(2021年11月10日)
大正天皇(嘉仁)には4人の男子があった。長男が昭和天皇(裕仁)で、裕仁の末弟が三笠宮(崇仁)である。オリエント史学者として知られた人だが、リベラルで硬骨な発言者でもあった。
その三笠宮が、1946年11月3日の「新憲法公布記念日」に、「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」という私案を発表している。今読んでも興味深い内容。
この中で、最もよく知られ、よく引用されるのは、皇族の結婚に関しての下記の一文。
<種馬か種牛を交配する様に本人同士の情愛には全く無関心で(中略)人を無理に押しつけたものである。之(これ)が為(ため)どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し(中略)たことであらうか>
しかし、この部分的抜粋では三笠宮も不本意であろう。「皇族の婚姻」と表題された節の全文を引用しておきたい。この口調の激しさには、驚かざるを得ない。
(4)皇族の婚姻
「私は皇族の婚姻を皇室会議にかける案には抗議を申込む。勅許も削除したい。新民法(案)では婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた。当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である。抑、物事を会議にかけるといふことは常に可決を期待するのでなく否決あるを予期しての話である。愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないものである。婚姻が不成立の場合でもその原因が当事者のどちらか一方の反対による時には仮令片方の愛が強くても「愛する相手の自由意志を尊重することこそ、即ち相手を最も愛することだ」といつたあきらめも出来るが、それが第三者の而も会議といふ甚だ冷い無情な方法で否決されたら決して承知出来るものではなく、寧ろ反抗心を燃え立たすばかりで、下手をすると其の本人の一生をあやまらせる原因となるかもしれない。さういふと「でも其の婚姻の相手が皇族たるにふさはしくない者だつたら困る」といふ人が出てくるであらうが私はそれはその皇族に対する小さい時からの性問題に関する教育なり指導なりが悪かつた最後の結果で、そこ迄に立至つてから結婚して悪いの何のと言ふのは既に手遅れであることを強調したい。従来の皇族に対する性教育はなつて居なかつた。さうしていざとなつてから宛も種馬か種牛を交配する様に本人同志の情愛には全く無関心で家柄とか成績とかが無難で関係者に批難の矢の向かない様な人を無理に押しつけたものである。之が為どんなに若い純情な皇族が人知れず血の涙を流し果は生死の境をさ迷ふたことであらうか?私は言ふ。皇室典範で「皇族の婚姻に判定を必要とする」と書くのはまるで「皇族が物品を取得する時は正当に買つたのか、盗んだのか裁判する」と書くのと同じであると。しかも之からの皇族は小さい時から男女共学となり、指導に依つては立派に自分自身で皇族の配偶者としてふさはしい立派な人を選び得るのであるから何卒若い皇族の純情を最後の関門でふみにじらない様に心からお願ひする。若しどうしても皇族に信用がない場合でも親たる皇族の同意に止めたいものである。」
これは、新憲法(24条)が「婚姻を両性の合意のみで成立する」とし、戦後の新民法が家制度を解体して新憲法に沿った婚姻制度を作ったことに鑑みて、皇族の婚姻を皇室会議の同意を条件とするのは差別ではないかという、皇族の側からの異議である。
この差別を解消するには、差別を甘受しなければならない皇族をなくすに越したことはない。天皇制と家制度は、家父長制として密接につながっているのだから、天皇制を残したままの家制度の廃止は、中途半端で画竜点睛を欠くものだった。
しかし、三笠宮も「天皇制を解体せよ」とまでは言わない。同じ「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」の冒頭、「はしがき」で、こんなことを述べている。
「終戦以来今迄世間での皇室に関する議論を見聞するのに之を富士山の議論にたとへて言へば皆遠くから富士山を眺め時としては頭だけ見て或は雲のかゝつた所を見ての議論が多く、せいぜい近くても御殿場あたりから見た程度で中腹なり頂上から見た富士山論が殆んどない。唯私の記憶に残つてゐるものでは民衆新聞社長の小野氏の「天皇は籠の鳥で窮屈でお気の毒だから天皇制を止めた方がよい」といふ議論である。之は私には非常にピンと響いた。何故ならば私は約三十年間此の籠について考へ続けて居るのだから。と言つて私が此の議論に賛成といふのでは絶対にない。全国民の為否世界全人類の為にほんとうに役立つならどんな狭い籠の中でも我慢をせねばならぬのだ。」
興味深いのは、三笠宮は「籠の鳥で窮屈」を否定していないことだ。むしろ、肯定して我慢を要求している。三笠宮は本心から「天皇制の存置が、全国民の為、世界全人類の為にほんとうに役立つことになる」と考えて、享年100までを「狭い籠の中で窮屈を我慢し」て皇族として生きたのだろうか。だとすれば、「お気の毒な」生涯であったというしかない。
(2021年11月9日)
(本郷湯島九条の会・石井 彰)
本降りの雨のなか、本郷三丁目交差点「かねやす」前で、7人の会員がプラスターを掲げ、「9条改憲許さず」の声を上げました。
衆議院総選挙の結果について3人の弁士はそれぞれ「9条改憲の危機」を訴えました。自公維新が改憲に必要な310議席を大幅に上回る334議席を獲得し、「野党共通政策」を掲げた立憲民主党・日本共産党・社会民主党・れいわ新撰組は110議席と改憲勢力の33%に終わったことに警鐘を鳴らしました。
メディアは野党共闘の「失敗」を喧伝し、何とか野党共闘の分断を図っていることを訴えました。一方、野党統一候補は62議席を獲得し、惜敗率80%以上の選挙区は54選挙区に上り、合わせると116選挙区になり、289選挙区の40%で接戦、大接戦になっていたことを知らせました。この接戦区で競り勝つことでできていれば、自民党は確実に過半数を割っていたのです。
岸田文雄首相は、11月1日、「党是である憲法改正を積極的に進めたい」と発言し、30議席増の維新の松井一郎代表は「来年の参議院選挙は改憲の国民投票」をおこないたいと力説しました。私たちは、衆参両院の憲法審査会をこれ以上動かしてはいけない、そう訴えました。
さらに今こそ立憲主義、憲法に基づいた政治、民主主義を貫くことの重要性を訴えました。戦後一貫して憲法9条を守り、ふたたび戦争しないことを世界に宣言した日本の約束を果たさなければならない。それはまさに戦前のような「ものをいえない社会」に戻してはいけないことだ、そう訴えました。
[プラスター] ★人類の理想戦争放棄の9条、★9条改憲、戦争できる国ストップ ★改憲論議は不要不急 ★戦争の泥沼を忘れたのか ★私たちは憲法9条を守ります。★格差・貧困をなくせ、税源は金持ちから 大企業から
○ みなさま本当にご苦労様でした。衆議院総選挙の結果、ますます日本の支配層は頭に乗って国民を蔑ろにする政治をおこなうことになるでしょう。負けてはいられません。多くの国民とともに9条を守り、温暖化をはじめとした地球的課題解決のためのたたかいを一層強めなければなりません。頑張りましょう。
次回は12月14日、赤穂浪士の討ち入りの日です。多くのかたがたのご参加をお待ちしております。
(以下、澤藤)
マイク代わります。雨の中ですが、ほんの少しの時間、お耳貸してください。
この度の総選挙は、8年9か月に及んだ安倍・菅政権の国政私物化に対する審判のはずでした。ところが、その対策として、自民党は直前に表紙になる顔を取り換え、看板を付け替えました。看板代えたところで自民党商店の売ってる商品は同じじゃないか、国民はそんな姑息な小手先に欺されるほど愚かではない、というのが私たちの思いでした。…が、結果を全体としてみれば、もののみごとに騙されてしまったようです。
自民党が議席を減らしたにせよ過半数を確保し、そして改憲・反共「ゆ党」の維新にも勢いづかせてしまいました。この選挙結果は、無念で重いと言わねばなりません。
岸田自民党は、安倍・菅政権とは別物なのでしょうか。岸田さんは、「新しい資本主義」を掲げ、「成長と分配の好循環」を謳っています。これ、なんだか、お分かりですか。イメージだけが目新しく、何かやってくれそうで、実は空っぽ。これ、悪徳商法の手口です。気をつけなくてはなりません。
岸田さんの言うことは、「資本主義」とも「古い資本主義」でもない、「新しい資本主義」。「新自由主義」ではない「新しい資本主義」。そりゃいったい何じゃ?その言葉、とうてい自分でも分かって使っているとは思えません。
無内容なことをもっともらしく語って聞かせることこそが、悪徳商法の手口の基本。皆さん、騙されちゃいけない。
もう一つの岸田キャッチフレーズが、「成長と分配の好循環」。なんという無内容。これまで9年近くもどちらもできなかったから、看板を掛け替えざるを得なくなったのです。問題はどうしたら、成長や分配を実現できるかなのに、具体策ないままに両方やりますでは悪徳商法の、「実現性のない甘い投資勧誘」。こんな初歩的詐欺に引っかかってはいけません。
古くも新しくも資本主義は資本主義。資本による利潤の追求を認め、必然的に富の偏在と貧富の格差を生み出し、むしろ貧富の格差を積極的に容認する社会。さまざまな矛盾が噴出するのは当然のことです。その矛盾は、この社会に生きている人間の尊厳を傷付けます。それをどう克服するのか。産業革命以後人類が直面している大きな課題です。
資本主義の生み出す諸矛盾を平和的に解決する手段として議会制民主主義を意識し、これを活用しなければならないのではありませんか。選挙を通じて、格差や貧困にあえぐ人々の政府をつくることが目標です。
その方向を指向して、少なくとも公助の手を広く差し伸べる政府でなくてはなりません。「成長」か「分配」かを問われれば、「成長」は資本の自己責任で結構、「分配」こそが公助を責務とする政府の取り組むべき課題です。
資本主義が必然的に生み出した富の偏在を、議会制民主主義が可能とする作用で大胆に再配分して真の公正を実現すること。労働運動や多様な社会運動と連携しあるいは支えられつつ、議会内に、そのことをなし得る勢力を形作ること。それこそが、この社会に生を受けたすべての個人の尊厳を擁護するすべではありませんか。
私は確信しています。人権や民主主義尊重の思想が社会的に力をえて、まっとうで公正な議会と行政府を構成することによって資本の横暴を克服することが可能であることを。
今、その途上で逆流に遭遇していますが、決して本流を変えることはできません。
(2021年11月8日)
通常の民事訴訟では、法廷での発言は訴訟代理人の弁護士が行う。訴訟手続を身につけた弁護士の発言が的確で当事者本人の利益に適うからだ。忙しい裁判所にしてみれば、要領を得ない当事者の発言に耳を傾ける余裕はなく、代理人弁護士の整理された発言だけを聞こうとする。
しかし、「通常ならざる民事訴訟や行政訴訟」においては、当事者本人が直接裁判所(裁判官)に発言を希望し、裁判所にその発言を聞いてもらうべき場合が少なからずある。
弁護士は当事者の求めに応じた法的論理を組み立て、その論理に沿った事実を、当事者に代わって論述することはできる。通常の法廷で求められているのはそこまでである。しかし、当事者のもつ怒りや悲しみ、悩みや苦しみ、理想や情熱、あるいは気迫を裁判所に伝えたいという当事者や事件も少なくない。そのことの代弁は弁護士にはできない。
そういう事件の当事者の姿を、その振る舞いや物腰を裁判官には直接に見てもらいたい。その訴えの声に耳を傾けていただきたい。そのことを通じて、当事者本人の人格や真摯さに触れていただきたい。そして、その人の要求の切実さや要求を求める心情の真っ当さに共感していただきたい。
「聞くまでのこともない、紙に書いた文字を読めば分かる」というものではない。法廷での発言する当事者本人の息遣いを感じて欲しい。発言する側も、裁判所の態度を見守っている。真摯に聞いていただけたら、裁判所に対する信頼が増す。相互の信頼関係を形成し継続する過程として訴訟は進行しなければならない。
本日、東京「君が代」裁判・第五次訴訟の第2回口頭弁論期日であった。裁判所は、事前には原告本人の意見陳述には難色を示していた。しかし、口頭弁論直前の進行協議の場で当方の要望を容れて、原告本人2名、代理人弁護士1名の意見陳述を認めた。裁判所の柔軟な姿勢が好印象だった。
この訴訟の原告となつている教員の皆さんは、それぞれに実に多様なのだ。どなたのお話を聞いても、個性に溢れている。本日の原告本人の陳述内容をご紹介したい。
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意見陳述を認めていただきありがとうございます。Iと申します。36年間都立高校で英語の教員を務めて一昨年定年退職し、現在は非常勤教員として勤務しています。
私は卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったために3回処分を受けました。そのうちの2回の減給処分は裁判により取り消していただきましたが、いずれも取消された直後に改めて戒告処分を受けました。都教委はこの2回に渡る再処分について「」判決に沿って処分の出し直しをした」と主張していますが、どの様な議論を経てどの様な根拠で前例のない再処分を出したかを全く明らかにしていません。また、懲戒処分に不可欠としてきた再発防止研修をこの再処分については実施しませんでした。つまりこの再処分は、私にボーナス減額などの経済的不利益を再度与えることが目的だったのです。このような執拗ないじめのような処分が一体合法なのか、裁判官の皆さまには私の身になってお考えいただきたいのです。
私が君が代斉唱時に起立できない理由は二つあります。一つは、都立高校が生徒に国歌斉唱を強制し生徒の人権を侵害しているから、そして私が起立して歌えばその人権侵害に加担することになると思うからです。日本は少数派に対する想像力が低い国だと思います。
2003年の10.23通達発出以前は、私たち教員は入学式・卒業式の前に「国旗国歌に対してはいろいろな考えかありますから、生徒のみなさんは自分の考えに従って行動して下さい」と説明することができました。生徒の中には外国にルーツを持つ生徒や様々な背景を持つ生徒がいて、君が代を歌うのが本当に辛い生徒や歌いたくないと考える生徒がいることを私たちは知っています。そういう生徒の心を守りたい、多様な意見が尊重されることを生徒に伝えたいと心から願っていました。
しかし、10.23通達後この説明は禁止されました。現在都教委の指示で作成される式の進行表には「起立しない生徒がいる場合は起立を促す」と書かれています。生徒に起立しない自由はありません。立ちたくない、歌いたくない生徒たちはどんな思いで立っているのでしょう。どうして彼らの人権を踏みにじって許されるのでしょう。生徒に国歌斉唱を強制する目的は一体何でしょう。
反対意見はロにするな、権威や常識は疑うなと教えるためでしょうか。もし私が処分を恐れて起立斉唱したら、権威には逆らえないと生徒に教えることになります。圧倒的な同調圧力に屈して立って歌えと強制する側に回ってしまいます。それだけはできないとの必死の思いで、私は強制に反対してきました。
起立斉唱できないもう一つの理由は、都立高校に自由闊達な議論の場を取り戻したいからです。10.23通達後の都立高校では、教員が徹底的に議論して合意形成するという文化がなくなってしまいました。学校運営については管理職と主幹や主任などが企画会議で決め、一般教員はそれに従うというシステムです。そして職員会議でも教員は意見を言わなくなりました。もはや上層部の決定に疑問すら持たなくなっていると感じます。
私の勤務校でこの春、卒業式に関する包括的職務命令を校長が出した際、「職務命令」という耳慣れない言葉の意味を知らない教員は多いはずなのに誰一人質問すらしませんでした。私は慌てて挙手し「なぜ職務命令を出すのか、若い教員にも分かるように説明してください」とお願いしました。
「言われた通りに仕事をするだけ」「どうせ校長が決めるのだから」。職員室ではこういう声が聞かれます。校長に反論すると自分に不利になることを、教員は私たちの処分を見て感じ取っています。教員が疑問を持たない、議論もしない学校で、生徒に自由闊達な議論の場を作ってやれるでしょうか。疑問を持ち自分で考えることの重要性を教えられるでしょうか。自分たちが世の中を変えていくのだと思う生徒を育てられるでしょうか。
裁判所におかれては、今度こそ生徒を人権侵害から守るために、都立高校に自由闊達な教育を取り戻すために、10.23通達は違法であると判断を下してくださるようお願いいたします。
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原告のNと申します。私は、これまで不起立は3回ですが、2度の再処分があるため5回の処分を受けています。2回目、3回目で減給処分をされ、この処分を最高裁は2013年9月に取り消しました。ところが、東京都は、取り消しの連絡をしないまま、最高裁が減給処分を取り消した現職の教員全員に再度の処分を出しました。また、以降の不起立者にも減給処分を出し続けています。
日の丸・君が代の強制は、その価値への賛否以前に、それについて考察すること自体を封じるもので、反対や賛成の意志を持たず、与えられた形式の通りに機械的に行動することを求めています。しかしながら、我々人類はかつてのナチスの興隆や日本の軍部の暴走を教訓として共有しています。
その反省の結果として、個々が深く考えることを重視し平和を志向する教育が世界各地で広まってきています。それに逆行する東京都教育委員会の形式的愛国強制は、戦前の亡国教育の再現に他ならず、加担できないと考えて、不起立を選択しました。 東京都教育委員会の姿勢には、役所がやることは自動的に「公共の正義」であるかのような錯覚・誤認があります。しかし、歴史上、官公庁の命令に従わなかったことが正義であった例は枚挙にいとまがありません。ナチス支配下でアンネ・フランクの一家を支えていたミープさんたちは、ュダヤ人迫害の命令に従いませんでした。杉原千畝も本国政府の意向に反してビザを出し続けました。逆に、命令に唯々諾々と従ったアイヒマンは、ュダヤ人大量虐殺の一翼を担いました。強制収容所への移送の中心的役割を果たしていながら、己の罪を理解せず、命令を無謬の存在と位置づけ、自らの思考は停止することで、公共の正義とは正反対の不道徳行為を行いました。
戦後の世界は、全体主義の下でアイヒマン的人物が多数存在したことを反省し、また倫理的に誤った指示に強制力を持たせうることの非を理解して、以下のような人が育つ教育はやめようと考えました。
・トップダウンの命令に、善悪を考えず従う人
・少数者の排除に加わる人
・自分の行為に責任感を抱かない人
・式典等の形式が人の内面と不可分なことを無視する人
以上のような全体主義下で望まれる人物像を平和に反するものと考え、そうならないための教育を目指すのが世界の教育の大きな流れです。
そのような世界の動向に逆行し、形式の強制と処分による統制を行う10・23通達は、再びアイヒマン的公務員・教員を作ろうとする企てであり、我々教員は倫理上の危機にさらされています。その先にあるのは、子どもたちの思考停止、そして論理・倫理的価値判断力を行政府に奪われた国民の増加です。しかし、私たちは公共の善という視点から行政の過ちを正すべきであり、アイヒマン的人間を作らないための教育こそ目指すべきものです。
日の丸・君が代の強制は、戦中の「国民儀礼」の強制にならっています。明治憲法第28条の拡大解釈で、安寧秩序の意味する範囲が広げられ、1939年3月に成立した「宗教団体法」で、法制上、神社神道は宗教ではなく、宗教に優越する存在であり、それゆえに、どのような宗教を信じる人にも、法的には「国民儀礼」として神社参拝と天皇崇拝を強制しうるという詭弁を弄しました。それは従えない人の存在を最初から想定した上で、その人々を明らかにし、処罰して見せしめとする予定で作られた法でもありました。
私は、戦前の全体主義や、その表れである「国民儀礼」の復活や「宗教団体法」の再生に反対します。この点では、最高裁判断とも国民の一般常識とも一致していると信じています。それゆえに、国旗国歌に対する正しい認識とは、本来はそれらが全体主義の為に悪用されることを許さないことだと考え、都教委の起立命令に従いませんでした。
今回の裁判でお願いしたいのは、東京都は全体主義を肯定している、という認識の下に判決文を書いていただきたいということです。世間一般とは善悪の価値観が逆転している東京都に逃げ道の余地を残さず、全体主義を不正義と考えて起立しなかった者への処分は一切認めない、と明確にしてくださることを願っています。
(2021年11月7日)
思えば、先週の日曜日が総選挙の投開票日。あれから1週間だが、遠い日の出来事のようでもあり、昨日のことのようでもある。期待と現実の落差が大きく、まだしばらくは元の気分になれない。
同じ日に、最高裁裁判官の国民審査。こちらは、それなりの手応え。中央選管の広報も、各紙の報道も、それなりのものではあったが、さて誰に「×」を付けるべきか、実は参考にならない。
日民協プロジェクトチームの国民審査リーフレットが、「この裁判官に、こういう理由で「×」を」と明示しての訴えたことが好評だった。
一応の総括案が提示されたのでご紹介したい。
2021 国民審査の結果について
第1 不信任の数が多い順 (左の数字は、記入用紙を右から見た並び順です)
1)深山卓也(67)=裁判官出身 4490554 票(7.85%)
5)林道晴(64)=裁判官出身 4415123 票(7.72%)
6)岡村和美(63)=行政官出身 4169205 票(7.29%)
11)長嶺安政(67)=行政官出身 4157731 票(7.27%)
3)宇賀克也(66)=学者出身 3936444 票(6.88%)
8)草野耕一(66)=弁護士出身 3846600 票(6.73%)
7)三浦守(65)=検察官出身 3838385 票(6.71%)
2)岡正晶(65)=弁護士出身 3570697 票(6.24%)
4)堺徹(63)=検察官出身 3565907 票(6.24%)
9)渡辺恵理子(62)=弁護士出身 3495810 票(6.11%)
10)安浪亮介(64)=裁判官出身 3411965 票(5.97%)
第2 「夫婦別姓」が争点化された
上記の審査対象の裁判官は、いずれも不信任とはなっていませんが、下記の新聞報道のとおり、また西川伸一先生のご指摘のとおり、夫婦別姓訴訟で何の悩みもなく「合憲」とした 4 人の判事のみが7%を超えています。
また、具体的な裁判への関与がない岡、堺、渡辺、安浪の各氏は下位4人に入っています。
「夫婦別姓訴訟」について大きな争点を作り上げたという意味では、私たちの活動も大きな役割を果たしたと言ってよいと思います。
第3 各社報道(抜粋)
朝日 7%を超えたのは、6 月の最高裁決定で夫婦別姓を認めない民法規定を合憲とする多数意見に加わった深山氏、林道晴氏、岡村和美氏、長嶺安政氏の 4 人(以下、敬称略)だった。
毎日 夫婦別姓を認めない民法の規定を「合憲」と判断した 4 人の裁判官の罷免を求める率が、他の7 人の裁判官と比べて 2 ポイント前後高かった。特定のテーマで罷免を求める率に突出した差が出るのは異例。
東京 不信任率が最も高かったのは、深山卓也氏の7.9%。「夫婦別姓」を認めない現行の民法と戸籍法の規定について「合憲」と判断した4人の罷免を求める率が、他の7 人と比べて高い傾向となった。
NHK 西川教授は「対象となった11人のうち、罷免を求める割合が7%を超えた 4人はいずれも夫婦別姓をめぐる判断で『民法の規定は憲法に違反しない』という結論に賛同していた。一方、6%台やそれ未満の7人は『憲法違反』と判断、または当時、就任していなかった。夫婦の名字をめぐる議論は身近なテーマで、選挙の争点の1つにもなっていて、1%の差が生じたのは決して偶然ではなく、それぞれの裁判官の判断が投票行動に影響した可能性が高いと考えられる」としています。
そのうえで「裁判官の判断に対して、国民が意思を示したのだとすれば、国民審査の意義に沿うもので歓迎すべきことだ。一方、今回は、就任したばかりで最高裁での仕事ぶりが十分に分からない裁判官が4 人も審査の対象となるなど、制度の課題は多い。国民審査を、より質の高い制度にするための議論が必要だ」と指摘しています(NHK)。
第4 若干の分析
1 夫婦別姓「明確合憲4人組」とその他の比較
夫婦別姓「明確合憲4人組」(深山、林、岡村、長嶺)の罷免可の平均は、7.53%。一方で、その余の判事7名の罷免可の平均は、6.41%。両者は、1.17 倍の差があります。かなり有意な数字だと思います。
特に、他でも悪い判決を出している深山・林は、岡村・長嶺に比べても、罷免可の率は、高いといえます。
2 最上位と最下位の比較など
また、最上位の深山と最下位の安浪の差は、1.31 倍にも達します。
3 2017 年は、夫婦別姓が争点化しにくかった
2017 年国民投票(審査は 7 名)では、夫婦別姓については、判断材料にはならなかったようです。というのも、合憲判断(2015 年)に加わった小池、大谷(その他の 5 人は関与なし)については、小池は確かに最上位ですが、大谷は 7 人中 4 位です。
このときは、違憲判断を下した 5 名の判事が既に退官していたことから、「対比」の打ち出しができませんでした。
4 過去 5 回分の最上位と最下位の比較
2017年国民投票(審査は7名)では、最上位と最下位の差は、1.15倍です(8.56%と7.47%)。
2014 年国民投票(審査は 5 名)では、1.14 倍(9.57%と 8.42%)。
2012 年国民投票(審査は 10 名)では、1.10 倍(8.56%と 7.79%)。
2009 年国民審査(審査は 9 名)では、1.29 倍(7.73%と 6.00%)。
2005 年国民審査(審査は 6 名)では、1.05 倍(8.02%と 7.63%)。
今回は、近時の中では、最上位と最下位の差が一番大きく表れたと言えます。
(2021年11月6日)
この度の総選挙では維新が、大阪を中心に大幅に議席を増やした。維新は、自民党の補完勢力である以上に積極改憲派である。私には不愉快で嘆かわしいことだが、これが悪夢ではなく痛い現実なのだ。
私は、政策以前にこの政党がかもし出す空気に嫌悪感を募らせてきた。公立学校での「日の丸・君が代」強制の徹底ぶりや、自治体労働者の団結権の侵害など、なんという人権や民主主義への配慮を欠いた傲慢で高圧的な強権体質。
しかし、吉村知事のイソジン推奨会見や、コロナ対策の致命的失敗で、府民からの目は厳しいものと思い込んでいた。それが、総選挙の日程が近づくにつれて、票を取りそうだ、議席を増やしそうだという報道である。そして蓋を開けて驚愕ということになった。
私の周りに維新の風は吹いていない。「イソジン吉村が、なぜ選挙の顔に」という疑問ばかり。いったい大阪はどうなつているのか実態がつかみがたい。選挙後に冷静な維新票の分析がなされ始めており、いくつかに目を通したが、よく分からない。「維新支持者の中核は保守派の安倍菅路線批判層」「維新支持の有権者は決して熱狂的な支持者ではなく支持の熱は低い」「恒久的な支持者ではなく選挙の度ごとにブレは大きい」「ポピュリズム政党と一刀両断するのは不正確」「全国政党にはならないだろう」などと言われているが、簡単に納得はしがたい。
そこで、維新の政策を初めて読んでみた。「政策提言 維新八策2021」としてまとめられているもの。無理に「八策」にまとめられた政策の柱は、以下のとおりである。
- 「身を切る改革」と徹底した透明化・国会改革で、政治に信頼を取り戻す
- 減税と規制改革、日本をダイナミックに飛躍させる成長戦略
- 「チャレンジのためのセーフティネット」大胆な労働市場・社会保障制度改革
- 多様性を支える教育・社会政策、将来世代への徹底投資
- 強く靭やかに国土と国民を守る危機管理改革
- 中央集権の限界を突破する、地方分権と地方の自立
- 現実に立脚し、世界に貢献する外交・安全保障
- 憲法改正に正面から挑み、時代に適した「今の憲法」へ
この政党には核になる思想がない。原理原則となる政治理念もなければ、独自の国家観も社会観も歴史観も示すことができない。だから、八策が体系になっていない。どこかの政策のつまみ食いを寄せ集めたという印象でしかない。なぜ、これで選挙に勝てるのだろうか。
ホームページには、「八策」に関連付けた、「日本維新の会の目指すところ」という文章が掲載されている。その全文が以下のとおりである。
旧態依然とした政治。増え続ける国民の税負担。
この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。
真の改革を進めなければ、この国に未来はありません。
政治家のための政治をなくす。
本当に支援を必要としている人のための、
国民の皆さまのための政治に変えなければなりません。
私たちには、大阪で改革してきた実績があります。
ここに掲げられているキーワードは「真の(政治)改革」だが、その中身はよく分からない。「政治家のための政治」を否定した「国民の皆さまのための政治」だけでは、当たり前に過ぎてキャッチフレーズにはならない。
むしろ気になるのは、「この国の政治は、戦後の古い体質のままあり続けています。」というフレーズ。明らかに、中曽根康弘の「戦後政治の総決算」、あるいは安倍晋三の「戦後レジームからの脱却」からのパクリである。言葉だけではなく、政策の中身もパクリと解せざるを得ない。保守に親和性強く、戦後民主主義には相性が悪いのだ。
この政党の立ち位置をよく表しているのが、下記の「選択的夫婦別姓」に関しての政策である。これも、自民右派のパクリ。
選択的夫婦別姓
226.戸籍制度を維持しながら実現可能な夫婦別姓制度の導入を目指します。具体的には、同一戸籍・同一氏の原則を維持しながら、旧姓使用にも一般的な法的効力を与える選択的夫婦別姓制度を創設し、結婚後も旧姓を用いて社会経済活動が行える仕組みを整備します。
少し言葉をいじってはいるが、「同一戸籍・同一氏の原則を維持」である。「旧姓を(通称として)使用することを容認でよい派」。「維新」(これ新たなり)とは看板倒れ、守旧の「維持」派に過ぎないのだ。
8本の柱の最後だけを見てみよう。(⇒は、私のコメントである)
8 憲法改正に正面から挑み、時代に適した「今の憲法」へ
★教育無償化
(1)総論
337.すべての国民は経済的理由によって教育を受ける機会を奪われないことを憲法に明文化します。
338.機会平等社会実現のため、保育を含む幼児教育から高等教育(高校、大学、大学院、専門学校等)についても、法律の定めるところにより無償とします。
⇒憲法26条1項を変える必要はまったくない。多様性尊重社会実現のためには教育の自由こそが死活的に重要なのだが、そこに触れるところはない。
★道州制(略)
★憲法裁判所
(1)総論(法の支配の徹底)
342.政治、行政による恣意的憲法解釈を許さないよう、法令又は処分その他の行為が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する第一審にして終審の裁判所である憲法裁判所を設置します。
343.憲法裁判所の判決で違憲とされた法令、処分などは、その効力を失うこととし、判決は全ての公権力を拘束する効力を持たせます。
⇒憲法裁判所は、簡便な法令・処分の合憲お墨付き付与機関になりかねない。こんなもののために改憲をしてはならない。
★その他
(1)憲法審査会・9 条
344.国民に選択肢を示すため、各党に具体的改正項目を速やかに提案することを促し、衆参両院の憲法審査会をリードします。憲法9条についても、平和主義・戦争放棄は堅持した上で、正面から改正議論を行います。
⇒憲法改正こそ、究極の不要不急課題。憲法審査会の議論リードなど余計なこと。
(2)国民投票
345.憲法改正国民投票を行うことにより、現行憲法が未だに国民投票を経ていない等の問題点を解消します。
⇒どうして「問題点」なのか、理解不能。
(3)緊急事態条項
346.新型コロナウイルス感染症対策を受けて必要性が議論されている「緊急事態条項」について、憲法に緊急事態条項のある国や法律で対応している国など、さまざまな国の状況を参考に積極的な議論と検討を行います。
⇒コロナ対策の名を借りた改憲策動には要注意。断固反対。
(4)皇室
347.皇室制度については、古来例外なく男系継承が維持されてきたことの重みを踏まえた上で、安定的な皇位継承に向け旧宮家の皇籍復帰等を選択肢に含めて、国民的理解を広く醸成しつつ丁寧な議論を率先します。
⇒典型的な極右の路線に国民を誘導しようというパクリ「政策」。なるほど、維新とは「明治維新」時代の感覚なのだ。
(2021年11月5日)
政党間の共闘が成立するのは、それぞれが共闘によるメリットを確信するからだ。小選挙区制を前提とする限り、4野党がバラバラでは議席を獲得することができないのは理の当然。共闘によって候補者を調整し、一本化された共闘候補者への投票の集中が議席の獲得を可能とする。だから共闘は必然である、とも言える。
しかし、各政党はそれぞれに理念も信条も異なり、活動の歴史も人脈も別である。本来はむしろ激しく競い合うべき間柄で、信頼関係の形成は難しく、その共闘は至難の技。政策協定も、候補者調整も、共闘候補者の議会活動も、実はとてつもない難事というほかはない。
だから、安易な共闘に走ることなく、それぞれが自党の党勢の拡大をはかることに専念すべきだという意見も、当然に根強くある。永年のうちには、政党の消長が進行して、自党こそが単独で政権を担うことになり得るという期待を込めてのもの。
とは言え、百年河清を待つ余裕はない。格差貧困問題解決も、労働条件の改善も、社会保障の充実も、税負担不公平の是正も、改憲阻止も、ジェンダー不平等の解消も喫緊の課題ではないか。野党の共闘を求める声の高まりが、時の氏神の采配宜しきを得て、野党の共通政策となった。そして、実務的な候補者調整の作業が進行して今回の総選挙を迎えた。
野党共闘の成果はどうであったか。議席獲得に成功した例あり、善戦したが議席獲得に至らなかった例あり、また明らかに失敗した例もある。そして、全体としては、共闘参加の野党の議席を減らした。元気の出ない野党共闘の結果である。
現実には期待された結果を出せなかった野党共闘だが、野党共闘あったがゆえのこの結果であったのだろうか。むしろ、野党共闘あったにもかかわらずの結果と言うべきではないだろうか。もっと早い段階で、もっと深い信頼関係を築き、もっと共通政策を選挙民に訴え切ることができていたら、事態は変わっていたかも知れない。
企業社会では、「シナジー効果」が語られる。企業の提携や合併による収益の向上の相乗効果を語る言葉。1+1が2で終わらず、3にも4にもなることをいう。政党間の共闘でも、シナジー効果(相乗効果)が大いに期待されるのだが、今回、それは部分的な効果に留まった。
野党間の共闘は総論的には不可避だが、共闘による相乗効果の発揮は容易なものではない。その難しさは内部的な問題にあるだけでなく、外部からの悪意のトゲにも留意が必要である。
野党共闘成立以来、「反共」という悪罵の嵐が吹き荒れ、いまだに終熄しない。国民意識の中に潜在する反共意識を煽り、これに付け込んで悪用しようという言動が一定の効果を発揮しているのだ。
反共意識は、支配の側が作り出して民衆に刷り込んだもの。古くは、「天子に弓引く不忠不義の共産党」であり、「私有財産を否定して社会を紊乱する共産党」であった。また、天皇が唱道する戦争に反対して平和を唱えるという、「とんでもない非国民・共産党」でもあった。
治安維持法は何よりも共産党弾圧を主たる目的として立法された。天皇制政府の弾圧の対象となった共産党は支配者からみて「恐るべき政党」であるだけでなく、民衆の側にも「共産党との関わりを疑われると恐ろしい」存在になったのだ。この残滓が今も残っている。企業社会でも政治社会でも有用なものとして使われる。
こうしてつくられ今なお残っている社会の反共意識を、ライバル政党は徹底して煽り利用した。中国共産党のイメージの悪さも、大いに悪宣伝に使われた。4野党の共闘が期待したほどの進展を見せなかった大きな原因が、いまだにこの世にはびこっている反共意識の所為のように見える。
「反共意識」の蔓延は、民主主義の未成熟度を表すもので、「共産党を支持しない」見解とは大きく異なる。議会制民主主義と政党政治の健全な発展のために、「反共意識」の克服は重大な課題だと思う。
(2021年11月4日)
前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)の、今回総選挙結果の評価に関する2本のツィートが話題を呼んでいる。とは言え、予想される人々からの予想される反応以上のものではない。もう少し、賛否両論がヒートアップしても良さそうなもの。
前川ツィートのその一本は、「人権感覚が欠如し、排外主義に染まった集団が維新。この政党に投票した有権者は猛反省するべきだ」という、維新とその支持者に対する批判。理由や根拠についての言及はないが、極めて常識的な意見の表明と言ってよい。
前川は、今回の選挙結果が出た直後には「日本が辻元清美代議士を失った損失は計り知れない。大阪10区の有権者にはよくよく考えてもらいたい」と投稿している。「大阪10区の有権者」批判では足りず、「維新に投票した有権者全員」に猛省を迫ったのだ。
当然のことだが、政党の支持も批判も、支持者に対する批判も、タブーにしてはならない。堂々と発言してしかるべきである。私も、前川意見にまったく同感だ。維新に投票した有権者諸君に、その軽率さ、思慮の足りなさを猛省していただきたい。
維新当選者の酷さについては、リテラの記事が詳細である。下記をお読みいただきたい。
https://lite-ra.com/2021/11/post-6065.html
もう一本の前川ツィートは、「政治家には言えないから僕が言うが、日本の有権者はかなり愚かだ。」というもの。こちらは、維新支持者に留まらない有権者一般に対して、今回総選挙の結果をもたらしたことに対する批判。このツィッターに対しては、リベラル陣営からも批判が寄せられているようだ。「民主主義を否定する謬論」「愚民観と選良意識の表れ」…。果たしてそうだろうか。
橋下徹は、相変わらずのものの言い方で、こう毒づいている。
「元官僚にはこの手の勘違い野郎が多い。自分の考えこそが絶対に正しいと信じて疑わない。古賀茂明も。だから選挙が必要で、政治家が官僚を統制しなければならない。選挙の結果を否定したら民主主義など成り立たない。」
悪意と悪罵は伝わるが、論理の切れ味は鈍く、説得力はない。
果たして前川は、「選挙の結果を《否定》している」のか。選挙の結果を批判してはならないのか。この選挙結果をもって「日本の有権者はかなり愚か」と言ってはならないのか。そもそも有権者に対する批判はタブーなのか。
橋下の「選挙の結果を否定したら民主主義など成り立たない」は大いなる勘違い。有権者の選択が常に正しいとは限らない。選挙の結果を大いに批判してよいのだ。選挙の結果は暫定的な民意の確認であって神判ではない。今回の選挙結果には次の選挙まで誰もが従わざるを得ないが、次回選挙ではどうにでも変わり得る。次回選挙のための言論戦は、既に始まっている。選挙結果への批判は大いにあってしかるべきなのだ。
普通、選挙に関わろうとする者が有権者を愚かと言うことはない。有権者を味方に付けなくては選挙に勝てないからだ。それでも、維新の議席を伸ばし、自公与党に過半数を与えた今回総選挙の有権者の投票行動を「愚か」と言わざるを得なかったのが前川の心情。その気持ちはよく分かる。私も同じだ。
しかし、橋下と同レベルでの悪罵の交換と思われるのは不本意極まる。今回、維新に投票した有権者の耳に届く言葉で、語りかけなければならない。面倒なことだし容易なことではないが、それが民主主義の政治過程というものなのだろう。
(2021年11月3日)
秋日和の「文化の日」である。いうまでもなく憲法公布記念の日。この憲法、総選挙における改憲派の大勝をさぞかし嘆いていることだろう。
祝日法(国民の祝日に関する法律)では、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とされている。憲法の理念を、「自由」「平和」「文化」としたのであろう。「自由の日」「平和の日」でもよかったはずだが、どういうわけか「文化の日」。
「自由」と「平和」に並ぶ第3の理念としては、「国民主権」「民主主義」がふさわしい。四字では釣り合わないというのなら、「民権」「民主」。「国民主権の日」も「民主の日」も、すてきなネーミングではないか。「国民が主権者であることを確認して、民主主義の発展をことほぐ日」である。この度の総選挙の結果は、「自由」と「平和」と「民主主義」に影を落とすものとなった。
「文化をすすめる」「文化の日」は、その主体も内容もよく分からないが、戦後のこの時代には、「軍国日本」「大国化願望」を否定する文脈で「文化立国」が語られていた。文化とは、「自由」「平和」「民主主義」のいずれをもイメージする言葉であったのだろう。
周知のとおり11月3日は、明治天皇・睦仁の誕生日である。この人、幼くして幕府と西南雄藩連合との政争の具となり、薩長閥に担がれて維新政府の傀儡となった。そして、大日本帝国憲法が制定されるや、神権天皇となり統治権の総覧者となった。おそらくは不本意な人生であったろうが、生涯その矩を超えることはなかったようだ。
日本国憲法は大日本帝国憲法の拠って立つ基本原理を否定するところから出発している。この社会にある旧憲法の残滓と対峙し、これを一掃すべきが、主権者である日本国民の責務と言うべきである。その日本国民は、かつては臣民として主権者たる睦仁や裕仁に臣従を余儀なくされていた。その隷従の時代を懐かしんだり、奴隷主に等しい睦仁の誕生日を祝したりする時代の空気の復活を許してはならない。
にもかかわらず、総選挙での保守側の大勝という衝撃の結果は、私たちのこの社会の民主主義の未熟さを示して余りある。改憲派の議席も3分の2を超えているのだ。流れを上ろうとする水鳥の如く、絶えず全力での水掻きを続けないと、たちまちにして時代は後戻りする。逆コースが現実なものとなりかねない。
秋日和の「文化の日」、あらためてそれぞれが日本国憲法の理念を大切にしようと決意をすべき日でなければならない。
(2021年11月2日)
私のメールボックスに、メルマガ「週刊正論」が定期的に送られてくる。私が積極的に申し込んだはずはないのだが、わざわざ断るのも面倒で手続の時間も惜しい。だからいつまでも送られてくる。もっとも、日付が元号なことだけで不愉快で、滅多に目を通すことはない。
ところが、昨夕の配信記事には、ギョッとさせられた。《メルマガ「週刊正論」令和3年11月1日号》のタイトルが、【「反共」4党で憲法改正に突き進め】というもの。「国家基本問題研究所」の「今週の直言」に掲載された月刊「正論」発行人有元隆志の論考だという。
「反共・4党」とは、自民・公明・維新・国民のこと。「反共4党よ、今こそ好機到来ではないか。憲法改正に突き進め」、これが「反共右翼」の現状認識であり、共通目標なのだ。少々不愉快ではあるが、抜粋してご紹介する。
◇衆院選で自民党は国会を安定的に運営できる絶対安定多数を単独で確保した。さらに自民、公明の両与党と、公約に憲法改正の方向性を明記した日本維新の会、国民民主党を加えると、改憲勢力は憲法改正発議に必要な310議席を優に超えた。政権発足から間もない岸田文雄首相は、選挙戦で公約したように「憲法改正を実現すべく最善の努力」をしてほしい。
◇今回の選挙戦では、日本共産党が立憲民主党と「限定的な閣外からの協力」で合意し、多くの選挙区で候補者を一本化した。ところが、岸田首相は選挙戦終盤になるまで、遊説などでこの問題に言及しなかった。憲政史上、初めて共産党の政権参画が実現するかもしれない重大な問題を先頭に立って訴えるべきだった。岸田首相には猛省を促したい。
◇衆院選の結果を「反共」という視点でみると、自民、公明、維新、国民民主という枠組みができる。4党の議席数を合わせると憲法改正発議が可能な345議席に達した。参院では4党を合わせると169議席で、発議に必要な164議席を上回る。
◇憲法改正に強い意欲を示した安倍晋三政権下では、自公両党だけで衆参両院で3分の2以上の議席を確保していても改正は実現しなかった。維新と国民民主党の協力を得られれば、実のところは改憲に積極的ではなかった公明党も重い腰を上げる可能性もある。
◇「聞く力」があると自負する岸田首相は、維新や国民民主の意見に耳を傾けながら憲法改正への協力を得て、改正実現に動くべきだ。それが岸田首相に課せられた使命である。
右翼の見るところ、「反共」即ち「改憲」である。「親共」即ち「護憲」なのでもあろう。憎き敵こそ共産党であり、共産党を核として護憲勢力があり、反共勢力はそのまま改憲勢力なのだ。この図式からは、今こそ改憲のチャンスと映るであろう。しかし、さてどうだろうか。
自民・公明・維新・国民、その議員と支持者がはたしてすべて改憲派であろうか。改憲に突っ走って、各政党をまとめられるだろうか。反共4党が一致できるだろうか。そして、反共各党が明確な改憲方針を打ち出したとき、今回投票した支持者をつなぎ止められるだろうか。
岸田や山口、玉木などの反共野党の領袖が、所属議員の数合わせだけで軽々に改憲発議に踏み切れるとは思えない。発議して国民投票で勝てる見通しがもてるだろうか。仮に発議したうえでの国民審査で敗北したとすれば、その政治的ダメージははかりしれない。そのとき、再度の改憲発議ははるかな未来に遠のくことにならざるを得ない。
それでもこの選挙結果である。今しばらくは、右翼が跳梁して【「反共」4党で憲法改正に突き進め】という雰囲気が残るのだろう。その今でこそ、それを許さぬ護憲陣営の運動が求められているというべきなのだ。
(2021年11月1日)
あ?あ、なんという選挙結果だ。なんという有権者だ。なんという民主主義だ。なんという日本の将来だ。元気が出ない。憂鬱だ。
市民と野党の共闘成立に大きな期待をしたのだ。安倍・菅政権の酷さに、みんなが憤ったたはずじぁないか。みんな、不正は許さない、透明性の高い社会ををつくろうと考えたはずじゃなかったのか。しかし、自民党の看板かけ替えの術は大成功だった。そんなに簡単に許してよいというのか。嗚呼、結果は惨敗というほかはない。安倍菅政権への批判は、届かなかった。
多少は利いた自公への批判も、その受け皿となったのは維新だった。なんたることだ。自民を叩いて、維新を太らせたのだ。もしかしたら、自民よりもはるかに危険な維新の連中を。
とはいうものの、あらためて思う。選挙で負けたからといって、首を取られるわけではない。身柄を持って行かれるわけでもない。テロが大手を振る社会になったわけでもない。これが文明社会だ。まだまだ、この社会の文明は失われていない。
次の選挙を待てばよいのだ。次の選挙で勝てばよいのだ。そのための策を練り、民意を結集する努力をすればよいのだ。それしか方法はない。
来年夏の参院選、その次に来たるべき統一地方選挙、そしてまたくる解散・総選挙。社会を変えるには、少しずつの毎日の努力を積み重ね、その成果を議会に反映させるしかない。
それが、議会制民主主義というものだ。多数者の住みやすい世の中をつくろうという営みが最終的には、選挙で多数派になれないはずはない。そう思いつつ、自分を励まそう。