都知事選が終わった。開票結果は事前に各メディアが報じた情勢のとおりとなって、当確がはやばやと出た。野党統一候補は敗れて、新都知事には品のよくない右翼が就任する。最悪だ。石原慎太郎の時代に逆戻りではないか。チクチクと胸が痛む。
それにしても、4野党の候補統一ができたとき、これは勝てる選挙になると小躍りした。与党側が分裂という情報が伝わって、これこそ千載一遇のチャンスと思った。しかし、取りこぼしたのだ。千載一遇のチャンスを逃したのだ。敗因はどこにあるのか、徹底した検討が必要だろう。
一議席を争う与党と野党の一騎打ちは、憲法改正の国民投票に擬せられてよい。改正発議をするか否か、するとしていつのタイミングを狙うか、その選択の権利を今壊憲与党の側が握っている。勝算ありと考えれば、発議の実行はあり得るのだ。
そのような目で、都知事選における都民の選択を見つめると、極めて危うい。憲法問題について世論が明日はどう転ぶか、私には読めない。不安を感じざるをえない。
有権者は必ずしも理性的ではない。情報に操作され、たぶらかされるのだ。強いメッセージに踊らされ、つくられたイメージに流される。選挙結果はけっして冷静な選択ではない。民主主義とはそのよう危うさをもったものだ。戦前の歴史を思う。明治以来日本にも連綿と非戦論・平和主義はあった。しかし、開戦や事変のたびに、あっという間に崩れて主戦論・ナショナリズムが天下を席巻した。
国民が挙げて主戦論の熱気の中にあるとき、これに負けずに非戦論を貫いた人びとに心からの敬意を表する。北朝鮮がどういう行動をとろうとも、中国とのトラブルがどのように喧伝されようとも、そのようなときであればこその覚悟で9条を守り抜かなければならない、あらためての決意が必要なのだ。
4野党の統一ができたのは大きな成果だ。この共闘関係を継続して、信頼関係を深めていくことが、今後の最大の課題だ。この点に揺らぎがあってはならない。これ以外に野党勢力を伸ばす方策もなく、改憲阻止の展望も開けてこない。
しかし、期待されたほどの共闘効果は出なかった。各野党それぞれの支持勢力全体を統一候補者の支援のために総結集できたかははなはだ心もとない。そのような努力と工夫は十分になされたのだろうか。連合東京という組織には、脱原発のスローガンはタブーなのだろうか。これから先、ずっとそうなのだろうか。この点には、どう対応すべきなのだろうか。
今回4野党統一候補の支援をしなかっただけでなく、結果的には足をひっぱる側に回った宇都宮グループ。これに対する正確な事実を踏まえての徹底批判も必要であろう。
憲法改正発議があった場合の、発議側の世論操作への対抗策と、改正阻止側の統一した共同行動をどう組むかという視点からの総括が必要だと思う。負けた選挙、せめて教訓を酌み取りたい。
(2016年7月31日)
明日(7月31日)が都知事選の投票日。鳥越候補の「最後の訴え」は、新宿南口だった。甲州街道をはさむ広場を埋めつくす大群衆の熱気の中で、護憲や野党共闘を支持する運動の広がりと確かさを実感する。とはいえ、午後8時を過ぎて、拡声器を使った選挙運動が終わって、群衆が散ると普段と変わらぬ東京の土曜日の夜。あの大群衆を呑み込んで喉にも触らぬ東京の大きさ。あの群衆も実は一握りの人びとでしかないことを思い知らされる。さて、明日はどのような結果が出ることだろうか。
「最後の訴え」の応援弁士は、福島みずほ、小池晃、山口二郎、澤地久枝、そして岡田克也。いずれも力のこもった聞かせる演説。そして、鳥越俊太郎が渾身の語りかけ。三つのゼロ「待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロ、そして原発ゼロ」の政策を高らかに宣言した。そして、一度終わった演説を、鳴り止まぬ鳥越コールの中で、「あと1分ある」として、短い話を最後にこう締めくくったのが、印象に残った。
「野党が共闘して参院選を闘い抜き、都知事選にまでつなげた。これを大切にしようじゃありませんか」
まったく、そのとおりだと思う。
明日の都知事選。1000万有権者による、たったひとつのポストをめぐる争い。これは、形を変えた首都の擬似国民投票ではないだろうか。
都民の声に耳を傾けて都政をおこなう、予算執行の透明性を高める、保育と介護を充実する、オリンピック予算を適正化する、くらいのことはどの候補も政策として掲げる。こんなことには、政策の独自性は出て来ない。鋭く対決するのは、「平和・憲法・原発」の3課題。実は、護憲の野党共闘と、自公改憲勢力の対決の様相なのだ。
核兵器も原発もない「非核都市東京」を目指すという鳥越と、「核武装の選択肢は十分にあり得る」という小池百合子のコントラスト。これは、決定的な対決課題なのだ。
昨日(7月29日)夕、フジテレビの「みんなのニュース」での討論会で、鳥越が小池氏を批判したという。
「小池さんは、かなり前の雑誌で、『軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分にあり得る』という風に言っておられますが、私は知事になったら早速すぐにやりたいのは『非核都市宣言』をやりたい。核武装論者である小池さんに『非核都市宣言』というのは果たしてできるのか」
小池は、「私が『核武装論者』と言い切られましたけれども、これこそ捏造」と反論。「でも実際に本に書いてある」(鳥越氏)と言われると、「いや、言ってませーん!日本語を読めるのであれば、よく読んでいただきたいと思います」と発言したという。
このテーマは、以前にも取り上げたが、憲法や安全保障に関わる基本政策の際だった差異を物語る象徴的な問題。しかも、小池が「いや、言ってませーん!日本語を読めるのであれば、よく読んでいただきたい」というのだから、みんなで読んでみよう。テキストは、小池の公式ウェブサイトに掲載されている、保守論壇誌『Voice』(PHP研究所)2003年3月号所収の田久保忠衛、西岡力との極右トリオ鼎談記事。タイトルは「日本有事 三つのシナリオ」。そして、当該個所の小見出しが、「東京に米国の核ミサイルを」という物騒なもの。日本語を読める人なら下記のURLで、鳥越の指摘と小池の否定の真偽を、直ちに確認することができる。
https://www.yuriko.or.jp/bn/column-bn/column2003/column030320.shtml
小池の発言は以下のとおりだが、ここだけでなく全体を読んでいただくと小池の政治姿勢や体質がよく分かる。右翼どっぷりであり、どっぷり右翼なのだ。
小池 軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真吾氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで、安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけません。今の国会は時間とのせめぎ合いがほとんどで、労働組合の春闘と同じです(笑)。それももうないのに。
小池百合子の平和や憲法ないがしろにする姿勢に恐ろしさを感じざるを得ない。明日は、ミニ国民投票だ。平和・憲法を大切に思い、原発は不要とする立場の都民は、ぜひともこぞって、鳥越俊太郎候補への投票を。間違っても、小池百合子にだけは投票してはならない。
(2016年7月30日)
皆さま、日本民主法律家協会第55回定時総会にご参集いただきありがとうございます。恒例の懇親会の冒頭、乾杯の発声の前に若干のお話しをさせていただきます。
参院選の結果が出た直後、そして都知事選が始まった時点での総会となりました。右往左往の状況ですが、本日の総会の討議と広渡清吾さんの記念講演「安倍政権へのオルタナティブー個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」とで、何が起こっているのか、何をなすべきか、整理ができてきたのではないかと思います。
この間、「アベ政治を許さない」「立憲主義・民主主義・平和を守れ」という大きな市民の声が巻きおこり、学者も弁護士もそれなりの役割を果たしてきました。とりわけ昨年(2015年)9月「戦争法案」強行採決の直後に立ち上げられた、「戦争法廃止を求める市民連合」の役割には大きなものがありました。日本民主法律家協会も改憲問題対策法律家6団体の中核にあって、野党共闘の成立に力を尽くしてきました。
もっとも、参院選の結果は、重大なものとして受け止めなければなりません。衆院だけでなく、参院でも憲法改正発議に必要な3分の2の議席を改憲派に与えることとなってしまった。このことは率直に衝撃と言わざるを得ません。
かつては、国会の中に日本社会党を中心に堅固な「3分の1の壁」が築かれていました。憲法改正発議などは許さない。そんな国会情勢は、今や忘却のかなたの古きよき時代の語りぐさ。
改憲問題だけを思うと、こんなふうに愚痴が出ます。
ながらへばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき
あの頃だって、政権に文句を言いたいことはうんとあった。でも、今にして思えば随分とマシな保守政権だったではないか。アベ政権のような、ごりごりの改憲姿勢や好戦性はもっていなかった。情勢はどんどんひどくなっていく。もしや、もう少し経って今日を振り返ると「あの頃はまだマシだった」なんて思うことにならないだろうか。
一昔前には、保守政治家の典型だった小澤一郎が、今や護憲勢力の一員なのですから、いつの間にか政治の重心が大きく右にぶれてしまったのでしょう。ここ数年そのように思い続けていましたが、ようやく希望の灯を見るに至りました。それが、市民の後押しによる4野党共闘です。これこそが、パンドラが開けた箱に残っていた希望というべきもの。
この共闘のでき方について広渡さんに詳しく語っていただきましたが、会場からの質問に対する回答の中での、次のご指摘が印象に残りました。
「安倍政権を追い詰めた市民と野党の共同運動は、九条の解釈においては『専守防衛論』でまとまってのものでした。ここで幅広い勢力の意見の統一ができたものです。しかし、私は、この運動に結集した人びとの多くが『自衛隊違憲論』であったと思っています。むしろ、『自衛隊違憲論』派が運動の中心にいて、この人たちの確信を持った運動あればこそ、そのまわりに『専守防衛論』派の人びとの広がりができたものと言うべきだと思います」
意見の違いはあっても、闘う相手を見きわめて、共闘によって味方を大きくする努力の枠組みができてきたことを心強く思います。この枠組みは、参院選地方区の東北6県では、5勝1敗の大成功を収めました。象徴的に特別の意味をもつ沖縄と福島では、いずれも現職大臣を落としての勝利を勝ち取っています。
これが希望の灯。この希望の灯を絶やしてはならないと思います。いま、この灯は都知事選に受け継がれました。鳥越候補支援の声は急速に拡がりつつあります。本日の特別アピールのタイトル「市民と野党の共闘を支援し、改憲勢力3分の2の危機を乗り切り、東京都知事選での勝利で日本を変えよう」は、今日の総会に集まった人たちの気持ちを的確に反映するものとなっています。
このアピールは、参院選を「市民と野党の共闘」の第1回のチャレンジとしています。もちろん第2回目が「33年ぶりの都知事選での野党統一候補」を生みだした都知事選。さらに、3回目総選挙に続けなければなりません。小選挙区の選挙で、立憲派と壊憲派の一騎打ちが実現すれば、日本が変わるチャンスです。
そのような展望を見据えて、日民協は改憲阻止を標榜する法律家団体として、可能な限りその役割を果たしていくことの決意をかためましょう。それでは、ご唱和をお願いします。
日本国憲法と民主々義と、そして日民協の発展のために、カンパーイ!
(2016年7月17日)
Blog「みずき」の東本高志さんから、ブログで私を名指した問題提起を受けた。昨日(7月15日)のことだ。野党共闘のあり方についての醍醐聰さんのご指摘をもっともであるとし、私のブログでのこの点についての応接を、「重要な問題提起をスルー」して、いかにも「もの足りない弁明」とされる。ご指摘は下記のとおりだ。
澤藤さん。「告示日が迫る中、大詰めの段階で鳥越氏が野党統一候補者となったことも理解できる。しかし、それで、胸をなでおろし、あとは鳥越氏勝利のために頑張ろう、では都民不在である。それでは、判官びいきではなく、『知名度頼み、政策不在の候補者選び』という宇都宮氏の批判に一理がある。(略)こうした都民に向ける政策、公約が告示日の前日になっても不在のまま、4党の合意で候補者だけが決まるというのは異常である」という醍醐聰さん(東大名誉教授)の指摘も私は同様に重要な問題提起だろうと思います。「4党の合意で候補者だけが決まるというのは異常である」という醍醐さんの指摘は本来の野党共闘はどうあるべきかという根底的な問題提起です。この重要な問題提起をスルーして「4野党が責任もって推薦しているのだ」というだけではこれもいかにも「もの足りない」弁明というべきです。醍醐さんの指摘に本格的に応じてみよう、という気はありませんか?(東本高志 2016/07/15)
私は、Blog「みずき」には関心をもって目を通しているつもりだが、昨日(7月15日)はまったく気付かなかった。今日(16日)、日民協の総会と懇親会を終えて夜帰宅し、パソコンを開いてはじめて気が付いた。私のブログの拙文に、こんなに関心をもっていただいたことをまことにありがたいと思う。
常々、醍醐さんが言っている。「議論が足りない」「意見の異なる人との真摯な議論が必要なのにできていない」「リベラル側の議論の意欲も説得の能力も不十分だ」と。幾分かは、私に言われているように思う。せっかくの東本さんからの議論をうながすご質問。しかも、醍醐さんの指摘を引用してのものだ。「本格的に」はともかく、応じなければならない。
私の「弁明」をまとめれば、次のようになろうか。
(1) 不十分だが緊急避難としてこの際やむを得ない
(2) それでも候補者選定の最低限情報は提供できている
(3) 公約の細目は追完される
(4) 候補者選定の枠組みを作ったのは市民だという大義がある
私は革新陣営の共闘を願う立場で一貫してきた。政党が、自らの理念や政策を大切にして他党と支持を競い合うのが本来の姿であるが、政策が近似する友党との共闘が大義となって、個別政党の共闘拒否がエゴとなる局面がある。保革で一議席を争う首長選挙がその典型であろうし、喫緊の重要課題についての共闘の成否が革新陣営全体あるいは野党全体の死活に関わる問題という局面では、国政選挙でも共闘が大義となるだろう。
私の革新共闘の原イメージは、70年代初頭の革新自治体を誕生させた運動だった。社・共の両政党を当時は強力だった総評が間に立って結びつける。そのような共闘のお膳立てを文化人が準備した。東京・大阪・京都・福岡・愛知などに、そのような形での革新知事が誕生して、国政にも大きなインパクトを与えた。今でも、美濃部革新都政のレガシーには大きなものがある。とりわけ、福祉や公害対策の分野において。
しかし、60年安保闘争後の高揚した雰囲気の中から生まれた革新自治体運動はやがてしぼんだ。共闘の主役だった社会党はその座を降り、労働運動はかつての力を失った。革新共闘そのものが困難な時代となった。東京都知事選挙にもその影は深く、極右の知事に対抗すべき革新統一もならない事態が続いた。
石原の中央政界転身による2012年都知事選での革新共闘は、市民運動が主導して、各政党が候補者を個別に支持する形のものであった。「この指止まれ方式」と言われた。政党は、候補者の出馬宣言に賛同を表明する形で共闘に参加し、けっして政党間の事前の政策協定あっての共闘ではなかった。それでも、これまでにない共闘が成立したことを大いに評価すべきものといえよう。具体的な政策は、選対に参加した学者を中心に立派なものができあがった。共闘参加者全体に違和感のないものとしてである。このとき、政策作りに候補者本人はほとんど関与していないが、それでよい。選挙は陣営としてするもので、候補者も政策に縛られるのだから。
要するに、「市民運動+共産・社民」の範囲を「革新共闘」として、ようやくにして成立に漕ぎつけた。共闘の要は、候補者であった。特定の政党や勢力に偏らない人物が名乗りを上げたからこそ、共闘の枠組みができた。それでも、選挙結果は記録的な大敗を喫した。候補者の魅力に欠けていたこと、選挙実務ができていないことが最大の要因であったろう。
14年都知事選においては、革新側(ないしは野党側)は分裂選挙となった。およそ最初から勝てる見込みある選挙ではなかった。結果は、分裂した両候補の票を合計しても、自公の候補に届かなかった。革新の側は、本気で勝つためには、共闘の幅は拡げなくてはならないこと、分裂選挙してはならないことを学んだ。候補者の選定は、この教訓から出発しなければならない。
16年都知事選は、様相を異にする。これまでと違って、政党間の共闘合意が先行したのだ。しかも、民進・生活を含む4野党共闘の枠組みである。この枠組みで推すことのできる候補者がどうしても必要だったのだ。前回・前々回の候補者では、4野党共闘の枠組みにふさわしからぬことは自明のことであった。候補者個人は、3回目の立候補ともなれば都政の細目に詳しくはなるだろうが、それはさしたる重要事ではない。市民が後押ししてようやくにして作り上げた4野党共闘である。これを生かす候補者の選定が大義なのだ。共闘参加のすべての政党が推せる候補者でなくてはならない。当然のこととして共闘の最大政党である民進の意向も無視し得ない。今回の参院選東京選挙区での民進票は170万なのだ。
せっかくの4野党共闘による知事選の枠組みが人選で難航しているときに、告示間際となって鳥越候補が出現した。政策は共闘成立に必要な大綱でよい。私は、出馬会見で彼が語った第3項目は、実質的に「ストップ・アベ暴走」であったと思う。あるいは、「首都東京から改憲阻止のうねりを」というもの。語られた中身は、改憲阻止であり、戦争法廃止である。歴史を学んだ者として、アベ政権の歴史修正主義を許せないという趣旨の発言もあった。都政に憲法を生かすとの政策と受け止めることができる。これだけでも十分ではないか。もちろん、今回知事選の争点となる知事としての金の使い方、透明性の確保についても語られている。
果たして、細目の公約がなく都民不在であるか。もちろん、時間的余裕があってきちんとした公約を掲げての立候補が望ましい。今回の経緯では不十分であることは明らかだが、「都民不在」とまでいう指摘は当たらないものと思う。
その理由の一つは、候補者の経歴がよく知られていることにある。候補者の政治的スタンスと人間性の判断は十分に可能であろう。出馬会見はそれを裏書きする誠実なものであった。都知事としての資質と覚悟を窺うに十分なものであった。
また、4野党共闘の枠組みは広く知られているところである。立憲主義の回復であり、民主主義と平和の確立であり、戦争法の廃止であり、改憲阻止である。4野党と市民が納得して、この枠組みに乗せられる人であることが都民に示されたのだ。「候補者+4党+支持する市民」がこれから練り上げる具体的な都政の政策をしっかりと見ていこうと思う。それでも、けっして遅すぎることにはならない。
事前の政策協定ができればそれに越したことはないが、ようやくにして成立した4党共闘の枠組みである。これを強く望みつくったのは市民である。これに乗る魅力的な候補者が見つかったのだ。現実に革新の側(反自公の側)が勝てるチャンスなのだ。既に多くの市民団体が鳥越支持の声を上げている。各勝手連も動き出している。政策は、おいおい素晴らしいものが体系化されるだろう。もとより理想的な展開ではないが、今回はやむを得ない。判断材料としての最低限の情報提供はなされており、さらに十分なものが追加されるはずである。傍観者的に都民不在と言わずに、4党枠組みを望んだ市民の一人としてこの知事選に関わっていきたいと思う。
(2016年7月16日・17日加筆)
本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元の「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、憲法を守ろう、憲法を大切しよう、とりわけ平和を守ろう。絶対に戦争は繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう思いから、訴えを続けています。
あなたが政治に関心をもたなくても、政治の方はけっしてあなたに無関心ではいない。あなたが平和と戦争の問題に無関心でも、戦争は必ずあなたを追いかけてきます。けっして見逃がしてはくれません。少しの時間、お耳を貸してください。
一昨日の7月10日が第24回参院選投開票で、既にご存じのとおりの開票結果となりました。今回選挙の最大の焦点は、紛れもなく憲法改正問題でした。より正確には、アベ政治が投げ捨てた立憲主義の政治を取り戻すことができるか否か。憲法を大切にし、政治も行政も憲法に従って行うという当たり前の大原則を、きちんと政権に守らせる勢力の議席を増やすことができるか。あるいは、憲法をないがしろにして、あわよくば明文改憲を実現したいという勢力の議席を増やしてしまうか。
一方に憲法を護ろうという野党4党と市民運動のグループがあり、もう一方に改憲を掲げるアベ自民党とこれに擦り寄る公明・維新・こころの合計4党があります。この「立憲4党+市民」と「壊憲4党」の憲法をめぐる争いでした。おそらくは、この構図がこれからしばらく続くものと思います。
「壊憲4党」の側は徹底して争点を隠し、争点を外し、はぐらしました。それでもなお、客観的にこの選挙は改憲をめぐる選挙であり、選挙結果は壊憲4党に参院の3分の2の議席を与えるものとなりました。これは恐るべき事態と言わねばなりません。
改憲発議の権利は、今やアベ自民とこれに擦り寄る勢力の手中にあることを自覚しなければなりません。到底安閑としておられる状況ではない。憲法は明らかにこれまでとは違った危機のレベルにある、危険水域に達していることを心しなければならないと思います。
では、国民の多くが憲法改正を望んでいるのか。いえ、けっしてそんなことはありません。参院選投票時に何社かのメディアが出口調査をしていますが、その出口調査では有権者の憲法改正についての意見を聞いています。共同通信の調査も、時事通信もNHKも、いずれも「憲法改正の必要がある」という意見は少数なのです。「改憲の必要はない」という意見が多数です。これを9条改憲の是非に絞って意見を聞けば、さらに改憲賛成は少なくなります。「安倍政権下での9条改憲」の是非を聞けば、さらに改憲反対派が改憲賛成派を圧倒するはず。
ですから、明らかに、国民の憲法意識と国会の政党議席分布にはねじれが生じています。大きな隔たりがあると言わなければなりません。にもかかわらず、改憲勢力は今改憲の発議の内容とタイミングを決する権限を手に入れてしまったのです。
今回選挙のこのねじれを生じた原因は、ひとつは改憲派の徹底した争点隠しですが、それだけでなく選挙区制のマジックの問題もあります。改憲派と野党との得票数は、けっして、獲得議席ほどには差は大きくありません。
たとえば、立憲4党は、今回選挙で32ある一人区のすべてで統一候補を立てて改憲派候補と一騎打ちの闘いをしました。その結果、11の選挙区で勝利しました。
青森・岩手・山形・福島・宮城・新潟・長野・山梨・三重・大分そして沖縄です。
他の県は敗れたとはいえ、前回は31の一人区で、自民党は29勝したのですから、これと比較して共闘の成果は大きかったといわねばなりません。それだけでなく、この一人区一騎打ちの票数合計は2000万票でした。その2000万票が、立憲派に900万票、自公の壊憲派に1100万票と振り分けられました。議席だけを見ると11対21ですが、得票数では9対11の僅差。実力差はこんなものというべきなのです。
それでも、議席を争った選挙での負けは負け。長く続いた平和が危うい事態と言わざるを得ません。既に日本は、1954年以来、憲法9条2項の戦力不保持の定めに反して、自衛隊という軍事組織を持つ国になってきています。しかし、長い間、自衛隊は専守防衛のための最小限の実力組織だから戦力に当たらない、だから自衛隊は違憲の存在ではない、と言い続けてきました。
ところが、一昨年(2014年)7月1日アベ政権は、閣議決定で専守防衛路線を投げ捨てました。個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使を容認して、憲法上の問題はない、と憲法の解釈を変えたのです。憲法が邪魔なら憲法を変えたい。しかし、改憲手続きのハードルが高いから憲法解釈を変えてしまえというのが、アベ政権のやり方なのです。こうして、集団的自衛権の行使を容認して、自衛隊が海外で戦争をすることができるという戦争法を強行成立させました。
自国が攻撃されてもいないのに、一定の条件があれば海外に派兵された自衛隊が、世界中のどこででも戦争ができるという内容の法律ですから、「戦争法」。日本は、自衛のためでなくても戦争ができる国になってしまいました。この戦争法を廃止することが、喫緊のおおきな政治課題となっています。
今、このように憲法がないがしろにされているこのときにこそ、全力を上げて憲法を守れ、立憲主義を守れ、憲法の内実である、平和と人権と民主主義を守れ、と一層大きく声を上げなければならない事態ではないでしょうか。
本当に、今、声を上げなければ大変なことになりかねません。でも、声を上げれば、もう少しで国会の議席配分を逆転することも可能なのです。このことを訴えて、宣伝活動を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(2016年7月12日)
第24回参院選投開票の翌日。昨日と変わらぬ太陽がまぶしい夏の日。だが、今日の空気は昨日までのものとは明らかに違う。各紙の朝刊トップに、「改憲勢力議席3分の2超」という大見出し。この国の国民は、そんな選択をしたのだ。溜息が出る。
衆参両院とも、改憲4党(+保守派無所属)で発議に必要な議席は確保した。憲法改正発議の内容とタイミングは、彼らの手中にあることとなった。明日にも改憲発議があるという事態ではないが、憲法の命運に厳しい時代となったことを覚悟しなくてはならない。
この事態を決めた各党の実力と国民の政治意識とは、比例の得票数に端的に表れる。今回の各党の得票数は、ざっくりと整理して以下のとおり。これが現時点での各党の実力。議席の数ほどの差はない。
自民 2000万
民進 1200万
公明 750万
共産 600万
お維 500万
社民 150万
生活 100万
主要政党の得票数の推移は以下のとおりである。
自民の最近4回(07年・10年・13年・16年)の各得票数は次のとおり。
1700万→1400万→1800万→2000万
1986年選挙での自民票は2200万であり、95年選挙では1100万票である。自民票の浮沈は激しく、けっして安定してはいない。
民新(民主)の最近4回の票数は次のとおり。
2300万→1800万→700万→1200万
民進は、著しく実力を低下させた中で、今回は健闘したというべきではないか。
公明の最近4回の票数は次のとおり。
780万→760万→760万→760万
公明は04年選挙では862万票を取っていた。いまや、頭打ちの党勢といってよい。
共産の最近4回の票数は次のとおり。
440万→360万→520万→600万
共産は98年選挙では820万票を取った実績がある。このとき、自民1400万、民主1200万だった。その後の低迷期を抜け出つつあるというところだろう。
どの党も、獲得票数の増減は結構激しい。けっして、今回選挙が固定した勢力図ではない。次の選挙結果は予測しがたいのだ。
そう言って自らを励ますしかないというのが、全国的な選挙結果なのだが、例外もある。今回選挙でもっとも注目し、教訓を汲むべきは、沖縄を別にすれば、東北6県の選挙区選挙。いずれも1人区として4野党統一候補を擁立し、選挙共闘の成果は6議席中5議席の獲得となった。これに加えて、新潟・長野・山梨も野党が勝利している。
アベノミクスはこの地に繁栄も希望ももたらしていない。むしろ窮乏と中央との格差、農林水産業の衰退、先行きの不安をもたらした。政権のTPP推進は明確な自民の裏切りと映っている。震災・津波からの復興問題も原発再稼働も、すべてアベ政権不信の材料となっている。
東北のブロック紙、河北新報が、「<参院選>東北 自民圧勝に異議」として、次のように解説している。この解説記事がよくできていて、身に沁みて分かる。
【解説】第3次安倍政権発足後、初の大型国政選挙となった第24回参院選は、東北6選挙区(改選数各1)で野党統一候補が自民党候補を圧倒した。全国で与党圧勝の流れが形成される中、東北の有権者は「1強」に異議を申し立てた。
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故からの復興が道半ばの岩手、宮城、福島で与党が敗れたことは政権にとって打撃だ。政府が「復興加速」を説きながら、地域再生が進まない現実との乖離に、被災者は冷ややかな視線を向けた。
6選挙区で共闘した野党は、福島で現職閣僚を破ったほか、山形や岩手で終始リード。宮城で現職同士の争いを制し、青森では新人が現職を追い落とした。
野党は経済政策「アベノミクス」を徹底批判した。東北は少子高齢化の急加速で個人消費が停滞、景気回復の循環に力強さを欠く。先行き不安を巧みに突く戦術は東北の有権者に有効だった。
環太平洋連携協定(TPP)への攻撃も一定の効果を生んだ。日本の食料基地である東北には、TPPへの反発が根強く残る。野党は保守の岩盤とされた農村部に漂う不満の受け皿にもなった。
全国に先駆けて宮城で共闘を構築するなど、野党のスクラムは強固だった。安全保障関連法の廃止を求める学生、市民団体との連動も相乗効果を生んだ。
自民は秋田で独走したが、5県は厳しい戦いを強いられた。党本部は安倍晋三首相ら幹部級を東北に続々投入する総力戦を展開。各業界の締め付けを徹底したが、加速した野党共闘の前に屈した。
公示後、与党はネガティブキャンペーンを全開させた。旧民主党政権時代の失政をあげつらい、共産党への反感をあおる発言に終始。憲法論争も避けた。政策競争を軽視した「1強政治」のおごりを見透かされた面は否めない。…」
奥羽越列藩同盟の再現であろうか。秋田を除いて、その余の東北5県と甲信越は野党の勝利となった。選挙結果に絶望することなく、東北の闘い方に学びたいものとと思う。
(2016年7月11日)
参院選(7月10日)直後に、都知事選告示(7月14日)が迫っている。「出たい人より出したい人」は選挙に通有の名言だが、「出たい人」「出たがり屋」と「出したい人」「出てもらいたい人」とのマッチングがなかなかに難しい。
今回都知事選の「出したい人」は、条件が明確になっている。「4野党共闘の枠組みでの統一候補たりうる人」である。この枠組みははやばやとできあがった。しかし、その枠組みでの人選の進捗が見えてこない。
6月21日赤旗は次のように報じている。
「日本共産党の小池晃書記局長、民進党の枝野幸男幹事長、社民党の又市征治幹事長、生活の党の玉城デニー幹事長は21日、国会内で会談し、参院選で野党統一候補を実現した全国32の1人区で勝ち抜くとの目標を改めて確認するとともに、舛添要一知事の辞職にともなって行われる東京都知事選でも野党が共同して候補者を擁立することで一致しました。」
「会談では、…都知事選については、自民、公明が押し上げた都知事が2代にわたって政治とカネの問題で辞任しており、このような知事をつくり出してきた自民、公明の責任を追及し、都政を刷新する候補者を野党共同の枠組みで擁立することで合意しました。」
「小池氏は都知事選について『自民党と公明党の責任を追及し、それを刷新できる人物を野党共闘の枠組みで押し上げ、参院選と一体に勝利したい』と表明しました。」
4野党共同での候補者選びがどこかで深く進行しているのだろうが、あまりに深すぎて、都民の目には入ってこない。いたずらに日は過ぎて、告示まで1週間を切ってなお事態の混沌しか見えてこない。民進都連の野党共闘に背を向けたような拙劣な人選の報は目にするが、共産党の動きがまったく見えないのだ。
そんな中で、「出たい人」のまたまたのフライング宣言があったようだ。「またまたの」という根拠は、「東京をプロデュース」の下記URL「2014年都知事選総括」をよくお読みいただきたい。
http://toupuro.jimdo.com/2014年総括本文/
フライング宣言は、都知事選における4野党共闘枠組み無視宣言でもある。共闘の枠組みを無視して単独で出馬宣言をしておいて、「ついてくる者だけこの指止まれ」という独善的なやり方。野党共闘枠組みができていないときにはあり得る方式だろうが、「今、それを言っちゃあ、おしまいよ」ということになる。
そんな重苦しい空気の中で、石田純一の「場合によっては立候補」記者会見は清々しい印象ではないか。
各紙の報道はほとんど齟齬がない。代表的なのは以下のようなもの。
「俳優の石田純一さんが8日、東京都内で会見を開き、『野党の統一候補であるならば、ぜひ出させていただきたい』と野党の統一候補となることを条件に都知事選(14日告示、31日投開票)に立候補する意向を示した。『野党が統一候補を立てずに分散するというなら、私は降りて(出馬しないで)市民の側に寄り添いたい。自分は「出たい」というよりも「野党統一候補が必要」という考え。万が一、野党統一候補が決まるなら、それがいい』と話し、それぞれ候補者の調整に動いている野党各党に呼びかけた。」(毎日)
また、「石田は、『自分が統一候補じゃなきゃ嫌だというわけではありません』と説明したうえで、『現状、野党がバラバラでは(与党に)勝てない。思いを力に変換できない。少しでも力を結集したい』と話した。」「現状、政党からの出馬要請は『ないです』とした。」「自身が統一候補になれなかった場合や、別の人物が統一候補となった場合は『喜んで応援する』とした」とも報道されている。
石田は野党共闘の枠組みでの進展がないことに業を煮やして一石を投じたのだ。しかも、相当の覚悟をもってのこと。野党共闘の枠組みを大切にし、姿のぼやけてきた共闘の再構築をうながそうとの真摯さがよく見てとれる。好感の持てる姿勢ではないか。
それにしても、分からないのが民進都連だ。自分が共闘の中心に位置して、人選は自分が先行してよいと思っている様子なのが解せない。都議の数では共産党の後塵を拝している民進ではないか。その民進が、どうして長島昭久や松沢成文など、4野党共同で推せるはずもない候補者の人選をするのか。そして、共産党のダンマリも解せない。今は、4野党責任者の協議の進行が喫緊の課題だ。このままでは、参院選の野党共闘の雰囲気にまで翳りを落としかねない。
「後出しジャンケンが勝ち」は、歴代都知事選に限っての格言。なるほど、立候補表明の候補者について、メディアはいっせいに取材し書き立てる。立候補直後の数日は「時の人」として話題になる。その熱気が冷めないうちに投票になだれ込みたいという戦略。政策ではなく、知名度や話題性での投票行動を期待しての後出し。4野党統一候補は、作戦としての後出しではなく、共闘の枠組みを大切に満を持しての選任でなくてはならない。
先んずればフライングと言われ、遅れれば邪道とされる。出たがれば叩かれ、出たくない振りをすれば、熱意がないと言われる。知名度があっても経験がないと言われ、経験あっても当選は無理だといわれる。ほんに、「出たい人」と「出したい人」とのマッチングは難しい。
くすぶり続ける都知事選統一候補の選任。東京にいるからの思いであろうか。せっかくの参院選の野党共闘態勢に水を差しかねない。12年選挙・14年選挙の、二の舞・三の舞という事態はもう見たくない。
(2016年7月8日)
あと3日。参院選最終盤に至って、憲法問題の争点化が浸透してきた。
私は、先に今回参院選の勢力関係の骨格を、「右翼アベ自民とこれを支持する公明が改憲勢力を形づくり、左翼リベラル4野党連合が反改憲でこれに対峙する。この両陣営対決のはざまに、おおさか維新という夾雑物が存在するという2極(+α)構造」と描いた。これをもっと単純化すれば、「立憲4党」対「壊憲4党」の争いともいえるのではないか。
「立憲4党」は中野晃一さんのネーミング。なるほど、民進・共産・社民・生活の4党共闘の核になっているものは、明文改憲阻止というよりは立憲主義の回復というべきではないか。アベ政治は既に立憲主義を破壊しつつある。この現実を糺し修復しなければならないという喫緊の課題での共闘。このネーミングの方が緊迫感ないし切実感がある。
これに対する自民・公明・おおさか維新・こころの4党を、大手メディアが「改憲4党」と呼ぶようになっている。「改憲4党は、非改選議席と併せて参院の3分の2の議席がとれるだろうか」との関心の寄せ方。しかし、実は「これから憲法に手を付けます」ではなく、既に憲法の一部を壊しているのだ。その意味では、「改憲」よりは「壊憲4党」と呼ぶのにふさわしい。
大日本帝国憲法下での立憲主義と日本国憲法の下での立憲主義とは大きく異なる。この違いは、権力からの個人の自由をメインの理念とする「近代憲法」と、資本主義の矛盾を克服する福祉国家理念をもつ「現代憲法」との違いに対応したもの。権力が護るべきとされるものの中に、平和主義・民主主義・法律の留保なき人権・社会権・参政権の保障を含むか否かなのだ。
憲法を頂点とする法体系の保護がなければ、強い者勝ちになる不公正に歯止めをかけ、弱い者の立場を護る思想に貫かれているのが、現代憲法としての「日本国憲法」である。改憲を阻止する、憲法を護る、憲法を活かす、立憲主義を取り戻すとは、結局のところ、法の保護なくば弱い側の立場を守ろうということなのだ。「立憲」4党の「立憲」は、この立場を指す。
既に壊されている憲法の理念は、まずは平和である。その最大のテーマは戦争法(安保関連法)であり、次いで表現の自由などの精神的自由権。そして、労働や福祉、さらには教育も民主主義もある。
この二つのブロックの中の各政党の個性はひとまず措いて、「立憲ブロック」と「壊憲ブロック」のどちらに投票すべきか。立場によって分かれる。分かり易いではないか。迷う必要はなさそうだ。
もし、あなたがこの社会の強者の側にあるなら、つまりは大企業の経営者側で、労働者をできるだけ安く使うことを望んでおり、労働者の首切りは自由な方がありがたいと思う立場であるなら、また株や債権の売買でぼろ儲けをしていて、軍事緊張が高まれば武器が売れて景気がよくなるとほくそ笑む立場にあるなら、所得税も法人税も相続税もできるだけ小さくして、累進性をなくし、福祉も教育も自己負担で自助努力が原則の国を望むなら、堂々と壊憲4党に投票すればよい。
しかし、あなたが働く者として首切り自由はとんでもないとし、時間外手当のカットも不当と考えるなら。また、軍事緊張も戦争もゴメンだというのなら。所得税や相続税は累進性を強化すべきが実質的公平に合致すると考え、福祉も教育も本来は国が負担すべきが望ましいとお考えなら、壊憲4党に投票してはならない。農業や漁業の従事者も、中小零細企業家も同じだ。うっかり自公への一票は、自分の首を絞めることとなる。
さらに、仮にあなたがこの格差社会の不合理を身をもって体験している立場にあるなら、あなたの一票は特別な意味を持つ。政治とは、誰の立場にたって政策を進めるかのせめぎあいだ。この社会は利害対立するグループで成り立っている。総じて、強い立場の者と弱い立場の者。強い者は、自分たちが支配する現行の体制を維持し続けようと試み、支配を受けている者がこれに抵抗を試みているのだ。税金のとりかたも使い方も、「強い者・富める者」と「弱い者、貧しき者」との綱引きの結果として決まっている。実は、万人に利益となる政治は幻想であって、どちらの層の利益になるかが、熾烈に争われているのだ。
日本国憲法は、「強い者・富める者」の利益を抑制して、「弱い立場の者、貧しき者」の利益を擁護すべきとする理念を掲げている。飽くまで理念に過ぎない「弱い立場の者、貧しき者」の利益を実現する政治は、選挙によって初めて形づくられる。理念を眠り込ませることなく現実化するのが選挙という機会である。
政治を変えようと切実な声が選挙に結実すれば、医療も教育も、介護も保育も福祉も、すべてを国の負担で行う制度の実現が可能なのだ。格差と貧困を克服する社会の実現は、たとえ時間はかかろうとも、けっして夢物語ではない。その高みに至る道は、陰謀や血なまぐさい暴力によって切り開かれるのではない。あなたのもっている選挙権が唯一の武器だ。言論による説得と、自覚的な一票の積み重ねによって、もっと住みやすい社会を実現できる。アベ政治の継続で利益を得ている者たちに欺されてはならない。
まずは、立憲4党を勝たせることだ。憲法改正を阻止するだけでなく、既に損なわれている憲法の理念を修復して、弱い者に暖かい手を差し伸べる政治を実現しなければならない。壊憲4党に、分けてもアベ自民に投票してはならない。
(2016年7月7日)
下記は、醍醐聰さんの昨日(7月4日)付ブログ。タイトルが、「安倍政治批判、野党共闘、日本共産党の政治姿勢について」というのだから、話はこの上なく大きい。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-e4ee.html
冒頭に、「(以下は昨夜、Aさんに送ったEメールである。このブログへの転載に当たっては一部、表現を加除した)」とある。この「メールの送り先のAさん」が私だ。醍醐さんのブログは私信ではなくなったのだから、返信ではなく、ブログへの感想を書きたい。
メールをいただいたのは、「昨夜」(3日夜)ではなく、7月4日未明の4時40分のこと。この時刻のメールには、さすがに驚く。「馬力の違いを痛感」せざるを得ない。
私は、ブログ「憲法日記」を毎日書き続けている。第2次安倍内閣存立の時期と重なるこの3年余。醍醐さんご指摘のとおり、「護憲への熱意と安倍政治への徹底した批判」で貫かれているはず。そして最近は、参院選に焦点を当てている。今が、日本国憲法試練の時と意識してのこと。市民運動が背中を押してできた野党共闘を評価し、明文改憲を阻止して「立憲主義を取り戻す」運動に賛同してエールを送る立場を明確にしている。
その毎日の私のブログを丁寧に読んでいただいての醍醐さんのご意見である。私のブログに対する「異論」の提起であるとともに、護憲・リベラル派の言論への物足りなさや、危惧の表明ともなっている。そして革新運動の体質や姿勢についての問題提起でもある。
私信としてのメールでは小見出しはなかったが、醍醐ブログでは、次の小見出しが付いていて、全体の文意を把握しやすい。
有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?
「野党共闘」の内実を問う
日本共産党の中途半端な自衛隊論
内実が伴わない「立憲主義を取り戻す」の公約
異論と真摯に向き合う姿勢こそ
この小見出しをつなぐ、ご意見の骨格は次のようなもの。
「有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?」についての分析が不十分ではないか。だから、的確な運動論が展開できていない。「野党共闘」に対する手放しの評価はできないし、共闘の中心に位置する日本共産党のポピュリズムにも危惧を覚える。とりわけ、共闘の共通目標とされている「立憲主義を取り戻す」というスローガンは無内容きわまるものではないか。このような事態で、どうしてもっと異論が出てこないのだろうか。湧き起こらねならない多様な論争が起こらないこの状態こそが何よりも問題ではないか。」
おそらく、醍醐さんがもっとも言いたいのは、次のことだ。
「今の野党共闘陣営(日本共産党も含め)には、借り物ではない、自分の言葉で、意見が異なる人々と対話する能力が決定的に欠けていると日々、感じています。」「私が指摘したような疑問、異論が政党内や支持者内から全くといってよいほど聞こえてこないことに大きな疑問、気味悪さを感じています。」「異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?」
私のブログの論調に、「意見が異なる人々と真摯に対話し説得しようとする」姿勢と能力の欠如を感じてのご指摘。これが、私だけでなく野党共闘陣営全体の欠点となっているのではないか。そのことが、護憲や革新の運動が大きくならない最大の原因であろうとのご意見なのだ。思い当たり、肯くべきところが多々ある。
以下に、醍醐さんに触発された何点かについて、私見を述べておきたい。
醍醐さんは、「安倍批判の言葉の強さではなく、多くの人の心のうちに届く言葉を選ぶことが大切だ」と示唆する。そして、多くの人の心のうちに届いて説得力を持つ言葉を選ぶためには、「有権者はなぜ安倍政治を支持し続けるのか?」をしっかり把握する必要があるとされる。民主主義がポピュリズムに堕しているから、国民が愚昧だから、という切り捨ては解答にならず、問題解決の道は見えてこない。
醍醐さんはこう言う。
「消極的な安倍支持者の主な支持の理由は、次の2つではないかと思います。
?安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない。
?安倍政治に幻想を持っている。」
確かに、「安保法、憲法改定、消費税増税、原発再稼働、沖縄基地問題など、どれをとっても過半の有権者は安倍政権の中核的政策を支持していない」。にもかかわらず、内閣支持率は落ちない。それは、安倍政権への主な支持の理由が、「?安倍政治に幻想を持っている」よりは、「?安倍(自民党)政権に代わり得る受け皿が見当たらない」にあるからと言わざるを得ない。
2009年の民主党政権誕生は圧倒的な民意に支えられた画期的な展開だったが、その失敗の印象が大きい。「自民党政権はあれよりマシ」、「もう、チェンジのリスクをとりたくない」というのが、「ポスト民主党政権」のトラウマとして国民意識に定着している。だから、現政権への国民の支持は消極的なものだが、それにも拘わらず現政権に代わるべき受け皿としての認知されることへのハードルは高い。果たして、現在の「野党共闘」はそのような内実をもったものになっているか。
醍醐さんは、端的に「冷めた見方」だという。私も、野党の共闘は緒についたばかり、政権を担う受け皿としての成熟度が十分とまでは思わない。しかし、改憲阻止という喫緊の課題における現実的な対応としてはこれ以外にはなく、また大きな役割を期待できるとも思っている。裏切られる可能性もなくはないが、このたびの野党共闘は幅の広い市民運動が土台にあってつくり出された側面が大きい。今後とも、市民運動が政党を後押ししながら「野党+市民」の運動が展開される展望をもつことができる。野党の一部が裏切るか否か、それは国会内外の運動の進展如何にかかっていると思う。
なお、正直言って、立ち止まって考えている余裕はないのではないか。今回選挙に、市民主導で野党共闘が実現したことは、「ようやく間に合ってよかった」と、明文改憲阻止のために積極評価したいと思う。醍醐さんが提唱される「市民が主体的に無党派の候補者を擁立し、それを既存の野党も共同推薦するという形」は、やや違和感を否めない。市民と政党を、あまりに開きすぎた距離ある存在ととらえている印象。また、私は小林節グループの運動には批判的な意見をもっている。
日本共産党の自衛隊論については、醍醐さんのご指摘は、かつては常識的なものだったと思う。「ポピュリズムが透けて見えます」というのは、そのとおり。しかし、選挙は勝たねば意味がないという面を否定し得ない。私は自衛隊違憲論だし、共産党もそのはず。それでも、「安保関連法の違憲性を主張しながら、法を施行する際に武力行使の中核を担う自衛隊の違憲性は棚上げするという議論」は、あり得ると思う。現に、昨年の安保法(戦争法)案反対運動は、「自衛隊違憲論者」と「専守防衛に徹する限り自衛隊合憲」論者の共闘として発展した。
私は、個人崇拝も党崇拝もしないが、「共産党の理性はどこまで劣化するのか、計りかねます」というほどには悲観的でない。党の内外からの批判の言論が大切なのだと思う。その意味では、醍醐さんのご意見は、私にではなくむしろ日本共産党に向けられたものとして貴重なものでないか。
醍醐さんのブログの最後は、次のとおりの、革新派の体質問題である。
「上のような疑問を向けると、必ずと言ってよいほど『利敵行為論』が返ってきます。宇都宮選挙の時も体験しました。しかし、異論、批判に真摯に向き合わない体質が国民と溝を作る要因であることに、なぜ気づかないのでしょうか?「今は○○が大事だから」という物言いで、組織の根深い体質にかかわる問題や自らの政策に宿る未熟な部分を直視しない態度を、いつまでとり続けるのでしょうか?」
これは、一面は私への苦言である。私は、「改憲派に議席の3分の2をとられかねない緊急事態なのだから、明文改憲阻止勢力の共闘が大義」と言っているのだから。しかし、その私も、宇都宮選挙を担った「市民グループ」の質の悪さや未熟さと、これを推した日本共産党の無責任を身をもって経験している。
「大所高所」論やら、「大の虫・小の虫」論、「利敵行為」論、さらには「今は○○が大事だから」論のいやらしさは身にしみている。「組織の根深い体質にかかわる問題」や「自らの政策に宿る未熟な部分」を直視してもらいたいという願望は人一倍強い。その私も、場面場面でのご都合主義に流されかねない。
醍醐さんは、類い希なる原則主義者として、その私のご都合主義に警鐘を鳴らしているのだ。こういう人の身近な存在は、得がたい好運というほかはない。
「改憲派に議席の3分の2をとられかねない緊急事態なのだから、明文改憲阻止勢力の共闘が大義」と今の私は考えているが、「今は○○が大事だから」論のご都合主義に毒されているのかも知れない。選挙の結果が出たあとも、秋の臨時国会も、このあとに続く改憲派と護憲派のせめぎあいを、醍醐さんの指摘の視点をもって見続けたい。
(2016年7月5日)
シンゾーよ。汝との契約に従って、民衆を支配する要諦を教えんか。深く心に刻んで、夢忘れることなかれ。
何よりも、分断して統治せよ。これこそが支配の鉄則であると知れ。
可能な限り被治者を孤立した砂粒の状態に置け。砂粒は無力なのだ。砂粒から脱した民衆の結束を恐れよ。民衆の連帯を警戒せよ。
民衆が小グループで互いに敵対する状態が望ましい。常に、被治者の不和を利用せよ。徹底して不和に付け込め。不和がなければつくり出せばよい。
野党の協力は、危険極まりない。無党派市民との連携あればなおさらだ。けっして、これを捨て置いてはならない。選挙共闘に成功体験をさせてはならない。極度に恐れよ。あらゆる手段をもって、野党の共闘に悪罵を投げつけよ。
共闘の妨害に、手段を選んではならない。利用できるものはなんでも利用せよ。躊躇すれば、手遅れになる。共闘を恐れ、うろたえているところを民衆に見透かされぬよう、心しつつ徹底して共闘に楔を打ち込め。
野党の選挙協力を「野合」と批判せよ。野合とは、まことに品位に欠けた言葉だが、汝が口にするにふさわしい。
この場合のキーワードは、「反共」だ。民衆の中に潜む漠然たる反共意識を煽れ。これを刺激して、最大限に利用せよ。反共意識の根源は、「天子に弓引く不敬の共産党」だ。かつては共産党のシンパとみられること自体が恐るべき不幸を招いた。保身をこととする民衆にとって共産党に近づくことはタブーだった。企業が支配する今の社会においても、漠然たる民衆の反共意識はなくなっていない。これを徹底して利用するのだ。
共産党への漠然とした民衆の不安に付け込んで、野合との批判は、主として民進党とその支持者に向けよ。
「破防法適用団体の共産党」「自衛隊を違憲という共産党」「野党共闘は共産党の主導だ」「民進党には、もれなく共産党がついてくる」「気をつけよう。暗い夜道と民進党」と叫べ。「共産党主導の無責任な野党統一候補にはまかせられない」と、絶叫せよ。総理としての品位に欠けるだの、理屈が通ってないだのという批判は、無視せよ。勝てば官軍なのだから。
こうして、野党共闘を崩すことができれば、念願の改憲への道が開けてくる。堂々の国防軍をつくって軍事大国へ大きく一歩を踏み出せるではないか。そのときこそ、人権だの民主主義だの、七面倒なことに拘泥しなくて済む時代が到来する。汝が、全き権力者となる。行政府の長だけでなく、立法府の長をも兼ね、さらには統帥権をも手にすることになるのだ。
シンゾーよ。もう一度、支配の要諦を確認しよう。
分断して統治せよ。楯突く政党を各個撃破せよ。擦り寄る政党は利用し尽くせ。限りなく弱小化した政治集団を、最後は一党独裁に吸収せよ。その成功の理想型が、大政翼賛会であり、ナチスではないか。
富国強兵の経済政策によって肥大化した精強の国防軍が、翼賛議会の満場一致をもって海外出兵を決議するそのときにこそ。汝のいう「戦後民主主義からの脱却」が実現し、「美しい日本を取り戻す」ことができたことになる。
そのときだ。シンゾーよ。汝と私の、血の契約が成就することになる。汝は政治家として名をなす。私は戦争と大量の殺戮を望むのみ。私の名は死に神。
シンゾーよ。我が教えを銘記せよ。今こそ、大願成就への岐れ道。野党共闘に楔を打ち込んで、改憲への道を切り開くのだ。
(2016年6月27日)