澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

むち打たれた良心に重ねてむち打つ行為をやめよ?再発防止研修は舛添知事にこそ

本日(5月11日)午前8時35分、雨上がりの水道橋・東京都教職員研修センターの門前。本日の服務事故再発防止研修を命じられている受講者と並んだ私がマイクを握る。センターの総務課長に正対して語りかける。

本日、卒業式での国歌斉唱の際に起立斉唱しなかったとして、心ならずも再発防止研修を命じられ、これから3時間余に及ぶ受講を強制される教員に代わって、代理人の澤藤から都教委に抗議と要請を申し上げます。

私たちは、国旗国歌に対する敬意表明の強制を、これに従えないとする教員の良心にむち打つ心ない行為と抗議を重ねてきました。最高裁裁判官諸氏も、私たちの訴えを半ばは認めているところです。

むち打たれた良心を重ねてさらにむち打つ行為、むち打たれた良心の傷に塩を塗り込むに等しい行為が、今日これから行われようとしている再発防止研修にほかなりません。

自己の良心に照らして恥じない行為を選択した教員、生徒に対して最良の教師であろうとして良心を貫いた教員に、いったいどのような研修が必要というのでしょうか。自分の良心を殺せ、国家に売り渡せ、良心よりは世渡りが大切、生徒には上手な世渡りの見本を見せろ、とでもいうのでしょうか。

本来、服務事故再発を防止するための研修とは、良心に恥じる行為をした公務員に対して、その良心を呼び覚まし、覚醒された良心に従った行動をするよう促すことにあるのではないでしょうか。

そのような見地からは、いま、舛添要一知事こそが、再発防止研修を受けるに最もふさわしい人物ではありませんか。目に余る、彼の公私混同、公費の浪費、そして開き直りは、良心にやましい行為であるに違いありません。仮に良心に恥じないというのであれば、それこそ諄々と説いて聞かせて、良心を呼び覚まし、以後は良心に従った行為をするよう研修を重ねる必要があるのです。

舛添知事は、公費で絵画・美術品を購入して、領収証の作成者には「資料代」と記載するよう求めたと報道されています。心の内では、まずいことをしているという認識があったに違いありません。良心に恥じる行為をしていたのです。この知事のような人にこそ、良心を呼び起こし、良心に従った行動をするよう善導する、服務事故再発防止研修の効果は大いに期待しうるのです。

一方、自らの良心のあり方を探し確認し、悩みながらも覚悟して自らの良心に従うことを選択した教員に、いったい何を反省せよせよというのでしょうか。結局は、思想や良心を投げ捨てよと威嚇するだけのことではありませんか。

私たちは、服務事故再発防止研修を国旗国歌強制の手段としてだけ問題にしているのではありません。それ自体が、思想・良心を侵害する違憲性・違法性の強い行為だと考えています。とりわけ、不起立の理由を執拗に問い質すようなことは、思想・良心の告白を迫る、典型的な思想・良心の侵害行為として大きな問題だと考えています。本日の研修において、けっしてそのようなことがあってはなりません。

今日の研修に携わるセンター職員の皆さまに、お考えいただきたい。
おそらくあなた方は、良心にむち打つ行為に加担することを不本意なことと内心はお考えではないか。それでも、職務だからと割り切り、あるいは諦めて、本日の任務についておられることと思う。

しかし、本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。

懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。多大な不利益を覚悟して、良心に忠実な行動を選択したのです。

本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格ではありませんか。

研修センター職員の皆さんの良心に期待したい。是非、自分のあり方と対比して、尊敬すべき研修受講者に対して、その人格を尊重し、敬意をもって接していただきたい。このことを、代理人としてお願い申しあげる。
(2016年5月11日)

アベ政権が牙をむいてきた?「教特法に刑罰導入の改正法案」報道

私は、2003年10月23日、石原教育行政の「10・23通達」発出を当日の産経(朝刊)報道で知った。つまり、産経はこの種情報のリーク先として使われ、政権や右翼筋の広報担当となっているのだ。その産経が、本日とんでもない記事を発信した。

「教職員の政治活動に罰則 自民、特例法改正案、秋の臨時国会にも提出」というもの。
  http://www.sankei.com/politics/news/160510/plt1605100003-n1.html

 自民党は9日、今夏の参院選から選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられることを踏まえ、公立高校の教職員の政治活動を禁じる教育公務員特例法を改正し、罰則規定を設ける方針を固めた。早ければ今秋の臨時国会に改正案を提出する。同法は「政党または政治的目的のために、政治的行為をしてはならない」とする国家公務員法を準用する規定を定めているが、罰則がないため、事実上の「野放し状態」(同党幹部)と指摘されていた。
 改正案では、政治的行為の制限に違反した教職員に対し、「3年以下の懲役又は100万円以下の罰金」程度の罰則を科することを想定している。
 また、私立学校でも政治的中立性を確保する必要があるとして私立校教職員への規制も検討する。これまで「国も自治体も、私立には口出ししない風潮があった」(同党文教関係議員)とされるが、高校生の場合は全国で約3割が私立に通学する実情がある。
 党幹部は「私立でも政治的中立性は厳格に守られなければならない」と指摘。小中学校で政治活動をした教職員に罰則を科す「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を改正し、私立高の教職員にも罰則を適用する案が浮上している。
 日本教職員組合(日教組)が組合内候補者を積極的に支援するなど選挙運動に関与してきた過去を踏まえ、組合の収支報告を義務付ける地方公務員法の改正についても検討する。

この改正法案の当否以前の問題として、罰則をもって禁じなければならないような「高校教職員の政治活動」の実態がどこにあるというのだろうか。1954年教育二法案制定当時と今とでは、政治状況はまったく違っている。かつての闘う日教組は、今や文科省との協調路線に転換している。「日の丸・君が代」問題でも、組合は闘わない。個人が、法廷闘争をしているのみではないか。

教育二法とは、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(教員を教唆せん動して特定の政治教育を行わせることを禁止)と、「教育公務員特例法」(教員の政治的行為を制限)とのこと。当時の反対運動の成果として、教特法への刑事罰導入は阻止された。それを今、60年の時を経て導入実現しようというのだ。

教育現場での教員の政治的問題についての発言は、残念ながら萎縮しきっていると言わざるをえない。それをさらに、刑罰の威嚇をもって徹底的に押さえ込もうというのだ。闘う力もあるまいと侮られての屈辱ではないか。

「政治的中立」の名をもって圧殺されるものが政権批判であることは、現場では誰もが分かっていることだ。さらに、萎縮を求められるものは「憲法擁護」であり、「平和を守れ」、「人権と民主主義を守れ」、「立憲主義を尊重せよ」という声だ。憲法に根拠をおく常識も良識も党派性を帯びた政治的発言とされてしまうのだ。

教育基本法(第14条)は、「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。」と定める。明日の主権者を育てる学校が、政治と無関係ではおられない。18歳選挙権が実現した今となればなおさらのこと。刑事罰導入はいたずらに、政治的教養教育、主権者教育の限りない萎縮をもたらすことが目に見えている。それを狙っての法改正と指摘せざるをえない。

今、教育現場において「教育基本法の精神に基き、学校における教育を党派的勢力の不当な影響または支配から守る」ためには、政権の教育への過剰な介入を排除することに主眼を置かねばならない。

教育公務員も思想・良心の自由の主体である。同時に、教育という文化的営為に携わる者として、内在的な制約を有すると同時に、権力からの介入を拒否する権利を有する。

「教職員の政治活動に罰則」という、教職員の活動への制約は、政権の教育支配の一手段にほかならない。憲法をないがしろにし、教育基本法を敵視するアベ政権が、危険な牙をむいてきたといわなければならない。改憲反対勢力がこぞって反対しなければならないテーマがひとつ増えた。
(2016年5月10日)

スラップ訴訟をどう定義し、どう対応すべきか ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第78弾

私自身が突然に提訴されて被告となったDHCスラップ訴訟。一審勝訴したが控訴されて被控訴人となり、さらに控訴審でも勝訴したが上告受理申立をされて、いまは「相手方」となっている。その上告受理申立事件は最高裁第三小法廷に係属し、事件番号は平成28年(受)第834号である。

さて、訴訟活動として何をすべきだろうか。実は、この事件なら、常識的には何もしないのが一番なのだ。何もせずに待っていれば、ある日第三小法廷から「上告受理申立の不受理通知」が届くことになる。これでDHC・吉田の敗訴が確定して、私は被告の座から解放される。上告受理申立理由に一々の反論をしていると、不受理決定の時期は遅滞することにならざるをえない。何もしないのが一番という常識に反しても、敢えて反論はきちんとすべきか否か。ここが思案のしどころである。

ところで、スラップ訴訟へのメディアの関心が高くなっている。最近、ある大手メディアの記者から取材を受けた。そのあと記者から、丁寧な質問をメールでいただいた。

要約すれば、関心は大きくは次の2点だという。
? 「憲法21条(言論の自由)と32条(裁判を受ける権利)の整合性をどう考えるべきだろうか」
? 「アメリカでは、スラップ訴訟を規制して、原告の権利侵害という議論が起こらないのだろうか」

通底するものは、特定の訴訟をスラップと刻印することで、侵害された権利救済のための提訴の権利が侵されることにはならないのだろうか、という疑問である。

以下は、私のメールでの回答の要約。

具体的な内容や背景事情を捨象すれば、DHCスラップ訴訟の構造は、次のようなことになります。

(1) 私が吉田を批判する言論を展開し、
(2) 吉田が私の言論によって名誉を毀損されたとして、損害賠償請求訴訟を提起した。
(3) その訴訟において、
 原告・吉田は、憲法13条にもとづく自分の人格権(名誉)が違法に侵害されたと主張し、
 被告・私は、憲法21条を根拠に自分の言論を違法ではないと正当性を主張した。
(4) 審理を尽くして、裁判所は被告に軍配をあげて請求を棄却した。
(5) 吉田は結果として敗訴したが、憲法32条で保障された裁判を受ける権利を行使した。

つまり、誰でも、主観的に自分の権利が侵害されたと考えれば、その権利侵害を回復するために訴訟を提起することができる。結果的に敗訴するような訴えについても、提訴の権利が保障されているということになります。

以上は、具体的な諸事情を捨象すれば…の話しで、普通はこれで話が終わります。しかし、次のような具体的諸事情を視野に入れると、景色は変わって見えてきます。この景色の変わり方をどう考えるべきかが問われています。

(1) 違法とされ提訴の対象となった私の言論が典型的な政治的批判の言論であること。
(2) 提訴者が経済的な強者で、訴訟費用や弁護士費用のハードルを感じないこと。
(3) 提訴されれば、私の応訴の負担は極めて大きいこと。
(4) 原告の勝訴の見通しは限りなく小さいこと。
(5) 原告の請求は明らかに過大であること。
(6) 原告は提訴によって、侵害された権利の回復よりは、提訴自体の持つ威嚇効果を狙っていると考えられること。
(7) 現実に提訴はDHC・吉田批判の言論に萎縮効果をもたらしていること。

もっとも、原告の勝訴確率が客観的にゼロに等しいと言える場合には、問題が単純になるでしょう。そのような提訴は嫌がらせ目的の訴訟であることが明白で、民事訴訟制度が想定している訴えではないとして、提訴自体が違法とならざるをえません。しかし、そのような厳密な意味での「違法訴訟」は現実にはきわめて稀少例でしかないでしょう。

このような「明らかな違法訴訟」とまでは言えないが、強者による言論への萎縮効果を狙った違法ないし不当な提訴は類型的に数多く存在します。これをスラップ訴訟と言ってよいと思います。

つまり、単に勝訴の見込みが薄い訴えというだけでなく、これに前記の(1)?(7)などの事情が加わることによって、提訴自体が濫訴として強い可非難性を帯びることになります。

アメリカのスラップ訴訟規制は各州で制度の差があるようですが、報告例を耳にする限りでは、原告の提訴の権利を侵害すると問題にされてはいないようです。

スラップ規制のあり方として、2段階審査の方式を学ぶべきだと思います。
審理の初期に、被告からスラップの抗弁があれば、裁判所はこれを取り上げ、スラップとして取り扱うか否かを審理して暫定の結論を出します。

原告が、裁判所を納得させられるだけの勝訴の蓋然性について疎明ができなければ、以後はスラップ訴訟として審理が進行することになります。その大きな効果としては、原告の側に挙証責任が課せられること、そして原告敗訴の場合には、被告側の弁護士費用をも負担させられることです。これでは、スラップの提起はやりにくくなるでしょう。でも、訴訟ができなくはなりません。

一般論ですが、複数の憲法価値が衝突する場合、正確にその価値を衡量して調整することが立法にも、司法にも求められます。

一方の側だけから見た法的正義は、けっして決定的なものではありません。別の側から見れば、別の景色が見えることになります。

スラップ訴訟もそんな問題のうちの一つです。私は、政治的言論の自由が攻撃されて、権力や社会的強者を批判する言論が萎縮することが憲法の根幹を揺るがす大問題と考える立場ですから、飽くまで憲法21条の価値をを主としてとらえ、DHC・吉田の憲法32条を根拠とする名誉毀損を理由として訴訟を提起する権利は従でしかないと考えます。

私が掲げる憲法21条に支えられた言論の自由の旗こそが最重要の優越する価値であって、DHC・吉田の名誉の価値はこの旗の輝きの前に光を失わざるをえないという考えです。のみならず、そのような価値の衡量が予想される事態において、DHC・吉田が敢えて高額の損害賠償請求訴訟を提起することをスラップとして、非難しなければならないとするのです。

さらに、言論の萎縮効果をもたらすスラップには法的な制裁が必要であり、スラップを提起されて被告となる者には救済の制度が必要だと、実体験から考え訴えているのです。DHC・吉田がしたごときスラップの横行を許すことは、メディアにとっては死活に関わる問題ではありませんか。

よろしくご理解をお願いいたします。
(2016年5月9日)

「オリンピック惨歌」ーまたは「五輪怨み節」

オリンピックはヤなもんだ  
 コントロールとブロックの
 ダマシがケチのつきはじめ

オリンピックはヤなもんだ 
 所詮は奴らのメシのタネ
 踊らされるはマッピラだ

オリンピックはヤなもんだ 
 ローマの時代のサーカスが
 政権支えによみがえり

オリンピックはヤなもんだ 
 東京一極盛り上げて
 東北・熊本切り捨てる

オリンピックはヤなもんだ 
 日の丸君が代煽り立て
 愛国心を押しつける

オリンピックはヤなもんだ 
 国威発揚晴れ舞台
 主役はナチスか安倍シンゾー

オリンピックはヤなもんだ 
 渋滞混雑騒音の
 東京みんなで疎開しよ

オリンピックはヤなもんだ 
 猛暑のさなかの我慢会
 出場選手は熱中症

オリンピックはヤなもんだ 
 当初予算がいつの間に
 三段跳びやらハイジャンプ

オリンピックはヤなもんだ 
 ヘイトスピーチ野放しで
 オモテナシなど言われても

オリンピックはヤなもんだ 
 一億一心火の玉と
 戦時思わす気味悪さ

オリンピックはヤなもんだ 
 平和を嫌う政権が
 作り笑いのオモテナシ

オリンピックはヤなもんだ 
 じゃぶじゃぶカネを注ぎ込んで
 ツケは庶民のオモチダシ

オリンピックはヤなもんだ 
 宴のあとの荒涼に
 責任もつ人影もなし

(2016年5月8日)

田母神起訴から教訓を学べー「選挙運動は飽くまで無償」「運動員にカネを配った選対事務局長は買収で起訴」

連休さなかの5月2日、東京地検は元航空幕僚長・田母神俊雄を公選法違反(運動員買収)で起訴した。2014年2月東京都知事選における選対ぐるみの選挙違反摘発である。選挙後に運動員にカネをばらまいたことが「運動員買収」とされ、起訴されたものは合計10名に及ぶ。
  田母神俊雄(候補者)    逮捕・勾留中
  島本順光(選対事務局長) 逮捕・勾留中
  鈴木新(会計責任者)    在宅起訴
  運動員・6名          在宅起訴
  ウグイス嬢・女性       略式起訴

起訴にかかる買収資金の総額は545万円と報じられている。田母神・島本・鈴木の3人は共謀して14年3月?5月選挙運動をした5人に、20万?190万円の計280万円を提供。このほか田母神・鈴木両名は14年3月中旬、200万円を島本に渡したとされ、島本は被買収の罪でも起訴された。さらに鈴木らは、うぐいす嬢ら2人に計65万円を渡したとされている。

被疑罪名は、田母神俊雄(候補者)と鈴木新(会計責任者)が運動員買収、島本は買収と被買収の両罪、その余の運動員は被買収である。

田母神は、4月14日逮捕され、捜索され、身柄事件として起訴され、起訴後に保釈を申請して却下されている。特捜は、本腰を入れて立件したという印象。田母神自身にとっても、彼の応援団にも、ここまでやられるとは意外な思いではないだろうか。

いまも田母神俊雄の公式ホームページが開設されており、「本当の日本を取り戻す」「日本人の、日本人による、日本人のための政治」というキャッチコピーが踊っている。彼には、政治思想において自分こそが安倍晋三に最も近いという自負があったろう。実際、安倍は選挙前に田母神の集会に出かけて、応援演説までしている。

ウイキペディアからの孫引きだが、以下は田母神出馬についての賛同者リストからの抜粋である。アベ政治の応援団とほとんど重なっている。アベ・コア人脈と言ってもよいのではないか。

政治家
 石原慎太郎(日本維新の会共同代表・元東京都知事)
 土屋敬之(元東京都議会議員)
 中山成彬(日本維新の会衆議院議員)
 西村眞悟(無所属衆議院議員)
 平沼赳夫(日本維新の会衆議院議員)
 三宅博(日本維新の会衆議院議員)
 松田学(日本維新の会衆議院議員)

大学教員
 小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
 西部邁(元・東京大学教授)
 藤岡信勝(元・東京大学教授、元・拓殖大学教授)
 中西輝政(京都大学名誉教授)
 荒木和博(拓殖大学教授)
 小田村四郎(拓殖大学元総長)
 関岡英之(拓殖大学客員教授)
 石平(拓殖大学客員教授・評論家)
 杉原誠四郎(武蔵野大学教授・新しい歴史教科書をつくる会会長)
 西尾幹二(電気通信大学名誉教授)
 渡部昇一(上智大学名誉教授)

実業家
 中條高徳(アサヒビール名誉顧問、日本会議代表委員)
 上念司(株式会社「監査と分析」代表、経済評論家)
 水島総(映画監督、日本文化チャンネル桜元社長)
 元谷外志雄(アパグループ代表)

評論家・芸能人など
 加瀬英明(外交評論家)
 クライン孝子(作家)
 デヴィ・スカルノ(スカルノ元大統領第3夫人)
 すぎやまこういち(作曲家・日本作編曲家協会常任理事)
 西村幸祐(評論家)
 百田尚樹(作家)
 三橋貴明(経済評論家)

逮捕当日、田母神は「国家権力にはかなわない」と名言を吐いている。政治思想ではアベ政治と一体であった彼も権力とは一体でなかった。元空幕長という経歴をもち、安倍晋三を含むこの応援団の顔ぶれを揃えてなお、逮捕からも起訴からも身を守ることができなかった。特捜はよくぞ逮捕し、全容を明らかにし、起訴したものと思う。

アベ自民をより右から引っ張る役割を任じようとした田母神の政治生命は終焉したというべきだろう。今後はその役割を大阪維新が担うことになるのだろう。

政治的影響はともかく、政治とカネ、選挙とカネについての貴重な教訓を読み取らねばならない。目前の参院選や、その後の総選挙における野党共闘の陣営が、この教訓を十分に心して、不要な弾圧を避けなければならない。

公選法は、その前身である衆議院議員選挙法が、「男子普通選挙」を採用した1925年改正法以来、選挙活動の自由を極端に制約して弾圧法規として作用してる。言論による選挙運動を規制する不当とは闘わなくてはならない。しかし、選挙が結局はカネの力で左右されることがあってはならず、現行公選法における選挙資金調達方法や使途の規制がすべて非合理とは言えない。

とりわけ、選挙運動は無償が大原則で、選挙運動者にカネを支払えば犯罪となることを不合理とは言い難い。選挙運動への参加は飽くまで無償と肝に銘じなければならない。企業が選挙運動者を派遣して、被派遣者が企業への勤務の実体を欠くのに、企業がこれに給与を支給すれば、当該給与分の金額で運動員買収をしたことになる。

田母神の起訴罪名と罰条は、公職選挙法の運動員買収である。条文を抜粋すれば以下のとおり。
第221条(買収)「次に掲げる行為をした者は、3年(候補者がした場合は4年)以下の懲役若しくは禁錮又は50万円(100万円)以下の罰金に処する。
一 当選を得、若しくは得しめ又は得しめない目的をもって、選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益の供与、その供与の申込み若しくは約束をしたとき。」

公選法上の買収には2種類ある。選挙人買収と運動員買収である。選挙人(有権者)を買収することは、直接に票をカネで買うことだ。運動員買収とは、集票作業をする人にカネを支払う方法で票を集めること、間接的にカネで票を買うことにほかならない。選挙運動は無償が大原則なのだから、選挙運動員にカネを渡してはならない。カネを渡せば運動員買収罪が成立する。受けとった運動員も処罰対象となる。買収だけでなく供応も同じだ。

選挙運動は、判例において「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」と定義されている。選挙運動は飽くまで、自発的な意思によって行われるべきもので、報酬はない。選挙運動は無償が原則である。選挙運動者に報酬を支払えば、運動員買収として処罰対象となるのだ。もっとも選挙運動には当たらない純粋な労務の提供や事務作業者に対しては、予め届け出た者に限って決められた範囲の額の対価を支払うことができる。気をつけなければならないのは、たとえ労務者として届出があっても、単純労務の提供の範囲を超えて「選挙運動をした者」となれば報酬を支払ってはならないということだ。

飽くまで、公職選挙法の定めでは、選挙運動は無償(ボランティア)であることを原則としている。この警告を「一方的な思い込みに基づく論理」などと揶揄するようでは、選挙弾圧を招くことになる。

たとえば、2012年選挙における宇都宮選対の打ち上げの「会食費」が政治資金収支報告書に計上されたり、宴席で突然に「労務者報酬」が配られたりするようなことになるのだ。このようなやり方で、善意の選挙運動参加者を犯罪行為に巻き込んだ選対事務局長の責任はとりわけ大きい。

東京地検特捜は、今回強く右を叩いた。次には、左を叩くことでバランスをとろうとする可能性を否定しえない。

選挙運動に参加する者は、無償が大原則であることをわきまえよう。常に心掛けよう。選対本部長や事務局長から「ごくろさまです」とカネを差し出されたら、犯罪として立件される虞のある危険な事態だと心得なければならない。
(2016年5月7日)

君が代裁判原告陳述「悩んだ末に生徒に恥じない着席」

本日は東京「君が代」裁判・4次訴訟の第10回口頭弁論。原告は、第8準備書面(個別事情)、第9準備書面(裁量権濫用の具体論)、第10準備書面(国家賠償における損害論)を提出して、争点となっている主張を一応終えた。

法廷では弁護団事務局長の平松真二郎弁護士が第9準備書面を要約陳述した。
今のところ最高裁は、卒業式等において起立斉唱の職務命令を受けた教員の不起立を職務命令違反として懲戒処分とすることを、教員の思想・良心に抵触することと認めながらも、かろうじて違憲ではないとの判断にとどまっている。しかし、その最高裁も、法的に実害をともなう減給以上の処分は過酷に失するとし、違憲とまでは言えないとしても懲戒権者の裁量権逸脱濫用と認めて違法とし、処分を取り消している。

従前、形式的機械的に不起立回数のみによって累積加重の処分を続けてきた石原教育行政の思惑は頓挫した。しかし、いま都教委は、複数回の不起立を理由とする減給処分を強行し、その違法が鋭く争われている。

平松弁護士の陳述は、最高裁判例の立場を前提に、「不起立による処分回数の累積のみによっては、減給以上の処分の正当性を基礎づける事情とはなし得ない」ことについての根拠について、実務的な指摘をするものだった。裁判官3名は、よく耳を傾けていたと思う。

そして、毎回の法廷で続けられている原告の陳述。なぜ、「日の丸・君が代」への敬意表明強制に従うことができないのか。どのように思想・良心を貫くことが困難なのか。それぞれの事情が語られる。今回は、身体の不自由な原告のお一人が、悩んだ末に君が代斉唱時に着席した経過を述べた。処分を覚悟して、生徒に恥じない教師としての姿勢を貫くための不起立。陳述の内容は後記ののとおりである。

なお、法廷後の報告集会で、求められて若手弁護士が印象的な発言をした。
「私の長男が、この春幼稚園を終えて小学校に入学しました。幼稚園の卒業式は、それこそ園児を主人公としたたいへんに暖かい雰囲気のもの。それが、小学校の入学式となると一変して儀式化してしまう。何度も、『起立』・『礼』の違和感。私には、起立・斉唱の職務命令はないがそれでも、不快な思いが拭えません。現場の先生方の気持がよく分かりました」
「同級生の親の一人にオーストラリア人がいて、感想を話し合う機会がありました。その人にとっても学校がまるで軍隊のように見えて、とても違和感が強かったようです。オーストラリアではあのような儀式は一切ないと言っていました。卒業式での国旗国歌は、都教委がいうように、国際儀礼や国際常識を学ぶ場ではありません」

もう10年以上も以前のことだが、ある弁護士が子供の入学式に保護者として出席したときの感想を次のように書いていたのを記憶している。
「君が代斉唱は不愉快だが、自分は保護者席で起立した。自分一人のことを考えれば、不起立はたやすいが、妻や子の立場もある。自分一人の不起立は自己満足に終わるだけ。とりわけ、妻はPTAでの活動を心していたので、その活動に支障が及んではならないと思ってのこと」という主旨。

私は思う。たやすいことでも、たやすいことではなくても、君が代斉唱を不愉快と思うなら、せめて保護者席で起立せずに着席してその意思を表せ。自分の身分を懸けて厳しい闘いを強いられている教員がいるのだ。「日の丸」「君が代」への敬意表明強制を暗黙のうちに肯定してはならない。そのような場面では、社会から自由を与えられた立場の弁護士は、その職業倫理において、斉唱のために起立してはならない。

今日の集会では、清々しいその若手弁護士の発言に拍手が湧いた。
(2016年5月6日)
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        原告意見陳述
 私は、教職最後の卒業式で国歌斉唱時に起立しなかったために、職務命令違反を理由に都教委から戒告処分を受けました。私が不起立するに至った事情について、陳述致します。
 私は、都立高校に国語科教員として37年間勤務し、後半の17年間は夜間定時制高校に勤務しました。夜間定時制の初めの勤務校・A高校で4年目を迎えようとする時、高血圧性脳内出血を発症し、一年間治療とリハビリのために休職しましたが、左の上肢・下肢機能障害により、身体障害2級の認定を得て復職しました。復職した4年後に10・23通達が発出されました。
 私は、翌2004年4月、K高校定時制に転勤しました。入学式・卒業式の役割分担が式場内の時には、国旗・国歌の強制に従いたくないという思いは強くありました。同時に、間近になった定年退職後の生活の心配がありました。国歌斉唱時に起立しなければ、戒告処分があります。それは退職金及び年金の減額につながります。それが不安の種でした。身体障害者の私にとって、定年後に仕事を続けることに困難を感じていましたので、退職後の生計は退職金と年金に拠る外はないと考えました。入学式・卒業式に臨み、信条に反して起立することを考えるのは苦痛でした。悩んだ結果、私が行ったのは、開式と同時に起立し、新入生・卒業生の呼名が終了するまで起立していることでした。起立したのは国歌斉唱のためにではなく、新入生・卒業生を見守るためだと言う私自身への言い訳のためでした。客観的に見れば、国歌斉唱時に起立していたのですから、強制に屈した情けない姿、強制なのだから仕方がないとのあきらめや無力感を生徒たちに見せたことに違いありません。信条に反する恥ずべき行為をしたと思い、悩みました。

 2011年3月のK高校定時制卒業式が、私にとっては、在職中最後の卒業式でした。その卒業式が近付く中、私は、卒業生と共に行った沖縄修学旅行のこと、共に学んだ沖縄戦の実相を度々思い返しました。この修学旅行で生徒だちと心を通わせる交流がありました。
 私が修学旅行の前の年の3年生から担任した学級にKという多動性の落ち着きのない生徒がいました。彼の行動が原因となり、学級が授業中や考査中に騒然となることがありました。この件で、校長は企画調整会議で学年主任に対し、教科担当者を含めて一斉に取り組めるような具体策を提案するように指示しました。学年主任の報告を受けて担任団としては、教科担当者から授業時の状況や対応を聞き取ることにしました。問題になったK君には、持ち前の底力と気立てのよさがあり、私は、それらのよい点に着目し、それを引き出しながら、問題行動を改善するように仕向けようと考え、対話を繰り返しました。この過程で親との信頼関係も生まれ、親から相談を持ちかけられることもありました。K君は徐々に私たちの説得を受けとめるようになり、問題行動の改善を約束するまでになりました。

 生徒たちが4年生に進級した翌年度に実施された沖縄修学旅行の時には、このK君と、もう一人、校長の指導に反抗したことがあるM君の二人が、足場の悪い戦争遺跡のガマの中で、足の不自由な私を気遣って交代で背負ってくれるということがありました。校長は、卒業式の式辞で、この事に触れ、「今年の卒業生には気持ちの優しい生徒が多かった」と述べました。K君とM君は「問題児」どころか、実に気持ちの優しい生徒たちなのです。このような生徒たちの姿を見て、私は、彼らの成長と私たち学年担任団の思いが受けとめられていたことを確信しました。私は身体に障害があるために、生徒指導に動き回ることには、辛いこともありましたが、生徒が成長する姿を見ることに喜びを覚えました。
 沖縄修学旅行の時のK君との交流で記憶に残ることがもう一つあります。摩文仁の平和祈念公園を一緒に歩いていた時でした。K君が「ここはどういう場所なの?」と尋ねるので、私は、「今は平和の礎が並んで平和を祈る場所になっているけれど、沖縄戦最大の激戦地だった」と答えました。すると、K君が「え、ここが!」と驚きの声を発したのです。今、平和な光景が広がる同じ場所で、多くの人の血が流されたとは信じられなかったからでしょう。

 このような記憶を蘇らせながら、今の平和がいつまでも続き、日本が再び戦争への道を突き進むようなことがあってはならないと思いました。国旗・国歌が、この国が犯した侵略戦争に、国民を駆り立てるために使われたのは、紛れもない歴史的事実です。そのような国旗・国歌の強制には従うべきでないという思いを強くしました。

 卒業式が近付き、私がそのような思いを強くしている時、校長が、職員会議で卒業式の包括的職務命令を伝えました。私は職務命令に反対して、「予防訴訟で最高裁に公正判決を要請する署名には、元管理職も応じてくれた。校長の本音はどうなのか。私は不自由な身体なので、起立姿勢を続けるのは辛い。ましてや、信条に反するのだから、なお辛い」という主旨の発言をしました。私がそのような発言をしたからだと思います。卒業式の前日に、私は校長室に呼ばれました。校長は、「あなたが起立しなければ注意する。その時式は中断するし、生徒がざわつくかもしれない。皆が迷惑する。」と言い、起立するよう求めました。
 卒業式当日、開式の合図と共に、私は起立し、国歌の伴奏が始まるのを確認してから、着席しました。式は何の混乱もなく続けられました。

 私に対して科された戒告は決して程度の軽い処分ではありません。私のような身体障害者を含めた教職員の生活を経済的に脅かし、そのことによって起立することを迫り、精神的苦痛をもたらすものとなっています。
 かつて私が心ならずも起立し、恥ずべき行為をしたと悩んだのも、その戒告の不利益を恐れたためだったことを、もう一度申し上げて、私の陳述を終わります。

橋下徹対野田正彰訴訟判決再論ー「専門家に表現の自由などない」という投稿に接して

「ちきゅう座」という規模の大きな「ブログ集積サイト」がある。11年前に開設されたものだそうたが、編集委員会が運営している。編集委員会の眼鏡にかなった投稿を掲載し、またブログを転載している。
  http://chikyuza.net/

設立の趣旨を、「今の世界や日本が極めて危うい方向に進んでいるという認識の下に、それぞれの分野の専門家や実践家の眼を通じた、確かな情報、問題の本質に迫る分析などを提供し、また共同の討論の場を作ることを志しています。」と言っている。

なにがきっかけか知らないが、昨年(2015年)の秋ころに編集委員長から丁寧な問合せがあり、以来このサイトが当ブログを毎日転載してくれている。1日の途切れもなく毎回の「憲法日記」を紹介していただいていることをありがたいと思う。

その「ちきゅう座」に [交流の広場]というコーナーがある。4月28日その広場に、「専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。」という投稿が掲載された。投稿者は、「札幌のサル」というペンネームを使っている。

このタイトルの、「弁護士さん」とは、私のことと思い当たる。私は、当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」に、「野田正彰医師記事に違法性はないー大阪高裁・橋下徹(元知事)逆転敗訴の意味」の記事を書いた。4月23日のこと。「札幌のサル」氏には、この記事がお気に召さなかったようだ。明らかに、私のブログに対する批判の投稿。

私も、他人を批判する。但し、権力や権威を有する者、あるいは権力や権威を笠に着る者に限ってのこと。それ以外を批判の対象とすることはあり得ない。

私も、他人から批判される。私には権力も権威もないが、批判するに値すると認めていただいたことをありがたいと思う。拙文をお読みいただき、何らかの反応を示していただいた方にはひとしく感謝申しあげたい。それが、論理的な批判であっても非論理的な批判であっても、である。

「札幌のサル」氏の投稿が、 [交流の広場]に掲載されたということは、おそらく私の再反論が期待されているということなのだろう。投稿の最後の結びも、私への問いかけとなっている。無視していては失礼にもなりかねない。また、野田正彰医師の名誉にも関わるところがある。逐語的にコメントしておきたい。

まず、投稿の全文は以下のとおり。
「専門家に表現の自由などない / 野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安。」
医師の橋下診断の可否は、その専門性において厳格に問われるべきで、表現の自由などということで正当化されたら、市民やその代表者はたまったものではない。精神病という専門医師の根拠さだか〈な〉らぬ診断で病院や強制収容所送りになったソ連邦を想起させる。野田医師は反権力といわれるが、このたびは弁護士権力に依存しているだけ。医師の橋本〈下〉診断自体がその成否を問われるべきで、専門家には表現の自由などないことを知るべきだ。また自由に表現されたからと言って、その専門性の正しさが担保されるものでもない。野田君(というのはわたしはかれと旧知なので)は何度も無責任な専門家発言をして平気でいられる人物であることを知らない者がいるか。専門性の責任が問われている時代に、専門家の無責任かもしれない表現の自由をよく擁護できたもんです。黒を白ということが仕事?の弁護士さんならではの専門性ゆえですか。<札幌のサル>

投稿のメインタイトル「専門家に表現の自由などない」は、明らかな誤りである。むしろ、「専門家には、その専門分野における意見表明の社会的責務がある」というべきであろう。仮に責務の有無については見解の相違としても、すべての人に保障されている「表現の自由」が、専門家だけには保障されないということはあり得ない。

投稿者は、野田医師の論評の内容を批判する根拠を具体的に指摘し得ず、専門家一般についていかなる表現の自由もない、と極論してしまったのものと推察する。

あるいは、野田医師ではなく、弁護士である私のブログでの記事について、「専門家に表現の自由などない」のだから「表現をやめよ」、と言ったのかも知れない。しかし、私は私の「表現の自由」を絶対に譲らない。「専門家だからものが言えない」とすれば、社会は有益な知見を失うことになる。知る権利が大いに傷つけられることになろう。

投稿のサブタイトル「野田医師の裁判について弁護士さんの安堵に日本社会将来不安」も、あまりに具体性に乏しい一般論での語り口で、それゆえ有益な議論の深まりが期待できない。

橋下対野田訴訟において、なにが争われたか。橋下に対する野田診断の医学的正確性ではない。橋下の過去の言動から推認される橋下の公人としての適性に関する野田医師の見解の表明として、「新潮45+」掲載記事の表現が許容されるか否かが争われたのだ。

原告橋下側は「『新潮45+』記事は原告の名誉(社会的評価)を傷つけるものとして違法」と主張し、被告野田・新潮側は「表現の自由が保障される範囲内の言論として違法性はない」と争った。実質的に、訴訟は「橋下(当時は知事)の名誉と、表現の自由の角逐」の場であった。あるいは「個人の名誉と、国民の知る権利の衡量」の場であったといってもよい。

当然のことながら、橋下個人も人権主体である。その社会的な名誉も名誉感情も尊重されてしかるべきだ。しかし、公人となり、強大な権力をもつ地位に就いた以上、批判の言論を甘受せざるを得ない立場に立ったのだ。

民主主義社会は、自由な言論の交換によって成り立つ。もちろん、自由な言論も無制限ではありえなく、他人の名誉を毀損する言論には一定の限界がある。その限界を狭く解釈したのでは、政治的言論は成り立たない。憲法が「表現の自由を保障する」としているのは、権力者や公人の論評に関しては、その社会的評価を傷つける表現をも許容するものでなくては意味がない。

今回の野田医師逆転勝訴判決は、その理を認めた。「橋下個人の外部的名誉や名誉感情という個人的価値」を凌駕する、野田医師の「表現の自由の価値、その自由に連なる社会の知る権利の価値の優越」を認めたのだ。

私は、「権力者や公人・政治家を批判する言論の自由」をこの上なく尊重する立場であるから、この逆転勝訴を望ましい結果として評価した。これが、投稿者の「弁護士さんの安堵」と言う表現となっている。しかし、そのことが「日本社会将来不安」につながるというのは、荒唐無稽というほかはない。

野田医師の誌上診断ないし見解も、私の野田医師擁護論も、それが大阪府知事という、公人・政治家を対象とした批判の言論であることが大前提である。市井の人物や、体制批判者を指弾する言論と混同してはならない。

現在判例が採用している「公共性・公益性・真実(相当)性」という、違法性阻却要件は相当に厳格である。大阪高裁判決は、野田医師の「誌上診断」は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があったと認め、記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由の価値を優越するものとして、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。この違法性阻却のハードルの高さは、けっして言論の自由の濫用による「日本社会将来不安」につながる恐れを生じるものではない。

むしろ、このハードルの高さが政治家批判の言論を違法として封じ、あるいは批判の言論を萎縮させている。この現状こそが、権力者には居心地がよく、民衆には将来不安というべきではないだろうか。

投稿記事本文の「医師の橋下診断の可否は、その専門性において厳格に問われるべきで、表現の自由などということで正当化されたら、市民やその代表者はたまったものではない。」は、必ずしも文意明確ではない。

仮に、「医師の診断が正確であるか否かは、その専門性にふさわしく厳格に問われるべきで、不正確な診断が『表現の自由』ということで正当化されるようなことがあつてはならない」という主旨であれば、その限りにおいて異論があろうはずはない。しかし、訴訟がそのような問題を争って行われたものでないことは既述のとおりである。

「精神病という専門医師の根拠さだか〈な〉らぬ診断で病院や強制収容所送りになったソ連邦を想起させる。」と、問題になりえようもない極論をあげつらうことは無意味である。おそらくは、反権力の精神科医は、敢然として「病院や強制収容所送りとされた側」に立って、体制側の似非医学を反駁することになろう。

「野田医師は反権力といわれるが、このたびは弁護士権力に依存しているだけ。」
これは文意を解しがたい。裁判所や検察は権力だが、弁護士は権力ではない。「弁護士権力に依存」とは、訴訟において訴訟代理人として弁護士を依頼したことをいうのだろうか。それとも、私がブログで判決を肯定的に論評したことを指すのだろうか。どちらにしても、それが「権力に依存した」と論難される筋合いのものではない。

「自由に表現されたからと言って、その専門性の正しさが担保されるものでもない。」は、当然のこと。「表現の自由の範囲内の言論」として違法性を欠くことと、言論の内容である誌上診断の正確性とは、まったくの別問題である。だから、何の批判にもなっていない。

仮に、橋下が野田医師の患者であったとすれば、野田医師には橋下の症状や診療経過について、医師としての職業上の守秘義務(刑法134条)が課せられる。今回のように、医師が誌上で、ある人物の症状や疾患について直接本人に対する診察を経ることなく見解を述べるのは、普通の読者の普通の注意による読み方をすれば、厳密な確定的医学診断ではありえない。飽くまでも仮説的意見ないし論評に過ぎない。そのような意見・論評は、公人についてのものである限り許されるのだ。もとより、疾患診断の正確性とは別問題である。

「野田君(というのはわたしはかれと旧知なので)は何度も無責任な専門家発言をして平気でいられる人物であることを知らない者がいるか。」という表現は、事実を摘示することにより野田医師の名誉を毀損するものである。「札幌のサル」氏が、野田医師に訴えられたとすれば、氏の側で、その表現の公共性・公益性・真実(相当)性を立証しなければならない。野田医師は、橋下から訴えられ、その面倒なことをして勝訴した。

「専門性の責任が問われている時代に、専門家の無責任かもしれない表現の自由をよく擁護できたもんです。」
もし、この議論が通用するなら、医師や弁護士や会計士や技術士や、ありとあらゆる学問の研究者の権力批判の言論を封じることになり、権力批判の言論を擁護することもできなくなる。具体論なしで、ある側面を極限まで一般化する論理の過ちの典型と指摘せざるを得ない。

弁護士は、「黒を白という専門職」ではない。しかし、黒と白とをしっかりと見極めるべき専門職ではある。そして、権力と対峙する人権の側に立つべき専門職でもあると理解している。私のブログ記事に、批判さるべきところは、いささかもない。
(2016年5月5日)

神様から改憲署名をお願いされたら、そりゃ断りづらかろう。

本日(5月4日)の毎日新聞社会面に、憲法記念日関連報道の一つとして「改憲署名 賛成派700万筆集める 氏子を動員」という記事。

「憲法記念日の3日、…憲法改正を目指す団体『美しい日本の憲法をつくる国民の会』は東京都内でイベントを開き、全国で同日までに700万2501筆の改憲賛同署名を集めたと発表した。署名活動の現場を取材すると、地域に根づく神社と氏子組織が活発に動いていた。」

「国民の会」がアベ政権の別働隊として1000万筆を目標に改憲推進署名を行っていること、その署名運動の現場の担い手として神社かフル稼働していることが、予てから話題となっている。

記事は、その現場のひとつを次のように報じている。
「福島県二本松市の隠津島神社は毎年正月、各地区の氏子総代を集めてお札を配る。だが2015年正月は様子が違った。神事の後、安部匡俊宮司がおもむろに憲法の話題を持ち出した。『占領軍に押しつけられた憲法を変えなくてはいけない』。宮司は総代約30人に国民の会の署名用紙を配り、『各戸を回って集めてほしい』と頭を下げたという。」

「安部宮司は今年3月、取材に『福島県神社庁からのお願いで県下の神社がそれぞれ署名を集めている。総代が熱心に回ってくれた集落は集まりが良かった。反対や批判はない』と話した。隠津島神社の氏子は約550戸2000人で世帯主を中心に350筆を集めたという。氏子たちの反応はさまざまだ。

「今年正月には東京都内の神社が境内に署名用紙を置いて話題になった。全国で氏子組織が動いているのかなどについて、全国の神社を統括する宗教法人「神社本庁」(東京都)は取材に『国民の会に協力しているが、詳細は分からない』と説明。

隠津島神社の氏子総代(の一人)は言う。『地元の人が選挙に出ると地縁血縁で後援会に入らざるを得なくなる。署名集めもそれと似ている。ましてや神様からお願いされているようで、断りづらい面があったと思う』」。

この記事には興味が尽きない。神社が改憲運動に大きな役割を果たしているのだ。「神様からお願いされては、改憲署名は断りづらい」という氏子のつぶやきは、まことに言い得て妙。

元来、神社は地縁社会と緊密に結びついてきた。国家神道とは、神社の村落や地縁との結びつきを、意識的に国家権力の統合作用に利用したもの。村の鎮守様を集落共同で崇める精神構造をそのままに、国家の神を国民共同で崇める信仰体系に作り替えたものと言えよう。

いま、国家神道はなくなってはいるが、その基底をなしていた「地縁に支えられた神社組織」は健在である。その神社組織が日本国憲法を敵視して、改憲運動を担って改憲署名運動の中心にある。

見過ごせないのは、次の記事。この神社中心の改憲署名運動は、極めて戦略的に憲法改正の国民投票までを見据えているというのだ。
「署名活動で神社関係者の動きが目立つが、『国民の会』を主導するのは保守系の任意団体『日本会議』だ。」「長野市内で昨年9月に開かれた日本会議の支部総会。東京から来た事務局員は、1000万人を目標とする改憲賛同署名の狙いを説明した」「会場には、長野県内の神社関係者が目立った」「これは請願署名ではない。国民投票という大空中戦で投票を呼びかける名簿になる」「憲法改正は衆参両院3分の2以上の賛成で発議され、国民投票で決まる。国民の会は国民投票の有効投票数を6000万人と想定。署名した1000万人に2人ずつ声かけをさせれば、改正に必要な過半数の3000万票に届くと計算する」。

以下は、毎日新聞3月18日付の記事。いったい、神社界はなぜかくも改憲に熱心なのか。
全国8万社を傘下に置く宗教法人・神社本庁の主張は「大日本帝国憲法は、民主主義的で誇り得る、堂々たる立派な近代的憲法」「帝国憲法の原点に立ち戻り、わが国の国体にふさわしくない条文や文言は改め、…全文見直しを行うのが本筋の改憲のあり方」(神社本庁の政治団体・神道政治連盟発行誌「意」、14年5月15日号)として、憲法1条を改めて天皇を元首とするほか、戦力不保持を定めた9条2項、国の宗教的活動・教育を禁じた20条3項の削除・改正に主眼を置く」という。

毎日は、「神社本庁の一部には、神社存続のために、国家神道の仕組みに戻りたいという心情があるのでは」という識者の意見を紹介している。

日本国憲法の「政教分離原則」とは、政治権力と宗教団体の癒着を許さないということだが、政治権力の側に対する規範と理解されている。「天皇や閣僚はその公的資格をもって靖国神社を参拝してはならない」「県知事は、護国神社に玉串料を奉納してはならない」「市が、地鎮祭を主催してはならない」という具合に、である。その反面、政教分離原則が宗教団体の側に対する規範という意識は希薄だった。神社が署名活動をすること自体は世俗的な政治活動であって、宗教的行為とは言いがたい。しかし、神社がここまでアベ政権と癒着し右翼勢力の中心にあって改憲に熱心であると、「政と教のどちらから歩み寄るにせよ、両者の癒着は防止しなければならない」と言いたくもなる。

憲法20条3項は、次のような書きぶりである。
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
つまり、「国及びその機関」に対する命令となっている。「国及びその機関」に対して「宗教的活動を禁止する」という形で、宗教との癒着を防止しているのだ。

しかし、20条第1項の第2文は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と、宗教団体を主語にした書きぶりになっている。

改憲署名運動が、「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使」に当たるものとはにわかには言いがたい。しかし、「帝国憲法の原点に立ち戻ろう」とする宗教団体が、時の権力にここまで擦り寄る政治性の高い改憲署名活動は、戦前の神社の特権と政治的権力を恢復しようという、反憲法的な目的と効果を有するものと捉えうるのではないか。

宗教団体の側からの政教分離違反の問題として考え直してみる必要がありそうではある。
(2016年5月4日)

「文明社会とは価値観を共有し得ない」櫻井よしこの改憲論

日本国憲法は、1946年11月3日に公布され、翌47年5月3日に施行となった。本日は69回目の日本国憲法施行の記念日である。

かつては、政府が憲法記念の祝賀行事を主催した。いま政府の祝賀行事は皆無である。昨今はそれどころではない。憲法擁護義務を負う首相自身が「憲法改正」への積極意欲を口にしてはばからない。政府・与党による憲法と立憲主義攻撃の中で、緊張した雰囲気に包まれた憲法記念日となっている。

日本国憲法は保守政権にとっての厄介者である。アベ政権に至っては天敵扱いである。当然に、この軛から逃れたいという衝動をもっている。

しかし国家権力にとっての憲法とは、常にいやいやながらも従わざるを得ないもの。押しつけられたものだ。戦後連綿と続いてきた保守政権にとって、かつては戦勝国から押しつけられたものではあろうが、いま、アメリカからの憲法遵守要求の圧力はない。代わって国民が、政権に憲法を押しつけている構図となっている。国民の意思や運動が、政権に改憲を許さず、憲法理念の遵守要求圧力となっているのだ。

政権に憲法を押しつけているもの。「むかしGHQ、いま国民」ではないか。日本国憲法は、政権から嫌われたが故に、国民のものになってきたのだ。政権から歓迎される憲法では、存在価値はない。政権から疎まれ、嫌われる憲法であってこそ存在の意味がある。アベ政権から疎まれ、国民から大切にされる憲法。改憲の攻撃を受けつつ、これとせめぎ合い、守り抜く運動の中の憲法。緊張感の中ではあるが、こうして日本国民は日本国憲法を血肉化しているのだと実感する。

69回目の憲法記念日で、政府に代わって憲法攻撃を広言しているのが右翼勢力。

「東京・平河町の砂防会館別館であった改憲派の集会には、約1100人(主催者発表)が出席。有識者でつくる民間憲法臨調と『美しい日本の憲法をつくる国民の会』の共催で、同臨調代表のジャーナリスト、桜井よしこさんは改憲について『緊急事態条項を入れるところから出発するのがよい』と主張した。」(朝日)

その集会に参加した友人から次のメモの報告を受けた。

第18回公開憲法フォーラム・各党に緊急事態に対応する憲法論議を提唱する?すみやかな憲法改正発議の実現を!

まず、櫻井よしこさんの主催者代表挨拶。
国と国民の対立構造はない。
この国には国を縛るルールという考えはない。
3.11で命を救うために動けなかったのは憲法が元凶。
財産権の保障があるから助かる命が救えなかった。
日本らしさ、歴史、伝統、文明、価値観を守るのが憲法。
穏やかで公正な国のあり方。
緊急事態条項から出発しよう

安倍首相のビデオメッセージ
自衛隊が違憲と思われていて遺憾

中曽根康弘氏ビデオメッセージ
厭戦感に対し説得しなければならない

下村博文衆院議員(自民党)
どんな想定外のことでも対応できるように緊急事態条項を作らなければならない

松原仁衆院議員(民進党)
我々が憲法を作ったという事実がない
戦勝国の価値観を受け入れざるを得なかった
憲法の勘違いは近隣に平和を委ねること

江口克彦参院議員(おおさか維新の会)
マッカーサーは日本人は12歳だと言った
12歳の日本人を対象に作った憲法
護憲派は日本人は12歳だと言っているのと同じ
作成された時代で止まっている
法は時代の流れとともに変えていかなければならない
現実に合わない
解釈改憲は時の政権の解釈によることになるのでよくない

中山恭子(日本のこころを大切にする党)
拉致事件などが起きた国にすべてをまかせる、
自分の国を他国の力で守ろうとする甘ったれた国
前文を変えたい

この後緊急事態条項新設の必要性の提言
青年からの意見表明

1000万目標の署名が、5月3日時点で700万筆集まっている。」

メモには、「カルチャーショックでした!」という感想が添えられていた。これが、アベ政権提灯持ちの実態であることを国民は知らねばならない。

櫻井よしこの「あいさつ(要旨)」が産経に紹介されている。そのさわりは、以下のとおり。

「『立憲主義』という言葉に関して、国というものが国民と政府の対立であるかのように捉えられています。しかし、日本国の統治の仕方を振り返ってみるときに、国と国民が対立してきた、そしてその国を縛るための基本ルールが憲法であるというような考え方は、私たちにはなじみません」「憲法を論ずるときに、あたかも政府と国民の対立構造の中でものを考えるのは、間違いであると思います

これには驚いた。およそ、櫻井よしこの頭の中は、「17か条の憲法」のレベルである。あるいは、全体主義国家のイデオロギーで固まっている。思想も表現も自由ではあるが、これでは現代世界の文明国との「価値観の共有」は到底できない。「一番大事なことは、国民の共同体としての国家」と、国家権力と国民との緊張関係をことさらに否定する「思想」は、全体主義や軍事独裁のプロパガンダである。改憲派の本音と危険性を露わにしたことことにおいて、櫻井発言は、まさしく「カルチャーショック!」というべきであろう。

櫻井は、こうも言っている。
「私たちはあの3・11から、何を学んだのでしょうか。十分にお年寄りを助けることができましたでしょうか。体が不自由な人を助け出すことができたでしょうか。…もし、私たちができうることができなかったのであれば、それはなぜだろうかと真剣に考えなければなりません。その問題は憲法に元凶があるのではないでしょうか。緊急の道路を造るのに、荷物、車、がれき、片付けようとしても、現場は戸惑いました。なぜならば、それは憲法で財産権の保障などをしていて、もしかしてこれは憲法に抵触するのではないか。そのような思いを現場の人が現に持ったんです。そのことは、助けることのできる命が助からなかったということをも、意味しています。このようなことを繰り返してはなりません」

恐るべきこじつけの論理、いや非論理というほかはない。この非論理を前提にして、櫻井はこう結論する。

憲法は根本から変えなければなりませんけれども、各政党の最大公約数といってよい緊急事態条項を入れましょうというところから出発するのがよいのではないかと思います。日本国の明るい未来というものを目指して、みんなで頑張って憲法改正を実現していきたいと思います」

これが、本日の改憲派集会の趣旨のようだ。

憲法という存在をどう理解することも、発言することも自由だ。しかし、人類の叡智が長年積み上げてきた思想や経験知の体系に、いささかなりとも敬意があってしかるべきではないか。憲法に関する常識を無視しての、勝手放題の発言に説得力はない。驚くべきは、首相や元首相のメッセージまで寄せられた1000人規模の改憲派集会での主催者代表挨拶の知的レベルがこの程度だということ。

こんなレベルの改憲論だから恐るに足りず、というべきだろうか。それとも、こんなレベルの改憲論が国会内では多数派を形成しているのだから恐るべし、なのだろうか。
(2016年5月3日)

「野党は共闘」という市民の声による、アベ政治を許さない選挙共闘

この夏の参院選は、日本国憲法の命運を大きく左右する。アベ政権の改憲策動実現への第一歩となるか、それとも改憲を阻止することによってさらに国民に定着したものとするのか。

その参院選の日程が、いよいよ「6月22日公示、7月10日投開票」と本決まりの模様。そして、衆院の解散によるダブル選挙はなくなったというのが各紙の報ずるところ。寝たふり解散や抜き打ち選挙もあり得ないではないが、解散権を持つ側にとって、「ダブル選挙必ずしも有利ならず」と読ませる状況があるということだ。

選挙をめぐる関心の焦点は、自公の改憲勢力で、改憲発議のできる3分の2をとれるか否か。それは野党共闘の成否にかかっている。とりわけ、32ある一人区で、どこまで野党統一候補の擁立ができるかがカギとなる。いま、その動きが全国に浸透しつつあるが、改憲派から見て、「野党の選挙共闘恐るべし」なのだろうか、それとも「恐るに足りず」なのだろうか。本日の産経がこの点を語っている。しかも、北海道5区補選の彼らなりの教訓を踏まえてのこと。「2016参院選 本紙シミュレーション」という記事である。

右翼と自民党に支えられた産経である。スポンサーに失礼あっては社運に関わる。徹底して、改憲派の側からの分析であり、表現となっている。それでも、危機感横溢の内容となっている。おそらくは、この危機感が保守層の本音なのではないか。

メインのタイトルは「野党共闘効果は限定的 本紙が前回結果から試算」となっているが、サブのタイトルは、「与党、無党派で苦戦も 閣僚不祥事・失言など影響大」というもの。つまり、「野党統一候補は一部地域で善戦する可能性があるとはいえ、効果は限定的ともいえる」とスポンサーのご機嫌を伺いながらも、「補選の結果をみれば、無党派層の動向いかんでは野党共闘に勢いがつきかねない」「自民党は保守層の支持基盤を強化するとともに、無党派層の取り込みに向けた対策を進める必要がありそうだ」と献策している。この大事な選挙、自民党は安泰なのか、危ういのか。タイトルではなく、記事を読む限りは、大いに危ういのだ。

産経が、「野党共闘ができたとしても効果は限定的」という根拠は、3年前の参院選における有権者の投票行動を基礎としてのもの。これはたいして当てになるものではない。それでも、野党が一本化すれば、それだけで自民党候補に勝つところが7選挙区になるという。

さらに、次の記事が北海道5区補選の保守側の衝撃をよく表現している。
「自民党にとって枕を高くして寝ていられる状況でもない。夏の参院選の帰趨を占うとされた4月の衆院北海道5区補欠選挙で、野党統一候補が自民党公認候補を相手に健闘したからだ。
 補選は参院選の構図とほぼ同じ「与党候補」と「野党統一候補」の一騎打ち。両候補の得票数を市町村別に分析すると、支持政党を持たない無党派層が多い都市部で与党候補の得票数が野党統一候補を下回った。
 共同通信の出口調査では無党派層の約7割が野党候補に投票しており、自民党に大きな衝撃を与えた。自民党は政策がバラバラな「民共合作」を批判する戦術で辛くも制したが、無党派層の投票率が伸びれば与党候補が逆転されることもあり得た。もともと革新系が強いとされる北海道とはいえ、「堅調な内閣支持率のもとで党の支持層を固めれば、無党派層もそれほど取りこぼさない」というセオリーが覆された形だ。
 ある自民党選対幹部は『民進、共産両党にほぼきっちり支持層の票を積み上げられ、結果的に「1+1=1・9」になった。0・1は誤差の範囲内。勝ったものの、恐ろしい結果だ』と警戒感をあらわにする。」

要は、野党共闘のあり方次第で、参院選を制することで改憲を阻止し、アベ政権を窮地に追い込むことは可能なのだ。

誰がどう考えても、主敵・アベ政権を倒すには、野党の選挙共闘しかありえない。その基本枠組みは、既に2月19日にできている。

民主、維新、共産、生活、社民の野党5党(現在は、民主・維新が民進となって4党)の党首は2月19日、安全保障関連法を廃止する2法案を同日共同で衆院に提出するに当たって国会内で会談。国会での対応や国政選挙などで協力を強化していくことなど、下記の4点の共闘項目についてあらためて合意している。

(1)安全保障関連法の廃止と集団的自衛権の行使を容認する閣議決定の撤回
(2)安倍政権の打倒を目指す
(3)国政選挙で現与党とその補完勢力を少数に追い込む
(4)国会での対応や国政選挙などあらゆる場面で5党のできる限りの協力を行う

本年4月3日の毎日新聞が、その参院選における野党共闘進展の具体的模様を伝えている。見出しは、「野党一本化、15選挙区…32の1人区 本紙調査」というもの。

「夏の参院選に向け、全国で32の「1人区」のうち15選挙区で民進党と共産党を中心にした野党の候補者一本化が確実になったことが分かった。両党による協議が進んでいる選挙区も10あり、「統一候補」はさらに増える可能性が高い。参院選では1人区の勝敗が選挙戦全体の結果を左右する傾向が強く、2013年の前回参院選で『自民党一強』を選んだ民意が変わるかどうかが注目される。」

同日の毎日記事は、32の「1人区」を野党の選挙協力成否に関して3分している。
合意成立 15区
 青森・宮城・山形・栃木・新潟・福井・山梨・長野・「鳥取島根」・山口・「徳島高知」・長崎・熊本・宮崎・沖縄

協議中 10区
 岩手・秋田・福島・富山・三重・滋賀・和歌山・岡山・佐賀・大分

難航 7区
 群馬・石川・岐阜・奈良・香川・愛媛・鹿児島

そして、昨日(5月1日)の赤旗が、最新情勢を伝えている。
「一人区野党統一候補が大勢に」「政権に危機感」というもの。

「夏の参院選にむけ、32の1人区での野党統一候補の擁立が20選挙区を数え、大勢になりつつあります。『野党と市民・国民』対『自公と補完勢力』という選挙の対決構図が鮮明になるなか、安倍政権・与党は警戒感を募らせています。」という内容。

「前回参院選(2013年)の野党票を合計すると、9選挙区で野党が勝利、3選挙区で接戦となる計算となります。前々回(10年)の野党票合計では、18選挙区で野党が勝利、5選挙区で接戦。市民とともに野党が団結し本気で選挙をたたかえば、自民を負かす可能性がみえています。」

「一方、野党は統一候補擁立とともに政策課題でも一致点を広げています。26日、徳島・高知選挙区で野党4党と大西聡統一候補は、消費税増税反対、TPP(環太平洋連携協定)批准反対、原発に依存しない社会の実現、辺野古新基地建設反対など11項目の共通政策を発表しています。」

赤旗が報じる参院選1人区での野党統一候補は以下のとおり。
 青森    田名部匡代          民進公認
 秋田    松浦大悟           民進公認
 宮城    桜井充             民進公認
 山形    舟山康江            無所属
 栃木    たのべたかお         無所属
 群馬    堀越啓仁           民進公認
 新潟    森裕子             無所属
 長野    杉尾ひでや          民進公認
 山梨    宮沢ゆか           民進公認 
 石川    柴田未来           無所属
 福井    横山龍寛           無所属
 滋賀    林久美子           民進公認
 岡山    黒石健太郎          民進公認
 鳥取・島根 福島浩彦           無所属
 山口    こうけつ厚           無所属
 徳島・高知 大西聡            無所属
 長崎    西岡秀子           民進公認
 宮崎    読谷山洋司          無所属
 熊本    あべ広美           無所属
 沖縄    イハ洋一           オール沖縄

残る一人区(12)は、 岩手 福島 富山 岐阜 三重 奈良 和歌山 香川 愛媛 佐賀 大分 鹿児島である。

日経(4月30日)によれば、「7月の参院選で勝敗のカギを握る32の改選定数1の選挙区を巡り、民進、共産、社民、生活の野党4党は全体の6割を超える20選挙区で統一候補の擁立に合意した。残る12のうち、9選挙区で一本化に向け最終調整に入っている。参院選で「自民1強」に歯止めをかけるには野党共闘の加速が欠かせないと判断。残る選挙区で協議を進め、5月中の決着をめざす」とのことである。

私は、無原則な選挙共闘の相乗効果を安易に信じる立場にはない。しかし、今回参院選に限っては、野党候補統一の相乗効果は大いに期待しうるのではないだろうか。『1+1=2』にとどまらず、『1+1=2.5』にも、あるいは『1+1=3』にもなり得ると思う。

「一人区では、どうせ野党候補に勝ち目はない」という雰囲気は、アンチ・アベ無党派層の投票意欲を著しく殺ぐことになる。ところが、第2位・第3位の候補者の共闘が実現して接戦に持ち込めるとなれば、反アベ・反自民・反公明の無党派層の投票行動へのインセンティブが跳ね上がるのだ。

前回参院選(2013年)は、野党陣営にとっては最悪の事態でのものだった。このときの票の分布を今回も同様と安易に決めつけてはならない。北海道5区で示された接戦状態が、至るところで現出するだろう。そして、その経験は来たるべき総選挙における小選挙区共闘につながることになる。

「野党は共闘」という昨年の戦争法案反対デモのシュプレヒコールが、まだ耳に響いている。あのコールが、ここまで政治を動かしつつあるのだ。もしかしたら、あのデモが、アベ政治を許さず、改憲を阻止することになるのかも知れない。
(2016年5月2日)

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