澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

カート・ヴォネガットとともに、サイコパス安倍に怒りを

1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の無差別爆撃で文字どおり焼き尽くされた。英空軍所属のランカスター重爆撃機800機に続いて米空軍のB17「空の要塞」450機が、高性能爆弾と新型焼夷弾を投下した。さらに、P51ムスタングが、廃墟をさまよう市民に機銃掃射のとどめを刺したという。一晩で13万5000人が焼死したというのが公式記録となっている。爆弾・焼夷弾の投下量において東京大空襲を遙かに上回る規模の市民殺戮。

そのドレスデンに、当時無名だったカート・ヴォネガットがいた。アメリカ兵として対独戦に参戦し、この町で捕虜になっていたのだ。奇跡的に生き延びた彼は、後年ドレスデン大空襲を素材に「スローターハウス5」を執筆する。

彼はこの空襲を、「とことん無意味で、不必要な破壊だった」「あれは一種の軍事実験で、焼夷弾をばらまくことによって全市を焼き尽くすことが可能かどうか試してみたかったのだろう」と言っている。ドイツ系アメリカ人として対独戦に参加し、英・米の無意味な空襲で死にかけた彼にとって、国家とはいったいなんだったのだろうか。

英米のドレスデン爆撃以前に、ナチス・ドイツのゲルニカ爆撃があり、皇軍の重慶無差別空襲があった。そして、ドレスデン大空襲の直後に、東京大空襲の惨劇となった。いずれも、「とことん無意味で、不必要な破壊」であり、国家による市民大殺戮でもある。

アメリカを代表する作家となったカート・ヴォネガットは、2005年に82歳で、「A Man Without a Country」というエッセイのような、回顧録のような、評論集とも言える書物を著す。この書は「ニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、また最後の著作となった」と紹介されている。

2007年にNHK出版から刊行された訳本の表題は「国のない男」。「Without a Country」とは、「国にとらわれず、国と為政者を徹底して批判し、国を相対化し、国をおちょくった」という語感が込められている。「国を拒絶した」が意訳としてふさわしいのではないだろうか。

国と、国をなり立たせている人や仕掛けに対して、その欺瞞性や俗悪性をえぐり出す批判精神の強靱さには一驚せざるを得ない。NHK出版からの訳本(訳者は金原瑞人)だが、「政府が右と言えば、左とは言えない」とのたまう心性とはおよそ対極にある知性が躍動している。

さらに驚くべきは、彼の怒りが、今のわれわれの怒りとまったく質を同じくしていることだ。その書の中のブッシュを安倍に、アメリカ憲法を日本国憲法に置き換えれば、「Without a Country」はそのまま日本に通用する。パロディにすらならない。たとえば、こうだ。

これが理想だよ、と言って掲げたらだれもが納得してくれるものがある。それは、日本国憲法だ。わたしはこの憲法のために、正義の戦いを戦った。しかし、その後この国は、どこかからの侵略者に一気に乗っ取られてしまったのではないだろうか。

安倍晋三は、自分のまわりに上流階級の劣等生たちを集めた。彼らは歴史も地理も知らず、自分が差別主義者であり歴史修正主義者だということをあえて隠そうともしない。何より恐ろしいことに、彼らはサイコパスだ。サイコパスというのはひとつの医学用語。賢くて人に好印象を与えるものの、良心の欠如した連中を指す言葉だ。

世の中には生まれながらに目が悪い人や耳が聞こえない人などがいる。だが、いまここで言っているのは、生まれつき人間的に欠陥のある人、この国全体を最悪の場所に変えてしまった元凶ともいうべき連中のことだ。生まれつき良心の欠如している人々、ともいえる。そういう連中が、いま、世の中のすべてを一気に乗っ取ろうとしている。サイコパスは外面がいい。そして自分たちの行動がほかの人にどんな苦しみをもらたすかもよくわかっているが、そんなことは気にしない。というか、気にならない。なぜなら頭がイカレているからだ。ネジが一本ゆるんでいる。

サイコパス。これ以上にぴったりくる言葉がなさそうな種類の人たち。自分たちは清廉潔白なつもりでいる。だれに何を言われようと、どんな悪評が立とうと、少しも気にしない。

こういう多くの冷酷なサイコパスがいまや、政府の中枢を握っている。病人ではなく指導者のような顔をして。彼らはいろんなものを統括している。報道機関も学校も。われわれはまるで大日本帝国占頷下の朝鮮状態だ。

これほど多くのサイコパスが政府に巣くってしまった原因は、彼らの迷いのなさだと思う。彼らは毎日、目標に向かって何かをこつこつとやり続ける。恐れることを知らない。普通の人々と違って、疑問にさいなまれることがない。これをしてやろう。あれをしてやろう。自衛隊を動員してやろう。学校教育を私物化してやろう。政府を秘密の壁で守っておこう。正規労働者をなくして大企業にサービスしよう。医療・介護をカットしてやろう。国民全員の電話を盗聴してやろう。金持ちの税金を安くして貧乏人から取り立てよう…。

われわれが大切に守るべき日本国憲法には、ひとつ、悲しむべき構造的欠陥があるらしい。どうすればその欠陥を直せるのか、わたしにはわからない。欠陥とはつまり、頭のイカレた人間しか首相や閣僚になろうとしないということなのだ。
(2015年6月21日)

18歳諸君、ワタクシ安倍晋三の歴史認識と憲法論を聞け

昨日(6月17日)改正公職選挙法が成立した。これで、18歳のキミたちにも選挙権が与えられる。国政選挙・地方選挙で投票ができるだけではない。憲法改正国民投票の権利が君たちのものとなる。憲法を変えて新しい国の形を作ることが、君たち若者の役割だ。そのための18歳選挙権だということを肝に銘じていただきたい。憲法改正を期待されている君たちに私のホンネを語るから、心して聞きたまえ。

君たちにとっては古い歴史でしかないかも知れないが、70年前までの我が国は、皇紀輝く強国だった。富国強兵をスローガンとした一億一心の国柄で、台湾を植民地とし、朝鮮を国土に組み入れ、満州の建国を助けた。しかも、皇国の対外政策は、西欧列強に虐げられた東亜の民族の解放であり、五族共和の王道楽土建設という崇高な理想を目指すものであった。

ところが、我が国の精強と東亜の解放を快く思わぬ勢力に対して、我が国の生命線である満蒙の権益を守るために、自存自衛の戦争を余儀なくされた。我が軍と国民は一体となり、ナチズム・ドイツやファシズム・イタリアを盟友とし、世界を敵にまわしてよく闘った。

時に利あらずして善戦もむなしく我が軍は敗れた。しかし、果敢な健闘は皇国臣民としての矜持に照らしていささかの恥じるところもない。遺憾とすべきは、経済的生産力において欧米に比肩し得なかったことのみだ。臥薪嘗胆して、再び敗戦の憂き目を見ることのない強国を作り直さねばならない。これが、「日本を取り戻す」と私が常々唱えている内容だ。

ところが、戦後は風向きが変わった。「富国」はともかく、「強兵」のスローガンが吹き飛んでしまっている。挙国一致に代わって、個人の尊重だの、憲法だの、平和だの、人権だの、そして自由だのというゴタクが幅を利かせている。これでは他国から侮られるばかりではないか。私が、「戦後レジームからの脱却」をいうのは、そこを嘆いてのことなのだ。

戦後謳われた理念のなかで「民主主義」だけが唯一素晴らしいものだ。私の理解では、民主主義とは、選挙に勝ったものにオールマイティの権限を与えるもの。このような民主主義観は、私とウマが合う橋下徹も認識はおなじだ。選挙という神聖な手続を通じて、国政を任された私だ。次の選挙で主権者の意思が私を否定するまでは、ぐずぐず言わずに私に任せておけばよいのだ。

それに対して、「権力も憲法の矩を超えられない」とか、「憲法は権力を縛るためにある」とか、立憲主義とは「民主的に構成された権力といえども手を付けてはならない原則を定めること」などと、七面倒な小理屈が聞こえてくる。そんなことを言ってる奴に、「黙れ、非国民」と言ってやりたいが、残念ながらいまはさすがにそうは言えない。せいぜいが、「ニッキョウソ」「はやく質問しろよ」とヤジる程度で隠忍自重せざるを得ない。

18歳のキミたちに聞きたい。どうだね、憲法がこんなものなら有害だとは思わないかね。私は、日本の国家と国民の安全を守るために、精一杯働こうとしている。憲法がその私の手を縛るとすれば、憲法こそ国家と国民の安全の敵ではないか。憲法を守ることと、国民の利益を守ること、この二つを較べてどちらをとるのか。私は躊躇なく国民の利益をとるね。それがなぜ叩かれるのか、いまだによくわからない。

やはり昨日(6月17日)の党首討論で、この点が浮き彫りになった。このことを伝えるNHKニュースWEB版の報道が私の問題意識をかなり正確に伝えている。さすがは、NHK。「政府が右といえば左とは言えない」の言葉を実践している。これを素材に憲法を語っておきたい。

安全保障関連法案を巡り、安倍総理大臣は党首討論で、憲法解釈の変更の正当性、合法性は完全に確信を持っていると述べました。

キミたちも参考に覚えておきたまえ。自信のないときこそ、断乎たる口調で結論だけを繰り返すのだ。根拠や理由までは言わなくてもよい。人柄のよい大方の国民は、それだけで納得してくれる。マスメディアも、産経と読売だけではなく大方は私の味方だ。私の味方をした方が得になることは皆心得ている。メディアも上手に私をフォローしてくれる。

憲法学者からは、国際情勢に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだという意見がある一方、なぜ法案が憲法違反ではないと言えるのか、明確な説明はなかったという指摘もあります。

さすがは、政府子飼いのNHKの報道。これだと、まるで憲法学者の意見が半々に分かれているような錯覚を与えるだろう。あとで、籾井勝人を褒めておかなくてはならない。

安全保障関連法案を巡り、菅官房長官が、違憲ではないと主張している憲法学者の1人として挙げた中央大学の長尾一紘名誉教授は、党首討論の内容について「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ。どこまでが必要な自衛の措置に含まれるかは、国際情勢を見ながら判断していくべきだという安倍総理大臣の説明は、ポイントを押さえている」と指摘しました。

事情をよく分からぬ人が聞けば、長尾一紘が多くの憲法学者の意見を代表する立場にあると誤解してくれるだろう。そこが付け目だ。しかも、「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ」と憲法学者にお墨付きをいただいたのだから、ありがたい。これこそ、立派な先生だ。

我が国を取り巻く安全保障環境が変わったのだから、これまでは集団的自衛権行使は違憲だと言っていたけれども、この度は合憲としたのだ。どのような軍事行動ができて、どのような軍事行動が禁止されるか。それは、「環境の変化」次第。環境の変化の有無は、私が責任をもって判断する。できることとできないことを総理が仕分けする。これこそが、「ポイントを押さえている」ということだ。

そのうえで、「法案が分かりにくいのは確かだが、安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難しく、基本原則を説明したうえで法案の成立を図るべきではないか」と述べました。

そのとおりだ。この先生はものがよく分かっている。「安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難し」いのは当然だ。だから、選挙で選ばれた私を信頼すればよいだけの話。信頼できなければ次の選挙で落とせばよい。それが民主主義というものだろう。

一方、衆議院憲法審査会の参考人質疑で法案は憲法違反だと指摘した早稲田大学の長谷部恭男教授は、「法案がなぜ憲法違反ではないと言えるのかについて、安倍総理大臣から明確な答弁、説明はなかった。相変わらず砂川事件の判決を集団的自衛権行使の根拠にしていたが、この判決からそうした論理は出てこない」と指摘しました。
そのうえで、「これまでの憲法解釈を1つの内閣の判断でひっくり返すことを認めれば、今は憲法違反とされている徴兵制も、その時々の内閣の判断で認められることになりかねない」と述べました。

こういう輩を曲学阿世の徒という。国家よりも、国民よりも、憲法の字面が大切という人種だ。あろうことか、徴兵制までもちだして、これで若者諸君を脅かしたつもりでいる。

ところで18歳の諸君、私だって憲法を守らないとは一言も言ったことはない。ただし、憲法のイメージがずいぶん違うようだ。キミたちは、憲法という枠組みの素材はどんなものとお考えかな。鋼鉄? 木材? ガラス? 陶器? それともコンクリートかな?

私は、憲法はゴムでできているのだと思う。あるいは粘土だ。伸縮自在で融通無碍なことが大切なのだ。所詮、憲法とは道具ではないか。使い勝手のよいものでなくては役に立たない。

それにしてもだ、ゴムの伸び縮みにも限度がある。もっともっと使いやすいものに取り替えたいというのが、私の望みなのだ。だから、18歳諸君。私に力を貸していただきたい。憲法改正に邁進し、再び他国からないがしろにされることのないよう、いざというときには戦争ができる国をつくろうではないか。そしてけっして戦争では負けないだけの精強な軍隊を作ろうではないか。キミたち若者が真っ先に兵士となって戦場に赴き、祖国と民族の歴史を守るために、血を流す覚悟をしてもらいたい。そのための、18歳選挙権であるということを肝に銘じて忘れないように。
(2015年6月18日)

ああ維新よ、君を泣く。君、死神となるなかれ。

人を助けることは美しい行為だ。しかし、安倍内閣を助けようなどとは醜いたくらみ。平和憲法擁護こそが美しい立派な行為だ。ボロボロの戦争法案の成立に手を貸そうとは、不届き千万ではないか。仲裁は時の氏神という。だが、この期に及んでの維新の動きは、「時の死神」たらんとするものにほかならない。

そもそも、維新とは何ものか。誰もよくはわからない。おそらく当の維新自身にも不明なはず。自民を見限り、期待した民主党政権にも裏切られた少なからぬ有権者の願望が作りだした「第三極」のなれの果て。「自民はマッピラ、民主もダメか」の否定の選択が形となったが、積極的な主義主張も理念も持ち合わせてはいない。あるのは、民衆の意識動向に対する敏感な嗅覚と、自分を高く売り込もうという利己的野心だけ。

しかし、ここに来て大きな矛盾が露呈しつつある。「国民意識環境」の大きな変化が、ポピュリズムと利己的野心の調和を許さない状況を作りだしていることだ。ポピュリズムに徹すれば党の独自性発揮の舞台なく埋没しかねない。さりとて、利己的野心を突出させれば確実にごうごうたる世論の非難を受けることになる。

さらに、維新への世論の支持は急速に低下している。真っ当な良識からの評価は皆無といってよいだろう。議席の数は不相応な水ぶくれ。国会内での存在感も希薄だが、国会の外ではほとんどなんの影響力もない。次の国政選挙では見る影もなくなる公算が高い。「崩壊の危機」という見方さえある。彼らの危機感も相当なものであろう。

そのような折り、危機乗り切りの焦りからか、労働者派遣法改正法案審議での「裏切り」に身を投じた。どうやら、毒をくらわば皿までの勢い。農協法改正法案の「対案」を提出して自公との修正協議を迫っている。そして、いまや窮地に陥っている、戦争法案の救出に手を貸そうというシナリオが見え見えである。

しかし、ここはよく考えた方がよい。自公と組むメリットばかりに目が行っているようだが、それは確実に滅びの道なのだ。権力の甘い腐臭の誘惑の先には、食虫植物の餌となる昆虫の運命が待ち受けている。

我が身を安倍政権と与党に売り込むには、いまがもっとも高価に値を付けることができる時期との打算。しかし、安倍政権に手を差し伸べることは、憲法と平和を売り渡すことであり、そしていまや世論に背を向けることでもある。

戦争法案の違憲性は、既に国民に広く浸透し確信にまでなっている。丁寧に説明すればするほどボロが出てくる。安倍は、丁寧にはぐらかし、丁寧に都合のよい部分だけをオウムのごとくに繰り返してきたが、それでもこの体たらく。いまや、誰の目にも愚かで危険なピエロとなり下がってしまっている。

政府が法案を合憲と強弁する根拠は完全に破綻した。まさしく「違憲法案のゴリ押し」「憲法の危機」の事態が国民の目に明らかとなり、法案撤回を求める国民世論は大きく盛りあがっている。やや反応が鈍かったメディアもようやくにして重い腰をあげつつある。このとき、まさかの伏兵として維新が安倍政権に手を貸そうというのだ。

「維新の党が今国会に提出する安全保障関連法案の対案の骨子が16日、明らかになった。集団的自衛権を使って中東・ホルムズ海峡で機雷を取り除くケースを念頭に、『経済危機』といった理由だけで自衛隊を送ることができないようにする。安倍晋三首相は同海峡での機雷除去に強い意欲を示しており、修正協議になった場合の焦点になりそうだ。対案は来週にも国会に提出する。」(朝日)
政府も与党も大歓迎で協議に応じることだろう。

おそらくは、維新はこう考えている。
「いまこそ、我が党の存在感を示すとき。数の力では自・公が圧倒しているのだから、この法案はいずれ通ることになる。それなら、少しでもマシなものにしておくことで、世論のポイントを稼げることになるはず」

維新は、戦争法案推進勢力と反対勢力との間に立って、「時の氏神」を気取っているのだろう。しかし、朝日が報道する維新の「対案」は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すものである。

維新の諸君よ、鋭敏な嗅覚で世論の法案反対の高まりを見よ。戦争法の成立に手を貸すことが、国民の大きな怒りを招き自らの滅亡に至ることを直視せよ。だから、こう一声かけざるを得ない。「君、死神となるなかれ」と。
(2015年6月17日)

砂川で 立憲主義の 浮き沈み

溺れる者は藁をもつかむ。藁をつかんだところで詮ないことを知りつつもの人の性。昨日(6月15日)の記者会見で、長谷部恭男が語っている。政府が戦争法を合憲という論拠の説明についてである。「藁にもすがる思いで砂川判決を持ち出してきたのかもしれませんが、藁はしょせん藁、それで浮かんでいるわけにはいきません。」

砂川判決は、あれは藁なのか。藁に過ぎないのだが、そのほかに戦争法案を合憲というすがるべき根拠がなにもなかったから、やむなくこれにすがったというのだ。言い得て、まことに妙である。

ところが、政府はこの藁すらも捨てた。すがっても詮ないことを思い知らされたからだ。「衆院平和安全法制特別委員会は15日、一般質疑を行った。中谷元(げん)防衛相は、1959年の最高裁の砂川事件判決が集団的自衛権の行使容認を合憲だと判断する根拠になるかどうかについて『直接の根拠としているわけではない』と明言した」。藁とすがった砂川判決を捨てて、「中谷氏は『(根拠は)あくまでも72年の政府見解の基本的論理だ。砂川判決を直接の根拠としているわけではないが、砂川判決はこの基本的な論理と軌を一にするものだ』と答え、政府が個別的自衛権の行使を認めた72年見解が根拠との考えを示した」(以上、毎日)。

おや、72年見解の論理に説得力がなかったから、砂川判決を持ちだしたのではなかったの? いずれにせよ、「72年政府見解」は集団的自衛権行使違憲の説明でしかない。こりゃダメだ。同見解は藁よりか細い。いや、そもそも水に浮かない。

念のために、72年政府見解の末尾の部分を引用しておこう。
「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」

ところで、今朝の東京新聞が紹介している、長谷部恭男・小林節共同記者会見のボルテージはたいしたものだ。お二人の、憂い・怒り・使命感・心意気が痛いほど伝わってくる。まことにその言やよし。とりわけ、戦争法が成立した場合の対応についての発言には驚いた。感嘆するしかない。

長谷部:国政選挙で新しい政府を成立させ、いったん成立したこれらの法律を撤回することを考えるべきだ。
小林:次の選挙で自民党政権を倒せばよい。最高裁判決を待つより、よほど早い。

「安保ハンタイ。安倍を倒せ」なのだ。

この会見に刺激されて、ひねってみたのが次の戯れ歌。

 藁は藁 所詮頼りにならねども 大船なければ すがるやむなき

 砂川のよどみに浮かぶわらひとつ つかみかねてぞ 安倍は沈まん

 高村から岸田にそそぐ砂川の 中の谷にて枯れる安倍(あんばい)

 砂川で 立憲主義の 浮き沈み

 藁捨てて すがるは維新橋の下

 自と公と維新もろとも 泥の下

(2015年6月16日) 

ゾンビ・橋下を産み出した社会の母胎はまだ暖かい

6月15日。55年前のこの日、東大生樺美智子が日米安保条約改定反対のデモの隊列の中で、警官との衝突の犠牲になった。当時私は高校2年生だったが世情騒然の雰囲気が印象に深い。津々浦々に「アンポ・ハンタイ」「岸を倒せ」の声が響いていた。

あの大国民運動をつくり出したものは、何よりも戦争を拒否し平和を願う圧倒的な国民の願いであったろう。当時戦後15年、戦争の記憶は成年層には鮮明に残っていた。「再びの戦争はごめんだ」「危険なアメリカとの軍事同盟なんぞマッピラ」という感覚が国を覆っていた。当時も、政府はアメリカとの同盟が「東」側からの攻撃に抑止効果をもつと宣伝したが、多くの国民が耳を傾けるところとはならなかった。

そして、安保反対国民運動が盛りあがったもう一つの契機が、衆議院での強行採決である。「アンポ、ハンタイ」の大合唱は、平和と民主主義についての危機感が相乗してのこと。その運動の標的となった敵役が、A級戦犯・岸信介であった。

今、再びの「安保ハンタイ」の声。「戦争法案を廃案に」「憲法を壊すな」「安倍を倒せ」の掛け声が全国に渦を巻いている。半世紀を経て、岸信介の孫、安倍晋三が敵役だ。今度は平和主義・民主主義だけでなく、「立憲主義を壊すな」がスローガンに加わっている。

今や、60年安保を彷彿とさせる運動の勢い。状勢は、明らかに憲法擁護勢力が、安倍ゴリ押し改憲内閣を追い詰めている。ところが、このときに意外な伏兵が現れた。裏切り・寝返りと言ってよかろう。維新の動きである。見方によっては、もっとも自分を高く売るタイミングをはかっていたのではないだろうか。維新は、労働者派遣法案で民主・生活と組んで、与党案へ反対で足並みを揃えていたはず。それが、あっという間の自民への摺り寄りだ。

この伏兵の動きが戦争法案反対運動にも影響しかねない。昨日(6月14日)、ゾンビ橋下が安倍と醜悪な3時間の会見。その後、橋下はツィッターで「維新の党は民主党とは一線を画すべきだ」と述べているそうだ。安倍とは蜜月。「自民党とは一線を画すべきだ」とはけっして言わない。

しかし、覚えておくがよい。裏切り・寝返りは、リスクを伴う行為だ。できるだけ高い対価を求めてのタイミングでなされるが、高い対価には相応の大きな危険が伴うことになる。策士策に溺れるのがオチとなろう。

ユダはイエスを売って銀貨30枚を得た。小早川秀秋は、関ヶ原の裏切りで55万石の大大名となった。古来、裏切りの動機も対価の多寡もさまざまだが、共通しているのは、裏切りが打算であること、できるだけ高く売れるタイミングで実行されること、そして、打算ゆえの裏切り者の末路が惨めであること、汚名が長く残ること。

そして、よく覚えておこう。最近教えられて印象に残ったブレヒトの言葉だ。
ベルトルト・ブレヒトは、その著「戦争案内」の最後で、ヒトラーの写真を指しつつ、こう言っているそうだ。

 こいつがあやうく世界を支配しかけた男だ。
 人民はこの男にうち勝った。
 だが、あまりあわてて勝利の歓声をあげないでほしい。
 この男が這いだしてきた母胎は、まだ生きているのだ。

腹を切ったはずの落城の將がゾンビとなってうごめく醜悪な世の中だ。問題はゾンビ自身ではなく、むしろゾンビを産みだした母胎の方だ。この母胎はまだ暖かい。戦争法案をめぐる憲法擁護の戦いは、この母胎との戦いでもある。
(2015年6月15日)

高村正彦さん、他人には見えないトンデモナイものが見えるそうですね。そりゃ飛蚊症。早く眼科に行かなくちゃ。

戦争法案への世論の動向をはかるバロメータとして重要なものの一つが、地方紙の姿勢とその紙面構成である。第2次安倍政権発足直後の96条先行改憲の動きを止めたものが、2013年5月憲法記念日前後の地方紙各紙の圧倒的な批判の社説であった。

中央各紙の姿勢は、ほぼ色分けが固定している。地方紙の動向は、世論をはかる指標として意味が大きく、「地元」選出の議員に影響大なるものがある。だから、機会あるごとに地方紙を読むように心がけている。この感覚は、東京育ちにはつかみにくい。また、有力な地方紙・ブロック紙をもたない大阪人にもわかりにくいのではないだろうか。

本日、たまたま神奈川新聞を読んだ。一面トップ、紙面半分以上のスペースを割いて、「安保法案 自民OBも反対」「藤井氏『自公インチキ』」の記事。

「山崎拓・自民党元副総裁、亀井静香元金融担当相らかつて自民党に所属した議員や元議員の重鎮4人は12日、日本記者クラブで会見し、集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案に反対の考えを表明した。山崎氏は「地球の裏側で後方支援活動をすると憲法違反になる行動を引き起こす。自衛隊と相手方が殺し合う関係になるのは間違いない」と述べた。

ほかに藤井裕久元財務相と武村正義元官房長官が出席した。山崎氏は「問題点が多々あり、十分な審議を尽くすべきで、今国会での成立に反対だ。平和国家としての国是は大いに傷つく」との声明も発表した。‥‥

共同通信の配信記事として、全国の地方紙を大きく飾っているはず。もっとも、トップ扱いの判断や関連記事は、神奈川新聞独自のもの。この記事は、神奈川同様、各「地元」で大きな話題となるだろう。保守系先輩議員からの忠言を、現役の議員諸氏はどう聞くのだろうか。

首都の地方紙・東京新聞は一面左上隅に、「自民OBら 反対表明」の見出しと4人の写真を掲げ、記事は3面にまわした。比較的扱いは小さい。その代わり、社会面のトップに、「砂川事件弁護団再び声明」と記者会見を大きく取り上げた。これまたすばらしい。時宜を得た記事で、これも戦争法案廃案を求める運動に大きく力を与えるもの。

この声明の最後は、「安倍首相や高村正彦副総裁の言説が無価値であり、国民を惑わすだけの強弁にすぎないことはもはや明白であるから、一刻も早く態度を改め、提案している安保法制(改正法案)を撤回して、憲法政治の大道に立ち返られんことを強く要求するものである。」と結ばれている。

記事は、「最高裁判決には集団的自衛権行使の根拠はない」「合憲主張『国民惑わす強弁』」という大見出し。
他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案について、政府が1959年の砂川事件の最高裁判決を根拠に合憲と主張しているのに対し、判決時の弁護団の有志5人が12日、東京都内で会見し、「裁判の争点は駐留米軍が違憲かに尽きる。判決には集団的自衛権の行使に触れるところはまったくない」とする抗議声明を出した。5人はみな戦争を知る白髪の八十代。「戦争法制だ」「国民を惑わすだけの強弁にすぎない」と批判し、法案撤回を求めた。

「白髪の八十代有志5人」の会見の写真が若々しい。坂本修、神谷咸吉郎、内藤功、新井章、山本博の各弁護士。

会見の冒頭。新井章弁護士は眼鏡を外し、鋭いまなざしを子や孫世代の記者たちに向けた。そして「事件の弁護活動をした私らは裁判の内容にある種の証人適格を持っている」と法律家らしく語り始めた…。

あとは省略するが、「集団的自衛権について砂川判決から何かを読み取れる目を持った人は眼科病院に行ったらいい」というフレーズが紹介されている。そう。飛蚊症(ひぶんしょう)という目の病気がある。ないものがあるように見えるのだ。トンデモナイものが、あたかも飛んでいるように見える。高村正彦さん、誰にも見えないものがあなたにだけは見えているようだ。そりゃたいへんだ。早めに眼科の診察を受けることをお勧めする。
(2015年6月13日)

つつしんで、「安倍・ビリケン内閣」の名をたてまつる

6月6日、「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションでの、樋口陽一の発言に耳を傾けたい。

「日本の近代化は戦前まで、立憲主義がキーワードだった。ところが、戦後はひたすら民主主義を唱えていればいいという時代があった。立憲主義と民主主義は場合によっては反発し合う。民主主義とは、人民による支配であり、憲法制定権力になる。一方、立憲主義は人間の意思を超えた触れてはならないものがあるとの考え方に基づく」(6月10日東京新聞)

ここで指摘されているものは、民主主義と立憲主義の緊張関係である。戦前、民主主義を標榜することが困難だった時代、政治のキーワードは立憲主義だったという。樋口は、戦前の立憲主義を評価する立場だ。そして、今、立憲主義がないがしろにされていることを、憂うべき深刻な事態として警告を発している。

民主主義は、時の政権に暴走の口実を与える。ファシズムの母胎にもなり得る。これに歯止めをかけるものとして、多数支持だけでは乗り越えられない理念的なハードルとしての立憲主義の機能が期待される。安倍政権には、その自覚が欠けているのだ。

樋口が示唆する視点で戦前を顧みたい。寺内正毅という人物がいた。長州軍閥の出身で、初代の朝鮮総督を務めた。韓国併合の際に、「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という愚かな「歌」を詠んだいやな奴。そして、無益なシベリア出兵を決断して、将兵を無駄死にさせた首相でもある。戦前の植民地主義と軍国主義を象徴するごとき武断派の政治家。彼の内閣は政党政治に基盤をおかない超然内閣の典型ともされる。当時から、識見能力とも無能の評が定着し、民衆からの好感度すこぶる低かった。

この評判の悪い寺内が、当時のマスコミから「ビリケン宰相」と呼ばれていたことが興味深い。ビリケンとは、今は通天閣の名物としてしか知られていないが、アメリカ製の人形キャラクター。この人形に寺内の風貌が似ていたという。そのことに引っかけて、寺内を立憲主義を守らない政権担当者だという、「非立憲(ひりっけん)」の非難と揶揄の意味合いを込めたあだ名。ビリケンのキャラクター自身に罪はないが、たまたま「ひりっけん」という政治用語に発音が似ていた不運からの、ビリケンの受難であった。

石川健治(東大教授)も発言している。
問題提起したい。「合憲と違憲」とは別次元で語られる「立憲と非立憲」の区別についてだ。京都帝国大の憲法学者、佐々木惣一が、違憲とは言えなくても「非立憲」という捉え方があると問題提起した。今、ここに集まってこられた方は今の政治の状況に何とも言えないもやもや感を抱いていると思う。そののもやもや感を「非立憲的」と表現した。まさに今、非立憲的な権力と政権運営のあり方が、われわれの目の前に現れているのではないのか。

樋口が応えて発言を続ける。
現政権はまず憲法96条を変え、改憲発議に必要な国会議員数3分の2というハードルを下げようとした。まずこれが非立憲の典型。安保法案は提出方法そのものが非立憲だ。国民が集団的自衛権の議論に飽きたころに法案を提出し、国民に議論を提起せずに、憲法の質を丸ごと差し替える法案を提出した。さらに安倍晋三首相は米国の議場で、日本の国会に提出もしていない安保法案について、夏までに必ず実現すると語った。これは憲法が大前提としている国民主権にも反する。

東京新聞は、この紹介記事に「法律をまず変え、それに合わせ改憲 これはまさに非立憲的な事態だ」と見出しを打った。

寺内正毅と安倍晋三、時代は違うが似たもの同士。出自は長州、「我が軍」大好き。やることすべてが「非立憲」。

「安倍・非立憲内閣」、「安倍・非立憲首相」、「ザ非立憲・安倍」「非立憲政治家・安倍晋三」…。安倍には非立憲がよく似合う。それにしても、ヒリッケンとは、発音しづらい。ビリケンとはよく言った。いまの世に、もはやビリケンのキャラクターイメージはない。けれども、語感の軽さと揶揄の響きだけは十分に残っているではないか。

そんなわけで、謹んで「安倍・ビリケン内閣」の御名をたてまつることとしよう。
(2015年6月12日)

汝平和を欲すれば平和を準備せよ

6月6日東大で催された「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションが、時節柄大きな話題となった。総合タイトルは「立憲主義の危機」である。昨日(6月10日)の東京新聞に、その内容が要領よく紹介されている。見出しが「安保法案は立憲主義の危機」と付けられている。

メインの佐藤幸治講演が耳目を集めたが、パネルディスカッションでの樋口陽一発言録に注目したい。傾聴に値するものとして、その一部を東京新聞に採録されたままの形で転載する。

歴史に学ぶとは、負の歴史に正面から対面することであり、同時に、先人たちの営みから希望を引き出すことでもある。今の政治は負の歴史をあえて無視するだけでなく、希望をもつぶそうとしている。戦後レジームからの脱却だけでなく、戦前の先人たちの努力を無視、あるいはそうした努力について無知のまま突き進もうとしている。
1931年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(1896〜1993)は、「これは日本の自衛行動ではない」と断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手許にある。
その中で横田は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この二人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。
今、私たちが対しているのは、平和を欲すれば戦争を準備しようという警句通りの時代。しかし、かつて文集に書き込みを残した若者たちがいたし、この会にも若い人がたくさん参加している。われわれは日本の将来に対して、大きな責任がある。立憲主義の土台を維持できるかどうかは、世界に対しても大事な責任なのだ。

「平和を願う者は、戦争の準備をしなければならない」「平和を欲するのなら戦争を準備せよ」などとは言い古された常套句だが、状況によっては真実であることを否定し得ない。それだけに、まどわされぬよう警戒しなければならない。歴史的には、戦前われわれの上の幾世代かが、このとおりに考え実行して、国を滅ぼした。この警句は、言わば試され済みの亡国の思想にほかならない。

「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とは、古典的な抑止力思想である。防衛的な自国を近隣侵略国の魔の手が狙っている。飽くまで自国の武力は善である。自国の武力を増強して「戦へ備える」ことこそが戦を避け、平和をもたらす、というのだ。語られるのは、「武力による自国の平和」である。当然に相手国も同様に考える。一国の武力の増強は相手国を刺激して相互の武力の増大を招く負のスパイラルを必然化する。武力を増強すればすれほど、一国の軍事化が進めば進むほど、平和なのだということになる。パラドックスというよりは倒錯の事態である。いつかは破綻を免れない。

70年前、戦争の惨禍から再生した我が国は、この倒錯の思想の克服を宣言した。「汝平和を欲すれば平和を準備せよ」の原則を確立した…はずなのだ。これが、日本国憲法の平和主義の理念であり、9条の精神である。今、時代の逆転を許してはならない。痛切にそう思う。

横田喜三郎は後に最高裁長官となった。前任の田中耕太郎や、その後の石田和外などの「反動」長官にはさまれた「ずいぶんマシな司法の時代」の長官という印象がある。しかし、15年戦争が開始した時代に学生に向かって「汝平和を欲すれば平和を準備せよ、でなければならない」と呼びかけていることはまったく知らなかった。あの戦前の暗い時代にも、9条の精神をもっていた人はいたのだ。共感する若者もいた。

確かに、戦前の先人たちの努力を無視してはならない。あるいは、そうした努力について無知であってはならない。平和を希求した先人についても、立憲主義を追求した先人についても、である。
(2015年6月11日)

おごれる安倍は久しからず

平家滅亡の壇ノ浦の合戦。緒戦の平家優勢は潮の流れの変化とともに逆転したとされる。平家物語には潮の変化についての記述はないが、「巻十一 壇ノ浦の事」に次の印象深い一節がある。
「門司・赤間・壇ノ浦は、たぎりて落つる潮なれば、平家の船は、心ならず、潮に向かって押し落さる。源氏の船は、自ら潮に追うてぞ出で来たる」

潮の勢いに乗る源氏と、逆流に押される平家の明暗がくっきりと書き分けられている。戦争法案についての国会の審議も、潮の流れが逆転した。今は、護憲勢力が潮に乗って、安倍改憲勢力を追撃のときだ。緒戦は優勢だった政権・与党を、「たぎりて落つる潮に向かって押し落とす」ことができそうな状勢ではないか。

壇ノ浦では、潮の変化が阿波民部重能の寝返りを誘う。続いて、「四国鎮西の兵ども、皆平家を背いて、源氏に附く。今まで随い附きたりしかども、君に向かって弓を引き、主に対して太刀を抜く」「源平の国争ひ、今日を限りとぞ見えたりける」となる。これが戦だ。勢いの赴くところ、如何とも抗いがたい。

憲法学者の断固たる違憲論が世間の耳目を集めた。6月4日衆議院憲法審査会での3参考人全員の発言。次いで、6月6日立憲デモクラシーの会での樋口陽一・佐藤幸治という東西両権威の重ねての違憲発言。そして、戦争法案の撤回を求める憲法研究者署名に200名を超える賛同。重要なのは、これらの動きが大きく報じられ、話題になっていることだ。

これまでも、日弁連を筆頭として多くの団体が反対声明を出している。おそらくは、これから爆発的に増えるだろう。自信を持って違憲な法案と言える状況なのだ。遠慮なく、組織内の反対派・躊躇派を説得できるだろう。街頭の動きも勢いを増している。メディアも意気軒昂だ。なるほど、これが勢いというものなのだ。

このような動きが、国会に反映しないはずがない。安倍内閣の中枢はともかく、自民党の議員も支持者の不安の声に答えなければならない。政治家たる者、風を見、潮を読まねばならない。安倍と心中する義理あいのない政治家は、こぞって、「皆平家を背いて、源氏に附く」。「今まで安倍に随い附きたりしかども、安倍に向かって弓を引き、与党に対して太刀を抜く」ことになるだろう。

壇ノ浦では、矢見参のエピソードがいくつか語られている。腕に覚えの豪の者が、自分の矢に記名して強弓で敵陣に遠矢を射込むのだ。すると、敵方も負けじとその矢を遠く射返して武勇を競ったという。国会もよく似た話になっている。

昨日(6月9日)、政府は劣勢挽回のために安保関連法案が違憲ではないとの「合憲見解」を野党に発表した。文書は2種類、「新3要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」と、「他国の武力の行使との一体化の回避について」。前者が集団的自衛権行使に関わる問題、後者が外国軍隊への後方支援の問題。両者ともに、内閣官房と内閣法制局の連名。

麗々しく連名の記名矢2本を、政府側から野党陣営に射込んだ図である。さて、強弓によるものとして敵陣を震え上がらせるほどの遠矢であったろうか。野党陣営は、さっそくこの矢を拾って、射返そうということになっている。矢見参のひょろひょろ矢が強弓によって射返され、記名矢で味方が傷つくこともある。このことは大きな恥とされたようである。「合憲見解の2本の矢」、一見したところ大したものではなさそうだ。射返されれば政府が傷を深めることになるだろう。

もっとも、射返す矢の勢いは国民が強くもし弱くもする。潮の流れをつくり出すのも国民だ。傍観者としてでなく、どのような形でも「戦争法案反対」の声を上げようではないか。
(2015年6月10日)

潮目は変わってきたー「読売世論調査」と「谷垣帰れコール」と「大集会」と

微動だにしないようで、地球だって動いている。憲法をめぐる状勢が不動なわけがない。潮目は見る見るうちに変わる。今、目の前で、変わり始めたのではないだろうか。爽やかなよい風が吹いてきた。

マグマのたまりがなければ噴火は起こらない。これまで沈潜していた国民の憲法意識、憲法と平和を擁護しようという心意気のマグマが噴出を始めた。大爆発ではない。しかし、力強く着実に。今日は、そのことを実感させる三題噺。三題とは、「読売世論調査」「谷垣帰れコール」、そして「各地の大集会」である。

お題の第一は、読売の最新世論調査。これまでは、5月末時点の調査結果しかなかった。今朝、読売が6月5?7日の全国調査の結果を発表した。これによると、「安倍内閣が最優先で取り組んでいる安全保障関連法案の今国会での成立については、『反対』が59%(前月48%から11%増)に上昇し、『賛成』の30%(前月34%から4%の減)を上回っている」という。1か月で反対が11%増は、大きな事件ではないか。

前回調査では、戦争法反対48%、賛成34%。その差は14ポイント。反対が賛成の1.4倍であった。これが今回調査では、反対59%、賛成30%。その差は29ポイント。反対が賛成の2.0倍となった。明らかな状況の変化、世論が動いたのだ。

このことを読売自身は「政府・与党が法案の内容を十分に説明していないと思う人は80%に達し、与党が合意した安保法制について聞いた今年4月調査(3?5日)の81%と、ほぼ変化はない。『十分に説明している』は14%(4月は12%)にとどまっており、政府・与党には今後の国会審議などを通じて、より丁寧な説明が求められる」と解説している。

この解説には、「丁寧に十分に説明していないから、反対回答が多くなった。丁寧に十分に説明すれば結果は違ってくる」というニュアンスが感じられるが、それは違う。政府提案のまやかしに戸惑っていた国民が、政府説明の進展に従って態度を明確にしつつあるのだ。内閣が「丁寧に十分に正確に」説明すればするほど、民意は反対を明確にすることになるだろう。

もう少し、立ち入って読売世論調査を見ておきたい。問の発し方が、相当に誘導的なものとなっていることにご留意いただきたい。たとえば、次のような設問がある。
現在、国会で審議されている、集団的自衛権の限定的な行使を含む、安全保障関連法案についてお聞きします。
◇安全保障関連法案は、日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大するものです。こうした法律の整備に、賛成ですか、反対ですか。

この問の文章中に、「安全」「平和」「国際貢献」などの語がちりばめられており、「安全保障関連法案は、日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大するものです。」と断定した上で、賛否を問うているのだ。典型的な誤導質問の手法。さすがは読売、ここまでやるか、と感心するほかはない。

そのような設問に対して、「反対 48%」(賛成40%)は、自覚的意識的な反対論である。この数字の意味するところは重い。
 
読売のコメントはないが、次の問と答がきわめて興味深いところ。
安全保障関連法案が成立すれば、日本が外国から武力攻撃を受けることを防ぐ力、いわゆる抑止力が高まると思いますか、そうは思いませんか。
  抑止力が高まる  35%
  そうは思わない   54%

読売の調査において、抑止力論否定派が過半数。安倍政権の国民説得は完全に破綻している。

はからずも、読売の世論調査が潮目変化の第一報となった。次の世論調査報告が待たれるところ。

さて、2番目のお題は、谷垣禎一自民党幹事長への「カエレコール」の話題。
自民党の若手議員らでつくる青年局が7日、「安全保障関連法」の必要性や拉致問題の解決を訴える街頭行動を全国約80カ所で行ったという。これに、「戦争法案」に反対する市民らも集まり憲法改正反対などを訴え、谷垣帰れコールが巻きおこったことが報じられている。

朝日の記事は以下のとおり。
「東京・JR新宿駅西口では、谷垣禎一・党幹事長が『隙間のない抑止の体制をつくることで日本の平和と安全を保とうとしている』と安保法制に理解を求めた。一部の聴衆から拍手が上がった。青年局は2004年から毎年6月、拉致問題をテーマに一斉街頭行動を繰り広げている。これに対し、プラカードやのぼりを掲げた市民らが『戦争反対』『9条を壊すな』と声をあげた。」(朝日)
「安全保障関連法案に反対する市民が多数詰めかけ、プラカードを掲げて抗議した。谷垣禎一幹事長の演説中には「帰れコール」が発生。JR新宿駅前での演説は、事実上打ち切られた。政府与党は今月24日の会期末までに、法案の衆院通過を目指すが、困難な状況だ。与党が推薦した憲法の専門家までもが法案を「違憲」と断じた経緯もあり、世論の反発はさらに強まる可能性がある。自民党が、JR新宿、吉祥寺両駅前で開いた演説は終始、騒然とした雰囲気に包まれた。「戦争法案反対」「戦争させない」などのプラカードを手にした人が詰めかけ、「法案は撤回だ」と声をあげた。弁士の訴えはかき消され、聴衆の最後方まで届かなかった。谷垣禎一幹事長がマイクを握ると、「(自民党ハト派の)宏池会(の出身)だろう」とやじが飛んだ」(「日刊スポーツ」)

この谷垣受難の一幕、状況の変化をよく示しているのではないか。

そして、3題目はマグマのたまり具合である。
「5・31オール埼玉総行動」が、1万人の集会を成功させた。6月1日付東京新聞が、次のように報道している。
「休日の公園に、参加者たちの『九条を壊すな』との平和を求める声が響き渡った」「公園には午前九時から参加者が続々と集まり、主催団体が用意した約一万一千部のチラシはほぼ配布しきった。集会を企画した農業神部勝秀さん(71)=さいたま市緑区=は「県内での一万人規模の集会は、メーデーでも例がない。県民の危機感の強さを感じさせられる」と驚いた様子で話した」

そして本日の赤旗の報道である。
NO!「戦争する国」 生かそう!平和憲法6・7長野県民大集会が長野市で開催され、2800人が参加しました。「戦争法案をストップさせる」一点で、立場や組織の違いを超えての開催です。県内の26人が呼びかけ人となり、「憲法9条を守る県民過半数署名をすすめる会」「戦争をさせない1000人委員会・信州」など6団体が事務局として準備してきました。

「立憲主義 壊さんといて 大阪弁護士会が集会・パレード」
「集団的自衛権に反対!」「立憲主義を壊さんといて!」。解釈改憲による集団的自衛権行使容認反対、戦争法案の成立を許さないと、大阪弁護士会が野外集会・パレード「日本はどこに向かうのかパート3 なし崩しの海外派兵許すな」を7日、大阪市内で開き、4000人が参加しました。
パレードでは、「集団的自衛権はアカン」「アカン」とコールしながら大阪市内を3コースに分かれて行進。「アカン」のプラカードを掲げるコールに沿道の人たちが注目していました。

このパレードは、朝日も報じている。その見出しがふるっている。「見渡す限り『アカン!』 安保法制『ノー』訴える集会」というのだ。

憲法9条の解釈を変え、集団的自衛権を使えるようにする安全保障法制の関連法案の成立を急ぐ安倍政権に対し、「憲法改正の手続きをとらない『なし崩しの法制化』はノー」と訴える大規模集会が7日、大阪市内で開かれた。主催した大阪弁護士会によると、約4千人が参加。集会後は繁華街に繰り出し、抗議の声を上げながら練り歩いた。
弁護士会の憲法問題特別委員長が「反対の声を上げよう」と呼びかけると、女性や若者らが「アカン!」と書かれた黄色い紙を一斉に掲げた。

マグマの変化をメディアも伝え始めた。手応えは十分。潮目は変わりつつある。
(2015年6月8日)

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