澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「もっと生きていたかった ー 風の伝言」

(2021年8月11日)
 不定期刊の「風のたより」を送ってくれる石川逸子さんから、新刊書をいただいた。「もっと生きていたかった ー 風の伝言」という33編の詩集。

 出版した一葉社の解説には、「『生きたいのに生きられなかった 数え切れないほどの ひとたち』― 打ち捨てられた死者たちに想いを馳せてきた詩人・石川逸子の哀悼小詩集。」とある。

 あとがきにはこうある。「この国はなんと歴史に学ばない国でしょうか。一旦、世界に目を転じれば、其処にも、かしこにも、いわれなく殺戮され、恐怖に怯えるひとびとがいて…。(性懲りもなく、再び屍の山を築く気かよ)――地底から聞こえてくる、もっと生きていたかった、ひとびとのかすかな呟きに耳を傾けねばと思うこの頃です。」

 この世に生を受けた誰もが望むことは何よりも生きること、生きながらえること。できることなら、家族の愛に包まれて育ち、親しい友と交わり、友人とともに学び、そして人を愛し働き、また家族をなして子をもうけ育てること。そのような生を断ち切られた人々を静かに見つめ、その思いを代弁する33編。

 生を断ち切られた人は、さまざま…。戦没者、ナチスの収容所で犠牲となったユダヤ人、日本軍に殺された朝鮮人、従軍慰安婦とされた女性、終戦間近の特攻兵、沖縄戦の犠牲者、広島・長崎の爆死者、ナバホ族の放射線死者、パレスチナで殺された少年、イラク戦空爆の死者…。ヒトでないのは、ひそひそとささやき交わす福島の牛の遺体。どの詩からも、「もっと生きていたかった」というつぶやきが聞こえる。

 一編だけ、笑っている遺骨の詩がある。他とは異なる不思議な宗教詩ともいうべき雰囲気の詩。これだけを紹介させていただく。
 
笑 い 声

輜重兵特務一等兵 キタガワ・ショウゴ
1937年5月14日 銃弾に左胸部を貫かれ
戦死 享年24

幼い甥・姪たちへの手紙
「いまかうして戦ひあってゐる人々の中には
一人もいけない人は居やしない
ただ戦争だけがいけないことなのだ」

若者は 一発の銃も「敵」にむけないことを
おのれに課した
中国の子どもたちとのんびり遊び 里人にタバコを分ける
家の中に彼を 招待し 飴をもてなし
入浴まですすめる 里人たち

「おじさんは 憎い敵兵はただ一人も見やしなかった」
「おじさんは 戦友に文句を言われても 自分では
 とてもいい気分なのさ」

「次には ロバの話 水牛の話 豚の話を書こう」
記した 若い「おじさん」は
小さな骨になって 生家に帰ってきた

骨は(だれ一人殺さずに済んだ)と
嬉しそうに 笑っていた

「僕は一つの解決を射止めて、気軽に帰ってきた。
この嬉しそうな白木の箱の中で、赤ん坊のように
喚き立てている僕の声を聴いて呉れたまへ」
夜更け耳をすまし ひそやかな若者の
笑い声を聴こう

 発売日:2021年07月12日
 著者/編集:石川 逸子
 出版社:一葉社 価格1100円

ご注文は下記に
https://honto.jp/netstore/pd-book_31083493.html

「小さな怯懦」が積み重なって、もの言えぬ社会が作りあげられていく ー 「平和を願う文京・戦争展」に区教育委員会は今年も後援不承認

(2021年8月10日)
 8月は、あの戦争を振り返り、平和を語るべきとき。まさしく、そのような8月の企画として、「平和を願う文京・戦争展」(主催・日中友好協会文京支部)が今年も開催された。一昨年、昨年に続く3回目の企画である。

 文京・真砂生まれの故村瀬守保の貴重な「日本兵が撮った日中戦争」の写真展示を中心に、「重慶爆撃と東京大空襲」を組み合わせた、戦争加害と被害両面の実相を訴える写真展。コロナ禍のさなかではあったが、8月7・8・9日の3日間の日程での企画が終了した。

 あの戦争は侵略戦争だった。だから、主たる戦争被害は「外地」に生じた。中国、仏印、ビルマ、インド、フィリピン、そして南洋諸島。辛いことではあるが、あの戦争を振り返ることは、まずは我が国の戦争の加害責任を確認することとなる。次いで、敗戦間近となってからは日本の国土が戦地となり、あるいは非人道的な無差別大空襲と原爆投下の被害が生じた。その悲惨は、忘れようにも忘れられるものではない。何度でも繰り返し、戦争の実相をあるがままに語り続けなければならない。

 「平和を願う文京・戦争展」は、戦争の実相を知るための企画として、この上ないものである。文京区(教育委員会)が、自ら主催してもおかしくはない。少なくとも、後援を求められれば、当然に後援してしかるべきである。ところが、文京区教育委員会は、展示企画主催者の後援申請(正式には、「後援名義使用申請」)を今年も不承認とした。なんということだ。

 文京区は、1979年12月に、「文京区平和宣言」を発出している。宣言の文言は、下記のとおりである。

「文京区は、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、ここに平和宣言を行い、英知と友愛に基づく世界平和の実現を希望するとともに人類福祉の増進に努力する。」

 さらに、1983年7月には、下記の文京区非核平和都市宣言を発している。

 「真の恒久平和を実現することは、人類共通の願いであるとともに文京区民の悲願である。文京区及び文京区民は、わが国が唯一の被爆国として、被爆の恐ろしさと被爆者の苦しみを全世界の人々に訴え、再び広島・長崎の惨禍を繰り返してはならないことを強く主張するものである。
 文京区は、かねてより、世界の恒久平和と永遠の繁栄を願い、平和宣言都市として、永遠の平和を確立するよう努力しているところであるが、さらに、われわれは、非核三原則の堅持とともに核兵器の廃絶と軍縮を全世界に訴え、「非核平和都市」となることを宣言する。」

 文京区も、形の上では平和を希求する姿勢をもつている。戦争を考える企画を自ら主催することもないわけではない。しかしその企画は、戦争被害についてだけ、あるいは日本に無関係な他国間の戦争についてのものにとどまり、日本の加害責任に触れる企画はけっしてしようとしない。後援すら拒否なのだ。

 本音は知らず。その表向きの理由は、教育委員会議事録から抜粋すると次のとおりである。

教育長(加藤裕一)「皆さんのご意見をまとめますと、中立公正という部分と、あと見解が分かれているといったところ、あるいは政治的な部分、そういったところを含めて総合的に考えると、今回についてお受けできないというご意見だと思います。それでは、この件については承認できないということでよろしいでしょうか。(異議なし)それではそのように決定させていただきます。」

 この結論をリードしたのは次の意見である。

坪井節子委員(弁護士)「今の情勢の中で、この写真展、南京虐殺があった、あるいは慰安婦の問題があったという前提で行われる催しに教育委員会が後援をしたとなりますと、場合によってはそうでないという人たちから同じようなことで文京区の後援を申請するということが起きることは考えられると思います。シンポジウムをしますからとか、文京区は公平な立場であるのであれば、あると言った人も後援したんだから、ないと言っている人も後援しろというジレンマに陥りはしないか。そういうところに教育委員会が巻き込まれてしまうのではないか。そこにおいて私は危惧をするんです。教育の公正性ということを教育委員会が守るためには、シビアに政治的な問題が対立するところからは一歩引かないとならないんじゃないかと…。」「そういう意味において、今回の議案については同意しかねるという風にさせていただきたい。」

 この「中立・公正」論は、いま全国で大はやりである。歴史修正主義者の主張を口実に、真実から目をそらす手口なのだ。結果として、歴史修正主義に加担することになる。

 たとえば、ナチスのホロコーストの存在は歴史的事実と言ってよい。しかし、ホロコースト否定論は昔からある。動かしがたいナチスの犯罪の証拠に荒唐無稽な否定論を対峙させて、「中立・公正」な立場からは、「両論あるのだから歴史の真実は断定できない」と逃げるのだ。

 小池百合子の「9・1朝鮮人朝鮮人犠牲者追悼」問題も同様である。右翼団体に、「自警団による朝鮮人虐殺はウソだ」「朝鮮人が暴動を起こしたのは本当だ」と騒いでいることを奇貨として、それまで毎年追悼式典に出していた都知事による追悼文を撤回する口実に使った。

 天動説と地動説、両論あるから「中立・公正」な立場からは真実は不明と言うしかない。科学者は進化論を真理というが人間は神に似せて作られたという考えも有力だ。「中立・公正」な立場からは、どちらにも与しない。

 教育勅語は天皇絶対主義の遺物として受け容れがたいと言う意見もあるが、普遍的道徳を説いたものという見解もある。放射線は少量であっても人体に有害という常識に対して一定量の放射線は人体に有益という異論もある。「中立・公正」な立場から、立ち入らない。

 中華民国の臨時首都であった南京で、皇軍が行った中国人非戦闘員や投降捕虜に対する虐殺には多くの証言・証拠が残されている。その規模についての論争は残るにせよ、この史実を否定することはできない。日本軍従軍慰安婦の存在も同様である。個別事例における強制性の強弱は多様であっても、日本軍の関与は否定しがたい。あったか、なかったかのレベルでの論争が存在するという文京教育委員諸氏の発言が信じ難く、その認識自体が、政治学的な研究素材となるべきものと指摘せざるを得ない。

 今年の「戦争展」では、来場者に文京区長宛の「要望書」(2020年12月14日付)が配布された。A4・7ページの分量。南京事件も、従軍慰安婦も、史実である旨を整理して分かり易く説いたもの。この件についての歴史修正主義者たちのウソを明確に暴いている。

 「史実」の論拠として挙げられているものは、まずは外務省のホームページを引用しての詳細な日本政府の見解。そして、家永教科書裁判第3次訴訟、李秀英名誉毀損裁判、夏淑琴名誉毀損裁判、本多勝一「百人斬り訴訟」などの各判決認定事実の引用、元日本兵が残した記録や証言、南京在住の外国人やジャーナリスト、医師らの証言、この論争の決定版となった偕行社(将校クラブ)のお詫び、日中両国政府による日中歴史共同研究…等々。

 それでも、文京区教育委員会は頑強に態度を変えなかった。この展示の中で、一番問題となったのは、揚子江の畔での累々たる死体でも、慰安所に列をなす日本兵の写真でもなく、中国人捕虜の写真に付された下記のキャプションであったという。

捕虜の使役 「漢口の街ではたくさんの捕虜が使われていました。南京の大虐殺で世界中の非難を浴びた日本軍は漢口では軍紀を厳重に保とうとして捕虜の取り扱いには特に気を使っているようでした。捕虜の出身地はいろいろです。四川省、安徽省などほとんど全国から集められているようで、中には広西省の学生も含まれていました。貴州の山奥に老いた母と妻子を残してきたという男に、私はタバコを一箱あげました。」

 この文章の中の「大虐殺」「世界中の非難」がいけないのだという。とうてい信じがたい。2年前の8月2日東京新聞朝刊の記事をあらためて思い出す。「日中戦争写真展、後援せず」「文京区教委『いろいろ見解ある』」、そして「主催者側『行政、加害に年々後ろ向きに』」というもの。

 主催者のコメントとして、「このままでは歴史の事実に背を向けてしまう。侵略戦争の事実を受け止めなければ、戦争の歯止めにならないと思うが、戦争加害を取り上げることに、行政は年々後ろ向きになっている」との懸念が掲載されている。

 戦争体験こそ、また戦争の加害・被害の実態こそ、国民全体が折に触れ、何度でも学び直さねばならない課題ではないか。「いろいろ見解があり、中立を保つため」に不承認というのは、あまりの不見識。教育委員が、歴史の偽造に加担してどうする。職員を説得してでも、後援実施してこその教育委員の見識ではないか。

 「戦争の被害実態はともかく、加害の実態や責任に触れると、右翼からの攻撃で面倒なことになるから、触らぬ神を決めこもう」という魂胆が透けて見える。このような「小さな怯懦」が積み重なって、ものが言えない社会が作りあげられていくのだ。文京区教育委員諸君よ、そのような歴史の逆行に加担しているという自覚はないのか。

 不名誉な教育委員5氏の氏名を明示しておきたい。すこしは、恥ずかしいと思っていただかねばならない。そして、ぜひとも、来夏にはその汚名を挽回していただきたい。

教育長 加藤 裕一
委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
委員 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
委員 坪井 節子(弁護士)
委員 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

ちゃんと原稿読めたから、菅義偉君の総理大臣としての評価は一応の合格点。

(2021年8月9日)
 昨夜は台風9号が九州を襲った。コロナ禍はさらに深刻な様相。東京五輪の喧噪は昨日ようやくにして終わったが、五輪禍はまだ続く。昨日の万能川柳に、「おもてなし出来ず おみやは五輪株」(吹田 のんさん)とあるとおりだ。世の中、安穏ではない。

 コロナ禍を押しての東京五輪強行の理由はいくつか数えられるが、その中の一つに、政権浮揚の思惑があったことは間違いない。明らかに政権は、国民やメディアを舐めていた。「オリンピック開催に突っ込めば、メディアは感動の記事一色だ。国民の関心も意識も変わる。そうすれば、低迷する内閣支持率も復活する」との読みである。

 この読みは、半分は当たった。確かに、メディアは「メダルラッシュ」「感動大安売り」の記事で埋められた。しかし、沈みかけた政権の浮揚の思惑は当て外れとなった。本日発表の朝日世論調査、内閣支持率28%・不支持率53%という結果である。政権の危機、いよいよ深刻である。

 太平洋戦争末期の事情に似ていなくもない。敗戦必至の戦況となって、近衛文麿が天皇(裕仁)に「早期の敗戦受容」を勧告した。しかし裕仁はこれに従わず、「もう一度戦果をあげてから」と講和の時期を失した。そのため、彼は厖大な国民の生命損失に有責の刻印を押されることとなった。なくもがなの、その後の各地の大空襲、沖縄地上戦、2発の原爆投下によってである。菅義偉も、衆院の解散時期を失することになりそうな雲行きである。もっとも、こちらは裕仁ほどの責任の重さはない。

 ところで、誰が言ったか「8月は 6日9日15日」。今日はその9日、長崎の原爆投下の日。長崎市が主催する「被爆76周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が挙行された。
 
 本日も、菅義偉は来賓の立場で挨拶を述べたが、針のムシロの心境だったろう。3日前の広島の式典で、信じがたい失態を犯したばかり。被爆者団体から、「不誠実極まりない」と叱責を受けた身だ。彼は、確かに心ここにあらず、ボーっとしていた印象だった。無能総理というだけではなく、不誠実の烙印も消えることはないだろう。

 それだけではない。広島・長崎の両市長も被爆者団体も声を揃えて、「日本も核禁条約の締結を」「せめて、条約締結国会議にはオブザーバー参加を」と悲痛なまでの声を上げているが、菅はまったく無視の姿勢を崩さないのだ。

 それでも菅は、式典出席見合わせとは言えない。やはり、イヤでも出席せざるを得ないのだ。式典出席が、圧倒的な世論の求める内閣総理大臣としての任務なのだから。思い出す。安倍晋三という人物、沖縄の平和勢力からは蛇蝎の如く嫌われている。それでも、6月23日「慰霊の日」の「沖縄全戦没者追悼式」には出席せざるを得なかった。On-line出席で済まそうとて、できることではない。

 安倍晋三は(菅義偉もだが)、沖縄の民意に逆らって新基地建設を遮二無二強行する首謀者。言わば、本土のエゴで沖縄に戦争リスクの負担を押し付けているのだ。だから、「沖縄平和祈念」の式典にはまったく似つかわしくない。それ故に、式場周辺からあからさまに、「何しに来たのか」「カエレ、カエレ」と罵倒されることになる。それでも、「じゃあ帰るよ」とは言えない。罵倒されながらも、式典出席を継続せざるを得ない。これが、民心と離れ、心服されることのない為政者のつらいところ。

 菅義偉は、本日長崎の式典に遅刻はしたようだが、読み飛ばすことなく、挨拶の原稿全文を恙なく読み通したという。よくできた。それくらいの能力はあるんだ。ねえ、菅君。人間、優れていることよりは、真面目であることが大切なんだよ。真面目にやればちゃんと仕事ができるじゃないの。

 社会人には、「有能ー無能」、「誠実ー怠慢」の評価軸がある。できることなら、有能で誠実と言われたいものだが、なかなかそうはいかない。菅君も、努力次第で「有能」の評価を獲得することは可能だが一朝一夕には無理なこと。任期を考えると間に合いそうもない。一方、緊張次第で「誠実」の評価は得やすいのだが、広島での菅君、君は無能で怠惰と評価せざるを得なかった。今日長崎の君は、まずまず誠実といってよい。だって原稿読めたのだから。

 では菅君、君は有能か。総理大臣として求められる能力とは、何よりも官僚が作成した原稿を滑舌よく、聞いてる人に分かるよう朗読できることだ。安倍晋三のように、漢字が読めなかったり、読み間違えたりしなければ立派なものだ。今日の君については、原稿を間違いなく読めたのだからまずまず合格点としたい。採点としては、「可」だ。

 今日の式典で、田上富久市長も、被爆者代表の岡信子さんも、切実に訴えていた、核兵器禁止条約の署名と批准そして第1回締約国会議にオブザーバーとして参加することを真剣に考えなくては。それができたら、「良」の判定になるよ。がんばりたまえよ、菅君。残りの任期は長くもないんだから。

愚劣で危険な東京オリンピックが終わる。

(2021年8月8日)
 東京オリンピックが本日で終わる。コロナ禍の中での五輪禍。あらためて、オリンピックというものの愚劣と危険が浮き彫りになった。中止に追い込むことができなかったことが残念の限り。

 東京オリンピックとアスリートの愚劣を象徴する事件が、「豪選手団が帰国便で大騒ぎ ー 泥酔しマスク拒否」と報道されたもの。

 「オーストラリアの東京五輪代表選手らが、帰りの日本航空(JAL)機内で泥酔してマスクを拒否するなどの騒ぎを起こした。騒ぎを起こしたのは、サッカーと7人制ラグビーの男子代表選手ら。選手らが搭乗した日本航空の飛行機は、2021年7月29日に羽田空港を出発し、約10時間のフライトを経て、翌30日朝に豪シドニーに到着した。選手らは機内で、酒を飲んで歌い始め、客室乗務員がマスク着用や着席を求めても拒否した。しかも、機内に保管してあった酒類を勝手に持ち出し、乗務員らが止めても応じなかったという。また、トイレで嘔吐して床などを汚し、トイレが使えなくなったケースもあった。機内には、一般客も搭乗しており、選手らの行為は迷惑だったとメディアの取材に話したという。」

 取り立ててオーストラリア選手のモラルが低いということはありえない。これがオリンピック選手の平均レベルだろう。スポーツが人間性を育てるなどというのは、真っ赤なウソ。むしろ、一流と言われるアスリートの特権意識が鼻持ちならない。

 スポーツを嗜む人と無縁な人。それぞれのグループに人格者もいれば、非人格者もいる。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は、罪の深い迷信である。私は、アスリートに対する敬意の念を持ち合わせていない。むしろ、「体育系」といわれる人々の精神構造に嫌悪感をもち続けてきた。

 「昔軍隊、今体育系」は至言である。日本の「体育」は軍事訓練のルーツをもっている。ご先祖様である天皇の軍隊と同様、体育系は不合理の巣窟。イジメ・暴力・体罰・私的制裁・上命下服・精神主義・面従腹背・勝利至上主義・非科学性、非知性、権威主義・ナショナリズム…。個人主義よりは全体主義に親和性を持ち、同調圧力に弱い。人権思想や民主主義感覚との対極にある。体育系は批判精神に乏しく盲目的に指導者に従う。

 だから、体育系の精神構造は企業には歓迎される。親はそれを知っているから、子どもにスポーツをやらせる。そんな風に育つ子どもたちのトップエリートとしてオリンピック選手が生まれるのだ。格別にアスリートに敬意をもつべき理由とてあり得ない。

 オリンピックとは、「体育系」精神の集大成としての興行である。本質において偉大なる愚劣と言うべきであろう。ところが、この愚劣なイベントが、きらびやかな装いをもって多くの人々の関心を惹き付ける。それ故に無視し得ない危険をはらむものとなっている。

 東京オリンピック開催強行は、人々のコロナへの関心を相対的に稀薄化し対策を弱体化して、既に感染爆発を招いている。しかしこれでは終わらない。このさきの潜伏期間経過後に、さらなる感染拡大を覚悟しなければならない。「メダルラッシュ」「感動の大安売り」の代価はとてつもなく高価なのだ。

 オリンピックは、それだけではない危険をはらんでいる。あの安倍晋三が、得々とそのオリンピックの危険性を説明してくれている。「月刊Hanada」(飛鳥新社)8月号に掲載された、櫻井よしことの対談。そこで安倍晋三は、東京五輪開催に反対する世論を「反日的」と攻撃しているのだ。なるほど、そうすると私も「反日」なんだ。

 安倍晋三・櫻井よしこという極右コンビとオリンピックとは、とても相性がよいのだ。この右翼政治家は、オリンピックを自分に親しいものとして、こう語っている。

「この『共有する』、つまり国民が同じ想い出を作ることはとても大切なんです。同じ感動をしたり、同じ体験をしていることは、自分たちがアイデンティティに向き合ったり、日本人としての誇りを形成していくうえでも欠かすことのできない大変重要な要素です」「日本人選手がメダルをとれば嬉しいですし、たとえメダルをとれなくてもその頑張りに感動し、勇気をもらえる。その感動を共有することは、日本人同士の絆を確かめ合うことになると思うのです」「(前回の東京五輪では)日本再デビューの雰囲気を国民が一体となって感じていたのだと思います」

 自身が繰り返してきた「復興五輪」「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、完全な形で、東京オリンピック・パラリンピックを開催する」などのフレーズはどこへやら。要するに、安倍晋三にとって東京五輪の開催は「日本人としての誇りを形成」「日本人同士の絆を確かめ合う」「日本再デビュー」などという全体主義、国粋主義鼓吹の道具なのだ。おそらくは、これが本音である。

 確認しておこう。安倍や櫻井にとって最も重要なのは、「親日」か「反日」かの分類である。東京オリンピック開催に賛成するのが「親日」、反対意見は「反日」なのだ。その理由は、オリンピックというイベントを通じて、ナショナリズムの喚起が可能となるからだ。安倍晋三の言うとおり、これがオリンピック危険の本質なのだ。

言うなれば 汝人民家で死ね

(2021年8月7日)

 表題の句、残念ながら私の作ではない。朝日川柳欄に掲載の一句。作者は兵庫県・大西哲生、これは秀逸だ。
 五輪・コロナ・バッハ・菅が、今の新聞時事川柳の主要ネタである。魂胆ありげな安倍も案外多く、小池は精彩を欠いて少ない。それぞれのネタが、深刻ではあるが、いかにも川柳的なのだ。掲載句はさすがにどれも達者、とうてい真似できない。

 テーマが重複し分類は難しいが、このところの毎日仲畑万能川柳と朝日川柳とから、いくつかを並べてみた。

? まずは東京五輪を詠んだ句。東京五輪を手放しで肯定する駄句はない。東京五輪開催強行を問題にする句が主流だが、始まれば興味をそそられるというアンビバレントな心情が句になっている。

 スローガンコロコロ替わる五輪です 本庄 支持拾六

 五輪後は他国のコロナ置き土産 東京 小政

 ゴリ押しは「五輪押し」と書くこれからは 栃木 風倒人

 感動や興奮よりもホッとしたい 山口 葉と根

 反発と祈りが交差する五輪 下野 咲弥アン子

 国のためじゃなくて走れキミのため 鴻巣 雷作

 国別のメダル数より感染者 福島 烏賊人参

 コロナから菅とバッハに菌メダル 静岡 ミノチャン

 見なくても非国民ではない五輪 駒ケ根 早次郎

 テレビでは五輪とコロナもう飽きた 下関 畠中英樹

 開催後東京誤輪なりそうね 北九州 皿倉さくら

 皆の者そこのけそこのけ五輪が通る 茅ケ崎 ゴト師妻

 無観客体力測定みたいだな 和泉 今倉大

 間際まで命と金のせめぎ合い 東京 カズーリ

 五者協議つまりはやりたい人で決め 東京 立肥

 悪いことしているような聖火リレー 草加 石川和巳

 2020撤去忘れのよな看板 熊本 ピロリ金太

 夢・希望・感動押しつけられ苦痛 八王子 テイク5

 お祭りはみなの笑顔があってこそ 北九州 半腐亭

 金メダル選挙前だよ栄誉賞 鳴門 かわやん

 単純にコロッと感動するんだろ 札幌 紅帽子

 オリパラのテレビ意地でも見るものか 豊田 けにち

 「中止しろ」聖火が来たら「がんばれ?」 伊豆 シロくん

 流行語「安心安全」入りそう 西条 ヒロユキン

 感動も二つ三つほどが良い(岐阜県 中野和彦)
 
 煮沸して天日干しする金メダル(宮城県 田所純一)

 表敬は金メダルチョコ代用し(東京都 堀江昌代)

 日本では寝込んだ時分(ころ)の聖火かな(京都府 藪内直)

 反対とあれほど嫌った五輪見る(茨城県 加納楯夫)

 アスリート私たちよりどこ偉い(東京都 古賀雅文)

 金メダル タイタニックに積み上げて(広島県 高橋滋)

 ニュース読むアナウンサーに顔二つ(愛媛県 吉岡健児)

 この博打(ばくち)やればやるほど負けが込み(埼玉県 西村健児)

 喰(く)えぬ子を余所(よそ)に弁当ドッと捨て(神奈川県 朝広三猫子)

? そしてコロナを詠んだ句。コロナそのものについてではなく、コロナを巡る政権の無為無策無能に目が向けられている。

 ついに出たコロナ在宅死の勧め(愛媛県 木村瞳)

 歓喜の畳 辛苦のベッド(茨城県 五社蘭平)

 2回目の前に勧める3回目(宮城県 鈴木正)

 アナウンサー飛沫(ひまつ)の量は増すばかり(大阪府 玉田一成)

 若者の怖くないよに怖くなり(群馬県 樺澤信雄)

 現実に引き戻される過去最多(徳島県 井村晃)

 知りました政治無力で人が死ぬ 埼玉 孫六

 もしかして「安心・安全」おまじない? 伊勢原 大原龍志

 ワクチンの在庫も見ずに百万回 群馬 からっ風

 GoToをせずにワクチンやってれば 東京 寿々姫

 首長が競わされてる接種率 川西 水明

 ウイルスが教える日本途上国 田川 下降の天使

 まん延をしてから防止するコロナ 福岡 朝川渡

 最初から「人の流れ」と言えばどう? 富士見 不美子

 挨拶は「予約取れたか」「うん取れた」 東京 ほろりん

 来週に打つこと決まりワクワクチン 沼津 まさみ

 副反応報告しあう接種後(あと) 川崎 さくらの妻

 接種日に出会った人と一期二会(神奈川県 田中ゆう子)

 第5波も6波もきっとやって来る 大阪 ナナチワワ

 援助せず酒は出すなよ金貸すな 鎌倉 狩野稔

 息できる人は自宅の恐ろしさ(東京都 内田昌廣)

 言うなれば汝(なんじ)人民家で死ね(兵庫県 大西哲生)

 Amazonに酸素ボンベはあるのかな(埼玉県 田口尚孝)

 崩壊を自宅療養と言い逃れ(東京都 村田正世)

 鉄面皮患者切り捨ての策に出る(神奈川県 大坪智)

 罹(かか)っても自助です五輪は続けます(東京都 土屋進一)

 言っとくよ 自宅療養 あなたもよ(大阪府 緒方よしこ)

? 次いで、IOCのバッハ。こんなにも短期間で評価が下がった人物も珍しい。これまでは、ベールの彼方にその姿がよく見えなかった。今回よく見えるようになったら、なんというお粗末なお人柄。贅沢極まる金銭感覚と意識だけは貴族趣味の奇妙な香具師。

 バッハ出て風呂から出たらまだバッハ(神奈川県 細田幸代)

 民宿でいいよ言わないバッハさん 別府 タッポンZ

 スイートに泊まるらしいねIOC 幸手 百爺

 IOC東京終わればハイ次と 東近江 佐太坊

 おもてなしIOC(あっち)が主賓だったのね 春日部 猫文庫

? 国内の人物では、当然ながら菅義偉。この人のやることなすこと、ひねりの必要なくそのまま川柳なのだ。こんな人は、却って句にしにくいのではないか。

 テロップがついて行けない読み飛ばし(三重県 山本武夫)

 式典で上告下げたを自賛する(埼玉県 渡辺梢)

「これまでに経験のない」無策かな(千葉県 高師幸広)

 難しいことは地方へ投げてやる(栃木県 井原研吾)

 総理即自宅療養させなさい(奈良県 横井正弘)

 菅総理目耳口頭もうあかん(福島県 菅野はるか)

 女房がしゃしゃり出ぬのがマシなだけ(福岡県 河原公輔)

 ガースーのそばだけ人が減っており(神奈川県 みわみつる)

 人流が減ったと見える不思議な眼(め)(兵庫県 河野敦)

 支持率が落ちたので止(や)む黒い雨(大阪府 首藤媾平)

 人心を摑めず人事掌握し 桶川 句意なし

 うけ狙い外す総理と似た自分 相模原 せきぼー

 今回も説明せずになし崩し 札幌 ヨーちゃん

 質問を聞かずに食べる山羊総理 東大阪 きくさん

 菅総理きっとくしゃみも「ワックチン」 府中 火星人

 先手だとおっしゃいますが後手後手ヨ 佐倉 桜人

 かみ合わぬ受け答え引き継ぐ総理 今治 てんまり

 打ち勝った証どころか宣言下 京都 みぞれ

 質問の前に答弁始めてる 別府 タッポンZ

 メモなしの球児宣誓観る総理 大津 石倉よしを

? この時期に安倍晋三に言及している句が少なくない。物欲しそうな風情が見えるからなのだろう。

 反安倍が反日だとは限らない 福岡 朝川渡

 安倍流で言えば6割反日に 東京 三神玲子

 耳打ちすアベちゃん逃げた日もうすぐよ(岡山県 木田昌)

 尻尾無いトカゲ見つけて調査中(福岡県 西野豊)

 安倍マリオ ヒラだ今度は公平に(山形県 渡部米助)

 沈む船マリオ船長どこ行った(神奈川県 一柳直貴)

 重い腰軽い責任無い記録 大分 赤峰ユキ

? 対して小池百合子の句は少ない。もう、旬の人ではなくなったようだ。

 サル山に天井無かった雌のボス(富山県 中居純)

 菅さんに ねえ立たないのと小池さん(愛知県 牛田正行)

コロナ禍・五輪禍、そして「菅義偉禍」の8月6日広島。

(2021年8月6日)
 あの日から76年、例年のとおり猛暑の8月6日。例年と違うのは、コロナ禍のさなか、そして五輪禍のさなかでの広島である。菅義偉にとっては初めての(そして、おそらくはこれが最後の)広島平和式典(「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」)出席であり、核禁条約が発効して初めての8月6日でもある。

 広島市長は、事前にIOC会長バッハに対して、原爆犠牲者へのこの日の黙祷を要請した。具体的には、下記の内容である。

「選手村などそれぞれ居られる場所において8月6日午前8時15分に黙祷を捧げることで、心の中で同日開催される広島での平和記念式典に参加するよう呼び掛けていただくことはできないものでしょうか。」

 が、ささやかなこの願いは聞き届けられなかった。オリンピックとは何なのだろうか。IOCとは何者だろうか。これが平和の祭典のあり方とは思われない。

 菅義偉は、暑いさなかをいやいや式典に出席して、いつもながらの原稿棒読みだった。最近何もかもうまく行かないという苛立ちもあったのであろうか、最初から少しおかしかった。冒頭「広島市」を「ひろまし」と噛み、原爆を「げんぱつ」と読み違えた。さらに、原稿1ページ分を読み飛ばし、ほかに「『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です」とのくだりも読まなかったという。

 毎日新聞によると、「私の総理就任から間もなく開催された国連総会の場で、ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない……」と読み上げた後、「世界の実現に向けて力を尽くします、と世界に発信しました。我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、核兵器のない世界の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。近年の国際的な安全保障環境は厳しく」という部分を読み飛ばした、という。

 一番大事なところの読み飛ばしである。しかも、これでは文意が通らない。被爆者や遺族に対して礼を失することこの上ない。コロナ禍・五輪禍に加えての「菅義偉禍」と指摘せざるを得ない。

 コロナ感染を警戒して、出席者の人数は制限されていたが、首相挨拶以外は真っ当だった。松井市長の平和宣言では、以下のとおり、核禁条約の締結要望が明示された。

「日本政府には、被爆者の思いを誠実に受け止めて、一刻も早く核兵器禁止条約の締約国となるとともに、これから開催される第1回締約国会議に参加し、各国の信頼回復と核兵器に頼らない安全保障への道筋を描ける環境を生み出すなど、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たしていただきたい。」

そして、恒例の子ども代表が「平和への誓い」を読み上げた。もちろん、読み飛ばしなどはなく。印象深いその一部を引用しておきたい。

「本当の別れは会えなくなることではなく、忘れてしまうこと。
私たちは、犠牲になられた方々を決して忘れてはいけないのです。
私たちは、悲惨な過去をくり返してはいけないのです。

私たちの願いは、日本だけでなく、全ての国が平和であることです。
そのために、小さな力でも世界を変えることができると信じて行動したい。
誰もが幸せに暮らせる世の中にすることを、私たちは絶対に諦めたくありません。

争いのない未来、そして、この世界に生きる誰もが、心から平和だと言える日を目指し、努力し続けます。

広島で育つ私たちは、使命を心に刻み、この思いを次の世代へつないでいきます。」

 菅義偉よ。この子どもたちの清浄な決意を聞いたか。平和への使命の発言に耳を洗ったか。
 実は私も、戦後広島で育った一人だ。小学校1年生を市内の3校に通った。いずれも爆心地に近い幟町(のぼりちょう)小学校、牛田(うした)小学校、三篠(みささ)小学校である。その間にピカ(原爆)の絶対悪を確信した。

 1945年8月6日午前8時15分をもって、人類史は二分される。私は、漠然としてではあるが、少年時代からそう思ってきた。あの原爆が炸裂した瞬間、人類は疑いなく自殺の能力をもち、そのことを自覚したのだ。

 以来、人類が身につけた自らを滅ぼす能力を封じ込めることが人類が取り組むべき最大の課題となった。核廃絶こそが人類共通の願いであり、最大の課題としてあり続け、事態は今も変わらない。

 にもかかわらず人類は、核廃絶どころか核軍拡競争を続けてきた。原爆は水爆となり、多様な戦術核が開発された。核爆弾の運搬手段は飛躍的に性能を向上させ、人類は核戦争による絶滅の恐怖とともに生存してきた。人類は、いまだに首をすくめ息を潜めた「萎縮した小さな平和」の空間で生き延びている。

 すべての武力が有害で無意味であるが、核兵器こそは絶対悪である。今日、8月6日はそのことを確認すべき日。「この世界に生きる誰もが、心から平和だと言える日を目指し、努力し続け」ようと思う。

我が町の「戦争の足跡」を追う意味

(2021年8月5日)
 戦争の悲惨と不合理を語り、平和の尊さを確認すべき8月。ところが、今年はコロナ禍に強行された東京五輪のことばかりを語らざるを得ない。あの戦争について何か書かねばならないと思っているところに、たまたまドキュメンタリー映画の「制作協力のお願い」というリーフレットが舞い込んできた。その映画の題名は、「戦争の足跡を追ってー北上・和賀の十五年戦争」という。これは、協力しなければならない。

 私の母方のルーツは盛岡だが、父方のルーツは北上(旧町名・黒沢尻)である。父(澤藤盛祐)は黒沢尻で生まれ、ここで徴兵検査を受け、招集されて兵役に就いている。にもかかわらず、その北上(黒沢尻)と戦争との関係を私はまったく知らなかった。この地域に日本最大の軍用飛行場があったこと。かつて、アルミを国産化しようという国策会社があったこと。その軍需工場を標的とした空襲があったこと。そして、いま「北上平和記念展示館」が開設されていること…。

 このリーフの中に、こんな一文がある。「東北のヘソに位置する北上市には、たくさんの戦争遺跡や遺物、歴史が残されている。戦争を二度と繰り返さないという平和への強い願いを後世に伝えるべく…」「ここには15年戦争の縮図がある。北上・和賀地方には戦時中、国産アルミニウムをつくる工場や、特攻機を製造する疎開工場などがありました。そして、和賀町藤根の後藤野飛行場からは、敗戦 6日前に特攻機が飛び立ち、3名の若者が帰らぬ人となっています。終戦直前の空襲や、残された7千通の軍事郵便など、この地方には戦争に関する様々な事柄が集中しています。」

 下記の公式ホームページからは、映画作成の意図がよく伝わってくる。
 http://longrun.main.jp/footsteps_war/index.html

 規模は大きくなかったが盛岡も空襲を受けた。人々は空襲警報が鳴るたびに防空壕に避難した。1945年の夏、2歳に満たない私はひどいハシカだった。母は、むずかる私を背負って何度も防空壕に逃げ込んだという。物心ついて以来、母から「あんな心細い思いはしたくない。もう、2度と戦争はイヤだ」と聞かされた。それが、私の戦争観の原点となった。

 岩手では、釜石の戦争被害が大きかった。凄まじい艦砲射撃で製鉄所が破壊され町が焼かれた。その衝撃音は、100キロ余も離れた盛岡にも聞こえたという。が、北上・和賀の空襲は知らなかった。この映画を制作している都鳥伸也・拓也兄弟の祖父がこう語っていたという。「戦争の頃、北上には軍需工場があって、アメリカ軍の空襲を受けたことがある。国見山の方からグラマンの編隊が飛んできたのが見えたんだ」。戦争の爪痕は、日本のどこにもあるのだ。その気になって探しさえすれば。

 アジア・太平洋戦争は、天皇の軍隊による侵略戦争だった。だから、悲惨な戦場は基本的に外地にあった。最も悲惨な民衆の被害も外国でのもので、加害者は皇軍だった。15年続いた戦争の最終盤で、戦地は国内となり、多くの日本人非戦闘員戦争被害が噴出した。こうして、東京大空襲、沖縄地上戦、広島・長崎の原爆被害が、語られている。

 しかし、この大規模被害も、厖大な戦争被害の一部に過ぎない。それぞれの人にとって、「自分の町にも戦争があった」のだ。日本の各地域には同じように戦争の足跡が眠っている。それを意識して掘り起こそうというのが、この映画の意図なのだ。そうすることで、すべての人に他人事ではない戦争の惨禍を思い起こさせる。

 あの戦争が終わって76年目の夏である。直接に戦争を語れる人も、戦争の爪痕を語れる人も、少なくなっている。今、意識的に、戦争体験の承継と戦争の遺跡の保存が必要である。そのような試みの一つとして、この映画の制作に微力ながらも協力したい。リーフレットにはこう記されている。

 現在、映画の製作、公開に必要な経費850万円が不足しており、一口5,000円での製作協力金の募集を始めました。映画の完成、公開に向けて皆さまのご協力を何卒、よろしくお願い致します。
 ご協力いただいた方々には、完成作品の試写会招待券(指定の試写会のみ使用可)と個人視聴用DVD(上映には使用不可)をプレゼントします。
 また、映画の公式サイトにお名前を掲載いたします。

 試写会、劇場公開のスケジュールは決定次第ご連絡します。
 DVDのプレゼントは全国上映の普及のため、劇場公開から2年後を予定しております。
 5,000円以下も受け付けますが、プレゼントは試写会の招待状のみとなります。

振込先
郵便振替 口座番号 02230?3?138259
口座名義 有限会社ロングラン
通信欄 『戦争の足跡を追って』協力金、と必ずご記入ください
(参照 http://longrun.main.jp/footsteps_war/support.html

直ちに「聖火」を消せ。《コロナに打ち負かされた証しとしての東京五輪》を中止せよ。

(2021年8月4日)
 かつて政権は、東京五輪開催の意義を「人類が新型コロナに打ち勝った証し」とノーテンキに説明した。コロナには勝てそうもないと分かってからはこの開催意義の看板は引っ込められたが、コロナ禍を顧みない無謀な五輪の開催には固執し続けた。五輪開催の意義なんぞ所詮はお飾り、どうでもよいことなのだ。そして、東京五輪開催強行の今、「政権がコロナに打ち負かされた、無能の証しとしての東京五輪」が現実化しつつある。

 また、菅は何度も、「安全安心な東京五輪」を強調してきた。「国民の命と健康を守るのは私の責務で、五輪開催を優先させることはない」とも言っている。しかし今、感染爆発のコロナ禍の実態は、東京五輪を「安全安心」の対極のものとしている。取り返しのつかない事態となる前に、直ちに聖火を消せ。《コロナに打ち負かされた証しとしての東京五輪》を中止せよ。

 政権も都知事も、そしてバッハも組織委員会も、コロナに打ち負かされたことを潔く認めなければならない。その上で、多くの人の命と健康を守るために、聖火を消して速やかに東京オリンピックを中止し、円滑な事後処理に移行しなければならない。

 コロナに負けたことは、バブルの外側でも内側でも顕著である。一昨日以来の、「重症入院患者以外は原則自宅療養」という政府と都の方針変更が、事実上の敗北宣言にほかならない。医療態勢逼迫を超えて、医療崩壊を自白したに等しい。我が国の医療態勢はかくも脆弱だったのだ。

 そして、本日の新規感染者数である。東京4166人、全国1万4207人と過去最高になった。これでも第5波のピークは見えていない。本日の閉会中審査・衆院厚生労働委員会で、政府のコロナ対策分科会会長尾身茂は、東京都の新型コロナ感染症の新規感染者数が1日1万人を超える可能性を肯定している。

 東京都を中心に医療状況の深刻さは新規感染者数に表れているばかりではない。都内の入院患者数はすでに3351人(3日時点)まで増え、過去最多だった1月12日の3427人に迫りつつある。都で感染拡大時に最大で確保できる病床6406床に対する病床の使用率は2日時点で50%と、最も深刻な「ステージ4」(感染爆発段階)に達した。

 また、1週間平均の1日当たり新規感染者数は3337人(3日時点)と過去最多を更新し続けており、入院者数が急増する懸念が生じている。療養者数も2万7千人を超え、自宅療養者数は1万4千人を上回っている。

 この事態に、世論の反発は強い。国民は、やる気のない無能な、この政権・この都政を継続させ続ける限りは、自分たちの命と健康が危ないことに気付き始めているのだ。

 一方、バブルの内側も、危うい。まずは、「選手村の敷地内で飲酒し騒ぎ」「選手ら複数人か 警察官が出動」という話題。

 31日午前2時と言えば、深夜である。東京五輪選手村の警備関係者から「選手村の敷地内で飲酒して騒いでいる人がいる」と、警視庁月島署に連絡があった。屋外の共有スペースで大人数の選手らが、マスクを外し酒を飲みながら騒いでいたという。署員が駆けつけた時にはそれらしい人たちの姿はなく、騒ぎを聞きつけた関係者数十人が現場に集まっていたという。負傷者がいるとの情報もあるが、被害届は出ていない。
 なお、選手村では新型コロナウイルス対策で、大勢が利用する共用スペースでの飲酒は禁じられている。違反した場合は競技への出場可否に影響する可能性がある。

 この騒ぎで、昨日(8月3日)「組織委員会が、関連する7?8の各国・地域オリンピック委員会(NOC)に注意喚起した」「組織委は、非常に目に余る状況としてNOCに注意をした」と報道されている。具体的なNOC名は明かされていない。騒ぎを主導した選手の所属NOCから謝罪があり、既に競技を終えている対象選手については今大会の離村ルールである「競技後48時間」を待たずに“強制帰国”させる措置を取ったという。また、他にも飲酒騒ぎがあったとする報道が出ている。

 さらに本日、「選手村で初クラスター」「ギリシャ、5人陽性」と報じられている。
 東京五輪・パラリンピック組織委員会は4日、ギリシャのアーティスティックスイミングの選手4人と関係者1人が新型コロナウイルス検査で陽性が確認されたと発表し、併せて「クラスター(感染者集団)と言わざるを得ない」との見方を示している。5人は東京・晴海の選手村に滞在しており、選手村でのクラスター発生は初となる。これまでの五輪関係者の累計陽性者数は300人を超えた。

 バブル方式とは、選手が国外から持ち込んだウイルスを閉じ込め外の世界への感染を防止する狙いだけでなく、反対に外からの選手への感染を防止する効果もあるだろう。しかし、既にバブルの内も外も清浄ではない。日本社会も国際社会も、そして五輪そのものも、完全にコロナに負けているのだ。

「あなた何様?」「わたしゃ五輪様」

(2021年8月3日)
 今朝の報道で知った。「五輪車両 当て逃げか」「ボランティア 関係者乗せ」「車2台に追突、走り去る」「女性2人負傷」「側壁にも衝突」「大破したまま『送迎優先』」などと各紙が見出しを打った事件。一昨日(8月1日)夕方のこと。

 そこのけそこのけ五輪が通る、と言わんばかりの不愉快。これは、例外事象ではあるまい。むしろ、五輪関係者の意識や姿勢を象徴する事件ではないか。

 東京オリンピックの大会スタッフ(関係者)を乗せた乗用車が1日夕、東京都内の首都高速道路で車両2台に相次いで追突する事故を起こし、そのまま走り去っていた。警視庁は道交法違反(事故不申告)などの疑いで、東京オリンピック大会ボランティアとして車を運転していた神奈川県に住む会社員(50代男性)から事情を聴いている。

 警視庁によると、事故は1日午後6時ごろ、首都高の台場出入り口(港区)―葛西出入り口(江戸川区)付近で発生。立ち去った車両はボランティアの50代の男性会社員が運転。車両は都内から千葉県に大会スタッフ1人を運ぶ途中で、男性は警察に対し「オリンピックのスタッフを送ることを優先した」と話している。

 大会スタッフを乗せた乗用車は、前を走っていたトラックと軽ワゴン車に追突したほか、前後して複数回にわたって側壁にも衝突した。軽ワゴン車に乗っていた女性2人が病院に搬送され、軽傷を負った。

 乗用車は前部が大破したまま十数キロ走り続け、千葉県内のインターチェンジを降りたところで同県警が停止を求めて運転手の男性に職務質問した。男性は事故を起こしたことを認めた上で「(乗せていた)大会スタッフの送迎を優先した」と話しているという。

 大会組織委員会は「本来、ただちに警察へ報告するなど事故の初動対応にあたるべきところ、当該ドライバーは現場を離れてしまったとの報告を受けており、組織委としても重ねておわび申し上げる。事故の再発防止に努める」としている。

 大会関係者が絡む交通事故は、五輪が開幕した7月23日以降、75件発生。軽傷の人身事故が1件あり、そのほかは物損事故だった。今回の事故を含めると76件となる。事故以外にも一時不停止や違法駐車の放置などの交通違反が28件確認されている。(以上、主に「毎日」の記事による)

 消防車や救急車の交通優先権は誰もが認めるところ。清掃車や道路工事車両、福祉施設車両への敬意も惜しまない。例外はあるにせよ警察車両も同様である。市民社会全体の共通の利益のためとの合意も信頼もあるからである。しかし、たかがオリンピックにそのような合意も信頼もない。怪しげなボッタクリ連中と政権とがつるんだ不要不急のイベント。そのスタッフの送迎のための車両に、何の公共性があろうか。

 「オリンピックのスタッフを送ることを優先した」という、このボランティアの責任は重い。「市民の怪我の手当よりもオリンピックが大事」と言っているのだから。しかし、さらに責任を問われるべきは、この車両に乗車していた「大会スタッフ」という人物である。事故後は直ちに自ら被害者の安否確認を最優先とし、救急車を呼び警察に通報すべきであった。あるいは、運転者にそのように指示しなければならない立場であった。にもかかわらず、「前部が大破したまま十数キロ走り続け」とは、いったい何を考えていたというのだ。まさしく、「そこのけそこのけ五輪が通る」の姿勢ではないか。

 報じられている大会組織委員会の弁明も通り一遍、他人事のごとくではないか。この点について本日の「毎日」に、「ボランティア 笑顔消え」「不慣れな運転・道 ストレス」の大きな記事。中に、次の一節(要約)がある。

 「2日にはボランティア運転手の男性が首都高速道路で追突事故を起こし、そのまま走り去っていたことが報じられた。女性(ボランティアの一人)は事故が起きたことには驚かなかった。組織委は運転手が足りないと多くのボランティア応募者に伝え、都心の運転に不安があると答えた人には『カーナビに従うだけなので大丈夫』などと安全性に欠ける説明をしていたからだ。
 事前研修は30分ほど運転するだけ。『職業ドライバーではない私たちが不慣れな道を走るのはストレスが多い』。英語に不慣れな運転手もいるのに、行き先を指定するアプリにも不具合が続いていたという。
 ボランティアから笑顔が消え、義務感で参加する人も生まれた大会は後世にどう語り継がれるのだろうか。」

「IOCの正体見たり ぼったくり」ー オリンピックとは何であるかを学ぶ

(2021年8月2日)
 本日の毎日朝刊コラム「風知草」に、山田孝男が「五輪で学んだこと」を書いている。その中に次の一節がある。

 「日本人は、大会開催に至る過程で、IOC(国際オリンピック委員会)が、国際公務員を擁する善意の公共機関などではなく、営利に敏感で透明性の低い、厄介なスポーツ興行団体であることも学んだ。

 IOC会長と有力理事は各国の知名士や大企業と結びつき、<貴族化>している。バッハ会長は今、1泊300万円(値引きで250万円とも)というホテルオークラのスイートルームにいる。ほぼ全額を大会組織委員会が払う契約が露見し、IOCの全額負担になったという報道もある。

 バッハ以上に尊大な印象を与えてやまないコーツ副会長も同じホテルにいるらしい。我々は、差別解消をうたう五輪憲章の総元締IOCが、社会的格差という時代の課題に無頓着である現実も学んだ。

 84年の米ロサンゼルス大会以来、ひたすら商業化路線を突き進んできた五輪に大きな転機が訪れた。さまざまな未熟さが露見し、成熟が問われている。不格好だが、時代を画する大会になっている。」

 端的に言えば、パンデミック下の東京五輪で学んだことは、「IOCの正体見たり ぼったくり」ということである。ないしは「尊大な興行師」、あるいは「たかり屋」でもあろうか。授業料は3兆3000億円と、とてつもなく高くついたが。

 ぼったくり連中が五輪の正体を教えてくれる以前の日本人のオリンピックについてのイメージは、聖なるものではなかったか。

 私自身も、教えられたとおり、オリンピックには長い間プラスイメージを持っていた。古代ギリシャではポリス間の戦乱が絶えなかったが、4年に1度のオリンピアードの際には戦をやめて、この平和の祭典に参加した。その勝者には、名誉を表す月桂樹の冠だけ、その余の賞金も賞品もなかった。近代オリンピックは、その古代ギリシャの崇高な平和の祭典を復興したものである。国際協調主義、人種や民族を超えた平等の理念で貫かれている。

 そのオリンピックの正体とは、国威発揚、商業主義、そして政権の浮揚策である。中でも目に余るのがボッタクリ精神横溢の商業主義。国費を使いまくってのたかり屋への奉仕。祝賀資本主義という言葉をよく聞くようになった。本日の赤旗に、「コロナ禍 問う五輪」の記事。安保法制に反対する学者の会などが開催したオンラインシンポの紹介である。こちらは、7人の学者による多角的なオリンピックの徹底批判。胸に落ちる。以下は、その7学者発言の要約である。

広渡清吾・東大名誉教授 「政権浮揚のための東京五輪強行」

 新型コロナは収束の兆しが見えず、その対処に人類の英知が問われている。市民の命と暮らしを守るのが政治の役割だが、日本政府と東京都、組織委員会は、その見識を失っている。政権浮揚のための東京五輪強行だが、事態は十分にハルマゲドン化している。これを切り開く議論を行おう。

鵜飼哲・一橋大名誉教授 「祝賀資本主義の収奪」

 五輪という「祝祭」は、「資本を再建する祭典」である。同時に、「招致された非常事態」であり、略奪のメカニズムでもある。商業主義を加速させるが、祝祭の後は必ず不況となり、さらなる規制緩和や増税のダブルパンチが待っている。

井谷聡子・関西大准教授 「五輪後に福祉カット」

 近代五輪の第1回大会は女性を排除した。クーベルタンの近代五輪の理念には、色濃く優生思想がある。近年の「五輪の肥大化」の中で、東京大会でも施設の大規模化の一方で、野宿者らが排除されている実態がある。五輪後には、財政再建の名による福祉カットが起きるだろう。声を上げなければならない。

大沢真理・東大名誉教授 「母子家庭の貧困深刻」

 五輪とコロナ禍の前から、日本の生活保障制度が低所得者と社会的弱者を冷遇し、保健所体制を大幅削減してきた。コロナ禍での若い女性の自殺増を招いており、命と暮らしの危機だ。とりわけ、母子家庭の貧困が深刻になっている。

岡野八代・同志社大教授 「自由束縛する菅政権」

 学問の営みとは、残酷さを避けること、最悪の事態を避けることに眼目がある。五輪とコロナ禍をめぐって菅首相をはじめとした政治家の自己中心的な振る舞いが際立っている。教訓を引き出すためにも、異論や批判を排除しない学問の自由が必要だ。

石川健治・東大教授 「緊急事態条項の危険」

 加藤勝信官房長官は、コロナ禍を「憲法に緊急事態条項を新設する絶好の契機だ」と発言している。しかし、元来の緊急事態の法理は、英国で発達した「客観的緊急事態理論」であって独裁権力を想定するものではない。独裁権力を作るために生まれた「主観的緊急事態理論」とは別物なのだ。

佐藤学・東大名誉教授 「人間の尊厳を取り戻すたたかいを」

 コロナ・パンデミックという「惨事」と、五輪という「祝賀」が同時進行している現状。社会的に弱い立場の女性や子どもにしわ寄せが及んでいる。奪われている私たちの自由と人権と人間の尊厳を取り戻すたたかいが必要だ。

 このパネルディスカッションの司会は、中野晃一・上智大教授だった。

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