7月1日である。安倍内閣が集団的自衛権行使容認の閣議決定をしたあの日からちょうど3年。両院で「底上げの絶対多数」を握った自公与党と、これを閣外から支えた維新。その非立憲勢力が暴走してトンデモ政治状態が続いたこの3年。ようやくにして、これに歯止めが必要との風が吹き始めている。
明日(7月2日)が、注目の東京都議会選挙。本日が、その選挙期間の最終日である。今日までは、ブログでの選挙運動が可能だ。そして、ブログの記載を消す必要はない。だから、しっかりと書いておきたい。
なによりも、アベ一強政治の暴走をストップさせなければなりません。あなたが、平和や民主主義や暮らしを大切にしたいと願うなら、決して自民党に投票してはなりません。そして、衣の下に鎧が見える、自民党と同類の都民ファーストの会にも、です。都知事・小池百合子、なんの実績もありません。なんの理念も、なんのビジョンも。ただ、風を読み、風に乗るだけの節操のない人。
さらに公明党。国政では自民党の下駄の雪となり、腹心の友ともなってともに悪政を推進し、自民党劣勢と見るや手のひらを反して都政では小池と組もうという、これも節義・節操に欠けること甚だしい。何をやりたいのか、政治の理念を語ることがあまりにも少い。
真っ当な政治を取り戻すために、ぜひとも日本共産党の諸候補への投票をお願いいたします。文京選挙区では、共産党公認の福手よう子が厳しい闘いを繰り広げています。ぜひ、当選させてください。
なお、共産党都委員会のホームページは以下のとおり。
http://www.jcp-tokyo.net/
共産党の公認・推薦候補一覧は以下のURL。
http://www.jcp-tokyo.net/profile/list.html
そして、福手ゆう子のサイトは以下に。
https://twitter.com/yukofukute
https://twitter.com/yukofukute
http://yufukute.exblog.jp/
文京区の選挙情勢は、全体の政治状況を象徴している。
都議の定数は2。この2議席を、これまで自民・民主・共産の3候補が、熾烈に争ってきた。順位が入れ替わって勝敗の明暗が変わる。前回選挙では、自民と共産が勝って、民主が落ちた。
今回は、前回民主党公認候補として出馬し落選した増子博樹が、今度はタスキの色を変えて、都民ファーストの会から立候補する。鳩山邦夫秘書から民主党議員を経て、都ファに鮮やかな転進。4年前前回の民主基盤の得票は1万7500票。その大半は期待できないだろう。公明票の基礎票と、小池支持の風の上積みを期待する。公明党は自党の候補者を擁立する力量はない。どの候補にでも、票をとりまとめることができるのが、この宗教政党独特の「強み」。
自民前職で立候補するのが、中屋文孝。東京都議当選3回で、前東京都議会警察・消防委員長、自民党東京都第18代青年部長という肩書。前回選挙では追い風吹いて、2万8400票とダントツのトップだった。今回は、確実に公明票が離れる。安倍政治への逆風が批判票として離れる。
前回の共産候補は3期目の小竹紘子で1万9700票だった。今回は民進党と争わない。民進党区会議員の中には公然と福手応援者が出ている。社民党・自由党・革新無所属などの支援もある。自民離れ票も期待できる。メディアは福手有望とは書かないが、新人の福手にバトンタッチがうまくいけば、十分に当選の目はある。
ところで、昨日の当ブログで、「明日、新たに檜舞台に躍りでる『戦犯』は誰だろう。楽しみでならない。」と書いた。新しい名前はでなかったが、選挙運動最後の日の「戦犯」の任務は、本命のアベ・シンゾー本人が本領発揮して立派に務めた。さすが、シンゾー。
朝日.comでは、「首相演説に『「辞めろ』『帰れ』の声 都議選で初の街頭に」「首相街頭演説に籠池氏現る 『100万円返金したい』」とのタイトル。
私は近所にいながら、現場を見ていない。臨場感あふれるリテラの記事を引用する。
『駅前を覆い尽くす政権批判のプラカード、そしてものすごい音量の「安倍やめろ」の声──。安倍首相は本日16時から秋葉原駅前で行われた都議会選の応援演説に登壇したが、自民党候補の応援どころではなく、国民の激しい批判の声にさらされる結果となってしまった。
「安倍やめろ」コールは自民党陣営の演説スタートまもなくからはじまった。聴衆からは安倍政権を批判するさまざまなプラカードが掲げられ、「安倍やめろ」と書かれた大きな横断幕まで登場。それを自民党スタッフは「自民党青年局」の幟を並べることで隠そうとするなど必死に。他方、駅前にはあの籠池泰典・前森友学園理事長夫妻まで登場するなど、演説会はまさにカオス状態となった。
そして、安倍首相が16時40分ごろに演説カーに登ると凄まじいブーイングと「帰れ!」コールが噴出。安倍首相がマイクを握ると、支持者らが拍手を送るも、より強くなった激しい「帰れ!」「安倍やめろ!」の声に掻き消されたのだ。
この国民の批判が殺到する事態に、しかし、安倍首相は反省するどころか逆ギレ。なんと聴衆を指差しながら「演説を邪魔するような行為」「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだのだった。
国民の批判の声に陰謀論丸出しで“演説妨害”と決め付けるというのはいかにも安倍首相らしいが、しかしいくら話をスリ替えようが、負け惜しみを言おうが、安倍首相にとって、こうした批判を浴びせかけられる絵ができあがってしまったことは大誤算だったはずだ。この都議会選で安倍首相は2度、応援演説に参加したが、どちらとも街頭ではなく小さな屋内の会場だった。これは批判のヤジがあがることを見越し、声があがりづらい屋内を選んだことは明白。だが、にもかかわらず、会場からはヤジが飛ぶ結果に。』
秋葉原は、右翼の結集地でありアベ支持勢力にとってのメッカである。2012年暮れのアベ政権樹立となった総選挙の最終日には、ここに日の丸と旭日旗が林立した。都内で、安倍が街宣に顔を出すとしたらここしかないはず。それがこの結果だ。天下分け目の秋葉原になるやも知れぬ印象。さあ、明日が選挙だ。
(2017年7月1日)
いよいよ都議選が目前だ。この都議選は、なによりもアベ一強弾劾選挙だ。付随して自公政権批判の選挙。アベ自民と公明党への打撃が、憲法の擁護に直接つながってくる。
アベ自民の勢力を減殺し、「市民と野党」連合勢力を大きくすることが、特定秘密保護法や戦争法、そして共謀罪の発動を阻止し、その法の廃止の展望につながる。
さて、私の身のまわりでは、その手応えは小さくない。私は、文京区本郷に住んで20年余になる。20年余ご近所との付き合いは、深からず濃からず…。そのご近所のお一人が、こちらから語りかけずして、「今度(だけ)は、共産党に入れる。安倍さんって明らかにおかしい。公明党も。でも本当におかしいのはこんな人たちを選んだ私たちだものね」と。これは、20年来なかったことなのだ。
この好ましい状況は誰のおかげだろう。アベ自民から見ての「戦犯」は誰だ。メディアは、「都議選の戦犯は安倍首相と『加計3悪人』」と言っている。『加計3悪人』とは、萩生田・菅・下村の3人。
とりわけ、下村博文は文科大臣時代に学校法人加計学園から200万円の闇献金を受領していたとして叩かれ、しょうもない釈明記者会見で、さらに自らの首を絞めた。これが自民党都連会長なのだから、自民党の目はない。
『加計3悪人』にアベを加えた4人だけのおかげではない。いや、さすが自民党人材は豊富だ。日替わりメニューで出てくるニュー・スターたち。おなじみのイナダ朋美、豊田真由子様、そして二階俊博幹事長。
イナダは本当に弁護士なのだろうか。法的素養と法的な思考・判断力ゼロを露呈して恥じるところがない。豊田様の暴言は議員様たちの裏の顔を露わにして分かり易い。河村健夫議員の「あれはたまたま彼女が女性だから、あんな男の代議士なんかいっぱいいる。あんなもんじゃすまない」というホンネと相まって、影響はとてつもなく大きい。そして、大物が登場する。二階俊博幹事長である。
「二階氏は30日夕の国分寺市の演説で、自身を含む政権中枢の発言を伝えている報道機関に矛先を向け、『マスコミは偉いには違いないが、偉いと言っても限度がある。あんたらどういうつもりで書いているのか知らんが、我々はお金を払って(新聞を)買ってんだよ。買ってもらっていることを、やっぱり忘れちゃダメじゃないか』と述べた」と報じられている。
この論理、「スポンサー・ファースト主義」という。あるいは「スポンサー・オンリー主義」。「国が金を出しているのだから、国立大学では日の丸・君が代を掲揚斉唱しろ」というあの理屈。いまや、「スポンサー・ファースト主義」は三歳児からの幼稚園・保育施設に「国旗国歌に親しむ環境」の押しつけにも使われている。
「我々はお金を払って(新聞を)買ってんだよ。買ってもらっていることを、やっぱり忘れちゃダメじゃないか」というときに、二階の頭の中にある「我々」とは誰のことだろう。
政権や権力中枢のことだろうか。与党勢力のことだろうか。あるいはこの世を支配している企業のことだろうか。いずれにしても、ジャーナリズムに対して、堂々と「カネの力に屈せよ」という、凄すぎるこのセンス。さすが自民党幹事長。やっぱり安倍さんと、安倍さんにつながる人々はおかしいのだ。
コチラから見ての最大の功労者、アチラから見ての最大の戦犯は、やはりアベ・シンゾー本人なのだ。それにしても、明日、新たに檜舞台に躍りでる「戦犯」は誰だろう。楽しみでならない。
(2017年6月30日)
たまたまこのブログに目を留められた都内有権者の皆さんに訴えます。
東京都議会選挙が、3日後の日曜日に迫っています。多くの心ある有権者が、「自民党には投票しない」「今回だけは傲れる自民党に厳しいお灸を据えなければならない」とお考えのことでしょう。しかし、その大切な自民への批判票。都民ファーストの会にやってしまっては、結局は同じ穴のムジナを太らせるだけのこと。あなたの自民党批判の意図が生きることにはなりません。
アベ一強政治の傲りは、政治を私物化し、おトモダチ人事で要所を固め、行政の公平をねじ曲げ、数の力による諸悪法の製造を強行し、説明責任を放棄し、議会制民主主義を形骸化するなど、既に末期症状に至っています。このような事態で、安倍晋三は9条改憲に手を付けようと言い始めました。最後の悪あがきというほかはありません。
特定秘密保護法、戦争法(安保関連法)、そして共謀罪法案(「組織的犯罪処罰法改正案」)の究極の強行採決。森友学園、加計学園問題。辺野古新基地建設強行と沖縄県民いじめ、国連での核廃絶条約への反対の立場、福祉の削減、労働法制での弱者いじめ…。安倍政権の反国民性はまことに顕著といわねばなりません。
さらに、萩生田光一、豊田真由子、稲田朋美、下村博文など日替わりメニューで腐敗ぶりを見せつけてもいます。こんな政党に、大切な一票を投じることなどできるわけがありません。
では、自民批判票を対立するどの政党、どの候補者に投ずべきか。よくよくお考えください。
メディアは、ことさらに自民対小池新党対立の構造を描いています。つまり、非自民票の受け皿としての都ファへの投票を誘導しているのです。しかし、大切な一票です。ちょっと待ってください。都ファへいれるのはもったいないといわねばなりません。
もし、あなたが都ファに投票をとお考えなら、ぜひ「なぜ」「どうして」と反芻していただきたいのです。都ファって、いったいなんだろうか。どんな理念で、何を目指している政党なのだろうか。ご存じでしょうか。
小池百合子という党首が、右翼組織である日本会議国会議員懇談会の元副会長であり、「歴史教科書問題を考える会」の役員を務め、歴史修正主義の片棒を担いできたこと。「つくる会」系の教科書採択をサポートする運動に参加してきたこと。元は安倍第1次内閣の防衛大臣であり、数え切れないほどの政党を渡り歩いてきた政治家であること。そして、民族差別主義団体在特会系団体と近しいことなどは、よく知られているところですが、さて都民ファーストの会とはいったい何なのか。
以下が都民ファーストの会の綱領です。念のために申し添えますが、これが全文です。ぜひ読んでみてください。この綱領をもつ政党に、何らかの政治理念を感じられますか。この政党が誰のために、何をしようとしているのか。どんな具体的政策をとるのか、想像ができますか。あなたの一票を託せるでしょうか。
宇宙から夜の地球を見た時、世界は大きな闇と、偏在する灯りの塊に見える。その灯りの塊の最も大きなものが、東京を中心とした輝きである。
その輝きは、東京という大都市の力であり、経済の大きさであるが、同時に、そこにある一つひとつの灯りの下に、人々の生活があり、営みがあることを政治は想像できなければいけない。
一つひとつの灯りが揺らいではいけない。
もちろん、全体の輝きが褪せてもいけない。
この20年の硬直した都政の下で、アジアの金融拠点はシンガポールに、物流拠点は上海に、ハブ空港は仁川に後塵を拝しつつある。東京が産業構造の変革の波の中で、世界をリードする絵図を描けているか。少子高齢化が叫ばれながら、福祉対策の転換を導いているか。老朽化する都市は輝きを失うのではないか。様々な危機に対する準備は万全か。これまでの延長線をなぞるだけの都政でよいのか。
だから、今こそ「東京大改革」の旗を私たちは掲げる。
「東京大改革」とは、首都東京を、将来にわたって、経済・福祉・環境などあらゆる分野で持続可能な社会となりえるよう、新しい東京へと再構築すること。東京の魅力ある資産を磨き直し、国際競争力を向上させること。都民一人ひとりが活躍できる、安心できる社会にステージアップすることである。
そのための大原則を「都民ファースト」「情報公開」「賢い支出(ワイズスペンディング)」とする。私たちが自らの名に「都民ファースト」を冠するのは、都政の第一目的は、都民の利益を最大化すること以外にないと考えるからである。一部の人間、集団の利益のために都政があってはならない。
私たちは、旧来の勢力に囚われている都政を解き放ち、躊躇なく東京を活性化し、行政力の強化を行う。区部のさらなる発展を図り、多摩・島嶼振興を積極的に推進することで、東京2020オリンピック・パラリンピック後も輝き続ける首都東京を創造していく。
今日よりも明日、明日よりも未来に希望がもてる社会を描くため、私たちが「東京大改革」をすすめていく。
都民ファーストの会の初代会長は、野田数という極右というべき人物です。まぎれもなく、反憲法、反民主々義思想の持ち主。元小池百合子衆議院議員秘書で、2016年の東京都知事選挙では小池百合子の選挙対策本部責任者を務めて、当選後に知事の特別秘書(政策担当)に任命された人物。今年の1月新設の都民ファーストの会初代代表に就任して、6月1日小池都知事が正式に都民ファーストの会の代表に就任したことに伴い代表を退任しました。
この人、2012年10月「東京維新の会」を代表して、日本国憲法無効論に基づく大日本帝国憲法復活請願を東京都議会に提出しています。その中で、「我が国の独立が奪われた時期に制定された」と現行憲法の無効を主張するとともに、皇室典範については「国民を主人とし天皇を家来とする不敬不遜の極み」「国民主権という傲慢な思想を直ちに放棄」すべきことを主張しています。
こんな人物が小池新党の初代代表者として、綱領や政策を作ったというのです。小池という衣の下に見える鎧がこの野田数。空っぽの綱領の底にあるのが、憲法否定、国民主権否定の恐るべき極右思想。
あなたが真剣に、よりよい政治を望むのなら。さらには、平和や人権や民主主義が重んじられ、働きやすく住みやすい格差の少ない社会を望むのであれば、都民ファーストの会に投票してはいけません。
ぜひ共産党へ、あるいは民進・社民・自由の、立憲民主主義を掲げている各政党の候補者への投票をお願いいたします。
(なお、以上の記事は「リテラ」「ウィキペディア」「都民ファーストの会公式ホームページ」等を参考にしています)
(2017年6月29日)
あー。いやなことを思い出す。政権1期目のおしまいのころのこと。歯車が軋んで、何をどうやっても、うまくいかなくなった。何をやっても、何を言っても、裏目に出て叩かれっぱなし。その結果が史上例を見ない、みっともない政権投げ出しとなったんだ。2007年8月のこと。あれからもうすぐ10年。10年前の悪夢を思い出すと、またキリキリ腸が痛む。
あれは、オレだけの責任じゃない。獅子身中の虫は獅子を食らうというじゃないか。オレが獅子だというほどのうぬぼれはないが、何匹もの虫に身を食われた痛みを忘れることができない。一年足らずの短命政権が、不祥事で5人もの大臣辞任者を出した。だから、オレの責任じゃない。身中の虫のせいだ。
あのときの虫は、まず規制改革担当大臣の佐田玄一郎だ。事実上存在しない事務所の費用に7800万円も支出したという政治資金の虚偽報告だ。この佐田の辞任が、ケチのつきはじめ。
次が、厚生労働大臣柳澤伯夫。「残業代ゼロ法案」推進が国民の反発で挫折した挙げ句が、女性を「産む機械」とした失言。この追及は応えた。女性の支持率が下がっちゃった。
その次が、「原爆投下しょうがない」発言で辞任した久間章生防衛相。まだある。農水相の松岡利勝。事務所費問題の追及で自殺に追い込まれた。その後任が赤城徳彦。あの「バンソウコウ王子」だ。政治資金虚偽報告疑惑渦中の彼の顔がテレビに映るたびに支持率が下がって、持ちこたえられなくなった。政権も、オレの腸もだ。
第2次政権以後も、虫虫虫虫…。虫だらけだ。
小渕優子経産大臣と松島みどり法務大臣の『ダブル辞任』。次いで、経済財政政策担当大臣甘利明、高木毅原発事故再生担当相、西川公也農水大臣、下村博文前文科相、沖縄対策担当大臣鶴保庸介、復興大臣今村雅弘、地方創生担当大臣山本幸三、法務大臣金田勝年。アベチルドレンと言われた政務官クラスだと、数え切れない。
中でも噛みつかれて痛い虫が、パワハラ豊田真由子だ。「このハゲーーーーーっ!」の衝撃はメガトン級だ。しかも、選挙の応援演説で、オレが豊田を連呼しているところが繰り返された。豊田にではなく、オレにとって最悪だ。都議選でオレが街頭演説をやれば、聴衆は豊田真由子の「このハゲーーーーーっ!」を連想するだろう。イメージ悪過ぎで、オレの出番がなくなった。
せっかくダメージの少ない方を選択して、無理して国会閉じて森友・加計に蓋をして都議選になだれ込んだのに、あまりにも悪いタイミング。政権末期には、こんなことが起こるんだ。
そして、イナダだ。あの無能、懲りずにまたやらかした。いったい何度目だ。
産経報道の見出しが「稲田朋美氏発言で“三重苦” 『とばっちりだ…』突然の後ろ矢、憤る自民候補 他党は『敵失で好機』」というもの。「影響は自民現職2人や都民新人2人など10人の候補で5議席を争う激戦の板橋区選挙区にとどまらず、都議選全体に飛び火しつつある。」と遠慮がない。
産経ですら、厳しいイナダ批判で、自民と政権に手厳しい。ということは、全メディアが政権に遠慮せずにものを言うようになったということだ。政権への遠慮した物言いができない空気が蔓延しはじめているのだ。やっぱり、政権の末期症状だ。
もっと大きな虫がいる。菅だ。もっと上手に懸案を処理してくれるはずではなかったのか。森友問題も、加計問題も、収束の筋書きが書けていない。失敗続きで、責任大きい。何とかしろ。
いや、忘れていた。最大の虫はオレ自身だ。獅子を食い尽くした虫をよく見たら、獅子そのものだった。オレがオレ自身を食いちらし、食い尽くしたのだ。考えてみれば、惨めに政権を投げ出したオレが、第2次政権を作ったのがそもそもの間違い。そもそもオレの右翼体質が、結局は国民に受け入れられなかったということなのだ。
都議選の結果が恐ろしい。とりわけ、真っ向からの政権批判者だった共産党の議席次第で、悪夢が正夢になる。
ああ、祇園精舎の鐘の音が耳に重く響く。
「アベーーーーーっ! ヤベーーーーーっ!」「ダメーーーーーーっ!」と。
(2017年6月28日)
つい先頃までネットでの選挙運動は禁止されていた。大いにその不平を鳴らしていたが、4年前の公職選挙法改正で解禁となった。ようやくにして今は「自由」だ。これを活用しない手はない。
要点を確認しておこう。
選挙運動とは、「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」などと面倒な定義がなされている。そんな定義にこだわることはない。
要するに、「きたる7月2日の東京都議選文京選挙区では、自民党の悪政に対決し、すべての働く人々に明るい未来を切り開く、日本共産党の福手ゆう子に、ぜひとも清き一票をお願いします」と、特定の選挙について、特定の候補者の名前を出して、投票依頼をしてもよいということだ。
選挙運動は不自由極まりなく、選挙用文書の規制も厳しい。しかし、有権者の誰もが、ホームページ、ブログ、SNS、動画共有サービス、動画中継サイトで、選挙運動ができるのだ。大いに活用すべし、ではないか。もっとも、不特定多数者へのメール発信による選挙運動は誰もが考えるところだが、候補者・政党にのみ許され、一般有権者には解禁されていない。
また、注意すべきは、選挙とは本来が正々堂々の言論戦であるということ。言論には自ずから制約がある。虚偽や侮辱の言論を慎むべきは当然であり、また、匿名に隠れての無責任な言論もあってはならない。
だから匿名のネット選挙運動は、認められていない。「ネット選挙運動には、メールアドレスを表示することが義務づけられている」(公職選挙法第142条の3第3項)。メールアドレスの代わりに返信用フォームのURL、ツイッターのユーザー名などでもよい。その違反に罰則はないが、プロバイダー責任制限法での削除対象にはなり得る。
また、選挙運動は、選挙の期間中になすべきこととなっている。ネット選挙運動も、告示日(6月23日)から、投票日の前日(7月1日)までのこと。選挙当日には選挙運動としての新たな書き込みはできないが、それまでにアップした記事を削除する必要はない。なお、18歳未満の者は選挙運動ができないルールだから、当然にネットでの運動もできない。
さて、都議選である。ネットによる言論戦が望まれる。今は、投票結果に結びつく発信をすべきときだ。
メディアは、もっぱら「小池与党」対「自民」の対立構図を描いているが、そうとらえてはならない。この選挙は、なによりもアベ一強政治弾劾選挙だ。アベ強権政治ノーの一票の積み上げの舞台だ。共謀罪反対の意思表示であり、共謀罪採決強行に見られた議会制民主主義の危機への有権者の警鐘の選挙だ。政治を私物化し、行政をねじ曲げ、政治過程の透明性を奪い、真摯な説明責任を放擲したアベ自民党政治への怒りを表明する機会だ。投票による世直しのチャンスなのだ。
メディアはこれをミスリードして、「小池知事派過半数か 自民第1党か」(朝日)、「知事勢力の過半数焦点」(東京)、「小池勢力VS自民 新構図の決戦」(産経)などと言っている。こういう構図が喧伝されれば、「小池」と「自民」だけがクローズアップされ、その他の政治勢力の存在が霞んでしまうことになる。
ところが、選挙状勢はそうなっていないようなのだ。
JX通信社なるネット配信社が、東京都内世論調査を昨日(6月26日)発表している。
6月24?25日実施のもの。788人から回答を得たという。
見出しを「都議選中盤情勢 都民ファーストが第1党の勢い維持」とし、
アブストラクトを
「都民ファーストに投票32% 自民は19%」
「『築地は守る、豊洲を活かす』に賛成58%」
としている。要するに、ありきたりのメデイアの構図である。
注目すべきは、都民の投票意向先調査で、1週間前の前回数値との比較である。
「都民ファースト」 32.2%(前週比-2.4ポイント)
「自民党」 19.5%(前週比+0.8ポイント)
3位以下の投票意向先では、
共産党が12.2%(プラス4.2ポイント)
民進党が 6.0%(プラス1.3ポイント)
公明党が 5.1%(プラス0.5ポイント)
都ファは、支持を減らしている。-2.4ポイントは、決して小さな数値ではない。注目は共産党。先週の8.0%からの12.2%の獲得は52.5%の増である。この上昇幅のもつ意味は大きい。
前回都議選の自民党得票率は36%。この数値と比較しての今回19.5%は明らかに自民党への都民の批判が大きいことを物語っている。しかし、その批判票の受け皿が小池新党であってはならない。よく知られているとおり、小池は改憲論者の右翼。「日本会議国会議員懇談会」の副会長経歴を持つ。「新しい歴史教科書をつくる会」の支持を受けている歴史修正主義者でもある。また、公明党は、国政ではアベ政治を支え、都政では小池と組もうという無原則。
「自民批判票を、小池新党にやってはならない。ぜひとも共産党に」という呼びかけの手応えが、1週間での「プラス4.2ポイント=52%増」ではないか。共産党の地道な自民批判と、都ファ・公明に対抗しての選挙運動が実を結びつつあるように見える。
(2017年6月27日)
時事が伝える昨日(6月25日・日曜日)の首相動静である。
午前10時現在、東京・富ケ谷の私邸。朝の来客なし。
午前中は来客なく、私邸で過ごす。
午後も来客なく、私邸で過ごす。
26日午前0時現在、私邸。来客なし。
以下は6月19日付読売の報道。
「読売新聞社は17?18日、全国世論調査を実施した。
安倍内閣の支持率は49%で、前回調査(5月12?14日)の61%から12ポイント下落した。不支持率は41%(前回28%)に上昇した。
内閣支持率が50%を割ったのは、昨年6月17?19日調査(49%)以来。下落幅は2012年12月の第2次安倍内閣発足以降で最も大きかった。ただ、最低を記録した安全保障関連法成立直後(15年9月調査)の41%は上回った。内閣を支持しない理由のトップは『首相が信頼できないから』48%で、第2次安倍内閣発足以降で最も高かった。」
ほかならぬアベの盟友、ナベツネ新聞がアベの不人気を報道せざるを得ない事態。これが、1週間前のこと。とはいえ、このときはまだ内閣の支持率が不支持率を上回っていた。今、さらに事態は深刻だ。
毎日に続いて、朝日も読売もアベ内閣不支持が支持率を上回った(都内有権者)という世論調査結果を発表した。数字だけではない。折も折、アベチルドレンの一人、豊田真由子議員の「パワハラ・絶叫」事件。随伴して繰り返される安倍晋三のパワハラ議員支援連呼絶叫の映像。加計学園問題だけでなく、森友学園問題も大きく人々に記憶を呼び起こす事態となっている。
アベの私邸は東京都内にある。その東京が天下分け目の都議選の真っ最中。その短い選挙期間のラスト・サンデーに、自民党総裁安倍晋三の出番はなかった。自民党都議団凋落が囁かれている事態にもかかわらず、である。アベに応援受けるなんて、不人気を背負い込むようなもの。豊田真由子を連想させるだけ。自民党都議候補からすれば、疫病神同然なのだ。聴衆から罵声を浴びせられることにもなりかねない。
だから、お呼びがかからない。お呼びがかからないから、ラスト・サンデーが「ふて寝サンデー」となったのだ。
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孤独だな。さびしいな。誰も声をかけてくれない。世の中冷たいな。神戸は五月晴れなんて言ってみたけど、東京は霧だ、靄だ、いや闇だ。
あああ、パンダはいいな。なんの悩みもないんだろうな。ただいるだけで、ちやほやされて、人寄せパンダだもんな。ボクもパンダになりたい。
あああ、藤井聡太君はいいな。若くてたいへんな人気だ。実力ある人が羨ましい。ボクもああなりたいな。
あああ、前川さんはいいな。なんてったって信念の人だものね。いうことにスジが通っていて、説得力があるものね。ボクも信念がほしい。いまさら、無理だろうけど。
あああ、籠池夫婦はいいな。彼らなりに「夫婦相和し」ってのを実践しているもんな。お互いの信頼関係が深いんだろうな。ウチの夫婦はダメだ。やることなすことうまくいかない。籠池夫婦みたいになりたいな。
考えてみれば、ボクって、才能はなく、学識も常識もデンデンなく、もちろん誠実さも信念もない。それでいて上から目線で人間関係を上手に作れない。それでも、生まれの良さと図々しさだけでやってきたんだ。それが、とっくにメッキは剥げちゃっている。これまでは、不思議と人気だけはあって大きな顔をしてきたけどもう駄目なようだ。となると、ボクって何の取り得もない、どうしようもない人間だってことが、しみじみとよく分かる。
一期目の終わりのことを思い出す。なにもかも逆目に出て、泣きべそかいて政権を投げ出したあの惨めなときのこと。今度も、はしゃいだ挙げ句の身の破滅となるんだろうな。でも、自業自得だものな。批判はすべて本当のことだから、しょうがないかな。
これまではみんな黙っていたくせに、ボクが落ち目になると批判をはじめる。経団連会長まで、「ぜひ是正してほしい。約束通り説明の機会をつくり、総理の言葉で国民に説明してほしい」なんていう。ボクに説明責任を果たし、信頼回復に努めろなんていうんだ。
これまで、ボクが「国民の皆様にご理解いただけるよう、丁寧に説明を続けていきます」と何度も言って、一度だって実行していないのは知っているはずだろう。できることなら、とっくにやっている。できないからやっていないんじゃないか。みんなそんなことはよく分かっていて、「説明責任を果たすべきだ」なんて。みんな意地が悪いんだ。しかも、ボクが口を開くと「あまりに下品で不誠実で幼稚」と罵られてばかり。
あああ。パンダにあやかりたい。藤井聡太がうらやましい。前川喜平を真似したい。籠池夫婦はいいな。それにつけても…、いつの間にボクってこんなにみじめになっちゃったんだろう。
(2017年6月26日)
国政も国際情勢も慌ただしいが、身近なところで都議選が近い。人も車も動き出した。候補者の声が聞こえる。ポスターもにぎやかになってきた。
「改憲と共謀罪にノー」という勢力に、都政でも大きく伸びてもらいたい。自民・公明・維新の保守ブロックと、公明との連携を明確にした「都民ファーストの会」(以下、「都ファ」)には、小さく縮んでもらいたい。
何が都議選のテーマか。話題になるのは、まずは築地市場の移転の是非。築地を建て直すことでいいじゃないか派と、新設豊洲への早期移転派の角逐。後者は実のところは、都政を財界に売り渡し、大規模再開発推進第一の立場なのだ。もちろん、食の安全も絡んでいる。今のところ、自公の豊洲移転促進と、共産の築地でいいじゃないかの対立の図式。都ファは、この最大関心事にまだ態度未定という。知事派でありながら、信じがたいこの無責任。
次いで、住民福祉だ。保育園と特養問題。そして、良くも悪くもオリンピック。開発が伴うことから資本が群がるが、都民の側から見れば浪費と疑惑にまみれた、時代錯誤の大イベント。今さら中止は難しかろうが、狂騒とコストを最小限に抑えなければならない。防災問題もある。中小企業支援も…。
教育問題も注視しなければならない。従来からの小池百合子という政治家の国家主義的姿勢を懸念せざるを得ない。この点では、舛添さんの方が、はるかにマシだった。
5月11日の朝日が次のように報道している。
「この春、東京都内にある七つの都立看護専門学校の入学式は、いつもと少し様子が違った。小池百合子・都知事が議会で『要望』したのを受けて、今回から式典に国歌斉唱を採り入れたからだ。小池氏の狙いとは。
『国歌斉唱。ご起立ください』。都立広尾看護専門学校(渋谷区)で4月10日にあった入学式。『君が代』の演奏が流れ、新入生と在校生が歌い出した。都によると、他の看護専門学校でも国歌斉唱があった。今回が初という。
知事の発言『忖度』
きっかけは、小池氏の(議会での)発言だった。3月の都議会で自民都議の質問に答える形で『グローバル人材の育成の観点からも、国旗や国歌を大切にする心を育むことこそ重要』などとし、看護専門学校や首都大学東京の入学・卒業式での国歌斉唱を『望んでいきたい』と述べた。
その月末。関係者によると、看護専門学校の校長が集まる会議で、入学式で君が代を歌うことを申し合わせたという。都の関係者は『知事が答弁したことなので。まあ、今はやりの「忖度(そんたく)」なのかもしれませんけど』と言う。」
あの石原慎太郎都知事の時代に、教育長名の悪名高き「10・23通達」が発出されて、都内の都立高校と特別支援学校、そして公立中学校・小学校は、例外なく苛烈に「日の丸・君が代」の強制が実行された。しかし、石原の時代にも、石原後継知事の時代にも、都立看護専門学校に「日の丸・君が代」は持ち込まれなかったのだ。看護師と「日の丸」、医療と「君が代」。どう考えても、似つかわしくない。それが、小池都政1期目で、全看護専門学校の入学式に「日の丸・君が代」である。
朝日の記事にある、「3月の都議会で自民都議の質問」というのが、以下のとおりである。質問者が、自民党の松田康将(板橋)、元は下村博文の秘書だったという人物。下記のとおりのお先棒担ぎ。
○松田 …都立の学校教育施設であっても、福祉保健局所管の都立の看護学校七校では、国旗掲揚はされているものの、国歌の斉唱はありません。また、独立行政法人ではありますが、公立大学首都大学東京の入学式、卒業式においても同様であると伺っております。
平成二十七年六月には、当時の下村博文文部科学大臣が、国立大学長を集めた会議で、各大学の自主判断としながらも、…事実上の実施要請をしたことによって、今年度の入学式では、新たに六校で国歌斉唱が行われました。
都立の看護学校、首都大学東京と、どちらも学習指導要領の法的拘束力が及ばない教育施設ではありますが、…入学式、卒業式において、国歌斉唱をされるのは自然であると考えますが、小池知事の見解を伺います。
○小池 教育に関してのご質問でございます。国旗・国歌、国民の自覚と誇りを呼び起こすものとして、いずれの国でも尊重されていると、このように認識しております。また、グローバル人材の育成の観点からも、国旗や国歌を大切にする心を育むということこそ重要かと考えます。
…今ご指摘がございました都立の看護専門学校、そして、首都大学東京でございますが、ご指摘のとおり学習指導要領の適用が及ばないことにはなります。しかしながら、いわゆる国旗・国歌法の趣旨を踏まえますと、例えば、都立の看護専門学校におきましては、国旗掲揚は行われているが、国歌の斉唱は行われていない、しかしながら、国歌の斉唱を進めることを望みたいと思います。それから、首都大学東京におきましても、国旗の掲揚は行われているけれども、国歌の斉唱については行われていないという報告を受けておりますが、これも国歌斉唱についても行うよう望んでいきたいと思っております。
○松田 保守政治家としての小池百合子都知事、さすがです。ありがとうございます。
なんとも自民党内右派と相性抜群の小池都政なのだ。こんな知事を持ち上げてはならない。
「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」事務局の近藤徹さんから、下記のコメントをいただいた。
「小池都知事は日本会議国会議員懇談会副会長の『実績』の持ち主。教育観は、「都民ファースト」どころか「『君が代』ファースト」だ。「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく延べ480人もの教職員の大量処分に象徴される権力的教育行政を見直そうという「気配」もない。
今年度より厚労省の保育所の運営指針、文科省の幼稚園の教育要綱に「国旗・国歌に親しむ」と明記され、小中高校で「日の丸・君が代」が強制され、学習指導要領に「指導するものとする」とされ、それを専門学校・大学まで広げ、幼児から大学生まで「日の丸・君が代」で染め上げようというのだ。
安倍政権の『教育勅語』や「ヒットラーの『わが闘争』の教材化容認の閣議決定は、つい最近のこと。そして安倍首相の『2020年までに改憲を』の発言。その先にあるものは、「日の丸・君が代」強制を道具にして『お国(天皇)のためにいのちを投げ出せ』ということだ。悲惨な痛恨の歴史を繰り返してはならない。『子どもたちを戦場に送るな』の誓いを新たにしよう。」
まったく同感である。都議選では、「自・公・維+都ファ」が、全て都民福祉と民主主義教育の敵だ。
(2017年5月15日)
4月20日、都教委は都立校卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったとして、2人の教員を懲戒処分(減給と戒告)とした旨を発表した。
(都教委HP・「卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について」参照)
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/pickup/p_gakko/p_hukumu/170420.pdf
「10・23通達」発出以来、これで累計の処分者数は480名となった。民主主義や人権にとって、また教育の自由や独立という制度の理念にとって恐るべき事態といわねばならない。その真の被害者は、真っ当な教育を受ける権利を剥奪された子どもたちであり、明日の主権者の成長を阻害された日本の民主主義それ自体である。
「日の丸・君が代」への敬意表明強制を学校現場に持ち込み、処分濫発の元凶として悪名高い「10・23通達」は、石原慎太郎都政第2期の産物。ことさらに、「(場合によっては)命がけで憲法を破る」と言ってのけたこの男に、2003年4月の都知事選で都民は308万票を与えた。その直後から準備が進行し、この年の秋にこの通達が教育長から発せられた。以来、東京都の教育現場は萎縮したまま今日に至っている。
石原慎太郎が都庁から去れば、こんな馬鹿なことはなくなるのではないか。慎太郎が任命した愚劣な教育委員たちが交替すれば、事態は正常に復するのではないか。そう思いつつ、13年余が過ぎた。石原慎太郎は、知事の座から去ったが、石原後継を標榜する知事が襲って、「日の丸・君が代」強制問題に何の変化ももたらさなかった。次に、保守ではあっても右翼ではなく、石原後継でもない知事が誕生した。期待を持たせたこの知事は、結局五輪準備だけに熱心で、教育現場の事態改善の努力をしなかった。
米長邦雄や鳥海厳、内舘牧子、横山洋吉などの当時の教育委員が総入れ替えしても、事態はまったく変わらないのだ。関与した人物の個性の問題ではなく、権力を形づくる勢力の根源的な意思として、ナショナリズムの涵養が急務となっていると考えざるをえない。
とこうしているうちに都知事はまた昨年交替して、再び大きく右にぶれた。教育分野で小池知事がいつ地金を出して何をやりはじめるか、心配でならない。
以下に、「被処分者の会」の抗議声明を転載する。
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卒業式における「日の丸・君が代」不当処分に抗議する声明
4月13日、東京都教育委員会(都教委)は第7回定例会を開催し、卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったことを理由に都立高校教員2名に対する懲戒処分(不起立4回目に対し減給10分の1・1月、同3回目に対し戒告)を決定し、本日4月20日、処分発令を強行した。この処分は、「懲戒権者の裁量権の範囲を超え、違法」として減給以上の処分を取り消した最高裁判決および確定した下級審判決の趣旨をないがしろにする暴挙である。
今回の処分によって、「10・23通達」(2003年)に基づく処分者数は、延べ480名となった。
この大量処分は、東京の異常な教育行政を象徴するものであり、命令と処分によって教育現場を意のままに操ろうとする不当な処分発令に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるものである。
処分発令と同時に、都教委は、被処分者に対して、5月10日に始まり3か月に亘る服務事故再発防止研修の受講命令を発した。再発防止研修は、2012年から質量ともに強化され、「思想・良心の自由」と「教育の自由」に基づく信念から不当にも処分された教職員に対して、セクハラや体罰などと同様の「服務事故者」というレッテルを貼り、反省や転向を迫るもので、日本国憲法の精神を踏みにじるものである。
これは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性がある」とした東京地裁決定(2004年7月)にも反しており、私たちは、憲法違反の再発防止研修を直ちに中止するよう求めるものである。
東京「君が代」裁判一次訴訟および二次訴訟の最高裁判決には、「すべての関係者によってその(紛争解決の)ための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要がある」(2012年1月16日 一次訴訟 櫻井裁判官)、「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」(2013年9月6日 二次訴訟 鬼丸裁判官)など、かつてなく多くの補足意見が付された。最高裁判決は、明らかに強制と処分ではなく、話し合いによる解決を求めているのである。
にもかかわらず、都教委は再三にわたる被処分者の会、原告団の要請を拒んで紛争解決のための話し合いの席に就こうともせず、最高裁判決の趣旨を無視して「職務命令」を出すよう各校長を「指導」し、全ての都立学校の卒業式で例外なく各校長が「職務命令」を出し続けている。それどころか、二次訴訟の最高裁判決(2013年9月)及び第三次訴訟の地裁判決(2015年1月)によって減給処分を取り消された教職員(今回減給処分を発令された教員を含む現職の都立高校教員 計16名)に対し、改めて戒告処分を発令(再処分)するという暴挙を繰り返すなど、司法の裁きにも挑戦するがごとき都教委の姿勢は、都民に対して信用失墜行為を繰り返していると言わざるを得ない。
東京の学校現場は、10・23通達はもとより、2006年4月の職員会議での挙手採決禁止「通知」、主幹・主任教諭などの新たな職の設置と業績評価システムによって、教職員が口を塞がれ、もはや学校は機能麻痺を起こしていると言っても過言ではない。「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える。
都立高校では、今年度から“高校版の道徳”と懸念される新科目「公共」を先取りして「人間と社会」が導入された。生徒たちの心を縛る教育が猛威を振るい、教師たちがその実行部隊にされている。
私たちは、東京の学校と教育の危機的状況を打ち破り、自由で民主的な教育を甦らせ、生徒が主人公の学校を取り戻すため、全国の仲間と連帯して「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回を求めて闘い抜く決意である。この国を「戦争をする国」にさせず、「教え子を再び戦場に送らない」ために!
2017年4月20日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 岩木 俊一 星野 直之
事務局長 近藤 徹
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末尾の「『日の丸・君が代』強制に反対し、不当処分撤回を求めて闘い抜く決意である。この国を『戦争をする国』にさせず、『教え子を再び戦場に送らない』ために!」は、「10・23通達」発出直後の処分の頃には、やや大仰に聞こえたかもしれない。
しかし、アベ政権誕生以来、とりわけ第2次アベ政権が続く現在、多くの人の実感となってきているのではないだろうか。何しろ、アベ政権が改憲志向集団であることは誰もが知る事実なのだ。
アベ政権の姿勢とは、「戦後レジームからの脱却」であり、「96条改憲論」、「教育基本法改正」、「特定秘密保護法」、「戦争法」であり、そして今「共謀罪」なのである。次は、国家総動員法や戦陣訓が出てくるのではないか、さらには宣戦布告ではないかと危惧の念を禁じ得ない。
都政も国政も危うい。「戦争をする国」にさせず、「教え子を再び戦場に送らない」という覚悟の必要性は、教員たちにリアリティをもって迫っているといわねばならない。いつの間にか、そのような時代なのだ。
(2017年4月24日)
以下は、井上清『天皇の戦争責任』(現代評論社)「はしがき」の抜粋である。著者の息遣いが伝わってくる。くり返し読むに値するものと思う。
「かつての大日本帝国が、大東亜侵略戦争に敗北し、連合国に降伏してから、三〇周年の日を迎えようとしているいま、私は、あの戦争のぎせい者たち、日本人であると外国人であるとを問はず、軍人もそうでないものも、すべてのぎせい者たちに、真心こめて、一冊の小さな本をささげたいと思う。
その本は、あの戦争における天皇裕仁の責任を、確実な資料によって明らかにしたものである。
天皇は、大日本帝国の唯一最高の統治権者であり、大日本帝国軍隊の唯一最高の統帥権者であった。そればかりでなく、天皇は日本国創造の神の万世一系の子孫であると称する神的権威であった。この最高の権力・神的権威である天皇陛下の命令・統帥なしには、日本国とその軍隊は対外戦争はできなかった。そして日本国民は、天皇に無条件絶対の忠誠をささげるよう、教育され、あるいは強制されて、あの戦争にしたがった。
こういう地位にある天皇裕仁に、戦争責任がないなどとは、ふつうの人間世界に通用するはずのない論理である。しかし、それが日本では通用している。「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」というのが、天皇裕仁自身の論理であり、また天皇に戦争責任なしとするすべての人の論理である。
この本は、そういう論理がなりたたないこと、天皇裕仁は、たんなる捺印器でもなければロボットでもなく、まさに自分が日本国の唯一最高の統治権者であることの責任をはっきり自覚し、主体的に判断し、決意して、あの戦争を発動し指揮したことを、克明に論証した。払が用いた資料は、すべて印刷出版されているので、読者は、もし必要ならば、資料批判もふくめて、私の見解の当否をたやすく検討できるであろう。
((略))
この小さな研究が、日本軍国主義の再起とたたかう人びとのお役に立つならば幸いである。
一九七五年七月一六日 井上清」
併せて、天皇裕仁の記者会見の発言も引用しておこう。
─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」
─陛下は(中略)都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいしたいと思います。
天皇「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむおえないことと私は思っています」
この天皇(裕仁)の無責任ぶりが国民的な批判を受けることはなかった。天皇の戦争責任は、「一億総懺悔」の底に沈み込んでしまったのだ。日本の国民は、いまだにあの戦争の責任の構造を明らかにし得ていない。そのことの影響は大きい。
昨日(3月3日)の石原慎太郎弁明会見における石原の「責任」の語り口の軽さもここに原因していると言ってよい。石原の無責任ぶりは、天皇(裕仁)の亜流であり、その自己免責の理屈は、井上のいう「天皇裕仁自身の論理」の借り物である。
石原の理屈はこうだ。
「(私は)当時の最高責任者として、審議会なり専門家の特別委員会なり、あるいは議会は調査権を持っていろんな調査して、委員会でもきわどい採決で可決されたわけですけども。それを踏まえて、私は最高責任者として、とにかく豊洲移転に裁可願いたいということで、それを承諾して裁可しましたということで、私のハンコを預かっている課長さんが私のハンコを押してことが決まったわけです」
これは、「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」という、天皇免責論そのものではないか。
石原は「最高責任者として裁可したことに関しては責任があるが、私一人というよりも行政全体の責任だ」「総意として上がってきたものを認可した。議会も是とした。責任はみんなにある」とした。その文脈で、「つかさつかさで」という言葉を5度使い、あとは「知らない」「聞いていない」「分からない」と9度繰り返したそうだ。これは、まさしく「一億総懺悔」ではないか。
天皇は、戦争責任を「言葉のアヤ」という「文学方面」の問題と言った。戦没者遺族のすべてが戸惑ったろうが、死者のために心底怒った人は多くはなかった。石原の「最高責任者として裁可したことの責任」も、「言葉のアヤ」程度の自覚でしかない。都民や国民は、これを怒る資格があるか、考えてみる必要があるのではないだろうか。
驚くべきことに、石原がいう「最高責任者として裁可したことに関しての責任」には、民事的な損害賠償責任は含まれていないことだ。「専門家の意見も聞いた上で、議会でみんなで決めたことで私個人の裁可の責任を攻められるのは違うと思います。そんなことで損害賠償訴訟を起こされるなら、私は不当提訴しますよ」とまで述べている。(「私は不当提訴しますよ」は「違法な提訴として、逆に提訴者を訴えますよ」という意味であろう)
これが「国士」を気取って「憂国」を語り、「逃げているとか、隠れているとか言われることが一番嫌い」と言ってきた人物の責任感覚である。
いまさらにして思う。このような人物を知事にして持ち上げてきた都民の責任を。石原とは較べものにならない、超弩級の天皇の責任回避に目をつぶってきた国民の責任を。石原にだけ、「責任逃れ、恥さらしではないか」と言うことに、「何か、割り切れない」ものが残るのだ。
(2017年3月4日)
私が諸君の民主々議の教師、石原慎太郎だ。諸君は、よくぞ私を4回にもわたって都知事に選任した。この間なんと13年6か月。それには礼を言わねばならない。おかげで面白くやらせてもらった。しかし、敢えて言おう。そのことは諸君が愚昧であることの証明にほかならない。
最初の選挙での後出しジャンケン、あのときの私の第一声を憶えておいでか。「裕次郎の兄です」というあの出馬宣言。あれで当選した。
その後は、差別発言、豪華出張旅行、無駄遣い、身内の優遇、日の丸・君が代強制、新銀行東京…と、好き放題にやらせてもらった。なんてったって、都民が私を選び、都民が私のすることを黙認したのだ。責任は私にではなく、都民諸君にある。
何をやっても、やらなくても、石原軍団みたいなサポーターと愚昧な都民が、私を持ち上げ、押し上げ続けてくれた。文句を言わない、甘い有権者ばかりで、ホントによいところだよ。東京は。
私なんぞを知事にして、好きなことをやらせてくれた都民諸君。人が好いにもほどがあろうというもの。このごろようやく、その身の無知と蒙昧に臍を噛んでいるのかも知れない。しかし、そりゃ遅すぎるし、滑稽というものだ。
都民の生活はいざ知らず、都知事って商売は楽でいいぞ。確実に週休4日はとれる。給料も退職金もがっぽりだ。物見遊山も税金でできる。仕事は、「ヨキニハカラエ」と言っておればよい。成果は自分のものにし、責任は部下に押しつける。あとから「あれはあんたの責任」といわれたときには、「もともと専門的で難しいことが分かるわけはない」と言って逃げればよい。まあ、都知事は3日やったらやめられない。
「いったい、あんたは在任中に何をやったのか」と? 私は、精一杯日本国憲法に悪罵を投げつけてきた。それについては、かなりの成果をあげたと思うね。なにしろ、憲法こそが諸悪の根源だ。国家をないがしろにして、個人の人権を根源的な価値とするなんて莫迦なことをいうもんだ。国を守る軍隊はいらないとかね。だから、「命がけで憲法を破る」と言ってきたわけだ。障害者に人権があるのかと発言をしたし、ババアをおとしめ、三国人を危険とも言ったし、ジェンダフリーも禁句にした。そして、あとは尖閣問題に首を突っ込んだ。日の丸・君が代の強制は、私が実現した最たる成果だ。
私はつくづくと、都の官僚組織はよくできていると思う。上意下達というのは、ありゃあ嘘だ。上意は下達されないね。そんなことをすれば、「上」の責任問題が残るじゃないか。上意は飽くまで、「下」が忖度するんだな。だから、責任はいつも「下」にあって、「上」は安泰だ。私にとって、こんなに都合のよい居場所は他にない。
もしかしたら、これが、日本文化の精髄なのかも知れない。天皇制というのは、まさしくこんなもんだ。天皇無答責だろう。戦争始めたのは自分じゃないって突っぱねたじゃあないか。戦争責任なんて、言葉のアヤだって。私は、天皇ほど国民を不幸にはしていないが、天皇の責任回避ぶりには、見習わねばならない。
ところが、このところ知事無答責の雲行きが少々怪しい。今年の9月の末に私は84歳の誕生日を迎えはしたが、いかにも憂鬱なんだ。豊洲の地にさまざまな不祥事が発覚しそのとばっちりが前々々任者の私にまで及んできて、ただの推測を元にした私自身の名誉にかかわりかねぬような中傷記事が氾濫している。心痛で健康まで損なわれた始末。私だって、頭も心も痛くなるのだ。
私は、若々しさ、乱暴さ、独断などを売り物に世渡りをしてきた。が、どうもこれがうまくいきそうにない。無理をして、舛添のような目に遇いたくはない。そこで、突然だが、「おいたわしや作戦」に切り替えようと思う。どうせ、甘い都民が相手だ。
「おいたわしや作戦」にしたがって、豊洲問題での事情聴取は文書にしてくれと言ったところ、小池知事から質問状が届いた。その最後の質問はこんなものだ。
「(1)一連の問題について、石原氏は当時の知事としての道義的責任があるとお考えか。(2)もし責任があるとお考えの場合、どのように対処しようと考えておられるのか。」
この質問は小意地が悪い。責任を否定すれば、傲慢と舛添のように叩かれる虞がある。さりとて責任を認めると次には法的追及が待っている。「厚化粧」なんて悪口を言わなきゃよかった。
回答は慎重を要する。低姿勢を決めこみつつ、法的責任は認められないと突っぱねなければならない。戦後の天皇と同じだ。基本は、「知らない」「記憶にない」「十分に報告を受けていない」と、逃げの一手だ。弁護士とよく相談して、次のような回答を拵えた。期せずして、天皇の戦争責任回避のものの言い方と似たようなものになったが、これはいたしかたない。
そもそも、都知事が最終決裁を行うべき事案は膨大かつ多岐にわたるところ、本件のように専門的な知識・判断が必要とされる問題については、私自身に専門的知見はないことから、都知事在任中、私は、知事としての特段の見解や判断を求められたり大きな問題が生じている旨の報告を受けたりしない限り、基本的に担当職員が専門家等と協議した結果である判断結果を信頼・尊重して職務を行っておりました。本書のご回答において、度々、私自身は関与していないとか、担当者に任せていたとか、担当職員が専門家の意見を聞いたり専門業者と協議したりしながら実質的に決定していくもの等お答えしている趣旨は、このような意味合いです。加えて、13年半という在任期間中に私が都知事として決裁をした案件数は膨大であることもあり、ご質問の各事項については、本書のご回答以上の記億はございません。
これで一件落着とは思わないが、なんとかこれで凌げるのではないか。ここで、せめて私のできることは、反面教師になって、愚昧な都民にもう少し賢くおなりなさい、ということだ。権力者への批判を忘れ、人の好いばかりの無知な有権者は、結局のところ、私のような知事を生み、私のような知事を育てる。だから、民主々義に不可欠なものは、権力に対する甘い好意の支持ではなく、辛辣な批判の姿勢なのだ。まあ、私が言うのもおかしなものだが…。
(2016年10月26日)