澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

中学生だった私と祖父の天皇観の衝突

(2020年10月30日)
私の母方の祖父は赤羽幹という人だった。南部盛岡は八幡町の人。2男4女をもうけたが、早くに妻を亡くし、子のうち2人を養子にやって、男手で4人の子を育てたと聞いている。

その祖父が晩年に、大阪の郊外に住んでいた次女(私の母・光子)の家族を訪ねてきたことがある。2週間も逗留したろうか。当時、私は中学生だった。私も盛岡生まれだが、5歳のときには盛岡を出ているから、祖父とは初対面といってよい。このときの祖父との会話を、ときどき懐かしく思い出す。

父が祖父を歓待した。祖父が一番喜んだのが、大相撲大阪場所の見物。吉葉山・栃錦・鏡里という人気力士の時代。祖父は、「オレはハア、もうすぐ死ぬんだ。冥土の土産だ」と口にした。

若い頃は気性の激しい人だと聞かされたが、80に近くなった当時、そんなふうには見えなかった。あまり自分を語らず、少年だった私の話を面白そうによく聞いてくれた。当時、私は地元中学校の生徒会長で、学校新聞を作って、学校放送を担当して、相撲部で活躍もしていた。話のタネは無数にあった。

何が切っ掛けだったか、私はテンノーについてしゃべった。当時私は特に天皇について関心が深かったわけではない。私の身近には天皇を犯罪者と呪詛する人も、その反対に天皇を崇拝する人もいなかった。敗戦以来10年余という当時の時代の空気に染まっていただけであったろう。

私はテンノー(裕仁)とは、「あっ、そう」としか話のできない人だと思っていた。テンノーと言えば、まず連想するのは「あっ、そう」であった。これは、活字の情報ではない。誰か年長者から教えられたことだと思う。そして、「戦争に負ける前は、あの猫背のおっさんが神さんだったんやて」という遠慮のない揶揄。当時の中学生の目には、天皇の神聖性などカケラも感じられなかった。

私がなんとしゃべったかはよく覚えていない。しかし、当時私の口はよく回った。こざかしくテンノーの愚かさを嘲笑し、テンノーが多くの人を不幸にした敗戦の責任を取ろうとしない卑怯を責め、今の世の人がそれを許していることの不条理を嘆いて見せた、のだと思う。

私は、得意になって正論を吐いたつもりだった。ところが、祖父は驚くべき反応を示した。目にいっぱい涙を溜めて、中学生の私を見つめ、悲しげに呟いたのだ。「天皇陛下のお蔭で、日本人は戦後も生き残った。」「天皇陛下のお力がなければ、みんな殺されていたか、みんな奴隷だ」

そのとき私は初めて、テンノーというものの不気味さと恐ろしさを実感した。以来、私はテンノーを語ることにこだわりと躊躇を感じるようになった。今、整理すれば、そのテンノーの不気味さと恐ろしさは、身近な人々一人ひとりの精神の中にもぐり込み、長く巣くって宿主を支配しているという感覚であったろう。

学生時代にマーク・ゲイン『ニッポン日記』で、民衆に囲まれた天皇の「あ、そう」の叙述を印象深く読んだ。天皇(裕仁)の口癖というようなものではなく、天皇が民衆にどう口を利けばよいのかわからなかったことが、こういう発語になったのだ。

必ずしも正確ではないが、私の記憶では、マークゲインが見たとして叙述されているものは次のような風景である。

行幸先の天皇を囲んだ物見高い群衆の何人かが何かを語りかけると、天皇は判で押したように「あっ、そう」としか言葉を返さない。どんな切実な語りかけに対しても、「あっ、そう」ばかり。甲高い声で「あっ、そう」が繰り返される度に、次第に緊張していた群衆の雰囲気が変わる。人々が「あっ、そう」と口ずさんで天皇を嘲笑の対象にするようになったというのだ。

私は、憲法を学ぶようになってから、民主主義や平等原理に照らして、天皇について考えるようになった。そして、中学生の頃の天皇観をあらためて正しいものと再確認した。それとともに祖父のことを思い出す。天皇制とは恐るべきものだ。私の祖父の精神にも、潜り込み、巣くって、蝕んで、害を及ぼしていたのだから。

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