澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ロシア対ウクライナ 戦争の終わらせ方は?

(2022年6月20日)
 「ロシアのウクライナに対する軍事侵攻が始まってから、もうすぐ4か月。この間、毎日のニュースに胸が痛むね」

 「そのとおりだ。戦死者の報道も建物が壊されているのも見るに忍びない」

 「早く戦争が終わるといいね」

 「それはそのとおりだが、戦争が終わりさえすればよいというものでもないんじゃない。終わり方や終わらせ方が問題だよね」

 「えっ? どういう意味?」

 「戦争を仕掛けたのはプーチンのロシアだ。明らかな侵略行為で、国連憲章違反だ。このロシアの責任をうやむやにしたままで、戦争が終わりさえすればよいということにはならないと思う。ロシアの責任を明確にして、現状を侵略行為のない状態にまで回復しなければ正義を貫くことができない。再発も防止できない」

 「そりゃあ、ウクライナが侵略者を打ち負かして、あなたが言うような戦争の終わり方ができればそれに越したことはない。でもね、なかなかそうはならない。いまの戦況では、戦争は長引きそうよね。戦争が長引けば、毎日毎時、多くの人の命が失われることになる」

 「既に多くのウクライナ人の血が流されている。その犠牲はいったい何だったのかということになる。この犠牲を無駄にしないめにも、安易な休戦の妥協は許されない」

 「それを言うなら、ロシア国内の論理も同じ。成果のないままの戦争終了は、ロシアの兵の流した血を無駄にすることになる、と言うに決まっている」

 「その、どっちもどっちと言う理屈が、我慢できない。侵略した側とされた側を同列に置いてどうするの」

 「問題への解答は、結局のところ戦況の現実が決めざるを得ない。今、戦況はロシアに優勢と報じられているし、少なくともこのままでは長引くことは避けられないでしょ」

 「いや、ウクライナが持ちこたえれば、アメリカやNATOの武器援助が間に合うことになる。ロシアに対する経済制裁も次第に利いてくる。そうすれば、ウクライナに勝機があるとボクは思う。侵略戦争にいやいや駆り出されたロシア軍と、自分の国土を守ろうというウクライナ軍とでは、士気がまるで違うはずだから」

 「仮にそうなるとしても、それまでには多くのロシア軍兵士が死ななければならない。多くは、不本意に戦場に引っ張られた若者たち。その悲惨な死には、やっぱり胸が痛む」

 「ボクは、侵略された側のウクライナの民間人や兵の死には胸が痛むけれど、侵略に加担したロシア兵士には同情したくない。彼らが、占領地で行った非道な行為は許せない」

 「あなたは過剰なナショナリズムに毒されているようね。国対国、国民対国民という対立図式だけが頭の中に際立っていて、その枠をはずれた、国家対国民の関係での見方はなく、個別の人間は視野にない。国際的な両国民の平和的連帯を追求する視点なんてまったくないのね」

 「現実に砲弾が飛び交っている戦争を語っているのに、なんというリアリティに欠けことを言うんだい。侵略国ロシアの責任は、一人プーチンにだけあるわけじゃない。プーチン独裁を許したロシア国民全体が責任を負わねばならない。戦前の天皇制国家の侵略の責任が、一人天皇にだけあるのではなく、天皇制を支えた国民全体の責任だったように」

 「その論法は、プーチンや天皇というトップの責任を免罪する常套手段ね。一人ひとりの国民の多くは戦争の被害者なのよ。ロシアの兵士の命だってかけがえのないものでしょう」

 「戦争のさなかでは、そんな甘いことを言ってはおられない。ロシア軍兵士の死を歓迎するとまでは言わないが、やむを得ないと割り切らざるを得ない」

 「あなたが、そんな冷酷な人間だとは知らなかった」

 「ボクも、あなたがそんな夢想家だとは思ってもいなかった」
 

細田博之による文春への提訴もスラップである。その違法の追及が必要だ。

(2022年6月19日)
 18日付の各紙が、「細田博之衆院議長が文芸春秋社を提訴 『セクハラ報道、事実無根』」と報じている。細田は17日、女性記者へのセクハラ疑惑を報じた週刊文春の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の文芸春秋社に2200万円の損害賠償、謝罪広告の掲載、オンライン記事の削除を求めて東京地裁に提訴したとのこと。

 『週刊文春』5月26日号(同月19日発売)は、細田が過去に女性記者に対して、深夜自宅に「今から来ないか」と誘うなどセクハラ発言を繰り返していたと報道。翌週と翌々週にも続報記事2本を掲載した。細田側は「記事に記載されたセクハラや虚偽の説明、口止めを行ったことはなく、事実無根だ」と主張している。

 一方の文芸春秋側は、「小誌のセクハラ報道以来、国権の最高機関のトップである細田議長が、公の場で一度も説明されないまま提訴に至ったことは残念に思います。記事は複数の証言、証拠に基づくもので十分自信を持っており、裁判でセクハラの事実を明らかにしてまいります」と余裕のコメント。

 私は週刊文春も週刊新潮も大嫌いである。しかし、その報道の自由は尊重しなければならない。とりわけ、衆議院議長のセクハラ報道である。政治的・社会的圧力によって、その報道が闇に葬られてはならない。

 この件については、「細田博之・セクハラ疑惑報道に対するスラップの構造 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第200弾」(2022年5月28日)として、既に当ブロクに私の見解をアップした。
 https://article9.jp/wordpress/?p=19220

 スラップ訴訟の定義は必ずしも定まらないが、この細田による文春への提訴もスラップと呼んでよい。侵害された自分の権利の救済を求めての訴訟提起ではなく、自分の意に染まない言論を牽制しての提訴なのだから。

 但し、この提訴。言論に対する恫喝であるよりは、言論からの防衛の動機が透けて見える。あるいは、沸騰した世論の糾弾をかわすための時間かせぎの提訴。セクハラは事実無根と主張した以上は提訴せざるを得ず、訴訟の継続で時間を稼いでいる内に、世論が報道を忘れて沈静化するだろうという思惑。それでも、被告とされる側の応訴の手間暇や経済的負担に変わりはない。

 この種の訴訟には、社会的な要請として反訴が必要ではないか。その反訴では、細田の提訴の意図を徹底して追及してもらいたいと思う。

 この細田の対文春2000万円請求提訴はそれ自体が、不当なスラップとして違法となり得る。その理由は以下のとおりである。

 本来、民事訴訟とは、正当な権利や利益の侵害を救済するための制度である。ところが、そのような民事訴訟法本来の趣旨からは明らかに逸脱した提訴がある。被告に応訴の負担をかけることで言論を妨害しようとするものが典型で、このような場合は、提訴自体が違法行為となり、提訴者において損害賠償の責めを負わねばならない。細田の対文春提訴も、その種の提訴である。

? どのような場合に提訴が違法になるか。1988(昭和63)年1月26日?最高裁判所第三小法廷判決は、このように定式化している。

 「訴えの提起は、提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、同人がそのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて提起したなど、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り、相手方に対する違法な行為となる」

 これを本件に当て嵌めてみれば、次のとおりである。

「細田博之の文春に対する訴えの提起は、
(A)提訴者である細田が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、
(B1)細田がそのことを知りながら、又は
(B2)通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて提起したなど、
裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合は、文春に対する違法な行為となる。」

 この(A+B(1or2))の充足がスラップ違法の方程式。本件では、客観要件である(A)も、主観要件である(B1)も、事前に細田にはよく分かっているはずのこと。

 結局のところ、「2人きりで会いたい」「愛してる」「お尻を触られた」「文春はほぼ正しい」「抱きしめたいと言われ…」云々の週刊文春の記事が真実であれば、原告細田の名誉毀損訴訟が敗訴となるだけでなく、その提訴自体が違法となって反対に損害賠償債務を負担することになる。

 DHC・吉田嘉明は、私を名誉毀損で訴えて6000万円を請求してゼロ敗しただけでなく、その提訴が違法なスラップとして165万円の損害賠償を命じられた。スラップは民主主義の根幹をなす「表現の自由」に敵対する社会悪である。この社会悪をなくすために、文春にも「表現の自由」の旗を掲げて、細田と徹底して闘ってもらいたい。   

司法とは所詮は権力の一部なのだから、この最高裁判決は宿命というべきものなのだろうか。

(2022年6月18日)
 3・11福島第1原発事故に関しての「避難者訴訟」。昨日、注目の国の責任に関する最高裁判決が言い渡された。結果は、ニベもない請求棄却(自判)で終わった。この判決は、誰の意を体してのものなのだろうか。そして、あらためて思う。最高裁っていったい何者なのだろう。

 昨日の判決は、先行した福島(生業訴訟)、群馬、千葉、愛媛の4避難訴訟についての上告審。原審の各高裁判決は、国の責任を認めたもの3件、否定したもの1件だった。同種の集団訴訟は今回の4件を含めて約30件、原告総数は1万2000人以上となっている。これまで、1、2審で国の責任を肯定する判決が12件、否定するものが11件と割れているとは言え、肯定するものが多い。最高裁は、原審の判断を尊重するだろう。そんな楽観的な雰囲気の中での、敢えてした国寄り判決である。しかも、明らかに無理を押しての逆転判決。

 毎日新聞が「『最高裁、国にそんたく』『肩すかし』原告ら憤り」「原告らに冷淡な結末」と見出しを打ち、朝日は、「『将来に恥ずかしい判決』と原告」とした。産経までが、「『こんな判決出るとは』無念の原告 疲労と失望」である。

 第二小法廷は長官を出しているので、判決には4裁判官が関わる。結果は多数意見が3、反対意見が1だった。反対意見は検察官出身の三浦守判事のみ。弁護士出身判事までが多数意見にまわっているのはなんたることか。

 国が有する規制権限を適切に行使しなかった場合、国に国家賠償法上の損害賠償責任が生じる。3件の原判決は、国の機関が2002年に公表した地震予測「長期評価」に基づく津波対策を講じなかったことを違法とし、国の責任を認めた。ところが、最高裁は、国が(経済産業相)事故前の想定津波に基づき東電に防潮堤を建設させる規制権限を行使しても、東日本大震災の津波による原発事故を防ぐのは困難だったとして、国を免責した。これが、判決理由の骨格である。

 「判決理由の骨子」を引用すれば、以下のとおり。結果回避可能性否定の判断で請求を切り捨てている。

A(判断の枠組みの提示と有責の2要件)
 公務員による規制権限の不行使は、その権限を定めた法令の趣旨、目的等に照らし、(1) 《その不行使が許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められるとき》は、国家賠償法1条1項の適用上違法となる。そして、国が公務員による規制権限の不行使を理由として国家賠償責任を負うというためには、(2) 《上記公務員が規制権限を行使していれば被害者が被害を受けることはなかった》であろうという関係が認められなければならない。

B(想定された規制権限行使の態様)
 本件事故以前の我が国における原子炉施設の津波対策は、津波による原子炉施設の敷地の浸水が想定される場合、防潮堤、防波堤等の構造物を設置することにより上記敷地への海水の浸入を防止することを基本とするものであった。したがって、経済産業大臣が、2002年7月に公表された「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価について」(本件長期評価)を前提に、電気事業法(改正前のもの)40条に基づく規制権限を行使して、津波による福島第一原子力発電所(本件発電所)の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付けていた場合には、本件長期評価に基づいて想定される最大の津波が到来しても本件発電所の1?4号機の主要建屋の敷地(本件敷地)への海水の浸入を防ぐことができるように設計された防潮堤等を設置するという措置が講じられた蓋然(がいぜん)性が高い。

C(当該規制権限行使態様の非有効性)
 ところが、現実に発生した地震は、本件長期評価に基づいて想定される地震よりもはるかに規模が大きいものであり、また、現実の津波(本件津波)による主要建屋付近の浸水深も、本件試算津波による主要建屋付近の浸水深より規模が大きいものであった。そして、本件試算津波の高さは、本件敷地の南東側前面において本件敷地の高さを超えるものの、東側前面においては本件敷地の高さを超えることはなく、東側から海水が本件敷地に侵入することは想定されていなかったが、現実には本件津波の到来に伴い、本件敷地の南東側のみならず東側からも大量の海水が浸入している。
 これらの事情に照らすと、本件試算津波と同じ規模の津波による浸水を防ぐ防潮堤等は、本件敷地の南東側からの海水の浸入を防ぐことに主眼を置いたものとなる可能性が高く、一定の裕度を有するように設計されるであろうことを考慮しても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に侵入することを防ぐことはできなかった可能性が高い。

D(結論・有責要件(2) を欠いている)
 以上によれば、仮に経済産業大臣が、本件長期評価を前提に、規制権限を行使して、津波による本件発電所の事故を防ぐための適切な措置を講ずることを東京電力に義務付け、東京電力がその義務を履行していたとしても、本件津波の到来に伴って大量の海水が本件敷地に浸入することは避けられなかった可能性が高く、その大量の海水が主要建屋の中に浸入し、本件事故と同様の事故が発生するに至っていた可能性が相当にあるといわざるを得ない。
 そうすると、経済産業大臣が規制権限を行使していれば本件事故またはこれと同様の事故が発生しなかったであろうという関係を認めることはできないから、被告国が原告らに対して国家賠償責任を負うということはできない。

 以上は、「一応の辻褄合わせの理屈」でしかない。最高裁が国の立場に立てば、国の主張をつなぎ合わせて、このような国の免責ストーリーを描くことはできよう。しかし、もちろん被害住民の立場に立てば、まったく別の立論が可能なのだ。何よりも、原発という途方もない危険物の管理についての国の責任の厳格さの捉え方がまったく違う。最高裁は、ことさらに国の立場に立ったのだ。

 我が国の最高裁は、どうして人権の側に立って権力に厳しい姿勢を貫くことができないのだろうか。これは我が国の最高裁に特有の欠陥なのだろうか。それとも、司法とは所詮は権力の一部にしか過ぎないのだから、宿命というべきものなのだろうか。

スマホのアプリが突然「赤」となって、デモ参加者は隔離され追い払われた。

(2022年6月17日)
 これは恐ろしい話である。今のところは中国のエピソードだが、もしかしたら明日の人類全体の様子を物語っているのかも知れない。

 ジョージ・オーウェルのデストピア小説「1984年」は、1948年に書かれたものだという。まだその頃は、権力が個人を完全に掌握する技術がなかった。今や、現実は「1984年」をはるかに追い越している。ウィグルだけでなく、中国全体がデストピア化していると言って過言でない。中国共産党の権力が人民一人ひとりの動静を把握し統制しているのだ。その一端を見せつける事件が生じた。

 複数の報道を総合するとこんなことである。
 中国には「健康コード」というスマホのアプリがあって、事実上全国民にその所持が強制されているという。名目上の目的はコロナ対策で、このアプリにはPCR検査の結果や感染拡大地域への滞在歴などが記録され、その分析結果から各自の感染リスクが《緑、黄、赤》の3段階で表示される。商業施設、レストラン、公共交通機関の出入りの際に提示を求められ、これが「赤」になると強制的に隔離措置となる。

 事件は、河南省で起きた。省都・鄭州市の投資会社「河南新財富集団」傘下の複数の地方銀行がデフォルトの状態に陥り、およそ8000億円規模の預金が焦げ付いて取り付け騒ぎが起こっているという。6月11日以後、抗議のデモに参加するため各地から河南省に到着した預金者の「健康コード」に異変が起きた。この預金者たちのアプリが突如隔離措置が必要な「赤色」となり、彼らは次々とホテルや学校に閉じ込められ、あるいは省外に追い返されてしまった。

 メディアは、「河南省の地元当局が抗議活動を止めるため、預金者のコードの表示を意図的に変えた疑い」を指摘し、SNSには「地元政府は法律も無視するのか」「国全体を牢屋にする気か」などという怒りの声があふれたと報道されている。

 中国共産党機関紙・人民日報系の環球時報は15日付で「健康コードの科学性、厳粛性を絶対に守らなければならない」と題した論評を掲載。この中で「濫用された可能性があるかどうかは、決して小さな問題ではない」とし、地元当局に早急な調査を求めたという。

 しかし、である。このアプリの管理者は、河南省内の人物のみならず省外の人物の行動を把握できる立場にあった。そして、預金引出を主張する人々を拘束する権限を行使できるのだ。さらに、銀行のデフォルトに抗議する人々を蹴散らそうとする意図をもっている。こんなことができるのは、共産党以外にはない。しかも、限りなく中央に近い党組織。

 どれだけの人が、どのようなタイミングで、どのように強制隔離されたか。党が事件の張本人であるかぎり、全体像はつかみようがない。天安門事件がよく物語っている。

 中国では全ての人の行動経路がビッグデータとして管理されていると言われてきた。全ての人の経済活動歴、交友歴、政治的思想的な行動歴も把握されているということである。当該銀行に対する債権者を把握し、その中の河南省来訪者を選択して、そのアプリを「赤色」にする。その上で嫌も応もなく強制隔離してしまう。権力が国民を管理している社会では雑作もないことなのだ。

 反党・反体制の傾向をもつ、党の覚えめでたくない人物を365日・24時間監視することは、今やいとたやすいこと。どんな本を読み、誰と会い、どんな集会に出て、 どんな発言をしてきたか、その情報を蓄積するだけではない。場合によっては、特定のターゲットをあぶり出して、監禁することも追い払うこともできるのだ。瞬時にデモ参加者を特定し、これに警告を発し、あるいは強制隔離もできる。今回の事件は、そのことを明らかにした。

 人類の未来は明るいだろうか。はたして、地球環境はどこまでもつだろうか。また、戦争が人類を滅亡させることはないだろうか。そして、強大な権力とIT技術の発達は、徹底して人民の自由を剥奪してしまうのではないだろうか。私には、鄭州市でのデモ参加者のアプリの「赤」は、人類の未来に対する赤信号のように見える。心底、恐ろしい。
  

差別はあってはならない ー 在日も被差別部落も天皇も、人間の尊厳においてまったくの対等平等である。

(2022年6月16日)
 人は平等である。これは民主主義社会における公理だ。差別はあってはならない。差別を間近に見ることもおぞましい。差別に曝されている人の辛さは想像を絶する。この世からあらゆる差別をなくさねばならない。あらゆる人がのびのびと生きていけるように。

 しかし、現実には差別はなくならない。この世には差別が好きな人が、少なからずいるのだ。たとえば石原慎太郎。民族差別・人種差別・女性差別・障害者差別・思想差別・不幸な者に対する差別、弱い存在に対する差別…。この天性の差別大好き人間に対する糾弾の声が必ずしも社会全体のものとならない。この恥ずべき人物を支持する一定の勢力が確かに存在するのだ。

 山縣有朋の死に対して石橋湛山が送った言葉が「死もまた社会奉仕なり」だという。石原の死に際してこの湛山の言葉があらためて引用され、社会は多少健全化されたかと思ったは甘かった。安倍晋三や渡辺恒雄らが発起人となって、「お別れ会」が開催された。差別大好き陣営の総決起集会である。

 安倍晋三がこの会で、石原について、「いつも背筋を伸ばし、時に傍若無人に振るまいながらも誰からも愛された方だった」と発言したという報に接して驚愕し、ややあって驚愕した自分を恥じた。私は、差別された側の民族・人種・女性・障害者・思想、総じて弱者が石原を愛するはずはないではないか、差別をあってはならないとする多くの良識ある人々が石原を軽蔑こそすれ、愛するなんてとんでもない、そう思ったのだ。

 しかし、石原や安倍の眼中には、差別される人も差別に憤る人もない。石原や安倍が言う「誰からも」とは、差別を肯定し、差別を笑う、差別大好き人間だけを指しているのだ。なるほど、確かに石原は、差別大好き人間の「誰からも」愛される存在だった。そして、安倍もその同類なのだ。

 差別とは心根である。人の平等を認めたくないといういびつな精神の表れである。知性に劣り自我を確立できない人物は、常に自分が多数派で強者の側に属していることを確認したいのだ。社会を多数派と少数派に分け、多数派を優れたものとし少数派を劣ったものとする「思い込み」に基づいて、自分が多数派に属することでの安心を求める。

 差別大好き人間にとっては、この世の人々が平等であってはならない。社会は水平ではなく凹凸がなければならず、自分が社会の上位の部分に属することを確認せずには安心が得られない。差別はまったくいわれのない侮蔑であるが、この差別を生む構造は、まったくいわれのない尊貴とこれに対する敬意(ないしは、へつらい)とを必要とする。

 この世に「貴族」あればこその「卑族」の存在である。かつてはバカバカしくも、人の価値が天皇からの距離で測られた。今なお、その残滓がある。天皇がいるから、被差別部落があり、在日差別がまかりとおる。天皇や皇族に畏れいる心根と、在日や部落差別を受け入れる心根とは表裏一体と言わねばならない。

 だから、差別を許さないと考える人が、天皇大好きであってはならない。天皇こそ、日本社会の差別の根源なのだから。今ころ、天皇や皇族なんぞに畏れいってはならない。天皇や皇族に近いという家柄をひけらかす輩を、真の意味で「人間のクズ」であると軽蔑しよう。人の家柄は、誇るべきものでも、卑下すべきものでもない。

 再確認しておこう。人は平等である。在日も被差別部落も天皇も、人間の尊厳においていささかの区別もない。これは民主主義社会における公理である。外国人に対するいわれのない差別や、人の血筋をもってする差別の恥ずべきことは当然だが、これと裏腹の関係にある、天皇や皇族を貴しとする感性もまた恥ずべきことと知らねばならない。

「アゾフ海 みな同朋と思う世に など砲煙の立ちさわぐらん」

(2022年6月15日)
 今朝の毎日新聞朝刊2面「水説」(古賀攻・専門編集委員)を一読して驚いた。「『ロシアの日』を巡る話」という表題のコラム。鳩山由紀夫という人物に対する評価を変えざるをえない。

 6月12日は、「ロシアの日」であった。ロシアにとっての建国の日である。ロシアは侵略戦争のさなかに、「ロシアの日」を迎え、世界の各地で「ロシアの日」を祝う催しを行った。

 東京では、当日が日曜なので平日の9日(木)、麻布台のロシア大使館での開催となった。例年だと各国の外交官ら1000人以上でにぎわうレセプションだそうだが、今年は200人程度だったという。さもありなん。

 そこで「元日本国内閣総理大臣」の肩書で紹介された、主賓・鳩山由紀夫がこう挨拶したという。

 「大事なことは、物事の本質を見極める目を持たなければならないということでございます」「プーチン大統領はウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に入らないよう、東部への軍事活動をやめるよう協定を結ぼうとしましたが、アメリカは一顧だにせずに拒否し、たまりかねてついに戦争になってしまいました」

 鳩山由紀夫の目にだけは、物事の本質が見極められているそうだ。その本質とは、ロシア対ウクライナの戦争の原因は、もっぱらウクライナとアメリカに帰せられるべきもので、戦車を連ねて国境を越えて軍事侵略し、他国の国民に対する殺戮を重ねたロシアの側にはないごとくなのだ。「たまりかねてついに」「やむにやまれぬ」開戦だとされている。

 この鳩山コメントをどう評価すべきだろうか。まさか、「日本社会がロシア糾弾一色に染まっているときの、勇気ある少数意見の吐露」ではあるまい。ロシアに対する、みっともない阿諛追従と言わざるを得ない。侵略戦争を開始したという一点において、ロシアの有責は明白である。いささかも、これを免責してはならない。

 古賀は、鳩山の言を「日米開戦時の旧日本軍とそっくりだ」と評している。なるほど、対米(英蘭)開戦を事実上決めた1941年9月6日の「御前会議」での天皇(裕仁)が口にしたという「四方の海みな同朋と思う世に など波風の立ちさわぐらん」を思い出させる。この歌、祖父・睦仁の作。その引用である。

 波風の張本人が、「など波風の立ちさわぐらん」と言ってみせているのだ。まるで、オレが悪いんじゃないみたいに。オレは、「四方の海みな同朋」と思っているのに、オレの真意を汲もうとしない相手が悪い、というみっともない弁解である。鳩山は、プーチンも裕仁と同じ想いと察したのだろう。

 古賀の文章は厳しい。「どんな背景事情があるにせよ、ロシアの行為は絵に描いたような国連憲章違反だ。しかも『我々の報復攻撃は稲妻のように素早い』と露骨に核兵器で脅す国などロシアと北朝鮮以外にない」「過去のいきさつをことさら強調し、ロシアの過剰で独りよがりな国防観を『個性』であるかのように扱うことは、ロシアなりの大義をおびき寄せる。それは、何の落ち度もなく殺された人びとへの追い打ちにほかならない」という。まったくそのとおりだ。

 だが、古賀の筆はそこで終わらない。「戦争を終わらせるには、高度に政治的な『妥協』が必要になる」という。明言はないが、もしかしたら鳩山には、ロシアを持ち上げておいて、プーチン説得に動く思惑があるのではないか、と示唆しているようにも読めるのだ。

 もし、それに成功すれば、あらためて鳩山由紀夫という人物を評価し直そう。それなくしては、単なるプーチン迎合の「ゴマすり」としか言いようがない。

「本郷湯島九条の会」街頭宣伝ー本日は17名で参院選の意義を訴え

(2022年6月14日)
 途中で小雨がぱらつきましたが、きょうは国民救援会中央本部の方も参加していただき、総勢17名の賑やかな街宣になりました。このくらいの人数になると、道行く人の注目度も上がるような気がします。参院選間近で、弁士も、プラスターを持つ人も、署名板を持つ人も、それぞれ元気いっぱいの声が本郷三丁目の交差点に響き渡りました。
 マイクはロシアによるウクライナへの軍事侵略を糾弾し、火事場泥棒の如く軍事力強化を叫ぶ国内の翼賛勢力を弾劾しました。
 ウクライナ侵略に乗じて「敵基地攻撃」「軍事費2倍化」「憲法9条に自衛隊を書き込め」「核共有の議論を」という大合唱を痛烈に批判し、”軍事対軍事”の悪循環は結局日本を戦争に巻き込むことになる。あくまで9条を基軸に、政治・外交の力で平和を築こうと訴えました。
 さらに、これまでも「異次元の金融緩和」により異常円安をつくり出し、物価高騰を招いたアベノミクスの責任を追及しました。国民生活を守ることと戦争を阻止することが深く結びついた課題であることも訴えました。消費税を下げ、年金の切り下げを止め、高齢者医療負担2倍を止めさせ、戦争のための国債発行を止めることが岸田政権に戦争を止めさせることにもなります。
 間近に迫った参院選は日本の行方を決める選挙です。投票に行きましょう。ぜひ、行ってください。このことを強く訴えました。(以上、世話人・石井彰氏)

 [プラスター]★プーチンは人殺しをやめろ。女・子ども・老人を殺すな。★プーチンは核をつかうな、日本は核を持ち込むな。★破壊も人殺しもイヤ、憲法9条で平和を。★戦争できる国9条改悪ストップ。★軍事費増強NO、軍拡は戦争を招く。軍備で平和は生まれない。★まず分配、財源は法人税、株配当税。

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 近所の弁護士です。私が最後の弁士となります。もう少しお耳を貸してください。明日6月15日に通常国会は閉会します。そして、6月22日来週の水曜日に参議院議員選挙の公示となり、7月10日・日曜日の投開票となります。いつにもまして大切な選挙です。

 もしかしたら、その後の3年間、国政選挙はないかも知れません。この参院選に勝てば、政権にとって選挙による制約のない「黄金の3年間」が始まる、という声が聞こえて来ます。政権がなんでもできるという「黄金の3年間」にしてはなりません。

 今度の参院選は、おそらくはロシアのウクライナ侵攻中の選挙です。日本の平和主義、国民の憲法意識が試される選挙になります。そして、とんでもない物価高が押し寄せ、国民の暮らしが押し潰されそうになる状況下での国政選挙でもあります。争点になるテーマは大きくは二つ。一つは何よりも平和をどう作るべきかという課題であり、もう一つは国民生活防衛の課題です。そして、この二つのテーマは深く結びついています。

 ロシアによるウクライナ侵攻は、明らかなプーチン・ロシアの国連憲章違反の武力行使です。私たちは、全力を上げてロシアの違法を糾弾し、戦争を開始したロシアに対して、即時停戦・軍事侵攻の撤退を求める大きな声を上げ続けなければなりません。そして、侵略戦争の被害に苦しんでいるウクライナの人々への人道支援にも力を尽くしたいと思います。

 さらに、私たちの国の、平和主義・国際協調主義を謳う憲法と、その中核にある憲法9条の理念を再確認しなければなりません。今こそ、今だからこそ、日本の平和を願う立場から、しっかりと憲法9条擁護の姿勢を確認しなければなりません。

 憲法9条の理解は、これを擁護する人々の間で、必ずしも一義的なものになっていませんが、少なくとも「専守防衛」に徹するべきで、「攻撃的な武器は持たない」「軍事大国とはならない」ことは、長く保守の政権も含めての国民的な合意であったはずです。

 ところが、予てから軍事大国化を狙っていた右派勢力が、今を好機と大きな声で「軍事費増やせ」「防衛費を5年以内にGDP比2%以上にせよ」「年間10兆円に」「いや12兆円に」と言い出す始末。

 それだけではありません。「敵基地攻撃能力が必要だ」、「それでは足りない。敵の中枢を攻撃する能力がなければならない」「先制攻撃もためらってならない」「非核三原則も見直し」「核共有の議論を」と暴論が繰り返されています。そして、そのような軍事力の増強に邪魔となる「憲法を変えてしまえ」というのです。

 これまで歴史が教えてきたことは、「安全保障のジレンマ」ではありませんか。仮想敵国に対抗しての我が国の軍備増強は、必ず仮想敵国を刺激し軍備増強の口実を与えます。結局は、両国に際限のない軍拡競争の負のスパイラルをもたらすだけではありませんか。このような愚行を断ち切ろうというのが、戦争を違法化してきた国際法の流れであり、その到達点の9条であったことを再確認いたしましょう。
 平和を守り、その礎としての平和憲法を守ることが参院選の争点の一つとならねばなりません。

 もう一つが、今進行を始めている恐るべき物価高です。6月の統計が発表されれば、前例のないインフレが明らかとなることでしょう。物価が上がりますが、賃金は上がりません。物価は確実に上がりますが、年金のカットは既に決められています。医療費も値上がりします。

 いろんな要因が考えられますが、基本は政権与党の経済政策の失敗です。アベノミクスは、新自由主義的なイデオロギーに基づいて、大企業の活動を自由化し儲けを保障しました。庶民からむしりとった消費税を財源に法人税の大減税までして、優遇したのです。

 まずは大企業を太らせれば、その利益はやがて中小企業や労働者のところにまで、したたり落ちてくるという「トリクルダウン」理論がまことしやかにささやかれました。しかし、結果は惨憺たるものです。大企業の利益は内部留保としてため込まれ、労働者に滴る利益はありません。賃金はまったく上がりません。

 アベノミクスで潤ったのは大企業とその株主の金持ち連中ばかりで、結局庶民には生活苦をもたらしただけ。とりわけ、異次元の金融緩和策が、市場に金余りと円の価値切り下げをもたらしてインフレの原因となってしまいました。インフレは、年金生活者と低所得層に深刻な打撃を与えます。何とかしなければなりません。

 私たちの投票の選択肢は三つあります。一つは政権を構成している自公の与党勢力です。これへの投票は、軍拡と9条破壊そして生活苦の道です。二つ目が、立憲野党です。9条を守り、軍拡を回避して9条を守り、専守防衛からはみ出さない立場。そして、三つ目が、「与党」ではないが「野党」でも「ゆ党」でもない、「悪・党」というべき維新の勢力。そして、労働組合でありながら資本の手先になり下がっている連合と結託した政治家たち。連合の推薦を受けた政治家に投票せぬようお気をつけください。

 ぜひ皆様、大切な選挙にまいりましょう。そして、平和と憲法と暮らしを守るために、立憲野党に投票をしていただくようお願いをして、本郷湯島九条の会からの訴えを終了いたします。

「貯蓄から投資へ」とは、いったいどんなことなのか。

(2022年6月13日)
 いまや流行り言葉になってしまった「貯蓄から投資へ」。岸田内閣の大真面目な経済政策なのだが、これは、一昔前からの悪徳業者のセールストークなのだ。「リスクを取らねば損をする」「何もしないのも実はリスク」というのも、昔からの「欺しのテクニック」。それを今や、金融庁も文科省も、そして政権本体まで加わっての大合唱である。なけなしの庶民の資産までがむしりとられようとしている。

 まずは、国民全体を投資家にしようという壮大なたくらみが進行している。リスク金融商品のセールスマンは、ネット世界だけでなく、学校教育の現場を占拠しつつある。

 「学生時代に投資になじむ機会があれば、社会に出た後の資産形成の大きな力となることでしょう」「学生時代から金融教育を行う背景には、人生100年時代に備えた資産形成の知識を身につけておくべきという時代の流れもあります」「それは、新学習指導要領のテーマである「生きる力」の一部でもあると言えそうです」「教育の過程で学び始めれば、投資はもっと身近なものとなることでしょう」「学生でも銀行や証券に口座を持って、投資信託の積立をすることは可能です」「数百円のおこづかいで投資信託の積立を行う学生も増えるかもしれません」「口座の開設?税金の還付を受けるための確定申告を行えば、より詳しく金融について学ぶことができます」「親世代も子どもたちの見本となるべく、投資になじんでおきたいもの「今まで二の足を踏んでいた人も、積立投資を始めてみてはいかがでしょう」

 既に、2022年4月より、新しい指導要領に基づく高校家庭科の「投資教育」授業がスタートしている。事態は深刻と言わねばならない。

「家計管理については, 収支バランスの重要性とともに,リスク管理も踏まえた家計管理の基本について理解できるようにする。その際,生涯を見通した経済計画を立てるには,教育資金,住宅取得,老後の備えの他にも,事故や病気,失業などリスクへの対応が必要であることを取り上げ,預貯金,民間保険,株式,債券,投資信託等の基本的な金融商品の特徴(メリット,デメリット),資産形成の視点にも触れるようにする。」(※高等学校学習指導要領(平成30年告示)「家庭基礎」より抜粋)

 今年の新一年生から、高校生は家庭科の授業内で株式や債券、投資信託など基本的な金融商品の特徴を学ぶことになるという。金融庁も『国民一人一人が安定的な資産形成を実現し、自立した生活を営む上では、金融リテラシーを高めることが重要である一方で、そのための機会が必ずしも十分とは言えない』(金融庁「金融経済教育について」)としている。

 「さあ、子どもたちに十分リスクは教えたぞ。あとは自己責任だ。どれもこれもカモだ」という政権と財界のホンネが聞こえる。

 狙われているのは、家計の貯蓄である。庶民は老後や教育や住宅や不時の備えに貯蓄せざるを得ない。その貯蓄を金融市場に吐き出してもらわなければ資本の利益にはならない。そのため、貯蓄に対する利息は限りなくゼロとし、あるいは実質マイナスにして、投資に誘導しようとする。まずは投資や金融商品のリスクに対する恐怖心を取り除こうというのだ。そのための甘い誘いが始められている。ご用心、ご用心。岸田と政府に騙されてはならない。

 政治や行政が本来やるべきことは、老後や教育や事故や病気に心配不要の社会政策の充実である。そうすれば、庶民は「宵越しの銭」をもたなくても済む。貯蓄にこだわる必要はなくなるのだ。

 金融商品のリスクについて教育するのなら、悪徳商法と闘ってきた消費者弁護士の意見を十分に取り入れなければならない。投資や投機勧誘がどれほどの不幸を招いてきたかのリアルな語りに耳を傾けなければならない。

 そして、きちんと原則を踏まえなければならない。投機にも投資にも、必ずリスクがある。リスクは一定の確率で必ず顕在化する。投機も投資も、働かずして利益に与ろうという非倫理性を本質にする。投機とは、他人の不幸を自分の利益に変えようという反社会的存在である。投資も証券市場での他人との売買で利益を上げるのは、証券市場の規模が一定している現在、やはり他人の損を自分の利益としていると考えねばならない。

 投資も投機も賭博と変わらない。国民全部がギャンブラーになれば、この社会の生産活動は成り立たない。

 今政府がやろうとしていることは、「カジノで経済活性化」「国民階投資家社会へ」である。不健全で危うい。合い言葉は、「キシダニダマサレルナ」でなくてはなない。

今日は、家永教科書訴訟提訴記念日

(2022年6月12日)
 今朝、浪本勝年さんからメールをいただいた。
 「本日(6.12)は歴史学者・家永三郎さん(当時・東京教育大学教授)が1965年6月12日、教科書訴訟を提起した記念すべき日です(もっとも、人それぞれに感慨は異なるでしょうが…)。
 小生は当時、大学4年生。宗像誠也先生から、事実上の「予告」を受けていましたので、この日の記憶は鮮明で強いものがあります。
 当日入手した夕刊2紙(朝日・毎日)及び家永さんの「声明」の3点をお届けします(添付ファイル参照)。」

 念のため、吉川弘文館の「日本史総合年表」を検索してみたら、1965年6月12日欄に、次の記載がある。

 「家永三郎、自著の高等学校教科書『新日本史』の検定不合格をめぐり教科書検定制度を違憲とし、国に対する損害賠償請求を東京地裁に提訴。(9月18日「歴史学関係者の会」、10月10日「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」それぞれ結成)」

 そして、家永さんの「声明」は、以下のとおり。

声  明

 私はここ十年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三十八、九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。
 憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としても、だまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます。

昭和四十年六月十二日

家永三郎

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 当時私は、浪本さんより一学年下の文学部社会学科3年生。もっぱらアルバイトに忙しく、授業への出席率は極めて低かった。残念ながら家永教科書訴訟提訴の日の記憶はない。この声明文も初めて見た。へ?、家永さん、当時は西暦でなく、元号使っていたんだ。

 この声明の中の、「法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました」という、家永さんの決意がまぶしい。当時の司法は、比較的真っ当だった。田中耕太郎・反共長官(2代目)と石田和外・反動長官(5代目)の最悪時代の谷間にあって、裁判所が「正義の回復をはかる場」としての信頼を勝ち得ていた時代なのだ。

 周知のとおり、家永教科書訴訟は大裁判となった。表現の自由・教育の自由・学問の自由をテーマに、憲法原則を支持する勢力と保守政権とがわたりあった。訴訟は、1次から3次にまで至り、最終確定まで32年を要した。

 《教育裁判》と《教育の自由を求める市民運動》とが理想的に結びついた典型例が作られ、多くの市民が教育本来のあり方に関心を寄せ、教科書の内容を監視するようになった。教科書訴訟支援運動が、多くのリベラルな活動家を育てた。

 第二次訴訟(1967年6月提訴)は、検定不合格を不当として、その取消しを求めた行政訴訟(処分取消訴訟)である。その第一審判決が《杉本判決》として知られるものとなっている。

 1970年7月17日東京地方裁判所は、国家の教育権を否定して、家永教科書に対する検定を憲法・教育基本法に違反する、との画期的な判決を言い渡した。この判決は、杉本良吉裁判長の名をとって《杉本判決》と呼ばれている。《杉本判決》を象徴として、家永教科書裁判は、国民各層に教育政策への関心を喚起するとともに、教育権理論を深化させる役割を果たしたと評価されている。また、いくつもの制度の改正も実現している。その、教育権論争を中心とする理論的成果と、教育民主化の運動は、「日の丸・君が代」訴訟とその支援運動に引き継がれている。

日本経済の再生は、与党惨敗からしかありえませんね。

(2022年6月11日)
 え?、キシダフミオです。自分では、ごくごく普通の日本人としてのレベルの知性と教養をもっているつもりです。前任者と前々任者の知性と教養のレベルが、そりゃひどいものでしかないから、それと比べれば私は穏やかでまともに見えるでしょう。その分、確かに私は得しています。

 しかも、前任者と前々任者の経済政策の失敗ぶりがひどいもの。何しろ、この10年国民の賃金がまったく上がらない。こんなことは、他国に例がなく、意識的にやろうとしてもなかなかできることではない。「アべノミクス」は見事にこれをやってのけた。そして、野放図に大量の不安定な非正規労働者群を輩出して、格差と貧困が蔓延する社会を作りあげてしまった。ですから、コロナがなくてもアベ退陣は必然だったのです。

 そんな時勢で、私は意識的にアンチ・アベノミクスの立場を鮮明に、「成長よりは分配の重視」「富裕層に厳しい金融所得課税の強化」を掲げて総裁選に打って出て、念願の総理の座をつかんだのです。ところがね、政治は難しい。私の思うようにはならないのですよ。私の耳は、もっぱらアベ陣営の大声を聞かざるを得ない羽目となり、「新しい資本主義」の看板を「骨太の方針」にまとめる辺りで、私の独自色はすっかりなくなってしまった。元の木阿弥、昔ながらの失敗したアベノミクスに先祖返りなのですよ。なんたることだ。

 昔から言うでしょ。「国民はそのレベルにあった政治しかもてない」って。多分、今の国民のレベルには、「アべノミクス」「アべノマスク」「…デンデン」の政治がお似合いなのかなって、私がそう思うのですよ。

 でも、グチっていてもしょうがないから、私も小技で勝負せざるを得ません。
 「『貯蓄から投資』へのシフトを大胆かつ抜本的に進めて、『資産所得倍増プラン』を推進する」ナンチャッテね。個人投資家向けの優遇税制「NISA」の抜本的拡充や、国民の預貯金を資産運用に誘導する仕組みの創設など、政策を総動員して努力はしているのですよ。ね、健気でしょう。

 けれど私にはある程度の知性がある。多少は、廉恥の心も倫理感もある。国民の預貯金をリスクある資産運用に誘導するなどという国策を掲げることは、悪徳商法のセールスマンになってしまったような後ろめたさを禁じ得ないのです。

 この点の感覚は、安倍・菅の前任者にまったく持ち合わせのないところ。無知の強み、面の皮の厚さのメリットというべきでしょうね。彼ら、政策に失敗しても、違法行為が明るみに出ても、平気な顔ですよね。私にはなかなか真似ができない。

 私の政権の看板政策「新しい資本主義」の実行計画を、行動計画原案として発表したのが5月31日。これについて各紙とも、悪評さくさく。まあ、さもありなんというところでしょうな。

 社説の表題だけ拾ってみると以下のとおりですよ。6月1日の朝日が「分配重視の理念消えた」、同日毎日が「アベノミクスに逆戻りだ」、同日産経「看板倒れにならぬ政策に」。2日付日経が「成長と安定を将来世代へ着実に届けよ」、3日付東京「『分配』は掛け声倒れか」、4日付読売「方向性が一層不明確になった」。もう少し忖度あってしかるべきとも思うのだがね。

 総じて、私が当初掲げた「分配重視」のトーンダウンを批判する論調。朝日は「出てきた計画は、まったくの期待外れだった」「本来、優先的に取り組むべきは、働き手への利益還元である。賃上げに消極的な企業行動を改めさせる手立てこそが、計画の柱になるべきだった」という。毎日も「政策の力点が、立場の弱い人の不安解消から、成長戦略の推進にずれていったように見える」「分配重視はどこに行ってしまったのか」と嘆く。産経までもが、「抜本的に格差是正を図るには、高所得者への富の偏在を抑制できるよう、税制などを通じた所得の再分配を併せて講じる必要があろう。岸田政権はそこまで踏み込もうとはしない」と手厳しい。

 ほんとのことを言うとね、「新しい資本主義」ってなんだか私にもよくわからない。もちろん、アベさんよりは私の方が、格段に経済学の基礎には詳しいはず。実はそれが仇になっている。アベさんの無知の強みはここでも発揮されていて、オウムのように「3本の矢」を繰り返していられるんですね。幸せな性分。失政が明らかになっても、同じことを言い続けることが苦痛にならない。とうてい私にはできない芸当。

 アベノミクスは、規制緩和とセットの新自由主義的経済政策。目指すところは、成長至上主義。いずれは成長のおこぼれが庶民にもやって来るというんだが、待てど暮らせどおこぼれはやって来ない。替わりにやって来たのは、不安定雇用と格差拡大と貧困。さらには成長すら阻害した。誰が見てもアベノミクスは失敗で、もうダメだ。3本の矢のどれもが折れてしまった。だから、新規まきなおさなくてはならない。私は、アンチの政策をイメージして「新しい資本主義」と言ってみたわけね。

 ひとことで言えば、私の言う「新しい資本主義」とは、「奪アベノミクス」ということ。その目玉のキャッチが「分配重視」。そうしなければ、既に失速しているこの国の経済の再生はないし、そうすれば分厚い中間層の底上げで格差の是正もできるし、成長へとつなげることも期待できると考えたのですよ。

 ところが、私は甘かった。これからの政策転換で潤うはずの多くの国民の支持よりは、既得権を失う大企業や富裕層の反発が強かった。庶民減税も、金持ち増税も無理。金融所得課税の強化など引っ込めざるを得ない。「成長と分配の好循環」なんて、いったい何を言っているのか、私にも分からなくなった。

 はっきり言って、日本経済には展望がない。「脱アベノミクス」「アンチ・アベノミクス」の政策は、自民党政権ではできないからです。大企業と富裕層に支えられた現政権を打破する以外に、分厚い中間層の底上げで格差を是正することはできない。ロンドンのシティーで「インベスト・イン・キシダ」なんてしゃれてみたけど、リターンはない。今度の選挙、大企業幹部と富裕層以外に与党に投票する有権者がいるとは信じられないね。経済再生は、与党惨敗からしかないと思っていますよ。もちろん、これ、オフレコの話しね。

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