2019年は、「日本が世界の真ん中で輝いた年」ではなかった。
冬至である。年末も近い。今年を振り返っての感想が、あちこちで見える時期になった。
恒例の今年の漢字は、「令」となった。強烈な違和感を覚える。今年1年の世相を最も的確に反映する漢字として、はたして「令」がふさわしいだろうか。
本年(2019年)4月1日、「令和」という新元号が発表された日に、私は当ブログに次のように書いた。今も、このとおりだと思っている。
通常の言語感覚からは、「令」といえば、命令・法令・勅令・訓令の令だろう。説文解字では、ひざまづく人の象形と、人が集まるの意の要素からなる会意文字だという。原義は、「人がひざまづいて神意を聴く様から、言いつけるの意を表す」(大漢語林)とのこと。要するに、拳拳服膺を一文字にするとこうなる。権力者から民衆に、上から下への命令と、これをひざまずいて受け容れる民衆の様を表すイヤーな漢字。
この字の熟語にろくなものはない。威令・禁令・軍令・指令・家令・号令…。
6月1日には、「サヨナラ令和」の戯れ唄を載せた。その最後は次のとおり。
令和の令には、「へ」と「マ」が読めるけど
こんな元号選定は政権のヘマじゃないかしら
忖度政治にはもうウンザリだから
熨斗を付けてお返しするわ
サヨナラ 令和? 永遠に
もし、日本の民衆の多くが、「令」を今年の世相を表すのに最もふさわしい漢字として受容するほどに、この字に親近感を持っているとすれば、明治以降の天皇制権力が臣民に刷り込んだ国体意識がいまだに健在で、民主主義と国民主権が未成熟のままであることを物語っている。
そして、昨日(12月21日)の安倍晋三発言に驚いた。
「日本が世界の真ん中で輝いた年になったのではないか。来年は東京五輪・パラリンピックが開かれる。躍動感あふれる中で新しい国づくりを進めたい」
これが安倍晋三の、行政府トップとしての恐るべき現状認識。この発言からは、日本が抱えている深刻な問題をまったく認識していないごとくである。
彼は、今年を「日本が世界の真ん中で輝いた年」だという。そんなはずはあり得ない。この安倍発言には違和感というよりは、欺瞞と虚飾を感得するしかない。
2019年を振り返れば、まずは「あいちトリエンナーレ」における「表現の不自由展・その後」中止の衝撃を思い出さねばならない。私たちの社会は、かくも日本国憲法が想定したものとは、かけ離れたところに来てしまっている。
そして、この一年を通じての日韓関係の深刻な悪化である。日本近代の天皇制軍国主義が何を目指し、どんな非行を重ねてきたか。被害者として、それをもっともよく知る立場にあるのが、朝鮮・韓国の人々である。宗主国面をした醜い日本人の正体を露骨にあらわした今年の我が国は、輝くどころではない。
さらに、沖縄・辺野古の事態が、アメリカへ従属し、アメリカと一体となった軍事大国化路線の進展を明らかにしている。しかも、平和を望む県民の願いを無惨に蹂躙しての、自然破壊・新基地建設の一年でもあった。
特筆すべきは、政治と行政が腐っていることを見せつけられた一年であったこと。議会制民主主義も危機にあるといわねばならない。行政の私物は極まれりだ。司法まで、おかしい。安倍晋三がいう「日本の輝き」とは、落日の輝きという自嘲としか考えようがない。
それにしても、「桜を見る会」疑惑追及を逃げ回り国会を閉会させての安倍が、のたまう「日本が輝いた年」発言である。人々が、クリスマスで騒ぎ、お屠蘇で気分をあらためれば、新年には,桜疑惑も、大学入試共通テスト責任も、かんぽ違法の責任も、山口敬之敗訴も、カジノ疑惑も、公文書の破棄、改竄、隠蔽の数々も、そして安倍晋三と昭恵の行政私物化の数々も,きれいさっぱりみんな忘れてくれる、と思い込んでいるようだ。
かれは、75日が過ぎ去れば、すべて問題解決と考えている。ここは綱引きだ。私たちは、この怒りのタネの一つひとつを忘れてはならない。折あるごとに思い出そう。年の暮れには、この政権の退陣要求の決意を固めよう。
来たるべき2020年を、「オリンピックの年」として、ナショナリズムを喚起し、政治の腐敗から、国民の目を逸らせようというのが、「嘘とゴマカシの」安倍政権のもくろみ。乗せられてはならない。
(2019年12月22日)