安倍晋三は「私を右翼の軍国主義者と呼びたいなら呼んでいただきたい」と言った。私は、右翼も軍国主義者も大嫌いだ。しかし、保守政治家一般を毛嫌いしているわけではない。むしろ正統保守には、しかるべき敬意を払ってきた。舛添要一という人物にも、それなりの評価を惜しまない。石原慎太郎に比べては気の毒だが、あんなものよりずっとマシなのは確かだと思ってきた。
しかし、時に評価は揺れる。オヤオヤこれは見損なったかと思わざるを得ないこともある。たとえば、昨日(3月15日)の都知事定例記者会見。下記のURL映像をご覧いただきたい。
http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160315.htm
全体で14時から14時22分までの短いものだったが、「週刊金曜日として取材のフリー記者」氏が質問している。知事は、この記者の質問をはぐらかすことなく答えている。質問と回答の全部の映像が公開され、文字情報としても起こされている。この透明性には好感が持てる。しかし、その回答の内容には、落胆せざるを得ない。舛添知事は、「日の丸・君が代」問題に関しては、何も知らない。部下から何も教えられていない。そして、何も考えようとしていない。
記者の質問のテーマの一つが、「日の丸・君が代」関連処分に関連する服務事故再発防止研修の問題だった。「過度の『研修』強要は、それ自体が思想・良心の侵害であり、イジメに等しい人権侵害ではないか」。それが、記者の問題意識だった。しかし、残念ながら知事はこの問題自体を理解できていない。さらに、記者とのやり取りの中で、「日の丸・君が代」強制問題に関する認識の浅薄さや、誤謬をさらけ出した。
関連の質疑応答部分を以下に摘記する。
【記者】知事の人権認識について伺いたいと思います。知事は昨年10月のヒューマンライツ・フェスタという人権を考えるシンポジウムに出席されまして、人権尊重都市東京とか、価値観の多元性の大切さということを説かれ、この記者会見の席でも同じ趣旨のことを何回か言われていると思います。それを踏まえて伺うのですけれども、…都立学校の卒業式、入学式の問題なのですが、不起立などの職務命令に違反した教職員に、再発防止研修というものが行われています。これは、なぜ不起立だったのかということを反省させるような研修でございまして、2015年度の場合は(一人の人に)6回も行われているのです。これはいじめのような、人権を侵害するものではないかと思うのですけれども。このことについて2004年には東京地裁が、『繰り返し何回も自分の非を認めさせるような研修を受けさせるのは違憲の可能性がある』という決定を出しておりまして、やはりこういう再発防止研修も、人権という観点から実態を調査していただいて、例えば、処分された先生に話を聞くというような、そういうお考えはないか、お答えをお願いします。
【知事】国旗・国歌の問題なのですけれども、これもいつもお話ししていますように、日本国憲法のもとにおいてきちんと制定された国旗・国歌の法律があります。したがって、それは法律違反をしていいということにはならないと思います。そこから先、どういう形でそれをやるかというのは、教育庁を含めての大きな方針だと思いますので、そこは、私は教育庁の方針でしっかりやってもらって、やはり教育の場にいる者が法律を平気で違反するというのはどうなのかと思うので。
【記者】そこをいつもおっしゃるのですが、国旗・国歌法というのは、起立しなければいけないとか、歌わなければいけないということは一切決めていないのです。単に日の丸を国旗にします、君が代を国歌にします、ということしか決まっていなくて、要するに強制するという法的な根拠はないのです。
それで伺いたいのは、何回も何回も同じようなことを繰り返して、反省させるというあり方が、教育の場にふさわしくない、教師へのいじめではないかということなのです。
【知事】そこを何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。
「反知性の極右知事」から「知性豊かな学者知事」に代わって、事態は「強権強行の膠着」から抜け出て「対話による解決」への展望が開けるものと希望をもった。ところがどうも、「学者知事の知性」は買い被りだったのかも知れない。舛添知事は、思想・良心の自由にも、個人が国家をどうとらえるかという価値観の多元性も、行政の教育への支配の謙抑性にも、ほとんど関心をもっていないのだ。国旗国歌法というわずか2か条の法律にも目を通したことがない。「国旗国歌法には、『日の丸・君が代』強制を正当化する根拠条文が、何か書き込まれているに違いない」と信じているようだ。恐るべき権力者の無知である。
しかし救いは十分にある。舛添知事は性格的に傲慢ではないようなのだ。「(研修の名での呼出し嫌がらせ)を何回やっているのかというのは私はつまびらかに知りませんので、それは事実を少しまず調べてみたいと思います。」と謙虚に言っている。是非、誠実に調査してもらいたい。その上で、的確な判断による人権侵害の一掃を願いたいものだ。
実は、都教委は「思想転向強制システム」と呼ばれた処分の累積加重方式実行に着手していた。これは、毎年の卒業式・入学式のたびに繰り返される職務命令違反について機械的に懲戒処分の量定を加重する、おぞましい思想弾圧手法である。心ならずも、思想良心を投げうって起立斉唱命令に屈服し、「日の丸・君が代」強制を受容するに至るまで、懲戒処分は順次重くなり確実に懲戒解雇につながることになる。
最高裁は、さすがにこれを違法とした。以来、原則として減給以上の重い処分はできなくなった。すると、猛省しなくてはならないはずの都教委はこれに代わる嫌がらせとして、服務事故再発防止研修を強化し、繰りかえしの呼び出しという弾圧手法を編み出したのだ。この点についても、よく調査していただきたい。
さて、就任以来2年を経て、「日の丸・君が代」問題を何も知らない、知ろうとしない知事に、どうすれば「日の丸・君が代」に関心を向けさせることができるだろうか。その一つの手段として、東京オリンピックパラリンピックの機会の最大限利用があろう。大いにこのビッグチャンスを利用しなければならない。
知事は、オリンピックの実施にはことのほか熱心なようだが、オリンピック憲章には、次のような美しい文言が並んでいる。
「オリンピズムの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。」「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。」「スポーツの実践はひとつの人権である。」
人間の尊厳・人権・差別の解消・友情・連帯・フェアプレー…。まさか、東京の教育現場が偏狭なナショナリズム強制の場となり、400年前のキリシタン弾圧と同じ思想・良心弾圧が行われていようとは。オリンピックのために来日する世界の人々が、知れば驚くことになるだろう。
東京オリンピック・パラリンピックは、東京都教育委員会の強権的愚行を世界に訴える絶好のチャンスである。知性ある世界の人々に、日本の首都東京で、愛国心涵養教育の名のもと、「日の丸・君が代」の強制が行われ、既に474件もの懲戒処分が行われていることを広く知らせよう。最高裁が、一定の歯止めをかけているのに、都教委の教員に対する人権侵害はいまだに終息しないのだ。
東京は、思想良心の自由を圧殺する野蛮都市である。価値観の多様性を認めず、「日の丸・君が代」強制を強行している思想・信条・良心・信仰の弾圧都市である。「日の丸」とは、ナチスのハーケンクロイツと同様の、皇国日本の全体主義と軍国主義のシンボルである。「君が代」とは、神である天皇統治の永続を願うアナクロニズムの象徴である。キリスト教徒やイスラム教徒にとって、その斉唱の強制は苦痛きわまりないのだ。現実にすくなからぬ教員が、自分の信仰ゆえにこの歌を歌えないとして処分を受けている事実を知ってもらいたい。
日本の民主主義も人権意識も、この程度のものなのだ。東京オリンピックに集う各国の人々に、オリンピック期間中に氾濫する「日の丸・君が代」が、東京都の全教員に強制されるという異常な事態であることをよく認識していただきたい。世界の知性と国際世論で、東京に抗議の声を集中していただきたい。思想・良心・信仰の自由、人権という普遍的な価値のために。
(2016年3月16日)
東京君が代裁判4次訴訟のこれまでの法廷では、毎回原告一人と代理人弁護士一人が各意見陳述をしてきた。単に書面を提出して各裁判官に目で読んでもらうだけでなく、真摯さに溢れた生身の声や息遣いを裁判官の胸に響かせたいという思いからである。法廷での意見陳述を許すか否かは、裁判所の裁量にかかっている。これまでのところ、裁判所は原告側の申し入れを容れ、真面目に聞く耳をもっているという姿勢を示している。
原告代理人の意見陳述は、長い準備書面のエッセンスを効果的に裁判所に伝えることにある。3月4日期日の原告第7準備書面のテーマは多岐にわたるが、その冒頭に、憲法の根底にある価値多元主義についての論述がおかれている。多元的な価値観尊重の態度涵養は教育の本質とも関わる。とりわけ、国家と個人の関係についてのとらえ方は、最も憲法が関心をもつテーマとして価値観の多様性尊重が最大限に重視されなければならない。
にもかかわらず、都教委による教育の場での国旗国歌への敬意表明の強制は、この価値多元主義に真っ向から反する、という主張である。
このことを白井剣弁護士が、下記のように、裁判官に穏やかに語りかけた。説得力に富んでいると思う。これが裁判官の胸に響かぬはずはない…と思うのだが。
(2016年3月6日)
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国旗国歌は起立斉唱して敬意を表す対象であると生徒に教えることの意味について,7分間のお時間を頂戴いたします。
今から半世紀前のことです。1968年8月20日夜,チェコスロバキアの首都プラハに7000台の戦車と62万人の軍隊が進入しました。チェコ事件です。プラハの春と呼ばれた民主化の動きが一夜で制圧されてしまいました。価値観の多元性が否定されました。ソ連共産党が正しいと決めたことだけが正しいとされる社会になりました。
その2か月後の1968年10月。メキシコでオリンピックが開催されました。チェコスロバキア選手団のなかに女子体操選手ベラ・チャスラフスカがいました。64年の東京オリンピックのときには華麗な演技が評判になりました。メキシコオリンピックでは彼女は4つの金メダルと銀メダル1つをとりました。優勝するたびに「ベラ!。ペラ!」とその名を呼ぶ声が観客席から沸きあがりました。
床運動ではソ連の選手と同点優勝になりました。ふたりが並んで表彰台に立ちました。チェコスロバキア社会主義共和国とソビエト社会主義共和国連邦の2枚の国旗がならんで掲揚台に上がりました。ふたりとも国旗に向かって真っすぐに立っていました。やがてソ連の国歌が演奏されました。演奏が始まると,チャスラフスカは首を右に曲げ,国旗から顔を背けました。ソ連国歌の演奏のあいだずっと,その姿勢をとり続けました。ソ連の国旗と国歌に敬意を表することができなかったのです。演奏が終わると彼女は国旗に向き直りました。そして満面の笑顔で観衆の拍手に応えました。その姿は,衛星中継で世界中にテレビ放送されました。多くの人々に感銘を与えました。
もしもこのとき,被告と同じ主張をする人がいたら,どうだったでしょうか。
「自国のものであれ,他国のものであれ,国旗・国歌に敬意を表しないのは,周囲から批判を受ける行動である」
そんなことを言う人は,逆にその人が世界中から非難を受け,笑い者になったでしょう。この裁判で被告が主張していることはそういうことです。
被告の主張を少し読んでみます。
「もし国(くに)の象徴である国旗・国歌を尊重しないような態度をとるならば,国際社会において…他国を尊重しない国民とみられかねないのであって,…世界の人々が信頼と尊敬を寄せてくれるかは極めて疑問であろう。国際社会においては,その歴史的な沿革がいかなるものであろうとも,自国のものであれ,他国のものであれ,国旗・国歌は尊重されるべきものであるとの共通認識が存在することは周知の事実である」(答弁書121頁)
国旗はただのハタではありません。国歌はただのウタではありません。そのハタとウタの向うに,国家の存在をひとは見るのです。聴くのです。
国旗国歌が象徴する国家は抽象概念ではありません。まさに歴史の事実を,正と負の両面の遺産として背負った,具体的存在です。国旗国歌の向うに何を見て何を聞くのか,そして国旗国歌にどう向き合うのかは,ひとそれぞれです。国家にどう向き合うのかという価値観の問題だからです。
教育現場では価値多元性が大事にされなければなりません。およそ価値観をめぐる教育課題は,生徒が自ら考えて自ら選び取ることこそが肝要です。
10・23通達より以前の都立学校では,国歌斉唱の際,起立斉唱するかどうかは個人が判断すべきことであり,静かに着席しても不利益を受けることはないというアナウンスが多くの学校でおこなわれていました。これもまた価値多元性を大事にする姿勢の現れでした。
被告はこう主張しています。
「都教委は,将来,児童・生徒が,国歌斉唱をする場に臨んだとき,一人だけ,起立もしない,歌うこともしない,そして,周囲から批判を受ける,そのような結果にならないよう指導すべきと考え,国旗・国歌の指導を行ってきたのである」
立たないことが間違いであると決めつける,このやり方は「価値多元性の否定」です。10・23通達は「価値多元性の否定むを都立学校に持ち込んだのです。
論理的に考える機会を与えるのではありません。立って歌うという機械的行動と教職員の懲戒処分とをセットにして,不起立不斉唱は「周囲から批判を受ける」と教え込む。国家について生徒に考えさせるのではなく,「国家象徴に敬意を表しなければならない」というショートカットを生徒の心のなかに成立させることになります。こんなものは教育ではありません。まったくの別物です。
駒村圭吾慶應大学教授は意見書のなかでこう述べでいます。
「本来,複雑な検討や広汎な考察が必要な『国家』の問題を,教育現場のいろいろな局面で丁寧に教えていくことを誠実に施行していくこととは別に,また,生徒がそのような課題をゆっくりとしかし誠実に考察していく前に,まずは敬意の対象であることを身体に教え込むのは,思考停止あるいはショートカットを生む」
2003年10月23日以来,都立学校の多くの教職員たちが葛藤し脳み苦しんできました。長い教職員人生のなかで,懲戒処分で脅かされるの機会が毎年かならず訪れてくることの重みと辛さは,想像をはるかに超えるものがあります。処分が重いか軽いかにかかわらず,重く辛い試練です。
それでもなお起立斉唱命令には従えないという思いに教職員たちは駆られます。
それは,価値多元性こそが教育の本質的要請であると思うからです。起立斉唱しなければならないという特定の価値観を生徒たちに教え込んではならないという教職員としての職責意識があるからです。
10・23通達が出されてから12年余りが経過しました。都立学校における価値多元性の否定をいつまでも続けていいものかどうか。どうか裁判所にはあらためて慎重にお考えいただきたいのです。
そのことを申し上げて本日の代理人弁論といたします。
昨日(3月4日)、「東京君が代裁判」第4次訴訟法廷での原告陳述を紹介したい。
毎回の法廷での原告陳述が、例外なく感動的なものである。それぞれが、個性溢れる語り口で教師としての使命感を述べ、その使命感に照らして、国旗国歌(あるいは日の丸・君が代)強制がなぜ受け容れがたいかを語っている。そして処分の恫喝に抗して、煩悶しながらも信念をどう貫いてきたかが痛いほどよく分かる。すべての原告の一人ひとりに、記録に値する歴史があるのだ。
私は、その人たちの代理人の立場で、歴史に立ち会っているのだという思いを強くする。さすがに裁判官もよく耳を傾けてくれているとは思うのだが、さてどこまで胸の内に響いているのだろうか。
本日ご紹介する陳述は、典型的な、平和を願う立場から「日の丸・君が代」の強制には服しがたいとする教員のものである。固有名詞は一切省いたことをお断りする。
(2016年3月5日)
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私は理科(物理)の教員です。それまで勤めていた民間企業を辞めて、予備校の講師を経ての仕事でした。新採として赴任した学校は、勉強が苦手でやんちゃな生徒の多い工業高校、それも、特に手のかかる大変な生徒の多い高校でした。喫煙、暴力、万引き等も頻繁にありました。しかし、次第に、経済的・学力的・境遇的に恵まれていると言えない多くの生徒が、それでも一生懸命一人前の大人になるために頑張っている、そんな彼らの人生に少しでも関わり寄り添うことができ、最後は「ありがとう」とさえ言ってもらえるこの高校の教員という仕事が、なんとやりがいのある責任ある仕事であるか、日に日に理解することができるようになりました。
1991年に「湾岸戦争」が起こったとき、「教え子を再び戦場に送るな」の言葉を聞くようになりました。そして次第にその言葉が、自分の教員としての価値観の中で大きな位置を占めるようになっていきました。
幼い頃から父母に、特に海軍に行った父に戦争の話を聞かされ、その最後には必ず「おまえの時代にはこんなことがないようにしていくのだよ」と繰り返し言い聞かされていたことが、目の前の生徒に対して自分が行う教育活動と結びついていったのです。そんな私にとって「日の丸・君が代」は、若者を戦争に駆り立てたものの象徴であり、再び若者の心を偏狭な「愛国心」へと導くことのないよう注意深く見張って行かなくてはならないものなのです。
敗戦直後には、戦争を深く反省し平和憲法がつくられましたが、その後の東西対立の時代には日本の再軍備が静かに始まりました。1953年には「教育の場で『愛国心』を育てる」という意味の日米の合意もなされ、実際教育現場では、少しずつ少しずつ「日の丸」や「君が代」が入り込み、ついには強制されるようになったのです。そして2003年、ついにいわゆる「10.23通達」が出されたのです。
通達後初めての、2004年の3月の卒業式では、「君が代」斉唱時に立つか立たないかを初めて「処分」という言葉とともに突きつけられることになりました。式の前日の夕方、答辞を読むことになっている卒業生が私のところへ挨拶に訪ねてきてくれて、「先生のことも答辞に出てくるからよく聞いていてね」、と嬉しそうに帰って行きました。今までなら精一杯心から喜んであげることができたはずです。しかし、その時の私の頭の中は、この理不尽な職務命令を受け入れるのか否かでいっぱいでした。
卒業式を心から祝う気持ちになれない罪悪感の中で、それでもどうすることもできず悩んでいました。もう夜の9時は回っていましたが、やはり同じように考えあぐねいていた同僚がやってきて、しばらく話をしていきました。家に帰ってからも、「日の丸・君が代」に対して同じ考えをもつ同業の夫と、明け方近くまで話し込みました。
結局心を決めたのは式の直前でした。これからどうなるかわからない不安の中で、私は職務命令のとおりに起立することにしました。社会の急速な右傾化が危ぶまれ、教育基本法の改悪が問題になっている時でした。これで全てが終わってしまうわけではない。私が教員としてやらなければならないことは山ほどある。たとえ今回どんなに苦しくても、私は強い人間だから我慢して立つことくらいできる。立ったところでこんな通達に屈したことにはならない、と心を決めました。それでも歌の間こぼれる涙をどうすることもできずにボロボロ泣きながら立っていました。その後しばらくの間は、このときのことに触れると、発作のように涙があふれ喋れなくなる状態が続きました。自分はちっとも強くないと、初めて知りました。通達後初めて迎えた卒業式は、私にとってはそのように辛いものでした。
2006年についに教育基本法は改悪されてしまいましたが、このとき「愛国心」教育については多くの議論がありました。そんなとき、中学校教員であった竹本源治氏が1952年に発表した詩「戦死せる教え兒よ」を目にしました。ここに書かれている思いこそ、私が引き継ぎかつ次の世代にも繋げていかなければならないものである、と確信しました。
『戦死せる教え兒よ』 竹本 源治
逝いて還らぬ教え兒よ
私の手は血まみれだ!
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧 悔恨 懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらつて君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
40代の終わりの異動で、夜間定時制高校で働くことになりました。そこでの生徒を取り巻く環境は、初任校と比べても、はるかに過酷なものでした。一日1食しか食べられない生徒、よくぞここまで生きてきた、と思うような生徒もたくさんいました。担任として彼らと接していくうちに、そんな生徒一人ひとりには、社会に出てからたとえ一人でも自信を持ってやっていけるだけの基本的な力や自分で考える力を身につけさせることが何より大切であること。また、自らのために努力すれば報われる社会、戦時中のように「お国」のためではなく、それぞれが自分自身のための人生を生きることができる社会を、私たち大人が保障しなければならない、と思うようになりました。卒業までの4年間をかけて、戦争のこと、憲法のこと等、自らも学習しながら必死に生徒達に語ってきました。
こうして迎えた2013年3月の卒業式で、私は「君が代」が聞こえる中、初めて静かに座ったのです。
「『君が代』のたった40秒の我慢ができないのか」と言われることもあります。しかし、あの戦争を体験した多くの人が警鐘を鳴らしている今、文科省や都教委の異常な強制のもとで、かつて「日の丸」とともに人々を戦争に駆り立てた「君が代」を起立斉唱せよというこの職務命令が、「立って歌を歌え」という以上の意味を含んでいることは明らかだと思います。このような時代にこそ、「繰り返さぬぞ絶対に!」の誓いを忘れてはいけない。たとえそれが「40秒」であっても、「形だけ」であっても、それが戦争に向かう道であるならば、たとえそれがどんなに小さな道であっても、その道を塞いでいかなければいけないと思うのです。そうでなければ、人間の知性は何のためにあるのか。あの戦争で失った多くの命が無駄になってしまうと思うのです。思想良心の自由が謳われているこの国で、どうしてそのような心の深いところで大切にしている思いを、「40秒だから」、「形だけやればいいのだから」と、自ら踏みにじることができるでしょうか。
人の一生の中でも、10代後半から20代にかけての時は、その生がまぶしく輝いて見える時期です。そんな中にいる生徒らに寄り添い、泣き笑いをともにすることができるこの教員という職業が、私は好きです。私は大人として、彼らには、少なくとも他の誰でもない自分のために生きることのできる社会を手渡したいと思っています。人間の知性を信じ、人類が生きながらえていくべき存在であると確信するのであるならば、私たちは過去の過ちを繰り返してはなりません。「戦争法」や「経済的徴兵制」などという言葉が飛び交う現在、過去の歴史に思いを馳せ、先輩教員の言葉にならない嘆きの声に真摯に向き合うのなら、その奥に何らかの意図を感じられる職務命令に何の問題意識も持たずに従ってしまうことはできないのです。
「君を縊ったその綱の端を私も持っていた」となりたくなのです。「お互いにだまされていた」と言いたくないのです。「繰り返さぬぞ絶対に!」の気持ちを、私たちは決して忘れてはいけない、私は決して忘れたくないと思うのです。
以上、処分を受けるに至った経過と思いを述べました。裁判所の公正な御判断をお願い申し上げます。
もうすぐ卒業式の季節。そして、入学式の季節が続く。春は、国旗国歌の季節であり、「日の丸・君が代」強制の季節なのだ。
なぜ、公権力はこうまでして全国の学校儀式に国旗国歌を浸透させたいのだろうか。敢えて現場の抵抗を押し切っての強制までし、多くの裁判を抱えながら。毎年考え込まざるを得ない。
その理由はともかく、多数派民衆の意識が学校行事における国旗国歌を肯定しており、その多数派の「日の丸・君が代」肯定意識に支えられて、国旗国歌強制策があることは疑いない。ちょうど、多くの国民が天皇制や靖國の存在を支持しているように、である。多くの国民の意識において、戦前の「天皇・靖國・日の丸君が代」は、切れ目なく現在につながっている。だから、「自主憲法制定」などというスローガンを広言する自民党が長く政権を担ってこれたのだ。
(参照「自主憲法制定」とは無法者のスローガンである。 https://article9.jp/wordpress/?p=2712)
「たかじんのそこまで言って委員会」なる関西系テレビ番組が、視聴者を対象に次のような意見を募集した。2004年3月のことである。
「春の卒業式シーズン到来。そこで皆さんにお聞きします。
あなたは学校の式典で「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱する ことに賛成ですか?反対ですか?」
これに対して、何通の回答があったのかは分からないが、調査結果は、
賛成 92%
反対 8%
とされている。
世論調査の正統手法に則ったものではなく、これが日本人の意識状況の正確な分布とは言えないものの、この質問であれば、賛成派が反対派を圧倒していることは間違いなかろう。今も、大きくは変わるまい。だからこそ、国旗国歌法の制定があり、石原慎太郎が「10・23通達」を出し、橋下徹が「君が代条例」を作るのだ。
国旗国歌問題は、多数派がその同調圧力で少数派の意見に介入する恰好のテーマとなっている。石原や橋下にとって、自らが多数派として、攻撃すべき敵を定める恰好のテーマでもある。
「賛成92%」の調査結果以上に興味深いのが、多くの「賛成の理由」である。賛成の理由について与えられた選択肢はなく、すべて自由記載。この回答群は貴重な資料である。アトランダムに、賛成意見の一部を抽出してみた。これをいくつかに分類してご紹介したい。
※ 学校式典に国旗国歌は「当然」「日本人である以上当然」とするもの。これが圧倒的な多数派。
◆日本人なら当たり前
◆自国の国旗掲揚、国歌斉唱をして当たり前是非を問う問題ですらない。
◆当然。
◆日本国民として当然
◆当然の話
◆当然でしょ。
◆当然のことだから
◆あたりまえ。いやな奴は国籍変えれば?
◆日本人として当然。
◆よその国でこれをやるなら、いざ知らず、ここは日本です。これが嫌な人、または都合の悪い人はどういう人?
◆日本国民としてあたりまえのこと。
◆ここが日本だから
◆日本人なら当たり前だと思う。反対してる奴はバカ
◆日本人として当然です!
◆なにか問題でも?こんなくだらない議論してるのは日本だけですよ。
◆いまさらこんな調査をすること自体がわからない。
◆当然のことだから
◆あたりまえ。いやな奴は国籍変えれば?
◆常識だろ
◆日本人なら当たり前だ
◆ここは日本です。
◆自分の国の国歌ぐらい歌えなあかんで。
◆歌わないヤツは非国民
◆このようなことが問題になること事態甚だ遺憾です。国家、国旗なんだから当たり前
◆当然過ぎて理由をいう必要もない。
◆君が代を斉唱することに何が問題?賛成です。
◆別に問題無いと思うけど。
◆いまさらこんな調査をすること自体がわからない。
◆国旗国家を尊重するのは当然だから。
◆当たり前
◆ここは日本です。大韓民国とやらじゃありません。
◆問題ないでしょ。
◆当たり前のこと
◆日本人なら当然。
◆当たり前だと思いますけど。こんなアンケートやってることに何か違和感を感じます。変な国・・・
◆自然なこと。問題視することではない。どうしても気に入らない、という人は、参加しなければいいのです。
◆当然の事
◆自国の国旗・国歌に敬意を払うのは当然のことだと思う。
◆国旗・国歌です。
◆当たり前のこと。
◆日本の常識。
◆こんなことで、とやかく言う人間は、日本人じゃないと思いませんか反対する人の心が知れない!クダラナイ
◆日本人として当然
◆日本人であれば当然の事だから。
◆日本人である以上、当然の行為と思われます。
◆国歌なのだから当たり前。
◆理由など無い
◆卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱は当然だと思うからです。
◆当たり前のことは当たり前に行われるべきです。
◆日本の国旗、国歌だから。
◆だって、日本の国旗であり、国歌でしょ。
◆日本の国民として当然のこと。嫌なら日本から出て行くべきでしょう。
◆当たり前です。そう言えば俺も高校の時、電波先生が学校の前で日の丸反対のビラ配ってたなぁ。
◆日本国民なら当然のことである。
◆日本人なら当然。売国奴、国賊は国外追放。在日という名の不法滞在者は直ちに国外強制退去。
◆そんな当たり前の事に反対する人の気が知れない。
◆日本国民として当然の事をすべきではないのか?当たり前のことです。
◆なにか問題でも?こんなくだらない議論してるのは日本だけですよ。
◆日本国民であるから「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱することはあたりまえ
◆そうするのが当然。国歌、国旗を否定するのは反政府組織のすることというのは世界の常識。
◆日本国民ですから。日本国籍や日の丸・君が代を拒絶する人は、日本から出て行けば良い。
◆こんな当然の事を反対する理由がわからない。日教組の洗脳?
※ 儀式・式典なんだから当然とするもの
◆公式行事、儀式では当然やらなければならない。
◆式典なんだから当たり前。
◆「節目」の時に国歌を斉唱し国旗を掲げるのは普通のこと。何の問題があるのか逆に問いたい。
◆今まで普通に接してきたので違和感も何もありません。これからもそれでいい。
◆公的な場では当然のことと思うのですが。
※ 「反対理由が分からない」「理解できない」とするもの
◆なぜ日の丸と君が代が駄目なのか私にはわからない。
◆日本人が,自国の国歌「君が代」と国旗「日の丸」を否定するのは全く理解できない。
◆国民の当然の義務。反対する理由がわからない。
◆国歌ですから当然賛成です。反対する理由が分かりません。
◆反対する理由がわからん
◆反対する理由がない
◆反対する事がおかしい。
◆賛成するってより、別に国歌や国旗に意味はないのだから、反対する必要がないから。
◆自分の住んでる国の国旗・国歌を否定する理由が見つからない。
◆本来の意味を考えると、反対派の言っている理由付けは、これを拒否する理由にはならない。
◆てか、むしろこんな疑問がわくこと自体に疑問があるんですが。
※ 愛国心の確認・発揚・涵養の機会として必要というもの
◆賛成。愛国精神のない人間なんて信用できません。
◆日本国民として当たり前で、反対する理由も無い。自分の国を愛するという機会が無い今、必要かと。
◆日本人だから
◆日本が好きだから。
◆自国の国旗、国歌に誇りを持つためにも、式典では掲げ、歌うべきだ。
◆自分が帰属し、支え、庇護を受ける集団である「国」を認識する良い機会だと思う。
◆政治的云々でなく、自国のアイデンティティの象徴として必要だと思う。
◆歴史のある自分の国を愛せないって最低だと思う。
◆国に祝福されて学業を終えた事、成人として認められた事に感謝できたので。
※ 国旗国歌には敬意をもつべきだからとするもの
◆過去がどうであろうと、日本の国旗や国歌に表された理念に対して敬意を持っているから。
◆我が国のものに限らず、その国の象徴たる国旗と国歌に対する礼節は、義務教育の場で学んでおくべき常識。
◆つか、自国の国旗、自国の国歌に敬意を払えない屑はどっか他所の国に行ってください。
◆自国の国旗と国家を尊重するのは、他国のそれの尊重につながる。負の歴史があるのならそれをも背負うべき
◆日本人が長年愛し培ってきた伝統だから。フォーマルな式典で掲揚・斉唱は国民国家の基本。
◆日本という国に守られながら、そのシンボルに対し侮辱を唱えるのは、私にはひどく醜くく感じられます。
◆いいことも悪いこともすべてを引きずっての国家、国旗、国歌だと思う。
※ 日本の国旗国歌が優れているからとするもの
◆国旗はデザイン的に優れてるし、国歌は他に比べて平和的+個性溢れる。歴史を失わせるのが教育者?
◆ちなみに君が代は万葉の昔ほどでは無いですが、平安時代にはすでに在りましたよ
◆世界一のものだから
◆日本の国歌は美しいと感じるから
※ 公立校の儀式には国旗国歌が当然とするもの
◆少なくとも、税金で運営されている組織は日の丸君が代必須
◆公立の学校なら当然だと思う。それが嫌なら私立という選択肢もちゃんとあるんだから
◆公立学校=公的機関が行う行事は公的行事であり、国旗掲揚・国歌斉唱は当たり前。
◆教育には税金から助成金が出ているから、その税金で勉強させてもらったから当然のこと。
◆常識だから。嫌なら私立へ行ってください。私の学校は私立でも君が代斉唱してましたが
※ どの国においても普遍的なあり方だから、とするもの。
◆国旗掲揚、国歌斉唱を式典で行うのは世界の常識だから。
◆国旗・国歌を敬うのは世界中の常識。それが分かってないのが馬鹿な左翼。
◆ 日本人が、国家・国旗を尊重するのは当たり前。国際人としても、礼儀のうち常識です。
◆世界中見ても常識だろ。
◆どの国でも国旗と国歌に誇りを持つのは最低限の事。式典で義務付けるのは当然。歌う歌わないは自由。
◆アメリカの学校なんか毎日、朝礼で国旗に向かい国歌斉唱してますが何か?
◆尊重しなければならないと教えた方がいい。そうしないと世界に出て恥をかく。
※ 反対派に対する反感を理由とするもの
◆反対してる人って「中国の核はきれいな核」とか言っちゃってる人だけでしょ
◆反対派が、怪しいから。
◆ 反対派がサヨクだから
◆日本人として当然。さらに、反対する連中がうさん臭過ぎ。
◆反対する奴は,日本が嫌いなんでしょ!早く日本から出て行け!なめとんか!ふざけるな!
◆自分の意見を正義だと思い込んで「君が代=軍国主義!」と喚いてる平和主義者が嫌いだから、歌ってやります
◆人生の大切なセレモニーだから。一部の左巻きが生徒をだしに、デムパを出すのは、非常に不愉快。
※ 国旗国歌反対を強制されることが不当だから。
◆「国旗を掲揚せず、国歌を歌わない」事の強制に反対。ファシズムを許してはならない。
◆教育現場に「日の丸反対」「君が代反対」を持ち込むな!「強制」するな!
◆反対を強制されるのはおかしいと思う。
※ 国旗国歌は郷土愛の表れだから、とするもの
◆みんな日本がふるさとで日本が我が家でしょ?その象徴に背を向ける行為をしちゃいけないだろ。
◆郷土を愛する気持から国旗・国歌を敬うのは当然です。
※ 国際的常識を理由とするもの
◆他の国もみんなやってるから、良いと思う。
◆反対している連中は、サッカーやオリンピックの応援で日の丸は振らないのか?
◆だいたいサッカーなどのイベントで、国歌や国旗でもめたという話を聞かないしねぇ。不思議だ。
◆国旗掲揚のときに脱帽しない、無礼者の金メダリストを輩出しないためにも
◆海外勤務での経験から一言。国旗国歌に敬意を払はないと、相手は「侮辱」と受け取ります。
◆国旗国歌に敬意を払うこと、社会生活、国債慣習を身につける意味でも学校で習っておくべきでしょう。日本の旗に限らずどの国に対しても敬意を払う態度をとるのが常識です。
◆自国の国旗国家に敬意をはらえない人間は他国に対しても鈍感になる。
◆どくの国にも国旗や国歌はあるものやし、反対する人たちが何を気にしてるのか分からない。
※ 自分の学校体験から
◆母校は、朝晩、学園中に国歌が流れ直立不動で国旗掲揚していたので違和感は無い
◆ 私の学校では毎年歌っています。今年、卒業生なのでみんなかなりの気合が入ってました!
※ 賛成だが、強制すべきでないとするもの
◆基本的賛成、但し強制的にせよというなら反対です。国籍の違う人間が国歌う必要性は無いですから。
◆反対する権利は認めるが、国旗で国歌である以上は当然。
◆歌わない自由もあれば歌う自由もある
回答を呼びかけた番組自体が、国民全体の意見を聞くにふさわしいものではないとしても、公権力の国旗国歌強制を支えている民衆の生の意識がよく見える。「日の丸・君が代」強制との闘いは、実はこのアンケートに表れた、社会意識との論争が主戦場なのかも知れない。
(2016年2月21日)
頑迷な都教委との、10・23通達関連訴訟は熾烈に継続している。とうてい先は見えない。国旗・国歌(「日の丸・君が代」)に対する敬意表明の強制は違憲・違法である、との主張をめぐる攻防である。
愚かな都教委が強制をやめるか、最高裁がすべての事案について違憲判断をすることになるまで、この訴訟は継続し続けることになる。
いま、第4次の処分取消訴訟が一審に係属中であり、その第7準備書面を作成の作業中である。今回の私の担当は、憲法20条1項・2項(信教の自由保障規定・政教分離ではない)を根拠とする、「日の丸・君が代」強制の違憲論。
周知のとおり、最高裁は、神戸高専剣道授業拒否訴訟において、信仰上の信念から剣道の授業は受け容れがたいとした学生の訴えを認容した。剣道の授業が客観的に宗教性を帯びると認めたのではない。それでも、剣道の授業強制が特定の信仰者の信教の自由を侵害することを認めたのだ。「日の丸・君が代」強制は、これによく似ている。似ているどころではない。もともと「日の丸・君が代」は神なる天皇と結びついた国家神道のシンボルであった。信仰者が受け容れがたいとする理由の明白さにおいて、剣道の授業とは比較にならない。
論争の応酬の一コマではあるが、その書面のドラフトの比較的まとまりがよい部分を読み易く整理した形で、ご紹介したい。何が、どのように、論争の対象となっているか。その一端をご理解いただけるものと思う。
☆被告(都教委)は、「日の丸・君が代は、国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という。この文章の論理自体がきわめて曖昧である。むしろ、ことさらに曖昧な文章とされたものというべきであろう。
あたかも、「日の丸・君が代」が「国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたもの」である以上は、「それ自体宗教的な意味合いを持つものではない」と述べているごとくであるが、明らかに失当である。
「日の丸」は神話的な起源をもつデザインであり、「君が代」は神なる天皇の御代の永続を称える祝祭歌として、明治期に事実上の国旗・国歌とされた。「日の丸・君が代」を事実上の国旗・国歌とする天皇制国家は、国家神道を主権原理の根拠とした宗教国家であった。したがって、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であっただけでなく、国家神道の宗教的な象徴でもあった。このことは動かしがたい、歴史的事実である。
その後、敗戦を経て神権天皇制は法制度上崩壊し、主権原理を転換した日本国憲法の時代となった。しかし、天皇制は象徴天皇制として存続し、宮中祭祀は「伝統」を固守し続けている。国家神道を支えた各地の神社も宗教法人に衣替えして往時の姿をとどめている。国家神道を支えた社会基盤も社会意識も崩壊に至っていない。その社会基盤と社会意識に支えられて、「日の丸・君が代」も廃絶されることなく、日本の社会に生き残り、国旗国歌とされるに至った。
「日の丸・君が代」の宗教性の有無は、法によって決せられるべき事項ではない。国旗国歌法が成立しようと廃絶されようと、なんの消長も影響も受けるものではない。とりわけ、今議論の局面は、憲法20条1項および2項の基本的人権としての個人の内面における信教の自由をめぐってのものである。国会の多数決の議決によっても動かしがたいものなのである。このことについて、被告が無自覚であることが恐るべきことなのである。
被告都教委の「日の丸・君が代は、国旗国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という、恐るべき無自覚、無神経が、原告教員らの積極・消極両面の信教の自由をないがしろにしていると嘆かざるを得ない。
☆また、被告は、「日の丸・君が代は、原告らが主張するように『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』ではない。それまで日の丸・君が代が我が国の国旗・国歌であることが慣習として成立していたという事実的経過があって、議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化されたものである。」ともいう。
問題は、個人の精神的自由の根幹をなす、自己の内面をいかに形成するかの自由を論じる局面にある。日の丸・君が代が『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』であるか否かは、個人それぞれの判断にかかる問題であって、法がその判断に介入出来ることではない。
被告の主張の誤謬は、「議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化された」という一文に象徴される。被告は、あたかも「議会制民主主義」や「国民多数の意思」が、人権を制約する大義名分としてオールマイテイであると考えている如くである。
しかし、議会制民主主義がなしうることには明確な限界があって、いかなる絶対多数によっても基本的人権を侵害することは許されない。被告主張の如くに、国会の議決によって、「日の丸・君が代」の意味づけが変えられて、信仰者の信教の自由や、無神論者の信仰を持たない自由が傷つけられてはならないのである。
しかも、国旗国歌法の内容はわずかに2か条、国旗と国歌のデザインと歌詞メロディを定めるだけのものである。それ以上の意味づけ規定はなく、国民の権利義務ともまったく無関係なものである。国旗国歌法の趣旨・目的は、国旗国歌を定義づけるだけのものであって、それを超えて、法の成立が「『日の丸・君が代』から『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』を排除した」などという効果を生じるものではない。被告の主張は、何重にも牽強付会を重ね、何重にも誤っている。
☆さらに被告は、「国旗・国歌が国民統合の象徴の役割を持つことから、国旗・国歌を取り巻く政治状況や文化的環境などから、過去において、日の丸・君が代が皇国思想や軍国主義に利用されたことがあったとしても、また、日の丸・君が代が過去の一時期において、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として利用されたことなどを理由として、日の丸・君が代に対して嫌悪の感情を抱く者がいたとしても、日本国憲法においては、平和主義、国民主義の理念が掲げられ、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であることが明確に定められているのであるから、日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という。
これは、意味不明の無意味な主張である。いま、「日の丸・君が代」の宗教的象徴性について論じている局面で、被告の主張は論争テーマと関連性を持たない。
とりわけ、「日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という一文は法律論ではない。政治的な宣言文書としては意味を持つかも知れないが、「役割が期待されている」との文言は、何らの法律要件とも法律効果とも結びつくものではない。
被告の論法では、「天皇は憲法において日本国及び日本国民統合の象徴であると定められているのであるから、天皇という存在は当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということになる。また「『日の丸・君が代』も国旗国歌法において国旗国歌とされた以上は、当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということにもなる。
憲法が天皇を制度上どう定めようと、また憲法上の天皇についての規定の有権解釈がどのようなものであろうとも、個人が天皇についてどのような見解を有するかは自由でなくてはならない。とりわけ、天皇制の形成過程や歴史的に果たした役割から、天皇の宗教的象徴性についての見解やそれをめぐる思想は完全に自由でなければならない。これは自明の理である。また、当然のことながら、その天皇に関する思想表明の自由には格別の保障がなされなければならない。
同様に、国旗国歌法が「日の丸・君が代」を国旗国歌と定めたとしても、国民個人が「日の丸・君が代」をどう位置づけ、どう理解し、どう評価すべきかという点に関して、いささかも影響されるところがあってはならない。国旗国歌法の制定如何に関わらず、信仰者である原告らについても、また信仰者でない原告についても、その「日の丸・君が代」をめぐる宗教性の有無についての考え方の自由は、最大限に尊重されなければならない。
要するに、基本権侵害を論じる主観的違憲論の局面において、国旗国歌法の出る幕は一切ない。被告が国旗国歌法を持ち出したこと自体が、見当外れの謬論なのである。
☆また、被告は「原告らにおいても、個人として信教の自由が保障されているが、公務員として全体の奉仕者としての地位にあり、しかも、その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」という。
「そもそも教育公務員には信教の自由を保障する必要がない」という被告の粗雑な論法は、教育公務員をして精神的自由を持たない奴隷の地位に貶めるものと言わざるをえない。この論法は、社会生活を送るものに、そもそも信教の自由はないというに等しい。
「信教の自由が保障されている」というためには、最低限自らの信仰に反する行為の強制を受けないことが保障されていなければならない。外部的な行為と切り離されて純粋に内心に限定された信教の自由は、権利として論じる意味を持たない。
また、被告が「個人として信教の自由が保障されている」という意味は不明確であるが、「個人として」の意味が「社会生活とは切り離された純粋に私的な生活領域においては」という意味であれば、これも権利の保障に値しない。
きわめて常識的に、「国民のすべてに信教の自由が保障されている」とは、いかなる信仰を持つ者も、また持たざる者も、宗教に関わる理由で通常の社会生活に支障をきたすことのない社会環境が整えられていることを意味する。
キリスト教の信仰者である複数の原告に限らず、「日の丸・君が代」の宗教性に鋭敏な信仰者は数多く存在する。これらの信仰者が、「日の丸・君が代」の強制を甘受せざるを得ないことを理由にその宗教上の精神生活に支障をきたすようなことがあってはならない。換言すれば、通常の社会生活と信仰者としての精神生活との矛盾に陥らせてはならないということが、「信教の自由を保障する」という意味でなくてはならない。
信仰者である原告らは、自己の信仰者としての精神生活を堅持しながら、教育公務員としての社会生活を支障なく送るべく被告に配慮を要求する憲法上の権利を有し、被告にはこれに対応する憲法上の義務があるというべきなのである。
☆被告がいう「その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」との主張は、著しく偏頗な一面的な議論に過ぎない。原告らの憲法上の権利性を全面的に否定し、教育公務員という属性を理由に、原告らに信仰者としての精神生活の保障を排除する結論となっているからである。
また。被告の立論は、一方的に結論を述べているが、理由や根拠に触れるところがないが、憲法上の権利の制約を容認すべきとする主張は、制約の根拠についての主張・挙証の責任を負うべきが当然なのである。
☆なお、原告らとしても、教育公務員としての職務の遂行が当該教育公務員の宗教上の信念と衝突する場面において、いかなる場合にも宗教的信念の保障が優越すると主張するものではない。
信教の自由という精神的自由権の中核的権利についての制約が許容されるか否かは、合違憲判断の常道として、制約の目的、制約の手段、目的と手段との関連性の3面における、厳格な違憲審査基準の適用をもって判断されなければならない。
目的審査は、当該教育公務員に課せられる具体的な職務上の義務が真にやむを得ない利益を達成するためのものであるか否か。手段審査は、その利益を達成するための必要不可欠な手段であるか否か。そして、(目的と手段の)関連性審査は、その義務によって課せられる信教の自由に対する制約が必要最小限度のものであるか否か。この3面における検証のすべてに合格して始めて憲法上の人権の制約が許容されることになる。
厳格審査基準からしても、教員の本来的な職務である生徒に真理を教授する場面において、自己の宗教的信念を貫くことは許容されない。「天地は神が創造したもうた」「進化論は聖書に反する誤った考えである」「日本の建国は神武の即位に始まる」などを、真理ないしは真実として教授することは許容されない。子どもの教育を受ける権利を全うする目的から上記3面の審査による制約は容易に肯定されうることになろう。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することは、何らの真にやむを得ない利益を達成するための目的を肯定することにはならない。国旗・国歌ないしは「日の丸・君が代」の強制は、生徒たちに国家意識あるいは愛国心を醸成することを目的とするものであろうが、このことは真理の伝達とは異なり、教育公務員の本来的な職務ではない。むしろ、国家をどのように位置づけ理解するかは、優れて価値観に関わる問題として、教育にも強制にも馴染まない。少なくとも、そのような教育公務員の信念は尊重されなければならない。とうてい、「真にやむを得ない利益を達成するためのもの」とは言えない。
また、仮に卒業式等の儀式における秩序維持が肯定されるべき目的ないし利益だとしても、全教員に対する起立・斉唱の強制が、この目的を達成するための必要不可欠な手段であるとも、必要最小限度のものとも到底言えない。積極的に式の進行を妨害することなく、国歌斉唱時に静かに坐っているだけの教員に懲戒処分を科してまで起立や斉唱を強制する必要はあり得ない。
以上のとおり、原告らが、憲法20条1項および2項にもとづいて有する基本権が、「日の丸・君が代」への敬意表明強制によって制約されることは許容し得ない。被告の主張は誤りである。
(2016年2月20日)
本日の要請行動は、これからの卒業式・入学式のシーズンを前にして、「日の丸・君が代」強制の職務命令を発令しないように要請するものです。具体的な要請内容とその理由については、要請書に記載されたとおりであり、いま「被処分者の会」や「五者卒業式・入学式対策本部」の責任者から補充して説明があったとおりです。
私は、要請者の代理人弁護士としての立場で、教育情報課長を通じて東京都教育委員会に対して、各要請事項に通底している問題点として特に3点を申しあげたい。
第1点は、都教委が数多く抱えている裁判について、その判決の重みを十分にご認識いただきたいということ。既に、65件55人の処分取消の判決が確定しています。都教委は、10・23通達関連訴訟でこれだけの敗訴判決を受けているのです。負け続け判決のその深刻さについて認識が足りないと言わざるを得ません。三権分立を建前とする我が国の法制度において、行政が、司法から「その処分は違法だ」「行政の行為が人権を侵害している」と1件なりとも指摘されることの重大性を自覚してもなわねばなりません。それが、65件も重なっているとなれば、事態を重く受け止めて、どこに原因があったか、誰の責任か、さらにどうしたら同じ過ちを繰り返さないようにすることができるか、真剣に考えなければなりません。もちろん、違法な行為によって被害を受けた教員には、心からの謝罪と、誠実な被害回復措置が必要です。傲慢な態度をとり続けることは、決して許されないと知るべきです。
都教委から見ての勝訴判決についても、その内容をよく吟味していただきたい。裁判所は行政に甘い。行政裁量の範囲をとてつもなく広く認めています。だから、ぎりぎりセーフで、「違憲・違法とまではいえない」という判決をもらって喜んでいてはいけません。勝訴判決だからよしとするのではなく、教育を担当する行政機関として、これでよかったのか十分に判決の意とするところを汲んでいただきたい。最高裁判決は、「日の丸・君が代の強制は、間接的には思想良心の侵害に当たる」と言っています。間接的にもせよ、思想良心の侵害となるような強制を続けておいてよいのでしょうか。また、違憲・違法とはいえないけれど、当不当は別問題とまで、わざわざ書き込んでいる最高裁判決もあります。これらのメッセージをしっかりと受け止めて、教育をつかさどる行政が、この違憲違法すれすれのレベルでよいのか、ぜひ反省していただきたい。
第2点は、都教委という行政機関が、法が想定した組織のあり方から大きく逸脱していることを指摘しなければなりません。東京都における教育行政の主体は、飽くまで行政委員会としての教育委員会です。行政機関としての意思形成における判断主体は6名の教育委員による合議体のはず。そして、東京都の教育庁は、教育委員会の事務局として、教育委員会と各教育委員をサポートするための組織でしかないのです。教育というものの重要性に鑑みて、教育行政の主体を行政からは独立した合議制の教育委員会としたことの意味をもう一度、認識していただかなければなりません。
私たちは、これまで何度も本日のような場を持ち、申入れ・陳情・要請を繰り返してきました。しかし、私たちの要請書が教育委員の手に渡ることはないという。教育委員は、事務方の情報コントロールの結果、判断能力の無いお飾りになりさがっています。これは、下克上による逆転現象というべきか、あるいは事務方の委員会権限乗っ取りと言わざるを得ません。
おそらくいま都教委が抱えている最大の問題が、この「日の丸・君が代」強制問題です。その問題に関して、私たちが提出した教育委員会宛の要請が教育委員に届かないとはどういうことか。「要望を吟味し検討したが、ご期待には添いかねる結果となった」というのならまだしも。要望が事務方の段階で握りつぶされ、教育委員には届かないということにはとうてい我慢がならない。請願は憲法上の権利でもある。ぜひとも、われわれの要請を教育委員に正確にお伝えいただき、会議の議題としていただきたい。
おそらく、お飾りとされていることは、各教育委員にとっても本意ではないはず。みなさん、給料にふさわしい実質を伴った仕事をしたいと望んでいるのではないでしょうか。
第3点。10・23通達、そしてそれに基づく「起立・斉唱」を命じる職務命令、そして懲戒処分。こういう繰りかえしはそろそろ終わりにしていただきたい。
2003年の10・23通達は、異常な環境において生じたものです。何よりも、トンデモナイ知事が君臨していた時代のこと。憲法に敵意を剥き出しにした恐るべき石原慎太郎知事、その知事のお友だちとして提灯持ちを務めた米長邦雄、鳥海厳などの右翼教育委員、そして突出した数名の都議会内右派議員。この人たちがつくり出した異常な産物と言わざるを得ません。
もう、知事は代わり、教育委員も全員が入れ替わっています。10・23通達は見直されて当然でありませんか。卒業式・入学式のたびに、「日の丸・君が代」を処分の恫喝で強制することは、なんの益するところもありません。このことも、分かってきたではありませんか。さらに、判決は負けつづけ。明らかに、事情が変わってきています。ぜひとも、「日の丸・君が代」強制という方針を見直していただく時期に来ていると思います。
ぜひとも、教育委員の皆さんでご検討いただくようお願いいたします。
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要 請 書
2016年1月26日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表 A B
東京都教育委員会教育長 中井 敬三 殿
<要請の趣旨>
1.卒業式・入学式等で「日の丸・君が代」を強制する東京都教育委員会の10・23通達(2003年)とそれに基づく校長の職務命令により、2015年4月までに懲戒処分を受けた教職員は延べ474名にのぼります。この通達発出以降、東京の学校現場では命令と服従が横行し、自由で創造的な教育が失われています。
2.一連の最高裁判決(2011年5月?7月)は、起立斉唱行為が、「思想及び良心の自由」の「間接的制約」であることを認め、処分取消訴訟の最高裁判決(2012年1月、2013年9月)では、「間接的制約」に加え、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」「処分の選択が重きに失するものとして、社会観念上著しく妥当を欠き、…懲戒権者としての裁量権の範囲を超えるものとして違法」として減給処分・停職処分を取り消しました。最高裁が、都教委による累積加重処分に歯止めをかけたのです。
これらの最高裁判決には、都教委通達・職務命令を違憲として、戒告を含むすべての処分を取り消すべきとの反対意見(2012年1月宮川裁判官)を始め、都教委に対し「謙抑的な対応」を求めるなどの補足意見(2012年1月櫻井裁判官、2013年9月鬼丸裁判官)があり、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めています。
また、2015年12月4日、東京高等裁判所(第21民事部中西茂裁判長)は、東京「君が代」裁判第三次訴訟において、最高裁判決及び一審東京地裁判決(2015年1月)を踏襲し、東京都の控訴を棄却し、8件・5名の減給・停職処分を取り消しました。都教委は最高裁への上告を断念し、自ら敗訴を認めました。
更に、2015年12月10日、東京高裁(第2民事部柴田寛之裁判長)は、卒業式等における「君が代」不起立・不斉唱による懲戒処分を理由とする定年退職後の再雇用拒否を「違法」として、東京都の控訴を棄却し、原告22名に総額約5370万円の損害賠償を命じました。
3.最高裁、東京高裁、東京地裁で確定した処分取消の総数は、65件・55名に上ります(別紙参照)。東京都教育委員会が、最高裁・東京地裁に・東京高裁で「違法」とされた処分を行ったことは、教育行政として重大な責任が問われる行為です。今すぐ原告らに謝罪し、その責任の所在を都民に明らかにし、再発防止策を講じるべきです。その上で、10・23通達などの「日の丸・君が代」強制に係わる従来の都教委の施策を抜本的に見直すべきです。
4.しかるに、都教委は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の「議決」を根拠に、従来の姿勢を改めることなく最高裁判決にも反した減給を含む懲戒処分を出し続け、更には「服務事故再発防止研修」を質量共に強化しています。現在の研修は、明らかに内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与えるものであり、東京地裁決定(2004年 民事19部、須藤典明裁判長)に反しています。
また、違法な処分を行ったことを原告らに謝罪しないばかりか、2013年12月及び2015年3月?4月、最高裁判決・東京地裁判決で減給処分が取り消された都立高校教員計16名に新たに戒告処分を科し再処分を行うという暴挙を行いました。
これらは最高裁などの判決の趣旨をねじ曲げないがしろにするもので断じて許すことはできません。猛省を迫るものです。
5.「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」は、一連の最高裁判決で校長の職務命令が、思想・良心の自由の「間接的制約」であること、「減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要」だとして減給・停職処分が取り消されたこと、反対意見、補足意見が多数出されていること等をことさら無視して、都教委に都合の良い部分だけを取り出して「日の丸・君が代」強制を合理化しています。
6.貴教育委員会が、一連の司法の判断を重く受け止め、責任ある教育行政としての立場を自覚するとともに、問題解決のため下記申し入れを誠実に検討し、回答することを強く要求します。
<要請事項>
1 東京都教育委員会が2003年10月23日に発出したいわゆる「10・23通達」を撤回すること。
2 同通達に基づく一切の懲戒処分・厳重注意等を取り消すこと。
3 最高裁判決(2012年1月、2013年9月)及び東京高裁判決(2015年12月4日)に従い、10・23通達に基づく全ての減給・停職処分を即時取り消すこと。
4 2013年12月及び2015年3月?4月の現職教職員16名に対する戒告という再処分を撤回し、該当者に謝罪すること。
5 同通達に基づく校長の職務命令を発出しないこと。
6 卒業式、入学式で同通達に基づく新たな懲戒処分を行わないこと。
7 同通達に係わり懲戒処分を受けた教職員に対する「服務事故再発防止研修」を行わないこと。
8 卒・入学式等での「君が代」斉唱時に生徒の起立を強制し、内心の自由を侵害する「3・13通達」(2006年)を撤回すること。卒業式、入学式での生徒への内心の自由を告知などの各学校の創意工夫に介入しないこと。
9 「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について」(平成24年1月24日)の都教委の「議決」を撤回すること。
10 最高裁判決に従い、「紛争を解決する」ための具体的改善策を策定すること。
11 都教育庁関係部署(人事部職員課、指導部指導企画課、教職員研修センター研修部教育経営課など)の責任ある職員と被処分者の会・同弁護団との話し合いの場を早期に設定すること。
12 本要請書を教育委員会で配付し、慎重に検討し、議論し、回答すること。
<回答期限> 2016年2月9日(水)。
昨日(12月10日)、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の関連事件で、「再雇用拒否第2次訴訟」の控訴審判決が言いわたされ、控訴人都教委の控訴が棄却された。またまたの都教委敗訴である。今や、都教委の敗訴はニュースバリューがない。世間の耳目を惹く大きな記事にならない。
社会面のトップに大きく報道した赤旗記事。まず見出しが賑やかだ。
「都教委の『君が代』強制 司法が断罪 高裁も再雇用拒否は違法 都に賠償命令 原告『画期的判決』」
そして、リードは以下のとおり。
「東京都立高校の元教員が、「君が代」斉唱時の不起立のみを理由に再雇用を拒否されたことは違憲であり、東京都と都教育委員会の「裁量権の逸脱・濫用」であるとして損害賠償を求めていた訴訟の控訴審の判決で、東京高裁(柴田寛之裁判長)は10日、一審判決を支持して都の控訴を棄却し、再雇用拒否は違法であり、採用された場合の1年間の賃金に相当する賠償(約5370万円)を都に命じました。」
この記事のとおり一審が教員側の全面勝訴(2015年5月25日)だった。このとき、弁護団の一人が、思わず「正義は必ず勝つ・・とはかぎらない。でも、たまに勝つことがある」と迷文句を吐いた。これが率直な感想だったのだ。「憲法の原則からはわれわれこそが正義。われわれが裁判で勝たねばならない。しかし、必ずしも正論が通らないという司法の現実がある。乗り越えるべき壁は大きく高い。今日の判決は、その壁を乗り越えてようやく正義が勝った」という達成感吐露のニュアンスが滲み出ている。
一審判決当時のことは私の下記のブログを参照していただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=4927
一審は、教員側の全面勝訴だったから、教員からの控訴はない。全面敗訴の都教委(形式的には東京都)の側だけが、東京高等裁判所に控訴して口頭弁論1回で結審。そして、昨日の控訴棄却の判決となった。今度は弁護団は落ちついている。勝って当然という構えだが、実は内心は躍り上がって喜んでいる。同種の再雇用拒否を争った訴訟は、以前に4件ある。最終的にはいずれも敗訴なのだ。
都教委管轄下の教員に60歳定年制が導入されたのは、65歳の年金受給開始年齢までの5年間を、嘱託として再雇用されることの制度の創設という代替措置との引き替えだった。だから、よほどの事情のない限り誰もが希望すれば再雇用された。また、この再雇用ベテラン教師たちは、力量豊かな重要戦力として教育現場に期待もされたのだ。
ところが、「日の丸・君が代」強制に服しがたいとして職務命令違反による懲戒を受けた教員は、たった一回の戒告処分でも、「よほどの事情があった」と烙印を押されて再雇用を拒否されてくた。
石原慎太郎都政時代の教育行政は、江戸初期に踏み絵を発明した宗門改の役員さながらに、悪知恵を働かせた。「日の丸・君が代」不服従を根絶するために、懲戒処分に伴うあの手この手を編み出した。その種々のいやがらせのトップに君臨するものが再雇用拒否なのだ。
民間企業を被告とする労働事件の感覚では、職場慣行の立証だけで、簡単に勝てる事件。ところが、「再雇用は労働契約の延長にあるものではなく、新たな行政行為として行政の裁量に任される」という「理屈」が裁判所を縛った。
この件よりも以前の同種4件のうち2件は、一審から最高裁まですべて敗訴。残る2件は一審で勝ったが控訴審で負けた。最終的にはすべて敗訴で終わっている。労働者の権利よりも、行政の裁量を手厚く保護しようという馬鹿馬鹿しい判決である。
この先行4事例の最高裁が是認した判決の存在にもかかわらず、本件は一審で全面勝訴した。「でも、たまに勝つことがある」と迷文句の実感がお分かりいただけるだろう。そして、この度の初めての高裁勝訴判決である。
本年5月の一審判決は、東京地裁民事第36部(吉田徹裁判長)が言い渡したもの。
「再雇用制度等の意義やその運用実態等からすると、再雇用職員等の採用候補者選考に申込みをした原告らが、再雇用職員等として採用されることを期待するのは合理性があるというべきであって、当該期待は一定の法的保護に値すると認めるのが相当であり、採用候補者選考の合否等の判断に当たっての都教委の裁量権は広範なものではあっても一定の制限を受け、不合格等の判断が客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法と評価され、原告らが有する期待権を侵害するものとしてその損害を賠償すべき責任を生じさせる。」という、画期的なもの。昨日の高裁判決も、この立場を是認し踏襲した。
しかも、先週(12月4日)言い渡しがあった東京「君が代」裁判第3次訴訟控訴審における第21民事部「中西茂判決」が、「本件不起立等は軽微な非違行為であるとか、形式的な非違行為であるということはできない」としたのに対して、昨日の第2民事部「柴田博之判決」は、「本件職務命令違反の非違性が,客観的な意味において重大であるなどと評価することはできない」「再雇用職員等の採用候補者選考の場面において,同事実の存在のみを理由に直ちに不合格等と判断すべき程度に重大な非違行為に当たると評価することはできない」としている。教員の訴えに耳を傾ける姿勢の有無の違いを印象づけている。
原告団・弁護団の声明を引用しておきたい。
本日、東京高等裁判所第2民事部(柴田寛之裁判長)は、都立高校の教職員ら24名が、卒業式等において「日の九」に向かつて起立して「君が代」を斉唱しなかつたことのみを理由に、東京都により定年退職後の再雇用職員ないし日勤講師としての採用を拒否された事件(平成27年(ネ)第3401号損害賠償請求控訴事件)について、東京都の採用拒否を裁量権の逸脱。濫用で違法とし、東京都に対し採用された場合の1年間の賃金に相当する金額の賠償を命じた1審東京地裁判決(2015年5月25日)を支持して、東京都の控訴を棄却し、東京都に対し1審同様の損害賠償を命じる判決を言い渡した。
1審に続き控訴審においても、原判決の判断を踏襲した他、東京都の主張をすべて排斥し、都教委の本件採用拒否を裁量権の逸脱・濫用にあたり違法であると認めたことは、都教委による10.23通達以後の「日の丸。君が代」の強制を司法が断罪し、これに一定の歯止めを掛けたものと評価できる。
本原告団・弁護団は、東京都が本判決を受け入れて上告を断念し、10.23通達に基づく「日の丸・君が代」強制などの諸政策を抜本的に見直すことを強く求めるものである。
この上告断念の要請に都教委はどう応えるだろうか。本日の東京「君が代」裁判4次訴訟閉廷後の報告集会では、都教委は上告受理申立の方針で、その承認を議会に諮っているという。またまた、恥の上塗りをしようというのだ。
乙武氏を含む都教委の面々に、本当にこれでよいのかと問い質したい。あなた方は上告受理申立の方針決定に関与しているのか。いったい、その職に責任をもって行動をしているのだろうか。まったく見えてこないのだ。
特に中井敬三教育長に一言申しあげておきたい。これまで、私は中井氏に、「あなたはこれまでの都教委の違法の数々に責任がない。すべて、あなたの前任者がしでかした不始末として、『これまでの都教委のやり方がよくなかった』と言える立場にある。あなたの手は今はきれいだ。まだ汚れていないその手で、不正常な東京の教育を抜本的に改善することができる。敗訴判決はそのチャンスだ。」と言ってきた。
しかし、おそらくはこれが最後のチャンスだ。この度の惨めなばかりの都教委敗訴判決は都教委反省の絶好機というだけでなく、あなたがイニシャチブをとって都教委の方向を転換する恰好の機会でもある。この判決への対応を間違えると、あなた自身の責任が積み重なってくる。あなた自身の手が汚れてくれば、抜本解決が難しくなってくる。一連の最高裁判決に付された補足意見の数々をよくお読みいただきたい。この不正常な事態を解決すべき鍵は、権力を握る都教委の側にあることがよくお分かりいただけるだろう。
「トンデモ知事」の意向で選任された「トンデモ教育委員たち」による「10・23通達」が問題の発端となった。今や、知事が替わった。当時の教育委員もすべて交替している。教育畑の外から選任された中井敬三さん、あなたなら抜本解決ができる。今がそのチャンスではないか。しかも、ラストチャンスだ。ぜひとも間違えないようにしていただきたい。
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DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田が私を訴えた「DHCスラップ訴訟」は、本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は完敗となった。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属している。
その第1回口頭弁論期日は、
クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎822号法廷。
ぜひ傍聴にお越し願いたい。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行う。
また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
午後3時から東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちたい。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加を歓迎する。
(2015年12月11日・連続第985回)
月刊「靖国・天皇制問題 情報センター通信」の通算507号が届いた。
文字どおり、「靖国・天皇制問題」についてのミニコミ誌。得てしてタブー視されるこの種情報の発信源として貴重な存在である。しかも、内容なかなかに充実して、読ませる。
[巻頭言]は、毎号「偏見録」と題したシリーズの横田耕一(憲法学者)論稿。回を重ねて第52回目である。長い論文ではないが、いつもピリッと辛口。今回は「なんか変だよ『安保法制』反対運動」というタイトルで、特別に辛い。
論稿の趣旨は、「本来自衛隊の存在自体が違憲のはず。武力を行使しての個別的自衛権も解釈改憲ではないか。」「にもかかわらず、集団的自衛権行使容認だけを解釈改憲というのが、『なんだか変だよ』」というわけだ。表だってはリベラル派が言わないことをズバリという。天皇・靖國問題ではないが、タブーを作らない、という点ではこの通信の巻頭言にふさわしい。
要約抜粋すれば以下のとおり。
「かつての憲法学者の圧倒的多数の9条解釈は、一切の戦力を持たないが故に自衛隊は違憲であり、したがって個別的自衛権の行使も違憲とするものであった。この立場からすれば、『72年見解』などは政府による典型的な『解釈改憲』であり、『立憲主義の否定』であった。
ところが、いまや、現在の反対運動のなかでは、共産党や各地の9条の会などに典型的に示されているように反対論の依拠する出発点は『72年内閣法制局見解』にあるようで、それからの逸脱が『立憲主義に反する』として問題視されている。したがって、そこでは自衛隊や日米安保条約は合憲であることが前提とされている。過去の『解釈改憲』は『立憲主義に反しない』ようである。
自衛隊・安保条約反対が影を潜める一方、国際協力のために自衛隊が出動することまで認める改憲構想がリべラルの側からも提起され、各地の反対運動で小林節教授が『護憲派』であるかのごとく重用されている現在の状態は、果たして私たちが積極的に評価し賛同・容認すべきものだろうか。私の最大の違和感の存するところである。」
このミニコミ誌ならではの情報を二つご紹介しておきたい。
まずは、「新編『平成』右派事情」(佐藤恵実)の「OH! 天皇陛下尊崇医師の会会長」の記事。
東京・六本木の形成外科・皮膚科の開業医が、向精神薬を不正に販売したとして,麻薬及び向精神薬取締法違反で逮捕された。厚生労働省の麻薬取締部は、この医師は中国の富裕層向けに違法販売を繰り返したと考えている模様、というそれだけのニュース。その医師は、「天皇陛下尊崇医師の会」会長なのだそうだ。
そんな団体があることも驚きだが、この医師と医院の〈関連団体一覧〉が掲載されている。「とくとご覧あれ」とされている。。
靖國神社を参拝する医師の会会長・社団法人神社本庁協賛医療機関・日本会議協賛医療機関・宮内庁病院連携医療機関・東京都医師政治連盟会員・自由民主党協賛医療機関・大日本愛国医師連合会長・日本国の領土「竹島」「北方領土」を奪還する愛国医師の会会長・一般財団法人日本遺族会協賛医療機関・毎上自衛隊協賛医療機関・天皇陛下尊崇医師の会会長・アジア太平洋地区米国海軍病院所属米国海兵隊軍医トレイニーOB・麻布警友会協賛医療機関・全日本同和会東京都連合会協賛医療機関・創価学会協賛医療機関・同和問題企業連絡会(同企連)協賛医療機関・警察友の会協賛医療機関・公益財団法人警察協会協賛クリニック・日米安会保障条約賛同医療機関・米国海軍病院連携クリニック・註日アメリカ合衆国大使館連携医療機関・日本の領土を守るため行動する議員連盟協賛クリニック・公益財団法人日本国防協会協賛医療機関・六本木愛国医師関東連合会長・六本木愛国医師ネットワーク事務局日本国体学会。
もう一つは、「今月の天皇報道」(中嶋啓明)。「Xデーも近いのに、何ゆえ天皇夫妻はフィリピンまで行くのか」という内容。
「明仁は、8月15日の全国戦没者追悼式で段取りを間違えた。参加者の『黙祷』を待たずに『お言葉』を読み上げたとされている。富山で行われた『全国豊かな海づくり大会』では、式典の舞台上で列席者を手招きしてスケジュールを確認し、式の進行が一時、ストップする場面があったという。いずれも高齢化が引き起こす一時的な軽度の認知障害なのだろうが、『デリケートな問題』だとして、在京の報道機関は報道を見送ったという。確かに東京でその記事を見ることはなく、地元地方紙の『北日本新聞』と『富山新聞』でほんわずか報じられただけだった。
Xデーも間近と思わせる中、それでもまだ、支配層にとっての明仁の利用価値は高い。明仁は美智子と共に来年早々、高齢で体調不安を抱えながらフィリピンを訪問することが発表された。最高のパフォーマンスの裏に秘められた『真の狙い』とは。
元朝日新聞記者で軍事ジャーナリストの田岡俊次が月刊誌『マスコミ市民』の15年10月号に『国会審議もなく進むフィリピンとの「同盟関係」の危険性』と題して書いている。ここで田岡は『政府が国会にもかけずにフィリピンとの同盟関係に入りつつあるという重大な異変がほとんど報じられない』と嘆くのだ。田岡の論考などによると、日比間の防衛協力は民主党の野田政権下で始まった。2011年9月、当時の首相野田佳彦がフィリピンのアキノ大統領との会談で『両国の海上保安機関、防衛当局の協力強化』を約束。それを引き継いだ現首相安倍音三は13年7月、マニラでのアキノ大統領との会談で小型航洋巡視船10隻をODAにより無償供与することを表明した。そして今年6月には東京での会談後、中国が南シナ海で進める人工島建設に『深刻な懸念を共有する』共同宣言を発表した。日本が供与する巡視船は、政府自身も『武器に当たる』ことを認めており、共同宣言には『安全保障に開する政策の調整』や『共同演習・訓練の拡充を通じ相互運用能力の向上』を図ることが表明されている。災害時の救援を口実に派遣される自衛隊の法的地位についての検討を開始することも盛り込まれ、田岡は、日比関係が限りなく同盟関係に近づきつつあると指摘する。
日本は、中国包囲網を築く上での重要なパートナーの一国として、フィリピンとの軍事的な関係の強化に勤しんでいるのだ。明仁、美智子の訪問計画の裏には、日比間のこうした関係を権威付けたいとの安倍政権の狙いがあることは明らかだ。」
最後に、もう一つ。「歌に刻まれた歴史の痕跡」(菅孝行)が、毎回面白い。
今回は、「ラマルセイエーズ」について、歌詞の殺伐と、集団を団結させる魔力に溢れた名曲とのアンバランスを論じたあと、こう言っている。
「君が代と違っていい曲に聴こえるのは、他所の国の国歌であるために気楽に歌えるからともいえるが、やはり音楽性の質の高さによるものだろう。革命が生んだ国歌は、革命がその質を失い堕落した後でも、困ったことに歌だけは美しい。アメリカ国歌もその例に洩れない。ラフマニノフがピアノ曲にしたという。ダミー・ヘンドリクスがウッドストックで演奏して評判になった。名曲といえば、旧ソ連の国歌も心に染みる名曲である。ただ、こうした曲の〈美しさ〉は、保守的な感性に受け入れやすいということと結びついていることを忘れてはならない。」
「ダサイ国歌『君が代』は大いに問題だが、同時に美しい国歌が『国民』を動員する『高級な』装置であることに警戒を怠るべきでない。『ラ・マルセイエーズ』はナショナリズムだけでなく、『高級で文明的な』有志連合国家の団結も組織した。高級で文明的なものほど野蛮だというのは、軍事力だけの話ではない。動員力のある音楽もまた同じである。そういえば『世界に冠たるドイツ』なんていう歌もあった。」
なるほど、君が代は、ダサイ国歌であるがゆえに、集団を鼓舞し団結させる魔力に乏しいという美点を持っているというわけだ。このような指摘も含めて、「靖国・天皇制問題 情報センター通信」の記事はまことに有益である。
(2015年12月7日・連続第980回)
昨日(12月4日)、東京「君が代」裁判・第3次訴訟での控訴審判決があった。
この控訴事件は、本年(15年)1月16日東京地裁判決(佐々木宗啓裁判長)を不服として、原告教員側と被告都教委側の双方が控訴していたもの。東京高裁第21民事部(中西茂裁判長)は、一審原告一審被告双方の控訴を棄却した。つまりは一審判決のとおりとしたのだ。その内容と、獲得した成果・問題点を確認しておきたい。
石原慎太郎都政第2期の2003年、悪名高い「10・23通達」が発令された。以来、都内の都立校・区立校では、卒業式・入学式などの学校儀式において、起立しての「君が代」斉唱職務命令が発せられ、これに違反すると懲戒処分となる。既に、その処分件数は474件に達している。
懲戒処分を受けた都立高校・都立特別支援学校の教職員が、東京都教育委員会を被告として処分の取り消しを求めた一連の訴訟が、東京「君が代」裁判。その第3次訴訟は、2007?09年の処分取り消しを求めて10年3月に提訴。都立校教職員50人の集団訴訟で、処分の取り消しと精神的苦痛に対する慰謝料(各55万円)の支払いを求めたもの。
一審判決は、最も軽い戒告処分については取消請求を棄却したが、26人31件の減給(29件)・停職(2件)の処分をいずれも重きに失するとして懲戒権を逸脱・濫用した違法を認め、これを取り消した。但し、慰謝料請求はすべて棄却となっている。
26人31件の処分取消という被告都教委の敗訴は大失態であるが、都教委が控訴したのは敗訴した29件の敗訴処分の内の5件についてのみ。残る24件の処分については控訴しても勝ち目ないとして一審の取消判決を確定させた。都教委は、都教委の目から見て特に職務命令違反の態様が悪いとする5件について未練がましく控訴をしてみたということなのだ。
昨日の判決は、その5件全部について控訴の理由なしとして一蹴した。この都教委の控訴がすべて棄却されたことの意味は大きい。都教委は足掻いて恥の上塗りをしたのだ。都教委よ、大いに反省をせよ。そして、責任の所在を明確にせよ。敗訴について謝罪せよ。同様の誤りを繰り返さぬよう再発防止策を講じよ。
一方、一審原告教職員側は戒告処分も違憲・違法だと控訴をしたのだが、これは斥けられた。国家賠償法に基づく慰謝料の請求棄却を不服とした控訴も棄却された。
3次訴訟では、一審判決と控訴審判決ともに、結論は1次訴訟(12年1月)、2次訴訟(13年9月)の最高裁判決を踏襲する形となった。建前として経済的不利益を伴わない(現実には不利益が伴う)戒告の限度で懲戒を合法とし、経済的不利益を伴う減給以上の処分は原則として違法という線引き。予想されたところではあるが、大いに不満が残る。
まずは、合違憲の判断についてである。原告側は、本件では憲法19条、20条、23条、26条を根拠とした違憲論、教育基本法違反を主とする違法論を展開したが、判決の容れるところとはならなかった。最高裁判決の枠組みに忠実であろうとするに性急で、違憲論の主張に真摯に耳を傾ける姿勢に乏しいと言わざるを得ない。
次いで、裁量権濫用と慰謝料の問題。
東京「君が代」裁判・第1次訴訟の控訴審判決(11年3月10日)は、裁判長の名をとって「大橋寛明判決」と呼ばれている。この判決は、戒告処分を含めて173人全員の処分を懲戒権の逸脱濫用として取り消したのだ。
この判決は、教職員の不起立・不斉唱の動機を、自己の思想と教員としての良心に忠実であろうとした真摯なものと認め、やむにやまれずの行為と評価した。ところが、3次訴訟の、佐々木判決も中西判決も、「不起立行為が軽微な非違行為とは言えない」との立場をとっている。これでは、最高裁の判断を乗り越えようがない。憲法が想定する裁判官像に照らして、頼りないこと甚だしい。
裁判官は公権力の立場から意識的に離れ、社会の多数派の常識からも自由に、憲法の理念に忠実でなくてはならない。何よりも、真摯に苦悶し憲法に期待した原告に共感する資質を持ってもらいたい。少なくとも、原告ら教員の苦悩や煩悶を理解しようとする姿勢をもたねばならない。
本日の赤旗に、原告団事務局長の近藤徹さんのコメントが載っている。「都教委は思想・良心の自由を生徒に説明したなどと減給・停職を(正当化する理由として)主張したが、それが間違っていたことがはっきりした」というもの。裁判で勝ち取った成果は、着実に教育現場に生きることになるだろう。
国旗・国歌、「日の丸・君が代」に不服従を貫く人の思いはさまざまである。もちろん、弁護団員も思想はさまざまだ。統一する必要などさらさらない。私個人は、ナショナリズムを正当化する教育の統制が、再びの軍国主義や戦時の時代を準備することを恐れる気持ちが強い。集団的自衛権行使容認決議に続く、戦争法の成立は、私の危惧を杞憂ではないものとしているのではないか。
ことあるごとに、想い起こしたい。戦後教育を担った教師集団の原点は、「再び教え子を戦場には送らない」という決意だった。
逝いて還らぬ教え子よ
私のこの手は血まみれだ
君を縊ったその綱の
端を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
嗚呼!
「お互いにだまされていた」の言訳が
なんでできよう
慚愧、悔恨、懺悔を重ねても
それがなんの償いになろう
逝った君はもう還らない
今ぞ私は汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」
「東京『日の丸・君が代』処分取消訴訟(3次訴訟)原告団・弁護団」の声明の末尾は次のとおりとなっている。
「私たちは、今後も「国旗・国歌」の強制を許さず、学校現場での思想統制や教育支配を撤廃させて、児童・生徒のために真に自由闊達で自主的な教育を取り戻すための取組を続ける決意であることを改めてここに宣言する」
「学校現場での思想統制や教育支配」それ自身も恐ろしいが、その先にあるものこそが真に恐ろしい。「日の丸・君が代」強制はその象徴である。これに抗して闘っている教員集団は、実は歴史的な大事業を担っているのかも知れない。
(2015年12月5日・978回)
本日は、樋口陽一講演会。「心も命も奪う戦争国家は許さない11・15集会」において、「『戦後からの脱却』の中の教育・個人ー「日の丸・君が代」の何が問題か」と題する中身の濃い講演を聴くことができた。
安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というフレーズの重大性と、自民党改憲草案の非立憲主義的性格のひどさについての講演も貴重な内容だったが、教育問題に限って、内容を要約して紹介する。
レジメはない。録音もしていない。飽くまで私の理解した範囲で、再構成したものとご理解いただきたい。いずれ、録音反訳したものが公開されるだろうと思う。
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大きく分類して教育観には対極的な2種がある。一つが、教育を私事と見る「私事性の教育観」。そしてもう一つが教育を公共の役割に位置づける「公共性の教育観」。
伝統的には教育は私事であった。宗教団体や部分社会が教育を担当し、子の親は自分が属する団体に子の教育を託した。宗教的価値観を含んでの教育が行われることになる。この伝統はアメリカによく生きている。教育の公共性を強調する制度の典型が19世紀以来のフランスで、親から子を引き離しても公共が子らの教育に責任を持つという考え方。今でも、学校は公共の空間であって、フランスの学校は校門の中に親を入れない。政教分離が徹底し、私的な価値観は教育から切り離される。宗教的な象徴を校内に入れないという原則の徹底から、ムスリムの子らのスカーフ着用禁止問題が起きているほど。
この両者それぞれの教育観は、具体的な制度においては混在することになるが、国民の教育を受ける権利の保障や教育の機会均等の視点からは、教育の公共性を無視することはできない。
日本では、国民の教育権と国家の教育権との教育権論争が続けられてきたが、両者ともに「公共性の教育観」を前提にしたその枠内での議論であったといってよい。国民の教育権論における「国民の」とは、日本国憲法下でのあるべき真っ当な国民を想定して、あるべき国民を主体としたあるべき民主的教育論であった。
教育における公共性の重視は、教員に公共的な専門職としての義務を要求することにつながる。教員個々人に、その職務の遂行過程で個人的な思想良心に従った教育を行うことの自由が保障されているわけではない。従って、「日の丸・君が代」強制を違憲と主張する訴訟において、このまま教員たる個人の思想良心侵害の問題を主戦場としてよいのか疑問なしとしない。
それぞれの教員が自分史を積み上げて現に有している思想・良心を対象に、その侵害を許さないとする主張の仕方では、違憲判決獲得に限界があると考えざるをえない。現実にそれぞれの教員がもっている思想・良心ではなく、公共的な役割の担い手としての教員が有すべき職責としての思想・良心を想定して、そこからの逸脱があるか否かを考察しなければならない。そのような枠組みから新たな裁判勝利への道が開けるのではないか。
よるべき憲法条文上の根拠は、教員の思想・良心の自由を保障する憲法19条ではなく、子どもの教育を受ける権利を保障した憲法26条ということになるだろう。子どもの教育を受ける権利が飽くまで主軸となって、子どもの権利を全うするために教員のなし得ること、なさねばならぬことの範囲が決まる。ここで問題となるのは、教員の権利というよりはむしろ教師としての職業倫理に裏付けされた義務ではないか。
人が人を貶めてはならず、人が人を貶めていることを平然と傍観していてもならない。「日の丸・君が代」強制の可否をめぐる局面における教員の義務とは、そのような意味で、傍観者となることなく子どもに寄り添うべき義務であろうと思う。
(2015年11月15日・連続第960回)