論も深まらない。
一方、日本の議院内閣制のモデルとされてきた「イギリス的議院内閣制」は近年大きく変貌を遂げているという。本日(11月20日)の毎日にも、「発信箱:解散権の封印」として次のように紹介されている。
「イギリスでは2011年に下院総選挙を原則として5年ごとに行うという法律が成立し、首相の解散権が事実上、封印されたのだという。与党に有利な時期を選んで解散するのは不公平だという考えが背景にあったそうだ。」
2011年9月に英国議会で成立したその法律は、「議会任期固定法」という興味深い名称。内閣不信任案決議等がない限り、下院総選挙は5年ごとの5月第一木曜日に行われるという。これまでも、クリスマス休暇や夏季休暇に解散が行われることはなかったという(駒澤大学・大山礼子教授による)。飽くまで、国民を主体に、国民の都合を最優先した総選挙が構想されており、政権の思惑優先の解散・選挙は想定されていない。
この機会に、もう一度国民的議論が必要ではないか。一方的に政府・与党の都合次第の解散・総選挙を認めてもよいのだろうか。憲法に明文はない以上は、国民主権原理やあるべき選挙制度の趣旨からよく考えてみよう。本当に実務慣行となっている今のままの解散の制度で良いのだろうか。もっとフェアな制度に改めるべきではないか。
裁判所は判断を逃げているが、国民は議論を逃げてはならない。実例として眼前に、大義なき安倍解散が、アンフェアでジコチュウで、党利党略の実態をさらけ出しているのだから。
(2014年11月20日)
いよいよ解散、またまた暮れの総選挙である。12月14日赤穂浪士討ち入りの日の政治戦が本決まり。さてこの日、首尾よく総理のクビを討ち取れるか。
ところで、なにゆえの選挙か、何を問うべき選挙か。安倍首相の説明は腑に落ちない。当人も、国民が納得するとは思っていない。
首相は、「国民生活、国民経済にとって重い重い決断をする以上、速やかに国民に信を問うべきだと決心した」と言った。「国民に信を問うべき重い重い決断」とは、何なのだ。消費増税を延期することなのか。それとも延期はしても2017年4月には消費増税を行うことなのか。
消費増税自体は既定路線となっている。消費税法など、いわゆる消費増税関連8法の成立によって、法的には10%の増税は決まっていること。いまさら、「国民に信を問う」とは大袈裟な。唐突に「代表なくして課税なし」というスローガンが出てきたことに驚いた。「課税負担には代表権が伴わなくてはならない」との意味でもあるのだから、在日の諸氏へ選挙権付与の布石かと一瞬耳を疑った。が、そうではなく国民に信を問うことで、痛みの負担を我慢してもらおうという思惑での発言でしかなかったようだ。
では、増税延期の方が解散して国民の信を問うべき大きなテーマかといえば、そんなことはない。この経済環境において増税先送りは大多数の国民が歓迎するところで、反対派の抵抗を想定しがたい。法的にも「景気弾力条項」の発動で済むこと。増税先送りは、首相がまなじりを決して「国民の信を得て敢えて断行する」などと口にするほどのテーマではない。
ほんとのところは、「高支持率の唯一の頼みであったアベノミクスのメッキが剥がれてきた。これから好転することも考えにくい。だから、どうせジリ貧になるのなら、傷が小さい内に解散して、議席の目減りを最低限に抑えておきたい」というものだろう。
だから、大義なき解散と評判が悪い。解散に打って出ることで風を起こしたいという思惑は外れたようだ。既に、自民党へは逆風が吹き始めている。しかし、解散の思惑がどうであれ、民意を示すビッグチャンスではある。壮大な政治戦のゴングが鳴ろうとしている。まさしく、国民全てに安倍政権への信任か不信任かの選択が迫られる。シングルイシューもありうる地方選挙とは違うのだ。
消費増税の延期ではなく、増税自体の是非が問われなくてはならない。逆進性の消費増税は格差・貧困を拡大するものではないか。大企業と金持ちは空前の儲けに潤い、一方実質賃金は15か月連続の目減りである。非正規労働者の急増で雇用は不安定となり、残業代は次第になくされつつある。中小企業と地方は冷え込み、TPPの強行で農漁業は切り捨てられようとしている。福祉は削られ、医療も介護も不安だらけだ。
さらに、自民党改憲草案、96条改憲構想、特定秘密保護法の強行、集団的自衛権行使容認の閣議決定、原発再稼働、原発輸出、NHK「国営化」、歴史修正主義、靖国参拝、日米ガイドライン、沖縄基地固定化、オスプレイ導入、教育再生、地教行法改正、道徳の教科化‥‥。挙げればキリがない。たいへんな内閣なのだ。
国民の選択は、自・公の与党、共社の革新、その中間政党のどれかとなる。安倍政権対革新政党の対峙の骨格がまずあって、その間に民主党・生活の党などの中間政党が点在する構図がある。
ところが、これまでのマスコミの論調は、二大政党としての自民・民主に吸収されない「第3極」をもてはやしてきた。前回総選挙時には、みんなの党と維新とが、持ち上げられた。両党とも、その後の離合集散を経て勢力の衰えを露わにしている。そして本日、みんなの党は、両院議員総会を衆院議員会館で開き、解党することを賛成多数で議決した。
「採決は、地方議員も含めた出席者の怒号が飛び交う中、議事進行役を除く国会議員19人で行われ、反対したのは渡辺氏ら6人にとどまった。決定を受け、みんなは28日に正式に解党。衆院選公示日の12月2日に解散を総務相に届け出る」
「これにより、自民、民主二大政党に対抗する第三極の一角が消滅。所属議員は、民主党や維新の党への合流や新党結成を模索する見通しで、野党陣営の候補者調整が進みそうだ」(時事)と報道されている。
総会で解党を求める決議を提案したのは松沢成文参院議員。「党内は与党路線、野党路線、第三極に割れている。これでは選挙を戦えない。それぞれの道を行くべきだ」と発言したという。これは、たいへん示唆的だ。第3極とは、所詮こんなものなのだ。
我々は、みんなの党崩壊のきっかけとなったDHC吉田との間の8億円授受事件に関して、渡辺喜美を政治資金規正法違反として告発している。我々とは、研究者グループの告発人16名、そして代理人弁護士24名のことである。告発状は26頁におよぶもの。東京地検に告発状を提出して以来5か月が経った。そろそろ何らかの捜査があってしかるべき時期ではないか。
具体的事実の詳細に分からぬところがあることから、構成要件と罰条を必ずしも一義的に特定しがたいものの、8億円の授受についての渡辺喜美の行為が政治資金規正法に違反していることについては、自信をもっての告発である。そして、この告発をきっかけとする徹底した捜査の進展によって、渡辺に関しての被告発事実だけでなく、その周辺事実や関連人物までの捜査を通じて事案の全体像をあきらかにされるよう期待してやまない。問題の焦点は、8億円ものカネの授受が、政治をどう歪めたかにあるのだから。
衆議院解散と、みんなの党の解党決議。今回の重要な政治戦は保・革の対決、端的には自・共の対決を軸とするものとなるだろう。本日のみんなの党の解党は「第3極」の衰退を象徴するものとして、保革対立の図式を際立たせるものとなっている。
(2014年11月19日)
本日は、「建国記念の日」である。国家主義復活を目指す保守勢力と、これに抵抗する勢力のせめぎ合いを象徴する日。憲法の理念のとおりの個人の尊重を重んじる勢力とこれを圧しようとする勢力のせめぎ合いを象徴する日であると言い換えてもよい。
国民の祝日に関する法律によれば、「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨が規定されている。「建国」の国とはなんぞや。「国を愛する」の国とはなんぞや。「愛する」とは、なにゆえに、そしていかに。疑問は尽きない。
ところで、祝日法には、「建国記念の日」は「政令で定める日」とのみ規定され、2月11日と特定されているわけではない。したがって、政令次第で、8月15日にも、5月3日にも変更が可能なのだ。
言うまでなく、2月11日は日本書紀の神武天皇即位の日を換算したとされる日。その根拠は何度聞いても分からない。もともとが荒唐無稽な神話の世界のこと。しかも天皇制政府が自ら作りあげた天皇制美化のストーリーの一挿話。それをむりやり、明治政府が「紀元節」とした。1872(明治5)年のこと。この日を、いにしえの天皇制国家誕生の日とすることによって、明治政権の正当性を国民意識に植えつけようとの意図によるもの。だから、臣民こぞって盛大に祝うべきことが強制された。
紀元節は、三大節あるいは四大節のひとつとして、国家主義と天皇礼賛の小道具の一つとされた。戦後は、当然に日本国憲法の精神にふさわしからぬものとして姿を消したが、1967年に「建国記念の日」としてよみがえった。
今年の「建国記念の日」は、国家主義復活をめぐるせめぎ合いに、新たな1ページを書き加えた。歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことによって。
全文は結構長い。抜粋する。
「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨により、法律によって設けられた国民の祝日です。この祝日は、国民一人一人が、わが国の今日の繁栄の礎を営々と築き上げたいにしえからの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を誓う、誠に意義深い日であると考え、私から国民の皆様に向けてメッセージをお届けすることといたしました。
10年先、100年先の未来を拓(ひら)く改革と、未来を担う人材の育成を進め、同時に、国際的な諸課題に対して積極的な役割を果たし、世界の平和と安定を実現していく「誇りある日本」としていくことが、先人からわれわれに託された使命であろうと考えます。
「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、改めて、私たちの愛する国、日本を、より美しい、誇りある国にしていく責任を痛感し、決意を新たにしています。
国民の皆様におかれても、「建国記念の日」が、わが国のこれまでの歩みを振り返りつつ先人の努力に感謝し、自信と誇りを持てる未来に向けて日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望いたします。
この首相メッセージは、「誇りある日本」「私たちの愛する国」「美しい国」「自信と誇り」「先人の努力に感謝」「日本の繁栄」と、歴史修正主義者たちの常套用語で満ちている。
自民党改憲草案の前文が、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承する」と言っていることと軌を一にしている。
さらに、本日の産経「主張」は、これに輪をかけたもの。
「そもそも「建国記念の日」は明治5年、日本書紀が記す初代神武天皇の即位の日に基づいて政府が定めた「紀元節」に始まる。
紀元節の制定は、国の起源や一系の天皇を中心に継承されてきた悠久の歴史に思いを馳せるとともに、日本のすばらしさを再認識することで、国民が一丸となって危機に対処する意味があった。
それから約140年を経た現在の日本にも、対処を誤ってはならない脅威が迫っている。わが国の領土・領海が中国や韓国などに侵され、日本民族が誇りとする歴史も歪曲されて世界に喧伝されている。反日攻勢も絶え間ない。
脅威に対して日本国民は、紀元節制定時の精神にならって一丸となり、愛国の心情を奮い立たせるべきなのだが、現実はとてもそのような状況とはいえない。
日本や日本人をどこまでもおとしめ、国民を日本嫌いに仕向けるがごとき言動を繰り返す政治家やメディアが少なくない。学校教育でも戦後は、神話に基づく建国の歴史が排除され、若い世代の祖国愛の芽が摘まれてきた。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」との祝日の趣旨は明らかに空洞化しており、これを打開するには、国が率先して祝うことが何より必要だ。」
安倍政権下に、田母神が61万票を獲得する時代。右翼メディアはこれだけ、活気づいている。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。
(2014年2月11日)