ソチでの冬季オリンピックが始まった。メディアは都知事選を駆逐してオリンピック一色。そればかりではない。開会式の派手な演出にマスメディアが踊らされて、プーチン・ロシアの国威発揚を幇助している。いや、ロシアばかりではない。この舞台に溢れる過剰なナショナリズムに辟易せざるを得ない。
2020年東京オリンピックの際の喧噪はいかばかりだろう。不愉快な行事への巻き込まれは、まっぴらごめんだ。その間は我が家に鍵をかけて東京を脱出しよう。オリンピック疎開だ。
なによりも、各国の国旗の洪水にうんざりである。旗ではなくバラの一輪、梅の一枝でもかざして歩く風流な参加者はいないものか。旗でもよい。手作りのデザインで、平和や自然の保護を訴えてみてはどうか。「国家」という、これ以上ない不粋なもののシンボルをかかげた何千人もの無邪気な行進を恐ろしいと思う。
幕藩体制の崩壊とは、各藩のナショナリズムが日本というインターナショナリズムに呑み込まれる過程だった。いま、日本というナショナリズムが、インターナショナリズムと拮抗している。インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実のパワーである。いずれ、ナショナリズムは克服されて消滅するだろう。国境という人為的境界は、情報と経済と往来の交流によって意味をなさなくなる。言語と宗教と生活様式も入り乱れ、人種の純粋も維持できるはずがない。国境という政治権力の支配領域が消滅することは、人が人らしく生きていくことのできるための大きな歴史の進歩である。
国際社会が、国家を単位として成立している現状では、国旗は各国家を識別する機能をもつものとして有用な存在である。本来それだけのことだ。しかし、国民のナショナリズムの感情と、ナショナリズムの機能を知悉する国家や政権においては、国旗は別のはたらきを期待され、あるいは意図的に利用される。国民一人一人の意識を国家に収斂させ、その方向で国民を統合させる機能の活用である。国旗が象徴する国家の統治における利便のために、国民の個人としての人権意識を眠り込ませ、国家に服属せしめる役割と言ってもよい。
権力は、無批判な統治しやすい国民がお望みだ。「個の確立」だの、「思想良心の自由」などと、生意気なことを言わない国民精神を叩き込みたい。権力や国家と一体化した国民の精神形成を好都合としているのだ。さらに、国家の政策に積極的に献身する国民の精神をつくり出すことができればこの上ない。
「国家を抑圧者だと思うな。国家を危険な存在と考えてはならない」「国を愛せ。国を敬え。国民一致して国を支えよ」と教えたいのだ。その意図を貫徹するために、国家を象徴する国旗への忠誠の態度の涵養が極めて重要な役割を演じる。まずは、なんの疑問もなく、無邪気に無批判に、そして自然に国旗に頭を下げ、日の丸の小旗を打ち振る習慣を作ってもらいたい。そうすればしめたもの。そのために、オリンピックは格好の学習の場だ。
かつて、出征兵士は日の丸の小旗の波で戦地に送られた。その戦地では、一つの街を落せば、そこに日の丸が掲げられた。日の丸は、侵略と植民地支配のシンボルというだけでなく、戦争を支えた忠君愛国、滅私奉公の臣民精神のシンボルでもあった。その忌まわしい過去を持つ旗が、今法制上国旗となっていることを嘆かざるを得ない。
ソチのオリンピック会場の開会式では、日本の選手団も観客も、無邪気に日の丸の小旗を振っていたようだ。その無邪気さ、無批判さが恐しい。その無邪気・無批判な多数者の行為が、集団の圧力となって日の丸に敬意を表することに疑問を呈する少数者を圧迫する。それだけではない。無邪気な多数者が支える権力が少数者への国旗強制を可能とする。
いま、ロシアは、同性愛に対する偏狭な姿勢で国際的な批判を受けている。同性愛宣伝禁止法や同性婚への非寛容が人権侵害であることは、多くの無邪気で無批判な日本の国民には理解しがたいのではないか。国旗や国歌の強制についても、よく似ている。無邪気で無批判な大多数には他人事だが、国旗や国歌、あるいは「日の丸・君が代」の押しつけには、精神の核心において受容しがたく、全人格をかけて抵抗せざるを得ない人もいるのだ。
オリンピック会場の国旗の波は、社会的同調圧力となり、さらに「民主主義的手続」で権力的な強制に至る。だから、オリンピックは憂鬱だ。オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。オリンピックを国威やナショナリズム昂揚の場とすべきではない。国家からの統制を受けない精神の自由に思いを馳せよう。
(2014年2月8日)
本日配送された東京弁護士会の機関誌「りぶら」の巻頭に、樋口陽一さんの「憲法の『うまれ』と『はたらき』」という寄稿がある。憲法改正の論議が、「うまれ」と「はたらき」を問題にするものと捉えて、副題のとおり、「改憲論議の背景を改めて整理する」という内容。長い論文ではないが、さすがに読み応えがある。
憲法の「うまれ」と「はたらき」という用語法は、1957年の宮沢俊義「憲法の正当性ということ」によるものとして、まず宮沢の、「うまれ」と「はたらき」についての議論が紹介される。続いて、同じく敗戦から生まれた憲法をもつドイツ(再統一前は西ドイツ)における議論との比較に紙幅が割かれ、その考察から自民党改憲草案の批判で締めくくられている。
「うまれ」に関する論述にも興味深い点があるが割愛する。主たるテーマとしての「はたらき」についての論説だけを紹介したい。
『宮沢が憲法施行10年を経て憲法の「はたらき」を論ずるとき、彼は、「法の解釈」を主導する立場に立って明確な価値判断の物差しを提示する。「人間の社会の目的」として,「自由」と「人間に値いする生存」という二つの価値を挙げている…。これら二つの価値は…この地上で「人類普遍」にゆき渡っていることから離れて遠い。だが,「解釈学説」の立場に立ってこの物差しを前提にするならば,憲法の「はたらき」について,水掛け論でない議論が成り立つはずである。』
「自由」と「人間に値いする生存」。この二つが、「人間の社会の目的」であって「法の解釈」を主導する価値判断の物差しだという。なんとシンプルで、力強いメッセージではないか。
この物差しを基準にした評価において、ドイツと日本とでは、憲法の「はたらき」に大きな差が生じている。その視点から、つぎように語られている。
『基本法成立50周年の節目におこなわれたドイツ国法学者大会(1999年)で,演説した学会理事長(Ch.シュタルク)は,半世紀間の憲法と憲法学の実績を積極的に評価することができた。』『西ドイツという部分国家の暫定憲法だった基本法は,すでに長く確定的な憲法と目され,本物であることを実証し,法についての共通理解の根拠,統合要因となり,それどころか,他の諸国の多くの新憲法の手本としてすら役立ってきた。』
『「日本国憲法50年一回顧と展望」を主題とした1996年日本公法学会での二つの記念講演は,同じく自国の憲法50年をふり返ってのシュタルク講演との好対照を見せている。宮沢のあとをうけて憲法解釈学説の主流を担った芦部信喜は,「改憲論およびそれとセットで打ち出された軍事,公安・労働,教育,福祉あるいは選挙制度改革などの諸政策を前にして,自由主義的・立憲主義的憲法学は批判の学ないし抵抗の学としての性格を強めざるを得なかった」と指摘した。違憲審査の実務に最高裁判事として携った体験をふまえて伊藤正己は,「憲法学と憲法裁判の乖離の現象とその原因と考えるもの」の検討を主題としなければならなかった。』
ドイツでは「半世紀間の憲法と憲法学の実績が積極的に評価」されているのに、日本では「憲法のはたらきの欠損」を問いつづけなければならない現実があるのだ。
憲法学は現行憲法の「はたらきの欠損」を嘆いているが、現政権は現行憲法の「欠損したはたらき」さえも桎梏と感じている。その典型が、「政権に不要な足かせと感じられている9条」の改廃が必要とされていることだ。
そのような視点から、『いま一番有力な案として国民に示されている「自由民主党憲法改正草案」(2012・4・27)が,これまでの同党の草案・構想類と質的に違う』ことを見定めておく必要があるという。その具体的な指摘が次のとおりだ。やや長いが、引用する。
『自民党案の特徴は,何より,前文の全面書き換えにあらわれている。案に添えられたQ&Aは,全文差し替えの理由を説明して,「天賦人権振り」の規定だからよくないと言う。現行の前文は,「この憲法」が西洋近代の法の考え方を「人類普遍の原理」として受け入れるという立場で書かれている。それに対し改正案の文言は,「日本国」「わが国」の特性を強調する言葉で綴られている。「長い歴史と固有の文化」「天皇を戴く国家」「国と郷土」「誇りと気概」「美しい国土」「良き伝統」「国家を末永く子孫に継承」などの語句それ自体としては,人びとの共感を呼びおこすでもあろうし,逆に反感の対象となるかもしれない。だがここでの問題はそういう次元でのことではない。これらの文言が,「天賦人権振り」を嫌い「人類普遍の原理」への言及をあえて削除するという文脈の中で持ち出されていることが,問題なのである。「イスラームにはイスラームのやり方がある」「中国には中国流の人権がある」というのに倣うかのように「日本は日本」という対外発信を含意する改正案は,これまでの政権が「価値観を共有する」と揚言してきた米欧諸国との間でのどのような関係を想定しているのだろうか。』
つけ加えて、樋口さんは次のように言う。
『改正案を「明治憲法への逆戻り」と評するのは,全くの見当違いと言わなければならない。』
樋口さんによれば、大日本帝国憲法は、近代化による欧米世界への参入のための必然的要請に応えるものとしてつくられ、『その本文各条は概ね19世紀ヨーロッパ基準の原則に対応して書かれている」。つまり、グローバルスタンダードからの乖離という視点では、自民党改憲草案は大日本帝国憲法以上に問題性を抱えたものだというのだ。
さらに、現行憲法13条の,「すべて国民は,個人として尊重される」の「個人」を「人」に変えようとする改正案に関して、『「個人」の生き方の自律と利益主張に正当性の根拠を提供して戦後社会の安定を支えてきた憲法の「はたらき」に,正面から異議申立をあえてするそのような改正案を掲げる現在の自由民主党のありように対し,元総裁(河野洋平)や幹事長経験者(加藤紘一,野中広務,古賀誠)の諸氏が憂慮の思いを公にしていることは,重要な示唆を与える。』と指摘している。
戦後社会の安定を支えてきた「保守」政治に、日本国憲法の「はたらき」が大きく寄与してきたとの認識である。旧来の保守とは様相の異なる、現安倍政権は、この「憲法のはたらきに基づく安定」を投げ捨てて、危険な方向に走り出しつつあるということだ。
安倍政権の暴走を止めなくてはならない。「旧来の保守層」の良識を信頼し、大きな共同の力を結集して。手遅れにならなないうちに。
************************************************************************
ウメの木のピンチ
「春されば まず咲くやどの梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ」
山上憶良
「梅の花 折りてかざして遊べども 飽き足らぬ日は 今日にしありけり」
礒氏法麻呂
「梅の便り」が聞かれる季節になった。しかし今年はそんな暢気なことをいっていられない。今日の毎日が「青梅の『公園』まつり後」「梅すべて伐採」と報じている。果実の葉や実に天然痘(ポックス)のような丸い模様が出て、実が商品価値のなくなる、プラム・ポックス・ウイルス(PPV)の流行が猖獗をきわめているとのこと。人体に悪影響はないが、ウメ本体の治療法はなく、根ごと抜いて焼却する以外に蔓延を防止する方法はない。吉野梅郷の「梅の公園」では、すでに500本以上を伐採したが残る700本も、「梅まつり」のあとに伐採することにしたという。
青梅市全体では、2009年の病気流行以来6万5千本あったウメの3分の1が消滅した。それでもPPVの流行が食い止められるかは予断を許さない。緊急防除地区は、青梅市、羽村市、日ノ出町、八王子市など広範な東京都西部地域にひろがっている。さらに、ここから苗木や接ぎ木が出荷された大阪府や兵庫県にも流行はおよんでいる。南高梅の最大産地・和歌山県はさだめし戦々恐々としていることだろう。
恐ろしいことに、このウイルスはアブラムシによって媒介され、ウメだけでなく、アンズ、モモ、セイヨウスモモなどのサクラ属が感染する。果樹園だけでなく、公園や一般家庭の庭木の感染にも目を配らなければならない。各自治体では「お宅の庭木に病気が出ていれば申し出てください」と呼び掛けている。このままおけば、PPVは全国にひろがってしまうおそれがあるのだから。「まず咲くやどの梅の花」などと暢気なことはいっておられない。
農作物としての梅の木の除却には、植物防疫法に基づいて損失補償がなされるというが、丹精込めて梅の木と実を育ててきた出荷農家の不安はいかばかりだろう。なお、青梅市の「梅まつり」観光収入は9億円にのぼるが、こちらは補償が難しいといわれている。「花を愛でる愛着の心」などは補償の対象に考慮してもらえそうにない。
日本の植物の代表格「松竹梅」のうちのふたつが深刻な受難の事態にある。アカマツもクロマツも数年前から、マツノザイセンチュウに侵されて、海岸からも庭からも消えつつあるのだ。庭の黒松の枝や葉がだんだんに赤くなり、枯死していくのをなすすべもなく見ているのは本当につらいことだ。そしていま、梅も同じ運命をたどりつつある。しかし、もうひとつの「竹」だけは、過疎化して手入れの行き届かない竹林から這い出して、山や野原や道路まで埋め尽くす勢いで繁茂している。
今に始まったことではないが、「滅び」も「栄え」も、人の手には負えない。せめては、人の手でできる範囲では徹底して自然を守ろう。戦争はやめよう。原発もやめよう。
(2014年2月7日)
明日2月7日(金)が日弁連会長選挙の投開票日である。次期の日弁連新会長(任期2年)が決まる。私は期日前投票を済ませた。
今回選挙で会長に当選すると目されている候補者は、日弁連の憲法委員会委員長、人権擁護委員会委員長の経歴をもつ。同候補の選挙スローガンが「憲法と人権を守り 築こう明日の日弁連」というもの。政策パンフレットを見る限り、これまでの日弁連の路線を踏みはずすことはない。
人権擁護、憲法「改正」阻止、憲法の理念の尊重、司法の独立、日弁連の在野性の確立等の、日弁連に定着した路線は、全国の多くの弁護士が長年積み上げてきた努力の結晶である。けっして一人のスーパースターの功績などではあり得ない。
そのような実績を積み上げてきた会内「主流派」の存在がある。名付けるなら、「護憲派」「人権派」あるいは「理念派」である。その人的構成において、革新派弁護士層と良心的保守層との緩やかな連合、と言ってよいだろう。近年その優位が揺らぐことはない。たった一度の例外を除いては。
2010年の日弁連会長選挙では、異例の再選挙になって、このときばかりは「主流派」が敗れた。勝利したのは、宇都宮健児君だった。宇都宮候補のスローガンは、「弁護士人口の増員反対」「司法修習の給費制維持」、そして「会内派閥体制の打破」であった。憲法や司法の理念をめぐって、日弁連の方針が争われたわけではない。
政府は、既に司法試験合格者を年間3000人に増員する計画を確立し日弁連も賛意を表明していた。宇都宮君は、「合格者数を年間1500人に削減する」と主張した。これに対して、主流派候補は削減数の明言を避けた。「司法改革」に関わってきたこれまでのしがらみがあったというだけでない。法曹人口増員は司法利用者である国民に有益で、「これに反対することは一般庶民に弁護士のエゴと映るのではないか」「多くの国民の賛意を得られないのではないか」という躊躇があったからである。
主流派と宇都宮君の主たる対立争点はこの点に収斂し、弁護士増員で経済的な苦境に曝されている地方会の多くが宇都宮君を支持した。こうして宇都宮会長が実現した。このとき、主流派の活動家の言葉が印象に残っている。「誰が会長になっても、憲法や司法の理念に関する日弁連の基本路線が揺らぐことはない」。確かにその通りとなった。
組織運営がスムーズに行われる組織においてはどこも同様であろうが、会長のパーソナリティで、日弁連の方針や姿勢が大きく変わることはない。言うまでもないが、人格識見優れた人物が会長選に立候補しているわけではないし、日弁連会長経験者が仲間内で尊敬されている弁護士ということでもない。
1970年代からの会長経験者のうち、個人的に尊敬に値すると思えるのは土屋公献さんくらい。また鬼追明夫さんの硬骨漢ぶりには敬意を惜しまない。その外には、格別敬意を表すべき人を知らない。会長経験者をことさらに持ち上げたり、何もかも一人がやり遂げたような都知事選での宣伝は、聞かされる方が恥ずかしくなるだけでなく、多くの弁護士を白けさせることになるだろう。
ところで、日弁連会長選挙と同時に、私の所属する東京弁護士会の常議員選挙も行われる。こちらも期日前投票を済ませた。私が投票した候補者の公約の一部を抜き書きしておきたい。
「弁護士会は、いま重要な課題を抱えています。国民世論を無視して特定秘密保護法が成立し、事実上の解釈改憲を意図する国家安全保障基本法が国会に上程されようとしています。基本的人権の尊重と恒久平和主義を基本原理とする憲法が危機に晒されています。東日本大震災の被災者と原発事故被害者の早期救済、法曹人口問題、若手会員への支援など課題は山積みです…」
日弁連会長が誰であるかにかかわりなく、弁護士会なかなか真っ当ではないか。
(2014年2月6日)
権力が国民を支配する手段は、本質的には暴力による強制である。しかし、現代社会において立憲主義が確立してくると、剥き出しに権力の意図を国民に対する暴力で貫徹することは困難となってくる。後景に退いた暴力に代わる国民支配の最重要手段は、法は措くとして、情報の統制と教育の管理である。
権力は、できることならメディアのすべてを統制下に置きたい、総体としての教育を政権の伝声管としたい、と願望する。その内的衝動はすべての権力に通有のものではあるが、安倍晋三政権においては、とりわけ露骨なものとして突出している。
国民の側から見て、権力による言論の統制と教育の管理ほど危険なものはない。だから、国民の知る権利の重要性が喧伝され、まともなジャーナリズムには権力からの独立が不可欠とされる。また、真っ当な社会においては、権力の管理から独立した教育の自由が重んじられなければならない。
安倍政権は、情報の統制にも教育の管理にも既に手をつけている。情報の統制はまずはNHKから。「新聞の統制も民放の統制もなかなかに難しい。しかし、NHKならなんとかなる。ここからなんとかしよう」と思ったに違いない。幹部人事を通じてNHKを統制しようとの決意は、まずは経営委員会に自分の息のかかった人物を送り込むことによって実行に移され、ついで今回の会長人事となった。
かつて、石原慎太郎という右翼政治家が都知事になって、都民から308万票を得た傲りで教育委員を自らの提灯持ちで固めた。こうして、東京都の公立校全体に「日の丸・君が代」強制を持ち込んで、いまだに教育現場は混乱と衰退の爪痕を残している。あの悪しき前例とよく似ている。安倍晋三は、NHKをコントロールして完全にブロックしておきたいのだ。
昨年11月、安倍がNHKの経営委員に送り込んだ、「安倍ダミー」は次の5名である。
百田尚樹、長谷川三千子、本田勝彦、中島尚正、石原進。
このなかで本田勝彦は知られていないが、安倍の小学生時代の家庭教師を務めた人物だという。この全員が、「不偏不党、公正中立」を旨とするNHKにおいて、そのコンプライアンスに責任をもつべき立場に不適切であることは一目瞭然ではないか。なお、経営委員は12人。任期は3年である。安倍の息のかかった委員は、このままでは直ぐに過半数になる。NHKは、安倍政権の操り人形にならざるを得ない。
NHKは国営放送局ではない。国家や政権のためではなく、国民のための公共放送である以上は、権力からの独立が不可欠である。本来、安倍晋三が意気投合した人物や安倍が信頼する人物であってはならない。政権から独立した人物、しかも独立していることについて国民の信頼を勝ち得る人物が望ましく、ふさわしい。
既に百田尚樹は都知事選においてかの田母神俊雄を応援し、「南京大虐殺はなかった」などと歴史修正主義者としての発言で物議を醸している。そして、今度は長谷川三千子だ。
長谷川三千子は、これまで数々の極右的言論で顰蹙を買ってきたが、今回報道された「野村秋介追悼二十年 群青忌」なる文集に掲載された追悼文は凄まじい。
野村は、朝日新聞社に押しかけて抗議の意思表示として拳銃自殺した右翼である。朝日というメディアへの狂気の圧力には全く触れず、これを礼賛している。しかも、その礼賛のしかたが今どき信じがたい時代錯誤。
「人間が自らの命をもつて神と対話することができるなどといふことを露ほども信じてゐない連中の目の前で、野村秋介は神にその死をささげたのである」「『すめらみこと いやさか』と彼が唱えたとき、わが国の今上陛下は『人間宣言』が何と言はうと、日本国憲法が何と言はうと、ふたたび現御神となられたのである」というのだ。また、朝日新聞について「彼らほど、人の死を受け取る資格に欠けた人々はゐない」と貶めている。
かつて神であった天皇の神性を否定するところに、現行憲法の核心のひとつがある。天皇を再び神とする思想をもつことは、憲法(19条)が保障するところではあるが、そのようなことを公言する人物はあらゆる公職にふさわしくない。NHK経営委員の資質を問うというレベルの問題ではない。
菅義偉官房長官は本日(5日)の記者会見で「経営委員は思想、信条、表現の自由を妨げられない。放送法に違反するものではない」と述べ、問題ないとの認識を示した、と報じられている。
これが、安倍政権だ。「南京虐殺はなかった」「天皇は再び神になった」「政府が右といえば、左というわけにはいかない」という、政権に親和的な言論は「思想・信条・表現の自由」として徹底して擁護するのだ。安倍政権が、このような極右勢力とどれほど緊密に一体化しているか、右翼言論人をして安倍の本音を語らせているか、しっかりと見極めようではないか。
政権の傀儡たるべく極右勢力に乗っ取られたNHK。このままでは、信頼回復の展望は見出しがたい。
(2014年2月5日)
予てから指摘しているとおり、前回都知事選(2012年12月16日施行)における宇都宮健児候補の選挙運動費用収支報告書(同年12月28日付分)の記載によって、同陣営の運動員買収の疑惑が濃厚である。けっして規模が小さい故に無視できるものではない。宇都宮君に、猪瀬を初めとする他の政治家の違法を正す資格があるのかが問われなければならない。
上原公子選対本部長(元国立市長)と服部泉出納責任者に対する運動員買収を明示したが、被買収運動員はこの2名に限らない。「労務者」「事務員」として届けられた者、最大29名に及ぶ可能性がある。買収者は、収支報告書に名前は出てこないが選対事務局長であった蓋然性が高い。公職選挙法221条1項に違反するもので法定刑の最高量刑は懲役3年である。
私は、選挙告示の前日(1月22日)のブログhttps://article9.jp/wordpress/?p=1970に次のとおり記載した。
「東京都知事選は、とうとう明日が告示日。明日から選挙運動期間である。
念のために、今日また東京都選挙管理委員会に足を延ばした。2012年12月16日施行の東京都知事選挙における宇都宮健児候補の選挙運動資金収支報告書を閲覧してきたが、本日(1月22日)午後の時点で、何の訂正も変更もなされていないことを確認した。宇都宮陣営は、前回選挙における選挙運動収支報告書の重大な届出ミスを認めながら、これを放置して次の選挙に突入しようとしている。
上原公子選対本部長(元国立市長)の労務者報酬10万円受領の届出も、添付の選挙運動報酬受領証も何の変更もなくそのままであった。服部泉出納責任者についても同じこと。合計29名に及ぶ疑惑の「労務者」「事務員」についての届出訂正もない。宇都宮陣営の1月5日付文書「法的見解」では、随分と簡単に「記載ミスを訂正すれば済む問題である」と言っておきながら、何の訂正もせずに次の選挙に突っ込もうというのだ。誰の目にも、「コンプライアンス意識に問題あり」が明白ではないか。あるいは、「記載ミスを訂正すれば済む問題」と言ってはみたが、実は「労務者報酬受領」と届出を脱法しての運動員買収の事実は訂正のしようがないということなのであろうか」
ところが、宇都宮選対は、同じ1月22日付で収支報告書の訂正届出をしていた。私が報告書を閲覧して確認をしたあとのことになるのか、あるいは同日の訂正届出が報告書に反映されたのが私の閲覧のあとになったのかも知れない。いずれにせよ、私がその訂正を確認したのは昨日(2月3日)のこと。都庁に用事があって、ついでに選挙管理委員会によって閲覧の結果である。
訂正の態様は、上原公子選対本部長と服部泉出納責任者両名に対する、各労務者報酬として明記された10万円の支出の届出を抹消するというもの。
1月5日付の宇都宮陣営の「法的見解」は、次のように言っていた。
「公職選挙法は『選挙運動に従事する者』の実費弁償を認めている(197条の2)。上原氏はこの『選挙運動に従事する者』であり、交通費や宿泊費など法的に認められる支出の一部にすぎない10万円の実費弁償に何の違法性もないことは明らかである。」「もっとも上原さんらの上記10万円の実費弁償が選挙運動費用収支報告書に誤って「労務費」と記載されていることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である。」
「法的見解」では、「上原さんら」への選挙運動費用としての10万円の支払いと、同人らの同額の受領を否定していない。2012年12月14日の日付がはいった「上原さんら」の署名捺印のある領収証に、「選挙報酬として」受領したと明記されているのだから、受領の事実は否定し得ないと判断したのだろう。だから、「選挙報酬として」という受領証の記載も、収支報告書の支出目的欄に届け出た「労務者報酬」という記載も間違いで、実は「交通費や宿泊費の一部」だったと取り繕うほかはなかったのだろう。
以上の「法的見解」の記載から、私は当然のこととして「労務者報酬」としての支出の届出を「交通費や宿泊費」に訂正するのだろうと思っていた。そのために、これを証する領収証を調達する努力がなされるだろうし、もしそれができなければ、領収証に代わるものとして公職選挙法189条1項に定められた「領収証…を徴し難い事情があったときは、その旨並びに当該支出の金額、年月日目的を記載した書面」を作成して提出することになるだろう、そう思っていた。
ところが宇都宮選対はそうしなかった。選挙運動費用収支報告書の記載は、「上原さんら」への支出はまったく無かったものと「訂正」されたのだ。「労務者報酬」としても、「交通費や宿泊費の一部」としても、支出と受領の事実そのものが抹消された。「法的見解」とはまったく異なるストーリーとなったのだ。
この訂正の結果、選挙運動費用の支出総金額は20万円の減額となった。すると、選挙カンパの残額は20万円増えてなくては辻褄が合わないことになるが、さて上原さんらは現金を払い戻したのだろうか。
なお、宇都宮候補の出納責任者として選管に届出されたのは服部泉さん一人だけである。ところが、選挙運動費用収支報告書の「第2回分」(2013年2月12日付)の届出は別人の「出納責任者・服部勇」が行っている。「真実に相違ありません」という公選法に基づく宣誓をしてのことである。今回、この点も併せて1ページ全部が差し替えられて訂正された。前代未聞のお粗末な訂正ではないか。
選挙管理委員会は、届出も訂正も内容の真偽にかかわらず受理はする。選挙管理委員会の届出受理が適法性のお墨付きとはならない。もちろん、訂正の経過はしっかりと残すようになっている。これから検証されなければならない。
この度の訂正は、選挙運動に関する費用の収支報告を適正になすべき公職選挙法上の義務に反した違法を自認したものである。届出の違法を指摘されて、違法を認めたから訂正した。いうまでもなく、訂正したから罪にならないということにはならない。報告書提出時点で犯罪は成立しているのだから。
公職選挙法の該当条文は以下のとおり。
「246条 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する
5号の2 第189条第1項の規定に違反して報告書若しくはこれに添付すべき書面の提出をせず又はこれらに虚偽の記入をしたとき」
これは、いわゆる形式犯である。「うっかりミス」も処罰の対象となる。先の選挙運動員買収は実質犯として懲役3年、こちらは形式犯であるが故の禁錮3年。もっとも、形式犯としては法定刑が重い。このことについて、「逐条解説 公職選挙法」は、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから、けだし当然のことというべきである」と述べている。
上原、服部両人の各10万円受領の事実は、報告書の「訂正」によっても動かしがたい。「法的見解」によって補強されているところでもある。しかも、今回の「訂正」によって、受領費目が「旅費・宿泊費」ではないとされているのだから、10万円の授受は運動員買収と考えざるを得ない。
上原・服部の受領費目を「旅費・宿泊費」としたのは「法的見解」だが、今回の訂正はこれを否定した。同じ報告書には宿泊者の特定はないものの、31泊分の宿泊費の支出を計上している。上原・服部らが真実宿泊しているのなら、支出費目を宿泊費と特定して支払いを請求し受領して、その旨を届け出たはずである。また、タクシー代を主とする交通費の支払いも188件の支払いが届け出られている。上原、服部両人が、領収証なしに各10万円の交通費の支給を受けたとは到底考えられない。誰が見ても、真実は、届出の虚偽ではく、選挙運動の対価としての報酬の受領であったろう。つまりは、禁錮刑の範疇ではなく、懲役刑の範疇の行為なのだ。
昨年10月の川崎市長選での福田紀彦市長陣営の提出した選挙運動費用収支報告書にミスがあったとして訂正になった。事情をよく調べてみると、なるほど陣営の言い分には納得しうるものがあるというべきである。それでも、「神奈川新聞」と、「朝日」「毎日」(いずれも地方版)はこれを取材し記事にした。まさしく、「選挙の自由公正は適正な選挙運動費用の収支の確保によって担保されるものであり、これが適正に行われないときは選挙の自由が著しく阻害され、選挙の信用をも失墜せしめる原因ともなるのであるから」という観点からである。しかし、なぜか宇都宮陣営の選挙運動費用収支報告書の訂正は、メディアの報道するところとなっていない。
(2014年2月4日)
先日、東京都選挙管理委員会の事務局で、まったく偶然に、とある都知事選立候補予定者と言葉を交わす機会があった。前回都知事選にも立候補されたとのことだったが、失礼ながら当方はまったくそのお名前を存じ上げない。供託金は確実に没収されるだろうにまたなぜと、興味津々で余計なことを口ばしった。
「供託金300万円はご負担ではありませんか」
その方は、やや訝しげな表情で、「いいえ。少しも高いとは思いません」「私には訴えたい政策がありますから。むしろそのチャンス」ときっぱりした態度。続けて、「私は、どうしても三つのことを都民に訴えたいのです」と短く政策を語った。何度となく繰り返しているのだろうと思われる滑らかな口調。物腰も柔らかだった。「私は一介の労働者ですが」という言はあったが、300万円の供託金が高額に過ぎるとも負担とも本心思ってもないという態度だった。いま、我が家に配布された選挙公報に、細かい字でびっしりとその方の政策が掲載されている。おそらくは、懸命に、その方なりの選挙運動に邁進しておられるのだろう。
また、私の知人の弁護士が立候補しており、いかにも彼らしい断固たる政策を掲げている。「1000万人の怒りで安倍を倒そう」「改憲・戦争・人権侵害を許さない」「戦争させない」「被曝させない」「貧困・過労死許さない」そして、「だからオリンピックはやらない」など。口当たりのよい当選のためのスローガンではなく、自らの固い信念の披瀝。その彼から選挙葉書が届いた。彼も、都知事選を自分の信念や政策を広く世に問う場として、精いっぱい活用している。彼にも、供託金が高額という思いはないだろう。
ところで、私が「立候補をおやめなさい」といさめた、別の知人の弁護士も立候補している。この人は、「日本の選挙における供託金は高額に過ぎる」「財産による差別ではないか」と繰り返している。この種の議論はよく聞くところだが、私は当たらないと思う。とりわけ、都知事選の供託金300万円は廉い。現実にバラエテイに富む候補者が多数立候補している。この程度の額の供託金が立候補のハードルになっているとは思えない。
私のブログを読んだ旧友が、わざわざ手紙をくれた。
「供託金は、自分の家を抵当に入れてでも自分で作らなければならない。金が作れないなら、立候補はあきらめるべきだ。なんとなく人に勧められたから、人がお膳立てをしてくれたから立候補するという感じがする。そんな根性では当選しても良い仕事ができるわけがない」
なるほど、そういう見方もある。
確かに、諸外国の制度と比較して日本の供託金は高額である。しかし、日本の選挙公営の制度は極めて充実している。選挙公営は、経済的に恵まれない候補者にも最低限の言論による選挙運動手段を保障する「民主主義のコスト」である。選挙公営による負担額は、供託金額をはるかに上回っている。このことを抜きにして、日本の供託金は高額と言うべきではなかろう。選挙制度をどう作るかについて、著しく不合理で国会の裁量の範囲を逸脱しているとは到底考えがたい。
前々回(2011年4月)都知事選は立候補者11人で経費は42億円かかった。前回(2012年12月)は9人で38億円。今回都知事選実施の総費用は50億円と報じられている。単純に16人の候補者数で割れば一人当たり3億円。300万円はその100分の1に過ぎない。微々たるものであるといって差し支えなかろう。
東京都選挙管理委員会による選挙公営の趣旨と内容の解説は、以下のとおりである。
「選挙公営制度は、選挙運動の公正を確保するため、候補者間の機会均等を保障するとともに、選挙人の政治参加を保障する趣旨で設けられている。現在、都選挙管理委員会が管理執行している選挙公営は、概ね次のとおりである。
(1) 通常葉書の交付
(2) ポスター掲示場の設置
(3) 新聞広告の掲載
(4) 政見放送
(5) 経歴放送
(6) 個人演説会の施設公営
(7) 選挙公報の発行
(8) 投票所内の氏名等掲示
(9) 特殊乗車券の交付
(10) 選挙運動費用の公費負担」
上記の(1)?(9)までは、全候補者に平等に提供される。(10)のみが、供託金没収されない法定得票(有効投票の10%)を得た者だけが受益者となる。
その具体的な内容は、以下のとおりなかなかのものである。
(1) 通常葉書の交付
1候補者当たり95,000枚(50円×95000枚=475万円相当)
(2) ポスター掲示場の設置
あのポスター掲示板は、全都で1万4132台ある。候補者は、ここにポスター掲示による宣伝の権利を得る。
(3) 新聞広告の掲載
新聞広告は、各候補者が選挙期間中4回の無料掲載をしてもらえる。
(4) 政見放送
テレビはNHK2回、民放3回。無料で放送できる。
ラジオはNHK2回、民放1回。無料で放送できる。
(5) 経歴放送
テレビはNHK1回。ラジオはNHKと民放と併せて5回。無料。
(6) 個人演説会の施設公営
公営施設を利用して個人演説会を開催する場合、候補者一人につき、同一施設ごとに1回に限り無料。
(7) 選挙公報の発行
発行部数は700万部。立候補者の政見を全所帯に配達してくれる。
(8) 投票所内の氏名等掲示
各選管の義務となっている。
(9) 特殊乗車券の交付
関係区域内でJR等の無料特殊乗車券15枚支給
(10) 選挙運動費用の公費負担(一定額まで)
*選挙運動用自動車の使用
*選挙運動用ビラの作成
*ポスターの作成
至れり尽せりではないか。これで300万円は高かろうはずがない。選挙葉書の発送費用を負担してもらうだけで、おつりが来る。訴えるべき政策のある人なら、都知事選に出馬して、堂々と都民に自説を披瀝しようという気持ちになろうというもの。少なくとも、300万円が高額に過ぎて立候補を妨げるハードルとなっているということには無理があろう。
なお、公職選挙法には選挙に関する争訟についての定めがある。「供託金が高額に過ぎて立候補の権利の障害となっているのは憲法違反」、「財産による差別」という選挙無効訴訟は、選管を被告としてくり返し起こされている。
東京都選挙管理委員会でも近時の例として次のものが報告されている。
2010年7月11日執行の参議院議員選挙(東京都選出)についての「選挙無効訴訟」。
「公職選挙法の定めによって、立候補に際し供託金を納めさせ、その金銭を得票数や当選人数に応じて没収する規定は財産と収入による差別にあたり、憲法に違反しているので無効である。この規定に基づいて行われた参議院議員東京都選挙区の選挙は無効である」との訴えが2010年7月21日東京高裁に提訴され、同年10月28日東京高裁判決(原告の請求棄却)、2011年11月8日最高裁上告棄却(判決確定)。
2011年4月24日執行の豊島区長選挙・豊島区議会議員選挙の「選挙無効訴訟」。
「選挙供託制度は財産により、選挙権や被選挙権を差別するもので憲法に違反しているので無効である」との訴えについて、同年9月5日東京高裁に提訴。同年12月14日請求棄却判決。2012年4月27日上告受理申立て不受理決定により確定。
国権の最高機関であり唯一の立法機関である国会は、最も民意に近い機関としての権威に基づいて立法裁量の権利をもっている。その裁量の範囲を逸脱して初めて、司法の出番となって違憲審査の対象となる。選挙の制度設計についても、この事情は変わらない。
供託金制度の存在理由は、かつては無産政党の進出防止にあったであろうが、今はそのようには言えまい。「売名目的の立候補乱立防止」についても、それだけでは供託金額の妥当性ははかりようがない。制度設計としては、「公営選挙のない供託金額の減額」か「公営選挙を伴う供託金額の維持」かの選択にあるのだろうと思う。少なくとも、都知事選における300万円の供託金の金額は、立候補者に与えられる公営選挙のメリットに鑑みるとき、これが国会の裁量の範囲を逸脱して、不当に被選挙権の行使を妨げているものとは言えない。すくなくとも、国会の立法裁量を逸脱するということには大きな無理があると言わざるをえない。
(2014年2月3日)
1月27日のブログに、特定秘密保護法と国民の公開裁判を受ける権利との矛盾について書いた。同時に、同法違反で起訴された被告人の弁護を受ける権利侵害の虞について触れた。
この点について、国会審議では、森雅子担当大臣は、くり返し「外形立証」で足りることを口にしている。「刑事訴訟法上の秘密の立証というのは外形立証で足りるとされております。例えば、秘密文書の、立案、作成過程、秘密指定を相当とする具体的理由等々を明らかにすることにより、実質秘性を立証する方法が取られております」という具合にである。この点について、もう少し考えて見たい。
特定秘密保護法違反被告事件の刑事訴訟では、被告人の行為が「特定秘密を漏えいした」等の立証が必要である。秘密とは、「非公知の事実であって、実質的にもそれを秘密として保護に値すると認められるもの」という「実質秘」概念として定着している。被告人に「実質秘」を侵害する行為があったことの立証責任は、当然に検察官が負担する。
侵害された特定秘密そのものの公判廷における顕出が「最良の証拠」である。しかし、公開の法廷において秘密をそのまま証拠調べすれば、秘密の内容が公開される結果となり、法廷において不特定多数の者に秘密が漏えいされることになる。だからといって、特定秘密の保護を優先して、「秘密漏えいに関する被告事件については司法の判断が及ばない」などという考え方は、絶対に憲法が許容するところではない。
この「矛盾」をどう解決すべきか。論理の上では、次の3通りが考えられる。
(1) 裁判所が公開手続において秘密とされた内容を直接審査しない限り、検察官の立証が不成功として無罪判決を言い渡す。
(2) 裁判官だけが、非公開の手続でその秘密を審査する。
(3) 直接に秘密の内容を取り調べるのではなく、周辺の間接事実を積み重ねることによる立証で、裁判所は有罪か無罪かの心証を形成する。
このうち、分かりやすいのは(1)である。このような考え方で無罪を言い渡した下級審判決もある。刑事訴訟の原則において、訴因の特定が要求され、有罪には合理的な疑いを容れない程度の立証が必要とされる上は、当然というべきだろう。立証は、単に秘密の漏えいがあったというだけでなく、その秘密の「非公知」性と、「実質的に秘密として保護に値する」という、「実質秘性」の立証が必要となるのだから。
但し、このことが特定秘密保護法違反事件は常に無罪になるということを意味するものではない。当該被告事件の行為時の報道により、あるいは起訴の報道によって非公知性が失われれば、秘密の秘匿は無意味になる。その結果、公判廷において「最良の証拠」として当該秘密の内容が顕出され、証拠調べの対象となって、実質秘性について裁判所の判断を仰ぐことになる。毎日新聞西山記者事件における「密約」は、そのようなものとして公判廷に顕出された。
(2)は、憲法上の公開裁判を受ける権利(37条、82条1項、同条2項但書)の保障をないがしろにするものとしてあり得ない。民事訴訟や人事訴訟、あるいは情報公開請求訴訟などで限定的に制度化されている「インカメラ」方式は、刑事手続においては採り得ない。
(3)が、森雅子氏のいう「外形立証」なるもの。刑事訴訟の立証といえども、直接証拠によらねばならない原則はない。間接事実や経験則を積み重ねて、立証の程度が、合理的な疑いを容れざる程度に至ればよいのだから、秘密漏えいに関する事件に特有の立証の方式が認められたというものではない。「外形立証」というネーミングが適切であるかも検討の必要があろう。
一般論としては、裁判公開の原則を遵守しつつ、当該被告事件において漏えいされた特定秘密を直接公判廷に顕出することのないままに、裁判所に有罪の心証形成を求めることは不可能ではない。周辺の間接事実と経験則の積み重ねによって、立証が可能。それはその通りだ。
しかし、「国家の重大事に関わる秘密保護を優先して、例外的に被告人の利益を劣後したものとして取り扱う」「刑事訴訟の原則を枉げて、有罪の心証として要求される立証の程度を緩和してよい」などということは、絶対にあり得ない。強引に(3)で押し通して有罪判決に至るとすれば、何が秘密かが分からぬままに処罰されてしまうことになってしまう。とすれば、結局のところ、(2)なく、(3)なく、残る(1)の原則に戻らざるを得ないのではないか。
特定秘密保護法は、公開の法廷で裁判を受ける国民の権利については、何の言及もしていない。この法律違反の刑事被告事件には、なんの例外措置もなく、刑事訴訟の原則のとおりの、被告人の弁護権、防御権が保障されなければならない。
しかし、「有識者会議 報告書」の末尾にある下記の一文に、立法者の意図を懸念せざるを得ない。
「特別秘密の漏えいにより国や国民が受ける被害の重大さに鑑みれば、その保全体制の整備は喫緊の課題である。知る権利など国民の権利利益との適切なバランスを確保しつつ守るべき秘密を確実に保全する制度を構築することは、国民の利益の一層の実現に資するものである。」
ここには、もし公開の刑事訴訟手続において特定秘密の内容を明示することなく有罪判決をとれないようなら、それは「国家の安全保障政策上由々しき事態だ」という考え方が露呈している。そのような権力の意向が、裁判所を屈服させることになるかも知れない。あるいは、政権は新たな刑事手続法の制定に着手するかも知れない。要は、「刑事訴訟の原則があるから安泰」などとは言っておられないということである。
(2014年2月2日)
橋下徹の大阪都構想が頓挫した。市長の補完勢力となっていた公明党が維新大阪を見限ったことによって、大阪市議会で橋下が完全に孤立したからだ。これまでも、維新の落ち目は明らかだったが、これで決定的な挫折が明らかとなった。橋下は、事態の打開を目指して辞職し、新たな市長戦に打って出る意向とのこと。この出直し市長選で敗れた場合には、「橋下徹・松井一郎の2人とも政界を去る」と明言をした。是非とも、潔く完全に政界を去っていただきたい。それが、日本の民主主義のためなのだから。
この間、私は民主主義とは何かを考え続けてきた。民主主義に代わる政治形態はあり得ないが、民主主義が万能であるわけはない。国民の政治意識の成熟なくして、民主主義は容易にポピュリズムに転化する。民主主義が独裁をすら生みだしかねない。その危うさを橋下維新に見てきた。橋下の台頭は民主主義への警鐘であり、橋下の挫折は民主主義の辛勝を意味する。
民主主義とは権力形成の手続である。集団の成員が特定者に対して、権限・権能・権威を委託する手続と言ってもよい。その手続において、集団全体の意思をできるだけ正確に反映する権力を形成することが想定されている。それが、成員全体の利益になるはずという予定調和が想定されている。
しかし、そうして形成された権力が成員全体の利益を実現するとは限らない。むしろ、権力が成立した瞬間から個々の成員との対立矛盾が生じることになる。予定調和は幻想に過ぎないのだ。多くの現実例によって、多数派形成の権力が少数者の人権を侵害するものであることを明らかにしている。
とりわけ橋下である。彼は、ことあるごとに「民意は我にあり」と強調してきた。民意は選挙に表れている、選挙に勝つことこそ万能の権力の源泉、と振る舞ってきた。しかも、彼の民意獲得の手法は、意識的に選挙民を煽って「民意の敵」をつくり出すというもの。「敵」とされるものは、大企業でも高額所得者でもない。公務員であり、教員であり、労働組合なのである。鬱屈している民衆の身近にいる羨望の対象。これを「敵」と規定し、容赦ない攻撃によるカタルシスを選挙民にもたらす。こうした非理性的な集票手段によって成立する権力が、教育委員会制度を破壊し、極端な「日の丸・君が代」強制を実行し、職員の思想調査や、不当労働行為を頻発している。
大阪都構想は、本質的には、財界が新自由主義的な社会保障切り捨て策として待望している道州制へのステップである。しかし、選挙民の感性レベルでは、東京に対抗意識の強い大阪人のプライドをくすぐる策でもある。民主主義的理性に訴えるのではなく、民衆の感性と憎悪の感情に訴えることによって保たれる権力は、暴走の危険を孕むものである。橋下維新の危うさは、今や革新と保守とを問わず、大阪市議会で維新以外の全政党政派の共通認識になった。そのことが維新の決定的な孤立をもたらしている。
願わくは、来るべき大阪市長選挙おける反橋下統一候補の擁立である。都知事選の轍を踏むことなく、候補者選定の過程をオープンにし、各会派の共闘に知恵を集めていただきたい。民主主義の大義のために。
(2014年2月1日)