澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

DHCスラップ訴訟・「反撃」訴訟 勝訴確定の記者レク ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第181弾

(2021年1月21日)
本日午前11時、東京地裁司法記者クラブで、DHCスラップ訴訟確定の記者レクを行った。登壇者は下記の3名
当事者(DHCスラップ訴訟被告・『反撃訴訟』原告)である私
訴訟経過と判決を解説した弁護団長 光前幸一弁護士
解説と司会を担当した、弁護士澤藤大河

★ まず伝えたことは、DHCスラップ訴訟・DHCスラップ「反撃」訴訟が、私の勝訴、DHC側の完敗で確定したこと。
1月14日 最高裁(一小)が下記の決定をして、翌日通知が届いた。
   DHC・吉田嘉明の上告を棄却
   DHC・吉田嘉明の上告受理申立を不受理
この決定によって、東京高裁第5民事部(秋吉仁美裁判長)の2020年3月18日 判決(DHC・吉田嘉明のスラップ訴訟提起を違法として、165万円の損害賠償認容の判決)が確定した。

★ これは、表現の自由妨害を企図するスラップ常習企業に痛打であり、表現の自由顕現を目指すわれわれには欣快の至りである。

★ DHCとは、スラップ常習企業であるだけでなく、政治家への裏金提供、オーナー吉田嘉明の在日差別発言、文春On-lineで明らかとなった消費者への欺罔など、問題だらけの企業である。

★ スラップ訴訟とは、自らの権利の救済や実現のためではなく、被告を威嚇・恫喝して、その言論や行動を萎縮せしめる目的の民事提訴を言う。

★ DHC・吉田嘉明は、対澤藤事件と同じ時期に、計10件のスラップを提訴している。これに反撃して最後まで闘い抜いたのは、残念ながら、澤藤一人であった。

★ 確定した判決ではスラップ違法の要件は、次のように定式化された。
下記の「Aを前提に、B1かB2」であれば、提訴は違法となる。
A 「その提訴は客観的に勝てない」
B1「提訴者が、勝てないことを知っている」
B2「常識的に勝てないことが分かるはず」
つまり、スラップ違法の方程式がこれ。
 A+(B1 or B2)=違法スラップ

★ その上で、一審判決も二審判決も「DHC・吉田嘉明のスラップの提訴は客観的に勝てるはずのものではなく、しかも、提訴者が、勝てないことを知っていたか、勝てないことが容易に分かるはずの提訴」だったことを認定した。次のとおりである。

「この(スラップ)訴訟における被告ら(DHC・吉田嘉明)の請求は事実的・法律的根拠を欠くものという他はない」(A要件

「(DHC・吉田嘉明らは)請求が認容される見込みがないことを通常人であれば容易にそのことを知り得たと言えるのにあえて訴えを提起したものとして、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くものということができ、原告(澤藤)に対する違法行為と認められる」(B2要件

★ スラップ訴訟の損害論
一審判決は、慰謝料100万円+反撃訴訟の弁護士費用10万円=110万円
控訴審審判決は、スラップ応訴費用50万を損害として認め下記にあらためた。
慰謝料100万+スラップ応訴費用50万+反撃訴訟弁護士費用15万=165万円

★ この事件の教訓は、「スラップの恫喝を恐れての言論の萎縮などあってはならない。」「スラップには反撃訴訟で徹底して闘うべし」ということである。

★ 最後に私が強調したのは、DHCを典型とする問題企業には、社会からの制裁が必要であること。反撃訴訟での勝訴だけでは足りない。訴訟を切っ掛けに、明るみに出た、このDHCという違法体質の批判には、DHC製品不買運動が必要だと言うこと。あらゆる人々の日々の消費生活における商品選択の積み重ねで、世の中を少しずつ変えることができる。「DHCの製品、私は買いません」という、一人ひとりの消費者の自覚的な意識と行動が、デマやヘイトやスラップや政治家への裏金提供や、ステルスマーケティングなどの不当・違法行為をなくしていくことにつながる。これが、消費者運動のあるべき姿であり、正しい意味における「消費者主権」の意味である。

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   DHCスラップ訴訟・DHC『反撃訴訟』経過の概略

☆スラップ提訴以前
2013年4月1日 ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」新装開店
(以来毎日連続更新・昨日で2851回)
2014年3月27日 吉田嘉明手記掲載の週刊新潮(4月3日号)発売
「さらば器量なき政治家」 渡辺喜美に8億円の裏金提供を自ら暴露
2014年3月31日 澤藤・違法とされたブログ(1)掲載
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日  違法とされたブログ(2)掲載
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日  違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
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☆DHCスラップ訴訟の経過
(原告 DHC・吉田嘉明、被告 澤藤統一郎
東京地裁民事24部 H26年(ワ)第9408号)
2014年4月16日 提訴(当時 石栗正子裁判長)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪・削除請求)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」 以下続く
8月20日 705号法廷 実質第1回弁論期日。
8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額)
新たに下記2ブログ記事が名誉毀損とされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月1日 第8回(実質第7回)弁論 結審(阪本勝裁判長)
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2015年12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年1月28日 控訴審控訴棄却判決言い渡し 被控訴人全面勝訴
2016年10月4日 最高裁DHC・吉田嘉明の上告受理申立不受理決定
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☆DHCスラップ「反撃」訴訟の経過
(本訴 原告 DHC・吉田嘉明、被告 澤藤 ⇒本訴はすぐ取り下げ)
(反訴 原告 澤藤、反訴被告 DHC・吉田嘉明)
2017年9月4日 DHC・吉田嘉明が澤藤を被告として
債務不存在確認請求訴訟を提起   H29年(ワ)第30018号
東京地方裁判所民事1部に係属⇒裁判長 後藤健(41期)
2017年11月10日 澤藤から反訴提起 H29年(ワ)第38149号
損害賠償請求660万円
2018年10月26日 裁判長交代・前澤達朗(48期)
2019年1月11日 人証採用決定(3名)
澤藤と吉田両本人と 証人内海拓郎(DHC総務部長)
2019年4月19日 吉田呼出に応ぜず不出頭 澤藤と内海拓郎尋問
2019年7月4日  結審
2019年10月4日 判決言い渡し勝訴110万円の請求認容
損害認容はスラップの慰謝料100万円と反撃訴訟弁護士費用10万円
2020年3月18日 東京高裁第5民事部(秋吉仁美裁判長)控訴審判決
50万円の応訴費用を認めて、165万円の認容判決とした。
2021年 1月14日 最高裁(第1小法廷)上告棄却・上告受理申立不受理

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私は何を書いて、DHC・吉田嘉明からスラップの標的とされたか。

DHC・吉田嘉明スラップ事件資料 6000万円請求の根拠とされた5本のブログ

2019年10月4日、スラップ「反撃」訴訟の一審勝訴判決以来、会う人ごとに「おめでとう」「よかったね」と言われ続けている。とても気分は良い。そして、「この裁判を知ってからDHCは買ってないよ」「ウチは、DHCは以前から買ってない」と,多くの人から聞かされる。面倒を厭わず闘い続けた甲斐があったと思う。本当によかった。弁護団や支援の皆様には感謝の言葉しかない。

しかし、なかには、「いったい、DHCと吉田嘉明にどんな悪口を言って、裁判までされたの?」という質問をする方もいる。かすかに、「裁判までされたのは、よほどの悪口雑言を言ったからでしょう」というニュアンスが感じられる。

そこで、私が、名誉毀損として訴えられたブログのすべてを掲載しておきたい。そのブログは全部で5本。名誉毀損とされた表現の個所は合計16個所ある。これを並べてお読みいただきたい。私のブログは吉田嘉明を厳しく批判するものだ。吉田の耳に痛いことは当然として、この私の言論が許されざる違法なものであるかどうか、読者ご自身の憲法感覚でご判断いただきたい。

2014年3月27日、吉田嘉明の独占手記「さらば器量なき政治家・渡辺喜美」掲載の週刊新潮(4月3日号)が発売になった。私は、これを批判するブログを3本書いて、DHC・吉田嘉明から、2000万円の損害賠償請求の訴えの提起を受けた。損害賠償請求と併せて、ブログ記事の削除と謝罪文掲載の請求もあった。私のブログ記事掲載は、同年3月31日、4月2日、4月8日のこと。これを違法とするDHC・吉田嘉明の訴え提起は、4月16日のことだった。

その3本の「2000万円相当ブログ」は下記のとおり。

https://article9.jp/wordpress/?p=2371?(2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

https://article9.jp/wordpress/?p=2386?(2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

https://article9.jp/wordpress/?p=2426?(2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

この提訴の訴状に不備があったのか、訴状の私への送達は遅れて、5月16日となった。友人と相談して、弁護団態勢を組む目途が付いた頃から、私は不退転の決意で反撃に出た。当ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの掲載を開始したのだ。その第1回が、同年7月13日のこと。
2014年7月
13日 第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
18日 第5弾「この頑迷な批判拒否体質(1)」
19日 第6弾「この頑迷な批判拒否体質(2)」
20日 第7弾「この頑迷な批判拒否体質(3)」
22日 第8弾「グララアガア、グララアガア」
23日 第9弾「私こそは『幸せな被告』」
25日 第10弾「『表現の自由』が危ない」
27日 第11弾「経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ」
31日 第12弾「言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型」
同年8月
3日 第13弾「スラップ訴訟は両刃の剣」
4日 第14弾「スラップ訴訟被害者よ、団結しよう。」
8日 第15弾「『政治とカネ』その監視と批判は主権者の任務だ」
10日 第16弾「8月20日(水)法廷と報告集会のご案内」
13日 第17弾「DHCスラップ訴訟資料の公開予告」
20日 第18弾「満席の法廷でDHCスラップの口頭弁論」
21日 第19弾「既に現実化しているスラップの萎縮効果」
22日 番外「ことの本質は『批判の自由』を守り抜くことにある」
31日 第20弾「これが、損害賠償額4000万円相当の根拠とされたブログの記事」
同年9月
14日 第22弾「DHCが提起したスラップ訴訟の数々」
15日 第23弾「DHC会長の8億円拠出は『浄財』ではない」
16日 第24弾「第2回口頭弁論までの経過報告」
17日 第25弾「第2回口頭弁論後の報告集会で」
(以下略、現在181弾まで)

以上のとおり、私は猛烈に書き続けた。怒りこそが、エネルギーの源泉である。私のブログを検索していただければ、すべてを読むことができる。「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズの最初の方ものは、読み物としてもできのよい面白いものではないか。

しかし、吉田嘉明にしてみれば、黙れと恫喝したのに反撃されたことが面白くないものと映ったようだ。8月29日付の書面で、2000万円の損害賠償請求金額は6000万円に跳ね上がった。その根拠とされたものが、第1弾と、第15弾の2本のブログ、第1弾の5個所と、第2弾の1個所が名誉毀損の表現部分だという。

https://article9.jp/wordpress/?p=3036(2014年7月13日)
いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾

https://article9.jp/wordpress/?p=3267?(2014年8月8日)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾

以上の経過で、損害賠償請求の根拠とされた私のブログは、合計2000万円相当の3本と、合計4000万円相当の2本となった。これを以下のとおり、再掲しておきたい。なお、赤字部分が名誉毀損表現として特定された文章である。

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「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

「徳洲会・猪瀬」5000万円問題が冷めやらぬうちに、「DHC・渡辺喜美」8億円問題が出てきた。2010年参院選の前に3億円、12年衆院選の前に5億円。さすが公党の党首、東京都知事よりも一桁上を行く。

私は、「猪瀬」問題に矮小化してはならないと思う。飽くまで「徳洲会・猪瀬」問題だ。この問題に世人が怒ったのは「政治が金で動かされる」ことへの拒否感からだ。「政治が金で買われること」のおぞましさからなのだ。政治家に金を出して利益をむさぼろうという輩と、汚い金をもらってスポンサーに尻尾を振るみっともない政治家と、両者をともに指弾しなければならない。この民衆の怒りは、実体法上の贈収賄としての訴追の要求となる。

「DHC・渡辺喜美」問題も同様だ。吉田嘉明なる男は、週刊新潮に得々と手記を書いているが、要するに自分の儲けのために、尻尾を振ってくれる矜持のない政治家を金で買ったのだ。ところが、せっかく餌をやったのに、自分の意のままにならないから切って捨てることにした。渡辺喜美のみっともなさもこの上ないが、DHC側のあくどさも相当なもの。両者への批判が必要だ。

もっとも、刑事的な犯罪性という点では「徳洲会・猪瀬」事件が、捜査の進展次第で容易に贈収賄の立件に結びつきやすい。「DHC・渡辺喜美」問題は、贈収賄の色彩がやや淡い。これは、知事(あるいは副知事)と国会議員との職務権限の特定性の差にある。しかし、徳洲会は歴とした病院経営体。社会への貢献は否定し得ない。DHCといえば、要するに利潤追求目的だけの存在と考えて大きくは間違いなかろう。批判に遠慮はいらない。

DHCの吉田は、その手記で「私の経営する会社にとって、厚生労働行政における規制が桎梏だから、この規制を取っ払ってくれる渡辺に期待して金を渡した」旨を無邪気に書いている。刑事事件として立件できるかどうかはともかく、金で政治を買おうというこの行動、とりわけ大金持ちがさらなる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない。

もうひとつの問題として、政治資金、選挙資金、そして政治家の資産状況の透明性確保の要請がある。政治が金で動かされることのないよう、政治にまつわる金の動きを、世人の目に可視化して監視できるように制度設計はされている。その潜脱を許してはならない。

選挙に近接した時期の巨額資金の動きが、政治資金でも選挙資金でもない、などということはあり得ない。仮に真実そのとおりであるとすれば、渡辺嘉美は吉田嘉明から金員を詐取したことになる。

この世のすべての金の支出には、見返りの期待がつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの。上限金額を画した個人の献金だけが、民意を政治に反映する手段として許容される。企業の献金も、高額資産家の高額献金も、金で政治を歪めるものとして許されない。そして、金で政治を歪めることのないよう国民の監視の目が届くよう政治資金・選挙資金の流れの透明性を徹底しなければならない。

DHCの吉田嘉明も、みんなの渡辺喜美も、まずは沸騰した世論で徹底した批判にさらされねばならない。そして彼らがなぜ批判されるべきかを、掘り下げて明確にしよう。不平等なこの世の中で、格差を広げるための手段としての、金による政治の歪みをなくするために。
(2014年3月31日)

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「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

「ヨッシー日記」と標題した渡辺喜美のブログがある。そこに、3月31日付で「DHC会長からの借入金について」とする、興味の尽きない記事が掲載されている。興味を惹く第1点は、事件についての法的な弁明の構成。これは渡辺の人間性や政治姿勢をよく表している。そして、もう一点は、DHC吉田嘉明のやり口に触れているところ。こちらは、金を持つ者への政治家の諂いと、金で政治が歪められている実態の氷山の一角を見せてくれる。いずれにせよ、貴重な読み物である。

渡辺の法的弁明は、一読して相当に腹の立つ内容。おそらくは、弁護士の代筆が下敷きにある。「本件は法の取り締まりの対象とはならない」という挑戦的な姿勢。政治倫理や、政治資金の透明性の確保などへの配慮は微塵もない。要するに刑事制裁の対象となる違法はないよ、という開き直りである。法的に固く防御しているつもりで、政治的には却って墓穴を掘っている。

ここでの渡辺の「論法」は、「吉田嘉明から渡辺喜美が、みんなの党各候補者の選挙運動資金調達目的で金を借りたとしても、その借入を報告すべき制度上の義務はなく、法律違反の問題は生じない」ということに尽きる。謂わば、法の隙間の処罰不能な安全地帯にいるのだという宣言である。

もちろん、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」には違反している。この法律は、「(第1条)国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくため、国会議員の資産等を公開する措置を講ずること等により、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資することを目的とする。」として、政治家の資産と所得の公開を求めている。しかし、これには処罰規定がない。倫理の問題としては責められても、強制捜査も起訴も心配しなくて済む。

では、公職選挙法上の選挙運動資金収支として報告義務の違反にはならないか。渡辺は、「選挙資金として(渡辺から吉田に対する)融資の申し込みをしたというメールが存在すると報道がありました。たとえそれがホンモノであったとしても法律違反は生じません。」と開き直る。自分の選挙ではないからだ。報告義務を負うのは各候補者であり、各陣営の会計選任者だからということ。

では、政党の党首が選挙運動費用として党員候補者に使わせる目的で金を借りたら、その借入の事実を政治資金収支報告書に記載すべきではないか。これも、「党首が個人の活動に使った分は、政治資金規正法上、政治家個人には報告の義務はありません。そのような制度がないということです。個人財産は借金も含めて使用・収益・処分は自由にできるからです」とここでも開き直っている。

もっとも、渡辺がDHCの吉田から借りた金を、党の政治資金や候補者の選挙運動資金として貸し付ければ、その段階で、借り入れた側に、借入金として報告義務が生じる。この点はどうしても逃げ切れない。8億の金がどう流れたのか、調査の結果を待って辻褄が合うのかどうか検討を要する。

今の段階では、「一般的に、党首が選挙での躍進を願って活動資金を調達するのは当然のことです。一般論ですが、借り受けた資金は党への貸付金として選挙運動を含む党活動に使えます。その分は党の政治資金収支報告書に記載し、報告します。」という、開き直りでもあるが貴重な言質でもあるこの言葉を胸に納めておこう。

いずれにしても、みんなの党は総力をあげて渡辺の8億円の使途を追求しなければならない。でなければ、自浄能力のない政党として国民の批判に堪え得ず、全員沈没の憂き目をみることになるだろう。

興味を惹くもう1点は、政治家と大口スポンサーとの関係の醜さの露呈である。金をもらうときのスポンサーへの矜持のなさは、さながら大旦那と幇間との関係である。渡辺は、「幇間にもプライドがある」と、大旦那然としたDHC吉田嘉明のやり口の強引さ、あくどさを語って尽きない。その結論は、「吉田会長は再三にわたり『言うことを聞かないのであれば、渡辺代表の追い落としをする』、と言っておられたので今回実行に移したものと思われます。」というもの。

それにしても、渡辺や江田にとって、大口スポンサーは吉田一人だったのだろうか。たまたま吉田とは蜜月の関係が破綻して、闇に隠れていた旦那が世に名乗りをあげた。しかし、闇に隠れたままのスポンサーが数多くいるのではないか。そのような輩が、政治を動かしているのではないだろうか。

たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。

同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。

サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。

大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。

これが、おそらくは氷山の一角なのだ。
(2014年4月2日)

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政治資金の動きはガラス張りでなければならない

本日(4月8日)の、朝日・毎日・東京・日経・読売・産経の主要各紙すべてが、みんなの党・渡辺喜美の党代表辞任を社説で取りあげている。標題を一覧するだけで、何を言わんとしているか察しがつく。

朝日新聞  渡辺氏の借金―辞任で落着とはならぬ
毎日新聞  渡辺代表辞任 不信に沈んだ個人商店
東京新聞  渡辺代表辞任 8億円使途解明を急げ
日本経済  党首辞任はけじめにならない
読売新聞  渡辺代表辞任 8億円の使い道がまだ不明だ
産経新聞  渡辺代表辞任 疑惑への説明責任は残る

各紙とも、「政治資金や選挙資金の流れには徹底した透明性が必要」を前提として、「渡辺の代表辞任は当然」としながら、「これで幕引きとしてはならない」、「事実関係とりわけ8億円の使途に徹底して切り込め」という内容。渡辺の弁解内容や、その弁明の不自然さについての指摘も共通。

毎日の「構造改革が旗印のはずだった同党だが最近は渡辺氏が主導し特定秘密保護法や集団的自衛権行使問題など自民党への急接近が目立ち、与党との対立軸もぼやけていた。いわゆる第三極勢自体の存在意義が問われている。」と指摘していること、東京が「『みんなの党は自慢じゃないけど、お金もない、組織もない、支援団体もない。でも、しがらみがない。だから思い切った改革プランを提示できる』と訴え、党勢を伸ばしてきた。党首が借入金とはいえ8億円もの巨資を使えるにもかかわらず、『お金がない』と清新さを訴えて支持を広げていたとしたら、有権者を欺いたことにならないか」と言及していることが、辛口として目立つ程度。これに対して、産経は「新執行部は渡辺氏にさらなる説明を促し「政治とカネ」の問題に率先して取り組み、出直しの第一歩にしてもらいたい」と第三極の立ち直りにエールを送る立ち場。

もの足りないのは、巨額の金を融通することで、みんなの党を陰で操っていたスポンサーに対する批判の言が見られないこと。政治を金で歪めてはならない。金をもつ者がその金の力で政治を自らの利益をはかるように誘導することを許してはならない。

DHCの吉田嘉明は、その許すべからざることをやったのだ。化粧品やサプリメントを販売してもっと儲けるためには、厚生行政や消費者保護の規制が邪魔だ。小売業者を保護する規制も邪魔だ。労働者をもっと安価に使えるように、労働行政の規制もなくしたい。その本音を、「官僚と闘う」「官僚機構の打破」にカムフラージュして、みんなの党に託したのだ。

自らの私益のために金で政治を買おうとした主犯が吉田。その使いっ走りをした意地汚い政治家が渡辺。渡辺だけを批判するのは、この事件の本質を見ないものではないか。

政治資金規正法違反の犯罪が成立するか否かについては、朝日の解説記事の中にある、「資金提供の方法が寄付か貸付金かは関係なく、『個人からのお金を政治資金として使うのであれば、すべて政治資金収支報告書に記載する必要がある』として、違法性が問われるべき」との考え方に賛意を表したい。

仮に、今回の「吉田・渡辺ケース」が政治資金規正法に抵触しないとしたら、それこそ法の不備である。政治献金については細かく規制に服するが、「政治貸金」の形となれば一切規制を免れてしまうことの不合理は明らかである。巨額の金がアンダーテーブルで政治家に手渡され、その金が選挙や党勢拡大にものを言っても、貸金であれば公開の必要がなくなるということは到底納得し得ない。明らかに法の趣旨に反する。ましてや本件では、最初の3億円の授受には借用証が作成されたが、2回目の5億円の授受には借用証がないというのだ。透明性の確保に関して、献金と貸金での取扱いに差を設けることの不合理は明らかではないか。

主要6紙がこぞって社説に掲げているとおり、事件の幕引きは許されない。まずは「みんなの党」内部での徹底した調査の結果を注視したい。その上で、国会(政倫審)や司法での追求が必要になるだろう。

政治と金の問題の追求は決しておろそかにしてはならない。
(2014年4月8日)

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いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾

当ブログは新しい報告シリーズを開始する。本日はその第1弾。
興味津々たる民事訴訟の進展をリアルタイムでお伝えしたい。なんと、私がその当事者なのだ。被告訴訟代理人ではなく、被告本人となったのはわが人生における初めての経験。

その訴訟の名称は、『DHCスラップ訴訟』。むろん、私が命名した。東京地裁民事24部に係属し、原告は株式会社ディーエイチシーとその代表者である吉田嘉明(敬称は省略)。そして、被告が私。DHCとその代表者が、私を訴えたのだ。請求額2000万円の名誉毀損損害賠償請求訴訟である。

私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。

DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。

私は改憲への危機感から「澤藤統一郎の憲法日記」と題する当ブログを毎日書き続けてきた。憲法の諸分野に関連するテーマをできるだけ幅広く取りあげようと心掛けており、「政治とカネ」の問題は、避けて通れない重大な課題としてその一分野をなす。そのつもりで、「UE社・石原宏高事件」も、「徳洲会・猪瀬直樹事件」も当ブログは何度も取り上げてきた。その同種の問題として「DHC・渡辺喜美事件」についても3度言及した。それが、下記3本のブログである。

https://article9.jp/wordpress/?p=2371?(2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

https://article9.jp/wordpress/?p=2386?(2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

https://article9.jp/wordpress/?p=2426?(2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

是非とも以上の3本の記事をよくお読みいただきたい。いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」ことへの批判を内容とするものである。

DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、原告らの名誉を毀損すると主張されている。

原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。

万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。

本来、司法は弱者のためにある。政治的・経済的弱者こそが、裁判所を権利侵害救済機関として必要としている。にもかかわらず、政治的・経済的弱者の司法へのアクセスには障害が大きく、真に必要な提訴をなしがたい現実がある。これに比して、経済的強者には司法へのアクセス障害はない。それどころか、不当な提訴の濫発が可能である。不当な提訴でも、高額請求訴訟の被告とされた側には大きな応訴の負担がのしかかることになる。スラップ訴訟とは、まさしくそのような効果を狙っての提訴にほかならない。

このような訴訟が効を奏するようでは世も末である。決して『DHCスラップ訴訟』を許してはならない。

応訴の弁護団をつくっていただくよう呼びかけたところ、現在77人の弁護士に参加の申し出をいただいており、さらに多くの方の参集が見込まれている。複数の研究者のご援助もいただいており、スラップ訴訟対応のモデル事例を作りたいと思っている。

本件には、いくつもの重要で興味深い論点がある。本日を第1弾として、当ブログで順次各論点を掘り下げて報告していきたい。ご期待をいただきたい。

なお、東京地裁に提訴された本件の事実上の第1回口頭弁論は、8月20日(水)の午前10時30分に開かれる。私も意見陳述を予定している。

是非とも、多くの皆様に日本国憲法の側に立って、ご支援をお願い申しあげたい。「DHCスラップ訴訟を許さない」と声を上げていただきたい。
(2014年7月13日)
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「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾

政治資金規正法は、1948年に制定された。主として政治家や政治団体が取り扱う政治資金を規正しているが、政治資金を拠出する一般人も規正の対象となりうる。政治資金についての規正が必要なのは、民主主義における政治過程が、カネで歪められてはならないからだ。

政治資金規正法第1条が、やや長めに法の目的を次のとおり宣言している。
「この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。」

立派な目的ではないか。これがザル法であってはならない。これをザル法とする解釈に与してもならない。カネで政治を歪めることを許してはならない。

改めて仔細に読み直すと、うなずくべきことが多々ある。とりわけ、「議会制民主政治の下」では、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われなければならない」と述べていることには、我が意を得たりという思いだ。

キーワードは、「国民の不断の監視と批判」である。法は、国民に政治家や政権への賛同を求めていない、暖かい目で見守るよう期待もしていない。主権者国民は、政党・政治団体・公職の候補者・すべての議員への、絶えざる監視と批判を心掛けなければならない。当然のことながら、政治家にカネを与えて政治をカネで動かそうという輩にも、である。

砕いて言えば、「カネの面から民主主義を守ろう」というのが、この法律の趣旨なのだ。「政治とカネの関係を国民の目に見えるよう透明性を確保する。金持ちが政治をカネで歪めることができないように規正もする。けれども、結局は国民がしっかりと目を光らせて、監視と批判をしてないと民主主義の健全な発展はできないよ」と言っているのだ。

「政治資金収支の公開」と「政治資金授受の規正」が2本の柱だ。なによりもすべての政治資金を「表金」としてその流れを公開させることが大前提。「裏金」の授受を禁止し、政治資金の流れの透明性を徹底することによって、カネの力による民主主義政治過程の歪みを防止することを目的としている。

今私は、政治とカネの関係について、当ブログに何本もの辛口の記事を書いた。そのうちの3本が名誉毀損に当たるとして、2000万円の損害賠償請求訴訟の被告とされている。私を訴えたのは、株式会社DHCとその代表者吉田嘉明である。

どんな罵詈雑言が2000万円の賠償の根拠とされたのか、興味のある方もおられよう。下記3本のブログをご覧いただきたい。

https://article9.jp/wordpress/?p=2371?(2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判

https://article9.jp/wordpress/?p=2386?(2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

https://article9.jp/wordpress/?p=2426?(2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない

いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」とする批判を内容とするものである。

私は、主権者の一人として「国民の不断の監視と批判を求めている」法の期待に応えたのだ。ある一人の大金持ちから、小なりとはいえ公党の党首にいろんな名目で累計10億円ものカネがわたった。そのうち、表の金は寄付が許される法の規正限度の上限額に張り付いている。にもかかわらず、その法規正の限度を超えた巨額のカネの授受が行われた。はじめ3億、2度目は5億円だった。これは「表のカネ」ではない。政治資金でありながら、届出のないことにおいて「裏金」なのだ。

事実上の有権解釈を示している、『逐条解説 政治資金規正法〔第2次改訂版〕』(ぎょうせい・2002年)88頁は、法の透明性の確保の理念について、「いわば隠密裡に政治資金が授受されることを禁止して、もって政治活動の公明と公正を期そうとするものである」と解説している。

にもかかわらず、3億円、5億円という巨額な裏金の授受を規正できないとする法の解釈は、政治資金規正法をザル法に貶めることにほかならない。

この透明性を欠いた巨額カネの流れを、監視し批判の声を挙げた私は、主権者として期待される働きをしたのだ。逆ギレて私を提訴するとは、石流れ木の葉が沈むに等しい。これが、スラップなのだ。明らかに間違っている。

憲法と政治資金規正法の理念から見て、恥ずべきは原告らの側である。本件提訴は、それ自体が甚だしい訴権の濫用として、直ちに却下されなければならない。(2014年8月8日)

 

私に「6000万円支払え」と訴訟を提起した根拠が、以上のブログ記事である。これを違法として「6000万円支払え」と請求した人物が、DHCの吉田嘉明。そして、弁護士今村憲が、「その提訴は却ってあなたの不名誉になるから止めなさい」とアドバイスすることなく、代理人として提訴した。読者諸賢の読後感はいかがだろうか。

問題は2段階ある。まずは、私のこの内容の言論が違法とされてよいのか、ということ。そして、この内容の言論を違法として提訴し、表現者に応訴の負担をかけることが許されてよいのか、ということ。

 私は、自分の記事を読み直して、いずれの記事も正鵠を射たものであると確信する。私は、民主主義社会の主権者の一人として、なすべき正統な言論を表明したのだ。DHC・吉田嘉明のスラップ提訴の違法と悪質さについて、改めて憤りを深くしている。

 

 

 

山口香さん。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制についても、議論を避けないで。

(2021年1月20日)
1月13日、ほかならぬNHKが世論調査の結果をこう報道した。

ことし(2021年)に延期された東京オリンピック・パラリンピックについて、NHKの世論調査では、「開催すべき」は16%で先月より11ポイント減りました。一方、「中止すべき」と「さらに延期すべき」をあわせるとおよそ80%になりました。

 この調査結果は、市民の感覚に合っている。NHK以外の他の調査の結果も大同小異。常識的には、どう考えても今年の7月に東京五輪などできっこない。日本が無理なだけでなく、世界全体がオリンピックどころではない。この調査に何らかの意味があるとすれば、できっこないことを承知で何が何でも東京五輪をやらねばならぬと思い込んでいる恐るべき硬直化した人々が16%もいるということ。

そのような雰囲気の中で、JOC理事である山口香が毎日新聞のインビューに応じて一石を投じた。昨年も同じようなことがあったが、おそらくはこの人の個人的見解ではなかろう。個人的見解であったとしても、主催者側の相当な賛同を確認しての発言と思われる。

昨日(1月19日)の毎日インタビューは、「五輪意義、議論避けるな 山口香JOC理事、一問一答」とのタイトル。その山口香発言を抜き書きしてみる。

◆五輪は…いつできるようになるかも見通せない。できるのかというと難しいと、客観的に見て思う。

◆今回は中止か延期かの議論でなく、やるかやらないか。どういうプロセスで誰がいつまでに判断するのか、早く示すべきだと思う。

◆(五輪で)世界の人が入ってくることが、(感染状況の)逆戻りにつながる不安がある。国の説明が足りない。五輪が勇気を与えるというのは簡単だが、経済状況がどん底の人がたくさんいる中で、「五輪をやってくれれば、ご飯を食べなくても元気になれる」とは思えない。

◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。…この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。

取り立てて、格別の見識が示されたわけではない。誰が考えてもできっこない東京五輪だが、主催者側は、やるかやらないかその常識的な議論さえ始まっていないと嘆いているのだ。

東京五輪、その実行は無理だと世論は結論を出している。可及的速やかに中止の結論を出した方がよい。くずぐずしていると、敗戦時の二の舞となる。敗戦の決断が遅れたことによって、どれだけの命を犠牲とし、国土を焼き、戦費を費やすことになったか。

今は、オリンピックを断念して、コロナ対策に専念すべきだ。さしあたり、空いているオリンピック選手村は、軽症患者の収容施設として活用すべきである。

山口の最後の質問と回答の全文を掲記しておきたい。

問 ――大会関係者は「開催する」としか公式には言わない。

答 ◆日本の組織の体質がある。議論すること自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
 国民はスポーツ自体を否定しているのではない。昨年12月の柔道男子66キロ級五輪代表決定戦の阿部一二三選手対丸山城志郎選手、今月の卓球全日本選手権女子シングルス決勝の石川佳純選手と伊藤美誠選手の試合はコロナ禍だからこそ、胸を打たれた。この国難の中で実施する五輪とは社会にとってどんな意義があるのか。オープンな議論が求められる。

 よく読むと何を言っているのか分からぬところもあるが、「早急にオープンな議論が求められる」という趣旨には異論がなかろう。

ところで、山口香は、東京都教育委員6名の一人である。周知のとおり、東京都教育委員会は、悪名高い「10・23通達」を発して、君が代に不起立の教職員を懲戒処分にし続けてきた。その懲戒処分の量定が重きに過ぎるといくつも裁判で敗訴もしている。処分を違憲とした下級審判決もあり、最も軽い戒告処分も懲戒権の濫用として違法とした東京高裁判決もある。多くの最高裁裁判官が、教育現場での処分強行を憂いて、教育現場にふさわしく十分に話し合うべきだという意見を述べている。しかし、その話し合いは、何度申し込んでも実現しない。東京都教育委員会の問答無用の頑なな姿勢は、石原都政時代以来まったく変わらない。山口香も、その責任を一端を担っている。

山口さん、二枚舌ではなかろうか。せめてこう言ってもらえないだろうか。

◆東京都教育委員会の体質の問題がある。議論するとか、話し合いの場をもつこと自体が「負け」であり、弱気と受け止められるので避ける雰囲気がある。
 君が代に不起立の教員が、真面目な教育を否定しているわけではない。むしろ、真面目な教員ほど、国旗・国歌(日の丸・君が代)に関わる歴史や教育効果を真剣に考え、あるべき教育像や教師像を持っているからこそ、その信念に基づいて敢えて起立することができないということは私にもよく分かっている。それでも、教育現場においてなぜ国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意の表明が必要なのか、社会にとって、民主主義国家においてどんな意義があるのか。また、教員や生徒一人ひとりの思想・良心の保障とどう折り合いを付けるべきか、訴訟の場とは別に、教育あるいは教育行政の場におけるオープンな議論が早急に求められる。

通常国会冒頭の菅義偉トンデモ施政方針演説

(2021年1月19日)
各紙世論調査における内閣支持率が軒並み急落している。とりわけ、一昨日(1月17日)発表の毎日新聞調査「菅内閣を支持しない・57%」という数字が衝撃である。こうなると、菅義偉が何を言っても国民の耳に届かない。耳に届いても心には響かない。さぞかし辛い立場だろう。それでもめげた表情を見せないのは、強靱な精神力と称賛すべきか、厚い面の皮と感嘆すべきか、はたまた単なる鈍感と揶揄すべきか。

そんな状況下で、昨日(1月18日)第204通常国会が開会となり、本日の各紙朝刊には菅内閣総理大臣施政方針演説が掲載されている。

もちろん、総じて評判が悪い。いや、最悪と言ってよい。各紙の社説、以下のタイトルである。

朝日社説 施政方針演説 首相の覚悟が見えない
毎日社説 菅首相の施政方針演説 不安に全く応えていない
東京社説 首相施政方針 危機克服の決意見えぬ
道新社説 首相の施政方針 コロナ対策 方向見えぬ
福井論説 菅首相の施政方針演説 「安心」「希望」には程遠い
信濃毎日 施政方針演説 対話する姿勢に欠ける
神戸社説 施政方針演説/空虚に響く「安心と希望」
中國社説 首相の施政方針演説 国民に言葉が響いたか
熊本日日 施政方針演説 展望見えず心に届かない
沖縄タイムス [施政方針演説]これでは心に響かない

施政方針演説の内容について私にはこう聞こえたという2個所を摘記しておきたい。

(国民の負担と引き換えに、命と健康を守り抜く)
国民の命と健康を守り抜きます。まずは「安心」を取り戻すため、世界で猛威をふるい、我が国でも前政権の無為無策から深刻な状況にある新型コロナウィルス感染症を一日も早く収束させます。
しかし、その実現のためには、それ相応の国民への負担をお願いする政策が必要となるというのが私の政治信条です。国民は決してただ乗りはできません。負担に耐えていただかなくてはなりません。その必要性を国民に説明し、理解してもらわなければならない。それなくして、新型コロナウィルス感染症の収束はないものと覚悟が必要なのです。つまり、命と健康は負担と引き換えだとご承知おき願います。

(国民監視と管理のためのデジタル改革)
この秋、国民全ての監視と管理の徹底を目指してデジタル庁が始動します。
デジタル庁の創設は、学術会議会員任命拒否とならぶ菅政権の強権的政治改革の象徴であります。デジタル庁は、組織の縦割りを排して、全国民のプライバシー剥奪のための強力な権能と厖大な予算を持った司令塔として、国全体の権威主義社会化を主導します。今後5年間で自治体のシステムも統一、標準化を進め、業務の効率化と全住民の個人情報国家取得を徹底してまいります。
是が非でもマイナンバーカードの普及に務め、マイナポイントの期限も半年間延長します。この3月には健康保険証との一体化をスタートし、4年後には運転免許証との一体化を開始します。これで、国民のプライバシーの大半は国家権力が入手可能と考えています。
行政機関が保有する法人などの登録データをシステム上の、いわゆるベースレジストリとして整備し、政権に協力的な大企業と一体となって、政府は国民の、企業はその従業員や消費者の支配に不可欠なデータの利活用を進めてまいります。
教育のデジタル化も一挙に進めます。小中学生に一人一台のIT端末を揃え、9000人のデジタル専門家がサポートします。子どもたちの希望や発達段階に応じたオンライン教育を早期に実行することで、国民をデジタルによる支配構造に慣れさせ、抵抗感なく支配に服従する心情を育成してまいります。
あらゆる手続が役所に行かなくてもオンラインでできる、引っ越した場合の住所変更がワンストップでできる、そうした仕組みを宣伝することで、国民には政府に対するあらゆる情報の提供についての違和感を払拭させ、何よりも主権者としての矜持の覚醒を防止いたします。
高齢者や障害者、デジタルツールに不慣れな方々もしっかりサポートし、誰をも、デジタル化の支配の仕組みの中に組み込む社会をつくり上げてまいります。
民間企業においても、社内ソフトウェアから生産、流通、販売に至るまで、企業全体で取り組むデジタル投資を支援し、政府の力で企業の従業員支配を促進するとともに、きめ細かな国民統合のためにその情報を政府において一元化いたします。
さらに、身近な情報通信の利用環境を、国民監視と管理の目線に立って変えていきます。携帯電話料金については、大手が相次いで、従来の半額以下となる大容量プランを発表し、本格的な競争に向けて、大きな節目を迎えました。
国民は、身近な利益には近視眼的な敏感さをもっていますから、このような小さな利益を供与することで容易に政府に対する信頼を醸成することが可能と考えています。携帯料金を値下げする程度のことで、国民監視と管理のシステムの設定が可能なのですから気楽なものではありますが、飽くまで気を引き締めて、完璧な国民統治のための監視・管理社会の構築に邁進する所存です。

上野戦争での彰義隊、彼らは何のために死を賭して闘ったのか。

(2021年1月18日)
図書館とはありがたいもの。思いがけなくも、目についた「新彰義隊戦史」(勉誠社・大藏八郎編著)という新刊書を借り出した。大判600頁の大著、「彰義隊・百科事典」の趣である。ずっしりと重い。定価は7700円、とうてい自費で買う気にはならない。典型的な図書館本である。

私の散歩のコースは、不忍池どまりのこともあり、ここから石段を昇って上野の山に至ることもある。上野の山全体が、「上野戦争」の舞台であり彰義隊の遺跡でもある。彰義隊員の墓碑もあり、顕彰碑もある。

江戸期、この辺り一帯は広大な「東叡山寛永寺」の境内であった。京の「比叡山延暦寺」に見立ててのこと。不忍池は琵琶湖に見立てられ、当時は舟で渡るしかなかった池中の小島が竹生島に見立てられて弁天堂が建立されたという。

言うまでもなく、寛永寺は幕府の権力に奉仕する宗教施設であったが、幕府崩壊の際に、次ぎに勃興した権力に焼かれている。1968年5月15日の「上野戦争」である。ここに立て籠もったのが彰義隊。隊長天野八郎以下の隊員3000人という規模だが、戦闘参加者は2000人未満とされる。注目すべきは、江戸庶民の戦闘参加はまったくなかったこと。

上野に立て籠もった彰義隊を掃討した、薩・長・肥を中心とする官軍側は2万8000の大軍勢だったという。戦闘員の多寡だけでなく武器の差も大きかった。勝敗は一日で決した。寛永寺36坊はことごとく焼失し、彰義隊側死者数は200人余。負傷者はその数倍に上る。官軍はその屍体の埋葬を禁じて野に晒したという。

私の関心は、彰義隊の「義」とは何であったかということ。人が集団で行動を起こすときには、共通の大義が必要となる。この時代、反薩長の下級武士を結集し、彼らを鼓舞したイデオロギーが「義」であった。その「義」という曖昧で多義的な価値の内実は何だつたのだろうか。

この書の中で、「佐幕派や、彰義隊の『義』」の具体的な内容が、次のようにまとめられている。
(1) 佐幕は勤王のためであり、勤王と佐幕は一つであって、徳川幕府に国家統治の正統性があり彰義隊はそれに従った。
(2) 徳川家の君恩には一死を以て報いるのが幕臣たる彰義隊の節義である。
(3) 戊辰戦争は薩長土の政権奪取の野心から起こったもので幕府を倒し自ら代わることを企図したものに過ぎず、これを幕臣たる彰義隊は傍観できなかった。
(4) たとえ慶喜公が恭順したとしても、幕臣として、徳川家と徳川幕府の社稜を守ることが正しい道である。
(5) 幕府に弓を引く反乱軍に一矢も報いず降伏するのは武門の恥であり、彰義隊士が一命をかけて戦ったのは当然である(正月の鳥羽伏見で1度敗けただけでその後戦らしい戦もせず、お城を無血開城するのは武門の沽券にかかわる)。

また、「義」とは、武士道の徳目の筆頭、中核に位置付けられているもので、「条理に基づき、死すべきときは躊躇なく死し、討つべきときは討つという行動における決断力」であるともいう。どうやら「義」とは、先鋭化された、極端な「主君に対する忠義」であったようである。

今にして思えば、こんなイデオロギーに命を捨てるとはなんたる愚行と言わざるを得ない。皇国史観も、特攻の精神も同様である。大義のために命を懸けよ、という煽動に惑わされてはならない。

DHCスラップ訴訟・反撃訴訟の経過と判決の意義 ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第180弾

(2021年1月17日)
1 DHC・吉田嘉明完敗確定の意義
6年9か月に及んだ、DHC・吉田嘉明と私(澤藤)との典型的なスラップ訴訟をめぐる法廷闘争が終わった。繰り返し確認しておくことになるが、私の完勝である。ということは、DHC・吉田嘉明完敗の確定である。裁判は、都合6回あった。私の6戦全勝、DHC・吉田嘉明の6戦全敗である。DHC・吉田には何の策もなく負けるべくして負けた。この経過と判決内容とは、私の勝利というだけではなく、基本権である表現の自由の勝利である。この社会には、まだDHC・吉田のごとき者を批判する自由は保障されているのだ。

判決によってその権利性が保障された私の言論は、無内容なものではない。DHC・吉田嘉明が、カネの力でこの国の政治を歪めようとすることへの批判の言論にほかならない。DHC・吉田嘉明が政治家渡辺喜美に対する8億円の裏金提供が目論んだ政治の歪みとは、規制緩和の「美名」のもと、企業の利潤追求に障害となる行政規制をなくして消費者利益を奪いとろうとしたものであった。そのことを批判した私の言論は、民主主義政治にとっても消費者利益にとっても、極めて有益な、真っ当な言論であった。DHC・吉田嘉明が、私を恫喝して妨害しようとした言論とは、そのようなものである。

雉も鳴かずば撃たれることはない。DHC・吉田嘉明は無謀な鳴き声をあげたばかりに撃たれたのだ。吉田嘉明が、何をたくらんで、どのような鳴き声を上げたのか、そして、どのように撃たれたのか。私は、その経過と貴重な表現の自由勝利の結論を世に広める責務を負うに至っている。取りあえずは、このブログで問題を整理し、広くメディアにも訴えたい。

結論を先に明確にしておきたい。今回のDHC・吉田嘉明完敗の最大の教訓は、「DHC・吉田嘉明ごときに恫喝されて、DHC・吉田嘉明に対する批判に臆してはならない」ということである。デマ・ヘイト・スラップ・ステマ・ブラック体質、極右の言論…、何とも多くの病巣を抱え込んだ問題企業・問題人物としてのDHC・吉田嘉明である。これに対する言論での批判は、事実に基づくものである限り、果敢に行わねばならない。スラップの提訴を恐れるが故のいささかの怯みもあってはならないのだ。また、言論によるものではなく、消費者運動としてのDHC製品不買運動にも積極的に取り組むべきである。少しでも、この社会をよりよりものとするために。

2 DHCスラップ訴訟経過の概要
時系列の経過概略は末尾にまとめたとおりである。事件の発端は、2014年3月27日発行の週刊新潮記事だった。ここに吉田嘉明が「さらば器量なき政治家」という手記を掲載し、この記事で吉田嘉明は、当時「みんなの党」の党首であった政治家渡辺喜美に2回にわたって合計8億円の裏金を提供したことを自ら暴露した。この巨額の裏金の動きは、追及されて明るみに出たのではない。当の本人が、無邪気なまでに「自発的に自白」しているのだ。

通常、政治家への裏金提供を批判するには、その真実性を確かめなければならない。ところが本件では、その必要がない。このことは批判の言論の正当性を獲得するためのハードルが格段に低くなっていることを意味する。何のことはない、吉田嘉明は自ら批判の言論を招き寄せ、これを防戦するためにスラップ訴訟を掛けまくったのだ。DHC・吉田嘉明が起こしたスラップ訴訟は計10件。そして、提訴を脅しの道具として、その余の多数の批判の言論を封殺した。

私はこの吉田嘉明の記事を批判した3本のブログ記事を書いて、スラップ訴訟の被告とされた。当初は3本のブログが名誉毀損言論とされ、慰謝料請求額は2000万円だった。ところが、私がこの訴訟をスラップとして、猛然と反撃を始めるや、名誉毀損ブログは2本増やされ、慰謝料請求額は6000万円に拡張された。むちゃくちゃとしかいいようがない。

法廷での意見陳述では、私は次のことを強調した。
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。」というフランス人権宣言第4条の古典的定義は間違っている。憲法上の権利とは「他人を害することを敢えてなし得ること」である。誰をも傷つけない言論には、「自由」も「権利」も語る実益がない。DHC・吉田嘉明の、経済的・社会的な利益や権利に影響する言論をであって初めて、その言論の法的保障を論じる意味がある。被告(澤藤)の言論は、原告ら(DHC・吉田嘉明)の社会的評価をせしめるものであってなお、その表明の自由が保障されなければならない。

法廷の都度、人が集まり、「民主主義の学校」が開かれた。こうして迎えた東京地裁一審判決は、当然のことではあるが、DHC・吉田嘉明の請求を全部棄却した。つまり、私の全面勝訴である。これを不服としてDHC・吉田嘉明は東京高裁に控訴したが1回結審で控訴棄却の判決となり、さらに最高裁に上告受理申立をして不受理決定となった。ここまでが、第1ラウンド。これを「DHCスラップ訴訟」と呼んでいる。

DHC・吉田が私を被告としたDHCスラップ訴訟は、私が勝つべくして勝った。多くの人々の支援を受けたことがありがたかった。多くの友人弁護士が、法廷に駆けつけてくれた。理論も勢いも気迫も、当方が圧倒していた。判決内容は特に目新しいものではなく手堅い判断であった。

3 反撃訴訟の一審判決
次に第2ラウンドが始まった。今度は、攻守ところを換えての「DHCスラップ反撃訴訟」である。DHC・吉田嘉明の違法なスラップ提訴によって、私が損害を被ったという不法行為損害賠償請求訴訟である。もっとも、私の方が面倒な提訴を逡巡している間に、DHC・吉田嘉明が私を被告として、債務不存在確認請求訴訟を提起した。ここでも雉が鳴いたのだ。

私は、DHC・吉田嘉明が提起した訴訟に反訴を提起して、これを「DHCスラップ『反撃』訴訟」と呼んだ。争点は、DHC・吉田嘉明が起こした提訴の違法性の有無であった。「結果としては勝てなかった提訴」ではなく、「そのような提訴自体が違法となる提訴」の要件を明確にしなければならない。「権利救済のためにあるはずの裁判制度を,言論を萎縮させるための道具として利用させることを許してはならない。」と、弁護団は強く主張した。

DHC・吉田嘉明の私に対する提訴は、歴としたスラップ、明々白々な違法提訴なのだ。そのことを反映して、DHCスラップ『反撃』訴訟一審判決は、逡巡のあとのない、迷いのない判断を示している。

裁判所の判断の枠組みは、以下の最高裁判例に照らして、《民事訴訟裁判制度の趣旨目的に照らして、著しく相当性を欠く場合にあたるか否か》というものとなった。

「訴えの提起は,提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,同人が,そのことを知りながら,又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど,裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り,相手方に対する違法行為になるものというべきである(最高裁判所・1988年1月26日第三小法廷判決)。

その上で、大要次のように判断する。

「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して訴えを提起し、損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについても、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が澤藤に対する違法行為になる」

噛み砕いて言えば、こんなものである。
「澤藤ブログが、DHC・吉田嘉明の耳には痛く面白くないとしても、裁判をしてもどうせ勝てっこない。しかも、勝てっこないことは分かっていたはず。仮にそのことが分かっていなかったとしても、普通の人なら容易に分かったはずなのだから、そんな提訴はしてはいけない。してはいけない提訴をしたことは澤藤に対する違法行為として、損害賠償の責任を負わねばならない」

問題となっている提訴が、以下の「Aを前提に、B1かB2」であれば、違法となるということである。
 A 「その提訴は客観的に勝てない」
 B1「提訴者が、勝てないことを知っている」
 B2「常識的に勝てないことが分かるはず」
つまり、これが対スラップ勝利の方程式。
 A+(B1orB2)=違法スラップ

DHC・吉田嘉明の澤藤に対する提訴が、A「客観的に勝てない」ものであることは、既に答が出ている。吉田嘉明の訴えは全面的に請求棄却で確定しているからだ。残るは、B1「提訴者が勝てないことを知っている」、あるいはB2「常識的に勝てないことが分かるはず」と言えるか。判決は、迷いを見せずに、これを肯定した。この判定過程が、この判決の真骨頂である。

そのうえで、同判決は110万円の損害賠償を認めた。うち100万円は慰謝料、10万円が弁護士費用である。

4 控訴審判決が言及したスラップの違法要素
DHC・吉田嘉明が控訴し、私(澤藤)も附帯控訴して、東京高裁第5民事部(秋吉仁美裁判長)に係属した。口頭弁論1回で結審し、2020年3月18日に判決言い渡しとなった。
結論は、原判決同様の枠組みと要件でスラップの違法を認め、スラップ応訴の損害額を150万円に増額して認定。「反撃」訴訟の弁護士費用を加えて、認容額は165万円となった。
注目すべきは、次のとおり、スラップ訴訟における違法性判断の要素を認定していることである。
(1) 被控訴人(澤藤)の本件各記述が、いずれも公正な論評として名誉殼損に該当しないことは控訴人ら(DHC・吉田嘉明)においても容易に認識可能であったと認められる
(2) にもかかわらず控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が、被控訴人(澤藤)に対し前件訴訟(DHCスラップ訴訟のこと)を提起し、その請求額が、当初合計2000万円、スラップ批判のブログ掲載後は、請求額が拡張され、合計6000万円と、通常人にとっては意見の表明を萎縮させかねない高額なものであった
(3) 本件各記述のような意見、論評、批判が多数出るであろうことは、控訴人らとしても当然予想されたと推認されるところ、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が、それに対し、言論という方法で対抗せず、直ちに訴訟による高額の損害賠償請求という手段で臨んでいる
(4) ほかにも近接した時期に9件の損害賠償請求訴訟を提起し、判決に至ったものは、いずれも本件貸付に関する名誉毀損部分に関しては、控訴人らの損害賠償請求が棄却されて確定している
以上の諸点から、「前件訴訟(スラップ訴訟)の提起等は、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)が自己に対する批判の言論の萎縮の効果等を意図して行ったものと推認するのが合理的であり、不法行為と捉えたとしても、控訴人ら(DHC・吉田嘉明)の裁判を受ける権利を不当に侵害することにはならないと解すべきである。」と結論している。欣快の至りと言うほかはない。

5 スラップ応訴の弁護士費用について
一審判決は、スラップ応訴の弁護士費用をまったく認めなかった。これに対して、控訴審判決は50万円を認めている。
スラップ防止のためには、被告とされた者の慰謝料だけでなく、応訴弁護士費用を損害として認容する判例の定着が必要である。とりわけ、スラップの請求金額に応じた被告側の応訴弁護士費用を負担させることが重要である。「高額スラップの提起には、高額な応訴側弁護士費用負担の覚悟」が必要とならねばならない。
スラップの威嚇効果は、損害賠償の高額性にあるのだから、この点が実務に重要な論点となっている。二審では50万円の認容だったが、6000万円請求事件の弁護士費用が50万円でよいはずはない。これが今後の課題となろう。

6 最高裁は、東京高裁の判決を是認した。本件での一審・二審判決の判断の枠組みが、スラップを違法と判断するリーディングとなると思われる。これまで、スラップといえば、引用される判例は武富士のケースであった。いま、武富士からDHCにバトンが引き継がれた感がある。

最後に繰り返したい。DHC・吉田嘉明ごときに恫喝されて、DHC・吉田嘉明に対する批判に臆してはならない。デマ・ヘイト・スラップ・ステマ・ブラック体質、極右の言論…、何とも多くの病巣を抱え込んだ問題企業・問題人物としてのDHC・吉田嘉明である。社会の健全化は批判によって初めてなる。スラップ常習企業であるが故に、これを批判の届かない聖域にしてはならない。

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DHCスラップ訴訟・反撃訴訟経過

2014年3月27日 吉田嘉明手記掲載の週刊新潮(4月3日号)発売
2014年3月31日・4月2日・4月8日 違法とされた3本のブログ掲載

2014年4月16日 DHCスラップ訴訟提起
2014年7月13日 ブログ「『DHCスラップ訴訟』を許さない」開始
2014年8月29日 請求の拡張(2000万円から6000万円へ請求増額)
2015年9月 2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2016年1月28日 控訴審控訴棄却判決言い渡し 被控訴人全面勝訴
2016年2月12日 最高裁DHC・吉田嘉明の上告受理申立に不受理決定

2017年 9月 4日 DHC・吉田嘉明が債務不存在確認請求訴訟を提起
2017年11月10日 澤藤から反訴提起。その後、本訴取り下げ
2019年10月 4日 反訴について判決言い渡し。110万円の請求認容
2020年 3月18日 控訴審判決165万円の認容判決
2021年 1月14日 最高裁(第1小法廷)上告棄却・上告受理申立不受理

朝敵として討伐された人物を祭神として祀る神社にて

(2021年1月16日)
早朝の散歩コースは、ときに変わる。特に理由はなく、まったく気まぐれに。いつもは本郷三丁目交差点を左折して、湯島から不忍池に向かうのだが、今日はなんとなく交差点を直進して神田明神の境内を覗いてみた。信心のカケラも持ち合わせていないこの身のこと、決して詣でたわけではない。失礼にはならないようには気をつけながら眺めてきただけ。

まだ、ここの境内は正月モード。昇殿参拝を受け付けていた。個人コースは、1万円、2万円、3万円の参拝料。会社・法人コースは、3万円、5万円、7万円、そして10万円以上と看板が掛かっており、早朝から申込みの列ができていた。

資本主義とは大したもの、信仰も習俗も経済原則に呑み込んでしまうのだ。1万円コースでは1万円相当の御利益があり、3万円コースではその3倍の御利益があるに違いない。少なくとも、善男善女はそう考えざるを得ない。商売繁盛・社運興隆・心願成就・除災厄除・学業成就・良縁祈願…、ご利益の有無も対価の金額次第。

私は神社めぐりの際には、参詣者が奉納するミニ絵馬を眺める。庶民のささやかな、しかし切実な願いに、心が和んだり痛んだり、共感したり反発したり。そして、必ず日付に注目する。西暦表示か元号かが関心事。最近は、どこの神社の奉納絵馬も、西暦表示派が圧倒している。本日の神田明神は、「2021年」の表示がほぼ8割。「令和3年」は2割に満たない。

ここに祭神として祀られている平将門とは、ときの朱雀天皇に敵対して自ら「新皇」と称し、坂東の独立を宣言した人物。今の世なら内乱罪の首謀者である。当然に、朝敵となって討伐されたが、民衆の人気故に、死して平将門命となり祭神として祀られている。

天皇に対する反逆者として死亡した「平将門の命(みこと)」が一世一元の元号使用を快しとするはずはない。果たして、「令和3年」表示派に、御利益を与える寛容さがあるだろうか。

改めて考える。この国では長く朝廷こそが「正統」であった。しかし、朝廷に深い怨みを抱く菅原道真や平将門が民衆に人気を博していることは興味深い。朝敵という「異端」を祀ろうという庶民の心意気に敬意を表したい。

正統に対峙する「異論」こそが、民主主義に死活に重要なのだ。朝敵という「異端」を神として祀るなどは、「異論」表明の最たるもの。とすれば、湯島天神も、神田明神も、「民主主義神社」であったか。賽銭を投じる気持ちまでにはならないが、明治神宮には背を向けても神田明神には一礼くらいはしてもよいのかもしれない。

DHC・吉田嘉明との法廷闘争は私の完勝で確定した。しかし、闘いはまだ終わらない。 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第179弾

(2021年1月15日)

本日午後、最高裁(第1小法廷)から、私(澤藤)宛の特別送達を受領した。内容は下記のとおり、DHC・吉田嘉明の私に対する上告を棄却し、上告受理申立を不受理とする決定。これで、私はDHC・吉田嘉明に対して、裁判6連勝である。6年9か月に及ぶDHC・吉田嘉明と私との法廷闘争は、最終決着がついた。これ以上はない私の完勝である。つまりは、これ以下はないDHC・吉田嘉明の完敗という決着なのだ。

調     書  (決定)

事件の表示  令和2年(オ)第995号
       令和2年(受)第1245号
決 定 日  令和3年1月14日
裁 判 所  最高裁判所第一小法廷
裁判長裁判官 山口 厚
   裁判官 池上政幸
   裁判官 小池 裕
   裁判官 木澤克之
   裁判官 深山卓也

当事者等   別紙当事者目録記載のとおり
原判決の表示 東京高等裁判所令和元年(ネ)第4710号,
       同2年(ネ)第134号(令和2年3月18日判決)

裁判官全員一致の意見で,次のとおり決定。
第1 主文
 1 本件上告を棄却する。
 2 本件を上告審として受理しない。
 3 上告費用及び中立費用は上告人兼申立人らの負担とする。
第2 理由
 1 上告について
   民事事件について最高裁判所に上告をすることが許されるのは民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ,本件上告の理由は,違憲をいうが,その実質は事実誤認又は単なる法令違反を主張するものであって,明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。
 2 上告受理申立てについて
   本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。

        令和3年1月14日
最高裁判所第一小法廷
裁判所書記官 長谷川和秀 印

当事者目録

上告人兼申立人      吉田嘉明
上告人兼申立人       株式会社ディーエイチシー
同代表者代表取締役    高橋芳枝
上記両名訴訟代理人弁護士 今村 憲
被上告人兼相手方     澤藤統一郎

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DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として、無礼かつ無謀極まるスラップ訴訟を敢えて提起したのは、2014年4月のこと。訴状の日付は同月16日となっている。このスラップ常習企業の代理人弁護士の名を特に記しておきたい。今村憲(第二東京弁護士会)という。彼が、法律専門職の立場において、また弁護士の職業倫理の観点から、依頼者であるDHC・吉田嘉明に対して「勝ち目はないから提訴はおやめなさい」「この提訴は違法と認定されて、あなたに損害賠償責任が生じる恐れがありますよ」と、アドバイスした形跡はない。漫然と素人であるスラップ常習の依頼者に違法提訴を行わせ、損害賠償責任を負担させるに至ったこの弁護士の責任は決して軽いものではない。

この典型的なスラップ訴訟の訴状が私に届いたのが2014年5月16日である。私のブログの3本の記事を、DHC・吉田嘉明に対する名誉毀損に当たるとして、記事の削除と謝罪文の掲載を求めるとともに、2000万円の慰謝料を支払えという過大な請求であった。

こうして、DHC・吉田嘉明と私との法廷での熾烈な争いが始まった。この提訴の目的は、明らかに私に対する恫喝であった。「DHC・吉田嘉明の批判をするな」「黙れ」と、高額請求訴訟がメッセージを発していた。私だけでなく、広く社会に「DHC・吉田嘉明を批判すると、面倒なことになるぞ」「だから、そういう批判はやめておくのが賢い」と思わせることを狙っての提訴でもあった。

私は、弁護士として決してこの恫喝に屈してはならないと、自分に言い聞かせた。そして、猛然と当ブログに《「DHCスラップ訴訟」を許さない》シリーズを書き始めた。そしたらどうだ。慰謝料請求額は、2000万円から6000万円に跳ね上がった。どう見ても、スラップを自白した請求拡張ではないか。

その後、当然のことながら、東京地裁一審判決は、DHC・吉田嘉明の請求を全部棄却した。これを不服としてDHC・吉田嘉明は何の成算もないまま東京高裁に控訴したが1回結審で控訴棄却の判決となり、さらに最高裁に上告受理申立をして不受理の決定となった。DHC・吉田嘉明の3連敗である。全て今村憲が代理人となっていた。

こうして、DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として訴えた「DHCスラップ訴訟」はDHC・吉田嘉明側の完敗で終わった。しかし、DHC・吉田嘉明にも代理人にも、敗訴するような訴訟を提起したことを謝罪する姿勢は毫もなかった。こうして、DHC・吉田嘉明も代理人も、スラップ訴訟の所期の目的は幾分なりとも果たしたのだ。DHC・吉田嘉明を批判すると面倒なことになるという社会に蔓延した通念は、払拭されないまま残ったことになる。

そこで私は、DHC・吉田嘉明によるスラップ提訴そのもの違法の確認が不可欠と考えた。こうして、第2ラウンドが始まることになる。DHC・吉田嘉明に違法な提訴を理由とする損害を賠償せよと通知をしたところ、DHC・吉田嘉明から私を被告とする債務不存在確認請求訴訟の提起があった。信じがたいことに、DHC・吉田嘉明の方から、飛んで火に入ってきたのだ。これを受けて立って、損害賠償請求の反訴を提起し、この反訴を「反撃訴訟」と名付けた。

言うまでもないことだが、スラップ訴訟から身を守って請求棄却判決を得ることと、スラップを違法とする反撃訴訟で、損害賠償判決を勝ち取ることとの間には、その困難さにおいて大きな落差がある。私の弁護団は、表現の自由の顕現のために、この課題に挑戦し、みごとな判決を勝ち取った。

この反撃訴訟での東京地裁一審の判決の認容額は110万円であった。これに双方が控訴しての東京高裁判決が165万円の認容額となった。昨年(2020年)3月18日のことである。これで、裁判は私の5連勝となった。

この判決を不服として、DHC・吉田嘉明から上告・上告受理申立があって、最高裁(一小)への記録到着が同年9月14日。それからちょうど4か月を経て、昨日の棄却・不受理決定となった。これで6連勝。この結論に最高裁がいささかの迷いも見せた形跡はない。

こうして、2014年4月のDHC・吉田嘉明によるスラップ提訴の違法が確定した。私は、スラップ常習企業DHCとそのオーナーである吉田嘉明の、表現の自由を蹂躙しようという姿勢を罪深いものと思う。のみならず、DHC・吉田嘉明はその右翼的体質からデマ・ヘイトを繰り返し、消費者に対する欺しやブラック企業としての体質も露わにしている。DHCは、民主主義社会の異物である。その治療が必要なのだ。

この6年余の間に、当ブログではおよそ200回、DHCの問題を抉り訴え続け、DHC製品の不買を呼びかけてきた。

https://article9.jp/wordpress/?cat=12

そして、反撃訴訟判決の1・2審の判決理由は、この種訴訟のリーディングケースたりうるものとなった。その意味では、DHC・吉田嘉明の愚行に向き合って、厖大な時間と労力を注ぎ込んだことが、決して無駄ではなかったと胸を張ることができる。同時に、献身的に訴訟を追行して立派な判決を勝ち取った、光前幸一団長を先頭とする弁護団の皆様に敬意と感謝の意を表する。

法廷での争いは、これで終わる。しかし、私はなお、このブログでDHC製品の不買を訴え続ける。DHCと吉田嘉明の体質が、真っ当なものへと変容するに至るその日まで。

「本郷・湯島九条の会」の街頭宣伝行動で。

(2021年1月14日)
一昨日(1月12日)お昼休み時間の「本郷・湯島九条の会」月例街宣行動について、報告しておきたい。

この日はあいにくの霙まじりの冷雨の日、しかも2度目の緊急事態宣言が出たばかり。常連の何人かがお休みをされた。活動参加者は、これまでにない少数の9名。

それでも、賑々しい手作りプラスターは十分に人目を惹いた。
「会食パーティ閉めて、国会開け」
「ダンマリスガ首相「お答えを差し控える」111回」
「それは当たらない。壊れたレコード。棒読み。支離滅裂。答弁不能
「学術会議は軍事研究のご意見番、任命拒否は許さない」
「保健所の増設・拡充を」
「選挙に行こう。冷たい自助の人はいらない」

いつも、トップにマイクを握るのは、地域の活動家・石井彰さん、本郷3丁目の株式会社国際書院という出版社の社長さんである。仲間内では「社長」と呼ばれている方。「社長」はコロナ禍を気遣うお話しから、今年が憲法公布75年になることを述べて、何よりも平和が大切であり、この長期間の平和を守った「平和憲法」の擁護を呼びかけた。そして、今年は総選挙と都議会議員選挙の年、憲法を守り生かす政治勢力を大きくしようと、滑舌のよいハリのある声で訴えられた。

その演説の中で、「私ももうすぐ80に手が届く歳に」と聞かされて驚いた。そんなお歳にはとても見えない。「だから、子や孫に平和な時代を残したい」とおっしゃる、その心意気が若さの秘訣であろうか。そして、もう一つ、「月に一度の活動を始めて、既に8年になります」と言う。ウーン、そんなにもなるか。この間、行動を中止にしたのは、台風に見舞われたたった一度だけ。

事後に、石井さんから、みんなにメールがきた。

「9名の方々が参集し演説の途中から小雪がちらつく新年初の昼街宣になりました。
コロナのせいか人影は多くありませんでしたが、それでも参加者はそれぞれプラスターを持ち、マイクはコロナ災厄は菅義偉政権による人災だと訴えました。さらに都立・公社病院の「独法化」を進める東京都は、この期に及んでなお都立病院独法化推進をやめようとはせず、1月都議会では独法化へ向けての定款採択を狙っていることを糾弾しました。そして国家は国民によって成立し、政府は選挙で国民によって選ばれた議員によってつくられている、国民一人ひとりの声、行動によって新しい私たちの政府をつくることができる、このことを力強く訴えました。

わたしたちの訴えにじっと聴き入っていた白髪のご婦人の方がおられ、聴き終わると、小さく頭を下げて信号を渡って行きました。こうしたお一人おひとりの力こそが歴史を変えていくことに確信を持ちました。

今年こそ、本当に憲法を護り活かす、わたしたちの政府をつくる明るい記念すべき年にしようではありませんか。

街宣をやっていると、何かしらの反応に出会う。じっと訴えを聞いてくれるありがたい方もいるが、何かしらの悪罵を投げつける「ヘンな人」もいる。また、ヘンなのかヘンではないのか、よく分からない人もいる。

先月の訴えのとき、突然に話しかけてきた初老の男性がいた。ヘンな感じではなく、とても落ちついた雰囲気の人。「あなた方は、9条だけを守ろうとお考えなのですか」と聞いてきたのだ。
「日本国憲法は平和憲法です。9条が大切なのはもちろんですが、前文を含む憲法の全条文が平和のための歯止めですから、憲法の全体を守ろうというのが9条の会のメンバーの考え方だと思います」

「ということは、天皇の存在も認めるということですね」。ああ、そうか。そういう人なのか。
「私たちは政党ではありませんから、みな思想が同じということではありません。天皇制についての考え方もいろいろです。私個人としては、常々あんなものはないに越したことはないと考えています。」

「でも、憲法には天皇の存在が書き込まれていますね。憲法を改正しようということですか」
「将来の課題としては憲法から天皇制をなくしたいところです。でも、そのことは今危急の課題ではない。いまはむしろ、天皇の元首化や天皇の権威を高めるためのあらゆる方策を阻止することが大切だと考えています」

「どうしてそんなに、天皇制を否定するのですか。理解できませんね」
「天皇は人間平等の対立物でしょう。あらゆる差別の根源ですよ。そして、国民を見下す権威として主権者の自立を損なう。為政者にとっては国民を操作するための便利な魔法の杖で、かつての戦争に天皇は徹底して利用されたではないですか。また、同じことがおきかねない。」

「驚きました。天皇があって日本がまとまっているのでありませんか」
「天皇なければ国民がまとまれないなんていうのは、国民をバカにした話。天皇を中心とした国民のまとまりなんて、まっぴらご免ですね」

「あなた方、市民と野党の共闘で新しい政府をと言ってましたね。天皇に対する考えがこんなに違うのでは、野党の共闘なんてできっこないでしょう」
「そんなことはないでしょう。共闘とは、思想を統一することではありません。天皇制についての考え方を統一しなければ、当面の共同の行動ができないわけではない。もっと大事なことでの意見の一致があればよい」

「憲法を守ろうというのなら、天皇制も守ってもらわなければ…」
「天皇制なんて、憲法の隅っこですよ。天皇の存在感を限りなく希薄にして、もっと大事な人権や民主主義や平和をこそ守らなければ…」

公権力は「正統」を強要してはならない。民主主義には「異論」こそが死活的に重要なのだ。

(2021年1月13日)
「異論排除に向かう社会ートランプ時代の負の遺産」(ティモシー・ジック著 田島泰彦監訳 日本評論社2020.09.30)という翻訳書を読んでいる。決して読みやすい本ではないが、紹介に値すると思う。

この本、原題は『THE FIRST AMENDMENT IN THE TRUMP ERA』、直訳すれば「トランプ時代における修正第1条」である。これを意訳した「異論排除に向かう社会ートランプ時代の負の遺産」という邦題の付け方はみごとである。

アメリカ合衆国憲法の修正第1条は、以下のとおり。

「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」

ここに記載されているのは、政教分離原則、言論(Speech)・出版(Press)・集会の自由、そして請願権である。この書では、言論(Speech)・出版(Press)の自由に焦点を当てて、トランプという人物による、候補者時代からのアメリカの「プレスの自由」に対する挑戦と、「組織プレスとの戦争」よる大きな負の遺産を描いた。興味を惹くのは、この書は、トランプの負の遺産を、「異論排除」という視点で、詳細に論じていることである。

「修正第1条」の核心的価値は「反正統性原理」であるという。これは、バーネット判決を引用して次のように定式化されている。

 「我々の憲法という星座において動かぬ恒星があるとすれば、その恒星とは、地位の高低にかかわらず、いかなる役人も政治、ナショナリズム、宗教やその他の理念に関する事柄に関して、何が正統なものであるべきかを命ずることはできないということである。」

つまり、公権力は何が正統かを決めることはできない。政治・宗教・愛国心等々について特定の立場を正統として強要してはならない。にもかかわらず、権力者は「正統」を強制しようとする衝動を払拭し得ない。とりわけトランプの時代には、国旗の焼却や国歌演奏時の敬礼、忠誠の誓いにかかわる論争を中心として、大統領が国民に正統を強制した。たとえば、次のように。

トランプ時代の修正一条への挑戦では、人々の異論が攻撃され、公式の正統性や服従が強要されてきた。かくして、アメリカ合衆国国旗を焼却した個人は投獄され、合衆国の市民権を失うべきだとトランプ大統領は提案した。これは、国旗の焼却を保護する修正一条のあからさまな侵害となる制裁だろう。
 トランプ大統領はまた、広く知られているようにナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の選手たちと熾烈な争いをしてきた。警察による虐待と考えているものに抗議するため、選手たちは国歌演奏のあいだ静かにひざまずいたからである。大統領はこうした異論者を不忠で愛国的でないと言った。確かに、国歌が演奏されるときすべてのアメリカ人は、できれば胸に手を添え気をつけの姿勢をとるべきだと、大統領は自ら考えていることを明らかにした。トランプ大統領はNFLチームのオーナーに対して、国歌演奏中うやうやしく起立しなかった選手を解雇ないし罰金を科すよう勧めた。
試合前のセレモニーのあいだどんな形の抗議をも認めてしまったという理由で、大統領はNFLを公然と非難した。かくして、トランプ大統領は、そのような抗議が続いている場合には反トラスト法上のNFLの免除が「調査される」べきだと提案してきた。この声明が出て間もなく、驚くべきことではないが、NFLはその抗議方針の変更を発表した。

 「正統」の対語が「異論」である。異論とは「既存の風習や習慣、伝統、制度、権威を批判する言論」のこと。民主主義にとって、異論こそが死活的に重要な存在とされる。修正1条がこの異論を保護していることはもちろんだが、本書は、異論に対して憲法上の保護があるだけでは不十分であるという。よく機能する民主主義は、異論を促進し、異論を尊重する文化をもっていなければならない。トランプの時代、欠けていたものはまさしく異論尊重の文化であった。トランプの異論の封じ込めは、法律や規制ではなく、主として社会的な攻撃として行われた。

本書における、愛国心や、国旗・国歌への忠誠などという正統の押しつけを排除するための異論の保障の徹底ぶりは、次のようにラジカルでさえある。

「国家は国旗の焼却を処罰することができない。もしアメリカが自由な言論を象徴し、自由な言論が異論を象徴するのであれば、国旗は異論を象徴する。国旗を焼却した者を処罰することは、この観点からはアメリカの意味と矛盾することになる」

「アメリカ」と「言論の自由」とはお互いを象徴する関係にあり、「言論の自由」とは「異論の尊重」にほかならない。つまり、「アメリカ=異論」と言ってよいのだ。国旗焼却者を処罰することは、正統に反する「異論」を排除することで、「アメリカ」の存在意義を否定することになるというのだ。

訳者もあとがきで述べているが、異論排除はトランプ政権だけの、あるいはアメリカだけの特殊な現象ではない。我が国においても、特定の国家観を正統とする価値観の強制や、その裏返しとしての異論排除が広範囲に横行している。しかも、我が国においては、正統への服従を求める社会的同調圧力は格段に強い。しかも、学術会議の任命拒否という、これまでにない露骨な権力的異論排除も顕在化している。とうてい、海の向こうの他人事ではない。

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「異論排除に向かう社会ートランプ時代の負の遺産」(日本評論社2020.09.30)
ティモシー・ジック著 田島泰彦監訳 森口千弘 望月穂貴 清水潤 城野一憲訳
定価:税込 2,640円(本体価格 2,400円)

仏教者としての信念から、死刑執行をしなかった法務大臣がいた。

(2021年1月12日)
左藤恵さんが亡くなった。享年96と報じられている。保守の政治家ではあったが、私にとっては気になる人だった。

この人、もとは郵政官僚だったが、1969年に中選挙区時代の旧大阪6区から自民党公認で立候補して当選。以来10期連続して当選を続けた。地盤が、私に土地勘のある天王寺・阿倍野・住吉という大阪市南部であったことから、手強い保守陣営の敵という思い込みだった。が、この人が法務大臣となって印象が変わった。

周知のとおり法務大臣は死刑執行を命じる。法務大臣の執行命令なしには、死刑執行はない。ところが、この人は真宗大谷派の僧侶でもあった。仏の戒め給ふ殺生戒という戒律を守るべき宗教者なのだ。山川草木悉皆仏性、この世に生を受けたもの全ての命は尊ばれるべきが当然で、その命を奪ってはならない。ましてや死刑という名の殺人は、仏教者としての戒律に反する。

言わば、ここに義務の衝突が生じた。法務大臣としての職務上の死刑執行義務と、自らが信じる宗教的信念が命じる不殺生の戒律との葛藤である。

この人が、第2次海部改造内閣で法相を務めたのが、1990年12月?91年11月のおよそ1年間。その在任期間中に死刑執行命令書への署名をせず、この間死刑は行われなかった。「人が人の命を絶つことは許されない」との宗教的信念によるものと報じられていた。

「そのような信念を持つ者に、法務大臣の任はふさわしくない。辞令を受けるべきではなかった」という意見は、当然にあるだろう。しかし、この人は死刑制度存続の是非を問いたいと、問題提起の意図をもって敢えて法務大臣職を拝命したのだ。そして、自らの宗教的信念を貫いた。

この人の信仰を理由とする死刑不執行は、神戸高専剣道実技拒否事件を想起させる。エホバの証人信者であった高専生は、宗教上の信念から剣道実技の授業を拒否し、遂には退学処分となった。最高裁は、真摯な宗教的動機による剣道実技授業の拒否を理由とする退学処分を違法と判断した。一定の条件あることは当然として、信仰の自由という人格的利益を擁護した。

また、この法務大臣の信仰を理由とする死刑不執行は、ピアノ伴奏命令拒否事件を想起させる。戦前の歴史において、軍国主義教育に「日の丸・君が代」が果たした役割に鑑み、自分の思想と良心に懸けて「君が代」伴奏はできないとした音楽科教員がいた。この思想・良心に基づいた君が代斉唱の伴奏命令拒否を理由とする戒告処分の違憲・違法が争われた事件で、この教員は敗訴している。これは、大きな憲法課題である。

思想・良心・信仰を理由とする義務不履行の制裁を甘受せざるを得ない立場の者には、かつて、宗教上の信念からその期間中死刑不執行を貫いた法務大臣がいたことを心に留めておきたい。

左藤恵は、法務大臣退任後は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長を務めるなどして、死刑廃止を訴えた。政界引退後は、大阪弁護士会に登録した弁護士だったが、年が明けた1月9日、慢性心不全のため逝去。合掌。

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