澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制は、江戸時代にキリシタンを弾圧した幕府役人の手口そのものである。

(2022年1月31日)
 悪名高き都教委の「10・23通達」。これに基づいて、都内公立校の全校長が、全校の教職員に「卒業式・入学式においては、国旗に正対して起立し国歌を斉唱せよ」という職務命令を出すことを強要されている。しかし、どうしてもこの職務命令に従えないという一群の教職員が、18年にわたって、逐次の法廷闘争を継続している。

 「10・23通達」関連訴訟としては、「予防訴訟」が先行し、その後懲戒処分の取消を止める訴訟が相次いで、現在は昨年(2021年)3月31日提訴の「第5次処分取消訴訟」が東京地裁民事36部に係属している。原告は15名、取消を求める処分の件数は26件である。その次回期日が、2月7日(月)午前11時、東京地裁631号法廷で開かれる。

 各原告が起立斉唱には応じがたいとする理由は様々だが、自らの信仰がこれを許さないとする人々の存在は容易に想像できるのではないか。戦前にも、宗教者による宮城遙拝や靖国参拝や教育勅語に対する敬礼拒否などのの事件はいくつもあった。権力が信仰者の信念を曲げることは頗る困難なのだ。

 これまでの主要訴訟の中には、必ずクリスチャンがおり、今回も自分の信仰を明示して、それゆえに、起立斉唱の強制には応じられないという原告がいる。下記に、第5次処分取消訴訟の訴状における、当該請求原因の一部(要約抜粋)である。比較的分かり易いと思う。お読みいただけたら、ありがたい。

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 国旗国歌への敬意表明強制は原告らの信教の自由を侵害する
  (1) 原告の中には,自らの信仰ゆえに「日の丸・君が代」に対する敬意表明の強制に服しがたいとする複数の者がいる。
    当該信仰をもつ原告らに対して,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱せよと強制する10・23通達,同通達に基づく職務命令,そして当該原告に対する本件各処分は,いずれも当該原告の信教の自由を直接に侵害するものとして,憲法20条に違反する。
    また,その余の信仰をもたない原告らについても,国旗に向かって起立し,国歌を斉唱せよと強制する10・23通達,同通達に基づく職務命令,そして当該原告らに対する本件各処分は,消極的な信教の自由(信仰をもたず,信仰を強制されず,一切の宗教的関わりからの自由)を侵害するものとして,同じく憲法20条に違反する。

  (2) 信教の自由は,憲法史において,常に基本権カタログの先頭に位置する典型的な基本権であった。近代憲法における精神的自由はなによりも信教の自由を意味し,特定の宗教と緊密に結びついていた王権や為政者に対して被治者の信教の自由を認めさせるために近代憲法が成立したとさえ語られる歴史がある。
    我が国においても,特異な宗教と緊密に結びついた神権天皇制下、20世紀の中葉(1945年8月ないしは、47年5月)まで、信教の自由はなかった。1889年制定の大日本帝国憲法28条は「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背サル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とし,天皇制を支える国家神道に抵触することのないよう、全ての宗教は管理され統制された。
    よく知られているとおり、国家神道や国体思想に抵触する信仰は,「安寧秩序ヲ妨ケ」るものとして苛酷な宗教弾圧の対象となった。のみならず、天皇の神聖性に抵触するあらゆる思想活動が「国体ヲ変革」するものとして刑事罰の対象となった。また,すべての国民に対して,明らかな宗教行事である神社参拝や宮城遙拝が「臣民タルノ義務」の範疇の行為として強制された。
    日本国憲法は,旧憲法体制が国民の信教の自由を蹂躙した深刻な反省から,憲法20条1項前段に,「信教の自由は,何人に対してもこれを保障する」と厳格な信教の自由保障の規定をおき,その2項で「何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない」と明記した。
    なお,憲法はさらに、人権としての信教の自由を擁護するための制度的保障として政教分離の規定を置いている(20条1項後段,同条3項,89条)が,本件では政教分離原則を援用する必要がない。原告らの主張は、人権論のレベルに尽きるものである。
    各原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は,信仰をもつ原告らに対するものとしても,また信仰をもたない原告らについても,20条2項および同条1項前段とに違反する人権侵害となることを主張する。

  (3) 「日の丸・君が代」は,大日本帝国の慣習法上の国旗国歌であった。大日本帝国が国家神道という特殊な宗教教義に基づく宗教国家であった以上,「日の丸・君が代」は,いずれも国家の象徴であるだけでなく国家神道という宗教上のシンボルでもあった。「日の丸・君が代」は,天皇の祖先神と現人神としての現天皇の弥栄を祈念する宗教儀式に必須の存在としての宗教的性格を持つ旗であり歌とされた。
    日の丸は,太陽神を象形した宗教的デザインである。その象形が国家神道のシンボルとされたのは,天皇の祖先神(皇祖)であるアマテラスが太陽信仰に由来するところからとされる。また,君が代の歌詞は,神なる天皇の治世が代々継承して永久に続くように,という宗教的な祝讃歌である。
    20世紀中葉まで,そのような意味付けをされていた「日の丸・君が代」は,象徴天皇制を採る日本国憲法下において現在なお,その宗教的性格を払拭し得ていない。とりわけ,自らの信仰を持つ者にとっては,「日の丸・君が代」が公的に宗教と結びついていた時代の、公権力による信仰の自由への圧迫の記憶はいまだに生々しい。のみならず,現在なお天皇の代替わりには、神秘的な宗教行事としての大嘗祭が挙行される。天皇とその祖先を神と祀る宮中祭祀が連綿と継承され,これに追随する全国の神社神道が社会に根を下ろしている今日,「日の丸・君が代」をアマテラス信仰やアラヒトガミ信仰と切り離して考えることのできない現実的な社会基盤が健在であると認識せざるを得ない。

  (4) 信仰者である原告らにとっては,「日の丸」も「君が代」も,自らの信仰と厳しく背馳し抵触する宗教的シンボルとしての存在であって,信仰という精神の内面の深奥において,この両者を受容しがたく,ましてや強制に服することができない。
    このような信仰を有する者に,「日の丸・君が代」を強制することによる精神の葛藤や苦痛を与えてはならない。そのことこそが,日本国憲法が旧憲法時代の苦い反省のうえに国民に厳格な信仰の自由を保障した積極的な意義にほかならない。また,人類史が信教の自由獲得のための闘いとしての一面をもち,各国の近代憲法の基本権カタログの筆頭に信教の自由が掲げられ続けてきた普遍的意味でもある。
    なお,信仰者ではない原告らにとっても,宗教的性格を払拭し得ていない「日の丸・君が代」の受容を強制されることは,信仰を有する者とは違った形で,自己の消極的な信仰の自由(宗教行為の強制からの自由)の侵害にあたるものである。

  (5) 「日の丸・君が代」の宗教的性格の有無や宗教的な意味付けの内容についての判断は,特定の宗教的行為を強制される人権の被侵害者の認識を基準とすべきである。百歩譲っても,被強制者の認識を最大限尊重しなければならない。人権侵害者の側である公権力においてする意味付けは,ことの性質上まったく意味をなさない。また,一般的客観的な基準によるときには,少数者の権利としての人権保障の意味は失われることにならざるを得ない。
    とりわけ留意されるべきは,問題の次元が政教分離原則違反の有無ではなく,個人の基本的人権としての信教の自由そのものの侵害の有無であることである。公権力への禁止規定としての政教分離原則違反の有無の考察においては、宗教的色彩の存否は一般的客観的な判断になじむにせよ,基本的人権そのものである信教の自由侵害の有無を判断するに際しては,人権侵害の被害を被っている本人の認識を判断基準としなければならない。
    信仰をもつ原告らにとっても,また信仰をもたない原告らにとっても,既述のとおり現在なお,「日の丸」も「君が代」も,神なる天皇と天皇の祖先神を讃える宗教的象徴である。その宗教的象徴に対して敬意表明を強制させられることは,信仰をもつ原告らにとっては自己の信仰と直接に背馳し抵触する受け容れがたいものであり,信仰をもたない原告らにとっても信仰をもたない自由に対する侵害にあたるものである。

  (6) 公権力の行使によって,原告らに対して「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することが憲法20条に保障された信教の自由の侵害に該当するか否かの判断の過程では,憲法19条についての判断の枠組みと同様,一応は,原告らに対する起立や斉唱という外部行為の強制が,原告らの宗教的精神性を侵害するものであるかという関係性が検討の対象となる。
  ア 信仰をもつ原告らについては,その判断の帰趨は自明というべきである。当該原告らにとっては,「他宗の神への礼拝の強制」にほかならず,「日の丸・君が代」に敬意を表明するよう強制されることは,自らが信仰する教義と深く結びついた自己の人格そのものを否定されることであり,精神の深奥にあるものへの受け容れがたい破壊的攻撃以外のなにものでもない。
  イ 16世紀、江戸時代初期に,当時の我が国の公権力が発明した信仰弾圧手法として「踏み絵」があった。この手法は,公権力がキリスト教の信仰者に対して聖像を踏むという身体的な外部行為を命じているだけで,直接に内心の信仰を否定したり攻撃しているわけではない,と言えなくもない。しかし,時の権力者は,信仰者の外部行為と内心の信仰そのものとが密接に結びついていることを知悉していた。だから,踏み絵という身体的行為の強制が信仰者にとって堪えがたい苦痛として信仰告白の強制になること,また,強制された結果心ならずも聖なる像を土足にかけた信仰者の屈辱感や自責の念に苛まれることの効果を冷酷に予測し期待することができたのである。
  ウ 事情は今日においてもまったく変わらない。都教委は,江戸時代のキリシタン弾圧の幕府役人とまったく同様に,「日の丸・君が代」への敬意表明の強制が,教員らの信仰や思想良心そのものを侵害し,堪えがたい精神的苦痛を与えることを知悉しているのである。
  エ また,信仰をもたない原告らについても,事情は本質において変わらない。信仰をもつ原告においては侵害されるものが自己の信仰であるのに対して,信仰をもたない原告らにおいて侵害されるものは,特定の信仰から自由な精神そのものである。踏み絵の強制は,信仰をもたない一般人に対しても宗教的精神性に対する被害を及ぼしうる。特定の信仰をもたない自由とは,いかなる宗教にも,いかなる態様においても,一切関わりなく精神生活を送ることの自由をいう。「日の丸・君が代」の宗教性が払拭されていない以上は,これに対する敬意表明を強制される原告らについても,宗教から完全に自由であるべきとする精神への侵害となるものである。

  (7) 以上の原告らの主張に対する被告の反論として、「日の丸・君が代」の強制が各原告の信仰(積極・消極の両者を含む)に抵触することまでは否定せずに,「『日の丸・君が代』への敬意表明の強制が信仰に抵触するとしても,間接的なものに過ぎない」とする反論が考えられる。
    しかし,既述のとおり、信仰あるいは積極消極両面の宗教的精神性の侵害の有無は被害者の判断を尊重すべきが当然である。その場合,侵害は「ある」か「ない」かのどちらかでしかない。
    「間接的侵害」とは,意味不明な概念に過ぎず,「直接」と「間接」の意味も範疇の区分・境界も判然としない。このような曖昧な概念を弄して,憲法が至高の価値としている精神的自由に関する基本的人権制約を合理化する論拠としてはならない。信仰をもつ者にとって,侵害が「直接」であろうと「間接」であろうと,信仰を侵害されることによる心の痛みに軽重はない。

  (8) 憲法20条2項は,「何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない」と定める。条文の文言において最も広い禁止範囲は,「何人も,宗教上の行為…を強制されない」であり,強制を禁止される「宗教上の行為」の典型として「祝典,儀式又は行事への参加強制」が例示されていると解すべきである。
     原告らに対して,懲戒処分を伴う職務命令が発せられている以上は,公権力の行使としての強制があったことに疑問の余地がなく,検討を要する問題点は,当該原告らに強制された「日の丸に正対して起立し君が代を斉唱する行為が,憲法20条2項にいう宗教的行為にあたるか」であり,また「日の丸を掲揚し,君が代を斉唱するプログラムをもつ学校儀式が憲法20条2項にいう宗教的儀式または行事にあたるか」である。
    念のために再度言及しておくが,憲法20条2項は政教分離原則を定めた条項ではない。精神的自由権についての人権保障規定そのものであって,いわゆる制度的保障の規定ではない。制度的保障は公権力に対する行為規範であるから,政教分離原則に関して当該公権力の行為の宗教性の有無を判断するに際しては,一般的客観的な判断になじみやすい。しかし,本件のごとき憲法20条2項の判断においては個別具体的に信仰の自由侵害の有無が判断されなければならない。
    信仰をもつ原告らは,自己の信仰にしたがって「日の丸・君が代」を意味づけ,自己の信仰に背馳し抵触するものとして「日の丸・君が代」を受け容れがたいと主張しているのであって,それで20条2項の該当要件は充足されている。したがって,信仰をもつ原告に関する限りにおいて,被告が「日の丸・君が代」は一般的,客観的に宗教的意味合いがない,と反論することはまったく無意味である。問題は,「日の丸・君が代」が一般的客観的に宗教的意味合いを持つか否かではない。飽くまで,強制される信仰者にとって,自らの信仰ゆえに強制を受容しがたいと言えるか否かなのである。
    本件においては,信仰を持つ当該原告らにとって,「日の丸・君が代」の宗教性は否定できず,それゆえ「日の丸・君が代」の強制が信仰に背馳する行為の強制としての認識がある。したがって,当該強制は明らかに20条2項違反である。
    この理は,基本的に剣道実技受講拒否事件最高裁判決(1996(平成8)年3月8日最高裁第二小法廷判決民集50巻3号469頁)において最高裁がとるところと言ってよい。
    「エホバの証人」を信仰する神戸高専の生徒が受講を強制された剣道の授業受講は,一般的客観的には,宗教的な意味合いをもった行為とは言えない。しかし,当該の生徒の信仰に抵触する行為として,その強制の違法を最高裁は認めた。本件でも同様の関係があり,しかも「日の丸・君が代」への敬意表明という強制される行為は,剣道の授業受講とは比較にならない宗教性濃厚な行為というべきである。

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